1966・プラニングにおける思想性

プラニングにおける思想性 山口文象

(『新建築』1966年3月号)

最近の住宅について

最近、雑誌にのっていろ住宅作品は現代建築の造型主義的傾向をあらわしているように思いますね.建築家の住宅に対するイメージが外部空間としてとらえられていて、そうした考えで住宅がつくられているのではないですか.私の場合は、外部空間をイメージする前に、なかからふくれあがってくるものを自然に表現させて、それがかたちになってきたものがだんだんと整理されてできてくる、これが住宅ではないか、と思うのです.近ごろの住宅はなにか彫刻化しているような気がします.

外部からイメージしてくるのは彫刻ですからね.住宅はそういうものではなく、内側から生活空間を綿密に分析して.そこからふくれあがってできるものではないでしょうか.

昭和のはじめのドイツの新らしい住宅をみると、たしかにかたちを意識しているが、人間の生活そのものを決して忘れてはいませんでした.結局、こうしたことが合理主義のプリンシプルなのですね.それがこのごろは有機主義が強調されすぎ、合理主義はinhumanであると考えて、有機約にはこうではないかということで人間性をとり入れているといった状態といえるのではないですか.むしろなにか建築家の遊戯が入っているようですね.たとえば雑誌にのっている作品をみても、人間が住んでどんな感じがするのかなと疑問に思うことがあります.それは合理主義という冷たさからくるものではなく、造形的処理の関係でそう感じるものだと思います.そしてその疑間が近ごろの造形の基本的なことを知らない人たちにも、なにかをやらなければと思わせ、アクロバット的なことをさせているのではないかと思います.自分の造形意欲のみが先走っていて人間生活がない.プランをよく練らずに、まず彫刻を先につくり、そのなかへ生活を入れようとするから、あのような結果になってしまうのではないでしょうか.

なかはふるい中廊下式だとかのプランが多いのに、外部はコンクリートなどの土木的ともいえる解決をしているものなどそうした例といえます.

もうひとつの疑問に、丸太を使用した作品の場合があります.実際あの丸太の造形的な意味は認められるが、構造的にあんなに太い丸太が必要であるのかどうか、たしかにあの丸太は印象的で、設計者のアイディアはどこかにあるのでしょう.屋根の面とあの丸太の太さからいって造型的にはうなずける.しかし構造的にはどうなんだろう、ということですね.このような作品をみて、そのあとにくっついていく人は、その造型のみを注意していくものだから、こういうことの集積がさらに悪い方向に膨れ上がっていくような気がします.あれがプラニングからも構造からも必然的なものであるなら、気にはしないのですが。

私は住宅の外観については、昔はプランや構造といっしよにバランスさせて.そのスマートさに気をつけていましたが、現在はプランや構造がしっかりしていれば、外観は必然的に出てくるものだ、あるいは少し修正をすればいいのじゃないと思っています.これは外観をあとからつくるという意味ではないのです.すでにプランニングと同時にバランスしながら外観がイメージされてくるものです.プランニングのあとからエレベーションの苦労をはじ゙めるというのは決して本当じゃありません。住宅ばかりではなく、このことは建築全体についてもいえることだと思います. .

昔はプランはさきにシングルラインで示されていで.それにエレベーションをつけるだけだったのです.ケント紙がする減るまでエレベーションだけを工夫するわけです.

この方法は本当の設計方法とはいえませんね.しかしこれらの作品の実際は、ドイツの19世紀末の、あるいはハンブルグの建築のムードを外観的にとり入れただけなんですよ.けれども向うでのそれは住宅や教会などのためのデザインで、それを電話局などにとり入れているんだから、本当の意味での建築の輸入ではないと思いますね.

近代建築と文化住宅

建築についても,ヨーロッパでは産業革命から近代建築が生まれたのであり,オルブリッヒなり,ホフマンなりからグロピウスになって近代建築になったわけです.それが日本にこりいれられる過程で,いつのまにかその本質の間題がすりかえられてしまったわけです.

外観の組み立てのみで,本質のないというか,できあがったものそのものをそのままいただいてくるという感じが多分にありますね.機関車にしてもセオリーそのものをテクノロジーの立場から分析して輸入してくるのではなく,運転法を輸入してそのまま新橋―横浜を走らせるといった感じですね。

住宅の場合,大正末期や昭和のはじめ,いわゆる文化生七というか,中廊下式で玄関を入ると左側にすぐ応接間があり,その応接間の屋眼のみ赤いというようなものが多くありました.いわゆる日本の近代建築家がグロピウスなどの海外の新しい建築デザインを輸入した場合、プランはそのまま中廊下のような日本式で,屋4艮は黒い瓦が平らになり,外観は白く四角っぽく,下見がラスモルタルぬりになって,これが近代建築であるという輸入の仕方でした.いまみると非常に矛盾を感じますね.

私自身はこのようなことをやりたくないとりう考えで、暗中模索したある時期がありました.昭和はじめの日本の近代建築の輸入の仕方についての厳密な批判が批評家によってなされなかった.だから今の若い人たちはその思想なり本質なりを全然知らないわけです.

かたちだけはル・コルビュジエのチャンディガールが出てぐる.しかしプランは全然違うわけです.ル・コルビュジエの思想は輸入されていない.こういう輸入の仕方はふるくからずっとそうであったことを考えれば、今の建築家だけをせめるわけにはいかないですけれども.

Y氏邸・小林邸の設計

Y氏邸は1934年の作品で.鎌倉の美術批評家の住宅です.小林邸は1937年の30坪ほどの正方形の作品ですね.このふたつは、どちらも主張は同じです.小林邸については、今のRIAの作品と共通するところがあるといわれますが、やはり全然違いますね

Y氏邸はぜいたくな、大きい家です.逆に小林邸はできるだけコンパクトにまとめたものです。しかしどちらの場合も全体として建笑費がおさえられていました.どちらもできるだけ建築費をぎりつめて、そのうえで施主の目的も尊重したというのが根本問題ですね.

小林邸のプランは横に3つのグリッドに分けて、その当時の考え方とは逆に前後に廊下で2分しています.それは当時アレクサンダー・クラインのExistenz Minimumの考え方を、少し日本的に、自分なりに翻訳したという感じがありました.私自身反省してみて、小林邸はその外観がリチャード・ノイトラに似ている.プランニングの方法としては、Y氏邸はミースの住宅に似ているようです.しかし夢中でやっているときでしたから他の作品支みてやるという余裕はまったくなかったですね.だからやっているときには自分では全然わかりませんでした.

もうひとつ自己批判すると、Y氏邸にはプラン・のかたちとしてのあそびがあったように思いますね.敷地のかたちとの関係もあり、また建築主の要求もそれに加えられたなどということもあったのですが.

私が最初にコアをとり入れて住宅をつくったのは、このころですが、今は焼失してありません.中廊下などのいろいろなプランニングにいっしょうけんめい抵抗していた時代です.これからはまたその当時くらいのファイトで、からだも丈夫になったこだし、住宅設計をやっていこうと思います.

これから私の進む道は昔とは違う意味でのシビアなたたかいになるでしよう。しかし若い人たちのそれとは違ったものになるんじゃないかと思います.

ふりかえってみると私が小林邸をデザインしていたころは、国際建築の運動がすでに終りをつげて普遍化し、たたかいは終っていたのです.平和になってくると.連帯感は解かれ、個人個人がそれぞれを主張していく.あるいは個人がほかの個人を発見していく、そういうことが重要になってきました.ノレ・コルピュジエやグロピウスのロンドンの講演、ミースのアメリカにおける仕事などはそうした状況でのものでした.それと同じような意味で、私自身も孤立というか、個にかえって自分を発見しようという衝動が強く働いていました.

現在も状況としてはそのころと同じようですね.

日本建築の問題

1930年代になると新建築運動はすべて弾圧されはじめました.つまり新らしい建築のかたちは新らしい思想を含んでいるにちがいないというわけです.日華事変、上海事件のころになると私自身のたたかいは終り.一応整理されていたわけですが、交友していた友人の多くがファシズム、ヤマトイズムヘ走っていくのには失望しました.もし私が文学者であったならば筆を折っていたことでしょう.しかし私は建築家であったので、デザインを中止したわけです。なにかを創作しようとしていた私がファシズムに向かわずに 逃避的な絶望状態のなかでつくりあげたのが自邸です。自邸は1941年にできたのですが、すっかり

絶望し、本当になにもやる気がしなくなって自邸をつくったのです.ですから積極的な意味でなにかを発見しようという作品ではなくて.茶室とか木割りとかの研究だとか、日本建築の空間の分析の問題だとか、若いときからやっていたものの集積が無意識のうちにつくりあげたものです したがってこの自邸は戦後10数年もしてから、はじめで発表したのですが、デザインの良し悪しは別にして、今でもなにか考えさせられる作品ですね.

私自身日本建築への執着は、私の父や祖父が宮大工であったので、小さいころから父がかいていた寺や神社の図面を横でみながら.私はデザイナーになる前に、建築史家になろうと考えていたこともあるのです。日本建築をやろうと思って、新薬師寺の庫裏に泊って奈良を歩きまわって、実測したことがありました。この関心が関東大震災後、茶室の方へ移っていきました.河内や堺に残っている茶室のプランをうつし、写真をとり、実測してまわりました.これをベルリンヘもっていき、学咬で展覧会をしました.このときにグロピウスに細かく茶室のことを話したものです.

柱、長押、壁の色、にじり口からの庭石の配置の仕方、造園の神経のするどさなどを勉強させられれ、茶室のすばらしさを教えられ.非常にひかれたものです.

私のデザインしたもので.北鎌倉と鎌倉の間の浄智寺の奥に5軒の茶室があります.すこしは残っていますが、これらは私かヨーロッパや、行く前の作品です.昔から必然的におぼえた木割りや実測による集積が、私の考えを潜在的に茶室にむすびつけているのでしょう.しかしもう一度ああしたもの、日本建築をやろうとは絶対思っていません.

戦後文学者のなかの相当進歩的な人でさえも、潜在的にある日本的なものにその考えを沈澱させてしまう人が多かった.反動的というか、日本的というか、無意識のうちに一種の郷愁的な思想をもっていたわけですね.私の場合にも、私がいちばん吸収のさかんなときに父や祖父からたたきこまれたものや、実測によってえたものが、私の血となり、肉となって性格づけられているのです.近代的なものはそのうえにあとから肉づけされたものだと思います.戦後における大久保邸を中心とするRIAの日本的な住宅の出現はそういうところに原因しているのではないでしょうか.

伝統の問題

その建築のデザインから校倉を感じるとそこに伝統があるというのでしょうか なにかを連想させるものがあるのが伝統というのでしょうか 私はパターンが伝統をあらわすとは考えていません.それが必然的に出てきたものであれば、いいと思いますが、そうではなくてパターンとして使ったものは伝統ではないと思います.内面的なエスプリそのものが感じられろものの方に私は伝統を感じます.エスプリの問題であって、パターンの問題ではないですね.

だいたい日本的なムードを出していく方が楽ですね.われわれは日本的なものにかこまれているわけですから、そちらへ流されていくこと、これがいちばん楽で.またもっとも効果的で、マーケットも確実なわけです.これに抵抗するには.その底に流れる思想や哲学がしっかりしていなくてはならないわけです.ヨーロッパではそうはいきません.たとえばギリシヤ、ローマ的なものなどということになると、それはもう手軽に使えるようなものではなくなります.またたやすくとけこめないものですね.近代建築そのものが、そのような行き方をまず否定することからはじまります.だから決して楽な方向とはならないわけです.ところが日本では大変とけこみやすい楽な方向としてあるため、そちらへ流されていく.日本の伝統がそうした近代建築のムードとうまくあっていたともいえますね.しかし若い人たちがこういうことに無批判にくっついていくことはいけないと思います.

住宅と思想

問題は住宅に限らず ものをクリエートする建築家として建築を考える.社会的な職能としての態度をどうするか.世界史的・社会史的な意味における建築家とはなにか、そういう大きい意味の考え方をしなくてはいけないのではないでしょうか.ですから、住宅を小さいからといって建築のひとつの部門としてみるのではなく 住宅そのものを建築家の仕事の全体として考えていいのではないですか.住宅を考えることのできない建築家は建築家ではないと思います.

そういう意味で近ごろは.とくに日本の建築家は.なにか目標を失なっているのではないかと思います どうしてこうなったかというと.ものを考える、哲学をする建築家があまりに少なすぎるのではないかと思います.

平面には、設計の考え方のすべてが含まれているといってよいでしょう.とくに問題にしているものは、平面にいちばん象徴的に現われます.建築家の住宅に対する考え方.どういう人のための住宅なのか、その人の社会のなかの位置は、などということがそこにははっきりとでてくるはずです.ですからいいかえると、孤立した住宅を考えることはありえないはずで、社会のなかにある住宅としての考え方をもたなければいけないと思います。ただ間仕切りをたてることが平面だと考えられているのだとすると、それが根本的に間違っているんですね

今後の関心

私が今考えているのは.建築家として人間の生活そのものに参画していきたいということです。それは人間の生活の新らしいかたちやパターンを創造するという意味ではなく.忠実に生活する人のために本当のプランニングをし、いっしょに考えていける建築をつくりたいということです。すなわちできるだけより多くの人たちのために、いっしょに進んでいけるようなプランをつくっていきたいと思います.

このことは私のもっている庶民的・社会主義的というような性格によるもので、大勢の人のための住宅をつくっていきたいと考えるのです.これはプレファブリケーションの仕事につながるものです.もちろんそうではない個々の住宅もあるわけですが、私はそちらへはいかないでしょう.

番町集合住宅をかつてやりましたが.あれは2階建てテラスハウスのアパートの前身です.しかし庶民のための住宅ではなく、特殊な階級の人のものでした.外国人や特定な人を対象としたもので、洋式の生活ができる人に貸すという目的で建てられたものです。

私たちの若い時代はある意味でいい時代でした。やろうと思うことがやれた時代です。日本の資本主義が第1級に成長したときで、私の思想はどうであれ、私も資本主義のなかにいたのですから 私がやろうとする欲求はなんらかのかたちでみたされうる時代であったのです.

それがファシズムでペシヤンコになり、自邸ができたわけですが、今の人たちの場合は.それと違った欲求不満があり、それがアクロバットなものとなって現われています。エキセントリックな表現が、住宅ばかりではなく、建築界全体に感じられてなりません.

話はかわりますが、自然に出てくるものの美しさ、たとえば第3京浜にみられるマイヤールの橋のもつようなエスプリの美しさと、現代の建築家が意識してつくりだすアクロバットとの対比に私は考えこんでしまうことがあります.

建築家のあり方が今までの言葉の概念での建築家ではなくなりつつあると思います。個々の建築を、個人の住宅をつくっていく建築家と、大衆のもの、たくさんの人のためのものをつくっていく建築家というふたつのタイプになると思います.今プレファプの問題をディテールまで考えて、それが造形的にどういうふうにできるかを考えてやっている建築家の仕事を尊いと思います。また他方こういう仕事もあるんだとして、ひとつひとつ珠玉の作品をつくっていく建築家も存在しうるのです.またこのふたつをいっしょに考えてしまって目標が決まらなくて、迷っている建築家も多いわけです.どちらか自分の置くべき位置を決定することが必要であるのに、それができないであがいているのが現在の建築家の姿だといえますね。

RIAと私

RIAとして社会的な問題に進んでいきながらも、私個人としてのなにかをつくりだしたいという葛藤は、心のなかにいつもあります 何日もとじこもって.ひとつの作品をつくりだそうとする欲求と、しかし今はすでにその段階ではないという気持、この心の葛藤ですね.ローコストな家を量産としてつくる場合を考えると、1軒1軒の人の意見をきいているとだめなわけで、一応平均化されたプランがいくつかあって、それをモデュファイしていくという方法が必要ですね.しかしこれは非常に禁欲的です.禁欲的におし進めていくとこれが習慣になってしまって、表現力がやせてしまうおそれは多分にあります.

しかし住宅設計のよりどころとして個性か組織かという問題になりますと、RIAは組織による設計の方へ進むことになるでしょう そうなることこそRIAの本来の意義だと思います.

しかし私自身は否定していながら、私のなかから大久保邸が現れたように、これからの私というものはRIAとはちがったところへとびだすか、あるいはなかにとけこむか、私自身の心の中にのこる葛藤はいつまでもつづきそうですが、私は皆といっしょに行くつもりです.

(『新建築』1966年3月号)