1949・講演・創宇社建築会について

(1949年10月28日 新日本建築家集団主催 近代日本建築運動史講座)

創宇社建築会について 講師 山口文象氏

今井先生の非常の面白いお話を伺いました、昔を思い出して涙ぐましくなりました。

頭は相当白くなっておりますが、まだ50には2,3年ありまして、年寄りの思い出話というには、まだ相当に時間があると思っております。

創宇社の話を中心にいたします。わたしが若いときに建築の仕事を始めて、わたくしの生活そのものが、だいたい日本の建築運動史の発端から吐き出して来ているような気がいたしますので、自然に自分の手柄話、あるいは創宇社、分離派の楽屋話といったものに脱線していくかもしれないが、それは年寄りの思い出話としてお許しねがいたいと思います。

●清水組のころ

ちょうどわたくしが19の歳の9月頃だったと思いますが、いまは清水建設といっておりますその昔の清水組の、名古屋支店詰めを命ぜられまして、仕事や支店の現場監督員になって行きました。

請負会社では、監督員ではなくて店の代理なのでありますから、砂利を受け取ったり、左官に頭をなめられたり、そういう小僧みたいなことをしておりました。

そのときわたくしは絵描きになろうと思ったり、あるいは文学をやろうと思っていたのでありますが、清水組の現場をやっておりましてもやはり芸術的なものをやりたいという気持ちがあったわけで、結局デザインが自分の性に合っているから、設計者になりたいというような考えを持っていたのであります。

そのとき東京から「建築世界」とい雑誌を送ってまいりまして、たしか9月号だったと思いますが、それに山田守先生が卒業論文を出しておりました。題名はちょっと記憶にありませんが、建築の実態に着目して云々、という長い題名でありまして、非常に難しい論文でありました。

いま読めば分るかもしれませんが、そのときは難しく一生懸命に読んで感服したものであります。そして自分が進む道はここだと定めたわけであります。

●逓信省に入る

自叙伝になって恐縮でありますが、そういたしますと名古屋にくすぶっていてはいかぬというので、東京に出て参りましたが、清水組を辞めなければならぬので親父と喧嘩して、金が全然もらえなくなってしまった。

そこで一面識もない中條精一郎先生のところに参りまして、事務所で使っていただきたいとお願いしたのです。結局先生の事務所は駄目だといわれましたが、何度も押し強くまいりましたので、紹介状を5、6枚書いてくださって、結局逓信省に入りました。

当時の日給1円10銭で、初めて役人なって、図面を引くことだけで満足しておりました。

その年、分離派の山田さんが学校を出られまして、偶然営繕課の技師になりました。わたくしは下っ端の役人なんですが、当時の帝国大学といえば大変なもので、直ぐに技師になって高等官なのです。

以前に山田さんに長い手紙を書いて質問したけれど、返事をもらえなかったというようなこともあって直ぐに関係がついて、山田さんからお話もしていただき、わたくしの建築作家としての生活がそこから始まったわけです。ドイツ語をやったりなどいたしました。

この間、山田先生もお話になったと思いますが、中央電信局の設計について、辞職願をポケットに入れていったというようなエピソードもありまして、そういう新しい気運がもりもりと盛り上がってきた時代でした。それはちょうど第一次大戦が終りまして、世界のパニックの最中であったのでありあます。

それでドイツでは表現派、未来派、構成派といった、新しいスクールがたくさん輩出いたしまして、優秀な芸術家が敢闘していた時代であります。もちろんタウトも名前は既に現れておりました。

そういう非常に社会不安の中から、いままで勃興してきた華やかな資本主義から、自分達の資本主義を守りぬかなければいかぬ、という真に自覚された資本主義というものが生まれでようというような、日本の社会情勢であったと思います。

したがって、あらゆる文化面も同じように勃興の兆しを見せておりました。もちろん、その以前に、文学では有島生馬、志賀直哉、武者小路実篤などの白樺派、絵画では大正4年頃に二科会が結成されて、そういう気運はありましたけれど、大正9年、10年にはそういう勢いが沸騰するようにぐっと出てきたのであります。

●分離派の人々、

分離派ももちろん、大正9年に宣言を発し、ぐっとやりだしたわけです。ちょうどその時分、メンデルゾーンのアインシュタイン観測塔が、ワスムートというドイツの雑誌に出ておりましたのを、山田さんから見せていただいて、全体の傾向はこうなっているから、うっかりしていられない、というので駆け足を始めました。

それで分離派の人たちは、山田さんの下宿に集まったり、滝沢さんが小伝馬町の玩具屋さんでその裏2階に集ったりしまして、さかんに口角泡を飛ばしていたのです。私もそこに入れていただいて、いろんな話を聞いたのであります。これは吸収するものがたくさんありましたし、非常にためになったと思います。

まだその時分は、分離派ができねばならなかった必然性だとか、分離派が持っている役割とかいうものが、わたくしにはよく分らなかったのですが、ただ、今あるものをぶち壊して、新しい自分たちの世界のものを作ろうといったような若気の至りであって、どうしてそういう気持ちになったかという自己分析は全然していなかった。

したがって、紅顔の美少年ではありませんでしたが、ものの考えかたは非常にロマンチックな可愛らしいものでありました。

●岩元碌

その当時、逓信省には、非常に立派なデザイナーがおりまして、この人は大正7年、分離派の人たちより2年先輩の帝大を出られた岩元碌先生であります。先生は後藤慶二先生の影響を非常に受けておられましたが、構造設計もやればまた油絵も上手で、ピアノも教則本のソナチネどころの騒ぎじゃなくベートーベンの月光の曲というようなものを弾きこなす人でありました。

わたくしは岩元先生に可愛がられまして、一緒に長い間暮したことがありましたが、役所が退けて家に帰ると、ご飯も食べないで直ぐピアノに向って作曲をする。 現在、フランスの近代音楽はドイツのクラシック音楽に対応してできておりますが、このフォルムをあの時既に岩元先生がやっておられたものです。

そしてピアノをぴたっとやめますと、百号くらいのカンバスに向って、なにやら分らないような絵を描く。まだ未来派などが日本に輸入されない時代でありました。そしてミケランジェロを見ろ、ダヴィンチを見ろ、建築は総合芸術である、だから音楽も分らなければいかぬ、作曲も絵もできなければいかぬ、また構造もできなければいかぬ、というようなことを言われたものですから、わたしは非常にびっくりいたしまして、大変なことになったと思ったものです。

そのアトリエにしばしば遊びに来られたのは、堀口先生で、それに釣られて滝沢、山田さんなどがみえて、分離派建築会というものができあがったわけです。ですから岩元先生を考えないで分離派は考えられない。

そういう徹底したロマンチストの岩元先生のもとに分離派があったわけで、作品を見てお感じになると思いますが、非常にロマンチックなものです。内面的には岩元先生オ影響を受け、社会的には今申しましたように資本主義が再度立ち上がろうとする勃興の時に分離派がおこったのであります。

わたくしは逓信省から、大阪の船津橋にある工務課という4階の鉄筋コンクリート建築に、監督として出張を命じられまして、わたくしのアシスタントとして梅田穣君が一緒に参りました。

梅田君は神田の中央工学校を出ました非常に情熱的な文学青年でありましたから、二人で文学論を闘わせ、夜は大阪の画家の赤松鱗作のアトリエに通いました。とにかく何かしなければいかぬ、という雰囲気だったのです。

そのときわたくしが21、梅田君が19歳でありまして、彼はまだ金ボタンをつけ、マントを着て、サッカーではくような靴を履き、髪の毛は肩まで達するような、大阪人がびっくりするような姿でした。わたくしはルパシカを着て絵の具をつけ、二人で心斎橋を歩くと人がみなよけて通ったほどで、血気はやった時代でした。

●関東大震災から創宇社建築会の出発

その建築がお終って東京に戻りますと、間もなく関東の大地震に遭いました。東京は実に悲惨な状態になりました。逓信省に入ってから若い同志が集って話をしていたのでありますが、そのときになにかやろうじゃないかということになりました。そのメンバーは、梅田君はもちろん、小川光三、廣木亀吉、専途栄紀でした。

わたくしは前に、会員ではないけれど分離派の展覧会に出しておりましたが、分離派の人たちは大学を出るとすぐ作品をこしらえることができるし、逓信省に入れば技師になり、大蔵省に入っても技師になれる。また、建築事務所に行っても相当なポストにつくことができるわけです。ところがわれわれはそういうことができない

自分たちの持っている創作力を発表しようという、もやもやしたものを吐き出すところがない。それで、やりたいという気持ちと、もうひとつ分離派建築会、つまりその時分の帝国大学へ入る人たちは、多くは中産階級以上の経済的に恵まれた人たちで、もちろん頭のいい人たちですが、山田さんは岐阜県の素封家、堀口さんも***、瀧澤さんは小伝馬町の卸問屋さんの長男、森田慶一さんも非常に裕福な家庭でした。

それに反して、梅田君は没落氏族の次男坊、わたしと廣木君は下町の小さな請負(大工)の倅、小川君は貧乏絵描きの倅であて、経済的に恵まれていない。ですから自分たちで建築をこしらえようと思っても、その機会に恵まれない。

わたくしは前に分離派の会員じゃないが、出しておったことがありますが、分離派の極端なロマンチシズムにある反発を感じて、自分たちも何か表現しなければいけないという気持ちから、展覧会を開いたわけです。

もちろん初期の第1回の展覧会では、非常にロマンチックで、中にいいものもありましたが、だいたいロマンチックでありました。

ただし、買っていただきたいのは、19、20、21の若輩の連中が、東京大震災の大正2年9月1日、その10月に第一回の創作展を銀座の十字屋会場で開いた、ということです。

今は木村屋の隣に楽器屋がありますが、あれよりずっと銀座1丁目に近いところに、中山節治氏が設計した十字屋のバラックができあがった。そこへわたくしが会場を無理に交渉に行きましたが、十字屋のオヤジは非常に感じの悪いやつで、紋付白足袋姿で行っても全然相手にしてくれない。絶対に貸さないというのに粘り強く行きまして、とうとう借りることになり、会場費が高いので負けてもらいました。

1円10銭から30銭の日給を貰っている連中にとって、思いもよらない会場なので、とにかく事情を話して後でもよいからというので借りてやったのです。

その頃、わたくしは大井町にすんでおりまして、佐藤春夫の「秋刀魚の歌」という有名な詩が発表された時分ですが、家へみんな寄りましてでっち上げたのが、この宣言文であります。

そして建築関係の雑誌で、建築画報とか建築新潮とかへ渉りをつけて、批評を書いてくれとか、雑誌に載せてくれとか言ったのですが、帝国大学出の錚々たる者がやっている分離派があまりに華やかですから、はじめは全然問題にしてくれなかったのですが、これも説き伏せまして、各雑誌に批評とか出しましたし、宣言も出たわけです。

●第1回創宇社建築会展覧会

第一回展覧会の傾向は、分離派とほとんど同じでありますが、違うことは、分離派のは既に実際に建てるべきもの、平和博覧会とかいうものの案が多かったのですが、われわれのはその実現性のあるものはひとつもない。

この目次を見ると分りますように、10坪の住宅とかもっともらしいことを書いてありますが、全く架空のものでありまして、結局はフォルムの研究が主だったわけです。

ですが、分離派建築会はブルーノ・タウト、ハンス・ペルチッヒ、ペーター・ベーレンスといった影響を非常に受けておりますが、われわれのほうはもう少し進んでいたはずであります。

このフォルムの形成にいたしましても、分離派の人たちとは相当違うと思います。構成派の影響を受けております。それで、まだ建築についての物の考え方は非常に初期的でございまして、建築は芸術であるというふうに考えておった。

もちろん、建築の有用性とかファンクションといったものは別でございますが、それと同じように並行して進んでいくものは、形、色、線、影、そういうもののコンポジションが巧く出ていなければ美しい建築はできないと考えて、そういうことに熱中しておったわけです。ですから作品は構成派風であり、表現派風であるわけです。

●第2回展

第1回展はそんなことで済みましたが、第2回の展覧会は大正13年に国民美術協会主催で開かれ(た展覧会に)参加いたしました。

これ(丘上の記念塔)は、分離派作品集の中に集録されております。模型を作りましたが、やはりパースペクティブは木炭でやりまして、ハッタリのような図面を描いて驚かしたわけです。蛸みたいに、あしが3つか4つ出ておりまして、劇場があって、後は展望台みたいなもので、この時分の分離派の作品は、非常にロマンチックなものですが、それに一応のメカニックな要素がいくらか入っていると思います。動的なもの、そこが少し違うと思います。

●第3回展と三科展

第3回目の展覧会は、大正15年7月17日ですから、今からちょうど24、5年前ですが、このときには会員が増えまして、山口栄一、これはわたくしの弟ですが、美術学校の建築の学生でありました。それから新建ではたらいておられる竹村君が、この展覧会から参加されたのではないかと思います。

この作品は、とにかく一応フォルムの研究ということで進んでおったのでありますが、創宇社の人たちが持っているもっとザッハリッヒカイトなものを出そう、というものが、段々と芽生えてまいりました。

この3回頃には、既に相当に建築の機能主義的な傾向が現れてきております。創宇社の第3回の展覧会の時には、分離派は既に5、6回やっておりますが、そこで創宇社と分離派との作品の傾向が隔絶されてきたわけです。

この展覧会のときに、梅田君がレリーフを出したのでありますが、非常に立体的なピカソのようなものを、既にあのときにやっております。

全部自分で、模型もなにもやるのです。

そのときわたくしは、戦後の表現的な芝居ですが、トルレル作の「ドイツ男ヒンケマン」を築地小劇場でやることになりましたので、ひとつの試案として舞台装置を出しました。まったく抽象的な舞台装置ですが、舞台装置としてそういう抽象的なものをやったのは、それが初めてであったと思います。

村山(知義)君が、「朝から夜中まで」という舞台装置をやりましたが、これもその時分、やはり評判になったものです。

で、一応、第3回展あたりから建築の機能主義的な方向へのめばえが、多分、現れて着ていると思うのであります。

第3回と第4回の間に、三科という団体ができました。それは、上野の二科かいでも気にいらない。もっと新しいものをやりあいというので、村山知義、二科会会員の中原(実)、美術批評家の仲田定之助が中心となり、私も参加して非常にはなばなしく、3ヶ所に展覧会を開きました。

そのときにも創宇社の人たちがみな参加して、立派な作品を出しております。

●第4回展

第4回の制作展は日本橋の白木屋でやりました。第3回展のときに竹村(新太郎)君が参加いたしましたが、作品は出しませんでしたので、第4回から野口(巖)、渡刈(雄)、古川(末吉)、竹村君の4人の方が参加したわけです。

この展覧会でいちばん楽しまれたのは、竹村君の監獄草案です。これは、ひとつのものではなくて、建築全体のプランニングアレンジ、そういうものを展開しようということに、漠然と気がつきはじめた。

それから機能主義的な傾向が非常に強くなってきて、形の習作とかなんとかいうものがなくなって、みんなプランがついて現実性のある作品が増えてまいりました。

●第5回展

第5回展は朝日新聞社でやりましたが、この時は、同人たちだけがセクト的に展覧会をやるよりも、もっと熱のある人たちから出してもらおう、必ず良い作品があるに違いないということで、無選共同展をやりました。

これは、審査をしないで、持ってきたものを全部集めるのです。これは今お話してもみなさんには分らないと思うのですが、とんでもない作品が出て、びっくりしたことがありました。

例えば、会場の朝日新聞社へ来る道で拾ったものを持ってきて、そこに箸みたいなものを立てて、これが建築であるといったような、大変なものが集ってきました。

しかし、同人の作品は全く段が違いまして、ずっと大人になってきました。もちろん、選択する種類も医学研究所だとか劇場とかいうものが出てきて、もちろんコンポジションなども出ておりますが、大体は現実味を持った本当の意味での建築へ歩みだしました。

そればかりではなく、次の建築家が社会的にどういう立場に立ったらよいか、建築はどういう風なものであるかというところまで、だんだん内省的になってまいりました。

つまり、作品をこしらえる、デザインをするだけではなくて、建築家にはもっと重要なことがあるのじゃないかということには、今まで漠然と考えてはおりましたが、第5回展あたりから明確に出てまいりました。

その端的な表れとして、梅田君の労働会館などに、その傾向が現れてきております。それは今まで自分たちは建築のデザインやコンポジションばかり考えていたが、そういうことだけではなくて、別のものがあるかもしれない、真の建築のあり方を究明しようじゃないか、つまりロマンチシズムから全く抜けきって、社会的建築家に迫ってきたわけです。

社会的建築家というのは変な言い方ですが、社会意識というものがはっきりと頭の中に形付けられてきたのです。これにはもちろんその時代の社会情勢というものが影響しておりますが、ちょうどそれは昭和2、3年でありまして、資本主義が非常に高度に発展し、その結果失業者群も相当に出でますし、左翼運動が盛んになります。

3、4年ごろからだんだん軍部のファシズムが手を伸ばしてくるのでありますが、その限界点に左翼思想がずっと起ってきた。ご存知だと思いますが、昭和2、3年に小林多喜二の「蟹工船」、徳永直の印刷工場をテーマにした「太陽のない街」というプロレタリア文芸が現れてきて、中野重治が活躍している時代です。

全体がそういう傾向になってきて、われわれ建築家も必然的に社会的なものへの目の向け方が無意識に、あるいは意識的に発展してきつつあった。

それはちょうど昭和5、6年の展覧会ですか、題材もやってる仕事もだいぶ今までとは違ってきて、目録にちゃんと各自の作品についての説明を書いたり、非常に現実的になってまいりました。

●第6回展と第1回建築思潮講演会

それから第6回の展覧会と同時に、丸の内保険協会講堂で、創宇社建築会主催の建築思潮講演会を催しましたその時、東大を出てコルビジェのもとへ勉強に行って帰ってきた牧野正巳が、「建築思潮を考える」という題で、もちろんコルビジェについて話しました。

それから、ドイツへ行って建築より美術研究をやってきた美術批評家の仲田定之助氏が、「アドルフベーネの建築感」を話しました。これはドイツにおける新しい社会主義的な芸術批評家論ですが、非常に有名なもので、今読み返しても決して古いものではなく、かえって新しいものがあることを感じます。

わたくしが「新建築における機械的唯物論批判」という題で(話しました)。

新しい建築はただ合理主義的でなくちゃいかぬ、機能主義的でなくちゃいかぬといって、ロマンチシズムを否定しているわけですが、単純に近代建築は機能主義である、だから機能主義的な建築をやるんだというだけで、無批判に言っていいのか、というところから、唯物弁証法の立場からこれを批判したり感想を述べたりしたものであります。

山越邦彦君は、「構築建築」という題でしたが、建築のロマンチシズムが入ることを非常に嫌いまして、全然反対の立場から建築は機械でなければならぬ、デザインは要らぬという立場です。

彼は北京大学で教鞭をとっておりまして、子どもの育て方が非常に科学的なのです。どのくらいの牛乳を飲んだとき、どのくらいの現象が出て、1日に何グラム増えたか、室内の温度をどのくらいにしておいたときには、子どもくしゃみはどのくらい出るかというふうに。非常に物をザッハリッヒにやっている人なのです。

この人は非常に優秀な頭のスマートな建築家ですが、何かの機会にみなさんの前に引きずり出したいと思っております。

これはちゃんと創宇社の講演会号というのが出ておりますが、ルーズでひとりも講演会号を持っているものがいなのであります。そういうメンバーで第1回の建築思潮講演会をやりましたが、500人くらい入る会場に実にいっぱい入りまして、話をするほうもドギマギするくらい非常な盛況でありました。

その時代の若い人たちにいかに受け入れられていたか、内面的にも外面的にも若い人たちにいかに刺激しつつあったかということが分ると思います。

そういう具合で進んでまいりまいて、7回目に、そこにおられる海老原さんも、当時は美術学校の学生でありましたが、入られたと思います。それから大阪の竹中設計部の次長をしている広瀬(初夫)さんも、同人になりました。彼はテクニックのある立派な建築家で、「住宅」とい雑誌は、表紙もカットも編集も、ほとんど自分でやっております。

その頃、「労働者アパートメント」を広瀬君と海老原君がやりまして、傑作だと思いますが、的確に建築のあり方、方向というものをつかんで、様式が出てきております。

●第7回展

また第7回の展覧会には、今泉善一君も高等工学校を出たばかりで入りましたが、第7回唯一の傑作は今泉君の印刷工場で、非常に優れたアイデアのあるものでした。

これは後年、コルビジェが同じものを真似しているが、創宇社の作品が載った雑誌は各国に送られているが、コルビジェは外国人で既に有名であるからコルビジェの作品だといわれておりますが、実際は数年前に今泉君がそういうアイデアを与えているわけです。

その真偽は分りませんが、それほど立派なアイデアを提出しているのです。ドローイングの技術といい、プランニングといい、構造の扱いといい、非常に感心しまして、小躍りしてこの作品を喜んだのであります。

建築というものは、その構造と要求されたものととの総合的なものだとして建築を概念し、真の建築の本質に触れているわけです。

それから河裾(逸美)君は、今泉君とわれわれとの中間にありますが、非常に立派なデザイナーでありまして、不幸にして自分の名前で発表した作品はありませんが、わたくしのアシスタントとしてドローイングだけのものがあります。小説家林芙美子の家のデザインをやってくれました。

それからフランスから、コルビジェのところで勉強していた前川國男君が意気揚々と帰ってまいりまして、さっそくこの展覧会に招待して作品を出してもらいました。

また川喜多煉七郎君も、ウクライナの劇場の建築設計(競技)に3等に入選しましたが、彼も招待して作品を出してもらいました。

しかし、会員の作品のほうがずっとしっかりしているものあったのです。それはなぜかと考えて見ますと、外面的ばかりではなく、社会意識が相当しっかりして、その上に立てられた建築感だからだと、わたくしは思っております。

●第2回新建築思潮講演会

ちょうど第8回展覧会と同時に、第2回の新建築思潮講演会を、やはり丸の内保険協会で開きました。前川君は「3+3+3=3×3」という題で、前川君らしいフランス的で瞬間的には面白いのですが、全体としてどういうことを言ったのかよく分りませんでした。

その時、川喜多君は「アレキサンダー・クライン氏の住宅平面考察」という非常に精密にやっておりましたので、参考になった講演でありました。

それから「ギリシャの建築家」について、滝沢真弓先生が薀蓄を傾けられましたが、滝沢先生は学校を出られて2,3年ごろから非常にギリシャ建築について心を惹かれまして、徹底的に研究されておられます。パルテノンの研究は滝沢先生の右に出るものはないと思います。余談になりますが、パルテノンのファサードの比率というようなものから類推いたしまして、数学的なものまで進んでおられます。

それから白鳥義三郎さんは、早稲田の講師をしておられまして、都市計画を専門にやっておられましたが、単なる都市計画ではなくて都市はいかにあるべきか、つまり社会学的、というよりも社会主義的な見地から、都市の形態と都市計画を研究しておられまして、やはりそうウ内容を持った講演でありました。

それからわたくしは「新興建築家の実践とは」という題でありますが、これは先ほど申しましたように、階級闘争は非常に熾烈になってまいりまして、われわれが個人的にも建築を設計したり図面を書いたりというように個人的な考え方をしていたのでは、本当の建築ができるはずがないというふうに考えてまいりました。

では建築家はどうしたらいいのだろうか。それをつまり唯物史観の立場から手っ取り早く申しますと、マルキシズムの立場から建築家は実際にどうしたらいいのか、という疑問を提出したわけです。決してわたくしの講演が解決をしているのではなく、新しい時代へ進んでいく建築家は、実践としてどう進んでゆかねばならないか、という提出であります。その時代も相当すごい弾圧があったのであります。

●第8回展

わたくしが第8回の展覧会に出しましたのは「紡績工場の女工寄宿舎」のデザインです。亀戸の先に東洋モスリン、もうひとつ先に東京キャリコ、冨士紡績などたくさんの紡績会社が並んでおりましたが、そこでストライキをやったり、いろいろもめておったのであります。

わたくしの友人が左翼運動をしておりました関係で、この東洋モスリンの寄宿舎に実地調査に行きましたので、私も見に行ったのです。その当時の女工さんの生活は、6条間に6人か7人という豚のような生活で、便所も実に汚い。それからオリーズといって綿がどんどん出てきて、それを糸にしているので空気が非常に汚いのです。

それをみんな吸っているから、肺臓の内面に綿が付着していて、1年経たぬ中で倒れていく。飯は不味く、蚤はものすごく、とても悲惨な生活をしていたのです。

そういうものを実際に調査いたしまして、女工の生活改善を図ろうという研究の結果が。この図面に表れて、これを作品とて出したわけです。

わたくしの「新興建築家の実践とは」という話の裏づけではありませんが、ひとつの試みでありました。

わたくしはこの作品と研究を一応漠然とした方向に置きながら、ヨーロッパへ出かけてしまいまして、日本のその後の情勢を知ることができなくなりましたが、創宇社建築会がはじめにロマンチシズム、いわゆる芸術至上主義から(出発して)発展して、真の意味の明確な目的意識を持った建築家の集団に成長してきたということは、非常に大きな効果があったと思います。

不幸にして創宇社建築会の第8回展を境にいたしまして、弾圧が非常に厳しくなったこと、同人連中の自己批判、建築の展覧会のあり方、建築家としてのデザイナーとしてのあり方、そういう厳密な高度な批判を互いにいたしまして、その結果、一応展覧会は開催しないということになったわけであります。

●解散していない創宇社建築会

しかし、展覧会とか講演会とかいうような表面に現れるものは、創宇社建築会としてそれ以後はいたしませんが、創宇社のメンバーは解散していなかったのであります。

デザインあるいは現場に、あるいは建築の仕事とは違った純粋な階級闘争へ、同人すべてがひとりの落伍者もなく、ひとりひとり現在各方面で活発な活動をしております。

もちろん、この新日本建築家集団は、民主建築会と高山君などがやられた建築家連盟が合体したわけであますが、この新建築家集団の中で推進力となって、くるくると活発な回転をしているのは、もちろん他の会員も活動しておりますが、創宇社建築会のかつてのメンバーであります。

ですから、外面的には解散した形になっておりますが、内面的にはまだ解散せず、各自が単位として各方面に立派に存続していることを、ご記憶願いたいのであります。

●劇場の三科公演

創宇社建築会についての楽屋話はまだまだいろいろありますが、今ひとつ付け加えておきたいのは、三科の展覧会のときに、三科で劇場三科を興業したことです。

興業というと大きいですが、ちょうど朝日新聞社が落成して、いちばん上の講堂が1500人収容の立派なもので、そこで同人連中が総て自分の個々の戯曲を書きまして、役者を使ったりして非常にアブストラクトな超現実的な芝居をたくさんやりました。

その中で、仲田定之助さんとわたくしの合作になっております「ファリホトン」という劇をやりました。これはファルで色、ホトで音、トン、この三つの抽象的なものを構成いたしまして、人間の出てこない芝居であります。

例えば幕が開きますとステージは真っ暗です。スポットライトがつきますと真ん丸な風船が舞台から吊り下がっていて、下のピアノの音につれてその風船が運動している。すると突然下から赤いものや黄色いものが出てくる。いろんな立体的な丸や三角のものが舞台で運動するのです。

そういうコンポジションの連続ですが、アブストラクトの抽象絵画の連中に見せてやりたいと思います。これは創宇社の同人が全部参加して、ピアノはわたくしの弟の山口栄一が弾きました。

これはジャーナリズムの上では、ほんの遊びに過ぎないと思いますが、日本の演劇芸術に与えた影響は非常に大きいし、歴史的な作品だと思っております。

わたくしの家で昨年、人形芝居をある人が試演しまして、村山君もきましたが、いろんな話から、ファリホトンの話が出ました。実にすばらしかった、もういっぺんやってみたい、と言っておりました。彼にもいくばくかの影響を与えているのじゃないかと思います。

これは創宇社建築会の手前味噌でありますが、創宇社建築会も決して建築ばかりでなく、絵画のレリーフも、演劇のほうへも、創宇社建築会のメンバーの働きが絶大なる影響をしたわけであります。

創宇社建築会の自慢話になってはなわだ恐縮でございますが、いいたりないところは、次に海老原君がお話くださるので、気楽にいたしました一席の漫談を打ったわけでございます。

(注:小見出しとカッコ内は伊達の補完)

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◆この原稿の出所について(伊達美徳)

RIA(株式会社アール・アイ・エー)の所蔵する山口文象資料の中に、明治大学の校章と「明治大学論文用紙」と印刷された黄ばんだ原稿用紙がある。手書き文字の講演記録に、鉛筆で校正を書き入れてある。

表題は「創宇社建築会建築会について 講師 山口文象氏」とあり、欄外に「明大講堂にて」と書きこみがあるが、日時がわからない。

発言内容に「まだ五十には二、三年あり」とか「大正十五年七月十七日ですが、いまから二十四、五年前で」とあるから、逆算すると1949年前後のことになる。

「近代日本建築運動史」(本多昭一、2003)に、1947年6月に結成した「新日本建築家集団(NAU)」の活動の記事がある。

その中に、NAUが1949年10月に発行した「ニュース」に、「近代日本建築運動史講座」開催予告記事があると、次のように紹介している(113ページ)。

「近代日本建築運動史講座(毎回資料配布幻灯使用)

1 10月14日 総論(高山英華・関野克)

2 21日 分離派建築会(堀口捨巳・山田守・山口文象)

3 28日 創宇社・メテオール・マヴォー・ラトー(今井謙次・海老原一郎・今泉善一)」

以下、12月まで10回まで毎週行なうことになっており、会場は明治大学建築学教室とあり、実際に行なわれた。

これと原稿の内容と照合すると、このときの講演であるとほぼ確定できる。しかし、10月21日に講演したとすれば表題が異なることが問題である。

講演内容に、山口の話の中に、前には今井謙次が、後には海老原一郎が登壇とあり、「この間、山田先生もお話になった…」とあるから、これと表題から判断すると、予告から変更して1949年10月28日に講演したものであろう。

なお、この講演会の内容については、当日の配布資料は残っているが、講演内容についての記録は、著者の本多が「筆者もかなり探したが、各回の内容(当日の報告)を書いたものをみつけることはできなかった」と書いている。

とすれば、この原稿は新発見資料となる。この校正原稿があることから考えると、他の講演内容もまとめて印刷物にする予定はあったが、なんらかの理由でできなかったのであろう。(2011年6月10日 伊達美徳)