日本労働運動の拠点の120年:J.コンドルの和風建築と山口文象のモダン建築の出会い

日本労働運動拠点の120年

J・コンドル和風建築と山口文象モダン建築の出会い

(改訂2版)

伊達美徳

はじめに

東京港区の東京タワーが建っている芝公園の近く、ガラス張り高層現代建築の「友愛会館・三田会館」が建っている。この場所(東京都港区芝2・20・12)は、120年前にアメリカからやってきたキリスト教の活動拠点が建ち、日本での社会主義と労働運動が発祥した地である。

その発祥当時の建物は、キリスト教ユニテリアン協会の「惟一館」といい、その建築設計者は、日本の近代建築の父のジョサイア・コンドルであった。

この惟一館を拠点に活動した鈴木文治は、1912年にここで労働者の福利共済のために「友愛会」を結成して労働運動をはじめ、やがて労働運動団体「総同盟」となる。鈴木の後は松岡駒吉が指導者となり、幾多の変遷があって現代の「連合」となる。総同盟は1931年(昭和6年)に惟一館を買い取って「日本労働会館」として、労働組合運動の活動拠点とした。

そして1936年(昭和11年)、その隣に勤労者向け賃貸共同住宅と病院の入った白亜のモダン建築を建設した。日本の労働組合として初めての事業である。

その建築設計者は、そのころ最先端モダンデザインで売り出し中の新進建築家の山口文象であった。英国人建築家による明治期の和洋折衷デザインの作品と、日本人建築家による昭和初期洋風モダンデザインの作品が並んで、それは特異な風景であった。

労働運動のリーダーの松岡駒吉は、なぜこのモダンデザイン建築を採用したのだろうか。新進建築家の山口文象は、この作品でなにを表現したかったのだろうか。

1945年5月25日、太平洋戦争による連合軍の空爆によって炎上し、この風景は消えた。その前の3月10日東京大空襲など何回もの空爆で、東京で10万人以上が死んだ。総同盟はすでに1940年に政府の弾圧で消えていたが、8月15日に戦争が終わって、この青雲荘アパートメント燃え残り残骸の中から再起する。

そして1949年、惟一館が燃えた跡地に、総同盟会館と全繊同盟会館を、これまた山口文象の設計で建てたのであった。戦後労働組合運動の再開の拠点となって、更に変遷しつつ今に続いている。

ここに、その経緯をたどりつつ、コンドルと山口文象の作品の出会いを論考する。

1.展覧会「コンドルと惟一館/山口文象と青雲荘」

「コンドルと惟一館/山口文象と青雲荘」と題して、2014年3月10日から8月30日ま

で、「友愛労働歴史館」(東京都港区芝2-20-12友愛会館8F財団法人日本労働会館内:三田会館と同じビル)で展覧会を開催している。ジョサイア・コンドルと山口文象がそれぞれ設計した二つの建築について展示で、わたしも少しだけ手伝った。 そして5月27日に、「松岡駒吉、山口文象が青雲荘に込めたメッセージ」と出して、わたしの講演会を催していただいた。

この展覧会のきっかけは、友愛労働歴史館事務局長の間宮さんから、2013年8月にいただいたメールであった。わたしのインタネットサイトに山口文象のことを書いているのをご覧になって、歴史館の収集資料にわたしの著作『建築家山口文象の世界』(まちもり叢書)を入れたいとのことであった。

もちろんこれは寄贈したのだが、これをきっかけに分ったことは、山口文象が1936年に設計した「青雲荘アパートメント・友愛病院」のオーナーが、この歴史館を運営する一般財団法人・日本労働会館であったこと、そして今はなくなったその建築関係資料の収集をしているとのことだった。これについては(株)アール・アイ・エーが所蔵する図面や写真のコピーを提供したのである。そして、冒頭に述べたように、その二つの建築を主題にした企画展示を友愛労働歴史館で行うとのことで、そのお手伝いも少しさせてもらったのである。

間宮さんからわたしが聞いてはじめて知って驚いたのは、この山口文象設計の典型的なモダン建築の隣には、ジョサイア・コンドル設計の和洋折衷デザイン建築が並んで建っていたことである。どちらもその財団所有で、日本の労働運動の進展に大きな役割を果たしたそうだ。

労働運動、コンドル、山口文象などの関係は全く知らなったが、これを機会に調べてみて、実に興味深いことが分かったのである。山口文象の仕事についての研究は1970年代からやっているので、ドイツに行けば何か新発見があるかもしれないが、日本ではもう新発見はないだろうと思っていたら、意外にもまだあるのだから、興味は尽きない。

2.コンドル、キリスト教、労働運動、山口文象

J.コンドル(Josiah Conder、1852~1920年)は、20世紀への変わり目を挟んで40年ほどを日本で活躍したイギリス人建築家、山口文象(1902~1978年)は、1930年代から戦争をはさんで40年ほど活躍した建築家である。年代的にもその出自からしても、あるいは極端に違う作風からしても、普通に考えると出会うはずもない。

ところが、このふたりの設計した建築が、東京都港区の芝にある同じ敷地の中に立ち並び、太平洋戦争の空襲で焼けるまでの9年間ほど、今考えるとなんとも特異な風景をつくっていたのであった。

並んでいたのは「日本労働会館」と「青雲荘アパート・友愛病院」であった。日本労働会館がコンドルの設計であり、青雲荘が山口文象の設計であった。どちらも財団法人日本労働会館の所有で労働者運動の拠点であり労働者のための福祉厚生施設であった。この財団を構成しているのは、旧友愛会系労働組合である。

今はどちらの建築も消滅して、跡地には同じ財団によるオフィスとホテルの入る超高層建築が建っている。そのビルの一角に、財団が運営する「友愛労働歴史館」があり、日本の労働運動の資料収集と常設展示をしている。

コンドルが設計した建築は、当初は1894年に完成した「惟一館」(ゆいいつかん)といい、ここはキリスト教のユニテリアン派の教会であった。これが後に日本労働会館になったのだが、いろいろ聞いて調べてみると、日本の労働運動とキリスト教活動は元は深い関係にあったのだった。

コンドルの設計した教会が日本の労働運動を起こす源流となり活動拠点となり、山口文象が設計した青雲荘が労働者のための本格的な厚生福利活動の源流となった。

コンドル、キリスト教会、労働運動そして山口文象という、一見したところ関係があるとは思えない人物と事柄が、実は一連のものとして結ばれていることを知って大いに興味がわいた。

わたしは山口文象についてはそれなりに研究してきたが、コンドルについては建築史ディレタントの域を出ないし、キリスト教と労働運動についてはまったくの門外漢も甚だしい。そこで労働運動側の事情については、その歴史館の間宮事務局長にうかがった話、友愛労働歴史館サイトにある各種の資料、『財団法人日本労働会館六十年史』(1991、渡辺悦次著、日本労働会館)などを主な資料として記述する。

3.ジョサイア・コンドルによる「惟一館」

ジョサイア・コンドルは、明治政府が日本の近代化のために欧米から招いたお雇い外国人と言われた専門家たちのひとりで、イギリス人の建築家である。イギリス人でコンドルとは妙な名だが、明治の日本人は、銀座煉瓦街を設計したWatersをウォーターズではなくウォートルスと言うように、Conderをそう言ったらしい。

彼は工部大学校造家学科(現・東京大学工学部建築学科)の教授として、辰野金吾、曽根達蔵、片山東熊などの近代の日本人建築家を育てて日本建築界の基礎を築いた。のちに建築設計事務所を開設して、多くの建築作品を残し、日本に骨をうずめた。

建築の歴史を知らない人でも、東京丸の内にある「三菱一号館美術館」という、数年前にできた赤煉瓦の西洋様式の建物を知っているだろう。今の建物は、昔あのような建物があったのが壊されて、跡地に別の建物が建っていたのを、それをまた壊して、昔の建物をコピーして再度建てたものであるが、1894年に最初にできたときにそれを設計した建築家がジョサイア・コンドルである。

その三菱一号館が建った同じ年に、ここに話題とするキリスト教のユニテリアン教会「惟

一館」が、ジョサイア・コンドルの設計で建ったのである。非常に興味深いのは、礼拝堂を持つ本格的なキリスト教会であるのに、この建築がよく言えば和風クラシックデザイン、普通に言えば和洋折衷デザインだったことだ。

コンドルの作品を調べてみると、どうやらコンドルによる文字通り唯一の和風の外観がある建築らしい。その設計図面は京都大学に保存されていて、一部をネットに公開されている(前ページ図)ので、コンドルの和風への入れ込みようを見ることができる。小屋組み図面には、虹梁や蟇股のようなものもある。寺院建築を教会建築として翻案するのは、ユニテリアンの教義の自由さであろうか。

背丈の高い2階建て木造建築で、ちょっと見にはお寺かと思わせる大きなスレート葺きの入母屋風の屋根がかかり、切妻反り破風もあるし玄関先には唐破風もある。

だが、どこかちょっと和風にしては破風の付き方や全体プロポーションがおかしい感じもあるし、屋根には煙突のようなものが4本も立っている。それも詳細に見ると神社の灯篭のような形である。

壁面は横下見板張りペンキ塗りだが、真壁風に柱と梁の表現を見せている。屋根は寺社か城郭、壁は洋式、車寄せは御殿風で、和様混合である。寺社建築を見慣れた日本人から見ると、全体に腰高すぎて屋根の大きさと壁面の高さとのバランスがよくない。日本人の設計ならもっと屋根の軒を出すだろう。

これがなんと、あの日本の近代建築を創始したと言ってもよいお雇い外国人のジョサイア・コンドルの設計だから、見ても聞いても驚く。丸の内に復元して再現された「三菱1号館美術館」や「岩崎邸」のような洋風建築を設計したあのコンドルが、こんな和洋折衷建築を設計していたのであったか。

できあがった献堂式当時の全景写真とコンドルの設計図を比較すると、あちこち写真とは違うところがある。屋根の反りが無くなり、正面両翼にあった大小の切妻破風の、小さいほうが無い。この図面の後にコンドルが設計変更したのか、それとも現場で変更したのか。

4.惟一館における和様折衷デザインの意味

コンドルの作品の系譜でどう位置づけになるのか、そこは専門家にまかせるとして、外国人による和洋折衷建築について考えてみる。

和風の屋根を乗せたペンキ塗り下見板張りの壁で正面に唐破風がある和洋折衷建築ならば、日本人の大工棟梁による疑洋風と言われる木造建築があるし、もっとも正統派となれば妻木頼黄による1899年の日本勧業銀行(これは東京の歌舞伎座が似ている)がある。いずれも屋根とその下の壁のプロポーションが、日本人の眼にはどこか間が抜けているのは惟一館も例外ではない。

このコンドル作品に唯一の和洋折衷建築デザインは、教会の当時の牧師の要請であったらしいことが、その牧師の書き残したものにあるという。それにしても牧師の要請があったとしても、なぜ外国人に和風デザインを依頼したのだろうか。なぜアメリカから来たキリスト教会が和風なのか。本式に和風デザインならば日本人建築家に依頼すればよいだろうが、そこは和洋文化の混合がユニテリアンの包容力を現す教義に適っているとして、わざわざ和洋折衷を指示したのだろうか。

このデザインを見て連想するのは、東京駅の当初デザインである。明治政府が招いたドイツからお雇い外国人の鉄道技師フランツ・バルツァーが、1903年に発表した論文に載せている東京駅舎の立面図は、まさに寺院のような大屋根を持っている。惟一館によく似ているのは、外国人が和風をやろうとなると、いつもこうなるのだろうか。

外国人建築家は、日本につくる建築だから和風あるいは東洋風のデザインをしたいと思うらしい。明治の中央官庁街計画をしたドイツからやってきたベクマンも、一部に和風デザインを提案したそうだ。コンドルが帝室博物館や鹿鳴館でオリエンタル風というかイスラミックなデザインをしているのは、和風の代わりかもしれない。和風建築の設計をわざわざ外国人に依頼する物好きな日本人がいる筈もないから、そんな機会はなかったであろう。

そこで、自由で柔軟で包容力あるユニテリアンのアメリカ人牧師が、うまいことに和風あるいは和様混合の注文をしてくれたので、コンドルも初めて和風折衷デザインをすることができたのだろう。建築家の性分として、牧師に言われるままにデザインしたというより、よい機会に恵まれたと積極的に取り組んだに違いない。

今それを純粋に和風建築として見るならば明らかに妙なデザインであるが、積極的な和洋折衷デザインとみるならば、建築史家がいうように「和風の外観は、コンドルだけの意志ではなく、自主性を強調したユニテリアン教そのものの方針に従ったものであった」(河東義之『ジョサイア・コンドル建築図面集』)であろう。あるいは大学教授牧師がいうように「ユニテリアン教会のクレイ・マッコーレイ牧師の「東西の宗教文化の融合の理想」を込めたものであった」(土屋博政)。ここに和洋折衷の意義が浮かび上がってくる。

内部が和洋折衷であったのかどうかわからないが、友愛労働歴史館事務局長の間宮さんのお話では、キリスト教会でありながら、惟一館にはキリスト、ソクラテス、釈迦、孔子の4大聖人画を置いてあったと伝えられているそうである。まさに積極的東西文化融合の場であった。

もっとも、コンドルの建築作品には、西洋におけるクラシック、ルネサンス、アールヌーボーや、オリエントのイスラムなどいろいろな建築様式の折衷デザインをしているから、日本人の眼には奇妙に見える和洋折衷建築も、コンドルにとっては数ある折衷のひとつにすぎなかったかもしれない。

5.ユニテリアン「惟一館」と労働運動団体「友愛会」

さてここで疑問は、その惟一館がなぜ労働運動の活動拠点となったか、ということである。それはその教会建築を、当時の労働運動団体の総同盟が取得したからであるが、そこには偶然ではなくて必然性が働いていたのであった。

ユニテリアン教会はアメリカのキリスト教の一派であり、1887年に福沢諭吉らの招請によって日本にはじめてやってきた。当時の西欧の技術や文化をとりいれる日本の近代化戦術のひとつに、キリスト教もあったのである。

だが、多くの教団があってどれを取り入れるか調査を行って、ユニテリアン教会派の自由と独立を基本とする教義や、他のキリスト教のように布教活動をしないので文化摩擦が少ないことが、福沢らの眼鏡にかなったようだ。

福沢は数年後にユニテリアンと決別するが、この教会活動を後まで支えた人たちに安部磯雄、賀川豊彦、鈴木文治、新渡戸稲造、吉野作造等のインテリ自由主義者たちがいた。はじめの教会活動拠点は飯倉に「惟一館」と名付けた建物であったが、後に京橋に移転し、さらに上に述べたコンドル設計「惟一館」が1894年に、三田四国町(現、港区芝2丁目)にできあがった。

そして1898年にこの惟一館において、社会主義研究会が生まれた。メンバーは村井知至・安部磯雄・岸本能武太・片山潜・幸徳秋水らである。1900年に実践のために社会主義協会として、安部磯雄を会長に、河上清、片山潜、堺利彦、幸徳秋水、木下尚江、西川光二郎が参加している。会員の多くはユニテリアン派キリスト教徒であった。

1901年には会員を中心に日本最初の社会主義政党の社会民衆党を結成したが、政府の結社弾圧で2日後には禁止された。つまりキリスト教会の惟一館は、日本の社会主義活動の源流の場であった。

日本の近代化の中で、富国強兵政策による産業発達が多くの労働問題をひきおこす。だが、労働運動による労働組合の結成は政府の弾圧を受ける。そこでユニテリアン教会の活動のリーダーの一人であった鈴木文治たちは、1912年に労働者団体として「友愛会」(鈴木文治会長)を設立して、惟一館に活動拠点を置いた。

友愛会は、労働者同士の相互扶助と親睦、知識や技術向上、地位の改善をうたっている。形式的には労働組合ではないが、この教会を拠点に労働運動を始めた。友愛とは、キリスト教の隣人愛に原義を持つそうである。

これが1919年に「大日本労働総同盟友愛会(総同盟)」と改称し、後に「総評」、「同盟」、現在の「連合」に至っている。

ところが、1923年にユニテリアン教会は、関東大震災や会員減少で日本から撤退してしまった。残った惟一館の土地建物は不動産業者を転々としていたが、総同盟本部やその傘下産業別組織の活動の場としては継続してはいた。しかし、活動拠点として不安定な状態になった。

1928年に総同盟は、本部施設が他人の所有で不安定な状況を打開するために、惟一館を買い取って活動の本拠となる「日本労働会館」を建設する計画を立てた。

計画では3階建て540坪の建物で、事務所、大講堂、浴場、喫茶室、宿泊室などを入れる。予算は土地建物購入及び建設費が18万円で、会員の募金と後援会(安倍磯雄、賀川豊彦、新渡戸稲造、鈴木文治、吉野作造)による寄付金集めでまかなう予定であった。

こうして1931年には当時の所有者だった東京建物㈱から、土地と建物の購入をした。当時は労働運動団体では不動産の所有ができなかったため、財団法人日本労働会館(理事長松岡駒吉)を設立した。この財団が松岡の経営手腕もあって、その後の労働運動のための場と金をおおいに支える役目をすることになり、今に至っている。

しかし、当時は募金が思うように進まなかったので新会館建設はあきらめ、惟一館の建物を大改修して「日本労働会館」に看板を掛け替えたのであった。こうしてコンドル設計の和洋折衷建築は、図らずも命を永らえた。

1937年元旦に撮影した惟一館の後の姿の写真がある。千鳥破風の下の下見板壁には「日本労働会館」とクラシックな字で書いてある。改修されたようだが、基本的にはコンドルの設計の姿のままに、大勢の人たちの背景となっている。

入母屋のスレート葺き大屋根、ペンキ塗り横羽目板壁、中央に唐破風の車寄せ、左に切妻破風、設計図ではあった右の切妻破風はないのは当初から。当初はあった屋根の2本の煙突がないのは改装したのであろう。昔の田舎町の小学校講堂の感がある。わたしが卒業した小学校がまさにこれであった。

この写真をよく見ると、左の方に白い3階建ての横長窓の建物が写っている。切妻破風の屋根ケラバ庇の左の方を伐って、下見板外壁に迫る。その前の年の夏にできあがった、山口文象設計のモダン建築である。

なお、惟一館はキリスト教会だから、もちろん宗教的な行事もおこなった、その中のひとつに、後に有名な作曲家となる20歳の山田耕筰が、ここで彼のオペラの処女作を初演している。1907年のクリスマス、オラトリオ「誓いの星」は、指揮・山田、演出・小山内薫、歌・清水金太郎(後の浅草オペラのスター)、妹尾幸陽ら、管弦楽・海軍軍楽隊であった(増井敬二『日本のオペラ』民音音楽資料館・昭和59年)。

6.コンドルの和洋折衷に山口文象のモダン建築

日本に戦争の影が濃くなろうとしていたがまだ景気が良かった1936年の夏、東京は芝公園近くに人目を惹くモダン建築が現れた。そのころ新進建築家として売れっ子であった山口文象設計の「青雲荘アパート・友愛病院」である。

鉄筋コンクリート造3階建てと木造2階建てをくっつけた、正面は一階の出入り口のほか

は真っ白な壁にポツンポツンと小さな穴があるだけ、横面も真っ白な壁を連続ガラス窓が横長に切っている。 当時の先端的流行のバウハウス系モダンデザインで、その頃の言葉では国際建築様式と言った。、余計な装飾も勾配のある屋根も庇もなしで、真っ四角な箱に窓があるだけだ。お化粧なしのスッピンで、スタイルの良さつまり全体や部分のプロポーションが勝負、そして性格の良さつまりその建物機能の正直な表現である。

山口文象はこれを設計するときに、隣の建築(RIA所蔵の設計図の配置図には「在来事務所、旧館」と記されている)がジョサイア・コンドル設計と知っていただろうか。いまでこそコンドルの設計の建築は貴重だから保存せよというが、そのころはまだあちこちに建っていたし、日本の近代以後の建築に対する評価も定まらない時代だから、その保存などは一部の建築史研究者のほかにはだれも考えなかった時代だった。

ましてや和様折衷の建築となれば、新し物好きの建築家山口文象は全く興味を持たなかった、と、わたしは考えるのである。

これとコンドルの和洋折衷建築と山口文象のモダン建築が並んだ写真はいまのところ存在しないので、ここで二つの写真を合成修正して見よう。写真をよく見ると、左の千鳥破風の破風板が青雲荘の白い壁の直前で、スパッと切り取られていることがわかる。軒の出がコンクリ壁の邪魔になるので切ったらしい。コンドル作品に敬意を表して壁を引っ込めて造るどころか、邪魔者扱いである。

このコンドル設計の会館所有者である財団法人日本労働会館の記録によれば、当初はこれを壊して建て替えるつもりだったのが、会員から募集した建設資金の集まりがわるくて、隣の空き地部分に青雲荘・診療所を建てることにしたのだそうだ。(『財団法人日本労働会館六十年史』)。

おかげでわたしがここで面白がっているように、外国人設計の和洋折衷クラシック風建築と日本人設計の洋風モダン建築が並び立つ風景が出現したのである。1936年から1945年まで9年間のことであった。

7.直輸入モダンデザインにはめ込む和風貸室

青雲荘はなにもかもモダンな真っ白真っ四角な建築であるのに対して、その隣がコンドルの和洋折衷の下見板張り大屋根建築だから、外国人が設計した和風クラシック建築と、日本人が設計した洋風モダン建築が、軒を並べる街並みが出現したのである。

そのころの芝のあたりは、木造の学校や下町風の町家あるいは町工場が立ち並んでいたのだから、ふたつの大きな建築のこの取り合わせは壮観であり、なかなかに人目を惹く景観であったに違いない。

モダンな白い壁に縦長に「アパートメント青雲荘」のしゃれた切り字が浮き出ている。デッザウのバウハウスの白い壁にも、縦にBAUHAUSと浮き文字がついている。山口が1931年から32年まで一年半ほどの欧州遊学修行で身に着けたモダンデザインである。

バウハウスを引き合いに出したが、山口文象がドイツで師事したのが、バウハウス創立者のワルター・グロピウスであったのだから、当然と言えるだろう。なお、山口はバウハウスで学んだことはない。

山口文象が戦後に設立した設計事務所のRIA(現:㈱アール・アイ・エー)が、「芝園アパートメント」と題したこの建築設計図面15枚を保存しており、竣工時の紙焼き写真、当時の新聞記事スクラップもあるので、それらから建築のハード面を考察してみよう。

実はこの建物の西半分は3階建て鉄筋コンクリート造であり、東半分は2階建て木造である。二つの建物をつないで、ひとつの建築として平面も立面も設計している。1階部分が友愛病院で、RC部が診療室など、木造部が病室群であった。2階以上は賃貸住宅である。

RC造部分は陸屋根であり、木造部分は小屋組み勾配屋根がかかっている。木造部もパラペットを立ち上げて屋根をかくし、外観はコンクリートも木造の区別が付かないように、外壁は白いモザイクタイル張りで通している。

各階に小庇つきの横長窓が連続し、回転式ガラス窓がはいり、意匠格好のために建築技術的には無理をしているから、多分、RCと木造の接合部はひびが入り、あちこちから雨漏りしただろう。

西側正面はカンチレバーとして、一階を引っ込めて深い影を作ってピロティをイメージさせ、2階から上のカンチレバー先の壁面は小さな穴があいているだけだが、これは外部階段の穴あき窓である。この階段の屋上出口にかかる大きな庇をはねるように見せて、正面のアクセントにしているが、これもモダンデザインのボキャブラリーである。

プランは、1階が友愛病院で、5つの診療室、9つの病室も備えてかなり本格的な施設である。

2階から上が青雲荘アパートメントであり、貸室が中廊下をはさんで両側に並ぶから日本風アパートであり、下宿屋風でもある。

南側の東半分木造部分の部屋は、既存の日本労働会館(元惟一館)にいきなり面しているから、日当たりが悪い。

貸室は6畳間が一番多く12室、4畳半間が6室(内洋間3室)、8畳間が2室、6畳+2畳間キチンつきが6室、8畳+3畳キチンつきが2室、計28室である。

洋室は4畳半大の部屋5部屋(貸室3、病室2)だけ、和室は竿縁天井で窓には紙障子もはまっている。内部まで真っ白なモダンデザインではなく、これもコンドルのように和洋折衷だった。水洗の各階共同便所はあるが浴室はないから銭湯なのだろう。

コンクリート造の屋上が、洗濯場や物干し場でもあるが、植え込みのある庭園になって憩いの場でもあったのは、これも屋上庭園というモダンデザインのボキャブラリーである。

北立面図(左2階建て部は木造、右3階建て部はRC造)

8.1936年頃の山口文象

青雲荘アパート・友愛病院ができた1936年は、山口文象の戦前の最盛期であり、次々と作品を発表している。この時まだ34歳、これから働き盛りになろうとするときに日本が戦争期に入って建築家の仕事は激減してしまい、山口も戦中戦後合わせて10年ほどは、ほぼブランクになる。そのまえの花咲く時期の作品が青雲荘であった。

山口文象は1930年から32年にかけてヨーロッパに遊学し、その中で、ドイツのベルリンで当時の世界的に有名な建築家のワルター・グロピウスのアトリエで半年ほど修行したことが最大の収穫であった。彼はそこでソビエトパレスのコンペチションやジードルング設計に携わったと言っていた。

ジードルングとは、当時のワイマール共和国における社会民主党政権がすすめた住宅政策で、勤労者階級の都市住民のために快適な集合住宅団地を供給する事業であった。

グロピウスを始め、コルビジェ、タウトなどの当時の近代建築のリーダーたちが各地でジ

ードルングの設計に参加して、モダンな集合住宅をつくりだした。ナチの迫害をのがれて日本にも一時住んだことがある建築家ブルーノタウトによるベルリンのそれは、いまでは世界遺産に登録されている。 もっとも、本家のドイツではナチ政権の台頭でこの政策は消えたが、世界的に影響を与えて、日本の関東大震災復興の住宅供給をした同潤会もそのひとつである。

青雲荘の共同住宅としてのデザインを見ると、このジードルングの共同住宅デザインの影響が色濃い。

既成市街地の中の1棟だけだから、ドイツにジードルングのような団地としての環境デザインではない。 山口文象の有名な建築作品に、この青雲荘アパートメントと同じ年1936年にできた「番町集合住宅」がある。東京麹町の現在の文芸春秋社屋があるところに建った賃貸住宅群であった。これは環境デザインもジードルングであった。

ただし、これは勤労者階級のためではなくて、外国人向けの高級賃貸住宅だから、当人もジードルングとは言い難いと掲載した雑誌に書いているが、そのデザインは青雲荘と共通するところが多く(たとえば縦軸回転連続窓)、バウハウス流兄弟作品と言ってもよいだろう。

この青雲荘の前、山口文象がヨーロッパから帰ってきて、最初の仕事が1934年にできた「日本歯科医科専門学校病院」で、この美しい真っ白なモダンデザイン建築を出世作として一気に世に認められる建築家となった。

そしてヨーロッパ遊学の前からかかわっていた「黒部第2発電所・目黒橋」と「小屋平ダム」のデザインを1935年から39年にかけて世に問い、これが彼の代表作となった。今もそのモダンな姿を黒部峡谷に見ることができる。

この青雲荘が建った1936年は、この黒部の仕事をはじめとして、「山田邸」、「番町集合住宅」、「小林邸」など、山口の代表的な作品のモダンデザイン建築を次々と世に出して最盛期となっている。この時は34歳だから、これから脂ののった建築家として飛躍していくはずだったが、戦争が良い建築をつくる仕事自体を奪って彼にその才能の発揮を許さなくなってしまった。戦中から戦後にかけての約10年間はほとんど彼のブランクであった。

9.労働者に快適な住まいを

この建物も元惟一館の日本労働会館と同じく、総同盟の意所有である。「アパートメント青雲荘」と書いてあるが、その名のように賃貸住宅と診療所の複合ビルである。なぜ労働運動体がこのようなものを建てたのか。『財団法人日本労働会館六十年史』によって探ってみる。

当時のリーダーの松岡駒吉はこう書いている。

「都市在住労働者の住宅費はその生計費の二割以上を占めしかも交通費の増大は更に生活苦を加重しつつあります。本財団は此の事実に鑑み専ら熟練労働者並下級俸給者の為に快適にして安易なるアパート住宅を建設し、云々」(政府への建設費補助申請書)。

この労働者への便利な住まいの供給とともに、そのいっぽうで家賃収入による活動資金調達も意図している。松岡駒吉は経営の才があった人という。

また診療所については、当時の国内情勢で戦時体制に向かいつつあり、長時間労働で健康問題が起っており、勤労者や低所得者が診療を受けやすい医療体制が求められており、これに対応したのであった。

こうしてできあがった建築は、住宅を「アパートメント青雲荘」、診療所は「友愛診療所」(建物入口にはこう書いてあるが、広告は友愛病院となっている)とそれぞれ名付けている。

この青雲荘アパートの家賃は、当時の新聞記事に「畳一枚三円」とある。とすれば最も多い6畳間が18円、6畳+2畳で24円となるのだが、これはどれくらいの水準なのだろうか。

1929年に発行された「新版大東京案内」(今和次郎著、中央公論社発行)に、同潤会アパートの家賃は6畳間が11円50銭~15円50銭とある。別の資料では、同じ同潤会の大塚女子アパートの家賃は9円50銭~16円で、これは当時としてはけっこう高い家賃であったという。

これらと比較すると、この間の物価上昇もあるかもしれないが青雲荘アパート家賃はけっこう高いような気がする。1936年に同潤会アパート住人を調べた資料によればの平均月収は、会社員や官吏のサラリーマンは127円、賃金労働者は84円とある(『1930年代の建築と文化』1981年、現代企画社発行、186ページ)。青雲荘アパート入居者はどのようなクラスの労働者であったのだろうか。熟練労働者は高給取りだったか。

現代ではアパートというと、木造2階建ての低質な賃貸共同住宅をいうが、戦前は関東大震災後にアパートメントハウスという言葉で建てられた共同住宅は、コンクリート造の建物を言っていた。

東京下町の木造長屋が一般的な労働者住宅であったのに対して、アパートメントハウスは質的にも家賃も高く、台頭してきたサラリーマン階級を主とするハイカライメージの住まいであった。

アパートメントハウスは、はじめは同潤会や東京市が建設するコンクリート共同建築であったが、しだいに民間の木造共同住宅もそういうようになった。1937年に東京でアパートと呼ばれる建物は2000棟近くあったが、ほとんどが木造で、コンクリート造は156棟にすぎないとの記録もある(『1930年代の建築と文化』1981年、現代企画社発行、202ページ)。

この「アパートメントハウス青雲荘」は、東京でもその数少ない不燃アパートのひとつであり、しかもそこには民間アパートにも同潤会にもない、労働者のための快適な住まいという意志が込められていたことが、意義深い。松岡は労働者層にも質の高いアパートメントを与えたかったのだろう。

松岡がどうして山口文象に設計を依頼したかはわからないが、当時の新進評判の建築家として選んだのであろうか。山口文象は、戦後に自らを左翼であるとして、戦争協力仕事は一切断ったとか、国内外でも左翼と交流したとか、特高に狙われたとか語っているが、じつは事実は不明である。左翼傾向にあるからという理由で、松岡駒吉が山口文象を選んだとは考えにくい。

松岡駒吉が山口文象のことをどこまで調べたかわからないが、山口がドイツやオランダでの都市住民のための集合住宅づくりの新潮流であるジードルングを学んできたことを講演したり書いたりしているから、それで選んだのかもしれない。あるいはドイツの社会民主党政権における住宅政策のジードルングを、松岡たちは知っていたかもしれない。

そして山口文象はジードルングの思想とデザインをもって、労働者のために快適かつ美しいデザインの住まいをつくるというメッセージを青雲荘に込めたのであろう。内部を見ても、和室はそれらしく仕上げてあって安アパートではない感じだし、水洗便所でもあったようだ。

同じ年にできた、山口文象のやはりジードルングばりの番町集合住宅が、外国人を主とする高級住宅であったのと対照的であるにもかかわらず、外観デザインは共通している。

日本でこのジードルングに相当する住宅供給をしたのは、関東大震災の復興のために都市住宅を供給した同潤会である。モダンな集合住宅が東京のあちこちに建てられていたが、現在ではほぼすべて建て替えられてしまった。

同潤会は公的な住宅供給機関であったが、友愛会館の青雲荘は民間機関として労働者階級への住宅供給に乗り出したのだろう。1939年に川崎市内に第二青雲荘と第二友愛病院(いずれも山口の設計ではない)をつくったが、後が続かなかったのは戦争のせいだろうが残念である。

いずれにしても、松岡も山口もこの青雲荘プロジェクトに、「労働者に快適な住まいを」というメッセージを込めたに違いない。

このアパート経営は黒字になり、診療所の経営の赤字を補てんしていたらしい。そしてこのアパートと診療所の組み合わせは労働組合の好評を博して、川崎にも第2青雲荘・診療所を開設した。

こうして1936年から、総同盟の拠点として和洋折衷コンドル建築と洋風モダン山口建築は並んで戦争の時代を迎える。両建築の実質所有者の総同盟は、戦時下の体制として産業報国会への合同を迫る当局に抗して、1940年に自主解散した。

建物の経営主体として設立していた財団法人日本労働会館は継続しており、病院、アパート、食堂の経営をして持ちこたえていた。ここにも松岡の経営手腕がある。だが母体の総同盟がなくなり、戦時体制は厳しくなり、経営は次第に縮小せざるを得なかった。それでも病院の経営に力を入れ、空いた日本労働会館の部屋を病院に転用するなどした。

1937年に日中戦争は本格的になり日本は戦時体制に入って、民間建設資材も資金も制限されるようになる。今から考えると、松岡はその時点でなければできなかった建設を実にタイミンよく実行したのだった。

1945年5月25日、太平洋戦争のアメリカ軍爆撃機が東京を襲い、日本労働会館も青雲荘も診療所も焼夷弾で燃え上がって焼失した。元の惟一館の木造建築は灰となり、青雲荘・友愛病院の木造2階建て部分も灰になり、残ったのは3階建て鉄筋コンクリート1階にあった友愛病院の診療所部分と2、3階のコンクリートの柱と床と壁だけであった。

戦争がなければ、全国各地に第3、第4の青雲荘や労働会館も生まれて、労働者福利厚生に寄与したことであったろう。戦争が松岡の労働運動の何もかもを破壊してしまった。

再出発は、政治体制が変わり、労働組合運動が合法となる戦後を待つしかなかった。

10.戦災で焼失跡地に建った山口文象設計の新会館

1945年8月に戦争は終わった。総同盟も松岡のリードで再建されて活躍を始める。

焼け跡の中で財団法人日本労働会館の戦後再出発は、青雲荘・友愛病院の焼け残ったコンクリート躯体を修復再利用することだった。1946年はじめから外食券食堂の「芝園食堂」の経営を始めたが、戦争直後の財団を持ちこたえる柱となった。

外食券とは、米が政府による配給制度化の時代において、家庭外の食堂で食事をする時にこれを出すのであった。わたしが学生の1950年代はまだ食料統制時代で、外食券をもって飯屋に行ったものだが、ここに来たことはない。

こうして山口文象設計の建物は、コンクリート造部分だけとなって、あちらこちらが改変しながらも、2階は食堂、1階は食堂運営を任された松岡駒吉の弟の住居、3階は食堂従業員の宿舎ととなって、かろうじてその姿を残すことができた。

戦後の新たな政治体制により、労働運動は合法となって活発になってきた。総同盟も松岡駒吉のリードのもとに、1945年10月から総同盟組織準備活動を始めた。準備活動の本拠は、修復した元友愛病院の一室であった。

1946年1月に組織を再建した総同盟は、本部事務所を東京神田の救世軍本営に置

き、さらに京橋の明治屋ビルに移った。しかし、1948年末に立ち退くことになり、芝の戦災跡地に新会館建設を建てることにした。このとき、総同盟の中心的活動団体の全繊同盟も、ここに合わせて会館を建てることにした。初代全繊同盟の会長が松岡駒吉であったこともその所以であろう。 焼失した元青雲荘木造部分と元惟一館の跡地に、1949年7月に総同盟会館と全繊会館が建った。木造2階建ての二つの会館は、元青雲荘の芝園食堂とコの字に並んで、戦後の新たな景観をつくりあげた。この二つの会館の設計も、山口文象によるものであった。

二つの会館は、青雲荘と同じく飾り気のない連窓のモダンデザインである。こうして19世紀末のコンドルによる和風建築にとってかわって、山口文象による20世紀前半のモダン建築が並んだ景観が登場した。まだ戦後間もない東京では、復興の姿のひとつであったに違いない。

この二つの新会館については、RIA所蔵の山口文象資料にもないし、当時の建築ジャーナリズムにも載っていない。これが分る資料としては、『財団法人日本労働会館六十年史』と『全繊同盟史第二巻』(1965年 全国繊維産業労働組合同盟)がある。

「会館は正面右側に全繊会館、左側に総同盟会館が並び、コの字型につながる形で建った。山口設計事務所による設計であり、11月に着工、翌1949年8月4日に落成式を行った。(中略)建坪は251坪(総同盟会館111坪、全繊会館109坪)、共通ホール29坪、費用は合計600万円で山口設計事務所の設計により納富建築株式会社が建築した。(中略)山口設計事務所長に感謝状が贈呈された」(『財団法人日本労働会館六十年史」177ページ)

「当時、総同盟においても、もと日本労働会館(戦前の総同盟本部)跡に、新会館建設を決定し(中略)、全繊会館は種々検討の結果、敷地を総同盟会館と同一場所にきめ、土地所有者、財団法人日本労働会館(理事長松岡駒吉)よち借り入れ、建物は総同盟会館と隣接し、共通ホールで接続する設計であった。

会館建設の概要は次のとおりである。建設坪数1階50.25坪、2階59.33坪、総坪数109.58坪。木造2階建て。主要設備室ー事務室1、応接室1、会議室1、図書室1、宿泊室(洋室・和室)5、小使室1、便所、浴室。

設計・監督 山口文象建築事務所、請負者 聖徳社納富組、見積工事費 228万1,209円」(『全繊同盟史第2巻』408ページ)

この建築に関して、かつて友愛労働歴史館からわたしに「山口文象の設計であるようだが」と問い合わせをいただいて調べたことがあった。山口文象建築事務所は、1949年に閉鎖するのだが、RIAが山口文象事務所から引き継いで保管している資料にはなにも見当たらない。閉鎖するまで所員だった方に聴いても記憶にないのことだったので、この二つの会館は山口文象の設計ではないと思い込んでいた。

ところが、友愛労働働歴史館での今回の展覧会を機会に、わたしが講演をしたところ、

UAゼンセンの逢見会長から全繊同盟側の資料にも山口文象設計とあることをご教示いただいた。労働会館側と全繊同盟の両方の資料にその記述ならば、これは山口文象の設計であるに違いない。 山口文象の建築の発掘を30年もやってきて、もう「新発見」はあるまいと思っていたから思いがけない嬉しいことである。展覧会のおかげである。ただし、図面は今のところみつからないので詳細は分からないが、全繊同盟史にある写真を見ると、これも青雲荘と同様のモダンなものであったらしい。

1964年12月、総同盟会館と全繊会館を壊して、「友愛会館」(大阪建築事務所の設計)を建設した。元惟一館があった場所に9階建ての高層ビルができた。会議室、ホテル、結婚式場、レストランなどを持つ一大福利厚生センターである。この後に芝園食堂は取り壊されて駐車場となった。

これで山口文象設計の青雲荘は建ってから28年、戦後の二つの会館は建ってから15年にして完全消滅した。惟一館が関東大震災を経ながらも生き延びて、51年の命を保ったのと比べると短い命だった。

1977年、駐車場を撤去して「ホテル三田会館」(大建設計の設計)が建ち、二つの高層ビルが並んで建った。

さらに34年後にそれらも取り壊されて、2012年にオフィスとホテルが上下に複合する超高層ビル「ホテル三田会館・友愛会館」(安井建築事務所の設計)というひとつのビルに建て替えられた。敷地の公開空地の一角の造園に、工事で出土した惟一館時代の煉瓦が使われて、惟一館を偲ぶよすがとなっている。

振り返ってみると、惟一館(1894年)、青雲荘・友愛病院(1931年)、総同盟会館・全繊会館(1949年)、友愛会館(1964年)、ホテル三田会館(1977年)、ホテル三田会館・友愛会館(2012年)変遷する姿は、さながら日本の近代から現代への建築デザイン史を見るようであるとともに、日本の労働運動の変遷を見るようで、実に興味深いことである。

11.山口文象の庶民住宅への取り組み

最後に、設計者山口文象が青雲荘というアパートメントの設計をした背景と意義ついて考えてみたい。山口は建築家としては珍しいくらいに、住宅についてはかなりの身を入れており、特に戦後は多くの問題作や評判作を設計している。

山口文象は渡欧の前は、関東大震災の直後に若い仲間たちを糾合して「創宇社建築会」と名付けて、建築デザイン運動をはじめて活躍していた。新たな提案のある建築作品を図面や模型で作り、展覧会や講演会を主催してたびたび開催した。

初めは新しいデザインを求める芸術運動だったが、次第に社会運動の様相も持つようになって、提案も社会的様相を持ってくる。例えば山口文象が展覧会に出品した労働者の

ための提案には、「工業地帯に建つアパートメント」(1927年)や「紡績女工寄宿舎」(1930年 右図)があった。それは単に建築のハード面だけではなく、資金計画や経営へのソフトな考え方の提案もあった。

多くの芸術家がそうであるように、左翼運動へのシンパシイは建築家にも当然にあり、創宇社建築会の仲間の中には後に過激な運動に入って行ったものもいる。山口文象がどれくらい左翼運動にあたったかはわからないが、1930年にヨーロッパへの旅にでて、翌年におきた創宇社建築会メンバーのほとんどが検挙された官吏減法騒動には無関係であった。これで事実上、創宇社建築会活動は停止した。

ドイツで左翼的な建築展覧会に出品するなどの活動もし、当時ベルリンにいた左翼系日本人たちとも交流したらしいが、事実関係はよく分っていない。帰国後は売れっ子になって、建築運動の表に出ることはほとんどなくなったし、もう運動ができる世の中でもなくなった。

1941年に太平洋戦争になってからも、軍需工場の生産施設の仕事は一切しなかったといい(実際はいくつかあるが)、徴用されてくる工員住宅の設計ばかりをして糊口をしのいでいた。ここでも、いかにして狭いところで工員たちが快適に暮らす住まいとするかをテーマにしていたと、山口は語っていた。

そう考えると、アパートメントハウス青雲荘は、山口が積極的に取り組んだ集合住宅建

築ジードルングのひとつであったと言える。青雲荘を発表した雑誌『国際建築』(1936年7月号)の解説文の表題を「アパート第一作」としているのは、続けて集合住宅に取り組む予定があったのだろうか。それが戦中の軍需工場工員住宅というジードルングとなったのだろう。 戦中戦後の約10年間のブランクから1952年の「久が原教会」(右図)で、戦後作品がようやく世に出た。そして1953年にRIAを創設して再起したのであった。

山口の建築家としての戦後社会復帰は、1953年に結成して主宰した建築設計集団のRIAであり、その最初に提案したのが15坪のローコストハウスであった。

そして戦後の極度の住宅不足の日本における庶民住宅の設計に、1960年代までにおよそ460軒もの住宅の設計に取り組んだ。これほど多くの住宅設計に取り組んだ建築家は、同年代の他にはない仕事ぶりであった。1970年頃までは「住宅のRIA」と一般に言われて、モダンリビング運動をリードしていたものだ。ただし、儲からなかったことも確かである。

その後、RIAは都市計画の仕事を中心に展開しているが、山口のRIA時代の建築作品には、数多くの庶民住宅、神奈川大学、朝鮮大学校、新制作座文化センター、渋川市市民会館、是の字寺、町田市博物館などがある。

浅草の裏長屋に大工の子に生まれて、徒弟学校までの学歴ながら、戦前の学歴社会の中で大学出の建築家たちに伍して功成り名遂げたのは、非凡な才能があったからだろう。そして戦中、戦後の大きな沈みと浮きを経験して、いつも社会に目を向けていた建築家であった。

山口文象の生涯は数奇であり、その評価は一様ではない。わたしの山口文象評価は、戦前は創宇社建築会を起こした建築運動の旗手の一人として、そしてモダニズム建築の旗手の一人として、そして戦後はRIAという特異な建築家集団を率いたオルガナイザーとして位置づけをしている。

では山口文象の代表作はというと、建築作品としては1930年代ほぼ全般をかけた黒部第二発電所の設計とその関連するダム等の土木デザインの仕事であり、戦後最大の遺産は全国に根をおろした都市計画・建築設計組織となったRIA(株式会社アール・アイ・エー)である。 (初稿201403010、改訂20140614)

*本論考については、間宮悠紀雄氏(友愛労働会館事務局長)と逢見直人氏(UAゼンセン会長)から、多くのご教示をいただいたことを付記して感謝申し上げます。(初稿2014年6月 改訂稿2014年7月25日 伊達美徳)

Ⅱ.資料 青雲荘アパートメント・友愛病院に関する新聞雑誌書籍に載った記事

1.総同盟理事長 松岡駒吉は青雲荘・友愛病院に何を企図していたか

(1935年の新聞記事)

四年越しの念願叶ひ総同盟が家主さん

うらぶれた組合旗も軈て エプロンに蘇る?

財団法人日本労働会館理事長といふよりは総同盟の松岡さんで通る松岡駒吉氏の四年越しの努力が報いられて、同会館が経営主でモダンなアパートが建設され、下級サラリーマンや熟練労働者に快適な住居を提供しようといふ計画が、いよいよ実現する。

労働組合がアパートの家主さんになるのは、おそらく日本で初めてであらう。

松岡氏が労働会館を基礎として「働く者」のアパートを建設しやうとプランを建てたのは昭和七年で、初めは予算十万円で会館傍に一つ、新宿、大崎方面に二つ、合計三つのアパートを建てる計画で、同会の理事会、評議員会で発表したが万助異議なく可決された。

さっそく東京府を経て大蔵省に低利資金の借入方を申請したがなかなかお役人が取り合ってくれず、それから毎年申請をし続けて来たが通らず、やっと昨年末になって十万円は貸せぬが四万五千円位なら何とかするといふ返事なので、早速アパートを一つに減らし芝区三田四国町二の六の労働会館側百二十坪の敷地に建築することに決め、府から内務省社会局を経て大蔵省に書類を提出、この程内務省でも認可を与へたので今月末には借入手続一切が完了することになり、松岡氏も元気づき近頃は毎日慣れぬ手つきでアパートの設計図を書いてゐる。

それによると五十位の部屋を持つ鉄筋コンクリート三階建てのアパート一棟と、木骨コンクリート二階建ての診療所一棟、合計二百七十坪といふ相当なもので、部屋の設備なども近代化し、真面目な熟練労働者や下級俸給生活者をメンバーに獲得、組合員でなくてはなどといふ規定は設けず誰でも歓迎しカップルでも結構といふ砕けた家主振り。

敷地が同財団の所有地であるから地代は不要、付近には大工場、官営が多く交通も便利だから部屋はいつも満員といふ皮算用で一ヶ月六百円の部屋代をあげ、一ヶ年に四千円位の純益を得て十年後には同財団のものになるので、同財団の財源となる一方、労働者の宿舎も出来るといふなかなか遠大な理想を持つ大家さんである。

松岡さんは設計図を前にしながら、

『都市に住む労働者の住宅費はその生活費の二割を占め、その生活難を脅かしている。

私は専ら熟練労働者のため快適で安易なアパート住宅を建てたいと思って、四年越しうるさいほど当局に願ひでたんですが、今度愈々借入が認可されて愈々建築に着手することの出来るのは何とも喜ばしい。』

と言っているが、設計が出来あがり次第早速工事に取掛かり今年中には出来あがるといふ。

赤い組合旗が翻る下、瀟洒なアパートなど「働く人々」の朗らかなプロフィルが現れるのは一寸微笑ましい風景である。

(松岡駒吉所蔵スクラップブックの1935年・昭和10年の記事、新聞名と発行月日不詳)

2.建築家 山口文象の青雲荘・友愛病院建築に関する解説

(雑誌「国際建築」1936年7月号掲載記事)

アパート第一作 診療所を持つアパート 山口蚊象

この建物は、建築主日本労働総同盟の経営方針に従ひ、一階の部分を診療所並びに病室に充ててゐることが、他のアパートと違ふ点である。それが為め、出入口、廊下等で単一の場合よりは少し面積が不経済になったが、それでも有効面積は全体の73.8パーセントまで押詰めることができた。これは三階部分の非常階段の位置と取扱ひ方が幾分でも援けになってゐるのかもしれない。

はじめ洋間を全室の半分ほどにしたが、いろいろの事情から五部屋だけとし大部分を日本間にしたため、間仕切りは全て真壁漆喰塗りで従って室の構えも普通の日本間である。一本の廊下を挟んで両側に貸室が連なってゐるため喚起が充分でないのを予想して、各入口扉一方に上框から下框までの細長い開閉自由なガラリを装置し、またキチンの廊下側壁にも喚起口を開けて、大きなドラフトの代用をする長廊下へ吸い込ませる様にしたが、結果は非常に良好であった。

各室外部の開口は寒さに備へて二重にし、内側は紙障子、外部はガラス障子を嵌め込んだ。この硝子障子は巾一尺二寸、高五尺で外開き、金物はホイトコを使った。謂わば回転ランマを竪に並べたようなものだと想ってもらえば間違いない。それを建物の端から端まで細長い開口に所謂仕切竪枠のウルサイ影がさえぎらずに済むから、建物自体の面をプレーンなものにするエフェクトが得られると思ふ。

電車通りのファサードに部屋からの窓がないのは、この面があいにく真っ向から西陽を受けるのと、街路の騒音を防がなければならないところからの理由であり、三つの硝子のない開口のところは丁度非常階段である。そうしてこの上のⅤ字型の屋根は、この部分が吹抜きで雨がかかるため可及的低くしたいのと、屋上からの降り口はまたそれだけの高さを必要とするところから生じた"形"である。

この工事の設計が始められて二、三回プランについての意見の交換を行ったのみで、工事の完成までいろいろとご不満の点があったろうにも不拘ず半句も之れに触れず、信頼してお任せ下さった理事長松岡駒吉氏に対して心から感謝しなければならない。

3.建築評論家 佐々木宏の青雲荘・友愛病院に関する論考

(「建築家山口文象 人と作品」RIA編1982相模書房より抜粋引用)

山口文象による国際建築の推進 佐々木宏

これ(引用注:日本歯科医科専門学校病院)に続く山口の一連の作品の中で,インターナショナル・スタイルの系譜の中につらなるものは、番町集合住宅,青雲荘アパート,山田邸,黒部川第二発電所などであろう。これらの中でとくに傑出したデザインを示しているのは山田邸と黒部川第二発電所であり、完成後に発表された当時から高い評価を与えられてきたものである。(中略)

青雲荘アパート(芝園アパート)は山口文象の一連の作品の中で特別な意義をもつものである。それは建築主が財団法人労働会館となっており、いうなれば全日本労働総同盟の依頼によるものだったからである。

山口が早くから社会主義運動に関係してきたことは広く知られている。しかし、それにもかかわらず、低所得者層や労働者のための施設を建設する機会にはあまり恵まれていない。このアパートはその中で、当時発表されて広く知られた事例なのである。一般に建築家は権力と富に奉仕する職業であったことから考えると、社会主義革命でも起らないかぎり左翼思想の建築家は理念の実現はおぼつかないのである。

労働組合の建築をいくつか設計して、しかも新しいデザインによって注目されたハンネス・マイヤーやマックス・タウトは、これまで例外のように見られてきている。山口が日本においてこのような機会を得たことは、歴史的なことといえよう。

この建築は1階が友愛病院にあてられ、2階と3階は労働者向けのアパートであった。妻側は開口部の少ない壁面構成で、他は連続窓をもったごく明快なインターナショナル・スタイルである。建築の性格上からであろうか、まったくけれん味のないデザインでまとめられているのが、かえって印象に残るほどである。

このようにみてくると、山口文象は1930年代の日本におけるインターナショナル・スタイルの建築をいかに精力的に推進してきたかが判明する。しかも,他の建築家の作品と比べて遜色がないばかりでなく、国際的にみても,高い水準に達していた。とくに日本歯科医専と山田邸と黒部川第二発電所の3件は、当時すでにイタリアの『カサベラ』誌などにおいても掲載紹介されて、高い評価が与えられていたことは重要なことである。この点は、あらためて再認識し、再評価しなくてはならない問題であろう。

Ⅲ.年表 惟一館から三田会館へ、

この場所に、この120年間に次々に登場した7つの建築

1852年 J・コンドルがイギリスのロンドンで生まれた

1887年 J・コンドルが横浜に来着、政府工部省工作局に着任、工部大学校造家学科 教師兼工省営繕課顧問となり、日本に洋風建築を普及し建築家を育てる

1887年 福澤諭吉らの招請でアメリカのキリスト教一派ユニテリアン教会が日本に初め

て到来した1888年 松岡駒吉が鳥取県で出生

894年 東京芝区三田四国町にユニテリアン教会「惟一館」 が完成、J・コンドル設計、3月25日献堂式、久米邦 武ら演説、福沢諭吉ら祝詞

1898年 惟一館で社会主義研究会(安部磯雄・川上肇、片山 潜・幸徳秋水ら)発足

1901年 惟一館で安部磯雄らが社会民主党結成、2日後政 府の結社禁止命令

1902年 山口文象が東京の浅草で出生

1911年 東京ユニテリアン教会が統一基督教会と改称、鈴木 文治が幹事に就任

1912年 惟一館で鈴木文治を会長として労働者の共済修養 団体「友愛会」を設立

1817年 松岡駒吉が東京友愛会本部に着任

1919年 友愛会を大日本労働総同盟友愛会(総同盟)に改称 (更に「総評」、「同盟」、現在の「連合」に至る)

1920年 J・コンドル東京で逝去。総同盟が日本労働学校を 開校

1923年 山口文象が創宇社建築会結成、建築運動は左傾化 ユニテリアン教会が関東大震災や会員減少で日本 から撤退

1930年 安部磯雄、賀川豊彦、新渡戸稲造、吉野作造らの 支援で、総同盟が惟一館の土地建物を買収。山口 文象たちが新興建築家連盟を結成するも赤宣伝に よって瓦解。山口文象がヨーロッパ遊学(~1932 年)、ベルリンのW・グロピウスに師事して最先端の 建築デザインに携り、日本人左翼グループと交流

1931年 総同盟が財団法人日本労働会館(松岡駒吉理事 長)を設立、財団資産とした惟一館を改装して「日本 労働会館」と名付けて労働運動の拠点にする

1934年 松岡駒吉が日本労働総同盟会長となる

1936年 惟一館の隣に「青雲荘アパート・友愛病院」建設(設 計:山口文象)建設

1938年 牛込の神楽坂食堂を東京市から引き継ぎ営業開始

1939年 川崎に第2青雲荘・友愛病院を開設

1940年 政府の産業報国会強制加入措置に反対、総同 盟が自主解散

1945年 米軍機空襲で日本労働会館焼失、青雲荘は一 部燃え残り

1946年 松岡駒吉が再建した総同盟会長となる。青雲荘 の焼け残りコンクリートビルを修復して神楽坂食 堂の権利を継承した「芝園食堂」を開設

1949年 労働会館跡に山口文象設計「総同盟会館」・「全 繊維同盟会館」を建設

1958年 松岡駒吉が東京で逝去

1964年 更地にして「友愛会館」を建設(設計:大阪建築事務所)

1977年 友愛会館の北に「ホテル三田会館」建設(設計:大建設計)

1978年 山口文象が東京で逝去

2012年 更地にして「友愛会館・三田会館」を建設(設計:安井設計事務所)

◆参考資料

・『財団法人日本労働会館六十年史』(1991年、渡辺悦次著、日本労働会館発行)

・『松岡駒吉伝』(1963年 中村 菊男)

・『全日本労働総同盟ひとすじの道: 民主的労働運動の歴史』第1巻(1978年、山口義男, 全日本労働総同盟教育局)

・『ジョサイア・コンドル建築図面集』(1981年、ジョサイア・コンドル著, 河東 義之編纂)

・『日本文化に見た夢お雇い外国人建築家コンドル先生重要文化財「ジョサイア・コンドル建築図面」 : 平成21年度京都大学図書館機構公開企画展』ページ

http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/91248/1/Josiah_Conder_Drawings.pdf

・『友愛会歴史研究』サイト http://www15.ocn.ne.jp/~uirekisi/index2.html

・『全繊同盟史』第2巻(1965年 全国繊維産業労働組合同盟)

関連ウェブサイト

「山口文象+RIA論」

https://sites.google.com/site/machimorig0/#bunzo

「山口文象アーカイブス」

http://sites.google.com/site/dateyg/bunzo-archives-1