1923-30年 創宇社建築会

・名 称 創宇社建築会展覧会出品作品

・場 所

・制作発表時期 1923年~1930年

●創宇社建築会メンバー

    • 山口文象(岡村蚊象) 1902~1978

    • 梅田穣

    • 小川光三

    • 広木亀吉

    • 専徒栄記

    • 山口栄一

    • 竹村新太郎

    • 渡苅雄

    • 野口巌

    • 古川末雄

    • 海老原一郎

    • 河裾逸美

    • 広瀬初夫

    • 今泉善一

    • 平松義彦

  • 道明栄次

●創宇社展、講演会、関連論評等一覧

・創宇社第1回展

1923(大12),11.24~28 於銀座十字屋

若き画家達のために「研究所」(図・摸) 同人 専途栄記

郊外の共同住宅(図・模) 同

劇場試作(図・模) 同人 広木亀吉

或る公園の茶亭(図) 同人 小川光三

ある「フィルム」社の映写場(図・模) 同人 梅田 穣

音楽と野外劇のために(図・模) 同人 岡村蚊象

「創宇社と其の第1回展」 岡村蚊象 『建築新潮』5-2

「第1回創宇社建築製作展覧会」 滝沢(真弓)『建築雑誌』450

「最近建築と原始人の心」 濱岡周忠 『建築画報』15-3

・帝都復興創案展覧会(国民美術協会〉(創宇社第2回展)

1924〈大13〉.4.13~28 於上野竹の台陳列館

丘上の記念塔 同人岡村蚊象

劇場 同

K氏の住家 同

美術館 同人梅田 穣

塑人の家 同

「建築創案展覧会の感想」 今和次郎 『中央美術』10-6

「復興創案展覧会」 岸田日出刀,村山知義,山田守,森谷延雄,佐藤武夫他 『建築新潮』5-6

・創宇社第3回展

1925(大14).7.17~21於銀座資生堂美術部

無題(横) 同人 山口栄一

劇場試作(図・模) 同人 広木亀吉

住宅(図) 同

山の中に建つ「アトリエ」(図) 同

公設浴場(図) 同

公園に於ける売店(囲) 同

会館(図・模) 同人 小川光三

十坪の住宅(図・模) 同

M氏の住宅案(図・模) 同

住宅としての「コンポジション」(模) 同

時計台(油絵) 同

「レリーフ」の下絵(油絵) 同

同 (淡彩) 同

住宅の「スケッチ」 同

国境に建つ記念塔(模・写) 同人 梅田 穣

鋳物工場試作(囲・模) 同

コンポジション(模) 同

薄肉彫塑 同

「コンポジション」其ノー~其ノ五 同

「カフェーユイラク」に於ける壁の草案 同

商店の設計(図・模) 同人 岡村蚊象

音楽堂(模) 同

住宅 其ノー(模) 同

同 其ノニ(摸) 同

橋の柱燈(模) 同

「コンクリート」橋の設計 同

建築(模) 同

エルンスト・トルレル作・戯曲「ドイツ男ヒンケマン」舞台装置 同

「創宇社第3回展覧会と吾々の態度」 岡村蚊象 『建築新潮』6-9

「創宇社第3回展」 濱岡周忠 『建築新潮』6-9

・創宇社第4回展

1926(大15).10.22~26 於日本橋白木屋

建築(図・模) 同人 野口 巌

コンクリートの住宅(図・模) 同

私の家(図・模) 同

燈柱(模) 同

高層建築構成 同人 渡苅 雄

画家Oの家(囲・模) 同

コンクリートの住宅(図) 同

監獄草案(図・模) 同人 竹村新太郎

住宅(図・模) 同

COMPOSITION 同人 古川末雄

アトリエのあるうち(図・模) 同

住家(図・模) 同

自動車給油所(図) 同

建築(写) 同人 広木亀吉

建築(模) 同

COMPOSITION 同

建築構成 同人 山口栄一

家(図・摸) 同

絵(油絵) 同

小住宅(図・模) 同人 小川光三

彫塑家のイエの試案(囲・油絵・模) 同

高層建築(図・油絵・模型) 同

COMPOSITION 同

コドモ室に用いる布のORNAMENT(油絵) 同人 梅田 穣

TOMBSTONEのデザイン(3/10模) 同

街道建築 A.酒場 B.奏楽場 C.踊場 D.自動車小屋 E.占所 同

面と線 同人 岡村蚊象

或る建築創案 同

建築形態の究極? 同

「創宇社展を見て」 佐藤武夫 『建築新潮』7-12

「第4回創宇社展覧会を見て」 平澤郷勇 同

「建築を想う(一)」 堀口捨己 同

「創宇社第4回建築制作展覧会私感」 大内秀一郎 『建築世界』20-11

「創宇社建築展漫評」 小瀧文七・千野薫 同

「反抗の第一歩」 貴船生 同

「創宇社第4回展の所感」 由比忠治郎 同

・三科新興形成芸術展覧会

1927〈昭2).6.3~12 於日本橋千代田ピル,京橋宮沢家具店,朝日講堂

港の公共建築計画 同人野口 巌

建築形態創案 同人小川光三

児童劇場 同人山口栄一

新しき時代の職業学校 同人渡苅 雄

建築(停車場) 同人古川末雄

壁画の一部 同人梅田 穣

1950年計画 中央航空機停車場 同人岡村蚊象

「独逸人ヒンケマン」舞台装置 海老原一郎

速力と方向を持った建築 同

建築構想,第二 藤田 巌

硝子構成物体 山越邦彦

(可動)家具 同

作品 仲田定之助

作品 川野徳恵

構成(材料・色彩・形態・建築への驀進) 吉田治徳

時代に寄する形成作品 玉村善之助

東洋風組曲とでも 同

異常精神に就て(絵) 同

(作品) 雨夜 全

鋭角を主題とする作品 河田 烈

星群と女性 中原 実

青の周辺(絵) 同

形の習作 梅野

刺繍(2作) 仲田菊代

窓際の男 大高

構想 大浦周蔵

恋はやさしき風景 峰岸義一

ファリフォトン舞台装置(演出・効果) 仲田定之助 同人 岡村蚊象

「建築と三料運動とに就て 単位三科の言葉」 藤田 巌 『建築新潮』8-6

「1927年「三科」概評」 蔵田周忠 『建築新潮』8-7

「建築的な,余りに建築的な(三科形成展を見て)中口秀 同

「三料展を見て」 古川春夫 同

・無選共同建築展〈創宇社第5回展)

1927(昭2).12.7~11於朝日新開奄

医学研究所(図・模) 同人古川末雄

港に建つ倉庫(囲・模) 同人広木亀吉

コムポジション 同

共同倉庫(図・模) 同人野口 巌

コムポジション 同

斎場試案(共同墓地計画の一部)(図・絵・模) 同人小川光三

供養堵(同)(図・模) 同

商店 A (図・模) 同人岡村蚊象

同 B (図・模) 同

住宅(図・模)(三宅やす子邸) 同

橋畔に建つ休憩所(図・模) 同

事務所建築(園・模) 同人竹村新太郎

コムポジション 同

硝子製品工場試案(図・模) 同人渡苅 雄

住宅(図・模) 同

労働会館(図・模) 同人梅田 穣

印刷工場(図・摸) 同

バー(図・模) 同

壁面構成 その一,その二(図) 同

支那そばや(図) 同

ステンドグラス(図) 同

遊園地の児童劇場(図・模) 同人山口栄-

街道製作品陳列場(図) 同

RELIEF(KUNSTSTEIN)A(図) 同

同 B(実物) 同

ステンドグラス(図) 同

貸ボート星を兼ねたレストラン(図・模) 渡部 完

海の塔(苦おしの悩みいだいて海に去りし人々のために)(模)平野一男

CLUB-HOUSE(習作)(図) 大手市太郎

停車場(図・模) 鎌田友治

コムポジション A,B 町田栄太郎

GLASS WORK(図)(APPLY TO THE WALLS OF GELMAN COFEE) 同

公衆浴場(図・摸) 福中駒吉

カフェー(図・摸) 同人河裾逸美

百貨店(図・模) 同

「恋愛構成録を制作する室の或る二面」 綾小路 譲

「紅い帽子のあるコソストラクション」 川崎恒夫

「構成」 山下謙一

新興芸術家聯盟合作

住宅 その一,その二,その三(図) 長谷川 正

会館案 その一,その二(図) 内田正巳

「創宇社主催無選共同建築展批判」 金須孝 『建築新潮』9-2

・創宇社第6回展

1929〈昭4).2.4~10 於朝日新㈹社

住宅(図・模) 同人古河末雄

ポートレーススタンド(図・模) 同人広木亀吉

銭湯(図・模) 同

撮影所(図・模) 同人河裾逸美

ケーブルカーのある山に建つ休憩所(図・模) 同

図書館(図・摸) 同人野口巌

住宅 同

運河に架けるオフィスビルディング(図・模) 同人小川光三

スケッチ(図・模) 同

小別在(図・模) 同

東京新商店街計画(図・模) 同人竹村新太郎

住宅(図・模) 同

形態デッサン 同

集合住宅案(図・模) 同人渡刈 雄

放送局(図・模) 同人梅田 穣

住宅(図・模) 同

〃 (図・模) 同

商店(図・模) 同

スポーツクラブ(図・模) 同人山口栄一

住宅(図・模) 同

労働診療所(図・模) 海老原一郎

無料図書館(図・模) 広瀬初夫

労働者アパートメント(図・模) 海老原・広瀬

「第6回創宇社展覧会評」 金須孝 『国際建築』5-3

・第1回新建築思潮講演会(於丸ノ内保険協会講堂)

1929(昭4).10.4

・創宇社第7回展

1929(昭4〉.12.10~16 於朝日新聞社

消費組合食堂(図・模) 海老原一郎

劇場(図) 同

貸工場(図) 福中駒吉

綜合病院(囲・模) 同人古川末雄

科学工業博物館(図・模) 同人広木亀吉

女子職業学校(図・模) 広瀬初夫

住宅(図・模) 同

印刷工場(図・模) 今泉善一

連続住宅(図・模) 同

住宅(図・模) 同人河裾逸美

住宅(図・模) 同

労働保健館(図・模) 同人野口 巌

湘南地方のアパートメントハウス 同人小川光三

或る公会堂と町役場(図) 岡田孝男

はなれの書斎(図・模) 同人岡村蚊象

家具セット 同人岡村蚊象

サナトリウム(図) 同人竹村新太郎

公衆食堂を持てる無料宿泊所 同人渡苅 雄

中央市場プラン意図(図・模) 同人梅田 穣

(未定) 同人山口栄一

特別出品 ファーレソカンプ氏其他の作品

「創宇社展を見る」 石原憲治 『国際建築』 6-2

「第7回創宇社建築制作展覧会」 金須孝『建築画報』21-2

「建築へか? 建築へ?」 和井植夫 『建築世界』24-2

「建築の展覧会とその作品ー創宇社の感想ー」川喜田煉七郎『建築世界』24-2

「建築実践とは」 竹村新太郎『建築新潮』11ー5

・創宇社第8回展

1930(昭5).10,1~7 於朝日新聞社

住宅(図・模) 同人海老原一郎

不具者療養所(図) 同人古川末雄

小売商店計画(図) 同人広木亀吉

病院 平松義彦

鉄骨組立家屋(図・模) 同人広瀬初夫

協同組合アパートメントハウス(図・模) 今泉善一、道明栄次

集合住宅(図・写) 川喜田煉七郎

独身者のアパートメントハウス(図・模) 同人河裾逸美

ガブロンツ町役場コンペチション応募図案(1928年) 前川国男

ザプレップ公共建築コンペチション応募図案(1929年) 同

名古屋市庁舎コンペチション応募図案(1929年) 同

明治製菓コンペチション応募図案(1930年) 同

2人家族集合住宅(図・模) 同人野口 巌

漁村改革案(図) 同人小川光三

紡織工場の女工寄宿舎提案(図・模) 同人岡村蚊象

サナトリウム(図・模) 同人竹村新太郎

(未定) 谷口吉郎

小家族アパートメントハウス(図・模) 同人渡苅 雄

小学校秦(図・摸) 同人梅田 穣

託児所(図・模) 山本勝巳

特別出品「サロンドートンヌ出品」住宅内部

ル・コルビュジュ ピエール・ジャンヌレー マダム・シヤルロット・プリアン

「創宇社の躍進」 瀬田作士 『国際建築』6-11

「新しき社会技術へ」 石原憲治 同

「創字社展覧会所感」 白鳥義三郎 同

「建築と建築展覧会」 野呂英夫

「創宇社展ノート」 土浦亀城

・第2回新建築思潮講演会(於丸ノ内保険協会講堂)

1930(昭5).10.3

●創宇社建築会の活動年表(佐藤美弥氏制作による)

    • 1923年秋 創宇社建築会結成

    • 1923年11月24日~28日 創宇社建築制作展覧会開催(銀座・十字屋楽器店)

    • 1924年4月13日~28日 国民美術協会主催帝都復興創案展覧会参加(第2回展)

    • 1925年7月17日~21日 創宇社第三回建築制作展覧会 銀座・資生堂美術部

    • 1926年1月 野口と渡苅が分離派第五回展公募に応募、野口入選(このとき後の同人平松義彦も入選)

    • 1926年5月 単位三科の結成に参加

    • 1926年10月22日~26日 創宇社第四回建築制作展覧会 日本橋・白木屋呉服店

    • 1927年6月3日~12日 三科新興形成芸術展覧会 日本橋・千代田ビル、京橋・宮沢家具店、数寄屋橋・朝日講堂

    • 1927年12月7日~11日 無選共同建築展開催 数寄屋橋・朝日新聞社

    • 1929年2月4日~10日 創宇社第六回建築制作展覧会 数寄屋橋・朝日新聞社

    • 1929年10月4日 新建築思潮講演会 丸の内・保険協会講堂

    • 1929年12月10~16日 第七回創宇社建築制作展覧会 数寄屋橋・朝日新聞社

    • 1930年6月23日 新興建築家連盟第一回準備会 学士会館

    • 1930年7月18日 新興建築家連盟第三回準備会と設立総会 神田基督教青年会館

    • 1930年10月1日~7日 創宇社第八回建築制作展覧会 数寄屋橋・朝日新聞社

    • 1930年10月3日 第二回新建築思潮講演会 丸の内・保険協会講堂

    • 1930年10月20日 新興建築家連盟第一回大会全員参加 神田・カフェーブラヂル

    • 1930年10月 ソ連ウクライナ共和国ハリコフ市ウクライナ劇場コンペに応募

    • 1930年11月 新興建築家連盟臨時総会の解散決議

    • 1930年11月 岡村(山口に復姓)渡欧

    • 1932年1月5日 青年建築家連盟の結成

    • 1932年5月 建築科学研究会に名称変更

    • 1932年12月 山口帰国

    • 1933年10月 青年建築家クラブへ改組

  • 1935年10月 『火曜会ニユース』の発行

●創宇社建築会ポスター

●創宇社建築会展覧会出品作品

●創宇社宣言

我等は古代人の純情なる

創造の心を熱愛し,模倣てふ

不純なる風潮に泣き

永遠の母への憧れをもて

頬廃と陳腐とにただれたる

現建築界の覚醒を期す.

我等は生の交響楽一全宇宙に

我等の生命,美しき『マッス』を

見出すべく専心努力する.

創宇社宣言

(創宇社建築会第1回展目録に掲載)

●創宇社建築展 岡村文象 (雑誌『マヴォ』第7号 1925年7月)

創宇社は第三回の展覧会を銀座の資生堂で開いた。情熱と元気と力と若さとを以って民衆の真中へ踊り出し我々は赤裸々に人々へ呼び掛けた。民衆はそれを慎んで(ママ)迎かへて下れたが、建築・美術の所謂専門大家は一人も来なかった様だ。

我々の対照(ママ)は遂に過去に属する先輩ではなくて正直に我々を受け入れて下れる民衆なのだ。

×

君達、造形美術に携っている自称芸術家の内で、建築を本質的に理解しているものはほとんどあるまい。理解しやうとするものもあるまい、建築がすばらしい力の芸術であり、亦君達がどうしても到達しなければならない円錐の突端が建築であると謂ふことも、おそらくご存知あるまい。

君達はもう過去のものだ。金ピカの額縁の中で胎児のごとく堅くうづくまってゐるがいい。

あなた方、建築に携っている所謂大家の皆様方の内で心から建築を愛してゐるものがあるか、新しい芸術を少しでも理解しようと考へたことが只一度でもあるか、ないでせう あなた方はもう過去に属する人達なのだ。今日の我々の仕事に就いては一言も口出しする資格のない人達だ。

これから只静かにあなた方の築いた墓場の中で安らけく眠ってしまって下され。

×

マヴォで建築と劇場号を出すそうだ。ほんとうにお目出度い。マヴォの発展を、マヴォイズトの諸君と共に我々は心から祝福する。

×

われわれの舞台装置に就いて詳しく蚊かな駆ればならないが、写真報知(八月五日号)に写真と少しばかりのテキストが載る筈だからそれを参照してもらひたい。(了)一九二五・七・二六

、1ページ分の写真ページに次の作品が載っている。

「住宅模型」岡村文象、「トフラー作 ヒンケマンの舞台装置模型」岡村文象、

「建築」山口栄一、 「劇場試作」広木亀吉、 「鋳物工場」梅田穣

●明日の建築へ

-創字杜建築会制作展に際して-この一遍を新居格氏へ贈る

岡 村 蚊 象

吾々が過去の歴史的事実を省みて現代程複雑なる色杉層と、混乱せる無秩序的融合形態を知らない様に、建築に於いてもまた今日の如き分散的現象を発見することは不可能であらふ。

まことに現代の建築界は支離滅裂であり、その建築相は雑多である。時代と緯度を無視したクラシックあり、ゴシックあり、ルネサンス様式の模倣がある、亦新興建築の仮面を被ぶるブルジョア的ライトイズムあり、科学畢的幻想的主義あり、また科学的センチメンタリズムがある。

この現代建築の幾多の相は矛盾と喧噪の思想の上に建てられたる哀れなるパルテノンの姿に外ならない。

では現代に於ける建築は如何なるものであるか、

また来る可き時代には如何なる建築が妥当するのであるか。

これに答へる前に先ずこの哀れなるパルテノンの姿に分析的批判を試みるの必要があらう。

過去に数へられた建築美術に於いては如何にすれば美しい建築が出来るか、換言すれば如何に歴史的様式を忠実に模倣すべきであるかゞその中心問題であつた、さうして克明に古典を、中性を規代に両現しょうと努力する、――時代と社会組続とを根原的に異にする現代にである。私はこの現代の科学と社会意識とを無視して盲目的に歴史的様式に追従するものを歴史的形式主義と呼んでいる。

次にこの歴史的形式主義に対する反模倣主義の一派をあげることが出来る。

彼等は前述の観念的形式主義を否定し、新興の科学的所産を唯物論的に解明し、そこに新らしい建築圏を建設しようとした。

歴史的形式主義が過去の様式を対象とするに彼等にあつては鉄、硝子、コンクリート等凡ゆる科学的所産の合理的構成にあつた。そうしてそこに彼等の芸術性を見出したのである。

彼等が歴史的形式主義に対抗し、所与の科学的立脚点よりして建築の工業化を提唱したのは正しい、けれども今日その理論と実践との甚だしい矛盾の為めに彼等自らを自縛的行詰りに招来せしめたのは何故であるか。

私はその素因をかかって左にあると思ふのである。

彼等は科学の偉大性を認識したが、これを正常に受納するには余りに芸術家であり、これを純粋に客観的に実践するにはその科学的準備を欠いてゐた、それがために不可避的に彼等の克服したと思惟する観念的イデオロギーに捕らえられてしまつたのであらう。

事実彼等の建築の外相はいかにも現代的理念的傾向のひらめきを見せてはいる、けれどもそれはあくまでも外面的であつて絶対的意味に於けるその建築内容の客観的表現ではない。彼等は主親を拒否し、ロマンティシズムを排斥し、センチメンタリズムを軽蔑しながらも、いくらかの過去の観念的遺産に不可避的に今日の行詰りまで引摺られてしまつたのである。

私は歴史的形式主義に対してこれ等を総体的に便宜上形式的合理主義と呼んでゐる。

前者は最早没落の運命に瀕し、後者は必然的に現代の行詰りから転換すべき方向を明日に求めなければならない。

では明日の建築は如何なるものであるか。

言ふまでもなく自然科学的仕方に於いて生れる純粋な客観的方法の所産でなければならない。具体的に言へば生理学的、衛生学的、経済学的、心理学的の純粋科学的研究の全的表現であり、合目的秩序的綜合を把握したものでなければならない。さうして建築家の主観は消滅し、厳密なる数学的秩序が建築制作の総てを支配することになる。こゝに於いては最早形式の問題はなく、只科学的内面的満足が問題となり、益々目的論的に進展するであらう。

即ち科学的、工業的、大量生産的、普遍的、社会的建築のみが来るべき時代に普遍妥当性を約束し得る唯一のものであると信じるのである。(了)

(『アルト』4月号 1929 紀伊国屋書店)

●新建築思潮講演会開催に際して 主催 創宇社建築会

明日の建築への指針とその制作に於ける最前衛的実践とは如何なる方法論的検討によって究明し又獲得すべきであるか。

自然科学的にであるか、

社会科学的にであるか、

はたまた他の何に依ってであるか。

吾々が現代社会機構の矛盾甚だしい現代階に立って、当面する問題はこれである。

之等の与へられたる諸問題を克服し、

新建築理論の樹立と、正統なるイデオロギーの把握こそ、現代建築家としての吾々の切実な要望ではあるまいか。

以上是度諸家の賛同を得て、如上の諸問題解決のために、いささかでも裨益するところあるを期し、今回講演会を計画した次第である。

(A,B、C順)

「建築思潮を語る」 牧野正巳氏

「アドルフ・ベーネの建築観」 仲田定之助氏

題未定 岡田孝男氏

「新建築に於ける機械論的唯物論批判」 岡村蚊象氏

題未定 谷口吉郎氏

「構築←ルートマイナス1建築←建築」 山越邦彦氏

一、会場 丸ノ内保険協会講堂

一、日時 十月五日(土曜日)午後六時

一、会費 金参拾銭

(雑誌『建築思潮』1929年9月号16ページ掲載)

・記事 評論

●文ちゃんと創宇社

竹村新太郎(「建築家山口文象 人と作品」RIA編 1982年 相模書房 より)

山口文象氏よりやはり文ちゃんがいい。

1923-1930(大正12年から昭和5年)の8年間、展覧会と講演会を通じ新しい時代の建築と建築家の考え方を問いつづけた創宇社建築会、そのエネルギーの源泉は何だったのだろう。

逼迫したその時代の社会状勢、同人たちの建築家身分にたいする目覚め、それと同時にその若さ、これを失するわけにいかない。

第1回展開催のときに文ちゃん21歳、第8回展のとき28歳、このときの最年少同人18歳、みんなが1歳違いで並んでいた。それが平等にやり合うんだから――彼らの半数のものが展覧会を見、魅せられ、刺激されて仲間に加わったと、回顧している――これが互いをして燃やしめた.

第8回展のあと,文ちゃんが渡欧するときに,分離派建築会の中心だった掘口捨己さんはグロピウス宛の紹介状に「Maler u. Architekt B.Okamura」と書く。

これは私の見方だが,第3回展に出品した「トルラー作,ドイツ男ヒンケマン」舞台模型、造型作品「建築」が、文ちゃんの分離派の流れへの訣別のフォルム的表現であると見るし、この年、自分がその内部設計を委され、竣工間もなかった朝日講堂で「Falifoton Buhnenbild」(フアリフォトーン・ビユーネンビルト)を、仲田定之助さんとの共同演出で映像化したのはその延長である。

この演劇の主催者「単位三科」との共闘をピークに、画家、彫刻家、詩人たちと別れ創宇社は、より建築に近付いていく。

また建築家としての階級的自覚をうったえる第7回、8回展、そして2回の講演会における会の姿勢は、各自の成長に結び付くもの、たれかが指導したものでほない。

大井町滝王寺の4畳半の書斎で、読んでごらん、とブハーリン『史的唯物論』を貸してもらったのは私だけであったろう。

滝王寺の家には、コンペ制作のときだけでなくよく集った。一しょに銭湯にいき、落語をききに、絵具箱を担いでスケッチに、そして互いにその親兄妹とも親しむ。この時代には夜中、目覚しのベルで起きて読むという猛烈な勉強をしたが、ドイツ語学習、研究所へのデッサン通いはその前の頃、これらの合い間に美しいペン捌きで、ベーター・べ-レソスのたく山の平面図を青図につくり、私たちにくれたりした。

創宇社の誕生に、分離派建築会の存在、逓信省経理局営繕課という職場関東大震災の発生、この三つを切離すことほできない。技師13人,技手以下258人(昭和5年)という建築設計の仕事場で、技手以下の業務は「詳細図の作製,写図、現場監督」に限られていたが、文ちゃんと同人の小川光三はとくに一建築設計の全部を委されるほど信頼があった(釧路郵便局その他)。

復興局橋梁課時代の仕事のうち、いまはその一つしか残っていないが山田守さん(分離派)の聖橋、滝沢真弓さん(分離派)の京橋、文ちゃんの数寄屋橋があった。これらの橋に、よくこの人たちの建築造型思想を見ることができる。

丸の内郵船ビルに石本喜久治さんが事務所を開いたとき、文ちゃんはチーフ、同人の渡苅、野口両君が他の若者とともに働いていた。石本さんが「創宇社展に出品するな」と命じた翌日、ふたりは速達を出して辞めてしまった。さすが強引な石本さんも仰天したそうである。

創宇社建築会は「学のない輩の集団である」と、この頃アカデミーの先生からお墨付きを頂戴したが、その主張は展覧会作品だけでなく、「無選共同展」の主催、コンスタンチン・ブランクーシ作品写真の頒布、ファーレンカンプからコルビュジェ、ペリアンまでの制作図の展示と、若い建築家層への啓蒙も忘れなかった。自分たちのためにだけではなく、ひろくともに進もうと念じたことは、この時代の協力出品者への誘い、「新建築思潮講演会」の構成にも読み取ることができる。これが創宇社の体質であろう。

それが文ちゃんという人、いつも庶民の側に居たいという人のやり方であった。そしてそれが「創宇社アンサンブル」のすがた、だとは言えまいか。(建築家)

●関連記事→創宇社、山口文象そして竹村さんのこと

●ある近代建築運動実践者の証言 『竹村新太郎氏のお話を伺う会』記録

●日時 1976年(昭和51年)5月25日 18:00~21:00

●場所 八重州龍名館4階会議室

●出席者 竹村新太郎 長谷川尭 河東義之 狩野哲夫 伊達美徳(記録者)

*注:文中「私」とあるは竹村新太郎氏のこと

○創宇社のはじまるころ

創宇社の第1回の同人は、すべて逓信省営繕課で働いていた者である。第1回展の写真は建築雑誌にのっている。

このとき、山口文象と広木の劇場とその模型がのっており、これに滝沢氏が批評を書いている。私は第4回から参加した。

分離派と違い、アンチ・アカデミー的な一面もあった。

第1回展の十字屋は山中節治の設計で建築雑誌にのっている。

山口が運動としてまとめあげて、エンジンをかけたといえる。彼は政治力もあり立派であると思う。展覧会場の確保も山口の手腕によるものといえる。

一方、仲田定之助・勝之助兄弟の応援もあった。もちろん、同人一同の立派な作品があったことも、これをすすめられたもとである。

創宇社のメンバーはみんな若かったが、一歳ずつ年齢が異なる。

年齢の順に、山口、小川光三と渡刈雄、古川、梅田と広木、海老原・平松・山口栄一、竹村、広瀬・河裾、野口・今泉・道明・崎谷と続く。

○帝都復興創案展

大正13年の帝都復興創案展の山口の「丘の上の記念塔」は、震災記念塔のコンペのためにつくったもので(実際にはコンペに応募しなかったと思うが)、これはすばらしいパースだということで、海老原たちも感激していたものだった。

この帝都復興創案展は総合展で、都市計画もあった。山田、岸田、中村順平氏などの作品もあった。

ラトー、メテオール等はこのときに組織したので、メテオールが第2回展としてやったのみで他は消滅した。

建築の展覧会というものは分離派展、創宇社展くらいなものであまりなかった。講演会は、いまよりもあったようだ。

○創宇社の活動

創宇社の連中は銀座にあった「三喜ビル」の屋根裏部屋で、ウクライナ劇場コンペをやった。山口を中心にまとめたものだ。また、エスペラントの勉強もここでやった。その講師は美校を出た兼松理という人だった。

雑誌「建築科学」にはエスペラント語のページがあったものだ。 この三喜ビルは仲田定之助がオーナーで、山口の設計したものだった。

白木屋の設計は事実上創宇社でやったといえる。設計は山口がまとめたが、レリーフや金ピカの装飾は石本氏のデザインである。

○創宇社と美術関係とのつながり

創宇社として美術関係との接触は、単位三科が最初だろう。創宇社が束になって単位三科に加わったという形である。

このあたりは山口、仲田、中原実氏という関係がもとになっているのだろう。中心はこの三人と日本画家の玉村善之助である。

創宇社としては村山知義とは関係はない。村山に建築作品がいくつかあり、山口はほめているが、私たちは無視する態度だった。

単位三科のころ創宇社で「ファリフォトーン」という人間の全く出ない芝居を、山口、仲田演出でやったことがある。

九段画廊は九段から飯田橋にぬける道に面してあった。中原実氏の関係するものだろうと思う。

○創宇社の左翼的傾向

山口が左翼的な勉強したことに他の者が影響されたとみるべきであろう。当時ブハーリンの「史的唯物論」がよくよまれた。創宇社主催の講演会でも、谷口吉郎がこれから文章を引用している。

また美校出の海老原、広瀬、平松たちは学生生活で左翼的な勉強をして、また、絵かきに左翼のものが多く、これらと交遊のあった彼等がメンバーになってきたことも創宇社の思想的傾向と関係ある。

海老原たちの同期で美校を途中で追われた金須孝を擁護する運動等が、彼等にその様な思想的なことへの関心を深くさせたのかもしれない。

金須孝は美校を追われて松竹に入り舞台美術で仕事をした人だった。金須孝は第5回展の批評を書いている(建築新潮 昭和2年1月)。

○そのころの逓信省営繕課

逓信省に私が入ったときは大正11年で、山口たちが創宇社をつくるころは、まだ、近づきになっていなかったので、見ていたのだった。

逓信省は郵便局の設計をやっていたのだったが、そのころから電信電話局の設計が多くなり、新聞広告までして人を集めた。私が入ったころは山田守・吉田鉄郎がいた。その前に岩元禄が居たが私は識らない。

そのころ逓信省営繕課では、Architect を大事にするという雰囲気があった。毎月、絵の展覧会があり、山田、武富、吉田などいい絵を出品していた。

あの時分の建築家は絵をかくものであり、私たちもデッサンを習いに行った。デッサンとドイツ語を習うことが楽しみだった。本郷3丁目付近にデッサンを習いに行った。

建築をやる人たちで、創宇社の様な運動をすることは自慢なことで、役所内でも応援するという雰囲気があった。これには、大正デモクラシーが背景にあったとも言えよう。

私のやめるころ(昭5)には、建築にたずさわっていた営繕課の者は230~250人はいたであろう。しかし、高等官と判任官は厳然とした差別があり、食堂・便所も別であった。梅田が、便所で武富に声をかけて叱られたという話もあるくらいであった。

逓信省の建物は、大震災のときに、丁度絵の展覧会をやっていた日で、レンガ造だから大きなブロック状に崩れていった。山口は自分の出品した絵を持って浅草へと逃げ出したが、途中で火に追われて絵も捨てて逃げたという。

営繕課の課長は、はじめ内田四郎、次に藤井という大蔵省から来た人がなった。この人も建築家だった。

そのころの逓信省のような雰囲気をもった建築の組織は他にはなかった。

○山口文象の逓信省での仕事

山口は震災の半年ほど前まで大阪にずっと出張していた。したがって逓信省内部でデザイン的な仕事をしたことはあまりない。

しかし、高等官でない者でデザインにタッチできたのは山口だけであろう。それだけその力量を認められていたのだろう。あまり大きい仕事はしていないが、浅草馬道の郵便局は、震災以後の南京下見のバラックだったが、なかなかよい作品だった。(現在のものは当時とは違う)

岩元禄は私は識らないが、知っているのは山口、梅田までである。青山電信局については柱の上につく予定だったトルソーの原寸コンテデッサンを見たことがある。

前橋の郵便局には山口はタッチしていないと思う。梅田が現場を担当した。

○分離派と創宇社

山口がシベリア鉄道でドイツへ渡ったとき、グロピウスに紹介状を書いたのが堀口捨己氏だった。そのとき山口の紹介の仕方が「Architect und Maler 」という肩書きをつけて紹介していた。

これはある面での分離派の人たちの創宇社への見方を示唆していると言えよう。つまり建築家として見るよりも、絵かきとして見ようという別あつかいの意識がどうしても感じられたのであった。

○前川国男氏と創宇社

前川氏と山口は個人的に親しかったこともあり、後に「建築科学」に原稿をもらったこともある。創宇社のメンバーの崎谷は前川事務所創立以来の所員である。

創宇社の展覧会には第8回展のときに、コルビュジェのところから帰ってきたばかりで、出品している。

○当時のデザインの流行

当時はドイツ建築の影響が非常に強かった。雑誌でも逓信省でとっていたものはドイツのものが多く「ヴァスムート」「INNEN DECORATION」「BAUFORMEN」「DIE BAUGILDE」とあり、アメリカは「FORUM」、イギリスは「ARCHITECTURAL RECORD」で、その他はなかった。

そのころ外国誌の建築や美術の写真から、複製で写真集をつくってみんなに買わせることをよくやった。ペルチヒ、メンデルゾン、ベーレンス、バルラッハ、ザッキン等の写真で3冊まで出した。

「表現派作品集」は須原屋書店から出したが、表紙は山田のレイアウトであろう。

コルビュジェへの関心はあまりなく、グロピウスへは関心あった。分離派の展覧会報に森田慶一が『いみたちお・こるぶしえり』という文を書いたのをみて、[あの人たちはコルビュジェに関心があるのか」と思ったことがある。

山口がペーターベーレンスのプランをコピーしてくばってくれたこともある。ドイツのワイマール文化が当時の日本をひきつけるものがあったといえよう。

ソビエトロシアへの興味はタトリンくらいで、まとまったものはなかった。

○山口文象と橋

山口が純粋にデザインした橋は数寄屋橋だったが、これは実にいい橋だった。隅田川の橋脚の照明器具を、創宇社の連中でデザインしたものがあり、いまでも残っている。

清洲橋は山口のデザインで、京橋は滝沢氏がデザインしたものである。

山田守が復興局の顧問となり、いろいろな人を推せんして橋のデザインをやらせた。山口も彼の推せんによるもので、他に渡刈、古川、野口等も共に仕事をした。

山田自身は聖橋をデザインしており、この山口の実に上手なパースがあった。土木でない者が橋にタッチできたのは、上に理解ある人が居たのであろう。

○東京中央郵便局のデザインについて

東京中央郵便局のデザインは吉田鉄郎だが、はじめの設計では、最上階はアーチ状のデザインだった。大震災までに図面はほとんど完成していた。逓信省に別室をつくって、そこで担当スタッフが集まって設計をしていたが、そこに創宇社の広木が居て、私も見に行ったことがある。

アーチは表現派的なものではなくて、もっとスタイリッシュな形だった。この案が震災で破棄されて、現在みられる様な四角な窓になったが、これも吉田のデザインである。

山口の説では、震災後に武富英一のデザインにより、吉田のデザインの装飾的なものを除いたというが、私としては理解し難い。武富氏のデザインとは思えないし、時間的にも矛盾するところがある。

なお、武富は課長にならずに、大倉土木に移り、専務になったが、戦後追放になった。

○創宇社の転機-減俸騒動

昭和5年に逓信省から、梅田と広木が大蔵省に転勤となり、銀座小松食堂での送別会の席で減俸の話があり、反対運動が始まった。このころ、大蔵省には今泉善一が、宮内省には崎谷小三郎が居た。

ときに浜口内閣で、減俸騒動が起きた。これは伴任官以上の者を減俸するというのであり、当然これに対して反対運動が起きた。高等官を中心にして判任官をまきこみ運動したが、下部層は組合運動の様相となってきて、遂に特高に検挙されるという事態になり、逓信省の創宇社のメンバーもみんな留置場入りをした。新聞にも四段ヌキで出たのだった。そして全員クビになった。

この事件がきっかけになって、展覧会活動というものに疑問をもつ風潮が第8回展のころから出た。第8回展をみるとわかるように、分離派以来の様なものと内容が変わり、海老原は労働者の住宅をたてる方策案、広瀬は鉄骨組立ハウスという様にザハリヒな様相となっている。

山口も講演会で階級社会における建築家のあり方みたいなものを述べている。もっとも、当人は言いっぱなしで渡欧してしまったが……。

減俸騒動で職を失い、リーダーの山口もドイツに行ってしまうということで、創宇社のそれまでの様な活動は停止せざるを得ないことになったのであった。

減俸騒動の結末、あるいは同年の新興建築家連盟の崩壊する事件等で、自分たちがそれまで口にしていた階級社会とか身分の差とか、そして社会科学を勉強しなければ建築はできないとかいったことは、世の中の実際とどの様に結びつくか、しみじみと身をもって知らされたことになったのであった。(資料『近代建築』)

○新興建築家連盟

昭和5年10月に新興建築家連盟が結成された。メンバーは教員、役人、設計事務所長、一部にはZBという井上正朔を中心とする団体も入る等で成っていた。

この宣言文は白鳥儀三郎と山口文象、結成のお膳だては内田佐久郎氏といわれているが、実際に中心となったのは白鳥と石原である。岸田日出刀・吉田鉄郎たちも加わっているが、その名簿を私は持っている。

しかし、この連盟は翌月に讀賣新聞の記事にアカ宣伝されて、簡単に崩壊してしまった。なあお、この件については昭和47年に昔の仲間と「歴史の会」をつくり、毎月1回1年間集まって研究会を行って、この会で詳しくのべられている。

○創宇社以後

そこで展覧会活動だけでは発展しないということで、昭和7年に「日本青年建築家連盟」をつくった。これにはデザインの人だけでなく、現場の人も構造の人も入る若い人の集まる組織だった。これは「建築科学研究会」と名称を変え、「建築科学」という機関誌を出し、6号までつづいた。

創宇社のメンバーは全員入ったが、その他のものも多く参加し、斎藤謙次、高橋寿男、高山英華、原沢東吾などがいた。

京都のDESAMの連中が東京によく来てこの研究会と接触するようになり、「建築科学」を編集していた私と高橋のところによく来ていた。そして京大のDESAMの連中と共に「青年建築家クラブ」を昭和8年に結成した。

青年建築家クラブは、会員の高井という者の2階家の下を借りて活動の拠点とした。ところが高井は組合活動のプリンターをしていたために、警察に二度も検挙されたことで、クラブに人が集まることが不可能となり、結局解散してしまった。

その後は、クラブの残党が「火曜会」という小さなグループをつくって、喫茶店に20人位で集まっていたこともあるが、集会に警察のスパイの類が入ってくる有様で、とうとう集ることもできなくなった。

○帰国後の山口文象

建築科学研究会をやっているころ、山口はドイツから帰ってきて、私たちの活動をずいぶん応援してくれた。自分の設計した作品で、帰国の船の中で知り合った画家のアトリエを機関誌に載せてくれている。

山口は帰国後は建築運動の応援はしたが、表だってはやらなかった。

山口事務所を設立して、これに関係した創宇社のメンバーは、広瀬、河裾、渡刈である。道明は歯科医専の現場にのみ関係している。今泉は山口事務所に居たことはない。

戦争中は京橋に山口事務所はあり、海軍の仕事もしていた。

○創宇社同人たちのその後

私は減俸騒動で留置場に29日間も入れられた。

逓信省をクビになったが、当時は再就職は大変に難しかったので、仕方なく深川で中華ソバ屋を1年位やった。この間ソバ屋の2階で仲間と共に静岡県庁舎のコンペをやったりしたものだった。

川添登が『竹村は中華ソバ屋に身をやつして、建築をなげうってまで左翼運動をしていた』と書いているが、それは、でたらめ。

その後、佐藤秀工務店・日大営繕課・平松事務所を経て、東京電力の発電所建設にたづさわり、新潟に永くいた。

創宇社で左翼運動に関係した者としては、梅田が都職の委員長となり、近年逗子市の革新市長選に立候補したこともある。また今泉は、大森銀行ギャング事件で知られる。

海老原は石本事務所、広瀬は大日本電気を経て竹中工務店、小川光三は清水組、河裾は山口事務所というように、それぞれの進路をすすんだ。

○戦後の建築運動

昭和21年に「日本民主建築会」を結成して、戦前からの建築家全員が集まり、これが23年に「建築文化連盟」と合体して「新日本建築家集団」が結成された。日本の建築運動史上で最大のものであったが、35年の朝鮮戦争のころから自然解体の状態になってしまった。これには、その前の10年余の運動のブランクが大きく関係していると思っている。

NAU・民主建築会等に、創宇社の同人は一貫して参加してきている。山口も参加しているが表面だった動きはしなかった。これには、運動がデザイン運動というより社会運動的性格の濃いということも原因していよう。

現在、「新建」という団体があるが、『世の中をよくする』という類のスローガンはかかげているが、肝腎の「建築家の生活をよくする」ということが欠けている。新興建築家連盟にはこれがあった。(以下略)

(760618 竹村氏チエック済)

(注)これは、建築運動として名高い「創宇者」のメンバーであった、建築家の竹村新太郎さんに、うかがった建築運動の証言記録である。RIA建築総合研究所(現:アールアイエー)において、山口文象の記録出版のための集まりであった。これは後に「建築家山口文象 人と作品」(相模書房)として出版した。近代建築史の資料として、ここに公開する。(2001年8月)

●1923年、創宇社建築会を旗揚げ

伊達美徳(「新編山口文象 人と作品」2003より)

10月ごろ、山口がリーダーとなり、逓信省営繕課の技手や製図工の仲間たちと、「創宇社建築会」を結成した。

創宇社創立時の同人は、最年長の山口(当時は岡村蚊象)を筆頭に、専徒栄記、小川光三、梅田穣、広木亀吉の5人、18歳から21歳までの営繕課で同じ職場の製図工仲間であり、いずれも職業学校や夜学などの速成教育で実利的な建築技術を学んだ若者だった。

その創立について、半世紀の後に元創宇社仲間が集っての座談会記録があり、山口は設立の動機を語る(「歴史の会の記録」1972年2月17日(「竹村文庫たより」6号、7号)。

「どういうきっかけで梅田や竹村なんてみんな集まってきたか、はっきり覚えていませんけれどね。さっきお話ししたような営繕課の空気のなかで、身を寄せ合ってたという、話し合っていたということが原因だと思うんですね。

……創宇社を具体的にやろうとして始めたのは相談がだんだん固まったのは、震災直後だったんですね。震災直後の9月半ば頃、私ははっきり覚えていますけど、その当時は逓信省の営繕課は全部やられたものですから、逓信省全部分散して事務を執ることになって、営繕課は丁度今の吉田先生の設計された中央郵便局の、まだ中央郵便局は工事中だったので……あの隣の場所にバラックをこしらえましてね、そこへみんな営繕課の連中が集まった。地震は9月1日で、2日、3日あたりまではだれも集まらなかった。だんだん3日あたりからボツボツ焼け跡へレンガの壊れたところへ立て看板がしてあって中央郵便局の隣のバラックにみんな集った。それでまあ、ああいうショックの後では、やっぱりなにか人間が呼び合って助け合っていこうじゃないかって空気が醸成されたと思うんですね。それで、まあ、現在われわれは何かしなけりゃならんということで、小僧さんたちが集って、やろうということになったわけです。たしか9月15日か16日くらいですかね。その間に話がだいたいまとまってきて、そいじゃあ宣言文を書いたり、みんなで相談して、梅田の詩が宣言文になったわけです。

……だから非常にこの震災のショックって言うものがね、創立を早めた、と、今考えられますね。

……私自体は個人的に山田先生と逓信省で知り合って、それで先生の分離派に入って、そして何か研究会とかある場合に必ず私はでていたのですが、そういうことが当時は非常にバラ色で、こういう先輩を持ってありがたいと一生懸命に和したんですが、やはりなかで建築家としてのエリートたちの考え方とわれわれ小僧の考え方は違うんだという、なにかそこに違和感があったわけですね::分離派に対するいうロマンチシズムに対するひとつの何か意識の下にある批判というものが、創宇社の核となっているんだと思うのです」

しかし、同じ場での梅田穣の発言はニュアンスが異なる。

「そりゃ山口文象はね、意欲的ですよね、要するに鬱勃たるあれがあったと思うんですよ。……(しかし自分たちは)分離派に抗してやろうという意図はなかったような気がするんですよ。……イデオロギーなんてむしろ作品にも出ていないし、とにかく早くやろうじゃないかと、……綺麗な建築をね、宇宙に充満さしてやろうじゃないか、創宇社って名前付けたしね、そういう意図なんでね、造形運動だと思うんですよ。……潜在意識としてはあるかもしれませんが、そういう風なイデオロギー的なひとつの反抗精神てものは別にない、むしろ分離派の影響はいっぱいに受けてやってきたということかね、ずーっとその」

・創宇社第一回展を開催

創宇社建築会第一回展覧会を、11月24日から28日まで銀座十字屋楽器店(今和次郎のバラック装飾者設計)で開催した。分離派に倣って展覧会活動からはじめたのである。山口は会場の手配、ポスター制作など準備に尽くし、「音楽と野外劇のために」と題する劇場計画案を出品した。

その創宇社建築会第一回展目録には、分離派建築会に倣うロマンチックきわまる宣言文(梅田穣の原案)が掲げられている。

「我等は古代人の純情なる/創造の心を熱愛し、模倣てふ/不純なる風潮に泣き/永遠の母への憧れをもて/頽廃と陳腐とにただれたる/現建築界の覚醒を期す。/我等は生の交響楽一全宇宙に/我等の生命、美しき「マッス」を/見出すべく専心努力する。/創宇社宣言」

初めての展覧会について山口は当時の雑誌に書いている。(『創字社と其の第1回展』:雑誌「建築新潮」2月号1924年)

「帝都復興の気運急なる今、吾々は芸術味豊かな美しい東京市を建設すべく起たなければならないではありませんか。それが建築家としての「つとめ」だと思います。創宇社はその「つとめ」を果すべく自己の微力も省ず第一の仕事として作品によって私たちの意見を発表したのです。何分こうした仕事に経験を持たない私たちのことですからとても充分には出来ません。しかし若々しい愛と芸と感激とに満ちた展覧会にまづまづ努力はしたのでしたが……私たちの魂は眠りかけてゐました。それはほんとうに怖ろしいことです。若しも目醒めずそのまま眠ってしまったなら、一生建築の本道を歩む創造の嬉びは得られなかったことでせう。幸にも心の屍は開かれて清新なる閃光は投げかけられ、魂は目醒め道は開けるのを感じました」

●岡村蚊象と創宇社の時代

河東義之(『建築家山口文象人と作品』1982年)より引用)

大正12年11月,関東大震災の混乱がいまだ収まらぬ東京銀座の十字屋楽器店で,創宇社の第1回建築制作展覧会が開催された・

分離派建築会の結成から約3年を経て,ようやくその後に続く新しい建築運動が始まったわけである.分離派建築会があれほどセンセーショナルにわが国建築運動の幕開けを告げたにもかかわらず,創宇社に到るまで他に目はしい動きがなかったのは,考えてみれば不思議なことである.分離派建築会の出現が,大正デモクラシーの高揚期にあって,多くの若い進歩的な建築家たちの共感を得たのであろうことを考えると,なおさらであろう.しかも創宇社は,「近代建築や,近代芸術について語り,あるいは階級論争をするというエリートの人達とは違ったものの見方」(対談「兄事のこと~山口文象」(長谷川尭『建築をめぐる回想と思索』,新建築社,昭和50年)をしていたより若い,現場の下級技術者たちによって結成されたのである.

創宇社の同人は,最年長の岡村蚊象を筆頭に,専徒栄記(1930~?逓信省営繕課雇員),小川光三(1903~1971大正9年工手学校卒.逓信省営繕課雇員.のち清水組に勤務),梅田穣(1904~ 大正9年中央工学校卒.逓信省営繕課雇員.のち佐藤秀工務店,東京都に勤務),広木亀吉(1904~1932大正11年工手学校卒.逓信省営繕局雇員.のち大蔵省営繕管財局)の5人で,いずれも逓信省営繕課の技手または製図工として勤める,18歳から21歳までの若者たちであった.もちろん,彼らは正規の建築教育を受けておらず,ほとんどが夜学の速成教育によって実利的な建築技術を学んだにすぎなかった.

「創宇社を始めた私たちは逓信省営繕課の雇でトレースマンでした。この大勢の製図工の中で建築を考え,なにかをしっかりと掴みたいという連中がいつの間にか5,6人集まって来ました.大工や畳屋のせがれ,そういった夜学,あるいは中等学校あるいは築地にありました,いまの工学院大学の前身の工手学校,ああいうところで勉強した連中ばかりです.ちェうどあの関東大震災があったのがきっかけになりました」(「『生活空間の創造』ワルター・グロピウスについて一山口文象先生にきく一」)

しかし,会の中心となった岡村は,すでに大正10年10月の第2回展以来客員として分離派建築会に参加しており(「座談会,分離派・東京中央電信局・山田守」(『建築記録・東京中央電信局』,昭和44年)中の山口文象の談話),歴然とした階級差別のあった逓信省内部でも,「高等官でない着でデザインにタッチできたのほ山口(岡村)だけであろう」(「竹村新太郎氏のお話を伺う会」(昭和51年5月25日)の記録)といわれるほどその力量が認められつつあった.

さらに,「逓信省営繕課には当時Architectを大事にするという雰囲気があった」「建築をやる人達で,創宇社の様な運動をすることは自慢なことで,役所内でも応援するという雰囲気があった」(「竹村新太郎氏のお話を伺う会」(昭和51年5月25日)の記録)ともいわれる。

大正デモクラシーが背景にあったとはいえ,営繕課のこのような雰朗気は,すでに退省していた岩元禄の影響によるところが大きかったことは,当時の建築家たちが認るところである.いずれにしても,創宇社の旗上げがそれほど無謀な行為でなかった事が推察できよう。

そして,この創宇社が逓信省の営繕組織の中から生まれたことは,けっして偶然ではなかった.分離派建築会が彼らの先輩である後藤慶二や岩元禄の影響を強く受けていたように,創宇社の人びとも岩元の影響を受け,岩元の造った雰囲気の中から出現したのである。

創宇社第1回展の目録には,分離派建築会に倣って,次のような宣言が掲げられていた.

我等は古代人の純情なる

創造の心を熱愛し,模倣てふ

不純なる風潮に泣き

永遠の母への憧れをもて

頬廃と陳腐とにただれたる

現建築界の覚醒を期す.

我等は生の交響楽一全宇宙に

我等の生命,美しき『マッス』を

見出すべく専心努力する.

創宇社宣

この梅田穣の起草になる宣言文は,ロマンチシズムと若々しい情熱と,それ故の気負いに溢れていたが,その内容は分離派建築会そのものと同じように「全く人道的なまた芸術主義的なもの」であった.そして出品された作品にも,分離派建築会と同じように,表現派の建築の影響が強く表われていた.

しかし創宇社には,すでに出発点において,分離派建築会との明確なちがいがあった.それは彼らが,アカデミーとは関係のない,現場の下級技術者であったことに起因する.分離派建築会の芸術至上主義は,過去の様式主義や構造実利主義に対する反抗であった.そしてその反抗ほ,彼らがアカデミーの中で直接肌で感じとった,芸術に対する危枚感によるものであった.しかし創宇社には,そのような意味での反抗精神と危機感は,どちらかといえは希薄であった.

創宇社のスローガンをより詳細に表明したのは,岡村がある雑誌に寄稿した,「創宇社とその第1回展」(『建築新潮』大正13年2月)という一文である.そこには,関東大震災を契機として生まれた彼らの使命感が切々とのべられている.

「帝都復興の気運急なる今

吾々はほ芸術味豊かな美しい東京市を建設すべく起たなけれはならないではありませんか.それが建築家としての『っとめ』だと思います.

創宇社はその『っとめ』を果すべく自己の微力も省ず第一の仕事として作品によって私たちの意見を発表したのです.

何分こうした仕事に経験を持たない私たちのことですからとても充分には出来ません.しかし若々しい愛と芸と感激とに満ちた展覧会にまづまづ努力ほしたのでしたが‥・… (略)

私たちの魂は眠かけてゐました.

それはほんとうに怖ろしいことです.

若しも目醒めずそのまま眠ってしまったなら一生建築の本道を歩む創造の嬉びは得られなかったことでせう.

幸にも心の屍は開かれて清新なる閃光は投げかけられ魂は目醒め道は開けるのを感じました.」

逓信省の最下層に位置する創宇社の人びとにとって,この「建築の本道を歩む創造の嬉び」こそ運動の原動力となったものであろう.しかし一方で岡村は,「実生活に於ての周囲の関係やパンの問題」を指摘することも忘れていない.

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