2005/06/10 23:42
中国で食べるヨーグルト
瀋陽薬科大学の5階建ての学生食堂は、学生数が多いので食事の時間にはいつも混み合っている。こちらはたいがい時間が自由になるので、めし時を避けて出かけることになる。
5階のカフェテリアではまず入り口で皿の形にくぼんだ金属盆を手にする。金属盆もスプーンも、いつも綺麗に洗浄されているわけではないので、誰もが清潔なのを選ぼうとして時間を掛けるために、ここでかなり混雑する。カウンターの入り口に近いところには冷菜が並んでいて、その後は豆腐が主体の料理から始まって様々の料理がバットに入って私たちが選ぶのを待っている。最初のところでどうしても目をそらすのは、カイコの蛹が山盛りになっているのを目にしたくないからだ。気持ちが悪い。これを食べると思うだけで、気分が悪くなる。
丸丸とした茶色の蛹は大学の食堂ではもう茹でてあるから動かないけれど、食材を売る店に行くと、もぞもぞと腹を動かしている蛹が山積みになっている。
私は戦前の生まれで、集団学童疎開を経験している。学童疎開とか縁故疎開とか聞いて、「あぁ、あれ」と直ぐ分かる人はもう大分少なくないと思う。1941年12月8日から米英を相手に始めた戦争で、緒戦はともかく1942年6月のミッドウエイ海戦で空母4隻を失ってからあとは負け続けだった。1944年7月サイパン島が玉砕してからは、長距離をしかも成層圏が飛べるB29が発着出来る飛行場が造られて、昭和19年末から日本が連日の空襲圏内に入った。せめて学童でも生き残らせるために東京から疎開させようと言うことになって、学校ぐるみで首都圏を離れて移動したのを集団学童疎開と呼び、それ以外に子どもを親戚縁者に預けて疎開させた場合を縁故疎開と呼んでいる。
当時、東京第一師範附属国民学校と呼ばれていた私たちの小学校は、長野県松本市の松本温泉旅館を宿舎として昭和20年頭から集団疎開を始めていた。私は4月29日に第二陣として松本温泉に到着した。小学3年生で親元を離れ、「一億玉砕火の玉だ」とか「死して護国の鬼となれ」と叫ぶ先生達や、「欲しがりません勝つまでは」と言いつつ何かと下級生の私たちに鉄拳をふるう上級生に囲まれて、実に心細かった。東京から母が初めて面会にきてくれた時は、一緒に旅館の別の部屋に案内された。母が帰らなくてはならない時間が来たとき、彼女の腰にひしとすがりついて私は号泣した。泣いたからといってこのまま母と懐かしい東京のうちに帰れるということはない、とちゃんと知っていながら、涙は止まらないのだった。この日の記憶は私の意識をはっきりと二つの時代に分けることになった。
やがて松本も危ないというので6月3日には、もっと信州の奥地になる飯田線沿線の下伊那郡上久堅村にあるお寺に移り住んだ。駅から2〜3里山を上がったところだった。禅宗のお寺の本堂を開放して貰って、そこに私たちは寝起きしたのである。ここには私たちの二年上になる小学5年生の上級生と、私たち3年生が移った。昭和に入ってから打ち続く戦争で日本中が疲弊しきっているところに、都会から育ち盛りの子ども達を押しつけられて、村はさぞ大変だったろうと思う。村の子ども達に「とうきょっぺぇ」と言っていじめられたと同時に、村の年上の女の子からは「たっちゃあ」といって可愛がられた。
麦飯が出たのは最初だけで、直ぐにすいとんに変わり、やがてそれすらご馳走となってしまい、秋には芋の蔓ばかり食べていた。おやつで配られる6粒の煎った大豆は、貴重品だった。まず皮をはがし、中を半分に分け、芽も分け、それぞれを別の山にした上で、時間を掛けてゆっくりと食べるのだった。
初夏の最大の楽しみは、稲田に行って学童が紙の袋を持って田んぼの端に並び、稲の列の間を一斉に歩いてイナゴを追い立てることだった。栄養補給はこうやって掴まえたイナゴをいろりの大きな鍋で煎ったものか、あとは村から支給される繭を取ったあとのご用済みのカイコの蛹だった。普通は鯉の餌になるのだと聞いた。
上久堅村の産業の一つが養蚕だったのだろう。どの農家も二階に上がるとそこが蚕室になっていて、平たい枠におかれた桑の葉を食べる蚕の音が、サワサワと聞こえた。私たちは授業の合間に、というか、どのくらい授業があったのだろう、勤労奉仕と言う名で山にガソリンの代わりになるという松根油が採れる松の根を掘りに行ったし、山から自分たちの住処で使う薪も運んだ。イネの雑草取りもしたし、秋には稲刈りもした。その奉仕の一つが桑畑に桑の葉を採って、背中のかごに入れて蚕室まで運んでカイコに食わせる作業だった。桑の葉は濡れていると蚕が死ぬと教わった。最初はさわることも出来なかったカイコを手に載せ、丸まるとした白い巨大な虫を指にまつわりつかせる感触が気に入ったのは、どのくらい経ってからだろう。
カイコの蛹が栄養的に満点ということに異議はないが、あの独特の匂いと味は好きになれなかった。しかし食べなくては栄養失調で死ぬぎりぎりのところにいたから、食べるしかなかった。この想い出が記憶の底にとろりと執拗に染みついて残っている。だから、あの食糧難の時代がまた来ない限り、今ではカイコの蛹は二度と食べる気がしない。
加藤先生ご夫妻とレストランに行って中華料理のあれこれ談義の最中にそんな話をしていたら、加藤先生は「いえ、それがとても美味しいですよ。茹ですぎなければ、あの白いところがとろりとして、ヨーグルトを食べるみたいです。」とのことである。
そして、あるとき教師の会の会合の料理にこれが出た。一体誰が頼んだんだろう?加藤先生は率先して蛹を食べながら、近くの私にしきりに勧める。「ほんと、ヨーグルトそっくりで美味しいですよ。」とにやにやしている。でも私は絶対に食べない。
私たちが最初に訪れた2000年には、中国では今ほどヨーグルトは出回っていなかったが、今では日本以上に普及している食べ物である。一人で食べやすい200mlくらいの容器に入っていて、プレーンなのもあり、レモン味もイチゴ味もあり、味がさまざまに工夫されている。
いろいろのメーカーを食べ比べてみて、やがて「伊利」というメーカー製のプレーン味が気に入って毎日食べるようになった。しかし、加藤先生にカイコの蛹がヨーグルト並みに美味しいと言って勧められて以来、ヨーグルトを食べると記憶の底の蛹の味が舌に甦ってくるのである。この味はカイコそっくりですよ。ウーッ。
2005/06/15 09:17
今年はなぜか様変わり
去年は、卒業研究の発表会が何時あるのか三日前まで分からなかったし、何事も間近になるまで何時あるのか誰も分からず、万事予定が立たないとぼやき続けだった。
ところが何が起きたのか今年度は様変わりで、何と一ヶ月前に都合を聞かれて、候補の日程はこれこれ、ということで、卒業研究の発表会が何時あるか3週間前に決まった。そして修士論文の発表会も同じように決まり予告された。さらに、論文審査会の小委員会の先生達の名前も公表された。昨年度は審査の日に突然呼び出されて面食らったけれど、今度はちゃんと委員会に私の名前も入っていて、そして誰それの審査担当ですよという通知が来た。そして立派に製本された論文も届いた。
それは結構だが、修士論文は中国語で書かれている。1ページのAbstractは英語で付いているから、ともかく読んでみよう。ところが、学生本人が書いたままの英語らしく、文法はいい加減な上に内容も訳が分からない。困り果てて、委員会のひとりである張栄老師に、「これじゃ審査できませんよ、読めないんだから。何とかして下さいよ。」と訊いてみた。
彼女は韓国での留学時代は英語を使っていたので、私とは英語でやりとりをしている。大学や教務関係で何かあると、彼女が私の担当という感じである。「お宅の学生に内容を見て貰ったらどう?」という返事だった。もちろん第一選択肢として、それを考えて、実際うちの学生に頼んだのだった。ところが、専門が違ってまるで内容がつかめない。私の推測とどっこいどっこいである。「というわけで、彼らにわからないから困っているんですよ。時間を作って内容を教えて貰えません?」と彼女に頼んだ。
ところが、これから講義があるという冷たい返事が返ってきた。仕方ない。「その修士論文の指導教官の先生に会えませんか。研究の話を聞いてみたいから。」とお願いした。すると、「今、その先生は講義中だから、終わったらお願いしてみましょう。」ということだった。
1時間経った頃、突然見知らぬ学生が二人やってきた。訊くと、論文を書いた本人たちである。研究の話をするには一番適当かも知れない。ということで、若い学生から論文内容について、合計二時間に亘って「ご進講」を受けたのだった。男子学生は上海の遺伝子研究所に行って研究をしたそうで、英語で話すのに全く問題はなかった。私の知らない技術も使われていて、その説明もよどみなくしてくれたし、何を目指してどんな方法で研究を行い、どんな成果が出来たかがきわめてよく理解できた。実際には技術的な難関にぶつかり、所期の成果は出なかったが、方向をいち早く変えて、特許出願が出来る位の別の成果も出している。
もう一人の女子学生は自分の研究は何とか英語で説明してくれた。いろいろと知りたいことがあるので質問を挟んだけれど、彼女は私の質問の大半は分からず、最後にはこちらが諦めてしまった。それでも、修士論文としてはまとまった立派な内容だった。
さて当日である。図書館5僑とあるのでいつもの5階の部屋かと思って行ったらそこは別の審査会で人が集まっていた。5僑という部屋の説明を訊いても分からず困惑していたら、学生の一人が一緒に案内しますと行って先に立ち1階まで戻り、迷路を通ってある教室に導いてくれた。今の時期は審査会が多く開かれていて、とんでもない教室もすべて動員されているとのことだ。
もう開始直前で人が沢山集まっていて、前の方には同じ学科の小委員会の先生たちが揃っていた。この教室の最前列の机には、飲み水の瓶が1本ずつ置いてあるほか、皿にサクランボ、スモモ、茘枝、などが盛られて一人一人の席に置いてある。別の皿にはピーナッツ、飴なども入っている。審査の労を執る先生達へのお礼の気持なのだろうが、こういう風習を見慣れない私には仏様の前の供物といった感である。もちろん私たちそれぞれが仏様。
6人の審査委員が揃って時間となって発表開始。修士は発表20分、質疑20分である。発表は当然PowerPointである。発表が終わって、司会の先生が質問はと聞くと彼の隣の若い先生が質問を始めた。中国では、偉い順に質問の順番があるのではないかと思っていたが、それはなかったらしい。私の隣で楼先生は「先生、質問はあります?あったら、どうぞ」と囁く。あまり後になって、中国語の質問が出たあとでそれと重なってはまずいので、遠慮なく手を挙げて「英語でいいですか?」と訊いた。後ろで学生達がどっとどよめく。レプトスピラと呼ばれる人畜共通感染症の病原体のゲノム配列が最近分かったので、彼の研究の一部は、レプトスピラなどの原核生物だけにある酵素の阻害剤をシミュレーションで検索したものだった。そして有望な化合物を見付けて特許申請を10件も出したそうだ。しかし、その中の一番よく効く化合物を使って実際に調べるとレプトスピラは死滅したが、酵母もおなじように死滅したと言うことだった。
レプトスピラも酵母も、単細胞生物だけれど、大きな違いがある。レプトスピラは原核生物と言って、遺伝子は細胞質の中に混ざり込んでいる。一方、酵母などの真核生物では、遺伝子は核の中に入っていて細胞質からは分けられている。私たち脊椎動物はすべてこの真核生物である。レプトスピラだけでなく酵母にも効く薬では、私たちにも害がある可能性が高い。このあたりの考えを質問したら、案の定スマートな答えが返ってきた。何となく八百長みたいだなと思ってしまう。トランスポゾンを使って遺伝子機能を調べる研究は上手く進んでいなかったので、その原因について議論を始めた。すると彼は大勢の前で英語を使うためか緊張しすぎて話が分からなくなってしまった。気の毒なことをしてしまった。研究内容は百点満点が付けられる立派なものである。
次の女子学生はそつのない仕事ぶりで、質問も出にくい研究だった。それでも、スライドで見たことを質問をしたら、こちらは英語、それに楼先生の通訳が入って彼女が中国語で答えて、それが英語に直されて、という具合なので、やりとりしているうちに話がおかしくなってしまった。ま、仕事はしっかりしているから、答えられなくても合格点は十分上げられる。
私の審査責任は二人だったが、他の先生はまだあと続く様子だった。終わったところで休憩が入って、係の楼先生に呼ばれたので行ってみると、「はい。ここにサインして」といわれ、受け取ったのが60元。審査料ひとりが30元という計算なのだ。「これはどこからですか、大学からですか?」一瞬彼女はためらったけれど「Yes」ということだった。申請者がもちろん出しているけれど、大学経由で支払われていると言うことなのだろう。遠慮なく貰って今日の義務は終わった。
さて、机の上の果物はどうしたかって?手を付けずに終わったあとはそこに残してきたから、こちらはホントに仏様。終わったあとで皆(って誰だろう?)が、やっと終わって疲れたねと言いながら食べたのだろう。
2005/06/17 15:09
幻となった鰻と饂飩
用事があって日本に二週間行っていた妻の貞子が、午後到着の全日空の便で戻ってきた。私は講義があったので空港まで迎えに行けなかったけれど、大学に着く時間を見計らって下に降りていって、建物の外まで出てみた。
今は日本なら梅雨の時期で、瀋陽には梅雨はないというけれど、今年の6月は殆ど毎日雨模様である。今日も曇っていて今にも降りそうだ。丁度午後の授業が始まる時間なので、学内の道路は教室に向かう学生たちで溢れている。殆どがTシャツ姿だ。と眺めているうちに、車がやってきた。学長の車をこういうときにも使っていて、車はAudiである。
貞子が元気に停まった車から降り立った。大学の運転手さんがトランクを開けてスーツケースを出してくれた。運転手さんと国際交流処の蔡さんに厚くお礼を言って、彼女のスーツケースとカバンを持ってエレベーターに乗った。
「ね。聞いて、聞いて。きっと食べたいだろうと思って、昨日街まで行って鰻と饂飩を買ってきたわ。でも一日あるから冷蔵庫に入れたのよ。今朝、冷蔵庫から出して(こちらに持ってくる研究用の)試薬はスーツケースに入れたけど、鰻と饂飩は、忘れてしまったわ。」と、エレベーターにほかに乗る人がなかったこともあって、貞子が喋り始めた。「多摩プラーザから空港行きバスに乗って、朝早かったでしょ、うつらうつらし始めた途端にはっと思ったけれど、もう遅いでしょ?ドジねぇ。アハハハ。」
「うーん。」こちらは苦笑するしかない。こんなこと聞かされなきゃ好かったのに、知ってしまうと、改めて想像上の鰻の香りが脳を刺激する。エレベーターの中でカバンを持つ手がゆるんで、カバンを取り落としそうになった。
「だから、しょうがないから成田で飛行機に乗るのを待っているときに探して、饂飩の代わりに生蕎麦を買ってきたわ。鰻もあったけれど高いし、美味しそうじゃなかったから止めたの。」「折角買いに行ったのに、あの鰻を忘れてきちゃって残念だったわねえ。うちに連絡して、○○(息子の名)に冷蔵庫を開けて早く食べるように言わなくっちゃね。きっと、あの子たち喜ぶわよ。」
私は鰻が大好きだ。鰻は本質的には美味しいものものではないと思っている。調理の仕方とたれで美味しく食べることの出来る贅沢な食材なのだ。それだけに美味しい鰻を食べさせる店は貴重だ。美味しいと聞けば三島にだってわざわざ車を飛ばして食べに出掛けたものだ。ということはどこそこの鰻屋は美味しいけれど、あの店には二度と行きたくないということになる。保存できる鰻の串は成城石井で一度買ったのが美味しかったので、妻はそこまで出掛けて買ったのだった。
食べ損なった鰻は、生蕎麦位では埋め合わせが付かない。私は蕎麦も大好きだけれど、蕎麦というものも大体が美味しいものではない。小麦粉を混ぜて、つなぎを工夫して何とか美味しく食べられるように工夫しているのだ。だから、そもそも美味しくない蕎麦に出会う確率は大変高い。
横浜港北ニュータウンのセンター北駅にある阪急には蕎麦粉100%というそば屋がある。信じられないことにこれが美味しい。どうしてこのようなことが可能なのだろう?打ち方にこつがあるらしい。という具合に今まで食べ歩いているうちに蕎麦を美味しく食べさせる店と、二度と足を運ばない店と、もうはっきりと選別してしまっている。まずい蕎麦を食べることほど情けないことはないので、私はこのようにして選んできた店以外のところで蕎麦を食べることには大変臆病である。この状況は鰻屋と全く同じである。
でも、今は嬉しい例外が出来た。薬科大学で日本語を教える先生のひとりに峰村洋先生という方がいる。昨年の暮れ、蕎麦の美味しいのがあるから食べにいらっしゃいと誘われた。峰村先生は単身赴任だけれど、こまめに自分で料理をすると言うことだし、なによりも長野県出身なのだ。信州といえば蕎麦処。信州人が旨い蕎麦といえば美味しいに決まっている。
呼ばれた私たちを部屋に残したまま、峰村先生は台所に閉じこもってひたすら茹でて作った蕎麦を「さあ、出来たから、乾かないうちに食べて」と言いながら机に運んできた。「今、表面が光っているでしょ。置いておくと、この表面の水分を吸って不味くなっちゃうんですよ。」ということだ。「さ、待たずに食べて。」そして次の分を茹でに峰村先生はまた台所に引き返し、私たちは「申し訳ない」と言いつつも、競争でこの美味しい蕎麦に舌鼓を打ったのだった。
今は、南方航空の成田-瀋陽線に乗ると、どちらから乗っても蕎麦が出る。しかし一度食べてみて懲りてしまった。最近乗った全日空のはまだましである。峰村先生の蕎麦談義を聞けば、最高の蕎麦でも作りたてが最高で、後はどんどん味が落ちていくというのに、適当に作って茹でて洗って冷やして何時間も経った蕎麦が美味しいはずがない。
きっと成田空港の蕎麦の土産も期待はずれだろうなあ、と思いつつ部屋に着くと、研究室の学生たちが集まってきて、彼女は暖かく歓迎された。どう見ても母親を待ってじっと耐えていた小さな子どもたちが、やっと戻ってきた母親にまつわりつく感じだ。
瀋陽で研究室を持って以来、私たちは研究室の学生一人一人と毎週必ず一回は直接会うことになっている。研究の進み具合を詳しく聞いて、問題点を一緒に考え、次の1週間の方針を立てる。いつもは貞子と二人でやっていたのを、この二週間は一人だったので、私の負担も二倍になったけれど、学生にしてみると物足りない感じだったに違いな い。
むかし、子どもたちが小さい頃、妻が一人で出掛けたあとうちで子どもたちを相手に留守番をしたことがある。夕方近くなり、それまでは聞き分け好くしていた子どもたちが、「ママは、まだ?」と言い始め、やがてとうとう、「ママがいい。ママー、ママー。」と泣き出して、こちらこそ泣きたい気持になったことがある。貞子にこうやって寄り添ってくる学生たちを見ていると昔を思い出してしまう。
ともかく、旅の疲れが残っている貞子と早めにアパートに帰って、毎度のことながら私が夕食の用意をした。といっても、妻がいない間炊事がいい加減になっていて食材がほとんどない。ということで早速,蕎麦の登場となった。「沢山のお湯の中で5-6分茹でて下さい」と書いてある。麺を茹でたりするのに気に入っているのが中華鍋で、これは上に向けて面積が広くなっているので煮こぼれることがない。ぐらぐらと煮え立つ熱湯で4分半茹でて、「さあ蕎麦ですよ。」と食べた。
折角成田で買ってきてくれた妻には悪いけれど、飛行機で出される蕎麦にも及ばない。「こんなまずい蕎麦よりも、わたしゃあなたの傍がよい。」という古い都々逸もどきを思い出して我慢しようか。それにしても、あーあ、日本のうちの冷蔵庫に残っている鰻が残念・・・。
2005/06/21 14:33
今年の卒業研究の学生は黒一色 その1
昨年このホームページにエッセイを書き始めた頃、丁度研究室に初めての卒業研究の学生を迎えていた。始まったばかりの研究室の機器はないない尽くしながらも、中国の薬科大学でのすべての経験が目新しく、一年前は嬉しくて卒業研究の学生を題材に始終エッセイを書いていた。
それから一年経ち、2004年度の学生を今年の2月28日研究室に迎え、この6月末には卒業させようとしている。時の経つのははやい。あれからもう一年経ったのかと思い、今回はあまりというか全然彼らのことを書かなかったなと改めて思う。家庭のアルバムを繰ってみると最初産まれた子は毎日のように撮りまくっているのに、次の子になるとハレの日位しか撮った写真がないというのに似ているかも知れない。ひょっとして、昨年は全部女子学生だったのに、今回はすべてが男子学生だったということも理由だろうか。
昨年は研究室が始まったばかりだった。卒業研究をする学生の先輩は半年早く研究室に入ったと言うだけで、研究室のセットアップに時間を取られ、細胞培養を一回やったのが後輩との違いという情けないものだった。ところが今年は、卒業研究の学生を迎える先輩たちはこの1年の間に様々な実験の経験と研究成果を積み重ね、自信に溢れる大先輩に変身していた。それで、卒業研究の学生にテーマを与えると、先輩が十分指導することが出来た。男子の卒業研究学生に、女性の先輩を指導者として組み合わせたことも、うまくいった原因かも知れない。
6月初めには、6月19日の日曜日が卒業研究の発表会、学部事務室への論文提出は20日と決まり、ぎりぎりまで実験をしていた学生も発表予定の1週間前になって論文を書き出した。卒業論文の書式は厳密に決まっているけれど、私たちの部屋は英語で書くことを例外として認めて貰っている。3人の学生が一緒に論文原稿を持ってきても私には一つずつしか見られないので、仲間うちで相談して1日1編ずつ持ってくるように言っておいた。
「酷(クー、cool)な玄玄くん」
火曜日に最初の原稿を持ってきたのは玄玄(譚玄)くんだった。玄玄くんは中薬学院の出身で、すでに昨年の2月には私に会いに来て是非この研究室に入りたいと希望した。大学を出たらアメリカの大学院に進学することを希望しているという。英語を使う研究室に進学しておくと都合がよいというのが見え見えだったけれど、性格が爽やかで気に入ったのでOKした。
卒業研究は最後の学年の後期に行うので今年の2月末から来ればよいのに、何と玄玄くんは、昨年の8月から研究室にやってきて研究を始めたいと言う。ニコニコしながら試験管洗いでも何でもいい、研究室の雰囲気の中にいたいのですという。それで玄玄くんのテーマは妻と相談の上、腫瘍細胞のゼラチナーゼをやって貰うことにした。この数年このテーマをやらない間に、研究を進める新しいアイデアが育っていたからだった。玄玄くんは妻の実験指導の下に嬉々として毎日の実験を始めた。
彼は見るからにスポーツマンらしいがっしりした体格で、実際、学内運動会では400メートルリレーに出て、自分の受け持ちをトップで走り抜いて次に渡した俊足の持ち主である。おまけに明眸皓歯、笑うと可愛い。クールで穏やかな性格なので女性にもてないはずがない。そのためか、研究室の外で出合うといつも違う素敵な女性と一緒である。それでも悪びれず、にっこりとして「ハーイ、先生。」と言ってくれる。ただし研究室のパーティは恋人同伴可だけれど、いつも一人でやって来て皆をがっ かりさせている。
玄玄くんは、初めのうちは貞子の指示通りに実験を進めていたが、そのうち言われたようには実験を進めなくなって、大分私たちをいらつかせた。毎週木曜日には必ず玄玄くんと面接して実験の検討をしていたけれど、「これは何よ。何でこんなことをやったの?コントロール(対照)がなければ何も言えないじゃない。」というようなことがしばらく続いたのである。
彼は自分なりに考えて、実験で問題解決するにはどうしたらよいか一生懸命頭を絞っていたのだ。最初はドジばかりしていたが、やがて実験の内容とやり方を理解するようになると、自分で実験を組み立てて実験を進めるようになった。これは中国の卒業研究の学生としては驚嘆すべき能力である。
その一方、玄玄くんは2月に入るとアメリカ、カナダの腫瘍生化学をやっている大学の先生たちに手紙を書いて留学先を探し始めた。私も請われて推薦書を何通も書いた。5月にはカナダの大学から初めて返事が来た。その後しばらくして聞くと、もうそこに留学することを決めたという。奨学金が全額出ることが決め手になったみたいである。彼は英語圏に留学を希望してGREの試験も受けるつもりでいたくらいだから、英語の勉強はちゃんとやっていて、かなりのレベルの英語の論文原稿を持ってきた。ゼラチナーゼの生産機構と活性の制御機構に新しい発見をしたのが彼の成果である。もちろん、英語の表現だけでなく、論文では論理的思考が大切だから、原稿に手を入れるのには時間が掛かった。
2005/06/22 07:04
今年の卒業研究の学生は黒一色 その2
「優等生の毛毛くん」
翌日の水曜日の朝には毛毛(王毅楠)くんが原稿を持ってきた。彼は薬学部の日語班で、大学院の試験を過去に例を見ないダントツの成績で突破したと聞いている。でも俺は出来るぞと言う顔を一度もしたことがない。成績の良いのをいつも恥ずかしがっている感じで、誰に対してもいつも穏やかな対応をしていて、皆に好かれている。嬉しいことにこの大男の毛毛くんは大学院では私たちの研究室に来ると決めている。毛毛くんはもちろん日本語を話すけれど、英語の実力も相当なもので、発音を良くすればどこでも通じるまともな英語を話している。
彼は研究室の大きなプロジェクトの一部として、細胞のある特定の分子の発現を抑えるSiRNAという新しい方法を取りいれた実験を担当して貰った。現代生物学では特定の(狙った)遺伝子を抑えるという実験が欠かせない。今まで様々な方法が行われてきたけれど、short interfering RNAを用いてRNA silencingを行う方法は数年前からこの世界に導入されて今は爆発的に使われている。この方法のありがたいのは、研究費のない私たちのような研究室でもやってみることが出来ると言うことである。
SiRNAはレトロウイルスのベクターに組み込んでいるので、これが細胞に入ると一時的にその標的分子の生産を抑えるし、取り込んだ細胞一つ一つを丹念に分けて育てるとずっと引き続いて狙った分子の生産を抑えるモノクローン細胞を取ることが出来る。このモノクローン細胞が取れれば、この標的分子の発現を抑えると細胞の中で何が起こるかを解析することが出来る。ちなみにSiRNAで標的分子の生産を抑えるやり方は、ノックダウンという。遺伝子を潰して標的分子の生産を根こそぎ阻害する時にはノックアウトという。
モノクローン細胞を単離するのは注意深く丹念に細胞を取り扱って、しかも長時間培養室に拘束されるので、若い人向きというか、若くないと出来ない仕事である。毛毛くんは見事にこれに成功し、新しい細胞を取った上に、細胞のシグナル伝達経路の上で全く新しい発見をすることが出来た。
「真面目で可愛い峻峻くん」
木曜日になってから原稿を 持ってきた三人目は峻峻(謝峻)くんで、薬学部の英語班の出身である。英語を頼りなげに話すけれど、納得できないことにはとことん質問してくる。とてもね ばり強い性格に見えたので、細胞の移動度を調べるという実験を担当して貰った。一般的に言って転移性の高い、悪性の腫瘍細胞は細胞の移動速度が速く、転移 性の低い細胞の移動度は低い。細胞の移動性についてはいろいろな測定の仕方があり、これまで私たちはトランスウエルという膜に開いた小さな穴をくぐり抜け て向こうに移る細胞の数を調べる方法を使ってきた。
これに代えてWound Healing Assayという方法を取り入れたい。トランスウエルだと特別の器具を買わなくてはならないけれど、Wound Healing Assayだ と、細胞が増えて培養皿の底一面を覆ったとき、プラスチックチップの先端で底を引っ掻いて細胞を取り去り、この新しくできた空き地に進出してくる細胞の数 を、写真を撮って数えるだけでよい。プラスチックチップの先端で底を引っ掻くとき、傷は底面に及んでは行けないし、横幅が一定になるようにしなくてはなら ない。峻峻くんはこれが大変巧みであることは直ぐに明らかになった。
写真を撮ることで移動する細胞の数が時間とともに増えることを見せるには、いつも同一の場所で観察しなくてはならないが、これにもうまい工夫をして簡単に調べられるようにした。そうやった上で、トランスウエルで動きの速い細胞と遅い細胞を調べると、Wound Healing Assayでも、同じ傾向が出たではないか。これは使える。
それで、細胞のある特定の分子をSiRNAで抑えたときや、細胞内シグナルに影響する試薬を加えて、細胞の動き易さがどう変わるのを調べたのが彼の研究である。細胞の移動を追いかけるのは数時間おきに写真を撮りながら少なくとも24時間追跡するし、信頼性のために同じ実験は3回繰り返すから、結構膨大な実験となる。毎日教授室のソファで休みながら峻峻くんは時間ぎりぎりまで実験を粘って、予想外の面白い結果を得ることが出来た。構成のしっかりした英語の論文原稿を持ってきた彼は、重慶の師範大学の大学院に進学することになっている。(続きます)
2005/06/23 06:50
今年の卒業研究の学生は黒一色 その3
「地獄の発表リハーサル」
卒業研究の発表会は日曜日に開かれることが決まったので、発表の練習はどんなに遅くとも2日前の金曜日から始めなくてはならない。論文をすでに書き出しているので実験結果の整理と、作図は出来ている。後はそれを論理の流れに沿って並べて、見やすいスライドに仕上げればよい。
大学生は学部学生の時に、教育の一環として学生実験を経験するけれど、卒業研究で初めて学生実験と研究の違いを学ぶことになる。学生実験はテーマがあって、やり方も書いてある通りやればよく、結果もどうなるか書いてある。つまり書いてある通りやればよいわけで、考える必要は全くない。しかし卒業研究は、初めて研究とは何かと言うことを知る場である。テーマは最先端のもので、こういう結果になるだろうとは予想されていても、そうなるとは誰も知らない実験をするのだ。今ここでやることを例にとると、一連の生物反応を予測し、それを証明するための適切な実験を組んで結果を出し、仮説が正しいかどうかを検証するのが研究である。つまり研究は常に未知への挑戦である。
2月末日から始まって6月初めまでの三ヶ月余を終始実験に過ごして、何かまともな結果が出れば運が良いといわなくてはならない。私たちくらい経験を積むと研究とは狙いの外れの連続であることを知っているからである。もちろん、短期間の卒業研究をする学生に外れの実験をさせるわけにはいかない。十分吟味して、先ず確かに短期間で新しい何かが出そうなテーマを与えることになる。今回の三人の学生に出したテーマは、斬新なものだったけれど幸い予想が当たってどれも興味深い結果を得ることが出来た。
発表練習は、結構大変で`PowerPointでスライドを作成するけれど、最初は、話の整合性、論理性という内容の検討、図の見やすさという見地からの検討、言葉が間違っていないかという検討も入って、一人15分話した後、それを良くしていくのに延々二時間近く掛かる。彼らの先輩たちも出席して、いろいろと改良のための助言をする。金曜日は一日これに掛かりきりだった。そして土曜日も朝9時から、二回目の練習。
毛毛くんは実験がすっきりしていて複雑ではなく、とても理解しやすい、それで、彼は二回目の修正で合格し、最後のれん週の時にはスライドは英語だけれど話すのは中国語にしようということになった。玄玄くんのゼラチナーゼの研究は専門家でも話の内容を理解し難い複雑なものである。まして発表会は素人が初めて聞くのだから分かって貰うために工夫が要る。それでああでもない、こうでもないといろいろ検討して時間が掛かった。峻峻くんは論文原稿が出来たのが最後だったこともあり、発表スライドもなかなかまとまらない。午後1時になったところでひとまず二回目は終わった。
「連日の発表練習が続く」
三回目の練習はその土曜日の4時からだった。まずは峻峻くんの発表の最後のチェックである。彼の頭の中では発表の筋書きは出来上がっているけれど、スライドには言葉が盛りだくさんで、一見理解し難い。スライドの一つ一つを丹念に見ていくと、5時過ぎにはとてもこのまま簡単には終わらないことが分かって、「どこかに出前を頼もうか?餃子がいいよね。8人で2斤(1kg)頼めばいいかな?」と言うことで、大学の外の店に餃子を注文した。ところが電話番号が分からない。するとスポーツマンの玄玄くんが、「自分は足が速いから一寸駈けて行ってくる」といって、飛びだした。次に話す番が来るというのに、彼は腰が軽くて人に親切である。
やっと6時半には峻峻くんの発表に目処がついた。峻峻くんに発表本番では言葉はどうすると聞くと、英語が良いという。英語班の彼はずっと英語を使っているので、「基質」とか、「転移性」などの科学用語が中国語では直ぐには出てこないらしい。
届いた餃子を前にしていた「お預け」が終わり、ここで一寸休憩。そのあと玄玄くんのゼラチナーゼの三回目の修正を行って、「発表はどっちにする?」と聞くと彼は中国語にしたいという。「じゃ中国語の練習をしていないけれど、明日話せるように練習をしておいてね。」ということになった。「没問題(メイウエンティ)。」という返事が笑顔と一緒に返ってきた。
最後の発表練習は毛毛くん だった。毛毛くんの発表は中国語にしたから、私たちには理解できない。15分間ほかの人たちに「しっかりいてよ。」と頼んでスライドを眺めていた。毛毛くんの話はもう出来上がっている。後は理解しやすいようにマンガをひとつ付け加えればよいということで、終わったのが9時半だった。私たち二人はどの発表練習にも気が抜けないために、二日間の緊張の連続で、もうくたくた。二人ともふらふらしながら夜道をうちに帰った。お互い喋る気力もない。
2005/06/24 06:22
今年の卒業研究の学生は黒一色 その4
「3人のうち1人しか優が貰えない」
そして引き続いて日曜日が卒業研究の発表の日である。私たちの持っている講義の都合があって日曜日しか全員参加の日が取れなかったのだ。生化学科という集まりでは、教授は張先生と私、助教授が貞子と生化学の楼先生、あとは講師の劉先生ほか数名、学生は私たちの研究室が3名、張先生のところが19名。会議室は本館の3階に最近整備されたところでコンピューターとプロジェクターは部屋に備え付けられている。
8時10分 前に私たちは全員揃って会議室に着いた。張先生のところの学生が、コンピューターに自分たちのデータを流し込んでいる。うちの学生もそこに行って、機械にとりついた。そのとき楼先生が現れて、「ちょっと、ちょっと。」ということで、彼女の居室に連れて行かれた。「先生は、今日の22名の発表を全部聞いて、成績を付けますか?」と聞かれた。これには「いや、申し訳ないけれど、出来ないと思います。」と答えるしかない。スライドが英語であっても話が中国語だったら肝心なことは分からない。責任が果たせなくて申しわけないけれど、仕方ない。
すると「そうでしょうね。」と言った彼女がさらに付け加えるには、「発表する学生の6分の1が優で、6分の1が可、残りに良を付けなくてはならないのです。全部で22名いるなかで、お宅の学生の3名のうち1名は優にしてよいから、誰に優を付けるか言って欲しい。」
6名に1名のところを3名に1名を優にするのだから大盤振る舞いだと彼女は言いたいのだろう。しかし、「それは大変困難なことです。だって、3人とも甲乙付けがたいほど優秀なのですよ。恐らく楼先生も発表を聞けば私の言うことがおわかりでしょう。一人だけ優で後は良を付けるなんて来ません。」と私は返事をした。それじゃ困る。と彼女は言う。だって、と私。じゃ、また終わってから相談しましょ。ということになった。だってもう開始予定の8時を過ぎている。
「いよいよ発表の瞬間」
発表は毛毛くんからだった。中国語で発表したので詳細は分からないけれど、落ち着いて持ち時間の15分をちょうど使って話し終えた。中国語にしたのは、聞いている人たちに内容がよく分かるようにと言う配慮である。一人15分、質疑5分と決められている。毛毛くんの発表終了後に出た最初の劉先生の質問は、話の中にSiRNAというのが出てくるが、教科書で読んだmicroRNAとどのように違うのかというものだった。
教科書でmircoRNAを知っていると言うことはかなり勉強していると言うことだ。しかし、最近の論文はSiRNAの花盛りである。新着のジャーナルにあまり目を通していないらしい。毛毛くんはきちんと答えられなかったので、私が説明した。
次に女性の先生が聞いたのは、mRNAを抑えるのに、一本鎖のRNAの作用とこの二本鎖のSiRNAとはどのように違うのかというものだった。毛毛君は自分の実験について一生懸命説明していたけれど、十数年前に盛んに行われた一本鎖のアンチセンスRNAによるmRNAの発現抑制とは原理が違うという大事なことを言わなかったので、これも口を挟んでしまった。毛毛くんは良く勉強をしている学生だけれど、実験の現場で時代と共に生きてきた私の経験には及ばない。
一人の持ち時間は20分なのに、25分経ったところで、次の峻峻くんに変わった。峻峻くんには昨日のうちに、「ちゃんとした英語を話しているのだから、自信を持ってはっきりと大きな声で発音して堂々と話しなさい。大丈夫、自信を持って良いから。」と言ってある。そしてついでに、以前の「英語の話」シリーズに書いた私の発見した発音のルールを伝授した。「動詞が過去形、現在形になったときにアクセントを後ろに持ってきてはいけませんよ。アクセントの位置は決して変わらないのだから。」というものである。中国の学生も日本人と同じく、後ろに持っていく人が多い。
昨年、このことを同じく卒研生だった女子学生の沈慧蓮さんに初めて教えたけれど、沈慧蓮さんは私の善意を全く受け付けなかった。彼女は頑張りやさんだけれど、人の助言は一切聞こうとしない人のようで、悲しかった。誰が言うかに依るのだろうと思うけれど。峻峻くんはどうだろうか。彼も芯は非常にしっかりした人だけれど、人から学ぶ気があると見た。
2005/06/25 06:37
今年の卒業研究の学生は黒一色 その5
「論文審査会というより勉強会」
峻峻くんは英語で話して、その発表はとても良かった。教えた発音も大分改善されていた。しかし英語の発表だったので、聞き手にどのくらい分かったのかという不安が残った。彼の仕事はガン抑制遺伝子を対象にしているので、劉先生は、そのガン遺伝子についてもっと聞きたいらしく、いろいろと峻峻くんに聞き始めた。培養細胞の培養皿の底面に傷を付けるところも面白かったと見えて、それにも質問が出る。
三人目の玄玄くんの発表は中国語で、彼の中国語はここで初めて聞いたことになる。要点を整理した話を落ち着いた感じで述べていた。15分話して、さて質問はとなったら、暫し間が空いてしまった。案じた通りわかりにくい内容だったのだろう。もしこれを英語で話したら誰も全く理解できなかったに違いない。それでも、ゼラチナーゼの活性の測定に関する質問が出て、玄玄くんは丁寧にザイモグラフィーの原理を説明していた。結局、私たちの学生3人への質疑は、彼らの研究内容への質疑とか審査というものではなく、聞き手の勉強会みたいな感じだった。
3人が終わったところで70分掛かっている。そのあとも発表は続くが、中国語なので何時出て行っても良いと老張先生に言われた。直ぐに出てしまうのもどうかと思ってしばらく会議室にいることにして、後4人の発表を聞いた。この後の学生の発表は一人7分から長くても10分も話すと終わってしまった。中国語で書かれたスライドを分からないながら眺めていても、強調できる結果が出ていないのが分かる。もちろん卒業研究はやることが大事なことで、成果は二の次ということになっているが、それでも、私たちの学生と比べると顕著な差がある。こんな発表しかできない人たちと比べてうちの学生の優が一人なんてひどいと思う。
よく分からない話を4人聞いたところで、先生がたに挨拶して退場した。部屋に戻ってきたけれど、あまりにも疲れていて何もする気がせず、カラフールにグロサリーに行ってうちに帰り、二人とも午後一杯爆睡してしまった。
「それで成績は」
翌日の月曜日朝、生化学科主任の張栄老師から電話があった。「優を一人出してくれと言っておいたけれど決めましたか?」というものである。「だけど、それはないでしょう。私は残りの19人のうち4人しか聞いていませんが、誰一人うちの学生に及ぶとは思えませんでした。」と私。「そうかも知れないけれど、お宅の一人にしか優は付けられない。」と張栄老師は辛抱強く繰り返して言う。私を説得しないと彼女の責任問題になってしまうのだ。
「もちろん、私は全員の発表を聞いていないので、うちの学生3人全員が優に相当すると主張することは出来ませんが、張栄老師は全員の発表を聞いて、うちの学生三人をどのように評価しましたか?だれもが優に相当するとは思いませんでしたか?」と私は頑張った。
張栄老師は「お宅の研究室の教育水準は最高で、学生も文句なしに最高の内容の研究だった。でも、・・・。」という。頃合いである。彼女を相手に頑張って彼女を痛めつけても最終的には得るところはない。うちに来た学生には気の毒だけれど、折れるしかない。「私は三人が三人とも同じように優に相当すると主張します。その上で一人にしか優が付けられないのなら、楼先生に任せるから一人に優を付けて下さい。誰が優でも結構です。このことに決して文句は言いません。これで良いでしょうか?そして、この解決で、お互い何の問題もないことを確認しましょうね。」と私は言って、彼女もOKしたので、採点は彼女に任せた。
来年は私たちの研究室に、優秀な学生が来なくなってしまうかも知れないのが心配である。私が対等に論文審査に臨めればよいのだが、後1年で中国語をマスターできるとは思えない。どうしたらよいだろう?
2005/06/27 14:56
週刊新潮は禁書?
妻の貞子は日本に二週間滞在して瀋陽に戻る前に、航空小包二つを私宛に発送していた。買い求めた研究に必要な本数冊、新しい大学ノート数冊、試薬や機器会社から集めた研究に必要なカタログ10冊位、週刊誌少々の内容で16.6 Kgの一箱、せんべい、クッキー、チョコレートなどの菓子類、カレールーなどのほか、ここで直ぐには買えない実験に使う注射針、ポリエチレンのチューブなどが4.2 Kgの一箱だった。
発送して10日 位経って大学の私のポストに、郵便局に取りに来るようにという通知が入った。見ると一つは瀋陽北駅近くの国際郵便局からで、もう一通はその隣にある税関からの知らせだった。以前研究試薬を小包で送ってこの税関から呼び出しを受け、大学の施設課の人まで巻き込んで大変なことになったことがあった。試薬を個人に直接送ることは出来ないから、間に輸入会社を介入させなくてはいけないとのことだった。その会社の手数料、関税を大分払って懲りてからは、試薬のたぐいは一度も送っていない。
今まで日本から送った航空小包は、殆どの場合薬科大学の隣にある郵便局留めで送られてきて、通知を受けてパスポートを持って郵便局に取りに行っている。小包が数個もあって持ちきれないときには、大学の前にたむろしているリヤカー(実は後ろから荷台を押す形なので、フロントカーである)の小父さんを雇って、大学の研究室か、うちまで運んで貰う。薬科大学はタクシー、あるいは個人による貨物車が大学内に入ることを絶対に認めないから、重いものを運ぶ時には入り口からリヤカーの小父さんの世話にならざるを得ない。1回の料金は通常10元である。あまり仕事はないようで1日に数回仕事にありつけば御の字のように思える。ここはそれでも暮らしていける街なのだ。
小包を取りに行くのが大学の近くの郵便局だと助かるが、今までの経験だと特に重いものの時には、遠方の瀋陽北駅近くの国際郵便局に取りに行くような気がする。今回も本を送ったから、それかなと思いながら、胡丹くんに頼んで一緒に郵便局にタクシーで出掛けた。
郵便局で私たちの前に出てきたのは、軽い方の菓子と研究器具の入った箱だった。それを受け取ってから建物に沿って200メー トル位歩いて、税関の階段を上った。二階の税関にはいるとカウンターがずらりと並んでいて、胡丹くんはさっと見て一番右手の奥の係のところに行った。胡丹くんが書類を見せると、受け取ったカウンターの女性の係は胡丹くんをカウンターの中に呼び入れて、部屋の別室の奥から荷物を運ばせている。きっと重いからだろう。胡丹くんがカウンターに荷物を運んだあと、係はきちんとネクタイを締めて両肩には黒と金色の肩章を付けた税関役人という厳しい顔付きの人を呼んできた。彼は書類ばさみを開いて、「山形本人は日本人か?」といいながら、書類を胡丹くんに見せている。
覗き込んでみると、
書名:週刊新潮○月○日
発行:新潮社
理由:中国では禁止されているにつき・・・
という具合に読めた。週刊新潮は二冊が並んでこの書類に書かれている。係官と胡丹くんは私にこの書類にサインをするように言う。この週刊誌が禁書につき没収することに異議はないというサインだと理解して、名前を書いて、その上に「同意」と書き添えた。すると係官はさらに顔を厳しくして胡丹くんに何か言っている。胡丹くんは直ぐに「同意」を消して別の言葉を書き入れていた。
あとで聞くと、この書類は、「禁止されている本を持ち込んで済みませんでした、その本を中国には入れませんから処分して下さい」という自己申告の書類なのだという。「同意」ではいけないわけだ。昔、米国産のPlayboyをアメリカから日本への荷物に入れたときに、日本税関で没収され、同じような書類にサインをして所有権を放棄したことがある。きっと同じような法規なのだろう。
これで、OKがでて、胡丹くんがこの重い荷物を持ち、私は軽い方を抱えて、週刊新潮が引っかかるのかと驚きながら税関の階段を下りた。週刊新潮は中国に挑発的な週刊誌なのだろうか、それとも少々猥褻なのだろうか。あとで、分かったことだが、このほかに週刊文春が2週分入っていた。ということは週刊文春は禁書に入っていない訳だ。出版社系の週刊誌でも週刊新潮と週刊文春はどこかが明確に違っているのだろうか。
北駅前の大通りまで戻ってタクシーを呼び止めて乗った。「請到薬科大学」と私がいったら、運転手から自信なげに「ヤオーカーダーシエ?」と疑問調が返ってきたので、再度繰り返した。すると今度はしっかりと「ヤオーカーダーシエ?」という聞き返してきたので、「対、対(ドイドイ)」と元気に返事をした。隣で胡丹くんがにやにや笑っている。薬科の科(カー)という1声の発音が難しい。カーとカラスの鳴き声のように言っても通じない。これはのどから出る音なのだ。
運転手は胡丹くんに何かを話している。胡丹くんによると、「日本人なのか。このお客さんを前に乗せたことがある、1ヶ月位前だ」とのこと。運転手はバックミラーで私を見ながら話を続けている。「Holiday Innから乗せたよ。」そうだ、1ヶ月前は日本から友人の小川さんと大貫さんが私を訪ねて来て、彼らの泊まっているHoliday Innに毎日出掛けてそこから市内を案内したのだった。一月前のことだった。良く覚えているものだ。と同時に同じタクシーに乗り合わせる偶然にも驚いた。感じの良い若い運転手で、やがて「ヤオーカーダーシエ」に無事について料金を払ったあと、互いに二度も気持ちのいい挨拶を交わして別れた。
教授室に荷物を運んで開けながら、気付いたのは、以前は送った荷物のすべてが開けて調べられることはなかったことだ。包みを開ければそのあと中国郵便局何とかという名前の入ったテープで再度梱包してあるから、こちらにはっきりと分かる。今まで中を開けて調べられたのは、例の試薬を送ってしまったときも含めて、小包の数で数えて10分の1位の割合ではないだろうか。それが今度は二個とも厳重に中を調べられていた。
今年に入って日本と中国の関係は厳しいものになっている。日本に言わせれば日本の国連常任理事国になろうとするのを中国がある意図を持って阻んでいるということになるのだろうが、両国の政府の言い分、国民の感情は対立したままだ。政府の頑迷さは、草の根以下の働きしかしていない普通の私たちにもこんな形で跳ね返ってくる。国際間の緊張をゆるめるよう、両国は努力して欲しい。もちろん、私たちも中国に週刊新潮を持ち込んだりしないようにするけれど。
2005/06/30 06:56
王麗さんの愛の鞭
私たちの研究室で修士2年に在学している王麗さんを可愛がって育てた新疆のお祖母さんはガンを患っていて、今年の3月に亡くなってしまった。今年初めの春節休暇に王麗さんは故郷に帰って彼女と最後の別れをしてきたのだった。王麗さんは子どもの頃、お祖父さんとお祖母さんに育てられたので、年配者には優しい心を持っている。
私はここに来て以来、自分で実験をしていないから、殆どMacintoshの前に座っている。Mailを読んだり返事を書いたり、論文を読んだり書いたり、データベースにアクセスしてタンパク質の立体構造を調べたり、PCRをするときの最適なprimer構造を調べたり、siRNAのターゲット配列を調べたり、やることは山のようにある。講義の用意もある。そして、自分のホームページに載せるエッセイも時には書いている。昼間は私的なことで時間を使わないようにしているが、興に乗るとそうもいかない。
王麗さんは故郷を離れて暮らしている間は、故郷の大事なお祖父さんの代わりに私の面倒を見ると決めたらしく、昨年夏からは、食事のあと「運動、運動。運動していらっしゃい。」といって私を椅子から追い立てる。言葉はやや乱暴だけれど、意のあるところは伝わるし、私自身運動不足で大腿筋が落ちてきたことを気にしているので、彼女の意のままに外に出て歩いている。
Yahooニュースを読むと食後直ぐに運動をすると、1万人に一人の割合でアレルギー症状を起こして生命の危険があるという。幸い私はその体質ではなかったらしい。薬科大学の夏期期間の昼休みは2時間ある。10月の国慶節から5月の労働節までの冬期は1時間半になる。それで、私が運動をする時間はたっぷりある。この昼休みは多くの学生は宿舎に戻って昼寝をする。そして先生達は自宅で昼寝をする。ここに来て昼休みに誰かを捜してはいけないことは、来て早々に学んだことの一つだ。
大学のグランドの外周に沿って歩くと600メートルあり、これを5分位で歩くことにして大体20分歩くことを続けてきた。距離にして2kmちょっとくらいが目安である。といっても毎日は歩かない。このグランドは土なので雨が降らないとたちまちもうもうたる埃が立つ。とてもそんなときは歩けない。そして10月まではよかったけれどそのあとは寒くて歩けない。それで、冬の間は、私たちのいる建物が9階建てなので階段の上り下りがこれに取って代わっていた。
大学の中を歩いていると、あちこちの学生から「先生」と声を掛けられて、そのたびにニコニコと挨拶を交わしている。大学の中の数千人の学生のうちの講義に出ている百人位しか知らないはずだけれど、それでも結構知った顔に会ってしまう。時には、見慣れない男の子と手を繋いでいたりして、向こうもばつの悪い様子が見て取れることもある。それで、春になってからは、大学の中を歩くのは朝大学に着いたときだけにして、昼間は外を歩くことにした。
瀋陽の街はだいたい大通りが東西南北に走り、大通りで碁盤の目のように区切られていて、一辺は大体800メートルから1km位である。アメリカでも半マイル(800メートル)が1ブロックだから、同じような感じになる。このブロック一周は計算上3.5〜4kmなので歩くと大体35分位掛かる。一回りに丁度手頃である。
歩道は結構広いけれど、あちこちに好き勝手にいろんな店が広げられている。ござを広げて店にしているので、「店を広げる」という言葉がぴったり来る。並木の一つには車輪の絵が書いてぶら下がっている。自転車修理だ。自転車に乗る人はひと頃よりは大分減ったとは言え、瀋陽は平地だから自転車は都合のよい乗り物である。パンク修理、チェーンの不具合の修理、その他を掲げて歩道をどっかと占領している。この歩道は人のほか、このござを避けながら自転車も通るけれど、店主はそんなことは全く気にしていない。先住者の権利みたいな顔をしている。
大学の塀を通り過ぎるとその一画の建物には小さな工事の店がならんでいる。その中の窓枠作成の工事店は、店の外に電動カッターを持ち出して枠をカットし、電動ヤスリで磨き、歩道の真ん中で窓枠を組み立て、歩道の車道寄りを完成品置き場にしている。歩道を自分の店の工事のために自由に使い、歩く人がそれを避けて通っていても全く気にしていない。作成中の窓枠にぶつかったら、きっとこちらが怒られるのだろう。
その先では歩道の端で車道に向けて小さな箱を置いて牛乳やヨーグルトを置いている。歩道を挟んで小さな牛乳屋があるから、出張販売という格好だ。これなら大して迷惑ではない。と思って歩いていると、店先からドバッと水が撒かれた。この水は、日本みたいに埃を鎮めるための、水まきでは違って、店の中で使った不要な水を捨てるためであることが殆どである。自分の店の中以外は外であり、外はゴミを捨てるところなのだ。だから、気を付けていないと、店の内部からゴミが飛んでくる。もちろん全部が全部、このようにしているわけではないだろう。でも、ゴミを外に捨てない清潔な店、汚水を外に捨てないきちんとした店は、こちらの目に触れることはないから、悪い例だけが目に入ることになる。
店から小さな女の子が出てきた。あれれ、と思っている間に店先の歩道にしゃがんでおしっこを始めた。中国の幼児は尻の割れたパンツとズボンを穿いていて、何時でも簡単に用を足せる仕組みになっている。お母さんが幼児を抱えて道にしゃがんで用足しをさせるのは日常茶飯事である。だから子どもにとって歩道にしゃがんでお尻を出すのは何の抵抗もないのだろう。しゃーっと、歩道に水が流れる。はい、それでお終い。女の子はすっと立ち上がって、パンツをたくし上げながら店に入っていった。大人は誰も出てこない。
瀋陽の気候は乾いているから、水は直ぐに乾いてしまう。ベルギーのブリュッセルの有名な小便小僧の近くに、小便少女の像がある。昔行ったときもちろん見てきた。その話を口にして研究室の女性にしらけた顔をされてしまい、一度で懲りたことを思い出しながら、新しい水をまたいで、歩き続けた。
2005/07/02 05:33
王麗さんの愛の鞭 つづき
瀋陽の街は東西南北の大通りで区切られている。この一画を大きなブロックと呼ぶとすると、私は瀋陽薬科大学が含まれるブロックの周りを歩いていることになる。日課と言うのはちょっと無理で、三日に1回くらいだけど、王麗さんの愛の鞭に追われながら歩いている。このブロックは、さらに小さなブロックから成り立っている。そのブロックは大学だったり、アパート街だったり、病院だったりする。開口部となる門を大通りに面して持っていて、それ以外はまず例外なしに高い塀で囲まれている。
塀は頑丈な作りで十分に高い。塀は日本で見かける塀のどれよりも高く、人が乗り越えるのを諦めさせる位の高さを持っている。中国の塀は単なる心理的な障壁ではなく、人が中に進入するのを防ぐ物理的な障碍となる。いまの瀋陽の都市部ではまず一戸建てを見掛けることはないが、郊外に行くと農家は数棟が集まって立派な塀で囲まれている。自分の家族親族、あるいは仲間以外は寄せ付けない、外部からは守るという気持ちの表れのようだ。思うにこれが伝統的な中国の生活様式を反映している作りなのだろう。
小さなブロックどうしが接 していても、互いに高い塀で仕切られていて決して繋がってはいない。向こうへは通り抜け出来ない。目の前に見えている住宅がもし別のブロックのものなら、 表の大通りまでいったん出て行かないと、訪ねることは出来ない。大学の周りを歩きながら、時には中に入り込む冒険をして私はこのことを学んだ。大学の周りを一巡りするときに、通り抜けの近道はないのだ。
近道探しをあきらめて、また一巡りの歩道に戻って歩き続ける。歩道が店先として利用されていなくても、歩道の上は結構何かと問題があるので下を注意深く見て歩かなくてはならない。一番怖いのはマンホールの蓋がずれて開いていることだ。毎年日本からここに来て環境科学の講義をする西川先生は、実際蓋が開いていて穴に落っこったことがあるという。話に聞いただけだが、もしその場に居合わせたとすると、気の毒に思う一方、おかしくて笑ってしまうだろうし、さらにはその汚さに辟易しただろう。直ぐに洗い流すための水道栓を見付けるのも大変だろうし。
瀋陽は土地が平坦なので下水も勾配の少ないところを流れなくてはならない。それでよく下水が詰まるのだ。これはここで道にものを何でも平気で捨てるのを見ていると、下水にも下水管が詰まるかどうか気にしないで捨てるのではないかと想像してしまう。だからマンホールから汚水があふれ出すことになる。これが結構あるのだ。そして、直ぐには直らないから汚水にあふれた歩道をどうやって歩くかということになる。ともかく地面に注意を払わないと危険が一杯である。
そうかといって下だけ見て歩いているのも危険で、歩道を平然と車が走ってくる。瀋陽の車は人が避けるものと信じて走っているから、車より人が優先なんていう日本の感覚でいると命がいくつあっても足りない。
一つには歩道が駐車場所になっているからで、もし歩道との境界が柵で区切られていると、車は都合のよいところから入って歩道を走ってこなくてはならない。もう一つには大通りが片道3車線から5車線あるので、車道の反対方向の車線に入るためには、先ずこちらの3車線から5車線分を走ってくる車を縫って向こうに渡らなくてはならない。それが面倒とばかりに、次の交差点までは歩道を自分の行きたい方角に走ってしまうのである。
歩道は広い。もちろん場所によるけれど、大学のあるブロックを巡る歩道の幅は3メートルから6メートルある。広い歩道は、車道側は自転車道路、内側が人の歩道とわかるように色分けがしてあるけれど、すでに書いたように商店は歩道を自由に占拠して商売に使っているし、自動車も歩道に平気で入ってくるし、もちろん自転車は区分にはお構 いなしに人の歩く隙間めがけて突っ込んでくる。これも要注意だ。
ついこの間は、向こうから 中年の女性の乗った自転車が来た。まさかと思っているうちにその自転車がまっすぐ私めがけて突っ込んで来た。避ける空間が十分あるのに、避けもしないで真っ直ぐ向かって来る。最後にはとっさに横に避けながら身構えた私の左腕に自転車のハンドルがぶつかって前輪が真横を向いたから、彼女は私と頭同士がぶつかった上で、自転車と一緒に前に転んだ。
転んで直ぐ起きあがった女性は、大変な剣幕で何かまくし立てている。冗談じゃないよ。こちらは歩道を歩いていたのに、そこにまっすぐ突っ込んできたのはそっちじゃないか。中国語では言えないけれど、黙っていてはこちらの損と思って私は日本語で喚き返した。しかしこのままでは厭なことになりそうなので、人が集まる前に、お互い言葉のとぎれたのを機に私はさっさと歩き続けて現場を去った。
隣の教授室にいる中国暮らしの長い池島先生先生と、以前自転車に乗る話をしたことがある。ここで自転車を持てばとても便利だろうに、池島先生はどうして自転車に乗らないかという話だった。「乗っている自転車が誰かにぶつかったとして、その時まともな中国語で対抗できなければ寄ってたかってすべてこちらの責任にされてしまいますよ。だから、私は中国語を話せるし、自転車にも乗れるけれど、そんなことに巻き込まれるのは厭だから、自転車に乗りません」ということだった。
自転車に乗るなら中国語が必要でも、歩いているだけなら言葉が分からなくても良いと思っていた。しかし、こんな具合に事故に遭うのでは喋ることがどうしても必要である。中国語の学習に身を入れざるを得まい。事故への備えではなくてもっと愉しいことが期待できるなら、学習にも身が入るのだけど。
中国語は以前の先生だった胡丹くんには見放されてしまった。胡丹くんと同じように日本語の巧みな王麗さんに教わる手もあるけれど、王麗さんの愛の鞭は恐ろしいだろうなあ。胡丹くんの可愛い彼女に教わろうか知らん。
2005/07/07 22:00
中国の精進料理
先日薬科大学の日本人の教師たちが集まって一緒に食事をした。集まりの名前は特別についてないけれど、薬科大学の職員として在籍している日本人の親睦の会である。
薬科大学では長い間、日語コースのある薬学と中薬で3年生になったときに日本語を1年間みっちり教え込むというスタイルを続けていた。薬学に2クラス、中薬に1クラスあるので、日本語の先生は3人で良かった。1週30時間のうち日本語が24時間。日本人教師はこの中の日本語会話を12時間受け持っている。しかし、昨年秋からは日語コースでは1年の初めから日本語を勉強し始めるというやり方に変えた。それで昨年秋からは6人の教師が必要になって倍増したのである。ただしこの態勢は2年間続けばよく、それからはまた3人で十分という態勢に戻るはずだ。
そんなわけで私がここに来た時は、日本人の先生たちが特に集まることもなかったけれど、昨年からは、私たちや隣の部屋の池島教授も加えて、合計10名の大所帯の親睦会が定期的に開かれるようになった。今回は今期一杯で薬科大学を辞めて日本に戻る先生が一人あったので、その送別会として計画された。
今回の幹事は池島先生だった。彼は中国が大好きで1996年に日本の職をなげうって長春医科大学に来て以来、中国で研究・教育に従事している。中国語を英語並みに自由に話して理解できる人だ。瀋陽に移って以来すでに3年半経ち、まるで瀋陽育ちのようにこの地に詳しい。市の中心近くに般若寺、大仏寺、慈恩寺などの仏教の寺の集まった一画があって、「そこには精進料理を食べさせる店があります。珍しいですよ。今度はここでやりましょう。」ということになった。お寺には精進料理が付きもので、京都を巡れば珍しくも何ともないけれど、中国では私たちの誰もが初めて味わう料理である。
今学期で日本に戻る予定の沢野先生は、数日前に急病になり運び込まれた救急外来で手術が必要と言われて、どうせそう言うことならと、辞任を早めてその翌日には急遽日本に戻ってしまった。それで、送別会の名目はなくなってしまったけれど、良くしたもので、2年前に薬科大学で日本語の先生だった二人の先生が、彼らの受け持った学生が卒業するのに合わせて薬科大学を訪ねて来ていた。というわけで11人が素菜の店に集まったのである。
お寺のある一画と公園を隔てて向かい合っているので、立地はとても良いレストランである。「素菜を食べると健康によい」という意味の対聯が入り口の両側を飾っている。広々とした1 階にはお坊さんを中心に人々が並んで撮った写真があちこちに飾ってあったが、1階にお客は一組だけで静かだった。2階の個室に案内されたあとで加藤先生が服務員に聞くと、人々は昼間にお寺に参詣するので、この店が混むのは昼時なのだそうだ。
池島先生が服務員とやりとりしながらメニューを選び、雪花ビールを取ってまずは乾杯。運ばれてきた精進料理は、豆腐や野菜をふんだんに使ってというたぐいのものではなく、魚やエビ、肉などの形に作ってあるのが珍しい。炒飯に入っているハム、小エビ、玉子まで、別の素材で作ったそっくりさんなのだ。
中国料理の魚というと大きな魚を蒸すか、煮た上で、さらにそれを調理する。中国料理で魚がでると目の前の大皿から箸で魚の身をむしり取ることになるが、この餡かけの魚も「箸応え」は本物の魚そっくりだった。魚の身の流れの方向に毟らないと「肉が取りにくい」ようになっているし、皮もついている風だし、よくぞここまでと思うほど、似せて作っている。そして味はというと、一寸干した魚みたいで、それでも魚みたいな噛み応えのある味である。池島先生によると、「小麦粉、そば粉、大豆の粉、豆腐などでこのような肉は作ります。魚の皮は海苔ですよ。」ということだった。大皿の魚には頭としっぽもついている。池島先生は、本物と違って「この頭としっぽは全部食べられるから、簡単でいいですよ。」と言いながらかぶりついていた。本物に似せてはいるけれど、骨まではついていないのだ。エビが皿に綺麗に並んでいる。殻を剥いて背わたを取ってという格好で、背中の切り込みまでついている。味はともかく噛んだ感じの歯ごたえはエビといってよい。よくここまで本物そっくりに再現できるよう料理人は「精進」したものだ。魚やエビは分かり易いけれど、きのこなどの炒め物に入っている平たいものは口に入れて、「これは何だろう。」と皆で判じ物に頭をひねる。「これ、アワビのつもりかな、日本でも『がんもどき』って言うから『あわびもどき』があってもいいんじゃない?」と言う 意見が出た。これは豆腐が原料みたいだ。料理が運ばれてくるたびに、中身は何に似せて作ったのか、そしてその原料は何なのかと、皆が意見を言い合って賑やかに楽しんだ。
「それにしても面白いですね。こうまでして魚やエビを食べた気になりたいのでしょうかねぇ。殺生を禁じて肉を食べないことはわかるけど、その形に似せてまで食べたいというのは、とてもいじましい努力ですよね。それこそ煩悩というのじゃないですかね。坊主がこんな煩悩を持っていて、しかも煩悩を持っていることをあからさまに出して、いいんでしょうかねぇ。」と言いながら、池島先生は料理を食べ、一方で、何しろ無類の酒好きだから、これも食べるよりも飲む方が好きという峰村先生や南本先生たちと白酒を飲み続けている。アルコール度が52度という白酒の、もう二本目なのだ。
考えてみると私たちは煩悩だらけだが、好きなものを食べて、好きなことが出来て、ありがたいことだ。お寺にあやかった中国の精進料理を食べながら、改めて俗人・凡人である幸せを噛みしめた。
二年前ここにいて、今回の卒業式だけに参加したと思っていた二人の先生は、一人は日本語教師として、そして一人は薬学専門語用語を教える講義を受け持つことで、この8月末から私たちの仲間になることになった。つまり次回の顔ぶれは今日と同じだ。次回の幹事は私である。
2005/07/11 14:34
思い切って竹板を買った日
日曜日の朝、薬科大学の加藤先生から電話で、昼頃大西門の青空市場に行きませんかと誘いがあった。「今日そちらの都合が良ければ、一緒に出掛けて、判子を頼むのに付き合いますよ。私は今から、いつものように三好街の市場を見に行って来ますから、11時にこの間のバス停で会いましょうか?」とのことだった。
これはその数日前の日本人の先生の集まりの時に、妻の貞子が加藤先生に「何時かご都合良いときにお願いしますね。」と頼んだ返事である。彼女は大西門の市場に以前加藤先生に連れられて行って、顔の広い加藤先生に店を紹介されて一度判を彫って貰っていた。また今度もそこに連れて行って戴こうというわけだ。
今回は私も一緒に、212番バスに15分位乗って大西門で降りた。大西門は故宮のある大通りの西の端で、加藤先生によると昔は瀋陽城の西門としてここに立派な門が築かれていたとのことだ。中華人民共和国成立後にこれらの城壁・城門はすべて壊されてしまった。その後一部復元された時に、この大西門も復元されている。門の上に望楼が乗った大きな建物だが、コンクリートで作られた表面に石垣が描いているのが見え見えで、芝居の書き割りのように安っぽいのが何とも残念である。あと四百年経つと、今の故宮位寂びてくる。
この通りは故宮の前を通る大きな路だが、北に平行に走る中街に抜ける細い露地がある。ここが土日の週末に路上市で賑わう場所で、加藤先生は毎週の週末には毎日、そして週日の午後も時々ここを訪れては、教科書や本の出物を漁っている。路地に入ると両側に店が出ている。地面にござや布を広げた店がほとんどで、古本、教科書、判子の道 具、古いペンダント、飾りなど様々なものが売られていた。左手のちいさな屋台は判子を彫る若い人で、加藤先生はここに寄って「出来てる?」と自分の注文を 確かめていた。「もうあと1字。」という返事を聞いて「じゃこの辺を廻って後1時間くらいしたら寄るからね。」と言うことで、路上の店を覗きながら先に進んだ。
大きな建物の入り口近くでは判子の素材を売っている店が多く、綺麗な角形に切った石を並べているほかに、様々な石を置いている。地面のござの端の方には一つ1〜2元の石がよりどりみどりで置いてある。「一ついくら?」「5元。」と返事が返って来て探す意欲が萎えたけれど、加藤先生が交渉して「5つ以上買ったら、一つ1元。」という値段になった。加藤先生抜きではたちまち足元を見られてしまう。
どれも石の模様が実によい。判に彫らなくても眺めているだけで楽しめる。選んでいる間に加藤先生は今日の目的の判を彫る店を見てきて、今日は店を開けていないけれど、この後ほかのところを覗きましょうかと言うことになった。この店のおじさんには6個の石を選び、隣のお兄さんのござでは3個の石を選んだ。9個で9元。ずっしりと重く、鞄のひもが左肩に食い込む。古物商の集まっている大きなビルの二階に行くと、加藤先生はあちこちから声を掛けられて挨拶しながら通り過ぎた。廊下で縁台将棋みたいにして座り込んでいる人たちもいる。この中の一人も顔見知りと見えて挨拶を交わして通り過ぎたけれど、後ろから大きな声で呼び止められて、その人の店に連れ戻された。
店の奥に入って店の主人と何やらを覗き込んでいる。店先の中華民国時代の教員免状などを眺めていたら、加藤先生に呼ばれた。ホウロウ製の昔の店の看板風で日本のカタカナが横に書いてある。「これなんでしょうね。右から読んでフクスケストシフ?それとも左から読んでフシトスケスクフ?」
言われて覗き込んだが意味不明。でも昔のことだから右から読むに決まっている。「あ、そうか。ストシフはストーブだ。ブの点々が横棒の上に来て、しかも看板としてデフォルメされているから分かり難かったのだ。」と、謎解きが出来て、加藤先生もホッとしている。この店の人が古物として仕入れたけれど、よく分からないというので訊かれていたわけだ。こんなものも売り物になると言うのが驚きである。
そこを出てその先は、以前も連れてこられたところで、加藤先生とは親しい友達のようだ。店には古い額、ポスター、絵巻、飾りの玉、ペンダントなど、ところ狭しと飾ってある。店の主人の王さんは、「今日はちょうど良い、二胡の弾ける人が来ているからね、彼が二胡を弾いてくれるよ。」と言って、店でおしゃべりをしていた中年の男の人に、上に張り巡らせた紐に引っかけてある楽器を外して渡した。彼は椅子に座って、中国民謡を聴かせてくれた。狭い店に朗々と、そして嫋々と、二胡の音が響く。王さんによると、彼は腕はよいけれど楽器が悪いのだそうである。店の売り物なのに自分で悪口を言っている。二胡の演奏を聴きながら引っかけてある二胡を見ていたが、同じところで引っかかっているはずなのに、縦にぶら下がった二胡の長さがまちまちである。へえー、そんなものかなあと感心した。
その横に掛かっている竹製のカスタネットみたいなものを取って、王さんが鳴らし出した。右と左と構造が違う竹製の楽器で、聞くと竹板と言うそうである。右と左で音が違うから綺麗にリズムが刻める。二胡のおじさんが帰ってしまうと、今度は左手の竹板で馬のひずめの音、パッカ、パッカと言う音を出し始めた。次には少し急調のパカポコ、パカポコ、とも鳴らすし、パカッ、パカッと言う音も左手のひねり一つで出すのだ。右手の竹板では、パカッ、パカッと言う乾いた音と、止まり掛けの少し落ち着いたパッカ、パッカと言う音も出している。王さんは昔は体育の教師だったという。竹板の演奏がとても鮮やかであるこういうのを、黙って見たり、聴いたりしている手はない。思わず手が出て、王さんに手を添えられて、持ち方、打ち方を教わり、手首を激しくひねってみる。わーお。パカパンと音が出た。馬の蹄の立てる音には似ても似つかないが、出だしは上場である。横で主人が「天才だ。」と言っている。王さんの奥さんに注いで貰ったお茶を飲みながら、加藤先生もにやにやして「天才だってねえ。」と言っている。
こういう店を何時も加藤先生に連れられて廻っているだけでは芸がない。この際買ってみるか?それで、「いくら?」と聞いた。80元。うーん、ちょっと高いねえと胸算用をする。すると、すぐに「だけど、友達だから50元にしよう。」と王さんはかぶせてきた。こりゃ、ここの主人の王さんとこの先近づきになるかどうかの分かれ道だ。おまけに加藤先生のメンツを立てるかどうかも懸かっている。つまり私が男かどうかも懸かっている。男は決断。迷うことはない。よし買った。と言うわけで、左右で1対の竹板打楽器を買ってしまった。
さあ、この日から、夜中にうちのアパートは近所に負けない音を出すことになった。毎日1ヶ月練習すれば出来るようになりますよと王さんは言っていたが、1週間経っても、カチャカチャ言うだけで、まだ全く進歩がない。幻の天才だったらしい。「天才だってねえ。」と言ってにやにやしている加藤先生の姿が目に浮かぶ。
2005/07/16 12:28
瀋陽にも梅雨?
今年の日本は空梅雨だと言っているうちに、各地で豪雨が続いて大きな被害が出たと聞いて胸が痛む。中国大陸でも、あちこちが干ばつ、水不足で悩んでいるのに、北の黒竜江省や南の広西チワン族自治区では豪雨で何十万人という人たちが被災し、あるいは亡くなっている。被害を受けた人々には、異常気象だと言っても何の説明にも慰めにもならない。せめて人のできることは十分尽くして、災害を減らして欲しい。
瀋陽には日本の梅雨に当たる気候はないことになっているが、昨年初めて経験した時も今年の6月も、瀋陽に雨期があるとしか言いようがないというのが私たちの経験である。今年の6月は空が晴れたのは二日間だけで、後は曇り空か雨だった。7月に入ってからもほとんど毎日雨が降る。あじさいがあればさぞやくっきりと映えるだろうと思うが、瀋陽ではあじさいを見ることはない。
ただし雨が降ると言っても、日本の梅雨のように細かい雨で濡れるのではなく、雨は雷を伴い豪快に降ることが多い。どちらかというと日本の夕立の印象で、降雨は長続きしない。それで激しい雨の中を傘を差してまで歩こうという人は少なく、このような雨の時はどこかで雨宿りしてひとしきり激しい雨の過ぎるのを待つ人が多い。
今朝の雨は夜中から窓の外の激しい雨の音を夢うつつで聞いていたくらいだから、長く降り続くという例外の雨である。土曜日の定例のセミナーの日だから、雨が降り止むのを待って出かけるというわけにもいかず、長い傘を差して出かけることになった。
この傘は瀋陽に来て買ったもので、傘の石突きのところにプラスチックの伸縮筒がついていて傘を差すときは石突きの長さに縮まって邪魔をせず、濡れた傘をたたんだ時にこの筒を延ばして傘をしまい込めば、傘の雨水が下に落ちないという、優れものである。
今は日本でも傘を店先に置いて入ると出てきたときに傘はなくなっていることが多いので、我が身から一瞬たりとも離すことなく店の中に持って入りたい。これを中国で試したことはないが、店の外に傘を残したくないという気持ちがあるので、スーパーのカラフールで迷うことなく、この筒付きの傘を買った。筒なしのふつうの柄の長い傘が24元のところを、39元だったように思う。
すぐその後で、表敬訪問で薬科大学を訪ねてきた近畿大学の先生たちと会ったとき、この傘の自慢をしたところ、「いえ、日本にもありますよ。」と忽ち自慢の鼻が折られてしまった。それはことによると中国発ではなかろうか。この近畿大学の先生たちを率いていた薬学部長は私のかねてよりの友人だった。瀋陽に来る直前に連絡を受けて知った 時はびっくりしたものだが、それは別の話である。
今は夏で気温が低くないし、幸い風がほとんどないので、雨足は激しいけれどびしょ濡れになるほどではない。貞子と二人で何時もよりは少し速い足取りで大学を目指した。
雨の朝の7時は普段に比べて人通りが少ない。大通りには自転車も少なく、車道の端をリヤカーならぬフロントカーが悠然と走っている。後ろで車を漕ぐ女の人は自分で傘を差し、前に乗った子供も親に傘を差しかけ、おしゃべりをしながら悠々たるものである。このフロントカーはリヤカーの形をした車を自転車の前輪代わりに付けて後ろで漕いで押すようになっていて、本来重い荷を運ぶようになっている。それで変速ギヤ比が低く、スピードがでない。ゆっくりと通り過ぎていく親子の自転荷車が、 雨の中でも親子のぬくもりを伝えて、いい感じである。
瀋陽はほぼ平坦な街なので、このように激しく雨が降ると、排水管がすぐに一杯になって道が水浸しになるという問題がある。歩道の切れ目と切れ目の間の道が大河になっている。大回りをしてここを越えても、まだ問題がある。平らなところを舗装していて、道の周囲に水を誘導するという設計になっていないので、平地にはどうしてもでこぼこがあり、つまり、水たまりが随所にある。雨脚が激しいから水たまりの浅い深いを見分けるのが難しい。
どこを伝って歩けば靴を水たまりに踏み込まずに済むかという問題に直面して、貞子は「大局的見地でものを見られるかどうか、分かるわね。」と言いつつ、私とは別のところを伝い歩き 始めた。「あっ。」と言われて見ると、彼女のその先は周りが全部深い水たまりになってしまって立ち往生している。自分だけは大局的見地でものが見られるような、偉そうなことを言う酬いを受けたのさ。
大学に入ると、普段構内には決して入れないタクシーが水しぶきを上げて傲然と走っていた。おそらく裏門の守衛さんが目を離した隙に入ってきたのだろう。ここでは、水しぶきを黙ってよけるしかない。ここはこういう時に文句を言っても始まらないところなのだ。
向こうから男の子二人連れが傘なしでびしょ濡れとなりながら、しかし平然と歩いてきた。今降り出した雨ではないから、計画的に濡れているとしか思えない。貞子が「きっと、あの子たち、風呂に入る代わりに濡れているのよ。」という。
なるほど、昔は軍艦乗りがスコール(南方の通り雨)が来ると石けんを付けて甲板に飛び出して、雨の中で身体をこすったという話を思い出した。これが現代でも生きているのだ。風呂代の数元を、若者なら笑い話で節約してしまうに違いない。ばかげたことが楽しいのも、若さ故であろう。濡れながらにこやかに談笑している若者を羨ましく思った朝だった。
2005/07/22 21:06
チビタンこと関さんの結婚
朝、私たちよりも一寸後か ら研究室に来た陳さんが日本では「寿」にあたる喜の字が二つ並んだ字をちりばめた紅い袋を鞄から出して「はい、これ。先生。」と日本語で言った。コンビニで売っている飴の入った袋と同じくらいの大きさで、しかもいろいろの種類の飴が入っている。ただし紅い字で溢れている。これは慶事用、特に結婚のお祝い だ。
彼女は、数年位前に日本の医学部に10ヶ月滞在して実験をしたことがあると聞いている。彼女は、日本語は少し分かるし、このような簡単な日本語なら使うことが出来る。でも、それ以上は無理なので私たちが普段使う言葉は英語である。
関さんが昨日誰かの結婚式に出て、その時景品で貰ってきたのかというのが最初の印象だった。「How was the wedding party?」と聞くと、「I don't want to have my wedding ceremony.」という返事が返ってきた。とんちんかんなので、「What is this for?」と聞くと、「I got married.」というではないか。彼女は結婚したと言っているのだ、毎日同じ研究室にいてちっとも知らなかった。貞子と二人、しばらく唖然として声が出なかった。
その間めまぐるしく頭の中は回転していて、「前は付き合っているボーイフレンドがいるって言っていたけれど、去年の秋には結婚をやめたって言っていたじゃない。いま結婚したというのは、最初に聞いたときの人だろうか、それとも別の人なのかなあ。こんなことを聞いてもいいんだろうか?」と考えていたのだった。
彼女は何年か前に薬科大学を卒業してすぐteacherになった。薬科大学のteacherというのは学生に向かって教科書を使って教える先生のことで、教授の数の数倍はいるらしい。この大学で生物化学の講義数がどのくらいあるか知らないが、教授は私が来て二人になったが、その他はteacherが10人いて、これで全学で必要な講義をまかなっているという。
大学を出たばかりで大学生に講義をするのはしんどいだろう。そのためか殆どのteacherは修士コースに入るそうだ。関さんはこのようにしてこの大学で修士を取り、その時に日本に短期間留学したらしい。そして薬理学の主任の王老師から依頼されて博士課程を私たちのところでしたいと言ってきたのだった。実験をほとんどやってこなかったためか、最初はだいぶまごついていたようだけれど、学位がほしいためか、めちゃくちゃに実験をする。
小さくてグラマラスなので、昔の言葉で豆タンク、私の学生の頃の言葉だとセクシーダイナマイトと呼べる感じである。今は実験室の机に小さくて丸い手のひらにのるくらいの遠心機があってチビタンと言う名前なので、今の時代の表現なら、さしずめ陳さんはチビタンである。
女性に「Congratulations!」と言ってはいけないと聞いているけれど、そのチビタンが結婚したと聞いて、思わず口に出てしまった。女性は群がってくる男性の中から一人を選んで「結婚してあげる」から、「結婚できてよかったね」という意味でCongratulations!と祝福してよいのは男の方だけなのだ。しかし、この大学の中で、そしてうちの研究室の中で彼や彼女のいない「独り者」の学生はほとんどいないから、最年長の彼女に対して、やったぁ、よかったね、という気持ちが出てしまったのだ
「私は結婚式をしたくなかった。」のだという。話を聞いてみると、「結婚式をしたくない」を、「結婚しない」と言っていると以前聞き違えていたのではないかと思う。それで、1年前にここの大学の先生に招かれてその先生の息子の結婚披露宴に呼ばれた時の喧噪を思い出した。
それは料亭の大ホールを借り切った披露宴だったが、これはごくふつうのことで、祝日吉日になると、ちょっとしたレストランの入り口には大きな赤い色のアーチが建てられ、そこに祝結婚、そして二人の名前が並んで書いてある。ホールの奥には段があって、そこでプロの司会者が二人の紹介をし、なれそめを語り、そして二人に芸をさせる。芸をさせるというのはあまり穏当な表現ではないが、壇上に座った両家の両親の前で、そして二百人近い来客の前で、司会者の言葉のままに新婚の二人は言われたことを演じるのである。どんな言葉で結婚の承諾を求めたか、どんな風にファーストキスをしたかとか・・・。
それをホールの丸テーブルについた私たちは観ているわけである。約30分間、それは騒々しくしゃべりまくる司会者のショーで、それが終わった後は、皆ひたすら食べて飲みまくるだけで、祝いの言葉の一つもなかった。
中国の結婚は日本と同じで役所に届けることで発効する。結婚式を取り立てて重要視していないので、結婚式を執り行うことはなく、このような披露宴が結婚しましたという宣言になるようだ。関さんはこのような見せ物になる結婚披露宴をしたくないということで頑張っていたらしい。そして初志貫徹をして騒々しい披露宴抜きで実質的に結婚しましたと言うことになったようだ。
関さんの彼は瀋陽の出身で瀋陽郊外の大きな航空機製造工場で働いているという。彼女が研究室に二年前に現れたときの彼と同じだったようだ。どうでもよいことだが、それを聞いて内心ほっとした。バスで片道二時間くらい掛かるので、普段は今まで通り大学の中の宿舎に住み、週末だけ一緒に暮らす生活をするとのことだった。
この日の朝次々と研究室に入ってくる学生たちは関さんが結婚したそうだと聞いても誰も大して騒がず、飴の袋を貰いながら、そうよかったね、という程度の対応だった。日本でこんなことがあったら皆大騒ぎをしただろう。つまり「1.彼らはこういう時大騒ぎをしない」
これも、ところ変われば品変わる、の一つの例かと思ったが、皆が知っていて私たちだけ知らなかったという可能性もある。でも、そうだとしても、誰もそれを私たちに話さないということもないだろう。秘密にする必要はないのだから。
おそらく「2.この人の結婚話には大して興味がない」ということだろう。ほかの人の反応を見ていればその人の置かれた状況が分かるという例の一つだろうか。
2005/07/25 14:18
瀋陽に地震はないけれど
中国は広いからあちこちで大地震の被害が報告されているが、瀋陽の地には地震の記録がないという。日本に住み慣れた上で瀋陽の建築風景を見ていると柱の中に入れる鉄筋の細くて数の少ないことには驚かされる。地震がなければこれでよい。しかし日本なみの地震があったら、まず瀋陽ではたいていの建物が倒壊するに違いない。今私たちは日本に住んでいないけれど、頭は何時も地震のニュースに敏感である。
7月23日土曜日の夕方は6時半頃うちに帰っていつものようにMacパワーブックG4をインターネットに接続した。最初にYahooが出るようなっているブラウザーに「4時35分足立区に震度5強の地震」とあるのを見て、凍り付いた。貞子に知らせようと思っても声が震えてしまう。
瀋陽に来るまで、大学の定年後5年間私たちが世話になった日本皮革研究所が足立区にある。この研究所は財団法人で、日本が足音高く軍国主義の道を歩んでいた頃、皮革事業で大もうけをしていた会社が財団法人として作ったものである。昭和のはじめに設立という非常に歴史の古い、そして今時の省庁の利権確保のための外郭団体と違って由緒正しい財団法人である。
この研究所は、皮革本社が持っている研究所と同じ建物の中にあった。研究所の建物は昭和30年代の初めに造られたもので、そのころはやっと「もはや戦後ではない」という言葉を互いに掛け合って生活向上に励んでいたくらいだから、まだ日本は1ドル360円の貧しい時代である。
コの字型に両側にウイングがのびている3階建ての建物は広壮で、当時は人のうらやむ広さと設備を持った白亜の殿堂だったに違いない。この建物が出来た時は、当時日本にはまだほとんどない機器がずらりとそろっていて、当時の東京医科歯科大学の田宮信雄先生など新進のコラーゲン研究者がこの研究所に日参したという話が残っている。
今から50年前の建物なので、補修に手をかけているかいないかで建物の寿命は大きく違ってくるが、足立区ではそれ以前の問題がある。というのは、ここは荒川の堆積層の上に建てられた建物で、当時の建築技術では岩盤まで到達する基礎を打つことが出来ず、松の丸太を縦に何本も沈めた上にコンクリート3階建てを建てたのだった。軟らかい地盤の上に重い建物が乗っているので長年の間に建物が沈むけれど、全部が一斉に沈むことはなく場所で違う不等沈下が起こる。その結果、建物の柱、梁、壁に亀裂が入り、それが年々広がっているというのが私たちの行った頃の状況だった。
どの部屋も床が平らではない。従ってドアがきちんと開かず閉まらず、どの部屋もドアの上下を切って付け替えていたか、ドアを取り外して改めて引き戸を付け直していた。当然ドアには鍵が掛からず、施錠できないけれど、この研究所は本社の敷地に工場と一緒に建てられていて、敷地全体として守られていて、研究所にも外部の侵入者がいないという前提だった。最初は不安だったけれど、私たちが世話になった5年間、泥棒が入ったことはなかった。
ともかく、私が貰った部屋から実験室まで歩いていくと、最初は登りでしかも身体を左側にちょっと傾けないとバランスがとれなかった。角を曲がってからは今度は明らかに下りになることが実感出来るくらい建物はあちこちが傾いでいた。当然のこと、これは研究所の人たちの不安の種となり何時も恐怖が語られていた。地震があると世間では何ともない揺れがここでは大きく、突如建物が揺れ出すと身動きもならず、壁の亀裂をじっと見つめ、それがこの瞬間広がらないことを祈るばかりだった。
研究所の所長がこの状況を放っておく訳がない。機会があるごとに本社の上層部に話をしていると聞いていた。しかし、研究所長は本社の役職にも入っていないし、皮革事業が不況産業でもあるということで建物改修あるいは新築案は、まるで問題になっていなかったみたいである。ある時足立区の消防署員が視察に来て建物の亀裂を見てこれはひどい、これを放置しておいては人命無視と同じだと発言したとか後で聞いたけれど、それが具体的に取り上げられたとは聞かなかった。
このような時法律はどうなっているのだろう。危険な建物を見つけた時に、責任官庁があるとして、そこがこれは使ってはならないと公的な発言が有効に出せるのだろうか?勧告か命令か、そういうことが可能だろうか?これの出来る法律があるのだろうか?
そしてそれを聞く側は景気の波に左右される企業なら必ずしも言われたとおりは出来ないかも知れないが、法律はどうなっているだろう?後になって、地震で建物が崩壊し、それが人命にも及んだ時、誰が責任をとるだろうか?
人の出来ることを尽くしてそれでも被害が出た時、私たちはこれは天災だと言ってこのような地に暮らさなくてはならない自分の運命を諦めとともに受け入れる。でも、たいがいの災害は人災なのだ。そしてもし足立区のあの建物が地震で被害を受けて、それが人命にまで危害が及んだら、危険な建物を放置している以上、明らかに人災である。本社の首脳部の責任は逃れられまい。もちろん、研究所の建物がいかに危険な状態であるかを彼らが認識する機会が何度もあったことが証明されればの話だが。
そしてそのとき彼らの責任が追及され、罪となっても、そのときでは遅いのである。そのことが現在明らかに予想されても、今は誰も何もしようとしない。会社の首脳部の人たちは未だに重役出勤の時間で会社に来て、夕方には銀座のクラブで遊んでいるようなところだから不思議はないのかも知れない。
しかし、仲間だったあのまじめで優秀な研究員の人たちが、東京をいつか襲う地震で建物の崩壊とともに命を失うかも知れないと思うと、私を5年間面倒見てくれた会社だけれど、怒りに震える。
直ぐに安否を問うて出したmailに、研究所の人たちから続々返事があった。幸い建物も人も無事だったとのことだった。けれど、地震は必ず来る。そしてこの建物は必ず潰れる。わかっていても、何とも出来ないもどかしさ。今の私には、私たちの面倒を見てくれたという意味で好人物といえる一人一人の上層部の人たちを呪うしかないのだろうか。
2005/07/29 08:54
中国のツバメ返し
週末には瀋陽の市中を流れる運河沿いの緑地帯に、鳥かごを持った人たちが集まり、鳥市が開かれる。公園のなかの木の枝に鳥かごをぶら下げて、商売と言うよりも鳥好きの、おおかたは年配者が集まってのんびりと楽しく時間を過ごしているという感じである。鳥の種類に詳しくないので、私だと小鳥、インコ、九官鳥の区別しかできないが、様々の鳥がにぎやかにさえずっている。
でも、街を歩いていて鳥の姿を目にするかというと、ほとんど見掛けない気がする。カラスは見たことがない。大学とうちの往復の間に7階建てアパートの裏の路地を通ることがある。そこには裏庭風に木が植えてあるし、ひまわり、オシロイバナ、ヘチマなどが植えてある花壇もあり、鶏も放し飼いにされているけれど、ここで遊んでいる雀も見たことがない。
でも、そこを歩いて大学の門をくぐって大学の中に入ると緑が多く、大学の校門に「花園式学校 瀋陽市人民政府」と書いてあるのもなるほどと納得できる。そして、正門真正面の3階建ての主楼の周りにはツバメが舞い、緑地帯には雀が集まってさえずっているので、ほっとする。このツバメは日本で見かけるツバメよりも大型で、しばらく空を見上げていると主楼の遙か高い屋根裏の隙間に巣を作っているらしいのが見受けられる。ツバメの飛んでいる姿も美しいし、見飽きることがない。
もう瀋陽でもアキアカネが舞う季節になって、たくさんのアキアカネが群れて飛んでいるが、ツバメはアキアカネの舞う空間よりもたいてい上を飛んでいる。このツバメの飛ぶスピードはかなりのもので、建物に近づいてぶつかるかと思う間際に羽を広げて減速して、下からはどこなのか見えない隙間に飛び込んでいく。
昔子供の頃、トンボは6本の脚を籠みたいな形にして飛びながらそこに蚊のような昆虫を掬い込み、直ぐ口に運んで食べるのだと聞いた。目玉の直ぐ下に大きな顎が付いていて、顎の下のえさ箱に入ったえさが食べやすく出来ている。
トンボはよいとしてツバメは何を食べているのだろう。雀と違ってツバメは木の枝にはとまらないし、地面に降りてこない、見ている限り空を飛び続けている。どう考えても空中を飛んでいる間に餌を捕らえるとしか思えない。それもトンボみたいに胸に籠を作って飛びながら餌を入れられないから、飛んでいる時に空中で餌をぱくっと銜えるに違いない。この速さで空を飛ぶ昆虫を見定めて口で銜えてしまうというのは、すごい能力である。目が素晴らしく良く、目から入った画像処理の結果が直ちに羽根の動きに連携して、しかも素早く制御されなくてはならない。おまけに空中を飛んでいる同じ餌を二羽のツバメが狙うことはない、少なくとも同じ餌を狙って二羽空中衝突するところを見たことがない。それほどツバメの飛翔は三次元の上に時間を加えた中で見事に制御されているのだ。ツバメのあの速さを考えると驚異的である。
宮本武蔵と対戦した佐々木小次郎のツバメ返しは人口に膾炙している。小次郎が巌流島でツバメの飛翔に目をこらして、ツバメを切り捨てられるくらい技を磨いたというほど、ツバメの速度は人から見て図抜けている。
ある時大学のポストに胡丹くんと行ったあと部屋に向かって歩いている時、空にツバメが舞っているので、それを指しながら胡丹くんに言った。「ほら、たくさんのツバメが飛んでいるでしょう?あのツバメはあれほど飛ぶ速度が速いのに、建物にも互いにもぶつからないように飛び方をコントロールできるんだよね。空中で餌をとっているのに、お互い同じ餌をとろうとしてぶつかるようなドジもしないし、見事にコントロールされていてすごいじゃないの?どうやってあの速度で飛びながら、餌をとったり、互いにぶつからないように出来るんだろう?」
胡丹くんはチラと空を舞っているツバメを見てこういった。「ツバメに出来なくって、人が出来ることはたくさんありますよ。」この、私の思ったことと違った哲学的な返事に戸惑った私に、さらに胡丹くんは「先生、当たり前なことを面白がるんですね。」といってにやにやしている。
「へエー。面白くないの?どうして?」と私。胡丹くんは、まじめに私が聞いているので困ってしまって、もじもじした上で「だって、そういう風に出来ているんですよ。驚くことはない、当たり前のことなんですよ。」
この後私たちは部屋に戻ったので、この話は続かないで終わってしまったが、どうも落ち着かない。その原因は、学生の中でも優秀と思われる胡丹くんでもこの話題に乗ってこないことの違和感だった。
というのは妻の貞子と夕方帰る時、ツバメの飛ぶ姿に見とれるのは妻も同じである。「どうしてツバメはあんな速さで飛んで、餌がとれるのだろう、どうしてお互いがぶつからないのだろう?」相手が疑問を口にすれば、「本当ね、どうやって、あの速度で飛びながら、素早く飛び方が制御できるのかしらね。」と、同じように不思議に思う。ツバメの生理学的な神経伝播速度の違いや、目の解像度の違いにまで興味が進むわけではないが、私たちは様々な現象を見て当たり前と受け流すのではなく、何故だろうと不思議に思うのが習性である。
これは科学者としての素質に関することで、その素質故に未だに科学者を続けているのか、あるいは科学者として訓練されてこうなったのか、どちらかはわからないが、胡丹くんとはだいぶ違う。
そして厳密な科学的検証で言うわけではないが、中国の学生は、この薬学部の学生でも胡丹くんのタイプが多いみたいである。つまり世の中のことは何でも当たり前で、不思議に思うことがない。物事にあまり動じることなく、驚かず、感心せず、感動が少ない。
しかし、科学の原点は好奇心である。好奇心が、何故だろう、どうしてだろうと、ものごとの仕組みの解明に人を駆り立て、その原理を利用して科学技術が進歩してきたのだ。
私たちの研究でも、実験をしてその結果を見て何が言えるか、そしてその次に何が出来るかと考えることの連続だが、うちの院生の多くはこれが苦手でる。「先生、こういう結果になりました。」と言って結果を見せるが、自分自身の考察がない。こちらが結果を見て、こういうことが言えるでしょ、だからこういうことなら、次の実験はこれをやったらどう?ということになる。早い話、中国の試験は教科書の丸暗記に強い方がよい成績の取れる仕組みだから、彼らの多くは考える訓練を受けて来ていないのだと思う。
ただし、丸暗記の詰め込み教育を受けてきたかも知れないが、私はここの学生の方が日本の大方の学生よりも見込みがあると思う。それは、原動力が何であれ、真面目に勉学に取り組もうという意欲を持っているからだ。
私の使命は、例えわずかの学生を相手にすることしかできなくても、彼らが自分の頭でものを考えられるようにすることだと思っている。それが、彼らが無条件で尊敬している山大爺老師の批判につながることになったとしても。
2005/08/03 00:20
全日空の飛行機の中で
瀋陽には企業人が中心となって親睦を深めるための瀋陽日本人会という集まりがある。正確な規模は知らないけれど、企業が三百社くらいあって、会員が数百人と言うところだろうか。中国人と同じ額の給料を貰っている私たち大学の教師はあまりお付き合いできる立場にはいないけれど、日本人としては対等な立場なので、私は正規の会費を払って会員となっている。
会員の中には成田-瀋陽線を飛ばしている全日空も当然入っている上に、全日空が事務局を引き受けている。日本人会のクリスマスパーティには全日空の美人の事務職員が司会で出演して強烈な印象を与えたし、全日空の機内誌である「翼の王国」が毎月送られてくる。そんなことで、貧乏人の教師は企業とは縁がないはずなのに何となく親しみを持つようになったのがいけなかった。
今までは日本から瀋陽に行くのに日本初の往復航空券を買っていた。正規の運賃よりも実際には安く買えるので、瀋陽に行き慣れている先輩から教わったりして一番安い南方航空を買っていた。ところが隣の部屋の池島先生から、瀋陽から往復航空券を買うと、日本発で買うよりも安いと聞いた。
実際「翼の王国」を開けて調べてみると、往復運賃が5500元(7万3千円くらい、ただし税金抜き)で、日本発南方航空の一番安く買える7万5千円とたいした違いがない。有効期間1ヶ月だけれど、瀋陽から日本往復は日本に1-2週間の滞在なので問題はない。
それで5月に私が1週間日本で用事があったとき、日本に戻る航空券をオープンで持っていたにもかかわらず、初めて全日空の航空券を買って利用してみた。すると食事がよい、乗務員の態度がよい、客室も綺麗だ、雰囲気がよいなどの良いことづくめだった。それで、6月に妻が同じく出かけたときにも全日空を買い、彼女も至って満足したのだった。南方航空では決してソバを食べないのに、「食事のソバを食べてみたけれど美味しかったわ。」と、満悦であった。
そのようなわけで、今回夏休みに日本に3週間帰るときも二人とも戻りの航空券をオープンで持ったまま、全日空の往復航空券を買った。今は電話をするだけでe-チケットなるものが買えてとても便利である。
日本に戻る二日前に隣の池島先生がやってきて、お盆の前には日本行きの飛行機が混んでいて買いにくく、とうとう南方航空ではなく全日空になってしまったけれど、それでも5千元しなかったと話していた。全日空支店ではなく普通の旅行会社で買うと安いのだという。
全日空から直接買っていても日本で往復を買うより安いから、旅行社で買うことなど思いもしなかったのだ。おまけに、ここの旅行社は勿論中国語だから、自然私たちの考慮の対象とはなっていなかったこともあると思う。
さて、今日8月2日午後、瀋陽から全日空の航空機に乗り込んだ。何となく南方航空よりも華やいだ雰囲気である。久しぶりに聞く乗務員の綺麗な日本語が耳に入るのも安堵感となっているのだろう。航空機がタクシーイングを始める前に、「山形さまでしょうか」と通路に片膝を着くくらい身を低めた女性の美しい日本語が聞こえた。見ると胸に「チーフパーサー」と書いてある。彼女は「何時もお世話になってありがとうございます。支店の方からも、呉々もお礼をとのことでした。」と、笑顔と共に丁寧な言葉を残して、唖然とした私たちから去っていった。
妻と顔を見合わせた。「VIPでもない私たちが、チーフパーサーから特別に声を掛けられるなんて、これは全日空支店で正規の値段で航空券を買っている特別なトンマだということではないか?」
確かめたわけではないけれど、きっとそうだろう。それ以外に思い当たらない。やれやれ、これからどうしたものだろう。と考えているうちに航空機は離陸し、やがて巡航高度に近くなって、シートベルトを外しても良いというサインが出た。
そこで、背もたれを1段後ろに倒した。そのとたん「椅子を倒さないでよ、足が悪いんだから。」と言う中年おばさん風の尖った声が後ろから聞こえた。びっくりである。いきなり、そんなことを言われる覚えはない。むっとした。おそらく顔色が変わったのだろう。隣の妻が心配して、「怒っちゃ駄目よ。良いから私と代わりましょうよ。」という。それで、窓際の妻と席を代わって貰って、落ち着いてから、さてと、背もたれを1段倒した。とたんに背中が蹴飛ばされ、「止めてよ。椅子を倒すなよ。」と今度は別のおばさん声が聞こえた。
今までの私ならここで相手をたしなめるところである。だいたい先方は依頼する立場である。こんな言葉遣いでよいものだろうか。おまけに、こちらが頭ごなしに咎められるような悪いことをしているのではない。私が怒ってもよい理由は二つ以上あった。しかし、こんなことで怒っては空き腹に良くない。そこで私のしたことは、乗務員呼び出しのボタンを押すことだった。
直ぐに来てくれたチーフパーサーに、小声で事情を話すと、8割方埋まっている座席を見回して別のところに私を案内してくれた。私の後ろのくだんの人と通路を隔てた席だった。顔を合わせないようにして隣を見たら、問題の中年女性は前の席に膝が届くにはあまりに小さい人だった。
先ほどの美しい容姿のチーフパーサーはその後直ぐにまた来てくれて、お二人一緒の席が良いでしょうねと言って、別のところに二人を案内してくれた。それで、問題の場所から離れたので不快の念は長続きせず消えたが、全日空だからこのように迅速な対応ができたのだろうか。それとも、全日空に正規運賃を払って乗るような「特別な客」だったからだろうか。
後ろの二人の女性の不快な態度については、妻が言うには「きっと野球帽を被っているから年が若く少年みたいに見えて、だから、あのようなぞんざいな言葉遣いをしたのよ。」ということだ。これはある意味では私をくすぐる言葉だから、受け入れても良いけれど、でも、少年相手だからと言ってもあのような言葉遣いをするとは日本の女性としては恥ずかしいことだ。
近頃の日本の女はとか、つい口に出るようになってしまったけれど、全日空の客室乗務員は、どうしてどうしてうちの息子の嫁にしたいような素敵な人たちばかりだった。
この次は、出来ることなら航空券を安く買って、全日空にまた乗ってみよう。
2005/08/05 08:17
私はまだ買いもの修行中
中国ではものの値段は売り手と買い手の交渉で決まる。日本でも上野のアメヤ横町に行けば、売り手との掛け合いで納得できる値段に落ちつくと聞いているが、日本人は、特に東京育ちは正価販売に慣らされているので、「高いじゃない、負けなさい」という一言がなかなか出てこない。
中国では値切らないのは愚かであると言われる上に、言葉が中国語だと大して抵抗なく「そりゃ高いよ。」という言葉が自然に出でてくる。もしこちらに買う気があれば、「もっと負けなさいよ。」とこちらも本気で臨むことになる。
瀋陽国際飛行場は3年前に新しくオープンした立派で大きな建物だが、まだ利用便が少なく、チェックインして入った後は、コンコースの中央付近しか利用されていなくて、そのあたりに売店が集中している。一番入り口寄りには酒、たばこの店があるのは世界共通だが、これらの店はつい半年前までは空港の外で買うよりも高い値が付いていた。今は、Duty Freeと看板が出ているので、少しは安くなったかも知れないが、奥の喫茶店の値段と言い、人がどうしても必要で買わなくてはならないときの心理につけ込んで、取れるときは出来るだけ取ろうと言うのが見え見えである。
奥の喫茶店では、コーヒーとサンドイッチで100元は掛かる。庶民から見ると天文学的に高いが、もしどうしても食べたいなら、そして飲みたいならいいなりの値を払うしかない。ここだけ取り上げると人の弱みにつけ込む商売を非難しているみたいに聞こえるだろう。しかしこれも、中国の値段は需要と供給で決まるという経済原則に忠実なのである。
今回夏休みで日本に帰るので瀋陽飛行場に行った時、日本からの到着便が遅れていて、待つ時間が長かった。ここでは酒の売り場以外に、装身具、置物、などの店が大きな区画を占めている。搭乗を座って待つ椅子の目の前が店になっているので、待っている間嫌でも目がいき、ただ座って待つことにも嫌気がさして、一寸覗いてみようかという気になってしまう仕掛けである。周りに沢山座っている日本人の団体ツアー客も同じような気分らしかった。連れの男どもを放ったらかして女性連中はここでも賑やかに買い物である。
そのようなわけで、立ち寄った店は、玉の彫り物を後ろに並べた装身具の店だった。この玉というのは日本の庶民にはあまり縁がないものだけれど、中国は昔から玉の国である。中国に来ると龍や馬の彫り物などが様々な色の玉で彫られているのを眼にするので、馴染みになってきた。歯を剥きだした小さくてかわいらしい龍の子供で、二匹が向かい合っている。手頃な大きさの子供には3600元という値が付いている。
このようなのは見ていると愉しいけれど、欲しくなると困る目の毒である。それで、カウンターの中を覗くと、玉で出来たとおぼしきブレスレット、ペンダント、首飾りがいろいろ並んでいた。
玉で出来ているのか、石なのか、プラスチックの偽物なのか、実は見る目がない。何の玉なのか、本物かどうかも分からないのだから、見分けようもない。若い頃のシャーリー・マックレーンみたいに可愛い売り子は、日本人と一目で分かる私たちを見てこれは上客と見定めたらしく、端からとり出して勧めてくれる。
「これはヒシュイ。」「こっちはシュイショウね。」と片言の日本語を口にして、ガラスケースから取り出して勧める。そのうちの一つの首輪を妻が手にした途端彼女は後ろに回って後ろのねじを外してコチョンと首にはめてしまった。鏡を見た妻は満更でもない顔をしている。こういうときは値段を聞かないと、話は始まらない。「いくら?」
580元というのが答えだった。「そりゃ高いよ。」というと彼女は計算機を手にとってなにやら打ち込み、500元という。「駄目駄目。高くて話にならないよ。」と言って私はさっさと妻の後ろに回って首輪を外して彼女に渡した。するとたちまち値段は450元になった。「まだ高いよ。」すると彼女はいくらなら良いのかという。
ここで切り出す値段が大事なのだ。相手の下げられる値よりも高い値を付けると、それで決まってしまって、こちらは大損だし、安く付けすぎると相手は怒ってしまい、それで交渉決裂となる。欲しいときには、よくよく市場を調べてこちらの値段の腹積もりをちゃんと持っていないといけない。
今回はどうしても欲しいわけではない。彼女相手に交渉を楽しんでいるだけなので話が壊れても良い。それで250元と値を付けた。すると、案の定売り子は飛んでもないという顔付きで「それじゃ駄目」と言って、片づけてさっさと向こうに行ってしまった。
椅子に戻って貞子に、「だいたい玉にあのように綺麗な模様が出来るわけがない、内部まで模様が通って言うようには見えないから、あれは外から絵付けしたものだ。」と私の解釈をぶっていた。玉に絵付けが出来るかどうか、今度、専門家の西川先生に聞いて見ることにしよう。
なにやら人影がするので見上げるとさっきの売り子である。手にはさっきと同じ首飾りを持っている。そして言うには「上と相談したけれど、300元まで負けると言っています。」とのことだった。
これは300元でも先方は十分もうけの出る値段だと言うことだ。瀋陽日本人会の会長を長く務めた温厚な石戸先生に、瀋陽にある産地直結の唯一の玉の店に以前案内されたことがあるが、その記憶にある瀋陽特産の玉で作られた首飾りと比べると、200元でも高いくらいである。
でも250元と値を付けてしまったので仕方ない。それで二つの間を取って270元なら払おうというと、彼女は店の後ろの陰まで飛んでいってから戻ってきて、「好い。」というので、交渉がまとまった。私たちは時間つぶしに欲しいわけでもない首飾りを買ってしまったのだ。
それでも相手の言い値の半分以下で手に入れたから、一寸は得意な気分だった。「どうだい、ぼくって大したもんじゃない?」
それもその少し後に戻ってきた隣の日本人団体ツアー客のおしゃべりを聞くまでは。彼女たちは一つ380元の翡翠のブレスレットを何と三つ420元で買ったという。言い値のざっと3分の1の値段である。日本の中年女性パワーは恐るべきものがある。私はまだまだ修行が足りない。
2005/08/08 20:13
ネット上の友だちのコンサート
広島原爆投下追悼記念日の8月6日は、ネットの上で見つけた私の友だちの歌のコンサートの日で、この夏休みはそれを楽しみに日本に帰って来たと言っても良い。ネットの上だけのお付き合いだけれど、彼女のホームページからは老人介護の仕事に懸ける情熱がほとばしってくる。その上に障害者の作業の指導をしていて、更に資格を取るための勉強も連日こなしている。
私の母が老人ホームにいて、痴呆老人の介護がどんなに大変か知っているので、それを毎日こなせばどんなにか疲れ切って帰宅するだろうにと思うのに、毎日書き込まれる日記の重厚さには圧倒される。ネットをサーフィンして、この人はただものではないと思う何人かの一人である。
おまけに嬉しいことに彼女はオペラの歌手という前歴があり、今も現役で歌手活動が続いているとホームページには書いてある。今回は少し前から8月6日には公演をするという公告が載っていた。
実は私はオペラ大好きで、見るだけではなく自分でも先生についてオペラアリアを歌うようになった。歌う楽しさを覚えてからはオペラアリアを歌う人たちを集めて「い座」というグループを作って、5年間主宰したことがある。この、同好者が集まるというのは良いアイデアで、専属のピアニストも見つけられるし、公演会場も借りられるので、きちんとしたホールの舞台で歌える。声楽の先生まで契約して教わることが出来た。
毎年2回もGala Concertと仰々しく銘打って公演していたけれど、ある時私の研究室の助手の女性が何と10回連続して聴きに来てくれていたことを知って、落語の長屋の謡曲を唸る大家さんと同じ罪作りをしていることにはたと気づき、大いに恥じ入ったのも一因となって、それから1年後には解散してしまった。
そのようなわけで、歌と聞くと血が騒ぐ。おまけにネットの上ではすでに彼女のファンなので、彼女が歌うとなると何は何でも駆けつけたい。幸い8月だったので、間に合うように昨年よりは早く夏休みにして日本に戻ってきたのだった。ついでに、5月に瀋陽を訪ねてきた友人二人にも連絡を入れて、ぜひ聴きにいらっしゃい、会場で会って、その後おしゃべりをしようと誘っておいた。
さて、当日、ぼやいてもしょうがないけれどつい暑いという言葉が口にでる暑さの中を府中に着いた。午後1時20分、一寸早めだったけれど会場に行って、楽屋を訪ねて、ドアを叩いた。ドアを開けて出てきた女性が一人。
「山形ですが、mammamiaさんはいらっしゃいますか?」これに答えて、目元の優しい女性がにっこりとして「私がmammamiaです。初めまして。本日は瀋陽からいらして下さって、ありがとうございます。」と素敵な笑顔で挨拶されてしまった。
黙ってコンサートに聴きに来ればよいものを、私は事前に掲示板に書き込みをしてしまったので、もちろん彼女には私が聴きに来ることは分かっていた。もし初めに顔を見せておかなくては、歌っている間中どんなやつが聴きに来ているのか気になって落ち着かなくさせてしまうかもしれない、それではいけない、と思って先ず楽屋に挨拶に行ったのだった。彼女の日記を見ていて認知症患者の介護という日常から、筋骨逞しい大柄な女性かと思っていたけれど、ふっくらとした面長の穏やかな顔の、どちらかというと小柄な普通の女性で、そして最大の特徴は眼の優しさだった。初対面でも1年近くネットで何時も行き来していると、初めて会ったという気がしないものだ。一瞬にして馴染みの顔となってしまった。これがネットの魅力と、もう一つは、それと裏腹に存在する危険なのだろう。
この日はテノールの男性とのジョイントコンサートで、最後にトスカの第一幕から二重唱を歌うほかは、二人とも独自の路線である。相棒はイタリア歌曲が得意のテノールで、彼女は徹底的に日本歌曲だった。音楽は万国共通に人の心に訴えることができる。歌詞があると、そしてその歌詞が日本語なら日本人には歌詞を通じても訴えることが出来る。日本歌曲は歌い手の気持ちが伝わるから、駆け出しでは歌えない。私が5年間オペラアリアを歌いながらついにイタリア語以外で歌わなかったのは、日本語の歌詞で歌うと、どうしてもぼろが出てしまうからである。
だから日本歌曲をずらり並べるのは彼女がベテランの証である。最初の歌は連作歌曲「万葉集から」というもので、施設の方の作曲と解説には書いてあった。認知症の患者さんだとしたら、信じられない思いのしみじみした歌で、これを彼女は情感を込めて歌った。四つ目の「稲刈れば かがる吾が手を今宵もか 殿のわくごが取りて嘆かむ」の東歌は、高校生の頃からなぜか好きになって今でも覚えている歌だったので嬉しく味わった。コンサートの出だしはどんなプロの歌手でも音程が不安定で気を揉むが、この日も彼女の歌を身内が歌うようにはらはらして聴いてしまった。
このほか「さびしいカシの木」、「からたち野道」、連作歌曲「母の手は」、さだまさし「フレディもしくは三教街」、平井康三郎連作歌曲「和泉式部抄」が続いた。歌うほどに声も伸びやかに出るようになりどんどん良くなって、美しい声の日本歌曲が楽しめた。おまけに彼女はもう私の友だちなのだ。友人が目の前で歌って、歌うことで一生懸命伝えようとする気持ちが聴いていて感動を呼ぶ。ところで、和歌に曲を付けることは昔からあるが、一般に知られている「人恋ふは」にしても「砂山に」にしても、どれも和歌はそのままだと短すぎて、あっという間に終わってしまう。西欧の歌に馴染んだ耳には歌曲としては物足りない。もっと長くする工夫を誰かして欲しいと思いながら聞いていた。
テノールはどうだったって?テノールはIT企業に勤める若い方で、週末だけ音楽業という二足のわらじの若い歌手だった。しかし、テノールについては何も言いたくない。バリトンの私にとって、テノールは敵なのだ。テノールは何時も若いすてきな恋人役を演じ、美しい女性の手と心を掴む。一方、バリトンは何時も振られる恋敵がいいところで、悪役、よくて父親と昔から役どころが決まっている。従って、テノールは私に取っては永遠の恋敵なのだ。
コンサートの後は感想と、会えてついに彼女の歌が聴けた喜びを述べ、次の再会を約し、ビール好きの悪友二人に付き合って街に出た。はしごを重ねて、うちに帰ったのは真夜中だった。それでも良い音楽を聴くことの出来た余韻が身体を駆けめぐっていて、体中汗でぐっしょりになったけれど、気持ちの良い一日だった。mammamiaさん、お疲れさま、そして、ありがとう。
2005/08/12 08:31
若い女性の究極の勝利?
夏休みに日本に戻ってきて何よりも感じたのは湿度の高さである。もちろん私たちヒトのもともとの出自は海だから、日本の多湿は肌のためには最適なのだ。瀋陽の夏は温度が上がって結構暑いけれど、日本に比べると湿度が低くて乾燥している。瀋陽のこの夏は雨ばかりで、6月から7月半ばまでほとんど毎日雨が降っていたけれど、それでも雨の後は直ぐに路も乾くし、洗濯物も室内に一日干していれば乾いてしまう。
人々は温度が上がると身につける衣服が薄くなり、短くなって肌を露出するようになる。瀋陽の夏は暑いけれど乾燥しているので、男の衣装の行き着く先は、上半身裸である。街を歩いていると、Tシャツを裾からまくり上げてお腹から胸まで出して男が歩いている。青年も、そして中高年も区別ない。着ているのがランニングシャツだと、裾から上に丸めていくとあたかもブラジャーを着けているようになる。
朝出かけるときにアパートの出口のところでこれに初めて遭遇したときは、相手を女性だと一瞬思ったので、あわてて目をそらしたが、直ぐに「え、男じゃないか、何で変な格好に黒いブラを付けているんだろう?」と思った。しかし、それ以上私の頭は理解不能・解析不能でフリーズしてしまった。ドアを出て階段を下りたところで隣の貞に言うと、彼女は「驚いたわ。まるでブラジャーみたいに着けているわね。でもあれは男の人よ。シャツを丸めているのよ。」と解説してくれた。
夕方になってアパートの裏の路地伝いにうちのアパートに帰る頃になると、裏庭に集まる人たちの中の男はおおっぴらに上半身裸である。湿度の低いここでは一番涼しいに違いない。
見ていると暑苦しい気になるけれど、それはこちらの先入観によるものだ。日本の暑さでは汗が蒸発せずに流れるから、何かを着て汗を吸わせた方が涼しい。日本では裸の方が暑いのである。だから私は男の裸を見ると暑いと思ってしまうが、瀋陽では裸でいるのが一番快適なのだろう。
日本の私たちの生活で、縁台の夕涼みは東京の下町には一部残っていても一般の習慣ではなくなってしまった。夕方人々が集まる風景は今ではどこでもほとんど見かけることがない。それが瀋陽ではアパートの裏庭に縁台を出したり、そして以前は立派な家具だったと覚しき、もう骨組みだけになったソファを置いたりして皆で夕涼みである。皆が通り過ぎる私たち二人をじろじろと眺めておしゃべりをしている。
「あれ、ハミグワを買うのをもう止して、金瓜を買ったみたいだわね。」「何しろ、あそこの店では高くて誰も買わないからものも良くないしね。」「だけどあの旦那さんは、感心だよ。何時も重いものは奥さんに持たせないで自分で提げているね。」なんて言っているような気がして、瓜を入れたビニール袋を持つ手がむずむずする。
このアパートの住人のなかでも、小さなむく犬を飼っている王さんとはもう顔なじみである。犬好きなのでつい犬がいると声を掛けてしまうのがきっかけで顔見知りになった。朝は「上班?(これから仕事?)」と声を掛けてくれる。帰りは「下班?(仕事は終わったの?)吃飯了マ?(食事した?)」と聞いてくれる。
ガラッパチのような声を出す肝っ玉お母さんの感じで、一緒に座ったおばさんたちと大きな声で話しながら、同時に周りで子供用の自動車を乗り回したり、ボール投げをして遊んでいる子供たちにも、ほかの大人たちと一緒になって気を配っている。子供たちの遊びは多彩で、先日は日本でも子供たちが遊んでいるのを見たことがあるピンと張ったゴムひもに足を引っかけて飛び越える遊びを、小さな子供たちがやっていた。
中国の学生を見て日本の学生と違うと思うのは、彼らが大人と話すことに慣れていると言うことだった。大家族で、しかも親戚付き合いをとても大事にする習慣の中で成長すれば、小さいときから親戚の大人たちと混じって大人と付き合うことに慣れていくだろう。今ではこのような小さなアパートの団地住まいとなっても、外に出てきてこのような裸のお付き合いをしている中で、近所のおじさんおばさんの区別なく声を掛けられる中で育てば、大人との付きあい方も自然に覚えると思う。
夕涼みをしている女性もさすが男のように上半身丸裸と言うことはなく、薄くて出来るだけゆったりした服を着ている。昼間は颯爽とタンクトップとヒップハングのパンツを履いてへそを出して闊歩していると思われる若い女性も、夕涼みの縁台ではゆったりとしたスカートに履き替えておしゃべりに興じている。
瀋陽の街を歩くとおへそ丸出しの若い女性を時には見かけるようになったけれど、日本にこの夏一時帰国して日本の街で目を剥いたのは、このヒップハンガーとかローウエストパンツとか呼ぶ斬新なパンツの女性が結構多いことだった。それもへそを出すなんて生やさしいものではなく、上に着た短めのシャツでへそは隠して、その下何センチかの素肌を堂々と人目にさらして歩いていることだった。
驚いたけれど、これで若い女性が残りの女性に対してついに勝利を収めたに違いなく、これは祝福ものである。つまり、若い女性がミニスカートを着ければ、中年も、高年も皆が着るようになって、若さを主張するファッションが埋没してしまった。若い人たちの始めるファッションはたちまち水平に、そして垂直に拡がってしまうのだ。ところが、このローウエストのパンツでへそ下何センチを人前に曝す勇気はおそらく若い女性だけが持てる特権だろう。
中国の女性もファッションに敏感である。日本のファッションは大連では同時に、そして瀋陽には一寸遅れて入ってくる。この夏休みが終わった頃は、瀋陽薬科大学の中はへそ下の素肌を曝した女子学生で一杯になるだろうか。いや、来年かな。期待したいところである。
2005/08/21 04:55
60年前の歴史に触れた日
私たちが昨年末の一日を日本人教師の会で知り合った中道夫妻と過ごした瀋陽の州際飯店は、南京北街という大きな通りを挟んで、中国医科大学と向かい合っている。この大学は日本が最初に大陸経営に乗り出した母体となった満州鉄道株式会社の満鉄病院として1911年に建設され、その後満州医科大学となったのだった。今は中国医科大学という名であるが、前身は満州医科大学、さらには満鉄病院として日本が作ったものである。
しかし、新中国の歴史の中では消されている。ついでに言うと、瀋陽薬科大学は満州医科大学の一部として始まったけれど、今の大学の歴史では消されていて、そのことを目にすることはない。
この大学の構内にあるマン ホールの幾つかに満鉄のマークの入った鉄の蓋が使われているということで、初夏の一日、加藤先生にそれを見てくださいと言うことで誘われたのだった。構内の北の方を歩くと、蓋の幾つかにMの字とレールの断面を組み合わせたマークが鮮やかに浮き出ていた。戦後60年、歴史の足音に耐えてまだ秘かにここにマークが残っている。
大学の通用門をでると、目の前は南京北街で、向かいには1〜2階建ての洋風の古い建物が見える。姿形は、以前加藤先生の瀋陽フィールドワークと題して数週間前に瀋陽歴史散歩の会が開かれたときに見た、昔の日本人の住宅と似ている。「きっとそうですよ。行ってみましょうよ。」と私たちは加藤先生と声を掛け合い、広い路を横切って向こうに渡った。この瀋陽フィールドワークは中辻恵美先生が企画したもので、歴史に興味を持って毎週末瀋陽中を歩き回っている加藤先生を師として招いて、瀋陽の歴史を勉強しようというものだった。 何も知らずに歩いていれば、ただの異国の街だけれど、歴史を知って歩けば、初めての瀋陽にも愛着が出るというものだ。折角一年、二年と住む街だから、愛することなく見過ごしたら、あたら無駄な時間を過ごすことになりもったいない。
瀋陽の街をそうやって歩いたのはただの一回だけれど、この住宅の一画に来ると、ぴんと来た。これは明らかにほかとは違う。石塀に囲まれた一画の住宅の中で、最初の広壮な建物の門の内側には松が生えていて、門は冠木門だ。間違いなく日本人住宅だったと思える。その先の並びにも1階建てだけれど、屋根の勾配のきついしゃれた住宅が建ち並んでいる。私たち三人は右手の住宅に目をやりながらその路をゆっくりと歩いた。路に椅子を出して座っている人たちがここにもいる。加藤先生はこの人たちに声を掛けた。「私たちは日本人だけれど、あそこのうちは昔日本人の住宅だったのでしょうか?」と言うことらしい。すると白いTシャツ姿の笠智衆を思い起こさせる品の良いおじさんが、なんと日本語を交えて返事し始めたのだ。ごく断片な日本語だったけれど、それでも昔ここに日本の医者が住んでいたことが分かった。それと、もうすぐ工事をしてこの住宅一帯を取り壊してしまうことも。
このやりとりをしているうちに、私たちはあちこちのうちから出てきた人たち数人に囲まれてしまった。加藤先生は中国語で達者に、そして貞子は片言で、にこやかに周りの人たちと話を始めた。そのうち、さっきの医者のうちだったという大邸宅の隣りのうちからおばあさんがやって来た。彼女は品の良い顔立ちで、耳にちいさな金色のピアスをしていて、服装はおしゃれである。彼女は私たちに、「私は日本語を話します。」ときちんとした日本語を喋り始めるではないか。「私は旅順高等女子師範学校を卒業して、そのあと小学校の先生 をやりました。」
「お幾つですか。」と気になって訊いてみると、足腰のしゃんとした彼女は「86歳です」と日本語でしっかりと答えた。日本語を使う生活をしてからもう60年経ていることを考えると驚きである。加藤先生は中国語で矢継ぎ早に質問をしている。「学校の先生は日本語で教えたのですか?」「ええ、そうです。学校では日本語の教育をしていました。最初の給料は5円でしたけれど、でも直ぐ8円になりましたよ。」
「学校の修学旅行は日本で、船に乗って日本に行って、厳島、京都、奈良など見ました。」とのことだ。こんな話をしているうちに周りに人はどんどん増えて15人くらいになっただろうか、皆ニコニコしている。集まった人たちはだれもが人なつっこく話しかけてくる、私も除外してくれない。知っている単語を総動員するけれど相手の言うこ とが分からなくてじれったい。ふと気付くと貞子がいない。おばあさんがいない。きっと近くなのでおばあさんのうちに誘われたのだろうと、左手のうちを一つずつ覗いて歩くと二軒目で声が聞こえた。声を掛けた上で玄関扉の布をめくると、そこは6畳間くらいの部屋で、住宅の外壁を利用して増築された部屋のように見える。中にはおじいさんと子供たち夫婦と思える年輩 の二人がいて、しきりに中に入るように、招じられた。おばあさんは苑さんと言う名前だった。連れ合いの遅さんは一つ上の87歳で、やはり日本人の学校を出て大連で日本の会社の森永に勤めていたそうだ。
私たちが「森永」と聞いてもぴんと来ないでいるのがわかって、「ビスケットやチョコレートの森永ですよ。」と奥さんの苑さんが説明を入れてくれた。「あ、あのキャラメルの森永・・・。」と、今更ながら昔からここにもその味があったことを認識した。
遅さんは「もうずいぶん長いこと日本語を話していないから、上手くは話せませんです。」と言いつつ、戦前の日本人が威張っていた時代で、日本人と中国人の間には厳然とした階級差があったけれど、陳さんは会社では会計課にいて、ずいぶん仕事が出来たという話を日本語でしてくれた。戦後は中国の工場で簿記が出来ることでかなり地位が高くなったらしい。しかし文革では昔日本人の企業にいたと言うだけで、三角帽子をかぶらされて総括を迫られたという痛ましい話だった。その後は通訳業に転じたという。息子夫妻と思ったのは、兄と妹の二人の子供たちだった。品の良い人たちで、私たちを捜して後から入ってきた加藤先生と話が弾み、話が尽きない。
60年前、日本人と深く、ポジティブに関わり合った人たちに私は瀋陽の街で初めてこのようにして出合った。まだ会ったことはないけれど、日本人からひどい目にあった人たちも、同じように現存しているのだ。戦後60年が経った今、日中の関係を考えるときに、歴史の中にまだ風化していないこの人たちの視点があることを決して忘れてはいけないことを思った一日だった。