一九五三年の山口文象・山口文象私論の序説

一九五三年の山口文象-山口文象私論の序説

植田一豊●東京造形大学

Bunzo Yamaguchi, memory of great master

Kazutoyo Ueda

東京造型大学紀要1983年

第一章

近ごろ、文象先生が夢枕に立つことが多くなって、何とも説明しようのない感慨にふけってしまっている自分に気がつきはじめた。

さてはお呼びがかかったのかと思いながらいるうちに、山口文象論をしゃべって欲しいという誘いがかかったのを機会に、少しこのもやもやしている気分の正体を追いかけることにしたのです。すると、近代日本の建築家としての作家像もさることながら、もっと日常的なところで、たくさんの欠点をもったひとりの日本人が、その持ちまえの気性のはげしさのまま疾風のように明治・大正・昭和の七十五年間を駆けぬけていった脈拍が聞こえてきて、ちょうど二十世紀の四分の三をきっちり生きた時代の良心というより、むしろ、やり残した無念さが、くっきり浮び上ってくる人生が見えるように思えました。あ、これは、鎮魂をしなければならない人だったのではないか。

殆んど、生きている間は思ったことを果せなかったというフォークロアの世界の典型的な登場人物だったのではないか、いや、あの猛々しさは、もっと神話的な世界にも通じるもの、二律排反の説話の中の神々に近い、そう言えば、他界との連絡を司さどる役割をもったものなのではないか。どこかで一度聞こえた声のように思えたのです。

この人はヨーロッパの哲学、生活の合理性を尊んで、死ぬまで家の中でも靴をはいておりました。背筋をのばし、正装しているときが一番似合う人でした。お骨も、土に帰さずに教会に納められているのです。自分の設計した小さな教会の牧師さんには生前から、そう頼んでいたと聞きました。

久ヶ原の自邸は、油の乗りきった一九四〇年に建てられ、日本の民家の木割を用いたもので、戦中の農村建築というイデオロギーによろめいた時期のものと本人が発表をしたがらない作品でした。

しかし、この家も戦後十年もかかって室内を全部洋風に化粧をし直し、原型を完全に隠してしまったのです。今、クロスクラブと呼ばれ、音楽や小さな集会に誰でも利用できるよう使われています。たしかに多目的な利用には、うすぐらい農家ふうの室内では陰気すぎるかもしれない。

私には、しかし、そんな機能的なものでなく、やはり本心を、日本回帰という戦時の背信を、他人に触れられることを恥じて、たてまえとしての思想家の生活のかたちにしておきたかったのだとしか思えませんが、その一生を通じて、意に副わぬ気分の圧殺ということをかなり徹底してやった人たった。後に紹介をする伝記の編集者は、その葛藤がよく分るように組み立ててくれました。

ほとんど二十世紀のはじめから、あと四分の一でこの世紀を見とどけるところまで、時代の変化の稀にみる激しい時期を生きるとはどのようなものか、幸い多くの作品、多方面の交際、言行録によってその輪郭を知ることは出来るし、証言もあり、評論もあります。

私にとって、この存在は何だったのか、と言うことになれば、外面からの知識として整合された人物像でなく、本人も気づかぬうちに周辺に撒きらしたエネルギーと、それが内面に打ち返す際の悩みをかいまみながら、造型家としての、オルグとしての、核となる発想源をもう一度訪ねてみたい。

とくに明治以来の日本の文化かきわめて独創力に弱く、そこを生きる目的とする日本人にとって、ヨーロッパ文明と日本の「渡し」に生きねばならなかった業のようなものを発見したいわけです。

建築家の能力はどのように訓練され、個性として自己形成されていくのか。一九五〇年は私はまだ、建築家になる自覚もなく、疎開した九州から東京へ帰りたい一心だったので、友人の三輪正弘による誘いは、内容はわからずとも心躍るものでした。

五三年にRIAが結成されるまで、他の仕事に従事しながら、RIA結成の準備期間ともいうべき三年を、週一度くらいのペースでお訪ねをし、さまざまな話を聞かせていただいた。

その感触は深く意識の底に沈んで、容易に再現できないものが多いけれど、それだけに建築を語る人間にとって重要なキーワード群を与えられたのだと思えるし、その再構築をしなければ、と反復するのです。

一つの仮説を立てる、多くの条件を一定の時間内で秩序づける、無意識のものを形象に転移する、これらの能力は、殆んど言語以前の体温のような伝達のしかたのところから育まれるのだと思います。

私の山口文象論は、おそらく大阪へ支店を作りにゆく一九六〇年までの短期間のスキンシップの記憶だけで構成されるのが必然です。この記憶を頼りに再構築される人物像はどのようなものになるのか。取り敢えず、大きなキイワードの束を直観的に取り出してみると、

一、

山口文象は自分の「生きざま」そのものをデザインし尽し、その通りに生きようとした。

その徹底ぶりは明治人ということと、下町の出であること、建築家の正規のコースを経なかった事と深く関りあっていた。しかし段階を経るたびにそのニュアンスは変化し、時代環境と、工業社会の発展段階と、建築家の年令との綾なす複雑な構造体を形成し続けた。

その外観はデザインされた統一体をなしており、作品のもつ建築表現の明澄性ときわめて深い相似性を感じさせる。

山口文象は、二項対立と攻撃という行動パターンに落着く激しい気性をもっており、社会主義と建築表現の滸証法的統一を深く希望していた。

行動そのものは、論理的である、と本人が思っているよりは、はるかに感覚的であり、自己撞着におちいることが多く、やや試行錯誤型であったかもしれないが、それは攻撃のパワーで充分捕っていた。とくに一生を貫ぬく異議申し立ての行動のパターンを、別の表現で名づけるとまさに『パフォーマンスの人』であった。

子供の時、鳶のはしごで出初式をやり、『邯鄲、夢の枕』の型をやって落ち、骨折をしたことを自慢話としてよく話していた。その感融はローコストハウス実現からRIA創立のときまでの一連の気分と呼応し、太陽のあたる場所を探し当てた、土の香りのする「喜び方」があった。

三、

分離派建築会に会員として招待されたとき、会員たちがカントやシヨーペンハウエルなんかの話をして解らなかった、と言っているが、逆に山口は正統のカント派とも見える哲学用語での構造理解にするといものを持っている。

中途半端な言葉としてでなく、建築に実現する際に構造化された自我を軸とするヨーロッパ建築家の手法に敏感な反応を示す。彼が寡作であるのに、明瞭な印象を一貫して与えるのは、そのためである。

この構造への本能的理解能力は、父の宮大工の家系、長男と甥が音楽家になっていることでも説明できるように、家系をつらぬいている血のせいではないか。ただ、ベルリンでは、視覚芸術ほどの興味を、音楽には示していない。シェーンベルクやリヒヤルトーシユトラウスの時代であったのだが。

四、

分離派、近代建築、日本建築という三つの様式でデザインできる人だった。

今日の評価は、モダン派ないしは合理主義派として純粋化されようとしている。けれどもそれは三つのエコールを貫通する理論を構築しようとするこころみを棄て去ったためである。思想と建築作品を対応するもの、とする気質が自ら狭い撰択を選んだためである。

RIAが六十年後半に入って、多重多層なデザインを必要としたときも、彼は手を出していない。その中には数少いが、本人が手を出さなくても、色濃く体質が浸んでいる作品がある。しかしそれらは、尺度構成だけ多段階で、シンメトリカルな作品に不思議と集中する。周囲が、複層のデザイン能力をひき出さなかったせいか、本人が拒絶したかよく知らない。結果は禁欲的で条件整理がよく行われたものが多い。

私は、山口の能力を尺度の多段階構成人が出来、しかも表現派、抽象派、日本の様式の三層に亙るデザインの秩序づけが出来る人と考えていた。外部からの情報に頼れなかったRIA結成直後、内部のスタッフには、『言語』による理論的指導が得られないと語る人もいたが、それは山口の生き方の撰択が先行したので、必ずしも没理論的であったわけではない。

なぜなら、指導者として、日本の集団形成の常識にしたがい、組織に個性を埋没させた…と考えてみると、新しい時代への問い、『日本人の才能は、戦後には花開くのではないか』が浮かびあがる。

五、

今風の語りに傲って病気について考えたい。山口は、私が師事するまで病気というものは全く知らなかった。六十才近くなって肺気腫にかかると、この病いは一気に山口の肉体に襲いかかるよう悪化した。

社会思想家を自ら任じていた彼の行動は、病いを許さないほど強靭であった。男性的であったと言ってもよい。女々しさ、甘さに縁のない精神に見えた。時代が病んでもまっ向から否定していた。

しかし戦時中から、この神話は崩れはじめたように見える。仕事のない戦後の山口は、なにか肉体と精神の不均衡を感じさせた。アンシアンーレジーム風の疲労感が見えていたように記憶する。老いも間違いなく病いである。全能感のような分裂症的症状があらわれはじめていた、

ボーヴォワールの書いた老いたサルトル像は、ヨーロッパのマルクス者として参画を思想の中心に据えた思想家の世界への影響力を、その圧倒的な真摯さを、形而上学の巨大さをもった同人と考えるとき思い半ばに過ぎるものがあるが、山口にも、似かよった感慨を持ったのである。サルトルの老いは、肉体としてのものである以上にマルキストの行動原理そのものの運命を感じさせるし、山口もモダニズム建築のかげりと重ね合せて見たくなる。病気こそ光学なのではないか。時代の児としての敏感さ、この運命は、ただものではないと感じてしまう。

母性原理の重ね合せを、まさかと思う個人の行動に見たように思うのは錯覚だろうか。母親いちの演劇の血と、下町のしつけ。喜美子夫人のキリスト教の影響を、晩年の山口はそれと判るほどに素直に表わしていたと思える。

ここに、時空を超える日本人の伝説のさまざまな形がこの純粋だった近代建築家の中に深く刻まれていたという仮説に、私はひどく拘っている。デザインの細部に亙って、発想力のかたちについていつか、詳論を行いたい。

ごこで、遅ればせながら一通りの経歴を紹介したいと思います。

山口文象(一九〇二~一九七八)

時代区分は「建築家山口文象・人と作品」に依る

序走 一九〇二~一九二二

明治三五年一月一〇日 東京浅草田町に生れる

(一九〇二)○才

大正七年 職工徒弟学校卒業

(一九一八) 一八才

大正九年 逓信省雇員 岩本禄と知る

(一九二〇) 一八才

大正一一年 大阪府庁舎コンペ応募

(一九二二) 二〇才 蚊象と名のる

離陸の時代 (一九二三~一九三〇)

大正一二年 大震災 創宇社結成

(一九二三) 二一才

昭和二年 石本建築事務所で白木屋の設計監理

(一九二七) 二五才

昭和四年 創宇社第七回展

(一九二九) 二七才

昭和五年 渡欧

(一九三〇) 二八才

飛翔の時代 (一九三一~一九五二)

昭和六年 ワルター・グロピウスのアトリエで仕事

(一九二二) 二九才

昭和七年 帰国、日本歯科医専設計

(一九三二) 三〇才

昭和コ二年 黒部第二ダム完成

(一九三八) 三六才

昭和二〇年 終戦 長野県に疎開中

(一九四五) 四三才

止揚の時代 (一九五三~一九七八)

昭和二八年 R-A設立

(一九五三) 五一才

(朝鮮大学一九六〇)

昭和三八年 東大病院入院

(一九六三) 六一才 新制作座センター竣工

昭和四一年 キリスト教洗礼

(一九六六) 六四才 朝鮮民主主義人民共和国より受勲

昭和四三年 黄緩褒章受勲 新大阪センイセンター

(一九六八) 六六才

昭和五三年 (一九七八) 七六才 心筋梗塞のため死去

RIA編集による『建築家山口文象・人と作品』(昭57刊)に激動の明治・大正・昭和を駆り抜けた、魅力ある明治人の生涯をまとめてあります。

おそらく当分はこの本が山口文象の正伝として読まれる内容をもったものになるでしょう。その中でこの編集を担当した伊達美徳は、山口の生涯を四つの時代に分け、それぞれ助走、離陸、飛翔、止揚として、編集の内容をこの四章にそのまま整理している。

これは、建築家としての活動がこの四分法で、時系列的に連絡していくことを主張したもので、とくに、第四期の一九五三年は山口が設立し、今日、建築家の集団として活躍しているRIA建築綜合研究所の発足した年であることから、編集の目的としたものが何であるかは諒解されるでしょう。

序 走

二十世紀がはじまるとほぼ同時に、山口文象はその四分の三世紀にわたる生涯を、東京浅草に出発した、観音様と吉原の間の下町長屋に、大工棟梁の実父と鳶頭の養父に育てられた「山口瀧蔵」の少年時代は、江戸からの職人の旧世界に包みこまれていたが、そのまわりにはそのころはなやかな浅草文化、さらにその外を日本の勃興期の高揚してゆくエネルギーに満ちた新世界がとりまいていた、山口文象の生涯は、その旧世界の核を破って新世界への脱出を試みつづけた道程であった。

小学校を出たときに、その最初の脱出を試みるべく府立一中をめざすのだがこれは失敗して、大工の子は大工になるようにと、職工徒弟学校に入れられる。ここでひととおりの技能を学ぶと、父親の引きで清水組に雇われて、まず職人としての人生を歩みはじめた。大正七年、十六才になっていた。

ところが二年ほどで、この人生コースを突然に投げだすと、建築家になりたいという一心で勤め先の名古屋から出奔して東京に戻るのである。大正デモクラシーという時代の空気があり、彼自身の向学心による脱出志向が、多感な少年の胸に建築家への夢を育てたことは想像にかたくない。けれども、学歴もない見習大工の少年が、急に建築家をめざことが当時どれほど無鉄砲なことであるかは、父親から勘当をいいわたされたことからもわかる。

一九二〇年(大正九年)は世界的な恐慌の年であり、職さがしは難行し放浪状態ののち、もぐりこんだところが逓信省経理局営繕課であった。末席の製図工にその後のかがやかしい逓信建築の歩みを予知できたとは思えないが、とにかく旧世界からの出口を発見したのだった。

逓信営繕は、山口にとっての大学であった、教師は帝大出の新進エリートたちがいる。岩本禄や吉田鉄郎に兄事し、山田守により分離派建築会の連中に啓発されてゆく。学友は製図工の仲間であり、ともに絵やドイツ語を学んで、帝大出のエリートに負けまいと気負いたっていた。

こうしてしだいに上昇気流が彼のまわりを舞いはじめて、旧世界からの脱出口がみえてきつつあり、ついに関東大震災がこの突破口を開くことになる。(伊達美徳)

離 陸

関東大震災(大正十二年)は、建築家として生みおとされる山口文象の呱々の声となった。この世紀の大事件を契機にして、彼の身辺はあわただしい展開をはじめたのであった。

震災復興のため、内務省に帝都復興院が設けられた。山田守の紹介で、その橋梁課に嘱託技師となり、このときから橋やダムの土木デザインにたずさわる。しかしながら実際に自分で作品をつくる立場になるのは、昭和に入った年からで、石本喜久治のもとでの朝日新聞社の仕事にはじまるといってよい。

分離派での縁で、石本事務所創立時の設計主任となり、白木屋や朝日新聞社員クラブ等の設計にたずさわり、めきめきと腕をあげてゆく、その成長ぶりは、当時のスター建築家の石本喜久治をして、ライバル視させるほどまでになった。

震災の年、まえまえから出入りしていた分離派建築会の同人に迎えられる。その得意と緊張とそして気負いは大変なものであったろう。ついに旧世界を脱して新世界がほほえみかけてきたのである。その余勢をかって、製図工仲間を率いて自分で創宇社建築会を起したのであった。それは新世界に渡ったものとしての旧世界へ自らさしのべた手であり、ともに新世界のロマンにひたろうと、山口は思っていたのではないか。そして絵画、文学、演劇の分野との交流をひろげてゆく。

この時代の、建築はもちろん、土木、美術、文学、思想等の幅広い交流が、後に建築家山口文象を支えることとなる。

ところが創宇社は、当初の思わくと違って、甘美であるはずの新世界へ上昇するのではなく、活動は時間を経るにつれて社会運動的様相を呈してきた。それはそれで旗を振ることは彼にとって不得手というわけではないが、気がついてみると脱出したはずの旧世界の出口近くまで戻ってしまったようだ。

そこで彼は渡欧という実に壮烈なテイクオフを図ったのであった。一九三〇年という時代、それを当時の建築界のあこがれの国ドイツヘ、しかもワルター・グロピウスのもとに学ぶことで、彼は完全に新世界への脱出を遂げることになる。(伊達美徳)

飛 翔

一九三一年からの一年半の滞欧期間中の最大の収穫は、グロピウスのアトリエで働いたことであった。各地をめぐり一九三二年の夏に横浜港に帰着する。その間に主宰者を失った創宇社は、不安な社会状況のなかで減俸騒動にまきこまれるという、末期の創宇社らしい形で事実上の解散をしていた。

帰国した「山口蚊象」は、もはや運動家ではなく、「新興建築家」として爆発的に設計活動をはじめる。日本歯科医専、番町集合住宅、山田邸、青雲荘等の作品で、「国際建築様式」に通暁したスター建築家となっていった。

東京山手の芝白金に新居を得て、「山口蚊象建築事務所」(昭和九年)を主宰することで、ついに浅草の職人の旧世界からの脱出に成功した。

「プランのできていない建築は、建築ではない」と、山口文象は生前によくいっていた。彼はこの時代の作品が、スタイルとして他の建築家たちのいわゆるインターナショナル様式と同列に並べられて論じられることに不満をもっていた。これらの作品をささえているプランとディテールに盛りこまれた新しい手法を評価してほしかったようだ。

これらのいわば表顔としての国際建築様式の作品の系譜のほかに、数寄屋から民家へと流れてゆく和風建築の系譜がある。その手練の技の和風建築は、山口文象にとっては、旧世界のものであったはずなのだが、二つの系譜が同時期に並行していることは興味深いことである。

洋風・和風の建築と土木デザインと、とにかくやりたことは、ほぼ三十代のうちにやりつくしたという感があるほどに、質的にも量的にも充実した一九三〇年代であった。

しかし、それも太平洋戦争による資材不足で、必然的に建築家の出番はなくなってくる。一九四〇年代からは、主な仕事としては軍需工場の徴用工の宿舎ばかりで、建築作品にはなりようもない条件であった。

戦争が終ると、もう仕事らしい仕事はなくなってしまう。学閥も門閥もない自由業に近いこの建築家は、せっかく自分をのせた新世界ではあたりまえの変り身と泳ぎのうまさを、身についた旧世界での律気さが邪魔をして、ただ逼塞するのみで貧をきわめるのであった。(伊達美徳)

止 揚

戦後の再出発は難行した。事務所のスタッフは復員してきても、仕事はなく、とうとう一九四九年には解散することに追いこまれた。

建築家「山口文象」は、また運動家にたち戻って再出発を図ることになるのだが、建築家と運動家との止揚を図ろうとして、二つの組織を起すのである。

一九五〇年には、猪熊弦一郎らと図って、美術団体の新制作協会に建築部会を起す。さらにその翌年には、若い建築家を集めて、RIAグループを結成する。前者は美術、工芸デザイン、建築等を横に結んで、運動家山口文象として外にひろがる世界であった。

これに対してRIAは、口も手も達者な若者を率いて縦に結んで、建築家山口文象として再出発する内にひろがる世界のはずであった。

そして、そのRIAグループを率いて、新制作協会の展覧会に出品した作品が、「ローコストハウス」であった。これをもって、運動家と建築家とを見事にひとつのパースペクティブにおさめてみせたのである。こうして戦後は出発した。

さて、RIAグループはグロピウスがアメリカで組織したTAC(一九四九年)に啓発されていた山口文象をリーダーとする建築家集団であり、協同体としての建築設計を標榜して、戦後デモクラシーのひとつのパターンであった。その故に建築運動としての動きをもつことになり、運動家である建築家山口文象にとって、一九五〇年代は止揚をとげてひとつのピークの時期であったろう。

しかし「RIA建築綜合研究所」は、組織自体として自律的に成長をはじめる。一九六〇年代に入ると高度成長の社会で建築運動は行きづまりをみせ、設計組織として体制がととのえられてくる。

手練の作家としての自己と、組織体の長としての立場の間で、更にこのころからはじまる宿痾とともに山口文象の新しい相克がはじまる。そこで、病に小康をえた一九七〇年代から、作家としてものをつくることで、いねば回帰をはかろうとして再試動をはじめたころのある日、二十世紀とともに歩んだ七六年の鼓動は卒然として止んだ。(伊達美徳)

第二章

さて、山口という作家の発想の原型というものを僅かな接触の間から再構築する作業にとりかかって見たいと思います。四つの時代区分でいう最後の段階の出発点五三年は、RIAという組織をつくり、新制作派に建築部をつくった時期で、「ハレ」の年、元年ということになります。

しかし同時に作品を通じて作家を語る、という評論家は、一様にこの年以後は、異った文脈で評価せざるを得ない時代とも呼んでいます。何故なら、建築家は作品をもって世に問うという固定観念があり、弟子がすべて行った作品でも、敢えて仕事をまとめた人間の名前で発表するのが、この世界の通説でもあるからです。思想家であり、創作家であった山口は、創作集団の「まとめ屋」として象徴ではあっても意志決定の中核に座らない。中心喪出の構造…ロランバルト好みの日本の創作集団をデザインしたというひねりを見せてくれます。

年代区分の第三期の後半が、飛翔ではなくて沈潜の時代であり、第四期の後半が止揚ではなくて分裂症の時代というように、時代区分のたてまえ論だけでは、極めて無理があるのですが、五三年のはじめに当る「止揚」は、まことに意に叶った命名であります。

明治・大正・昭和前・後がきれいに一つのことばに該当する影響を個人に与えたとすれば、個性としての建築家、社会主義者、プロデューサーという順の三番目の役割をこの年から日常的な行動の中で演じていかなければなりませんでした。

お気づきのように、時代と個人の役割という二つの軸で表明できない部位が、光と闇、あるいは「ハレ」と「ケ」あるいは「のり」と「おちこみ」といった二つの側面区分をすると、もっとリアリティのある説明が出来そうです。

現実的に、フロデュースに凝り過ぎた山口は、未熟な参画者に何ひとつ教えないという徹底ぶりで、若い参画者の中には、山口は論理的個性ではないという感想を持つ人が多かったのも言ってみれば、彼は行動(パーフォーマンス)の中に「創作活動」(オリジナリティ)という狭義のものを埋めこもうとしたからです。

ワルター・グロピウスは、一貫してこうした方法をとった建築家でした。人間の理念という抽象的なイメージ構造をバウハウスとい教育現場に具体化する…。開題を展開するに当って、その場その場でもっとも適切なグループ構成を行う。こうしたプロデュースメントを実践できて始めて、建築家は文明の統括者であり得たわけです。

五三年の時期で、山口ほどの腕ききの作者が仕組んだ仕掛けは、やはり平凡な着想ではありません。少なくとも、この時点ではこの完全主義者の着想は成功だったのではないでしょうか。

五三年初頭の参画者たちには、指導理論に関して無言のうちに諒解された『近代建築の手法』があったためです。この設定は、六〇年ごろまで、一番安定した形で、ゆっくりではあるが洗練されていくという過程をとりましした。

とくに久ヶ原教会、グレセット講堂という二つの小さな作品が竣工したばかりで、この二つのモダニズムが、根の形として承認されていたからでしょう。二つは似てるようで微妙なところで違いますが、この時代には、もう近代建築の手法は、国際的に共通した言語だ、という、いわば、メタ・ラングとしての位置づけでは、説明しきれなくなって、細分化された文脈が望まれていたにも拘らずです。秩序、釣合、内斉、比例のよさ、といったモダニズムの展開は、形而上段階の理解に止まっていて、とくに白い立方体という象徴語で言われる純度の高い造形性をもつものが多い戦前の作品の系譜の延長上に戦後のこの二つは疑いもなく組みこれていたにせよ、その差異を見抜く力は参画者には望めません。

久ヶ原教会では外部で純粋な幾何学形態の合成せを見せながら、内側でも、もう一度、説教台をポジ(図)、室内をネガ(地)にする細分化を行うため、インテリアの色彩も、細部の分節もすべて消去するという、いわば抽象化に徹している。屋根が三角形の立体に作られたことで、インタナショナルスタイルというより、バウハウス初期のロシア・フォルマリズムの香りがする。ベルリン時代のタイム・トンネルといってもよい。これが、展開され、複合したフォルムの合成に行きつけば、今日のポストモダンの人アルド・ロッシに合流する、一種のレトリックがあるということです。

もう一つのグレセットの方は、骨組を隠さないという構造露出の具体的モダニズムといえます。柱と壁を離して分力の状態を視賞化し、しかも垂直にせずに、角度のある二つの要素に分離している、橋梁のデザインに見られる静定構造を見せようとしたものです。

この頃の山口の精神状態、高揚した緊張というサンチマンをよく表現しています。構造体を工夫して露出しよう、という第2の系譜は、初期のRIAに引き継がれます。ただ、かなり単調なかたちで…残念ながら…。

構造の純粋化とその形態のデザイン…いわば重力法則を工夫して見せる、というのは、橋のデザイナー、ロバート・マイヤールの影響が見えるのと、当時の岡隆一との交際が一役を握っていると思います。純粋形態のレトリックスと一種の心理的構造主義として具象化してゆくボストモダニズヘの連繋を山口が敢えて追求しなかったのは、集団制作、というブロデュース優先を実践させたかった当時の山口の予猶とみてよいでしょう。

今日の大規模な設計組織かたどる、担当者が指導原理を下から上へ帰納したがる傾向が、戦後の小集団でも既に出ていた、と言えるでしょうか。

レトリック性の強いモダニズムと素朴な構造主義という山口個人の手法継承と平行して、第三の方法がすぐ現れます。

山口の中には、たてまえ上、鬼子にしていた日本様式を復活させてもよい、という気分が消極的ながらあったと見抜いた上で、若手からの折衷様式の提案です。

この流れは、ローコストハウスという『パフォーマンス』を通じて実現します。

陰に陽に、行動を通じて日常的にはよく散見された、攻撃の型は、生涯の節目節目で爆発します。二項対立型発想、異議申し立て、参加の心理構造のポテンシャルがうなりを立てる、という形で。

それでも、未だ隠された部分の身分証明が残されています。これこそ最大の資質を陽光の下に引き出す重要な手続きなのですが。

RIAが都市を扱うようになり、このジャンルでいち早く、山口が表面的に手を引く結果になったのは、実はグループ内での、この「陰の部分」の証明が遅れたためです。

ここでも、この作者の個性を形成する表現行為というヨコ糸が、ユーゲント・スティル、モダニズム、伝統様式の三相をなしており、行動原理というタテ糸が、パフォーマンス性、異議申し立て、二律排反への好みという三相をなしているという、織物のように、見ることが出来ないと平板な作家像に終ってしまうでしょう。

一九五三年は、その資質が隠しようもなく爆発し、論理的な造型へのガイダンスなどを望む必要のないほど、疾風のような「はれ」の時間だったのです。

二項対立、あるいは二律排反への好みは、山口の基本的な生活のかたちで、経歴の豊かな変化と、それを起させた時代という重相の場で説明できます。

本人は、瞬間瞬間、単相の、純化された、男性的な行動人でした。しかし、二重化され、隠敞された肉体の中の気分は、絶えず対立し、抑制しきれない血を感じさせ、さいごにあんなにいやがった浅草の文三(親がつけた本名)の気質こそ、もっとも今日的な、都市時代へのすぐれた陰喩を持つ存在として充分の資質をあらわしていた。そのことをどうしても追いかけてみたいのです。

特に、生活の面では、女性によって救済される伝説上の人物の予告をすら顕在化させていた、あの六十才に彼を襲う肺気腫、老いの症候群を予感させていたのです。

「ケ」の陰廠、あるいは「ケ」への軽視は、統括者たろうとする建築家にとってそれが致命的な欠陥と考えられたからです。

都市構造には、「ケ」と「ハレ」が両存していることは、東洋では特に古くから指摘されています。易学による、土地の選択、建物の鬼門を避けることなど、今日でも通用し、日常を縛っています。

浅草が、江戸の鬼門に当っており、文象の生れた田町のすぐ北が旧吉原であり、浅草六区の歓楽街のもつ暗さが、また大正の文明の薄っぺらさのパロディであったことも、古い文明に対しての忌避反応となっていたのかもしれません。

出生を隠そうとはしなかったものの、一種の逃避的な心理があったため、この「ケ」につながるイメージ群を意識的に排除し続けていました。

分離派の会合に出たとき、日本のエリートたちの言動への復雑な反撥を、そのまま凍結していたわけではありません。渡欧後は、恐らく、多くのサクセス・ストーリーの中の「ハレ」の環境が自然に、これらの「こだわり」を忘却していったのでしょう。そして直後に暗い時代が訪れます。この時代の記憶は意識的に陰廠されたかげの時代でした。

五十才の、戦争を抜け出した第二の人生への門出は、したがって晴れ晴れとしていなければなりません。

戦後のファン・デル・ローエの成功は、山口の造型素の中の、かなり良い部分を補償してくれるものだったし、グロピウスのTACは、「ハレ」のパフォーマンスを演ずるのに、遠くにあるためにこそ純化されたものでした。

造型の明澄さと、安定した尺度の領域で仕事が始められたことと、集団指導体制というアイデアが孤立したものでなく、むしろ文明創造の指導者に打ってつけのシステムに見えたこと。五三年は、こうして止揚の時代のはじめの年と名づけられたのでした。

彼にとってかげの部分としておきたかった伝統様式がするりと表面に出だのは、多くの意味があります。

伝統様式の作品群は、戦時中の軍の施設の作品と共に、意識的に隠廠されていました。妥協ということを最も恥とした明治のひとの、むしろ日常的な心構えだったのか、と今では考えられますが、当時は非常に不自然に思えました、そこで、大久保邸、土田邸以後は、モダニズム、啓蒙主義をよそおいながら、屋根のある住宅が出現するのです。

屋根のある…何と屈辱的な思想なのだ、この感情は、モダニズムの洗礼をうけた人には実に素直な衝撃だったはずです。まだコルビジエのユニテは、知られていません。

つまり、「ゆさぶり」は若い参加者からかけられたレトリック。この大久保邸のスタイルは当時の若い建築家にかなり評判になりました。

ここで、少し山口の設計の最大の特色になっている尺度感覚について考察してみましょう。一口で言えば、造型素型を一気貫通の尺度感覚に単純化しようという稀有な才能でした。活字からダムまで。(初期のレタリングや一九三五年代の家具はさすがにドイツ直輸入ですし、ジョイントやテクスチャー撰択にも難は見えますが)、大きな尺度でも崩れない「手」が感じられました。

例えば丹下健三の当時の颯爽ぶりは山口に大きな刺激を与えていました。

その尺度階級(ヒエラルキー)の踏み方は、殆どピタゴラスの幾何学のように感じられました。人間尺度は無限に、数学的に構築できる…山口の資質の良い部分を先取りしていたのです。コルビジュもモデュロールという言い方は同じだ、と思うでしょう。しかし、彼の場合は、途中で、大きな攪乱を入れシステムが多重であることを必ず予告する癖があります。

日本の建築ではこうした不連続は一部を除いて例が少い。伝統工法でもシステム化が見られる天竺様式や唐様式では安定した尺度の構成と、尺度をアナローグする動植物や模様(アブストラクト)などの挿入で、変化はあっても、分節はきわめて「秩序」だっているのが常識です。宮大工を父に持ち、徒弟学校で実技を学んだ山口には特にそうで、ダムや橋架という、人間の尺度を超えた場合でも全体の枠をこわさず、微妙に不連続を演出できるほど手竪い習練が感じられました。

ニエアルの墓と、久ヶ原教会の説教台と、新製作座の舞台の裏面は、同じ系列のタケテ・フォルムとしてこの事情を証明しています。

一九五三年直後、伝統様式の大久保邸は分節、標準寸法を尺貫度量法によって大胆な単純工法に徹しながら、モダニズムの構成とを両立させようとしたグレセット型でしたが、コンクリート作品の尺度構成では悪戦苦闘でした。

タケテ・フォルムが、身辺の寸法から出発しているため、とくに低層でのまとまりは適切です。

問題は、フォルムが大きくなりはじめるとき、向日常性の強い日本の建築は、大てい平凡な「ビルディング」に終ります。現実的な尺度感覚と、抽象的な、あるいは都市的な尺度構築は、殆ど統一することは不可能になり、複合形や対立形をとります。橋やダムでも、橋の手摺や、小さな階段、修理用の通路の個処で、尺度は不連続を起しがちです。

急速に仕事が増え、規模が大きくなるとき、モダニズムが、尺度をメタファしながら安定するには、RIAは少し時間が不足していました。

ほんの一部の不協和音は入れても、大な構成は転調と協和音にたよっているクラシックの音楽に似て、機能として非人間的な規模を要求するものには、むしろ尺度感は不要です。都市を建築家のカテゴリーに含もうとする野心は、いつもここで一つの転機を迎えます。ウィーンのシェーンブルンで退屈した山口は、若かったのと、庭園側から宮殿を見る時間がなかったのと、ヨーロッパの透視図法の時代の美学が日本の建築のカテゴリーになかった為と思いますが、逆の尺度構成、日本庭園の中の宇宙感の中の尺度修正は知っていたのです。茶室のディテエルのレトリックスも。

ウィトルヴィウス以来の経験別を集大成した比例と具体的尺度に完するエクリチュールは新しい社会需要に対して、その純粋の機能、構成、比例を問われる時代に入りはじめたのです。肝心のギリシヤ建築にしても、階級制度によって成り立ち、上位の階級の祭り事のためも抽象化が行われているから許せない、と本当に思いこんでいた、と回想していました。もちろん、渡欧時代の話(一九三〇)ですが。この時代はイデオロギーが建築観を一面的にしていたのでしょう。

一方でジートルングに代表される現実路線の尺度構築は、非常に気にいっていました。しかし同時に、製図を通してグロピウスの機能、尺度の構成の均質性を体験したことは、決定的に自分の素質の中の方法論を確認したのだと思えます。ドイツ民族の血は、その傾向を強く持っていますから。

その当時の、ユダヤ系の一流の作家たちとドイツ系との微妙な差について、イデオロギーとしてはモダニズム即ち国際建築といった重合性の中では、山口の口から聞きとれたものはありません。しかしメンデルゾーンは嫌いで、シュッツトガルトの住宅展での地方的なドイツ作家は好き、という理屈は、山口らしいので覚えています。

尺度の断層と二項包摂という、このような課題を解決する前に、戦前の傑作、日本歯科医専を設計します。ブルノ・タウトは、『かたい、日本でのコルビジュエ模倣は限界がある』と寸評し、茶室の関口邸を絶讃していますが、当のタウトの日向別邸は、レトリック偏向の、東洋的キッチュで、日本人には逆に評価しにくいところが、妙ではありませんか。

たしかに、日本では構造計算の問題があり、「構造は真実空間」を表現するのはむつかしいことでした。「都市」という領域でも同じ断点があります、又、脚を出して、ハコを浮かせるというヨーロッパモダンの手法をコピーするには、木造で行う。何という不思議な、キッチュ(戦後の庶民住宅のお手本になりましたが…)。

黒部第二ダム発電所のラーメン露出と、コンクリート庇のずれも、同じ理由から説明ができます。

コンクリート静定構造は実現しませんでしたが、少し遅れて作られた朝鮮大学では、山口の嫌いな縄文的なプロポーションのレトリックが成功したのは皮肉なことですが、この方向は山口の資質の軸にのっています。

戦中から戦後にかけて、小さな作品しか作れない時代の小品は、尺度に関して安全領域であったので佳作が多く、形態の不変項(間違いなく美しいとされている部分)を把握していることが傍に居て理解できますが、山口の体質によく乗っている尺度構築でも、広い範囲をカバーできる技術として伝達するには多くの欠陥があったわけです。

五三年を語るためにもう一度、アメリカ東海岸を回顧してみます。ナチスが政権をとると、ユダヤ系の頭脳は大挙アメリカに移任します。

建築家ばかりでなく、二十世紀を代表する芸術家、思想家、科学者の一群です。

戦後の「アメリカ時代」のはじまりです。

バルトークや、フォン・ノイマンやアインシュタインは、その後、日本の芸術、科学、経済学等広範囲の社会的影響を与えます。特に建築系のヒルベルザイマー、ブロイアー、イッテン、ローエの、バウハウスマイスターズの成功は、世紀初頭の理念を実現する『ハレ』の場を東海岸に見出したのです。

しかし、ヨーロッパでの思想上の戦いの後にです。ローエのローザ・ルクセンブルグのモニュマンなどは、山口の造型上の大きなキーワードになったにちがいないのですが。

日本はまだ眠っています。そこには極端な情報格差が生じています。戦後の日本は、戦前、とくに近代建築を模倣したものと同じやり方で、戦後はアメリカを向いていました。

すばしこい実務肌の建築家や、戦時中の行動を贖罪しようともしない指導者たちに、山口が攻撃をかけたのも無理もありません。この異議申し立ての感情の強さが、造型の矛盾解決を忘れさせていたのが、ふたたび異議申し立ての社会主義者にもどっています。

この憤怒の情念は、外に向うと同時に戦争中の精神的責任を問うかたちで内に向い、徹底した「身の証し」を立てよう、とします。

そのこだわりは、戦時中の自分の経験の弁解として、葬るべきものを葬る、という行為に収斂します。同時にその行為そのものの自己嫌悪が、いよいよ「ケ」の部分の抹殺へ、「ハレ」の部分が誇張へと分裂症的なパターンをとり始めます。

戦後世界のデザイン情報の不足、とくにアメリカにおける戦後の経済復興の早さと、モダニズム理論の現実化の爆発的成功を、指をかみながら覗める、焦立ちとデータ不足が、山口を極めて狭い道、しかし、それは殆ど純化された象徴空間に向うようになります。

そこで、実に多くのものが心の中へ押し戻され、他人には、タテマエの理念論を語るという二重構造に見られ、一種の放心と、狭溢な道での垂直上昇の願望となって作品に塗りこめられることになるわけです。

垂直方向への軸線の採用は、尺度の不変構造採用をいう現実面での必然性と相俟って、物資が極端に少なかった当時の建築では、モダニズムは象徴主義とも重なり合っていたのです。清家清の森邸への絶讃は、「水平面の純化」が如何に当時の山口に新鮮に映じたかの逆証明だと思われます。

後日、ヨルン・ウッツォンがシドニーのオペラハウスで見せた、東洋の水平面の発掘と、意味論構築として建築しています。

若いRIAのスタッフたちは、まだそれだけの能力を持っていなかったので、啓蒙的設計という戦後型民主主義思想を単純に鵜のみにしていただけでした。ともあれ、一〇年後に、ある信託銀行のコンピュータシステムをつくれるだけの、住宅設計での民主化、社会化という山口好みの実蹟を残したのです。

小住宅万才(もう小住宅がリーダーシップをとる時代は過ぎた)と相呼応して、住宅の中の多くの課題は現実設計という地平に吸収されます。この時代には山口の放任は、日常的なものとなります。集団指導のたてまえとしての放任か。

または、戦争中の、あまりのブランクと、戦後の混乱期の日本の情報不足に、造型理論を組立てられなかったための時間かせぎのための放任か。二つの視点があります。

尺度と比例を対応関係で理論しようとしたヴィオレ・ル・デュクに対して、その方法論は狭いという意見があります。デュクも、城塞から家具まで一貫した尺度構成のできる稀有の人で、そのプロフェッショナルな資質は山口と似てたかもしれない。山口はフランス人に詳しくなかったから、デュクは知らないと思います。

山口側に立って考えれば、構想と内容との言文一致というデザイン理論は、実に分りやすいものだったのかもしれない。一対一対応の特殊解で、一気に都市デザインまで尺度を貫通したらどうだったか?

「都市計画のRIA」には何故か山口はあまり関心を示していません。勿論、経営者として営業には協力してくれましたが。

そこで、いくつかの仮説を立てることで、五三年当時の、造型の素形認識のかたちを占って一応の結びにしたいと思います。

① グロピウスはトータルテアタの後に、ソビエトパレスの指命設計案を引受けます。山口はこの製図までしていますから、この規模のデザインは、とくに劇場空間は達者でした…没になった、大田区の公会堂案というのがあります。六〇〇分の一で、ひとりで製図をしていましたが、トータルテアタ系のものではなく、軟かいフォルム、尺度の安定感等、シャロンよりもむしろアアルト風でずっと説得力がありました。この傾向は、何故そのままになったか。

② 新制作座センターは、一種の群デザインで、かなり深くデザインにコンタクトしていましたから、山口の作品といってもよいのではないか、と思われる。この二つの要素、劇場という空間の大きさと、居住単位の尺度との複合化は、きわめて日本的手法で理解しやすく実現できたと思われます。

③ 都市あるいは群建築について、オランダのアウトのシードルングは、山口の好きな作法の一つであったようです。しかしヒルベルザイマーは固い、と言っていましたから、上限をアウトの形態素型としてもっと、この手法は継続したかった…もう一つ、没になりましたが、六〇年ごろ、都内に巨大なプロジェクトを計画しました。これは橋のような構造で柱が一〇〇メートル近くない巨構でしたが、この方向でも軟いシステムということをくりかえして言いました。

この群設計ポリシーは、都市レベルの上位構造と、下位の窓まわりなどの地震の挑みの吸収などの二つの尺度が混在しており、二つのディテエルが進行すれば、デュクとは違う理論家であったという実証が残されたかもしれない。

④ 日本歯科大学の増築…戦前の代表作の第二段で、これも仕事を獲得できなかったが雄大な静定構造で、コルビュジェのユニテ・ダビタシオンに似ていたけれども、表現主義にならず、ぎりぎりの寸法で行い、或る程度の厚みを偶然…つまり機能的に尺度を決め、採用できるというものでした。これも、中断。

⑤ そこで、茶室をはじめとする伝統的尺度を、ヨーロッパ型の尺度のなじみ方なのですが、関口邸をはじめとする日本住宅は、三つの系譜があります。戦前のものでは、茶室、数寄屋と一般の和風住宅です。三番目が、五三年前後に集中した、ローコストーハウス、大久保邸、ラムダーハウスです。

始めの二つは、晩年になってようやく発表する気になった、陽の眼を見ないかもしれなかったものです。

その内容は、茶室のほうは伝統の原型に忠実なデッサンで詳細のしっかりした作品です。私は批評家の讃辞とはちがった立場をとりますが、昭和初期の時代の住人の生活は反映されていない。習作としてはよいが日本のマニュアルで行われすぎています。社会との対立に体をはった人の心理的な対立項がないのです。

吉田五十八よりうまいと言えるかもしれないけれど、ヨーロッパでの敗北感から新日本調に戦いを挑んだ後者の方が、存在理由ははっきりしています。

ただ、日本建築の尺度のこまやかさが、ヨーロッパモダンと実によく折合っているのは、人間の寸法の方から接近していく造形上の不変項は、人間の日常性に近いところでは国際的だという自信と、自分で施工ができるという『手のたしかさ』が具象のレベルで確定し、とくに、『メタフィジカル』は『フィジカル』という日本伝統の作法が、よく理解できた水準で用いられているからでしょう。

晩年、西沢文隆のパシフィックホテルを見学したときの印象は、インテリアとエクステリア、外観の尺度と、ロビーの尺度、庭園と日本料理店のインテリア、といった各部分での二重構造の成立、に対して、(この二元論はかなり調和的だったが、)実に納得するものがあったと語っています。

このような二元論的な条件整理は山口の手腕ならRIAで、もっと、出来たはずだった…私もRIAを辞めていましたが…と臍をかむ思いがしました。

これに関して連想するのが、ロラン・バルトの『日本の鉄道の駅は他に例のない表意作用をもち、エロス的であるのは確実である』とし、『都市の記号論を考えるのに重要なキイ』であるとしている仮説です。

又、吉本隆明は、建築設計家が作る街や広場は、いかにも醜悪であり、大工さんが知っている格子のある露地こそ、残すべき都市である、と言う。この二つは、山口が開発しなければならなかった技術、守らねばならなかった昔の街の尺度が、記号としての都市像としても両立することに言及したむので、この仕事は未着手のまま残されました。

これらは、江戸時代以来の「アウタルキー」のための知恵であり、「しつけ」です。日本という象徴の帝国での二つのまちの側面は、このように山口が葬らうとした、「け」の世界の中に残されたままたった。

山口の言動の中で、ひときわ異色のものは、徳川夢声が好きだった…いっちや何ですが、という流れるような語り口をそのまま芸とした職人、または、歌舞伎界のエリートになれない反逆者たちの芸への愛好、同時に言葉のうらに隠された莫大な構造を直観して脱帽した湯川秀樹の語りへの敬意。

いずれもが、肉声を通してのコードヘの直感で、日本語のもつ、独特の伝達能力とイメージ換起力、庶民のもつ共同幻想への適確な批評など、多くの日本的感覚への愛情があります。ローコストハウスの技術的弱点を江戸から、ずっと維持されてきた、災害のあとの応急処置というイベント構造に読みかえた素早いパフォーマンスは、今後の建築・都市・地球の系列を解く重要なキイーワードのひとつだったことを思うのです。

さいごに山口のユートピア。都市を目指す建築家の心の中には、建築と都市との連続という果てない夢が必ずあります。

日本人が世界に独自の意見を言える唯一の場が、都市・建築の接点、あるいは支配層の計画と庶民の異議申し立ての接点、あるいは、ハレとケの両立点だとすれば、これら複素数的世界の実感をその経歴に生れながら持った人物です。

震災前の浅草六区のいかがわしさは、戦後の経済大国時代の商業主義とあまりにも酷似しています。ベルリンやウィーンでみた、ロシアやハンガリーから来た先駆的な芸術家たちが、今日の日本の文化的な位置と、どんなに似ているか。本人のたてまえは、やや硬直して見えましたが、「病気が、すっかりその」こだわりをひっくりかえして哄笑してくれたなんて、とて信じられない素質です。

山口のユートピアは、五〇年前後、芸術家村を相模湖に作ることだったと猪熊統一郎は語っていますが、新制作座文化センター、朝鮮大学に、日の目を見なかった作品群の発想の中に、生き生きと見る気がします。しかし、彼が中心を取り除いた五三年の組織RIAは三十周年を迎えて或る意味では、ユートピアを部分的に技術化し、思想を明確にしないまま商業的な需要を創造することに成功しました。多核構造の一つの成果でしょう。

又、私のようなRIAを離れた人間から見れば、周遍に分散した彼の分身たちは、或る意味で違った夢を、それぞれの個性を拡張する方向に向って見ているはずです。創宇社から始まった山口の知己の人々たちのつくるもっと大きな外周縁部を含めて、都市計画や、デザインや、パフォマンスや、哲学や政治の混在する混沌はむしろ、ヘテロトビア的空間とでも呼ぶものに変質しはじめていると云えるかもしれません。(了)

後記

文中の敬称は省かせていただきました。

図版I ソスビエトバレス応募案 ワルター・グロピウス 1931 相模書房P79

図版2 黒部第三ダム 1934 相模書房p155

図版3 山口自邸 1940 彰国社 p16

図版4 久ヶ原教会 1950 相模書房 p58

図版5 ローコストハウス 1952 彰国社 p34

図版6 朝鮮大学 1959 三一書房 p124

図版7 新制作座劇場 1963 三一書房 p110