評伝「新編・山口文象人と作品」を出版2003

●波乱の建築家の評伝を執筆出版しました

伊達美徳

山口文象(やまぐち ぶんぞう)という人をご存知でしょうか。わたくしが社会に出て最初に就職した設計組織「RIA」(現:株式会社アール・アイ・エー)の、創立者である建築家です。

彼は20世紀の始まりと共に大工棟梁の子として浅草に生れ、建設現場見習いからその才をもって建築家を目指し、20世紀の前半の建築界の最先端をまっしぐらに駆け抜けて、著名な建築家としての地位を築いたのでした。

戦後は、建築デザイナーと運動オルガナイザーとして己が身の才の相克に悩みながらも、20世紀産業社会に対応する都市計画と建築設計の協同組織「RIA」(現㈱アール・アイ・エー)をつくりあげました。

彼の建築作品は、そのプロポーションの美しさと、見えないところに凝る詳細さが身上であったと、わたくしは思っています。いかにも江戸っ子の感がいたします。

現今、土木にもやっとデザインを言うような世の中になり、建築家もそれに参画するようになりつつありますが、山口文象は日本の建築家としては、黒部ダムや清洲橋のような土木構造物のデザインに1920年代という早くに取り組んだのでした。

このたび、建築家の、山口文象氏の評伝・年譜を、『新編 山口文象人と作品』(伊達美徳著、アール・アイ・エー発行)と題して刊行(南洋堂から市販)しました。

「新編」とついているのは、以前に『建築家 山口文象 人と作品」(RIA編著 相模書房刊)として出版したものがあるからです。当時RIAに所属していた私は、その制作・執筆・編集を担当したのでした。

その上梓から21年、その後に公開や発見された資料や新事実もあるし、当時に積み残したRIA資料や私の収集資料もあるので、改めて新たな評伝を出したいと思っていたのでした。

このたびRIA創立50年を記念して刊行の機会を得ましたので、前著をベースにしながらも、新たに書き直し、補綴、再編集をし、普及版として上梓しました。

その基本方針は、できるだけ当事者の言葉をもとにして、山口の足跡とともに日本近代建築史のなにほどかを編むことです。もちろん、当事者の言葉が正確な事実とは限らないこともありますが、それも歴史であるとしておきましょう。

その足跡をたどることは、日本勃興期における市民階層の高揚をみることができるとともに、もうひとつの日本近代建築史をたどる思いがしています。

このたび特に思いを強くしたのは、山口文象がリーダーとなって1923年に興した創宇社建築会を、改めてしっかりとたどりたいということでした。

下積みの製図工たちだったその同人たち、ひとりひとりの足跡を追って、その後どのような人生を歩んだのか、それをたどれば日本の近代化とはなんだったか、見直す契機にもなりそうに思います。

だれか若い研究者がそれをやるときが、もうすぐ来るでしょう。それは建築史系よりも、社会史系の人かもしれません。

お手にとる機会あれば、ちょっとドキュメンタリータッチの波乱の人生模様をお読みください。(南洋堂から市販)(2003/10/12)

●建設工業新聞に紹介されました(2004年2月20日(金)の記事を引用)

『新編 山口文象 人と作品』を刊行

「波乱の建築家」通して近代建築史を書く

伊達美徳氏 伊達計画文化研究所

隅田川に架かる清洲橋、あるいは黒部ダム。02(明治35)年に生まれ、78年に76歳で生涯を終えた建築家山口文象の作品である。日本近代建築の囁矢(こうし)である分離派建築会に次いで創宇社建築会を結成、建築のみならず先の土木デザインにも秀作を残した。RIA(現・アール・アイ・エー)の創立者でもある。

その山口を伊達美徳氏(伊達計画文化研究所)が21年前にRIAで『建築家 山口文象 人と作品』として編著上梓(じょうし)し、それに今回「新編」として新たな資料を加えて著した。山口の波乱の生涯を、「日本の近代建築史を一人の人間を通して書きたかった」という年譜形式の評伝である。

戦前に活躍、戦後はRIAを創立

「山口は20世紀の始まりとともに浅草に生まれ、大工見習いから身を興し、20世紀前半の建築界の最先端をまっしぐらに駆け抜け、著名な建築家としての地位を築きました。戦後は建築デザイナーと運動オルガナイザーの相克に悩みながら、20世紀産業社会に対応した都市計画と建築設計組織RIAをつくりあげました」

この間を歴史的流れでみると、職工徒弟学校、清水組、逓信筈、分離派建築会会員、創宇社建築会結成、内務省復興局、石本建築事務所、新興建築会連盟創立に参画、渡欧、グロピウスに師事、帰国、山口蚊象建築設計事務所を開設、山口文象と改名、これが45年までの戦前である。戦後は新日本建築家集団に参加、山口文象建築事務所を解散、RIA建築綜合研究所設立となる。

作品としては出世作日本歯科医専・附属病院」(34年、32歳)のほかに「黒部ダム発電所」(38年)がある。いずれもインターナショナルスタイルである。さらに和風の「山口自邸」や「林芙実子邸」(40年)があり、これらが戦前までの作品で、戦後の主要作品に「久ケ原教会」(50年)がある。

山口の歩み通して近代化の見直しを

「山口の本質は建築デザイナーであって、運動オルガナイザーではない。RIAをつくってからも、一般的にいう経営者ではなかった。実は創宇社などの運動オルガナイザーというレッテルを剥(は)がしたかったのだと思います。それがなくなったのが32年にヨーロバから帰ってきてからで、そこから建築家として大きく飛翔(ひしょう)していくのです」

「山口を見ていると、時代の申し子だったと思います。堀口捨己など分離派のメンバーは東大建築学科卒の超エリートですが、山口のように大工見習いから功成って名をとげた建築家はほかにいません」 (伊達注:記事で大工見習いと書いてあるが、現場見習いの誤まり)

「そうしたことを含めて下積み製図工だった創宇社の同人たちが、その後どのような人生を歩んだのかを追っていくと、日本の近代化を見直す契機となると思います。それは建築史系よりも社会史系の研究かも知れません」

「それに山口が活動した時期は、日本勃興(ぼっこう)期に市民階層の高揚をみた時でもあるので、そうした出自による比較研究をやってみたい。そこからもう一つの日本近代建築史がたどれると思います」

伊達氏は37年生まれ。東京工業大学で建築史を学び、61年から89年までRIAで主に計画部門を担当後、伊達計画文化研究所を主宰。晩年の山口文象に接している。

「まじめで機をみるに敏で、人に好かれる人でした。それだけにいま生きていたら現代をどう思うかに関心があります」。

『新編 山口文象 人と作品』は、創立50年記念誌としてRIA刊。頒価1500円。

問い合わせは南風舎(電話03・3294・9341)。 (以上、引用)