1959 朝鮮大学校

●名称 朝鮮大学校校舎等

●場所 小平市

●時期 1959年

●写真、図面等

(カラー写真は伊達撮影(1970年頃)、モノクロ写真はRIA所蔵

・記 事

●北朝鮮大学を建てる 川添 登

(「RIAの総帥山口文象」=『建築家・人と作品』1968井上書院より引用)

現在、日本に在住する朝鮮人は約六〇万で、その約三分の二、つまり四〇万が北鮮系であり、しかも年々これが増えつつある。ところが、韓国人すなわち南鮮系であれば、日本の大学に入学することができるが、北鮮の人たちは入れないことに日本の規則が出来ている。

すでに小学校から高等学校まで彼らは独自に学校をつくり、自分たちの子弟をそこで教育してきた。そして大学をつくることが、彼らの夢だった。北鮮の金日成政府も在日北鮮人のこの願いを重視し、その建築費を日本の朝遵あてに送ってきていた。大学ともなれば少なくとも数千坪の敷地が必要である。今から四、五年ほど以前から、朝鮮の責任者たちは、北区に、練馬区にこの敷地を求めて奔走していた。

しかし、うまくいっていた話も、ひとたび彼らが北鮮の人であることがわかった瞬間に、それは失敗におわるのであった。そこで彼らは韓国人をよそおって、土地集めにかかったが、それも公安庁の調達でもとの杢アミとなった。どのようにしても、数千坪の土地を獲得することはできないのだった。このような無駄な努力が約二年間つづけられ、その間、在日北鮮人からはつるし上げられるし、本国からは督促の命令が何度もくだり、朝連本部の人たちは苦境に立たされていた。

けれども金日成政府が、その苦境をまったく知らなかったわけではない。彼らは、それを熟知していた。たまたま文部省の要人で東大の文学部を卒業したものがあり、彼はかつての友人である山口文象を思い出し、山口は建築家ではあるが、信頼できる男だから相談してはどうか、と朝連に知らせたのである。

相談をもちかけられた山ロは、深く期するところがあり、熟慮の末彼が信頼するある人物に頼んで、名前だけの幽霊会社、トランジスターをつくると称する共和産業なるものを設立し、その人物が社長となった。この社長は、さらに信頼できる不動産業者を見つけ、この二人が土地の選定と買いしめをはじめた。トランジスターの工場となれば話は違う。都下小平町で、約六〇人ほどの地主がもっていた土地を、またたくまにまとめ、買上げることに成功した.

いっぽう、山口は植田、三輪、近藤の三人をよんで相談した。彼らは進歩的な人びとだが、その思想は社会党といつた程度で、共産主義とは縁もゆかりもない。しかもこの仕事をやったとわかれば、以後アメリカへ入国できなくなる他、いろいろ不都合なことがおこることを覚悟しなければならない。山口は内心ことわられることを恐れた。この三人は、若いとはいえ、いまやRIAの長老格である。もし彼らがいやだといったら、山口がたった一人でその建築の設計をしなければならなくなるだろう。だが、彼らはいった。「やりましょう」

こうして、三人が中心になって設計が進められた。しかし、それが朝鮮大学であることを知っていたのほ、RIAのなかでもこの三人だけで、あとのスタッフはトラソジスタ工場と信じこんでいた。設計が完成し、トランジスタ会社共和産業小平工場の入札が行なわれ、白石建設に落札、工事が着手されることになり、工事費約一億五千万円の半金七千方円が、工事契約と同時に白石建設に支払われることになったが、これがまた大変である。

朝鮮の貨幣は、浅草の親和銀行で日本円にかえられるが、ここからすぐ支払われたら一べんに露見する。引出された七千万円はひそかにRIAの事務所に運ばれ、一時RIAの取引銀行におさめられ、そこから支払われた。すべてはこのように秘密裡に進められた。

朝鮮総連の人びとも、このことは責任者の五名が知るだけであった。彼らは一人として、一度たりとも工事現場に姿を見せることはなかった。時たま、はるか離れた畠のなかから、彼らの夢の学園が建設されつつある有様を、望み見るだけであった。やがて工事は、ことなく終った。

昭和三四年(1959)八月九日から三日間、日本全国から代表数千人が東京の共立講堂に集まり朝鮮総連の大会が開かれたが、その最終日になって、全員朝十時に中央線国分寺駅前に集合することという通達があった。

その翌朝、国分寺駅長をはじめ、その周辺の人びとは、時ならぬ数千人の朝鮮の人たちが、赤旗を林立させて駅前に集合したのをみて、何事が起ったかと驚いた。だが、その数千人の人びとも、自分たちが何事のために集まったのかを知らなかったのである。しかし、彼らは整然と集合し、やがて「共和産業トランジスター会社」の現場監理を担当した山口の実弟山口栄一が準備した一〇台のバスに、彼の指揮に従ってつぎつぎに乗せられ、驚く市民たちの間をぬって一台、二台と去っていった。

バスから降りた入びとが見たものは、広い敷地に建てられた鉄筋コソクリートの立派な建築であった。見上げれば屋上に北鮮の旗がひらめき、入口には彼らが夢に見た「朝鮮大学」の文字が書かれていた。朝鮮の人びとは、異国にあって祖国の土をふんだ感激をおぼえたであろう。しかしそれもはっきりとは見えなくなってしまった。だれの目にも涙があふれでてきたからである。

やがて朝鮮の全国代表数千名の参集による朝鮮大学竣工式がひらかれ、朝連の責任者や、大学生の演説のあと、山口文象の働きが紹介され、挨拶を求められた。彼は壇上に立って、日本人と朝鮮の人びとが仲良くしていきたい、ただそのことだけのために、この建築をつくることに協力したという意味の簡単な話をした。終ると、拍手と歓声の中にしばし立ちつくさなければならなかった。

この事件は、新聞にも大きく取り上げられ、公安庁関係から事情聴取もされたが、違法はまつたくなかったので、問題にしようにもならなかった。しかし、とにもかくにも、これだけのことをまったくの秘密裡に行ないえたということは、戦前における非合法のフラク活動を経験Lないものには出来なかったであろう。共産圏以外の国でも、共産党の勢力が非常に強いところはいくらでもあるが、共産国以外の国に共産主義の大学が建てられたというのは、歴史上唯一のことなのである。だが以後、問題はなにもおこっていない。この当時の外務大臣であり、また山口が大日本製糖の工場を設計した際、その社長だった藤山愛一郎に、その後ある会合で山口があったとき、彼はひと言、「君大変なことをやったねえ」といっただけだったという。

デザイン人国記・東京④

東京の建築家2 山口文象 泉 真也

(前略)日本にいる北鮮系の人たちは、日本の大学に入れないのが規則である。現在四十万を上回る北鮮系の人が居るのに、彼らの行くべき大学がない。金日成政府は事態を重視し、建設費を日本に送ってきていた。しかし、彼等、北鮮系の人たちには、建物はおろか、土地を入手することすら自由でなかった。

ここで山口が登場する。相談を持ちかけられた山口は、名前だけのトランジスタ会社をつくり、その名義で土地を買い、工場、実は朝鮮大学を建てる作戦に出た。

それは山口の思想によるものであったと思うが、故なく建設を妨げられている人たちに対する山口の、義憤のようなものが、山口を動かしたのではないか。

この仕事をやったあとでの、いろいろな社会的な問題を考え、山口は一人でもやる覚悟でいたという。しかしRIAの長老格の三人も、喜んでやることに賛成、完成の日まで、この三人の他、RIAのスタッフは工場だと信じて図面を引いていたという。知らなかったのは彼等ばかりではない。頼んだ朝鮮総連の人も、幹部の五人を除いては、このいきさつを知らなかった。こうしてある日突然、朝鮮大学は世間の日立の前に姿を現した。

竣工式の日、あいさつの後、数千人の拍手と完成の中で、壇上に立ちつくした山口の胸中には、総てをかけてものを作った男の誇りと、少年の頃夢見た建築家になった喜びが、激しく渦巻いていたに違いない。この時期は、日本で最も幸福な建築家だった。

東京の下町の生んだ多感な少年は、江戸っ子が、常に庶民の味方であったように、絶えず庶民の側に立って行動し、仕事と、彼をめぐる先輩、友人たちとのつき合いの中で、たくましく成長した。

山口文象、見事な人である。(『室内4/No.148』から引用)

●朝鮮大学建設のいきさつ 伊達美徳

この一文は、「朝鮮大学のこと」(水口 禎)なる自家製の冊子をもとにしていることを、あらかじめお断りしておく。その記述の日付はないが、筆者(伊達)は2006年に水口氏からプリントをもらった。

著者の水口氏は2009年に故人となったが、かつてRIA所員であった建築家で、1958年にRIA入所直後にこの朝鮮大学プロジェクトにかかわっている。

朝鮮大学の設計がRIAに持ち込まれたのは、1958年の春であった。その仕事の名称は「共立産業鷹の台研究所建設工事設計監理」となっていた。朝鮮大学であることは所員に緘口令がしかれた。

この設計がどうしてRIAに持ち込まれたか。主宰する建築家・山口文象は、伝説的に(伝説的な、ではない)左翼運動家であったことから、「朝鮮総連を通じて何者かを介して、このプロジェクトの設計依頼があったとしても理解できる」(「朝鮮大学のこと」(水口 禎))。

当時は(今もか)政治的に難しい立場にある「朝鮮」の名を冠した施設を建設するには、一工夫が必要であったので、今で言うところのSPC特定目的会社の共立産業を設立して、この建設の事業主となり、設計をRIAに発注したのであった。

水口氏の記憶では、この共立産業鷹の台研究所の業務は、トランジスターの研究であったという。

基本計画は、植田一豊が自宅でほぼ一晩で作り、翌日には所員に分担を一方的に指示してすぐに設計に入り、2ヶ月程度で実施設計を完了した。

デザインはコンクリート打ち放しの躯体だけのプロポーションで勝負という、「植田一豊の一夜漬けの傑作」(水口氏)である。

工事業者の選定が難航したのは、政治的にも金融的にも言われなくても分かるどこかヤバそうなプロジェクトの性格の故であった。結局、それまでRIAの仕事をよくやって来た工事業者が、悩みつつ引き受、1959年に第1期工事が完了し、開校した。

この会社は第2期工事は固辞し、この筋のことは気にしない別の建設会社が受けたが、次の第3期工事は、設計も工事も学校側で直営で自ら行ったという。法的には問題があったはずだ。RIAはもうお呼びでなくなった。

この建設費の支払は、金融機関を通さない現金決済であり、それの受け渡しはRIAの事務所で行われ、そのために金某なる北朝鮮から来たと思しい人物がたびたび出入りし ており、水口氏はこの人から初歩の朝鮮語を習ったという。

いつもはすぐに発表したがる当時のRIAにしては、プロジェクトの性格からして珍しく沈黙したままであった。ところが、完成4年後の1962年に「建築年鑑賞」を受賞するとこになり、建築ジャーナリズムに始めて登場した。

そして1967年に朝鮮民主主義共和国から山口文象に、朝鮮大学の設計に対して「金日成賞」を贈られることになった。当時の金日成一流の平和攻勢の一環であったかもしれないが、 21世紀初めの今ももちろんだが半世紀近く前の当時にしても、授賞式に訪朝するのはRIAにとってはメリットにならないと判断して行かなかった。

1959年に完成した共立産業鷹の台研究所が化けた朝鮮大学は、公的に認められないままの学校だったが、革新都知事の美濃部良吉が各種学校の朝鮮大学校として認可したのは1968年であった。

わたしは1961年からRIAに所属したので、この設計にはかかわっていないが、RIAとしてもその後は関わったことはない。それというのも、その後の増築工事の設計施工は、朝鮮大学校がすべて自営で行なったからである。

1970年頃だったか、なにかの記念行事があるという招待状がRIAに来て、わたしが訪ねて行ったことがったが、上のカラー写真はそのときのものである。(090520)

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