初期RIAと初期森ビルの出会い

初期RIAと初期森ビルの出会い

第1森ビルから都市再開発へ

都市計画ラボパートナー

伊達美徳(伊達計画文化研究所代表)

◆第1森ビルの設計者は山口文象

初対面の時に森泰吉郎氏は私にいきなり、私の建築の師匠すじの方たちである山口文象(ぶんぞう:故人)とその高弟たちの消息を尋ねられたのだった。なぜ、初対面の氏がそれを知っておられたのか。

それは、私か以前に所属していた事務所の開設頃のメンバーであり、そしてまた、あの「第1森ビル」の設計にあたった人々の名であったのだ。山口文象は、いわば当時のスターの建築家のひとりである。

森氏の著書『私の履歴書』に、第1森ビルの設計者とは、どうもうまくいかなかったらしい様が書かれている。

私がARK都市塾のお手伝いをはじめたのは1991年からで、塾長の森参吉郎氏と直接お話したのは7期の卒塾式で1度だけで、それがはじめてで、最後となった。

◆まだ時代が若かった

森氏と私の話は、挨拶と消息話程度でおわったのだが、あとで思い出したことがある。

私が山口の主宰する事務所に入ったときは、すでに森ビルとは無縁になっていたので、どのような事晴があったか直接には知らないが、山口の高弟の誰かから第1森ビルの件を、いつだったか聞いたことがあった。

それは要するにこんなことだったらしい。当時はまだ数少ない都心の高層オフィスビル建築に対して、設計者は建築意匠へ、そして事業家は建築経済へと、どちらも創業時代のそれぞれの意気込みがあった。そして両者が張り切るほどに、互いにズレたのである。

森氏も山口もその頃、年齢はそれほど若くもなかったのだが、時事解説的に言えば時代がまだ若かったのだ。

それでも第1森ビルの当初の写真を見ると、山口文象らしいファサードプロポーションの良さをしのぶことができる。

山口文象がまたがけだしの頃、当時のスター建築家の石本喜久治のもとで担当した現在の日本橋東急百貨店の建物は大きく改装されているが、まだ裏通りに面しては初期の山口らしい窓割りのプロポーションが見られる。

◆どちらも都市再開発の世界へ

時代は移り今、森氏の起こした森ビル株式会社は、わが国の都市再開発ディベロッパー業界のリーダーとなっている。

一方、山口の起こした株式会社アール・アイ・エー(RIA)は、建築設計事務所から発展して、都市再開発コンサルタント業界では全国的なりーダーとなっている。両者の規模と役割は違うが、いずれもわが国の都市再開発の世界では重要な地位を占めている。

いずれ都市再開発の現代史を古くなら、これら2企業の創業期における一瞬の交差が、その後の展開に持つ意味を考えてみることも興味のあることだろう。

‥・森氏のご冥福を祈って。

注:

この一文は、「B-FOUR 特別号」(1993年3月22日第30号 森ビル株式会社文化事業部発行)に掲載した。

この雑誌は、森ビル株式会社が運営する社会人教育「アーク都市塾」の機関誌であり、この号は、この年の1月に逝去された森ビル株式会社の森泰吉郎社長(アーク都市塾塾長)を追悼する特集である。

当時、わたしはアーク都市塾のアドバイザーだった伊藤滋先生のお誘いで塾の講師のひとりであった。なお、第1森ビルは、2010年頃に取り壊された。(2014/10/15)

(追記20171212 読者の指摘で、一部の誤字を訂正した。なお、文中にある日本橋東急百貨店も、いまは消滅している。)