1935小泉八雲図書館

・建物名称 富山高校小泉八雲図書館(へルン文庫)

・建設場所 富山市

・竣工時期 1935年10月

・公刊資料

・解説

●富山高校八雲図書館(へルン文庫) 伊達美徳

この図書館は、旧制富山高校(富山市)に地元の篤志家・馬場はる氏が寄付した小泉八雲の蔵書類を収蔵するもので、建物も馬場氏の寄付による。

1933年当時の建築関係の雑誌に発表された模型写真を見ると、切り妻の大屋根をかけ、それを二本の棟持ち柱のような独立柱が支え、床下がピロティ状に高く浮き上がり、どこか出雲大社本殿をイメージさせるデザインで、松江の八雲記念館とはおおいに異なる。

これは計画だけで建設されなかったものと思われていたのだったが、実は、旧制富山高校の図書館に付属する「小泉八雲図書館」(へルン文庫)として、1935年に完成していたことが、最近になって確認されたのである。

1999年に、金澤在住の八雲研究者である染村絢子氏が、富山大学図書館保管の設計図と竣工した建物の写真を発見されたのであった。

富山大学図書館の発行する「へルン文庫目録」に次のような資料が記載されている。

・「八雲図書館の設計と工事」富山高等学校彙報 第1号 富山高等学校1934

・「昭和八年へルン書庫建設関係書」富山高校1933-35 1冊 松江のへルン記念館と富山のへルン文庫を設計した山口蚊象氏設計の初代へルン文庫建設にかかわる関係書類綴

ところが、染村氏からみせていただいた現物の写真を見ると、どうも模型写真とは似て非なるようでもあり、そのもののようでもあるデザインである。写真判定では、一応は山口設計と見てよいだろうが、途中で設計変更が起きたらしい。それも、山口の あずかり知らないところで起きた感じもある。

もしも設計変更したとしても、最後まで彼が見たならば、もっとよいプロポーションででき上がったろうと思われるからである。そのあたりは、染村氏の今後の研究に待たなければならない。

山口と八雲を結ぶ線はなにか、よく分かっていない。山口文象の富山でほかの仕事といえば、黒部第二発電所・ダムであるから、これに関連する人脈につながるのかもしれない。これも染村氏に期待するところである。

その小泉八雲図書館は、富山大学の移転により1962年に取り壊されてしまった。跡地は公園となっており、記念碑が建っている。(2009.2.18記)

・関連→山口文象と二人の作家を結ぶ糸は?(伊達美徳)

●創立十周年記念に馬場正治寄附の山口蚊象設計「小泉八雲図書館」

染村絢子

(「ヘルン文庫」の探求」(「ラフカディオ・ハーツに関する講演記録集」2006年12月11日)より引用)

昭和八年十月十五日から四日間を中心に、前後約一月間に亘り、富山高等学校創立十周年記念行事が行われた。馬場家では、馬場正治(はる子の長男)が創立十周年記念として、これまで書庫に収められていた「ヘルン文庫」の蔵書類を、独立した建物に収めるための建築費として、八千円の寄附をした。

この寄附によって「小泉八雲図書館」が、書庫の隣りに渡り廊下で結ばれる形で建設されることになった。設計は山口蚊象で、昭和十年五月十日に竣工した。

しかし、前述のごとく、「小泉八雲図書館」は、昭和37年、解体された、

私は、旧制富山高校生の青春と共にあった「小泉会図書館」が、どんな姿であったのかとの思いから、『富山大学へルン文庫所蔵・ヘルン関係文献解説付目録』(注1)(以下『ヘルン関係文献解説付目録』)に、「山口蚊象設計 八雲図書館設計図 袋入り。内容(小泉八雲図書館新築工事仕様書1冊。設計図13枚)と掲載されているので、「ヘルン文庫」を訪れた。

これらの資料を袋からとり出すと、仕様書も十三杖の設計図も、64年前のものとは思われない傷みのないものであるので、図書館専門員、秋元国男氏にうかがうと、これまで閲覧希望がなかった、とのことである。私が調べたところでは、先行研究はなかった。

「小泉八雲図書館」の外観を撮影した写真が手許に二枚ある。角度の違う方向から撮られた写真である。山口の設計図に基づいて建築されたと理解していた実物を、写真で見ると、素人目に見ても、両者に大きな外観の違いのあることがわかった。

「仕様書」の表紙には、[昭和九年 月 日(月日は末記入である)、小泉八雲図書館新築工事仕様書、設計者山口蚊象」と書かれている。

当時の富山の新聞記事を調べると、地鎮祭、落成式の際の報道に、山口蚊象についての記事は見当たらない。(山口蚊象は、同じ頃、鳥取県松江市に「小泉八雲記念館」を設計しているが、これについては、山口蚊象と明記されている。)

私は、写真の建物を、山口蚊象設計といえるのかどうか、山口以外の人が携わったのではないか、と疑問に思い、山口が戦後、創立者の一人として設立した、東京のRIA設計事務所の村越正明氏を訪ねた。

同氏は、建物の写真をご覧になるや否や即座に「山口らしくない」、との一言であった。

村越氏が用意して下さった資料は

(1)『建築家・山口文象・人と作品』(注2)、

(2)雑誌「国際建築」のコピー(注3)、

(3)「小泉八雲図書館」の模型写真(注4)、

(4)『日本の建築10 明治大正昭和』(注5)であった。

これ等を調べると、

(1)年譜の昭和8年の項に「この年、出雲大社に似た棟持柱をもつ富山高校小泉八雲図書館計画案を作製するが、実施には至っていない」(224頁)と書かれている。やはり計画案だけであったのか、とがっかりした。次に、翌年の項をみると、山口は、六月十三日~十七日、東京銀座の資生堂ギャラリーで「山口蚊象建築作品個展」を開催。九点が展示されていれるが、その中に「八雲記念館」(1933念竣工)、「八雲図書館」(1933年計画)等がある。山口は、当時来日中のブルーノ・タウトをこの個展に招待している。(注6)

(2)「国際建築」には、図版〔1〕で見るように、四枚の設計図を掲載し、「小泉八雲図書館・富山高等学校内・鉄筋コンクリート造・施工中」と記している。(しかし、後述するように、昭和九年六月の時点で、この設計図による建築は着工していない。)この四枚の設計図と「ヘルン文庫」蔵の設計図とは、ほぼ同じである。山口の自信作であったのか、二度、発表している。

(3)模型の写真は図版〔2〕である。

(4)『日本の建築』にも、前記〔3〕の模型写真が掲載されているが、「富山高校附属小泉八雲記念図書館計画」と注記されている。

その後、秋元氏から、先日の十三枚の設計図の外に、十枚の設計図があった、とのお電話を頂いた。この十枚は、この度、秋元氏によって発見されたものである。早速「ヘルンソ文庫」を訪れた。

十枚の設計図のうち、第2案、第3案と書かれたものがそれぞれ一枚ずつ含まれており、何度か設計変更が行われたことがわかる。この設計図十枚を含む合計二十三枚の設計図は、富山大学のご好意により、マイクロフィルム化することができたので、これらを村越氏にお送りしたが、氏のご意見は、依然として「山口蚊象らしいデザインではない」であった。

私は、『ヘルン関係文献解説付日録』に記載のない『富山高等学校彙報』第1号(注7)を見出した。この『彙報』には、他のどの資料にも書かれていない詳しい「小泉八雲図書館」の建設経緯が記されているのである。これを左に記す。

「図 書 館」

四、八雲図書館の設計と工事

八雲図書館建設委員は昭和入牢九月十四日第一回委員会を開催同館建設に関する協議を為した。越えて十月十七日其の敷地に於て地鎮祭を挙行、学校長始め職員一同、生徒代表参列し、特に馬場正治氏馬場ハル子氏の参列を得た。

十月廿六日山口蚊象氏来校し、図書館の設計は同氏に嘱することとなった。氏はすでに松江の八雲記念館を設計した人で新進の建築家として令名ある人である。

昭和九年三月十二日設計書出来到着、之に基き更に吟味する所があったが、一方経費の都合上設計書の一部を変更し、愈々十月五日工事請負人太田松若氏によって起工した。此の建築は特殊構造の鉄筋コンクリート平屋建にして、之に要する経費は総て馬場正治氏の寄附によるのである。

この記述によって次のことがわかる。

(1)創立十周年記念日の約一か月前に「八雲図書館建設第一回委員会」が開催された。

(2)山口蚊象が来校したのは、地鎮祭の九日後の十月二十六日で、この時、はじめて来校した山口に設計を依頼した。(地鋲祭の報道に山口の名がないのは、このためである)

(3)山口が松江の八雲記念館を設計した新進の建築家であることを、学校は承知していた。

この頃山口は、欧州から帰国したばかりで、帰国直後の「日本歯科医専」の設計が、国内外で報ぜられ著名になった。「小泉八雲図書館」設計の頃は、日本電力の仕事をしており、庄川、黒部第二、猫又ダムの設計で忙しく、宇奈月の延対寺旅館別館に泊り、宇奈月の日本電力の宇奈月合宿所建設にも携わっていた。

(4)「ヘルン文庫」の前記「仕様書」と「設計図」が、翌昭和九年三月十二日、富山高校に到着した、との記述から、「仕様書」の表抵の日付の空白部分がほぼ埋まるのではないだろうか。

(5)設計変更がなされた。二十三枚の設計図の中には、設計変更図が入っている。但し、この変更は外観には及んでいない。

(6)昭和九年十月五日起工、工事請負人は太田松若である。私は、富山市在住の氏のご長男、好之氏に連絡がとれたので、ご尊父の経歴が書かれた書類を頂いた。これによると松若は、昭和六年、宇奈月に会社の出張所を開設しており、ここで山口と接触した可能性が高い。松若は腕のいい建築家であった。

山口が仕様書と設計図を学校へ送ってから、約七か月後に着工されている。

落成式は昭和十年五月十日で、「ヘルン文庫」蔵「新開切抜帖」の「北陸タイムス」、富山県立図書館蔵の「富山日報」と「北陸日日新開」(共に五月十日付)に、落成式が報ぜられている。「北陸日日新開」は「風変りな白亜の建築 八雲図書館」の見出しで、「…全体として日本の茶室の持味を生かしてゐることが特色で、特に床下が神社風に柱で支へられ向ふ側を透かして見ることが出来るやうになってゐるのが目立ってゐる」と詳しい。書庫を中心にその回りに廊下をめぐらし閲覧室とした真四角な建物、さらに、コンクリート造りであるのに、平坦な陸星根ではなく、瓦星根であることなど、当時としては、「風変りな」建物と映ったのであろう。

『山口文象・人と作品』の編集は、山口存命中から計画され、年譜作成のため、山口から、山口がこれまでに設計施工した作品の個々について聞きとりをし、つぎに山口が話した設計作品の所在地へ手紙を出して、それぞれ確認作業をした、とのことであるので、私は、山口の年譜の中で最も信頼のおけるものと考えていた。

では、この年譜で、「小泉八雲図書館計画案を作製するが実施には至っていない」と記述されていることと、落成した「小泉八雲図書館」との関係は、どうなっているのだろうか。

私は、当時年譜のこの部分を作成された鈴木実氏に、お話をうかがった。氏のお話は簡単であった。「山口先生が、所在地は、島根県松江市の富山高等学校、と話されたので、そちらに手紙を出したら、手紙が返送されてきたからである」とのことである。山口は、松江の「小泉八雲記念館」を昭和八年に設計(注8)、施工しているので、混同したのであろうか。

鈴木氏が当時、山口から聞き取りをした資料には、「計画のみ」「所在地、島根県松江市富山高等学校内」と書かれている。富山高等学校の住所を「富山県」としていたら、山口存命中に、「山口蚊象設計」の結論が出ていたかもしれない。

RIAの村越氏が、その後、すべての資料を検討し、計算した結果の一覧表を送って下さった。設計図を四段階に分類し、それぞれ書庫の形状、閲覧室の机の配置、屋根の勾配等、十七項目について詳細に記述がなされている。また、平面と立面の山口の特徴を七項目について詳細に写真との比較をも記して下さったが、本稿では、そのすべてを記すことは避け、同氏のご発表を待つこととしたい。しかし氏の結論のみを記させて頂くこととする。

山口の設計図については「総合的には、山口の作品の中、あるいはこの時期の他の建築家の作品にも例を見ないスタイルでまとめられていて、小規模ながら重要な作品といえる。また、松江の小泉入雲記念館がギリシャ古典主義的なスタイルを採用した(ハーン出生地を意識したためか)ことと対照的に、国際様式と和風を融合させた全く異なるスタイルを採用したことが興味深い。」と述べ、さらに、設計図と写真の、外観の相異については「綜合的には設計図に基く建築であるが、詳細な部分ではデザインが異なる。棟方向が90度異なる。棟持柱二本なし。屋根と壁面の取り合い部(裳階)は、設計図より隙間が大きい。窓は設計図とは基本的に形式が異なり、プロポーションも損なわれている。」と結論しておられる。

これまで述べてきたことを、村越氏から、山口蚊象氏御令息の山口勝敏氏にご説明頂いたところ、「山口蚊象設計」ということで差し支えないのではないか、とのことで、村越氏も同様の結論とされた。

山口のこの頃の仕様書と設計図は外には一揃いで残っていないので、貴重なものである。

ここに、山口蚊象の詳しい経歴を書く余裕はなくなったので、本稿に関係すると思われることのみを略記する。

山口は、明治35年、洩草で祖父の代から続く棟梁の家に生まれ、生涯に、山口瀧歳・岡村瀧歳・岡村文三・山口蚊象(大正11~昭和7)・山口文象と姓名を変更する。昭和53年76才で亡くなるが、小学校卒業後、蔵前高等工業学校附属職工徒弟学校を卒業後、清水組、逓信省経理局営繕課、関東大震災後、内務省復興局土木部橋梁課(清洲橋・八重洲橋・数寄屋橋等をデザイン)、日本電力庄川ダムに閑与、ドイツヘ、昭和7年帰国、日本歯科医専(「山口蚊象設計事務所」の処女作)、松江の小泉八雲記念館、昭和9年、日本電力宇奈月合宿所、安井曽太郎アトリエ、昭和10年、日本電力猫又鉄橋、富山の小泉八雲図書館、宇奈月の延対寺旅館別館増築、前田青邨邸及びアトリエ、日本電力黒部第二ダム、猫又ダム、築地小劇場改築、林芙美子邸建築等である。

この章のしめくくりとして、『山口文象・人と作品』で、山口蚊象について、猪熊弦一郎・伊達美徳両氏が記している文章の一コマをここ史記す。

猪熊絃一郎「芸術村のこと」より(11頁)

「--文ちゃんの建物は、なんといってもプロポーションが美しいことだ。これは絵も同じだが、優れた芸術家の仕事は先ず素晴らしいプロポーションを持っていることだ。文ちゃんの仕事にはいつも人と違ったまとまりと、プロポーションを持っていたように思われる。」

伊達美徳「飛翔」より(72ページ)

「--これらのいわば表顔としての国際建築様式の作品の系譜のほかに、数寄星から民家へと流れてゆく和風建築の系譜がある。その手練の技の和風建築は、山口文象にとっては、旧世界のものであったはずなのだが、二つの系譜が同時期に並行していることは、興味深いことである。洋風・和風の建築と土木デザインと、とにかくやりたいことは、ほぼ30代のうちにやりつくしたという感があるほどに、質的にも量的にも充実した一九三〇年代であった。」

(1)富山大学附属図書館編・発行、昭34・10、7・8

(2)RIA建築綜合研究所編・昭57・4、以下『山口蚊象・人と作品』と略す。

(3)昭9・6月号、第10巻第6号

(4)RIA所蔵

(5)三省堂、昭和56、160頁

(6)山口は昭和五年末から同七年六月まで、ドイツを中心に渡欧し、主にグロピウスについて建築の勉強をし、ドイツでB・タウトに会う。タウトは昭和八年来日する.

(7)富山高等学校 昭和9・12、51頁、「富高文庫」麓

(8)「山陰新報」昭29・9.25は「市河教授は山口蚊象技師(東京)を松江に派して建築に着手完成した。」と書かれている。鈴木実氏の資料には、設計依頼者は「市河三喜」と明記されている。

「ヘルン文庫」の歩み(抜粋)

・昭和二十五年三月三十言H、富山高校は廃止された。

・昭和三十六年十月、「ヘルン文庫」は、蓮町から、富山市五福町の富山大学附属図書館四階に移された。

・昭和三十七年十月、蓮町の山口蚊象設計の「小泉八雲図書館」は、他の校舎とともに、とりこわされた。

・昭和四十八年二月、五福町の富山大学校内に、大学の附属図書館が新築され、その二階の一部屋に「ヘルン文庫」が設置された。蔵書を収める書架は新しく作ったが、サイズ、デザインともに、山口蚊象設計のものに倣って作られた。

・平成九年二月、富山大学附属図書館は増改築されて「ヘルン文庫」は、五階の新しい部星に移った。

注:この講演記録集は、2005年10月馬場はる胸像建立の付帯事業として、馬場記念公園内・富山市立北部児童館で開催された、染村絢子 「ヘルン文庫」の探求」と小泉凡 「世紀末に想う、ハーンと想像力」の講演を記録したものである。

・写真、図面等