24年04月-24年10月

2024年4月28日

説教題:日々、恵みに満たされて

聖 書:詩編96編1~2節、ルカによる福音書14章1~14節

だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。…宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。
(ルカによる福音書14:11,13-14)

前回の主日4月21日の礼拝後に、私たち薬円台教会は2024年度定期教会総会を開き、主の御前にて今年度の主題と主題聖句をいただきました。主題は「日々新しく恵みに満たされて、福音を伝えよう」、その基となっている聖句が本日の旧約聖書の詩編96編1~2節です。

詩編96編1~2節をあらためてお読みします。「新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。」ここには、神さまをわたしたちの神さまとして仰ぐことのできる感謝と喜びが、いきいきと謳われています。また、神さまからの恵みに満たされた私たちが 日毎に信仰を養われて、「御救いの良い知らせ」・福音を世に宣べ伝える伝道の心意気が語られています。日毎に祈り、御言葉に親しみ、礼拝で兄弟姉妹が共に主を仰いで恵みに与って真実に正しく生きる力を与えられると、私たちは聖霊で満たされ、その恵みをまだ知らない方々に伝えたくなります。

私たちは、何をするにもイエス様をお手本にします。伝道をする時にも、もちろん、イエス様をお手本とし、イエス様が教えてくださる信仰の姿勢で福音を世に伝えてまいります。今日の新約聖書の御言葉を通して、イエス様は私たちにその信仰の姿勢を教えてくださっているのです。

2020年から、昨年2023年の5月に法的判断がくだされるまで、新型コロナ感染症によって私たちは集まること、そして教会に新しく近隣や知り合いの方々をお招きして伝道集会を開くことができませんでした。3年以上にわたる忍耐の時を経て、今年度は始めから、感染症が拡大する前の教会行事を再開し、伝道活動に再び勤しめるようになりました。

ただ、すべてがすっかり前と同じに戻ったのではありません ― 社会全体が、感染症拡大予防から他者との距離の取り方について、また情報の伝達方法について、学んだことがいくつもあります。オンラインで会議を行う方法は、これから先も活用され続けるでしょう。会議の時間を短くする傾向も、一般化されたとの感があります。

伝道活動の再開にあたっては、感染拡大予防の対策ばかりでなく、3年の間に起こった社会・世界の変化を考慮し、かつ配慮しなくてはなりません。この3年余の間に、社会・世界では何が起こったでしょう。パンデミックのさなかなのに、戦争が起こり、しかも長引いてしまっていることにこの世全体が心を痛めています。私たちが暮らすこの国のこととしては、社会が子育てにより深い関心を寄せ、保育施設や児童相談所が以前よりもクローズアップされているように思えます。SNSや動画配信などの便利な伝達手段が一般的になった反面、それによるいじめや風評被害の課題が報道されるようになりました。そのために、個人情報について、以前よりもずっと慎重な扱いが必要とされ、期待されていると感じています。

私たち教会に生きる者はイエス様の平和を伝えて、伝道活動を展開します。伝道活動は福音を伝える ― すなわち、情報伝達ですから、伝え方に慮りが必要です。個人情報について、また隣人との接し方について、私たちは細やかな配慮を求められます。感染症拡大よりも前の伝道のかたちに再び戻るのではなく、今の時代にふさわしく工夫された新しい伝道の形が必要とされています。

そこで、今年度の主題には「新しく」という言葉が入っているのです。

もちろん、「新しく」とは、教会で今この時に格別に求められている事柄ではありません。むしろ、「新しく」とは、教会の基本姿勢です。私たちは日毎に主に新しく呼ばれ、それに新たに応えて、日々新しく神さまとの関わりをいただきながら信仰の人生を送ります。その当たり前のようでいて、常にあらためて心に留めなければならない信仰の姿勢を、私たちは今日のイエス様の御言葉からいただいています。

少し前置きが長くなりましたが、本日の聖書箇所に、ご一緒に聴いてまいりましょう。今日のルカによる福音書14章1節からの聖書箇所は、イエス様が安息日に癒しの御業を行った恵みを語っています。

それは安息日の出来事で、場所はファリサイ派の議員の家の食卓の席でした。イエス様が安息日に病の人を癒される ― そこにファリサイ派の人々や律法の専門家が絡むという出来事を、皆さんと、前にもご一緒に礼拝で読んだことを記憶されているかと思います。

その時に癒されたのは、腰が曲がって十八年間も伸ばすことができなかった女性でした。ファリサイ派や律法学者たちは、イエス様が安息日に癒しを行った、作業をして働き、律法違反を犯したと批判しました。その批判を受けて、イエス様は神さまの御心を語られ、主の愛が私たちを御国へと、永遠の命へと導くと「神の国」のことを話されました。人の世にあって互いに睨み合い、批判し合い、足を引っ張り合うよりも、「同じ方向」を向いて心ひとつに進むことを勧めてくださったのです。「同じ方向」 ― それは、イエス様の御跡に従い、イエス様に従って、神の国に向かうことをさします。

今日の聖書箇所でも、イエス様は安息日の癒しのみわざから、神の国の恵みを語られました。繰り返しになりますが、イエス様はこの時、ファリサイ派の議員の家で、食事の宴席に招かれていました。

招待された人たちが、おそらく争うようにして上席に着こうとするのを イエス様はご覧になりました。その様子から、神の国に招かれた者の姿勢を 婚宴の席をたとえに用いて教えてくださったのです。それは、11節の真理を私たちに伝えてくださるためでした。11節をお読みします。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカによる福音書14:11)神の国への入り口は狭いから、身を低くし、へりくだって小さくなって入りなさい ― 前の前の主日、4月14日の礼拝でその御言葉をいただいたことを記憶にとどめておられる方がおいでだと思います。イエス様は、その教えをここでも繰り返してくださいました。

また、招待をした人に向けて、今日の聖書箇所の13節でこうおっしゃいました。13節をお読みします。「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。」イエス様は、私たちをご自身の御国に招いてくださる神さまとして、こうおっしゃられます。

神さまは、私たち皆を御国に招いてくださっていますが、その恵みには貧しい者、人間的な思いからすれば 体が思うように動かせなかったり、目が見えなかったりと 満ち足りているとは考えられない状態にある者たちを真っ先に招いてくださるのです。どうして、そのような、いわば人間的な価値観から言えば ― 言葉は良くないと思いますが ― 「弱い」立場の者を優先してくださるのでしょう。

その理由は、14節に記されています。こうイエス様はおっしゃるのです。「その人たちはお返しができない。」私たちは何かをもらうと、またはしてもらうと、感謝の思いをこめて「お返し」をします。その「お返し」は、相手の方との絆や友情を深めるでしょう。

ところが、時には、お返しをすることを義務のように思い、お返しをしないと借りを作ってしまうこと・相手の方に対して引け目を感じるようになることを恐れて無理をして「お返し」をすることがあります。

金銭的・精神的な余裕がないのに、何とか工面してお返しをすると、だんだん相手の方との関わりを負担に思うようになります。「お返し」は、場合によっては人と人を遠ざけてしまいます。必ずしも良いことではないのです。

神さまにあって、「お返し」はありません。与えたりもらったり、貸したり借りたりという関わりは、言ってみればギヴ・アンド・テイクの関係です。神さまは、その関係性を超越しておられます。ただ、ひたすら、ギヴ・アンド・ギヴ ― 与え尽くされるお方です。

イエス様は、私たちのために、神さまに何のお返しもできない私たちを「神の国」、永遠の命に招くために 人としてのすべてを与え尽くしてくださいました。私たちを救うために、十字架で命を捨ててくださったのです。私たちは、イエス様から そのように限りのない深い愛をいただいています。

私たちのお手本、人生の模範はイエス様です。イエス様がなさるように自分もしたいと願うことを、私たちはゆるされています。イエス様は私たちに、教会の兄弟姉妹と、またこの世での隣人と関わる時に、与え尽くす生き方を示してくださいます。教会生活でも、またこの世への伝道においても、相手の方のためになることだけを目的として生きるようにと、イエス様は私たちに教えてくださるのです。それが、私たちの信仰の姿勢です。

そのようにイエス様に従って進む私たちは、真実の恵みと幸福、平安と喜びに満ちた「神の国」へと導かれます。この2024年度、私たち薬円台教会は 喜びと希望を胸に、イエス様に従う志でひとつとされ、信仰の姿勢を保ちつつ、心を高く上げて進み行きましょう。



2024年4月21日

説教題:主の御翼に守られて

聖 書:詩編17編1~8節、ルカによる福音書13章31~35 節

「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」(ルカによる福音書13:34

今日 与えられている聖書箇所の最初の聖句は、イエス様が人々に神の国を伝えているところへ、ファリサイ派の人たちがやってきたことを語っています。皆さんがご存じのとおり、ファリサイ派の人々はイエス様を妬んで憎み、イエス様の人気が失墜するようにと、イエス様がお話をされているところに現れて何かと難癖をつけていました。ところが、今日の聖句では、少し違います。彼らは、イエス様の身に危険が迫っていると教えに来てくれたのでした。

ファリサイ派の人々は、イエス様に近寄ってこう言いました。31節後半の聖句です。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」この「ヘロデ」とは、イエス様がお生まれになった時に占星術の学者たちが訪ねて行った「ヘロデ大王」の息子です。このヘロデ、詳しくはヘロデ・アンティパスという名ですが、今日の聖書が語る時代には、ヘロデ大王の後を継いでユダヤのガリラヤとペレア地方の領地を治めていました。当時のユダヤはローマ帝国の植民地でしたから、領地を治めていたと言っても名ばかりの王、いわゆる傀儡政権の王でした。

父親のヘロデ大王と同じように、このヘロデもイエス様を殺そうとしました。すでに、イエス様に洗礼を授けた洗礼者ヨハネを殺しています。王である自分を、ヨハネが批判したからでした。同様に、王である自分を差し置いて人々を教えるイエス様を憎らしく思い、邪魔者と考えていたのでしょう。

ファリサイ派の人々は、このヘロデの企みをイエス様に知らせました。善意からというよりも、イエス様がガリラヤ地方・ペレア地方から出て行ってくれればそれでよいと思ったからかもしれません。

イエス様は、権力を振り回して悪だくみをするヘロデを「狐」と呼んで、ファリサイ派の人々にこうお答えになりました。今日の聖書箇所32節から35節です。まず、32節をお読みします。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。」この御言葉は、次のように言い換えることができます。「ヘロデよ、あなたは私を殺す計画など、立てる必要はない。私はやらなければならないこの世の使命を三日間でやりとげる。そして、どのみち、この世の命を終えるからだ。」

この御言葉を聞いて、イエス様が何のことをおっしゃっているのか、お判りでしょう。そうです、イエス様の使命とは十字架に架かって私たちを救い、三日後のご復活で永遠の命を約束してくださることです。次に語られるイエス様の御言葉を聴くと、それはさらにはっきりと分かります。

イエス様は、かつてこの世に神さまに背いていると警告して、そのために物わかりの悪い愚かで信仰のない人々に殺されてしまった預言者たちのように、この自分は命を終える、それもエルサレムで終えるとおっしゃっています。十字架に架かって私たち人間の救いのために命を捨てるイエス様のお覚悟は、繰り返し言われる次の言葉に響いています。32節「今日も明日も」。そして33節「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。」

イエス様が言われる「自分の道」、それは十字架への道です。34節で、イエス様はユダヤの人々のために天の父の御言葉を語られています。三位一体の主 その方が語られる御言葉として心に受けとめるとよいでしょう。

三位一体の主のことを、あらためてお伝えします。神さまは唯お一人の方なので、一つの体と書いて「一体」と読みます。「三位」は「三つの位」と書いて、父・子・聖霊をさします。位と申しましても、父・子・聖霊の間に順位があるわけではありません。唯一人のお方が私たちに顕われてくださる時に、父・子・聖霊の三つの位格としてご自身をお示しになることを、「三位」と言い表すのです。

父は創造主、天地を造られた天の神さまです。

子とは、創造主なる父の御子にして、私たちの救い主イエス様。

聖霊は、イエス様がご復活の後に私たちに遣わされ、目に見えないけれど、今、私たちの間で生きて働いてくださるイエス様です。聖霊によって、私たちは御言葉に感動し、神さまを讃美する信仰を与えられ、三位一体の主なる神さまに愛されていると深く知ることができます。

唯一・お一人の神さまがお持ちの父・子・聖霊の三つの位格は、互いに深く愛し合う力で堅く結ばれています。

私たちが祈りで、「天のお父さま」と呼びかければ「父」がくるりと私たちの方を向いてくださり、「イエス様」と呼べばイエス様が私たちに寄り添ってくださる、そして「聖霊の主」と祈る時には聖霊が私たちの心を信仰で熱く燃え立たせてくださいます。いずれの方も、わたしたちのただお一人の主です。

イエス様を私たちのもとへと、この世へと遣わしてくださったのは、創造主である父なる神さまです。

繰り返しになりますが、今日の聖書箇所の34節で、三位一体の一人の主イエス様は天の父の御言葉を語られています。旧約聖書の時代から預言者の警告を聞き入れず、天の父に背いてばかりのユダヤの民を神殿の都エルサレムと呼んで、天の父はこう嘆いたのです。34節を、お読みします。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。」

一番安心な居場所は、神さまの翼の下で守られることです。にわとりのお母さんが、猫や烏などの外敵に雛たちが狙われていることに気付くと、雛たちを呼び寄せる様子を思い浮かべましょう。まだよちよちとしか歩けないふわふわの雛たちは、自分で身を守る力も知恵もありません。猫や烏がどれほど恐ろしいか分からないので、母鳥がどれほど一生懸命にこっちへ来なさい、翼の陰に隠れなさいと呼んでも、遊びに夢中になっていたら母鳥のところに来ないかもしれません。その雛がどうなってしまうか、容易に想像がつきます。

愚かで可哀想なその雛が、神さまを信じることのできなかったユダヤの人々、そしてイエス様の福音を心に受けとめているのに信仰を持てずにいる私たち人間の姿です。

天の父なる神さまは、その愚かな私たちを見捨てることはありませんでした。確かに、今日の35節で、イエス様はこのようにおっしゃいました。お読みします。「見よ、お前たちの家は見捨てられる。」この言葉によって、私たちは神さまから見捨てられ、決して救われないと思ってしまいます。さらに続けて否定の言葉「決してわたしを見ることがない」 ― つまり、永遠の命をいただいて、神の国に入ることができないと記されているので、私たちはさらに、自分たちが神さまから見捨てられるとの不安を抱きます。

ただ、この「できない」という否定・打消しの言葉は「期間限定」です。イエス様は、希望の言葉を今日の聖書箇所の最後に与えてくださいました。その御言葉をお読みします。「言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない」。

エルサレムの人々が「主の名によって来られる方に、祝福があるように、ホサナ、ホサナ」とイエス様を大喜びで迎えたのはいつでしょう。受難週最初の日曜日・棕櫚の主日です。

イエス様は故郷ナザレの町のあるガリラヤ地方から、弟子たちと伝道の旅を「今日も明日も、次の日も」続け 人々に「教え、伝え」、人々を「癒し」てエルサレムへと、十字架へとひたすら進まれました。私たちを見捨てずに救う十字架の出来事が、はっきりと人々の目に見えるようになったのは、棕櫚の主日からです。

イエス様は、今日の御言葉でそのことを告げておられます。イエス様の十字架の出来事と、その救いのみわざによって私たちに永遠の命が約束されたご復活は、私たちが決して見捨てられずに主の御手の中に抱き続けられる恵みを示しています。

この礼拝の後に、私たちは定期教会総会を開きます。主の導きによって新しい力と決断をいただいて、薬円台教会は、いよいよ51年目へと進み出します。50年の間に、薬円台教会は恵みの時と試練の時を与えられました。

苦しい時もあったと思います。しかし、神さまは決して私たち薬円台教会をお見捨てになることはありませんでした。私たちは、特に薬円台教会で長く教会生活を送って来られた方々は、その恵みをご自身の信仰体験として熟知しています。

これからも、どんな時も、主が私たちと共においでくださることを信じる心をいただけるよう祈りを深めましょう。今日も、明日も、どんな時も変わることのないイエス様の愛を信じて、心ひとつに進み行きましょう。



2024年4月14日

説教題:狭い戸口から入る

聖 書:詩編107編1~9節、ルカによる福音書13章22~30 節

「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがた外に立って戸をたたき、『主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってるだけである。」
(ルカによる福音書13:24-25)


今日の聖書箇所を読んで、マタイによる福音書の「狭き門」の御言葉を思い起こされた方が多いと思います。次の聖句です。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ福音書7:13-14)

今日のルカによる福音書も、マタイによる福音書にあるように、命に至る真理の道・神さまと共に生きる恵みの道への入り口が「狭い」ことを、指摘しています。しかし、異なる点があります。

マタイによる福音書は真理と命の道・神さまと共に生きる恵みの門の他に、滅びに通じる門があると告げています。滅びに通じる門は広くてみつけやすく、道も広々として楽々と歩けるので、多くの人がそちらに行ってしまいます。正しい道と罪深い道を、イエス様は私たちに分かりやすく比べて語ってくださっています。

ところが、今日のルカによる福音書の御言葉では「狭い戸口」のことしか語られていません。私たちには神の国へ至る戸口が与えられているが、その入り口が「狭い」という点に、イエス様は集中して語っておられます。

今日の聖書箇所は、エルサレムに向かうイエス様にある人が質問をした、その質問から始まっています。その人はイエス様に、こう尋ねました。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」この質問を、言い換えると「イエス様、神の国の恵みに生きる人は少ないのでしょうか」という問いになりましょう。

前回の聖書箇所で、イエス様は「神の国」の話をされました。「神の国」は、死んだ者が行く天国のことではなく、今、神さまの恵みに満たされ、救われて喜んで生きていることそのものです。「神さま」と聞けば「律法を守らないといけない」と条件反射のように思い浮かべるようになっていたユダヤの民は「神さまの恵み」「救い」を、その時に、初めて、身近に感じることができたのではないでしょうか。イエス様に今日の質問をした者は、自分はその恵みに与れるのか…その思いから、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」とイエス様に尋ねずにはいられませんでした。

イエス様は、その問いには直接「多い」または「少ない」とはお答えになりませんでした。ただ、「狭い戸口から入るように努めなさい」と、信仰の心構えを示してくださいました。神の国の恵みを知るその入り口の戸口は確かにそこにあり、狭いけれど、信仰をいただき、姿勢を整えていただければ、必ず入ることができるとおっしゃってくださるのです。イエス様は、ルカによる福音書の前の方で、私たちにその心構え・信仰の姿勢・救いへの道を教えてくださいました。狭い戸口から入る姿勢、その入り方を教えてくださったのです。

ルカによる福音書9章です。お読みします「わたしについて来たい者、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」(ルカ福音書9:23b-24

狭い戸口からの入り方とは、自分を捨ててイエス様に従う従順な姿勢です。

皆さんは、日本の茶道とキリスト教の関わりについて耳にしたことがあるかと思います。茶道の作法が、聖餐式によく似ているのです。お茶室の入り口を見たことがおありでしょうか?「にじり口」と呼ばれるお茶室の入り口は、本当に小さく狭くて、身をかがめて這うようにしなければお茶室の中に入れません。

イエス様は、十字架に架かるために神殿の都エルサレムに入られた時、通常だったら人々を睥睨するために馬に乗って町に入られるところを、身を低くして小さなろばに乗られました。

自分は人よりも優れているという思いや、それ以前の、人と競い合って勝ちたいと思う気持ち、何が何でも自分が一番という自己中心的な思いを捨てなければ、身を低くすることはできません。

これは、私たち人間にとって、かなり難しいことです。私たちは自由な自我を持ち、その自我を他者にも認められたいと願う自己承認欲求を抱いています。子どもたちを見ているとよく分かりますが、私たちは競争するのがけっこう好きです。人と競い合おうとする思いの根底には、自己承認欲求があります。人よりも自分が優れていることを自分自身で確認して、今の自分で良いのだ、この自分には存在する価値・生きる価値があるのだと確かめなければ挫けてしまいそうな弱さが、競争心・闘争心の裏側に隠れています。

しかし、イエス様は、私たちが本来は、そんなにびくびくと自分を確かめながら生きなくても良いと教えてくださいます。人と比べて自分はどうか…など、本当は心配しなくて良いのです。私たちは一人一人、神さまに認められてこの世に生まれ、見守られ、承認されて生きているからです。神さまは私たちそれぞれを「この世にいなくてはいけない唯一の、かけがえのない一人」としてお造りくださいました。神さまは、私たちを愛してくださるからこそ、命を与え、肉体を与え、生命体としてこの世に生まれさせてくださったのです。

自分以外のすべての人に、全人類に「あんたなんか」とみくびられたとしても、見下されたとしても、つまはじきにされたとしても、私たちは一人一人、それぞれ、神さまに承認されています。この世の誰もが「あんたなんか、役に立たないからいなくてよい」と言ったとしても、神さまは必ず「わたしには、あなたが絶対に必要だ」とおっしゃってくださいます。

そのように神さまに承認されて、私たちは自分で他者からの承認を求めようとする渇望から解放されます。自我から、自分のエゴから、自由になるのです。もう自分はこの世にいても良いのかなどびくびくせず、強くなるのです。自分はこの自分で良いのかという不安や、自分と人を比べる優越感やその裏返しの劣等感から解放されて、のびのびとした心で、神さまの御前に立つようになります。神さまに慈しまれ、愛する我が子と呼ばれ、心の底からの安心をいただき、神さまの懐に抱かれて「神の国」、救われた恵みに生きてゆきます。

私たちはまた、神さまの御前では、この世で支配的な価値観からも自由になります。自分と人とを比べる時、私たちは能力の高さや財産の多さを物差しにしがちです。新しい人と出会った時に、神さまが与えてくださったその人との出会いを喜ぶ前に、その人の出身や学歴や職歴を根ほり葉ほり知ろうとする人がいるのは、その表れでしょう。人と会った途端に、その人の外見・ルックスによってその人を判断しようとするルッキズムという好ましくない言葉を、よく耳にします。どんな目鼻立ちやスタイルが、神さまの目からご覧になって「良い」のかは私たちにはわかりません。神さまは、それぞれに異なる姿と賜物を、その姿と賜物を愛してくださるからこそ 私たちそれぞれに与えてこの世に生まれさせてくださいました。

こうして、私たちを自我から、またこの世の価値観から解き放って自由にしてくださる神さまと、神さまの愛を信じ、愛されて造られた自分、愛されて造られた隣人を受け入れることから、イエス様との歩みは始まります。

この世の価値観を捨てること、自分勝手な思い込みを捨てることは、かなり難しいことです。だから、イエス様は神の国への戸口を「狭い」とおっしゃり、「言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」(ルカ福音書13:24)と、今日の御言葉で示してくださるのです。今日の御言葉はたいへん厳しく響きますが、イエス様は私たちがこの世の価値観を捨てきれない弱さをご存じで、敢えて指摘してくださっているのです。

私たちがこの真理に早く気づいて、早く真実の自由を知り、自分と他人を比べて一喜一憂する空しさから解き放ってくださるために、こうも語っておられます。今日の聖書箇所の25節です。お読みします。「家の主人(私たちの主、神さまのことです)が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。」

私たちは、神の子・神さまのもの、そして神の国に生きる者たちです。一瞬一瞬を、神さまに愛されている喜びと幸いに満たされて生きています。だから、イエス様と出会ったら、イエス様が自分のために十字架で命を捨てられ、永遠に共においでくださるために復活されたことを魂で知ったならば、一刻も早く信仰告白をして、洗礼を受け、神さまとの絆を教会で明らかにするのが良いのです。

私たちはイエス様から離れてしまうと、すぐにこの世の価値観に引きずられて主と共に生きる自由の恵みを忘れてしまいます。その私たちを導くために、イエス様は主の日・日曜日ごとに私たちをこうして教会に導いてくださいます。私たちに気付かせるために、御言葉を与え、祈りを教えてくださり、教会に集わない日にも聖霊を通して語りかけてくださいます。

そのイエス様の御声に従い、イエス様のあとについて、私たちはこの世の価値観を捨てる心構えをいただき、狭い戸口をくぐって、私たちはこの世にはない真実の自由、神の国に生きる喜びを知るようになります。神さまに愛されている ― その限りない幸いのうちに、今日から始まる一週間の一日一日を進み行きましょう。

2024年4月7日

説教題:世に、御国の愛と自由を

聖 書:申命記5章25~31節、ルカによる福音書13章10~20節

そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」
(ルカによる福音書13:18-19)

今日の主日礼拝から、受難節と復活日にいただいたヨハネによる福音書から、ルカによる福音書に戻ってまいりました。どのような状況が語られていたか、ルカによる福音書13章9節までの事柄を思い起こしてから、今日の御言葉に聴きましょう。

イエス様は天の父なる神さまの慈しみと、完全な正しさを人々に語り続けておられます。イエス様の人気はどんどん高まり、人々はイエス様を慕い、説教を聞こうと群がるようにイエス様の周りに集まるようになりました。そのイエス様を、ユダヤ社会の指導的立場にある律法学者たちや祭司、ファリサイ派の人々は妬んで、イエス様のお話の言葉尻を捕らえ、難癖をつけようとしていました。ある種の緊張感がある中で、今日の聖書箇所の出来事が起こったのです。

それは、安息日の出来事でした。安息日は神さまにささげる一日です。神さまが六日間で天地を創造され、七日目に休まれたことから 聖書の律法の掟が与えられました。神さまは愛の掟・律法を通して、私たち人間も週の六日間はこの世の役割や責任を果たし、七日目を安息日として何の働きもしないと定めました。安息日は、自分の生活を支える仕事や作業といったこの世の営みを手放して、神さまに自分の力と時間をささげる日です。「仕事が休みの日」というよりも、本来は神さまの日・主日だと考えると良いでしょう。今、私たちがこの主日礼拝でしているように、神さまと自分、神さまと私たち信仰共同体との堅い絆を、礼拝を通して再認識する日です。

今日の聖書箇所で、イエス様はその安息日にある会堂で礼拝説教をされていました。そこに、18年間も腰を伸ばすことのできなくなった女性がいました。イエス様は、その女性を呼び寄せてたちどころに曲がった腰を癒されました。

こうして今日の聖書箇所を読みますと、皆さんは「ああ、イエス様が癒しの奇跡をされたのだ」と気付くと思います。そして、その先です。イエス様が癒しのみわざを安息日に行ったことを会堂長が批判した14節を読んで、「ああ、またイエス様を嫌いな人たちがつまらない言いがかりをつけている」と感じられるのではないでしょうか。

そうなのです ― 今日、御言葉が語る出来事は福音書の中でたびたび繰り返されています。しかし、同じように繰り返されているのではありません。癒しのみわざをなさり、会堂長との安息日をめぐるやりとりをされた後で、イエス様は今日の聖書箇所では「神の国」について語られました。

18節の冒頭に「そこで」という言葉があることに、ご注目ください。私たちが使っている「新共同訳聖書」には、もともとの聖書にはない「小見出し」が付けられています。小見出しが役に立つ場合と、逆にない方が良かったのにと思える場合があります。

今日の聖書箇所は後者で、もしかすると、ない方が良かったと考えられているケースです。今日の18節と19節の間にある「からし種とパン種のたとえ」というゴシック文字の言葉が、その「小見出し」です。

ここに小見出しを入れてしまったために、腰の曲がった女性を癒したイエス様のみわざと、安息日についての論争という、いわば福音書を読み解く時の「ひとつのセット」と、19節から後のイエス様の神の国についての話が、二つの別々の話のように読めてしまいます。前の「セット」と後の神の国のお話は、実はひとつながりの事柄なのです。「神さまの愛と解放」というキーワードでつながっています。

イエス様は会堂で、腰の曲がった女性への癒しのみわざを通して「神さまの愛と解放」を人々の目の前で行いました。

また、ご自身が神さまとして行われたこのみわざの意味が、安息日に癒しのわざを行ったとイエス様を批判して律法違反を犯したと糾弾した会堂長と、会堂にいた人々にはっきりとわかるように、ご自身のみわざについて説明されました。

それが、16節のイエス様が語られた御言葉です。

お読みしますので、お聴きください。「この女はアブラハムの娘なのに(神さまの宝の民、神の子なのに、という意味です)、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」(ルカによる福音書13:16)

 この「安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」は、もとの聖書の言葉では、英語の文法で言う仮定法過去完了のようなものが用いられていて、このようにも訳せます。「今までこの女性がサタンに束縛されていた十八年間の安息日に、この女性が束縛から解かれていたらどれほど良かったことか。」

つまり、イエス様は、安息日は本来、束縛から解かれる日・真実に自由になれる日のはずであることを教えてくださったのです。

思えば、本来「休む」とはそういうことでありましょう ― 義務や重荷から解き放されて、楽に呼吸する・安らかにのびのびと息をするのが安息日です。それを、会堂長をはじめとするユダヤの指導的な立場にいる者たちは「休まなければいけない日」「何も作業をしてはいけない日」「何もしてはいけない日」、「悪いことをしてはならないが、良いこともしてはいけない日」と規則にして、この規則で人々を精神的に縛り付け、がんじがらめにしていたのです。人を癒し、助ける良い行いすらできない日とは、なんと不自由でむなしい日でしょう。安らかに息をするはずの安息日に、息を殺すようにして律法を守り、くつろぐどころか窮屈な思いをして過ごすことになります。

そのような安息日の過ごし方は、神さまの思いとは真逆です。イエス様は、今日の聖書箇所で、その事実・真実を指摘されました。「神さまの思い」「ご計画」「御心」とは、別の言葉で言い換えると、今日の聖書箇所でイエス様がたとえを用いて語られている「神の国」です。

「神の国」は、生命体としての肉体が終わりを迎えた時に、魂が行く場所 ― それを「天国」と言うことがありますが 、そのことではありません。

神さまは、抽象的・形而上学的な事柄ではなく、安息日を恵みとして受けとめる、そのように日常的な、いわば身近で小さなことの中から私たちに語りかけてくださっています。それが、御心・「神の国」です。イエス様が18節からの神の国のお話で、「神の国」を小さな小さなからし種にたとえておられるのは、身近で、私たちが見過ごしてしまいそうな日常的な事柄の中に「神の国」の恵みが潜んでいることを、私たちに伝えるためです。

安息日は、規則を守って息を殺してじっとしていなければならない日ではなく、心を神さまにゆだねて重荷から解放される魂の恵みの自由時間なのです。御心を御心として知り、恵みを恵みと気付いていただき、いきいきと喜ばしく生きるとき、私たちは「神の国」の恵みをいただき、その幸いを体験します。

それは、小さなからし種という神さまの恵みが人の心に蒔かれると、大きな木に育ち、そこに鳥が巣をかけて新しい命が開き、御心にかなう楽しく明るい賑わいを持つようなものだとイエス様はおっしゃいます。

私たちの肉体は、生命体としては限界のある存在です。しかし、御心によって、神さまに愛されて導かれていることを知って「神の国」、永遠の命に、豊かな喜びを抱いて生きることができると、イエス様は私たちに気付かせようとなさってくださっています。

イエス様を通して神さまの恵みに気付くとは、本当に自由に生きることです。それは私たち自身を縛ってしまうあらゆる偏見や、思い込み、こだわりからも自由になることをもさします。自分や仲間だけが良くて正しいのだという偏見や思い込みから、自分や仲間とは違う存在 ― 隣人 ― への偏見が生まれてしまいます。偏見や思い込みから自由に解き放されると、私たちは自分とは異なる隣人に肯定的な関心を寄せることができ、喜びと驚きをもって違いを受け入れ、親しくなれるのです。

神の国の恵みによる自由から、隣人愛は大きく育ちます。

イエス様のその導きを、今日の安息日に喜びと共に心に留めましょう。今日から始まる新しい一週間を、神の国に生かされている自由のうちに心明るく進み行きましょう。