「生活空間の創造」ワルター・グロピウスについて

(建築雑誌 Vol.89,N0. 1086 昭和49年11月号)掲載

「生活空間の創造」ワルター・グロピウスについて

--一山口文象先生にきくー一一一一

山口文象 RIA建築総合研究所所長

きき手・相田武文 芝浦工大建築工学科助教授

藤本昌也 現代計画研究所所長

藤本 山口先生,今日はわざわざ学会までお越しいただき有難うございました。

読者の方々にはじめにおことわりしなければなりませんが山口先生には本主集の主旨にしがってグロピウスの著書「生活空間の創造」を取り上げていただく予定でしたが先生が健康上の理由でご辞退されましたので編集部は対談形式でもよいからと無理をお願いして今日のはこびとなった訳です。そういう訳で今日はこの本にこだわらずグロピウスについて自由に語っていただきたいと思います。

グロピウスとの出会い

相田 先生とグロピウスの関係から話を伺いたいのですが,先生がはじめてグロビyスに御会いになったのは,

山口 それは1922,3年ごろ,私が20,21のときでしたが,ヨーロッパの新しい建築の雑誌がどんどんきまして私もドイツ語を習い始め,近代建築の血液を注入されました。1919年の第1次欧州大戦が終わってから新しいスクールがヨーロッパで輩出して未来派とか,立体派とか,構成派とかが派生し,そしてバウハウスの成立したことを情報で知りました,もちろんその前からグロピウスに対しては私自体尊敬しておりました。それから5,6年たってライトのお弟子さんのリチャード・ノイトラが土浦亀城先生とライトのところで一緒であった関係から日本に来られた。ノイトラの講演会が読売新聞の旧講堂でありましたが,講演会が終わってから私がノイトラに「自分もヨーロッパに行くっもりでいる,ぜひグロピウスのところで勉強したいからよろしく頼む」「それじゃ紹介してやろう」ということで紹介状をもらいましてヨーロッパに行ったわけです。

ベルリンに着いてすぐグロピウスのところへ出掛けました。アトリエというか,事務所が住まいと一緒になっていましたが,ポッダム通りのちょっと入ったところでしたが,そのときはすでにバウハウスはローエに渡しまして,デッサウからベルリンに帰って1年ぐらいたったときです,ところがグロピウスは「おまえのドイツ語はまだまだどうにもしようがない。大学で講義を聞いてもわからない。だからもう少し,ドイツ語を聞くことと書くことと,話すことをもうぺん勉強しなさい」ということで,ちょうどベルリンから北海のほうへ汽車で2時間ぐらい行ったところにコーリンヘンという村があるのです。そこはティピカルなドイツ語を話すところだし,自分の遠縁がそこで農業を営んでいるからそこに行きなさい。それでまた紹介状をもらってコーリンヘンヘ行きました。2ヵ月程農家にいてそこで世話になりました。ご承知のように向こうは高等学校,中学校でラテン語をやっていますから,ことに大学に直接行くのはラテン語を習っておかなければならないというので,でもきみの学歴を見ると日本の大学を出ていないし,大変むずかしいことになりましたが,先生が学校にアピールしてくれまして,なんとか学校へ先生のおかげでかよえ

るようになりました,私の一生の大きな曲りかどでした。有りがたいことでした。それでテーマも学問的なことよりはそういう実際のデザインのほうをやるのだから,それほど講義に出なくてもいいし,課題を出せばいいんだし,設計のいろんなことのディスカッションのミーティングに出ればいいのですから,そういうことでこっちものん気だからというので半分,あるいは3分の2ぐらいグロピウスのアトリエで勉強させてもらったのです。

相田 学校のお名前は?

山口 ベルリンのエ科大学町大学院です。1930年の新学期からです。

藤本 1929年に行かれて何年までおられたのですか。

山口 33年ヒットラーが政権をとると,ソシアリスト,もちろん共産党もですが,それが全部国外追放になった。ですからあの当時追放されたのはメンデルゾーンとか,ローエとか,ブルーノ・タウトとか,もちろん先端を行くグロピウスなども追放された。24時間後に国外に出ろということで,私も向こうでグロピウスよりももう少し左のほうをやっていましたので(笑)たちまちやられまして,それで先生と奥さんとお子さんとあと2人ばかりみんなでベルギーを経てフランスからロンドンヘのがれました。

藤本 日本でいうと昭和2,3年の話ですか。

山口 4年ぐらいですか。私がチェコに行っているとき5・15事件で大養さんが暗殺されたのを知りました。

藤本 そうすると昭和6年ですね(5・15事件は昭和7年5月15日に起こっています)。そうするとドイツのほうでは第1次世界大戦が終ってワイマール憲法とか非常に民主的な明るい感じの時代から,先生の行かれたころはヒットラーのナチの感じはあったのですか。

山口 そのきざしはまだ弱かった。ミュンヘンでヒットラーの行動を新聞でちょいちょい見ましたが,ナチスがナチス党として形を成したのは30年,31年ぐらいです。それから急激に伸びてきたのでした。

相田 先生はグロピウスと同時にドイツを離れたのですね。再会されたのはいつですか。

グロピウスとCIAM

藤本 グロピウスはロンドンで少し教えていたのですか。

山口 教えていましたね。いろんな建築家が集まって,あすこのロイヤルアカデミーの会員にもなりましたし,そんなことでだいぶ歓迎されていました。

藤本 リチャードなどは,イギリスの建築に相当影響を与えたといっていますね。

山口 グロピウスはアメリカばかりでなく,イギリスでも相当の影響力を持っていたということですね。

藤本 1928年とか,29年というのはCIAMの運動が始まっていて,アテネ憲章が出たころですね。

山口 そうです。

藤本 そのあたりは,グロピウスはどういう関係にあったのでナか。アテネ憲章を出すときのギーディオン,コルビュジエとグロピウスとの関係は。

山口 ギーディオンは,ときどきグロピウスの家に来たりして私も会いましたが,大体反対意見はないし,一応指導的なあれは持っていましたでしょう。

相田 この本によりますとCIAMのことをグロピウスは2.3書いてお,りますが,ぼくらが思うのはコルビュジエの影響が強くて,大半コル風な感じがするのですが,そ

の辺グロピウスの意見はどうなんでしょうか。

山口 グロピウスにはCIAMに対して反対意見はなかったのですね「いま自分は国際建築,インターナショナル・アーキテクチャーに対ナるレッテルを貼られているが,これは厳密の意味でいろいろ論議があると思う。いまCIAMのアイデアは自分は全面的に支持していきたいと思う」ということで割合い発言としては指導権を持っていたんじやないですか。今日的にいえばだいぷ議論があるでしょうが,その時分はグロピウスの力は大きかったんじやないかと思うのでナ。コルビュジエは作家であるが,むしろグロピウスは作家というよりも,建築の哲学者といえるのではないですか。

教育者としてのグロピウス

相田 教育者としてのグロピウスの価値をわれわれは聞いているのですが,グロピウスの教育者としての面はどのようにお考えになっていますか。

山口 グロピウスはいまお話ししましたように,哲学者であると同時に非常に立派な教育者だと思うのです。学生の方向,あるいはオリエンテーションを決めていくとか,これからの学生はどのようになるべきだということについて非常に関心を持っていたのです。ミュンヘンヘ一緒にお供したときに,ミュンヘンの大学の建築の学生5,6人と一緒にバイエルンの地方を回りましたが,そのときに学生によく言うことは「ルネッサンスにしても,ゴシックの建築にしても,あれはいってみれば,インターナショナルのアイデアだ。それは自然に構造とか,地域的な環境によって違うけれども、しかし,構造のプリンシプルは同じである。ただ地域によってそれがいろんな表われ方になるが,それがいわゆるインターナショナルじやないか。だから,豆腐を切ったような横窓の型がとくに国際建築であるといわれるのはどうかと思う。もっとその底のことを考えなければいけない」ということを言っていましたね。

インターナショナルと土着性

藤本 それはこの本「生活空間の創造」でもしきりに言っていますね。一般的にはグロピウスは国際様式の建築家ボックスアーキテクトである,とあっさりかたづけられています。まさに国際様式とは豆腐のようなものとしてイメージされてしまう。実際はそうでなくて,地域性を背景としてもっといろんな形が出てくるんだといっていますね。

山口 私に強調したことは,私が20代に茶席に凝った時期がありました。まず日本建築史を書きました。それが大震災の折りに全部ゲラ刷りも原稿もメチャクチャになってしまいました。それは伊東忠太先生に序文を書いていただいて洪洋社から出すことになっていたのでした。茶席の研究をしていたのが,20か21才のときです。その当時撮った写真があって,その内の100枚ぐらいセレクトしてドイツヘ持っていき,それを大学の研究室に並べて展覧会をしました。グロピウスに見てもらい,他の先生たちにも見てもらいましたが,そのときにパウクレーの研究で第一人者といわれるビル・グローマンという人,2,3年前亡くなりましたが,日本にも来ました美術評論家ですが,その人も見てくれました。おそらく私はグロピウスが日本建築云々言っているのはずっと後期で,その茶室の展覧会を見てからだと思うのです。それで日本に関心を非常に持ちまして,それから茶席のこととか,日本のモデュールとか畳の組立てとか,そういったことのノートをとったりしていましたが,それから日本建築に関心を持ってきたのだと想像しまナ。それでタウトが追放されてどこに行こうかと迷ったのかどうか知りませんが,まずやって来たのが日本ですから,当時私もダウトの家にも行きましたし,そういうことが一つのきっかけになっていると思うのです。それでインターナショナルの問題ですが,日本の茶席というのは,言ってみれば建築の,あるいは日本人の生活の中で地域的にでき上かってきた建物,しかもそれが合理的というのではないが,生活に密着しているプランニングであり,サーフェスも全部近代的な形になっている。これは建築家が故意に一つのイズムをこしらえて,そのメジャーの中に入れてくるものでなくて,自然にでき上がったほんとうの意味のインターナショナルの建築の一つの表われ方じゃないかということを言っていました。

藤本 世界的に共有できる普遍的な近代建築としてのプリンシプルがあるとグロピウスは考えていたわけでしょうか。そして,そのプリンシプルと地域性とは矛盾することなく,むしろそのプリンシプルと地域性という特殊性が統一されることによって,多様な建築としての近代建築が創られなければならないとグロピウスは考えていたのでは。

山口 そうだと思います。それは近代哲学はヨーロッパ中心だけれども,それは普遍性を持っているものの考え方です。それと関連していると思うのです。

テクノロジーとヒューマニズム

藤本 では,グロピウスの言っている近代建築の普遍的なプリンシプルを支えている基礎的概念は一つは,理性的人間という人間に対する信頼から生まれる人類という普遍的概念ともう一つは普遍的な近代社会を生み出すものと思われている工業化という概念と言うことができしょうか。

山口 そうだと思います。よくグロピウスは私たちにどのプランニングをやるにしても,都市の問題を考えても、どんなことをするにも人間を忘れてはいけない。ヒューマンスケールである。そのヒューマンスケールの原点は人間である。人間を忘れた,いわゆる空間的にも,フィジカルな問題にしてもメンタルな問題にしてもとにかく人間を忘れた建築であってはいけない。建築家はいつでもペンシルを持つときにその原点に帰ってものを考えろ。これが彼のテクノロジーの普遍的なものの考え方の中にあって,これに引っぱられてはいけない。まず人間に帰ってきてからそれからテクノロジーを咀嚼しろ。そういいったものの考え方でした。それがインターナショナルの,いわゆるインターナショナル建築というレッテルを彼は貼られたわけですが,彼は基本的にはそういう考え方を持っていた,それはくどいくらい言っております。ソビエトでスターリンの第2次5ヶ年計画の中で,にある旧教の寺院をこわして,そこにソビエトパラスを造る計画がありました。これを指名コンペチションにし,メンデルゾーンとか,タウトとか,ローエも入っていたと思いますが,それにソビエトの建築家が2名,コルビュジェも入っていて5人ぐらいでやったのですが,私もグロピウスのもとでデザインに参加しました。そのときも,あらゆる機会にそのことを言っていました。彼は「ソビエトとドイツはいま政治的にいろいろ違っているが,そのことを考える前に,ソビエトあるいはドイツ,そういうのを越えた人間が中心になるんだ,ということを忘れてはいけない」と言っていました。コルビュジエの案はブリッジで屋根をおおってつっている。また3000 人と1500人の二つのオーディトリウムがあって,その真ん中を10月4日の革命記念日にはクレムリン広場で年中行事の大デモンストレーションをやりますが,この大行進が二つのオーディトリウムの間を通るという要請でした,

藤本 その場合に風土とか,その土地の技術とか,土着的な悶題でいくと,ソビエトのコルビュジェの案にしてもそうですが,ガラス張りのテクノロジカルな建築になっていて,それがロシアの生産技術の水準とか,気候の条件の中で合わないという問題が起っている。その意味では,ソビエトでは近代建築が一時そこで停滞するというか,批判を受ける形になりますね。グロピウスはそういうものに対してどのtうに考えていましたか。

山口 グロピウスは,あのコルビュジェの案に対して,作家の造型意欲が先行しすぎてはいないかと言っていました。事実グロピウスのデザインは,もっと地味で全然派手なところはないのです。それで落選したのですが,あの2つの案を並べてみるとよく性格が表われているのです。

藤本 まさにインターナショすル・アーキテクチャーという言い方は問題ですね。グロピウス自身も心外じゃないかと思うのでナね,そういうことからいうと。

山口 彼もそういうことを言われるといやがる。あの時代では,相当グロピウスはいろんなことを言われていましたから,思想的に。われわれもグロピウスに対して共産主義的な立場からグロピウスを批判する若い建築家達もありましたし,共産主義的な美術評論家であるアドルフベーネは,グロピウスと非常に親しい人でしたが,この大もグロピウスに対して食い足りないということを言っている。それからドイツのその当時の住宅政策のジードルング,あれは社会主義政権で失敗したのですが,あれに対する批判など相当ありまナ。ああいうシードルングをたくさんこしらえて建築費が高くて,労働者は入れないで,結局ホワイトカラーが入ってしまったというような強烈な批判があります。そういうことでグロピウスとか,タウトだの,いわゆる左翼的な建築家が批判されました。共産主義的な立場からいえば,グロピウスは資本主義の体制的な存在であり,資本主義のほうからいうとああいうヌエのような立場はいかんというわけです。

藤本 どっちからもむずかしい立場ですね。

山口 ちょうどいまの民社党みたいな,どっちつかずの人,と見られたのでしょうね,私は政治的な,政党的なそういう側の問題についてはいろいろ問題はあると思うのです

が,彼自体のものの考え方が,いわゆるヘーゲルからカント,そういう哲学体系の中で教え込まれたドイツ人の精神,ドイツチェイデオロギーというか,そういうのを身につけ

ているほんとうのヒューマニストだと思います。

グロピウスにおけるヒーマニズム

藤本 第1次大戦のあとに民主的な政府ができて,とにかく住宅建設が大きな課題となり,ジードルングというものが数多く登場し,グロピウスをはじめとして近代建築家にとってはかっこうの活躍の場ができたわけですね。グロピウスにしてみれば,具体的な近代的市民(人類)を対象にしてヒューマニズムの理念を具現する機会を持ったわけで,情熱的に仕事ができたんじゃないかと思いますね。

山口 また1つには,グロピウスがあまり恵まれた家庭でなかったということでしょうね。中産階級よりももっと下の階級というか,生活だったのです。ペーター・ベーレンスなどの下で働いた時代でも,ほとんど下積みで非常に苦しい生活をしたらしい。その当時コルビュジエも,ローエも一緒におった。若いティーンエージャーからちょっと毛のはえたドラフトマン的な仕事をして,その当時これはおもしろいことだと思うのですが,ライトでもそうですね,家庭を背負って低収入で苦労して勉強した。大体似たようなところから出てきているんじゃないかと思うのです。彼のヒューマニズムなり,階級的な社会思想的なものは,そういうところから自然に出てきて,単なる書物や感念から出てきた思想ではないと思います。もう1つ,それに私はいま考えているのですが,いわゆる反戦主義的な戦争に対する疑惑というか,そういうものを持っていた。彼が31,2才の頃でしょうか,フランス戦線の塹壕の中で身をもってそういうものを身につけたのでしょうか。コルビュジェとはちょっと違っているんじやないかと思うのです。日本の建築家はそういうところを通っておりませんから,ですからグロピウスはそういう家庭生活を小さいときから,それに第1次大戦の塹壕の中での思索とか,そういうのは本には書いていないけれども,先生の思い出話を聞いたりしていると,これ等が思想的な軸になっているような気がする。だからにせのでなくて,いろんな共産主義者とか,われわれもそうだが,そういう丹頂づるのような頭の先だけが赤いというのではなくて(笑)全体がいわゆる細胞からそういう思想ができているんじやないかと思うのです。先生のやっている仕事,言っていること,教育者としての立場,そこからにじみ出てきている。教わったものでないという考え方。私はあの先生の書いたもの,言っていることはみんな本物だと思うのです。

グロピウスと日本

相田 日本の建築家にグロピウスが及ぼした影響についてはいかがでしょうか。

山口 先生の影響というのはあまりないんじゃないんですか,形とかでは。いわゆる近代建築という外側からのイメージからグロピウスの影響は受けているでしょうが,それがよって来る本当のところではどうでしょうか。

藤本 ヨーロッパにおける近代は自らのうちにあるアンシャンレジュームを克服するという意味でまさに土着的ですし,みんなの体質の中からつくりだされたものです。特に近代の初期における理性とか,自由とかいう理念は,グロピウスが塹壕の中で痛切なものとして感じたように,ヨーロッパ人が自らの体験を通して,自分の肉体の中で痛感したものだと思うのですが,われわれのはそういうものの上積みの結果だけしか入ってこないということで,ほんとうの意味の近代をわれわれが主体的に評価し肉体化し得たかどうかが問題だと思うのですね。

山口 日本人が近代というのを解釈したその解釈のしかたが,いわゆる日本100年の歴史を通じてみて追い付き追い越せという輸入文化に対する姿勢がまだ今日でも残っているし,問題の近代建築を見たときに,この底のほうに何かあるか,という見きわめる暇がなかったのか,あるいは100年の間に,慣らされてサーフェイスだけを見て受けとる,そういう日本文化の一番悪いのが,建築にも言えるのではないでしょうか。だから,これは建築家だけの罪でなくて,日本の歴史的な意味で歴史的な,そして文化的なところから考えてみて,日本人のやむを得なかったことじゃないか,善意に解釈すればそのように考えられますね。これからほんとうのものに移ろうかという,ちょうどいま曲がり角に日本はきているんじやないかと思います。

分離派の思想的体質

相田 先生の参加されていました分離派運動の思想的な背景はどの辺にあるのでしょうか。

山口 ですからいま言ったように,分離派そのものがワグナーやホフマンの,ウィーンのゼセッションの建築運動を建築雑誌とか,美術誌とか,いろんなもので受けただろうと思うのですが,大正9年ぐらいでしょう。その前に,1915年ごろ,あるいは13年ごろフランス文学の影響をうけたヒューマニズムの運動がこの国ではじめられた。いわゆる白樺派の運動ですね,その前に漱石の小説がいままでの泉鏡花とか,尾崎紅葉とか文学史的に見れば急回転した作品が発表され始めてきている。ちょうど大正の初めごろでしょうか,日本のいわゆる文化全体がヨーロッパの近代主義に大いに刺げきされた。それから少し遅れて建築,文学のほうは白樺,建築でいえば分離派という現象として表われたんじゃないでしょうか。ですから白樺派も永井荷風がどうとか,有島武郎がどうとか,里見弾がどうとか言っているが,基本的な問題に突っ込んでいっているのではなくて,フランス文学の傾向に流されてきてしまって,あのロマンチシズムの中にヒューマニズムが少し入ってくる。

そういう文学が白樺派なのでしょう。それと同じようなことが分離派でやられてきている。分離派も工業生産とか,ウィーンで起こった近代建築のワグナーの宣言を見ればわかるように,あれをもっと掘下げていってほんとうに建築造形はどうなければならない,あるいは文化史,社会史的に見ても,あるいは産業と建築の考えから見てもこれはもっと掘下げてほんとうの意味で建築はこうなければいけないという咀嚼のしかたは入れ歯の咀嚼でありまして,自分の歯でもって咀嚼したものでないと思うのです。それは形態のロマンチシズムだと考えています。哲学的背景はない

創宇社の思想形式

藤本 山口先生の創設された創宇社は単なる形態ロマンチシズムよりは,むしろグロピウスが言っているように,社会的な基盤の中でちゃんと建築をとらえていく必要があるという姿勢をもったグループじゃないかと思うのですが

山口 それは初めは分離派に影響されドイツの傾向,あるいはその時代のヨーロッパの造形美術のスクールに影響されて非常にロマンチックな,ほんとうの本質をつかまえたものではなかったのです。だけど創宇社を始めた私たちは逓信省営繕課の雇いでトレースマンでした。この大勢の製図工の中で建築を考え,なにかをしっかり掴みたいという連中がいつの間にか5,6入集まって来ました。大工や畳やのせがれ,そういった夜学,あるいは中等学校あるいは築地にありました,いまの工学院大学の前身の工手学校,ああいうところで勉強した連中ばかりです。ちょうどあの関東大震災があったのがきっかけになりました。それから2回目ぐらいになってくるとだんだんわれわれの社会的な地位とか,建築はああいうロマンチックなものでいいかどうかがわかりかけてきたわけです。そのきっかけになるのは,その考えをまとめてくれたのは,その当時唯物論研究会が私の22,3のときにできまして,それは服部之総,戸坂潤,三枝博音などが指導者でした。仲間も私もこの会のゼミナーに通い続け教えられるところが多かったわけですが,このような零囲気の内に仲間もだんだん思想的方向がはっきりしはじめ,それで急激にいま藤本さんの言われたような作品系統に変化が表われ,分離派と違ったものに発展してゆきました。

藤本 分離派は,建築は芸術であるという形でコルビュジエとのグループとは違う表現主義的なものになってきましたね,それが昭和に入って前川さんなどコルビュジエのところに行かれた当りから,日本的なものに行かれた方もおりますが,多くの建築家は住宅は機械だとかという機能主義的なものに割りに抵抗なく転向し,分離派の人たちの表現主義はあっという間に姿を消しますね。

山口 それはさき程話に出ましたように,出発の理念から考えられることではないでしょうか。堀口先生はその初期にすでに紫苑壮という日本的な,またオランダ風傑作を造りましたですね。またプールのある吉川邸がありますが,あれなども日本的なもののようですね。

相田 コルのファサードに似ていますけれどもね。

山口 そこに先生の日本的なものが入ってきている。分離派出発の当初からは,大分遠のいて来たのでは……。

藤本 個人的心情みたいなもので……。

山口 そうです。蔵田先生の住宅はプランニングは従来の系譜をそのまま引き続ぎに外観が塗りもので,近代的なムードになっています。これは先生の作品だけでなく,あの頃はほとんどこの傾向でした。

日本の住宅設計にみられる近代

相田 最近わが国の住宅の形は百花爛漫のごとくいろいろ出ています,日本人の生活のパターンみたいなものと外側から入ってきたものとその辺はどうお考えですか。

山口 私はいま混乱しているんじゃないかと思うのですね。それはさっき言ったグロピウスがプランニングをやる場合ジードルングの1つの個室,1つの家族のユニットをこしらえるにしても,人間に帰って生活する人の環境を考えていかなければならないとしています。プランニングもコルビュジエと比べると全然違うと思います,地味ですが人間がここでどういう生活をするかをとことんまで考えます。そういうことからいうとグロピウスの言うプランニングのプリンシプルは,その当時の同じ時代の日本の近代建築家のプランニングと比較してみますと,その違いがはっきりわかると思うのです。ですからそれがもっとはっきりするのは「国際建築」で1930年代から40年代までの10年間のモダンな住宅を集めたのがございまナ。あれは4巻ありましたが,あの外観とプランニングとヨーロッパのその時代と比較して見ますと,外観はともかくとして,プランニングの考えかたが全然違うことがはっきりわかります。

藤本 事情は一応解りましたがドイツではどうでしょうか,メンデルゾーンなどのような表現主義的な建築があり一方でグロピウスのいう機能主義的近代建築がある。その辺の事情はどのようなものだったのですか。

山口 それはメンデルゾーンの観測塔,あれなどに対してはグロピウスは大へんな批判のしかたです。あれは彫刻であって建築ではない。あの建物のファンクションを考えてみた場合に,ああいう形はイメージできないというのです,それにペルツィヒの円形の劇場,サーカスを改装された劇場,ああいったものに対して相当批判的です。ああいうのを折衷主義というが,もう1つ違った意味でメンデルゾーンのあめ建築は近代建築の系列と別なものと考えているようでした。いわゆるそれにこの間死にましたシャロンなどまだ若い時代で,おしゃれなおじちゃんで,シャロンはそういう悩みなしに統―的な,また近代建築を分析的に考えないで非常に抵抗なく新建築に入ってきた。

相田 シュツッツガルトの住宅がございますね。あのシャロンなどいいですね。小さいけれども俄然光っているという感じでナね。

山口 なかなか造形的に:もよい作品です。

相田 ぼくは見た中であれが一番よかったですね。

山口 ∃ーロッパの建築家は,いろいろな意味での“近代”をしっかりふまえています,シャロンを例にとるまでもなく,その姿勢を崩ずさない。分離派で言えば,その姿勢を正しているのは堀口先生だと思うのです。そしてこれに比較されるのが山田守先生だと思う。このように同じに出発しながら近代に対するイデーにグリュンドリッヒなものを持っでいればあのよりな変身はなかったでしょう。これからの建築家は私をもふくめて考えなければならないと強く考えていま=す。……。

社会と建築家

藤本 建築家と社会とのかかわりあの問題について,もう少しお伺いしたいのですが,個人的体験からですが,建築家はもう少し社会的なものどっぷりとつからないとわからないことがすごくあるような気がするわけです。創宇社がそういうことで社会的ユな視点を持って分離派と異った立場をとり、更に戦後山口先生がRIAを主宰されてそういう形の問題をかなり取上げらノれたと思うのです。ここで一つの問題なのは建築家の社会との付き合い方が問題ではないかとと思うのです。そり辺はグロピウスはどう考えていたのか,また,先生はどうお考えかを少しお聞かせいただきたいのですが。

山口 あの当時グロピウスが彼の思想の故に、現実的な社会との矛盾との戦いを目の前に見せられ、建築家の仕事がどんなにむずかしものか身に泌みて感じとりました。到底私などの出来ることではないとと思いましたが、私なりんい先生のあとをついて行きたいと考えてまいりました。このような姿勢を押し通うすことは,あの戦争が不可能にしてしまいました。反戦的な建築家にとっては生死の極です。戦後ようやく理想に近い建築家のありかたに立ちもどろうとしてRIAが出発しました。設計システムも経営もデモクラチックにすることがわたしたちの考えでした。しかし現実は生やさしいものではありませんでした。この国の動態と思考の方向の大きな矛盾に突き当たり、問題を抱え込んでいずれかの曲がり角に来ているのではないかと思うのです。メンバー全体であくまでデモクラシーの立場からもう一度考え直そうではないかというところです。グロピウスの始めたTACについても先生の考えていたものとは少し違ってきているようですし、新しい建築家のグループの方向についてもっと研究を要するのではないですか。 (おわり)

建築雑誌vo1.89,N0.1086昭和49年11月号 889

(2015/10/14掲載 伊達美徳)