1946『集合住宅の記録』(ブルーノタウト『Siedlungs-Memoiren』1933翻訳)

1946『集合住宅の記録』

(ブルーノタウト『Siedlungs-Memoiren』1933翻訳)

●山口文象の資料にあるブルノ・タウトの原稿

山口文象の資料の中に、『Siedlungs-Memoiren』と題するタウトの自筆原稿の45頁からなるコピーがある。日付は1933年8月30日となっている。

その用紙には罫線欄外に、東京都麹町区丸ノ内三丁目八番地 クルップ会社代表者 レムケ事務所 電話丸ノ内(23)556」と印刷がある。

この原稿コピーの初めに一枚が添えられてあり、山口文象の筆跡で、「ブルーノ・タウトより贈られる」と記されている。いつの時点で贈られたのか分らない。

●山口文象によるタウト論文の翻訳

それとあわせて、山口文象の翻訳による「集合住宅の記録」と題するタイプ印刷のコピーがある。翻訳の日付は1946年8月30日と記されている。

ただし翻訳文は、タウトの言うことがかろうじてわかる程度の、かなりの悪文である。ここに載せるかどうかためらったが、一応は歴史資料としてPDFにして載せておいた。

https://sites.google.com/site/dateyg/bunzo-archives-1/Taut-Bunzo.pdf?attredirects=0&d=1

●ブルーノ・タウト「ジードルング覚書」(篠田英雄訳)について

タウトの日本滞在中の1933~1935年の日記は、『日本 タウトの日記』として篠田英雄の訳で岩波書店から刊行されている。

その1933年9月2日の日記に次のような一文がある。

一九三三年 九月二日(土) 葉山―江ノ島

論文『ジードルング覚書』(45頁)を脱稿。

註:『ジードルング覚書 Siedlungs-Memoiren』

この原稿に違いないだろうが、いつ山口文象が、タウトからこれを贈られたのだろうか。タウトの日記で、山口文象の名が出てくるのは、1933年11月4日が最初で、以後何回も出てくるが、この件は分からない。

そしてこの山口文象が原稿を贈られたタウトの論文は、日本語になって公刊されている。

「ジードルング覚書」(篠田英雄訳『タウト 日本の建築』春秋社1950年)

ただし、この論文についての註が次のようにある。

「13行大型美濃判罫紙28枚に認められている。1936年8月24日に少林山で脱稿。1933年8月31日に、葉山で書いた同名の論文に加筆したもので、多少語句の出入りはあるが、内容は全く同じであると言ってよい」

山口の訳出の悪文と比べると、さすがに分りやすい。

(伊達美徳 20150708)