松岡駒吉と山口文象が青雲荘に込めたメッセージ

「コンドルと惟一館/山口文象と青雲荘」と題する展覧会が開かれている。会場は友愛労働歴史館(東京都港区芝2-20-12)、会期は2014年3月10日から8月30日まで。

コンドルとは、日本の明治政府がイギリスから招へいした建築家で、19世紀末から日本に洋風建築をもたらし、日本人建築家をそだてた人である。山口文象とは、コンドルよりも2世代ほど後の建築家で、20世紀前半のモダンな近代建築で一世を風靡した人である。

この二人の建築家の作品、イギリス人の設計した19世紀末の和風建築「惟一館」の隣に、日本人が設計したモダン建築「青雲荘アパートメント・友愛病院」が、並んで建ったのが1936年のことだった。

そして、このことについてわたしに講演を依頼されたのである。依頼主は展覧会主催の友愛労働歴史館と労使関係研究協会であり、聴衆は労働組合関係者を主とする。

その講演題名は「松岡駒吉、山口文象が青雲荘に込めたメッセージ」であり、労働組合団体関係者にこの青雲荘と友愛病院の建築的意義を話せとの求めである。都市建築関係者や学生院生たちを相手に講演は何度もしてきたが、労働組合関係者相手とは珍しい体験である。

聞く方も、労働運動などについての講演は聞くことはあっても、こういうテーマは珍しいことであるらしい。こちらにとっても、なにか新しい情報が得られるかもしれないと、楽しみである。

ということで、2014年5月27日の午後の2時間を、有意義に過ごしてきた。なんと47名もの聴講者がいらして、会場が満員になった。その世界のことはよく知らないが、参加者リストにはUAゼンセン、JP労組、CSAなどの団体名が書いてある。山口文象創設のRIAから数名参加している。

建築や都市関係者相手の講演会と違って、ドイツでの左翼活動とか、労働者への医療、あるいは東京駅の容積移転などについての質問や意見があって、こちらが勉強になった。

勉強になったと言えば、この講演のために、松岡駒吉という戦前から戦後にかけて日本の労働運動の強力な指導者について、にわか勉強をして、これは面白かった。学歴がないところは山口文象に似ているかもしれないが、社会への出方は大きな違いがある。

話の基本的なことは、既にこの「まちもり通信」に、コンドルの和風建築と山口文象のモダン建築の出会い」と題して書いているが、講演だからいろいろと派生する話題にも広げるし、ほとんど憶測になることもどんどん話したのであった。

ここに掲げたのは、講演会当日に会場で配布した資料である。

(付記20140616 この講演会に来られたUAゼンセン会長の逢見直人さんから、1949年に元惟一館の焼け跡に建った総同盟会館・全繊会館が山口文象の設計であることを、「全繊同盟史」記載されていることを教えていただいた。山口文象作品の新発見である。)

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1.日本の労働組合最初の病院と賃貸共同住宅のモダン建築

「青雲荘アパートメント・友愛病院」

いま、ガラス張り高層現代建築の「友愛会館・三田会館」が建っているこの場所(東京都港区芝2-20-12)は、120年前にアメリカからやってきたキリスト教の活動拠点が建ち、日本での社会主義と労働運動が発祥した地である。

その建物は、キリスト教ユニテリアン協会の「惟一館」といい、その建築設計者は、日本の近代建築の父のジョサイア・コンドルであった。

この惟一館を拠点に活動した鈴木文治は、1912年にここで労働者の福利共済のために「友愛会」を結成して労働運動をはじめ、やがて労働運動団体「総同盟」となる。鈴木の後は松岡駒吉が指導者となり、幾多の変遷があって現代の「連合」となる。総同盟は1931年(昭和6年)に惟一館を買い取って「日本労働会館」として、労働組合運動の活動拠点とした。

そして1935年(昭和11年)、その隣に勤労者向け賃貸共同住宅と病院の入った白亜のモダン建築を建設した。日本の労働組合として初めての事業である。その建築設計者は、そのころ最先端モダンデザインで売り出し中の新進建築家の山口文象であった。英国人建築家による明治期の和洋折衷デザインの作品と、日本人建築家による昭和初期洋風モダンデザインの作品が並んで、それは特異な風景であった。労働運動のリーダーの松岡駒吉は、なぜこのモダンデザイン建築を採用したのだろうか。新進建築家の山口文象は、この作品でなにを表現したかったのだろうか。

1945年5月25日、太平洋戦争による連合軍の空爆によって炎上し、この風景は消えた。その前の3月10日東京大空襲など何回もの空爆で、東京で10万人以上が死んだ。総同盟はすでに1940年に政府の弾圧で消えていたが、8月15日に戦争が終わって、この青雲荘アパートメント燃え残り残骸の中から再起する。

2.青雲荘アパートメント・友愛病院に関する新聞雑誌書籍に載った記事

(1)総同盟理事長 松岡駒吉は青雲荘・友愛病院に何を企図していたか

(1935年の新聞記事)

四年越しの念願叶ひ総同盟が家主さん うらぶれた組合旗も軈て エプロンに蘇る?

財団法人日本労働会館理事長といふよりは総同盟の松岡さんで通る松岡駒吉氏の四年越しの努力が報いられて、同会館が経営主でモダンなアパートが建設され、下級サラリーマンや熟練労働者に快適な住居を提供しようといふ計画が、いよいよ実現する。

労働組合がアパートの家主さんになるのは、おそらく日本で初めてであらう。

松岡氏が労働会館を基礎として「働く者」のアパートを建設しやうとプランを建てたのは昭和七年で、初めは予算十万円で会館傍に一つ、新宿、大崎方面に二つ、合計三つのアパートを建てる計画で、同会の理事会、評議員会で発表したが万助異議なく可決された。

さっそく東京府を経て大蔵省に低利資金の借入方を申請したがなかなかお役人が取り合ってくれず、それから毎年申請をし続けて来たが通らず、やっと昨年末になって十万円は貸せぬが四万五千円位なら何とかするといふ返事なので、早速アパートを一つに減らし芝区三田四国町二の六の労働会館側百二十坪の敷地に建築することに決め、府から内務省社会局を経て大蔵省に書類を提出、この程内務省でも認可を与へたので今月末には借入手続一切が完了することになり、松岡氏も元気づき近頃は毎日慣れぬ手つきでアパートの設計図を書いてゐる。

それによると五十位の部屋を持つ鉄筋コンクリート三階建てのアパート一棟と、木骨コンクリート二階建ての診療所一棟、合計二百七十坪といふ相当なもので、部屋の設備なども近代化し、真面目な熟練労働者や下級俸給生活者をメンバーに獲得、組合員でなくてはなどといふ規定は設けず誰でも歓迎しカップルでも結構といふ砕けた家主振り。

敷地が同財団の所有地であるから地代は不要、付近には大工場、官営が多く交通も便利だから部屋はいつも満員といふ皮算用で一ヶ月六百円の部屋代をあげ、一ヶ年に四千円位の純益を得て十年後には同財団のものになるので、同財団の財源となる一方、労働者の宿舎も出来るといふなかなか遠大な理想を持つ大家さんである。

松岡さんは設計図を前にしながら、

『都市に住む労働者の住宅費はその生活費の二割を占め、その生活難を脅かしている。

私は専ら熟練労働者のため快適で安易なアパート住宅を建てたいと思って、四年越しうるさいほど当局に願ひでたんですが、今度愈々借入が認可されて愈々建築に着手することの出来るのは何とも喜ばしい。』

と言っているが、設計が出来あがり次第早速工事に取掛かり今年中には出来あがるといふ。

赤い組合旗が翻る下、瀟洒なアパートなど「働く人々」の朗らかなプロフィルが現れるのは一寸微笑ましい風景である。(松岡駒吉所蔵スクラップブックの1935年・昭和10年の記事、新聞名と発行月日不詳)

(2)建築家 山口文象の青雲荘・友愛病院建築に関する解説

(雑誌「国際建築」1936年7月号掲載記事)

アパート第一作 診療所を持つアパート 山口蚊象

この建物は、建築主日本労働総同盟の経営方針に従ひ、一階の部分を診療所並びに病室に充ててゐることが、他のアパートと違ふ点である。それが為め、出入口、廊下等で単一の場合よりは少し面積が不経済になったが、それでも有効面積は全体の73.8パーセントまで押詰めることができた。これは三階部分の非常階段の位置と取扱ひ方が幾分でも援けになってゐるのかもしれない。

はじめ洋間を全室の半分ほどにしたが、いろいろの事情から五部屋だけとし大部分を日本間にしたため、間仕切りは全て真壁漆喰塗りで従って室の構えも普通の日本間である。一本の廊下を挟んで両側に貸室が連なってゐるため喚起が充分でないのを予想して、各入口扉一方に上框から下框までの細長い開閉自由なガラリを装置し、またキチンの廊下側壁にも喚起口を開けて、大きなドラフトの代用をする長廊下へ吸い込ませる様にしたが、結果は非常に良好であった。

各室外部の開口は寒さに備へて二重にし、内側は紙障子、外部はガラス障子を嵌め込んだ。この硝子障子は巾一尺二寸、高五尺で外開き、金物はホイトコを使った。謂わば回転ランマを竪に並べたようなものだと想ってもらえば間違いない。それを建物の端から端まで細長い開口に所謂仕切竪枠のウルサイ影がさえぎらずに済むから、建物自体の面をプレーンなものにするエフェクトが得られると思ふ。

電車通りのファサードに部屋からの窓がないのは、この面があいにく真っ向から西陽を受けるのと、街路の騒音を防がなければならないところからの理由であり、三つの硝子のない開口のところは丁度非常階段である。そうしてこの上のⅤ字型の屋根は、この部分が吹抜きで雨がかかるため可及的低くしたいのと、屋上からの降り口はまたそれだけの高さを必要とするところから生じた“形”である。

この工事の設計が始められて二三回プランについての意見の交換を行ったのみで、工事の完成までいろいろとご不満の点があったろうにも不拘ず半句も之れに触れず、信頼してお任せ下さった理事長松岡駒吉氏に対して心から感謝しなければならない。

(3)建築評論家 佐々木宏の青雲荘・友愛病院に関する論考

(「建築家山口文象 人と作品」RIA編1982 相模書房より抜粋引用)

山口文象による国際建築の推進 佐々木宏

これ(引用注:日本歯科医科専門学校病院)に続く山口の一連の作品の中で,インターナショナル・スタイルの系譜の中につらなるものは、番町集合住宅,青雲荘アパート,山田邸,

黒部川第二発電所などであろう。これらの中でとくに傑出したデザインを示しているのは山田邸と黒部川第二発電所であり、完成後に発表された当時から高い評価を与えられてきたものである。(中略) 青雲荘アパート(芝園アパート)は山口文象の一連の作品の中で特別な意義をもつものである。それは建築主が財団法人労働会館となっており、いうなれば全日本労働総同盟の依頼によるものだったからである。

山口が早くから社会主義運動に関係してきたことは広く知られている。しかし、それにもかかわらず、低所得者層や労働者のための施設を建設する機会にはあまり恵まれていない。このアパートはその中で、当時発表されて広く知られた事例なのである。一般に建築家は権力と富に奉仕する職業であったことから考えると、社会主義革命でも起らないかぎり左翼思想の建築家は理念の実現はおぼつかないのである。

労働組合の建築をいくつか設計して、しかも新しいデザインによって注目されたハンネス・マイヤーやマックス・タウトは、これまで例外のように見られてきている。山口が日本においてこのような機会を得たことは、歴史的なことといえよう。

この建築は1階が友愛病院にあてられ、2階と3階は労働者向けのアパートであった。妻側は開口部の少ない壁面構成で、他は連続窓をもったごく明快なインターナショナル・スタイルである。建築の性格上からであろうか、まったくけれん味のないデザインでまとめられているのが、かえって印象に残るほどである。

このようにみてくると、山口文象は1930年代の日本におけるインターナショナル・スタイルの建築をいかに精力的に推進してきたかが判明する。しかも,他の建築家の作品と比べて遜色がないばかりでなく、国際的にみても,高い水準に達していた。とくに日本歯科医専と山田邸と黒部川第二発電所の3件は、当時すでにイタリアの『カサベラ』誌などにおいても掲載紹介されて、高い評価が与えられていたことは重要なことである。この点は、あらためて再認識し、再評価しなくてはならない問題であろう。

3.惟一館から三田会館へ、この場所に、この120年間に、次々に登場した7つの建築

1852年 J・コンドルがイギリスのロンドンで生まれた

1887年 J・コンドルが横浜に来着、政府工部省工作局に着任、工部大学校造家学科教師兼工省営繕課顧問となり、日本に洋風建築を普及し建築家を育てる

1887年 福澤諭吉らの招請でアメリカのキリスト教一派ユニテリアン教会が日本に初めて到来

1888年 松岡駒吉が鳥取県で生まれた

1894年 東京芝区三田四国町にJ・コンドル設計のユニテリアン教会「惟一館」が完成、3月25日献堂式、久米邦武ら演説、福沢諭吉ら祝詞

1898年 惟一館で社会主義研究会(安部磯雄・川上肇、片山潜・幸徳秋水ら)発足

1901年 惟一館で安部磯雄らが社会民主党結成、2日後政府の結社禁止命令

1902年 山口文象が東京の浅草で生まれた

1911年 東京ユニテリアン教会が統一基督教会と改称、鈴木文治が幹事に就任

1912年 惟一館で鈴木文治を会長として労働者の共済修養団体「友愛会」を設立

1917年 松岡駒吉が東京友愛会本部に着任

1919年 友愛会を大日本労働総同盟友愛会(総同盟)に改称(更に「総評」、「同盟」、現在の「連合」に至る)

1920年 J・コンドル東京で逝去。総同盟が惟一館講堂で日本労働学校を開校

1923年 山口文象が創宇社建築会を結成して建築運動を始め、次第に左翼化する。ユニテリアン教会が関東大震災や会員減少で日本から撤退

1930年 安部磯雄、賀川豊彦、新渡戸稲造、吉野作造らの支援で、総同盟が惟一館の土地建物を買収。山口文象たちが新興建築家連盟を結成するも赤宣伝によって瓦解。山口文象がヨーロッパ遊学(~1932年)、ベルリンのW・グロピウスに師事して最先端の建築デザインに携り、日本人左翼グループと交流

1931年 総同盟が財団法人日本労働会館(松岡駒吉理事長)を設立、財団資産とした惟一館を 改装して「日本労働会館」と名付けて労働運動の拠点にする

1934年 松岡駒吉が日本労働総同盟会長となる

1936年 惟一館の隣に「青雲荘アパート・友愛病院」(設計:山口文象)を建設

1938年 牛込の神楽坂食堂を東京市から引き継ぎ営業開始

1939年 川崎に第2青雲荘・友愛病院を開設

1940年 政府の産業報国会強制加入措置に反対して総同盟が自主解散

1945年 米軍機空襲で日本労働会館は炎上焼失、青雲荘は一部燃え残り

1946年 松岡駒吉が再建した総同盟会長となる。青雲荘の焼け残りコンクリートビルを修復して

神楽坂食堂の権利を継承した「芝園食堂」を開設

1949年 労働会館跡に「総同盟会館」「全繊維同盟会館」(設計:山口文象)を建設

1958年 松岡駒吉が東京で逝去

1964年 更地にして「友愛会館」(設計:大阪建築事務所)を建設

1977年 友愛会館の駐車場用地に「ホテル三田会館」(設計:大建設計)を建設

1978年 山口文象が東京で逝去

2012年 更地にして「友愛会館・三田会館」(設計:安井設計事務所)を建設

(2014/05/26)

◆参照:配布資料のPDF版

◆参照

講演会「松岡駒吉、山口文象が青雲荘に込めたメッセージで使用した映像ファイル

https://drive.google.com/file/d/0B9MvV52GW4PdYmJCUkpEMTYtMkU/edit?usp=sharing