1941‐49年 戦中・終戦直後時代

1945年

・終戦で丸の内の事務所を接収される

3月の東京大空襲で、京橋銀一ビルが焼失してオフィスを丸の内に戻した。8月に終戦、9月にアメリカから進駐してきた占領軍用に事務所のある三菱仲四号館が接収され、オフィスも無くなった。

この頃より「日本民主建築会」結成の準備活動を精力的に行なう。

・相模湖畔に芸術家村を計画するも実現せず

この頃、神奈川県の相模湖のほとりに疎開していた新制作協会の画家猪熊弦一郎や脇田和らとともに、湖畔に芸術家村を計画したが、実現しなかった。

1946年

・建築運動に関わる

3月には「日本再建技術者協議会」創立の準備会を設立して、山口は世話人となる。7月に東京・神田公会堂で、「日本民主建築会」として結成され、正式会員は百余人で、山口は事務局の調査研究部に属している。この会は創宇社建築会の流れを色濃く引き、事務局には山口のほかに今泉、梅田、竹村、野口、平松の名が見える。

1947年

・新日本建築家集団結成に参加

6月に「新日本建築家集団」(NAU)が発足した。これは先年結成の日本民主建築会と日本建築文化連盟が合同し、他からの会員もいれて約150名で、「日本人民による民主日本の建設」を標榜して立ちあげた「建築技術者」の会であった。創宇社からは今泉、竹村、野口が常任委員に、平松が事務局長になった。

山口も参加して、48年1月に都庁舎コンペ問題専門委員、同2月歴史部会において「分離派以後の建築運動について」とする報告、49年6月から中央委員(この年度限り)、同10月近代日本建築運動史講座で「分離派建築会」の講師を務めるなどしている。

この後52年頃から建築界も戦後復興で忙しくなってきて、NAU本部機能が停止、次第に活動が消滅していった。

・事務所を東京渋谷区千駄ヶ谷に移す

東京渋谷区千駄ヶ谷の、妻の実家である千坂邸二階に事務所を移した。所員たちが戦地から復員してきだしたが、仕事は依然としてほとんどなかった。

・作品:中国人作曲家の碑(神奈川・藤沢、「新建築」47・4月号)

1948年

・高松近代美術館・久ヶ原教会を設計

戦中から親交のあった画家・猪熊弦一郎から、この頃、高松近代美術館と久ヶ原教会の設計を紹介された。

・作品:東京都交通局舎(東京・中央)、中西利雄アトリエ(東京・中野)、高松近代美術館(香川・高松市)、立教大学チャペルのコンペ応募

・講演:「Die Rotentishe Anschaunung uber die Modern Bau Kunst」(2月 NAU歴史部会主催第二回講演会)

1949年

・山口文象建築事務所を解散(2月ころ)

事務所解散時の事情について、山口は後に語っている。

「私が戦前からやってきた山口建築設計事務所をどうしてやめにしたかというと、終戦後、つまりまず第一番の旗じるしが進駐軍の仕事をしないということ、それから防衛庁の仕事をしないということ。それから、その当時ヤミで儲けた人たちがキャバレーをこさえたなんかして、・・・そういうものを拒否しちゃったわけですよね。

その拒否したばかりでなくて、私の経営能力というものが非常に弱いんですよ。(中略)非常にへたなんです。だから仕事がだんだんなくなっちゃってきて、本当に尾羽打ち枯らし(中略)、差し押えは3度ぐらいくっちゃいました。

(中略)そのうえ丸の内事務所が接収されたので、そこら転々として、ここへ仕事を頼みに来ると、そういうのは困ると私はことわるでしょう。

(中略)山口建築設計事務所は戦時中26人いたんですが、それがだんだんめしが食えなくなってくる。それから終戦後、二・一ストをピークとして、つまり共産党の華やかなりし時代ですね。それでうちの山口事務所の人たちも必然的に傾斜していった。

(中略)そこに久ケ原教会の仕事が来たんです。そのほかにも住宅もくるんです。すると、この住宅はどこどこの会社の重役のだから、そんなものやれるか。という説が出てくる。じゃ久ケ原の教会はどうか、これは宗教は阿片だからわれわれのやるべきものじゃないということで拒杏される。

(中略)経済的にだめになって、払えなくなっちゃったんです。そのうちにみんなやめちゃって、退職資金なんかうちのものを全部売っても出せない仕末でした。それで私ひとりになっちゃったんですよ」

事務所解散にあたって、青写真コピーで2分冊の「山口文象建築事務所設計工員寄宿舎平面計画集成」を編集して所員に配布した。

●戦中戦後の山口文象について小町和義氏の証言

『二人の建築家の戦中戦後 建築家・小町和義氏インタビュー・

聞き手・記録・解説 伊達 美徳(2008年)』より抜粋引用

・戦争中の山口文象事務所の仕事

伊達…おはいりになった山口文象建築設計事務所(*1932年創立)は、もう京橋の銀一ビルにありましたか。

小町…多分、ぼくが入る前の年の1941年からでしょう。銀座1丁目の銀座通りのひとつ南の裏通りで、地下鉄の京橋駅の近くで、ビルの2階に事務所はありました。

伊達…では丸の内の三菱仲四号館はどうしていたのですか。

小町…仲四号館は山口先生の書斎で、先生とぼくだけが居ました。先生が奥の部屋に居て、ぼくは給仕部屋みたいのがあってそこに居て、先生のスケッチを清書したり、スケッチなどを京橋の事務所に届けたりしていました。

伊達…その頃の所員はだれだれですか。

小町…浅見静雄、渡刈 雄、角取広司、遠藤正巳、和田富朗、榊原博、矢内弘、吉原幸雄は構造担当、岡田敏雄は建築家の岡田哲郎の弟で画家志望、寺田 弘、久保富夫、山口和男それにぼくです。戦後、先生の弟の山口栄一さんが兵隊から戻ってきました。

仕事は、光海軍工廠(*山口県光市)などの軍需工場の工員宿舎が圧倒的に多くて、もう忙しくて忙しくて、時には学校を休まなければならないほどでしたね。

ぼくは工員宿舎の伏せ図ばかりを書かされましたが、とにかく建築面積が大きくて、幅5厘の平行線を書くのも大変。大判の製図版の上で端から端まで線を書くのに鉛筆を回しながら引くのだけど、図版にずっと伏せた体勢で描くから、肺病になったのかと思ったくらい胸が痛くなってね。

伊達…図面も大変ですが、できた建物も100メートルもあるような廊下だと、それは空間としてどんなものだったんでしょうね。

小町…できあがった図面を折りたたんで発送するのに量が多くて大変、リヤカーで郵便局に運びました。でも建った建物は一つも見ていません。

伊達…ここに元・光海軍工廠の写真があります。1980年頃にわたしが現地を訪ねて写しましたが、そのときは武田薬品工業の工場となっていました。もう工員宿舎はなくて、玄関近くにあった事務所らしい二つの建物の写真を撮りましたが、これをご覧になっていかがですか。

小町…上のコンクリートの建築は違うだろうけど、こちらの木造2階建てのほうは、なんだかデザインが当時のもののようですね。戦前のものですか。

伊達…見たところでは戦前の感じでした。

小町…この木造の事務所風建築は、山口文象事務所のデザインの可能性はありますね。連窓ではなくてボツボツとした窓のつけ方とプロポーション、庇があまり出てなくて寄棟の形は、なんとなく覚えのあるデザインだなあ。戦後になって設計して有楽町駅前に建った東京都交通局の建物によく似ていますね。これの設計図をぼくが描いた記憶はないけれど、山口事務所作品の可能性がありますね。

伊達…それでは山口文象作品の新発見ですが、なにしろ訪ねたのが30年くらい昔のことなので、今もあるかどうか分かりません。工員宿舎の設計について、山口先生はなにか創造的なデザインされていましたか。

小町…工員宿舎には山口先生はあまり細かいことは言わなかったですね。先生が仲四号館で簡単なスケッチを作り、それをぼくが京橋に運びました。(中略)

・京橋銀一ビル内に事務所を移す

山口文象建築事務所を京橋に移し、仲四号館は自身の書斎とした。この頃は渡苅雄がチーフで、徳山や光の海軍工廠等の設計を行なっていた。2月に長女・苑子が誕生した。

・作品:在盤谷日本文化会館設計競技、五味邸(東京・田園調布)、熱海酒井別邸(熱海市)、荏原製作所羽田工場工員寄宿舎其ノ一・其ノ二・其ノ三(東京・羽田)、日本機械製鎖株式会社工員寄宿舎、光海軍工廠松原口第一・第二工員寄宿舎、同松原口第一工員病舎、同島田第1工員寄宿舎(光市)、住友金属株式会社和歌山中松江第二工員寄宿舎(和歌山・中松江)

1944年

・作品:東北帝国大学大回流水槽高速力学研究所(設計、着工するも翌年4月仙台大空襲で破壊)、住友金属株式会社和歌山中松江第3工員寄宿舎(和歌山・中松江)、荏原鋳造株式会社工員寄宿舎(2月 東京・羽田)

●山口文象の戦中と終戦直後の時代

伊達美徳(『新編 山口文象人と作品』1982より抜粋)

1941年

・軍需工場の工員宿舎を数多く設計

日本全体に戦時色が強まり(12月に日米開戦)、仕事は 国産軽銀株式会社の嘱託技師を兼任するなどして、妻の関係から来た軍需産業の工場や工員寄宿舎が中心となってきた。所員たちも次々と応召していった。

後年の山口は、軍の仕事をしたことについて、うしろろめたさを感じているらしく、こう語る。(9)

「第二次大戦が始まりまして、私は縁戚関係がありまして、海軍の仕事をやらなければならないことになりました。

海軍からは、この仕事をやるようにと命令が参りましたが、私は反戦主義者でございましたので、武器の工場をデザインすることは絶対にいやだと表明いたしまして、私は戦中に兵器工場の設計をしたことはありません。当時はどこからも仕事は来ません。

全国から兵器工場に、徴用工が集められ、兵器工場の近所に宿舎をつくることになりました。私が担当しましたのは山口県の光市の工廠で、徴用工のひとたちの宿舎を造ることでした。

もうひとつは家族もちの家のタウンプランを光市の郊外にやりました。安いバラックを早急に作る仕事でしたが、一生懸命にやりました。これが私の戦中の仕事です。工場ではなく、そこではたらく人たちが、休養しよりよい生活ができるように一生懸命に考えました」

実際には、昭和飛行機信州工場や荏原製作所など、少ないながらもいくつか軍需工場の設計もしているようである。

・作品:秋田製鋼㈱鶴見工場寄宿舎(神奈川・横浜市)、昭和飛行枚信州工場(長野・小諸)、富士飛行枚青年学校、佐々木象道アトリエ(東京・目白)、横尾海軍中将邸(東京・市ヶ谷)

1942年

・作品:上代たの邸(9月東京・目白)、光海軍工廠の一連の共同宿舎群(山口・光市)、国産軽銀株式会社岩手工場寄宿舎、住友金属株式会社和歌山工場中松江第一寄宿舎(和歌山・中松江)、富士飛行機工員寄宿舎、東京市大森工員寄宿舎(東京・大森)

1943年

・山口文象は戦争加担は一切しなかったか

◆山口文象は1970年代は講演や座談会で、建築家の戦争責任を追及する話をよくした。

たとえばもっとも追求を激しくしたのは内田祥三が東大総長として学徒出陣を送り出したことに対してであり、そして自分は戦争には一切加担しなかったというのであった。

しかし軍需工場の設計もあるようだし、日泰文化会館コンペに応募しているし、本当にそうであったのだろうか。

当時を一番良く知っている小町さんに私は確かめたかった。

なお、1982年と2003年刊行の「建築家山口文象 人と作品」にこのコンペに山口文象は佳作となったと書いたが、当時の雑誌「新建築」にはその記載がないので誤りだったようだ。

伊達…戦争中の山口先生の仕事について、ずっと気になっていることがあるのでお聞きします。

1970年代からのことですが、山口文象先生は、「戦争中には自分は戦争に加担する仕事は一切しなかった。ただ、妻の縁戚が海軍中将だったこともあって海軍の軍需工場の仕事を断れずやったが、それでも武器工場の設計はしないで、工員たちが快適に過ごせるように宿舎の設計だけをした」というお話を、講演などあちこちでされて、わたしも聞いています。

しかし、戦争中の仕事を調べると、富士飛行機とか荏原製作所とか、先ほどの光海軍工廠の事務所とか、工員宿舎と比べると件数は少ないのですが、軍需工場を設計しなかったと言い切るのはどうかと思うのです。日泰文化会館コンペだって、大東亜共栄圏構想への加担ですよ。小町さんは戦中に山口先生のもっともそばにおられたので、そのあたりを確かめたいのです。

小町…少ないけど軍需工場の設計もありますよね。しかしね、工員宿舎だって軍需工場の一部なんだから、十分に戦争に加担した仕事であると、ぼくは思っています。工員宿舎だから戦争加担していないというのは、今のイラク戦争の後方支援だから戦争加担でないというのと同じで、おかしいですよ。

伊達…小町さんがそのようにお考えと聞き、話をしやすくなりました。建築家の戦争責任を追及することは必要だったと思いますが、自分の手がマッサラというには無理があると思うのです。わたしにも師である建築家としての山口文象を貶めるつもりはありませんが、事実は事実としてきちんとしておくべきと思うのです。十分に立派な仕事をした人であっただけに、事実を曲げては不幸なことだと思うのです。

小町…あるとき、建築運動史の勉強の会議で、竹村新太郎さんがそのメンバーだった創宇社建築会のことを話し、山口文象先生は聞き役の側で、ぼくも参加していました。終わってから質疑などになったとき、山口先生の隣にぼくは居たのですが、先生が突然に立ち上がり、「わたしは戦争に加担する仕事はまったくしたことがない、そのことはここに座っている小町君が一番よく知っている」といわれたのです。これにはわたしはちょっと唖然としたね。

伊達…えっ、それって口封じみたいですね(笑)。

小町…そのとおり、あとで廊下で竹村さんからいわれましたよ、「コマッチャン、口封じされたね」、ぼくは「しょうがないですね」って(笑)。まあ、突っ込んで話す機会があれば、「先生それは違いますよ」といってもよかったのですが、命の恩人でもあるし、みんなの前でそこまでできなかったですよ。工員宿舎であっても軍需工場付属の宿舎ですから、これだけ多くやれば戦争加担といわなくてなんだろうと思いますよ。

ほかの設計事務所は当時は苦しかったはずですが、山口事務所はこんなにたくさんの仕事をしていたんですよ。本当は、ぼくも含めてざんげするべきと思っています。それをしないどころか、戦争加担一切しなかったと公言するのは、どうもねえ。山口先生は一面では、事情をよく知っているぼくに対して警戒心もあったようですね。だから口止めしたのでしょう。(中略)

・山口事務所の解散事情

伊達…山口文象事務所は1949年はじめに解散したのですね。それについて山口先生の話を聞いたことがあるのですが、そのころ左がかった所員が多くて、ブルジョア住宅の設計とか久が原教会のような宗教建築はけしからんと言うので、仕事ができなくなったのが解散の原因だったそうです。本当にそういうことがありましたか。

小町…いや、そんなことはまったくなかったなあ、だって久が原教会は解散後の先生の仕事ですし、ブルジョア住宅の仕事なんて聞いたことも、けしからんなんて言ったこともないですよ。その少し前には先生と一緒に立教大学のチャペルのコンペを一生懸命にやったくらいですから、宗教建築だからけしからんなんて言いませんよ。

昭和23年頃には給料も半年以上遅配していたので、年の暮頃に二見さんとわたし(浅見さんもいたかどうか)で先生のところに行き、仕事もないし給料のことも含めてこれからどうしたらよいか相談しましたよ。先生も経済的に行き詰まりの状態だったので、これをきっかけに解散の決心がついたのだと思いますね。

事務所解散は経済的破綻が原因なのに、所員の左傾化のせいのようにすり替えたり、またそれを公言するのはひどいと思いますね。

その左がかった所員はぼくのことのようですが、先生と喧嘩するどころか、先生はもう少しうちにいなさい、どこか就職先を探してやるとおっしゃって、実際に東京建築設計事務所を紹介してくださったのですからね。

伊達…そうだったのですか。山口先生は自称左翼といいながら、平松義彦さんのようにやろうと思えばできたのに、どうして労働組合関係の仕事をしないで事務所の解散し、売り食いするほどの貧乏をしていたのでしょうかねえ。

小町…う~ん、それはねえ、先生は文化人には知人が多かったけれど、労働組合運動の中には知人がいなかったからでしょうかね。

伊達…よく分かりませんが、東京下町の浅草の出だけど、その後に有名建築家となり、山の手に住み丸の内に事務所を構えると、人生観も変わったのでしょうかねえ。それとも戦後の鬱屈状態がそうさせたのでしょうか。

小町…どうでしょうかね。(後略)

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