「室内」1962.7 月号
百家争鳴
ハイマートローゼ
山口文象(建築家)
昨年は半ば頃まで内臓を悪くして、東大の沖中内科に入院した。退院してからも毎週外来として通った。私は医者の意見をおろそかにする悪い患者で、いつも付添に女房がついてきてくれた。
診察時間の都合で、昼めしは春木町あたりのそば屋か構内食堂で食べたが、その日は時間のつなぎが悪く、二時間ばかりひまつぶしをしなければならなかった。
そこで、特別に遠出することにして、浅草あたりまで足をのばすことにした。私は女房に駒形の「どぜう」を食わせようときめた。
私はむかし、十代のころ、毎朝公園裏から仲見世をぬけて、この「どぜう屋」の前を、蔵前の学校まで通ったものだ。おやじにつれられて、その味も知っているが、女房は、聖徳太子のようなヒゲをはやして、みそ汁に浮いているあの姿を想像しただけでもいやだという。
無理もないと、方針をかえて馬道か、花川戸あたりなら、土地がら洒落たところが残っているかも知れないと、仲見世の裏通りへはいってみた。けれども、私の知っている浅草の面影は、みじんもなかった。ただ、雑ばくな食もの横丁が、軒を並べているだけだ。これじゃあ天王寺や千日前とちっとも違いやしない。
失望して食慾はだんだんなくなるし、どうでもいいやと花川戸の角店の、とあるとんかつ屋にはいった。奥でキャべツをきざんでいるおかみさんは、ちらりとみただけでも浅草でなければ今は見られぬ、あくの抜けたひとだったからである。
「おかみさんは、この土地のうまれ?」
「ええそうです。うまれおちるとから馬道と花川戸から離れたことはありませんよ」
「なつかしいな。あたしぁこのすこしさきの田町のうまれだ」
「そうですか。うちのひとも根っからの土地っ子で、このごろは昔の話をする相手もなく、土地がらもがらりとかわったし、淋しがっていますよ。旦那とは話があいますよ、きっと。おっつけまいりましょう」
その「うちのひと」はまもなくあらわれた。それからが大変、二人は何かにとりつかれたようにしゃべった。三社祭の一の宮、二の宮、三の宮のお神輿の勇ましかったこと、馬道から猿若町へ曲がるところに交番があって、これが煉瓦造りになった時は、子供心にも町なかへ鶴が降りたように珍しがったこと、その猿若町には、その頃はまだ芝居の裏方や小道具大道具の職人が住んでいたこと。
馬道から田町になる境の四角に「大かつ」という大きな鬘屋があり、与三郎や五所五郎蔵がつけるものが、鬘台に干されて並んでいたこと。毎日買いにやらされた有名な大きな味噌屋はまだ二天門のそばにあること。小唄の「大津絵」にでてくる合力稲荷や袖摺稲荷の縁日のたのしかったこと。
七十になるおやじさんと私は、半世紀前の公園裏を、二人手をつなぎ、ガス灯のひともし頃をそぞろ歩きした当時の、町の幻想と思い出のとりこになっていたようだ。
話はかわるが、私がベルリンの大学で勉強中のころ、「ヤパン・インスチチュウト」(日本研究所)というのがあった。そこにキーファーさんという女学生が「日本の忠義」の研究をしていた。
その中心テーマを「忠臣蔵」からひき出そうとしていた。彼女は日本語は読めるが早くない。私もドイツ語がもう少しうまくなりたい。そこで、先生のひき合わせで二人が相互勉強をすることになった。
私が「実録忠臣蔵」をドイツ語で読むと、彼女はその当時の社会組織や封建性、ハラキリの倫理性など、むずかしい問題についてきく。互に納得ゆくまで話しあう。半年ほどのうちに彼女のドクター論文は出来あがり、私のドイツ語も少しは上達したようにおもわれた。
このレッスンのあと、二人はよくノイケルンの小さなカフェでひと休みした。そのおりおりの話のつながりから、彼女がチェコ系のユダヤ人であること、両親は最近プラーグからワルソーに移り、自分の生まれた街とはもうなんのゆかりもなくなった。ほんとうの「ハイマートローゼ」(故郷なき人) になってしまったことを私は知った。その祖先は二千年の昔祖国を追われ、また第二、第三の故郷を離れてゆかなければならないユダヤ人こそ、本当の意味のハイマートローゼンというのであろう。
五十年の回想に酔いしれて、私は町に出た。足は自然に思い出の方角に向ったが、そこにはもうなにも私の心を温め迎えてくれるものはなくなっていた。竹屋の渡しのあとも、待乳山の社も、樹々は一本もなく裸で寒々と立っていた。橋場の岸を洗う隅田川の水は、泥のようににごっていた。石浜、花川戸、田町など、町の名のみは残っていたが、私達を育ててくれた土も樹も水もいまは失せて、全く別ものの町がそこにはあった。
私も「ハイマートローゼ」だろうか。その帰途、私はキーファー嬢を思いだしたのである。彼女の悲しみがどんなに深いものか思い知らされたのである。
彼女からはもう二十年も音信がない。ヒトラーのユダヤ人虐殺から、はたして逃げおうせただろうか。(「室内」1962.7 月号)