1936年 青雲荘アパート・友愛病院診療所
・建物名称 青雲荘アパート・診療所
・建設場所 東京
・竣工時期 1936年
・資 料 「アパート第一作―診療所をもつアパート」:『国際建築』1936年7月号)
『財団法人日本労働会館六十年史』1991年 財団法人日本労働会館発行
・写真、図面等
1936年竣工時の青雲荘・友愛病院写真(RIA所蔵)
コンドル設計の惟一館を改修した日本労働会館の北隣に建つ青雲荘・友愛病院
(RIA所蔵の竣工時の写真と友愛労働歴史館所蔵の写真を合成)
戦災で焼失した日本労働会館跡地に1949年に竣工した
山口文象設計の総同盟会館と全繊会館(スケッチ)
1960年頃?の焼け残り改修青雲荘、総同盟会館、全繊会館
焼け残り青雲荘を改修して再利用している芝園食堂(1964年)
隣の工事中の建物は総同盟会館・全繊会館の取り壊し跡地に建つ友愛会館
・資料:「財団法人日本労働会館六十年史」
(1991年 渡辺悦次著 日本労働会館発行 )抜粋
102ページ
第三節 アパート青雲荘と友愛病院の設立
一、低利融資の申請、許可まで四年越し
労働者アパート建設の低利融資を申請
一九三二 (昭和七)年十一月、財団法人日本労働会館は理事長松岡駒吉の名で大蔵、内務両大臣あてにアパート建設のための低利融資の貸付を東京府を通じて申請した。これについて翌年五月に開催の「昭和八年度総会」において臨時部予算にアパート建設費として一〇万円を計上、労働者のための安い住宅確保の事業に取り掛かった、と報告された。その建設のための低利資金貸付申請書、アパート建設の構想は次のとおりである。アパートは会館に隣接して建てるほか、新宿方面と大崎方面の、都合三つを建設しょうという壮大な計画であった。
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労働者アパート建設低利資金貸付申請書
一金 拾万円 也
都市在住労働者の住宅費は其の生計費の二割以上を占めしかも交通費の増大は更に其
の生活苦を加重しつヽあります。本財団は此の事実に鑑み専ら熟練労働者並下級俸給者
の為に快適にして安易なるアパート住宅を建設し概略左記の如き方途に依り之を遂行せ
んことを計画致しました。何卒特別の御詮議に依り右低利資金を速に貸与下さいますや
う此段申請致します。
昭和七年十一月 日
財団法人 日本労働会館
理事長 松岡駒吉
大蔵大臣 高橋是清 殿
内務大臣 山本達雄 殿
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〔別紙〕
一、アパート建設費
建設費用総計 金 拾万 円
但 建設場所三ケ所
木骨コンクリート建三階
一坪当平均壱百拾円也宛
右 内 訳単位円)
一、地上権取得費(二百坪) 五〇〇〇
二、建築費
第一アパート 延坪三〇〇坪(芝区三m四国町二)
第ニアパート 延坪三〇〇坪(目下土地選定中)
第三アパート 延坪二〇〇坪( 同 )
三、設備費一切 七〇〇〇
〔以下原資料欠〕
一九三五 (昭和十)年に融資認可
一九三五 (昭和十)年五月三十日、前述の一九三二 (昭和七)年十一月に内務大臣宛に東京府を通じて借り入札を申請していた社会事業低利資金一〇万円に対して囚万五、〇〇〇円の貸付認可の通知があった。
この貸付認可の経緯、一〇万円借入計画が四万五、〇〇〇円になった経過について当時の新聞は次のように報じている。
四年越の念願叶ひ総同盟が家主さん
うらぶれた組合旗も臆て エプロンに蘇る?
財団法入日本労働会館理事長といふよりは総同盟の松岡さんで通る松岡駒吉氏の四年越しの努力が報いられて、同会館が経営主でモダンなアパートが建築さ牡下級サラリーマンや熟練労働者に快適な住居を提供しようといよ計画が愈々実現する。
労働組合がアパートの家主さんになるのは恐らく日本ではじめてであらう。
松岡氏が労働会館を基礎として「働く者」のアパートを建設しやっとプランをたてたのは昭和七年で、はじめは予算十万円で会館傍に一つ、新宿、大崎方面に二つ。合計三つのアパートを建てる計画で、同会の理事会、評議貝会で発表したが満場異議なく可決された。
早速東京府を経て大蔵省に低利資金の借大方を申請したが仲々お役人が取合って呉れず、それから毎年申請をし続けて来たが通らず、やっと昨年末になって土万円は貸せぬが四万五千円位なら何とかするといふ返事なので、早速アパートを一つに減らし芝区三田四国町二の六の労働会館側百二十坪の敷地に建築することに決め、府から内務省社会局を経て大蔵省に書類を提出、この程内務省でも認可を与へたので今月末には借入手続一切が完了することになり、松岡氏も元気づき近頃は毎日慣れぬ手つきでアパートの設計図を書いてゐる。
それによると五十位の部屋を持つ鉄筋コンクリート三階建のアパートー棟と、木骨コックリート二階建の診療所一棟、合計二百七十坪といよ相当なもので、部屋の設備なども近代化し、真面目な熟練労働者や下級俸給生活者をメンバーに獲得、組合員でなくてはなどといふ規定は設けず誰れでも歓迎しカップルでも結構といよ砕けた家主振り。
敷地が同財団の所有地であるから地代は不要、付近には大工場、官衛が多く交通も便利だから部屋はいつも満員といよ皮算用で一ヶ月六百円の部屋代をあげ、一ヶ年に四千円位の純益を得て十年後には同財団のものとなるので、同財団の財源となる一方、労働者の宿舎も出来るといふ仲々遠大な理想を持つ家主さんでもある。
松岡さんは設計図を前にし乍ら
都市に住む労働者の住宅費はその生活費の二割以上を占め、その生活難を脅かしてゐる。
私は専ら熟練労働者のため快適で安易なアパート住宅を建てたいと思って、四年越しうるさい程当局に願ひ出たんですが。
今度愈々借入が認可されて愈々建築に着手することの出来るのは何とも喜ばしい。
と言ってゐるが設計が出来上り次第早速工事に取掛かり今年末には出来上るといふ。
赤い組合旗の翻る下、浦洒なアパートなど「働く人々」の朗らかプロフィルが現れるのは一寸微笑ましい風景である。
松岡駒古所蔵7 クラップの一九三五・昭和十年の記事 新聞紙名、発行月日不詳)
松岡理事長の卓越した先見性、目的の実現に向かって粘り強い努力を重ねていたことの一端が伺いしれる記事である。
東京府を通じて来た貸付決定言は次の通りである。
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昭和十年五月三十日
学務部長
東京府書記官 自戸半次郎
芝区三田四国町二番地六
財団法人日本労働会館 御中
住宅建設資金貸付二関スル件
曩ニ借入申込相成候標記ノ件金四万五千円也貸付決定相成候条左記御了知ノ上
請求書提出相成度
記
一、借入ヲ了シタルトキハ別紙貸借契約ヲ締結スルコト
ー、右公正証書作成並ニ抵当権設定ニ要スル費用ハ貴会ノ負担トス
以上
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この住宅建設資金貸付通告にもとづいて五月三十一日付けで「住宅建設資金借入申請書」、「財団法人日本労働会館住宅建設資金貸借契約書」を提出した。借入申請書は次の通りである。
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財団法大日本労働会館の活動
住宅建設資金借入申請書
一、借入金額 金四万五千円
二、資金ノ用途 アパート建設
三、償還方法 昭和十二年十一月一日迄据置爾後昭和二十八年十一月一日
迄二半ケ年賦償還
四、完済期限 昭和二十八年十一月一日
右借入致度償還年次表、同財源表添付此段申請候也
昭和十年五月三十一日
東京市芝区三田四国町二番地六号
財団法人日本労働会館
理事 松岡駒吉
東京府知事 横山助成殿
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病院経営を計画
この低利資金の借入申請書の使用目的には病院経営のことが一宇も書かれていないが、この申請を出してから許可の出るまでの間に、松岡理事長を中心に実費診療の病院経営を計画、それを実現するために具体的な計画をすすめた。
その病院経営に乗り出そうとした背景には、この間の財団としての実力の充実、実績があった。一方、国内情勢は、一九三一(昭和六)年九月に勃発の「満州事変」によって準戦時体制が強まっていった。このため労働者は長時間労働などの労働過重がひろがり、その健康、医療問題が国民の大きな課題となり、勤労者、低所得者層が診療を受けられるような医療費の低減、「医療の社会化」が叫はれるようになった。
松岡理事長ら財団幹部はこの状況を観て取り、アパート経営と共に病院の建設、経営を計画、推進することにした。こうしてアパート建設と病院建設とが同時に取り組まれることになったのである。
申請書の「資金ノ用途」には病院建設とは一字も書かれていないのは、申請時には計画がなかったのと、開業医らの反発、反対を考慮しての当局側の指示に依るものと考えられる。
「医療の社会化」というスローガンは当時としては未だ「危険思想」に近いものとして考えられていたのである。
申請書の外に借入契約書も提出した。なお、契約書と申請書に記された償還年次表は次の通りであり、財源表は財団の財産目録の土地、建物と同一であるので省略した。
借入金償還年次表(借入額四万五千円)
(コピー略)
二、青雲荘と友愛病院の建設
理事会、建物の建設決定
財団法人は、低利資金貸付決定を受けて一九三五 (昭和十)年六月三十日に開催の理事会で
一、アパート、診療所建設資金借入の件
一、同上借入に付本財団本館を担保として登記の件
を審議、決定し、いよいよ建物の建設に取りかかることになった。
新進の建築家山口文象に設計を依頼
まずアパートと病院の設計は、ドイツで学んで帰国し、一九三三 (昭和八)年に日本歯科医学専門学校付属病院の設計で脚光をあびた新進気鋭の建築家山口文象に委嘱した。この設計の委嘱と入札の経過に就いて昭和十年度の『財団法人日本労働会館事業報告書』は次のように報告している。
診療所及びアパートの建築
さきにアパート及び診療所建築資金として、東京府を通じて申語中であった低利資金の借入は、十年五月三十日四万五千円の認可あり、六月一日松岡理事長東京府へ出頭して受領した。のち直ちに設計者の詮衡に入り大学、同潤会、一般設計家等に渉りその適任者を物色した結果、新進設計者として斯界の注目の的となってゐる山口蚊象氏〔のち文象となる〕の特別なる契約を得るに至り、十月設計終了と共に、請負入札をした。
入札に応じたる請負者は五社に及んだが、その妥当性を検討した結果、合資会社旗手組を最も適当と認めて十一月二十一日、三万五千五百円にて落札、契約を締結、調印を了へた。
建築家山口文象の横顔
この建物の設計をした山口に就いての略歴を山口文象はか著『建築をめぐる回想と思索』薪建築社、一九七六年刊)の中の「山口文象」、近江栄・藤森照信編『近代日本の異色建築家』(朝日選書、一九八四年刊)『建築家山口文1 人と作品』(相模書房、一九八一年刊)によって紹介しておく。
山口は一九〇二(明治三十五)年、東京・浅草の祖父が宮大工、父親が清水組大工棟梁の家に生まれた。東京府立第一中学校に合格したが入学式に出ただけで、父親の「われわれの階級で中学に行くなんていうのはもってのほかである」との二言で退学させられた。そして東京高等工従弟業学校付属職工学校木工科大工分科に入り、一九一八(大正七)年卒業、清水組定夫となった。建築家への夢が膨らみ、向学心強まり、清水組をやめ、親から勘当されるも新進建築家が集まっていた逓信省営繕課に職を求めた。そこで製図工をしながら上司の帝国大学出の建築家の指導を受け技量を磨いていった。
一九二三 (大正十二)年の関東大震災のときの翌年、復興局の嘱託技師となり、壊れた東京、横浜の橋の意匠デザインを多く手がけた。代表的なものに東京・墨田川にかかる清洲橋がある。このあと東京朝日新聞社社屋、日本橋の白本屋の設計主任などをしたが、さらに勉学のため一九三〇(昭和五)年にドイツに渡った。ベルリンエ科大学、ダロ7 ビウスアトリエに在籍し新しい建築学を学んだ。この間、在独の左翼作家藤森成告、演劇関係の千田是也、佐野碩らと交流した。一九三二(昭和七)年に帰国。帰国直後に日本歯科医学専門学校付属病院の設計で脚光をあび一躍新進建築家として認められた。一九三四(昭和九)年に出目文象建築事務所を開設。以後日本の代表的建築家として活躍。
戦後、一九五三(昭和二十八)年にRIA建築綜合研究所を開設。多くの建築を残し一九七八(昭和五十三年)に七六歳で逝去。
青雲荘、友愛病院の建設と建物の規模
友愛病院、青雲荘の建設は旗手組によって一九三五 (昭和十)年十一月から着工され、翌一九三六(昭和十一)年六月に完工した。
その建物は「一階全部九拾九坪一介八勺を経費診療所として使用する様設計し」、後出の平面図のように鉄筋三階建て部分と木造二階建て部分からなり、鉄筋一階に病院、その鉄筋に続く木造一階と二階、三階をアパートとし、室数は全部で三六室あった。
旗手組との「工事請負契約書」によると、建築の工期は「警視庁建築課ヨリ許可証下付ノ日ヨリ起算六ヶ月トス」であった。契約書には、松岡理事長の事業にとりかかる際の慎重さ、緻密さが各条文に惨みでており、事業を推進する場合の心構えを教示している内容であるので次にその全文を紹介する。
工事請負契約書
一、工事箇所 東京市芝区三田四国町弐ノ六
一、工事名 財団法人日本労働会館青雲荘アパート
一、請負全額 金三万五千五百円也
一、契約保証金 無シ
財団法人日本労働会館理事長ヲ甲トシ1 資会社旗子組 代表社員佐藤栄一郎ヲ乙トシテ右工事ヲ前記金額ヲ以ツア請負契約締結ス 其ノ条項左ノ如シ
第一条 乙八本工事ヲ左ノ期間内ニ竣工スルモノトス
警視庁建築課ヨリ許可証下付ノ日ヨリ起算六ヶ月トス
第二条 乙ハ契約締結ノ日ヨリ五日以内ニ工事実施ノ順序プ記載シタルエ程表ヲ作り甲ノ承認ヲ受クルモノトス
第三条 乙ハ別紙設計書並ニ図面及ビ前条ノ工程表ニ基キ甲ノ指揮監督ノ下ニ工事ヲ施行スルモノトス
乙ハ本工事ニ関シ前項ノ設計言及図面子記載ナキ事項ト雖工事ノ性質上当然必要ナルモノハ甲ノ指揮ニ従ヒ乙ノ費用ヲ以テ施エスルモノトス
第四条 乙又ハ其ノ代理人ハ常ニ現場ニ出頭シ工事ヲ担当処理スルモノトス
但シ甲ニ於テ其ノ代理人ヲ不適当ト認ルトキハ乙ニ於テ遅滞ナク交代セシムルモノトス
第五条 乙ノ負担ニ属スル材料ハ其ノ使用前甲ノ検査ヲ受合格シタルモノニアラザレバ之ヲ使用スル事ヲ得ス其ノ不合格品ハ遅滞ナク現場ヨリ持去ルモノトス
第六条 乙ハ工事竣工シタルトキハ直ニ甲ニ届出テ其ノ検査ヲ受クルモノトス
前項ノ検査ニ合格シタルトキハ之力受渡ヲ完フシタルモノトス 但シエ事ノ瑕庇ニ付テハ其ノ責ヲ免ルルコトヲ得サルモノトス
第一項ニヨル検査ノ結果改築又ハ手直シヲ必要ナリト認メタルトキハ一回限り相当期間ヲ指定シ第一条ノ竣工期限ヲ延長スルコトアルヘシ
第七条 工事ノ目的ニ対スル所有権ハ完成前ト雖工事施工ニ従ヒ逐次乙ヨリ甲二帰属スルモノトス
但シ目的物ニ関スル総テノ損害ハ原因ノ如何ヲ問ハズ前条第二項ノ受渡完了前ニ於テハ乙ノ負担トス
乙ノ持込工事用材料ニ関シテハ前項但書ヲ適用スルモノトス
甲ノ交付材料ハ乙ニ於テ善良ナル管理者ノ注意ヲ以テ之ヲ管理スルコトヲ要ス 其ノ亡失毀損ニ対シテハ天災事変其ノ他ノ不可抗カユ因ル場合ヲ除クノ外ハ其ノ責ヲ免ルヽコトヲ得ス
第八条 乙ガ毀庇修補セサルトキハ其ノ他本契約ヨリ生スル義務ヲ履行セサルトキハ甲ハ乙ノ負担ヲ以テ之ヲ執行スルコトヲ得ルモノトス
第九条 請負金ハ工事受渡後乙ノ請求ヲ受ケタル日ヨリ三日以内(休日ヲ除ク)ニ之ヲ支払フモノトス 但シ特別ノ事由アル場合ハ此ノ限りニ在ラス
甲ハ工事全部ノ受渡前ト雖部分検査ヲ終了シ受渡シタル部分ニ対スル代価ノ十分ノ九以内ヲ乙ノ請求ニヨリ支払フコトアルヘシ
第十条 乙ハ第一条ノ期限内ニ工事竣エセサルトキハ延滞一日毎ニ請負金額ノ千分ノ三ニ相当スル金額を違約金トシテ甲ニ納付スルモノトス 但シ工区毎ニ竣工期限ノ定メアルトキハ各別ニ之ヲ計算スルモノトス
前項ノ違約金ハ天災事変其他甲ニ於テ正当ノ事由アリト認メタルトキハ乙ノ申出ニ因り之ヲ減免スルコトアルヘシ
第十一条 甲ハエ事ノ変更又ハ増減ヲ為スコトヲ得 此ノ場合ニ於テ請負金額ハ乙提出内訳書ノ単価ニ依り若シ甲ニ於テ之ニ依ルコトヲ得スト認ムルトキハ甲ノ認定ニヨリ之ヲ増減ス
甲ハエ事ノ中止ヲ為スコトヲ得 此ノ場合ニ於テ乙ハ甲ニ対シテ何等ノ請求ヲモ為スコトヲ得ス
前二項ノ場合ニ於テハ甲ノ認定ニヨリ竣工期限ヲ伸縮スルコトアルヘシ
第十二条 甲ニ於テ必要アルトキハ本契約ノ全部又ハ一部ヲ解除スルコトヲ得
前項ノ場合ニ於テ甲ハ履行部分及甲ニ於テ必要ト認ムル乙ノ持込材料ニ対シ甲ノ相当ト認ムル金額ヲ交付シ之ヲ引渡ヲ受クルモノトス 其ノ他ノ材料機械工具等ハ乙ニ於テ遅滞ナク引取ルモノトス
第十三条 乙カ左ノ一ニ該当スルトキハ甲ハ本契約ノ全部又ハ一部ヲ解除スルコトヲ得
一、乙カ期間内ニ契約ヲ履行セサルトキ又履行ノ見込ナシト甲ニ於テ認定シタルトキ
二、乙カ正当ノ理由ナクシテ甲ノ指揮ニ従ハサルトキ
三、乙カ契約ノ履行ヲナスニ当り之ヲ粗雑ニシ又ハ品質数量ニ欺問ノ行為アリ或ハ不正ノ所為アリト甲ニ於テ認定シタルトキ
四、乙カ契約解除ヲ申出タルトキ
五、前各号ノ外乙力本契約ノ条項ニ背シタルト甲ニ於テ認定シタルトキ
尚乙ノ履行部分及持込工事用材料ハ甲ニ於テ相当ト認ル全額ヲ交付シ之カ引渡ヲ受クル
コトアルヘク其ノ他ノモノハ乙ニ於テ遅滞ナク引取ルヘシ
乙ノ責ニ帰スヘキ事由ニヨリ履行不能トナリタル場合ニ於テハ前項ノ規定ヲ適用ス 本
条契約解除ハ遅滞違約金ノ徴収ヲ妨ケサルモノトス
第十四条 甲カ乙ヨリ取得スヘキ金銭アルトキハ直ニ請負金又ハ契約保証金卜相殺シ尚不足アルトキハ之ヲ追徴スルモノトス。
第十五条 本契約ヨリ生スル乙ノ権利義務ハ之ヲ譲渡シ又ハ担保ニ供スルコトヲ得ス
第十六条 乙ハ前条ニ掲クルモノノ外日本労働会館ノ会計規則及入礼者心得ヲ尊守スルモノトス
第十七条 本契約ニ関スル訴訟ニ付テノ管轄裁判所ハ東京地方裁判所タルコトヲ合意ス
右契約ノ証トシテ正副各壱通ヲ作製シ甲乙各壱通ヲ保管ス
昭和拾年拾壱月弐拾壱日
事務所 東京市芝区三田四国町二番地六号
財団法人日本労働会館
理事長 松 岡 駒 吉
住所 東京市囚谷区麹町十二「j目六番地
請負人 合資会社 旗 手 組
代表社員佐藤栄一
地鎮祭
このあと十一月二十八日に地鎮祭を次のように行ない、工事を進めていった。
……十一月二十八日、社会局より赤松労働部長、持永保護課長、灘尾福利課長、警視庁より北村労働課長、同潤会より宮沢理事、設計監督技師長山口文象氏、旗手組佐藤代表社員等幾多輝ける来賓の御貢臨の下に荘厳なる地鎮祭を挙行し、直ちに着工、十年内に既に基礎工事を終わり、十一年三月十七日上棟式を挙げ年度内に既に工事の八割弱を了へるに至った。
五月末には落成の予定である。 (前出報告書)
120ページ
友愛病院。青雲荘アパート図面
121ページ
第四節 友愛病院と青雲荘の運営
一、日本で最初の労働組合により設立の病院
友愛病院、青雲荘の完工
建物の建設は順調に進んでいつた。竣工を前にして一般新聞は「総同盟が始めるアパートと病院芝園橋畔 三層楼」との次の記事とか「最新式設備を誇る芝園アパート竣工 旗手組の犠牲的努力」(両記事ともRIA社所蔵スクラップ・紙名、月日不詳)などとの見出しで大きく報道した。
総同盟が始めるアパートと病院 芝園橋畔 白亜の三層楼
全日本労働総同盟がアパートを始める。場所は三田四国町の芝園橋畔日本労働会館の隣だ。白亜の三階建、新人山口蚊象氏の極めてモダーンな設計になつてゐる、この計画は労働会館多年の懸案で昨年五月政府から四萬五千円の低利資金を借り受けて昨年十月工事に着手、流石に管理人松岡駒吉氏は宿望を達して嬉しそうだ。
一階は全部勤労階級の医療費軽減のスローガンを実践化した友愛病院にあててゐる、洋式病室二間、日本病室七間で各科を網羅した綜合病院、レントゲンと太陽灯も一両日中には運びこまれる。病院長には日本医大教授中川博士が献身的に働いていてくれ社會医学で鳴らした安田徳太郎博士や虎之門外科病院長福田洋洲博士が好意的に応援することになつてをり、その他新進スタッフで萬全を期してゐる。
二階と三階は青雲荘アパート部屋敷二十九、一般勤人と熟練労働者を入れるそうだ、電燈を入れて畳一枚三圓、ガラスをふんだんに使つてぜいたくな建物だけに部屋は明るくて気持ちが良い。
友愛病院の開院
アパートは建物が建てば開業出来るが病院は設備、医者らスタッフの問題がある。一九三六(昭和十一)年に入って建物の完工を前にして病院のスタッフの選任が進められ、中川鉄治郎院長らが決まり、七月開院へとむかった。病院は歯科を除く全科の診療を行う総合病院である。
●総同盟機関紙『労働』1936 ・ 昭和目年7月1日号に載った友愛病院開院広告
七月一日、友愛病院は盛大に開院となった、
病院開院の目的は「医療の社会化を理想とす」るものであり、「勤労者本位! 実費診療!・」がモットーであった。「当時は国民健康保険制度など無く、松岡理事長をはじめ総同盟幹部は日常の活動のなかで労働者、貧困者が病気になってもおいそれと医者にかかれず、病気を重くしていっていることを見ており、誰でもが安心してかかれる実費診療の病院があればという願いがようやくにして実現したのである」(大池清次理事長談)。
友愛病院開院時のスタッフは、総同盟機関紙『労働』の開院広告によると次の通りである。
院長 医学博士 中川鉄治郎
医師 医学博士 安田徳太郎 医学士 岡野統与 医学士 吉田 幹
薬剤師 菊池美喜
主任産婆 松尾キミ
このほか看護婦多数
このスタッフのうち、中川院長は日本医科大学教授で安田博士は社会医学の権威者であり、それぞれもその道の権威者、新進の医学者からであった。
院外出張診療
病院は日常的な本院での診療活動とともに、開院の年の一九三六(昭和十一)年の歳末に労働者街に出張して診療を行なった。診療は好評であった。それは、「十二月十日より、大森、城東、五反田方面に於いて労働組合支部と連絡をとり、一般無産家庭に呼びかけ、親切、周到なる治療に当たり、労働組合経営の診療事業としては初めての試みであつたが被治療者二百名に及び大好評であった」(『労働』一九三七・昭和十二年一月一日号)。
実費診療、開院一年の実績
友愛病院は一九三七(昭和十二)年七月で一周年を迎えた。「『医療の社会化』を目指して、我総同盟本部脇に堂々開院した友愛病院は、既に一ヶ年を経過したが、その完備せる設備と親切と料金の低廉とによって漸次利用者の増加を見、最近に於いては、赤字を克服して収支償ふ程度にまで良成績を示している」と総同盟機関紙『労働』の七月一日号は報じている。
そして、友愛病院は七月十九日に一周年記念会を関係者を招いて開いたが、その席上、中川院長は挨拶の中で次のように生活の貧しさを反映した社会病理の実態、友愛病院の役割、意義などを報告した。
友愛病院一周年を迎ふ中川院長の報告
今や国の朝野をあげて、国民の保健衛生が問題化されて、いよいよ保健社会省も設立される機運になり、医療の社会化はますます重要性を加へて来ました。
過去一ヶ年の私共の病院活動の第一線に立って見ると、千人に一人といふような珍しい病気、むずかしい病気は少なく、ありふれた病気が多い。例へば、胃腸病の二十二パーセント、胸部疾患の二十七パーセント、トラホームの二十八八Iセント、小児の気管枝カタルの三十三パーセント、急性淋疾の二十三八-セントといふやうな数字が現れている。従って珍しい病気の理論よりも、実際的に大衆的に治すことが一番必要であり、要求もされてゐることがわかります。
この点から見ても、経費診療の重要性があると思ふ。そして一般大衆的にありふれた病気は、重くならないうちに早期に癒すことが結果から見ていゝので、積極的に早期治療をする事が考へられるわけであります。
患者の層は大体勤労者階級で諸所の経費診療所を歩いてゐた人が多く、従って過労の入、栄養不良の人が多いそうです。事情が許す限り、栄養を多く取り、過労を防ぐことの必要が痛感されます。尚患者及びその家族と親しくなって、平生の衛生生活、病気予防の相談相手になって、保健の指導に当ることが私共として進んだ、理想的な使命であると思ふのです、
経営方面からいふと、まじめな診療をする時は或程度まで経費はかヽるものであり、その最低限度はきまってゐるので、無闇に経費の低下を目標としては、責任あるまじめな治療は行はれない。この病院が過去一ヶ年の全収入、支出の総計を発表したが、これは治療費の最低限度の調査とも見られ、それによって一方医者が成り立って行く限度もわかるといよものです。
病院経営に関する諸種の経済的な統計発表がいまだかつて無い時、友愛病院の過去一ヶ年の事業報告書は、いろいろの点で意味深いものである〔注・この報告書は見っかっていない〕。
友愛病院は所謂経営術を心得てゐる者の経営でなく、世間一般の薬価の相場を知らず、合理的なトリックのない、赤裸々な数字であって、将来の経費診療に大きな示唆を与へるものと思はれます、いまだ収入と支出のバランスがとれてゐない点は、患者数の増すことによってうめられると思ふし、薄い利益を見つもやっていける自信、発展の可能性を信じてゐるものです。(『労働』一九三七・昭和十二年八月一目号)
この中川院長の報告は、友愛病院の実績の報告、経営分析にとどまらず、当時の日本の医療、開業医の多くが利益追求に走り、そのため、もっとも医療を必要とする庶民、労働者層が診療を受けられない実態の一面を明らかにしている。
総同盟組合員、家族に医療サービス実施
病院は、その一年間の実績をも勘案して七月から総同盟組合員とその家族に対する医療の特別割引を実施することを決め、契約を総同盟との間で締結した。その内容は
一、無料診察
二、手術及び入院料一割引
三、事情によっては特別な相談に応ず
であって、その診察券は総同盟本部、関東同盟会、各連合会、組合、支部などで渡す、とした。
なお、前年の年末の出張診療の成功から、ふたたび一九三七(昭和十二)年七月二十六日より十二日間、東京市内、埼玉県川口市、神奈川県川崎市で出張診療を行った。さらに事変勃発により出征軍人家族の無料診療をも開始した。出張診療の状況は次の通りである。
貧困者のために活躍する友愛病院
友愛病院では七月二十六日より八月十日までの十二日間、東京市内の大森、品川、城東、荒川等の労働地区及び川口、川崎の両市に出張し、夏季無料診療を行ったが、日頃診療の機会のない労働者並に家族は続々と押し掛ける有様で社会的にも大きな反響を呼び起こし、新聞紙の地方版を賑はした。診療に使用せる場所は、労働会館が二ヶ所、組合事務所が二ヶ所、小学校講堂が二ヶ所である。取扱ひ患者数は一千四十名でこれを延人員にして一千二百名となる。尚各区別に見ると次の通りとなる。
川崎市(神奈川県) 二〇〇名
大森区 二〇〇名 品川区 コー六名 城東区一三一名 荒川区 一八八名
川口市(埼玉県) 一九二名 計一、〇四〇名
尚、同病院は、今次の日支事変勃発と同時に、出征軍人家族の無料診療を開始し、銃後運動の先端に立って活動してゐる。 (『労働』一九三七・昭和十二年九月一日号)
中川院長の出征
友愛病院開院一周年を迎えた一週間後の一九三七(昭和十二)年七月七日に「支那事変」が勃発した。この事変に中川鉄治郎院長は陸軍軍医少尉として召集され、九月十四日に入隊することとなった。そこで九月十一目の夕刻より日本労働会館で送別会を開催、病院従業員、総同盟本部常任、在郷軍人、町内会の多数が参加した。終了後全員で中川院長を送った。院長は「中支那派遣軍」に所属して各地を転戦、翌一九三八(昭和十三)年四月に次の便りを戦地から病院に寄せているので紹介する。
戦地同志の便り
中支那派遣軍 中川鉄治郎
謹啓 陳者毎々御懇切なる御慰問に接し、御芳志千忝く感銘致し幾重にも御礼中上候。御熱誠なる銃後の御後長の御蔭にて今日まで無事御奉公相続け居候間休心下され度候。
出征以来○○月OO地に到着以来時々郊外に敗残兵の襲撃らしきものこれあり候も、比較的長閑に勤務致居り候 銃後の御後援に対し中訳なき心地致し居候。本部の皆々様へよろしく御伝へ下され度候。 (『労働』一九三八・昭和圭二年五月一目号)
中川院長の応召が長引いたため、島田博士が院長代理を務めた。だが、島田博士が急逝したため、安田徳太郎博士が院長に就任した。中川院長は、その後除隊、帰国し、ふたたび院長に就任した。
なお中川院長は再度応召し、敗戦はビルマ派遺第五十三師団第一野戦病院の軍医大尉で迎え、翌一九四六(昭和二十一)年に帰国、千葉市で開業、一九七九(昭和五十四)年に逝去された(ご子息の中川病院長中川洋氏談)
安川竹十は一九四二(昭和ト七)年六月、尾崎・ゾルゲ事件に連座した、その自伝に『思い出す人びと』(一九七六年六月、青土社刊)がある。しかし、この自伝には友愛病院、関係者についての記述はない。
二、病院開院三年間の実績
病院は、一九三九(昭和十四)年七月一日に開院から三年の歴史を刻んだ。この間の活動について昭和十三年度『財団法人日本労働会館事業報告書』(一九三九・昭和十四年四月刊)によって紹介する。
友愛病院
国民の健康増進のために「医療の社会化」を期して勇躍開始した本病院も既に三年に垂んとする歳月を経過した。その間同業者からは異端者として幾多の妨害を受けたが、他方一般患者からは益々その特異性を認められ、その声価も漸く一般化し、軍需工業の中心地たる川崎地方に於いては労働者階級の熱烈なる要求より、ある労働組合の如きはその大会に於いて本病院分院の建設方を決議申請した程である。
併し、その経済状態は、別表にも示す如く、その利用者増加にも拘らず、未だ予算通りの成績を治め得ることが出来ないで居る。その主なる理由は、既に三年に渉って本病院の柱石たる中川院長が応召中であること、事変以来の薬品、消耗機材等の暴騰、出往者遺家族の無料診療の敢行等によるもので、之等は何れも我が国現下の大方針と国策に合致し居り、我が病院の事業の方向が誤ってゐない証左であることを喜ぶものである。
事変出征軍人、軍属遺家族に対しては引続き無料診療を行ったが、その手続きは極めて簡便で徒らなる形式を排したので一般から頗る好感を持たれた。
又、本病院の如き低廉な医療費の負担にすら耐へ得ざる窮乏者のためには、同様無料診療を施したが、地理的に距ってゐるために、本病院を利用し難い窮乏者の人々のために従来施行して来た「無料出張診療」は、前記の如く中川院長の出征に加へ、代理院長島田博士の逝去等のために遂に年度内に於て実行出来得なかった事は甚だ遺憾であった。
イ、外来患者取扱数
本年度 十二年度 十一年度
実人員 六、六三七 四、三三三 二、七八二
延人員 二三、二三三 二九、二五六 二一、六三四
ロ、入院患者取扱数
本年度 十二年度 十一年度
実人員 二三六 二四六 九二
延人員 二、四七九 二、八三一 一、○七六
ハ、診療患者取扱数
本年度 十二年度 十一年度
実人員 七八 二一七 八一
延人員 二二四 六三六 一三一
ニ、出征軍人軍属家族無料診療取扱数
本年度 十二年度
実人員 九六 五九
延人員 五三八 三五一
ホ、診療科目及職員
院 長 医学博士 中川鉄治郎(出征中)
内科、小児科 医学博士 名和幸太郎
外科、皮膚科、泌尿器科 医学士 小川左右樹
産科、婦人科 医学博士 中川鉄治郎
医学士 中村順次
耳鼻咽喉科、眼科 東京女子医学士 鶴淵ふみ
レントゲン科 技 師 大串幸夫
薬剤師 菊池美喜
主任産婆 福井うゑの
事務長 遠藤義明
外、薬局助手、産婆、事務員、炊事婦、十五名
この報告は、病院開院の本来の目的である「医療の社会化」のための実績が着々とおさめられつつあることを示しており、しかも、困難な中での奮闘ぶりが伺い知れよう。
三、青雲荘の経営
アパート青雲荘は、友愛病院に隣接して建てられ、病院の開院に先立つ一九三六(昭和十一)年六月に貸し室を始めた。完工を待ちかねるようにして同月中に半数の部屋が埋まる程の好調なスタートで、事業成績は、「第二年次を迎へた本事業は、幸いに需要者の希望に合致して、順調な成績を収め本年度に於て四千七百円弱の繰越金を得る事が出来た」(「昭和十二年度 財団法人日本労働会館事業概況」『関東同盟 第拾六回大会報告書』一九三八・昭和圭二年十一月十二日刊)。
この事業の好成績とともにその建築の斬新さは建築学会などの注目を浴びた。『建築世界』一九三六(昭和十コ年十一月号や『美術年鑑』にも紹介されるほどであり「昭和十二年度 事業概況」(関東同盟会『第拾六回犬会報告書』)は次のように報告している。
更に喜ぶべきは、本アパートの建築が、建築専門家間に広く注目さるゝところとなり、大学専門学校等より屡々視察研究に来り、斯界の専門雑誌も亦之を掲載し、文部省美術研究所にて編纂した昭和十二年度版美術年鑑の如きも之を同年度内に於けるアパート建築中唯一の代表的なものとして掲載し、尚遠く外国専門雑誌にも紹介されたとの事にて、本事業がかヽる方面に於ても一の記録を残し得た事である。
建築構造の斬新さ、アパートメントハウスという言葉の響きの斬新さは高級アパートという印象を一般に与え、当時、新進スターであった上原謙一家も住んでおり、友愛病院の若い看護婦さんに騒がれたというエピソードもあった(当時、友愛病院の看護婦をされていた斉藤いくの・旧姓渋谷、竹谷ハッ子・旧姓橋牛肉氏の談話 一九九〇(平成二)年十二月二十七日聞き取り)。
青雲荘の経営はその後も順調にいったが、太平洋戦争末期の東京空襲が激しくなるにつれ入室者が減り、苫しくなり、一九四五(昭和二十)年五月の空襲で青雲荘の建物は完全に消失した。
1945年の空襲で焼けてしまった日本労働会館跡地に、1949年、総同盟会館・全繊維同盟会館が建ったが、これに関して次のような資料がある。
●全繊会館進む
資料:『全繊同盟史第2巻』1965年 全繊同盟史編集員会著、408頁))
当時、総同盟においても、もと日本労働会館(戦前の総同盟本部)跡に、新会館建設を決定し(中略)、全繊会館は種々検討の結果、敷地を総同盟会館と同一場所にきめ、土地所有者、財団法人日本労働会館(理事長松岡駒吉)より借り入れ、建物は総同盟会館と隣接し、共通ホールで接続する設計であった。
会館建設の概要は次のとおりである。建設坪数1階50.25坪、2階59.33坪、総坪数109.58坪。木造2階建て。主要設備室ー事務室1、応接室1、会議室1、図書室1、宿泊室(洋室・和室)5、小使室1、便所、浴室。
設計・監督 山口文象建築事務所、請負者 聖徳社納富組、見積工事費 228万1,209円(以下略)
・解説、評論等
◆国際建築の推進 佐々木宏
(『建築家山口文象 人と作品」RIA編 1982 相模書房より 抜粋引用)
これ(引用注:日本歯科医専)に続く山口の一連の作品の中で,インターナショナル・スタイルの系譜の中につらなるものは,番町集合住宅,青雲荘アパート,山田邸,黒部川第二発電所などであろう.これらの中でとくに傑出したデザインを示しているのは山田邸と黒部川第二発電所であり,完成後に発表された当時から高い評価を与えられてきたものである.(中略)
青雲荘アパート(芝園アパート)は山口文象の一連の作品の中で特別な意義をもつものである.それは建築主が財団法人労働会館となっており,いうなれば全日本労働総同盟の依頼によるものだったからである。
山口が早くから社会主義運動に関係してきたことは広く知られている。しかし,それにもかかわらず,低所得老層や労働者のための施設を建設する機会にはあまり恵まれていない.このアパートはその中で,当時発表されて広く知られた事例なのである.
一般に建築家は権力と富に奉仕する職業であったことから考えると,社会主義革命でも起らないかぎり左翼思想の建築家は理念の実現はおぼつかないのである.
労働組合の建築をいくつか設計して,しかも新しいデザインによって注目されたハンネス・マイヤーやマックス・タウトは,これまで例外のように見られてきている.山口が日本においてこのような機会を得たことは,歴史的なことといえよう.
この建築は1階が友愛病院にあてられ,2階と3階は労働者向けのアパートであった.妻側は開口部の少ない壁面構成で,他は連続窓をもったごく明快なインターナショナル・スタイルである.建築の性格上からであろうか,まったくけれん味のないデザインでまとめられているのが,かえって印象に残るほどである.
このようにみてくると,山口文象は1930年代の日本におけるインターナショナル・スタイルの建築をいかに精力的に推進してきたかが判明する.しかも,他の建築家の作品と比べて遜色がないばかりでなく,国際的にみても,高い水準に達していた.とくに日本歯科医専と山田邸と黒部川第二発電所の3件は,当時すでにイタリアの『カサベラ』誌などにおいても掲載紹介されて,高い評価が与えられていたことは重要なことである.この点は,あらためて再認識し,再評価しなくてはならない問題であろう.
・関連ページ
◆論考:「J・コンドル和風建築と山口文象モダン建築の出会い」(改訂2版)(PDF3MB)
◆参照→講演資料「松岡駒吉と山口文象が青雲荘に込めたメッセージ」(2014)
◆参照→講演映像「松岡駒吉と山口文象が青雲荘に込めたメッセージ」(2014)
◆参照⇒山口文象設計の総同盟会館・全繊会館“発見”(2014)