グロピウス夫人の手紙に見る1930年代初めのドイツ、グロピウスそして山口文象

グロピウス夫人の手紙に見る1930年代初めの

ドイツ、グロピウスそして山口文象

(解説)この手紙は、1977年8月にワルター・グロピウス夫人のイーゼ・グロピウスさんから、田中俊彦さん宛に来たものである。

その頃、RIAでは山口文象の作品集を作る企画が動いており、1930年から32年まで渡欧していた山口文象が、ベルリンのグロピウス事務所で働いていた時のことを尋ねた田中さんの質問に答えたものである。

当時のベルリンの切迫した空気とか、グロピウス事務所で働いた人々の様子が分って興味深い。一方、当時の山口文象に関するイーゼ夫人の記憶はあまりないらしいのが残念である。すくなくとも、山口がグロピウス夫妻と一緒にベルリンを脱してイギリスにわたったという、後の山口談話のようなことはなかったようである。

文末にその頃のグロピウス事務所での仕事の一覧が出てくるが、このなかの「Soviet Palace,Moscow,Competition Project.1932」に山口が関わっており、ドイツ滞在時の日記には、山口がモスクワに持って行ったらしいことが書いてある。日本に持ち帰ったその図面一式の紙焼き写真をRIAが保管している。(伊達美徳)

――――イーゼ・グロピウスの手紙―――――

1977年8月29日

親愛なる田中様

1930年~1932年にわたることがらや、わたくしの夫の事務所のことなど、質問に喜んでお答えいたします。

1)わたくしが山口文象氏に最初にお会いしたのがいつであったか思い出せません。その頃のベルリンは非常に国際的な年であり、バウハウスには諸外国からやってきた人々がいつもいて、いつも出会っていました。山脇夫妻と水谷氏もその中にいて、日本人はちっとも珍しくありませんでした。しかし、日本人たちは彼等だけで集まり、どこか居心地わるく、不可解なところがあるようで、あまり親しく交流することは通常はありませんでした。インド人たちは自国風の衣服なのに、日本人たちはいつも洋風の衣服でしたから、日本人のほとんどは自国でも洋服を着ているのであろうと、わたしたちは思っていました。1954年に日本を訪問して、はじめてそれが間違いとわかったのでした。

わたくしたちが1934年の9月にベルリンを去る前の数年間、わたくしは夫の事務所で、図書と情報を扱う仕事をしていましたが、物静かな日本人デザイナー・山口文象のことはありありと覚えています。あるコンペチションの締め切り間際のこと、事務所では間に合わせるために徹夜で仕事をしておりました。わたくしはときどき夜中に食事をもちこんで、所員たちを励ましていましたが、彼らはみんなしばし休んで床や机に伏して寝ているのに、山口文象だけは椅子にきちんと腰かけて、壁に寄りかかって眠りこけているのです。その様子には威厳がありました。サムライの振る舞いでしょうが、わたしたちには不可解でした。

わたしの夫はパースペクティブ手法よりもアイソメトリック手法が好きでしたが、山口は日本でそれを続けられたのでしょうか。

2)1930年におけるもっとも重要な出来事は、グロピウスのカタログに記載されているように、パリでのWerkbunt Exhibitionです。山口はこの年の暮れに来られたので、これを見逃したかもしれません。これはフランスを驚かせたすばらしい仕事で、それまでフランス人たちは近代建築や工業デザインなるものを見たことがなかったのでした。

わたくしの夫は当時は非常の多忙な生活を送っていました。というのは、彼が1928年間でバウハウスの運営にあたってきましたので、この間にやれなかったことを全部やってしまおうと懸命だったからです。当時応募したコンペはほとんど一等を勝ち得ましたが、それらがすべて実施されたのではありません。財政事情が非常に悪くて、なにかをやろうという気持ちと、新しい発想の自由があったにもかかわらず、実現されることがほとんどなかったのです。

失業者が街にあふれ、ナチの足音が次第に次第に大きくなりつつありました。外国人である山口がどう受け取ったかわかりませんが、ベルリンにおける状況は非常に危険なものでした。ベルリンはプロシャの一部で、社会党政権下ににあり、ナチと敵対していました。街では銃撃があちこちで増えていき、夫はこのころ遺書を書きました。ナチ党員でないかぎり、次の日はどうなっているか分ったものではなかったからです。デッソウでは、バウハウス校長をミース・ファン・デル・ローエが務めていましたが、ナチは政権を取ったら閉校処分することを第1項目にあげていましたから、わたしたちは次第に首が締め付けられる感じでした。

わたしたちはナチが勝利したなら―それは1933年に起こり、グロピウスはその時レニングラードへの講演旅行から戻ったところでしたが―近代建築、工業デザイン、社会制度などの偉大な進歩は打ち壊されてしまうに違いないと考えていました。第1次大戦後の理不尽な平和条約のせいで国力は弱り、全国に失業者があふれて、あらゆる前進的な動きは消えてゆきました。

西欧世界に於いて、これらの新しい建築的、社会的な思想が、ドイツほどに広い基盤を見出した国はどこにもありませんでした。近代的な運動は、1928年にわたしたちが訪れたアメリカではとりわけそうでしたが、オランダ、スイス、チェコスロバキア、ハンガリー、そしてスペインにおいてさえもあったにもかかわらず、ドイツにおけるほどには実際的に応用はされなかったし、近代的な建築の技術や形態についての経験は得られなったのでした。フランスではル・コルビジェが全く孤立していながらようやく1920年代になって独自の近代建築に参入しましたが、一方で、既にグロピウスは第1次世界大戦前に、2つの近代建築を彼の名で作っていたのでした。しかしコルビジェは本を書いて英訳され、イギリスやアメリカにおいては彼が最初の近代建築家として知られていました。グロピウスは1935年に彼の最初の本をロンドンで出版しましたが、これは彼がドイツの雑誌に書いた多くの論文を集めたものでした。ベルギーにはブールジョアがいましたが、ひとりで頑張っている建築家であり、幅広く市民の支持を得るものではありませんでした。ドイツでは、1920年代末から30年代初めにかけては、純粋に建築に関する講演に関心がある聴衆たちで大きなホールを容易に満員にすることができましたが、イギリスやフランスでは不可能だったでしょう。

そのようなわけで、グロピウス事務所では次々とプロジェクトのデザインをするべく懸命でしたが、それらのほとんどが実現しませんでした。しかし、それらはヒトラーが時計の針を逆回しするまえであったので、そのころ確立しようとしていた建築や計画への新しいアプローチのプロトタイプとして役だったのでした。

3)グロピウス事務所の名前は「Bauatelier-Prof.Dr.ing e.h.Walter Gropius」でした。1925年までアドルフ・マイヤーが協同者でしたが、それ以後は協同者を持ちませんでした。マイヤーは、1910年に事務所を設立してから、給料を受け取る側の被雇用者でした。しかし、1920年にワイマールのバウハウスで教育の仕事を手伝う様になったとき、グロピウスはマイヤーをしかるべき肩書で遇する必要を感じました。これは戦前の仕事にも適用されており、「Gropius with A.Meyer」と記されています。これにたいして、後になってロンドンでのマクセル・フライやアメリカでのブロイヤーとの協同はPartnershipと呼ばれ、「Walter Gropius and M.Fry」あるいは「Walter Gropius and M.Breuer」となっております。

4)ベルリンのオフィスはPotsdamer Privatstrasse 121 A, Berlin 35で、Potsdamer PlatzとLeutzow Platzの間にありました。そこは私有の大邸宅の2階にあった大きなアパートメントで、わたしたちは前面の4室を使っていました。都心にありながら素敵な静かな並木道であり、ポツダム通りからの入り口には大きな門があって閉じることができました。戦争中にこの地区全体が破壊されてしまい、1947年にグロピウスが戻って見たときは、建物は無くなって瓦礫ばかりでした。

5)この写真(注:田中氏が送った当時のアトリエでの写真)には、当時のアトリエで働いていた人たちのほとんどが写っています。Xanti Shawinskyが時には手伝にきて展覧会のための図面を描いていましたが、いつもそこで働いていのであはありません。

わたくしが覚えているメンバーの名前を書きこんで同封しておきました。その1930~32年には、Dusmanが事務所でのチーフであったと思います。彼のファーストネームを知りませんが、ドイツではそれを親しい友人のほかはほとんど知らないからです。

後にDusmanは不幸なことにナチの党員となって、第3帝国において多くの仕事をしました。彼のその後のことも現在どうしているかも知りません。

Fiegerはデッソウ時代からグロピウスと一緒でしたが、戦中あるいは戦後になってそこに戻り、数年前に亡くなりました。

Franz Mullerは1931年にアルゼンチンに行き、1932年にそこであるクラブハウスをグロピウスと共にデザインしました(カタログをご覧ください)。その後どうしているのか探したのですが、分らないままです。何も連絡がないということは、おそらく亡くなったのでしょう。

山口文象の後ろの人のことはよく覚えていますが、名前だけが出てきません。彼はグロピウスの秘書のFrau Schieferの友人です。戦後に彼女から連絡がありましたが、彼はドイツ生まれでないために、なかなか仕事が無くて大変だとのことでした。彼の消息はその後分らなくなり、彼女は彼が自殺したかもしれないと心配していました。

Kurzはオフィスボーイでしたが、戦後の便りではベルリンの人々のほとんどがそうであったように、彼も餓死するばかりに飢えていました。わたくしは数年間にわたって、その窮乏を伝える親戚や友人たち、バウハウス関係者ばかりか、便りをくれた見ず知らずの人々にも、次々と小包を送り続けたのでした。

8)わたくしが山口文象とベルリンで最後に会ったのがいつであるか思い出せません。しかし、1954年に日本を訪問したとき、たぶん箱根での大きな会合の時に会ったことは確かです。

次のページに、1930~32年の間におけるすべてのプロジェクトを記しておきます。

敬具

Apartmentbloks for the reichs Reseaech Institute for economy in Building.1929-31

Werkbund Exibition,Paris,1930

Slab Block,Steel Construction/Project,1930

School of Gymnasics,Schwarzerden/Project,1930

Recreational and educational Buildingus in the Tiergarten,Berlin,project,1930

Palace of Justice,Berlin/Project,1930

Theatre Kharkov,Russia/Project,1930

German Building Exhibition,Berlin 1931

Exhibit of Highrize Apartment Building (Eleven story Slab Brocks)

Exhibit of Building Trades Union

Wannsee Slab Blocks (Project) 1931

Frank'sche Eisenwerke,iron stove designs,1931-33

Hirsch Copper & Brass Works,Finow,Copper Houses(Prefabrocation)

Soviet Palace,Moscow,Competition Project.1932

Clubhouse,Benos Aires,1932

(文中にあるグロピウス事務所での写真)

(2015/10/14掲載 伊達美徳)