7月に入った時に気づいたのだと思う。「瀋陽日本人教師の会」HP、「山形研究室」HP、「野呂先生の思い出」HPが中国から見られなくなった。どれも私が作っているので、時々更新しているし、アクセスもしている。
このときは新疆で民族の間の大きな衝突が起きていて、当局はその沈静化、非拡大化に非常に気を遣っていたと思う。最初の衝突の時には外国メディアを積極的に 歓迎したが、その後では断固拒み通したと言うから、同じ理由でやばそうな外国のインターネットは遮断したのだろうと思った。
実際、2008年の北京オリンピックの前には上のURLは時々遮断されたのだった。意外だったのは、特に何かあったとは思わないのに、オリンピックが終わった後の10月から翌年の2月まで上記のサイトにアクセスが出来なかったことである。
上記のサイトはYahoo.geocitiesのサーバーで作っている。このときはこのサーバー由来のものは全部遮断されていた。ある学生は「そりゃアダルトサイトのためですよ」と言って笑っていたが、真偽のほどは知らない。Infoseekは記憶にある限りここでは遮断されている。二度も長期でHPが遮断されると不便である。教師の会のHPは、瀋陽で私たちが活動している証というか、その状況を記録しているので、外部の人たちへの活動状況の発信ともなっている。しかしこのHPの内容にアクセスして私たちがいつも利用できる必要があるというのが本来の姿である。
HPを作るというのは面倒なものだ。特別なソフトがいる。ページからページに飛ぶ仕掛けにも、一字でも間違えたらどうにもならない。結構神経を使う。今年の初めの時点でも教師の会のHPを新たに別のURLで作ろうかと始めたけれど、無料のHPとなるといろいろの制約がある。大きさの制限、FTPが使えないとか、いろいろと不自由である。
それで、いくつかのプロバイダーで作り始めたが中途半端で終わってしまった。さてこの夏、教師の会のHPへアクセス不能という二度目の事態に、新たに作らなくてはという決意をついに燃え立たせた。学生の陳陽に、これこれしかじかの事情なのだが、中国で遮断されないような無料のサーバーはないだろうか、と聞いてみた。
すると彼の言うにはGoogleはどうでしょう、という。言語は何でもいいし、作るのがとても簡単そうですよ、という。すでに過去二年にわたってGmailを使っているので、Googleには親近感がある。
ブラウザにはFirefoxを使っているけれど、いつもアクセスしているのはGoogleなのだ。GoogleでHPを作るには、GmailのIDを持っていないという前提で書くと、GoogleのHP(http://www.google.co.jp/)にアクセスして「サイト」を選ぶ。上に「ウェブ 画像 動画 地図 ニュース グループ Gmailその他 ▼」というのが並んでいるので「その他▼」をクリックすると出てくる中に「サイト」というのがある。
ここでGoogle IDを登録する。IDがそのまま、HPのURLに使われる。同時にGmailの自分の宛名になる。
そしてmy siteを選ぶと出てくるサイトがあるのでそれをクリックすると、自分のHPの作成ページを始められるのだ。
この頃クラウドコンピュータという言葉を聞くことが多い。初めて聞いただけではイメージがわかないが、こういうことらしい。いまは個別のPCにソフトウエアをインストールして使っているが、今後はソフトをサーバーに置いて使おうと言うことのようだ。
サーバー側の性能はいくらでも高めることが出来るし、ネットの容量と速度も向上できるので、こうするとそれぞれのPCにソフトを入れる必要がないから負担が軽くなる。自分のデータまでサーバー側に置くことも考えられているようだ。
これにはプラーバシーの侵害という異論もあるみたいだが、今だって、ブラウザーメイルはこの仕組みである。最初はメイルを自分のPCに収容しないことにとても不安を覚えたが、どのPCからもアクセスできて、自分に来た、そして出したメイルのすべてが何時でも何処でも見られる便利さに、Eudoraは埃をかぶったままである。
Googleのサイトは簡単に言ってみれば「ホームページビルダー」みたいなものがサーバーにあり、HP作成モードにするとそのソフトが動くと言うことだ。HPの専用ソフトを使って原稿を作り、次はサーバーにアクセスしてFTPを送るという心理的面倒さがなくなるのである。
これはGoogleが Microsoftに仕掛けた戦争の一部らしいが、私たちはこの便利さが享受できるのはありがたい。というわけで夏の間に、まず自分のHPを作り、「瀋陽日本人教師の会」HP、「山形研究室」HPもGoogleで作った。まだ建設途上だが、皆に宣伝したいほどHP作成が楽になった。
嬉しいことには、近くの巨大なスーパーマーケットである家楽福(正確に言うとCarrefour-カルフール-というフランス系の、日本でも知られているスーパーで、瀋陽に3店ある)に行くと、皇后西斯汀餅店が開店しているではないか。
瀋陽に来て最大の問題点は、美味しいパンの店がないことだった。
そういっては悪いけれど、私たちが1962年に東京から名古屋に行ったときに感じたことと同じである。あの頃はふじパンしかなかった。やがて敷島パンが始まったが、これも美味しくなかった。山崎製パンが名古屋でパンを売り出したのは名古屋に行って10年くらい経っていたのではなかっただろうか。
中国のほとんどのパンは甘く味付けしてある。そしてふにゃふにゃである。堅くてしっかりとした味のあるパン。どれほど探し続けただろう。家楽福はフランス系だからいわゆるフランスパンはあるが、不味い。アメリカ系のウオルマートの方が美味しいが、遠すぎる。
瀋陽の街の中心に東北育才学校がある。昔、日本が中国に侵略を始めたときその先兵だったのが満鉄で、満鉄はその鉄道付属地を手がかりにその手を広げていった。
この瀋陽はそのころは奉天と呼ばれて、経済の中心だった。元々ここは清国の発祥の地で故宮と呼ばれる城街地だったが、満鉄はその故宮の西に満鉄の瀋陽駅を作り街 作りをした。駅から数百メートルのその新開地の中心地に「千代田小学校」と名付けられた日本人小学校が作られた。
戦後、この千代田小学校は東北育才学校となり、この学校は瀋陽一の名門中学となった。外国語として日本語も勉強することが出来るようになっていて、そのため日本人の日本語教師が数人いる。
その先生たちと仲良くなって東北育才学校に行ったときに教えられたのが学校のすぐ近くにある皇后西斯汀餅店だった。美味しい店ですよ、一つ買っていったらと言われて案内された。見ると結構な値段がついている。ためらっていると梅木先生がこれとこれを先生のお土産にしますねと、さっさと店員に包ませてしまった。
店の中のレイアウトが感じが良く、写真を撮りたくて店員に聞くと駄目だという。なんと言っても駄目と頑張る。それで写真はあきらめて、外側が堅そうに見える12元という値のついたパンを買った。
この店のパンが美味しいのだ。感激してしまった。私の生活レベルからするとこの店のパンは高価過ぎる。それでも、それ以来二度わざわざそこまで行ってパンを 沢山買ってきた。教師の集まりがあって梅木先生に会うことがあると、お願いしてこの店のパンを買ってきていただいた。もちろん余分のパンはフリーザーで凍らせておくのである。ただ冷蔵庫に入れるとパンは不味くなる。
このパン屋が近くに出来たのを見つけたのだ。早速中に入って一つパンを買った。毎日朝昼パンを食べるので、沢山フリーザーに買い置きがしてある。今ここで沢山買ったらきっと今までのを食べずに終わるだろう。そんなことは出来ない。
そして写真を撮っていいかと尋ねた。
店員は駄目だという。「なぜ駄目なの。この店が近くに出来て嬉しいということを私のブログに書くから、写真も載ればいい宣伝になるじゃない、いいから撮らせ てよ」と私は頼む。店員は駄目だめと言い続けていたけれど、写真を撮ってしまうと、最後には「ありがとう」と言ってくれた。
もちろん買い物に一緒につきあってくれた学生の暁艶さんが、店員を中国語で説得して呉れたのである。
というわけで、滅多にないはずのこの店の写真を添付するけれど、これって店の外の写真じゃない。上に載せた写真と同じだよね。
何度も書いているけれど、瀋陽で日本語教師をしている日本人を中心とした集まりがある。規模は40人を超えたこともあったが今年は16人と少ない。瀋陽で日本語教育に携わっていても、「日本人教師の会」に入るのは面倒、人付き合いが厭などの理由で入らない人が出てきたようだ。
それぞれ自分の好きなように生きればいいけれど、瀋陽日本語弁論大会というのが瀋陽日本人会の主催で行われていて、教師の会はこの企画・運営の中心を担っている。さらには、学校で作文を書かせて、集めて、それを審査してと言う作業に、教師はどっぷりつかっている。教師の会に入っていなくても、その学校や学生はこの弁論大会に関わるのだから、お互いやり難いことになるのではないかと心配である。
弁論大会は日本人会がスポンサーである。実行委員会を教師の会の人たちが組織して、必要に応じてあちこちを飛び回っても交通費は自弁と言うことはない。日本人会が予算を持っていて、ちゃんと払ってくれる。
ところが、これ以外の活動は、教師の会がだいたい有志の集まりというか、ボランティアの会というか、互いに異境の地で助け合っていきましょうと言うことで出来た集まりなので、活動はすべて自前でやってきた。
一つには自発的な集まりだから活動は自前であるというのは自明だったし、交通費を教師の会から出すほどのゆとりもなかったのだった。従って何かの必要な交通費を会から出そうかとかいう議論すら行われず、すべて自前との認識でやってきたと思う。
この教師の会の良いところは、会員誰もが必ず役割を持つというところである。会の運営には全員から選ばれる代表のほか、代表が指名する幹事がいるが、彼らを 含めて全員が、書記・会計、研修・レクリエーション、ホームページ、日本語クラブ、弁論大会、文化祭などのどれかの係を一つはやる必要がある。このような会の存在を私はそれまで知らなかった。初めて接してすっかり惚れ込んだと言って良い。
どの係をやりたいか自由意志で決めるわけだが、最近、この係を志望するにあたって、あそこは損だとか、あそこは得するとか密かにささやかれているということ を聞いた。つまり、親方日の丸の弁論大会係は得だが、ホームページ係は大変なだけで良いことはちっともないとかささやかれて、係を志望しているらしい。
なるほど。
だからホームページ係の志望がほとんどいないのか。
このことを私に教えてくれた先生は、弁論大会係になっていれば交通費が全額出るのに、それ以外だと図書館に図書の受け入れ交渉に行くのも自弁だなんておかしいじゃないですか、会の活動のために動いているのだから、会が出すのは当然じゃないでしょうかという意見である。
なるほど。
資料室の移転が今まで3回 あった。移転のための交渉は代表はじめ幹事の私たちが駆け回った。実際の荷物の移動には会員は自弁で駆けつけて働いた。このとき、教師の会が負担した交通 費は、代表がそれぞれの機関と会見・交渉するときだけだった。すべての交通費を会が持てば赤字になるのは明らかだったし、皆が自分の分を出すのは(距離の 遠近はあるにしろ)、お互い同じだと考えたからだろう。
今年、図書館に書籍を寄贈したことでは、これらの書籍に目録を付けなければならないなど公的な交渉ごとがまだ沢山ある。この担当者が全部自費で交通費を出すのはおかしい。会は赤字になってもこの交通費を持つべきだろう。
今まで振り返ってみると、たとえば日本人会の幹事会には教師の会からオブザーバーが出ている。私は2006年から2年間この役をやった。幹事会は頻繁に幹事の移動がありそのたびに歓迎送別会がしかるべきレストランで開かれる。中国で日本企業が維持しているステータスのままなので会費は200元前後である。毎月4千元で妻と二人で暮らしている身にとって見ると高額だった。毎回の往復のタクシー代だって馬鹿にならない。
今年度は会の代表がこれに出席する。筋から行くと、会の公的活動を支えるための費用ならこれも会が持つべきであろう。しかし今年は会員16人で、入会費を入れても2千元ない。
この会が何処まで負担するかという原則をもういちど見直して、全員が賛同できる原則を確認する必要がありそうである。
研究室の休暇が8日間というのはかなり豪華である。教師の人たちに聞くと皆それぞれあちこちに行くのに忙しいみたいだ。
私は研究室に来ることを選んだ。夏の間サボっていたので溜まった仕事が沢山あるからだ。それでも、休みなのだという爽快な解放感が気持ちを軽くしている。
10月6日は休みの直前に停電が予告された。朝8時から夕方の4時までという。8時間の停電というとマイナス80度のフリーザーの温度が上昇して凍らせてある細胞が死滅する恐れがある。張嵐さんが前の日にドライアイスを注文して、それをフリーザーの中に入れた。
この瀋陽で私たちはいかにモノを知らない学生に物事を論理的にきちんと理解させるかに心を砕いているので、専門の言葉だけで話が通じる世界に住んでいる彼女たちは、ある意味ではうらやましい存在である。写真の一番左は、貴志豊和客員教授で、毎年薬科大学を訪ねること、もう二十年になる。
左から二人目が片桐洋子博士。
GLPと言う言葉は製薬業界ではあたりまえの言葉なので、薬科大学を訪ねてくる日本の人たちから良く聞く言葉である。
Wikipediaによると、「Good Laboratory Practice(GLP じーえるぴー)は、1970年代にアメリカでデータの改竄・誤認事件が相次いだことへの対策として、1979年6月に世界で最初にアメリカで実施された試験検査の精度確保確認のため標準作業手順法である。1981年には経済協力開発機構(OECD)がGLP基準を策定し、これを元にしたGLPの導入を各国に求めた。これを契機として各国において各種のGLPが制定された。」簡単に言うと、何かを(操作)するときの、正しい方法のマニュアル化とその基準化といってよいであろう。私たちの研究室には「山形研究室憲章」というのがある。
研究室の理念と、研究室での心得が書いてある。しかし、日本語だけなので、うちの研究室では一般化できない。それに、ここには書いていないこともある。この秋卒業研究生が今までの4人を大幅に超えて7人(だと思う)も来ることになった。
「来ることになった」なんて他人ごとみたいに書いているが、私がOKしたから私の責任なのだ。この秋から院生が減って研究室が寂しくなったために、手の掛かる新人でもいいから研究室に入れて賑やかにしたいと言う密かな願望が、実ってしまったのだ。
こんなに沢山になるとman to manで根気良く教えることが難しくなってくる。きちんとしたGood Laboratory Practiceを作っておけば、ぶれることなく研究室の大事なことを教えることが出来る。
これを実際に卒業研究生が来たときに直接応対が任される博士課程の人たちが提案してきたのだ、「GLPをきちんと作っておく必要があります」と。
研究室はLaboratoryだから、要求される水準を書き表せば私たちの部屋のGLPと言って差し支えない。暁艶がこのGLPのためのdraftを作ってくれたので10月10日の土曜日のジャーナルクラブの後で、張嵐にこのGLP作成の必要性を説明してもらった。そして皆が手分けしてこれの作成に掛かるように話して貰った。
15日には手分けした個別のかきこみ作業が終わり16日には張嵐の元に集まり、私のところに送られてきた。
17日には朝は片桐さんたちを路上市に案内し、午後は教師の会の定例会で何も出来なかった。18日の午前中に片桐さんの帰国を見送り午後からこれに取りかかった。
私が付け加えた項目は以下の通りである。
The aim of the Yamagatas’Lab: Every member will be brought up to first class scientist in research…
Active involvement in discussion: Discussion is the most effective way to train you
brains…
Our treasures: Your experimental notebook will be kept in…
Please promise: On explanation by some others of the procedure…
Weekly meeting: Every one is to meet our professors once…
Progress Reports: Everybody is requested to give a talk on…
Annual Report: At the end of every semester, you have to…
Journal Club: We have a Journal Club once a week, where…
Our properties: Cells, vectors, siRNA, reagents, labwares, machines, books…In the lab: You are not basically allowed to cook to…
As for keys: Do not give assignment to the keys…
10月18日月曜日午後1時に部屋に集まった7人に、張嵐と暁艶がこのGLPを説明した。ただし中国語だったので、私には本当の反応は分からなかった。
学生は熱心に質問しながら聞いていたので、さあ、これからが楽しみである。
私たちの研究室と、瀋陽日本人教師の会のホームページはYahooで作っていたが、ここからは見られなくなったので、やむをえずGoogleのサイトに作ったのがこの夏だった。クラウドコンピューターの発想のおかげと、MSとGoogleの対決のおかげで、IBMホームページビルダーのような特別のソフトなしに誰でも簡単にホームページを作ることができるようになった。
教師の会のコンテンツはホームページ係だけではとても手が回らないない位に成長しているから、誰でも気軽に作成が出来る方式を提供したGoogleには大いに感謝しながら使い始めた。
ところがこの10月に入ってからGoogle siteへのアクセスがだんだん難しくなった。つまり、Googleで作っているホームページの更新がやりにくくなった。そして10月12日からは完全に Google siteへのアクセスが遮断され、そしてGoogleの上のホームページは一切ここからは見られなくなった。
これがいつまで続くだろうか。
昨年、Yahooの私たちの研究室と、瀋陽日本人教師の会のホームページがアクセス不能になったのは10月で、北京オリンピックが終わったあとだった。始まる前ならともかく、終わってからの遮断だから、何時ものように数日で終わると思っていたら、再びアクセス可能になったのは年が明けた2月だった。
それが今年の7月からまた遮断されて、それがまだ続いている。
建国60周年を祝う国威発揚の国慶節は10月の初めだった。Googleの始めたホームページ作成のためのGoogle siteはそのときまでは使えたのに、国慶節後に遮断された。と言うことは、これがこの先の国の政策だとしか思えない。
YouTubeがここからはアクセスできない(見ることも投稿することも出来ない)ことは広く世界に知られている。今回の状況を見て私はTwitterにアクセスして発信しようとしたが、アクセス不能だった。つまり、読むことも、投稿も出来ない。最近聞いたが、今世界でどんどん広がっているFaceBookもアクセスが遮断されているという。
私のうちはケーブルテレビと契約して40チャンネルくらいが見られるようになっていた。私の見ているのは、Cinemax、BBC、Axen、National Geographics、FashionTV、など英語でみられるものだけだったが、それが突然映画Titanicの一場面のみを流すようになった。 学生に頼んで局に聞いて貰ったら、これは故障ではなく外国の番組が見られなくなったのだと言う。何故も、へちまも、ヘッタクレもない。見られないなら、ここでは見られないのだ。
それならこれらを見るという契約は意味がないので最低数のチャンネルの契約に切り替えて半年経ち、やがて契約期間が終わった。その機会にこの10月再度、上記の英語番組を見たいと申し出たが、やはり見られないという。
それで、うちで見られる外国の風景はテニス・ゴルフ(ただし国内放送だから解説は中国語)だけである。もちろん国営TVのニュースでは世界の場面を見ることが出来るはずだが、見る気も起こらない。
つまり建国60周年を機に、ここでは国外との情報のやりとり、情報の発信と受信を極度に制限する道に進み出したと思える。何故なのかは言うまでもないが、しかし私には疑問がある。そこまでのことが必要なのかと。私はここの政治形態はきわめてうまくいっているように思える。
治める側の腐敗は絶えず、人々の怒りを買っているが、100年前には貧困にあえぎ、諸外国の収奪の対象となっていた国をここまで持ってきた革命の成功とその後の政策は大いに誇って良いし、人々もそれを認めている。
たとえ自由選挙をしたとしても、この国の政治体制がひっくり返るとは思えない。人々の思想が自由と言う考えと、人権思想の普及で体制が覆ることを恐れられて いるのかも知れないが、このように情報を遮断しなくても、ここの人々が別の政治形態を選択するとは思えない。やり過ぎや、締め付けすぎが一番まずいことな のではないだろうか。
人には何が大事かといって健康ほど大事なものはないという。そして健康を保つには運動をすることだ、と何時も聞いているけれど、日常的に運動をすることをしないまま歳を重ねた。
そしてとうとうこの夏、身体が大いに弱っていることを発見した。
トイレで何を済ませたあとは、足下まで降ろしたズボンとパンツを引っ張り上げる必要がある。このとき身体をかがめるが、この動作がしんどいのだ。やっこらさ という感じで腰を曲げるのだと意識して思わないと、腰を曲げられない。つまり腰に掛かる負荷が大いに負担に感じられたのだ。
そんなことはこれまでなかったことだ。しかし運動をろくにしないで、机に座ってコンピューターで作業しているか、論文を読んでいるかが仕事だから、足腰の筋力がすっかり落ちてしまったにちがいない。
もちろん、ダンベルは時々振り回すし、腕立て伏せをすることもある。こうやって腕力は大丈夫だと思っていたけれど、足腰がすっかり弱ってしまっていたらしい。
長い夏休みが始まったところだったから、楽をして体力を付けようと思って、歩くことにした。運動靴を履いて、半ズボンにTシャツ、それにタオルを首に巻いて真夏の炎天下を歩いたのだ。もちろんお茶の瓶を買える小銭を持って。
歩いた距離が分からないと、運動をしていると言うことが実感できない。息子がインターネットで距離を測定できる地図があると教えてくれた。このソフトは優れものである。うちの近くには港北ニュータウンの緑地、緑道があるが、そこを歩いてもちゃんと距離を計算してくれる。
ストップウオッチで計ることで、へらへら歩いて時速4km だと言うことが分かった。前足に体重を載せて歩くと時速6kmだと言うことが分かってきた。時速6kmで歩くと汗が出るし、脈拍を測ると普段は70-80位なのが、1分間120位に上がっている。ちょっと激しい運動しているという感じである。
と言うわけで、この夏は日本にいて毎日30分から、時には2時間歩き続けた。3週間もすると、身体を前に曲げるときに、つらいという抵抗がなくなった。足腰に筋力が戻ってきた証拠である。
日本にいる間の5週間このウオーキングを続け、瀋陽に来てからも、毎朝30分から時には60分、この時速6kmという速歩で歩いた。それでもラボには6時半から7時の間には来ることが出来る。
でもだんだん秋が深まって、明るくなるのが遅くなる。何時も起きる5時半は今ではもう真っ暗だ。
ちょうど、妻が日本から来たので、毎日歩くのを中断することになった。朝歩かないでラボに来るのが7時ちょっと前という日課が10日続いた。そしてとうとう瀋陽に寒波が来た。最高温度が零度、最低がマイナス5度からマイナス13度というのが三日間続いた。
この寒波が去るのと一緒に妻は日本に帰った。明日からは私一人の生活がまた始まる。
朝真っ暗で凍えるほど寒いのに歩くというのは、ちょっと冒険過ぎる。明日からは昼を食べてから歩くという日課を始めてみよう。大学の前の道を渡ると、国立金属研究所と生態研究所があり、そのキャンパスを歩いて抜けると、瀋陽市内をゆったり流れる運河がある。
清の初代皇帝のヌルハチが造った運河が元だという。運河の周囲が緑道になって歩くのにとても良い環境である。所々が公園として整備されていて、特に老人用遊具がある。朝6時前から多くの老人が集まって、これらの遊具で運動をしているのが見られる。中国の老人は日本よりも遙かに健康志向が強く、そして実際に意欲的に身体を動かしているという印象を持っている。私もこれからはひたすら歩くだけではなく、時にはその仲間に溶け込もう。
2009年11月10日(火)
瀋陽は寒冷地にある都市なので、冬期の暖房は地域暖房である。毎月11月1日から建物の中は温水が通って、室温を20度に保ち、これが春の3月いっぱい続く。
厳寒期に建物を保温するから外壁は厚い。私たちのいる新実験棟の外壁の厚さは50-60 cmある。東京あたりの10-20 cmとは大違いだ。
瀋陽では暖房の入る前の10月の終わりが一番つらい時期である。10月初めの気温の20度がぐんぐん下がって、10度、5度、時には零度にもなる。しかし厚い外壁のおかげで、この時期は暖房がなくても室温は下がってせいぜい18度くらいである。
そういうわけで、瀋陽の暮らしには日本にいるときに比べて不便なところもあるけれど、不便は慣れてしまえばどうと言うことはない。それよりも冬の室内の暖か さは快適そのものである。日本でも札幌なら良いかもしれないが、東京あたりの冬と比べると、瀋陽の方が遙かに住みやすい。
今の瀋陽は見渡す限り高い建物が沢山あるし、建築ラッシュも凄い。研究室の窓から東を見るだけで、クレーンをたちまち10基以上数えることが出来る。
ところで、私のお気に入りの散歩コースは、大学の正門付近から歩道橋(中国では天橋という)を渡って北にある国立金属研究所を通り抜けたところにある運河の 周辺公園と緑道である。このあたりは瀋陽一の陸軍病院があるし、二中と呼ばれる瀋陽最高の公立高校があるし、瀋陽の中心からわずか数キロだし、公園も豊か に整備されていて高層住宅マンションが立ち並んでいる。
このあたりの高層住宅マンションは床面積1平方メートルが2万元近いらしい。日本円で40万円だから日本と比べて余り違わない。それでも売れに売れているのだから今の中国の庶民の実力はたいしたものである。
彼女の話を聞いていると、専門家には分かるが初心者の学生にも良く理解できるように話すという技術が足りない。かなり誘導してみたが、私が希望するようには思考経路が成り立たないみたいだ。
足を伸ばし初めて南湖公園に行った。落ち着いた優雅な公園である。市内至る所にこのような公園がある。これは社会主義だからではない。西欧のどの都市もそうだ。ミイイズムの極致の日本人の考え方が貧困なだけだと言うわけで4時間歩いた。夜はピザの店に暁艶さんと、朱彤さんを連れて出かけた。二人の背の高い美女を従えて歩いている自分が、テレビで見るファッションショウの最後に、たいていは醜い老人のデザイナーがモデルを従えて挨拶に出てくるが、まさにそれみたいで、思わず胸を張りながら笑ってしまった。
私の友人が瀋陽を訪ねてきた。30年前に私のところでポスドクをやった女性である。ポスドクというのは博士号を取ってさらにアカデミックなポジションを目指す人は、研究領域が自分の興味に一致する研究室に雇われて、そこで給料を貰って、さらに研究の修行を積むシステムだ。
ポスドクを雇う方は、研究を遂行するために科学研究費を申請し、その中に人件費を入れている。需要と供給の一致があってはじめて成り立つが、アメリカでこの制度が始まった。
このポスドクを2-3年して、独立した研究能力があることを証明してはじめてアカデミックな職に就ける。アメリカだと大学の職制はassisitant professorから始まってassociate professor、 full professor、となる。日本の場合は助手から始まったが、1年前から助教という名に変わった。
日本ではこの方式が良いと言われつつも、ポスドク制度を最初に実現したのは民間の研究所だった三菱化成生命科学研究所である。研究所の中でこちらはポスドク採用を申請して、それが認められて候補の人を採用する。
彼女はお茶大の生物学科を出て団ジーン博士の元で修士課程ではウニの受精の際の先体反応を研究し、博士課程は北大で星元紀博士の下で同じくウニの先体反応の研究をした。
縁があって私のところに来た片桐博士は北大の同期生と結婚していて、東京には一人で来たのだった。細胞培養におけるニワトリ杯抽出物の中の有効成分を私のところで見つけ、1年後にはロンドン大学のTen Feizi博士のところに留学した。
1年で戻ってきて出産、子育てしながらまた私のところで良い研究をしたけれど、これは残念ながら論文にはならなかった。その後の彼女は相方の勤務している北大に戻り、はじめは医学部、次いで免疫学研究所で仕事を続けた。
1998年には世田谷区大蔵にある小児病医療センターに移り(現在の名前は小児成育医療センター)、今では室長を務めている。
彼女は最近は、発生してくる胚の表面抗原の研究、精子の成熟に伴う細胞表面抗原の変化を調べている。
なぜ、表面抗原というかと言うと、表面にある分子の構造を知りたいけれど、微量にしかない精子が材料である。目的分子を沢山集めて構造を調べるというわけに はいかない。しかも、タンパク質ならともかく、糖脂質、プロテオグリカンなどだとタンパク質を捕まえて、その一部のアミノ酸配列を知って遺伝子に結びつけ るという芸当が出来ない。
それで、構造不明のままこれらを含む材料で動物(多くはマウス)を免疫して、生じてくる多種多様の免疫細胞を(免疫の個別の決定基ごとに免疫細胞はことなるのだ)無限に増える腫瘍細胞と合体させて、それぞれを増え続けるものクローン細胞として取るという技術が1975年に考案された。この方法を考え出したジョルジュ・J・F・ケーラーとセーサル・ミルスタインはその後10年も経たないうちにノーベル生理学・医学賞を受賞している。いかに優れた技術の発明だったかが分かる。
この方法こそ、微量で化学の手に負えない分子を追求する特効薬だった。この方法で発生してくる受精卵割球の表面分子が端から調べられた。細胞表面はいつから特殊に分化するのだろう?はじめは、モノクローナル抗体の名前で呼ばれていた分子は、別の材料を使ってその抗体が認識する分子(抗原決定基という)が捕まるようになり、分子の正体が明らかにされていった。
この方法は未だに有効で、洋子博士もこれを使って精子のある表面分子を調べている。実際の材料は人の赤血球を使いそれが糖脂質であると突き止めた。精子の場合には糖タンパク質がこの抗原決定基なので、そのタンパク質自身の性質も調べられなくてはならないはずだ。
ところが係がコンピュータ検索をしても私の情報に行き着かないのだ。そして言うには、登録の時、名前が長いので、間違えたか、省略して入れたかたに違いない。そのときの係が今日はいないので、また来てほしいという。無駄足となったが、コンピュータに登録されているのが見つからないから、お客さん嘘を言っていますね、と言って追い払われなかっただけ良いと思わなくっちゃ。実際悪い方に考えると、ここならありそうなことである。市図書館まで15分くらい歩いただけなのに、がっかりして疲れてしまった。まだちっとも歩いていないのだ。暁艶さんに励まされて、瀋陽音楽院の校内を通り抜け、三好街の楽器店をのぞき、久しぶりに音楽を思い出した。
NO MUSIC NO LIFEとしきりに唱えていた教師会の竹林先生が思い出される。私も日本に帰ると、電子ピアノを弾いたりオペラのレコードやCDを聴いているけれど、瀋陽にいる間はもうすっかりあきらめて、音楽から全く離れた生活をしている。音楽院の中庭に建物のいくつかの窓から漏れてくるピアノ、バイオリン、木管の音が雑多な音の混じりなのに心地よかった。
研究棟の停電はたいていうちも一体に停電になるので、危ないと思ったがうちの建物には掲示が出ていなかった。大学の停電だって放送が一度あったきりである。 何処にも掲示はない。聞き損ねるか、誰かが教えなければアウトである。停電で研究が困ることがあるはずだという考慮が一切ないのが不思議である。
ともかくこの日のラボは、電気はない、水も出ないはずだから出かけても仕方ない、と言うのでうちで本を読んでいた。ところが8時になった途端にうちも停電した。えっと、驚く為五郎。洗面所の水栓をひねったらものの見事に断水だ。
やられた、きょうはゆっくりトイレに行けばよいと思っていたのに、裏切られてしまった。頼みはトイレの水タンクにある水だけである。やれやれ。と言うわけで落ち着かない一日が始まったが、窓のカーテンを開けてうちを明るくして落ち着いて本を読むことが出来た。
このところほとんど毎日ウオーキングをしている。この日もちょうど歩くのに都合が良い。学生の暁艶さんが一緒に付き合ってくれて、瀋陽市図書館にまず行った。
瀋陽市図書館で本を借りる為には金を払ってカードを入手する必要がある。100元で3冊、300元で6冊、500元で10冊を1ヶ月間借り出せる。半年前に教師の会の図書の寄贈のことで頻繁に図書館を訪れたときに、私もカードを作ったのだった。
先日、いざ借りようと思ったらカードが見つからない。うちに帰って探してもない。何処に行ったか、ないものは探しようがない。図書館に聞くと再発行してくれるという。それでパスポートを持って図書館に行ったのだった。
金属研究所の敷地に接して直ぐのところに、この手のマンションがありこれは数年前に建てられたものなので10-20階くらいしかないが、しゃれた作りになっている。
そこを通っているとき、屋上から人が壁につり下がって作業をしているのが見えた。ちょうどその下を通り抜けるところだったから、「上で作業をしているから立ち入り禁止」くらいの標識は作れよな、と思って上を眺めた。
立ち止まって眺めていると彼らは大きな白いパネルを壁に貼ろうとしている。大きいパネルなのに太い綱にくくられた作業員は軽々と作業をしている。このパネルを壁に貼っている。
翌日見ると、白い板の上に塗料が掛かって、既存の壁と同じ色になっていた。
結局理解したのは、しゃれた建物に住んでは見たが、経費節減か、手抜きかは知らないが、建物の壁が薄くて寒い。それで建物の外側に(厚さ4-5 cmの)発泡スチロールの板をおそらく自前で人を雇って貼り付け、これに金属ではなく合成樹脂の粗い網をかぶせてからセメント混じりの塗料を上から塗るのだ。
建物の壁を一斉にやるところもあるが、必要なフラットが自分のところの壁だけこうやって貼り付けるようだ。
2009年11月17日(火)
私たちの研究室のセミナーはジャーナルクラブと名付けている。私が学生として入ったときの東大の江上研究室でやっていたし、就職した名古屋大学の鈴木研究室でもやっていたから、研究室のセミナーの一つの形はこういうものだと思って、疑ったことがない。
ジャーナルクラブでは、スピーカーとなった人がしかるべき一流のジャーナルに載った最新の論文を読んできて、仲間に紹介する。今の国際語は英語だから、英語で書かれた興味深い論文を読んできて、それを日本語で紹介する。
アメリカのシカゴ大学に留学していたときも、Rodenの研究室だけでなくグリコサミノグリカンを研究している研究室全部が集まって一緒にジャーナルクラブをやっていた。この時は英語の論文を英語で紹介するわけだ。
私が自分の研究室を持ったのは1982年だったが、それ以来同じようにジャーナルクラブをやってきた。フィンランドのRasilo博士が参加してからはそれが英語になった。東工大でも、ポーランドからKasiaが参加して以来、ジャーナルクラブで使う言葉は英語になった。中国でははじめから英語である。
私もジャーナルクラブでは学生同様にスピーカーの一員として順番で参加している。研究室によっては、ジャーナルクラブは学生教育一つだから教授は参加しないと言うところもある。昨年5月から私たちの研究室に来た二宮教授は、自分は教授だから参加しないと言った。この秋からはジャーナルクラブそのものにも参加しなくなった。
しかし、ジャーナルクラブで私が話して率先して模範を示さなくては誰がするのかと思う。さらに生命科学の分野で、新しいブレークスルーがあったり、新しい分野に焦点が当たったりしたら、それを学生に話して聴かせるのは私しかいないという自負もある。
私たちも、中国人も、英語国民ではない。英語を使わせると、私の経験している限り、大学生、院生レベルのどちらでも中国人の方が英語能力は高い。
とは言っても、ジャーナルクラブでは他人の研究の話をするわけだから、自由自在に英語を操って、聴いている人に説明をすることは難しいのだろう。どうしても、プロジェクターに論文のintroduction部分を映し出して、スピーカーはそれを棒読みしてしまいがちである。
聴いている方にしてみると、初めて聴く話を、文章に書いてあるとおりの文章を、そのままのスピードで読み上げられたら、言っていることにとてもつ いて行けない。
耳にしたことのない名前の分子が登場して、なじみのない現象を実験で証明していくという、全く聴いたことも読んだこともない新しい話の背景 を論文のintroductionとして、書かれた文章を一通り読み上げられたって、分かるものではない。
私たちに分からなければ、経験が少ない学生に分かる道理はない。それなのに、聴いている学生は、ああでもなく、すうでもなく、ただ黙って、じっとしている。
妻がセミナーに出ていると、必ずここで彼女は質問をして、間を作る。「良く分からなかったけれど、これって何?」と新しい名前の分子について訊く。「ふーーーん、そうするとこの分子はこの現象では、どう言うことが分かっているの?」と質問を重ねる。
わたしは、スピーカーがintroductionを読み上げ終わると、「そうすると、いったい何が言いたいわけ?」とスピーカーに訊いたりする。
二人とも訊く目的は、スピーカーにこの研究の詳しい内容に入る前に、自分自身が研究の背景を十分理解したいためだし、聴いている学生にも、そこを十分に分かってから先に進んで欲しいからである。
私自身今でもジャーナルクラブでは、学生と同じようにスピーカーを順番で勉めている。研究室によっては、セミナーは学生の勉強と言うことにして教授は参加し ない。昨年から私たちの研究室に来た二宮教授は自分は教授だからと言ってスピーカーになることを拒否した。この秋からは、ジャーナルクラブそのものに出て こなくなった。
しかし、特にここでは私が率先して範を示さなくては、いったい誰が示せるかと思う。さらに生命科学の世界で、新しい考えが出てきたり、衝撃的な発見があったり、学生が新しい知見として知らなくてはいけない分野があったり、そういうことを紹介するためにも私の存在は必要だと思って、私は今でもスピーカーとして参加している。
私が話すときは、資料として論文のintroductionも見せるけれど(パワーポイントの原稿はコピーして参加している人たちに配布する決まりである)、決してそれを読みあげない。研究をした人に成り代わって、研究の背景目的を説き起こし、解説する。つまり、文章を読まずに、聴いている人に語りかける。
ここに集まる人たちは時間を共有している。もしジャーナルクラブのトピックスが理解されずに終わるなら、それはその人にとって時間の無駄使いになる。人に理 解されない講演をしたら、集まった人の数を掛けただけの時間が壮大に無駄になる。集まった人には、話を理解して貰わなくては意味がないのだ。
だから私は聴衆には語りかける。書いてある文章を読み上げても、人は退屈するだけで、理解しない。何の感動も呼ばない。
読み上げるだけの話ではほとんど理解されないと言うことは、終わった後で質問が出るかどうかで分かる。質問が出ると言うことは話が理解されたと言うことだ。活発な質問が出ることは、話した人にとっては勲章だし、聴いた人も理解できた証拠になる。
セミナーを有効な時間にするために、私たちは聴いている人に、質問をしなさいと言い続けてきた。質問することは、あなたがそこに存在した証拠ですよ。真剣に人の話を聴くことは、あなたの将来の成功の元ですよ、そうすると必ず質問が出るはずです。
スピーカーには、聴いている一人一人に話すつもりで話しなさい。そうすると一人一人の心に話が染み込んで分かってもらえるから、と言ってきた。
そしてとうとう、今度は、「DO not READ, but SPEAK to us」と書いたメイルを出して、皆にスピーカーとしての態度を改善するよう要請した。
妻は、研究のintroductionでは著者の書いた文章を出さないで、代わりにイラストを描いてそれを使って説明することで言いたいことを伝えることが出来るのじゃない?と提案してくれた。
聴いている人すべての人が理解できて、集まる時間が無駄にならないようにするための努力はまだまだ続く。
2009年11月28日(土)
ジャーナルクラブをより良いものにするために、いろいろと言い続けてきた。集まった人たちが、何もわからずにそこにいるだけだったら意味がない。理解できなければ時間がもったいない。
ジャーナルクラブの論文紹介の最初の説明の導入部で、著者が書いた英文を読み上げるのではなく、こっちを向いて話して欲しいと要望した。
だって、読み上げられただけで、全く知らない、しかも最新の研究が分かるはずがない。
しかし、聴衆に向けて(読み上げるのではなく)説明すると言うことは、実際問題としてとてつもなく難しいことのようだ。英語で話が出来ないときにはあらかじめ覚えてくるようだが、こっちを向いた途端に忘れてしまうみたいだ。
従って、どうしても説明が不十分で、初めて聞いた人には何が何だか、何が大事なのか、良く分からないことになってしまう。
今日の話は、シグナル伝達だった。外から来た刺激が細胞の中でどのようにして伝わるかという研究のまとめである。分かってきたことは沢山あるが、分からないこともまだまだ沢山ある。私たちも今はこの領域の研究に関わっている。
この研究で、何時も気になることがある。
細胞の大きさを、後楽園の東京ドームにたとえると、いろいろな分子は野球のボールくらいの大きさだと思う(分子によっては人の大きさくらいだろう)。
細胞の中では数万種類の違う分子があり、それぞれの分子の数は種類によって大きく違うが、たとえばATPでは数千万個ある。早い話、水の分子を考えなくても、ドームの中は色の違うボール(つまり種類の違う分子)でぎっしり埋まっていると思ってよい
この中で分子がきちんと情報を伝えるためには、決まった相手に出会わなくてはならない。これは大変なことである。
人なら相手をみて見分けることが出来るが、分子の場合には接触してさわってみないと求める相手かどうか分からないからだ。つまり相手が何処にいるのか分からず、闇雲に探さなくてはならない
この出会いの確率を高めるための細胞の仕掛けは、一つは分子を膜上に並べることでローカルな濃度を高め、反応が起こりやすくする。
一つは刺激を受けたら、それでその分子は活性型の酵素になり、反応の結果を増幅する。つまりその先の分子の数を多くして、刺激を拡大すると同時に、その先の分子に出会う機会を増やす。
野球で言うと、バッターがヒットを打つと一塁に走る。野球のバッターは一塁めがけて走ることを知っている。
しかし、細胞の中で分子が刺激されると言うことは、ヒットを打って分子が走りだすだけで、一塁をめざしたいけれど、一塁が何処だかを知らないのだ。
しかたない。バッターボックスのとなりに一塁を置いて、ヒットを打ったバッターは直ぐとなりの一塁に動くようにすればいい。
実際、一連の刺激の伝達に関連する分子は一つにまとまっていることが段々わかってきている。
刺激を伝わる道が、秦帝国の昔の伝令使の乗る馬車の走る道みたいに整備されているのかも知れない。こうだと、分子の拡散で情報を伝えるという当てにならない情報伝達よりもましな方法である。
でも細胞が様々な刺激に多様に反応することを考えると、きっちりと決まったルートを整備しているだけでは説明が付かない。
悩みがつきない。
2009年12月08日(火)
今日は64年前に日本が対米英戦争を始めた日だ。
開戦が知らされた朝は、真珠湾への攻撃とその戦果で日本中が舞い上がったらしいが、幼かった私の記憶には残っていない。子供の頃、提灯行列や花電車を見たおぼろな記憶にあるけれど、太平洋戦争と関係があったのかどうかは覚えていない。
確か敗戦の日までは、この日を開戦記念日と名付けていたはずだ。この日に実際に生きていた人たちは今では日本の人口の20%くらいになったらしい。
12月8日(アメリカでは12月7日)を日本と米国の間の戦争の始まった日だと言うことを知っている日本人は、今どのくらいいるだろう。半分もいないのではないか。そして若い人の多くは、戦争があったことすら知らないのではないか。話の中で先の戦争というと、湾岸戦争だと思うという笑い話があったのももう15年前のことになる。
戦後は、つまり1945年以降、この戦争が日本の起こした卑劣なだまし討ちだという米国による主張を長く聞かされてきた。そのだまし討ちのキャンペーンが米国の大きな戦意昂揚の手段だった。Remember Pearl Harbor!!!
戦後アメリカに行くようになっても騙し討ちの日本人と言う中傷がついて回った。それが何時の頃か、実はアメリカの首脳部は知っていたのだ、と言うことが分かってきた。
ホワイトハウスは知っていながら、先に日本に攻撃された方がその後日本を悪ものに出来ると踏んで、在ハワイ太平洋艦隊司令部にも知らせなかった。自国の若者の命と財産をむざむざと散らしたのだ、政治とはむごいものである。
日本とアメリカの間が険悪になっていく中で、厳しいハルノートを突きつけられながら、日本はまだおめでたいことに米国との関係は上手く収められると思ってい た。戦後明らかになったように、米国は日本と戦って打ち負かす意志を固めていて、しかし日本を挑発して日本からの開戦に踏み切らせようとしていた。日本政 府と米国のワシントンにある日本大使館との間の暗号電報もアメリカにすべて解読されていたという。
日本を追い詰める西欧諸国に対して何の生き延びる有効策を打てずに追い込まれて戦いに踏み切った日本は、今から振り返って見ると哀れにも可愛そうな存在である。
しかし日本を神の国と信じ、ほかの諸民族に比べて優秀だとうぬぼれていた日本人は、多くの犠牲者を出し莫大な犠牲を払ったが、それでも総括すると戦いに負けて良かったと思う。もし勝っていたら、軍人や国粋主義者がどれだけはびこったか、考えるだけでも恐ろしい。
全体的に見ればそうは言えても、微視的に見ると、開戦の最後通牒を真珠湾への攻撃開始の前に手渡せなかった在ワシントン日本大使館の不手際は責められてしかるべきだ。
決められた時刻前にアメリカ外務省にそれを手交できなかったのは、長文の暗号解読とタイプに手間取ったからだと言われている。ちょうど週末にあたっていたの で、外務省出身の高官は休みを取って、重要な外交文書の手交の責任を感じていなかったのだろう。だから、暗号解読、そして文書へのタイピングはノンキャリア組にやらせて自分たちは休暇を楽しんでいたのだろう。
でも、いくら長文でも、最初から、開戦をほのめかす緊張感があったろう。おしまいを見れば宣戦布告だと分かったはずだ。ノンキャリア組も暗号解読とタイプをしながらこれに気付いただろう。その長文の真ん中を切り飛ばしても良いから、早く文書を仕上げなくてはいけないとどうして思わなかったか。
おそらく外務省という官僚組織の中ではそれは許されなかったのだろう。力を持っていて、それを振るえるのはキャリア組で、ノンキャリア組の裁量で文書を縮めても時刻に間に合わせる才覚は振るいようのない組織だったのだろう。
負ける戦争を始めたこともそうだし、この宣戦布告の手交の失敗もそうだし、この開戦の日になると、どうしても考え込んでしまう。
日本の官僚は優秀だという話だが、組織を守ることだけに長けているのではないか。自分自身の昇進と、それぞれの省益しか見ていないと、今でも言われている。
私たちは歴史から学んで、少しは賢くなっているだろうか。
2010年03月14日(日)
2009年12月末から、このサイトに中国国内からアクセスできなくなった。見られないだけでなく、ログインも出来ないので更新出来ない。
amebloに引越サービスがあるのに気付きましたので、それを試みることにする。
成功すれば、それまでの http://tcyamagata.cocolog-nifty.com/ から
http://ameblo.jp/tcyamagata/
が新しいサイトになります。さて、成功するかどうか。。。
なるほど、なるほど。
中国ならではの現実的、実質的なやり方である。そしていってみれば、この頃日本でもはやりの外断熱である。
でも、いくら何でも日本ではこのようなことは思いつくまい。建物の外に発泡スチロールを張って、その上は薄いセメントを塗っただけでは、建築基準法を通るまい。
発泡スチロールは可燃物だろう。こんな工法をするとコンクリート造りの高層ビルが真っ黒なすすを上げる炎で包まれることになる。
それにしても、このような工法を考え出す人たちは思考が柔軟である。ただただ感心するしかない。日本人とは文化が違うのである。