1948年 広島平和記念カトリック聖堂コンぺ 応募作品

●建物名称 広島平和記念カトリック聖堂コンぺ 応募作品(準佳作20案のうち)

●建設予定場所 広島市

●コンペ応募案制作年 1948年

●資料掲載誌 「平和記念広島カトリック聖堂建築競技設計図集」(1949年 洪洋社)

●応募作図面

●コンペ概要

・1948年3月28日発表、6月10日正午締め切

参加登録1309名、規定による応募図案177点

・審査結果:1等:該当者なし

2等(賞金5万円):井上一典、丹下健三

3等(賞金5千円):衛藤右三郎、菊竹清訓、前川國男、米澤廸雄

佳作:栄木一成、内田祥哉、大江透、小坂秀雄、高田秀三、道明栄次、野生司義章、福田良一

準佳作(賞金4千円):荒井龍三、小川正、大場常雄、大沢浩、河内義就、佐藤秀三、

笹原貞彦、杉本朝次、鈴木久弥、竹崎文二、徳永正三、富田信一、七海実、福富弘、

福永満八、村上潤、山口文象、山根正二郎、吉原慎一郎、渡部安吉

・審査員:建築界から堀口捨己、吉田鉄郎、村野藤吾、今井兼次、

教会側からフーゴ・ラッサール、グロッパ・イグナチオ(イエズス会の教会建築士)、荻原晃(カトリック広島使徒座代理)、

後援者側から朝日新聞社員1名

●論考

広島平和記念聖堂コンペの山口文象応募作について

杉野 和彦

コンペの概要

1948年(昭和23年)に「広島平和記念カトリック聖堂建築競技設計」(以下コンペ)が催され、山口文象(以下山口)はこれに応募し準佳作に入選した。その応募案について考察をこころみる。

このコンペは募集要項に特色があるので長くなるが主要部分を参照してみよう。

なお、応募者は日本人に限るとされた。

主要な施設は聖堂、講堂、司教館であり、設計主旨として

「本計画に於ては優れた日本的性格を発揮すると共に戦後日本の新しい時代に応ずる提案を望んでゐる。此の主旨に基いて下記の要項を掲げる。

1.聖堂の様式は日本的性格を尊重し、最も健全な意味でのモダン・スタイルである事、従って日本及び海外の純粋な古典的様式は避くべきである。

2.聖堂の外観及び内部は共に必ず宗教的印象を与えなければならない。

3.聖堂は記念建築としての荘厳性を持つものでなければならない。以上のモダーン、日本的、宗教的、記念的と云う要求を調和させる事が此の競技設計の主眼である」。

いやいや、これはむずかしいコンペだ。

聖堂の規模については数字を示さず、「聖堂と塔の建築費(電気工事を含む)は15,000,000円とす(昭和23年3月現在公定価格)」とし、塔については「塔の選択は応募者の自由である」。

また、「本講堂は教会の催し、集会、劇、音楽会等の為に使用される。其の他男子及び女子のクラブ室、若干の教室及び必要な附属室を設けること」。「純宗教的な性格を持たせる必要はない」。講堂も規模は数字で示さず、座席数最小500席、建築費700万円、聖堂が耐震耐火建築とされているのに対し講堂は木造とされた。

司教館は「なるべく聖堂との統一を考えなければならないが、単純化されることを望む」と記され、所用室の面積が示されている。

1948年3月28日発表、同年6月10日締め切り。

審査員はABC順に

イエズス会建築家グロッパ・イグナチオ、建築家東京大学講師堀口捨己、

建築家早稲田大学教授今井兼次、イエズス会日本管区長フーゴ・ラッサル、

建築家村野藤吾、カトリック広島教区長萩原晃、建築家日本大学教授吉田鉄郎、

朝日新聞社代表の8名。

山口の応募案について

現在残っているのは外部および内部透視図、配置図を兼ねた1階平面図なのだが、一見して気がつくのが配置平面図で、左に聖堂、右に講堂を配置し中央に塔が立つのだが、その左右対称性である。

平面図をキャドに読み込んでみたところ、塔は敷地南北方向の中心に正確に位置し、塔を縦軸として厳密に聖堂と講堂が左右対称に配置されている。聖堂と講堂は幅(南北方向の寸法)がほぼ等しく、奥行きは聖堂の方が大きい。無論、聖堂と講堂とは平面形が違うし

(矩形の講堂に対し、聖堂は上部[内陣]がアール状になっている)、入口まわりの表情も変えてある。風除室は聖堂の方が広く、キャノピーもそなえる。山口もそれなりに聖堂と講堂の差異は意識している。透視図をみれば高さの違いも明らかだ。

また、敷地をフルにつかって聖堂と講堂を併置したので入口への「ひき」がない。広場は塔のまわりを囲むが聖堂、講堂共に入口は広場に面していない。

広場及び塔の前のスペースが台形状をなしているのに気づく。パースペクティブの効果をねらっての事だろうが、つい丹下健三の大東亜建設記念造営計画コンペ案を思いだした。山口の脳裡に丹下のコンペ案が浮かんだと推測するのは考えすぎだろうが。

要項を読めばわかるようにこのコンペでは聖堂本体にこそ重点があり、聖堂の「日本的性格、モダン、宗教性、荘厳性」が要求されていると解釈するのが普通かと思う。だが、なぜ山口は確信犯的に、ちょっとみるとまるで聖堂が2つ並んでみえるような配置をしたのだろうか。なぜ講堂のシンボル性を高めるようにしたのだろうか。

外部透視図を見たときに一瞬、前川国男の帝室博物館コンペ案を思い浮かべてしまった。実際に比べてみれば似ても似つかないものなのだけれど、その左右対称性と中央部の強調でそう感じたのだろうか。山口の作品を調べてみると左右対称好みとも思えるものがある。たとえば

東京市庁舎コンペ応募作(1934年)、愛知県庁舎コンペ応募作(1935?)など。無論建物の性格として左右対称であっておかしくはない。東京市庁舎コンペでは1等の宮地二郎案、3等の前川国男案ともに左右対称のようだし荘厳ならずとも威厳を感じさせる。

山口の左右対称好きか、山口なりの荘厳性の強調か。このあたりは読み切れない。ただ、いずれにしても性格、コスト、構造の違う建築を堂々と左右対称に並べたらコンペ上位入賞はむずかしいと思うのだが。

ところで、平面図の表現には外壁の影を表現するというのが当時の流行だったのか。山口がそうだし、この聖堂コンペで2等入選の丹下健三、3等入選の前川国男も影を落とす表現をしている。ただ、よく見ると三者の平面図での影の落とし方が微妙に違っているのに気づく。

山口の表現では影は立体物の影として表され、高さに関係なく同じ長さに見える。丹下案の図表現は山口とよく似ているが、高さに応じて長さが変わっている。従って塔の影の長さは他の部分より長い(ただし塔だけ)。前川案は平面が浮いているときの影のように描いている。

山口の左右対称好みかどうかは別として、もう一つ考えられるのは山口の講堂への新提案である。要項によれば講堂は宗教性を持たせる必要はないし、木造だし、実用的な建築を要求しているように思える。が、山口は聖堂での祭事と同等に「教会の催し、集会、劇、音楽会等」を扱う事を提案したのだろうか。そこで聖堂にも劣らないような規模、外観を(といっても外部透視図からの判断だが)与えたのだろうか。戦後民主主義の到来の時代にあえてこのような提案をしたのだろうか、たとえ左がかったポーズとしても。

山口は一時、築地小劇場にかかわっていたこともある。

内部をみてみよう。独立した丸柱が印象的で、身廊と側廊の境を示すものであることは明白だ。ではなぜ丸柱か。四角い独立柱に抵抗があるのはわかるが、たとえば八角形、十二角形でもいいはずだし、そのほうがより日本的表現に近づくようにも思える。そこをあえてシンプルな形態を選んだのだろうと推測するしかない。

金属を被覆したようにも見える、いや、目地をみると石張りかもしれない柱とフラットな天井、側面の壁の開口部の大きさ、ザハリッヒで実にモダンな空間であり、それを表現できる絵描きとしての技量も目を見張らせる。プロポーションも見事だ。奥の内陣部分がアール状になっているのが空間の連続性を強調し、納得できる。(平面図を見たとき、なぜ内陣を巡礼者教会によくあるようなアール状にしたのだろうと疑問をもったのだが)。

ザハリッヒと言ったが、丸柱及び内陣のアール状壁の天井との接し方が微妙だ。接している部分の影のような表現により柱と壁が天井から離れ、天井が浮いているようにも見える。山口の逡巡のあとがうかがわれるといってよいのだろうか。

だが、ここに山口の確信犯的モダニストが顔を出している。この内部表現では「宗教的印象」「記念的荘厳性」という観点から宗教関係者から高い評価は得られないのではないか。

仕様も仕上げも記録がないので残念だが、聖堂につきもののステンドグラスについて山口はどう考えたのだろうか。

外部はどうだろう。小さい写真で見るとあまり印象的ではなかった外観も、キャドで拡大してみると少し印象が変わる。特に向かって左、聖堂のファサードは端正で美しい。袖壁の伸びてきている様子、スリットをへた正面の印象的な壁、屋根のスラブ状部分の薄さ、プロポーションの良さ、建築の常道をいく優れた作品と思う。

ただ例によって、正面の十字架がなければ教会とは思えない、って、ではなんの建物に見えるのだと問われても困るのだが。

塔は「中央館」の入口のキャノピーをかねた2階部分を貫いている。平面図及び外部透視図から推測するしかないのだが、塔は階段を2枚の壁が挟んだ無愛想かつ開放的なものにも見える。

頂部には塔の高さに比してささやかな十字架がたっていて遠くからはあまり目立たないように思えるが、山口にすればこれで充分だったのだろう。塔の選択は応募者の自由だが、塔をたてるなら「聖堂の鐘4ケ(総重量1200キログラム)」に耐えられるよう要項には示されていた。

この外観は「モダーン、日本的、宗教的印象、記念的荘厳性」という観点からはどう評価されるだろうか。僕には充分モダンであり日本的に見えるのだが、宗教的、記念的とは、少なくとも宗教関係の審査員は評価しないだろう。

この時山口は46歳、当時の日本人建築家のご多分に漏れず、経済的にうるおっていたとは想像しがたい。山口もこのコンペに込めた思いは大きかったはずだが、僕からみれば確信犯的に

モダニズム(だけを)を正面切って提出したのはどういう心境だったのだろうか。設計趣旨説明のようなものがあったはずだが残っていない。

このコンペは1等入選なしとされ、それが大きな問題となっていくのだが、1等賞金分が余ってしまい、要項になかった準佳作なるものをひねくりだした。山口は準佳作に入選、「国家公務員の初任給が2900円」だった時代に賞金3500円を手にした。

聖堂は結局、審査員のひとり村野藤吾(以下村野)が実施設計を担当し1954年(昭和29年)8月6日に献堂式が行われた。

後日談(余計な話)

すったもんだのあげく実現した村野の作品は誰もが瞠目する優れたものだ。実見した僕もつくづくそう思う。ただ、要項にあった「モダンスタイル」とは言いがたい。過去の様式によらないことといいながらも、これはほぼロマネスクだろう。また、どこが「日本的」なのか。鳳凰をのせてみたり日本風模様の開口部をあければいいと言うものではなかろう。

審査員であった村野にあっても、コンペの要項は克服できなかったのではなかろうか。

村野は設計主旨について

「ー ある点を限界として、矛盾に到達する。そこでかかる矛盾を把握しながら、且つ矛盾を如何に創造せんとするかが問題の核心ではないかと思うが ー」と言っている。矛盾を創造するってどういうことか、何を言っているのかよくわからない悪文ではあるし、まさか自分に聖堂の設計がかかってくるとは思わなかったのだろう。

しかし、村野が実施にあたって行ったことはスタンスのずらしであり、狡猾か賢明か、ただ時代の推移に流されたということなのか。

参考資料及びウェブサイト

・平和記念廣島カトリック聖堂建築競技設計図集(1949年 洪洋社)

・世界平和記念聖堂 広島にみる村野藤吾の建築(石丸紀興著 相模書房)

「年表:山口文象」 建築家山口文象+初期RIAアーカイブスサイト(伊達美徳制作)より

2016/08/28

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