1978山口文象葬儀・追悼の辞(植田一豊)

追悼 植田一豊

山口文象は、まことに典型的な20世紀の日本の建築家のひとりだった。今日ほど、20世紀の問題が明瞭なかたちであらわれ、その意味を問われた時期もすくない。文象先生の20世紀は、日本の宿命的な文明形成のドラマと重複して見える。 20代で創宇社を起こし、日本の階級闘争の中に身を挺しながら、一方てこまことに見事な日本建築設計の名手であった。茶室を中心とする日本建築への没入と社会改革への情熱の相反性は一生、先生の生活を貫いた。この相克は、もうひとつの二律背反的な性格の両存――理想の民主的組織づくりと個人的な貴族趣味とが別のところで重なりあって、生きることそのものが壮大な矛盾に満ちていた。

日本の20世紀の栄光と悲惨が、同じような形の矛盾を内蔵していることは、今日誰の眼にも明らかである。

建築家が「現実の重要な構成要素をすべて包括しなければならない」という理念に貫かれた場合、社会そのものと同調せざるを得ない。日本の社会に矛盾があれば、社会の構成要素そのものでありたいと願う個性は、同様の構造的歪みをうける。

バウハウスの20世紀初頭における浪漫主義を、日本に持ち帰った一人として文象先生は、まずヨーロッパ近代主義の輸入者として世俗的な成功者となった。

思想は、その運動が挫折したとき、むしろその純粋さを証明するかのように、グロピウスはナチスに追われて渡米した。

文象先生も、日本の戦争時代にはモダニストとしての活動を停止せざるを得なくなる。

戦後、グロピウスとの出会いは、不忠議なかたちで実現する。

アメリカの戦後の爆発的な経済発展に文明的なバックアップを果たしたヨーロッパからの知的移民のひとりのグロピウスは、新しい集団TACの指導者であると同時に、教育者としても、アメリカ建築のイデオローグの一人としても、成功した。一方山口の方は、むしろヨーロッパ風の禁欲的な、20世紀初頭の思想運勁に近い形のRIAを招集していた。事実、日本はまだ、禁欲的にならざるを得ない状況だったから。

このアメリカ経由のヨーロッパの建築と、1920年代のヨーロッパの建築思潮の記憶を引き継いた戦後の日本の建築の思いつめた純粋さとの差は、戦後の山口の行動によく表われている。

戦後の日本の経済発展は、はじめ絶望的な形で、徐々に加速され、万博開催に至ってその絶頂期を迎える。

文象先生のRIAは、その心情的ロマンのために、技術化や、組織の近代化……技術集団団としての……が遅れていたが、その矛盾とたたかいながらゆるやかに大規模化していく。

山口個人の造型性は、戦後直ちに社会的な窮乏の中で花咲いた久ヶ原教会に代表される。

戦前のモダ二ズム――渡欧前は、むしろヨーロッパ世紀末観の影響をたっぶりと含んだ日本的モダニズムであり、帰朝後は本格的な国際建築派の旗頭の一人として活躍した名手としてのモダニズムでめった。しかし、久ヶ原教会は、日本の輸入型モダエズムの吟味と伝統的形式の捨象という作業を内面的に浄化した独自の可能性を明瞭に示している。このころ、日本建築の名手として自らの腕をいかに強く葬ろうとしたことか。その浄化作業の強さは恐ろしいくらいであった。

この日本の20世紀の文明への予感は、あまりに個人的に、むしろ職人的に完成度力が高く、理想集団として想定されたRIAとは肌合いを異にして孤立していた。バウハウスそのものも、また、建築にその最終的な表現を認めようとした完全主義と、マイスターたちの強すぎる個性との間を埋めることが出来なかったし、ドイツの政治的な力関係との調整は、はしめから破産していたように、強いロマンティシズムは、往々にして現実的な解答をほとんど

用意できない。 すくなくとも戦後の生活は文象先生の個性には極度な緊張と挫折感を与えることしかできなかったのではないだろうか。

20世紀の世紀末は、当然別のかたちではあるが、社会的な構造矛盾を示しはじめている。建築家に、広範囲に文明に参与せざるを得ない立場が許されているとすれば、この予感は、20世紀初頭の日本的モダニズムという、日本側からの論理や情緒でなく、世界的な規模での自己検診を必要とするだろう。文象先生のRIAが技術化に遅れていたことは、言い訳にはならないとしても、文象先生が絶えず拒否していた、短絡化した部分的完成や、産業社会へ全面的に組み込まれることをしなかったことは偶然とはは言えないだろう。

19世紀末のヨーロッパの危機感と、日本の伝統的手技の完璧さを併せ持ち続けた20世紀人のひとりが、思想と、実生活面でのささやかな誤解とにれりまかれながら、たしかな時間の積み重ねを残して去ったことに、絶大な同感と、賞賛をおしまない。

残された人びとにとって、20世紀紀の魂のひとりに接触できた幸福は、今後、時間を経るごとに再確認されてくるだろう。

また、せめてあと10年、20世紀の終りまで見届けて欲しかった<社会との関わり合い>の仕事は残った人びとの義務として果たされぬばならないだろう。日本の20世紀の文明とは何だったか? 建築家にとって都市とは、近隣とは、住宅とは、技術とは?

おやすみなさい。個人として義務を果たされた魂よ。

注:1978年6月1日、山口文象の葬儀を青山葬儀所で執行した。そのときにRIAが参列者に配布したリーフレットには、山口文象の晩年の顔写真、ふたつの著述の抜粋(創宇社第三会展と吾々の態度:「建築新潮」1925.9、地域に根をおろした建築を:絶筆:「建築士」1978.4)、追悼(植田一豊)、略年譜が載っている。このリーフレットデザインは植田実であった。(伊達)