1949総同盟会館・全繊同盟会館

1949年総同盟会館・全繊同盟会館

・建物名称 総同盟会館・全繊同盟会館(現存しない)

・建設場所 東京・港区芝2丁目

・竣工時期 1949年

・資料

『全繊同盟史』第2巻‐1949全繊維同盟会館

『財団法人日本労働会館六十年史』1991・渡辺悦次・財団法人日本労働会館

・写真

総同盟の機関誌に掲載された透視図

全繊同盟史第3巻に掲載されている全繊同盟会館

左に青雲荘改修の芝園食堂、中は総同盟会館、右は全繊開館(撮影時不明)

・資料『全繊同盟史』第2巻‐1949全繊維同盟会館抜粋

・資料『財団法人日本労働会館60年史』抜粋

『日本労働会館六十年史』

153ページ

第三章 総同盟の解散と財団法人日本労働会館の活動

ー一九四〇・昭和十五年~四五・昭和二十年八月ー

概 観

財団法人日本労働会館の事業活動は、労働組合運動と同様な歴史的運命をたどった。準戦時体制も一九三七(昭和十二)年七月に勃発した「支那事変」により戦時体制へと進み、政治経済、社会全般に大きな影響を及はした。とりわけ労働組合などの社会運動は厳しい状況に追い込まれた。

労働組合運動の死命を制したのは、戦時生産力拡大、その労働力統轄のために労働力の一元的統制を図った政府の政策に便乗した産業報国会運動であった。協調会を中心に事変後の時局対策の研究の中から翌一九三八年に産業報国連盟が生まれ、それが組織を急激に拡大していくや、政府が直接それの指導に乗りだし、労働組合組織を解消し、それに統合しようとした。

この関係当局の動きに対して総同盟は労働組合と産業報国会組織との並存を主張したが容れられず、一九四〇(昭和十五)年七月に総同盟も解散に追い込まれ、戦前の日本の労働組合運動はその幕を閉じた。

財団法人日本労働会館は解散を免れたが、その一心同体とも言うべき総同盟の解散は致命的であり、財団所有の地方の分館は経営が出来なくなり一一分館のうち七つの分館をその後処分した。

総同盟解散後、財団は病院、アパート、食堂の経営に力を注いだ。だが、それも一九四一(昭和十六)年十二月の太平洋戦争開戦後の統制経済の進展とその後の空襲の危険のために経営が苦しくなった。そして、一九四五(昭和二十)年五月の東京大空襲に依って日本労働会館、友愛病院、青雲荘が消失した。これより前の四月の川崎大空襲で第二友愛病院、第二青雲荘も消失した。また残った因島、西宮、川口、城東の四分館のうちの西宮と城東の分館、神楽坂食堂も戦災で消失した。

第一節 総同盟の解散

一、総同盟の解散と財団法人の事業の縮小

一九三七(昭和十二)年七月七日の「支那事変」勃発による日中全面戦争への進展は、国内の経済、国民生活の全般にわたって「聖戦完遂」のためにと統制が強化されていった。

事変翌年の一九三八(昭和十三)年には戦争遂行、生産力増強のために労働力の一元的統括が緊急の課題となった。これに乗じて産業報国運動が協調会、愛国労農同志会などを中心に立案され、実行に移された。それが同年七月三十日の産業報国連盟(産報)の創立犬会となった。

この産報運動の発足によって労働組合運動は非常に困難な状況に追い込まれた。産報の設立に対して石川島造船所の石川島自彊会などの一部の労働組合は組織を解散、改組して参加していった。

総同盟は、事変勃発直後の一九三七年十月の全国大会で銃後三大運動を決定、時局に対応した。そして、産報運動に対しては、労働組合と産報との組織的並立、並存を主張した、だが、当初、産報運動に距離を置いていた政府であったが、組織が進展するにつれ、総動員体制、生産力増強のための労働者組織としてれを重視しはじめ、さらに労働組合を解体しこれに一元化しようとした。

こうして、一九四〇(昭和十五)年十一月二十三日に産業報国連盟を改組し、政府の直接指導、運営による大日本産業報国会(産報)が創立されたのである。

この大日本産業報国会の結成に先立って、その計画が煮詰まるにしたがって総同盟をけじめとして残っていた労働組合の解散を政府・内務省、厚生省が強要してきた。このため、一九四〇(昭和十五)年七月八日に総同盟は中央委員会を開催、組織の解散を決め、解散宣言を発表、同月二十一日に全国代表者会議を開催して解散した。

財団法大日本労働会館は、労働組合ではないので解散をまぬかれたが、その母胎である総同盟の解散の影響は決定的に大きかった。本部会館の運営、業務のうちの労働学校、共済事業は総同盟解散とともに自動的に閉鎖、解消せざるをえなかった。地方の労働会館分館も開店休業、閉鎖、他への譲渡へと追い込まれていった。

●写真 1940 ・ 昭和15年7月21日総同盟の解散を決定した全国代表者会議

二、戦前最後の財団役員

総同盟解散後の状況は、明治期の、大逆事件後の「社会主義冬の時代」に勝とも劣らない、まさに社会運動の「暗い夜の時代」であった。時代は、「共産主義」、「社会主義」という言葉どころか「労働」という言葉すら官憲は抹殺しようとしてきた。今津菊松理事は西宮分館の例で次のように記録している。

戦争が熾烈になった或る日、私は突然兵庫県警察部高山特高課長から出頭命令を受けました。何事かと思って出掛けましたところが、話は意外にも労働会館の管理者としての私に「労働会館」の労働と言う名が目障り、耳障りだから戦時下にふさわしい名に変えろと言っのでした。これに対して私は即座に「労働会館と言っのは公法人として登記までしてある名称だから、警察が職権を以て登記簿の改変をさせるのは御自由だが、私の方から自発的に変更する意志はない」ときっぱり断りました。そうしましたら話はそれつきりになってしまって現在に至つたのであります。

(今津菊松「戦争中も押し通せた『労働会館』の名称」『労働運動一タ話』、全繊同盟、一九五二・昭和二十七年刊)

このような時期に財団を維持し、支えたのは松岡理事長ら役員であった、その役員等の献身と努力がなければ財団は解散に追い込まれ、今日の歴史は無かったのである。その戦前最後の役員に敬意をはらって、ここで氏名を紹介する。

理事長 松岡駒古

理 事 原 虎一 土井直作 徳永正報 三水治朗 井堀繁雄 熊本虎蔵

池 善二 富田繁蔵 斎藤 勇 岡田助雄 遠藤義明

畑田朝治 内田籐七 小原源一 大越半忠

評議員 松岡駒古 原 虎一 土井直作 徳永正報 三水治朗

井堀繁雄 熊本虎蔵 池 善二 富田繁蔵 斎藤 勇

岡田助雄 遠藤義明 畑田朝治 内田藤七 小原源一

大越半忠 赤松常子 田村米蔵 高橋正雄 八ッ田也一

勅使河原藤太 鈴木弥作 川畑幸蔵 横山冨治 山田重太郎

今津菊松 上垣弥一 金 光平

第二節 総同盟解散後の財団法人の維持、経営

一、総同盟解散後の事業成績

一九四〇(昭和十五)年七月の総同盟解散後の財団の「苦衷・苦闘」を『昭和拾五年度事業報告書』(一九四丁昭和十六年四月刊)は記録しているのでそれを先ず紹介する。

事業成績

本年度は本財団創立以来十一年、最も多事多難なIヶ年であった。それは本財団の成立母胎であり、且本財団の絶大な擁護者であった「日本労働総同盟」が時局の変転に伴ひ嚇々たる永き歴史に終止符を打って解散したからである。云ふ迄もなく本財団の役員は総て総同盟の役員であり、殊に全国各地に散在してゐた分館の悉くは総同盟支部の建設し、利用してゐたものであったから、総同盟の解体は同時に分館の閉鎖であらねばならぬといふ悲しむべき現実に逢着せねばならなかった。それは我々が三十年の間、世のあらゆる不自然な矯激な社会運動を克服し指導する事のために、文字通り死闘しフゞけて来た結晶である城砦が極めて冷酷に空しく奪ばれる事であった。しかし、本財団は本質上之を惜しむ事なく、むしろ従来の総同盟へ依存してゐた経営を拠擲して健全なる自立的経営の確立に邁

進のスタートを切った。そのために分館は六分館に減じ、尚、今後更に整理の止む無きものもあるが、本館は挙げて病院事業拡充のために改造に着手し、第二病院も健康保険の診療を開始して工場地帯の医療機関としての使命を果たしっヽあり、アパートは解散せる総同盟の社合部より大井友愛館の寄附を受けて(但し十六年一月以降)三ケ所に於て殺人的住居飢餓緩和のため努めっヽあり、食堂は亦食糧欠乏と闘ひ乍ら後記の如き驚くべき成績を挙げ来って、それぐ所在地方に於ける勤労者の福利のために資し、併て国家産業の隆昌のために斟からざる貢献をなし得たる事を確信するものである。

尚、特記すべきは、本年度亦畏くも宮内省より事業奨励の思召を以て御下賜金を賜るの光栄に浴したる外、厚生省、東京府、東京市、三菱社より引続き助成金、奨励金の交附を、又、パイロット万年筆株式会社より病院拡張費として寄附金を受けるの名誉を得たるOAJである。本財団は一層努力奮励して以て鴻恩に報ひ奉らんことを決意する次第である。

このように総同盟解散後の財団の事業は、第一、第二友愛病院とアパート第一、第二青雲荘、大井友愛館、それに神楽坂食堂の経営に限られたのである。

二、分館の整理

総同盟解散にともなって組合員の集会、文化、教育、福祉活動は続けられなくなり、前述のように労働会館の維持は非常に困難となった。「異体同心とも云よべき『日本労働総同盟』を失ひだる本財団は恰も車の片輪を失ひたるが如き状態となり、専ら総同盟支部の利用にのみ供してゐた分館は其の維持の方法を失ひ」ス昭和十五年度事業報告書』)という事態になった。

そこで財団は、その所有する分館について、処分が出来ところから処分をしていった。総同盟解散から八ヵ月後の一九四一(昭和十六)年三月三十一目までに次のように一一分館のうち五分館が処分された。なお、金町分館は総同盟解散前に財団の経営、管理を離れ、一方、新たに桜田分館を経営、管理したので分館の数は一一分館と総数は変らなかった、

1、川崎分館 川崎市へ委譲す、

2、平塚分館 平塚市町会へ譲渡す。

3、潮田会館 同分館建設並に管理に貢献したる本財団評議員川畑幸蔵に譲渡す。

4、兵庫分館 東京製鋼株式会社に譲渡し会社の産業報国会に於いて元支部員のために引続き利用されてゐる。

5、桜田分館 桜田製作所産業報国会に寄附しド几支部員等の組織する桜田購買組合等に使用されてゐる。

(財団法人日本労働会館『昭和拾九年度事業報告書』一九四五・昭和二十年八月三十一日刊)

残りの本館と六分館の管理、運営の問題も非常にむずかしく、次のような状況となった

1、本館(東京市芝区三田四国町二番地六)

元日本労働総同盟整理委員会、新労働社所在中なるも今後専ら友愛病院の拡張に充てんため目下改造工事中である。

2、保土ヶ谷分館(横浜市保土谷区峯岡町一〇一七番地)

目下整理準備中

3、川口分館(川口市金山町一四二の二)

川口市一帯の工場労働者の組織する川口購買組合の使用に任じ異常なる成績を挙げつゝある。

4、城東分館(城東区大島町二丁目八九番地)

目下あたらしき利用方法につき研究準備中である。

5、西宮分館(西宮市東町二丁目六四番地)

西宮市を中心とする労働者の組織する西宮消費組合の専用に供し物資難を克服し異常なる成績をあげてゐる外或は支鄙語講座を開講し、或は葬儀を迄取扱ひ以て生活改善の指導をなす等富に刮目すべきものがある。

6、市川分館(市川市市川五丁目)

目下整理準備中

7、因島分館(広島県御調郡土生町宇塩瀬浜一八九九番地)

因島一円の労働者の組織する因島消費組合の専用にして精米所を併せ経営するの外自動車事業等も経営して因島の生活文化の指導に任じ之亦異常の成績を挙げつゝある。

(前掲報告書)

三、空襲と会館、病院などの消失

総同盟の解散で事業、経営が困難な状況に追い込まれた財団にとって、戦局の激化、東京空襲は致命的ともいえる打撃となった。

総同盟の解散後病院の経営に力を入れ、空いた日本労働会館の部屋を利用するために一九四一(昭和十六)年二月七日に監督官庁の警視総監宛「病院敷地拡張並に建物増加使用」の届を提出、三月七日に許可が下りた。戦時景気の中での労働者の東京集中、一方、国民健康保険法の施行もあって診療者は増加していった。

国民健康保険法は、「支那事変」勃発翌年の一九三八(昭和十三)年一月十一日に厚生省が設置されたあとの四月一目に施行された。翌年四月六日には船員保険法が成立、太平洋戦争闘戦後は「健兵健民政策遂行」のため法が改正され(『厚生省二十年史』一九六〇・昭和三五年刊)、被保険者が拡大されていった。

友愛病院は会社、工場の健康保険組合嘱託医となり、一九四四(昭和十九)年三月一日から警視総監と船員保険の被保険者の診療についての契約まで行なった。

こうした病院とアパートの経営も、その後の戦局の激化にともなって東京への空襲の危険が迫り、東京からの疎開などで住民が減り苦しくなっていった。

そうした中で、一九四五(昭和二〇)年三月十目の東京大空襲で残っていた城東分館がまず消失した。続いて五月二十二目の太空襲で労働会館本館と神楽坂食堂も消失した。

本館が焼けた時は、友愛病院に勤めていた福井うゑの看護婦長が「涙をながして見て」いた。それは当時の思い出を語ったなかの一こまであるが、病院関係の記録にも言及しているので次にその全文を紹介する。

私は病院勤務でしたが、赤松常子様がよく世話しこ下さいました、私をけじめ、看護婦の近藤しづさん、食堂の阿部あいさん、圭た田代みねさんの令妹で事務をやっていた堀節江さんなども本部へもよく参り、今でもどの椅子にどなたがいらしたかが目に浮かびます。

鈴水文治様の横にいたとき「大本に蝉が止まったようだ」と笑われたことも思い出します。看護婦たちは本部の方に、それぞれニックネームを付けていました。またよくピンポンをやりました。とくに穂積七郎様がことに多かったと記憶しています。

松岡会長様、原虎一様、徳永正報様、畑田朝治様方とは家族ぐるみのお付き合いをさせてもらいました。

焼夷弾で本館、病院の焼けますのを道の反封側でボロボロ涙を流して見ていました。

メーデーの時も白衣で医療班でついてゆきました。

(記録・友愛会創立を記念する会』一九八三・昭和五十八年八月一日刊)

●図 戦争末期の事業活動をまとめた『昭和拾九年度事業報告書』1945 ・ 昭和20年8月刊

労働会館は完全に焼け、残ったのは友愛病院の鉄筋コンクリート造りの三階建ての建物だけであった。それも病院としては到底使用できる状態ではなく、結局、戦災と同時に廃院に追い込まれた。それより前、川崎市にあった第二友愛病院と第二青雲荘も四月十四日夜の川崎大空襲で土台を残すだけで完全に消失した。

一九四五(昭和二十)八月十五日、こうして敗戦を迎えた財団法人日本労働会館は、その事業基盤を失い、財産として残っていたのは本館の土地、内部が焼けた病院の建物、大井友愛館と地方の川口分館、因島分館、それに西宮分館の焼けた跡地だけであった。

戦後の財団の出発はこのきびしい中から始まるのであった。

第四章 戦後の総同盟再建と財団法人日本労働会館

-一九四五・昭和二十年八月~六三・昭和三十八年-

概 観

一九四五(昭和二十)八月十五目、日本はポツダム言言を受諾し降伏、敗戦となった。アメリカ軍を主力とする占領軍の民主化政策の柱の一つに社会運動、とりわけ労働組合組織の育成があり、急激な労働運動の展開が見られた。

財団法人日本労働会館の敗戦時の財産は、既述のように大井友愛館、因島、川口の両地方分館、西宮分館の焼けた跡地と空襲で焼けた日本労働会館の敷地に内部が焼けた鉄筋三階建ての友愛病院の建物だけであった。

財団は、戦後最初の事業として、友愛病院の建物を改修し、そゝ一了、焼けた神楽坂食堂の外食券食堂の権利を生かし芝園橋食堂を翌年初頭から開店した。

一九四六(昭和ニトコ年八月一日に第一回全国大会を開いた総同盟(日本労働組総同盟・会長松岡駒吉)は、その本部事務所を東京神田の救世軍本営に置き、さらに京橋の明治屋ビルに移っした。しかし、明治屋ビルは一九四八(昭和二十三)年末までの借用期限であったため会館建設が急務となった。こヽつして、一九四八年に入り総同盟会館の建設を決定し、募金活動白開始した。その建設場所として財団が所有する日本労働会館の焼け

跡が決まった。そこには同時に全繊会館も建つことになった。

両会館は一九四九(昭和二十四)年八月四日に落成武を行なった。財団は両会館の地主になったのである、総同盟会館は、翌年の総評結成による分裂後は再建総同盟の本部として使用された。

一九五八(昭和三十三)年八月十四日、財団創没者の松岡駒吉理事長が逝去、二代目理事長に原虎一が就任した。

第一節 財団法人日本労働会館の事業の再開

一、労働会館焼け跡の惨状と旧友愛病院建物の修復

一九四五(昭和二十)年五月の空襲によって木造だった日本労働会館の本館とアパート青雲荘が全焼し、鉄筋コンクリート三階建ての友愛病院の二、三階部分か全焼、一階部分が焼け残った。

財団法人は、罹災直後から、その焼け残った友愛病院の建物の改修に取りかかった。そして同年暮れに松岡理事長の実弟の松岡泰蔵一家がその一階に住みんだ。

「二、三階は完全に焼けたけれど、一階は防火壁かおり医療器具なども残っていた程で、便所をなわした程度で住めました、一階の診察室に畳を敷いて部屋にしました。だだっ広くうすきみ悪い程でした。二階の非常階段が地上に降りており浮浪者が二階に泊まっていたようで父が階段をはずしました。

労働会館、アパートは完全に焼け、労働会館の地下室の跡には水が溜まり机が浮いていました。あの辺で残っていたのは日本電気、戸板女子学園、映画館の芝園館位であとは焼け野原でした」(奉蔵氏の長女房江氏・のち中島桂太郎氏夫人談)という状況であった。

二、敗戦後の財団の事業は芝園橋食堂の経営から

この旧病院の改修は病院、アパートを建てた旗手組によって行われた。改修後、敗戦翌年の一九四六(昭和二十一)年の寒い時期から二階半分で「芝園橋食堂」を開店、三階が食堂従業員の宿舎に当てられた。

財団が食堂を経営することになったのは、経営していた牛込(新宿)区にあった神楽坂食堂が戦災によって焼けた。だが、その外食券食堂営業の権利だけは残っていたからである。当時の食料難の時代にその権利を放棄するのはもったいないと松岡理事長が開店にふみきつたのである(中島房江氏談)。

そして、その経営に当たらせたのが実弟の泰蔵であった。泰蔵は腕の良い和菓子職人で、長く五反田駅前で和菓手屋を開いていた。しかし、「支那事変」後は戦時経済統制令で思うように菓子もつくれなくなり、そのうえ徴用もされるのでは、と廃業し、蒲田の友人の軍需工場に務めたのである。こうした商人としての腕と生来の真面目、きちょうめんさを兄の松岡理事長に見込まれてのことであった。

「芝園橋食堂と名付けたのは、会館のすぐ近くの橋が芝園橋であり、走っていた都電の停留所名が芝園橋で、付近一帯を芝園橋と言っていたからです、食堂開店のポスターは紙の無いときであり、新聞紙に墨で「○月○日開店」などと書き、寒いなかを電柱に貼って歩いた記憶が今でも残っております」(中島房江氏談)とのような苦労もあったのである。

敗戦後の労働組合運動が、松岡の提唱で十月十日に労働組合組織懇談会の開催ではじまり、それが翌年一月に労働総同盟として発足し、組織も順次拡大していった。その頃に病院跡の改修も進み、三階の一部をその総同盟の事務所として貸した。

財団にとっては、この食堂経営が敗戦直後の大きな事業であり、当時の食糧難から繁盛し、財団経営の支柱になっていたのである。

なお、芝園橋食堂はその後、一九六三(昭和三十八)年に三田会館建設に取りかかるため建物を解体するヽ」とになり、それを機に廃業した。

芝園橋食堂の経営が財団の大きな収入源であったことは次の収支決算によって伺い知れる。

●表 食堂収支 会議室収支 会館工事支出

第二節 総同盟会館、全繊会館の建設と財団の関係

一、総同盟、全繊同盟両仝館の建設

総同盟、会館建設を決議

一九四五(昭和二十)年十月十日、松岡駒害の招請によって旧総同盟、全労、全評などの活動家が参加して労働組合組織懇談会を開催、労働組合の再建に乗りだした、そして翌年一月に労働総同盟が発足、八月に総同盟(日本労働組合総同盟)第一回全国大会を開催した。この総同盟の本部は東京・神田の救世軍本営に置いた。この建物に本部を置く前の、総同盟組織準備活動時代の事務所は、修復した旧友愛病院の建物が使われた。

救世軍の建物は戦争中に産業報国会の本部として使われていたが、敗戦後の八月三十一日に産報が解散したので借用したのである。

総同盟本部はその後、翌一九四七年十月に旧救世軍本営から京橋の明治屋ビルに移った。

この明治屋ビルの借用期限が一九四八年末迄であった。このために一九四八(昭和二十二)年一月十三日の中央委員会で総同盟会館の建設が決定された。

その建設の場所に決ったのが束京・三田四国町のかっての日本労働会館の有った場所、即ち財団法人日本労働会館の所有地であった。

総同盟会館と全繊同盟会館の二つが建つ

総同盟とともに全繊借同盟七会館建設を計画した。初代全繊同盟の会長が財団法人の松岡駒吉理事長であったこともあって総同盟会館と同じ場所に並んで建つ事になったのである。

総同盟会館は、建設費など総額六〇〇万円で、木造二階建て、延坪二〇〇坪などで建設費用などは次の通りである(総同盟機関紙『労働』一九四八・昭和二十三年三月十九日号)。

一金六百万円也 会館建設費一切

内 容

金 百五十万円 借地二百坪権利金他

金四百五十万円 木造二階建総延坪二百坪建設費

延坪二百坪建設費

一、会議室 一 二十坪 一、事務室 三 百二十坪 一、図書室 一 十坪

一、会長室 一 五坪 一、応接室 一 十坪 一、宿直室 一 五坪

一、炊平場 一 二坪 一.手洗場 二 四坪 一、倉庫 一 四坪

関東一般労働組合設計

二、館建設は組合員の募金で

会館建設募金の訴え

この会館建設の費用は総同盟組合員の募金によるものであり、機関紙「労働」一九四八(昭和二十三)午三月十九日号で次のように募金を訴えた、

総同盟会館建設募金に応ぜよ!

一人の負担金は五円 全組合員が義務を果せ

過般の本同盟中央委貝会において満場一致で可決された、総同盟会館建設資金六百万円募集の件は、現在本部の事務所である明治屋ビルも立ち退きを要求されている状態で、是が非でも五月末日までには完遂しなければならない。インフレの昂進で、組合員諸君の生活も苦しかろうが、ピース一本吸ったと思って、一人五円の募金に協力して戴きたい。本部会館建設委員会ではこの運動をスムースに且つ効果的に進めるために色々考究した結果、大量に廉価で購入した物品を組合員諸君に購入して貰うことによって、五円拠出の義務を果して貰う方法も決定した。健全なる総同盟の運動を、更に強固におしすヽめるために、組合員一人残らず総同盟会館建設資金に応じられるように切望する。

一石二鳥の代案 物品買って会館建設

総同盟会館建設資金の募金は、昨夏以来活動資金や東北関東風水害義援金の募集、会費値上げ等が続いた後で、各地方連合会や産別同盟では、それが完遂に並々ならぬ努力を要することと思われる。本部会館建設委員会では、多少なりともこれを円滑に進めるために、次のような物品を揃え、これを組合員諸君に購入して貰うことによって、募金に応ずる義務を果たしたことになる仕組みをたてた。従って、組合員一人五円を現金で拠出するか、或いは物品を購入して貰うか、何且か任意の方法でこの運動に協力して貰いたい。物品による方法は次の通りである。

A品 便箋 四十枚綴 一〇円○○銭

B品 原稿用紙 三十枚綴 一〇円○○銭

C品 チヤントールパスター 二○円○○銭

寄生性皮膚病特効優良薬 日本レーヨン製品(公)(二一円五〇銭)

右の内何れか一綴一点を購入した者は会館建設資金一人当金五円拠出の責任を果たしたものとして取扱います。

払込方法―準備の都合があるから地方連、産別同盟今通じ速達、電報等を以て至急入用見込数を御一報願いたし但し商品の都合によりA(便箋)三・B(原稿用紙)三・C(薬品)二の割合を以て申し込まれたし(例えば八万点申込の時は便箋三二万冊、原稿用紙三万冊、薬品二万点となる)

送品方法―中込順により直ちに発送する なお荷造費及び送料は本部で負担

送金方法―代金は集金の都度内入金として刻々に送金し遅くとも四月中には全部を取纏め五月十日までには必ず残金が本部へ到着する様励行されたし

指定取引銀行―住友銀行日本橋支店、帝国銀行京橋支店

なお、見本はすでに各府県連や産別同盟本部に発送した通りで、何れも日常生活に必要な品物であり、値段も市価に比べて低廉である。切に組合員諸君の活用を期待する。

このような総同盟組合員の資金カンパによって会館建設は順調に進んでいった。

両会館の落成式

会館は正面右側に全繊会館、左側に総同盟会館が並び、コの字型につながる形で建った。山口設計事務所による設計であり、十一月に着工、翌一九四九(昭和二十四)年八月四日に落成武を行った。

落成武は新築なった総同盟・全繊会館で八月四日午後三時から行われたがその模様は次の通りである。

●図 総同盟機関紙『労働』1948 ・ 昭和23年10月1日号

終戦後昭和二十年末にゝ」の芝園会館に総同盟準備会が作られたが翌二十一年には神田神保町へ、さらに二千一年十月には京橋の明治屋ビルヘと一年毎に本部を移転、昨年春ようやく会館建設の準備を開始し、松岡会長の努力によって当地を財団法人友愛病院からゆずり受け〔注・財団法人日本労働会館から借用の誤り〕、昨年十一月に建設に着手、今日の落成に至った。

建坪は二五一坪(総同盟会館一一一坪、全繊会館一〇九坪)、共通ホール二九坪、費用は合計六百万円で山口設計事務所の設計により納富建築株式会社が建築した。なお、当地は目本最初の社会主義団体である明治三十三年の社会主義協会ならびに大正元年の友愛会が結成された場所として日本労働運動史上最も由緒深い処である。

と報告し、次いで総同盟松岡会長、全繊滝田会長がそれぞれ挨拶を述べ、納富建築株式会社社長ならびに山口設計事務所所長に感謝状が贈呈された。続いて賀来労政課長、炭労武藤会長、新聞記者代表らの祝辞が述べられ午後四時半閉会した。

なお炭労の武藤会長は友誼団体を代表し、本同盟の発展を祝して席上つぎのように挨拶を述べた。

新総同盟会館は明朗な印象を与えてくれた。過去の日本の労働運動はややもすれば暴力を肯定するような陰険な闘争に堕落しがちであったが、総同盟は今後もこの新会館のような明朗な、建設的な方向に日本労働運動を指導してくれるものと確信している。

(『労働』一九四九・昭和二十四年八月十二目号)

この総同盟会館は、総同盟や傘下の産別組合の本部として使われた。だが、一九五〇(昭和二十五)年七月の総評結成による総同盟分裂問題が起こり、総同盟解体に反対して同年十二月三日に発足の「総同盟刷新運動協議会」の本部となり、また翌一九五一(昭和二十六)年三月に「総同盟再建準備会」の本部、同年六月の総同回再建・第六回全国大会の後はその本部、及び傘下の産別の本部として新会館建設まで使われるのであった

明るい会館”と異口同音会館落成式盛大に終わる

総同盟会館および全繊会館の落成武は八月四目午後三時から全繊会館二階の会議室に労働省賀来労政課長、友誼諸団体炭労武藤会長らおよび新聞社関係者と総同盟全国代表ら四百名が参集して盛大に挙行された。高野総主事の司会で上条中執委が落成までの経過を