1920逓信省時代

1920逓信省時代 編集:伊達美徳 2009/07/19補綴

・建物名称

・建設場所

・竣工時期

・資料類

●西陣電話局1922(岩元禄)

●釧路郵便局スケッチ1923(山口文象の手帳1923より)

●1923年 上と同じスケッチ帳から

・解説・論評・資料

●逓信局時代の山口文象 伊達美徳(新編山口文象人と作品」1982より)

1920年(大正9 18歳)

・清水組を退職、東京へ戻って就職活動

建築家への憧れやみがたく、ついに清水組をやめて東京に舞い戻ったが、実父・勝平からは、恩義ある清水組を勝手に飛び出したと叱られて勘当同然となる。折から経済恐慌の時期でもあり再就職は難しく、しばらくは放浪状態であった。この間の就職運動について、山口は後にラジオ放送で語る。(「建築夜話―下町かたぎと建築家」(1967年7月 日本短波放送)

「名古屋を出奔いたしまして、建築家になろうとして帰ってまいりましたが、お金がなくなんとかしてどこかに就職したいので、丸の内の中條先生の建築事務所にまいりました。当時一丁ロンドンといわれた通りのレンガ造りの長屋の中で、曽根・中條建築事務所がありました。純粋に民間の建築事務所で、2人の協同でした。中條精一郎先生の作品は、銀座の交詢社、神田のYMCAなどです。わたしは中條先生を尊敬しており、雇ってくださいとたずねたのです。雇えないけれど、いろいろと紹介をしていただき、あちこちに参りましたが、断られ続けて最後に逓信省の営繕課にまいり、中條先生の紹介状を出しましたところ、ちょうどひとり欠員があるから採用しようとなり、逓信省に入りました。製図工で日給が30何銭かでした」

・逓信省の製図工となリ山田守に出会う

9月に逓信省経理局営繕課の製図工として雇われた。ここで山口は、中条に次ぐ恩人の建築家・山田守に出会ったことで、その後の人生に大きな展開をもたらす。(「兄事のこと」(対談集「建築をめぐる回想と思索」新建築社1976)

「逓信省で私たち(雇員)がやる仕事は、全部偉い人が原図をかきまして、それを私どもがトレーシングペーパーにそのとおり烏口でトレースするわけです。非常に精密な図面をトレースしていく。それが私の仕事でございました。

・・・そのころに「建築世界」という雑誌がございまして、・・・分離派建築会の創始者のひとりである山田守さんの::卒業論文が載りました。・・・それを一生懸命になって読みまして、疑問点を並べて帝国大学建築学科の気付で、山田守先生に質問状を出しましたんです。・・・なしのつぶてでございました。

・・・初めて逓信省へ参りまして、・・・高等官の座席がありまして・・・その中の一番若い人のところへあいさつに行きますと、それが山田守さんなんですよ。::「もう半年も前にこういうわけで」っていったところが「ああ、そうか、すまなかった」という話です。これが山田守との出会いなんです。それで分離派建築会のいろんな会合に引っぱり出され、そして私もそこで大いに啓発されたわけです。そして建築家の一番初めの門が開いたことになります」

この山田の論文は「建築の実態に着目して建築観念を向上せしめよ」(「建築世界」4月号)で、この後、山田はなにかと山口を引き立ててくれ、建築家に向かって踏み出すきっかけとなる。

この年2月に、東京帝大建築学科卒業間際の山田守、石本喜久治、堀口捨巳、滝澤真弓、矢田茂、森田慶一の6名が作品展を行い、7月には第一回展覧会と宣言を出し、それらをまとめて「分離派建築会」作品集として出版した。こうして日本の建築運動の嚆矢「分離派建築会」が発足した。後の「創宇社建築会」はこの分離派があったればこそ、山口のその後もこの運動があったればこそと言える。

当時の逓信省営繕課は、内田四郎課長以下、技師6名、技手47名、その下に山口らの製図工がおり、官庁営繕組織の中でも異例の大世帯であった。

当時の山口の製図工仲間だった河裾逸美から編者が聞いた話では、逓信省では吉田鉄郎や山田守らの高等官と、山口や河裾らの雇員とは、食堂も便所も異なる著しい差別があり、ある雇員が高等官用便所を使って減俸処分を受けそうになったという。

1921年(大正10 19歳)

・逓信省の建築家・岩元禄の下で働く

この頃、山口文象は逓信省の建築家・岩元禄の下で、山口は青山電話分局や京都西陣電話分局の製図や彫刻の補助作業に従事する。

その設計者の高等官の岩本禄に山口は深く心酔し、その下宿(東京市四谷区南寺町6小沢方)に出入して、岩元個人の設計「箱根観光族館」の製図を手伝い、岩元に従って精進湖畔のホテルを見学したこともあったという。

岩元は1月に逓信省を辞して東京帝国大学助教授となったが、肺結核の発病で9月ごろから休職し、上野桜木町の彫金家海野清のアトリエに居て翌年に死去した。その下宿には、堀口捨己ら分離派建築会の同人などが出入して、建築論や芸術論を語りあっていた。

半世紀の後、当時の仲間との座談会での山口の話。(「歴史の会の記録」1972年2月17日(「竹村文庫たより」6号、7号)

「(岩元が)胸が悪くなって、仕事一生懸命やった時代でね。東大の助教授になってからかな、ぼくが一緒にいたわけですよ。そして彫刻の下付けしたりしてね、先生はピアノ弾いたり、ソナタ作曲したり、絵を、表現派みたいなアブストラクトのカンジンスキーまがいのを画いたりしてね、非常に勉強しててね。・・・非常に重態でね、・・・牛の生き血をのませるてんで、先生の家は上野桜木町美術学校の裏の方で、屠殺場が三ノ輪のほうにあった。そこへぼくは一升瓶さげて血をもらいに行った」

このころ営繕課の者は絵を描けることが当然とされて、課内の展覧会が毎月あった。山口は同僚たちと本郷桜木町にあった画家・岡田三郎助主宰の太平洋画研究所にデッサンを習いにかよい、神田の正則英語学校で英語を、研数学館で数学を勉強したという。

後年に山口の支援者となる画家・猪熊弦一郎も岡田についており、山口はその頃知り合ったといっていたが、編者が猪熊に直接確かめたところでは、その頃はまだ知らなかったという。

・大阪に転勤、京都奈良の古建築をめぐる

中之島の逓信局舎(設計担当:張管雄)新築工事の現場監理のために、10月に同僚の梅田穣(後に創宇社創立メンバー)と大阪に赴任した。山口から編者が聞いた話では、一緒にコンペに応募したり、現場で勝手に設計変更(アーチの意匠を変えて叱責された)など、この若者二人での大阪時代は楽しかったらしい。(「北鎌倉でのインタビュー」(1976年12月11日録音テープより)

「(京都で)茶室を4~500軒写して歩いた。蛇腹の写真機でね。自分で焼いてね。裏千家だったかな、マグネシウムのフラッシュたいて怒られてね。それを整理して、百枚ぐらいだったか、ベルリンの大学の食堂で展示してね。グロピウスがびっくりしてね、日本建築の説明を聞いて、なるほどそうかと思ったのは始めてだろう。ブルーノ・タウトだって、あの当時は日本建築に興味はなかっただろうね。

それと並行してね、伊東先生の建築史を盗み聞きしてたでしょ。それで疑問持ってきたんだね、柱がどうとか屋根がどうとかばっかりでね。そういう風になる必然的な構造があるはずだと思うようになってね、伊東先生に相談したら、やってみろと、そこで薬師寺に行って泊りこんでね、お寺の勉強始めたんですよ。そのときは逓信省の役人の下っ端で、大阪の逓信局の建物の現場に次席で行ったんです。その現場の時に薬師寺に泊ってね、当時は大軌といったね、それで通った。50畳敷きの部屋に寝かされて寒くてねえ」

この話にある茶室写真のアルバム3冊が、RIA山口文象資料室に保存されている。伊東先生の盗み聞きとは、偽学生になって東大で伊東忠太の講義を聞いた話で、1923年の関連項を参照。

同僚の梅田穣は、半世紀後に当時の仲間と座談会で語る。(「歴史の会の記録」1972年2月17日(「竹村文庫たより」6号、7号)

「山田とぼくはね大正9年に入っているんですよ。::大正10年の10月に山口とボク、関根要太郎さんの弟の山中真三郎、それから::大島っていう、あと3人が大阪中の島の監督に出かけたわけでさ」

1923年 大正12 21歳

・山田守に認められて建築設計に携わる

この頃から上司の山田守に認められて、製図だけでなく建築デザインにも携わるようになる。山口の職場の当時の同僚で、後に創宇社建築会同人となる竹村新太郎から編者は聞いたことがある。(「竹村新太郎氏のお話を伺う会記録」(RIA1976年5月25日)

「高等官でない者でデザインにタッチできたのは山口だけだろう。それだけその力量を認められていたのだろう。あまり大きい仕事はしていないが、浅草馬道の郵便局は、震災以後の南京下見のバラックだったが、なかなかよい作品だった」

山口は後に回想して、元創宇社仲間と語っている。(「歴史の会の記録」1972年2月17日(「竹村文庫たより」6号、7号)

「あの当時の震災前の営繕課の設計のプロセスをお話ししますとね、高等官の岩元、吉田、大島だとか東京帝国大学でた::その高等官技師がみな基本プランをやって、百分の1のエレベーションをこしらえて、それを階級下の高等工業、早稲田でた技師たち、あるいは技手か、高等官になれない技手、それがディテール書いて、それをわれわれ小僧がトレースしたわけですよ。::綺麗にインキングしてね::。ボクは一番はじめのスケッチが今でもありますけどね。釧路に郵便局ができましてね、はじめて山田守が私にデザインしろって、小僧ながら釧路の郵便局を::それは、うちのスケッチブックに描いてありますけどね」

山口の遺品に古ぼけたスケッチブック(11×18センチ)があり、なかに「くしろ すけっち 12.1.24」とある釧路郵便局らしい建築ファサードの鉛筆描きスケッチパースがある。他にも大正12年1月から7月の書き込みのスケッチ数葉などがあるほか、日本建築史の講義らしいメモ書き、短歌、歌舞伎舞台スケッチ、「聴講願」等がある。

自作らしい短歌2首は、「青丹よし とはにかわらぬ常盤木に けふふりかかる雪のはかなさ 12.1.25」、「よくきくと 待ちかねてたる薬にて 着いて喜ぶ母のいとしき 12.2.3」

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