2008年9月28日
説教題:ラザロを生き返らせた
聖書:ヨハネによる福音書 11章28-44節
【説教】
ヨハネ福音書は、11章1節から12章8節までを一つの纏まりとして書いています。
11:1-3に「病人がいた、主に香油を塗ったマリアとマルタの兄弟ラザロである、姉妹たちは『主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです』とイエスに伝えた」と記されています。病人ラザロの問題は、イエスの葬り、十字架の死による救いと結びついていると語られています。姉妹たちは、自分たちの大切な兄弟で一家の柱であるラザロが病気です、と伝えているのではありません。ラザロの存在は、イエスが愛しておられる者である、を第一としているのです。その後、死んで四日経っている記事から見ると、この時ラザロは既に死が迫っている病状だったと思われます。それなのに姉妹たちは、「だから直ぐ来てください」「お言葉を下さい」とは言っていないのです。この記事の中心人物はイエスです。イエスにラザロが病気であることを黙っているわけにいかない、イエスにお知らせする、後はイエス様あなたに全てお委ねします、と姉妹たちは伝えたのです。
4節でイエスは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」と言われました。この言葉からキエルヶゴールは「死にいたる病」という本を書いています。主イエスと愛の交わりの中にいる者は病で死んでも、その死で終わることはない、命があり蘇りがある。キリストを信じない孤独の絶望は死にいたる病である。と書いています。
そのことはイエスとマルタの会話の中にも見ることができます(17-27)。イエスは終わりの日の復活だけでなく、イエスと結びついて生きることが命だ、生きることだ、と言われたのです。イエスの死と復活の出来事とラザロの死と復活は結びついているのです。
主イエスはラザロが納められている墓に行きました。墓をふさいでいる石を取り除けなさい、と言いました。マルタは「四日も経っていますから、もうにおいます」言いました。普通の人間的な思いの言葉です。イエスの存在とお言葉を軽んじている不信仰の言葉です。イエスは「もし、信じるなら神の栄光が見られると言っておいたではないか」と言われました。神の栄光は神の御心と御力によって現わされます。しかし私たちがその栄光を見るのには、それに私たちの信仰が必要なのです。主を信じて、御言葉に従うことが必要なのです。私や人間が主となることを捨てて、主イエスを信じるのです。不信仰の石が取り除かれ、信仰と奉仕が一つになって、神の栄光を見ることが可能になるのです。
イエスは天を仰いで祈られました。ご自分のためだけでなく、人間のためにも執り成しをされているのです。イエスは、自分の傍にいる人々が自分によって起こる出来事で、神の栄光を信じるようにしてください、と祈っているのです。
そして「ラザロ、出てきなさい」と大声で叫ばれたのです。この叫びによって「死んでいた人が手と足を布で巻かれたまま出て来た」。イエスは人々に「ほどいてやって、行かせなさい」と言いました。ここでもイエスはその業の一端を人々に担わされています。これによって人々は、神の栄光を自分に結びついたものとして受けとめたのです。
2008年9月21日
説教題:地上の幕屋が滅びても
聖書:コリントの信徒への手紙二 5章1-10節
【説教】
5:1に「私たちの地上の住みかである幕屋が滅びても」とありますが、この「幕屋」は肉の人間のことです。肉の人間はいつか死ぬのです。幕屋のように一時だけの存在で、脆く、壊れやすいものです。それに対応するものとして、神によって建てられた天にある永遠の住みかがある、と言っています。
この所は4:16から続いています。4:16に「外なる人」は衰えていくとありますが、「外なる人」は肉の人間のことで、地上の幕屋と同じです。肉の人間は外側だけ衰えるのではありません。心も気力も精神も年齢と共に衰えます。地上の住みかである幕屋は、その建物だけでなく中に住んでいる人も含めての人間全体です。私たちは滅びる人間です。
それに対して「内なる人」は、神にあって生かされている信仰の人、霊の人です。「内なる人」は肉の人間が高齢になっても日々新しくされ、希望をもって目標に向かって、前向きに生きるのです。「肉の人間」と「信仰の人」「霊の人」の区別があるのです。
肉の人間、外なる人は衰え、地上の住みかである幕屋は滅びる。肉の私たちは死ぬ人間で、衰えや死から免れることはできません。そこで私たちは、神によって備えられている建物を自分の住みかにするようにすべきです。しかし神の建物を私たちが勝手に自分の住みかにすることはできません。5:1には「備えられている」とあります。口語訳聖書では「神からいただく建物」と訳されています。この建物は、神を信じ、キリストを信じる者がいただくことができるように備えられている、というのです。私たちキリストを信じている者は、地上の幕屋が壊れると、神から与えられる建物を持つことが出来る、といっているのです。キリストを信じることによって、内なる人、霊の人になるのです。
5:2では、地上の幕屋の上に天からの住みかを着たいと願っている、と言っています。これは地上の歩みを無にすることなく天の永遠の住みかに住みたい、と言っているのです。この願いをもって、「この地上の幕屋にあって苦しみもだえている」、この地上で罪と戦いながら生きている、のです。地上で働いている罪は、地上に神の建物、永遠の命を見て喜び楽しめという力と、地上の住みかは滅びるので早く投げ捨てたらいいという力です。しかし、もし私たちが地上の幕屋を脱いで死を迎えても、信仰のない人のように裸でいるのではありません。キリストを着ているので、死を迎える時には神の栄光の衣を新しく着るのにふさわしい者とされているのです。5;4で、地上で生きている私たちは「重荷を負ってうめいております」と言っているのは、その罪との戦いを言っているのです。「死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです」と続いています。与えられている地上の命をしっかり生き抜き、よく生きた者とされて滅びるものが命に飲み込まれてしまい、その上に新しい服を着たい。この願いが私たちはキリストによって叶えられているのです。罪贖われ清い者とされて生き死ぬのです。キリスト者は5:5にあるように、天の住みかをいただくのにふさわしい者にされているのです。
2008年9月14日
説教題:神の富と知恵の深さ
聖書:ローマの信徒への手紙 11章33-36節
【説教】
明日は「敬老の日」です。100歳の人が3万6千人以上いると発表されています。素晴らしいことです。しかし100歳になった人の皆が喜び、感謝しているでしょうか。元気で喜び感謝して生きている方はいるでしょう、しかし、体が不自由だ、環境が嬉しくない、周囲に迷惑をかけている、早くぽっくり死にたい、という人もいるのです。
私は門司教会で牧師をしていました時、召天者記念日にこの聖書で説教しました。
私たちは自分の思いを中心にして、自分を見、環境を見たら、神を賛美することは出来ません。しかし信仰をもって神を見上げる時心から神を賛美することが出来るのです。
この11:33-36は、9―11章の結論で、暗い森や険しい岩がある山を上って頂上に達した旅人が今までの歩みを振り返って、感激をもって発している言葉だ、と言われています。
「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」。パウロはどうしてこれほど神を賛美する叫びを挙げているのでしょうか。この「富と知恵と知識」は、2:4の「豊な慈愛と寛容と忍耐」と同じ内容です。パウロは、1-2章で,神を知らない人間は神でないものを神にしている、また神の民は神を知っていると高慢になって人を裁いている、全ての人間が罪人である。その罪人を悔い改めに導いて救う神は、なんと豊な慈愛と寛容と忍耐を持って、罪人の人間に臨んで救ってくださっていることか、と言っているのです。何と惨めな私なのだろうと嘆く個人も、また私たちは神の民だ、神の義を知っているし神の道を歩んでいるので十字架は必要ないと言う民も、御子イエスキリストの十字架と復活に出会うことによって、自分は神の大きな御心と御計画の中で恵みと愛を与えられて生かされているのだ、と信じる者にされるのです。本当に神の深い知恵です、豊な慈愛と寛容と忍耐です。
11:33-36は1-11章全部の結論の叫びといえます。1-8章は個人の救いについて語って来ました。9-11章は、神の民イスラエルが高慢になって今十字架に背を向けているが、異邦人が神の子イエスを信じることによってイスラエルもイエスを信じるようになる。神は全ての人を憐れ救おうという御計画を持っている。そして、神はそのご計画を実行し完成される、と語ってきた。その結論を得て、パウロは感嘆の叫びをあげているのです。
神は、弱く小さい惨めさを嘆いている者の所に御子イエスを遣わして、神の愛に生きる救いを与えてくださったのです。そして、高慢で自分は神からの救い主は必要としないと言っている者にも御子の十字架を示し、自分の罪を知らせ、高慢な罪人の心打ち砕いて神の愛を喜んで受け入れる者にするのです。
肉の人間は自分中心に生きていいるのです。それで、自分の思い通りにならない、自分が期待するようにならない、自分には光がない命の道がない、地上の世界は闇だ、という人がいるのです。しかし、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」。人生の意味、歴史の目標は栄光が神に永遠にあることです。それは、十字架による神の愛の深さを知って、礼拝を捧げ、日々の生活で神を崇めて歩むことです。
2008年9月7日
説教題:心にキリストが住む
聖書:歴代誌下 7章11—16節 エフェソの信徒への手紙 3章14-21節
【説教】
私たちにとって神様はどのような方なのでしょうか。私たちが生きている世界は神によって造られ、私たちは神によって命与えられ生かされているのです。私たちの存在も生きていることも全く神の御心と御手の中にあるのです。
その神は、神の方から私たち人間に神を知る道を与えてくださいました。神の民を選び、ご自身を示され、神を知るようにされたのです。造り主である神を知ることは、人間が自分自身を知ることでもあります。人間は、神を知って真実に生きることが出来るのです。
歴代誌でソロモン王は、神殿を建てて、神殿は神がお住まいになるのに相応しいところではないけれど、この神殿で祈る時その祈りを聞いて下さい、と神に祈りました。それに答えて神は、跪づいて祈る時に神はその祈る者に心を向ける、と言われたのです。
祈りつつ神と交わりを持って歩むことが、私たちの歩みを意味あるものとするのです。
パウロはエフェソ3:14で「こうゆうわけで、私は父なる神の前に跪づいて祈ります」と祈っています。パウロは、ここまでで神が御子イエス・キリストを与えて下さり、キリストによって神を父と呼ぶことが出来、天地の全てのものが一つになるようにしてくださった、と語って来ました。造り主である神を父と呼ぶのは、神が冷たい無人格の造り主ではなく、父の意思と愛と感情を持った人格的なお方である、と告白しているのです。今父なる神が、私たちを造り生かしてくださっていることを知ったのです。神に感謝しないではいられません。パウロはその感謝と全ての人への執り成しの祈りをしているのです。
「父である神が、あなたがたの内なる人を強めてくださるように」。「内なる人」は、「外なる人」が別にいる、という使い方もあるます。しかし聖書は、内なる人が外なる人を支配し、両者は一体になる、という使い方をしています。ローマ7:20-22、ここでは「内なる人」は霊の人ですが、肉の自分の中には罪が住んでいて霊の人と争っている、と言っています。肉の罪は外の人を罪人にするのです。8:1-11では霊の人がキリストによって勝利し、外なる人も霊の人になった、と言っています。そこで、外なる肉の人は日々衰えていくけれど内なる霊の人は日々に新たにされる、とも言っています。「内なる人を強めてくださるように」と言うのは、強い意志を持つようにしてくださいと言っているのではありません。霊の人を強くしてくださるようにと言っているのです。そのことは、心の内にキリストが住み、主人となって霊の人が強くなることです。
キリストが住む所は、キリストを正しく理解して喜んで迎え入れてくれる所です。パウロは「信仰によってあなた方の内にキリストを住まわせ」るように、と祈っています。「キリストを住まわせる」ことは、「愛に根ざし、愛にしっかり立てる者」にすることでもあります。心にしっかり根を張り育っていく、また強風がきても倒れないようにしっかり建てられる、そのようなキリストの愛を心にもち、その人全体が愛の人になることです。内なる人によって人間は悪人にも、愛の人にもなるのです。
2008年8月31日
説教題:羊飼いと羊
聖書:エレミヤ書 50章4-7節 ヨハネによる福音書 10章1-6節
【説教】
聖書は羊飼いと羊の譬えで、神と神の民、民の指導者と民を語っています。
多くは、羊飼いは信頼にたる指導者で羊はその羊飼いに従順に聞き従う民として、譬えられています。それに対してエレミヤ50章は、羊を迷わす羊飼いと、羊飼いに従わないで我が道を歩み自分の憩う場所も忘れてしまう羊に、譬えられています。聖書は、これらの譬えによって民の指導者と民はどうあるべきかを語っています。
ヨハネ10:6では、イエスがこの譬えをファリサイ派の人々に語ったと記しています。ファリサイ派の人々は、9:13以下を読むと民の指導者だったようです。9:22,34からユダヤ人はイエスを信じる人を会堂から追放しているのでイエスは対話できない、そこでファリサイ派の人々が9:40でイエスと対話している、10:1-6はその繋がりにあります。9:40-41でこの人々は、目が見えない、世界も歴史も見えない、羊飼いである自分も羊である民も見えない人々と言っています。10;6は、1-5でイエスがそのことを語れたのが分からなかった、自分たちに語られた譬えが分からなかった、盲人だったと言っているのです。
10:1-5に「羊の囲い」とありますが、この囲いは建物の中庭のようにそこに入ったらまったく安全である、救いと命があるところです。羊の所有者が囲いを建て、門番を置き、羊飼いを雇って羊を飼っているのです。羊は所有者や門番と顔なじみであり、羊飼いは羊をよく知っていて、状況に応じて正しく羊を扱う、羊も羊飼いに従うのです。この囲いは神の国や教会で、門番はイエス・キリストであると読めます。囲いの中にいる羊と正規の羊飼いは、門番を知っています。門番であるイエスを、救いへの門であり道であると信じて囲いに、神の国、教会に入って行く時、救いを得ることが出来るのです。
所が、この囲いの中に門から入ったのではない羊飼いがいると言っています。羊の所有者に雇われていない羊飼いが、門番を通らないで入って来たのです。謙遜にならないで頭を門にぶつける高慢な者が、正規に門から入ることが出来ないで、門ではない所から入るのです。現実の教会にもそのような羊飼いがいるのです。
そこでこの譬えは第一に、神の民の中で、教会で指導者となっている者は、自分が門番に知られている者で、門を開いてもらって門から入って来た羊飼いか、羊の所有者の心をもって羊の世話をする正規の羊飼いか、と自分を問えといっているのです。
次に羊たちに、そのように羊飼いの声を知れ、といっているのです。羊飼いが囲いの中の羊を連れ出す時、羊は羊飼いの声を知っているので羊飼いについて行く。これは当然のようですが、羊と羊飼いの長い間の信頼関係があって、羊飼いと羊が人格的な交わりを身につけていることを意味しています。羊飼いではない者が連れ出そうとしてもその声を知らないので逃げ出す。「逃げ出す」と言うことは、無理に連れて行こうとするのを拒むことです。魅力的なもので誘う、餌で釣る、それでも知らない声にはついていかない、逃げ出す。イエスの声を人格的に知ることが、神の民である羊に必要な大事なことなのです。
2008年8月24日
説教題:神の真理は自由にする
聖書:ヨハネによる福音書 8章31-38節
【説教】
先週エフェソ4:6から学んだのは、本当の善意、正義、光はキリストからだけ生じる、でした。善意は、キリストを信じていなくても人間にはあるように思われます。しかし「(キリストに結びつく)以前は暗闇だった」と聖書は言っていたのです。
先日孫を前に、長男と長女が私たちに育てられた時のことをいろいろ話しました。親は子どものことを思っていろいろ言ったり行なったりします。しかし、子どもに対しての親の言動が、本当に子どもの幸せや益になっているか、と言うことは別だ、と改めて知らされました。よく親子喧嘩で「お前のためを思ってやっているのに」というのに対して、「余計なことはしないで欲しい」「親の勝手を押し付けて」という反発のやりとりがあります。親子でなくても、善意で行なったことが、善意にならないことはあるのです。それは、このことが子どものためになる、あの人のために必要、善意の愛の業を進んで行なうべきだ、という思いに縛られていて、本当の善意が見えなくなっているのではないでしょうか。
ヨハネ福音書で、主イエスは自分を信じたユダヤ人たちに「私に言葉に留まり続けるなら、あなたたちは本当に私の弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と言っています。これは、主イエスの言葉に留まり続けて生き、物事を見、交わり、歩み続けるなら、神の真理が深く確かになって、自由になる、ということです。自分自身の義や道など、他の何ものにも縛られないで、神の真理に自由に生きるようになる、というのです。イエスご自身が、神の真理であり、道であり、命なのです。
「自由」は、先ずは縛られたものからの解放の自由です。罪と悪、肉とこの世の支配からキリストによって解放された自由です。その自由は、次に神の真理に生きる自由になります。その自由を得た時、人は神によって新しい人にされ、神に喜んで仕える人になろうと言う思いが生じるのです。キリストによって新しくされた人は、キリストに倣って、キリスト者として善意に歩もうという思いをもつのです。私を自由にしてくださったキリストの愛に応えて神に仕えて生きよう、と思うのです。
しかし、キリスト者は、罪人であった自分がキリストによって罪から解放された自由を、信仰によって自分のものにしているので、これが隣人の益になると断定できるものを持っているのではない、「自分はそう思う」という者に過ぎないのです。
主イエスはルカ18;9-14で、自分を義人ぶるな、人間は罪人であることを神の前に知れ、と言っています。キリスト者が確信をもって行なったことでも罪を犯すことがあるのです。ですから常に御言葉を聞くのです。そして、罪を知った時には、十字架を信じて赦しも知り、新しい人にされるのです。その時私たちは益々深く神の真理を知り、神の真理の自由に生きるものとなるのです。主イエスを信じることによって私たちは、自分の弱さや罪を知っても、挫けないで、自暴自棄にならないで、赦され愛されている者とされ、神の真理の道を自由に光となって歩むことが出来るのです。
2008年8月17日
説教題:光の子として歩もう
聖書:出エジプト記 13章17-22節 エフェソの信徒への手紙 5章6-20節
【説教】
教会はどのように誕生し、どのように歩んでいるのでしょうか。
エフェソの8節に「あなたがたは以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」とあります。主イエスに結ばれる前の私たちが暗闇だったと言うことは、唯暗い人間だったと言うだけでなく、どんなに明るく元気に振舞っていても、喜びも希望もない嘆き呟き絶望の人間だったと言うことです。周囲の人も暗くする人間だったのです。
しかし、今は主イエスに結ばれて光となっているのです。9節には、光である私たちから善意が生じる、とあります。あらゆることを悪意に、自分中心に受け取る人がいます。しかし光は、相手の言動を善意に、相手の幸せを優先的に考えて、人の良さで理解し受け取るのです。そして正義と真実も生じるのです。今までなかったが、今は主にあって存在しているのです。主にあって闇が光となっているのです。
10節では「何が主に喜ばれるか吟味しなさい」と言っています。自分一人の喜びであってはいけない、主にあって皆が受け入れる正義と真実をもった喜びであるか、吟味しなさい、と言っているのです。神の前に善意、正義、真実が行なわれているか吟味するのです。
そして、キリストに結びついた光と喜びは、命があり、実を結ぶのです。11-12節は、実を結ばないものは闇の業、恥ずべき業だ、と言っています。しかしこの世にはそのような業が実に多く行われています。自分の利益のために偽装、不正が公然と行なわれている、そのことがトップの指示で行なわれている、受け継がれて続いている、法律も制度もそれを赦していた、ということが次々と報じられています。主に結びついていないところでは罪と悪が支配しているのです。欲とこの世の力が支配しているのです。その業は一時的で直ぐ消え去り、滅び去るのです。ですからキリスト者はそのような暗闇の業に加わらず、光の業を行なうのです。それにはキリストによって新しい人に生まれることが必要です。
人間の知恵や知識、技術が進み、物質的生活が豊になっても、人間の世界から暗い事件がなくなりません。人間の知恵も技術もお金も真の光ではないのです。キリストを失っている人間は闇なのです。出エジプトの時、神は人間やこの世の力によってではなく、天からの神の光によって民を導かれました。パウロは、人は一度自分を無にしたとき、キリストが新しく誕生させてくださる、と言っています。
パウロは、光であるキリスト者は、「愚か者としてではなく、賢いものとして細かく気を配って、歩みなさい」、と言っています。「賢い者」はこの世的な賢い者、世渡りの知恵や計算が出来る賢い者ではありません。神の心を洞察することの出来る賢い者です。細かく気を配るのも、神の心を知る者として気を配るのです。「時をよく用いなさい。今は悪い時代です」も、今の時が神の御心から離れて流れているからこそ、キリスト者であるあなたは神の御心に従い責任をもって今の時を歩みなさい、と言っているのです。
キリスト者と教会は、闇の中で光として歩むために、光とされているのです。
2008年8月10日
説教題:罪のない者石を投げよ
聖書:ヨハネによる福音書 8章1-11節
【説教】
この説教題は、罪を指摘した人に対して「お前はどうなのだ」と逆に問い返す言葉に使われることがあります。しかし、誰も他人の罪を裁くことは出来ない、という意味で語られたのではありません。罪は罰すべきだ、罪を犯してはいけない、と言っている言葉です。
イエスが神殿で人々に教えている所に、律法学者やファリサイ派の人々が姦通の現場で捕らえた女を連れて来たのです。当時のイスラエルでは姦通は罪でした。連れて来た人たちは「この女は姦通の現場で捕らえた、律法は石で打ち殺せと命じている。あなたはどう考えるか」とイエスに迫りました。この人たちは、この女をどう扱うかは二の次で、イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのです(8:6)。イエスが、石で打ち殺したらいいと答えたらローマ総督に私刑をすると訴えるか,民にイエスは愛の人ではないと告げ知らせる、打ち殺すなと答えたらイエスは律法に背くとユダヤ人たちに訴える、そのための質問なのです。彼らは悪意を持ってイエスを問い詰めているのです。
イエスは質問に直ぐには答えませんでした。黙って地面に何か書いていました。これは質問を無視しているのか、考えを深めていたのか分かりません。聖書は、イエスが答えないので質問が続いた、あまりにもしつっこく問い続けるので、イエスは身を起こして彼らに「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい」と言いました。そして又身をかがめて地面に書き続けました。
ここでイエスが「罪を犯したことのない者がこの女に石を投げよ」と言っているのは、「誰もこの女の罪を裁けないだろう」と言っているのではありません。罪を犯したら裁くべきだ、唯他人が犯した罪を見つけて、人々の前でその罪を大きく見せるだけでなく、自分が犯した罪も無視してはいけない、と言っているのです。私たちは社会の罪、他人の罪を糺す責任を負っています。隣人の罪や社会の悪に無関心ではいけないのです。しかし自分の罪により厳しい目を向けて、自分の悪を断罪するようにすべきなのです。
イエスの言葉を聞いた者は一人又一人と去って行きました。群集も皆去って行ったのです。群集たちは、他人の罪と罰が問題の時には、イエスが何と答えるか野次馬の気分と類は友を呼ぶで、罪人同士お互いだねと、そこにいることができたのです。しかし、罪と裁きが自分のことになると居られなくなったのでしょう。私たちも同じではないでしょうか。
しかしこの女は、自分のことを石で打ち殺せと言っているイエスの前から去りませんでした。イエスの前から逃げても隠れても、自分は罪人だという苦しみから解放されないことを知っていたのです。イエスは女に「あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか」と訊ねました。女が「誰も」と答えると、イエスは「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはいけない」と言われました。女はイエスからの罪の赦しを待っていたのです。そして、罪の赦しを与えられたのです。
罪のないイエスだけが罪を赦し、新しい命を与えて、新しく歩ませて下さるのです。
2008年8月3日
説教題:神が民に求めている義
聖書:ヨハネによる福音書 7章40-52節
【説教】
今日は平和聖日です。今日与えられた聖書の7:43には「群集の間に対立が生じた」と記されています。対立から争いが生じ、戦争も起こるのです
複数の人がいると対立が生じます。今まで仲が良かったのに、急に対立が生じ、争いになることがあります。子供の世界だけでなく大人の世界にもあります。家庭でも意外な惨事、国会や野球場でも乱闘事件が起こります。それは複数の人がお互いに自分の正しさを主張しているからです。対立が対決や争いにならないためにはどうしたらよいか。
ヨハネの7:40-44では、イエスをどう見るかの違いで対立が生じた、と記されています。しかしまだ争いにはなっていません。意見の違いによる対立はこの世の日常生活によくあることです。お互いに違いを認め合ってやっていくことが多いです。ところが、自分の立場が絶対に正しい、神も認めている、秩序は守らなければならない、となると対立が行動に進んで行くことになります。7:45の人々は神の民を治める立場にいる人たちです。この人たちは7:32で、イエスを捕えるために下役を遣わしていました。
しかし、下役がイエスを捕らえないで戻って来たので「どうして連れてこなかったのか」と問い詰めました。彼らは、イエスが神から来た人のようなので捕らえなかった、と答えました。ファリサイ派の人々は「私たち民の指導者の中であの男を信じている者がいるか。いないではないか。群集は律法を知らないし、神の義を知らないのだ。下役であるお前たちは私たちに聞き従って迷わされるな」と言いました。彼らは、自分たちは神からこの立場を与えられて治めているので、自分たちの考えと行動は正しい、と断定しているのです。このように考えて行動する指導者はいつの時代にもいます。現代にもいます。
その指導者たちの中にニコデモがいました。彼は仲間の者に「律法を正しく読むと、自分は神の義を持っていると一方的に決めて裁くのではなく、本人から事情を聞いて、確かめた上で判決を下さなければならない、となっている」と言いました。彼は、神の前に正しくあること、真実であることを求めて、勇気をもって発言したのです。しかし、ファリサイ派の人々は自分たちの正しさを主張するだけで、ニコデモの意見を聞き入れず退けました。彼らは、自分中心に物事を見、考えて、自分の義を神の義としている頑なな心の人間なのです。自分を無にして、神に聞こう、真実を求めようとしないのです。このような人が多いのです。そして、このような人によって争いや事件、戦争が起こるのです。
ファリサイ派の人たちは聖書を知っていました、しかし聖書を知っているだけではだめなのです。神が民に求めているのは、自分は神の民だ、神の義を持っているという確信ではなく、神の前に自分も罪人だと認めて、自分を無にして神のご支配に身を委ね、御言葉に聞き従うことです。自分中心の頑なな心を打ち砕いて聞く耳を持つことです。
神の民は、心打ち砕かれて聖霊を受け入れ神と語り合う民です。そして隣り人と心から語り合うことが出来る民です。そこには争いのない交わりがあるのです。
2008年7月27日
説教題:世に勝つ信仰
聖書:士師記 6章36—40節 ヨハネの手紙 5章1-5節
【説教】
今日の聖書には「世に打ち勝つ」の言葉が4、5節に3回繰り返して出てきます。このことがどんなに重要なことかを現しています。
世に勝つことが望ましいということは、世が悪だということです。この手紙は世がどのようなものかを2章15—17節で語っています。神はこの世を救うために御子にお遣わしになった、それによって私たちは神の愛を知り、神の愛の中に生きるものとされたのです。ところが、世の大勢は御子を受け入れないでいるのです。神に背き、罪のままでいるのです。ですから「世も世にあるものも愛してはいけません」と言っているのです。世にあるものは自分中心で神のことを思わないのです。また、世にあるものは一時的で過ぎ去るものなのです。人間もそこにあるものも過ぎ去るものなのです。ですから、それらを愛し労し心砕いても結局は空しいのです。しかし、神にあるものは空しくなりません。
旧約のギデオンは、神に選ばれて、ミデアン人から民を救うために召し出されました。しかし、ギデオンは不安で戦いに行く前に、神が共にいるならそのしるしを見せて欲しい、と頼みました。神はその頼みを聞かれました。ギデオンは、自分はこの世的に強い、だから自分と一緒に神がいて欲しい、と言っているのではないのです。神のご計画によって弱い自分が選ばれ召されている、だから神のご計画に自分が用いられていることを知らせて欲しい。といっているのです。そしてギデオンは神の言葉に従って戦って勝利したのです。
世に勝つのは、自分の強さでも仲間の数の多さでもありません。4節で「神から生まれた人」一人一人が皆、世に打ち勝つと言っています。世と世の欲に決別して、神に生かされている者は、この世と戦うのです。5章1節では、イエスをメシアと信じる人は、神から生まれた者です、と言っています。十字架のイエスキリストを救い主と信じる人は、この世と肉の支配から解放されて、神と共にあることを喜ぶのです。ですからその生活は、この世と戦うことになるのです。その戦いが、私たちが救われていることを顕すのです。 キリストによって勝利している永遠の命に生きる生活なのです。
2、3節で、私たちが神の愛に生きているか、人間的なこの世の愛に生きているかを、神の掟を守ることで知る事が出来ると言っています。私たちは、人間的に自分の気に入ったものを愛するとか、この世的に評価されているものを愛するのではなく、神の掟を自分のように愛するのです。真実の義を愛し、隣人を愛するのです。
ところが現実には神を愛する愛が弱くなってしまうことがあるのです。この世的に月並みの事をして歩むことがあるのです。
ルターは、キリスト者は生涯常に神の言葉によって新しくキリスト者になる、という歩みをしているのだ、と言っています。新しくキリスト者になることが生きた信仰生活です。そしてそのキリスト者は、世に勝つ信仰を持ち、世に勝つ歩みをするのです。闇の夜で福音の光を放つ歩みをするのです。
2008年7月20日
説教題:主の食卓で育てられる
聖書:コリントの信徒への手紙一 11章17-34節
【説教】
この聖書が書かれた時には、17,21,33節にありますように、食事のために教会に集まっていたようです。20,25節では食事ではなく、主の聖餐のために教会に来るのだ、と言っているようです。食事と聖餐がはっきり区別されていないので、22,34節では、空腹を満足させる食事と、聖餐を区別するように進めています。
教会での食事は、アガペー・愛餐と呼ばれて、主にある交わりの一つとして早い時代から教会で行われてきています。その時に教会を余り知らない、初心者や求道者も参加することがあります。その人たちはアガペーを知りません、そこで主にある交わりに混乱が起こることがあるのです。ユダの手紙12節にもその問題が書いてあります。
教会は「母なる教会」と呼ばれて、教会でキリスト者が誕生し育てられる、又育てるのです。その教会はどこにあるのか、礼拝が教会です、御言葉と共に聖餐が正しく行われるところに教会があるのです。そこでキリスト者が誕生し育てられるのです。教会での食事はお花見の宴会の食事とは違うのです。教会での食事は、自分の食べ物を自由に勝手に食べるのではなく、皆が主にあって一つ食べ物を皆で分け合って食べる、主にある交わりなのです。肉の飢えを満たすよりも、魂の飢えを満たす、罪人が新しい人に育てられる、それが教会の与える糧であり、教会の食事(アガペー・愛餐)なのです。
教会が乱されないで、愛餐を知らない人たちに愛餐を正しく教え育てるのにはどうしたらよいか。それは23節で言われているように、主から受けたことを受け止め、伝えて行く、正しい聖餐を行なうことです。教会も聖餐も故人の業ではなく、神の民の共同体の業なのです。聖餐によって神の民(教会)が、キリストに生かされている共同体として自覚をさせられ、養われ、成長して歩んでいくのです。
聖餐の中心は「私の記念して」パンを分け、杯を配るところにあります。「記念する」ことは「想起する」ことです。イエスが十字架について下さったことによって救われた、新しく生かされている、そのことを記念し想起するのです。既に身に覚えていることを想起するのです、何も身に覚えていないなら、記念も想起も意味を持ちません。ですから教会は、聖餐においてイエスの十字架を知っていることを前提とし、大切にするのです。
教会は、キリストの愛を記念している共同体です。教会は、食卓の主に招かれ、命の糧を与えられ、愛の食卓マナーによって養い、育てられるのです。教会には求道者が来ます。教会員も求道者もそこで神の民に育てられていくのです。共に生かされ、共に愛の人にされ、責任を分かち合って一つ目標(神の国)に向かって歩んで行くのです。それに必要な糧を与えられ、救いの経験を共有し、必要なマナーを身につけていくのです。
この聖餐のマナーは、自分中心の世にあっては、各家庭でも勧められることでしょう。そしてこの食卓による教育、訓練、マナーを世界全体に勧めていく責任が、主から教会に託されているのです。聖餐は「主が来られる時まで、主の死を告げ知らせる」業なのです。
2008年7月13日
説教題:兄弟の心を痛めるな
聖書:ローマの信徒への手紙 14章23-23節
【説教】
人間も幼い時には自分中心です。他の人のことを考えることは出来ません。大人は幼子や他の人のことを考え、配慮します。しかし現実には、幼子のような大人がいるのです。肉体的に又精神的に弱い人もいるのです。どこまでが子どもで、どこからが大人か、法律などで決まっていても現実には、子どもと大人の区別の基準はないのです。大人として正しく良い人間関係を作って行くのは、規則を覚え、教えられた通りにしていればよいのではなく、その時、その場の状況に対応することを身につける必要があるのです。
13節に「従って」とあります。14章1節からの話を受けている言葉です。強く正しい人も、正しいのだからと我が道を進んでいくのではなく、一緒にいる弱い人のことを考え、配慮しなさい、弱い人を批判するな、侮るな、といってきたのです。そして13節にきて「躓きとなるものや、歩くのに妨げとなるものを置かないように」と言っているのです。躓きとなるものや歩くのに妨げとなるものは、強い人が自分中心に考えるのではなく、足腰の弱い人の身になって考えるべきでしょう。15節には「あなたの食べ物について、兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません」とあります。これは、あなたが他の人のことを気にしないで食べているのを、見ている人がいて心を痛めることがあるなら愛に従って歩んでいない、といっているのです。これが教会の歩みなのです。自分は自分、他の人は他の人、ではないのです。
他の人を裁くなということは、他の人に無関心でいなさいと言うのではないのです。自分が規則にしたがっていたら他の人は勝手にしたらいい、というのではありません。他の人にも注意深い関心をもって、躓かせないように、心を痛めさせないように配慮するのです。19節では「平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか」と言っています。教会は配慮し合い助け合って一緒に歩んでいくのです、そしてお互いに成長し成熟していくのです。そして神の国を目指して歩むのです。
16節では、自分が正しいことをしていればそれでいいのだというのではなく、「あなたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい」と言っています。強い人は弱い人がいたら、弱い人に配慮して自分の自由を行使することを差し控えるのです。
宗教改革者ルターは、キリスト者は与えられた自由を隣人を生かすために、隣人に仕えるものとして用いる、と言っています。そして、礼拝やミサは、もっと各教会自由であっていいけれど、多くの人が初心者たちもそれらを廃止したいと思うまで、今までのものを残して置く、今は変える時がくるまで待つ。とローマカトリック教会のものを残していました。神を信じ、キリストにあって生きる人がいるのを大事にした愛です。
私たちは一人孤独に生きているのではありません。神によって交わりの中で、誕生し、育てられ、生きているのです。ですから兄弟姉妹を愛し一緒に生き、神の国を目指して歩んで行くのです。教会は神の国の愛と平和をこの歴史の中に証しているのです。
2008年7月6日
説教題:私だ、恐れるな
聖書:イザヤ書 43章1-13節 ヨハネによる福音書 6章16-21節
【説教】
「恐れるな」と言っているのは、そこにいた弟子たちが非常に恐れていたことを示しています。弟子たちは何を恐れていたのでしょうか。
16,17節は、日が沈み暗くなって、闇が覆いつつあることを記しています。弟子たちは小舟に乗って湖を5キロほど漕ぎ出したのです。その時強い風が吹いて湖が荒れ始めたのです。暗くなっていく中で波が荒れて舟は木の葉のように揺れているのです。弟子たちは不安と恐怖心を持ったのです。弟子たちは、その恐怖心を取り除くものをなにも持っていない、無力であることを思い知らされていました。
その時弟子たちは、湖を歩いて近づいて来るイエスを見ました。ところが「イエスを見て恐れた」のです。近づいて来るイエスが、弟子たちが良く知っているイエスとは違う、近寄り難いイエスだったのかも知れません。勝手な想像が心に起こって漠とした恐怖が生じたのかも知れません。
私たちも事柄を悪く見ると益々悪くなるように思われてきます。この地球も世界も歴史も暗くなっていく、これから先どうなるのかと不安と恐れを持ちます。あの人も私を本当には理解してくれていない、結局別の世界の人なのだと思ったりします。
そこに近づいて来たイエスが「私だ、恐れるな」と言ったのです。この言葉は、お互いに良く知り合っていて強い信頼関係がある時、意味を持つ言葉です。ここで主イエスは、肉となって弟子たちと歩んだ神の子であることを、「私だ」の一言で示しています。その一言で弟子たちは、そこにいるイエスが誰かを知り、その愛と心を感じ取ることが出来たのです。そして、不安と恐れは全て消え去って、それらから解放された喜びを得たのです。それはその時までに、イエスとの間に親しい交わりと強い信頼関係をもっていたからです。
イエスを知らない人にとって、「私だ、恐れるな」という言葉は、こいつはどんな奴なのだ、何をしようというのだ、と一層強い恐怖を与えるでしょう。私たちが日頃イエスとどのように交わっているかが大事なことなのです。イエスと共に歩み、イエスから命の糧を与えられて、一緒に食事をし、語り合う、時間をかけた交わりが、イエスから平安と救いを与えられるのには必要なのです。そのような深い交わりと信頼関係がある時に、暗闇に覆われた強い風の中で、「私だ、恐れるな」の声を救いの声と聞くことができるのです。
イザヤは、神の民がバビロンに捕囚されている時、民は絶望し、自分たちの歩みに意味を失い、ただ生きていると言う状態であった時、その人々に「神は、『わたしはあなたを創造した神だ。罪を犯したので罰したが、もう恐れないでいい。私はあなたを自分のものとし、あなたの名を呼ぶ。あなたは神の栄光のために創造されたのだ』といっている」といって民を励まし、新しく力強く生かす民にしたのです。神の民は、現在は教会です。
教会は、この世界と歴史が闇と荒波で不安の中にあっても、「私だ、恐れるな」の声を聞いて、主イエスによって平安を与えられ、神の歴史の完成に向かって歩んでいるのです。
2008年6月29日
説教題:死から命に移す神
聖書:ヨハネによる福音書 5章19-30節
【説教】
今日の説教題は、神は今死んでいる人を命に移す、と言っているのです。今死んでいる人は、二種類いて、一つは28節「墓の中にいる人」です。この人も終わりの時に命を与えられて最後の裁きを神から受けるのです。
もう一種類の死んでいる人は、神からの命を失っている人です。ルカ15章の放蕩息子を父は「死んでいたのに生き返った」と言っています。エフェソ2章1-2節に「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」とあり、3-6節で、私たちも皆死んでいた、しかしキリストのよって復活させられている、と言っています。
私たちは、厳しい生存競争の中で生きるための戦いをしている、と言っていますが、本当に生きるための戦いは、イエス・キリストの父なる神の許に立ち帰り、神と正しい関係をもつための戦いなのです。そのことを知るためには「我に返る」「本心に立ち帰る」ことが必要なのです。その時、死から命に移されるのです。死んでいた体の一部分だけ、頭だけ、心だけが命に移るのではなく、人間全体、生活全体が父なる神の命に移るのです。
罪人の私たちが神の命に立ち帰り、死から命に移るために必要なことを御子イエスが備えてくださったのです。19節でイエスが「子は父のなさることを見なければ、自分からは何事も出来ない」と言っていますが、これは能力がないから出来ないのではなく、父を離れて行なう意志がないからしない、と言っているのです。人となった御子イエスは、人として自分の思いで勝手なことはしない、父なる神が意志し、行なうことを一つになって行なう、と言っているのです。それで御子イエスは、死んでいる人が命に移るのに必要なことをなさったのです。ですから、イエスを信じる人は、神と完全な正常関係になり、永遠に生きる人になるのです。
父と子は、正常な関係であっても問題が生じることがあります。その時父は、子のことを考えて裁くことになるでしょう。その時、22節にあるように、神は直接裁きをされるのではなく、御子に裁きを委ね、一切子に任せられるのです。御子は、肉の人間をご自身味わい知っているので、愛と憐れみをもって裁かれます。御子が十字架につかれて救われたことを無駄にしないで信じる人に、赦しを与え、死から命に移されるのです。
この世の声や自分の肉の声に聞き従うことをしない。神の声、御子イエスの声に聞き従って生きるという決断する時、私たちは死から命に移されるのです。肉体の死を迎えても、神の御支配のもとにある永遠の命に生きる者とされるのです。
日野原重明先生は、特に死の前に病気になることは恩寵だ、病気によって心の目が開け、本心に立ち返らされ、神にある命に思いを向けさせられるから、と言っています。
私たちは地上を長く生きること、外の世界との関係で生きることよりも、神との関係で生きることが重要なのです。御子を信じ、神を見上げて生きることが、真に人を生かすのです。私たちの救いなのです。
2008年6月22日
説教題:主の言葉を信じる
聖書:ヨハネによる福音書 4章46-54節
【説教】
現代は情報化の時代といわれています。溢れるほどの情報があり、どれが正しく必要な情報なのか、選ぶのに迷い特別な知識を必要とするほどです。
今日の聖書に登場している王の役人は、ヘロデ王の近くにいて、ユダヤ人としても役人としても情報を得ていた人でした。この役人の息子が病気になりました。イエスがユダヤからガリラヤに来た、カナに来た、と聞きました。カナまで30キロ近くありますが、役人はイエスの所に行きました。46節には、カナは前にイエスが水をぶどう酒に変えた所、と説明されています。役人はそのことを知っていました。それで役人はイエスに、家まで来て病気の息子を癒してくれるように頼みました。
主イエスは役人の頼みを耳にしましたが「あなたがたはしるしや不思議な業を見なければ決して信じない」と言われました。「あなたがた」と、役人だけでなく、多くの人に対して言われているのです。私を神の子と信じるのではなく、しるしと不思議な業を行なう者と信じている人たちよ、私はそのような者ではない。と言ってイエスは役人の頼みを拒んだのです。
43節の小見出しの下に記されていますが、似た出来事がマタイとルカの福音書にもあります。そこでは、イエスが「行って癒してあげよう」と言いますと、ローマ兵の百人隊長は「私はあなたを自分の家にお迎えできるような者ではありません。ただ一言仰ってください」と応えています。イエスはこの隊長に対して「イスラエルの中でさえこれほどの信仰を見たことがない」と言っています。役人の頼みを拒否したのとまったく違います。
この役人には真の信仰がなかったのです。しかし役人は、イエスから拒否されてもイエスに必死で頼み続けた、そしてイエスとの交わりの中で心が変えられたようです。イエスの愛と深いご計画が分かったのです。イエスが「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と言われると、この役人は、絶望し諦めてではなく、イエスを信じて家路についたのです。役人はイエスを信じる者に変えられていたのです。
役人は、家路に歩んでいる途中、彼の僕に会い息子の病気が癒されたことを知らされました。病気が良くなった時刻はイエスが「息子は生きる」と言われたのと同時刻であった、・と説明されています。52節に「昨日の午後1時」とありますが、イスラエルでは日没で日が変わります。帰りの途中で日が沈み暗くなっていく、そこで明るい知らせを聞いたのです。この役人は息子の病気が癒されたを知る前に信じたのです。イエスとの語り合いの中で、イエスの愛と真実を知り、イエスを神からの救い主と信じたのです。あの百人隊長がイエスから見上げた信仰といわれたのと同じ信仰をもったのです。
私たちも現在溢れる情報の中で、神が歴史の中に与えてくださっている情報を正しく理解して信じる者でありたいと思います。そのためには、神の前に謙遜になって、イエスと良く語り合うことです。その時、神によって生かせれていることが分かるのです。
2008年6月15日
説教題:種を蒔く人も刈る人も喜ぶ
聖書:ヨハネによる福音書 4章31-38節
【説教】
現代は目に見える結果を直ぐ求める社会です。若い時の苦労は、直ぐ結果が出なくても、将来必ず役に立ち実を結ぶので、お金を払ってでもしなさい、といわれていましたが、現代では通用しなくなりました。苦労が喜びを得ることと関係なくなっているのです。
しかし、人間若い時に学ぶこと、そして苦労して学ぶ期間は必要です。「種を蒔く人も刈る人も喜ぶ」という説教題は36節から採りましたが、37節に「種を蒔く人と刈る人は別の人」ということわざがあるように、苦労して種を蒔いても刈り入れの喜びは別の人が手にする、これが現実の社会なのです。しかし、喜びがなくては苦労を担い耐えることが出来ません。生きて行く力も命もなくなります。喜びも希望もないと言って自ら命を絶つ若者がいます。主イエスは、31節で弟子たちが「食事をどうぞ」と勧めたのに、「私にはあなた方の知らない食べ物がある」と言いました。食物は生きる力、命になるものです。「私の食べ物は、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と続いて言われました。自分が今ここに生かされている、その意味と使命を知ることが、今ここで苦労して生きる力と命のなる、と言っているのです。
この時のイエスは、6節以下に記されていますが、旅で疲れて井戸の傍で座っていました。当時ユダヤ人とサマリヤ人は互いに非難し合って絶好状態にあったのですが、ユダヤ人のイエスはサマリヤの女に語りかけました。そして、ユダヤ人もサマリヤ人も同じまことの神を拝み、生きる時が今きている、イエスが命の水でメシアあることを伝えました。サマリヤの女はイエスを信じ、町に行って人々をイエスのところに連れて来ました。
弟子たちは、物質の食べ物しか考えていなかったので「誰が食べ物を持ってきたのだろうか」、と言いました。イエスを地上にお遣わしになった神の御心は、全ての人が神と正しい関係をもって生きるようにすることです。主イエスは今サマリヤの女にそのことを行なった、またそのご生涯と十字架によって成し遂げた、それが主イエスの食物だったのです。
詩編126篇5,6節に、神によって種を蒔く人が喜びをもって刈り入れるように世界が変えられたことが歌われています。今日の所で主イエスは語っているのです。イエスによって人々は、神の御心によって自分が今ここに生かされていることを受け入れて生きるようになった、それで今の苦労が神のご計画にあって空しくはない、種蒔く人も刈る人も共に喜ぶようになった。そして、「一人が苦労して種を蒔いても喜びの刈り入れは別の人がする」ということわざを、今までは自分は苦労だけをしている、と理解していたが、その意味がイエスによって変わった、あなたがたがその喜びの刈り入れをしている、他の人が種を蒔いたその苦労の実を得ているのだ、と。
イエスにあって、私たちは若い時の苦労も、将来自分の楽しみのためだけではない、神の御心ご計画が成就するために与えられているのだ、と受け入れて担うことが出来るのです。主イエスは命の水、命の言葉です、深い所で日々新しく私たちを生かすのです。
2008年6月8日
説教題:聖霊と真理による礼拝
聖書:ヨハネによる福音書 4章16-26節
【説教】
礼拝は神様との交わりです。ところが、神との交わりになっていない礼拝があります。
日本では、神社や仏壇で手を合わせて拝んでいれば、信仰が無くても、心が別の方を向いていても、礼拝として通用するのです。70年前には天皇の写真を拝み、皇居に向かって頭を下げることが求められました。時と場所と形式を重んじた礼拝でした。それに対して、心で礼拝することが大事で場所や形式はどうでもいい、と考える人もいます。しかし、そのような自分中心の礼拝は、独り善がりで自己満足に過ぎない、と言われます。
私たちの礼拝は、誰を拝んでいるかを知って、そのお方と真実の交わりをしているのです。そのお方は、天にいます聖なる神です。私たち生まれたままの人間は、その神に対して罪人であり、神の前に出るのに相応しくない者であることを知ることが大事です。
4章16節で主イエスが、サマリヤの女に「夫を呼んできなさい」と言っているのは、神様の前にいる自分を知りなさい、と言っているのだと思われます。この女は、7-15節のイエスとの対話で、自分はサマリヤ人なりに神のいます所で神を拝んでいる、自分は神の民だ、との誇りを示しています。そこでイエスは16節の要求をしたのです。神との関係は節操と同じ関係であることを示し、神に対して自分が節操のない罪人であることを自覚させようとされたのです。そこで女は、主イエスに導かれて自分の心に目を向け、神に思いを向け、自分はどこで礼拝をしたらよいのか分からない、と言いました。
イエスは、ここでなければ礼拝が出来ないということはない、場所に縛られないで、父を礼拝する時が来る、と仰いました。神を礼拝することを、父を礼拝する、と言っています。神は主イエスの父です、それで神は私たちの父ともなってくださったのです。神は遠くにいます近寄り難い神ではなく、私たちがその心と愛を知ることが出来る神なのです。神の方では私たちを十分に知り愛して、イエスにあって私たちの父となってくださり、御前に招いて交わりをつくり、私たちを生かしてくださっているのです。
そして、「あなたがたは知らないものを拝んでいるが、私は知っているものを礼拝している。救いはユダヤから来る」とも仰っています。神を知って礼拝する、そこに救いがあるのです。神はユダヤ人を選んで、神を知る道をその民に示されました。そして御子イエスが、今そのユダヤ人として神の道を示している、自分は神からの救いを与える使命を果たす、と言っているのです。まことの礼拝は、霊と真理をもって父を礼拝することです。その礼拝をする時が今イエスと共に来た、と告げているのです。
この礼拝は、神が求めている礼拝です。神が備え、成り立たせてくださる礼拝です。私たち人間の誠実さや努力ではありません。人間の思いや熱心さで成り立つのではありません。「神は霊である。だから」とありますように、霊である神が、御子イエスによって私たちを神の子にしてくださり、私たちの中に神の霊を与えて下さっている。私たちはその神の霊に導かれて神の前に出、神を礼拝しているのです。
2008年6月1日
説教題:子を信じる人は命を得る
聖書:ハバクク書 2章1-4節 ヨハネによる福音書 3章31-36節
【説教】
ハバククの時代は、バビロンが圧倒的な力で迫って来ている時でした。ハバククは、自分を前線の砦の上で見張りをしている者に位置付けて、自分たちもバビロンに捕らえられてしまうのか、と神に問うています。神はハバククの求めに答えて、神の言葉である幻を走っている人が見ても読めるようにはっきり書き記せ、と命じます。その幻は、「自分を神としている高慢な者は神の前に正しくない。だからバビロンは衰える。しかし、神を信じ、神に従う人は信仰によって生きる。どんな危険や困難、絶望に陥ってもその信仰によって生きる。」、と語っているのです。
自分の弱さ無力さを知らされる時がある。その時、誰の情報を聞いて信じるか。災害が起こった時、遭難した時、その判断が大切です。偽りの情報にも動かされてしまうのです。
ヨハネ福音者は、上(天)から来られた方こそ全てのものの上におられる方だ、と言っています。上におられて、世界全体、歴史全体を見、ご支配していらっしゃる方が今来ているのです。地から出て地に属する者は、どんなに広く大きな存在に見えても、地に属するものでしかないのです。上(天)から来られた方が、ご自分で見た確かなことを語るのです。だから信頼できるのです。このお方は神がお遣わしになった神の独り子です。
この神の独り子は、見て語っただけではない、神の御心を全て知り、行ったのです。神の御心は御子の十字架によって罪の人間を救うことです。ですから、この神の言葉である御子を信じる者は、神に従う者であり、御子に従う者で、すでに命を得ている。御子を信じない者は、従わない者で、命にあずかることがない、永遠の命を将来も経験することがない、かえって神の怒りがその人に留まり住み続ける。とヨハネは言っています。
御子を神の言葉と信じて聞き従う、それは御子を通して与えられた神の情報と神の救いの御業を信じることです。そのことが罪の世界にいる私たちの救いであり命なのです。一度だけ、ある時だけ聞いて信じたら良いのではありません。この世に生きている時は、日々いつも神を信じ、神からの情報である御子に聞き従い、新しい命を与えられることが必要です。その時私たちは闇の中でも光と愛の命に生きることが出来るのです。
2008年5月25日
説教題:新しい民が誕生する
聖書:申命記 6章16-25節 ヨハネによる福音書 3章1-15節
【説教】
「神の国」を知るのには想像力が必要です。神の国は肉の目では見えないからです。
今日の聖書に、ニコデモはファリサイ派に属する人と記されています。自分たちは、神から与えられた律法を厳格に守っているので、神から神の民と認められ、神の国に生きていると信じている人です。彼はイエスのところに来て、「私どもはあなたが神から来られた教師であると知っています。神が共におられなければ、あなたのなさるしるしを、誰も行うことは出来ないからです」と言いました。「神の国」は「神の支配」「神の王国」です。ニコデモはそのことを知っていました。彼は「神の国」を目に見えるものと見ているのです。そして、自分は神の国の民であるが、自分に神の国の命が与えられている確証が欲しい、と思ってイエスのところに来たのだと思われます。イエスはニコデモに言いました「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」と。5節では「誰でも水と霊とによって生まれなければ神の国に入ることは出来ない」と言っています。ニコデモよ、お前は神の国を見てはいない、と言っているのです。
ニコデモは、誇り高い教師であり議員です、自分が学んで知っていることに自信がありました。ですから、イエスの言葉を謙遜に聞いて、見えない神の国、神のご支配に想像を働かそうとしませんでした。「年をとった者が、どうして生まれることができるか」と、目に見えるものしか分からない幼子のように問い返しました。人間の世界を超えて、神の世界に思いを向けないとイエスの言葉は分からないのです。
イエスが「新たに生まれなければ」といったのは、「上から」「源から」という意味を持っているのです。地上の世界で、人間の力によって、もう一度新しく生まれるというのではありません。人間の世界で幾度やり直しても、原点に返っても、問題は本当には解決しないのです。世界も人間も結局変わらないのです。流行でも、考えでも、生き方でも、やり直しを繰り返して重ねていくと、結局昔に帰るのです。上から、神によって新しく誕生させられることによってだけ、神の民は誕生するのです。その民だけが神の国を見、神の国に生きることが出来るのです。そのことをイエスは、「誰でも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることは出来ない」と言っているのです。肉から生まれた肉の命は、罪と死の滅びと虚無に支配されている命です。その罪と死の命を水によって洗い清められ、神の霊によって新しく誕生させられる、その新しく誕生した命が神の国に入って生きる命なのです。その命に救いがあり、希望があるのです。
その命の誕生はいつどこで起こるのか。それは、風のように、確かに神によって地上に起こるけれど、いつどこで起こるかは分からない。とイエスは言っています。そして、神の御心をイスラエルの歴史と御子イエスの十字架を通して知り、信じる時にその誕生は確かに起こる、とイエスは確信をもって言っています。霊による新しい誕生は、周囲の人にも、当人にも気がつかない状態で起こることがあるのです。私たちにも起こるのです。
2008年5月18日
説教題:信じる者は私の業を行う
聖書:ヨハネによる福音書 14章8-14節
【説教】
主イエスは、十字架にかけられる前、弟子たちにご自分が十字架につけられる意味を話されました。14-17章がその告別説教と言われています。14章8-14節はその一部です。
8-10節でイエスは、フィリポが父である神を私に見せて欲しい、そうすれば私は納得し満足すると言ったのに対して、ご自分が父なる神とひとつであることを強く告げています。「私が分かっていないのか。私を信じないのか」、と言っています。主イエスは、単独で存在しているのではない、単独で存在している者として語り業を行っているのではない。父なる神とひとつの存在で、父なる神の愛を示し、罪人である人間を救うという神の意志を現しているのです。ですから、父なる神は御子イエスの十字架の死をよしとして受け入れ、復活させて、天のご自分の右に迎えられたのです。
12節で「私を信じる者は、私の業を行い、もっと大きな業を行うようになる。私が父のもとへ行くからである」、と言っています。このイエスの言葉は「私を信じる者には私がその人のうちにいる、だから私がその人のうちで私の業を行い、あなたがたが私の業を行うことになる」と言っているのです。罪人である人間が神の子イエスの業を行うことは出来ません。信仰を持っていても、肉の人間の意志と力では出来ません。ペトロがイエスを裏切ったことからもそのことは明らかです。
主イエスを信じて祈る者に聖霊が与えられる、その聖霊が私たちのうちで働いてくださる、それで私たちはイエスの業を行えるのです。主イエスは、父なる神が働いておられる、だから私も働くのだある、と安息日に言っています。今日の10節でも語られているように、主イエスは父なる神の意志と御計画によって存在され、御業を行っておられるのです。ですから十字架の死も復活の勝利の命に生きる門となったのです。主イエスは十字架上で、これは敗北ではない、神の御心の顕れ、御業の成就であると言われました。神の御心は、この世を愛し、救うという思いです。御業は、御子を通してこの世を救う業です。
12節で「もっと大きな業を行うことになる」と言っている言葉の解釈はいろいろあります。神の子イエス以上の業が人間に出来るのか、もし出来るならどんな業か。多くの人は、聖霊によって誕生した教会の存在とその業が、人間イエスの限界を超えている、そのことを指している、と解釈しています。私たちは、自分が救われたことで足れリとしないで、教会に結びついて、キリストの体として信仰生活をし、この世の責任を負って歩み、奉仕しています。このことは大事なことです。神は人間イエスによってだけでなく、キリストの体である教会、またキリスト者を通しても御心と御業を行われるのです。
しかしこの言葉は、13、14節と共に、私たちの思いや願いを実現することをも示している、と思います。私たちの思いや願いは何でしょうか。私たちがあの人をキリストに導きたいと思いです、その執り成しの祈りを大きな業と言っているのではないでしょうか。主イエスによって願い祈ることは適えられ、神の栄光を現す者にされるのです。
2008年5月11日
説教題:神さまからの助け主
聖書:ヨハネによる福音書 14章15-24節
【説教】
「神さまからの助け主」。どんな助け主が来て欲しい? どんな時に助けてもらいたい?
自分で出来ない時、子どもに出来ない時大人の人が来て欲しい。迷子になった時。お金が無い時。神さまからの助け主は、人間が困っている時、人間の手や力や知恵では助けることが出来ない時に人間を助けてくださるのです。
人間に出来ないこと、人間が助けてもらわなければならないことは何か。大人の人も、何とだめな自分だろう、何と惨めな私だろう、と嘆くことがある。正しい良いことをしたいのに悪戯や勝手なことをしてしまう。優しくしないで意地悪や辛い思いをさせてしまう。人間は自分をも愛せなくなることがある。他人も愛せなくなる。神も愛せなくなる。
そのような私を神さまは愛してくださる。私が憎んでも嫌っても、神さまは真実に優しく義しく私を愛してくださる。私が罪人であった時にも、私を愛して私にために死んでくださった、それで私は助けられて生かされているのです。神の愛で生かされているのです。
その神の愛が、私たちの救い主イエス・キリストです。愛の人イエスは十字架で死んだ後、復活し、天に昇られ、聖霊を私たちに与えて下さったのです。16節「私は父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」。このイエスさまの約束を実現してくださったのが聖霊降臨、ペンテコステです。聖霊を与えられたので私たちは自分を愛し、隣人を愛し、世界を愛することが出来るようになったのです。教会が誕生し、キリストの愛で皆が結び付られ、皆が生かされているのです。
今、イエス・キリストは天の神の右にいますので、聖霊が私たちと一緒にいる、教会にいる、私たちの中に宿っているのです。イエスさまを信じ、愛する時に聖霊が助けの働きをしてくださるのです。聖霊は、弁護者です、私の味方になって戦い助けてくれる人です。また「傍らに呼び寄せる人」、「こっちにおいで」と言って慰め励まし助けてくれる人です。また「傍らに来てくれる人」でもあります。信じて祈る時、私の傍らに来て助けてくださるのです。自分一人だったら、私たちは自分のことだけで一杯です。自分が生きるために、対決し、自分が見えなくなってしまう、自分を失ってしまうことがあります。聖霊はその時私たちの傍らにいて、私たちを支え慰め励まして、正しく導き歩ましてくださるのです。
教会にきている私たちは、人間の知恵や力では自分のものに出来ない、真実の愛の命をイエス・キリストと聖霊によって与えられているのです。イエス・キリストを愛し、愛してくださっていることを感謝して助けてくださるように祈るとき、聖霊が私たちを助けてくださって、私たちが自分を愛するように、また他人を愛するようにしてくださるのです。自分を愛することで、自分を大事にして、精一杯生きることが出来るのです。人を愛することで皆仲良くし助け合うことが出来るのです。
今日は、その聖霊が神さまから私たちに与えられた日、愛のイエスさまが天から地上の私たちの中にきてくださった日です。
2008年5月4日
説教題:渇きと命の水
聖書:イザヤ書 44章1-5節 ヨハネによる福音書 7章32-39節
【説教】
ヨハネ7章32節に「ファリサイ派の人々は群集がイエスについて、このようにささやいているのを耳にした」とあります。ささやいる内容は、31節の「イエスはメシアだ」ということです。メシアは、私たち人間を本当に生きる者にして下さる神からの救い主です。
私たち人間は、死んだらおしまいではないために、本当の命に生きるために、メシアを求めているのです。ところが、ファリサイ派の人や祭司長たちは、自分たちは神の前に正しい、自分たちの下に生きれば神の国に生きることになる、イエスはその秩序を乱す者だ、イエスを捕らえよ、と下役を遣わしていたのです。イエスは言われました「今しばらく、私はあなたたちと共にいる、それから自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」と。十字架の救いを果たすまで地上にいる、そして神の許に帰る、と言ったのです。続いて「あなたたちは私を捜しても見つけることがない。私のいる所にあなたたちは来ることが出来ない」と言われました。十字架のイエスを信じない者は、神の右にいますイエスとの交わりを得られない、本当に生きる者になれない、と言っているのです。
37節に「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日」とあるますが、これは仮小屋を建てそこで7日間生活する仮庵祭の中で、池から水を汲んで来て神殿に注ぐ日のことです。仮庵祭は、収穫感謝と出エジプトの荒野で神の導きと恵みを与えられた生活の記念、この二つの意味がありました。この日イエスは立ち上がって大声で「渇いているものはだれでも、私のところに来て飲みなさい」と言いました。水の所に来て喜んでのむのは、渇いている人です。イエスはそこにいる人に、あなたたちは本当に生きようと願っているか、それなら神の前に罪人である渇きを知るだろう、渇いている者は誰でも私の許に来て飲みなさい、と言っているのです。
イエスはご自分を、命の水が出る泉と言っているようです。しかしここでは、荒野で水を出した岩として言われているのです。民数記20章1-11節にイスラエルの民が荒野で水を求め、岩から水が出たことが記されています。コリントの信徒への手紙二10章4節に「彼らが飲んだのは自分たちから離れずについて来た霊的な岩からでした、この岩こそキリストだったのです」とあります。救い主を岩に譬えることは旧約聖書でよくされますが、その場合不動の揺るぎない岩が言われます。しかし、この岩は神の民と離れない民とともに歩む岩です。この岩から命の水が与えられたのです。この岩は、霊的な岩、岩自身が私たちから離れないでくださるキリストなのです。荒野の時からずっとそうなのです。
生きるのには渇きを自覚して岩であるキリストから命の水を戴いてのむことが必要です。38節でイエスはそのことを「私を信じる者」と言っています。そのことが必要なのです。そしてそれだけでいいのです。キリストに来て命の水を飲むと、自分が生かされるだけでなく、「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」のです。周りの渇いている人や地域を潤し生かすことにもなるのです。
2008年4月27日
輝かしい勝利の歩み
説教題:出エジプト記 33章7-11節
聖書:ローマの信徒への手紙 8章31-39節
【説教】
現在の社会は、神の恵みに生かされている、という思いが失われてように見えます。生かされている思いが無いので、自分の力で生きなければならない、他人を当てにしないで自分で責任を持て、と親も社会も国も言っています。そこで、問題は誰にあるかと責任の追及、対決、力の違いによる格差が起こっています。厳しい生存競争の社会で、生きるために、負けないために、他人を裁き攻撃して自分を守り生かそうとしています。
私たちキリスト者もこの社会の中で、自覚しないでも日常的に神の愛によって生かされていることを無視して、自分の力に頼り、こいつに負けるものかと対決的になっています。
神を無視し、神に背を向けて、自分の力で生きる者は、神から罪人として裁かれるのです。全ての人は神の前に罪人である、と聖書は言っています。神は罪人である私たちを愛し、御子イエス・キリストの十字架と復活によって私たちの罪を贖って義なる者としてくださったのです。私たちの救いは、神の愛と恵みによって生かされているころにあるのです。神の御心、御計画の中に生かされているので、誰によってもびくともされない、確かな意味あるものとして存在し歩んでいる、そこに救いがあるのです。
私も含めて全ての人は罪人ですが、その私たち罪人のために神は、御子を遣わしてくださり、御子の十字架と復活によって私たちを義として下さったのです。8章31-34節で「神が味方なので誰も私たちに敵対できない」とその罪に対する勝利の確かさを言っています。死んで下さり、復活されたキリストが神の右にいて、私たちのために執り成しをして下さっているのです。私たちもこの世の人も同じ罪人ですが、キリストを信じる者は、キリストの執り成しによって義とされ、神の御心、御計画と結び付られ、救われているのです。
出エジプトも、神に背いた神の民イスラエルが、神が選んだ人モーセの執り成しによって、赦され生かされ、神の民として約束の地に向かって歩むことを記しています。
37節で「私たちは、私たちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」と言っています。「輝かしい勝利」というのは、「余裕のある確かな勝利」ということです。優勝が決まっているここで負けても大丈夫だ、新人のお前失敗を恐れず、勝敗を気にしないで自分の力を思いっきり出せ、と言える勝利を持っていることです。神は最後の勝利を手にされているのです。その神がキリストにあって私たちを救ってくださっているのです。ですから、私たちは自分の弱さ、失敗、貧しさ、迫害等を恐れないでいいのです。神の勝利の中にあることを喜びながら、思いっきり生きることが許されているのです。
現在は生存競争の世界で直ぐ結果を求め順位を出し、勝ち負けを決めます。少しの失敗も許されない緊張と追いまくられる余裕の無さが見られます。しかし、私たちは私たちを愛してくださるお方によって輝かしい勝利の中にいるのです。余裕のある勝利の中にいるのです。ですから、目先のことや自分のことだけで精一杯ではなく、長い目で見ることが出来るのです。隣人の問題を理解して愛の手を差し出して助ける余裕が持てるのです。
2008年4月20日
説教題:一人一人に恵みが与えられている
聖書:エフェソの信徒への手紙 4章1-16節
【説教】
今日の説教題は薬円台教会の今年度の主題です。
4章1節で「囚人となっている私はあなた方に勧めます、神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩みなさい」と言っています。
私たちに与えられている救いは、私の思いを実現することではなく、神に捉えられて、神の御計画を知らされ、神の素晴らしい御計画の中に自分も結びつけられている、と知ることです。そこで、キリスト者はその招きにふさわしく歩みなさい、と勧めているのです。
その招きにふさわしい歩みは、自己主張しない、自分中心ではない、神の恵みを自分のものとした歩みです。2-3節は、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心をもち、忍耐し、平和のきずなで結ばれ、霊による一致を保つように務めなさい、と勧めています。この勧めは、勇ましく積極的活動的に生きるような、この世で評価される生き方ではありません。しかし、現代社会に起こっている悲惨な事件は、自己主張や自己中心の生き方によっている、ここに勧められている生き方が欠如していることによる、と思う人が多いでしょう。キリスト者の生き方は世の光、地の塩なのです。現代社会だけでなく、いつの時代でも、この生き方が、正しく人を生かし交わりを成り立たせ、人と世を救うのです。
この生き方は人間の中からは出てきません。キリストによって、霊によってだけ可能な歩みです。また4-6節でキリスト者は皆一つ霊によって生きている体である、教会であると言っています。教会はキリストにあって自己を捨てて一つになるのです。
しかし、7節で「私たち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられている」と、一人一人の奉仕、力、歩み等に違いがあることが語られています。その違いはキリストのお考えによって、キリストが良いとして与えてくださっているものなので、自分の恵みも、人の恵みも、人間の思いや評価で批判してはいけないのです。私たちは与えられた恵みを感謝して受け入れ、主が期待されているのにお応えしていくだけなのです。
8-10節で主は「すべてのものを満たすために」、世にこられ天に昇られた、と言っています。「満たす」のは、死と滅びの空しさに勝利した、「神の命と栄光」だけです。「すべてのものを満たす」というのは、神の恵みが世界全体の隅々まで余す所無く満たすと言うことです。6節はすべての上に教会がある。教会の下ですべてのものが満たされる、と言っています。教会はキリストの体です、キリスト者です。すべてのものの主がキリストです。教会はキリストを頭として世界全体を満たすものとして建てられているのです。
自己中心、自己主張で生きている人々の中で、キリスト者はキリストに招かれた者にふさわしく生きるのです。この社会と自然が、宇宙全体が救われ、その隅々までが神の栄光に満たされる、そのために教会が建てられているのです。私たち一人一人が恵みを与えられて、教会に結ばれて生かされているのです。私たちは与えられている恵みを感謝して受け入れ、恵みによってすべてのものを満たすように、と祈って歩みたいと思います。
2008年4月13日
説教題:主イエスへの愛の服従
聖書:ヨハネによる福音書 21章15-19節
【説教】
イエスが復活されたことで大事なことは、弟子たちに復活のイエスが現れ、弟子たちが十字架と復活の証し人になったことです。
主を失って闇の中にいた弟子たちにイエスが現れ、イエスの方から先に語りかけました。それによって弟子たちは、主イエスが十字架で死んで終わったのではない、死に勝利したお方、命のお方だ、と知ったのです。それだけでなく、弟子たちは11章25-26節の「私を信じる者は生きる」、14章19節の「私が生きているので、あなたがたも生きることになる」と言われたお言葉がここに実現していることも知ったのです。それで、弟子たちは十字架と復活の証し人になり、私たちもこの弟子たちの証を聞いて復活を信じているのです。
この時復活のイエスは「シモン、この人たち以上に私を愛するか」と訊ねました。ペトロは他の人がどのようにイエスを愛しているか知りません。他の人と自分とを比べる気も無かったでしょう。ペトロは、「私があなたを愛していることはあなたがご存知です」と、自分が真実イエスを愛していると答えました。ペトロは、十字架を前にしてイエスを「知らない」と言って裏切りました。それなのにイエスが今、私を愛しているね、と優しく確認するように語り掛けてくださっている、そこにイエスの赦しと愛を見、愛と信仰を持って答えたのです。
その答えを聞くと復活のイエスは「私の子羊を飼いなさい」と命じました。私を愛するなら、私が愛し大事にしている私の羊を、羊飼いとして私が飼っているのと同じように飼いなさい、と使命を託されました。このイエスの言葉はペトロに喜んで聞き従えることでした。愛する人に求められ期待されて託された務めは、嫌々重荷として行うことではなく、喜んで心を込めて行う務めです。主にある務め、奉仕は愛を持って奉仕することなのです。そこでイエスに従って歩む信仰生活で大事なことは、本当にイエスを愛しているか、イエスに聞き従うことが嬉しくてたまらないか、ということでもあります。
復活のイエスがペトロに三度重ねて「私を愛するか」と質問されたのは、ペトロの愛を確認された、と共に、イエスがペトロを赦し愛していることを重ねて示していることでもあります。その愛は、十字架を前にしてイエスから逃げて自分の道を行こう、この世の群衆の中に入って安らぎを得ようと思ったペトロを追い求め捕らえて放さない、愛です。
ペトロは復活のイエスに出会うことによって変えられ、新しい人にされ、神の栄光の証し人になりました。自分中心の生き方を止め、自分の弱さを知ると共に、自分を知って愛してくださっている主に従うものになったのです。ペトロと他の弟子は各々別の道と務めを託されて歩みました。そして、それぞれが神の栄光を証ししました。
復活の主は今も私たちに、私を愛するか、私を何よりも愛するか、と問い掛けているのです。そして、私を愛するなら私に従って歩みなさい、と私たちそれぞれに先立ち導いてくださっているのです。その主に従う歩みに神が祝福を与えて下さるのです。
2008年4月6日
説教題:弟子たちを導く復活の主
聖書:ヨハネによる福音書 21章1-14節
【説教】
ヨハネ福音書は20章で一度閉じられています。21章はそれに重ねるように語っていて、1-14節は、復活の主が弟子たちに現れた三度目の出来事である、と記しています。
しかし、復活のイエスが現れた報告だけで十分としないで、復活の主イエスは闇の中でも光となって弟子たちを導き養う主である、道であり命である、と語っているのです。
ペトロと7人の弟子は、ティベリアス湖で漁をしましたが、その夜はなにもとれませんでした。夜明けころ、イエスが岸におられました。「だが、弟子たちはそれがイエスだとは分からなかった」。イエスがいるとは思っていなかったし、しっかり見ることもしなかったからでしょう。イエスが、「子たちよ、何か食べ物があるか」と言われました。沈んだ気持ちでいた弟子たちは、「子たちよ」「若い者たちよ」と優しく語りかけられた声を聞いて、素直に答えました。「ありません」と。イエスは「右側に網を打てばとれる」と言いました。イエスは愛の言葉で語りかけたのでしょう。漁師であった弟子たちが未知の人の言葉通りに網を打つと、網を引き上げることが出来ないほどの魚がとれました。人間の経験と知恵と力で漁をした時には何の収穫も無かったのに、主の導きに素直に聞き従った時に大きな収穫が与えられたのです。空しかった働きと時が充実した働きと時に変えられたのです。代々の教会は、この漁を教会の伝道の働きを意味している、と理解しています。復活の主はこのように教会を導き、その働きを実りあるものにして下さっているのです。
イエスの愛しておられた弟子は、その充実を与えて下さった未知の人がイエスだと知り、「主だ」と言いました。ペトロは、「主だ」と聞くと、直ぐに主の近くに行きたくなり、漁をしている裸では主に失礼だと上着をまとって湖に飛び込みました。裸であることを主の前に恥ずかしいと思ったのは、創世記で人間が罪を知った時に裸であることを知って覆いを身につけたことと結びついています。「主」と聞いて、自分の罪を自覚させられたのです。
弟子たちが陸に上がると、主が食事の用意をしていました。イエスは、弟子たちに「今とった魚の何匹かを持ってきなさい」と言われ、主が用意されていた食事に弟子たちの働きによって得た魚も加えました。イエスが用意し与えてくださる食事、命の糧、食事の喜びの中に弟子たちの、私たちの働きも加えられるのです。イエスは「さあ、朝の食事をしなさい」と弟子たちをそこに呼びました。イエスが用意してくださった朝の食事によって、新しい一日の歩みをする命と力が与えられるのです。復活の主はそのように弟子たちを日々養って下さるのです。私たちの日々の糧に関心を持ち、心(こころ)配(くば)りしてくださるのです。
これからどうしたらよいのか分からないでいた弟子たちが、とりあえず食事のために漁をしよう、と漁に出たのかもしれません。迷いと不安の中で夜通し漁をしたが何もとれない、その失望と落胆の中にいた弟子たちに、復活のイエスの方から近づき、声をかけ、導き養ってくださったのです。この体験をした弟子たちはだれも、復活の主が共にいてくださることを知ったので、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしませんでした。