1902-20少年時代

1902年ー20年 山口文象の少年時代

●山口文象の少年時代 伊達美徳

(『新編山口文象人と作品』伊達美徳 2003年 アールアイエー より引用)

1902年(明治35年) 山口滝蔵が東京下町の浅草に誕生

山口文象は、自分の生地、東京市浅草区田町1丁目(現・台東区浅草5丁目)についてこう語る。

「浅草公園の裏のほうに、昔の売春地区で有名な吉原がありまして、その吉原と浅草公園のちょうど真ん中あたりになりますね。公園のすぐ裏に小さな堀がありまして、堀の近所はずっと三業地帯で、芸者屋だとか料理屋だとかがありました。この区域を少し先に行きますと、よく歌舞伎に出てくる馬道から吉原土手ですが、そういう空気に包まれた土手の近所が貧民窟になっていました。その土手のふもとで生まれました。今で言うスラム街ですね」(「兄事のこと」対談集『建築を巡る回想と思索』新建築社1976)

二十世紀が始まったばかりの1902年1月10日、のちに建築家山口文象となる山口瀧蔵が、近代勃興期からの日本の浮沈にもまれる波乱の人生を歩みだした。

父・山口勝平、母・いち(ム稔)の4男3女は、上から順に、ふく子、ひで子、九市(くいち)(後に順三)、瀧蔵(後に文象)、儀(かたち)(後に栄一)、ひろ子、進三郎。

祖父・山口源右衛門は新潟出身の宮大工で、茨城県石下町で仕事をしていたが、明治中ごろ東京浅草に転居した。父・勝平も腕の良い大工であり、清水組(現、清水建設)の月番棟梁12人のうちのひとりであった。(『清水建設兼喜会五十年』清水建設)

長兄の順三は、中央工学校を出て腕のよい大工となり、山口文象(以下「山口」という)や彼の周辺の建築家が設計した和風木造住宅を数多く施工している。山口は少年時に、この順三によって、建築家への目を開かせられたという。

次弟の栄一は、東京美術学校に進み、創宇社建築会同人となり、山口建築事務所の一員として、兄弟で最も山口の身近で生きた。末弟の新三郎は画家を目指したが夭折した。

建築評論家の長谷川尭は、山口の語る下町について、こう論じている。

「私たちは、山口が自らの生地について語る「スラム」という言葉の、凄惨な響きに、あまりとらわれてはならないのかもしれない。・・・少なくとも明治から大正にかけての東京の浅草は、そのような単純な言葉で整理できるような惨めさだけの生活環境ではけっしてなかったことは、ここで一応注意しておかなければならない。実はそのことが、後の山口文象の建築家としてのめざましい成長に深いかかわりを持っていると思われるからである。ひとことでいえば浅草には「文化」があった、ということになるかもしれない。それは最高級のものとはいえないまでも、最先端のものであった。・・・山口文象は、子供のころよく隅田川で泳いだと語っていた。もし「六区」に「未来」があり、吉原に彼の「過去」があったとすれば、隅田川のゆったりした清流には少年文象が裸身をひたすべき「現在」があったということができるかもしれない」(「浅草文化の中で」『建築家山口文象人と作品』相模書房1982年)

1909年(明治42年) 区立富士小学校に入学

浅草区立富士小学校に4月に入学したが、その下町の学校の環境を、山口は回想して語る。

「そこで私の小学校は、いま公園の裏に象潟警察著というのがあります。犯罪の非常に多いところですが、その警察署の前に富士小学校というのがありまして、そこを大正4年に出ました。生徒は大体、花柳界やスラムの連中だとか、そういうものの学校だったんです」(「兄事のこと」対談集『建築を巡る回想と思索』新建築社1976)

1910年 明治43 8歳 岡村家に養子入籍して岡村瀧蔵となる

岡村幸三郎、きん(母方の叔母)夫婦に子がなく、きんにかわいがられた山口は養子として入籍した(12月)。幸三郎は鳶職の頭で、背に刺青、芸者遊び、寄席を開くなど下町気質の道楽者であり、山ロも清元などを習わせられたという。

山口・岡村両家は同じ田町にあって往き来していて、岡村家に完全に移ったのでもないようである。この田町の岡村家について、山口はこう回想している。

「場所が場所でしょう。吉原だの、芸者屋だの、寄席だの、芝居小屋だのの真っ只中ですからね。・・・僕はそういうものの裏を隅から隅まで見て育ちましたから、芸者だの料理屋だの待合だの、水商売の女も男もだいっ嫌いです。ぜったいに嫌いです、今でもホステスなんかいる所は嫌いです」(「職工徒弟学校の頃」『室内』1975年8月号)

後に創宇社の仲間になった建築家の竹村新太郎は語る。

「私が山口さんの家に初めて行ったのは、浅草田町で、玄関土間には大きな纏が置いてあり、太いロープだとかスコップだとか、鳶土方の使う道具がたくさん置いてありました。震災のあくる年ですからね、二階をお神楽で建てて、二階を自分の部屋にしていました」(「創宇社建築会同人たちのこと・山口文象」『竹村文庫だより』9号 1995年)

1913年 大正2 11歳 この頃から蚊象と名乗り、実父を手だすけ

瀧蔵少年は実父勝平の大工仕事の手助けをするようになったが、この頃、姓名判断にこった勝平 は、兄の九市を順三に、瀧蔵を文三に、弟の儀(かたち)を栄一と改名さた。

当の山口瀧蔵少年は、当時の噺家の林家文三と同名なのを嫌い、生き物の大小両極端をあわせて「蚊象」(ぶんぞう)と名乗り、この通称は40歳まで使った。

山口の氏名の変遷は何回もあり、生れたときの戸籍名は山口瀧蔵、8歳から戸籍名岡村瀧蔵、10歳頃から通称の岡村蚊象、28歳から戸籍名は山口瀧蔵だが通称は山口蚊象、40歳から通称山口文象(ぶんぞう)としていたが、55歳から戸籍名も山口文象にした。

1915年 大正4 13歳 小学校を卒業、職工徒弟学校に入学

後年の山口の話では、3月に小学校を卒業して、当時のエリート校の東京府立第一中学校(後の日比谷高校)に進学する、させないの騒ぎがあった。

「私はガキ大将で優等生ではなかったんですが、先生が「おまえはどうしても中学に行け」というのです。この小学校で中学に行くなんていうのは、いまの大学へ行くよりもっと珍しかったんです。・・・ところが両親は「とんでもない話だ、小学校以上の学問をすることはない、お前はすぐ働いてもらわなきゃならないから大工の小僧になれ」というのです。・・・一中を受けに両親に秘

密で参りましてね、受けたところが、何か間違って入学しました。・・・おふくろと親父がどうしても「とんでもない話だ。われわれの階級で中学に行くなってもってのほかである」と断然承知しません。・・・そんなわけで中学を断念しました」(「兄事のこと」対談集『建築を巡る回想と思索』新建築社1976) 4月に入学した東京工業高等学校附属職工徒弟学校は、現場の実務仕事を教えるところで、1886年(明治19)設立の東京商業学校付属の「商工徒弟講習所」として始まり、1890年に東京職工学校付属「職工徒弟講習所」となり、改称して「職工徒弟学校」、翌年には東京高等工業学校(現・東京工業大学)付属となった。学校の目的は「職工」の訓練機関で、当初は木工と金工の2科で、後に機織、電気、色染、漆工。窯業等の各科を加えた。 山口は木工科大工分科に入ったが、この年の入学者数102名(志望者343名)、3年後の同クラス卒業生はこのうち75名だった。(「東京工業大学六十年史」、『東京高等工業学校一覧』等) 後年、山口はラジオ放送で職工徒弟学校のことを回想する。「悲観も悲観も大ショック・・・少々ヤケ気味になっちゃって・・・勉強なんかほとんどやらなかった::あぶなく落第::それで心を入れかえて、二年生から一生けん命勉強した。勉強といっても、あそこは3年制なんですが、要するに大工の小僧を年季奉公がわりに養成する学校だから、英語も建築歴史も教えてくれない。毎日毎日、ノミ、カンナノコギリのけいこです。ズックのカバンの中には、そんなものしか入っていない」(「建築夜話ー下町かたぎの建築家」1967年7月日本短波放送、再録、1978年6月19~30日『故山口文象追悼対談再録』) この学校の同級生に、田中正蔵(後に横河設計会長)がおり、後に山口の建築構造設計の協力者となる。

1918年 大正7 16歳 清水組の定夫となる

3月に職工徒学校を卒業、しばらくして実父の関係で清水組(現・清水建設)に定夫として就職した。

定夫は、日給制で現場単位雇用の不安定な身分であった。鶴谷達吉主任の下、東京キャリコや東洋モスリン等の現場で働く。

1919年 大正8 17歳 名古屋に転勤、雇員に昇格

9月ごろ、鶴谷主任が名古星の東洋モスリン現場に転勤し、山口もつき従って転勤し、常雇い身分の雇員となった。この30年後、山口は講演会でこう述べている。

「・・・9月頃だったと思いますが、::その昔の清水組の名古屋支店詰を命ぜられまして、・・・現場監督員になって行きました。請負会社では、監督員でなくて店の代理なのでありますから、砂利を受け取ったり、左官屋に頭をなめられたり、そういう小憎みたいなこともしておりました。そのとき、私は絵描きになろうと思ったり、あるいは文学をやろうかと考えていたのでありますが、清水組の現場をやっておりましても、やはり芸術的なものをやりたいという気持があったわけで、結局デサインが自分の性に合っているから設計者になりたい、というような考え方を持ってきたのであります」(講演「創宇社の頃」NAU近代建築運動史講座1949年10月21日講演速記録 未公刊)

建築評論家・佐々木宏との対談で山口は回想して語る。

「建築をつくる、これには「造る」と「創る」のふたつがございます。建築をつくるということは広く意味を持っている。私の経験は、はじめから三角定規やかんなをつかって、つまり最初は触覚から建築をつくることから出発しております。セメントを混ぜたり、かわらを屋根の上に運んだりして、「造る」ことからはじめたのでございます。だんだんやっているうちに、そのような仕事の積み重ねだけで建築はできるのだろうかと、疑問を持ってまいりした。造られた空間の中で人間がどう生活し、われわれがどう動くか、そういうことをトータルに総括する空間、それが建築ではないか、と考えるようになりました」(対談「建築をつくる」日本建築家協会1976年10月13日 編者所蔵録音テープ)

編者(伊達)が山口から直接聞いた話では、名古屋の都心で小さな銀行(1965年頃、編者は名古屋で山口文象に案内されたことがある)の現場にいたとき、洋式建築の銀行(長野宇平治設計の当時の明治銀行名古屋西支店か)を見て感激、建築家に憧れたという。

1920年 大正9 18歳 清水組を退職、東京へ戻って就職活動

建築家への憧れやみがたく、鶴谷に主任に謝って、ついに清水組をやめて東京に舞い戻った。実父・勝平からは、恩義ある清水組を勝手に飛び出したと叱られて勘当同然となる。折から経済恐慌の時期でもあり再就職は難しく、しばらくは放浪状態であった。

この間の就職運動について、山口は後にラジオ放送で語る。

「名古屋を出奔いたしまして、建築家になろうとして帰ってまいりましたが、お金がなくなんとかしてどこかに就職したいので、丸の内の中條先生の建築事務所にまいりました。当時一丁ロンドンといわれた通りのレンガ造りの長屋の中で、曽根・中條建築事務所がありました。純粋に民間の建築事務所で、2人の協同でした。中條精一郎先生の作品は、銀座の交詢社、神田のYMCAなどです。わたしは中條先生を尊敬しており、雇ってくださいとたずねたのです。雇えないけれど、いろいろと紹介をしていただき、あちこちに参りましたが、断られ続けて最後に逓信省の営繕課にまいり、中條先生の紹介状を出しましたところ、ちょうどひとり欠員があるから採用しようとなり、逓信省に入りました。製図工で日給が30何銭かでした」(「建築夜話ー下町かたぎの建築家」1967年7月日本短波放送、再録、1978年6月19~30日『故山口文象追悼対談再録』)

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