宝庵由来記

宝庵由来記

モダニスト建築家山口文象による写し茶室

伊達 美徳

はじめに

「北鎌倉 宝庵」(ほうあん)は、1934年創建の木造数寄屋の茶室建築である。

北鎌倉の浄智寺谷戸の奥にあり、風趣ある露地庭、八畳と四畳の二つの茶室を持つ瀟洒な姿の数寄屋、一畳台目の小間茶室を抱く大胆な造形の茅葺草庵、甘露の自然湧水井戸などが、緑の自然にいだかれている。

文人ジャーナリストの関口泰氏が自邸敷地に建築、設計は山口文象氏であった。1934年の建築家・山口文象といえば、ベルリンのグロピウスの下から帰国して、日本歯科医専病院のモダンデザインで一躍売り出した時期である。その当時のモダニズム建築運動の若手リーダーであった。その山口の純和風しかも「写し」茶室である。

創建時から個人私宅の茶室であったが、2017年に鎌倉古刹の金宝山浄智禅寺の所有となり、「宝庵」と名づけて、お茶会など多彩な文化活動の場として、2018年4月から一般利用に供されることになった。

山口の仕事を追っているわたしは、ウェブサイト「山口文象+初期RIAアーカイブス」で、「旧関口邸茶席・宝庵」として概要を紹介しているが、これを機会に補足調査をして、その由来などを詳しく記しておくこととした。

「宝庵由来記」と題したのは、建築主の関口泰氏が「吉野窓由来」と題して、この「宝庵」を創建するもとになった草庵茶室の由来を建築当時に書いているので、それを受けたつもりである。

2018年1月30日

目 次

第1章 北鎌倉に山口文象設計の茶室を訪ねる

第2章 夢窓庵の由来

第3章 常安軒の由来

第4章 宝庵を興し守り伝える人々

北鎌倉に「宝庵」を訪ねて茶庭の露地を行く

第1章 北鎌倉に山口文象設計の茶室を訪ねる

1.北鎌倉の山口文象設計の茶席建築

2017年の秋も深まり初冬になるころ、北鎌倉に紅葉狩りに行ってきた。いや、実は行ってみたら紅葉が美しかった結果なので、真の目的は山口文象(1902~78)の和風建築狩りであった。訪ねた先は、山口文象設計で1934年に建った元は関口邸の茶席、今の名は「宝庵」(ほうあん)という2棟の茶席である。

わたしは1976年に訪ねたことがあり、その時は山口文象について行った。そして今回は建築家の小町和義さんと一緒だった。小町さんは山口の愛弟子であった人で、和風建築の名手として知られる。

1976年に訪ねた目的は、山口文象氏の作品集をつくるため

に、いくつかの作品の現地を訪ねており、ここもそのひとつだった。評伝を執筆する

建築評論家の佐々木宏氏と長谷川堯氏そして建築史家の河東義之氏たちも一緒だった。

山口氏はここを訪ねたのは40年ぶりと話していたから、鎌倉で他にいくつか設計していたのに、完成後はご無沙汰だったらしい。その頃、わたしはRIAに在籍していて、この作品集の編集執筆担当だったからついてきたのだ。その2年後に山口氏が急逝したので作品集の出版は遅れて、1983年に『建築家山口文象・人と作品』(RIA建築綜合研究所編、相模書房刊)として世に出た。RIAは、山口氏が戦後に創設した都市建築計画設計組織で、今は㈱アール・アイ・エーという。

その作品集の編集作業が終わっても、わたしは山口文象作品の追っかけを趣味でやっていた。わたしは40歳頃に建築設計から都市計画に転向して、その後は建築を趣味にしてきた。大学での出自が建築史だったから、近代日本建築史における重要人物としての山口文象氏を追いかけるのは、なかなか良い趣味だとわれながら思うのである。

だが、そろそろ山口文象氏追っかけも種切れになったし、わたしも終活年代にも入ったので、2014年に山口関係の蒐集資料全部をRIAの山口文象資料庫に寄贈してしまった。それで山口文象追っかけを止めていたのだが、ここで偶然の機会に恵まれて、久しぶりに山口建築の茶席を訪問したので、このことを書いておこうと思う。だがその前に、同行した小町和義さんのことを書かねばならない。

2.小町和義さんの展覧会のこと

小町さんは、1942年に16歳で山口文象氏の書生となって弟子入りして、1949年まで戦中戦後通じて山口氏の下で仕事をした。その後、平松義彦氏の下で仕事をして、1969年に独立して「番匠設計」を主宰し、寺社や数寄屋建築の名手として知られる。八王子の宮大工棟梁の家に生まれたのに、山口文象氏に弟子入りして建築家の道を歩んだのは、山口氏の歩んだ道に似ているともいえる。

今回の北鎌倉宝庵の訪問は、じつは小町和義さんから、行きたいと依頼されたのであった。八王子の小町和義作品展会場で、久しぶりに小町さんに会ったが、卒寿と見えない元気そのもので、張り

切って解説をしておられた。 小町さんの地元の八王子で、多くの市民や小町さんの弟子たちが、ボランティア活動で展覧会に持ち込んだとて、幸せなお方である。会場にいっぱいの模型とパネル、茶室の立て起し模型、そして原寸の組み立て茶室もあって立礼抹茶も楽しむようになっている。

パネルの一枚には、小町さんの師匠であった二人の建築家、山口文象と平松義彦の大きな顔写真が見える。あの会場であれほど多くの人が来るとは、会場単位面積当たり人数は、同じ頃にやっていた国立ギャラリーでの建築家・安藤忠雄展と比べてよい勝負だろう。建築家って今は人気ある商売なのかと思った。

そして会場で驚くべき嬉しいことを小町さんから聞いた。展覧会のために自宅にある資料を整理していたら、山口文象設計の関口邸茶席(現・宝庵)の図面が出てきたという。その図面は、山口文象氏の弟の画家山口栄一氏から、彼のスケッチ帖と共にもらったものとのこと、どちらも山口文象氏の重要資料だから、RIAの山口文象アーカイブスに入れたい、その前に図面をもってその茶室を見に行きたいので、今の持ち主に連絡してほしいと頼まれた。面白いことになった。なお、小町さんは1941年から山口氏の弟子だから、この茶席の設計にはタッチしていない。

以前に訪問したときのこの茶席の主は、鎌倉の建築家・榛沢敏郎氏であったが、今もそうであるかわたしは知らない。そこで知人の鎌倉の建築家福澤健次さんに尋ねて、現在の茶席の主の浄智寺から茶席の運営を受託した「鎌倉古民家バンク」の島津克代子さんにつながった。今回は小町さんと共に島津さんを訪ねて見せていただいた。浄智寺和尚の朝比奈恵温さんも、お顔を見せてくださった。

旧関口邸茶席は、1975年と同様に健在だった。この谷戸の庭と建築を愛して、保存修復に手を尽くした榛沢敏郎氏のおかげである。茶席建築の名手の小町さんが、新発見図面を見つつ解説してくださって至福の午後だった。

3.宝庵と名を変えた旧関口邸茶席の概略

簡単にこの茶席の経緯を書いておくと、1934年に山口文象の設計で建てたのは、ジャーナリストの評論家であった関口泰氏(1889~1956)だった。1930年からこの谷戸に住み始めて、朝日新聞論説委員であり、横浜市立大学の初代学長であったひとである。茶室は2棟あり、ひとつは草庵風の茅葺の小間茶室であり、もうひとつは4畳と8畳の2つの茶室を持つ数寄屋建築である。広い茶庭の露地をもつ。

関口氏の没後の1970年ころのようだが、これを買い取り引き継いだのは、北鎌倉に在住の建築家・榛沢敏郎氏であった。

長く使われずに荒廃していたし、常安軒は敷地内で移築してあったのを、建築も配置も復元的な設計をして、職人を京都等から呼び寄せて、丁寧に解体し、今の配置に移築し、修復をして1972年ごろに完成した。そして設計アトリエの仕事の場とした。

2017年に榛沢氏は土地を地主である浄智寺に返還し建物も譲渡した。浄智寺はこの茶席を保全して一般公開活用する英断をくだし、「鎌倉古民家バンク」が借家して運営することとなった。同バンクは茶席敷地の南に隣接する「たからの庭」の運営を行っている。

この茶席全体の名称については、関口氏も榛沢氏も特に名づけたことはないようであり、これまでは建築関係誌などで「旧関口邸茶席・会席」として紹介されてきた。

それが今、2018年春から公開するにあたって、所有者と運営者は「北鎌倉 宝庵」と新たに名付けたのである。その由来は金宝山浄智禅寺による。

そして2棟の茶室建築の内、大きいほうの数寄屋建築を「常安軒」と呼ぶ。その破風に「常安軒」と墨書した板額が掲げてあるからだ。東慶寺の井上禅定師の揮毫であり、浄智寺住職だった1981年以降に掲げたのだろう。

もうひとつの茅葺草庵の茶室は、「夢窓庵」と呼ぶ。それは関口氏がそう名付けていたことが、最近になって判明したからである。それは氏自身の筆になるその草案の墨絵に「夢窗菴の図 黙山人寫」との書がある色紙が見つかったのである。黙山とは、関口氏の号である。

4.関口泰氏が愛でた浄智寺谷戸の風景

宝庵は、鎌倉の谷戸(やと)と呼ばれる三浦半島の典型的な地形の中にある。こ のあたりから半島特有のデコボコ丘陵ばかりで、海辺に沿ったところの外には平地が少ないので、12世紀ごろの昔に鎌倉幕府ができたころから、人口増加に対応して、丘に切りこむ狭い谷間に宅地をつくってきた。

わたしもながらく鎌倉の谷戸に住んでいたから分るが、谷戸は谷の向きや深さによっては、日中のほんの少ししか日が当たらないし、奥の方になれば坂道は急になり更に階段になって、歳とると住みにくいところだ。

浄智寺谷戸と宝庵の位置(左の丸の中) 右に鎌倉街道

浄智寺谷戸は南上りであり、宝庵はその奥にある。緑の丘陵に囲まれていて、南が高く北下りだから陽光が照る時間は少ないが、四季折々の変化を見せる豊かな自然景観に恵まれている。

この茶席をつくった関口泰は谷戸を愛し、短歌「浄智寺谷風景」や随筆「小鳥と花」に自然を描いている。鶯の声で目を覚まし、彼岸桜、紅梅、山桜、染井吉野、大島桜、蝋梅、雪柳、緋桃、芍薬、牡丹、山躑躅、山吹、山藤などの花々を愛でる日常を、優雅な筆にしている。

吾子のゐる書斎に近く乙女椿紅梅植ゑし庭師翁は

植込の向ふは茶庭こちらには牡丹植えんと苗を買ひけり

大き巌うしろになしてこの梅はことしれうらんと咲きにけるかも

吉野窓の茶室の前に白萩の花枝長くしだれ咲きたり

むらたけの竹の葉末の雫さへ落さぬほどの朝の風ふく

この谷は雨こそよけれ山百合の花しろじろと浮きて見えける

(関口泰著『空のなごり』より引用)

関口氏がここに居を構えたのは1930年、41歳だった。多くの評論や随想をここで筆にして世に送り出した。

わたしが家を建てた昭和五年頃は、御寺より上にはわたしの家一軒だけで、(中略)私が浄智寺谷を初めてみたの は、昭和五年の二月の末であった。もう此の時は今の道が一本荒野を貫いてゐる姿で、道の両側は枯れた茅萱と草とで足を踏み入れるにも困難であった。(中略)それでその時すぐに約束して三月から借りる事にしたのである。(中略)四月二十六日から建築を初めて七月末には引っ越してきたのであった。

(関口泰著『金寶山浄智禅寺』後書きより引用)

この家が茶席敷地の北に今もある関口家の母屋だった建物であろう。この5年ほど後には、陶芸家の久松昌子氏がさらに奥の一段上に窯を築いたが、そこが今の宝庵の南隣にある「たからの庭」である。

関口氏がその生を閉じたのは1956年春のこと、主のいなくなったこの茶席をしばらくして引き継いで再興したのは榛沢敏郎氏だったが、この建築家もこの谷戸の自然と茶席を愛していたからこそ、今、3代目の主にバトンタッチができるのだ。

第2章 夢窓庵の由来

1.関口泰と遺芳庵そして宝庵

「宝庵」には山口文象設計の茶室は「常安軒」と「夢窓庵」の2棟あり、さてどちらから話をはじめようかと考えたのだが、建築主の関口は「夢窓庵」の方から想を起したらしいので、ここでもそこから始める。

関口氏が居を構えて美しい緑の谷戸を眺めつつ、その風景に奈良の室生寺にある五重塔を建てたいと思い始めた。2年ほどそれを考えていたがとても無理と覚って諦め、次に思いついたのは京都の高台寺にある茶室の遺芳庵を写して作ることだった。京に旅したとき見て気に入ったのである。この小さな草庵茶室ならば経済的にも可能である。

次で湧き上った空想が吉野窓の建築だ。これは前から吉野窓を知ってゐてあれをここへ建てようと思ったのではなくて、義弟の旭谷左右に案内されて京都の茶席を見物してまはってゐる時に、高台寺の中の佐野画伯の家にある「遺芳」の席を見て、これはいいと思った。無論茶道の方からではなくて、私の庭における絵画的効果からの話であるが、二坪か三坪の小さい家に比較してトテッもなく大きい三角形の屋根と、伽藍石を踏まへた大きな丸窓は、それだけで絵だ。それに何よりも、一畳大目の茶室と二畳の水屋は、建築費からいっても、宝生寺の五重塔の如く空想に終らずに実現の可能性をもつし、長く茶室につかはれずに暴風雨に壊されたまま蜘蛛の巣だらけの物置のやうに、庭の隅に抛り放しになってゐる此の可憐なる茶席は、柱や床板の一つひとつに高価な正札のつけてあるやうな富豪の茶室とは事変り、私に消極的自信をつけてくれるに十分なものがあったからだ。

それで洋画家たる旭谷と、ドイツのバウハウスにゐた新建築家の山口蚊象君とに相談して早速建築をはじめたのである。鹿子木門下の洋画家ではあるが、京都に育って裏千家の茶の素養もあり、六、七十の茶席を廻って研究して斯道の大家にならんとしつつある旭谷と、分離派の新建築家ではあるが、早く茶室建築に目をつけて、ベルリンで修業してゐる間に私と茶室建築の約束をした山口君であるから、変に型にはまった茶の宗匠や、高い金をとりつけた茶室建築家と相談するよりは、余程話がつきやすいわけである。

(関口泰著「吉野窓由来」より引用)

つまり、今の「北鎌倉 宝庵」をつくりはじめるときは、遺芳庵の茅葺茶室をつくりたいことからはじまったのだ。そしてそれを設計者となる山口文象にはなしたのは、ベルリンであったという。

山口文象氏がベルリンのグロピウスの下に居たのは1931年春~32年の6月、関口が朝日新聞のベルリン特派員だったのは1932年4月~11月

である。山口氏の滞欧時に記入していた手帳があるので見ると、1932年2月14日と3月3日に関口の名がある。関口氏の滞在時期より少し前だが、手紙とか電話連絡のメモだろうか。 関口氏の話の遺芳庵については、山口文象氏も関口よりも前にそれを見ていて、素晴らしいデザインだと知っていた。なお、関口の文中に「バウハウスにゐた新建築家山口蚊象君」とあるが、山口氏はバウハウスに居たことはない。また名前が蚊象となっているのはその頃の自称であり、後に文象と戸籍名も変えた。

ところで、そもそも関口氏はなぜ茶席を設ける気になったのだろうか。その母方の茶道家元の家系を追ったエッセイ「宗徧流の家元」(『空のなごり』所収)にこう書いている。

私の祖母が山田宗徧の家から出てゐるので、私の母が一時宗徧流の家元の八世を襲ひ、不審庵十一世宗貞を名乗ってゐたことがあった。(中略)わたしはここに機会をえて、宗徧の血統が微かながら残ってゐたことを記録し、私個人としては、道安好みの一畳台目どうこの席で、(中略)十一世不審庵宗貞の霊前に茶を奉ろうと思ふのである。

どうやら、血筋のゆえにやむなく宗徧流家元となり、多くの子どもを育てて茶室も道具も持たずにいた母・操への敬愛、思慕そして供養が根底にあったようだ。

2.山口文象氏と夢窓庵

関口の文中に、山口が「早くに茶室建築に目をつけて」とは、次のようなことがあったからだ。

山口文象が逓信省の製図工であった頃に、大阪市内の局舎工事現場監理の仕事で1921年から22年にかけて大阪に住んでいた。休日にはいつも京都、奈良、堺などの茶室建築を訪ねて、建物の実測をして写真を撮って研究をしたのだった。

その時に撮った多数の茶室建築の外観内観写真のプリントが、3冊のアルバムになっている。その中には高台寺の遺芳庵もある。だからベルリンで関口氏に、鎌倉に遺芳庵を持ってきたいと言われたときに、既にそれを知っていたのだ。

これがすばらしいデザインなんです。屋根のヴォリュームの大きさ、それら全体のプロポーションが実にすばらしい、その話を関口先生にしたら「じゃあ見に行こう」というわけで見に行きました。そこで決まったわけです。

(『住宅建築』1977年8月号)

したがって、この茶室は既存の茶室のコピーであり、建築家山口文象のデザインではないが、山口氏の談には「敷地の条件に合わせて」左右反転したともいう。

茶道に暗いわたしにはそれがなぜなのか分らないが、茶庭の構成上でそうなったのだろうか。茶道に通じていた関口あるいは夫人が、本勝手を望んだのかもしれない。

「丸窓の位置がなかなか決まらないので、会席のほうもずっと後れまして」ともあるから、夢窓庵の位置決めが最初であり、それを焦点として茶庭も常安軒も配置を決めたのだろう。そこにはオリジナルデザインがある。

なお、日本では有名な茶室の建物を一部あるいは全部をコピーして、別のところに建てることを「写し」といって、ごく普通に行っていたから、ここでも特に不思議なことではない。後で述べるが「常安軒」にも重要な部分に写しがある。

それにしても、ナチスの暗雲漂う1932年のベルリンで吉野太夫の遺芳庵の話とは、なんとも粋な二人である。

その年に山口氏は帰国したが、翌年にブルノ・タウトがナチスを逃れてアメリカ亡命を目指して日本にやってくるし、翌々年には山口氏の師匠のW・グロピウスがイギリスに逃れてアメリカに亡命する。

そのブルノ・タウトは日本で山口氏と何度か出会っており、この宝庵を褒めているのである。1934年6月に山口文象建築作品個展を銀座資生堂ギャラリーで開いた(右図ポスターと出展リスト参照)が、観に来たタウトが6月15日の日記に書いている。

建築家山口蚊象氏の作品展覧会を観る(同氏はドイツでグロピウスの許にいたことがある)。作品のうちでは茶室がいちばんすぐれている、――山口氏はここでまさに純粋の日本人に復ったと言ってよい。その他のものは機能を強調しているにも拘らずいかにも硬い、まるでコルセットをはめている印象だ。とにかくコルビユジエ模倣は、日本では到底永続きするものでない。

(『日本ータウト日記 1935-1936』篠原英雄訳 岩波書店刊)

タウトが書く「茶室」とは出展リストにある「茶室・北鎌倉」であり、それは関口邸茶席つまり今の宝庵のことである。ほかにも出世作の日本歯科医学専門学校など8件のモダンデザイン建築を展示したのに、タウトがほめたのは、和風のこれのみであった。

タウトの評価をどうとるか難しいが、桂離宮を称賛し日光東照宮を貶した鑑識眼でみた関口邸茶席であった。彼が日本で褒めたモダンデザイン建築は、東京駅前にある中央郵便局舎(吉田鉄郎設計)だけだったようだ。

タウトは日本からアメリカへの亡命に失敗、トルコの大学に赴任してその地に客死した。

3.大工棟梁山下元靖氏と夢窓庵

この茶席常安軒の工事をしたのは、大工棟梁の山下元靖氏であり、山下氏は『工匠談』(1969年 相模書房刊)という本を出しており、自分のいろいろの仕事を語っている。その中でこの茶席の想い出も35年も前のこととして語っている。

この本には、山口文象による「山下さん」という序文があり、関口氏から設計を依頼され、山下棟梁と「毎日浄智寺の現場で……けんかをしながら楽しんで仕事に没頭した」と記している。どちらも30歳そこそこの若者だった。

山下氏はその本の「北鎌倉の関口邸の茶室」という章で、常安軒については何も述べずに、夢窓庵と離れの工事についての自慢話ばかりしている。その夢窓庵の茶室について、草ぶき屋根の小屋組み仕口の仕事を茅葺屋根専門の職人から褒められたこと、吉野窓を貴人口にも使うように工夫したこと、土庇柱の沓石に寺院の向拜の沓石を転用したように古びて見せる工夫をして関口を感心させたことなど、職人肌が面白い。

窓は吉野窓にし、直径を京間の六尺の大丸窓にしました。それは貴人口にも使用する関係で、丸窓の下部を半紙幅の半幅、つまり下から約四寸の高さのところを図のように水平に切り、掃き出しも兼用できるようにしました。

しかし、今の吉野窓を見ると、塗りまわした框が床よりもあがっているし、障子の開きは人が出入りできない寸法だから、貴人口にも掃出しにもならない。後の改変だろうか。

方形屋根のてっぺんにかぶせる陶器の甕について、山下氏はこう語る。

茶室の屋根は方形で葺き仕舞いの棟には、直径二尺の摺り鉢を使うことにし、わざわざ三州へ注文してのせましたが、それをみて施主もたいへん喜んでくれました。(『工匠談』)

ところが関口氏は、「鎌倉の骨董屋で購って来た二百年前のすり鉢の朱色もよく映って来た」(「吉野窓由来」)と書いているから、どちらが正しいのか。現在の夢窓庵の屋根頂点に乗る甕について、山口氏が「住宅建築」(1977)で言っている。

丸窓のほうの屋根に瓶がのっかっていますが、いまのやつはわたしがのせたのとはちがうんです。もっと大きかった。あれはいまあの茶席の足元にころがっている摺り鉢なんです。プロポーションからいって、いまのは小さい。

2017年12月の見学の時に床下を覗き込んだら、大きな鉢がひとつ転がっていたから、これが元の擂鉢かもしれない。破損して取り替えたのだろうか、それは榛沢氏に聞かないと分らない。

夢窓庵は茅葺である。その屋根と障子窓の大きな三角形と円形とが対になっている大胆な造形である。床面積は3坪弱なのに、屋根投影面積は8坪余り、そのうち茅葺土庇が6坪もある。丸窓のある正面から見ると、間口は1間幅なのに、屋根の軒先幅がその3倍もあり、それが四角錐をつくる。巨大丸窓はでっかち頭に対抗するためか。

今どきは茅葺屋根の維持が、なかなか難しそうである。現状を見ると、さしあたって挿し茅による修復が必要なようだ。山下棟梁もこれを建てる時に、「その頃、草ぶき屋根の葺ける専門の屋根職人は、北鎌倉の辺には六〇歳になる老人が一人しか残っていませんでした」(『工匠談』)と語っているが、現代はどうなのだろうか。北鎌倉には、浄智寺の書院と茶室、明月院の開山堂、東慶寺の山門と鐘楼、円覚寺の選佛場、長寿寺山門と観音堂など寺院に茅葺屋根が多いし、いくつかの茅葺民家もあるから、それらの維持修理の茅葺職人が今もいるのであろう。

第3章 常安軒の由来

1.常安軒のデザイン

宝庵にアプローチするには、浄智寺谷戸の中を貫く道を奥に向かうと、右手に草屋根の風雅な門が迎えてくれる。その門をくぐりゆったりと左カーブする露地を歩めば、最初に出会うのがこの数寄屋建築の常安軒である。

先に紹介した夢窓庵は、その裏にある。いわば宝庵の表顔は常安軒なのに、ここでの話を夢窓庵から始めたのは、関口の茶席発想がそこから始まったのに従ったことは、前述した。

左:常安軒、右:夢窓庵 (2017年12月13日撮影)

夢窓庵が小面積なのに大きな髙い屋根を載せてボリュームを大きく見せているの対して、常安軒はその大柄をできるだけ小さく低く見せようとしている。屋根を小瓦一文字葺き杮(こけら)葺き(いまは金属板葺き)の奴(やっこ)葺きで薄く軽く見せている。

しかし、それはヨーロッパ帰りの洋風モダニスト建築家として売り出したその頃の山口文象作品としては、真反対ともいえる正統派和風数寄屋造りである。

山口が洗礼を受けたモダニズム建築は、できる限り技巧を見せないように、シンプルでプロポーション美しくデザインする。「豆腐に目鼻」と言われたほどの愛想なしである。いっぽう、数寄屋建築は技巧の満艦飾である。だが、数寄屋建築にも精通するモダニスト山口文象は、さすがに数寄屋の技巧を尽くしながらも、できるだけシンプルに納めてプロポーションを追及する。

常安軒のデザインについて山口文象は語る(『住宅建築』1977)。

しかし考えてみると、当時はずいぶんと細かい仕事をしましたね。瓦の寸法なんかも全部普通の寸法とちがう。あの数寄屋建築の瓦ですよ。あれは全部特別に焼いたものなんです。大きさとか全体のプロポーションからいって、普通の瓦ではない。プロポーションから瓦一枚一枚の寸法を出しました。

たしかに、山口文象はモダンでも和風でも先ずはプロポーション・デザインの人であり、特に和風はその大工棟梁の家系という出自からして身に付いた技能であった。常安軒は数寄屋にしては全体にスマートである。

常安軒 八畳茶室襖絵(邨田丹陵画) 四畳茶室

2.常安軒も写し茶室か

関口氏が常安軒と夢窓庵の二つの茶室建築を対にして配置したのは、京都の高台寺の「遺芳庵」が、「鬼瓦の席」と対になっていることに寄っているようだ。

関口氏は常安軒の四畳茶室を書斎にしていたらしい。

吉野窓の号は即ちこの吉野太夫が、佐野紹益の室となってから、風流な家庭生活を送ったと伝へられる茶室なのであって、今やはり高台寺にある鬼瓦の席は紹益の茶室で、付書院の障子をあけると、斜に吉野窓が見えるやうな配置に作られてゐたものだ。この窓と窓とを向ひあひに二人が顔を見合せてゐたものでもなからうが、吉野窓は明眸の佳人を偲ぶにふさはしい、よい意味で女性的な美しい建築だといふことはいへる。(中略)

私が今筆を執ってゐる書斎からも頭を少し前に出すと左に吉野窓が見えてゐる。萱の屋根の色も古び、鎌倉の骨董屋で購って来た二百年前のすり鉢の朱色もよく映って来た。まだすっかり暮れ切らない薄暮、まだ萱屋根の形がほのかに見える頃に燈を入れると、一間四方の壁に直径五尺二寸の丸窓が白い障子の桟を薄墨に見せて、大きな雪洞のやうに浮くのは何ともいへず美しい。

丸窓を八寸開いて、吉野太夫のやうな白い顔がのぞけばといふ妄念も起るが

……。 (「吉野窓由来」より)

遺芳庵と鬼瓦の席との関係を、常安軒と夢窓庵の関係にとりいれたのなら、それもまた写し茶室の技法であるとも言えるだろう。この二つの茶室のとりあい角度が、直角から微妙に開いているのは、互いにその角度で見ると、妄念が湧くほど美しく見えるからだろうか。そのあたりで建築主関口と設計者山口とが、あれこれと思案し妄想を働かせるものだから、この配置が決まらなく「会席の方もずっと」工事着手が後れたのだろう。

山口氏は「数寄屋造りの方はね、これは創作でね、あまりマネはないはずですね」(『住宅建築』)という。夢窓庵が写しであるのに対して、常安軒はオリジナルだと言う。だが、本当にそうだろうか。

常安軒の中心にある四畳茶室から、広椽を通して見る西の庭の景色は、この建物での一番の見せどころであるが、それを観て「アレッ、これは忘筌写しだ」と思う人は多くいるだろう。京都の大徳寺孤篷庵の茶室忘筌(ぼうせん)である。

常安軒四畳茶室より西の庭を見る

京都の忘筌と鎌倉の常安軒について、それぞれの茶室の庭の眺めと平面とを比べてみよう。茶室そのものは、忘筌は書院風で12畳と広いから、こちらの常安軒の4畳茶室とはかなり異なるが、庭の眺めはどちらもその西側に開く間口2間の広縁と落椽があり、右に蹲踞を配し、その向うに吊り障子で上半部を見切っている。

この構成はやはりここは「写し」と言わざるを得ないだろう。

たぶん、この写しも吉野窓茶室と同様に関口の要望であり、「書斎からも頭を少し前に出すと左に吉野窓が見え」るようにしたのだろう。どちらも風雅な眺めだが、鎌倉の方がゴタゴタせずに野趣に富み美しい。もっとも、創建時の姿は分からない。

それにしても鎌倉に居ながらにして忘筌から吉野窓を眺めようなんて、両方の良いとこどり組合せの写しだからこそできる欲張り技である。どおりで山口の「あまり……はず」と、どこか躊躇する口ぶりである。ただし、山口氏が20歳ころに京都で訪ねまわった茶室写真帳の中に忘筌はない。

いずれにしても、宝庵は建築主の関口の意図がおおいに入っており、いわば関口山口両氏の共同設計のように、わたしは思うのである。更に後で述べるが、いまの宝庵になるには、建築家榛沢敏郎氏による復元的設計による修理があるから、これら3人の協同設計であるとも言えよう。

3.宝庵の設計図

山口蚊象建築事務所時代につくった関口邸茶席つまり今の宝庵の設計図は、青焼き図面8枚しか現存していない。吉野窓茶室は東立面図、断面図、室内断面展開詳細図の3枚、数寄屋会席は8畳座敷断面展開詳細図と4畳茶室断面詳細図の2枚、そして離れが2枚で、いずれも平面図が無い。

これらは山口氏の弟子だった小町和義さんが、山口栄一氏(山口文象の実弟)から託されていたのをつい最近見つけ出した。これらの図面を書いたのは山口文象氏かもしれないが、筆跡が違う気もする。河裾逸見氏(最初の所員)か山口栄一氏かもしれない。

大工棟梁の山下元靖氏は工事について『工匠談』にこう書いている。

昭和八年から昭和十年にかけて約二カ年間、北鎌倉の浄智寺という寺の奥にある関口邸の工事を頼まれて、毎日横浜から通うようになりました。その工事は本館のほかに、茶室と数寄屋造りの会席、それに同じ邸内の親戚の住宅二棟、つごう四棟の新築と、その他に本館の増改築があったわけです。設計は山口文象建築事務所でやられました。

その仕事のオーナーであった関口泰氏は、1930年に自邸を建てて引っ越してきたと自著に書いているから、山下が本館という関口自邸そのものは山下棟梁の工事ではなかったのだろう。その関口自邸は、この茶席の敷地の北に隣接して現存する。その本館の増改築とは、本館の南の広い池のほとりに、渡り廊下でつないだ3坪ほどの「離れ」増築であったらしい。

それは昔の高殿のようなもので、用途は主人が毎朝ここで謡曲の練習をするためのものでした。構造としては、四本の丸柱を使用し、そのうちの二本は池の中に据えた玉石の上に建てることにし、できるだけ風雅な感じを出すことに努めました。(『工匠談』)

そして四方に壁や建具はなくて手すりだけの吹きさらし、床は板張り、天井は漆喰塗りで中央へ周りからムクリがあり、下で手を叩くと日光の鳴き龍現象が起きたと自慢話を書いている。現在はこの離れはないが、小さな池はある。

しかし、「離れ」のタイトルの設計図面2枚を見ると、山下氏が書いた姿とは全く違う図であるから、現場で設計変更があったのか。山下氏の書くように離れを含めて5棟を工事したとすれば、そのうちの親戚住宅2棟と鳴き龍天井離れの図面が一切残っていないし、それらについて山口文象氏が1976年にここに来た時もその後もまったく言及しなかったから、推測すれば、現存茶席2棟のほかは山下棟梁の設計施工の可能性が高い。

第4章 宝庵を興し守り伝える人々

1.宝庵を興した関口泰氏

この茶席をつくった関口泰氏(せきぐち たい 1889~1956)は、朝日新聞論説委員だったジャーナリストであり、評論家として政治や教育論の著作を多く世に問い、加えて旅と山歩きを趣味として随筆や短歌俳句もよくした。

著作の公刊書も36冊と多く、『民衆の立場より見たる憲法論』(1921年)から始まり、『軍備なき誇り』(1955年)が最後であった。没後に関口を惜しむ人々や近親者が編集刊行した『関口泰文集』(1958年)と『関口泰遺歌文集 空のなごり』(1960年)に、主な著作が収録されてその足跡がよく分る。

この浄智寺谷戸を愛した関口は、『金寶山浄智禅寺』(1941年)なる深い歴史考証の著作を出版した。その「後書」に、関口が浄智寺谷戸に居を構えた1930年頃の風景や人物の状況を細かに記している。それらを瞥見して関口泰氏のことを記す。

静岡市に生まれ、東京帝大法科大学を卒業、1914年から19年まで国家公務員、そのあと朝日新聞に入社して論説委員、1939年に退社し、評論家として活躍することになる。リベラルな立ち位置で政治や教育の評論をよくし、政府や自治体の委員なども務める。1950年に初代の横浜市立大学学長となった。

1930年に北鎌倉の浄智寺谷戸に自邸をつくり、34~5年に今の宝庵の2棟、離れ、親戚の家などを建てた。赤城山に別荘を構えて、鎌倉と赤城から数多くの評論と随想を世に出し、浄智寺谷戸で67年の生涯を閉じた。

関口氏の数多くの著述の内、すでにこれまでも引用してきた「吉野窓由来」は、「宝庵」についての紹介文とでもいう随想で、『山湖随筆』(1940年)と『空のなごり』に収録されている。ここに関口氏が山口とベルリンで、吉野窓茶室の話をしたことが書かれているが、そのとき二人は既に知遇であったと山口文象氏は語っている。山口氏が関東大震災直後からの建築運動を通じて、多くの美術家や文化人たちと交流を持ったので、その頃であろう。

関口氏の文章は、「やわらかく話すように出来ていて、それが論理の絲で長くつな

いであり、長い文章だがそれが分りよく、分りよい文章に得て欠けている髙い気品があった」(『空のなごり』の序文)と、朝日新聞社で論説委員の同僚だった笠信太郎が書いている。 そこで、関口氏の単行本をせめて1冊は読もうと、わたしが選んだのが関口氏最後の著書『軍備なき誇り』である。これが出た1955年といえば、敗戦10年目、日本では逆コース、再軍備、ビキニ水爆実験、原子力兵器、憲法改正、吉田長期政権などが言われる。国際情勢は朝鮮戦争が休戦になったばかり、東西緊張が高まる中で、ベトナムあたりがきな臭い。読んでいて、日本と国際情勢の諸課題も複雑さは現代になっても不幸にしてよくなっていないのであり、人名と国名を入れ替えると今に通じる有様で、関口氏の論調が今の朝日新聞調であるのが、なんともはや興味深かった。

2.宝庵を設計した山口文象

建築家山口文象氏(やまぐち ぶんぞう 1902~78 戸籍名は瀧蔵だが蚊象と自称、40歳から文象、55歳で戸籍も文象)は、大工棟梁の次男として東京浅草に生まれた。職工徒弟学校を卒業して清水組(現:清水建設)に入ったが、建築家をこころざして逓信省営繕課に移り製図工となった。そこで才能をぐんぐん現して、上司の建築家たちに認められる。

関東大震災の直後から、内務省復興局と日本電力で橋梁やダムのデザインにもかかわった。仲間の若い建築家の卵たちを糾合して「創宇社建築会」を結成し、建築運動のリーダーとして建築界で名が知られた存在となり、多くの美術家や文化人との交友を得る。1927年から建築家石本喜久治のもとで、朝日新聞社屋や白木屋百貨店等の設計にたずさわった。

1930年に幸運な機会を得てシベリヤ鉄道でヨーロッパ遊学の旅に出て、ベルリンで建築家グロピウスに師事し、各地を回って船便で1932年に帰国した。

1934年に出世作となる「日本歯科医学専門学校附属病院」を発表して一躍スター建築家となる。1936年には「黒部川第2発電所・小屋ノ平ダム」を発表して、土木と建築の両方の才がある建築家として確固たる地位を築いた。

しかし、戦争がその行く手を阻み、10年ほど事実上の逼塞の後、1952年から共同設計集団RIA(Research Institute of Architecture)を率いて戦後の再出発をした。それは現在の㈱アール・アイ・エーとして都市建築コンサルタント組織に成長し、これが山口氏の戦後における最大の作品と言ってよいだろう。

戦後は何度も大病入院して、組織の長としてはつとめたが、自分で設計する活躍を多くはできなかった。いくつかの珠玉作品のひとつに晩年になって、あの関口邸

吉野窓茶室を拡大したような大屋根の寺院「海龍院是の字寺本堂」(1971年)の設計をしている。ただし、それは木造ではなくてコンクリと鉄であり、丸窓はない。

関口氏が「ドイツのバウハウスにゐた新建築家の山口蚊象君とに相談して早速建築をはじめたのである」(『吉野窓由来』、ただし山口はバウハウスで学んでいない)と書いているが、茶席が実現した1934年の頃の山口文象氏は、「洋行帰り」の「国際様式」に通暁した、モダニズムデザインの流行建築家への道を勢いよく登り始めていた。そのモダン建築家が、なぜ純和風の数寄屋建築の設計をできるのか。茶席の設計を関口氏から依頼された時のことをこう語っている。

……茶席もつくりたいというわけですね。「文ちゃんどうだい、茶席もできるかいな」、「いやあ、やってますよ、まっ白い建物ばかしじゃなくて日本建築もやってます、茶席できます」「そう、じゃひとつ頼もうかなあ」……。 (『住宅建築』1977)

関口氏も山口文象氏の仕事ぶりを知っていて危惧したのだ。だが山口文象氏は和風には自信満々だ。茶室は京都の現物で研究している。

谷口吉郎や吉田五十八の茶席なんか、わたしは茶席だと思っていませんね。あれは学問的に、非常に厳しい割り出し方からきていて、それが基礎になって先生の茶席になっている。わたしのはそれとはちがう。わたしの親父が大工で、茶席も手がけていましたから、親父の後をついて歩いたりして、ごく自然に感覚的というか触覚的というか、身体で覚えたところがあったと思いますね。とくにプロポーションね。ぼくのは、だから感覚から入って行った茶席だと言えるでしょうね。(『住宅建築』1977)

机上で学んだ大学出の有名建築家よりも、大工棟梁家の出自として身体に滲み込んだ才能があるのだと、いかにも自信に満ち満ちた言葉である。流行最先端のモダニズムで売り出した山口氏だが、実は住宅は和風伝統風も洋風モダン風も設計をしたのだった。

山口氏が戦前に設計した住宅建築で、洋風モダン住宅は今は一軒も残っていないが、和風住宅は、この宝庵のほかに2軒が現存する。新宿区にある小説家の「林芙美子邸」(1940年、現・区立林芙美子記念館)は、数寄屋と民家風をつき交ぜて一部に洋風もある巧みなデザインである。その書斎の北庭に向って、宝庵の常安軒にある忘筌写しが左右反転して登場する。宝庵と同じように復元修復されて創建時の姿を保っている。

大田区にある「山口文象自邸」(1940年)はモダンなプランで、和風ではあるが木太い北陸民家風であり、数寄屋とは全く異なる。今は原形を若干は保ちつつもかなり改変されているが、実はその改変過程が面白い。

山口文象氏は関口邸茶席のころから一気に多作となって話題作を発表し、鎌倉にも関口邸のほかに彼の作品があった。中でも北鎌倉に建った「山田智三郎邸」(1935年)は、時代の典型的な最先端モダンデザインであった。

北鎌倉にはもうひとつ山口の和風作品「前田青邨邸アトリエ」(1936年)があり、これは現存すると仄聞したことがあるが、どうなのだろうか。

山口が石本喜久治のもとで仕事していた頃の1929年に担当した、「朝日新聞社社員クラブ」が鎌倉の由比ヶ浜近くに建っていた。1925年頃には数寄屋橋際に建った朝日新聞社屋の設計に携わっているから、そこで当時は論説委員の関口に出会っただろうか。

3.宝庵を建てた大工棟梁山下元靖氏

旧関口邸茶席だった今の「宝庵」と、その北に隣接する旧関口邸の工事をしたのは、大工棟梁の山下元靖氏(1896~? やました もとやす)であった。山下の著書『工匠談』(1969年相模書房)によれば、1896年に伊豆下田に生まれた。14歳で下田の町棟梁の親方に弟子入りして修業し、その間に蔵前高等工業夜間部で学び、1921年に独立して大工棟梁となり、横浜で町場の大工として仕事をした。

山下氏が本格的な数寄屋造りに取組んだのは、1931年から2年ほどの東京深川の鰻料理の「大黒屋」の工事だった。その設計者は石本喜久治で、これを機に建築家たちの工事をするようになり、また数寄屋建築の研究をしてその方面の仕事を得意とする。山口文象氏は石本事務所で1930年まで日本橋の白木屋百貨店

計をしていたが、「山口氏と私とは、昭和五年以来交流のある間柄でありましたが、」(『工匠談』)とあるから、山下氏と出会っていたのだろうか。戦中と直後は横須賀で軍関係の仕事、1950年から町棟梁として再出発、主に逗子鎌倉方面で仕事をし、全日本建築士会理事や神奈川県建築審査会の委員などを務めた。

『工匠談』には多くの木造住宅の仕事を語り、大工技法の秘訣などを書いている。その中に「北鎌倉の関口邸の茶室」の章があり、そこでの職人技を語り、今の宝庵のほかにも3棟を建てたとあるが、宝庵の2棟は山口文象設計だが他は山下棟梁の設計施工であろう。1935年の関口邸竣功のときをこう語る。

長い工事も各職方の努力の結果、無事に落成したので、祝賀の園遊会が催されました。その日の来賓はいずれも一流の名士ばかりで、邸内には甘酒やしるこ、それにおでんやすしなどのいろいろの模擬店が設けられ、なかなか盛大なものでした。そして私たち各職方も手伝いに招かれましたが、私どもは餅つきを頼まれたので、私が得意のコネドリをして、大工連中で景気よくついたものです。私の長い大工生活のうちで、こんな盛大な落成祝賀会は初めてのことでありました。

4.宝庵を再興した建築家榛沢敏郎氏

関口没後からしばらくして(1970年前後か)、北鎌倉に住む建築家の榛沢敏郎さんが宝庵を買い取って受け継いだ。

榛沢氏は、主を失い荒廃していた建物や庭を、京都から職人たちを呼び寄せて、復元的設計で丁寧な解体修復をほどこして、茶席を再興した。なお、当初の建物配置は、いまの位置よりも東に寄っていたらしく、修復時に榛澤氏が現在の位置に移築したそうである。

そして谷戸と建物を愛でつつ、アトリエとして建築の想を練り設計図を画いて過ごされてきたようだ。関口邸茶席が今の宝庵として、創建時とほぼ同じであろう姿かたちで今に伝えられているのは、ひとえに榛沢さんのお陰である。

宝庵は、関口、山口そして榛沢の3氏による協同の建築作品であると言えよう。

2017年に榛沢さんはここを去り、土地建物とも浄智寺に戻され替った。

地域に根差したこの建築家の作品は鎌倉の各所にあり、浄智寺谷戸に宝庵を訪ねるために北鎌倉駅前の広場に降りると、左右に榛沢建築が迎えてくれる。

ここでのわたしの記述テーマは山口文象の関わりかたを探ることにあり、したがって現在のこれらの建築そのものについてはほとんど触れていない。それはその能力がわたしにないこともあるのだが、今のこの建築を語るべき人は榛沢敏郎さんをおいて他にはいないはずだからである。

榛沢さんは荒廃していたこの茶室と茶庭を復興するにあたって、単に復旧ではなく、建築家として創意を込めておられるに違いないと思うのである。敬服するこの建築家の話を聞きたい。

4.宝庵を受け継ぎ保ち伝える人々

この谷戸はすべて浄智寺の土地である。この茶席の新たな主となった浄智寺住職の朝比奈恵温さんは、この茶席を高く評価して、朽ちあるいは転ずるのを惜しんで、その英断で保全活用公開へと舵を切った。この茶席への評価と展望をうかがいたいものだ。

設計図を発見した建築家の小町和義さんにも、山口文象の戦中戦後の弟子として、また茶室建築の名手として、現地でゆっくりと話を聞きたいものだ。

「宝庵」としての新たな展開は、南隣の「たからの庭」を運営する「鎌倉古民家バンク」が茶席を借り受けて運営を担うことになった。大勢のボランティアたちが、2018年春の公開に向けて整備に取り組む。茶席の新たな歴史が始まった。

美しい浄智寺谷戸には、これを興し、継ぎ、伝える素晴らしい人々がいるのだ。

新たな客を待つ宝庵の草葺門

◆宝庵略年表

1925年頃? 関口泰と山口文象が知り合う

1930年 浄智寺谷戸に関口が自宅を新築

1932年 ベルリンで関口と山口が茶席建築の相談

1934年 関口邸敷地内に茶席2棟(現:宝庵)竣工

1935年 自宅離れと親戚の家が竣工して茶席と合せて落成祝賀会

1956年 関口泰没

1970年頃?以降 北鎌倉在住の建築家・榛沢敏郎氏が茶席を取得、復元移築修理。

1975年12月 山口文象が40年ぶりに茶席を訪問

1981年以降 「常安軒」の額がかかる(当時の浄智寺住職・井上禅定師揮毫)

2017年8月 浄智寺所有となる

2018年4月 鎌倉古民家バンク運営「北鎌倉 宝庵」としてオープン

◆宝庵に関する資料

・「関口氏邸の茶席」(雑誌『住宅』20巻4号1935年4月号)

・「吉野窓由来」(『山湖随筆』関口泰著1940年 那珂書店刊)

・「北鎌倉浄智寺の茶席」(『工匠談』山下元靖著1969年 相模書房刊)

・「旧関口邸茶室一畳台目及び数寄屋造り会席」(雑誌『住宅建築』1977・8)

・「関口邸茶席・会席」(『建築家山口文象人と作品』RIA編1982年相模書房刊)

・「常安軒」(『現代和風建築集4-現代の精華1』1984年 講談社)

・関口邸茶席設計図(山口蚊象建築事務所作成、小町和義氏所蔵、A2版青焼8枚)

・ウェブサイト「山口文象+初期RIAアーカイブス

・ウェブページ「1934 北鎌倉の茶席・宝庵(旧関口邸茶席)

・ウェブページ「宝庵由来記ーモダニスト建築家山口文象による写し茶室

・ウェブサイト「宝庵 北鎌倉

(完 2018年1月31日)

*2018/03/15一部訂正:増築棟の記述を削除

*2018/03/22一部訂正:吉野窓の茶室の名称を「夢窓庵」と変更

●関連ページ(ブログ「伊達の眼鏡」2018年3月27日号)

1326・2018年4月に開く茶席「北鎌倉 宝庵」は山口文象作品では「黒部川第2発電所」と並ぶ幸せ建築だ