RIA創設の建築家 山口文象の生涯

注:小論は、雑誌『新建築・別冊』2013年11月号「まちをつくるプロセス・RIAの手法」に掲載した。

アール・アイ・エー創設の建築家 山口文象の生涯

文-伊達美徳

序走の時代

20世紀がはじまるとほぼ同時に、山口文象(1902年-1978年)は76年間にわたる生涯を、東京の浅草に出発しました。大工棟梁の実父と鳶職の養父に育てられた少年時代は、江戸からの職人の旧世界に包みこまれており、そのまわりには華やかな浅草文化、さらにその外を日本の勃興期の高揚してゆくエネルギーに満ちた新世界がとりまいていました。

山口文象の生涯は、その旧世界の殻を破って新世界への脱出を図り続ける道程でした。

小学校を出て府立一中をめざすのですが、大工の子は大工にと職工徒弟学校に入れられて、最初の脱出には失敗します。ここでひととおりの建築技能を学んで、清水組に就職して建設現場で社会に歩みたのが1918年、16歳でした。

ところが2年ほどで突然に、勤め先の名古屋を出奔して東京に戻ったのです。建築家になりたい一心での脱出行でした。大正デモクラシーの空気と、彼の向学心による上昇志向が、多感な少年の胸に建築家への夢を育てたのでしょう。

1920年は世界的な恐慌時で職さがしは難航しましたが、やっと就職した先が逓信省経理局営繕課の製図工でした。以後の山口の人生コースを見ると、偶然にも旧世界からの脱出口をここに確実に発見したのです。

逓信営繕は、山口にとっての建築家学校でした。周辺にたくさんいる帝大出の新進エリート建築家たちが教師です。山田守に引き立てられ、分離派建築会のメンバーに啓発され、岩本禄に兄事し、そなえている才能が芽を出していきます。

学友ともいうべき製図工の仲間とともに、昼は帝大出の高等官建築家に学び、夜や休日は絵画や外国語を塾や夜学に、時にはもぐり大学生ともなって学び、建築家への夢に気負いたっていました。

才能があり努力もした山口の能力は次第に認められ、上昇志向をもって臆することなく動き回る山口文象のまわりには上昇気流が舞いはじめます。

離陸の時代

1923年の関東大震災を契機に、山口文象の身辺はあわただしく新展開を始めます。この年、エリート集団の「分離派建築会」の同人に迎えられて、その得意と緊張とそして気負いは大変なものでした。ついに旧世界を脱して新世界がほほえみかけてきたのです。

その余勢をかったように、震災の煙がまだおさまらぬ中で、製図工仲間を率いて「創宇社建築会」を興したのです。エリートたちの分離派建築会にならって、たびたびの展覧会を開催して建築設計の習作を発表するだけでなく、建築競技設計に応募したり、有名建築家たちを招いて講演会を催して山口も自説を述べるなど、建築界の話題となって行きます。

震災後に雨後のたけのこのごとく数多くの芸術集団が発生しましたが、彼らと交流して山口の世界は広がりました。

震災復興のため、内務省に帝都復興院が設けられると、上司の山田守がその橋梁課に移りました。その山田のひきで山口も嘱託技師となり、東京や横浜の数多くの復興橋梁のデザインに取り組みました。隅田川に今もかかる清洲橋がその代表的なものです。

さらに日本電力の嘱託技師ともなって富山県の河川の発電用ダムのデザインにもかかわり、土木デザインに積極的に関わった建築家として先駆者のひとりといえます。

1926年から分離派建築会の縁で親しくなった石本喜久治のもとで、朝日新聞社屋や白木屋百貨店などの数多くの設計にたずさわり、めきめきと腕をあげていきます。

この頃の創宇社建築会活動を通じての建築、土木、美術、文学そして左翼活動などの幅広い交流から、山口の上昇志向に追い風が吹きはじめて、この後の建築家であり運動家の山口文象を支えることとなるのです。山口が建築家として出発をした時期ですが、左翼的な思想も持ちはじめ、石本の下を離れて独自の道を模索しはじめます。

そこで彼は、ヨーロッパ遊学という実に壮烈なテイクオフを実行したのでした。それは仕事を通じて山口文象の才能を見込んだ日本電力の石井頴一郎技師長のうしろだてで、黒部川のダム関係の技術調査の仕事にかこつけたようです。

飛翔の時代 1930年末から約1年半の滞欧期間中に、カールスルーエ大学で黒部ダム関連の調査をし、当時ベルリンにいた左翼系日本人たちとの交流をし、ヨーロッパ各地をめぐって古典建築を見て回りしました。 最大の収穫は、その当時の世界建築界のリーダーだったワルター・グロピウスのアトリエで働いたことです。世界で最も先進的なモダンデザインを習得したのでした。 1932年夏に帰国した山口文象は、かつての建築運動家から当時の言葉で「新興建築家」に衣替えして、ヨーロッパ最新デザインを持ち込んで、爆発的に設計活動をはじめます。 日本歯科医科専門学校を出世作として、番町集合住宅、山田智三郎邸、黒部第2発電所、黒部小屋平らダム等の作品で、「国際建築様式」に通暁したスター建築家となっていきます。 東京下町を脱出して山の手に暮らし、丸の内の赤レンガ街に「山口建築事務所」を設けて、ついに浅草の旧世界からの脱出に成功したのでした。 そのモダンデザインは白い箱の外観のプロポーションの美しさばかりが話題になるのですが、山口は「プランのできていない建築は、建築ではない」とよく言っており、自分の建築作品をささえているのは新しいプラニングであり、考え抜かれたディテールであり、そこに盛

りこまれた先進的な手法を評価してほしかったようです。 山口にはこれらのいわば表の顔としてのモダンデザインの系譜のほかに、裏の顔とも言うべき数寄屋から民家へと流れてゆく和風デザインの系譜があります。その 出自からして身についた技となっている日本建築は、彼にとっては旧世界のものですが、二つの系譜が同時期に並行しています。 山口文象の30歳代の1930年代は、やりたいことをほぼやりつくしてしまった感があるほどに、質的にも量的にも充実した時期でした。 しかし不幸にも1941年に太平洋戦争が始まると、仕事は縁戚関係で得た軍需工場関係の仕事が主となり、反戦左翼を自任する山口には苦いことだったようです。 戦争が終わると仕事はなくなってしまいます。せっかく自分をのせた新世界ではあたりまえの変わり身と泳ぎのうまさを、生まれながら身にしみついている旧世界の律義さが邪魔をして、学閥も門閥もない山口の戦中戦後の約10年間はブランクの時期でした。

止揚の時代

1945年に戦争が終わり山口事務所のスタッフが軍隊から復員してきても仕事はなくて、とうとう1949年には解散に追いこまれました。

ここで山口は、建築家から運動家に戻って再出発の二つの道を探るのです。そのひとつは、1950年に画家の猪熊弦一郎らと図って、美術団体の新制作協会に丹下健三や池辺陽などをひきこんで建築部を起こします。美術、工芸デザイン、建築等を横に結んで、運動家山口文象として外に広がる世界でしょう。 もうひとつは、その翌年に若い建築家たちと共同する「RIA建築綜合研究所」を結成しました。RIAは手も口も達者な植田一豊、三輪正弘、近藤正一たちの若者を縦に結んで率いて、建築家山口文象として内にひろがる世界でしょう。 RIA(Research Institute of Architecture)は、かつての山口の師・グロピウスが、亡命先のアメリカで組織した建築家共同体のTAC(The Architects Collaborative)に啓発されて結成されたのです。共同体としての建築設計組織を標榜して、戦後デモクラシーの産物と言えます。その故に建築運動としての動きも持ち、共同設計による建築デザインを模索し、生活像を提案する住宅でモダンリビング運動を展開していきます。 山口文象にとって1950年代は運動家と建築家との止揚をとげて、1930年代と並ぶピークの時期でした。 やがて「グループ」は組織として動きを持ち、株式会社となっていくと、組織自体として自律的に成長をとげるのは自然のことです。1960年代に入ると、高度成長社会の中で建築運動は行きづまりをみせ、設計組織として体制がととのえられてきます。 山口文象は、手練の建築作家としての自己、育ってきた組織体の長としての立場、さらにこの頃からはじまる病魔との間で、次の相剋がはじまりました。 そこで、病に小康をえた1970年代から、自分はやはり作家としてものをつくろう、いわば1940年代への回帰をはかろうと、再試動をはじめたころの初夏のある日、20世紀とともに歩んだ76年の鼓動は卒然として止んだのでした。 山口文象の戦後最大の作品「RIA」は、近藤正一に率いられて「㈱アール・アイ・エー」に成長していきます。

参照

建築家・山口文象+初期RIA(伊達美徳)

まちもり通信サイト(伊達美徳)