2008/07/01 08:18
チョイワルおじさん
中国語には「男人不壊、女人不愛」という成句がある。私たちがまだ日本にいるころ、研究室にいたポスドクの呉さんが教えてくれた。「男はチョイワルくらい じゃないと、女性にもてないぞ」という意味だ。ふむふむ、よく分かる。とても良い言葉だ。それ以来、二人ともチョイワルを気取っている。呉さんは「長幼序 あり」の国である中国人なので、自分は謙遜して、山形老師がチョイワル1号で、自分は2号なのだそうだ。
呉さんは2001年の春日本の大学院を出て博士号を取ったばかりだった。鳥取大学で博士課程を終え、もう一寸日本で研究したいという彼の希望と、研究費を獲得してポスドク1名を探していた私たちの希望が一致したのだった。
呉さんは呉培星という綺麗 な名前なので、履歴書を見た最初は女性かと思った。この頃の履歴書には写真欄がないからだ。この呉さんを女性と思って、会うまえから採用する気になってい たと、今でも私は妻の貞子からからかわれている。呉さんに会ってみると背のすらりと高い温顔の男性だった。穏やかな性質であることは一 寸話しただけで分かった。研究も分子生物学を少しかじっていて、私たちの探すポスドクの研究内容にぴったりだった。
2001年 のポスドク採用の時、ほかにも李学兵さんという同じように日本の大学院で博士号を取ったばかりの候補がいた。実際に李さんにも会ってみたが、丁度同じ頃ポ スドクを捜していた北海道の大学の西村紳一郎研究室の方が彼の将来の研究方向に合いそうで、そちらに行くように薦めた。
李さんは目出度く北大のポスドクになり、それから5年間そこで研究に従事したあと、北京の微生物学研究所にポジションを得て2006年末に中国に戻ってきた。
呉さんは私たちが研究室を閉じて中国に来たあとは慶応大学の助手に採用されて、そこで2年間働いた。日本にいる間に結婚もした。2005年に慶応大学を辞めて北京に戻ってきて会社を興した。今は総経理(社長)である。1年経ったとき瀋陽に私たちを訪ねてくれたので、会社はどうなっている?儲かっている?と きくと、年間で百万元くらいの金は動いているのだけれど、ちっとも儲からないのだと言う。儲かったら先生たちに研究費を沢山出すからねといって大笑いして いた。
その呉さんから電話があっ て瀋陽の研究室を訪ねてきたいという。李さんも一緒に来るという。そんなこと言ったって、今は卒業研究の学生の発表の時期で猛然忙しい。でも、話を聞くと 呉さんは仕事で今ハルピンに来ているので、瀋陽に寄るのは都合が良いらしい。でも李さんは北京からわざわざ来ることになる。それでも訪ねたいという。
というわけで卒業論文の発表練習の二回目をやった水曜日の午後、二人が訪ねてくることになった。午前中に3人が練習。午後1人が練習をして休憩を取ったところに、呉さんと李さんの二人が研究室に到着した。
呉さんは私たちのところでポスドクをしたと言っても気持ちの上では友達なのである。なにしろチョイワル二人組なのだ。李さんには7年間会っていないが、初 めて会って以来、お互い季節の挨拶を交わしている仲である。すぐに昔の気分に帰って話が弾んだ。たちまち夕方になって、研究室の学生も誘って一緒に食事に出掛けた。
会うと何時も話に出るのが呉さんのチョイワルぶりである。2002年の夏、呉さんも誘って一緒に中国の蘭州で開かれた学会に出たとき、妻と私は初めて訪問 する北京に寄り、呉さんに案内を頼んだ。呉さんは北京農業大学出身である。呉さんは就職などの用事があると言って私たちよりも先に北京に行っていた。
そして実際、べらぼうに暑い北京で呉さんは私たちをあちこちに案内してくれた。八達嶺の万里の長城にも、頥和園にも案内してくれた。北京農業大学でも私の講義を設定してくれた。しかし、夕方からある京劇を観たいと言っても、夕方になると言を左右にして居なくなってしまう。
あとで分かったことだが彼 には北京に婚約者が居て、彼女に会うためにこの蘭州の学会参加を決めたのだった、おまけに北京経由で学会に行くことにして。もち ろん今回は、北京の彼女の家族に会うという重要な用事もあったわけだ。学会に出るのを口実にして旅費を貰って(実際に学会には出たけれど)、ちゃっかりと 彼女と秘密に逢瀬を重ねて、おまけに貞子には「わざわざ北京まで来て戴いて案内して下さって悪いわねえ」と言わせるなんて、チョイワルの典型ではないか。
「呉さんは京劇を観たいといくら言っても、全然取り合おうとしないで夕方になると消えてしまったんですよ。」と李さんにいうと、それを引き取って呉さん は、「あのときは結婚する前だったからね、彼女が大事だったけど。今度はいいですよ、もう結婚しちゃったからね。もう大丈夫だよ。いくらでも先生たちに付き合うから、北京に是非いらっしゃいね。アハハ。」なんて言っている。
呉さんがまえに来たときに は彼がご馳走してくれたので、今度は私がと思って陸軍病院の金利賓館に案内した。しかし、結局呉さんが全部払ってくれた。これは 李さんによると、中国式なのだという。「呉さんは山形老師の学生なのだから当たり前なんですよ」と李さんが横で言う。このようなことを「桃李満天下」と形 容するそうだ。老師は学生が育つと何処に行っても桃や梨があって楽しめるというわけだ。いよいよそれが私たちにとっても現実味を帯びてきたみたいだ。
小さな会社を抱えて利益を 出すために呉さんは一生懸命働いている。その忙しい中で私たちに会いに来てくれた。北京で研究室を持っている李さんはわざわざ二日間を休んで私たちに会い に来てくれた。自分たち自身を考えるとよく分かるけれど、とっても出来ることではない。胸がきゅんとする。このような付き合いの出来る人たちが出来てきた のだ。私たちの中国の暮らしはまさに佳境に入ろうとしている。
2008/07/08 08:18
そして一人いなくなって
この秋の大学院の進学者は二人いて、薬学の関寧さんと中薬の黄澄澄さんの二人である。どちらも日語班の出身で、大学院の入試を受けて合格した。大学院では私たちのところを希望していたから当然ここに入るものと思って扱ってきた。
卒業研究発表の前の日に、関寧さんが来て言うには、日本の大学院に進学できそうなのですという。どういうことかと訊くと、日本の○○大学薬学部というとこ ろが瀋陽薬科大学と提携して、大学院の学生二名をここから学費無料、奨学金付きで受け入れようと言ってきた。大学から推薦されて居るのです。先生はどう思いますか?という。
どうもこうも、薬科大学の私たちのところよりも本人が日本のそこに行きたければ、行けばいい。本人が決めることである。だから、日本に留学したいと思って いたなら、学費はただだし奨学金も出るなら生活の心配も要らないし、それはプラスとして考えられるでしょ。と返事をすると、○○大学薬学部はどうですか?という。
どうですかと聞かれても、この大学に薬学部があったっけと迷ってしまう。隣で話を聞いていた二宮老師が直ぐにインターネットで調べてみて、「この私立大学はまえからあるみたいだけれど、薬学部は新しいみたいですね」と話を引き取った。
この大学は理工学部、人文学部を設置して1987年に創立。2007年に薬学部を設置したと言うから薬学部は新しい。生命系の大学院は前に出来ているにせ よ、薬学系大学院はもう出来ているのだろうか。教授陣には、昔の知人がひとり入っている。そうは言ってもこの○○大学薬学部が良いかどうか、わからない。
ご両親はどうなの?と訊くと、日本留学は今まで考えていなかったのでただびっくりしています。という。そうだろう。たった一人の娘が故郷を離れて遠くの瀋陽にいるだけではなくて、突然日本に行くなんて言い出して仰天しているのではないか。
関寧の口調では9割方は日本留学を決めている模様だった。私たちとしては学生が一人だけになってしまうので痛いが、本人が行くと決めたなら、これはやむないことである。もう彼女はここには来ないものと考えよう。ただ一寸引っかかるのは、○○大学から修士の学生二名を取っても良いといってきたのは大学宛てに言って来て、この薬科大学が候補者を選ぶと言うことと、その候補を入試の成績で決めていることだ。関寧は確か入試の成績が4番だと言っていた。
いまの日本の大学でこういうことがあったら、知らせを広く掲示して、行きたい人は手を挙げて!みたいなことになるだろう。行きたい人が申し込んで、それを ○○大学が選定すればいいという形になるのが普通だろう。しかし、私の高校のころを考えてみれば、もしその頃アメリカの高校から誰か一人1年留学できます よと言ってきたとしたら、恐らく高校挙げての大騒ぎになり、高校で最高の人を選んで送り出そう言うことになっただろう。大学間協定があるということは、この大学が候補者を選ぶと言うことなんだな、と納得するしかない。
こちらの大学が候補を選ぶ基準は、自分のところの大学院入試を受けた成績上位者から候補として打診していると思われる。つまり、自分のところに成績の良い 学生を残したいと言うよりも、頼んできた○○大学に一番よい学生を送ろうとしているわけだ。この気持ちが、何ともいじらしい。最上の学生を送ることに誇り を持っているみたいだ。大変結構な話だが、○○大学はそんなにこちらが卑下してまでも付き合う相手とも思えない。
私たちとしては、修士課程に入ってくる学生が一人減ってたった一人になるわけだから何ともやるせない思いである。
その翌日国際交流処の係の蔡さんから電話があった。「山形老師のところの学生が日本に留学することになって、学生が一人減ってしまってお気の毒です。ついては、××大学で博士課程の留学者を探しているのですが、山形老師のところに候補はありませんか?」
そうか、関寧は昨日は私に会いに来てあのように言ったが、先方にはもう行くと返事していたのだろう。国際交流処としては山形老師に修士の入学者のことで損害を与えたから、博士の留学者の話を真っ先に流して、チャラにしようと言うことだろう。
蔡さんに先方の条件を聞くと今年ではなく、来年秋の進学者を探しているのだという。来年私たちのところの修士課程を卒業する学生は4人いる。
来年修士課程を出る彼ら4人がそれぞれどういう将来を描いているかまだ掴んでいないので、ともかくこの話を知らせた。日本に行きたい学生もいるらしいが、 ××大学ではどうも不満らしい。そういうことなら、××大学に私たちの学生を留学させる義理もへちまもない。それでこの話はお断りすることにした。
日本では薬学部が沢山出来 て過当競争だと聞いている。現実問題として入学者が少ないと、文科省は補助金を減らすと言ってくるし、認可を取り消すとも言って くる。何よりも先ず、経営が立ちゆかなくてつぶれるしかない。大学の経営者は学校法人以外の収入源を持つことによって、大学の支出増を賄うのだろう。だか ら、日本で学生が集まらないなら、今は奨学金を出しても学生を中国から集めようということになる。でも、これらの大学がもしかして十年後には存在しないか もしれないと思うと、学生に進学するようには薦められないではないか。
2008/07/08 15:39
七夕の話
7月7日は七夕だ。七夕というと天の川を挟んで、織女と牽牛が一年一度の遭う瀬を楽しむという伝説で親しまれている。でも、私は何と成人するまでこの話を信 じていたのだ。驚くべき無邪気さである。それが今は、科学をやっているというのだから、自分でも一寸あきれてしまう。 本当の科学者ではないのだろう。
実は中国に来てから、お祭りはすべて旧暦で行われることが分かってきたので、今の暦の7月7日が七夕だと言われても、もう一つピンと来なくなってしまった。しかし実は今日の7月7日は「たなばた空襲」の日なのだ。
私は昭和20年に学童疎開はしたものの、戦災には遭っていない。目黒区のうちは周りも含めて焼けなかった。兵隊に行った叔父もいたし、一人の叔父は抑留で帰還が遅れたけれどみな無事だった。
何もない戦後の窮乏生活は子供心にもつらかった記憶が残り、実はその後の私の心のトラウマになっていると思うが、妻のそれに比べると、そんなことぐらい何でもないといえる。
妻は、小学校の時には目黒区の富士見台に住んでいた。今の東急目蒲線の洗足から歩いてすぐのところだ。父親は医者で、4歳上の兄、2歳上の姉、2歳年下の 妹の4人の兄弟姉妹である。戦局が厳しくなり、昭和19年の11月には武蔵野市の中嶋飛行機がはじめて徹底的な空襲を受けて壊滅した。その後の東京が大々 的な空襲を受けることが予想されて、その頃から東京から疎開が始まった。
昭和19年の冬が来る前に、妻たち三人娘は甲府の祖父母のうちに、いわゆる縁故疎開をした。紅梅町2番地という市役所の近くの甲府の中心地だった。春日国民学校に通った妻は三人娘の真ん中で、その時3年生だった。東京には中学2年の兄と両親が残った。
しかし東京では、昭和20年5月の東京空襲を受けて富士見台の家を焼け出された。当時の東京では、空襲に備える防空演習は何度もしていた。焼夷弾に水を掛けると火が拡がるというので濡れた布団をかぶせて叩き消すのだ。東京に住む人たちは空襲慣れをしていたと言っていい。
それで実際に真夜中に焼夷弾が落ちてきても、防空演習でやったとおり、 屋根を突き抜けて落ちてくる焼夷弾を一つ一つ先ず叩き消してから水を掛けて火を消した。私も燃えがらの焼夷弾を見ているが、直径10センチ足らずの六角形 の筒だった。彼女の父たちは、すべての焼夷弾を消したのを確認してから、家族揃って決められていた避難場所に避難したという。
一緒に火を消していた兄の背中が燃え上がって、父親が水を掛けて消したという話も伝わっている。ところが 避難場所から戻ったときにはB29が通ったとおりに数軒の幅で、燃えてしまっていたのだった。あれだけ火を消して避難したのにと言って、家族中呆然としたそうである。
彼女の家と台所を接してとなりだった野崎宏のうちも、その隣の中村忠晴のうちも、このとき一緒に焼けてしまった。この野崎宏、中村忠晴は私の小学校の時の級友である。
ともかく焼け出されてしまって、3人は同じ洗足を挟んで反対側に住んでいた母親の姉家族を頼って行った。一方、甲府では疎開している幼い姉妹3人がお互いを頼りにして、心細い人生を生きていた。そして7月7日七夕空襲を迎えたのだった。
記録によると、7月7日午後11時50分頃、焼夷弾を用いた絨毯爆撃が甲府市全域において開始された。真夜中に空襲警報を聴いてから起き出して防空ずきん を着け、互いに手を取り合いながら祖父母に連れられて避難場所に急いだようだ。道ばたの防空壕で、入りたくても先住者から拒否されて、また真っ赤に燃える 街を逃げまどい、何時か広いグランドにたどり着いてコンクリートの観客席の下に潜り込んで夜を明かしたという。
この日の甲府の(あとで名付けられた)「たなばた空襲」で、 死者1,127名、重軽傷者1,239名という大惨事となり、市街地の74%が灰燼と帰したと記録されている。
7月7日 の朝、小さな鞄の中にしっかりと入れてあった「炒り米」を口に入れてホッとしたことを覚えているという。そのあと、隣町の千塚というところの祖父の妹の嫁 ぎ先に行くことにした。そしてうちが焼けてしまったことを確認に行き、引っ越し先を書き残してきた祖父が戻ってきてから、揃って歩きだした途中で、何もな くなった甲府が一望の下に見えたことを妻は記憶している。
甲府の空襲で甲府のうちのあった一帯は跡形もなく燃えてしまったと知って、東京に残っていた母親は、娘3人を失ったかと思い悲嘆に暮れたと言うことだ。そ の状況を想像するだけでも涙が出てくる。その後、妻の家族は千塚から小淵沢の親戚のうちに避難して、終戦を迎えたと言う。
妻は7月7日になると、決まってこの日の空襲を思い出す。決して激しい言葉を使うことはない。日本もアメリカも声高に非難することはないが、戦争をやってはいけないわねと言う。
妻の家族は東京で焼け出され、甲府でも焼けて、妻は子供時代の写真など一切を持っていない。それでも命が無事だったことを、私はありがたいことだと思って いる。過酷な運命にもてあそばれたかも知れないが、それでも彼女が無事で、やがて私が会うことが出来たという運命に感謝している。
2008/07/10 09:43
噂の挙げ句に
5月の終わりころから大学の中で執拗な噂が流れている。それは「この夏のオリンピックに向けて、夏の間全学が閉鎖されるらしい」という噂だ。それも大学を完全に閉鎖して、誰も建物に、あるいは校門にすら入れなくするのだという。
そんなことをしたら、細胞 を保存している液体窒素容器の中身の液体窒素の補充も出来ないから、液体窒素が蒸発して減ったら細胞が死んじゃうじゃないか。お まけにオリンピックに備えて停電をするという噂もあり、停電があったら冷凍機の電源は落ちてしまう。通電のあと自動復帰できない冷凍機の電源を入れない と、冷凍庫の中で凍らせてあった細胞が溶けて死んでしまう。細胞が死んだら、保存している細胞株が絶えたら、私たちの研究はお手上げである。
冗談じゃないよ。といっても国家的行事の大事さと、大学の研究室の細胞が死んでしまって研究に致命的なこととは、比べられないのだろうね。
それにしてもどうしてオリンピックに備えて大学を閉鎖しなくてはならないのか理由が分からない。唯一思いつく説明はテロ対策である。
テロ対策といっても大学がテロのターゲットになるなんて思えない。じゃあ、テロの材料になりそうなバイオや化学物質が大学から盗まれることが怖いのだろうか。でもそうなら、その期間大学を閉鎖したって無意味であろう。
それでは、人の問題だろう か。テロの相談に誰彼が大学に集まっては困るのかも知れない。もちろんそんなことがあって、実際にテロが起きて(あるいは起きな くても)、あとで大学に容疑者が集まったかも知れないと言うことになったら、大学の体面は丸つぶれだろうし、大学当局としてはそんなことになって欲しくは ないだろう。これが、一番ありそうな理由である。でも、もちろん閉鎖されるという噂に対して理由を考えているわけで、大体すべてが噂に過ぎないわけだ。
大学の中国人の先生に訊いてみた。 色々と調べてくれて、そんな噂もあるみたいですが、大学は何も決定していません。もしそのような決定をするなら、この大学だけで決めることではないので、 省政府から通達があって決まることだと思います。なるほど。もっともなことだ。噂で右往左往するというのはこういうことで、噂の真偽をこうやって確かめれば毅然としていられるわけである。
「この夏には大学をロックアウトする」という噂はその後何度も出てきた。ほかの大学でも同じ噂が出ているという話も聞いた。ついには1階下の副学長の研究 室で、「大学の公式の夏休みに入る7月19日から研究室は閉鎖して、誰も出てきてはいけない」という通達が出されたという話も流れてきた。学生に訊きに行って貰うと、本当だという。
もしこれが例の「この夏は大学を閉鎖する」という根本の決定から出ているのかどうかが気になるが、まだそういうことはないみたいだ。私たちのところを含めて大学から何の公式通達もないからだ。
一方で7月の後半に日本で用事がある妻が航空会社に電話をして座席を取ろうとしたら、7月前半の座席はあるけれど7月の後半になるとほとんど空席がない し、8月に後半に瀋陽に来る便もあまり空いていないという。それで妻は帰国の予定を前倒しして、7月10日の飛行機の座席を手に入れたので、先ほど空港ま で見送ってきた。
驚きである。オリンピックで人の出入りがうんと増えるにしても、オリンピックの前に中国の外に出るのと、オリンピック後に中国に入るのは大して問題はない と思っていた。私は8月に入ってから研究室を休みにして日本に行くつもりだったが、うかうかすると、航空券は買えず、一方で大学はロックアウトされてしま い、コンピュータもないアパートで何もすることなく日を送る羽目になるかも知れない。
既に学期始めに、この夏の研究室の夏休みは私が日本に行く間の3週間という具合に決めてあったけれど、休みの予定を変更するしかないだろう。というわけで 自分のために飛行機の座席を探した。8月2日からだんだんさかのぼって、7月19日の座席を買うことが出来た。瀋陽に戻ってくるのは8月26日である。
何と6350元だった。昨年の同期に比べて1000元高くなっている。まあともかく買えてよかったと思ったところで、結局まだ噂の段階の情報に振り回され た挙げ句に、当初の予定を変えて、帰国の航空券を急いで買ったと言うことを思いだした。噂に浮き足立つというのを、自ら地でいったわけである。やれやれ。 歳を重ねてすこしは知恵が付いたかと思ったが、相変わらずで、情けないことである。
私が日本に行けば、大学が閉鎖されなくても学生は幸せな思いで各自が夏休みを取るだろう。液体窒素の補充や停電時の対策は、瀋陽にうちのある敢さんに頼むしかない。敢さんだって自宅から大学まではバスで2時間かかるけれど、彼女だけが頼りとなる。
なんだか幕切れの悪い今年の夏休みの決定となったが、夏は日本に行って十分に休養して、オリンピックは日本のテレビで観て、中国が史上最高数の金メダルを取るのを眺めるとしよう。
2008/07/12 08:04
噂の決着
7月10日の午前中、小張老師から電話があった。小張老師は生化学科の主任である。韓国に留学したことがあって英語が話せるので、私とのもっぱらの連絡役となっている30歳代半ばの準教授である。「この夏の夏休みのことですけれど。」と話し出した。
こちらは、ああそうか、いよいよ夏休みのことで大学が何か決めたのだなと、すぐに思って聴く心の準備をした。彼女は言う。「先生のところの院生でこの夏休みの間大学に出てきて実験をする学生は何人いますか?」
前回書いたように、この夏休みは大学の管理が大分面倒になるらしいという噂があったので、私は7月19日に日本に行く予定にした。したがって研究室も実質 上休みにして院生はほとんど休んでよいと言うことにしたけれど、一つ困った問題が持ち上がった。それは保存容器に入った細胞である。
研究室で使っている動物細胞は、凍らせたときに氷の大きな結晶が出来ないようにした液を細胞に入れることで凍らせて保存することが出来る。保存するときの 温度は低い方がよく、私たちはマイナス80度というフリーザーと、液体窒素中の保存の両方を使っている。マイナス80度のフリーザーは電気が切れなけれ ば、液体窒素の補充という面倒がないが、細胞は1年以上保存すると解凍したときの生存率が落ちる。
液体窒素入りの容器で保存すれば半永久的に保存できるが、液体窒素を定期的に補充しなくてはならない。東工大にいたときにはキャンパス内に液体窒素のタン クが置いてあるので、必要なときにはいつでも補充できた。ここではそうはいかない。瀋陽にいると、実はドライアイスだって簡単には手に入らないのである。
今のところ液体窒素は毎月1回大学に配達されて、それを補充している。調べると毎月28日に配送されるという。私たちの研究室の細胞保存容器の係となった 徐蘇さんは、「7月28日というと大学が夏休みになって閉鎖されて、外から液体窒素が持ち込めないかも知れません。そうなると休みの間に液体窒素が蒸発し て足りなくなってしまいますから、大学が閉まる夏休みの前の18日に配達して貰うようにします。」と言っただけでなく、「今度は最終学年になりますから、 この夏休みは故郷の天津に戻らずに、実験を続けます。そして8月18日頃再度液体窒素を配達して貰って、8月20日頃1週間夏休みにしたいです。」と言 う。
彼女の責任感の強さに感動した。細胞の液体窒素のためにここに残る決心をしたのだ。そうしてくれるとありがたい。私は瀋陽を離れてしまうが、「誰か責任者が必要なら夏休みに出てくる教授に頼んで置くから。」と言うことになった。
小張に訊かれて、夏休みの間出てくる予定の学生を数えると、徐蘇と暁艶である。暁艶はモノクローン細胞を培養しているので、まだ切りが付かない。それで 「今のところ二人の学生が出てきたいと言っています。」と返事すると、「学部の学生は全部大学の宿舎から外に出して帰省させます。しかし院生は、指導教授 が大学に出てきているならば、予め届けを出してあれば、研究室にきて実験をしてもいいです。」という。
その指導教授の私は、既に瀋陽を離れる手配をしてしまったのだ。その場合、ほかの教授でも替わって貰えるかと尋ねると、「面倒なことになって済みません ね。でも、オリンピックだから今年だけの特別なことです。」という。私がいなくてはいけないかどうかは、大学の意向を聞いてから返事をしようという。
午後になって小張老師に電話で確認すると、ほかの教授が引き受けてくれればよい、と言う。それで、隣の袁老師のところに頼みに出掛けた。隣の実験室には私 たちの博士課程をこの夏卒業した王麗の夫の馬さんがいる。王麗からは馬さんのいる実験室は夏中実験をすると聞いている。袁老師は日本の大学院を出た美しい評判の女性教授である。
袁老師を訪ねてお願いしたところ、「7月一杯は研究室を開いていますから、良いですよ、私が責任を取ると言うことにして学生二人の出入りが出来るようにし て良いです。」さらには「それにうちが近いので8月以降でも、必要なら出てこられますから、学生が来ても良いですよ。」とまで言ってくださったが、そこま でお願いをしては申し訳ないので、学生の実験は7月中と言うことでお願いした。
いつもの夏ならば、隣の池島先生は夏休みでも決して休まないのでお願いできるところだった。実はこちらも彼に煽られて、「負けるもんか、だけどこっちは一 廻り年上だしなぁ、」と言うわけで、一寸だけ日和って、私たちの研究室の夏休みは3週間と言うことに早くから決めておいたのだった。
ところが、池島先生は5月末に尿管結石の手術を日本で受けたが、そのあとあまり調子がよくないので、急遽すべての予定を変えて7月10日に日本に向け出発 した。手術のあとの休養が十分ではなかったらしい。すくなくとも4週間は日本にいる必要があるだろうと言うことだった。池島先生はこの春還暦を迎えたとこ ろだが、中国に10年以上いて、傍で見ていると朝は7時前から大学に来ているし、夜は9時頃まで仕事をしている。研究室には30人近い学生がいるし、何時 も働きづめである。おまけに酒もたばこも大好きである。臓器の一つや二つがおかしくなっても不思議ではない生活だと思っていたので、この際徹底的に調べて 休養するために日本に戻ったことは、本当に結構なことである。
7月11日 のYahooを見ていると、「北京五輪でテロ計画、容疑者82人拘束…ウルムチ市(12時55分配信 毎日新聞)」というのが出ていた。『中国新疆ウイグル自治区ウルムチ市の公安当局は9日、北京五輪でのテロを計画していたとして、五つのテロ組織を摘発 し、容疑者82人を拘束したと明らかにした。41カ所の訓練施設も破壊したという。新華社通信が10日報じた。当局は五輪開幕を前に同自治区で分離・独立の動きに警戒を強めている。』
この報道の内容が事実かどうか分からないが、中国がオリンピック期間中のテロを警戒してピリピリしていることは確かなようである。とばっちりで、大学は強制的に夏休みに入り、心残りではあるものの私は日本で長い夏を過ごすことになった。
2008/07/14 16:13
椿三十郎を観る
瀋陽に来て、なんだか右も左もよく分からないうちに瀋陽日本人教師の会に入ってから5年経ち、最古参となった。この日本人教師の会は瀋陽で日本語を教える日 本人の教師たちが集まって、お互い教材を融通したり、教え方を研修したり、そして何よりもお互い異境の地で生きていくのを助け合おうと言うことで、もう十 年以上前からこの地で自然発生的にでききにできあがった会である。
薬科大学にいた日本語教師の坂本先生がとても親切な人で、こういう会に入った方が良いだろうと誘ってくれたのだった。誘われてきたときに、会員一人一人が 役を持って、誰もただ入っているだけと言うことはない会だと聞いて感激したのと、この異国の地でこの会を続けていくことがどんなに大変なことであるかが分 かって、じゃ私も出来ることはしようと思ったのとで、入ってしまったのだ。
このところ本業が忙しく定例会に顔を出すのが精一杯となってしまった。それでも、長くいても2年くらいで変わっていく先生たちを繋いでこの会を楽しいものにするために、出来ることは何でもしようと言う初心は忘れていない。
定例会は毎年9月に始まって12月までと、3月から6月まで開かれる。1月に入ると長い春節休みが始まるし、7月になると各学校は夏休みになる。多くの日 本語の先生たちは、7月に入るとすぐに帰国する。私たちはまだそのあとも瀋陽にいる。それで2年前から、定例会を開くことのない1月と、7月には瀋陽残留組に声を掛けて番外の臨時定例会という集まりをやってきた。
会員の一人の友達がレストランを開いているので、そこに集まるのがお気に入りだった。友達のおかげで一寸割安で美味しい料理を食べる。この店長は日本で修 業した人なので、そば作りは習ったことはないそうだが、手打ちそばまで作ってくれる。汁だって日本的に出汁を取っての特製なのだ。と言うわけでこのレストランでご馳走になって大満足という集まりをずっとやってきた。
集まるのが五六人から十人くらいだから、定例会のあとの食事会とはまた違った顔ぶれがテーブルを囲むので、また意外な親しみが増すというものだ。
今年もその時期が巡ってきたが、その友達は今店を閉めて別のところを物色中である。集まる場所がない。それで、私の仕事部屋で土曜日の午後、一緒に映画を 観ませんかと言うことにした。もう一つの手は路上市巡りだが、もう夏になったし、路上市を冷やかすには暑くなりすぎて時期が悪い。
私は本業以外には本を読むのが好きで、大抵何か活字を読んでいるけれど、映画を観るのも好きである。それでここにも、日本で持っているテープからDVDに移して何枚も持ってきている。
大学の部屋だと、プロジェクターを使って1m x 1.5mくらいに白版に大きく映して観ることが出来る。コンピュータ画面を覗くのと迫力が違う。手持ちの映画にいくつか候補があったので、会員にリストにして廻した。どれが見たいですか?
すると「椿三十郎」に丸が付いた。これは2007年のリメイク版ではなく1962年の黒澤明監督の極めつきの作品である。私が名古屋に行ったころの作品だ から、今池あたりの劇場で友人と観たのではないか。それっきり観たことがないが、四十数年経った今も、そのリアルさ、その面白さが脳裏に焼き付いている。
当日集まったのは教師の会の5人。そして学生の陳陽くん。彼は自分のノートブックを使って、それで映写できるよう取り計らってくれた。高音、低音のスピー カーも付けて、臨場感を高める工夫もした。お茶のために紙コップを買いに行ってくれた曹さんは、映画を観に人が集まると聞いて「ポップコーンを買ってきましょうね。」と言って、バター味とチョコレート味と二種類用意してくれた。
映画が始まった。神社の本 堂(というのかな)に謀議で若者が集まっている。謀議の中心は加山雄三だ。とても今の加山雄三には似ていないけれど、いわれてみると面影はある。でも下手 くそだ。集まった中の石原さんの解説によると、演技が下手で黒沢監督から特訓を受けたそうだ。わお、田中邦衛がいるじゃないか。 まだ口がさほどとんがっていないけれど、既に「北の国から」の持ち味が十分に出ている。
神社の奥で謀議をたまたま聞いていた三船敏郎が登場する。「人は見かけによらねえよ。アブねえ。アブねえ。」いいね。懐かしい。これは三船敏郎の映画なの だ。このあと三船が懐手をして歩きながら肩をぐいとねじる仕草が何度か出てきたが、気付くと私もポップコーンを食べながら、一緒に肩を動かしていたのだっ た。
入江たか子がおっとりとした城代夫人を見事に演じている。三船に向かって、「あなた様は言ってみれば抜き身の刀。でもね。いい刀は鞘に収まっていますよ。」という。石原さんの解説によると、入江たか子はそれはもう美人で、評判の人だったそうだ。
敵方の落ちこぼれが小林桂樹だ。若いときから上手くなる役者は大したものだと思ったが、これも解説によると、それまでに毎日映画コンクール主演男優賞などの各映画賞を総なめにして、当時すでに押しも押されもしない俳優だったそうである。もちろん今でも人気の高い俳優だ。
陳陽は一緒に観ていたけれど、やがて科白について行けなくなってしまった。三船の科白は、「七人の侍」にしても「用心棒」にしても、私たちが聴いても聞き 取りにくいのだ。8割くらいしか聞き取れないのではないだろうか。日本語が達者でも、三船の科白ではお手上げだろう。いずれ中国版をダウンロードして観てみますねと言うことだった。
95分の映画が終わって、私たち思わず拍手。昔の映画館でもこうだったね。「いやぁ、映画って本当にいいもんですね」思わず、水野晴郎さんの科白が異口同音に口を衝いて出た。6月10日に76歳で亡くなった水野晴郎さんに合掌。
2008/07/17 09:09
怒りのアフガン 研究室版 その二
研究室の主要手技はRT-PCRだが、もう一つの柱は免疫染色法である。これはタンパク質に特異的な抗体を使って、ある目的のタンパク質が、発現しているか どうか、発現しているとするとどのくらいなのか、多いか、少ないかを調べることが出来る。結果を眼で見て、それを定量して、値の大小を比べるが、適切なコ ントロールを取ってあれば立派に説得力のあるデータになる。
RT-PCRは目的の遺伝子が発現しているかどうか、つまり、RNAに転写されているかどうかを、そしてどのくらい転写されているかの量を調べることが出 来ると言う大事な実験技術である。しかし、mRNAが発現していてもその細胞でタンパク質として作られているかどうかは保証の限りではないので、免疫染色 法、別名ウエスタンブロットをする。
抗体は特異的な染色が出来るので素晴らしい方法だが、高価である。100 ulで5-8万円の値が付いている。これがどのくらい使えるかというと、もっとも鋭敏な検出方法と最小の反応液量と組み合わせたとして、500-1000回分である。
この値段は、妻の給料の1ヶ月分である。だから、私たちとしては、抗体は最高にケチケチと使いたいのだ。最小の反応液量が1 mlだから、もとの抗体を1万倍に希釈して使うとして、0.1 ulをとることになる。しかし、マイクロピペットで0.1 ulを正確に取ることは現実できではない。それで、20倍の一次希釈溶液を作って、これを、使用者で共有して使おうというルールが作ってある。つまり5 ulをピペットで取り、PBS-Tween20-BSA溶液95 ulに希釈すれば、20倍溶液が出来る。
これを冷蔵庫にとって置いて、必要に応じて最終1万倍希釈液を作って使うことにする。これは2ヶ月くらいのうちには使い切ると言うのが好ましい。保存は冷蔵庫で、決して凍らせてはいけない。タンパク質溶液は、解凍を繰り返すと活性を失うというのは私たちには常識なのだ。
研究室の抗体の使用者がそれぞれ自分たち一人一人で抗体の希釈液を持つのでは、経済的に堪ったものではないから、こうやって共有して使おうと研究室の全員と話し合って決めてもう2年くらいになるだろうか。
先日学生の一人が、抗体で染まりません、と言ってきた。うまく行かないと言うときには 、どのようにして染色したのかを、溶液の作成から操作の一つ一つにいたるまで詳しく訊くことにしている。何処かに間違いがあるものだからだ。
話を聞いているうちに、抗体の一次希釈液を作って皆で共有するという取り決めを守っていないことが分かった。どうやって希釈するのかと聞くと、抗体をし まってあるフリーザーから、チューブを取り出して、溶かして、そこから0.1 ulを取って PBS-Tween20-BSA溶液の1 mlに希釈しているという。
誰も0.1 ulを正確に分取することなんていうことなど自信を持ってできないことだ。しかもそのたびごとに、元の抗体溶液は解凍を繰り返すことになる。 こんなことをやっていると抗体の活性が使い切るまえに失われてしまう。これを避けたいから、一次抗体希釈液を作るという約束をしたのだ。
「いつからやっているのですか。私たちの注意を聞いているでしょう。取り決めを覚えているのですか」と聞くとウンという。「何故言うことを守らないのですか」と訊いても答えない。頑固に黙り込んで返事をしない。「じゃ、皆がやっていることですか」というと、ウンという。
つまり、 一次抗体希釈液を作って共有しようと言う全員で集まっての約束は、恐らく端から無視されてきたらしい。怒るよりも、呆れて力が抜けた。何でこのような学生たちのために、文字通り身銭を切って、苦労を重ねなくてはならないのか。
推測するに、他の人と一次抗体希釈液を作って共有しようというのが、我慢できないようだ。つまり、仲間を告発することは絶対しないくせに、彼らは 仲間のことを信用していない。他人のことを信用できないから、試料を共有したくないのだ。そのために、もとの抗体が解凍を繰り返して抗体価が落ちようと、 そんなことは知ったことではないのだ。
「上有政策 下有対策」というのは庶民の心髄にしみこんだ生き方である。私たちの立てた政策に対して彼らは対策を立てて骨抜きにした。ならば、私たちもこれに対して対策を立てようではないか。
もとの抗体溶液には誰も近づけないようにする。もとの抗体溶液を20倍にした一次抗体希釈液をこちらで作って冷蔵庫に入れる。これには番号を振って、仕様 記録を書かせる。誰がどれだけ、何時使ったかをトレースできるようにする。使い切ったところで、つぎの希釈を作って渡す。
実はこの方法は、今までのラボでは何時も行ってきたことなのだ。抗体を買う。100 ulの抗体を買うと、先ずミクロ試験管を用意して5 ulずつ分注する。必要になる度にフリーザーから取り出して95 ulのPBS-Tween20-BSA溶液を加えて、20倍の一次抗体希釈液を作る。これは冷蔵庫に入れて使っていく。
今まで自分で実験をしているときにはやってきたことを、これからはやることにしよう。記録もきちんと付けよう。面倒だからと思って手を抜いたのはこちらなのだ。どんな面倒でもやるべきことはあるのだと言うことを、身を以て分からせるにはこれしかあるまい。
2008/07/22 07:01
がっかりな日本人
大分県で教員採用に手心が加えられて、採用試験の採点通りなら落ちる人たちが教員に採用されてきたというニュースが報じられている。この教員採用の口利きや要請はもう30年にも及ぶという。さらに、教員の昇進や校長昇格にも金品の授与が常習となっていたらしい。驚き、呆れ、悲しい。まさかこんなことが行われているなんて。日本でこんなことがまかり通っていたのを、私は知らなかった。
点数の低い人を通すという不正のつじつまを合わせるために、通っている点を取っていた人の点数を削って平均点が動かないようにもしたという。不正がなければ採用試験に通っていたはずの被害者は、本当の原因を知らず、その数は不正合格者の数だけいるはずだ。
さて、これは大分県だけのことだろうか。大分県であったなら他の県の教員採用や、昇任でもあるのではないかと思うのが常識だろう。瀋陽の日本人教師の会のメンバーの顔が浮かぶ。校長の経験者もいれば、絶対に校長にはならないと言って生涯一教師を貫いた人たちもいる。
さらに言うと、このような不正は教員採用だけのことだろうか。他のことでもこのようなことがあるのではないか。病気になって病院に世話になったとき医者や 看護婦に謝礼を持って行くのは、日本ではついこの間まで社会常識だった。医学博士号を取れば主任教授に金を持っていくのも、ごく当たり前のことだったらし い。焦点を当てられている横浜国大にしてみれば、何で俺たちだけが騒がれるのだという反応らしい。
このように世話になったからお礼をするという社会儀礼のある国だから、それが一つ嵩じればお金で本来起こらない結果を買おうと言うことにもなるのだろう。 自分はこんなことをしないというのが唯一の根拠で、それ以外の根拠はないけれど、日本ではここまでひどいとは思っていなかったから、がっかりである。
結局、人は本来正しいものではなく、人は見張られなければ不正をするのだろう。そのためには、権限を一人に集中させない、結果はダブルチェックをする、決 して人を信用して任せたりはしない、ということしか人の悪事は防げないのだろう。この点中国は先進国である。私の知っているのは大学の期末試験だけである が、これは人への不信から成り立っている。
私の講義している科目では、試験問題をA,Bの二通り作成して、解答も書いて教務に提出する。A,Bのどちらが出題されるか、出題者には分からない仕組みになっている。
採点の時は、先ず私のところに廻って来た厳封してある答案用紙を開封する。問題ごとに配点がある。たとえば8点としよう。答を調べてみて、答が間違っているときは -8 と朱で書き込む。そして問題の冒頭に、0 と書く。答が不十分であるときは、解答例にしたがって、-2、-4、-6などを答のところに書いて、問題の冒頭には6、4、2と書き込むことになる。答案用紙にこれ以外こちらがよけいなことを書いてはいけない。書き入れて良いのは点だけである。
問題はいくつかあるから、最後には得点を集計する。得点集計欄は試験答案用紙の最初に印刷されている。点数を書き込み、私のシャチハタの判を押す。
採点をしていて点数を書き間違えることがある。それは二本線で消してやはり私の判を押して正しい点数を書き入れる。この書き間違いは、一人の答案に付き三箇所以内と念を押されている。この数が増えるとどうなるのかは知らないが、誰かの勤務評定に影響するに違いない。
私の採点は、同じ科目を担当している中国人教師の王三水老師でチェックされる。そして最後に、生化学の主任である老張老師がチェックする。と言うことは、 書き間違いは別として、私たちがグルでない限り不正は入り込めない。もちろん最終の老張老師以降の段階で点数の水増しをすれば可能だろうが、試験問題答案 用紙は3年間は保存されるので、もし疑惑があればその不正は発見できることになる。
日本の教員採用試験は法律で10年保存となっていた採用試験の答案、集計用紙などの試料を、大分県では一年で破棄していたというが、それは証拠隠滅のため である。大分県以外で調査をして、たとえば10年保存となっているのにもし答案やその他の試料をその期間保存していなかったら、不正が行われていた強い可 能性と考えて詳しい調査をすると良い。この調査は直ぐに出来ることだ。やってみたらいい。
不正で合格していた教員に教わってきた生徒にもし真相が分かったときの生徒の心中を思うと、これを荒立てたくないという世論もあるのは理解できる。しか し、不正で得した人の数だけ理不尽に権利を奪われた人がいるのだ。頼まれて便宜を図っただけですなんて簡単にすまされるものではなく、これは落とされた人 の一生をねじ曲げた極悪な犯罪と言えよう。
2008/07/26 11:34
柏の葉キャンパス
日本に戻ってくると矢張りいろいろとやらなきゃいけないことがある。おまけに今は母が入院していて、病院にもこの炎天下を一日おきに通うことになった。幸い1時間もあればいける距離である。
水曜日は、柏にある東大キャンパスを訪れた。ここの先生と一緒の研究を進めている。いつもはメイルでやりとりをしているけれど、日本に来たときには直接会っていろいろと情報交換をする必要がある。
戦後ずっと首都圏の交通が便利になっていく中で、だいぶ長い間、千葉県の流山とか柏といえば陸の孤島という響きだった。しかし3年前に筑波エキスプレスが 開通した。秋葉原から来るスマートな電車に乗って外を見ていると田園風景にただ見とれてしまう。四角いコンクリートが立ち並んだだけの都会から離れて、自然と一緒になったような風景に心が和む。
途中に「流山おおたかの森」なんていうすてきな名前の駅がある。駅の周辺には森がたくさん散見されるので、おおたかがいるのかと思ってしまう。 Wikipediaをみると、『駅の西方にあるおよそ50haの森林・通称「市野谷の森」に、絶滅危惧種であるオオタカが生息することから、駅名の一部に 採用された。』と書いてある。わお、すごい。
『しかし』と続く。『名前を付けておきながら、バブル前後のスプロール的開発や「一体化法」に基づくTX線の沿線開発により、森は半分以上が伐採され、 2005年3月現在20ha強にまで減少している。その影響のためか、プラットホームや線路内にオオタカが迷い込んでくることがあったりもする』と憤慨が 続いている。
便利になった分、自然は失われてしまう。自然との共生というやさしいことばは耳あたりがいいけれど、実は自然、そしてそこに住む生物の生態を私たち人間が破壊しているのだ。
うちの駅からちょうど2時間かかって「柏の葉キャンパス」に着くと、これから訪ねる山本先生が車で待っていた。交通が不便なので迎えに行きましょうという 言葉に今回は甘えてしまった。千葉大学の敷地を迂回し、科学警察研究所の前を通る。人を全く見かけないきれいな通りが続く、東大の施設である柏キャンパスまで約2 kmとのことだった。
未来都市みたいな外観のビルが建ち並ぶキャンパスは開放型である。高い塀で囲まれている中国の大学を見慣れると、これは異質である。日本人は外から襲われるという恐れを本質的に持たなかった民族らしい。
山本先生の部屋で1時間余、今ここに留学している胡丹くんと秦さんも交えて一緒に研究の討議をする。秦さんの日本語の進歩には目を見張る。彼女は日本に来 て、1年と4ヶ月にしかならない。はじめは山本先生の仕事をするときは日本語通訳となる胡丹がいないといけなかったが、今では胡丹抜きでも仕事の上の意思疎通は十分できるのだという。
キャンパスの中央にある食堂で昼ご飯を食べた。定食などのほかに、キャフェテリアで色々選んで、すべての重さでいくらという計算がでる。おもしろい。建物が新しいためかもしれないが、きれいである。
食事の時、秦さんが出席しているという日本語クラスの渡辺先生にたまたま出合って紹介された。約60人がここで日本語を勉強しているという。秦さんはクラ ス2から始まって今クラス6まできたという。つい数日前キャンパスの中で日本語を学ぶ留学生による日本語スピーチ大会があった。食事の後研究室に戻って、 それに参加したという秦さんのPPTをみせてもらった。
話はもろに私たちふたりに ついてである。秦さんがここに公開しては恥ずかしいというし、私もこのように話の対象となるのは大いに照れくさい。それでここに は載せないが、「ふたりは夫の修士時代の指導教官です。約四年前、夫を通じて彼らと知り合いました。」から始まって、最後の「先生たちは私たちのおじいさ んとおばあさんのようです。私は貞子先生のような女性になりたいです。」に至るまで、話の展開に沿って私たちの写真、瀋陽薬科大学のキャンパスの写真、研 究室メンバーの写真、がPPTで展開していた。
秦さんの日本語がここまで進歩したということが嬉しい。それと同時に、私たちが5年間中国でやってきたことは、わずかな数の学生が対象で、しかも彼らに とっては一時期のことに過ぎないが、それでもこうやって感謝されるようなことをやったのは生まれて初めてのことではないかと考えこんでしまった。
駅まで送ってくれた胡丹と秦さんと駅前にできたららぽーとに寄った。胡丹がアイスクリームのごちそうをしてくれた。「これ、『桃梨満天下』ですよ」と胡丹が笑いながらいう。
ついこの間、瀋陽に私たち の友人の呉培星さんがご馳走してくれた時に覚えた言葉だ。教え子が桃梨のように沢山いて、彼らがごちそうしてくれるということかと思っていた。「でもね、 先生、違っていますよ。」と胡丹は笑いながらいう。「沢山の教え子がいてそれぞれが桃梨のように立派に成長したという意味であって、彼らがご馳走するとい うことではないのですよ。」
危ない、危ない。教え子が増えれば、この先ほいほいと世の中を生きていけると思うところだった。
2008/07/29 08:34
楊方偉が訪ねてきた
日曜日の夕方、今日本にいる留学生の一人がうちに訪ねてきてくれた。昨年の春私たちのところで卒業研究をした楊方偉くんである。今は北大の大学院生で、今回 初めて大塚製薬の奨学金を授与されてその式典に出席するために徳島に空路飛び、羽田経由なので、その帰りにうちに寄ったという次第である。
初めての東京見物を一緒に案内したいけれど、この炎天を出歩く元気もない。それで、それはほかの留学生たちに任せて、夕方おいでよ、そしてうちに泊まっていきなさいよ、ということにした。楊方偉は卒業研究生なので滞在期間は長くはないが、それでも前年の10月から研究室に来て実験を始め、6月に卒業しても札幌に行くまで研究室に来ていたか ら、なじみが深い。一口で形容すると、彼は人が大好きで、従って情報通で、どのくらい情報通かというと新聞記者というあだ名があるくらいである。他人に優 しくて親切で、皆が警戒するはずもなく気を許すから情報がつぎつぎと集まるのだろう。おまけにアイデアマンで、昨年の夏、私たちの研究室のオープンラボを 初めてやったのも彼が言い出して企画したからだった。
中国の留学生は多くは米国を目指す。欧州がこれに次ぎ、日本志望は3位 である。中国から近いので欧米諸国に行くのに比べて旅費も比較的安い。言葉は違うけ れど、日本も漢字を使っているので、言語的には欧米に行くよりも有利である。これは利点。しかし、物価は高いし、過去の侵略と歴史認識問題を巡って中国と 日本の間にはいろいろの摩擦がある。従って、日本に来るにはそれなりの覚悟がいる上に、日本では奨学金制度が充実していない。
欧米諸国では留学生に対して入学前に奨学金がもらえるかどうかわかる。入学して奨学金が出ることがわかれば、安心して渡航できる。奨学金なしだと、中国と 他の国の間には為替の差があるから、親は大変である。為替の違いはざっと十倍といってよい。彼らが日本での半年の生活のために百万円を用意すると言うことは、日本人が日本で一千万円用意するのとほぼ同じである。
私費でくる留学生は中国の家族から送られる金を頼りにしなくてはならず、不安がいっぱいである。しかし、日本で事前に奨学金が出る場合は極端に少ない。
楊方偉の場合は、北大の受け入れ側で事前の奨学金申請ができなかった。それでも指導教授は楊方偉が昨年10月札幌にきて以来、機会があるごとに奨学金の申 請を書いて呉れたそうだ。楊方偉は、北大の清掃員をやり、今ではコンビニで働き、現代の苦学生をやってきた。コンビニで働くと言っても彼は理系なので実験 に使う時間が必要だから、週に二回のバイトというぎりぎりの選択で生きてきた。今回大塚製薬の募集する奨学生に採用されて百万円を一回戴けることになった。
夕方うちに着いた楊方偉は、一日炎天下の東京見物をしてきたのに元気いっぱいだった。まずシャワーを浴びて貰うのがご馳走で、私のシャツ、短パン、そして これはまだ新品のショーツを出して着替えてもらった。9ヶ月ぶりで見る楊方偉はふっくらとしている。日本での過酷な生活に負けていない。
朝は薬科大学の同級生で今東工大にいる李杉珊さんたちと渋谷で出会い、池袋で昼ご飯を食べて、浅草、銀座を訪ねたのだそうだ。聞くだけでも忙しくて、暑さ がにじみ出てくる東京見物である。楊方偉の印象では、札幌の方が遙かにきれいで、静かで、涼しくて、東京よりも札幌の方がずっとよいそうである。ただし、 札幌の冬は毎日雪が降って寒く、このまま北大にいるのは考えものと言うことだ。
彼は瀋陽出身だから、冬の気温は札幌よりは寒いのに慣れているはずだ。外は寒くてもうちの中は暖かいという造りは同じだ。違いはおそらく瀋陽では雪が少ないと言うことだろうか。
彼の札幌での暮らしぶり、アルバイト、研究室の様子、研究の進み具合、大塚製薬の奨学金授与式の話、大塚国際美術館など、話は尽きない。大塚国際美術館には40分いる間に、駆け足で4つの展示に案内されたのだそうだ。
中曽根内閣の頃、それに伴う宿舎計画、奨学金制度もなしで、留学生十万人計画というのを打ち出した。それから二十年経ち、数だけはつじつまがあったと思ったら、今年になって福田首相は三十万人計画を打ち出した。
日本人と個人的に交流し、将来日本に対して暖かい友情を持つことのできる外国の若者を育成するために、この計画を打ち上げたのは大変結構なことだ。十分予算をつけて、日本が好きになる三十万人の外国の若者を作ってほしい。
外国人留学生のごく一部に対して日本政府は政府奨学金を出している。これは無償交付だが、日本の学生を支援する育英会奨学金は貸与である。楊方偉が博士課 程に進むときに政府奨学金を貰えればいいねという話に、彼は「でも日本の学生への奨学金は貸与だから、その後ずっと借金を返すのに苦労します、私たち外国 人だけが無償で奨学金を貰うのも良いけれど、日本は日本の国の若者のことを考える必要がありますね、」という。
実際その通りで、今の日本の若者は将来に明るい展望もなく、希望もなく、しかし大学院生活を続けると将来は大きな借金を背負ってのスタートになる。食と職 を用意することだけではなく、若者に夢を与えることこそ国の大事な役目である。この先もう一度の人生がおくれるなら、政治家になってみたいというのが私の この頃の夢である。
2008/08/05 10:18
朝倉浩之氏の記事 『「うまい!」北島発言を伝えるメディアへの疑問』
8月4日のRecord Chinaに、朝倉浩之氏による記事が載っていた。朝倉浩之氏は中国スポーツの取材、執筆を行いつつ、北京の「今」をレポートしていると紹介されている。
朝倉浩之氏の記事は『「うまい!」北島発言を伝えるメディアへの疑問』というタイトルで載っている。
内容をかいつまんで紹介すると、
(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080804-00000036-rcdc-cn)
競泳男子平泳ぎの北島康介選手が北京入りして、選手村での食事について「今まで(の選手村)で一番うまい」と発言した。これについては、日本でも大いに話題になったそうだし、中国でも、現地メディアが取り上げ、大きく報道された。
日本のメディアは一様に「意外に好評」「不安があったが…」などなど、「思いもかけず」“うまかった”という取り上げ方がほとんどで、概して、中国側のサービスに対して、「否定的」なイメージが先行した伝え方ばかりだった。
ここ最近、中国食品に対する安全問題が取りざたされており、もともと持っている「中国食品への不安」が今回の報道の視点が生み出したのだろうが、私は非常に視野の狭い見方だと感じた。
実は、中国では米飯は食べ るが、どちらかというと南方地域(上海以南)が主で、特に北京や河北省、山東省などでは、あまり一般的な主食とはいえない。もちろんのこと、味噌汁など全 く食べられない。にもかかわらず、世界各国から数多くの国々がやってくる北京五輪で、たった一国の選手団が食するに過ぎない「味噌汁」を選手村では心を込 めて用意した。
中国の「もてなし」の結果である味噌汁を“上から目線”で「“意外に”うまい」と講評することが妥当なのだろうか。それを日本の大メディアが軒並み、おな じ視点で語っているところに、今の日本のオリンピック報道、そして中国報道のいびつさを感じる。記事のうち、一つとして、中国側が「おいしい味噌汁」を用意したホスピタリティに敬意を表する視点から書かれた記事がなかったことが私にとっては意外であり、残念に思うのだ。
念のために言っておくが、北島選手は自ら「“意外に”うまい」などという不遜なことはいわない。一流のアスリートが主催側の用意した食事をそんな失礼な表 現で形容するはずがない。それを伝え手の側で歪めたニュアンスで伝えることは、外国報道の本質を損なうのだが、なぜか中国報道では、「それがよし」とされているように思えてならない。
一連の中国報道にかかって いる得体の知れないフィルターは今すぐにでも取り外すべきだ。近視眼的に先入観を持って見るのではなく、もう少し広い目で見てはどうか。国内報道なら当然 の、この視点が、こと中国報道になると、一辺倒の「上から目線」になるのはどうしてだろう…。以上は朝倉浩之氏の記事を半分に縮めたものだ。私にはこの朝 倉浩之氏の記事は、良い指摘だなと賛成できる。日本で中国に関する報道を見ると、中国のあら探しに軸足を置いて、しかも大げさではないかと思われるものが 多い。
私自身も中国に暮らして日本と違う文化、慣行、風俗におどろき、目を見張り、そしてそれを書いてきた。好きになれないことも勿論ある。でも今は、それが民 族の文化の違いなのだということが実感としてわかる。もしこちらが相手の文化を否定したら、相手がこちらの存在を否定することも許さなくてはならない。つまり両立できず、後は対立しかない。
しかし、それが今の世の中に可能だろうか。縄文時代の生活なら孤立して生きることもできたかもしれない。しかし、今互いの存在なしには私たちは地上で生きていけないのだ。相手を少しでも理解し一緒にこの地球号の上で共存しなくてはならないのだ。
そのためには、相手をはじめから色眼鏡で見て、違いをこと立てて対立をあおるのは良いことではない。日本のマスコミは大人とは思えない。勿論、逆に中国では日本への反感をあおるような報道があるわけだ。
お互いマスコミに踊らされず、良識をしっかりと持つことが必要だろう。これこそが教育なのだが、朝倉氏の記事への「みんなの感想」を見ると、
「日本メディアのいびつな中国報道といいながら、記事の内容はいびつな中国賛美だ。」
「このブログの筆者自体が、上から目線な気が。そりゃ中国人も面子がかかってるんだ、必死になるさ。」
「この記事は、中国国際放送のスポークスマンが書いたんでしょ。中国で生き延びるためには仕方がないかも。」
というような意見が並ぶ。触発的な反応だけで意見を述べている。人は考えるものだと教育を受けたはずなのに、ちっとも考えていないようなのが気になる。
意見の中に、「とても感動されました。日中の間になぜ理解しがたいだろうか不思議でならないです。お互いは先入観を捨て、もっと理解しあうならいいの に...。中国人は作った味噌汁はうまいかうまくないかをさっておき、少なくても、日本代表団のために、味噌汁を用意すること自体は評価すべきではないで しょうか。先入観を捨てたほうが日本にもプラスなるではないでしょうか。」
という共感を多く集めた意見があったのが救いである。言葉遣いからすると、中国人が書いたように思える。言葉を覚えて、日本で一生懸命生きている息吹が伝わる。誰だか知らないけれど、がんばれよ!!!
マスコミがいい加減なら、草の根交流しかないのだ。
2008/08/07 10:25
母の入院
痴呆の状態が続いている私の母は十年以上前から老人ホームでお世話になっている。私が帰国する数日前、母は喀血して老人ホームから病院に運ばれ、そのまま入院した。
それで私は帰国してから彼女の退院まで二三日おきに病院に通った。この病院は横浜線沿線にあるので、もしまだ車を持っていれば15分もあれば行き着く距離である。
しかし、東京都の排気ガス規制が厳しくなり二年前にとうとう15年乗っていたハイラックスサーフを手放して以来、車を持たない生活になった。はじめは戸惑ったけれど、どこに行くにもまず家から歩くという生活は新鮮である。
この病院に行くためには私たちはバスの中山行きに乗る。ありがたいことに今は横浜市から優待乗車証を貰っているので、バスと地下鉄には無料で乗れる。この 春から横浜市グリーンラインが開通したと聞いているので、バスでそのまま中山に行かずに途中で降りて、川和町駅から地下鉄に乗ってみた。
地上3階建ての新しい駅舎には地上からエレベーターを乗り継いでも到達できる設計になっている。今は建前は少なくとも「弱者に優しい」ことが売りの社会で ある。地上3階から眺めるこの地域の姿は緑が多く、のどかで美しい。暑い日差しは駅舎の屋根に遮られて、吹き込む風が涼を運んでくれる。
グリーンラインは4両編成で、車両の幅は大江戸線なみに狭いようだ。地下を掘るとなると、10センチ細くするか、広く掘るかでたちまち何十億という金の差となるのだろう。席には「全席優待席です」と書いてある。日本憲法の第九条に負けず劣らず、立派である。
勿論ウイークデイの昼間なので同じ車両に乗っているのは数人という少なさである。電車は3階建てからあっという間に地下に吸い込まれて、地下3階くらいにある中山駅に着いた。
ホームにはこの電車を、大して多くの人たちが待ってはいなかった。一つのドアあたりで数えると十人以下だったのではないか。でもドアが開いたとたんに、私たちともう一人が降りるよりも先に私たちを突き飛ばして、人々が入ってきた。絶対に、皆が楽々座れる数なのに。
なんということだ。「全席優待席」と車両の座席には書いてある立派な電車で、乗るときは整列乗車、降りるのが先、乗るのは後という当たり前のことが全く無視されている
すぐに瀋陽のバスを思い出した。乗るときは一人しか通れない乗車口に、ともかく早い者勝ちで殺到する。瀋陽には電車はまだないのでどうなるかわからないが、上海の地下鉄には、ホームの乗り口のところに「降りるのが先、乗るのは後」と書いてあったのを思い出した。
書いてあるのはそれが守られていない証拠である。実際、上海の地下鉄では、いつも降りるのに苦労した。つまり人間は日本でも中国でも性善ではなく、本質的には性悪なのだ。教化しなくては動物以上の行動をとれないのが人間なのではないか。
などと考えているうちに、横浜線を経て、病院に到着する。
母は個室に入って天下太平である。目覚めているときは低い声を出し続けていることが多い。何かを話しているとしか思えないけれど、音声全く不明瞭でわから ない。目の向いている方に行って話しかけても、手を振っても、ほほを撫でても、手を擦っても、彼女の目の焦点は私には結ばない。それでも痩せた手を伸ばして語り続けている。
私の娘よりも若い女性の医師が担当医である。鮮血の出血だと結核、がんなどが疑われるが、結核菌は検出されず、CTスキャンで調べてみても肺がんの疑いはない。後は気道検査鏡を入れて調べるのだそうだが、これが健康人でも結構つらいという。
私だって気道につばの飛沫 が入っただけで大きく咳き込むこの頃だ。気道鏡など考えただけで恐ろしい。医師は、「出血の原因がまだわかりませんが、気道粘膜が弱って特に理由もなく出 血するのかもしれません。そうなると気道検査ということになりますが、これは苦しいだけではなく、かえって気道を傷つける可能性もありますから、どうで しょうか?」
気道検査反対という答えを期待する誘導尋問みたいである。こちらは彼女の話しか判断の基準はないのだ。「出血を抑えるための薬を点滴薬の中に入れてありま す。」という。つまり血液凝固を促進するわけだ。「しかし一方、これは血栓を作りやすいので、心筋梗塞、脳梗塞も起こす可能性もあります。」
出血があっても、その原因がわからず出血を押さえられない以上、対症療法としては二つに一つというリスクを覚悟しなくてはならないようである。医師は私と 妻を前にして、メモをとりながらきちんと話しをしていく。「じゃ、このまま経過を見て、あと数日で退院と言うことにして大丈夫だと思います。」ということになった。
最後に私のサインが求められて、状況を話したという記録が両者に残った。私の叔父は医者だったが、病状について何か訊くと、いつもフンという感じで、「それだけ分かっていりゃ、医者いらずでしょ。」という返事しか返ってこなかった。病院も医師もどんどん変わっていく。
2008/08/09 09:31
身体を鍛えなくっちゃ
数ヶ月ぶりで中国から日本のうちに帰って、今までと違うと思ったのは、階段を上ろうと思ったときだった。うちは狭い敷地いっぱいに家を建てているので、2階どころか3階建てである。階段を上り下りしないと日常生活が成り立たない。
いままでは何ともなかった階段の昇りが、急にこたえる。膝がもろに痛い。脚の踏み込み方が悪いと左膝に激痛が走る。左足を一段上にかけたまま力を加えずに屈伸をして、さてという具合に力をかけて階段を上り始める。
今まで、階段を上ることなんて何でもなかったことだった。意識したこともなかった。しかし、今回は階段を上るためには脚の筋肉に力が入らなくてはいけないことを強く意識する。つまり、脚の筋肉がやせ細ってしまったのだ。
還暦になったところでテニスをやめて以来運動らしい運動をしたことがない。時には思いついて大学構内や外を早足で歩くことをやったけれど、1時間くらい時 間をかけるのがもったいなくて長続きしなかった。大学の階段を上るのも日課にしていたけれど、何時しかやらなくなってしまった。
運動不足が筋力低下をもたらしたのだ。瀋陽の研究室では毎朝7時から夕方の7時まで、ほとんどコンピューターの前に座って仕事をしているつけが来たのだ。
若いときは運動らしい運動をしなくても大して筋肉が衰えることはないが、歳をとると致命的らしい。年寄りこそ日常的に筋肉を鍛錬しないといけないのだ。歳をとってから一週間入院すると筋力が20%落ちると、妻が聞き込んできた。どうも私もその年齢になったようだ。
日本の今年の夏休みは、うちで特にしようと思っている仕事はない。それならせめて毎日運動をして身体を鍛えよう、と決意をするのは簡単だった。でも階段を上るごとにへろへろになるし、外を歩いてみようと思ってもあまりにも暑すぎる。うちの中だって35度くらいある。腕立て伏せと、スクワットをするのが関の山である。
ともかく、日本に戻って十日ほどすると階段を目の前にして、階段を上るのだという意識が頭に浮かばなくなった。つまり脚の筋肉が少し付いてきて、階段のぼ りを負担に感じなくなってきたと言うことだ。腕立て伏せは40回、腕を横に開くのと縦に開くのとそれぞれ1セットずつ、スクワットは30回を2セット、を 目標にして、1回もやらないこともあるけれど、今からオリンピック選手を目指すわけでもないし、まあ、いいか。
春に日本でメタボ、メタボと企業でメタボリックシンドローム追放が盛り上がっているとき、日本から戻ってきた妻が「そのお腹、日本だったらメタボかも」と いって、巻き尺を取り出した。「男性だと85センチを超えるとメタボなんですって。」というので、「まさか。いつも31インチのジーンズだし、そんなはず はないよ。」と返事をして計ったところ、なんとへそ周りは88センチもあった。
体重は最盛期よりも少ないが64 kgはあるので、まさかと思っていたけれど、脚の筋肉が落ちた代わりにお腹に柔らかく脂肪が乗ってきたのだろう。だから瀋陽にいるうちに腹囲の脂は気になっていたけれど、脚の筋肉がここまで落ちているとは思わなかった。
筋肉細胞は分化した後は増殖しない。修復用にほんのわずかな数のステム細胞があるらしいが、本質的には筋肉細胞は再生しない。神経細胞と同じように、筋肉 細胞の数も20歳代はじめにピークになった後は減っていくだけである。細胞が死んでいくのは、遺伝子の中に自殺プログラム(アポトーシス)が組み込まれて いて、様々な要因でこのプログラムが起動して細胞が自殺することが、今では分かっている。
しかし実験では、ほとんどの筋肉細胞がアポトーシスを起こす要因はたくさんあるけれど、実際には筋肉細胞は年齢とともに徐々に死んで減っていくわけで、実際には何がこのアポトーシスを制御しているのかは分かっていないようである。
鍛えると筋肉がたくましくなるのは、一つ一つの筋肉細胞の中の筋繊維の数が増えて細胞を太くなるからである。細胞の数が少なくても筋繊維の数が多ければ筋 力は同じになるわけだから、刺激を与えて筋肉を太くすることは意味がある。筋力が落ちたことを嘆くだけではなく、今から筋トレを始めても遅くない。
加齢を重ねると膝が弱って くるが、これは膝関節の中にある半月板という軟骨がすり減ってしまうためらしい。勿論、生きている間は消耗を補う再生をやっているわけだが、歳をとるとこ の能力が落ちてしまうために、半月板が減って、脚の骨頭が直接ぶつかって、痛むために歩けなくなる。誰でもこうなるかと思っていたら、半月板の能力に関係 する遺伝子が見つかったという。
理研の研究によると、DVWA(Double von Willebrand factor A domains)にSNPで変異を持つ人と関節症とに関連がある。DVWAタンパク質はチュブリンという軟骨細胞の細胞骨格を構成するタンパク質と結合す る。変異SNP によってできたDVWAタンパク質とチュブリンとの結合力は低下している。つまり、DVWAは軟骨細胞の細胞骨格の制御を通じて、OAの病態に関与している。
http://www.riken.go.jp/r-world/info/release/press/2008/080712_2/detail.html
これで関節症が治るなら良いけれど、病態のメカニズムが分かっても、必ずしも治療が可能ではない病気が多い。人のゲノム解析、SNP解析などが進んでデー タベースが完備し、自分のゲノムが分かる時代になったら、自分の健康管理が可能になる一方、「自分の将来こんなもの」と夢も希望もない時代になってしまう かもしれない。
2008/08/12 09:17
北京オリンピック開会式の翌日
「学会に行ったら全然知らない人から、『沈さんですね』 と声をかけられたんですよ。そして私のことをよく知っているんです。」
と言って話し始めたのは沈さんである。京都大学の修士課程を終えて今は某化粧品の研究所に勤めている。瀋陽薬科大学の昔の教え子が数人集まって桜木町のレストランで食事をしたときのことだ。
「先生はブログに何でも書いちゃうから、その人に『沈さんはミハチンと呼ばれているんですね。沈さんは何か事件があるとすぐに飛んできて、興味津々と首を 突っ込むミーハーなんだって。ミーハーの沈さんだからミハチンなんですってね。』なんて、言われちゃったんですよ。」と沈さんはくちびるを突き出したが、 不満の抗議ではないと見た。
ミーハーというのは私の母の学生時代からあった言葉だと思う。今でも使われている言葉かどうかは知らないが、少なくとも褒め言葉では使わない。でもミーハーのミハチンなんて聞くと、どんな人なのか知りたくてウズウズするのではないか。
私のホームページの「瀋陽便り」には、瀋陽に暮らして見聞するいろいろの事がらを書いてきた。当然のこと、人物も登場する。勿論書いては差し障りがありそうと私が判断することは書かないでいる。大丈夫と思うことしか書かない。
しかし妻に言わせると、「その判断が正しいなんて保証はないでしょ。自分の思い込みで勝手に決めているだけなんだから、危ないわよ。」と言うことになるが、自分の判断以外信じられるものがあるのかというのが、私の考えである。
自分の判断を信じて、言いたいことは言う、やりたいことはやる、書きたいことは書く、のでなければいったい何のための人生だろうか。自分の人生を生きていることにならないではないか。
というわけだが勿論私だってプライバシーには配慮をして、最初の頃の登場人物は仮名にして書いてきた。沈さんは、その頃は白さんだった。彼女は最初の卒業 研究の学生だったし、とても個性的な学生である上に、生き方が積極的だったから、私のブログに何かと登場し続けたのだった。彼女を通じてまず中国の心を学び始めたと言っても過言ではない。
「昨晩の開会式を観た?」 と訊くと、誰からも異口同音に「観ましたよ」と返事が返ってきた。「すごかったじゃない。ハイテクのトップを行くすばらしく豪華 絢爛な開会式だったね。」というと、留学生の一人は言った、「中国ってきっともたもたと、おかしな演出をするんじゃないかなと心配していたけれど、すっご くって感激しました。」彼女の声は感激のために声がくぐもっていた。よく分かる。密かに心配していたら、その心配を裏切った見事な演出で、世界のひとびと に、特に中国人に、大きな感動と感銘を与えたのだから。
さすが張芸謀監督である。皆の予想を遙かに上回る演出の冴えを見せた。孔子の言葉を唱えながら、楽器を打つ2008人の若者たち、楽器は音とともに色彩の 広がりと形を変えていく。書が出る。竹簡を持つ多数の人たち。紙の上に人の踊りに沿って絵が現れる。絵の描かれた巨大な紙はグランドの上につり上げられ る。拡げると150メートル近いという絵巻物の上の絵が、次々に替わっていく。昔の墨絵、いつの間にか動画、絵巻物の上がまるでコンピュータのスクリーン みたいだ。紙を発明した中国。どうしてこんなことができるのだろう。この絵巻物の次にはグランドが開いて、地面の中から現れた沢山の活字がしなやかに踊る。活版印刷を発明した中国。羅針盤を発明した中国。火薬を発明した中国の鮮やかな花火。
地面が割れて直径10メー トルくらいの球が現れた。これが地球儀になった。この上を人々が走り回る。南半球では人々は逆さにつるされて走っている。競技場の地面の下にも上にも、大 がかりな仕掛けがあるのだ。先ほど絵の描かれた巨大な紙は、入場式で数千人の選手に踏まれて鮮やかな色彩に染め上げられたあと、 開会式の演壇ステージの表面となった。どうやってこれを可能にするのだろう。
桜木町ドックヤードの地下にあるイタリア料理の店に集まって、私たち7人は2人用、3人用セットをひとつずつ注文した。この店を紹介した沈さんが、「ここ はおいしい上にたくさんあるから、5人分で十分です」というのだ。私たちはオリンピックから始まって、大学の研究のこと、職場のこと、ありとあらゆること をしゃべり続けた。会話は勿論日本語。
今は京都大学にいてほぼ2年ぶりで会う満さん、東工大に行って1年近くなる李さん、就職して1年を超える沈さん、そして慶応の博士課程にいる朱さんと日本企業に勤めて1年の郭さん。
別れるときには彼らから沢山の土産を貰った、「日本にいる間は、のんびりとテレビでオリンピックを見ながら食べて、太って下さい」、と言う口上で。でも彼らの元気な姿を見て、確実に成長していることを知ることが、何よりも大きな土産である。
2008/08/13 00:13
「いづい」日本語
母の入院につきあって何度か病院を訪れるために、JR横浜線の駅を何度も利用した。プラットホームで電車を待つ位置の向こうの壁にはJR東日本の広告が貼ってあるのを見つけて馴染みになった。
吉永小百合さんがにっこりと笑っている。吉永さんは私よりも数年若く、私が大学の修士課程を終えて名古屋大学に就職したとき、その頃の学生の間に大人気 だった。サユリストという言葉は当時すでにできていたと思う。彼女の年齢を考えると、吉永小百合さんにはいまだに若さが凝縮している。
このJR東日本の広告は大人の休日倶楽部の広告で、「吉永さんがおすすめする理由」というヘッドラインだった。50歳以上であれば入会すると運賃の5%が安くなるというものである。このヘッドラインを見ていると、何か微妙に引っかかる。「何かおかしくない?」と妻に言うと、妻も「なんだかおかしいわね」という。
この広告はJRが私たちを広告対象にして、よく知られた吉永小百合さんを使って、私たちに訴えている。
吉永小百合さんがJRからそれなりの謝金を貰っているにせよ、私は彼女がJR一家に属しているとは思っていない。JR東日本が著名人を使って広告対象の私 たちに訴えているわけだから「吉永さんがおすすめする理由」ではなく、「吉永さんがおすすめになる理由」でなければ、ここの文脈ではおかしいと思う。
つまり広告はJRが打ち、吉永さんも気に入っていることを一般に訴えたい。だが、「吉永さんがおすすめする理由」になるか、「吉永さんがおすすめになる理 由」の違いは、丁寧語か尊敬語かである。JRは「おすすめ」という言葉を丁寧語と思い、丁寧語感覚でつかったのだろう。しかし私は尊敬語でなくてはおかし いと思うのだ。
つまり問題は、「吉永さんがおすすめする理由」になるか、「吉永さんがおすすめになる理由」になるかは、広告主のJRと吉永小百合さんとの関係によるわけだ。
JRが吉永さんをJR一家のものと思っているなら、「吉永さんがおすすめする理由」でもいいが、JR一家のものと思って良い訳ないから、「吉永さんがおすすめになる理由」でないとおかしいのではないかと言うのが私たち二人の意見である。
もし、「おすすめ」を丁寧語として使っているなら、吉永小百合さんはJR一家のものという気持ちが裏にあることになる。この場合は「吉永がおすすめする理由」と書いてくれるのが良い。それなら納得できる。
つまり吉永小百合さんとJRとの関係が曖昧模糊とした形のまま、この広告が私たちに押しつけられているから、私も妻も何だが釈然としないものを感じるのだ。
この広告の横にJR東日本による別の広告が並んでいる。「いまどき、きっぷのいい話です」というものだ。私はこの「きっぷのいい話」に引っかかる。
じつは今あまり使わなくなった言葉ではないかと思うけれど、「きっぷのいい」の「きっぷ」は気風のことで、人の性格を指して言う。あの女は「きっぷのいい人だ」と使うのが正しい。「きっぷのいい話」なんて言う用法はないはずだ。
勿論言葉は変化するから、「きっぷのいい人だ」が何時も使われているうちに「きっぷのいい話」として転用される場合はあるだろう。しかし、おそらく今は使 われていない言葉である。それを引きずり出してきて全く別の用法を当てはめるのは、「明らかに誤用である」というべきだろう。
「気っぷの良い人」というなら、ネットの上の知人のmokanakoさんがある。
彼女のさばさばとした「気っぷの良い行動」や胸のすく書きっぷりには惚れ込んでしまう。ネットの人格と本物が同じ保証はないけれど、きっと、実際の mokanakoさんもちょっと斜に構えて、自分を笑いのめすことのできる確りした自分というものを持つ素敵な女性だろうと思う。
最近のmokanakoさんの8月10日のブログに「日本語がおかしい」というのがあった。「みなさま、お忘れ物をいたさないよう、よくご確認ください。」というのが例として挙がっていた。
確かにこれはおかしい。こういうおかしな日本語に出会ったときの気持ちは「いづい」のだそうだ。初めて聞いた言葉だけど、mokanakoさんによると 「いづい」とは『居心地悪いというか、違和感を感じるというか、気持ち悪いというか、かゆいでも痛いでもないし…すっきりしないというか、ちゃんとしてな いというか、そういう感じを表す言葉』だそうである。
(http://mypage.odn.ne.jp/home/mokanako)
四十年くらい前、就職して名古屋に行ったとき、研究室の私宛に学生から電話がかかってきた。「○○先生、おりますか?」
いまだにあのときの衝撃が忘れられない。あの気分。あれが「いづい」だったのだ。そして日本語のおかしいのは今に始まったことではないのだ。
(mokanakoさま、勝手に引用してごめんなさい)
2008/08/16 07:46
母のこと
母が病院から解放されて老人施設に戻ったあと、施設から医者を交えて話をしたいので来てほしいという連絡があった。週日のある日の12時という約束で施設に妻と出かけた。連日暑い。電車を3本乗り換えたが、電車の中だけが救いの冷房である。
施設に着くとちょうど食事時間で、母は車いすに座って食堂で食事をしていた。今は介護がないと食べられないが、ほとんどすべてを食べ尽くす健啖家である。
一室に招き入れられて、医師とその付き添いの看護婦2人、施設の看護士、ケアマネージャー、副ホーム長と話をした。
若い医師が言うには、「山形さんの今回 の出血は気道出血らしいと病院で言われていますね。これは老化により粘膜が脆弱したためと考えられます。出血を抑える薬が使われてきましたが、私はこれを 処方しません。というのは血栓ができやすくなるからです。しかし、出血原因が治っていない以上、また出血する事態が考えられます。そのときにどのような治療をするかについてご相談をしたいのです。」
「というのは、出血が起こるとご家族に連絡する一方で、待ったなしで緊急に病院に搬送と言うことになる可能性があります。このときこちらの意思表示がないと、病院ではすべての手段を使って生命を救おうという処置をとります。」
「しかし山形さんはもう十分にご高齢で、意識もありませんし、いたずらに延命を図ることが良いかどうか分かりません。勿論これは私個人の意見ですが、ご家 族はどのように考えておられるでしょうか。このことについてご家族のご意見を伺っておいて、病院側にしっかりと伝える必要があるのではないかと思います。 ここに同意書なるものを作りましたので、ご家族のご意見を書き込んでもらえないでしょうか。」
以上は正確ではないが医師の言葉である。命ある限り徹底的に治療しようというのではなく、意味のない命なら長らえる必要はないという見方なのだ。
しかし命に意味があるかど うかは本人の決める問題である。他人が云々することではない。本人に判断力がなく(医師は意思がないといったが、私は判断力がなくなっているのだと思う) 決定できないときには、家族が代わって決めることになる。私はつらい判断を任されることになった。
私の気持ちは、彼女はもう社会 復帰はできない、人として意思決定もできない、判断もできない。したがってこの先、母の健康が損なわれたときには無理に延命処置を執らずに、苦しませずに 最後を迎えさせたい。
同意書には質問が書いてある。
質問1 病状が悪化したときにはどこで治療を受けたいか。
1. 入院治療を希望
2. 施設の可能な範囲での治療を希望
これは1.である。
質問2 最後を迎えたいところはどこか。
1. 今入居している施設
2. 病院
3. その他
入院して最後を迎えるかもしれないし、老衰のために施設で看取られるかもしれない。決められないのではないか。
質問3 口から食事がとれないときはどうするか。
1. 気持ちに任せて無理な治療はしない
2. 経管栄養をとらせる
3. 点滴による水分補給を受けたい
この中の1.はよく分からないがほかの文脈から見ると、そのまま栄養・水分補給をしないで放って置くということになる。2.では延命処置と言うことだ。3.に丸をつけることになろう。
質問4 病状が悪化したときに行う処置で希望するものを選べ。
1. 痰の吸引 2. 酸素吸入 3. 輸血 4. 強心剤の点滴 5. 人工透析 6. 人工呼吸器をつける 7. 気管切開 8. 心臓マッサージ
2. 人工呼吸器を一旦つけて延命を図ると、これを外すのは殺人になる。つまり一度装着すると外せないことになるので、医者は人工呼吸器をつけるなと事前に示唆している。これこそ事前に決めておかなくてはならない大きな一項目であるという説明である。
3. 私は妻とよく相談して、やってほしいこととして、痰の吸引と酸素吸入を選び、人工呼吸器をつけるのを選ばないことにした。私の一つ違いの姉も同じ意見だった。
4. この同意書は私たちの意見として医師が預かるだけで、何らの法的拘束力はないという説明を聞いた。しかし彼女に替わって私たちは決断したのだ。そして私自身の将来も同じようにすると決断したわけである。
5. これから先は、母自身の生きていこうという自然の力がなくなったときが最後になる。
2008/08/22 07:55
給料の不思議
依然として中国語が分からないので、いろいろな情報が入りにくく、大学の事情がよく分かっているとは言えない。それでも分かってきたことは、この大学の中国人の先生の給料は基本給と、講義の加算給から成り立っているらしい。
基本給は、定年で辞めたあともずっと貰える額で、言ってみればこれが年金となるようだ。大学にteacherとして就職したときの基本給が毎月800元と 聞いたことがあるから、これは省が決めた最低賃金とほぼ同じである。講義をすると時間あたりteacherで50元貰える。助教授、教授になると時間単価 が高くなる。Teacherは学生の前で教科書を読みまくって、毎月3-4千元くらい手に入れているそうだ。
私が大学と契約したときの給料は、基本給、加算給と分かれていなかったし、講義をすると別計算にするともしないとも書かれてはいなかった。私を瀋陽薬科大 学に橋渡しをした人の話では、学長並みの給料だと言うことだった。つまり結構な額を貰うことになったから、講義をしても講義をすることで給料が加算されるとは思っていなかった。
薬科大学の一部の学生は日 本語教育を受けて日本語で専門学科を学んでいる。薬学日語、中薬日語と言って、普通の学部が4年制のところを、日本語を学ぶ時間 が加算されて5年制となっている。私が受け持ったのは、言ってみれば専門基礎となる生物化学や分子生物学だった。と言っても、中国人の先生が教えていると ころに割り込むわけで、こちらがあまり頑張って講義をすると、彼らの講義による給料が減ると言う問題が起こる。さらに彼らによる講義の主導権を取ってはい けないので、私の受け持ちは分子生物学で50%、生物化学で40%である。
5年間ここにいる間に制度が変わって、日本語教育は学部の新1年生から始まるようになった。彼らは日本語の「あいうえお」から勉強を始めて、9ヶ月経つと 国際能力4級試験を受ける。そして15ヶ月後には(2年に進級して3ヶ月あと)国際能力1級試験に挑戦するのだ。この国際能力4級試験に通ることは必須 で、もし通らないと、大学のすべての課程を終わっても卒業証書は貰えるけれど、理学士認定証は貰えない。日本の大学は卒業免状に大学の所定の学業を終え (私たちの場合は)理学士の学位を授与すると書いてあるが、ここでは別建てである。
日語班に入るのは大学受験の最初から希望して入試の成績が優秀なら入れるが、そのような人たちで定員は一杯にはならない。それで、成績上位からこの日語班 指名される。と言うことは、日本語を勉強しようなんて思ってもいなかったり、日本のことは大嫌いだったり、というような人たちもこの日語班に入れられるのである。
それでも、65期の胡丹のクラスでは15ヶ月の日本語の勉強のあと、28人いた級友のうち27人が国際能力1級試験に合格している。これは未だに記録の最 高峰のようで、今ではクラスの2-3割しか国際能力1級試験に合格出来ないと聞いている。学力が落ちたとも言われているが、中国の環境が急激に変わってき ていて、がむしゃらに勉強をするという風潮が廃れてきたのではないだろうか。
私がここに来て講義を始めて1年経ったとき、講義をしているならそれに給料が払われるから講義時間数を申告するようにと、生化学主任の小張老師から連絡が あった。言われたとおり申告して、さらに1年経っても音沙汰がないので、どうなったかを問い合わせると、日本の先生の講義は給料に含まれるので別建て計算はしないと言うことだった。
これははじめから覚悟をしていたから、それはそれでよかった。しかし、しかしである。この春、免疫生化学を400人相手に講義していてとっても大変だ、た いへんだという池島教授が講義の分は別に給料に加算されているという。驚いて、いつからかを聞くと、ここに来て以来だという。
彼は私よりも2年前から瀋陽薬科大学に来ている。「たいした額ではないけれど研究費にしているんだから、貰わなくちゃならないんですよね、」なんて言って いる。給料が研究費になっているのはこちらも同じである。5月からここに来た二宮老師も給料の半分を研究費に出している。
貰わなくてよいと思っていた講義代だが、別に計算して余分に貰っている人がいるなら話が違う。それでこのことを小張老師に話した。するとしばらくしてか ら、ここに来て以来の講義の時間数を書いて出すようにと言う。毎年の卒業研究の学生の名前も書いて出すようにと言う。もちろん必要なのは彼女ではなく、教 務処らしい。
毎年、生化学20時間、分子生物学16時間である。給料に跳ね返っても大したことはない。だけど自分に不利なことを黙っていたり、遠慮していたら、ここでは馬鹿にされるだけである。
と言うわけで改めて申告を出したが、まだ返事を貰っていないうちに夏大学は公式に7月19日から休みとなった。この夏、学部学生はすべて宿舎から追い出さ れた。オリンピックの安全のためであるという。院生は教授が研究室に来ているときに限って実験室に来ても良いと言う厳しいお達しである。私たちの研究室も それに協力することにして、長い夏休みと言うことになった。
中国の人たちは中国の金メダル獲得数が世界一になることを期待して中国選手の一挙一投足に熱狂する一方、息を潜めて、無事にオリンピックが終わることを待ち望んでいる。
中国の人たちの期待通り、中国の金メダル獲得数はダントツで一位になりそうだ。そしてこれは国民の期待と完全に一致しているけれど、政府の期待通りに諸外国に対しての国威発揚に成功しただろうか。
2008/08/25 18:11
「おにぎり」の海苔賛歌
今の私たちは中国の大学で5ヶ月間の研究生活を送り、夏冬には大学の休みに合わせて1ヶ月の休暇をとって日本に戻ってくる。日本に戻ってきて久しぶりに友人や知己、親戚、ご近所さん、昔の学生たちに会うと、「中国はどうですか」と聞かれる。
そのたびに中国で道を渡るときのスリル満点の冒険とか、食べ物はすべてが中華料理でおいしいけれど、その中華料理にも味と値段はピンからキリまであるとか、中国のラーメンは日本ラーメンではなくうどんであるとか、話すことには事欠かない。
いつもそのようなことをここに書いているので、中国で珍しく思う体験ではなく今日は観点を変えて、日本に戻ってきて何を新鮮に感じるかを書いてみたい。つまり日本にいる限りは気付いていない日本の特徴というか、日本独特のものは何かである。
日本は水が豊富である。「湯水のごとく使う」という表現があるくらい豊かな水に恵まれていることを、実際私たちは身をもって中国で再認識した。でもこれは外国の生活を経験した人は誰でもが言うことだ。
日本に帰ってくると食べ物では蕎麦、ウナギ、天ぷらが懐かしいし、温泉や道の清潔さ、などなども嬉しいことである。
でも、誰もこういうときに取り上げていないだろうけれど、私の気に入っているのはコンビニのおにぎりである。海苔のおにぎりである。「おにぎり」は「おむ すび」とも言うので、どちらだろうかと思ってインターネットで調べてみた。すると、「Orbium -そらのたま」で見つけたのは、『関西では「おにぎり」、関東では「おむすび」と呼ぶ傾向がある』ということだ
(この文の原典はhttp://sasapanda.net/archives/1526)。
ただし、『日本の大部分で「おにぎり」(または「にぎり」)と呼んでいて、関東から東海道にかけて「おむすび」(または「むすび」)と呼んでいるが、東京と神奈川では「おにぎり」と呼んでいる』そうである(同上)。
子供の頃何と言っていたか思い出せないけれど、私にとってはおにぎりと呼ぶのがぴったりくるので、『東京と神奈川では「おにぎり」と呼んでいる』という通りだろう。
「Orbium -そらのたま」に載っている解釈が面白い。古事記に出てくる天の高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、地の神産巣日神(かみむすびのかみ)と名付けられた 神の力を授かるために、古代人は米を山型(つまり神の形)をかたどって食べて、これを「むすび(産巣日)」と呼んだという。
つまり「おむすび」は三角形でなくてはならないことになる。今の呼び名は「おむすび」でも「おにぎり」でも良いのだが、私が特記したいのはコンビニのおにぎりの中でも、海苔を巻く三角形のおにぎりである。
おにぎりは昔からのりで巻くのが主流だった。遠足のお弁当に入った海苔で巻いたおにぎりの海苔は、包みのタケノコの皮を開くと、表面はべちゃべちゃになっていて、手にくっついてしまう。海苔の味がするにしても、いつも情けない思いだった。
それが今はどうだ。ポリエステルの外装の上の突起をすっと引くと外装が二つに割れ、これを両側に引くと真新しい海苔がおにぎりを包むという仕掛けがすばら しい。食べる直前に海苔はおにぎりを包んで、ぱりぱりの海苔なのだ。手触りが良い。香りがよい。昔は一度もこうやって食べたことのない海苔を巻いたおにぎりの感触だ。
それがわずか百円強で手に入るのだ。これはコンビニの偉大な発明である。ノーベル賞よりも遙かに身近な、生活の質の向上に貢献している。大げさかもしれないけれど、国民栄誉賞を与えても良いくらいの発明だと思う。
中身は鮭でも、たらこでも、明太子でも、マヨチキンでも何でも良い。このぱりっとした海苔の手触りと舌触りは、中身が何でも至福の時をもたらしてくれる。至福の時を味わいたくてゆっくりと食べたいけれど、ゆっくりしていると手に触る海苔が湿ってくる。急がなくっちゃ。
これも日本が湿度が高いからである。湿度の高さは日本にいると嘆きの種だけれど、私たち生き物は海から上がってきた生物なので、乾燥に弱い。中国内陸部は乾燥しているので、洗濯物は一晩で乾くありがたさはあるものの、冬は乾燥しすぎて皮膚がかゆくて、かゆくてたまらない。
そうだ。思いついた。成田空港で手続きをする前にコンビニの海苔おにぎりを買って、瀋陽に持って行って食べたらどうだろう。最後の一口までぱりぱりの海苔の感触が味わえるかもしれない。これは、すごく贅沢なご馳走だと言っていい。もうすぐ瀋陽に戻るのが楽しみである。