1964新制作座文化センター

●名称 新制作座文化センター

●場所 八王子市

●時期 1964年

・写真、図面等

●竣功時写真

●2007年現況写真(すっかり森の中となっている)

・舞台とフライタワーは大きくするために改築された

・劇場は健在

・劇団員の宿舎はすっかり森の中に溶け込んでいるが、もう使われいない

・解説、評論等

●新制作座文化センター設計メモより 近藤正一

・馬蹄形の丘でのイメージ

われわれの仕事は,たしか1昨年の4月から始まる。新制作座文化センター建設委員会は,かつての築地小劇場が山口文象の手で設計されたこと,最近の朝鮮大学がRIAの作品であることを理由として,山口を中心としたRIA忙設計を委嘱することを決めたのがこの時期であった。

もっともこの計画はそれより2年前に,すでに新制作座の10周年事業として内々に発足され,用地買収,建設資金源の調達,これらを基にした概略の設計内容が着々と準備されてきた。われわれが設計に携わるときには,35,000㎡の八王子の広大な敷地もあらまし買収をおえ,しかも厚生年金事業団の文化団体への融資第1号として,当世の日本の演劇界では考えられない1億円という政府融資の採択がおりていた。土地と資金という,もっとも現代の難物であるものを,かくも多量多額に2年間の速さで獲得し終えたことでも,この劇団のエネルギーを評価できよう。

これらの資金獲得に必要な計画草案は,劇団の内部で,これまたエネルギッシュに検討されていた。建築に対するイメージも劇団内であれこれと討議されていたことは,われわれに提供した団員自らの手で制作された大きな敷地の模型が物語ってくれた。そのイメージ作りの中で都会偏重の著しい現代に強い批判を抱いているこの若々しい劇団にとって,なにか都会的に過ぎない建築の造形と,粉飾的な商業主義に惰しない劇場を欲していた。

朝鮮大学に表現された素朴な造形と,当時の市民劇場であった築地小劇場の情感とが,このとき企画側にひらめき,山口ーRIAという設計組織に,このイメージ創りと実施設計が,全て委ねられることになった。

2回目の劇団側との打ち合わせが,∧王子の澄んだ空気のもとで行なわれたのは,5月のある晴れた日であった。八王子駅から自動車で15分,元八王子に近い小高い馬締形をした丘陵の建設地に案内された。昭和43年ごろには,東京から甲府に抜けるハイウェイも敷地近くに完成されるそうだが,まだこの周辺は殆んど自然の姿のまま残されていた。馬蹄形の丘陵を背景に,文化センターの建築として劇場・本部・宿舎の機能をどう把握するかを,あちこちの地点に立ちながら,われわれ一人ひとりが考えていた。

帰りの車中,だれからともなく発した言葉は3つの機能を分散すること,建築が自然に逆らわず,それを壊さないことの2つであった。この2つのイメージは,最初から建築の完成まで貫ぬかれてきた。ということは,企画例の意図を反映する上でも,まず最適なイメージであったのである。われわれはこの分散するイメージを,劇場はシンボルとして,本部は集団活動の機関として,宿舎は,個人生活の場として,それぞれの役割や性格は全く異なるため,これを分離することによって,ますますそれぞれの独自性を強め,機能を充実さも造形表現も純化し得ると劇団側に語った。そして,これらの独立した建物を結ぶのは外気であり,自然であり,この自然と建築の結びつきを敷地いっぱいのびのびと構成することで,自然をできる限りそのままの形状で保ち得るという,自然を壊さないもう一つのイメージにも通じているとも話した。

起居を共にする集団生活の中で,集団と個との問題も当然なことであり,また,劇場をシンポリックに扱うことは,文化センターの最大の主旨でもあるため,分散案はまったくなんの淀みもなく通過した。

もちろん第2の,自然をそのまま活かすというテーマけ,なにゆえに八王子のこの自然を探し求めたかの新制作座の狙いそのものであるため,双手を挙げて賛成されたのはいうまでもない。かくて,イメージは次の具体的な設計に移されることになる。

『建築文化』(1964年3月号 彰国社)65p~68pより引用

●山口文象とその時代そして新制作座文化センター

伊達美徳

シンポジウム「山口文象と新制作座~この建物は残せるのだろうか~」(2007年3月10日(土)13:30?17:30 日本建築学会会議室201・202)にパネリストの一人として参加した。

そのきっかけは関東支部歴史意匠専門研究委員の鈴木解雄さんの紹介だった。鈴木さんはわたしが藤岡研究室で卒業論文を書いていた頃、ドクターコースに在籍しておられ、実に刺激的にわが論文指導をしてくださった人である。その鈴木さんからのご指名だから、いやおうなく、ではなく喜んで出席した。

新制作座文化センターの保存活用問題がテーマであったが、その仕掛け人は学会側というよりは、JIA(日本建築家協会)の保存部会の建築家たちであったようだ。2006年の夏に、八王子の新制作座文化センターの中で、その活かし方についてのシンポジウムがあり、今回はその延長戦である。

その2006年の現地シンポで、設計者の一人である三輪正弘さんが出席なさるのでそのアテンド役として、わたしは始めて現地を訪問した。

竣工時に雑誌に載った写真のイメージは、ブルータルなコンクリート打ちはなし建築群が、自然に対抗するように立ち並ぶ印象であった。

ところが現地を訪れて見ると、緑の谷間にうずもれるように、まるで自然と調和と対立のバランスの妙味のごとき建築群と自然環境であった。

そのときすぐさま私の頭に浮かんだのは、1995年に訪ねたアメリカでの「落水荘」(フランク・ロイド・ライト設計)であった。落水荘も行ってみるまでは、あの有名なパースのせいで自然から屹立するイメージを持っていたのだが、じつは自然と対立調和のバランスの巧みさであるとを知った。それと同じことを新制作座で感じるとは、意外な発見であった。山口文象とライトを対比してみるなど、それまで考えたこともなかった。

もちろんそれは、1963年から今日までの時間が、あのときの丸裸の大地に豊かな緑を再生させたからであるのだが、設計者がそこまで考えていたのだろうか。その後に別の設計者によって建てられいくつかの建物も、この緑の谷間の空間を保持するように配置されているのであった。

以下に、2007年3月10日のシンポジウムのプログラムと、そこでのわたしの発言要旨を記しておく。

シンポジウム(日本建築学会関東支部研究発表会 付随行事Ⅵ)

山口文象と新制作座

~この建築は残せるだろうか~

・主催 日本建築学会関東支部 歴史意匠専門研究委員会

・開催日時 2007年3月10日(土)13:30-17:30

・会場 日本建築学会201・202会議室

・趣旨説明 大野敏(横浜国立大学)

・司会 大橋竜太(東京家政学院大学)

・パネリスト

■山口文象とその時代

伊達美徳(地域プランナー、山口文象研究者)

山口文象とその時代を語る。

■43年経った新建築

田代洋志(ミームズ一級建築士事務所)

43年経ち森の中に朽ちていく打放しの建築、新制作座の現況を伝える。

■劇場建築としての特徴

川上光洋(東京理科大学)

新制作座の劇場建築としての特徴と劇場建築一般の保存の問題。

■自治体の取組みの可能性と限界

白柳和義(八王子市市民活動推進部長)

地域の文化財として利活用する可能性と限界について。

■新制作座再生への試行

篠田弘子(建築家・JIA保存部会)

新制作座との出会いから再生への多面的展開に向けた動きについて

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山口文象とその時代

伊達美徳(地域プランナー、山口文象研究者)

山口の生涯について語るが、新制作座についてはその人生の中でどの位置づけにあるかを語りたい。建築家山口文象は今ではもう忘れられたかもしれないが、現存作品で有名なものは、黒部川第二発電所で、これは自然と対峙するモダンデザインである。東京では新宿区に和風デザインの林芙美子邸が記念館として公開されている。

山口は20世紀が始まるとほぼ同時に浅草に生まれる。父親は清水組大工棟梁で、四男三女の次男でガキ大将だった。浅草の観音様と吉原遊郭の間のあたりの典型的な下町の長屋で生まれ、浅草公園が遊び場だった。庶民が長屋に住むのは当たり前の頃だった。

大工の跡継ぎとなるために東京工業高校附属職工徒弟学校木工科を卒業し、清水組に入って現場で働く。17歳で名古屋の現場に行くが、職人よりも建築家を志すことにして、辞めて東京に帰り勘当同然となる。飛び込みで就職を頼んだ建築家中條精一郎の紹介で、逓信省営繕課の製図工となる。

当時の逓信省は官庁営繕建築界のトップで、帝国大学卒の官僚建築家のデザインをもとに、実務家養成の工業高校等卒の製図工たちが実際の設計をする。そこに入り込んで、最初は下っ端だったが、図面の腕はあるし、大工だったのでディテールにも詳しく、デザインもうまいので次第に上からも周りからも認められるようになる。

上昇志向が強く、仲間たちとともに絵や外国語の勉強をする。デザイン技量を課長であった建築家の山田守や岩元録に認められ、少しずつデザインをさせてもらうようになる。釧路郵便局スケッチが最初のデザイン作品。製図工にデザインさせるのは稀なケースだったが、決して管理職にはなれない身分固定の官僚の世界である。山田守は、日本の近代建築運動の嚆矢とされる分離派建築会のメンバーで、石本喜久治たちと作品展覧会活動を行う。山口文象はそのメンバーに入れてもらうことができて、第3回展から出品する。同僚の中ではリーダー的な立場となる。

山口文象の生涯は、1923年9月1日の関東大震災で一大転機を迎える。地震が建築家・

山口文象を産み落としたと言ってもよい。震災の煙のまだ収まらない10月頃、逓信省で仲間の製図工たちと創宇社建築会を立ち上げる。製図工メンバーを集めて建築労働者の立場での建築運動を行った。震災後にいくつも生まれた建築運動や美術運動団体と交流を広げる。創宇社は1930年の展覧会が最後だが、1931年にメンバーが職場の争議で解雇される事件が起こり、また山口文象が渡欧してリーダーがいなくなったので、事実上は終止符を打った。

創宇社の系譜を引く建築運動の団体は、新興建築家連盟、日本青年建築家連盟、建築科学研究会、青年建築家クラブ等できては消える状況で、戦後は新建築家集団そして今の新建築家技術者集団へとつながる。山口文象にはこのように建築の作家と運動家という二つの大きな系譜がある。

創宇社の展覧会出品作品は、最初はロマンチックな物だったが、そのうちザッハリヒな労働階級に向けた作品を出すようになる。また運動もしだいに左傾化するようになる。当時の美術家たちは左翼運動をするのが常だったし、彼等もその影響を受けるとともに、製図工としての地位への不満もあったろう。

1924年に逓信省をやめて内務省復興局橋梁課に移り、震災復興にともなう隅田川の五つの橋や数寄屋橋などの橋のデザインに関わる。その後、石本喜久治に誘われて石本事務所に移り、朝日新聞社、日本橋白木屋などの設計に携わるが、石本と仲たがいして退職。日本電力の嘱託技師となり、ダムのデザインに関わるようになる。建築家として橋やダムなど土木の仕事をしているのが特徴的である。

1930年の創宇社の主催による講演会で、唯物史観に基づく講演をおこなって、その年の暮れにヨーロッパに向かう。その目的は、当時関わっていた黒部川小屋平ダムに関する調査と、グロピウスの下で働くことだった。1931年半ばからグロピウスアトリエで約一年間働くとともに各地を見学、また在獨の左翼人たちと付き合う。なお、山口文象はバウハウスには行っていない。

1932年の帰国後は、ヨーロッパの最先端の事情を知る国際様式に通暁した建築家として、建築事務所を開き、日本歯科医科専門学校の設計で一躍新進建築家と認められ、その後は多くの設計を行い有名建築家となった。建築運動は帰国後は直接せず、裏のパトロンだった。

山口文象の建築作品には、いわゆる白い箱の国際建築様式と、大工の技量を生かした

和風建築の二つのデザイン系譜がある。どちらもプロポーションの美しさに特徴がある。

1939年に築地小劇場の改装を前川国男と共同で行っているのが劇場建築としての最初。

戦争中は一般建築の需要はなくなり、軍需工場の宿舎の設計ばかり行っている。戦後は仕事がなくて逼塞していたが、交友のあった猪熊源一郎に紹介された高松近代美術館、久が原教会の設計をしている。

1949年に猪熊とともに美術団体の新制作協会に建築部を立ち上げ、運動組織を作る。その最初の展覧会でローコストハウスを原寸の建物を値段の正札つきで展示発表して話題となる。当時は戦後の小住宅提案を、前川国男、池辺陽、増沢洵などの建築家たちが行ったものだが、これもそのひとつで、社会的な提案のある建築作品といえる。

1952年に腕も口も達者な若い建築家三輪正弘と植田一豊とともにRIAグループを打ち出し共同設計を模索しだして、1953年にRIA建築総合研究所とする。翌年に近藤正一が加わって山口文象+3羽ガラスの共同設計が発足する。山口文象の運動家と作家とを止揚した再度の立ち上がりである。

RIAは1945年のグロピウスが共同設計組織を目指して立ち上げたTACに啓発されていることは確かである。共同設計組織を立ち上げたことは、一方では作家としての山口文象のありどころが難しいことにもあり、建築家としての彼には結果として幸せであったのかどうか。

1960年代までは三輪・植田・近藤という3人の建築家がうまく自分たちの力を生かし、山口をフィーチャーしてア・ウンの呼吸で設計をしていったといえよう。朝鮮大学校、神奈川大学、新制作座という群建築がそのような共同設計でできあがって行ったのは、かなりの力量と同時に乗り越える葛藤あったにちがいない。

山口はまかせる所はほとんど3人に任せていたようだ。そのような初期の理想的あるいは原始的なアトリエ型共同設計体制が有効に働いたころの最後の時期の建物が、新制作座文化センターであったといえよう。山口はこの頃は病気がちで、新制作座設計にはあまりタッチはしていない。

1970年代に入ると、仕事も増え大規模なものもありRIAも人数が増えて好むと好まざるにかかわらず組織化されて、アトリエ的な仕事の方法はできなくなる。そうするとう運動家としての山口には手におえない組織であり、伝統的な施主と建築家の関係で成り立つような作家性を出す作品づくりは難しくなり、山口は悩みだしたのである。

60歳半ば頃から病気がちとなり、継続的な設計の仕事よりも単発の講演をよく行うようになる。1970年安保の頃は、建築家の戦中の言動とその戦後転向を糾弾する話で学生や若手建築家たちのアイドル的な存在だった。しかし1978年のある日突然に、心筋梗塞で波乱の人生を終えた。

会場からの質問とそれへの回答

大宮司勝弘(東京家政学院大学):新制作座は1963年にRIAが設計したが、どこまで山口文象の作品といえるのか?

伊達:私は1961年にRIAに入ったが、大阪にいたのでこれには関与していない。聞いたところによれば、山口文象は打合せには数回参加したが、あまりコミットしていないようだ。山口の作品というよりRIAの設計が正しいと思う。

山口は全体統括者だが事実上は近藤正一がプロデューサーであり、実際上のデザイナーは、劇場は主として三輪正弘、本部と宿舎は近藤正一。この両者は何れも実際に演劇をやっていたので劇場には詳しかった。植田一豊は当時大阪なのでタッチしていない。

設計期間は3ヶ月だが、それでできる筈もなく、かなり現場に持ち込まれてデザインされたはずだ。宿舎の設計と現場監理は北島道生で、これには彼のデザインも入っているだろう。なお、当時RIAが設計したもので、一つだけは無くなって建て替わっているのは、山の上にあった真山美保邸(芸術家の家)で、これは近藤正一のデザインであるが、2年で火災消失した。

大宮司:RIAの当時の人数は?

伊達:1961年には全部で13人だったが、大阪は5人、東京は8人だったろうか。

大熊:私も伊達氏と同世代。「ぶどうの会」に所属して演劇活動に参加。

新制作座は建築というよりも、全体で構成しているコミューンで出来ている。これにRIAが関わるようになったきっかけは何か?

伊達:近藤正一氏に聞いたところでは、ある雑誌の編集長が新制作座から設計者を紹介してほしいと依頼されRIAに持ち込んだ。左翼劇団の真山美保と左翼建築家と思われていた山口文象とでうまくいくかもしれないということだったらしい。もっともRIA側はそのような事とは関係なく、面白い仕事としてやったようだ。

司会:登録文化財制度により、50年が文化財としての目安になっている。今から50年前の1957年はちょうど社会的に大きな変化があった頃。この50年代~60年代について、どの様に考えるか。

伊達:RIAが1953年にできる。戦争で打ちのめされていた日本経済は、1950年にはじまった朝鮮戦争の軍需景気で戦後復興するのだが、生産活動が前向きになり建築家も生きていくめどができたといえよう。戦後民主主義の空気の中で、山口文象の建築運動家としてのスタンスもその流れにうまく乗り、共同設計といういかにも民主主義的な装いでRIAができる。山口文象としては、建築家としても運動家としても、二つの潮流をうまくアウフヘーベンできた。

しかし1960年代後半からの高度成長期に入ると、戦前型のプリミティブな運動家・建築家山口文象はもうついて行けなくなる。戦後のたとえば五期会(1956年)のような建築運動も起きたが、それらも高度成長の中に埋没していった。50年代の共同幻想的な戦後民主主義の総決算が新制作座といってよいかもしれない。

その新制作座とまったく同じ日に日生劇場がオープンし、左翼コンミューン劇団新制作座の真山美保とは全く対照的な、劇団四季の浅利慶太の商業演劇がスタートするのだが、戦後の動きの象徴的な現象かもしれない。

司会:山口文象についての質問がある。山口がドイツに留学した理由など。

伊達:黒部川第二発電所に強く関係している。山口は石本と喧嘩して事務所をやめ、日本電力の嘱託になる。ここでダム・発電所のデザインを行う。小屋平ダムを設計するためにドイツに派遣されたのであろうと考えられる。ドイツ行きのことは山口にしつこく聞いてもよく分らないままだが、カールスルーエ工科大学の水理学のレーボック教授の研究室に滞在して、ダムの形状について教示してもらったことが彼の手帳にあり、ダムの形態やデザインに関する調査メモが書かれているから、その調査のために日本電力からの派遣でドイツに行ったのが確実なところであろうと思っている。そうでないと金が出るわけが無い。当時他に外遊した建築家たちへのインタビューを佐々木宏や長谷川尭がした出版物があるが、いずれも金持ちで大名旅行に近い。

日本電力の仕事はともかく、山口の本当の目的は、当時バウハウスで有名だったがそこを辞めてベルリンで設計事務所を開いていたグロピウスの下で働くことだったろう。お役目と自分の野望をうまく果たしたことになる。なお、山口の話では共産党活動関係でその関係者にロシアで会う必要があったから渡欧したとも言うのだが、これは本当だろうか、調べようがない。

山口文象の生涯について補足するが、山口文象個人の作品の最後は1953年の大久保邸であろう。新制作座は共同制作体制がうまくいっていた最後期の作品と話したが、この後の1960年代後半からRIAは新たな時代に入る。それまでは毎年20~30件も設計する住宅のRIAだったのが、60年代後半頃から都市計画・再開発のRIAとなる。新大阪センイシティーでは施主は500人もいる繊維問屋の共同建築だが、その設計から事業にいたる合意形成には、それまでの共同設計体制で養ったノウハウが生かされ、さらに再開発という多くの人たちが資産を出し合って共同建築をするときの設計方法に展開したのである。その頃になると山口はついていけない。逆に一人の担当者として作品を作ることになる。1971年の是の字寺、1973年町田市資料館がそれである。

山口の戦前の最高の作品は黒部第2発電所と小屋平ダムだが、戦後の最高の作品はRIAという組織であったろう。その意味で、建築家としても運動家としても人生を全うできた様に、わたしは思っている。

司会:最後にパネリストから一言いただきたい。

伊達:ここに並んでいるから保存派と思われては困る。保存すべきとも、保存しなくてもよいとも、今日はひとことも言っていない。それを言うだけの新制作座文化センターに関する知識を、わたしはまだもっていない。

(以上)

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