1948・講演・THE ROTENTIC VIW OF MODERN ARCHITECTURE

THE ROTENTIC VIEW OF MODERN ARCHITECTURE

1948・2・8 東大建築学科教室にて

講師 山口文象氏

歴史研究部会報告(第二回)

新日本建築家集団歴史研究部会

創宇社建築会は昭和4年第8回展を最後に解散した。分離派が発生した○○を考えて社会○○○思想的に消滅してしまったと考えられる○○ある。

○○○は堀口氏のロマンチックなもので、過去の○○カテゴリーから新しいカテゴリーをたて○○○……その熱情を駆り立てたものはヨーロッパ○○新建築運動だったと思う。

○○○見るべきものはなくなった。造型的芸○○○動はある意味で○○する。そのほか創宇社、デザム、新興建築家連盟などが新興建築○○○○○○運動の意味を失い思想的な裏○○○○い者は○○した唯物史観的観点にた○○○しようとした。

○○○年に分離派ができたのに対し、創宇社建築会は大正12年10月に発生した。創宇社建築会会員は分離派の造型運動に刺激された。○○○災の経済的思想的な影響のもとに最も新し○○○○ーで発足した。

○○○○は分離派的造型運動だったが、世代の違○○○あり単なる造型的建築にあきたらず合○○義的なものでもない世界史的な観点から建築せねばならぬと作品のうちにその思想を盛りこんだ。ここで分離派とわかれた。それ故あとまで続け得た訳である。

こう考えはじめたが2.26○○いわゆるファシズムの嵐が強くなり○○○・・・・は不能となる。会員中には建築を放棄し社会運動に入るもの、表面には表さず運動しようとするものの二派があった。

はっきり解散はしないが一応は幕を閉じた。そして個人的に各方面で活躍した。

○○○・・・・・とわたしは革新する。

私の見るとところでは創宇社の外の戦前リベラルな思想を持っていたものが時代に迎合して日本的…云々とおおいに活動し、戦後またリベラルな顔をしているものも見受けられるが創宇社は終始一貫した。

創宇社メンバー中には脱落したもの死んだものもあるが、梅田、野口、小川、広瀬、山口(儀)、平松、海老原、今泉、道明、古川、渡刈の諸君である。

日本の資本主義は西欧から一時代ずつ遅れている。18世紀末から19世にかけての産業画目に対し日本では19世紀中葉からあわてて発達した。19世紀末、オットー・ワグナーはヨーロッパの資本主義が完成し科学的(材料的にも)円熟期に入る時の人である。新しい矛盾が起き始めたての時代の文化的発展のうちから、その培養の内から出たと言える。

分離派は大正末期、日本の資本主義が一応high pointに達したときに現れた。これは偶然ならぬ必然性も感じられる。

ゼセッションはワグナー言うように合理主義のようなことを言っているが、そしてそれ以前の建築から見るとサッパリしているがまだ装飾が多い。○○○じだいとしては○○○の○○と、うけた罵詈雑言に対し相当の努力だと思う。

合理的な事を言いromanticなことを言わないのがromanticである。

分離派は合理主義を言わぬ。主動的にr旧いものに対抗するomanticだ。ワグナーを知らぬ如くである。ここには造型的興奮がある。

一時代過ぎた先述のブレのある日本であるの○○・・・・・・のような性格であった。

romanticの精神ではじめられた分離派建築会、その時代にはタウトでさえマグデブルグの市民館等、既にromanticをaufhebenした。近代工場の先駆と○○られるグロピウスのガスモーター工場でさえ1924年に造られている。分離派はこれらを知っていなければならぬ。それに眼をつむってromanticに走った。ペルチッヒの○○・・・・メンデルゾーンの表現主義的な造型にのみ心を惹かれたのであろうか。

分離派建築界が造型運動で終わったこと、社会的思想的裏付けをもたぬものの端的な建築の現れである。文学でいえば、白樺派、横光等の新感覚派の流れである。

18世紀の産業革命、近代資本主義の発生したイギリスの発達は驚くべきものであった。(イギリスの40~50年間における資本主義の発達はその鉄道の十何倍の延長によっても見ることができる)ヨーロッパでは40~50年遅れ、獨米がこれに追いつくべく努力した。

独逸はこのころ封建的な王侯貴族(シレジア、バイエルン、プロイセンといった)がいて半封建的資本主義であった。ハルプトマンが戯曲「織匠」で描いたシレジアの麻織工の暴動は王侯貴族の資本家の結託に対する反対と見られる。このようなときにゲーテのヒューマニズムが現れ、フリードリッヒ・シンケルが現れた。独逸の資本主義の発達の過程とシンケル発生の関係を研究することは資本主義と建築の関係について面白い面白い問題があると考えるが、わたしは忙しいために未だそれが果たせない。

19世紀末にゼセッション運動が起き、ベルラーヘは「建築は構造の芸術または構造それ自体である。多くの要素の一つのすべての綜合としての構造、宇宙を包括する原則的基本的な法則に一致○○・・・・・すべてのことが試みられねばならない。われわれは再び○○せずにやるために良く構造し、もっとも単純なるフォルムのうちに、物の基本にたって行う」と言った。分離派の宣言とは全然違う。

ゼセッションはワグナーのほかルドルフ・ベッセル、オルプリッヒ、ベーレンスその他によってはじめられた。

芸術的造型に幻惑されることなく、その精神を掴めば分離派もさらに大きな貢献をしたであろうと思い残念である。

ベーレンスは「芸術は一般に個人的なものとして認識さるべきではない」という。それはハウゼンシュタインの芸術論と同流するものと考えられる。ベーレンスは第1次世界大戦前の暗黒時代に於いて、なにかを考えそういったのではないが、この言葉の芸術を「建築」と言い換えてもよい。

分離派(発生の)10年前にこういったのだから、分離派の発展の仕方は残念である。

創宇社のベーレンス、グロピウスに対する感じ方は全然ちがう。なにか別のものを掴んだ。それゆえ悩みぬきいばらの道を歩んだといえる。

私が渡欧したのは30年、ちょうどテンペルホフでベルリン建築博覧会が開かれていて、いわゆる合理主義的な住宅、ジードルング建築、家具等が行われていたが、私はそれを見て疑問を感じた。

ただ合理主義はおかしい。それは機能だ。世界史的な哲学的なstandpunktがなければならぬ――私はそう講演してヨーロッパに発ったのであったが(創宇社建築会における講演のこと)、この展覧会はすべてファンクショナリズムで、私は疑問を持った。

グロピウスの事務所でAitor Kolnが若い建築家を糾合し独逸にプロレタリア建築同盟というようなものを樹てようとしていたが、このコーンに自分の疑問を話したところ大いに賛成してくれて共にその方面で働くことを契った。

片方ではシャレたものをやっている。歴史を調べようじゃないか、人民の建築の。そこでNeu Koln(東京でいえば本所深川といったところ)の運転休止のマッチ工場でやった。ギリシャ、エジプトの各都市、パルテノンの周りに貧民窟があるという中世紀の都市計画。パルテノンの下にこんな動物的な住まいがあったというようなグラフと説明だけを持ってきた。デザインはなかった。この展覧会は一般からは受けが悪かったが、本当の展覧会をやったと自分らは喜んだ。コーンは立派な作品をつくったが他の人は作品ができない。出来ない人が出来ないので入ったというのも多かった。いわゆる合理主義的建築家に、こおため軽蔑された。このことは一考を要することである。

プロレタリア建築にも良い腕が無くてはならぬと私は思う。

プロレタリア建築同盟の会長にグロピウスを頼んだが、思想的練磨と腕を磨くことを○ぶされ、会長の方は断られた。前に国際建築を提唱した彼であったのに。

1925年、グロピウスは「国際建築」の宣言をした。その一部は次のようなものである。

「急速に次々に転○した過去十年の「イズム」の反映である形式主義の展開、どれはもはや最後にたどりついてしまったかのようである。同時にすべての文化国に於いて新しき本質的な建築思潮が出現した。社会及びその生活総体うりにたって、人間の形成のすべての領域の統一的な目的包括し、建築に始まり建築に終る生命ある形成意識が発生した。こんじょ変革され沈潜せられた精神とその新しい技術的方法によって齎されたものこそ変革された建築である。この形体は形体自体の目的をもたない。むしろ建築の本質から、その本質を充たすべき機能から生ずるのである。建築制作の本質の探究は、動力的、静力的、光学及び音響学の究極と同じようにプロポーションの法則が関与する。プロポーションとは精神的範疇に属する問題である。材料と構造は、その担い手としてこれを補足し、その主体の精神を表現する。材料と構造は建築の機能に於いて統合し、その本質を明示し、その独自の精神的生命をその功利価値以上にまで進展せしめたのである。諸種の建築の問題に起きる同じ費用での経済的可能性のうち有能な技術家はその時代の限界内での人間の知性によって生れる計画に対立して統一的な世界現象への発展への意義によって行われる。これは現代の全く顕著な現象である。この現象は精神的価値をその個性的極限性から解放すべく、それを即物的なものにまで高める、我々の持つ枯渇性を前提とする。

外的形成の統一は(それが文化を成立する)之に従う。

近代建築芸術において、人間と自然の即物性は明確に認識されるところである。世界的交通及び技術によって、近代建築の特性の統一性は、国民とか個人が連繋されている自然的限度を超えて、すべての文化国の中へ突進した。建築は何時も国民的または個人的であるが、三つの同心円環――個人――国民――人類から最後の最大のものが他の二つを包括した。そのタイトル、国際建築!」

この言葉から、またベーレンスのの言葉も技術のみの言葉ではなく、世界史的な思想だと思われるのである。

グロピウスは社会主義的な初めての建築家ではなかったであろうか。

BUHAUSは形式を教えるところではない。形体は形体自身の目的を持っていない。

「建築が機能である」というところから出発せよ、とはグロピウスの言葉であるが、その意味を考えてみよう。

例を絵に採ってみると、今の絵は機能には関係ない。今の絵は油絵具とドッルから成り立っている。之は中世から発達していない。昨日とも我々の生活とも離れている。

絵は誰でも夕食の後に頁をくって見るように見るものでなくてはならぬ。絵の「画○」の対象が考えを変えられなくてはならぬ。印刷術に従って自分の絵の成立が考えられるように、ならなくてはならぬ。つまりどの工場にある○の顔料がどういうものだということを考える、というように。それと機能的プロセスを、こういう意味から考えても、画家が機能に接近せねばならない、ということが言える。また音楽につい考えると、レコードと「生ま」の音楽がある。レコードについて考えると、初めは「生ま」の音を生かすように努力した。しかし音楽家は機能的プロセスを考えて、ラジヲを通じての音の性格を考えて作曲をするという方向に行くのではないか。ベートーベンのオーケストラを「生ま」で聞かせるのは古いのだろう。

建築もまた工場生産と材料の科学的考察なしにデザインを考えることはできない。このことが建築が機械であるというところから出発するということにつながっているのかもしれないと思う。紙、ガラス、瓦、木、今の材料はプリミティーブなものがあり、木や瓦でなく、壁は薄いもので熱を遮断する、窓も入り口も手を触れずに開くような、とにかく将来の建築の建築の形に対しては想像も出来ないような変ったものが出来るような気がする。

第1次大戦後、多くの流派が現れたが、○○戦後は何も出ない。何故か? フランスでサルトルが新しい主張をやっているし、ピカソは6年後を約して大きな仕事にかかっていると聞くが……。

我々もどうか世界史的な建築に関与したいものである。

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注:RIAの山口文象資料の中にあるこの講演記録(B4コピー用紙2枚、B5で4ページ分)は、コピー性能が悪くて判読できないところがあり、そこは○○・・・としておいた。

表題のROTENTIC VIEWの意味が分からない。内容にコメントする気はないが、どうも記録者の側にも問題がありそうだ。(伊達美徳20150621)