山口文象とブルーノ・タウト-タウトの日本日記から

山口文象とブルーノ・タウト―タウトの日本日記から

伊達美徳

1●タウト、論文「集合住宅の記録」原稿を山口文象に贈る

建築家・山口文象(1902~1978年)関係の資料は、RIA(㈱アール・アイ・エー)に保管してある。

その中に、『Siedlungs-Memoiren』と題して、手書き原稿45頁のカーボンコピーがある。原稿末尾に「Hayama,30.8.33 B.T」とある。

別の紙が表紙に添えてあり、そこに山口文象の筆跡で「ブルーノ・タウトから贈られる」と記してある。つまりこの自筆原稿は、ブルーノ・タウトによるものである。

ブルーノ・タウト(1880~1938年)は、20世紀初めのドイツ表現派の建築家として、また、戦間期の社会民主主義政権下の政策であったジードルングと言われる中産階級向けの集合住宅の秀作を設計を多くして有名である。

一時、ソ連で仕事をしたことからナチスに睨まれて、逮捕リストにのったことをひそかに知り、その手を逃れて1933年にシベリア鉄道、ウラジオストック経由で日本にやってきた。

そのときちょうど招請を受けていた「日本インターナショナル建築会」を頼ったのである。そして日本経由でアメリカに亡命するつもりが失敗して、1936年にトルコに去って行った。

日本でのタウトは工芸デザインに携わるしかなくて、建築家としてはかなり不幸な人生だったが、日本の建築や文化について多くの著作を出して、日本の建築家や文化人に新しい刺激を与えたのであった。

そのタウトから自筆原稿を贈られた山口文象とは、どこで、どのような接触があったのだろうか、タウトの日記から追う。

その手書きのドイツ語原稿の末尾の「Hayama,30.8.33 B.T」は、執筆したのが葉山であり、その日付、そしてブルーノタウトのサインがある。

これと本文とは筆跡が異なるから、本文は秘書のエリカ・ヴィッティヒによるのであろう。タウトの原稿はほとんどが口述であり、エリカが筆記していたからである。

薄い美濃紙の用紙の罫線欄外に、「東京都麹町区丸ノ内三丁目八番地 クルップ会社代表者 レムケ事務所 電話丸ノ内(23)556」と印刷がある。クルップは、ドイツの重工業の企業である。タウトは、1915年にマグデブルグで「レフォーム ガルテンシュタット コロニー」という主にクルップ社の従業員を対象にしたジードルング(集合住宅)の設計をしており(「ドイツ表現派の建築」山口廣1972年159p)、日本でもコンタクトがあったのだろう。

タウトの日本での動静は、本人が書いた詳しい日記が『日本 タウト日記 1933年』(篠田英雄譯 1975 岩波書店)として出版されている。同じく1934年と35,36年の日記も上梓されている。

原稿末尾にある1930年8月30日の日付をもとに、タウト日記にそれを探したら、1933年9月2日に記されていた。

九月二日(土) 葉山―江ノ島

論文『ジードルング覚書』(45頁)を脱稿。

これには訳者篠田英雄による註が、『ジードルング覚書 Siedlungs-Memoiren』とある。日付が異なるがページ数はあっているから、これであろう。(タウト原稿画像

山口文象の資料にあるこの手書き原稿には、和紙にタイプ打ちした「集合住宅の記録」(ベルリン大学教授 ブルーノ・タウト)とタイトルがある日本語の原稿が添えられている。

このタイプ原稿の末尾には手書きで「Ubersetzung 30,aug,'46 Yam」と、山口文象のサインがある。美濃紙のB5版用紙は32ページある。

つまり、山口がタウトから贈られた手書き原稿を、1946年8月30日に訳出して、タイプ打ちしたのである。タウトから原稿を送られたのがいつのことかわからないが、戦争直後の逼塞していた時に訳したらしい。

ドイツ語の手書き原稿は、さすがに長年の実質の優秀な秘書であるエリカの美しい筆跡で、読みやすいのであるが、わたしには意味の読み取りはできない。

だから、山口による訳文を読んでみたのだが、これが下手な悪文翻訳の見本のような文章である。推理を働かせて読みながら、頭の中でもう一度翻訳作業をすると、タウトはこう書いたらしいと分からないことはない、という代物である。

山口は1年半もドイツ留学し、ドイツ語の個人教授も受けたのに、これはどうしたことか。

この日本語訳が出版されているかもしれないと探したら、あった。

「ジードルング覚書」(篠田英雄訳『タウト 日本の建築』春秋社1950年)

ただし、この論文についての篠田による註が次のようにある。

13行大型美濃判罫紙28枚に認められている。1936年8月24日に少林山で脱稿。1933年8月31日に、葉山で書いた同名の論文に加筆したもので、多少語句の出入りはあるが、内容は全く同じであると言ってよい。

二つの日本語譯文章を比較してみると、33年版よりも36年版のほうが、一般論を省いて事実関係に徹していて、全体に短くなっているようだ。

山口文象の訳文は、悪文だが参考のために下記に載せておいた。

https://sites.google.com/site/dateyg/1946burunotaut-siedlungs

2●タウト、前田青邨邸への招待を山口文象から受け取る

タウト日記に山口文象の名が初めて登場するのは、1933年11月4日である。

このころはタウトは京都にいた。その日の日記は、その前に東京に行った時のことまで記している長い文章だが、山口文象にかんしては最後にこのようにある。

楠瀬氏から招待の手紙を受け取る、――残念だがもう暇がない。建築家の山口(蚊象)氏からも、岳父の前田(青邨)邸へ来てほしいという招きがあった。山口(旧姓は岡村)氏はすぐれた建築家だ、某氏のひどいあくどさを知らしてくれる(この男は正真正銘のやくざ者だ)。山口氏は以前グロピウスに就いたことがある。」

これによると、すでに山口文象とタウトとは、どこかであったようだ。でないと、いきなり婚約者の父親の家への招待状を出すことはないだろう。

ここで「某氏」とは、建築家の石本喜久治のことであろうことは、この当時の山口文象と石本の確執や、日記にこの後に出てくることなどから推測できる。ここは原文では石本となっているのを、訳者がこうしたのであろう。

山口文象は、1926年から石本のもとで仕事をしていたが、1930年渡欧直前の頃にけんか別れした。それは石本事務所にいた創宇社建築会メンバーの山口、渡刈雄そして野口厳に対して、その活動を禁ずると言われ、妨害されたたことによる。

そして山口は1932年に帰国して、すぐに日本歯科医科専門学校附属病院の設計にかかったが、石本からアカ呼ばわりの怪文書を出されたり、いろいろと妨害を受けたことから、山口と石本は犬猿の仲であった。石本の妨害については、山口の弟の山口栄一と山口建築事務所のスタッフだった河裾逸美とから、私は直接にその内容を聞いたことがある。

タウトが日記に書いている某氏の「あくどさ」などは、山口が石本との確執を手紙に書いていたことになるが、山口がタウトに訴えて、石本との間に水をさそうとする意図はどこにあったのだろうか。

タウトが日本にやってきたのは、1933年5月3日、ウラジオストックから船で敦賀に着いた。この時で迎えたのは、関西の日本インターナショナル建築会の上野伊三郎たちと新聞記者たちである。

この後、京都に滞在して、桂離宮などをめぐり、5月18日に東京に移った。東京駅には、「石本氏のほかに十人ばかりの建築家」(タウト日記5月18日)がいたから、このなかに山口文象もいたのだろうか。ただし、犬猿の仲だった石本と同席したとは思われないから、いなかっただろう。

タウト日記には、山口文象の名が出る11月4日までに、数多くの建築家の名前が出てくるが、山口は出てこないところをみると、それほど印象に残っていなかったのであろう。それなのに招待状を送るとは、なかなかな売り込みである。石本への対抗意識かもしれない。

石本はタウトを招請したインターナショナル建築会メンバーだから、東京でいろいろと世話役であったのだろう、案内したり講演会で紹介したり接待したりしている記述が日記に何度も出てくる。

ただし、タウトの石本の建築作品に対する評価は低い。そればかりか、白木屋について「いかもの」と言い、「I氏は東京で最も拙劣な建築家の一人」とまで書いている(1933年9月15日)。このI氏とは石本のことで、訳者がこうしたのであろう。

3●タウト、山口文象からの結婚式招待の件で思い悩む

ブルーノ・タウトは11月から仙台のホテルに滞在して、仙台工芸指導所の顧問として工芸デザイン指導にあたっている。

11月初めに山口文象から招待状を受け取ったタウトは、12月半ば過ぎに前田青邨邸を訪問した。タウト日記の12月24日にそれが次のようにある(399p)。

数日前に建築家の山口(蚊象)氏の案内で同氏の岳父前田青邨氏を鶴見に訪ねた。画伯はやさしい顔立をし高雅な人だ。現代的日本画ともいうべき巧緻な画風で、一種の日本的インプレッショニズムである。(工芸指導所の漆器の下絵を依親したらよいと思う)。

旧い見事な住居。居間には装飾がひとつも置いてない、静閑な雰囲気だ、炭火をいれた囲炉裏に坐り手足を暖める、囲炉裏には鉄瓶がかかっていた。室内の空気は戸外とはとんど変わりがないはど冷い、内と外との仕切には、あけたての自由な障子があるきりだ。しかし囲炉裏と火鉢とは温熱を放散し、また眞赤におきた炭火は見る眼に快く、かつ親しい気分を醸しだすものだ。

室は美的な意味でもまた実際にも、言葉通り清浄である、これは寒さから離脱する原始日本的な方法だ、椅子に腰かけたりまた畳などが汚れていたりすると、寒気は忽ち身に沁みてくるものだ。日本家屋は、元来幕屋なのだ、もちろん発達と洗煉とを経たものではあるが。とにかくここにも自然との親近がある。

しかし過渡的な形式をもつような日本家屋では、寒冷は実ににいやなものだ、脚は冷えるし、また折角暖まった空気は隙間から逃げだすのである。私達は日本で三月のあいだ暑熱に苦み、そのうえ三月ないし四月は寒気に対していつも防御体制をととのえていなければならない。

前田邸の小さな寝室、―こんなに小さな室があり得るかと思われるほど小さい、しかも室のなかには何ひとつ置いてないのに、この上もなく高雅である。こういう住居で生活してみたいという念を切に感じる!

別室の床の間には花嫁への贈物がならべてあった。山口氏は来春一月二十六日に前田氏の令嬢と結婚することになっているのである。花嫁になるお嬢さんはいかにも愛らしい、しかし許婚者同志の間では握手もしなければ、またことさらに親しげな挨拶を交すこともない。人前で接吻したりいちゃついたりすることは、日本人にとってはい夷狄の最もいやらしい風習なのだ。

訳者の篠田英雄の注によれば、「十二月十七日から同二十三日の間であるが、正確な日は不明」、また鶴見とは「横浜市鶴見町生麦」とある。

こうして、山口文象はタウトとプライベイトな形で、そのフィアンセ、フィアンセの父とともに会った。タウトは日本家屋と日本人恋人たちの風雅さに嘆息している。

このときにタウトは「Siedlungs-Memoiren」の原稿コピーを、招待へのお礼として山口に贈ったのだろうか。ドイツ語を話す山口文象に、その翻訳を期待したのかもしれない。

前田青邨は後に北鎌倉にアトリエを建てるとき、山口文象に設計をさせている。

明けて1934年、この正月をタウトは京都で過ごしている。

1月16日の日記。

東京から結婚式の招待状が来た(建築家の山口蚊象氏と有名な畫家前田青邨氏令嬢との結婚)、思いがけないことだ。日本では初めてである。

そして1月21日。

昨日は、下村氏及びエリカといっしょに神戸へ行く。クック商合でエリカのオーヴァシューズを求める、また大丸で山口氏への結婚祝の贈物を買う。(中略)

山口(蚊象)氏の結婚式のことでいろいろ思い煩う。下村氏は、京都-東京の往復切符を私達に提供しようと言ってくれる、『面白そうだから構わずに東京へ行っていらっしゃい、しかしまたここへ戻ってこなくてはいけませんよ』。私がこの結婚式に出席したくない理由は、山口氏と建築家Ⅰ氏とは互に競争相手なので、どちらにも格別に親密な関係を持ちたくないからだ。結局下村氏も私の意見に同意し、またあとから上野君もこれに賛成した。

下村氏とは大丸百貨店主で、日本におけるタウトの最大の後援者であった。I氏とは石本喜久治、上野とは上野伊三郎であり、どちらもタウトを招聘した日本インターナショナル建築会の主要メンバーである。特に上野はタウトのなにからなにまで面倒を見たし、最後はタウトによばれて高崎に住むことになった。

山口と石本の確執は、タウトの支援者たちをも悩ませるのであった。山口文象はタウトに近づきたかったが、このようなわけでタウトから敬遠されたらしい。タウトとしては、招請された日本インターナショナル建築会の石本から世話を焼かれているから、ないがしろにはできない。

1月26日に、山口文象と前田千代子の結婚式があった。有名画家の娘と新進建築家の結婚とて、大衆婦人雑誌に載るような話題となった。

1934年3月21日のタウト日記。

夜、建築家山口(蚊象)夫妻を訪ねる(同氏は、私が結婚の贈り物や祝電を取りやめたことについては何も触れなかった、それでもお互に格別気まずい思いをしないで済んだ。形式にやかましい日本人でも、『近代的』になろうとすると、形式ばかりにこだわっていられなくなるのだ。実際こういう形式は、私達にはひどく愚かしいものに思われることがある)。

結婚した山口文象夫妻は、芝白金に居を構えていたから、タウトはそこを訪ねたのであろう。

タウトは、前田青邨については高く評価している。1934年9月24日の日記に、上野に日本美術院の展覧会を観に行った記述があり、その中のこのようにある。

陳列作品のうちで最も優れているのは、鷹に襲われた鶴を描いた前田青邨の『鷹狩』である。図柄も描法もおおらかでかつ明快だ。(安田靭彦、横山大観、小林古径などの作品も挙げているが中略)なんといっても前田青邨が一番純粋な画家だ、同氏は建築家山口文象氏の岳父である。もういっぺん前田氏を訪ねたいと思う。

ということで、山口よりも前田青邨の方がタウトに気に入られてしまった。

以上で、タウトと山口の奇妙な結婚式問題の記録は終わる。タウトとは関係ないが、山口のこの結婚は1937年5月に破局を迎えたのだった。

4●タウト、山口文象建築作品個展を観る

1934年6月15日のタウト日記。

建築家山口蚊象氏の作品展覧会を観る(同氏はドイツでグロピウスの許にいたことがある)。作品のうちでは茶室がいちばんすぐれている、―山口氏はここでまさに純粋の日本人に復ったと言ってよい。その他のものは機能を強調しているにも拘らずいかにも硬い、まるでコルセットをはめている印象だ。とにかくコルビユジエ模倣は、日本では到底永続きするものでない。

「山口文象建築作品個展」と銘打って、その自信作を展示したのは、6月13日から17日まで、銀座資生堂ギャラリーでのことであった。展示したのは、日本歯科医科専門学校附属病院小泉八雲記念館、アパートメント試作、アトリエⅠ、アトリエⅡ、協同組合学校、関口邸茶席、モデルルームの9つの建築作品である。

タウトにももちろん招待状を出したに違いないが、やってきタウトは酷評である。唯一のほめている関口邸茶席は、コテコテの和風建築であった。9作品のうちに唯一の和風デザインである。

日本歯科医科専門学校は、山口が帰国してすぐの設計で、彼の出世作ともいうべき門段デザイン建築である。小泉八雲記念館は、松江市の武家屋敷街にあるもと八雲住居跡に建つ、これはモダンデザインというよりはクラシックな影をもつ洋館であった。独逸のどこかにあるゲーテ記念館を模したと言われるが、本当かどうかわからない。

そのほかのアパートメント試作、アトリエⅠ、アトリエⅡ、協同組合学校は、展覧会用の試作だったのだろう。

独逸から持って帰ったモダンデザインを、山口としては褒めてもらいたかったであろうに、唯一の和風の関口邸茶席だけを評価されたし、岳父の前田青邨のようには高い評価をされなかったことは、かれにとっては皮肉なことだった。

しかし、タウトがあちこちの建築を見て発している極めつけの罵声「いかもの」(ドイツ語ではキッチュ)と言われなかったのだけは幸いであったか。

5●タウト、有島生馬から設計を頼まれるも失敗

タウトは来日以来、仙台で工芸指導所や蒲田の陶磁器会社でデザイン指導、あるいはあちこちで講演をつづけてながら糊口をしのいでいた。建築家としては建築の設計の仕事をしたいのだが、なかなか機会に恵まれない。

1934年7月11日に、タウトは有島生馬と出会っている。その日の日記。

井上氏と同道で画家有島生馬氏を訪ねる(有島氏は名門の出で、令兄有島武郎氏は作家であったが、社会的不安に対する悩みから或る夫人と縊死心中を遂げた)、住居は「モダン」な日本家屋。井上氏を通じての話では、有島氏は現在の家屋と地続きの所有地に建築をしたい、ついては私の日本における『建築の皮きり』としてその設計にあたってほしいという。有島氏は好個の紳士だ。

井上氏とは、支援者の井上房之助である。タウトはこの後、日本を離れる時まで高崎に住んで、井上工房で工芸デザインをした。井上の家業は井上工業という建設会社であった。

1934年7月29日の日記。

有島氏にトルコ大使館の建築平面図2葉を届けておいたが、今日は方角を考慮して少し変更を加えた見取り図を描き、これに設計の謝礼をも含めた費用見積もりを添えた。有島氏とトルコ大使館との交渉がどんな結果になるのかは、今のところまったく不明である。有島氏は、もしこれが不調に終わったら、例の土地へ外国人向きの宿泊所を建てたいと言っている。有島氏は私に好意を寄せているようだ(私も同士の人柄が好きである)、まさか私を見捨てる様なことはあるまい。

有島生馬がタウトに設計を依頼したのは、自分の土地にトルコ大使館を建てることだった。そしてこれがうまくいかない場合は、外国人向けアパートメントを造るつもりだったと分る。結論を先に書くと、そのアパートメントは山口の設計で「番町集合住宅」となった。

タウトはこの8月から、高崎の少林山達磨寺・洗心亭に移り住む。井上工房で工芸デザイン指導に当たることになったのである。

1934年10月7日の日記に、トルコ大使館の件が登場する。

数か月前に有島(生馬)氏の依頼で、トルコ大使館の設計をしたことがある。これについていつか同氏に手紙を出したら、今日その返事を受け取った。有島氏の言い分は、あの件はトルコ大使館が処理するべき事柄で、自分には全く係りがないというのである。井上氏はこういういざこざは、日本ではありがちなことで、しばしば不快な事態を惹き起こすものだという。だがその手紙は、なにも補償を要求したものではなくて、ただ仕事の価値をありのままに述べたに過ぎないのである。

どうやら有島に書いた手紙を誤解されたらしく、この設計の仕事は消えた。

タウトはドイツ人らしい理知的な筆法で、あの設計はその後どうしたか、あれにはこれだけ労力がかかっていると書いたのだろう。ところが有島は、トルコ大使館はできないことになったし、できもしない図面に設計料を要求してきて、失敬なやつと思ったのであろう。

タウトはこれまでも、この後も何度も日本人との間で相互誤解らしいいざこざで嫌な経験をしたことを、日記に書いている。文化の違いだろうが、気の毒なことであった。

1935年12月22日のタウト日記に有島が登場する。

1年半ばかり前に、わたしに無償で設計をさせた有島(生馬)氏から、突然クリスマスプレゼントが届いた、『設計料』の9分の1くらいに相当する品物である。人の気持ちが『お天気』次第で転変するのを見るのは侘しいことだ。いや、『天気』ではなくて悪酒の所為なのだ、悪い酒に酩酊して、つい正体を暴露したのだろう。

この有島生馬がタウトに設計を依頼した土地がどこであるかは、タウト日記には書いていない。

6●山口文象、タウトが失敗の跡地にジードルングを設計

だが、どうやらこの土地は、山口文象の設計で1936年8月に建った「番町集合住宅」の場所らしい。そこは東京の麹町区六番町であった。

その土地は今は出版業の文芸春秋社の社屋が建っているが、その前に空襲で焼けるまでは、その「番町集合住宅」が建っていた。

それはタウトに有島が語ったように、外国人向けのアパートメントであった。有島はタウトとの縁が切れた後に、山口に設計を依頼したらしい。

その土地は、有島生馬の兄の有島武郎の住宅であったが、武雄郎の死後は生馬が管理していたから、まさにタウトのトルコ大使館計画の地であった。文芸春秋社と平凡社が仮社屋に使っていたこともあった。

当時の新聞(新聞名や日付は不明、山口文象建築事務所の資料)に、「集合住宅(ジードルング)を有島氏が計画』との見出しで、透視図つきで、「青年建築家として水道橋の東京歯科医専その他進歩的なデザインで有名な山口蚊象氏がデザインにあたり、ドイツのウォールグロッピュース氏流のティピカルなジードルングの設計を終り、目下建築許可の申請中で8月末日までには竣工の予定である」と記事がある。

そこに有島生馬の談も載っている。

(前略)住宅地としてはこの辺は東京一等地ですし、欧州を旅行してかねがね本場のジードルングにあこがれていたので、一念発起いま山口君と大童になっていいものにしようと頭をひねっています。地代を支払ってはこの仕事は引き合いません。とにかくスーツケース一つ提げてくればすぐ住めるものに、しかも外装は飽くまで瀟洒たるものにします。

皮肉なもので、ジードルングを建てるなら、その設計では世界中でこの人の右に出る者はいないであろうタウトに接触していたのに、トルコ大使館の件で誤解して、その起用にならなかったのは、日本の集合住宅のために実に惜しかった。

一方では、山口文象がそのジードルング(ドイツ流のそれと言ってよいかどうか問題があるが)の「番町集合住宅」を設計して、更に名を挙げることができたのは、山口の弟子の端くれにいいるわたしとしては、よかったとおもう。

さて、タウトはトルコ大使館計画のあとに、山口文象がジードルングを設計したことを知っていたのだろうか。時期的にはタウトが日本を出たのは1936年10月15日だったから、しっていてもおかしくない。

逆に山口は、その土地にタウトがトルコ大使館設計をしたことがあると、有島から聞いて知っていたのだろうか。

7●タウト、山口文象から設計助手を借りる

タウトはすっかり高崎に腰を落ちつけており、時々東京の行って講演したり、建築家たちと付き合い、展覧会などに出かけている。

1934年10月26日のタウト日記。

午前、美術研究所に所長の矢代幸雄教授を訪ねる。矢代教授はヨーロッパ特にドイツの芸術に精通し、ドイツの学者とも親交があり、先ごろはまたベルリンの日本展覧会を主宰された。立派な人柄の芸術学者である。それから同氏の友人で建築家の山口(蚊象)、谷口(吉郎)と、バーナード・リーチ氏のつ迎賓展覧会を見た。作品はいずれも決して悪い出来ではない。同行の建築家たちはリーチ氏のものをあまり好まない様子であった。つまり作風が日本化し過ぎているというのである。

高崎では、井上工房で数々の工芸品や家具のデザインをして試作を続けるが、製作現場とタウトの意図とのすれ違いにイライラしている様子がある。それでも、井上の経営する軽井沢の店で、タウト作として売り出しつつある。日本住宅の設計を頼まれて設計図を書いている。彼のもとには3人の助手がいたらしい。

1934年12月10日のタウト日記。

私の助手諸君のうちの一人(儘田氏)は少林山、二人(水原、河裾)の両氏)は高崎で、全試作品(実際に製作されたものばかりでなく、図面だけのものも含めて)のカタログを、私の指示に従って編集している。

この3人所助手の内の河裾とは、河裾逸美のことであると註にある。

河裾(1904~?)は、山口文象が所属していた逓信省営繕課の同僚であった。山口等が1923年関東大震災の余燼の中ではじめた「創宇社建築会」の活動に、1927年から参加している。

山口文象が1931年に帰国後、すぐにとりかかった東京歯科医科専門学校附属病院の設計にあたって、山口の仕事の最初の相棒となり、山口文象建築事務所の最初の所員であり、1937年にまで重要なスタッフであった。

何時からそうなのかわからないが、河裾がタウトの助手であったとは、山口がタウトに貸したのだろうか。10月に一緒にバーナードリーチ展を観に行ったとき、タウトから建築図面を書く助手がほしいと相談されたのだろうか。

そこで気になったので、ほかにタウト関連の本を探したら、「ブルーノタウトへの旅」(鈴木久雄 2002 新樹社)にこれに関する記述を見つけた。

その頃、井上工房はタウトのデザインによる製品を数多くつくるようになり、軽井沢に「ミラテス」という名の販売店舗をもっていたが、更に東京の銀座の交詢社ビル向かいのビルの1階にも店を出すことになった。

「店の詳細設計は、助手の河裾逸美が実測をつくって、タウトの指示で作図をした。河裾は元逓信省経理局営繕課の雇員だった建築のよく分る人物で、タウトの信頼を得ていた。」(「ブルーノタウトへの旅」150p)

なるほど、店舗のインテリア設計のできる建築設計助手をタウトは欲していて、それを山口文象には話したのだろう。

そうして銀座に「ミラテスが開店したのは1935年2月12日だった。

ところが、1935年1月19日のタウト日記に、また河裾が登場する。

私は井上氏に、先達って請求しておいた昨半分の支払決算と、今年度の支払予定案について返事を促したら、『今晩、水原君が持って伺うことになっています』という返事であった。しかしあとで水原氏が持參したのは、井上氏が私に払った昨年分の支出額だけで、銀行や『ミラテス』の店の設計に対する謝礼は出せないというのである(この店は私の利盆にもなるという理由で)、そのうえ店のことで東京へ往復する汽車賃や自動車賃の支払いも拒否している。水原氏はこういう日本を恥じて泣いていた、――私は恥を知る日本人の員の姿を初めて見た。私達は、これが何處でも金持のする仕打だからと言って水原氏を慰めた。水原氏の唯一の友人である河裾(逸美)氏は、つい近頃井上工房を辞めてしまった。この人は、自分だけでも貧しいのに、僅かな俸給を勉強中の弟さんの為に割いていた。河裾氏の月給は四十五円だし、水原氏のは恐らく三十円にも達しないだろう。河裾氏は文字通り飢えんばかりの生活をしていた。昼の食事でも歯が痛いからと言ってば、いつも十銭の弁当で済ませるという風であった。

ということで、河裾はタウトのもとを去った。安月給で雇われていたが、ミラテスの仕事も終わってクビになったのかもしれない。

山口文象建築事務所にまた復帰して、更に2年ばかり在籍し、その後は山田守のもとで働いたらしい。山口には洋風と和風の両方の系譜の建築があるが、洋風が河裾の担当だった

河裾は戦後は大阪に住んで、建築設計をやっていた。わたしは何度か大阪の安孫子にある自宅を訪ねて、話を聴いたことがあるが、タウトのことを聴いたことはない。

7●タウト、送別会で山口文象から青邨の色紙を受け取る

タウトは日本を目的地としてやってきたのではなく、日本経由でアメリカに行くつもりだったが、ビザを取ることができなかった。

しかし建築設計の仕事はないし、工芸デザインも順調ではないし、日本の気候が体に合わなくて病気がちだったから、なんとして日本を出たかった。

日記をドイツの親戚や知人に送るとともに、ヨーロッパの方面の知人への連絡を欠かさなかった。

そして1936年9月30日に、ついにその朗報がトルコのイスタンブールからやってきた。ケマル・アタチュルク大統領による新生トルコ共和国の芸術アカデミー教授に招かれたのだ。タウトは大喜びですぐにも出立することになる。

1936年10月10日のタウト日記。

井上氏の肝煎で、同氏のほか吉田(鉄郎)、蔵田(周忠)、斎藤(寅郎)の諸氏が幹事役となって、盛大な送別会を催してくれた。会場に当てた赤坂幸楽の二階には、五十人ばかりの知友が集まった。(中略)山口(蚊象)氏からは岳父(前田青邨氏)の色紙を頂戴した。私への餞けの言葉は、いずれも賛辞ばかりで、美しい屍に捧げる頒辞でも聞いているようだ。そこで私は、どうか私に封する非難のお言葉も頂戴したいものです、と言った。

山口文象はタウトとの最初の出会いも山口青邨がらみだったが、最後の別れもまたそうであった。石本喜久治を間にしてむしろ困らせたと言ってもよいが、設計作業で困っているタウトに事務所スタッフの河裾を貸したので、帳消しになったかもしれない。結局のところ建築家としての深い付き合いはなかったのだろう。

そして、タウトが設計した可能性のあった「番町集合住宅」を、山口が設計したという因縁はある。

ブルーノ・タウトは多くの日本の建築家たちと交流したが、結局のところ、力量を高く評価した建築家は、吉田鉄郎だけだったようだ。吉田は当時は逓信省所属の建築家で、東京駅前の東京中央郵便局(現在は改築してKITTE)の設計者として有名である。山口文象は吉田に逓信省時代に出会っている。

また建築設計作品らしいものは、インテリアデザインの日向利兵衛別荘地下室だけと言ってよいだろう。幸いにも今は保存公開されている。

タウトの日本の滞在の日々は、総じて気の毒なことだったが、日本の建築界としてはその著作や謦咳に接したことでよかったと言えよう。しかし彼の建築の腕前を発揮させることができなかったのは、実に惜しいことだった。 (2015/08/18)