【資料】山口文象著述・創宇社時代の3部作

建築家・山口文象 著作資料

創宇社建築会時代の3部作

ここにここに研究資料として掲載した3論文は、創宇社建築会リーダーとしての山口文象が1928年、29年、30年の「新建築思潮講演会」(上の画像の左下ポスター参照)での講演内容を、当時の建築関係の雑誌に掲載したものである。(伊達)

●復刻論文(その1)

新建築に於ける唯物史観

岡村 蚊象

住宅は人間を入れる器と考えられたのは,過ぎた以前のことであり,現代ではコルビュジェの言う如く住居は「人間の住む機械」である.

現代建築の理念的傾向は最近著しく,マテリアリスムスに進展し純粋なる目的論的判断を要求しつつある.過去の建築美学が教えた美的判断偏重の形式,感情,思想から解放され,吾々の全生活に於ける必要と,要求の満足を願い,そして凡ての与えられた課題を目的論的に解明しようとする.ここに現代合理主義建築思潮の契棲がひそんでいるのである.

過去の建築に於いてほ如何にすれば美しい建築が出来るかが問題であったが,新らしい建築では斯様な美のための美ほものの数でもない.只問題になるのは如何に簡単に,快適に,衛生的に,実用的,経済的に,要約すれば如何に合目的秩序的綜合を把握することが出来るかにある.即ち,前者が芸術的(ここでは普通謂われているのと同じ意味で)手工的特珠的個人的であるに対して後者は科学的,工業的,大量生産的,普遍的,社会的である.斯様に新しい建築思潮は従来の如く建築を建築すると云う丈けの狭い範囲から飛躍して,客観的視点より観察し,それの建築価値を解明しようとするのである.過去に於いて考えられた様に,建築が単に一つの住宅,一つの事務所,一つの工場のみを対象とすることではなく,吾々の科学的精神的要求の綜合的表現であると思惟する.

この建築理論は今日ヨーロッパを始め全世界に於ける新建築運動に関心を持つ建築家の共通する概念となり,今やその潮流は素晴らしい勢を得て,マンネリズムに低迷する過去の建築家に異常なる恐怖を抱かせつつある.現在ヨーロッパを中心として目醒ましい活躍を続けている最も著名な人々は

ドイツ:グロピウス,ヒルベルザイメル,デォェッカー,ペォェルチヒ,ベーレンス,タウト兄弟,メンデルゾーン,

フランス:ベレ兄弟,ル・コルビュジェ並びにピェレ・ジャンネレ,ルユルサ,ドェスブルヒ,

オランダ:オウト,デュドック,

ベルギー:ヴァレデヴェルテ,ブルジョア,

ロシヤ:タトリン,フェスニン,リシツキー

日本:分離派建築会,創宇社建築会,インターナショナル建築会,

等であろう.殊にグロピウスはザクセンのデサウにバウハウスを創設し,新興造形美術界の巨匠を集めて彼特有の建築観に従って多くの俸大な業績を挙げつつあり,バウハウスに於ける組織を通して見て彼の建築観に私はいくばくの疑を持つものであるが,ペォェルチヒはシュトクットガルトジートルソクに若返り,オウトはロッテルダムに,デュドックはヒルベルシュームに共に公共建築に従事し価値ある共同住宅,学校建築をものし,フェスニンはモスコー労働会館の設計で有名である.

超現代的と評せられた,あの素晴らしい都市計画を発表して以来その目醒ましい活躍振を示しているル・コルビュジェはジュネーブ国際聯盟会館競技設計に1等当選し,また,彼の特徴ある三つの著書

Vers une Architecture

L'Urbanisme

L'Art Decratif l'aujourd'hui

で最もよく知られている.

彼は前にも述べた如く住宅を人間の住機であるとし,建築は生理学的,衛生学的,経済学的,心理学的の純粋科学的研究の生的表現であると謂う.そうして,現代科学の所産である自動車,飛行鶴を讃美し,建築も斯の如くなけれはならないと主張する.しかし彼はこの他にまだ重要な問題が残されていると考え,そしてそれを精神的方面に求め,「建築は最も高度の意味に於ける芸術であって,その真の目的,数学的秩序,冥想,凡ての関係と比例によるところの〈完全なる調和〉に外ならぬ」(岸田氏訳)と謂う.即ちこれに依れは彼は合目的主義的建築に芸術性(普通に謂われるのとほ異った意味の)を認め,合目的構築のみでは完全なものではないとし,新しい建築は秩序的,綜合的の全的存在であると考える.

そして前にも述べた如く,建築が只外面的,可視的及び趣味の問題ではなく内面的意味の表現である以上,たとえ作家の個性,民族的特性によって多様に区別されるにしても,根底に共通する概念の表われに何等かの意味に於いて可視的統一がなけれはならない,即ち様式の国際化がなければならないと主張する.これはグロピウスがBauhaus Bucherに於いて,又最近出版されたヒルベルザイメルのInternational neue Baukunstに見ることが出来る.ここにヒルベルザイメルの言葉を引用すれば

「新建築の原理と仮定とは最も異った性質のものである.材料と構造はその建築本来の手段である.その時々の正当な要求は建築の目的性それに制作技術と経営の処理,家政学的,社会学的素固に重大なる影響を賦与する.建築家の創造意志が凡てを支配し,個々の要素の関係の比例を決定する.この比較から建築の形成された単純を型造るのである.この形成処置の方法が新建築価値を定めるのである.

建築は外面的装飾に於いて形成するのではなく,凡ての要素の内面的満足の表現である.この美学的要素はもはや特殊なる部分の強調ではなく,総体として凡ての要素を同様に排列するのである.この総体の連続ではじめて建築価値と意義とを持つことが出来る.一つの要素の昇格は常に結果への妨害である.ここで新建築は凡てのハルモニーとエレメントの平衡に達する.これはしかし外面的,形式的ではなく各々の課程に対してである.それは形式に基礎を置くのではなく,ある形式意志の統一のもとに於ける凡てのエレメントの相互満足の表現である.

新建築に於いては従って形式の問題はなく,只構築の問題がある.そこでこの国際的新建築の可視的形態の驚くべき符合がまた明瞭になる.新建築は多くの受納された当世風の形態事件ではなく,新らしい建築見解の表現である.

全く作家の個性と地方又は国民の特性によって多様に区別されて居るとは云え,総体に於いて,同様の仮定の結果である.ここに新建築の可視的形態の統一があり,凡ての境介を越えた建築の内面的同盟がある」と.

しかし乍ら彼等の謂う様式の国際化が時代と民族的特性との交叉点に立って如何に発展するであろうかは甚だ興味ある問題である.

彼等のこの建築理論によって実施されたものは今日まで数多くあるが,就中最近完成されたシュトゥットガルトのヴェルクブント博覧会に於けるジートルンクが最も著名であり,彼等の新建築理論を具体的に知るよい資料であると思う.この建築群の個々の建築は現代ヨーロッパに於ける新建築運動に重きをなす左記の

ベーター・べ-レンス ヴィクトル・ブルジョア

ル・コルビュジュとピェレ・ジァソネレ リヒアルト・デォェッカー

ヨセフ・フランク ワルター・グロピウス

ルドウィヒ・ヒルベルザイメル ミース・ヴァン・デア・ローエ

J・J・P・オウト ハンス・ペォ ェルチヒ

アドルフ・ラーデインク ハンス・シャローン

アドルフ・G・シュネック マルト・スタム

ブルノ・タウト マックス・タウト

の人々によって分担されたのであった.彼等は彼等の全力をこれに傾倒し,現代科学の能う総てのものを使役し尽したかの如く極めてそのメカニックは精巧であり,形態は驚くべき単純である.コルビュジェの建築をたとえてプレンソーダだと云った仲田氏の言葉がその撞これ等の建築にも当て躾めることが出来る.

この住宅は最早従来のランドハウスの概念では到底理解することは出来ないであろう.屋根は三角形を捨ててフラットとし,地上の庭園を屋上にまで拡張させ,窓は構造の許す限り大きく,平面は彼等の云う如くどの部分よりも重大視され最善の注意が払らわれている,構造体はフレームシステムを多く採用し,壁は荷重を軽減するために多孔質煉瓦を使用する.この構造の中で最も注目すべきはデォェッカーのヂクザク式板製の床版及壁体,グロピウスの鉄骨フレームと壁体の結成法等が特殊な構造法である.又家具は,不必要な要素を除去した,面と線の明快な表現であり,材料そのものの持つ性質に近代的生命を賦与している.

この彼等の科学的努力の成果こそはまことに新建築の現代に於ける的確な地位と普遍性を吾々に認識させ,来たるべき時代へ出発せんとする現代建築への唯一つの重要な羅針盤であると謂っても決して過言ではあるまい.

物体ほ刻々にその形を変化しつつある.最密に云えは形を持っていない.形は不動であって,実在は活動であるから,実際にあるものは形の連続的変化である.「形とは移動するものの早取写真館である.」とベルグソンが云う如く,現代の新建築も刻々にその本体が変化しつつある.

事実現在架構材としての鉄骨と,それの被覆としての鉄筋コンクリートは,最早科学的研究の余地を持たない程異常な発達を遂げ,建築に於てもあらゆる部門の科学的可能の究極に迄到達してしまっているかに見える.従してプランも形態もその他凡てのエレメントは,これ等のものの科学的発達或は新発見のない限り今日の新建築は現在の状態から一歩も進展することが出来ないであろう.

そうして,まったく吾々の建築に構造学的革命は望まれないものであろうか.しかし私は信じている.必らず近き将来にこれの素晴らしい科学的発見があるに違いないと.

そしてその時こそ,吾々が今日想像だもし得なかった不可思議な建築がこの地上に誕生するであろうと.

こうして建築は益々科学的に進歩し,いよいよ目的論建築に傾きつつ発展するに違いない.何故なればこの唯物史観的思潮は一つの社会形態に於ける発生期に必らず起る現象であることは吾々祖先の歴史に激しても明瞭である.

現代はその発生期にある.

(昭和3年8月11日)(「アトリエ1929年9月号掲載)

復刻論文その2

合理主義反省の要望

岡村 蚊象

今晩私が此処で浅学非才を以ちまして,皆様の前にお話することは洵に恐縮に堪えない次第でありますし,又それと同時に此上ない光栄と存じます.私が今此処でお話することになって居ります「合理主義反省の要望」の本論に這入ります前に,ちょっとお斬りして置かなけれはならないことがありますので,先ずそれから申述べて這入って行きたいと思います.

私が此講演会でお話しようと思いましたことは,其問題は丁度此「合理主義反省の要望」が三度目になって居ります.先ず一番初には「新建築に於ける自然弁証法的考察」,其次には,定めし皆様御存知になって居ることと思いますが,又御手許にある刷物にも書いてありますように,「新建築に於ける轢械的唯物論批判」であります.

此三つの持って居る内容は,一見表額だけ見ますと,全然別な問題を取扱って居るように見受けられますが,実際は系統的に見まして,是等は洵に有機的に必然的な繋がりを有って居るのであります.ですから其繋がりを極く簡単に説明申上げまして,それから後に本論に這入って行くことも,強ち骨折損の草臥儲けはかりではないと思うのであります. 私は最初に「新建築に於ける自然弁証法的考察」に於きまして,新建築の本質的意義,それを自然科学的方面と,社会科学的方面との弁証法的理解に依って,それを掴もうとしたのでありました.

云わずもがなの譲を免れませんが,此処に云います自然科学的と云うのは建築の科学的方面の謂いであって,社会科学とほマルキシズムの云うそれであります.

現代の建築論に見受けます科学性の認識は、余り自然科学的唯物論に頼り過ぎて居る傾を否定出来ませんが,此方向は明かに建築の超社会性を肯定させる危険を予想させるのに十分であるのであります.

エンゲルスがフォイェルバッハ論の中で,『フォイェルバッハの単なる自然科学的唯物論は確かに「人間の知識は建物の基礎ではあるが,建物其ものではない」と云って居るのは全く正当である』と書いて居りますように,建築に於きましても又科学的範疇のみの偏重は,其一面を知り得たとしましても,其全面的に総体的に之を把捉し得ないのは事実であります.

此結果は消極的に云えば、唯現代の建築を明日の建築への待望を唯一面だけしか認識し得ないのに止りますが,積極的には建築の超社会性を肯定することになりますし,一面に歴史的発展の航路を塞ぐことになるのであろうと思います.又延いて観念論と握手し,空想的に,ローマソテイズムに逆転してしまうと云うことにもなります.

では如何なる方法論的言抜に依りまして,此問題を解決すべきでありましょうか.私は此与えられました課題を前申上げました「新建築に於ける自然弁証法的考察」に於きまして取扱って見たいと思うのであります.

尤も、此自然科学と社会科学との弁証法的考察は,エンゲルスの「自然と弁証法」(1)、此事は独逸本のマルクス,エンゲルス集の11巻に載って居ります.此本から多くヒントを与えられたことをお断りして置かなければならないのであります.

で第二は「新建築に於ける機械的唯物論批判」、此中では前の命題を哲学することに依りまして基礎付けられました一定の基準に従って,今日まで発表されました有名なと云っては語弊がありますが,著名な新建築理論を,如何に其新建築理論の多くが機械論的唯物論に堕落して終って居るかと云うことを指摘しようとしたのであります.

今此処でほ其箇々に付て其引例をして御説明申上げる煩鋳を避けたいと思います.詰り今日の新建築理論家及び其実践家の多くは,生物学者ファーブルが侵しました誤謬,即ち人間の社会現象を生物学的にアナロギーに理解しようと致しました.其ように,建築を機械学的アナロギーに於て認識しようとする危険を意識的或は無意識的に侵しつつある.其事業を挙げまして再び其誤謬を敢て繰返さないようにと云う警告をしたいと借越ながら存じたのであります.

以上で大体第一番目の態度,第二番目の内容,私の意図を御諒解下すったと思いますが,第三は即ち此処に掲げました「合理主義反省の要望」、是は前の二つの問題の謂わは結論にも相当します.又それらを実践にまで引下げて考えて見たことになるのであります.

で第一の「自然弁証法的考察」に於きましてほ,社会科学と自然科学との弁証法的考察に依りまして,其基礎中第二の「機械論的唯物論批判」に於きましては,第一に依って与えられました一定の基準に従って,二三の建築理論を批評し,そうして真正なる意味に於て建築への途ほどう云う途を選ぶべきかと云うことを示すのにありました.

では現在我々の建築制作に於ける態度はどうなくてはならないか,でそれは斯くあるべし,是が第三の「合理主義反省の要望」であります.斯う云うように是等の三つの命題は完全に有機的に繋がりを有って居りますので,前申上げましたように第三の問題だけを切離して取扱うと云うことは,全体的理解を妨げるはかりでなく,多くの誤解を招く結果になりますので,順序から云えは当然第一の問題から始めなけれはならないのであります. 併し前者は、其取扱う問題の性質上甚だ煩雑になりますのを避けることが出来ないのと,デリケートの部分は斯うした講演会に於きまして皆様の聴覚に訴えるよりも,活字に致しました方が,より正確に私の意図を訴えることが出来ると思いまして,前の二つの問額は他日を期して発表することにして,今回ほ是等の問題の当然帰結しなけれはならない実践的な方法論的考察にのみ触れて行くことにしたいと思います.予めお許しを得て置きたいと思います.

そこで今日まで提唱されて来ました,そうして今も新しい建築理論は多く余りに機械論的に建築自体を導き入れようとするのに急でありまして,其結果は其建築の社会性を没却してしまった.片手落を招来いたしました.是は歴史的に観察いたしましても,明かでありますように、建築もまた其下部構造である経済組織と密接な関係に於て打建てられた社会表象の一つであることは勿論でありますから,この関わりを考えることなしに直ちに其結果である上部構造に飛躍すると云うことは,丁度レールなしに走る機関車のように甚だ危険であります.

そうして初は純粋に客観的な立場から自然科学的に又唯物論的に出発したにも拘らず,不可避的な観念論に陥没してしまいまして,結局建築の実体的を掴むことが出来なくなってしまうのであります.それはかりではなく観念論には付物のローマソテイズムに転落してしまいまして,我々に最も重要なレアルの問題を飛超えて、そうして超現実主義の甘い泉の中に惑溺してしまうことになるのであります.

尤も、是等に属する作品の多くは,実際如何にも工学的,自然科学的に抜け目なく実践されて居るかのように見えます.併し我々は其科学的らしい,合理的主義らしい其ものに瞞着されてしまうことはいけないのであります.瞞着されることは非常に危険でありま

す.

で私達は先ず是等の作品を,新しい建築作品を理解する,それを肯定する前に先ず社会科学的見地から,一応は之を調べて見る必要があると思うのであります.是は其作品を先ず斯う云う見地から調べて見たいと思うのであります.

先ず第一に、其作品の題目であります.是は其作家が属して居る階級に依って或はイデイオロキーの差異に依って来ることは明白であります.兎に角作品がプロレタリアートの為であるか,又ブルジョアジーの為であるか,此問題を見極めることに依って其作家の依存して居る社会的意識を知ることになります.知るのが必要である.

そうして又第二に、社会科学的に見て、其建築の存在ほ事実必然性を認め得るかどうか,言換れば、共建築の存在性が作家の認識不足の社会観に依って導出されたものであるか,又正当な理解に依って居るのであるかであります.

それから第三は、現実性の問題であります.で如何に第一,第二の点に於きまして価値ある作品でありましても、現実の社会から来るべき社会への必然的の歴史的発展の法則を正確に認識して居たかどうか,言換れば、其科学的認識不足の為に,空想社会主義の侵した誤謬を繰返して居やしないか.

それから第四は、其作品の可能性,Moeglich keitであります.是は最も実際的な問題でありまして,建築費や経営方法其他多く経済的,政治的方面からの考察に及びまして,是等の観念から,現代に於て其建築作品が,事実可能性があるかどうかを検討するのであります.

以上申上げました四つの条件に依りまして,今立に提出しました作品を詳細に批判して見たいと思いますが,其前に御諒解を得て置きたいのは,私が今触れて行こうとする作品ほEntwurfの場合に限られていると云うことであります.或は展覧会の出品とか雑誌へ発表するものだとか,詰り純粋にその作家のアイデヤを妥協することをしないで表現し得る作品に付てであります.

又此批判を現在建てられて居る建築に付てするのが本当でありますが,それは此問題の後に触れて行きたいと思いますから此処に申しません.是は若し其建築家が正当なイデイオロキーを有って居るとしましても,現代の資本主義社会に於きましては,矛盾なしには絶対に作り得ない状態にあります.実際的に建築する場合には,イデイオロギーの問題を方法論的に解明しようとして居る,此処では其前に依る計画だけ,詰り作品だけに依る方が便宜である,そう考えまして故に此問題だけを取扱って見たいと思うのであります.

で斯う云いますと,或る人は之に疑問を起して斯う云うかも知れません。「それこそ君は前に云って自ら警告した観念論に逆戻りして居るのではないか.何故と云うのに現在我々が実践して居る最もリアルな問題を逃出して,謂わは建築家の主観に依ってどうにでも出来る,より非現実的のものに考察しようと云うのは取も直さず観念論への一歩後退を意味するのではないか」と.

併し、私が茲に触れて行くのは建築のイデイオロギーと,其作品の社会性を科学的に意味付けようとする方法論でありますから,両者の内より建築家の意識を明確に表現し得るものに依ることの方が宜いと思いまして,それに触れませんのであります.大変前置が長くなりましたが,愈々是から本題に移ることに致します.

先ず、今故に批判しようとする作品の条件を決めて掛らなけれはなりませんが,第一に此作品種目は労働者のアパートメソトを取扱って見たいと思います.で此アパートメントに収容する人員は例えば1万人と仮定します.そうして建物の総面積は22万坪位で,建築費は大体4百万円程度,で其建築地は東京から7、80哩の地点にある理想的な平原,共処から東京へ来るには,現在の交通機関では丁度3時間位の見当であります.

斯う云う地点に此大アパートメソトを計画することに致します.そうして此作品を工学的に理解し得る程度の設計図とそうして模型が与えられたと致します.今申上げました条件に依って私は此作品を批判することになったのであります.

此作品は非常にプランが按配良く,そうして衛生的で,エフィシェンシーが良く且つ経済的で,要するに自然科学的見地からは又洵に合理的な計画であって,此点に一つの不足の余地も認めないと云うことに致しまして,そうして此自然科学的方面は一応茲に保留しまして,そうして先ず論を先きに進めて行きたいと思います.

で此作品名に依って明かであるように,此建築は労働者の為に愉快な家を供給したい,現在の彼等の住居は余り悲惨である,で社会的見地から云っても一つの政策から云いましても,彼等により人間的な生活を保証すべき良い家を与えたい,斯う云う作家の意図を故に此表題に依って幾らかは感ぜられることが出来ると思います.此感じ方は正しいのであります.

併し、此建築は現在の資本主義社会に於て、現実性を有ち得るかどうか分らない問題であります.何故かと云うにブルジョアジーの特性は彼等の生産関係に於きまして,ますますその交換価値と利潤を高め,労働者からさく取による余剰価値を増大せしめるに汲々たるものにあるので、労働者の為にのみ斯う云う巨費を投ずることは,先ず現代の状勢からは考えられないのであります.

それに万一其実現が予想されると致しましても,もっと工場の附近に敷地を選定するでしょうし,毎日の通勤に要する時間,そうして其費用等を考えて見ましても,現在の交通機関とそうして彼等の生活の程度では,到底不可能なんであります.併し其他の点の問題から行きまして…此理想的の平原で労働者を遊ばして,生活を保証しようと云うような篤志家が出て来れば問題は又別なことになって来ます.

又一方都市の問題から考察いたしましても,人口の移動は現在の経済及び社会組織にくっ付いて居る一つの現象でありまして,此社会機構の変革のない限り漸う云うような非有機的な人口の移殖に実際に於て、其成功を疑われなければならないのであります.

世界で最も人口の桐密なベルギーに於きましても、都市労働者の大きな大団体を廉い交通機関を利用させて,そうして地方に生活させようと致しましたが,彼等は総ての場合に其都市生活を捨て去ることを喜ばない傾向がありました.それで此計画が失敗した実例があるのであります.況んや現在の日本に於て乎であります.

多くの場合工場が予め与えられて,そうしてそれから人口が其周囲に集り,そうして社会的の構造,共同体の組織がそこに形造られるのでありまして,労働者が先ず居て,それから工場が出来るのではないのであります.

以上観察して釆ました所に依って考えて見ますと,此建築の社会的存在理由は洵に薄弱であります.此作品は凡てそこに現実性も,そうして可能性も共に認めることは出来ません.従って此作品の社会的価値はゼロであります.そうすると如何に其の建築が工学的に価値があるものでありましても,それは真正の本当の意味に於けるリアリズムに立脚したものではないのであります.リアリズムの上に立脚した作品と云うことほ出来ないのであります.即ち此場合は機械論的唯物論のカテゴリーに属するものでありまして,弁証法的唯物論とは自ら其範疇を異にして居るものと考えなけれはならないのであります.

それに作家の誤謬を尚お指摘すれば,此作家が作品を現実の問題として考えなかったと云うことに原因して居るのであります.言換れば社会科学的に十分な分析的研究が不足して居た為に、自然と現実から遊離しまして私達の最も警しむべきローマンティズムの方向へと堕落して行ったと云い得ると思います.要するに是等の結果は、其作家の社会意識の欠如と社会的認識を曝露して居る所の証明の外何ものもないのであります.

そこで当然,では如何なる思考法に依って此計画が現在妥当性を要求し得るのであるかと云う問題が提出されることになります.私は前と同様に一つの例に依りまして,其お答を進めて行きたいと思います.

前に労働者に関係いたしましたから,又今度も労働者に関係いたしまして,労働者の結核患者達の為にサナトリュームを考えて見ます.此時第一に重要なことは,此サナトリュームを先ず社会学的に意味付けると云うことが最も必要なことと思います.今日の社会とそうして労働者の生活状態を最も現実的に観察いたしまして,事実其実現が可能性ありやどうかを一番初に考えて見ます.そうしてそれに現代社会の一つの著しい特徴である都市問題にもタッチしなけれはならないのであります.それで初めて実際的なものを決定して行かなければなりません.

先ずサナトリュームの建てられる場所であります.是は便宜上東京市内と仮定いたしまして,そこで現在の市の人口の何割が労働者であるか,そうして多く彼等の最も多く集って居る区域はどの辺であるかと云うことを調査して,そうして其分散状態を先ず初に知ります.之に依りまして交通機関其他の諸条件から考察し,そうして其労働者に最も有利な地点を建築する地点に仮定します.それから此建物の建築費や経営方法,それから其経営費の捻出の問題を考えて見なけれはなりませんが,現在幾つかの労働組合があります.そうして其労働組合の内の一つがサナトリュームを経営するか,全体の組合が聯合して此サナトリュームを経営することにするかと云うことを又故に仮定いたします.

私は之を共同経営に依ることに致しまして,現在此組合には幾千人の労働者を有って居るか,労働者がどの位此組合に属して居るか,そうして1箇月に各組合員から10銭乃至20銭の健康費を徴収いたしますとすれば,1月には例えば1万円にそれが達すると致しますと,そうすると3箇年此100銭或は20銭の健康費の徴収を続けて行ったと致しますと,3年間に366万円,そうして之に利子を加算いたしまして、例えば40万円近くを3年間に蓄積することが出来ると云うことが確められます.

そうすると其内建築費は30万円,土地買収に5万円を要するとすれは,余りの5万円をサナトリュームの将来の維持費に充当いたします.そうして統計に依りまして、与えられたる人口に対する結核患者数の割合を先ず知ります.そうして大体の入院患者数を推定いたしまして,そうして土地の面積と建築費の聯関的考査に依り,又それに医員其他の従業員の数を患者数から導出して釆まして,そうして此建築のプランを決定する条件に致します.

そうして将来の維持費は,従業員の生活費と薬代其他の雑費を計上いたしまして、そうして前に維持費として余して置きました5万円の金利だけでは不足である場合には,其不足の分だけを患者から,入院して居る患者から,勿論家族になりますが,徴収することになると云うような方針を樹てるのであります.滋で初めて此サナトリュームの設計を具体的に進めて差支えないと云うことになるのであります.

斯の如くにして初めて其サナトリュームの内の広間の大きさが限定され病室の面積,医貞,看護婦,事務員の部屋の広さが実際的に考えられます.唯漫然と部屋の大きさ,広間の大きさ,看護婦室の大きさを決めるのでなしに,一つの実際的仮定に依って,其プランの大きさと云うものは決定して行きます.又勿論浴室も食堂も漸う云うような現実性を有って居る仮定に依って与えられて行きます.

漸うやって決められたプランには、少しも空想的な建築家の主観的戯はありません.総ては現実的に,現実に即してそこに生命ある建築として私達に働き掛けて来るのであります.

此処で人は斯う云う疑問を常に致します。「現在の労働者の生活状態から考察して,彼等に仮令10銭でもそれを彼等に負担せしめ得ないと云うことは明白なことである,事実ではないか.又若し仮令月々に10銭なり20銭なりの徴収に労働者が堪え行くとしても,其金を以てもっと有意義に活用したらば宜いではないか.今日プロレタリアートの急迫して居る問題は、何より先きに政治的権力を獲得することにあるんではないか」と斯う云います.

併し私達は此処で静に考えて見なけれはなりません.成る程今日のプロレタリアートは淘に微力でありますけれども,一日一日と段々と政治的勢力を増大して行くと云うことほ,是は私達の眼の前に見る事実であります.又そうなることは必然的の事実であります.此事実は今日の社会の必然的歴史的発展の通行を明確に示すのであります.示して居ると思うのであります.

だから今日の今の社会と云う現在に足を踏締めて,現実に即して,其事実を的確に掴む.そこから明日のそれを覗き見る.窺って見ると云うことは,決して現実を遊離して居ると云うことほ云えないのであります.

で又今の政治的に活用したらどうかと云う其答に致しましても,前とそれは同じことを云えば之にお答することが出来ると思います.此場合に於ける仮定,一つの建築家の「仮定」はあ単なる空想的の仮定でほありません.矢張り現実の状態を十分に見極めることに依ってのみ達することが出来る仮定なんであります.問題は其仮定が現代社会の科学的分析に依って居るのかどうかと云うことに変って来ると云うことは茲に言葉を要しません,説明するまでもありません.

で以上は建築家のスタディの立場に付て考えて見ましたが,次に現代資本主義社会に於きまして実際問題として建築を取扱う場合に,私達建築家は如何なる態度を採るべきであるかと云う極めてむずかしい問題に到達するのであります.

で、も一つは以前申上げましたように、社会科学的見地から今非常に問題になって居りますコルビュンエの都市計画を研究いたしまして,彼の作品が厳密な意味に於てレアリズムであり得るかどうか,唯物史観の側に立って見る時に,あの都市計画が無条件で「明日の社会」を私達に約束するものとして肯定することが出来るか,前に申上げました「仮定」を彼はどう取扱って居るか,空想へ一歩踏入れて居やしないか,結局は科学的なものに姿を籍りたローマンテイズムそのものではないか,と色々な方面からコルビュジェの都市計画に疑問を提出いたしまして,一応レアリズムの関係から批判をして見る積りでありましたが,残念なことに大分時間が経過して居りますので,是等二つの問題は又他日機会を得て発表したいと思って居るのであります.

大分長く私ほ申述べたようでありますが,要するに建築は工学的範疇に入らるべきものでほあるが、併し機械的アナロギーの認識は甚だ危険である,是は機械論的唯物論への転化を意味するものである.そうして建築家が此方面を辿る時にほ,自然に空想的或は科学的ローマソテイズムに転落する.建築家は自然科学的社会科学的の弁証法的考察上に於て建築を実践しなければならない.

詰り現在云われて居りますような意味の合理主義にばかり信頼して居ることは,知らず識らずの内にマテリアリストであると自らを信じて居る所の建築家をも観念論に転落させる危険を学んで居ると云うのであります.

私達は此素朴的な現在云われて居る唯素朴的な合理主義を揚棄いたしまして,もっと社会学的に研究をして,そうして其問題の克服に依って本当のレアリズムを的確に掴むと云うことが必要であります.故に『合理主義の反省を要望』する次第であります.

大変長くなりましたが,私の話は之で終と致します.

(第1回新建築思潮講演会1929年10月4日)(『国際建築』1929年11月号掲載)

復刻論文その3

新興建築家の実践とは

(合理主義反省の要望のつづき)

岡村 蚊象

只今は新居さんから私がヨーロッパへ行ってからの仕事に就いてのお話が出ましたがまことに恐縮しました.果してそれ程期待せられるだけの立派な研究が出来るかどうかと云うことは甚だ疑問でありますが,兎に角私の力の続く限りガン張ってみるつもりです.

私が此度欧羅巴に行くに付きまして,今晩のような盛んな講演会を開いて戴けたと云うことは淘に私としては光栄の至りであります.それで斯う云う機会を得て,実は私の今迄思って屠りました考えと,是から研究すべき問題に付て,はっきりと今晩お話をしようと思って居りました所が,不幸にして9月の初旬頃から健康を少し害しまして,材料の蒐集とその考えとをはっきり纏めるということが出来兼ねましたので、甚だ残念でありますが,細かい所は抜きにして大体の骨子だけに付てお話したいと思います.甚だ不十分ですけれどもどうぞ悪しからずお宥し願いたいと思います.

昨年の第1回の新建築思潮講演会で私は合理主義反省の要望という問題に付て,私達建築家が制作に対する態度は機械的合理主義ではいけない.しっかりした社会科学的な認識の下に立って建築を実現すべきである.認識不足な唯物論に立つことは,建築を実践する上に於て飛んでもない間違いを起す.それで漸う云う機械的な合理主義の上に立つことは,我々建築家の実践を我々の生活から遊離せしめて,観念的な甘い夢の国に追いやってしまうと云うような危険をそれ自身の内に含んでいるので,警戒しなけれはならない.建築家はどうすれは宜いものであるかという様なことでした.そして此問題に就て二三の例を引いてお話致しましたが,最後に最も重大な課題として保留して置いた問題があります。

それは皆さんも御記憶のことだろうと思いますが,現代の資本主義社会に於て,我々が建築を実践するには実際どうしたら宜いかと云うような問題でありました.其処で今晩は其時に保留した問題に就いてお話したいと思います.其前に二三の問題を採り上げて,これを検討し,次に今の問題に入って行きたいと思います.

私達が色々な機会に雑誌とか新聞とか色々な方面で読まれる所の所謂合理主義と云うものはどう云うものでしょうか.彼等合理主義者達は言って居ります,現代は石や煉瓦の時代は最早去って,鉄筋混凝土や鉄骨の時代である.従ってゴシックやルネサンスの時代ではない.此後者の明確な力学的の表現こそ現代に最も相応しい型態である.之に依って

早く廉く正しい建築が得られるのだと云うようなことを言って居りますが,是は淘に正しい事で2に2を加えれば4であるように余りに明確な問題であります.それは新興建築へ入門するイロハであると思います.

而してまた私も之に対して決して反対の意見を有っては居りません.併し唯斯う云う一面的事象をのみしか見得ない素朴的合理主義を私は絶対に排斥するのであります.現代の資本主義社会に於て斯かる合理主義者達が言うように,無装飾で且つ簡単にして廉く早く要するに最も経済的な建築が盛んに建てられるようになったとすると,其帰納的な結果はどうなるか.是は非常に判かり切った問題です.

それは必然的に資本家の企業的な建物が現代に於て大部分を占められるようになり,また現在なりつつある状勢下にあっては,従って漸ういう資本家の企業的に建てる建築に参与する建築家は資本家の利潤の増大の為に重大な役割を演じて居ることになるだろうと思います.

併しそれは合理的建築にのみ言えるのではなく,三井銀行とか三越とか三菱銀行等の様に1本の柱に何万円程も掛ける建築に付ても言えることでありますけれども,又此二つの対立した建築の生産過程ほ根本的に非常に大きな特異性を有っているのであります.所謂産業合理化を唯単に合理主義的の建築が積極的に,後者は所謂消極的に実行するという差異だけではなく,もっと根本的の特異性を其中に認めることが出来ると思いますが今ここではその比較や,歴史的様式主義のよって来る現象に就いては触れません.

判り易く一つの例を挙げて申上げますと,ここに挙げる例は合理主義的建築が益々盛んに行われる其結果として現われる現象に就てでありますが、装飾の沢山付けられてある建築には,天井の蛇腹を曳いたり梁の繰形を曳いたり,色々の石膏をつけたりする左官とか石畳とかペンキ星とか,建築の末梢的な部分だけに熟練した職工を必要とします.

所が合理主義の建築では、一切そう云う余剰性的なものは排斥してしまいます.詰り必然的に漸う云うような熟練した職工が段々淘汰されて行くことになります.此事は大工にも石畳にも、要するに建築の生産に参加する各種のそう云う職工に付て普遍して云えることになるのですけれども,そう云うことがはっきり言えると思います.

斯う云う個々の手工業的の現代の生産諸力は強大な集団的大産業に進展し,益々建築の物質的生産力が科学的に発展するに従って,其の交換関係と云うものにも重大な影響を及ばして来ることは自明です.

併し、是は資本主義社会の必然的現象であることは、言う迄もありませんけれども,漸う云う風に我々が無意識的に合理主義を発展させて行くと,云いかえれば所謂産業の合理化と同じような建築の合理化を行ったとすれば,それに依る必然的な現象として失業者の汎濫,労働賃金の低下,あるいは建築技術者及労働者の生活及経済的の不安,そう云うような問題が起って参ります.

此問題に付てマルクスは,其資本論の第1巻で,資本主義蓄積の一般法則と云う章の中で斯う言って居ります.「是等総ての場合に於て労働者の数は彼等に依って加工される生産手段の量に比して相対的に低下する.資本の益々多くの部分が生産手段に変えられ益々小さい部分が労働力に変えられる.集中の範囲並びに生産手段の技術的作用と共に生産手段が労働者の就労手段たるの度合は益々減少する」

それからまた,「かくして蓄積の進行に連れて,一方ではより大なる可変資本がより多くの労働者を傭い入れることなしに,より多くの労働を流用し他方では同一量の可変資本が同一量の労働力を以て,より多くの労働を流用し,最後に高級なる労働力を駆逐することに依ってより多くの低級なる労働力を流用する.従って相対的過剰人口の生産即ち労働者の遊離はそうでなくてさえ蓄積の進展につれて速度を早める.生産過程の技術的変革並びにそれに対応する不変資本に対する可変資本部分の比例的減少よりも造かに急速に進行する.生産手段は其範囲と作用力とが増加するに従い,労働者の就労手段たるの程度も減じて行くが,此関係自身は,更に労働の生産力が増加するにつれて,資本が労働者に対する需要よりも労働の供給の方を一層急速に増進されると云う事実の為に変化を受ける」斯う云う事も言って居ります.

漸う云う合理主義的な建築を、益々我々が宣伝して一つの強大な勢力を社会的に獲得したとしても、それによって引起される帰納的な重大な現象を如何に克服すべきなのでしょうか.

此事に付てはレーニンも言って居ります.「過剰人口は疑もなく資本主義的蓄積の一つの矛盾,一つの必然的な結果を為すものであるが,同時に又資本主義的機制の欠くべからざる構成部分である.」「労働人口は自己自らの中で資本の蓄積を行うと共に,絶えず増大する規模に於て自己自らを相対的に過剰ならしめる手段をつくり出す.是は資本家的生産様式に固有なる人口法則である.」と言って居ります.

私達は斯う云うような重大な問題に付て,単に機械的な合理主義を遵奉したら宜いかどうなのでしょうか.斯う言うと合理主義を否定する立場に立つと云うように誤解されると困りますが,併し私は決して合理主義を否定するのではない.新興建築ほ言う迄もなく合理主義の上に立って行かなくちゃならぬし又事実は立って居るのですけれども決して機械的合理主義建築を立てなけれはいけないと考えたり,建築だけを社会現象から切離して其問題だけに付て考えたりすると云うことは非常に危険だと思う.凡ゆる社会関係との聯閑に付て見て,此合理主義をはっきりと認識しなければ是が本当の合理主義と言うことは言えないと思います.

故に単純でスマートで廉く経済的な建築が沢山出来上がったとしても,是がどれだけ社会的に意義を有って居るか.経済的な点に於てスマートな簡単な建築が沢山出来上がったからと言って,それがどう云う社会的意義を有って居るだろうか.是は我々の表面的な形式感情だけに付て一つの問題を解決するだけで,もっと根本的な我々の社会的生活,もっと突込んで言えばプロレタリアの生活に付て,それがどう云う意義を有って居るか,斯う云う問題が提出されるだろうと思います.

而して此機械的合理主義建築が跳梁して段々それが猛烈になったとすると,それは先刻も言ったように,資本主義的蓄積の増大を意味し又階級闘争が益々尖鋭化する所の一つの大きな動因になると思います.

しかしこう云うことを云う人があるかも知れません.合理主義的な建築が沢山出来て,産業合理化的の一つの効果を得,其結果失業者を汎濫させ,階級闘争の尖鋭化を促進せしめ.而してその結果として益々矛盾が甚しくなれば故に大きな○○が惹起するのだ.其事を意識して消極的な合理主義的建築を提唱するのであると.

しかしそう云う目的があれは別ですけれども,そう云う意見は事実に於て肯定し得るかどうかと云うことほ今此処で問題にしないことにします.又問題にならない程馬鹿馬鹿しいことでほないかと思います.

兎に角そう云うような合理主義的建築の跳梁は結果として社会的重大問題が故に起って来ると思います.凡ゆる社会関係との聯関性において合理主義を把捉しなけれは,無意識的にもせよ,資本家の所謂走狗となり,反動的な役割を勤めることとなってしまうでしょう.

こういうことでは決して私達には本当の建築が与えられて居るのではない.形態的な問題,或る形式感情の問題には一つの解決が与えられるかも知れませんけれども,併し本当の意味に於ける建築と云うものは我々には決して与えられないと云うことが断言出来ると思います.

新興建築家ほその実践に際して,建築が建築として花咲く,その枝を,幹を,そして最後に根を,そしてこれ等の諸関係を弁証法的にしっかり認識した時に,其時初めて新興建築家としての役割を其処で完全に果すことが出来ると思います.

其次に盛んに最近欧羅巴で実施されて居る近代建築の華々しい覇業として我々に伝えられるシートルンクの事に付て今言ったような観点から一寸考えて見たいと思います.

現代我々の間に此シートルンクに付て熱心に研究せられて居る方が多いと思いますが,現代は要するに我々大衆の時代であって,決して特権階級の為の時代でほないと云うことは今茲に新しく言う迄もありません.

従って建築の問題も住問題が中心となって,建築家の仕事として之を第一義的に考えられるようになって釆ました.現代の建築の住居問題が斯の如く重要視されたことは、恐らく過去の時代を通じて殆どなかったと思います.勿論人間の社会生活に参与するものの中で,最も重要なものの一つとして,相当の関心を持たれたことはあったに違いありませんが,それは飽く迄特殊な個人的事情の下に於て考えられたに過ぎないので国民或ほ民族と云うようなものの一般の之に対する要求が,其時代を或る一つ一つの特徴に染めつけると云う様な大きな社会現象とまではならなかったと思います.そう云う事は事実なかったと思うのであります.

希臘は神殿であり,中世に於ては寺院,文芸復興期に於ては宮殿が最も華やかな建築家の仕事とされ 我国の建築史も所謂寺院の建築史であります.唯一つ住宅の中で茶室建築が遺されて居りますが,是も其時代の特権階級の問に発達した一般大衆に全然関係が無い特殊のものであったに過ぎません.此歴史的の現象を唯物史観の立場から観察することは甚だ面白いと思います.

要するに、此時代の生産関係に依る所の社会組織に於て、此建築家の対象は必然的に神殿であったり宮殿であったり寺院であったり茶室であったりする外にはなかったのだろうと思います.

で漸う云う時代では、住宅の問題は第二義的にしか建築家に考えられません.併し現代は前に述べましたように大衆の時代で,大衆の為の住居問題,是は必然的に現代建築家に提出された重大な課題でなければならないと思います.

其処で私達は此問題を冷静に考えて見ようと思いますが,先程も言いましたように,欧羅巴に於て猛烈な勢で実施され,是が今インターナショナルの主張として素晴らしい発展の過程にありますが,此ジートルンクの社会的存在の意義と云うものは、果してどうなんでしょうか.

今日独逸の政治的権力は御承知のようにゾチアルデモクラットの手に振られて,総ての社会施設其他は言う迄もなく、この社会民主主義老等に依って行われて居る状態であります.其処で、我々が雑誌其他で知って居るジートルソクの盛んなる建築が、このゾチアルデモクラットの支配下にあってどう云う役割を演じ又どう云う意義を有って居るかと云うことを吟味して見なけれはなりません.

先程述べたように,現代ほ大衆の時代であります.大衆の為の住居問題を離れて我々建築家の実践は考えられないのですけれども,大衆の住居それの最も適切な住形式としてのジートルンクの建設と云うことが、我々建築家の重要なる課題であると.そう云うような解釈ほ或る程度迄正しいと私は思うのであります.

併しコンミュニズムの立場から考えますと、これを無条件で受入れると云うことは出来ない.全然反対の立場にあるゾチアルデモクラットの支配下にあっては、其社会施設なるものは如何なる政治的の役割を有し効果を挙げつつあるかは,ここに贅言を要するまでもなく明確であると思います.

現代独逸に於ける有名なる建築家達の多くは此仕事に参加して沢山の優秀なる作品を出して居ります.で彼等の仕事と独逸の今日の社会的情勢とを考え合せて見て,著名なる

建築家が意識的にもせよ,無意識的にもせよ,如何に反動的な役割を演じつつあるかと云うことが是亦はっきりとした問題だと私には考えられます。

是は第2回国際新建築会議に於ける2,3の人達の講演に付て見ても尚はっきり判かると思いますが,此大衆の集団的生活形式としてのジードルング其のものに決して私は反対して居る訳ではありませんが,現代の欧羅巴の趨勢に押されてそうしてジードルングの盛大なるのにびっくりし,建築家の任務ほ是以外にないと素朴的に思い込んでしまうと云うことは非常に危険だと亭うのです.

私達は唯上っつらの現象に眩惑されずに,其奥の根をはっきりと認識することが必要なのではないでしェうか。言い換えれば、現在我々が如何なる社会状勢の下に立って居るかをはっきり認識して,而して凡ゆるその帰納的な現象を客観的に批判すべきであります. 前に述べたような機械的合理主義も,又今の欧羅巴の著名な建築家達の実践も我々が求める本当の実践的の方法でないと言うならは,我々は一体どうすれは宜いのだ.現代の建築家は如何なる実践的方向を辿るべきか.

それは一言に言えば、要するに正当な意味に於けるプロレタリアートの解放運動に参加し,そうして建築家としての任務を果す.此事以外には私達には本当の意味に於て建築を実践するより他に道ほないと思います.

現代では、自然科学の諸部門に於てすでに之に参加し,それを以て階級闘争を強大な勢力に迄之を高めて行きつつあります.建築も亦当然、此自然科学の諸部門が現在果しつつあるのと同様に、プロレタリヤ解放の階級闘争の一つのパートを分担して行かなけれはならないと思うのであります.

而して、既に生物学老も医学老も其他2,3の部門の人達も皆之に参加し、無産運動に相当の実績を挙げて居ります.例えば医者は労働者の就労時間,健康,栄養と云うような問題を取上げて,其科学的な研究に依って其結果を発表し之を前衛線に送り,又内部的にほプロレタリアートの意識の高化に、外部的には之を武器として役立たしめる等ですが,是は単り医者ばかりでなく、生物学者も亦そう云う風に進んで居りますし,それから数学の問題に付ても,是は実践方法としてでほありませんが,最近盛んに数学の階級性の問題に付ても論ぜられるようになりました.

建築も亦同様に、此プロレタリアート解放の運動と並行して,それから又科学の諸部門の科学者との密接な握手に依って,此階級解放の運動を容易ならしめる為に我々は参加しなければならないと思うのであります.

このことに就いて例をあげて見ますと,この例は一寸当を得ていないかも知れませんが,現在借家人同盟と云うものがありますが,住居問題にしても唯其借家人同盟の人々が直感に依って、科学的でない漠然とした貧弱な根処に依って、家賃が高いとか廉いとか,此家は衛生的であるとか非衛生的であるとか云って居るに過ぎないと思います.是ではそう云う運動にしっかりとした科学的な根処を与えられるべき筈はなかろうと思います.

例えばそう云う方面に付て、建築家が此住居の問題を取上げて科学的に研究し、事実は斯うだと云うことを,即ち色々な交渉に有力な材料を其人達に提供します。これは縁の下の力持の役割をするに過ぎないのですが,そう云う所に私共の勤めがあるのだろうと思います.

又、労働者の住居問題にしましても,今家賃が非常に高いとか廉いとかと言って居りますが,現在大島町に実際1軒1日2銭と云う家賃の家があります.それを労働者は大変廉いと言って居ります.併し其労働者が云う様に1日2銭の家賃が本当に廉いのかどうか分りません.甚だ漠然と唯廉いと思って居るだけです。根本的に経済的に科学的に建築家がそれを専門的に調べて見て実際廉いかどうか.其建築費と建てられた日より今日迄の金利とかを考えて,事実2銭が廉いか或ほもっと廉くなって1銭にしなければならないことになるかも知れません.

そうすると漠然と2銭が廉いと云うので安心して労働者は住んで居りますと資本家から二重の搾取をされていることに気がっきません.建築家は自らの立場からこう云う問題を取り揚げ研究してこれを階級闘争の武器にまで転化させるのです.

是ほほんの一つの例に過ぎませんが,まだ此外にも建築家が実践をしなけれはならぬ問題は沢山あると思います.兎に角例は此位にして置きますが,斯う云うような現実的な曝露から出発して,次第に之を以てプロレタリアートの前衛戦を守護する砲弾的役割を果すように之を発展させて行くのであります.

今迄述べた事の外に、建築をもっと純粋科学的な立場に於て研究しなければならないこと勿論でありますが,そう云う科学的な部門も矢張り、結局は今言ったように階級闘争の武器に転化させなけれはなりません.これを離れて我々建築家の仕事は有り得ないと云うことが言いたいのであります.

最後に、私が今度の第8回の創宇社の展覧会に出品いたしました紡織工場の女工寄宿舎の提案でありますが,此問題は重要問題で詳述すると大分長くなりますが,此処では一寸これに触れて置くことに止めます.

此提案は、現在無産運動に重要な位置を有って居る或る人の意見に依りまして、現在の寄宿舎の建築的施設を調査し、それがどの位悪いか,女工の生活状態と云うものがどの位悪いか.而して一方それを医学老の立場から栄養や健康やに及ばす影響についての研究が発表されている様ですが,建築家として今問題とされて居る此点に付て調査したのです.今の寄宿舎と云うものは、非常に酷どい寄宿舎であります.殆ど問題にならないと思います.毎日悪い空気の充満して居る工場で働いて疲労して帰って来る女工の寄宿舎は非常に非衛生的な所なので,どんどん伝染病とか色々な病気の生ずるのは必然であります.それを調査しどう云う寄宿舎ならば適当であるかと云うことを研究して,その一つの解決案として,此寄宿舎の提案が出来た訳であります.

でまたこれがある争議に使われる様になるかも知れませんが、併し是は厳密にコンミュニズムの立場から行くと,是は併しまだあやふやな所があり、社会民主主義的な臭味がまだ沢山あるのですが,併し兎に角我々が進もうとする一つの方向は何処であるか,それをこの提案によって,いくらかでも暗示することが出来れはと思ったからです.勿論この提案はまだまだ不完全ですけれどもそう云う所に意図があったと云うに過ぎません.

そこでその意図は大体分ったとして、あの様な作品が現在の展覧会の形式に於て発表されて,それがどれだけのまた,どんな方面へ,どんな方面へどの位の反響を起し,また如何なる効果を揚げ得ることが出来るか.と云う問題に必然的に這入って来ますが,それはまた展覧会の形式の問題ですし,ヂャーナリズムを如何に応用するかの問題で,云い換えれは之を発表する形式を如何にすべきかの問題になります.

けれどもそう云う問題は我々が今どう云う事をしなけれはならぬか,そう云う点がはっきり判かってからこの様な枝葉の問題は必然的に決定されるものであろうと考えます.

要する、に第一番に今当面の問題として我々に決定されなけれはならないのは,事実如何なる方法論を獲得し,またそれを如何にして強力な実践にまで高めなけれはならないか.と云う問題だと思います.

これを思いまして甚だしい不等をも省みずここに私見を述べた次第です.此問題に付てはまだ精算されるべき沢山の点があると存じます.

私ほ皆様の忌悸ないお叱正を受け皆様と共に一日も早くがっちりしたプロレタリア建築理論を完成し,そして実践して行きたい希望でいっばいです.

私の講演「新興建築家の実践とほ」を終ります.

〔追記〕現在の状勢下にあって,建築労働者を主体とする強力な集団的組織の要望が漸く著るしくなりつつあり必然的にこれに就いての関心なくして新興建築は考えられない.私の講演中これに触れるべき筈であったが,時間の制約のために割愛した.いずれまた発表する機会を得て公にしたい心組である.

(第2回新建築思潮講演会1930年10月3日)(『国際建築』1930年12月号掲載)

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