戦後復興期の都市建築をつくった建築家小町治男氏インタビュー

戦後復興期の都市建築をつくった建築家

小町治男氏にその時代を聴く

インタビュアーと記録:伊達美徳

立会:横内啓氏(小町治男氏の甥・建設会社設計部員)

場所:浦和市内の喫茶店

日時:2013年11月9日14:30~17:00

はじめに

 建築家の小町治男氏は、戦争直後に出発した建築家への学業と修業の同時進行の道程において、建築家で東京大学の池辺陽のもとでの実験的住宅設計から、戦後の不燃都市づくりに貢献した建築家の今泉善一のもとでの防火建築帯づくりに携わった。
 ここに戦後復興期の都市建築づくりについて聞きたくてインタビューをした記録を、小町さんのご了解を得て公開する。その頃の建築界のひとつの貴重な断面を興味深く見せてくれる。
 なお、建築家小町和義氏の弟であり、わたしは以前に建築家山口文象の弟子としての和義氏に、戦中と戦後のその周辺のことを聞くインタビューをしたことがある。それも戦後復興期にかかわる貴重な証言である。


伊達:今日はありがとうございます。今日一緒にきていただいた甥ごさんの横内啓さんと一緒に、以前に、小町さんの兄上の小町和義さんにお会いして話を伺ったことがあります。小町家のこと、山口文象事務所やその後のことなどでした。ですから、小町家のことも若干は存じ上げています。跡取り息子の兄上が、山口文象の弟子になるので八王子の宮大工の家を出て行ったので、弟さんのほうに跡継ぎの話は回ってこなかったのですか。

小町:跡継ぎにするという雰囲気はなかったねえ。戦時中は寺社建築の仕事は無くなって、オヤジは軍の加工廠といって軍の建築のいろいろなものをつくるところに勤めていたんだね。

伊達:寺社仏閣は不要不急の建物だということで、仕事がなくなったのですね。

小町:そうだろうね。軍の加工廠は多摩の府中のあそこらへんにあったと思う。親父は家業にも見切りをつけたかもなあ。それでなければ、オヤジは兄貴を山口文象さんのところにやらないで、京都あたりの宮大工に弟子入りさせたでしょうよ。われわれの義兄の坂本一雄さんが山口文象さんを紹介したのですが、坂本の兄貴は当時は東北工業というところに所属していたらしく、山口文象さんもその会社となんらかの関係があって知っていたのかもしれないね。

伊達:では、弟の小町さんはどうされたのですか。

小町:わたしは小学校6年の時に小児結核をやりましてね、一年間、学校を休んだのです。でも、ツベルクリンが陽性になっただけだったのだけどね。あの頃は今の癌みたいに、結核について敏感だったからね。1年ですっかり治り、遅れて小学校を卒業して、国立の第一山水中学校を受けて入ったのです。その頃は小学校から中学校に行くのは、卒業生の半分くらいだったかな。そこは軍人の子弟ばかりの学校でしたね。同級生に阿南陸相の息子とか、甘粕大尉の甥とかいましたね。教員も軍属ばかり。でも、入って次の年には終戦になったけどね。校長は清水喜重といって、陸軍中将閣下だったので、終戦からしばらくは誰かがかくまったらしいね。

伊達:その頃、兄上の和義さんはどうでしたか。

小町:その終戦になる前の年、山口家に住み込みでいる兄貴が、山口家が小海に疎開するので、その荷物を来る日も来る日も背負っては運んで中央線で往復し、途中でうちによく寄っていたねえ。そうすると親父が喜んでね(笑)。兄貴はぼくをいろんなところに連れて行ってくれましたよ。山口文象邸にも連れて行ってくれたことがあるし、東京建築事務所にも遊びに行ったこともあった。戦後しばらく家の切り盛りは3番目の姉があたり、その姉が嫁に行った後は4番目の姉の久保昌子がしていました。この姉が共産党でね、しょっちゅう三多摩地区委員会へ活動に出かけていましたねえ。その時の同志が久保喜太郎さんで、それと結婚して苗字が久保になったんです。

伊達:えっ、小町和義さんも一時は共産党でしたね。

小町:わたしもそうだったんですよ。山水中学を3年で卒業し、都立立川高校の夜間部に入り、共産党に入りました。高校から2年ぐらいやってたかな、そうしたら共産党で活動路線問題でゴタゴタがあり、わけがわからない自己批判書を幾度も書かされるなんてことがあって、いやになって脱党しました。

伊達:八王子の宮大工の家業の仕事はどうでしたか。

小町:わたしは中学の時から、学校の休みにはオヤジの現場の手伝いをしていました。カンナやノコギリの置き方とか道具の整理の仕方など、いろいろね。でも今、良い道具や資料は兄貴のところにばかり行ってるね、宮大工の仕事は一子相伝だから仕方がないね(笑)。中学校、高校の時には絵描きになりたかった。でも、戦争で家の経済事情が悪化してね、それで高校1年の夏に夜間部に移ったんだ。それでも絵描きになりたかったが、周りにいた絵描きたちは食えていない様子だったからね、それで親父に頼んで、八王子の親父がつきあっていた設計事務所の尾張工務店に入れてもらったが、そこは建築申請専門屋さんだった。でも、何カ月も給料をくれないので1年で辞めて、そのころは東京建築事務所にいた兄貴に泣き付いたら、今泉善一さんを紹介してくれて、品川神明町仁愛病院の中にあった今泉建築設計事務所に入った(1949年)。

伊達:以前に小町和義さんに聞きましたが、小町さんがいた山口文象事務所が1947年に解散したので、山口先生の紹介で東京建築事務所に入ったそうです。今泉善一さんといえば、創宇社建築会の一員だったし、共産党の地下運動で大森ギャング事件に関わって下獄し、終戦直前に刑期を終えてすぐに山口文象事務所にやってきたそうです。受付にいた小町和義さんがあって、山口文象の部屋で何か話をしていたそうです。小町和義さんは今泉さんの事件のことを知らなくて、あとで聞いてびっくりしたそうです。

小町:今泉さんは、戦争の終る直前に刑務所から出てきたんだね。10年の刑期だから満期だろうから、転向しなかったんだろうね。あの事件は共産党に潜り込んだスパイにそそのかされてやった強盗事件で、当然一網打尽になった。その今泉さんの弟子がこのわたしですよ(笑)。わたしは1949年に今泉さんがつくった今泉建築設計事務所に入り、財団法人建設工学研究会、㈱日本不燃建築研究所をへて、1959年までずっと継続して今泉先生のもとで仕事をしました。

伊達:どんな人がいて、どんな仕事していましたか。

小町:今泉さんは刑務所を出て山口文象事務所にまず行って、それから前川事務所に入ります。1948年に前川事務所をやめて東京建築設計事務所を創り、更に今泉建築事務所を、東大から来た北川充昭、早稲田から来た室伏嘉文、武蔵工大から来た鈴木などと新たに設立したのです。その後、竹村新太郎さんも関係していたと思うが、品川区の麻布箪笥町に日本建設企業組合ってのをつくって、そこに今泉事務所の全部が移りました。この組合は、今でいう建設業協同組合の前身のようなもので、大工と設計屋がごっちゃに加入していて、職人たちの健康保険事務などもきちんとやっていました。ここの幹部クラスに今泉、青戸、梅田穣がいた。梅田さんは、昔は今泉さんと同じ創宇社建築会の仲間で、戦中は東京都の役人だった。この組合の大工に来る住宅などの設計の仕事をしていた。麻布箪笥町の丘の中腹にある畑の中に、コンクリ仮枠用の尺5寸×6尺の堰板でつくった掘立小屋が事務所だった。窓も堰板の突出しのあばら家だった。立川の高校に夜間通学しながらここに通っていたけど、この組合も長くはありませんでしたね。

伊達:今泉さんのところで小町さんはどんな仕事をなさいましたか。

小町:今泉さんは東京建築事務所に事務局があったNAUの仕事をして、東大の池辺さんと知り合いになったようです。わたしは今泉さんのやるビル系の仕事は物が大きすぎて荷が重いので、池辺さんの住宅系の仕事に回されていましたが、1955年に今泉さんのもとにもどりました。池辺先生のもとでやった仕事は、池辺先生が研究しているGMモジュールを基にした設計の今泉さんと池辺さんの自宅の共同住宅、画家のアトリエ住宅、建設省建築研究所実験住宅などでした。

伊達:では防火建築帯の仕事はどうだったのですか。

小町:今泉さんは防火建築帯の仕事ばかりやっていましたが、わたしは時々その今泉さんの仕事もやりました。1951年4月、東京大学生産技術研究所の坪井善勝さん、池辺陽さん等が財団法人建設工学研究会をつくり、沼津の防火帯の仕事をすることになり、建築の実務をよく知る今泉さんを引きこんだようです。沼津の仕事は池辺さんが生産技術研究所で沼津市公会堂の設計をしたことが縁できたようです。建設工学研究会の創立準備の頃の事務所は新橋駅近くの甘粕ビルの屋上にあり、後に港区明舟町の日本計量協会内(現・消防会館の隣)に移った。常時いるのは池辺、今泉、小芦、吉田正輝、吉田秀雄、みなぎしやすお、北川允昭、室伏嘉文、吉田桂二、小宮山雅夫、中原暢子、関野昇三(構造)、渡辺仙蔵、柳下、小泉、村井友治、それに私でした。新制作派協会の事務所も、池辺先生がその建築部の会員であったので、建設工学研究会の中にありました。建設工学研究会は、次第に防火建築帯のビル系と住宅系とに、仕事分野も人も分かれる傾向になって、それがやがて不燃建築研究所と連合設計社とに別れることにつながります。

伊達:食えるだけの給料が出ていましたか。

小町:わたしは給料をもらってはいたが、他の人よりも少なくて、昼飯も貧しかったねえ、パンの耳を買って5円の豚汁と一緒に食うとかね(笑)。でもね、そんなことが平気な時代だったね、世の中全体が貧しくてね。このころは大学浪人をしていたね、4年も。吉田桂二と小宮山が芸大だったのであこがれて、芸大を4回受けたけど入れなくて、日大工学部の夜間しか間に合うところがなくて受験して入ったんです(1955年)。

伊達:芸大の建築を受験していらしたのですか。

小町:そう、建築学科を受けていたんだがねえ、20名しかとらないんでねえ、絵画の方を受けていたら入れたかもなあ、そっちのほうがなんとかなったかなあ。でも入れたとしても昼間だからこまっただろうね。それにしても、小学校から何年もよく浪人をしたもんだと、われながら思うよ(笑)。

伊達:1957年に、建設工学研究会から不燃建築研究所ができるのは、なにがあったのでしょうか。

小町:(財)建設工学研究会が㈱不燃建築研究所と団設計(後に連合設計社)とに分かれた。池辺さんは大学の研究者だから、実務の建築設計関係を分けたのだろう。わたしは当時すでに今泉・池辺の混血児だったので、どちらにいくべきか、あるいは追い出されるかもしれない、なんて迷ってねえ。吉田秀雄さん(松本工専、東大第2工学部卒)に相談して、その助言で不燃建築研究所に行くことになったのです。吉田さんは岐路にたたされた私にとっては恩人ですね。不燃建築研究所の当時のメンバーは、今泉、小芦健一、吉田正輝、高田、梅田穣、北川、室伏、小町治男、有馬。事務所は銀座の当時は東京温泉があった真向かいの山田ビル5階でした。

伊達:防火建築帯のような仕事では、商店街の大勢の人をまとめるに苦労があったと思うのですが、今泉さんはどんな方だったのですか。

小町:今泉さんは、癖のない人でね、例えば二人が対立したときなど中に入って両者の立場が立つように上手にまとめる才能があり、だれでも同様に扱うひとだったなあ、敵のない人だったね。町場の人ともよく付き合っていた。不燃研で仕事をとってくるのは、小芦健一さんだった。この人は日本赤煉瓦協会というところにいた人で、煉瓦とか硝子容器などの材料試験を東大の生産技術研究所でしていた縁で、池辺さん、坪井さんとつながりができて、この世界に入ったのだろう。設計の技術屋さんではなくて、如才ない人で人を集めて共同建築をつくる話をまとめるのが上手だった。

伊達:不燃研ではどこどこの防火建築帯を担当なさいましたか。

小町:わたしは学校に行っていたから、遠くの仕事はできなかった。沼津の防火建築帯の仕事は建設工学研究会でしたが、そこでの終わりの仕事が、わたしが担当した柏と亀戸十三間通りの防火建築帯だった。亀戸は渡辺仙蔵さんが監督で、わたしはサブ監督。柏の第三のマツモトキヨシのビルは、わたしがはじめて監督をした防火建築帯だったね。その頃、マツモトキヨシ社長の松本清先生は県会議長をしていた。わたしは柏で松本清先生にかわいがられて(笑)、南柏にマツモトキヨシの第1店舗の設計をしたこともある。北小金の店の改造も担当したが、これは柏の監督をしながら個人の仕事としてやった。㈱日本不燃建築研究所が発足したのは亀戸が終わった後だが、事務処理的には建設工学研究会と重なっていた。ビル系の技術者は不燃研に全員が移った。

伊達:では沼津や魚津の防火建築帯は担当されなかったのですか。

小町:わたしがやったのは沼津の一部の設計、大館、魚津、横須賀三笠ビルには特には関係していないが、手伝いの図面を描くくらいはした。若いころから長い間、設計事務所の雑用をしながら、みんなを見てきたから、けっこう早く図面を描けて、重宝されたものですよ。柏駅前の防火建築帯は設計から現場まで全面的にやりました。本監督は高田、わたしがサブ監督でしたが、その第3期ではわたしが本監督だった。学校に行っている頃だったから、わたしは5時にはひきあげたが、当時は現場は夜もやっていましたね。

伊達:横山町や横浜翁町はいかがですか。

小町:わたしは横山町、蒲田は設計の手伝い程度をしたと思うが、担当は高田英二、有馬寅一、島内良平あたりだったと思う。高岡は小宮山雅夫が主担当、宇都宮は平山公一の担当、横浜翁町はだれが担当だったかなあ。渋谷栄町商店街もあったけど、完成したのかなあ。大宮一番街共同ビルは平山担当。今は随分汚くなっている。柏はどうなっているだろうかねえ。

伊達:柏駅前は再開発で建てなおされたから、もうないでしょうが、裏の方はあるかもしれないですね。

小町:(柏、宇都宮、亀戸、渋谷計画の写真を見つつ)防火建築帯の仕事をやっていると、商店街をしょっちゅう行ったり来たりしているから、店の人やお客などと親しくなる。お茶を飲んだり、うちに帰れない日などは店に泊めてもらったりして、街の人たちと親しくなったね。池辺さんのデザインは沼津にみるようなガラス張りの軽快なデザイン、今泉さんのデザインは柏に見るような形で、穴あきブロックが積んであるように、少々コンクリート気のあるどっしりしたものでした。わたしは1959年に大学を卒業、そして不燃研をやめて、連合設計社新橋事務所(みねぎしやすお所長)に移ったけど、その翌年には辞めて独立して自分の小町建築設計事務所を設立しました。

伊達:それはまた急な動きですね。

小町:不燃研から連合設計者に移る時は、嶺岸さんから今泉先生に話をしてもらいました。今泉先生としては、学生時代からずっと面倒見てきた男が、やっと使えるようになったと思ったら取られちまうなんて、どんなお気持ちだったんでしょうね。それだけ今泉先生はおおらかな人でした。わたしはずーっと申し訳ない気持ちでいます。

伊達:そこから、こんどは独立なさったのですね。

小町:その独立の動機は、柏で防火建築帯の第4期の単独ビルの仕事の依頼が、私個人にやってくれときたのです。連合設計社の社員になったからできないと断ったが、建て主からどうしてもやってくれと言われて、個人でやるわけにはいかないので困ってしまった。嶺岸さんにこの仕事を連合設計社で受けてほしいと頼んだが、やるというよい返事をもらえなかったので仕方なく、仕事の合間にやろうと個人的に始めたのです。ところが、あるときその現場からの帰り道で嶺岸先生にばったり出くわして(笑)、ばれてしまって怒られた。でも、柏では地元の人や市役所の建築課長菊田孝一さんたちと昵懇になっていたし、動いている現場を放っておくことはできないので、連合設計社をやめることにしました。それで1961年から個人事務所として仕事をしたのです。その後、1965年に㈱小町建築設計事務所をつくったのです。その後は、柏や松戸でいろいろと仕事が来て、マツモトキヨシの店、北小金の農協、染谷ビルなど、5人くらいのスタッフも雇って順調に仕事ができた。

伊達:いまも事務所をおやりですか。

小町:その建築事務所は25年ほど前にやめて、今は好きな絵を描いて悠々自適とは言えなくともなんとか毎年、個展を開いていますよ。

伊達:まさに悠々自適ですね、いいですねえ、ではこの次の個展の時は教 えてください。 (以上)

●小町治男氏 略歴

1931年 八王子市で出生。父は宮大工棟梁4代目。兄・和義(1927年生、山口文象に師事して建築家となる)

1944年 国民学校6年生の時に小児結核で1年間休学

1945年 私立第一山水中学校入学。8月2日に八王子空襲で焼け出された。

1948年 私立桐朋学園高校入学するも経済事情で都立立川高校定時制に転向。兄・和義の紹介で今泉建築設計事務所(品川区神明仁愛病院内)に庶務の係りで就職。

1950年 今泉の創った日本建設企業組合(麻布箪笥町)に移る。このころ(財)建設工学研究会設立準備中で、東大生産技術研究所の小野薫、坪井善勝両教授のもとに使い走りによく行かされた。

1951年 (財)建設工学研究会設立、事務所は虎ノ門。沼津市本通り防火建築帯設計

1952年 高校卒業。芸大受験失敗。今泉事務所に在籍のまま、東大生産技術研究所池辺研究室に勤務して、住宅系の仕事をする。

1955年 日本大学工学部建築学科に入学(夜間)。池辺のもとから今泉のもとに戻る。

1956年 柏駅前通り防火建築帯28戸の設計監理助監督、正監督は高田英二。同、3期の松本薬局ビル、鈴木魚店ビル、中村楽器店は正監督。

1957年 今泉が㈱日本不燃建築研究所を設立して移る。亀戸十三間通り及び亀戸4丁目防火建築帯設計監理助監督。

1959年 大学卒業。不燃研から㈱連合設計社(嶺岸泰夫)に移籍。日立ランプ小田原工場、日立ランプ大森山王寮、石津邸、渡辺邸などを担当。

1961年 連合設計社を辞めて個人事務所として仕事。柏駅前防火建築帯(染谷ビル、寺島菓子店)設計監理

1963年 このころマツモトキヨシの仕事を多くする。

1965年 ㈱小町建築設計事務所設立、代表となる。以後、数多くの建築設計を手掛ける。

1991年 株式会社を閉鎖して個人事務所として小町設計とする。若い時にあこがれた絵描きを趣味として個展を毎年開催。

(注:2013年12月27日小町氏による校正済み、「まちもり通信」サイト掲載につき了承済み。2013年12月31日掲載。文責は伊達美徳にあります。)