1936 小林邸

・建物名称 小林邸

・建設場所 東京・大田区久が原

・竣工時期 1936年

・資 料 「新建築」、「建築世界」1937年9月号

・写真、図面等

●小林邸

伊達美徳(『建築家山口文象 人と作品」RIA編 1982 相模書房より引用)

自邸が和風の住宅の系譜の集大成とすれば、小林邸は洋風住宅の系譜の集大成といえる。一時は自邸であったこともあり、二つの系譜を山口自身、住まいとしても経験しているのである。

そのコンパクトなプランと、ディテールの凝り方は山口文象の真髄といえる。ドイツで学んだジードルングの手法は番長集合住宅で生かせただけで、まだ日本には早すぎたようだ。

この小林邸にみえる兵と外壁が一体となった立面、南北に重なる間取りとそれに対する通風、フレキシブルなプラニングなどは明らかに都市の集合住宅のプロトタイプをめざしており、ジードルング計画の延長上にある。

この住宅にみるような「しかけ」のディテールを山口文象は好きであった。

●住宅建築

佐々木宏(『建築家山口文象 人と作品」RIA編 1982 相模書房より 抜粋引用)

戦後一時期,山口文象ほ建築界において住宅作家とみなされていたことがあった.山口と,彼を中心とするRIAグループの一連の住宅作品は,戦後の建築ジャーナリズムの中で大きな注目を浴び,山口自身,朝日新聞社から小冊子の啓蒙的な『住宅』という本を出したほどだった.

山口が住宅の設計を手がけたのは時期的には戦前からである.当時,建築家に住宅の設計を依頼するというのは,かなり富裕階級であった.したがって,戦後の建築ジャーナリズムに登場してきた小住宅のデザインとはまったく比較対照にならないものがほとんどであった.

しかし,山口の戦前の一連の住宅作品の中に,一つだけ戦後の住宅デザインの布石ともいうべき貴重な事例があるのは注目される.それは山口自身の戦後のデザインに対してだけではなく,戦後の他の建築家の住宅デザインにも大きな影響を及ぼした先駆的な作品なのである.それは,小林邸(1936年)である.

この住宅ほ30.25坪に附属屋1.50坪を合わせて31.75坪であるから,当時としてもけっして大邸宅とはいえないものだった.それにもかかわらず3畳間の女中室があるのは,当時の中流階級でも使用人を置くことができたという社会事情の現われである.

この住宅が戦後の小住宅デザインに影響を与えたというのは,大きく見て二つの面があげられる.まず第一に極力廊下を廃したコンパクトなプランニングであり,もう一つは,杉材の下見板を水平に貼ってペンキ拭き取り仕上げの外部デザインである.現存していないので,いまで は雑誌や本に掲載された写真や図面でしか判断できないのであるが,それらを見ると,まったく古さを感じさせないのである.ということは,この住宅に採用されているプランニ ングやデザインの手法は,今日なおかなり有効なものとして生き続けているからである.

まずプランであるが,矩形プランにまとめているのが注目される.そして,全体が南北の二つのゾーンに分離されている.南側には書斎,サロン,寝室と大きな部屋が配置され,北側のゾーンでは女中室,玄関,便所,浴室,台所,和室,押入などが巧妙に組合されている.

この北側のゾーンは,一度でも住宅設計を試みたことのあるものなら,いかに綿密に練り上げられたものであるかが理解できるだろう.まるでむずかしいパズルを解いたような設計である.しかも過不足なく合理的に機能配分されたこの部分は,いわゆる密度の高いプランなのである.

これと対照的なのは南側のゾーンである.南北に細長い書斎は居間とも扉で連続され,広い居間は今日のLD-つまり食堂を含むもので,しかも寝室との境には天井いっばいの建具があって,これを開放すると寝室は居間の延長空間としてさらに広くなるのである.

居間とひと続きになる寝室では,ベッドが,北側の和室の高床の下へひき出しのように収納することができ,さらに子供用ベッドも壁に造りつけの洋服ダンスの下へ収納できるように設計されていた.ベッドをビルトインできるようにした設計というのは今日ではけっして珍しい例ではないが,しかし,山口のようなアイデアは,いまなお一般的ではない.

寝室のベッドを片づけてしまうようにするということは,和風のタタミ部屋を寝室として用いるときの蒲団の収納の仕方からのヒントであろうが,それをベッドに適用しようというのは,実に大胆な試みだった.しかもそれが,隣室の床を高くして,その下に収納するという立体的な方法に着眼したことにほいまさらのように驚かされる.

このようにしてまで居間の広さを大きくしようと試みたのは,欧米の住宅の居間の広さの水準を身をもって体験したことがあるからだろう.間仕切り壁を可動にし,寝具を片づけることによって二つの部屋を連続させて広い一室として使用するというのは,日本の伝統的な方法である.

小林邸の住宅のプランは一見すると,もっとも伝統的なものから遠いもののように思われるが,しかし意外なことに,日本的室内空間の構成の手法によって支えられている.しかも,それが和洋の折衷的な方法によってではなく,換骨奪胎した新しい手法を発見することによって成立したのである.

さらに注目しなけれはならないのは,玄関を小さくしたことと,廊下部分を玄関ホールだけにした部分であろう.広い玄関と長い廊下が住宅プランの上で批判されたのは,戦後の小住宅の大きな特色であり,そのもっとも大きな理由は,無駄なスペースだという点であった.山口は小林邸において,すでにこの問題に気がついていて,実際に設計してみせたのである.このプランニングだけでも,戦後の建築家たちを魅了するには十分だった.

さらに先にのべたベッドなどのビルトイン方式は,多くの造り付け家具などとともに,戦後の新しい住宅デザインの先取りの模範として高く評価されていたのはいうまでもない.

小林邸のプランニングには,前述した番町の集合住宅と共通した方法が発見される.したがって,他の住宅と異なって小林邸において,山口はシードルングに適用できるプランをめざしていたのかもしれない.東側と西側にあまり大きくない開口部はあるものの,これらがなくともこの住宅は十分に成立する.ジードルソグにも共通した方法にもとづいていたが故に,全体を矩計プランというコンパクトな形の中でまとめたのであろうと推測される.こうした山口の態度が,窮乏時代の戦後の建築家たちに敏感に察知されて,小住宅設計のいわは原点のように受け取られたにちがいない.

小林邸の簡潔な外部デザインもまた,同様に戦後の窮乏時代の規範となりうるものだった.ほとんど庇を出さない経済性,どうやら入手可能だった杉の下見板,そういった限定された手法を用いながら,きわめて造型的に新しい効果を生み出しているということは,白い漆喰塗りのインターナショナル・スタイルよりもかえって身近な目標となりえたのである.

かかる点において,小林邸というのは,山口文象の代表作の最高のものの一つであるということだけでなく,日本の住宅建築史の上で,まさにエポックメーキングなものであり,戦後の住宅デザインの変遷について語るときかならず言及すべき源流の一つであろうと考えられる・

山口の設計した住宅は,戦前だけでも他に,前述した山田邸の他に,同じインターナショナル・スタイルでほ若尾邸があり,酒井邸や二見邸や自邸のような和風の系列に属するものもある.そして山口自身,戦後には,小林邸のような合理的でコンパクトなプランと,和風デザインとの融合を試みてゆくのである.「ローコストハウス」と題して新制作協会の展覧会に実物展示を行なって大きな注目を浴びたり,大久保邸などにょって和風デザインに新風を吹き込んだこと は,いまなおしはしば語りつがれていて,戦後,小住宅設計にいかに山口が真剣に取り組んだかが,ひとつの伝説とすらなっている.

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