2007/09/25 08:29
ウルムチのパンダ その一
第十回全国生化及分子薬理学術会議というのが、新疆ウイグル自治区の首都であるウルムチで開かれ、私たちは中国に来て初めて学会に出席した。
中国に職を得て働き始めてから4年経ったが、はじめの頃は研究室を立ち上げて研究室の学生たちに研究はこうやってやるんだよと教えるだけで手一杯だったし、 勿論発表するような研究成果もなかった。2年経ってやっと研究が軌道に乗り始め、今では数報の論文も出版することができた。つまり研究成果の蓄積もできたし、新しい成果も出てきたので、学会に出かけて発表するのに適当な時期となった。
おまけに今まで中国のどこ にも旅行に出かけていないと思われている私たちを気に掛けて学長が、「どこそこの学会に行ったらどうですか」と昨年くらいから時々声を掛けてくれる。いろ いろと理由があって断っていたけれど、もうそろそろ断るのも限界だろうと言うことで、この秋のウルムチ行きとなったわけである。
瀋陽からウルムチまで飛行機で6時間かかると聞いていたが、途中フフホトという内蒙古の街に降りて1時間近く待った時間も入っていた。もし直行すればおそらく4時間半で着くだろう。それにしても長い距離である。
ウルムチ空港に着いて外に出たときに感じたのは、空の明るさだった。ともかく周り中が光り輝いている。太陽がまぶしい。暑いと言えば暑いけれど、空気が乾いていてさして暑さは感じない。この空の明るさは、きっと空が汚れていないからだろう。
議は空港とウルムチの街の中心とのちょうど間くらいに位置している三つ星のホテルで開かれた。私たちもそのホテルに泊まった。ウルムチに着いた翌日が学会の初日で、8階の会議場に行ってみるとさほど広くない場所に机と椅子がぎっしり入っている。あとで数えてみたら、ざっと120人くらいの参加者だったと思われる。東工大で糖質科学のローカルな研究会を開いてもそのくらいの人たちは集まったから、中国は広いとはいえまだ研究者そのものが少ないのだろう。
初日は9時半から開会式があった。正面の壇上にはこちらを向いて6人の偉そうな人が座っていた。やがて挨拶に立った人が学会の主催者の北京の王暁良老師で、 話の終わりの方になって突然私を見て私の名前が出てきたのでびっくりした。日本人という珍客だと言うことで紹介したと思ったが、実際珍客だったことはこの 学会に出ているうちにじわりと分かってきた。
開会式と引き続く参加者全員の写真撮影のあと、10時半から全員参加の大会が始まった。一人 25分、質問10分。PPT(パーポイント)によるスライドに英語が使われている講演以外は皆目分からない。英語で書いてあってもスライドが理解できるだけ で講演者の真意は「不明白」である。
午後1時になって私の番が 回ってきた。午前中の5番目である。「大家好」と言ったあとは英語になってしまったが、中国語が話せない不躾を詫びてから私たちの研究の話をした。途中の スライドで図が表示されなかったことが数枚あったけれど、話そのものはよく理解されたようである。話のあと、腫瘍とTnfの関係を鋭く突く質問や、「GM3でMMP-9が制御されると言うが、MMP-9の活性抑制タンパク質であるTIMP-1やTIMP-2も制御されているかどうか調べたか」という質問も出たからである。
大会初日の最初に発表する 機会を与えられたと言うことは、参加者全員にお披露目をしたことになって、そのあと大会中いろいろの人たちに話しかけられるきっかけが与えられたわけであ りがたいことだった。こちらは誰も認識できなくても先方は私と私の研究が分かるというわけである。
大会3日目の午前中は優秀青年論文発表だった。博士論文をここで発表させるというものらしい。全部で14題あったなかの11題は北京大学あるいは北京の中国医科科学研究所・薬物研究所からのものだった。あとは、武漢、重慶、合肥からで、北京地域の圧倒的な力量を見せつけられた。内容も、質量分析機を駆使し、FACSを使い、タンパク質のいろいろの部分を欠失させた遺伝子を作成し、と言う具合に現代科学の粋を集めた研究を進めていて、世界の研究レベルと変わらない。
この学会は生化学的分子生物学的薬学という狭い分野だが、世界的レベルの研究が北京に集中して行われていることは、研究費が一極に集中していることの現れであろう。このレベルの研 究は瀋陽では全く見られないと言っていい。だから北京から来た人たちから見れば、瀋陽から来てそれなりの発表をした私たちはパンダを見るみたいに珍しい存在に見えたのではなかったかという気がする。
なお、青年発表者の14人のうち11人が女性だった。私たちの薬科大学の女性の比率とほぼ同じである。薬学の若い女性優位はここでも目立った。若い彼らとも知り合いになった。また来年会おうねと約束して3日間の会議が終わった。
2007/09/25 08:27
ウルムチで買い物 その一
このウルムチは、シルク ロードの通り道で歴史は古い。トルファンから北回りにタクラマカン砂漠を迂回する天山北路をとるとき、天山山脈を北に超えてすぐのところに位置する街であ る。それでウルムチはシルクロードの街と思っていたが、街の中心には高層ビルが建ち並び、普通の近代都市だった。
街は南北に細長く、空港は北にあり私たちの滞在したホテルは空港から町に中心のちょうど半ばくらいに位置している。それで街まで出かけるのはタクシーに10 km以上乗ることになる。
学会初日の午後、私たちの目指したのは街の中心のやや南にある国際大バザールだった。研究室の新疆ウイグル自治区から来ている王麗が「先生たち、ぜひ行きなさい。きっと先生たち大好きになる小っちゃなものをいっぱい売っているから。」と勧めてくれた。
ウルムチは漢族に次いでウ イグル族が多く、このほかにカザフ族、モンゴル族、ロシア族、タタール族、満族、回族などの少数民族が多数住んでいる。元々は漢族よりもウイグル族が多 く、その彼らの街の中心が「二道橋」で、木製の太鼓橋が以前は解放路と天池路が交差するところにあった。すでに清代にこの付近が新疆を経由する貿易の一大 市場となっていたという。
この保存された「二道橋」 と道を挟んで建つのが国際大バザールで、小売商の大規模店舗である。イスラム調の丸い頭の尖塔数本で建物が飾られている。中に入る前からこの一帯は、様々 な顔の人たち、様々な衣装の人たちであふれていて、近寄るのもこわい感じだった。中にはいると上野のアメヤ横町と同じ感じで小さな店が両側にぎっしり続 く。1号店の一角は装飾品、小さなバッグ、スカーフ、毛皮など店の内外におびただしい商品を並べ、頭をスカーフで包み、目が青く鼻の高い女性がそれぞれ店 の入り口に陣取っている。はじめはこちらも落ち着かなく見て見ぬふりして歩いているので彼らも声を掛けてこないが、いったんこちらが商品に興味を示したと 見るや寄ってきて姦しく売りつけ始める。
試しに小さなバッグの値段を聞く。60元。高いよ。たちまち40元になるけれど、断って歩き始める。すると、同業者であり競争者でもある道の先の店の女の子たちが 次々と私たちを呼び込み、何とか買わせようとする。このバッグはキラキラした布にピーズで刺繍のあるちゃちと言えばちゃちだけれど、ともかくバッグであ る。次の店の売り子は35元から初めて、30元にするから買えとしつこい。これも目の茶色い色白の、日本なら白人で通る若い女性である。
とうとうその数軒先の店で、妻はバッグを25元にして貰って買っていた。このときはお供の陳陽くんが間に入っていろいろと交渉をしたわけである。彼は私たちが決してだまされてはいけないと思い決めていて、必死に私たちを守るつもりでいる。
これには理由があって、この国際大バザールに来る前に寄った新疆ウイグル自治区博物館で私は大きな買い物をしてしまったのだ。しかも陳陽の許しを得ないで。
新疆ウイグル自治区博物館 はその二階に楼蘭美女のミイラが置かれているので名高いところだ。私たちはボランティアの日本語を話すガイドに案内をして貰ったが、最後にこのガイドは壺 などの工芸品を置いてある部屋に私たちを連れて行って、これは国の大事な財宝だが気に入ればおわけしますという。「冗談じゃない、こんな国宝級の什器を私 が買えるはずがない」と断ったが、瑪瑙製の急須を見せて「これなど6000元の値を付けているのですがお客様、お土産にどうですか」という。
「とんでもない、6000元なんてこちらの給料以上のことができるわけないよ」、と言うと、「気に入ったのならいくらの値を付けますか」という。「こちらの値を聞くとそちらが怒り出すから言わないよ」と言っても「いえ、いくらなら買えますか。決して怒ったりしませんから、 言ってみて下さい。できるかどうかは上司と相談して返事しますから。」という。
それで、私はここで止めておけば良かったのだが、以前岫岩玉の産地の加工所の売り場で、妻の貞子が瑪瑙製の急須を1600元という値段を1200元で買ったのを見ている。その時よりも玉の感じが遙かにいい。じゃ1000元と言ってみよう、とつい口にしてしまった。
つまり私はその博物館で玉を1000元で買ってしまったのである。その時陳陽はそばにいなかった。私が1000元の買い物をしたと聞いて陳陽は血相を変えて玉を包んでいる相手の係員に詰め寄って、そして私をも相手にしてこの話をこわそうとした。陳陽にしてみれば,老師がむざむざとだまされて1000元も騙し取られるのが我慢できるはずもない。
陳陽の顔を立ててこの話を いっさい破棄することもできたと思うが、私の決断は、「買う」だった。そういうものだ。最初は買う気がなくて、話に乗せられたにしても、買う気になったの なら、私にとっては買うのが正しいことなのだ。しかしこれ以来陳陽はすべて自分で交渉をしようと決めて、私たちの先頭に立って歩くことになったわけだ
2007/09/27 08:39
ウルムチで買い物 その二
学会の初日に訪ねた国際大 バザールでアーモンドを買った。この一部は西安で訪ねる予定の張敏老師へのおみやげである。彼女の日本育ちのお嬢さんに日本のものを持って行こうと思って うちを出る前に探したが、カレールーや煎餅以外にめぼしい土産になるものがない。せめてウルムチで土地の名産を仕入れようと思ったのである。
バザールのビルとビルの間 はアーケードとなっていて、そこに果物売りが沢山店を出していた。生の果物では大きな黄色のザクロが目を引いた。王麗が黄色い皮のは美味しいから是非食べ てきなさいと言っていたっけ。赤い皮のザクロはあまり甘くないと言うことだった。ラグビーボールの二 倍 くらいありそうなハミグワは、それを切ってその場で客に立ち食いで売っていた。きっと美味しいだろうけれど、旅先で腹をこわしたら困る。羊肉も店の外にコ ンロを出して盛大に煙を上げつつ焼いて串に刺したシシカバブを売っている。瀋陽と同じ1串1元だけれど刺さっている肉のかたまりが大分大きい。これも魅力 あるけれど、ホテルに帰れば歓迎の晩餐会だと思って遠慮してしまった。
羊の肉は中国に来て初めの頃は一切食べるのを敬遠していた。私の記憶には羊肉、マトンは臭いものというイメージが定着していた。若い頃は札幌に行けばサッポロビール園に出掛けてジンギスカンをむさぼり食ったものだが、 ほかの機会に羊肉を食べたいと思ったことはない。たれに漬けて焼いて、しかもビールで酔わないとあの臭みは食べられない。
しかし中国に来て、日本語 教師の加藤さんに誘われて皇寺廟に出掛けた時、強引に誘われた。この加藤さんは蚕蛹の煮たのが実に美味しいという人だから私はあまり彼の味覚を信用してい ないが、おそるおそる食べたシシカバブは美味しかった。その後、蘇氏拉麺でサイドオーダーできるシシカバブが気に入った。この頃は蘇氏拉麺に出掛けるたび に注文している。
毎年秋の2か月間、薬学の 講義に来ている貴志先生に日本の羊肉は臭いのにどうして中国の羊肉は臭くないのでしょう?と訊いた。日本の羊はオーストラリアから来るし、中国のは西域か ら来るので食べ物による脂肪酸の組成の違いでしょうということだった。食物の中の植物油の違いが動物の脂肪酸の組成に反映することはあり得るし、羊の遺伝 子が二つの国で異なっていて脂肪酸の代謝酵素の能力の違いもあるかもしれない。
この質問を聞いていた陳陽 はこのウルムチで地元の人に訊いてきた。それによると、この地方では羊を殺して肉を取る前に3日間塩水を飲ませるのだという。羊が自発的に塩水を飲むの か、無理矢理飲ませるのか、あるいは塩水を飲まされれば殺されるという言い伝えが羊社会に広まっていないのか興味あるところだが、真偽のほどは分からな い。
臭みの原因は脂肪酸組成だ ろうという第一の説を支持するのは、人は加齢により脂肪酸が分解して出来たノネナールが増えるため老人臭を出すようになるためだと言う説である。ある種の 脂肪酸が臭みの原因で、日本で食べる羊には中国の羊よりもそれが多いという説明ならば、ありそうな気がする。しかし後者の、この脂肪酸の組成が塩水を飲む ことで短期間に変わるというのは,理解しにくい。
さて、この干し果実売りの店ではブドウ、トマト、様々な乾燥果実を売っている。ブドウに至っては10種類くらいある。値段が1 kgあたり10元から80元くらいに亘っている。あとで分かったが、安いのは緑色に染めたもの、昨年のもの、あるいは干しぶどうを作る時にブドウそのものが痛みかけのもの、なのだそうだ。良いのになるとブドウの質が揃っていて傷みが少ない。さらに味が良くなると最上の値段になっていくらしい。
私たちはここでは干しぶどうを買わなかったが、あとでトルファンに出掛けた時、ぶどう園で干しぶどうを買った。1 kgで言い値が25元という下から3番目(高いのは80元だった)のを研究室への土産として買った。これを研究室に帰って来て皆に出したら、王麗が「なにい、これ。1 kg10元だよね。」という。こちらは25元で買ってきたのにずいぶん低く見積もられたものだ。もう一人のやはり新疆出身の暁艶に「いくらだと思う?」と訊くとやはり彼女も「これなら1 kg10元ですね」という。つまりトルファンでは高く売りつけられたということなのだろう。このとき一緒に45元で買った干しぶどうは500gを西安の友人へのお土産にした。
私たちはアーモンドというと、いわゆるナッツで、熱を加えたアーモンドしか知らないが、プラムくらいの大きさの果実の種で、アーモンドは薄い種子の殻の中に収まっている。この周りの果実を取って煎って、あとは殻を壊せば中のアーモンドが直ぐに食べられるようになって売 られている。昨年春節のとき故郷に帰った暁艶の土産として初めて知った味である。そのあと瀋陽のスーパーでも見つけたので買ったけれど、味が全然違って美味しくなかった。だからもちろん私たちはこれを見つけて喜んだ。1 kgあたり80元と言っていたのが陳陽の交渉で60元になり、1.5 kgを90元で買った。500gを 西安の友人に上げて、残りは瀋陽に戻ってから3等分して、一部は、暁艶に上げた。故郷の味の本物のアーモンドを貰って暁艶が飛び上がって喜んだのは言うま でもない。彼女は私たちのパンや果物が絶えないように何時も気を配って補給してくれる女子学生なので、これは私たちのささやかな感謝の印である。
2007/09/29 07:10
西遊記のトルファン
学会二日目は石河子大学で 開かれた。私の理解したところでは、この石河子はウルムチから3時間離れた砂漠の中の街で、兵士が多数動員されて砂漠の中の街造りに貢献し、石河子大学も 彼らが建設した感動物語なのだという。私の目から見ると漢族の少ない新疆ウイグル自治区に漢族を送り込み、漢族支配を作り上げるための拠点作りをしたとし か映らないから、行くのは遠慮してこの日はトルファン見物に宛てた。
トルファン(吐魯蕃)は、蘭州から発したシルクロードが嘉裕関、敦煌を経てトルファンにたどり着き、ここで天山北路と天山南路に分かれる起点となる街である。私たちは旅行会社に申し込んで一人240元を払い込んだ。
出掛ける朝は8時半出発で朝食は8時からだった。広い中国がすべて北京統一時間を使っているので、ウルムチでは北京のだいたい2時間遅れくらいになる。ウルムチの昼食は午後2時から、夕食は午後8時からと言う具合である。
やがてホテルの前に来たバスは31人乗りの小さなバスで、すでに顔見知りになった先生たちが結構いる。同じツアーに参加した学会参加者は私たち3人を入れて13人だった。ウルムチを出る前に別の場所に立ち寄ると、どやどやと人々が乗ってきてバスは満席となった。
このあとトルファンに向けてひたすら東南に走ったが、大型バスで1泊旅行に出掛けた教師会の時とは、全く乗り心地が違っていた。つまり、私は中国の旅行では 教 師会の旅行のバスしか経験がない。こんなにひどいバスが走っているとは想像もしていなかった。ショックアブソーバーがへたっていて、下からごつごつ突き上 げが来る。そういえば、タクシーもウルムチにいる間8回乗ったが、乗り心地がまともな車だったのはただの1回だったっけ。
南に向かってウルムチの街を出るとたちまち周囲は砂礫の砂漠である。遠くの山は緑のない土か岩の山の連続だ。その山を超えてはるか東の遠くには雪を抱いた高山が聳えている。やはり天山山脈だろうか。
1時間も走ると前面に山が迫り、車は山を登ることもなく畳畳と重なる岩山の間を縫って走るうちに、やがて道は下りとなった。天山山脈を降りて南の平坦な砂礫の砂漠に出たわけで、これを走り続けてトルファンに着いた。これが12時でウルムチの街を出て2時間半である。
車はさらに東に向かって走 り、火焔山に向かった。西の方の砂漠には放棄された日干し煉瓦作りの平屋が立ち並んでいる。三峡ダム工事ですみかを追われた何百万という人たちが広い中国 のあちこちに新しいすみかを得たが、これもその一つだったらしい。しかしあまりに過酷な環境で、次々と離れる人が出て、今はほとんどすべて空き家になって しまったという。三峡ダムは数多い難民を生み出してしまったようだ。
やがて左側の山の壁が迫っ てきてこれが火焔山だという。山に刻まれた浸食のあとが深く、これが日中の高温で陽炎となって揺れれば火焔の燃えるような感じになるのだろう。バスは道を 左手に折れて火焔山観察所に着いた。入り口から続く地下道の両側には、壁画が描かれている。行く手をさえぎる火焔に孫悟空は、牛魔王に化けて女仙人・鉄扇 公主から芭蕉扇を騙し取ろうとしたがばれてしまい、その夫牛魔王と激しく戦うことになった。孫悟空はやっと彼らを退治して得た芭蕉扇で火焔を消したと言わ れている西遊記が壁画になっている。観察所の広場には如意棒を形取った土の温度が表示される世界最大の温度計というのが建っていた。地中温度は55度。気温は33度だった。
火焔山はこうやって離れて20分くらい眺めるだけだった。自分の自由になる車で来て火焔山を一周したり、851 メートルという高さまで登ったらまた別の印象が出て楽しいだろう。
この広大な砂漠の中でトルファンが栄えているのは元々地下水のわき出るオアシスだからで、天然にできていたオアシスを、天山山脈の水を地下に引き込み地下に 掘った地下導水路(カレーズ)によりトルファンに豊富な水を導くことで、さらに豊かな街にしたらしい。実際にカレーズの一部が観光用に加工されて公開されているのを見学した。
豊かな水を利用した産業がブドウ園で、葡萄溝という名で知られたブドウ園の一つに連れて行かれた。そこで私たちは客引き用の踊りを見せられ、スイカを振る舞われ、干しぶどうを買わされた。この干しぶどうを私たちは自発的に買ったけれど、買わない客はこの店で踊りを見た だけで一人10元払うよう強要されて、やむなくそれぞれに干しぶどうを買っていた。
3時過ぎにはこれほどまず いうどんは食べたことがないと言うほどひどい拉麺を食べ、4時にカレーズを見たあともう高昌古城跡を見に行く時間がないとガイドが言った。これに対して客 がそれぞれ「おかしな買い物店に連れて行ったじゃないか、それなのに時間がないとは何だ、」「朝ウルムチを出るのにぐずぐずして時間を1時間は損した。そ れなのになにをいうか。」 とそれぞれが口やかましく怒鳴っていた。しかし、風が強くなってきたから帰りの道が閉鎖されるかも知れないとガイドに言われて、客は負けた。確か昨年の春、強風で列車が転覆したのはこの一帯だ。それじゃ仕方ない。
帰り道には700基は並んでいるという風力発電の風車が沈む夕日の中で豪快に回っているのを眺めることができた。
ウルムチで買い物 その三
大会三日目の午前中は青年 論文の発表で、結構私たちは楽しんだ。午後はその審査会が行われると言うから失礼して、妻と私は再度国際大バザールに行くことにした。陳陽は朝からこの近 くの天地・天山観光旅行に私たちを置いて出掛けている。陳陽は私たちにバザールなどには決して行かないようにしつこく念を押した。しかし昼食後私たちは二 人で顔を見合わせて 「じゃ、行こう」と、特に話し合いをするまでもなく、バザールに出掛けた。
タクシーに乗ると、南に向 かわなくてはならないのに西に向かって走る。一度行っているから方向は頭に入っている。「違うじゃないか、南の方角だよ。」というと何やら言いながら(こ こでは南に曲がれないとか)今度は北に曲がる。冗談じゃないよ。「あんたの車に乗りたくないよ。こんなインチキな車には決して金を払わないよ。」とわめき 続けたら今度は東に向いた。つまりホテルが面している道の、しかもホテルよりもずっと北に近付いたわけだ。「この車止めろよ。私たちは降りるからね。」と 叫んで車を道ばたに着けさせ、私たちは車から降りた。走り去った車を見ながら、良くも無事に降りられたものだと、その時になって危なさを切り抜けた安堵感 がこみ上げてきた。
次のタクシーは問題なく私 たちを南の国際バザールに運んでくれた。二度目の今回は、沢山の見慣れない顔の人たちが蝟集する建物の周りに近づくと、何やら嬉しく、前回感じた怖さなど 全く感じない。小さな四角いウルムチ帽を頭に乗せた男たち。白い丸い帽子を頭に貼り付けた回教徒の人たち。頭をスカーフで包んだ女性。顔まですっぽりと隠 した女たち。見慣れない姿の誰を見ても、またここに来たと言う嬉しさが湧き出てくる。
バザールの建物に入って、金属のかご細工の宝石入れ、オルゴール、中が容れ物になった駱駝や亀の置物など、様々なものを見て、値段を聞いたりしながら歩いた。売り物も面白いし、売っている人も珍しい。
ウルムチ地方特有の小刀を 売っている店が沢山ある。以前、故郷に戻った暁艶のウルムチ土産に一つ貰っているので覗くだけで買わない。先が湾曲して飾りの多い小刀を今でもウイグル人 は身につけているようだ。彼らは喧嘩っ早いだけでなく、メンツが潰されたら直ぐに刀にものを言わせると聞いている。店でものの値段の交渉をするのはいい。 売る方が高いことを言うのは普通のことだから値切るのもいい。だが客がこの値段なら買うと言って売り子がその値で良いといった時、 もし買わなければ売り子のメンツを潰したことになり、その場でぐさりやられても仕方ないと脅かされている。
日本にいた頃は玉石という 玉がいったいどんなものか想像も付かなかったが、中国に4年も暮らした今は少しは見当が付くようになっている。名高い岫岩玉の産地だって見学に行ったし、 そこで道に落ちている玉の破片を山ほど拾って持ってきて毎日見ているのだ。ついここの玉にも興味がでて売り場を覗いて見た。
玉の売り場は充実してい る。タクラマカン砂漠の南に和田というところがあって、和田玉の産地として名高い。この和田玉は白玉で、その白く半透明の感触から羊脂玉とも呼ばれていて 大変高価である。一方、私が見たのでは区別の付かない白い玉も和田玉と呼ばれて、ピンから切りまでの様々な値段で売られている。訊くと安いのはパキ スタン産だというが見分けられない。
赤い色の混じった白の半透明の小判型の石が沢山あって、何にするのか訊くと、これで顔をなで ると皮膚のつやが良くなるといってやってみせる。確かにおじさんの顔は脂ぎっていて、玉もテカテカしているが、石の方が栄養を貰っている感じである。
ウルムチまで来た記念に手に入れようと思って、訊くと1つ10元だという。「高いよ。止めた。」といって店を離れると、私を呼び止めて8元にするという。「二 つ10元にしろよ。そしたら買うから。」というと、「とんでもない、15元だね。」と手を振る。じゃ、ということで去り掛けると「じゃ、しょうがない12 元にする。」というので、ま、良いかと思って石を二つ買った。するとさらに呼び止めて、店のなかからいろいろと出してくる。玉のブレスレットだ。おじさんも手首にはめている猫目石みたいな木の化石のブレスレットが気に入ったので、3ついくら?と訊いた。100元と言うのを60元なら買うよと言って、交渉が成立した。
別の売り場では、女性のペンダントを85元で売るという。首を振っていると別のデザインのペンダントを次々見せてくる。不要、 不用、ガールフレンドがいるわけではなし、要らないよ。でも何とか売りたいらしく、いくらなら買う?と訊いてくる。面倒くさい、並んでいる4つまとめて 85元なら買っても良いよというと、一瞬ためらって、次にはまとめてこちらに押して寄越した。「これだ。これで買わなきゃ、男が廃る。ここで買わなきゃ、 この女に腹を刺される」というわけで、どの娘への土産にしようかと思いつつ、買ってしまった。
こんな具合にこの混沌、雑然とした国際バザールで、玉のほかにピューター製のアラジンのランプ、羊の皮のチョッキなども買って200元一寸の消費を楽しんだ。実に楽しかった。楽しかったわけは、 小物を買ったからではなく、ここで買うという行為、つまり売り子との交渉が楽しかったのだ。鬼の居ぬ間の命の洗濯。陳陽がいないからこその楽しみだった。 ヘッヘッヘ。ご免ね、陳楊。
2007/10/03 14:28
ウルムチのパンダ その二
学会に出席するためにウルムチのホテルに着いた翌朝、いつものように5時半に目覚めるとカーテンの開けっ放しの窓から見える外はまだ真っ暗である。そうだ、 ウルムチは時間が遅れているのだ。朝ご飯は8時 半だしと思って寝直したが寝られず、テレビを点けると、前の日12日の日本の安倍首相の電撃的辞任劇を解説しているようだった。安部さんが何か話して、あ とはSPに囲まれて固い顔のまま足早に歩き去っていく姿が映り、そのあとは麻生、谷垣、町村、福田さんなどの顔が映った。後継者候補という解説なのだろ う。それにしても最悪の時に辞めたものだ。信じられない独りよがりな行動である。参院選挙のあとが辞め時であることが判断出来ずに、今になって辞めるとは 「バカとちゃうか」としか言いようがない。
さて、8時半になって食堂に行った。バイキングスタイルの朝食から、キャベツの炒めものや、おかゆと、おかゆに入れる総菜数種類を選んで、席について陳陽、および妻と食べていると、通りかかった男性が立ち止まってしげしげと私の顔を見た。
「失礼ですが」と紛れもない日本語で私に話しかけてきた。彼は優しい顔をした長身の30代後半の男性だが、しかし日本人には見えない。「山形先生ではありませ んか?」と彼の言葉は続いた。「はい。山形ですが。」と私は見覚えのない人に声を掛けられ、記憶を急いで探ってみるけれど、中国のこの学会で会いそうな知り合いはいない。
私の不審げな顔にもめげず 彼は続けた。「山形先生。私は三菱生命研にいた、、、」。あ、これで思い出した。かれは三菱生命研で以前私の研究室の研究員だった東博士(現在は東北薬科 大学の教授)がその後で独立したときにポスドクとなった陳さんである。日本の学会で会った時にもちろん紹介されているけれど、私の方が顔を覚えていなかっ たわけだ。
私たちは学会に出ると沢山の若い人たちに出会う。名刺を交換しても、時間が経つと顔の印象が薄れてきて、それが互いに入り交じって、もう誰に会ったのか覚えていない状態になる。若い人は年長の人の顔を簡単に覚えるが、逆は難しい。
今から10年以上前、北大の新進気鋭の西村先生の研究室に行った時、その研究室の若い女子学生が交換に呉れた名刺にどれも顔写真が印刷してあった。その時「これだ」と思った。若い人はすべからく自分の名刺に自分の顔写真を入れるべきだ。写真が入っていれば、忘れることはない。強い印象がそのまま定着する。特に学会では若い人は自分を売り込む必要がある。講演会場では質問をする。そのあとは講演者を掴まえて個人的に質問をする。その時、相手に渡すのに顔写真入りの名刺があれば言うことはない。
こちらだって、つまり学会の年寄りだって若い人に注目しているのだ。折々に若い人の発言に注目し、若い才能に目を付けている。若い人たちもこれに応えて、自分の名刺に自分の顔写真を載せると良いのではないか。
その北大の女子学生の名刺 以来、私は自分の名刺に自分の顔を載せ始めた。そして名刺を若い人に渡すたびに、「自分の顔が見好いわけじゃなくて、若い人に顔写真を付けるよう見本とし て載せている」と説明してきた。この頃では、「顔写真入りを作りましたよ」なんて言いつつ新しい名刺を呉れる若い人もいるが、こういう人は大抵もう知己と なって久しい人たちだ。
この陳さんとはかつてポスドクの陳さんという因縁だけではなかった。昨年度私たちの研究室 に短期だけれど滞在した最終学年の寧娜さんが今年の2月から卒業実験に行き、さらに引き続いて大学院に進学したのが、この北京の、中国科学院・協和医学院・薬物研究所の陳教授のところなのである。
北京の中国科学院・協和医学院には薬科大学の学生が結構進学している。上海あたりに行くと、 田舎の瀋陽から来た学生は大して期待もされずに、あてがわれた機械でひたすらデータ取りをやらされるだけだなんて言う悲しい話を聞いたことがある。しかし 寧 娜は、協和医学院の「陳老師の研究室では先ずきちんとガングリオシドの分析から始めるんです」とこの間夏休み前に会った時に言っていた。修士の学生として まともに扱われているらしい。陳教授だって日本の教育・研究を経験しているから学生の尊厳を尊重しながら教育するだろう。
寧娜は「協和 研 究所にいると、先生たちに申し訳なくて一杯です。」という。「どうして?」「だって、あっちには沢山の新しい研究機器が沢山あって最先端の実験が楽々出来 るのに、山形先生たちのところは何もなくって、だけど先生もみんなも頑張ってやっていて、申し訳ないです。」という。ま、そうかも知れないが、仕方のない 話だ。人をうらやんでいても仕方がない。人は人。私たちは現状で出来る限りの良い研究をするしかないのだ。北京で良い機器が揃っているなら、その分良い研 究をして下さいね、と願うだけである。
この陳教授に会ったのが きっかけで昼休みにはこの学会主催者の王暁良教授に紹介されたし、ほかの幹事らしい人たちにも会うことが出来た。北京が中心のこの学会に瀋陽からやってき た私たちはパンダみたいに珍しい存在らしいが、陳教授と少しはつながりがあることで存在が許されそうだ。彼は同じ領域の研究者だし、再会したことは学会参 加の大きな収穫だった。
2007/10/05 16:13
西安の陝西科技大学
9 月 16日は日曜日でその朝、ウルムチに別れを告げて西安に向かった。飛行機が飛び立って東南に向けて高度を上げていくと、私たちの座っていた右側の窓からは 遠くに雪を抱いた山、近くには岩山が見え、そして下にはトルファンに向かった時に通った砂礫の砂漠が拡がっている。見渡す限り茫漠たる灼熱の砂漠という 感じである。しかし左を見ると飛行機とほぼ同じ高さに鋭い稜線に氷雪を載せた高山が窓越しに見える。これはボゴダ山脈らしい。ウルムチに来る時はこの山脈 の北側を飛び、私たちからは反対側の窓越しにしか見えなかった山脈である。今度は山脈の南側を飛び、私たちの窓からは反対なのでよく見ることが出来ない。 反対側の席に移りたくても飛行機は満席だった。
ウルムチから西安まで飛行機で約1時間半の旅だった。西安に近づくにつれ砂漠は山々に変わったが、この山々も雪をかぶっていて人々が暮らしているようには見えなかった。広大な中国といえども人々が暮らせる土地は限られているみたいだ。
西安咸陽国際空港は新しい 空港で、陝西科技大学の友人張敏老師が出迎えてくれた。西安は昔の長安都の東のごく一部にあたる。咸陽は秦の始皇帝が都を築こうとしたところで、西安の西 北に位置する。空港は、この咸陽と西安の間にあって、いずれこの両都市を経済的に結びつけ一つの経済圏として発展することを予感さ せる。
西安および咸陽では現在地下鉄が3本建設中なのだそうだ。しかし、掘るたびに何かしら遺跡が出てきて、そのたびに工事は中断されて 調査が行われるので、ちっとも進まないと言うことだ。何しろ、長安は西周、前漢、新、晋、前趙、前秦、後秦、西魏、北周、隋、唐の諸王朝の都となったのだから、遺跡だらけというのはもっともなことだ。
日本が中国と初めて公式に国交を結んだのは聖徳太子の時で、その時は長安を都とした隋王朝 が中国の統一政権だった。初の遣隋使として小野妹子が持って行った国書に「日出るところの天子、書を日没するところの天子にいたす、つつがなきや。」と書 いてあったのはよく知られている。随の皇帝はさぞ激怒しただろう。東夷として歯牙にも掛けなかった国から朝貢に来て、中華の自分たちに向かって対等の立場 で国書が書かれていたのだから。日本の天子への返書にはかなり過激な怒りが書いてあったのではないか。小野妹子は皇帝の返書を無くしたと言って日本の朝廷 に届けなかったと読んだ覚えがある。届けられるものではなかったに違いない。朝廷もそのことは分かっていたみたいで、国書を失った小野妹子はお咎めなしで 二度目の遣隋使になっている。なお、平安時代の三筆の一人として名高い小野道風は小野妹子の孫だという。
この隋は中国の東北地方を占めて い た高句麗を三度も攻めて成功せず、敗退してしまった。このころの高句麗は広大な勢力を誇っていて、瀋陽を含む今の東北地方は高句麗の勢力下だった。しか し、今の中国はそれを認めず、この一帯は元来漢族が支配していたような歴史を教えていると韓国の先生から聞いたことがある。
ともかく隋王 朝支配下の中国では戦費と租税の高騰にたまりかねた農民一揆が始まり、やがて第二代皇帝の煬帝は江都に逃げた。隋の衛尉少卿を勤めていた李淵は自分が育て 上げた政府軍に「義兵を挙げて、帝室を匡(ただ)す」という檄文を発して長安を無血占領した。そして、隋の煬帝の孫の楊侑を傀儡皇帝にしたが、煬帝が 618年江都で望郷の念に駆られた部下に殺されると、李淵は皇帝となり国号を唐とした。
煬帝の「煬」は、「天に逆らい、民を虐げる」の意味の諡(おくりな)で、いかにひどい皇帝であったかと思わせるが、律令制を完備したり大運河を掘ったり、気宇壮大な人物だったと思える。歴史は勝者によっ て 書かれるから、煬帝は実際以上に悪者に描かれているだろう。李淵のあとを継いだ太宗李世民は李淵の次男で、元々は太子に長男が指定されていた。歴史による と、長男より評判の良い李世民に太子が嫉妬してこれを除こうとしたので、李世民は玄武門で待ち伏せしてこれを殺し、太子となってやがて第二代皇帝になっ たという。この長男の評判だって李世民の一派があとで書いたわけだから、皇帝になりたい李世民が兄を殺してあとで理由付けをしたのかも知れない。
西安は今や商業、交易、観光、科学技術と教育で近代的大都市へと発展しているという。西安には約50の大学、500の研究機関があり、大学の数では全国で2 番目を誇るのだそうだ。明代の城壁で囲まれた西安の中では発展しようもないので、ほとんどの大学は城壁の南に発展して造られたが、今では大学は西安城の北 側地区に続々と建てられているという。空港から西安城壁まで車で約1時間掛かるが、陝西科技大学はその中間にあった。
大学は広大な空間に 大 きな敷地面積を占めている。隣に陝西工業大学、陝西医科大学があって将来一大学園都市を形作るのだろう。陝西科技大学は学生数2万人。張敏老師は化学与工 業学院の副院長で、日本から中国に戻ったのが3年前で、任命された2年前からともかくべらぼうに忙しいらしい。彼女の研究室にはいわゆるteacher と呼ばれる大学院生ながらも講義を担当するスタッフが1名いるだけで、助教授も助手もいないそうである。西安城の南側にある自宅に戻ると1時間以上掛かるので、大学の中に一部屋を借りて自宅に帰らないことも多いという。副院長を務めながら講義もあるわけで、今まで講義をしながら3回ぶっ倒れたことがあると いう話だった。その忙しい中に私たちが割り込んできたわけだ。
2007/10/09 08:33
西安碑林博物館 その一
私たちは陝西科技大学のキャンパスの中の招待所(訪問者のための宿泊施設)に案内された。薬科大学の招待所よりも遙かに綺麗なのは新しく建ったためだろう。 私たちの入った部屋はウルムチで泊まった三つ星ホテル並の部屋の広さで綺麗である。陳陽は廊下を挟んで反対側に同じ広さの部屋を貰った。張敏老師は、「疲 れたでしょうから1時間くらい休んでから、西安に出掛けましょ。」と私たちを休ませてくれた。
南の窓からは広い校庭が見渡せる。テニス コートが手前に7面、バスケットコートが15面、バドミントンコート8面も取ってある。その向こうには6階建ての円形の建物があって図書館だそうだ。この あと西安に行く時にキャンパスを案内して貰ったが、この運動場の東には大きな観客席を備えたアンツーカの400メートルトラックとサッカー場があった。十 数階建てのビルが後方に数棟建築中で、教授棟だそうだ。瀋陽薬科大学よりも大分お金があるように見える。
案内で乗せて貰った車は大学の車 で、若い運転手の賀俊平さんは大学の職員である。つまり私たちはこの大学に講義の招かれた賓客として扱われている。日本語が自由になる教授は張敏老師しか いないので、日本人が来る度に彼女が駆り出されるという話だった。ただし私たちは彼女に講義に呼ばれたのだし、忙しいにもかかわらず案内して呉れるのは私 の友人だからに違いない。
車はこの大学地区を過ぎて 西安を取り巻く環状線のうち環二の南向き路線に入った。一路ただ真っ直ぐ道は南に向かう。普通の道なのに、途中に信号はない。まだ出来たばかりだからだろ うか。あっと思うと、片側3車線の道の分離帯寄りの正面から逆走してくる車がある。肝が縮み上がった。
やがて背の高いビルが林立して、右側に西安城の城壁が見えてきた。このあたりは城外の商業地域として発展している場所なのだろう。車は城壁に沿って今度は西に向かい、南門から場内に入って直ぐ、西安碑林博物館と書いてある閑静な一帯に到着した。
張敏老師は「私の日本語では中国の昔の歴史が説明できないから案内人を雇いましょ。」と言って入り口を入って直ぐの事務所に入っていった。私たちは入ってきた門、反対側の門、そして南側の塀には門のあるべき位置に巨大な石壁があるのを眺めて待っていた。
やがて張敏老師は小柄な女性を連れて来て「日本語を話せる案内人が出払っていて中国語になってしまいましたよ。うまく日本語に出来ないかも知れないけど許し て下さいね。私の娘なら出来るんだけれどね。」と言うことだった。歴史の用語は中国語で知っていても対応する日本語を知らなければなかなか難しい。孔子 だって中国語ならコンズだから、コウシという日本語読みを知らなければ、全く話は通じないことになる。案内人の説明に依れば、あるべきはずの南側の開かず の門は、孔子のために造られた門で、孔子は既にいないから開ける必要はなく、従って門はないのだという。私たちの入った門は礼門。そして対面にある門は儀門という名前なのだそうだ。
いよいよ奥に向かう前にまた門があって、正面の門は「先生みたいな学問が大成した人。両側の脇門は私たちみた いな途上の人の門。」と張敏老師は笑いながら妻と一緒に左側の門に向かった。私は「まあいいだろう、また来ることもないし」と思って真ん中の門を入った。 すると陳陽が左に方に行ったのに戻ってきて真ん中をくぐった。「罰が当たるよ。」と言いたいところだが冗談では済まなくなると面倒なので言うのは控えた。 すくなくとも、これで彼の学問が終わりなら、彼の将来は悲惨である。
ここは元々は孔子廟で唐代には翰林院という大学だったという。つい、 孔子がここに来たことがあるのでしょうかと訊いてしまった。答えは没有。孔子が尊ばれるようになってから造られた学問所である。その孔子廟に北宋の時代 (1087年)に、唐の開成年間に彫られた「十三経」という石碑を保存したのが始まりで、それ以降石碑、石刻が次々と蓄えられてきて、石を林に見立てて碑 林博物館と呼ぶようになったそうだ。今でも石碑は増え続けている。中国全土にはほかにも碑林博物館があと三つあるということだ。
書を石に刻むという発想が凄い。石に刻むことでほぼ永久に保存できる。さらに拓本を採ってそれを配布することが出来る。印刷技術のない時にはもっとも確実なコピー 機の性能を持っていたわけで、これを思いついたのも凄いことだ。私もこの頃では篆刻のまねごともするので、石に字を刻むことがいかに大変な労力と技術を要 求するかを理解している。あとで美しい書を見ながら、その字の通りにこうやって石に刻んだ人も凄いと思う。でも石工については全く伝わっていない。
突き当たりの碑亭には唐の玄宗皇帝直筆の書が大きな石碑となっている。あの楊貴妃を寵姫とし、あの白居易の長恨歌に歌われた玄宗皇帝である。凄く馴染みな気がする。高校の頃には日本語の書き下し文を暗記して、今でも「
眸を迴らして一笑すれば 百媚生じ 六宮の粉黛 顔色無し 温泉の水滑らかにして 凝脂を洗う」
というところは覚えている。そうか、女性の肌は凝脂なのかと、それからは女性の肌を見る機会に恵まれると、凝脂かどうか鑑定をする眼になったものだ。その先の
「春宵短きを苦しみ 日高くして起く 此れより君主 早朝せず」
うーむ、なるほど、なるほど。私も覚えがある。
この玄宗皇帝の書いた内容は解説を聞いたがよく分からなかった。あとで調べると孝経に関する解説で、「身体髪膚これを父母に受く」という私たちがよく知って いる語句もあるそうだ。字は一寸気取った筆遣いの端麗な隷書で、友人が実は達筆なのを知ったような感じで、わけもなく嬉しかった。
2007/10/11 15:01
西安碑林博物館 その二
碑林博物館の4つの展示室と室外に納められた石碑の総数は二千点以上だと言うことだ。第1室には春秋左氏伝、孝経、詩経、易経などがずらりと並んでいた。四 書五経を暗記することが学問だった時代にオリジナルの必須の教科書として、この石碑が原典となって拓本が広く使われたに違いない。すくなくともこれらを暗 記していなければ科挙に合格しなかったわけだ。思わず背筋が寒くなる。今の日本に生まれて良かった。
第2室には顔真卿の楷書で書かれた顔 氏家廟があった。顔真卿の楷書は馴染みである。集字聖教序碑の碑文は唐の太宗皇帝の序文で、玄奘三蔵法師の功績を賞賛したものだ。太宗皇帝が勅命を出して 碑文の文字は民間に散在する王義之の原拓を収集し、その原拓から文章に必要な文字を24年掛けて一字一字選んで集めたという。だから集王羲之書と書いて あった。凄い熱意である。楷書だと言うが一寸行書的な字である。
唐広智三蔵碑は唐代の徐浩の筆により楷書で書かれている。インド僧である 不空三蔵が長安の大興善寺で真言密教を伝授し、サンスクリット経典127巻を唐語に訳し、中国の宗恵果は不空三蔵について密教を学び、これを日本の空海に 伝授したと書いてあるそうだ。三国三大法師の関係が書かれているわけだ。
第3室には同じく顔真卿の楷書で書かれた郭氏家廟碑があった。入 り口には篆書千字文碑があった。篆刻を時々することがあるので篆書も少しは馴染みになったが、この文は全く読めない。これが篆書の原典らしい。さらに部屋 の真ん中には漢の185 年に作られ、1600年頃、陜西省の村より出土した曹全碑があった。これは隷書だった。これは曹全という管理の功績・功労を後の人が書いた顕彰碑というものだという。大した事をした人らしい、私なんか書いてくれたとしてもホンの二三行であろう。
ちなみに今は碑の右側の卑には田の上にノがあ る、これは帽子を表しているそうである。碑の右側の卑は男の象形文字から来ていて奴隷を表している。奴隷だから帽子をかぶることは好くないと言うことで、 昔はノのない碑を使ったそうである。この碑林は軒並みノなしの碑という字を使っている。
孔子廟堂碑は唐時代の虞世南の楷書で端麗な筆遣いである。顔勤礼碑は顔真卿による楷書で唐・大暦14年(779)に書かれた。出土したのは1922年、西安社会路だという。このような石碑はまだまだ中国全土から見つかるだろう。
第4室の集字魁星点斗図というのは鬼と斗(頭)という字を一筆で書いたもので、字の中に「克己復礼 正心修身」という文章が隠されていると説明された。清時代の馬徳昭という人の筆になるという。一筆で書くために字が掠れてくるので飛白体と呼ばれているそうだ。
第4室には宋の東坡の帰去来辞詩もあった。達筆な草書でほとんど読めない。私たちにも馴染みの深い文人の蘇東坡は、いまは東坡肉として食卓に出てくる料理として身近である。
関帝詩竹図というのがあった。隷書だそうだが、字は竹の葉の形をしている。関羽が曹操のもとにいるとき、劉備に自分の忠誠心を伝えるため書いた漢詩を清代(康煕55年)に石に刻んだものと言うことだった。
「不謝東君意 青独立名 莫嫌孤葉淡 終久不凋零」
「東君(曹操)の好意に感謝はしないが 歴史に名を残したい 自分の力は一枚の葉っぱのように弱いが 永遠に枯れることはない」という大意だそうだ。(この関 帝詩竹図の説明はhttp://homepage1.nifty.com/flat-brat/trv_xian.htm による)
「寧 静致遠」 という字があった。康煕帝36年(1697年)玄華(火編である)の大きく端麗な楷書で、静かに心を落ち着かせれば、遠く、つまり未来が見えるという意味 だそうだ。張敏老師によると「一番好きな言葉です」ということだった。なるほど、良い言葉である。私も気に入った。この筆致は雄渾でいい。
1909 年ハルピン駅で朝鮮総督府初代長官・伊藤博文が韓国の安重根に暗殺された。この安重根が暗殺決行1ヶ月前に「澹泊明志 寧静致遠」と書いたそうだ。安重根 は日本にとっては伊藤博文の暗殺者だが、韓国人にとっては“救国烈士”として韓国人が熱狂して賛美する偉大な人物である。「寧静致遠」と書いて未来を見越 した安重根による伊藤博文暗殺は朝鮮併合の流れを変えなかったが、人々の魂に火を点けた。
石刻展示室には陜西省に散在した数多くの石刻が 集められていた。唐の太宗皇帝が乗用した軍馬をモデルとして彫刻した昭陵六駿がここに置かれていた。六駿は太宗・李世民が唐王朝を樹立するため、実際に隋 の軍隊と戦った時の乗馬だ。この六駿のうち「挙毛駿」と「颯露紫」という馬の石刻はアメリカに持って行かれてしまい、その写真を元にして復刻したという石 刻が置いてあった。一枚岩で復刻しているから見事な馬である。
なお2004年10月西安市内から日本人遣唐留学生の墓誌が発見されたとい う。姓は井、字は真成で、あとで分かったところによると阿倍仲麻呂と一緒に遣唐使に付随しては派遣された留学生で、長安に着いた19才の時から死去する 36才まで勉学に明け暮れた生活だったらしい。阿倍仲麻呂みたいに公職には就いていなかったと思われている。716年死去し、葬儀に際し皇帝がこれを惜し んで「尚衣奉御」という官職を贈ったという。中国で発見された最初の日本人の墓誌ということだった。しかし日本ではこの井真成は誰であるか同定されていな いと言う。何となく落ち着かない気分にさせられた。
2007/10/13 08:40
大雁塔の夜景を見る
西安碑林博物館を2時間掛けて観たら夕方だった。私たちは静かで落ち着いた瀟洒なレストランに案内されて張敏老師から晩ご飯のご馳走になった。食事のあと私 たちは連れだって西安城の南の城外にある大雁塔を見に行った。時間的には塔の見学は終わっていたけれど、大雁塔の北側に大きな公園が整備されていて、張敏 老師がその夜景が一見の価値があると言って勧めたのだった。
大雁塔は通称で、お寺の名前は大慈恩寺である。説明によると唐代の皇帝高 宗が亡くなった母親を偲んで西暦648年に建立した寺である。629 年に長安を出発し、16年後の 645 年にインドから多くの経典・仏像を持ち帰った玄奘(三蔵法師)は、この大慈恩寺で仏教の経典600部余りを翻訳した。慈恩寺境内に建つ大雁塔はこの翻訳し た仏教経典を、納めるために西暦652年に建立されたという。この時の翻訳が今も日本で使われている仏教経典の大元となった訳だ。
大雁塔は最初5層の塔として建立され、則天武后(中国では武則天と呼ばれる)の時代に10層に積み重ね上げられたが、その後戦火に遭って7層となったという。
大雁塔がライトを浴びて美しく輝いているのが、遠くからも広大な公園の植木越しによく見える。北側の公園のメインは噴水の池で、定時になると音楽に合わせて 噴水が噴き出して踊るのだという。私たちは右側の公園通路を歩いていった。照明はぼんぼり風で、一つ一つに様々な人の大慈恩寺大雁塔に詣でた時の詩、文章 が書いてある。
さらに歩いていくと、道の敷石の上に水を使って書を書いている人がいる。瀋陽の公園でも時々見かけるが、この人の場合 には長い柄の筆の先がタンポンみたいになっていて、そこに水を含ませ敷石に書を書いている。水だからすぐに乾いて消えてしまうが、またいくらでも書くこと ができる。
この人が書いているのは篆書だった。のぞき込むと、「何処から来た?」と聞く。「日本人だよ。」と答えると「日本人なら書 を書いたらどうだい。」と言って私に筆を差し出した。こんな長い柄の筆は持ったことがないし、もちろん人前で書を披露する腕前ではない。だけど、ここでう じうじ言って引っ込みたくない。それに今は夜である。恥をかいても目立たない。じゃ日本を代表して書いてみようじゃないか。
長い柄の筆を受け取り、持ち方を聞いて三本の指で言われたようにつまんだ。さあ、何を書こうか。短い句が良い。そこで思いついて張敏老師に聞いた。「碑林博物館で見た字で、老師の好きだと言っておられた四文字は何でしたっけ?」
「遼 寧の寧、静か、致すの致、そして遠いの遠。」と教えて貰ってから「楷書ですよ。」とおじさんには断って、書き始めた。縦書きである。驚いた、意外にうまく 書ける。自分でも初めて道に字を書いているとは思えない気がする、私の前の人生は中国でこうやって大道に書を書いて遊んでいたのではないだろうか。
終わると書のおじさんを始め拍手があって、筆を返すとおじさんは私の書いた字の横に、「今度は篆書ね。」と言いつつ、笑顔ですいすいと「寧静致遠」と私には 読めない篆書で書いた。少なくともそうだろうと推察できた。綺麗な整った書体である。教科書を見ないで何の字でも書けるのだ。感心しつつ、かつ書かせて 貰ったことに感謝を込めて握手をして、妻の撮る写真に一緒に収まった。
陳陽が、「先生、字がうまいですね。」なんてお世辞を言っている。 実際たいていの中国人学生よりも私の方がまだ字が綺麗だと思う。これには訳がある。中国人はなにかを書いて記録しようと思うとともかく漢字を書かないとな らない訳で、私たちが大急ぎで字を書くと本人にしか分からない字を書くように、彼らの字はのたくっていて乱れている。書かせてみるとこのミミズの字を書く のだ。
今や大雁塔は左手にあり、見上げると一番近い距離にある。やがて塔の南側まで廻るうちに小雨が降り始めた。一緒に来ていた運転手の賀俊平さんが車から傘を取ってきて呉れた。私たちは傘を差しながら池を取り巻く人垣に近づいて、あと10分で始まる噴水ダンスを待った。
9時になった。広場に「青きドナウ」の音楽が流れると同時に噴水が曲に合わせて高く、低く、噴き出した。大きな浅いプールを私たちは囲んでこの水の踊りに見 入った。雨の中、この噴水の池の中に走り込んでいく若者が何人もいる。ノズルから噴水が飛び出すたびに曲に合わせて踊りながらそのノズルを踏むのだ。ずぶ ぬれになるのが楽しい若者たち。昔はこういうことが私にもあったっけ。次の曲の「郭公ワルツ」が続いたが、私たちは帰る時間になった。
このあと車 は西安城壁に沿って城壁のライトアップを眺めながら走って、約50分掛かって大学に戻った。大雁塔の近くに自宅があると聞いていたけれど、今夜の張敏老師 は大学に泊まるからと言うことで一緒だった。せっかくの日曜日も私たちのために使ってしまい、ますます仕事が溜まってしまったのだろう。翌朝7時に会う約 束をして別れた。
2007/10/15 18:06
法門寺訪問とそのあと
翌朝7時に出会った張敏老師の眼は腫れていた。昨夜私たちを遅く大学に連れ帰ったあと、昼間出来なかった仕事をしたに違いない。学生食堂に案内された私たち は朝のおかゆを食べたあと、張敏老師と同じ学部の女性に紹介された。張敏老師の代わりにこの王老師が私たちを法門寺に案内してくれるという。車は昨日と同 じ賀俊平さんの運転である。
目的地の法門寺は西安の西方にある。乾陵(唐の3代目の高宗と、その妻でのちに女帝になった武則天の墓)にも 行けると良いけれど、4時までに戻って来る必要があり、それは私の講義は7時に予定されているからということだった。糖質科学・糖鎖生物学の入門から始め て、私たちの研究であるがんの転移の機構・シグナル伝達までを話すことになっている。
なぜ法門寺に行くかというと、そこの本物の仏陀の指の骨があると昔の文献に書いてあったのが、20年前の発掘でその舎利が出てきて本当だったことが確認されたという劇的な物語があるからである。
西安から高速道路で咸陽・宝鳩に向かう。西安から約100 kmで、その間平らな漢中平原の風景が拡がった。途中に数個の小山が直線上に並んでいるのが見えた。これがおそらく漢の諸帝の陵墓だろう。高速道路の周りの作物はほとんどがトウモロコシだ。
2時間近く走って法門寺に着いた。入り口から遠くに見える十三層の塔まで門前市となっていて、歩いて通り抜ける間に、おもちゃ、アクセサリー、そして線香売 りにつきまとわれた。お寺の境内に入ったところで、それまで我慢していたがどうにも便意が耐えられなくなってしまった。皆に少し待って貰って、外回りの廊 下の壁にある説明に聞き入る。この法門寺は後漢時代(2世紀半ば)に建てられた。それはインドの阿育王が仏舎利(釈迦の骨)を8万4千個に分けて世界中に 贈り、中国にはそのうち19個来たらしい。そのうちの一つの受け取り先がこの法門寺で、仏舎利を納めて塔が建てられた。はじめ阿育王寺と呼ばれたが唐の高 祖が法門寺と名付け、唐の皇帝のお寺(皇寺)として位置づけられて大いに栄えたという。非常に古い寺だが、当時代の末期にはすっかり寂れてしまったらし い。
この塔は明代の1519年に再建された。1953年に塔の写真が撮られてそれが残っているが、1981年に塔の半分が崩壊した。それ ですべてを壊して発掘してみると、塔の建てられていた地下から1113年唐代に建設された地下宮が出てきた。この中に八重宝函に納められた舎利が出てき て、史実が裏付けられた。それで1988年に十三層の塔と寺が唐代風の装いで再建された。
再建された塔の基礎部分が地下宮になっていて、 見つかった磁器、宝物があった。一部は元のままにしてあるという基礎には地下宮から発掘時に見つかった2万7千枚の「開元通宝」の一部が置いてあった。こ れは日本でも最初の通貨として使われた貨幣であり、貴重な通貨がこれだけ大量に塔の基礎に置いてあったということは、この仏舎利を納めたこの塔がいかに尊 ばれていたかを如実に示していよう。
舎利は4つ見つかったが2本は玉で造ったもの、3本目が本物で約4センチの指の骨で、4本目は唐時代の高僧の指の骨だということだった。仏舎利は金の社殿に納められていた。
地下宮で説明を聞いているうちに、線香の匂いがやけに鼻に滲みてまたお腹がおかしくなった。これはやばい、という感じである。トイレに駆け込み、それからは お腹と背の痛みを耐えるだけだった。それで申し訳ないけれどすべての予定を変更して、昼食も抜きで西安の大学に戻った。
大学の診療所に連れて行かれたけれど、そこの所長は点滴と痛み止めはできるが、それ以上のことになると責任は負えぬと言うことになったらしい。ずっと付きっきりの張敏老師と王老師は相談の上、西安城に近い大きな病院に私は移された。
あとで分かったけれど、西安を目指して20分くらい車で走ったところにある長安病院の救急だった。熱があり、血圧が上がり、ちょうど胃の後ろが痛い。典型的な急性膵炎という診断だった。急性膵炎は前にも患っている。疲労と、油分の多い外食が影響したらしい。張敏老師は「先生の今夜の講義は取り消しましょうね。」と言ってくれた。残念だし、申し訳ないけれど、取り消すしかなかった。
月曜日から火曜日に掛けてが最悪だったけれど、的確な治療と 看護で回復に向かい、木曜日には退院して西安から飛行機に乗り瀋陽に戻った。というわけで今回の9日間旅のうち半分は西安にいて張敏老師のお世話になっ た。特に後半の4日間私たちは病院にいて、彼女の的確な判断と行き届いた配慮の下に私は十全の看護を受けたのだった。
前に書いたように、 張敏老師とはお互いその前から知っていたけれど、会ったのは2002年の蘭州の学会の時だけである。つまり一度会ったことがあるだけなのに、行き届いたも てなしと十分な看護を受けたのだった。全く感謝の言葉もない。張敏老師には「私たち日本で沢山の人たちから一杯親切にして貰っているから、これはほんの一 寸の恩返しなんですよ。気になさらないで下さい。」と言われてしまった。「それに先生たちお二人は、私の両親くらいですよね。私は日本にずっといて両親の 面倒を見ていなかったし、中国に戻ってきて実家から西安に来て貰っても、ここでは居心地が悪いみたいで故郷に帰ってしまったんですよ。だから、先生たち見 ていると私の親みたいにも思えるし。」
実際、私たちには老師と同じ年頃の娘がいるけれど、こういう時こんな具合にここまではしてくれま い。妻と二人でそう思う。張敏老師は実の娘以上に面倒を見てくれた。彼女は副院長としての激務があるにもかかわらず5日間私たちのために多くの時間を割い て始終見に来て看護に心を配ってくれた。老師には、ただただ感謝あるのみである。
2007/10/18 14:35
恥ずかしい日本人!
瀋陽では地下鉄の2路線が昨年から同時着工で工事されている。来年の北京オリンピックのときに、瀋陽ではサッカーの予選が行われることになっていて、渾河の 南に立派な競技場がオープンしている。このサッカー場の横を地下鉄が通るけれど、来年夏には間に合わず、2010年の開通だという話だ。
それで、もちろん市内の主要交通機関はバスである。700万人の大都会だが主要な部分は東京で言うと山手線の内側の面積くらいではないだろうか。1元出してバスに乗れば、遠くても行きたいところに大体30-40分もあれば行き着く。そしてこのバスは市民によく利用されていて、どの路線も空いていると言うこと はない。
バスに乗ると大抵は座席が塞がっているが、それでも妻には直ぐ座っている人から声が掛かって、席が譲られる。おおむねそのような 人たちは学生で、女子が多いか男子が多いかどちらとも言えないが、多くは学生から席が譲られる。もちろん学生ではなく立派なおじさんやおばさんからも席が 譲られる。私が席を譲られることは少ないけれど、これは妻の頭が白髪なので目立つのに対し、わたしは努めて良い姿勢をしているためだろう。
日本で電車に乗る時は住んでいるところが郊外だからたいていは優先席に座ることが多い。それ以外は立っていても当然と思っていたので、日本初の次のニュースを読むまで問題に気づかなかった。
2007年10月18日0時0分配信 産経新聞による『阪急が「優先座席」を復活 “譲り合いの精神”挫折』という見出しである。この見出しを見ても最初は何のことか分からなかった。
内容は『「全席が優先座席」という考え方で電車内から優先座席を撤廃していた阪急電鉄(本社・大阪)は17日、8年半ぶりに全車両で復活させると発表した。 どの席でも譲り合う思いやりの精神が定着しなかったためという。“性善説”に期待した同社の理想は、車内モラルの低下という現実を前に挫折した形となっ た。
29日の始発電車から、関連会社の能勢電鉄と神戸電鉄を含めて実施。各車両8〜10人分を優先席として、ステッカーや車内放送で知らせる。
阪急は11年4月、全席を優先座席と考えるべきだという理想を掲げ、優先席撤廃に踏み切った。だが、現実には席を譲らない雰囲気が広まり、同社には高齢者を 中心に復活を求める意見が毎年10件余り寄せられた。今年6月の株主総会で同様の要望があったことを機に、復活を決めたという。』
つまり、優先席と決められた席では、年寄り病弱者が座れるようそこにはやむなく近づかないが、書かれていなければ席を譲る気もないというのが実情なのだろう。弱いものへのいたわりのない社会は、悲しい。
電車に乗るたびに思っていたことがある。私が子供の頃、母は決して私たちを席に座らせなかった。「子供は元気なんだから立っていて当然。」といって自分は座 り、周りから非難がましい目で見られると「うちの子供たちは若くて元気なのだから座らずに立っているように言って育てています。」と凛として言っていた。 だから私は電車の席には私よりも年取った人、疲れた人が座るものだと思って育った。私は幾つになっても、今でも、該当する人が電車に乗ってくれば、席から 立って譲っている。
しかし、一般には子供連れのお母さんは電車の席が空いていると先ず子供を座らせる。行楽帰りでいかにも疲れた風情のお 母さんが赤ん坊を抱いて立ったまま、幼稚園くらいの子供を座らせている。こうやって育てば、子供は席を見れば自分が座るものだと思うようになる。成長した からと言って考えは変わらないだろう。先ず自分が座るのは物心付いて以来の特権なのだから。
日本の人は中国人を公共心がないといって非難する。確かに電車の改札口、乗り場では列を作らず、早い者勝ちに押しかけて争う。並ぶことに慣らされている日本人はこれを見て眉をひそめる、「あれだから、やーね。」
しかし、中国では年寄りにバスの席を譲るのが当たり前の風景である。物質的には遙かに豊かな日本では見られないことだ。
「教えられているからよ。」と日本人は言いそうである。教えられて出来るなら、日本でも「年寄りと弱者には席を譲ろう。」と教育しよう。いや、長年言ってきて いるはずだ。それが定着していないのだ。中国では教えられなくても、年寄りをいたわろうという気持ちを持っているのではないかと思うが、百歩譲って教育の 効果としよう。人から言われても、年寄り、弱者をいたわろうとしない日本の国民性は、どのように言いつくろってみても恥ずかしいことである。
2007/10/20 08:14
西安の飛天女
病院暮らし3日目の夕方、張敏老師のお嬢さんが病室を老師と一緒に訪ねてきた。この9月工業大学に入ったばかりの夢祺さんだ。色白で夢見るような瞳を持つ小 柄な可愛い女性である。彼女は5歳の時日本に行き、12年間日本に暮らした。日本で日本人と一緒に幼稚園に行き、そのあと日本人の小・中学校を出て高校1 年生の夏まで通ってから、母親と一緒に中国に戻って高校1年生に入った。
12年間日本にいて日本語で勉強していたので中国語を知らず、西 安の高校に入った最初の1年の前半はほとんど何も分からないため、涙を流しながら、それでも必死に教科書を読んで勉強をした。だから「その頃のことは勉強 ばかりしていたこと、泣いてばかりいたというつらい記憶しかないです」と、今ではにこりと微笑みながら言っていた。
お母さんの張敏老師に よると、それでも1年生の後半には何とか先生の話にも付いていけるようになった。それでも中国の学業は半端ではない。両国の教育を経験した人は誰でも知っ ているが、中国の方が勉強の程度は高いし、進度は速い。彼女にとって見れば、中国語も歴史も勉強も知らないことだらけで、「ともかく教科書と本を読みま くって勉強した」そうである。「勿論家庭教師について、中国語の勉強もさせたんですよ。でも、私が勉強しなさいという必要は全然なかったですよ。元々勉強 するのが好きだし、第一本を読むのが好きなんです。」と張敏老師が端から続ける。
「日本から中国に戻ってくるときも、衣服なんていらないけれど本だけは持って帰る
とこの娘は言って、段ボールにこの娘の読む本を、そりゃもう沢山送ったのですよ。確かにね、着るものはどこだって買えるけれど、好きな本は手元に置いとかなきゃね。」
「そしてこの娘はね、本があれば満足しているんですよ。学校の勉強が追いつくようになるとまた日本の本や、そして中国の本を読みふけって、だからうちの家事な んか全くできないんですよ。私もさせようとしなかったし。だから、今も食事も家事も何もできないんですよ。」と本好きの、そして勉強好きの娘のことを、半分自慢しながら、半分けなしている。
その夢祺さんも、今やうちを出て親の手を離れて、大学の寮生活を始めているのだ。大学まで荷物を持っていって別れるときは夢祺さんは大いに泣いたという。老師も泣いたろう。日本で、そして中国でともに苦労を重ね励まし合ってきた娘が独り立ちするのだ。
話を聞いて、昔の私を思い出した。小学校の3年の時、私たち小学生は太平洋戦争の戦禍を避けるために学童の集団疎開で松本温泉に行ったのだった。半月ぐらい 経ってから、私に会いに東京から汽車に乗って来た母がいよいよ帰ると言う時間が来たとき、泣けば母がこのまま居てくれると信じて母の膝にすがりついて声の 限りに泣いた。私はこの大学で別れるときに夢祺さんが泣いたと聞いて、この何十年も前の悲しみをまざまざと思い出した。
「沢山のお土産を ありがとうございました。日本で育ったので日本のものが懐かしくて、とっても嬉しいんですよ。」と夢祺さんはにっこりして言ってくれた。煎餅、カレールー とクラッカーに、あとはウルムチで買ったものしか土産がなかった。「カレーは大好きだし、ご飯のふりかけなんかがあれば、それだけでご飯を食べちゃうんですよ。」と張敏老師。瀋陽に戻ったら探して賞味期限が迫ったものでも良いから、カレールーを送ろうかな。
「割合よく読む日本の本では、吉 本ばなな、川上弘美、梨木香歩さんなんかの感覚が私には合うので好きです。」私たちは「?」である。そのような近頃の作家は知らない。彼女は「書評で読ん だだけなんですけれど、ノーベル文学賞を貰ったウイリアム・ゴールディングの『蠅の王』をご存じですか?」私たち二人は顔を見合わせて「いえ。」「これは 無人島に漂着する子供たちの物語で『十五少年漂流記』みたいですけれど、無人島という極限状態におかれて、秩序から無秩序になっていく悲劇で、人の持つ内面の恐ろしさが描かれているという話です。」
『蠅の王』は知らなかったけれど、私たちは二人とも本の虫みたいに読書が大好きである。それ で 大抵のジャンルの本に目を通している。今まで読んだ本で、あるいは手元にある本で、このお嬢さんに合いそうな本は何だろう。翻訳ものだけれどケン・フォ レットの「大聖堂」は大河小説だ。気に入って何度も読み返していて、瀋陽にも持ってきている。日本のうちにも置いてあるから、瀋陽に戻ったら送ってあげよ う。
十代の時に読んで感銘を受けた本は、外国ものではアナトール・フランス、ジイド、ヘッセ、トーマス・マン、レールモントフ、ロマン・ ロラン、古い作家ではリルケ、ハイネ、ゲーテ、ゾラ、フロベール、モーパッサン、スタンダール、バルザック、ツルゲーネフ、トルストイ、ドストエフス キー、など挙げていけば切りがない。私が育ち盛りに読んだ日本の作家では島崎藤村、夏目漱石、芥川龍之介、いろいろあるが古いだろう。現代の作家では、村 上龍や村上春樹はどうだろう。対照的な二人だが、現代の日本を代表しているらしい。でもこの頃の私は、ストーリーが面白くなくては読まなくなったから、私の小説感動度は、若い彼女の感受性とは大分かけ離れてしまっているかも知れない。
西安で言葉に表しつくせないほどお世話になった張敏老師 に、それと見合う恩返しはとてもできそうにないが、せめてお嬢さんに彼女の喜ぶ本を送り、そしてそれが彼女の精神的成長に役立つならもう言うことはない感 じである。二つの国をよく知っている彼女は、両国の将来の関係にかけがえのない人に育つだろうと信じている。キャンセルしてしまった講義の約束を果たしに又何時か西安に戻ってこよう。この夢祺さんに再開するという楽しみも出来たことだし。
2007/10/23 09:32
瀋陽三重県交流会 その一
中国に来てからの知人の中に天津に進出した盛本さんがいる。以前の彼は武田製薬研究所の研究員だったという話である。いま薬科大学の客員教授で年に2か月瀋陽に来て講義をされる貴志先生はもともと武田薬品の大物で、その関係で2年前に一度瀋陽で紹介されたことがある。
盛本さんは天津で医薬事業の展開をしていて、去る8月初め私に電話があった。「10月半ばに、三重県の県庁、製薬企業、大学から『瀋陽三重県交流会』という名前で30人くらいの視察団体が瀋陽を訪れます。その時、大学で教えている立場から『中国の学生の特徴と日本向け人材の現状、および期待と課題/日本人が心すべき中国人材との応対など』などを話して貰えませんか。」という内容だった。
話す人として一番ぴったりなのは、薬科大学の学生に日本 語を教えている日本人の先生方である。ところが間の悪いことに、4年滞在した峰村さん、3年滞在した南本さん、および加藤さんという3人の日本人の日本語 の先生たちが揃ってこの7月に辞めて日本に帰ってしまったところだった。
3人の誰かが残っていれば彼らに振った話だけれど、9月に到着した3人の新任日本語教師ではこの話は持って行けない。これは私がやるしかないか、と思った。でも、何が話せるだろう。
私は専門の研究の話をするのに慣れているけれど、そのときは精緻な自分の実験データに基づいて専門家相手にする話である。専門外の人たちに一般的な話をした ことがない。そのためには特殊な能力が必要で、私たち研究だけやってきた人間にはその持ち合わせがない。すくなくとも、私にはない。
もちろん4年間、中国の瀋陽で、しかも中国人の学生相手に暮らしてきたのだ。彼らについて話すことはいくらでもある。今までにここの生活で感じたことを書いてきたホームページの中から二三個の挿話を拾い集めるだけで、話の材料はいくらでもある。
でも、研究者の悲しさでデータに基づかない話は自信を持って話せない。科学の世界で引用する話は厳密な検証を経て客観的に正しいと認めたものだけを使ってい る。別の言い方をすれば、人から聞いた話、本や教科書で読んだだけの話をそのまま自分の話に入れて話すことは出来ないのだ。
ついでに書くと、この大学には学生に対して教官の数が足りないので、教科書を読んで教えるだけのTeacherというポジションがある。ここは研究経験の全くない大学 出たての人が「ヴォートの生化学」を学生の前で読むだけで学生の教育が出来ると思っている大学なのだ。信じられないことである。
教授は自分の研究を背景に、そしてその研究の過程で自分で勉強した知識を元に講義をするから教授なのだろう。だから講義は一人一人が違っているし、その教授しか話せない話なので意味があり、面白いのだ。そのような常識は日本のものであり、ここでは通用しない。
大学院の入試が国家統一基準で行われるので、受験者は教科書を覚えることが必要とされている。学生に教科書の内容をどうやって覚えさせるかが大事で、教授が 個性を出すことはここでは要求されていない。それにしてもだ、教科書なんて学生が自分で読めばいいのだ。そのための教科書ではないか。教科書には載ってい ない話をして、学問の理解を助け、あるいは自分のこの学問への興味を話して彼らの興味をかき立てるのが教授の役目ではないか。
ともかく三重県からの訪問団を相手に私が話すなら資料が必要なので、データ調べを始めた。そして話は
1.中国のクスリ事業に目を付けるのはとても良いことです
2.中でも瀋陽に目を付けたのは慧眼ですね
3.特に中国人学生を人材と考えると素晴らしいですよ
というように構成することにした。
幸い、つい数日前の10月12日にYahooを見ていて良いニュースが眼に止まった。
「10月の国家統計局の発表によると、瀋陽市は地域経済の中核として大きな発展を遂げ、都市別GDPランキングで、2005年は18位だったが、2006年は 11位と大きなジャンプアップを果たした。」というのだ。2003年「東北地区振興計画」の制定が大いに効いたわけだ。このように躍進した時期に瀋陽を訪 れるなんて何とタイミングが良いことだろう!
2007/10/25 08:33
瀋陽三重県交流会 その二
10月22日に話す内容は以下のようにしようと考えた。
「1.中国のクスリ事業に目を付けるのはとても良いことです」
現 在世界の製薬事業は6,430億ドルの売り上げがあり、アメリカがこの45%、日本が9.9%を占めている。中国は現在わずか2%である。しかし、もし中 国の経済が順調に発展すれば、人口比を考えるといずれ日本の10倍の金をクスリに使うことになる。単純計算で6400億ドルとなり、これは現在の世界の製 薬事業に匹敵する。中国を相手に製薬事業を考えるのは、金鉱の上にいるようなものである。もちろん誰でも掘れるわけではないけれど。
「2.中でも瀋陽に目を付けたのは慧眼ですね」
瀋 陽を中心とする東北三省は日本語人材供給の宝庫である。東北三省で毎年5750人の日本語を勉強する大学生が育っている。瀋陽には東北育才外国語学校のように高校のレベルで十全な日本語教育を施して日本の大学に送り出すシステムもある。このほかに日本語学校が無数にある。日本語を話せて、しかも英語も使える専門教育を受けた優秀な学生がここには沢山いるのだ。
瀋陽薬科大学という名前は日本では聞いたことがないかも知れない。実際に中国100大学選には入っていない。しかし、MedlineあるいはPubMedに引用される研究論文数で比較すると、香港と台湾を除いて16位である。この 論文数は大学の規模によるわけだから、一人一人の活動度を計算して比較してみると(教授の数や学生数などの、分母の取り方で多少の変動はあるが)、中国全 土で6-9位という順位になる。日本で言えば東京工業大学の順位と同じである。素晴らしい地位といってよい。
「3.特に中国人学生を人材と考えると素晴らしいですよ」
こ の大学で見ていると学生はよく勉強する。日本の普通の大学の学生で、何をしに大学に来たのか分からない学生たちを見ていると、ここは教授の天国である。どうしてここの学生はよく勉強をするのだろう。これは、一つには学費が高くて農村出身では13年分の所得を使わないと一人の子供を大学にやれないと統計にも でていることから、当然頷ける。親兄弟の苦労と犠牲を無駄にしてはいけないから、彼らは一生懸命勉強して在学中は奨学金を取ることを目指し、大学院には推 薦(学費免除)で入ることを目指し、良い会社に入って良い給料を取ることで、親兄弟・親戚への恩返しをするわけだ。
中国は人が多くて、おとなしく黙っていては下積みになる競争社会である。ひとかどの人になるには勉強しかない。子供の時から親にせかされて、彼らは勉強の習慣が身に付いている。日本で親が子供に勉強するように叱ると金属バットで殴り殺されるのと大違いである。
こうやって勉強に明け暮れた彼らを待っているのは、洋々たる明るい未来の中国なのだ。実は、有限の資源と環境に置かれた地球丸に私たちは乗っている。今のま まだと世の中の資源は枯渇し、炭酸ガスが増えて地球人類の将来は危なくなるが、彼らはそんなことは思っても見ない。その意味でいうと視野は狭いけれど、希 望に燃えて勉学に励む学生と、「ぼくの将来知れたもの」と怠けている日本の学生と比べたら、どちらの将来性が高いだろう。
瀋陽はこのよう に良いことづくめの人材の宝庫なのだ。というような話を31枚のスライドにまとめて10月22日黎明ホテルに集った視察団を前に講演した。評判は良かった と思う。一緒に食事をしたあとも視察団の一部は薬科大学にも視察に来られたのでさらに歓談できたし、三重大学、製薬企業、県庁から来られた多くの方々と知 り合うことが出来たことは大きな収穫だった。
その日の夜になって、インターネットを見ると「中国の教育制度は科挙のまま?」という記事が あった(2007年10月22日サーチナ・中国情報局)。http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2007& amp;d=1022&f=column_1022_008.shtml
『中国では教育が唯一の出口として、全ての人々が懸命に なる。西洋人の進学がまるで広い道路の上にあるなら、中国人の進学はまるで丸太橋のようである。私はいくつかの原因があると思う。(一部省略)現代社会で は、都市と農村の格差が拡がり過ぎている。農村人が一度、大学に入れば、生活の質は数倍向上し、農村人から都市人に変身でき、社会の低層から中層に上がる ことが出来る。ゆえに、わずかにでも知能が高く、また理想を持つ農村の子供は、背水の陣の心情で試験を受ける。彼らの心中は、合格すれば天国で、不合格な ら地獄だ。』
この記事を補えば、こうやって大学に合格した学生は一生懸命に勉強して卒業し、農民から都市人へと変身を果たすのだ。この必死さが学生の勉強熱心の大きな原動力だろう。
ひるがえって今の日本はどうか。製造業が日本を出て行った。人材育成も日本を離れて中国で行われている。日本人は大学で遊んで暮らして何も身に付いていない。英語もしゃべれず、そして給料だけは高く要求する。アメリカの企業が人を雇おうと思えば、英語、中国語、日本語も出来て、日本人よりも安く雇える中国人を雇うに決まっている。人が市場競争力を失った日本の将来はどうなるのだろう。
2007/10/27 08:41
就職希望の曹くん
旅行中の西安の病院で私が 少し良くなった頃、病院で言葉が困るでしょうと言って張敏老師が付けてくれた付き添いの曹峰岩くんは、陝西科技大学応用化学科4年生で、就職希望である。 希望の会社は高分子合成の会社だが、英語による面接試験があるという。それで張敏老師からは、英語の練習になるように英語でいろい ろと話をしてみてくれと頼まれた。どちらにしろお互い共通語は英語しかないから、英語を使うしかないわけだけれど。
でも話してみると、英語で話して磨きを掛けると言うのは無理で、まだ基礎的な力がないことが分かる。ということは英語でいろいろと話しても役には立たない。急遽方針を変えて、 面 接対策に話を絞った。面接試験では、「大学でどんなことをやってきたのか、どんな科目が好きだったか、学科以外にどのような活動をしてきたか。大学の専門 はどういう理由で選んだのか。」などが先ず訊かれるだろう。話しているうちにその人の性格が出てくるから、それで試験官は彼を志願者の中で見比べるわけ だ。
実際に「大学でどんなことを勉強したのか、何の科目が好きだったか。」訊いてみた。すると彼が言うには、「本当は高分子化学は好きではありません」「どうして?」「だって、実験は下手だし、やっていても面白くありません。」という。
「それじゃ、何が好きなの?」というと「本を読むのが好きです。歴史も文学も大好きです。科学的な空想小説を読むのも好きですし。化学の実験は好きではないで すが、科学の一般的な話、発見物語や、科学者の伝記を読むのも大好きです。音楽を聴くのも大好きです。」という。実験が下手なことを除けば、まるで私みたいだ。
「化学の実験が好きではないのに、どうして高分子化学を選んだの?」と訊くと、「父がこの領域は将来性があると言って勧めたのです。」と言う。「お父さんは何をやっているのですか?」と聞くと公務員だという。
ともかく面接では、高分子化学の会社を受けるのだから、「化学が得意ではないとか実験が下手だとか、negativeなことを言っては駄目だよ。」「嘘をつ いてはいけないけれど、何もすべてに亘って真実を言うことはないのだから。」そして、「応募者は誰も似たようなことを答えるのだから、貴君が他の人とどう 違っているかを売り込んでそれを印象づけなくてはいけない。」と教えた。「つまり、こんなふうにしたらどうだろう。」
「私は公務員をやっている父が、この高分子化学の将来性を見越して私に熱心にこの道に進むように勧めました。実際に経験してみて、私は実験がそんなにうまくありません。高分 子化学が一番好きというわけでもありません。しかし、私が自信を持って言えることは、私は高分子化学だけを知っている訳ではないと言うことです。私は化学 以外にも数学が好きですし、いろいろの分野の本を読むのが好きです。歴史も文学も大好きです。生命科学の本を読むのも好きです。科学の一般的な話、発見物 語や、科学者の伝記を読むのも大好きです。音楽を聴くのも大好きです。
つまり私の頭脳は柔軟で、いろいろの角度からものを考えることが出 来るようになっています。これからいろいろと研究をする時に、多方面の知識を基礎として柔軟な思考、飛躍した思考が出来ることは、とても大事ではないで しょうか。硬直した思考では、突発的な危機を乗り越えられないでしょう。でも私はそれが出来ると確信しています。」と言えば、自分に正直に、しかも自分の特徴を長所として売り込める。
「次に面接試験では『どういう理由で貴君はこの会社を選んだか?』と聞くでしょう、何と答える?」と訊くと 宋くんの口からはごく当たり前の会社讃美が返ってきた。「いい業績を上げている良い会社だから」なんて言われても、応募者からのお世辞は当たり前すぎて何の役にも立つまい。人が言わないことを言わなきゃ、自分を選んで貰えない。
「会社が成長したのには何か理由があるはずでしょ。会社の広告、パンフレット、資料を調べてご覧なさい。会社の業績が伸びた理由が何処かに隠されているはずです。たとえば、ポリエチレンペレットの生産で業界一位だ としましょう。この領域に真っ先に目を付けたからとか、研究開発部門が頑張って優れた生産技術を開発したからとか、何かあるはずです。」
「優れた生産技術を開発したというなら、『貴社の開発した優れた生産技術で会社はここまで伸びてきています。この先も業界のトップでいるためにはさらに新しい技術を開発が必要で、私はそこのところに貢献したいし、出来ると思います。』というのはどうでしょう。」
「この領域に真っ先に目を付けたというなら、『先見性のおかげで会社は見事に発展してきました。さらに会社を大きくするのにいずれ次の手を打つ必要があるで しょう。私はそこのところで会社の新しい方向性に貢献したいと心から思っています。私の今までの幅広い興味はきっと役に立ちます。』と言えるのではないでしょうか。」
「以上の質問は応募者の誰にも訊く質問でしょう。だから英語で何度も考えて、すらすらと話せるように練習しておきなさい。質問にも変異がつけられるでしょうから、別の質問も想定して考えなさい。
さらに、このほかにも例え ば「中国の工業生産が伸びるに従って環境汚染が問題になってきているが、貴君はこの経済成長と環境問題をどう考えるか?」とか、「生まれる子供の男女比に 差があって、十年後には結婚適齢期の男性の数は女性に比べて3千万人余分になると言われている。貴君はこの問題をどう思うか。」 というような時事問題を訊かれる可能性があると思った方がいいですね。
すくなくとも日本なら必ず訊かれるから、世界の、そして中国の時事問題、社会問題をいろいろと考えて英語で議論できるようにして置きなさいね。」と言う具合に、私たちは2時間余、彼の就職試験対策をしたのだった。
2007/10/30 09:20
夢みるアキコさん
瀋陽日本人教師の会の若い女性の先生の一人が「夢みるアキコさん」と呼ばれていることを最近知った。先日、教師の会の定例会のあといつものように食事会をしている時に、一寸離れたところで交わされている会話が耳に入った。
「そんなこと言ったって、アコちゃんの言うことなんか信じられないんだから。この間だってキュウリのビールがあるなんて平気で言っている人なんだもの。」と遠方の女性の先生にこき下ろされている。
「キュウリのビールだって?」と思わず声が出てしまった。キュウリのビール漬けなら聞いたことがあるけれど、キュウリのビールは聞いたことがない。するとアキコ さんが言うには、「この間ね、北行に行った時にね、キュウリのビールを飲んだんですよ。」北行というのは瀋陽の中心から北西の方角にある繁華街だが、私た ちのいるところからは一寸あるので滅多に行くことはない。
「店の地ビールに二種類あって黄色と緑があるって言うから、黄色はともかく緑なんて珍しいでしょ。それで緑って何なの?と訊いたらキュウリで出来ているんですって。だから飲んでみたんですよ。」
キュウリの水っぽい香りが鼻の奥にかすめた、ビールとは合いそうもない気がするが、「それでどうだったの?」「いえ、キュウリの味はしなかったんですけどね。緑色のビールだったんですよ。」
「そんなものがあるはずがない。」というのが彼女の友達の意見である。アコちゃんは夢と現実がごっちゃになっていることがあるから、「きっと夢に見た話なのよ。」
話の真偽は分からないが、ビールを造るには穀物の澱粉を糖化した上で発酵させるから、澱粉というほどのものも殆どなさそうなキュウリを材料にするのではビー ルを造るのは大変な手間と金がかかるだろう。緑色だって、ほうれん草ならジュースにすれば青々と色濃く仕上がるが、キュウリでは薄緑色がせいぜいではない だろうか。キュウリで緑色にするには、キュウリを大分使って相当青臭くなるだろう。
「あんまりみんなに言われるものだから、私もひょっとして夢に見たのかと思ってしまうんですよ。」と「夢みるアキコさん」は私の斜め前でにっこり笑って言い出した。「こういうことが始まったのは、私がまだ子供だった時なんです。」
「私には姉が二人いたので、何時もおやつは3人で分けるという習慣が付いていたんですよ。」よく分かる、私には姉がいて子供の頃は、何時もおやつは二等分だった。戦後のひどい時期の話だから、おやつがあったとしての話だが。
「ある時、母が上の二人を連れて出掛ける用事があって、私はまだ小っちゃかったから私にキャラメルを一箱おいて、『アコちゃん今日はこれを全部食べて良いわ。』と言って出掛けたんです。」一人になって、キャラメルを全部食べようとしたんですけど、それでもやはりいつものように姉たちに残しておこうと思って、二粒だけ残しておいたんですよ。」
ところが、帰ってきた姉たちにキャラメルを残して置いたと言ったら凄く怒ったそうだ。「キャラメル一粒をどうやって二人で分けるの!」「つまり二つ残したはずなのに一つしか残っていないんです。おかしい、ちゃんと残しておいたはずなのに。」
姉たちにキャラメルを好意で残しておいたのにさんざん怒られたアコちゃんは、その夜よく寝られなかったらしい。うつらうつらしていたアコちゃんの見たものは、真っ暗闇に上から一条のライトが照らされて、そこに浮かび上がったのは二足走行のネズミたちだった。手と足を揃えて歩くやっこ歩きで進んでいる。列の最後のネズミが両手で頭の上にかざしていたのはキャラメルだった。ディズニーの「白雪姫と七人のこびと」のマーチに合わせてネズミたちが嬉しそうに向こうに歩いていくのを、手を出しちゃいけないと思ってじっと我慢して見送ったという。
「これが私の覚えている「妄想」の最初なんですよ。それからも始終こういうことがあって、何時もそれは現実ではないと言われたからきっと私の夢想だったんでしょうね。」
そりゃ凄い、と言うのが私の反応である。「妄想」であり、「夢想」かも知れないけれど、こういう荒唐無稽なことが頭の中にすらすら生まれると言うことは実は 小説家の才能ではないだろうか。小説家は空想の大家なのだ。作られた物語の細部までつじつまが合わなければいけないけれど、普通の人が思いも寄らない話を でっち上げる能力のある人が小説家になれるのであり、私はそれを何時も羨ましく思っているのだ。
子供の頃は本が大好きで、小学校の教科書 に出てきたスイミーという魚の話を繰り返し読んでいるうちに覚えてしまった。授業開始に遅れた罰として立たされた時に教科書なしで暗唱をして、驚いた先生 が最後まで続けさせたというアキコさんである。夢想の中に実は小説家の原型ができあがって来ていることに、周りも本人も気づいていないのだろうか。「夢み るアキコさん」が嶽本野ばらの「下妻物語」をしのぐ作品で何時かデビューする日を私は夢みている。
2007/11/02 23:01
加速するインフレ
薬科大学の構内にある学生食堂は5階建てで、7千人からの学生を毎日朝昼晩と食べさせなくてはならないから当然のことだけれど、大きくて広い。
この食堂は大学内の学生相手の商売をしているだけではなく、外から稼いでいる。ひとつは饅頭で、饅頭を箱に一杯詰め込んだ自転車が3台は毎朝大学を出て行く。行き先は近くの朝市で、野菜、肉、魚、乾物、端切れなどをござに並べた行商の集まる通りに、この饅頭売りも出掛けて行って売ってくる。この饅頭は小麦粉で作った蒸かしパンで、中には何も入っていないし味も付いていないが、でっかい。直径10センチはあって、3個で1元。
このほか豆腐も食堂で作って同じように外に売りに行っている。6センチの厚さで10x10センチ角くらいの日本の豆腐よりも少し堅めの豆腐が1元だった。この夏の初めまでは。
薬科大学の正門の外の一寸した空き地にリヤカー(荷台が前に付いているので本当はフロントカー)を止めて豆腐を売っているが、外で昼間売っているのはどうも危なそうで、長い間買ったことがなかった。
薬科大学の日本語教師の峰村先生のお宅で、長野名物の日本でも滅多に食べられない美味しいそばを何度もご馳走になったある時、鍋料理で中に豆腐が入っていた。熱々の豆腐を、日本から持ってきたというポン酢に付けて食べると美味しい。「この豆腐は?」と聞くと正門前で買ったものだという。なるほど、あそこで買えばいいのか、と合点して、買うようになったのは1年前くらいのことである。
この豆腐の売り子がとても可愛い。えくぼが初々しく可愛いこの子はまだ18歳くらいに見えて、実際に「18歳だよね」と訊いてみたら本当に18歳だった。ある時カメラを持っていたので近づきながら写真を撮った。フラッシュに気づいてしまい、もっと撮ろうとするとリヤカーの陰に笑いながら隠れてしまう。
「まだ豆腐ある?1個ちょうだい」と言うのが私にはやっとのことなので彼女と会話が弾むわけではないが、彼女の店をたたむ夕方6時前に帰ることが出来ると、豆腐を買う習慣が出来た。
夏の間は豆腐が持たないのだろう、休んでいて9月になったら豆腐売りの少女がいつもの場所に、いつものように出てきた。「やあ、久しぶり。元気?また1つちょうだい。」彼女はにっこりと挨拶を返したが、済まなそうに「一個1.5元です」といった。
50%の値上げである。このところ瀋陽でも食べ物の値が上がっている。とても気に入っていて時々2ブロックを歩いて食べに出掛ける蘇氏拉麺も、以前は5元だったのが、この夏には6元になった。
レストランに行って食べる料理の皿に載っている料理の量が、以前から見ると大分減った。一般的に、中華料理は人数分の皿数を注文すれば腹一杯になると考えて 良い。つまり一皿の分量はかなり多い。それがこの頃は皿に料理が品良く座っている感じになってきた。値を上げない実質的な値上げである。良く出掛ける湘香 餐庁でも行くたびに皿に載る料理が減っている感じがする。
実際、中国国家統計局(National Bureau of Statistics、NBS)が発表した7月の消費者物価指数(CPI)は「前年同月比で5.6%増(2007-08-12)」という。8月の消費者物 価は、「去年同期より6.5%上昇(2007-09-12)」で、「9月は河南省では7%(2007-10-13)」だった。
消費者物価指数CPIは、2007年通年の政府目標値として3.0%を挙げているから実際の上昇率は目標のほぼ2倍であり、インフレが過去10年見られないほど高い水準で進んでいることが明らかである。
「インフレ率が急上昇した背景には、食料品価格が前年同月比(7月)で15.4%も急騰したことがある。精肉に限ると45.2%も上昇しており、温家宝首相 は、中国国民の主要なたんぱく源となっている豚肉について、安価な供給を確保するよう生産者らに要望した。(中国情報局2007年08月13日)」という。
豆腐の50%値上げは0.5元なので応えないが、特に豚肉の値上がりはひどく、食べ物の上がったことは皆がぼやいている。
人々が言っている原因は、トウモロコシを燃料アルコール調製に使うことになったからだという。食料とのバランスを考える前に燃料アルコール調達計画を発表し てしまったのではないかと思う。オリンピック特需もあるし、中国も市場経済に傾斜した以上、思惑で値が上がるのは避けられなくなったわけだ。
ところで豆腐の値段は1か月くらいで元の1元に戻った。「だけど大きさが小さくなったんじゃない?結局値上げだよね。」というと、売り子は「ええ」と答えて、自分が悪いみたいに肩をすぼめて済まなそうに小さく笑った。
中国銀行によると10月の物価上昇は6.4%(10月31日中国情報局)だという。これが続くと豚肉どころか豆腐も買えない生活になりそうである。
2007/11/06 08:08
研究室の水
研究に水はつきもので、しかも綺麗な水が必要だ。私たちが学生の頃は綺麗な水というのは水道水を蒸留して作った蒸留水が化学実験で使われていた。水の蒸留が 水の浄化には一番簡単だが、沸点が100度以下の有機溶媒は一緒に入ってくるし、沸騰の際に一緒に細かなイオンや粒子も飛び込んで入ってくる。
それで、細胞の培養のためには蒸留しただけの水では駄目で、さらにイオン交換水、逆浸透水が使われるようになった。逆浸透水を作るには汚い水を原料にしては装置がたちまち傷むから、蒸留水をこの装置に等して純粋を得ることになる。
昔私がいた三菱化成生命科学研究所では最初から全研究室に、通常の水道の冷水と温水のほかにイオン交換水が配管されていた。細胞培養のためにはこのイオン交換水をさらにミリポアの純粋製造装置に通して超純水にして使っていた。
さて、瀋陽に来て最初に直面したのは水をどうするかである。水道水は綺麗ではない。沸騰すると白い沈殿が沢山出来る。つまり化学的に見てかなり汚い。生物学的に見ても、瀋陽では誰も水道水を飲まないのだから汚染されていると思われる。
あちこちの実験室で聞いてみると、蒸留水を買っているという。どうやって買うの?と言うと、蒸留水を毎週1回売りに来るのだという。それで研究室では石油を 入れるようなポリタンクを10個くらい用意して、「蒸留水が来たよ」と放送されると、そのポリタンクをカートに乗せてわらわらと我勝ちに建物の外に行く。
建物の外には蒸留水を積んだ小型トラックが来ている。トラックの荷台には6個のドラム缶が乗っていて、太いホースを使ってサイフォンの原理を利用してそれぞ れのポリタンクに水を移す。水をポリタンクに入れる時は水がこぼれて辺り一帯水浸しになる。夏ならいい。冬だと水を移している端からこぼれた水が凍ってい く。下の道路はつるつるで危険この上ない。ズボンが濡れれば、身体が文字通り凍り付く。
だから、この売りに来る蒸留水は利用するのは問題外である。おまけにあまり綺麗ではない。
計り売り蒸留水をつかわないで、水道水を一番安いコストで純度を少しでも高めるとすると、蒸留か脱イオンである。脱イオンカラムを用いると水道水があまりに も汚いのでイオン交換カラムが直ぐ駄目になる。蒸留機だと、水道に含まれている不純物が沈殿して何時か蒸留機のヒーターの周りに堆積し蒸留機を駄目にして しまう。それでも蒸留機の方が安い。蒸留機は7千元くらいするけれども壊れるまで2年持つなら、研究室で蒸留機を買って自前で蒸留水を作る方が水質が確か である。これを研究室の第一次精製水にしている。
学生が交代で蒸留水製造装置を運転して蒸留水を作ってガラス器具の洗浄のあとの濯ぎにこれをつかうし、ミリポアの純水製造装置に通す水の原料にもしている。
2003年に研究室を始めてから予想通り蒸留機は2年近く働いたあと壊れた。底には沈殿が堆積して金属も腐食して直すことは出来ない。買い換えである。瀋陽に来て4年が過ぎて、この夏とうとう3台目を買うことになった。
今までと同じものを買った。買ったはずだった。ところが手に入れて運転を始めると、電気のコードが異様に熱いといって学生が呼びに来た。触ろうとすると、触 ることも出来ないくらい熱い。蒸留機の横に張ってある板に書いてある定格電流を見ると30アンペアとある。これはすごい。廊下に出しておいた駄目になった 前の機器を見ると15アンペアである。ヒーター容量が2倍になっているのだ。2倍になっているのに電気コードの太さは以前と同じである。電流が2倍流れれ ば発熱量は2倍になる。以前のヒーターなら良くてもこれではこのコードは持たない。
試運転をすればメーカーでも直ぐに分かることなのに、 呆れたお粗末だ。対策は電気コードの導線の直径を太くして抵抗を減らすか、またはヒーターの容量を半分にするかである。このままなら火事になるかもしれな い。建物が燃えたらこれは蒸留機を作ったメーカーの責任だ。直ぐに直すようにメーカーに言うよう学生に指示をした。
もしぐずぐず言うならこんな欠陥製品は受け取れない。火事になった時の責任を取るように言えと学生に指示した。学生はこのようにきついことことを誰かに言うことに慣れていないらしく、びっくり呆然として、まじまじと私を見ている。
メー カーがコード交換のために蒸留機を引き取りに来て数日後、電気コードを取り替えたという蒸留機が届いて、これを使い始めたところ、容量が大きすぎて電気の フューズが飛んだ。一難去ってまた一難。今度は研究室に来ている電線を、私たちが金を払って容量を増やす工事をして貰った。それでも日本の時と違ってこの 大学のいいことは、電気の使用量を自前の研究費から払わないでいいことである。
2007/11/09 09:33
大学の性犯罪をどうやって防ぐ?
最近、薬科大学の建物の中で女子学生がレイプされそうになったと言う話を学生から聞いた。何人かから聞いたのでこういうことがあったのは確かなようだが、大学当局に確かめたわけではない。
夕方4時頃、大学の正門から近いところにある研究棟に男がきて、廊下で不用意に応対した女子学生を部屋に連れ込み、中から鍵を掛けて乱暴をしようとした。抵抗する物音と助けを求める声で研究室の仲間の学生が駆けつけ、ドアを椅子で打ち破って中に入って女子学生を救出した。
この男を掴まえたところ、精神障害者であるという病院の証明書を出して自分の責任ではないと言い張ったと言う。それでも、もちろんその研究室の教授は大学の守衛を呼んで引き渡した。警察に連行するためである。しかし、この男は外に出た時に隙を見て逃走したという。
その翌日、またこの男が同じようにこの建物にやってきて女子学生を物色しているのを見つけた。直ちに男子学生が集まってきてこの男を殴りつけ掴まえた。今度 は警察を呼んで直接警察官にこの男を引き渡した。ところが、この男は精神障害者ということで免責されて翌日には警察から釈放されたのだという。
精神病者が一般社会の中に野放しにされているというのは恐ろしいことだ。精神病でも普通は身体の方はまともに育っている。それを制御する脳神経に異常がある のだから大変危ない。普通の、しかも社会的地位もある男でも何かの時には痴漢をやってしまうのだから、もともと抑制機構が働かない人はとても危険である。
その男が拘束されることもなく釈放されたことから、この大学の女子学生たちは改めてこのキャンパスの中での生活を怖がっている。大学の門にも、建物の出入り口にもそれぞれ守衛がいる建前になってはいるけれど、機能しているとは言えない。
私たちの研究室の憲章には、研究室の生活の中での注意事項もいくつか書いてある。建物の中でも性犯罪が起こりうるので、女子学生が一人で遅くまで研究室に居 残って実験をしないように注意を喚起している。実際のところ建物あるいは大学キャンパス内で、外部の不審者を見分ける有効な組織もないし手段もないから、 未然に防ぐしかないわけだ。外部ではなく大学の中の人が性犯罪を犯す可能性だって当然あるわけだが、それだって防ぐ有効な手段は一つもないのが現状であ る。
インターネットには韓国における大学の性犯罪多発に関する記事が載っていた。
「大学のキャンパスは性犯罪の死角と なっている。通常は警察の監視の対象外となっている学校の構内で、性犯罪が増え続けている。警察庁の調査によると、学校の構内での性犯罪発生件数は、 2004年の110件から、05年には126件、昨年には143件となっている。このうち、小・中・高校での発生件数は1年間で10件前後に過ぎず、ほと んどが大学のキャンパス内で発生している。
キャンパス内での性犯罪の多くは深夜、大学の建物の内部や、ひと気の少ない路上で発生してい る。同じ大学の男子学生が女子学生に性的暴行を加えるケースが多いが、一方で外部の変質者がキャンパス内外で女子学生を襲う事件も発生している。(朝鮮日報2007年10月29日パク・シヨン記者ビョン・ヒウォン記者)」
「キャンパス内で犯罪が起きやすい場所に監視カメラが設置されていな いということも、犯罪増加の原因として挙げられている。また、一部の大学ではトイレなどに非常電話や非常ベルが設置されているが、この程度ではキャンパス 内での犯罪を防ぐには物足りない、という指摘も出ている。
「一方、専門家たちは、米国やオーストラリア、ニュージーランドのような「キャ ンパス・ポリス」制度を導入すべきだ、と指摘している。この制度は、大学が雇用した警備員が、深夜に帰宅する女子学生たちを寮や自宅まで無事に帰れるよう 護衛するものだ。(朝鮮日報2007年10月29日パク・シヨン記者ビョン・ヒウォン記者)」
この問題の対策に大学が何かするとも思えな いので、せめて自前で出来ることをやってみよう。思いつくことの一つは研究室に非常ベルを設置して、リモコンスイッチを各人が携帯することである。非常ベ ルは研究室に3つある部屋のそれぞれに設置して一斉に鳴るようにすれば、犯人はベルを止めようとするよりまず逃げ出す方を選ぶだろう。
もう一つは抑止効果を狙って、研究室の中に付けるか外にするかはまだ考えるとして、部屋の入り口に監視カメラを設置することである。この建物の中では盗みだって時々あるのだ。人の動きを関知して監視カメラを起動するようにするか、映像を1秒おきに記録する装置を導入しよう。
その上で「防犯カメラで監視中」と書いて張っておけば通常の犯罪、性犯罪の抑止にはなるに違いない。精神異常者には通用しないだろうが、非常ベルの轟音が追い払ってくれることを期待しよう。瀋陽における秋葉原である三好街に探しに行くように学生に頼んだところである。
2007/11/13 10:57
男はつらいよ その一
11 月10日土曜日は日本語文化センター発信の第3回文化セミナーで、私が1時間の講演をした。日本語文化セミナーというのは、瀋陽の日本人教師の会の活動場所となっている日本語資料室を拠点にして、私たちの持っているものを日本人社会と中国人市民に広く開放して互いの交流を深めようとして、昨年末、日本語資料室が集智ビルに移ったのを機会に計画された。
初回は当時の文化担当領事だった森信幸領事による「寒い国の資源である雪と氷を利用した積 極的な省エネ対策」だった。二度目は東北大学野崎教授による「人が地球と共生することを目指して砂漠の緑化運動をとりあげる」と言うものだった。どちらも 良い話で、私たちに大きな感動を与えた。
教師の会には日本語を教える教師以外の専門家も入っているから、その人たちに先ず話をして貰おうと言うことで3回目に私の番が来た。私は職業的には癌の生物学、および動物細胞表面の糖鎖の機能生物学を専門としている。どれも専門家向けの話は出来るけ れど、科学が日常的ではない人たちを対象に話をするのは私には困難である。
それで男と女の話にしようと思った。何故かというと男と女の違いはもちろん性染色体の違いだが、性徴は性ホルモンにより保たれている。性ホルモンの男のアンドロゲン、女のエストロゲンはともにコレステロールから作られる。
コレステロールは、ご存じの通り高血圧の原因として目の敵にされているが、実は私たちの細胞にとって必須の成分なので、「生化学」ではコレステロールの生合成、役割をきちんと教えている。
私の講義ではコレステロールから性ホルモンを含むステロイドホルモンが作られることを教える。さらに、遺伝子が男女で違っていても発生の最初では、どちらも 全く同じ男女双方の生殖原基が備わっている。男ではY染色体のSRY遺伝子が働くと生殖原基から精巣が出来て、これが男性ホルモンのテストステロンを分泌するので、男の原基のみが発達して男性器が作られる。
一方、女性にはY染色体がないから男を作るというスイッチが入らない。すると生殖原 基から卵巣が形成され、男の原基が退化して女の原基から女性器が出来る。つまりホルモンの働きに違いで男女の違いが出来ること、しかしこれに失敗すると間 性になることもあることを話している。
このように生殖器がホルモンと受容体との精妙な相互作用の結果で作られるのに応じて、脳も女から男に作られる。元もと脳は女性型であることが動物で詳しく調べられている。男の胎児の生殖器が作られる時にアンドロゲンの濃度が胎児の中で増加するのに応じ て、脳もアンドロゲンに対応して男の脳に作り替えられる。これに失敗すると、身体は男でも脳は女性と言うことになる。成長しても女性には目がいかず男ばか りを追いかけてしまう。
このように男が出来るためにはホルモンと受容体との微妙な相互作用が必要で、性ホルモンと似た物質が受容体に働い てホルモンと同じ作用を表わしたり、あるいは受容体に結合して性ホルモンが機能できないようにするのがいわゆる環境ホルモンである。これをDDTや DES(diethylstilbestrol)を例にして講義では話している。
普通は男女の違いは身体的に違うことだけが強調されていて、どのようにして違って作られるのかは殆ど知られていない。まして脳が男女で違って作られることも知られていない。
今回の一般向けの文化セミナーではここの焦点を当てることにして、私の講演はフーテンの寅さんの「男はつらいよ」をそっくり借りてきてタイトルにした。
「男はつらいよ。男として作られるのも、男としてやっていくのも、大変なんだよ。」という話である。
出だしは「話しを聞かない男、地図が読めない女」という数年前のベストセラーを借りてきた。いかに男と女が違うか、違いは性染色体、その結果の性器や性徴の違いだけでなく脳が違うことを、この本に書いていない生物学的な裏付けのデータで示していったのである。
そのためには生殖器の発生、ホルモンと受容体の相互作用のアニメーションが、この話の理解にとても役に立つので、是非講演でも見せたいと思い、アニメが動くような設定を研究室の陳陽にやってもらった。
講演の日のある土曜日も、午前中は私たちの研究室はセミナーをやっている。演者の一人が急に欠席したが、そのままにするのでは学生の勉強の機会が減る訳だか ら前日に私が思い立ってその代わりをすることにした。そんなわけで結構忙しかったけれど、前の晩に講演に使うパワーポイントをWindowsでやってみると、アニメが動かない。自分ではどうにもならないのでPCに詳しい学生の助けが必要だ。
しかし陳陽は腹痛で早退してしまった。もう一人の王毅楠に来て貰って頼んだところ、このようなことはやったことがありませんと言いながらも1時間くらい掛けてアニメを動くようにしてくれた。これが良かった。
2007/11/13 10:57
男はつらいよ その二
「これが良かった」というのは、こういうことである。一晩明けて翌日の午後、私は講演の教師会の集まりから抜け出して30分前に3階の会場に行った。用意され たPCにUSBでデータを送り込んで試写したところアニメーションが動かないではないか。もう一つ持ってきたUSBを付けても、データをPC本体にコピー しても、アニメはびくともしない。大変だ。
私たちの研究室の学生は、日本語が分かると分からないとにかかわらず、ほぼ全員が聴きに来てく れることになっている。つまり応援団である。この会場は在瀋陽日本領事館の新館で、このような催しに使うために作られたけれど、日本国政府の主権がおよぶ 敷地内には簡単に立ち入ることが出来ない。予め届けを出して、パスポートなり身分証明書なり身元の確認が入り口で武装警官による2回の照合作業を経てやっ と中に入れる難しさである。
私たちは教師の会の定例会で1時半には領事館の外に集まった。講演会は4時からが予定されていてこれに参加する人たちは3時半に領事館の門に集まっている。
私が講演会場でチェックを始めたのは3時半を過ぎていたので、聴きに来るはずの陳陽に携帯で電話した。すると「まだですよ。まだ門の外にいます」という。パワーポイントの状況を説明して「早く来て直してよ」と伝えた。
やがて会場に人々が入ってきたが、私はPCを急いで直して欲しいので陳陽と王毅楠の姿を眼で捜し続けていた。やっと彼らが入って来た。直ぐにPCのところに来た王毅楠は、「これは昨日の晩と同じことです。ここで調整をすれば使えるようになります。」と言って、20分くらい掛けてまたアニメを動くようにしてくれた。
助かった。王毅楠のおかげでアニメが動く。アニメがなくても説明は出来るようにしてあったが、アニメがあるのとないのとでは理解に 大きな違いが出来る。アニメがあれば一目で分かることを言葉では面倒くさく説明しなくてはならない。聴いている方は、理解する前に厭になってしまう。
この第3回セミナーの参加者は、教師会22名、日本人会6名、日本人留学生3名、中国人学生39名、領事館2名で合計72名だった。新館の3階の広いホール に場所が設営してあって、菊田領事によると「私一人で会場の用意をするので定員60名にして下さい」と予め言われていたらしい。しかし、申し込みが定員を 超えてしまったのに、菊田領事は快く定員オーバーを呑んで椅子を増やして下さったそうである。
寅さんの写真で始まった私のパワーポイントは51枚のスライドが用意してあって、そのうちの4つがアニメーションだった。そのどのアニメーションも無事に動いて、講演は約45分で終わることが出来た。
終了後「どんな質問でも歓迎します」といったところ、うちの女子学生の王麗が立ちあがった。「同性愛の男がどうして出来るかは分かったけれど、女にも同性愛がいるでしょう。女の場合にはどうして出来るのですか?」
答えは「男性ホルモンと女性ホルモンとその役割を分けて話しましたけれど、男も女性ホルモンを生産しますし、女も男性ホルモンを生産するのです。何らかの原 因で男性ホルモンの生産が高くなる女性は女を愛する同性愛になると言われていますし、犯罪を犯す女性も男性ホルモンが高いと言われています。」
「同性愛の男は、どうやって調べたら分かりますか?」という質問もあった。うちの女子学生の暁東である。リトマス試験紙みたいに男に突きつけて「同性愛かどう か直ぐに答えの出る良い方法がないかな」と、どうして思いつくのだろう。わたしの答えは「外から見てすぐに分かる方法はありませんよ。だって外見は立派な 男の身体をしているのですから。」
「でも、あなたが誰か男の人が好きになるとするでしょう?あなたみたいに若くて魅力的な女性に好意を示 されたら、普通はどんな男もめろめろになって恋心が燃え上がりますよね。もしも男が反応しなかったら、その男はあなたに全く興味がないか、同性愛の男かの どちらかですよ。そうやってみるしか方法はないんじゃないでしょうか。」
陳陽が立って質問した。「先生、もし先生が生まれ変わるとした ら、男と女とどちらが良いですか?」「ウーーム。とっさに答えるとしたら男でしょうね。いまの世の中でも90%の男が生まれ変わる時にはやはり男になりたいと答えていますね。男の生活は波乱と冒険に満ちていますが楽しいですよね。でも、行ったり来たりすることが出来るなら、一度は女も経験してみたいと言う のが本音です。でももちろん、いまの私の歳の女性ではなく、やってみるなら若い女性になってみたいですね。」
こんなことが出来るわけもな いことはよく知っている。でも、50年前には生まれ変わるなら女がよいと言った女性は20%しか居なかったが、今や女性の75%が生まれ変わるなら女が良いという。楽しみは女の方が多いと思うのは男も女も過半数を超えている。世の中は変わって来たのだ。
環境汚染のために20世紀前半に比べ て精子の数は半分以下に減ってきているし、男らしさも損なわれるようになった。男にとってはつらい時代になってきた。実はそれどころか環境汚染が進むと男 が居なくなって人類が絶えてしまう可能性だってあるのだ。どうしたらいいのか。世の中は住みやすく便利に「進歩して」欲しい。しかしその代償としてそれぞ れの人々に重い問題が突きつけられている。
2007/11/16 08:42
リサ・ランドールと「要想成功、要問問題」
リ サ・ランドールという四十代の美しい女性が今話題なのだそうだ。Newsweekの2006年のKeypersonに選ばれて表紙を飾った物理学者で、 Warped Passagesという本を出している。最近 NHK出版部から「異次元は存在する」という本が出て、妻の友人から妻に読むようにとこの本が贈られた。
この妻の友人は大学では数学を専攻した。妻と私は同じ小中、さらには高校に通ったので、正確に言うと彼女と妻は小中の同級生で、私にとっては小中の同期生である。彼女はノーチャンと言う愛称で呼ばれていて、小中で同じクラスだった私の友人と結婚している。
数学という私にはとてもその学問の本質が理解できないが、それを専攻したノーチャンは、難解な数学を勉強したとは思えない穏やかな優しい人柄で、人々に対す る目配りがよい。それで忙しさに紛れてともすれば昔の同期生の集まりに行きそびれる私たちも、帰国する度にこの友人であるノーチャンたち二人には会ってい る。
ノーチャンに贈られて妻はリサ・ランドールの「異次元は存在する」を読んだあと、なんだか分かった気がするという。私たちは3次元に時間軸を加えた4次元の世界に住んでいる。私たちに5次元が理解できるだろうか。
良く出される例が、2元世界の住人が3次元に出会った時にどのように理解できるだろうかと言うものがある。これは中学の時、その頃学校を出たてで私たちの中学に赴任し、新進気鋭の意気に燃える小松喬生先生から教わったことだ。鮮明にこれを思い出せる。
2次元世界を丸い球体が通過したとしよう。2次元に接触した球体は丸い円として理解される。2次元世界に時間があるなら、この丸い円は小さなものから大きくなり、やがてその最大面積を越えてだんだん小さくなり消えていく円盤として認識されるというのである。
つまり、2次元世界の住人には3次元そのものが理解できず、あくまでも2次元としてしか理解できない。それと同じように私たちには高次元は理解できない。し かしリサ・ランドールの説明によると、高次元世界では3次元の世界はバスルームのシャワーカーテンみたいなもので私たちはカーテンに付いた水滴みたいなも のだという。別の言い方をすると、パンをスライスして見て、その一つのスライスが私たちの3次元世界と例えることが出来る。そうすると別のスライスは別の 3次元世界なのだ。そしてこのときパンを取り巻く空間を高次元世界と考えることが出来る。
高次元は分かったようで依然として分からないが、陽子を互いにぶつけた時に壊れて出来るクォークの一部が消えてしまうのは5次元世界に行ってしまうためと説明されると、確かに異次元はあるように思えてくる。
このリサ・ランドールの本を読んでいて一番気に入ったのは、彼女が大学院に入った時に言われたことだった、彼女に向かって指導教授は「成功したければ質問しなさい」と教えたという。
これは簡にして妙。中国人の心の一番擽られるところを衝いている。中国の学生はみな「成功」したがっている。その上昇志向の強さは私たち日本人には想像も付かないほどだ。
うちの学生を育てるのに私は今まで回りくどいことしか言ってこなかった。「人の話を理解しようと思えば、必ず質問があるはずでしょ。質問しなさい。」「自分の存在を示すために質問しなさい。」「黙っていたら話す人に失礼でしょ。話す人への礼儀と思って質問しなさい。」
これを「成功したければ質問しなさい。」と言えば、これ以上言う必要はない。元々は英語のはずだが翻訳本を読んでいるので、英語にしなくては学生に通じない。英語にするとどうなるだろう。
“In order to get succeeded in science, ask questions in all occasions.”これでは長すぎる。
“You must question for your success.”あるいは“If you wish to succeed, ask questions.”というところだろうか。
友人のイギリス人に質問に関する中国人学生と私との葛藤を書いて、さらにLisa Randallの本のことを話して、どの英語が良いか訊いたところ、自分なら“You must question to succeed.”と言うと書いてきた。
学生の王暁東さんや曹さんと話しながら、中国語では次の語句にした。
「要想成功、要問問題」「不提問題 不能成功」
中国の学生はみんな将来成功したい。成功して金持ちになりたい、人より偉くなって楽な生活がしたい、と思っているから、これからは先を争ってセミナーの時に質問をするようになるだろう。
ノーチャン、戴いた本が思いもよらないところで役に立ちましたよ。ありがとう。何時か私たちの「活発な」セミナーを見に来て下さいな。
2007/11/17 08:35
大学警備体制の強化
一 昨日の木曜日の朝だった。8時過ぎて研究室に来た王麗が「今朝は大変なんですよ。門のところで証明書が要るって言うんで、持ってなかったから入れなかった んです。」と言う。彼女は博士課程最終学年に在学しているが、同級生の馬くんと2年前に結婚して大学の外に部屋を借りて住んでいる。学生は大学院生も学内 の寮に住む規則だが、結婚すれば外に住んでよい。
もっともこれは規則だから、独り者の院生でも年間1200元という安い寮費を大学に払っていれば外に部屋を借りて住むのは黙認されているらしい。何しろ中国は「上有政策、下有対策」の国だから、何でも融通無碍なところがある。
王麗はそういうわけで毎日外から通ってくるので門を通らなくてはならない。この大学はSARSの騒ぎまでは東西南北4カ所に門があったけれど、その時以来門も北側の正門と、西側の通用門だけになったし、塀はかさ上げして乗り越え難くなった。
私たちが来る7時頃には何の問題もなかった。いつものように守衛所の中に守衛がいるなあという程度で、正門は自転車が通れるくらい開いていたし、横の歩行者用の門は開いていて誰もいなかった。
歩行者用の門のところに時たま守衛がいても、何か言うことはない。守衛同士で喋っているだけで、守衛の役目は車が来た時に門の柵を開けて車を通すことである。
この車も、門までやって来 ればすぐに門を開けるのだ。いちいちチェックしない。つまり顔パスなのだろう。しかし、私たちがタクシーで乗り付けると守衛は決して中に入れては呉れな い。荷物のある時はタクシーから降りて荷物を出して、リヤカーを曳いて門の外にたむろしている運び屋に頼むのである。「大学の守衛は 何のためにいるんだろうね」と私と妻は時々話し合っている。
それが王麗によると、「守衛は今朝は全部代わっているんですよ。」そして「証 明書がないと入れてくれないから、うちまで取りに行って時間が掛かっちゃいました。」と言うことだった。朝私たちが来る時はそんなことがなかったと言うと、「先生たち身分証明書を持っていますか?これがないと明日から中に入れませんよ。」
「へえ、どうしたんだろう?」と言いつつも思いつくのは、先日の「性犯罪」事件である。守衛がいても自由に性犯罪者が入ってくることに対して大学が立てた対策かもしれない。大学は何もしないだろうと書いたが、早速出入りの規制を始めたのだろうか。
大変結構なことだが、この日は外部の業者も中に入れなかった。リコーのコピー機のトナーがなくなって私たちは会社に電話をしたが、いつもなら直ぐにサービスマンが来てトナー交換をしてくれる。
それなのにそのあとで、王麗が「先生280元払ってよ」と藪から棒にいうので私は驚いて「何で?」と訊いた。王麗は、リコーのサービスマンがトナーを持ってきたけれど中に入れないから、自分たちは正門まで行って金を払って交換用トナーを受けとってくるという。
「それじゃ、誰が機械に取り付けるの?」と訊くと、隣にいた今年の秋に修士に進学したばかりの徐蘇さんをあごで指して「この子がきちんとやるわよ」と言う。「じゃ、二人に頼むか」、と言うことで280元を渡した。
そしてトナーの交換は私たちの見ている前で徐蘇がやった。こうやって機器の保守が自分たちでも出来るようになることは悪いことではないが、外部の人を一切入れないというのは行き過ぎだろう。どこでも直ぐに困るに決まっている。
帰りに正門を通ると、歩行者のための通路の両側に、公安と見間違えるばかりの記章を付けた凛々しい制服姿が数人立っていて、外から入る人たちをいちいち検問 していた。通路が狭いので外に出るのも邪魔されたくらいだった。いつもの見慣れた顔の守衛は誰一人そばにいなかった。本当に入れ替えてしまったのだろう か。
昨日も今朝も朝7時には何時ものように門には誰もいなかったし、私たちも用意した証明書を見せることなく通れた。色つきガラス越しに 建物の中を覗き込むと制服姿の二人が中にいたので、守衛が替わったのは本当のことだろう。これで性犯罪が防げるなら大歓迎だが、これが何時まで続くだろう か。
そして、車が通るたびに門を開け閉めしていただけの十人ちかい守衛だって生活が掛かっていただろうに、その後の運命はどうなっただろう。
しかし昨夜学生から聞いた話では、実は学長事務室に泥棒が入り、激怒した学長が警備体制の強化を命じたのだという。なるほど、なるほど。それなら分かる。ついでにこれで性犯罪も閉め出されるだろうから、結構なことである。
2007/11/20 08:44
日本に行った楊方偉
楊方偉くんは2006年度に私たちのところで卒業研究をした学生である。北大大学院にこの秋から入学することが認められて、10月13日に札幌に向かった。 9月中に合格通知が来たけれど、中国では10月初めの1週間の国慶節休暇があって、日本の領事館からvisaが取れたのが休暇明けになった。
昨年まであった瀋陽-札幌の直行便がなくなって、楊方偉は大連まで行ってから札幌に向かった。両親が大連まで送ってくると別れがさらにつらいことになるから と言うことで、瀋陽で見送りの両親と別れたそうである。楊方偉は、札幌に着いた日にもうメイルが来て無事の安着を知らせてきた。とても筆まめである。
『今日の日本時間12時に札幌に着きました。研究室の人が迎えてくれました。こちらの先生が北大のポプラ会館を予約してくれて今日と明日そこで泊まります。今は研究室にいています。皆は親切ですね。ではまた連絡します。(10月13日)』
1週間後には、私たちが「財団法人日中医学協会」に研究費の申請をしたら良いのではないかと親切に言ってきてくれた。ここで貧しい研究費にあえいでいるのをよく知っているからだろう。
この日中医学協会には日中の共同研究が申請できるが、私たちの研究は中国でなくては出来ない研究をしているわけではないので、日本の研究室と組んで研究費の申請を出すことは出来ない。でも、この楊方偉の気の利きようは大したものだ。
10月23日に来たメイルによると、授業を受けるのに登録が必要と言われて、今学期は西村先生の糖鎖生物学を選んだ。西村紳一郎先生は33才で北大の教授に選ばれた人で、私と同じ研究領域だからもちろん昔から知っている。教授になってからの活躍も期待を裏切らず、研究領域を次々と拡げていまや日本の中で最大勢力を誇っている人だ。
11月4日には 『北大にもう3週間ぐらい滞在して、ここの生活に大体慣れました。毎日朝10時に研究室に行って、夜は10時ぐらい帰ります。食事は主に自炊で、朝早く起 きて作ってお弁当を学校に持って行きます。まだ実験はあまりやっていません。私のテーマはまだ決まっていないので、毎日は研究室で論文と教科書をしか読みません。12月に横浜での分子生物学会が迫って、皆は発表予定の内容を頑張って用意しています。
西村先生の糖鎖研究室を見物させてもらい ましたが、最新の設備が揃っているのにびっくりしました。講義に西村の先生の糖鎖生物学を選択しましたが、私は10月中旬に来日したので授業は半分終わっ ています。この科目の試験はとても厳しくて、半分を受けないと単位が取れないみたいで、今回は授業を受けることを取り消すよう薦められました 。だから、今学期に私は授業を受けない状態となります。(11月4日)』
以上のメイルは楊方偉くんから許しを貰って一部を転載している。
今朝の研究室では暁東さんが「楊方偉くんはとっても可哀相。」と言う。「どうして?」と訊くと彼からメイルが来て、「奨学金を貰っていないので、アルバイト をしようと思っても外国人お断りでお金が稼げない。中国から持って行ったお金を節約するために、研究室のほかの学生がお茶を飲んでいても、『自分は水道水 の水を飲んでいる』んですって。」ということだった。
日本の奨学金が取れるまでの辛抱である。統計では日本にいる全中国人学生の3分1しか奨学金が貰えないそうだ。両国の将来の関係を考えたら、日本で学びたい中国人学生に必要な奨学金を手厚く用意する必要があると思う
昨年度から中国政府は大学院学生5千名を海外の有名大学に送り込んでいる。
『中国の「国家建設ハイレベル公費派遣大学院生留学プロジェクト」が順調に進展し、来年5000人の大学院生が選出され、海外留学に派遣される予定だ。このプロジェクトは、今年始動したもの。専門学科は、エネルギー、資源、環境、農業、製造、情報、生命、空間、海洋、ナノおよび新素材、人文および応用社会科学の分野にわたる。(「人民網日本語版」2007年10月9日)』
前年度の場合、学費免除、そして事前の入学許可を中国側が日本の大学に要求したので、日本の大学院は軒並み冷たくNOの返事をした。生活費は中国側が持つけれど、これから大学院生を送り込むから、学費免除で入学させてくれといきなり言われたら、どこも断るだろう。
今年もこのプログラムが動いているが、日本の大学が依然として同じ態度をとり続けるとどうなるか。選りすぐりの中国の大学院学生は皆欧米諸国の有名大学に留 学し、その国の人々、特に若者と密接な人間関係を構築して帰国したのち、中国の要職について階段を登って、中国の重要人物になるに違いない。これがまだま だ続くとしたら?
そして、その頃の日本は経済的にも、ことによると知的水準でも中国に遅れを取っているかも知れず、それだけではなく中国との人的関係が希薄になれば、あるいは日本の大きな危機を迎える可能性がある。
本当に冗談ごとではない。日本の将来の戦略構造の中に中国人留学生招致を視野に入れないと、国の将来が危ぶまれる。
2007/11/24 08:33
ただもう幸せいっぱい
先週の土曜日の午後も大学で仕事をしていると廊下でアナウンスが響いた。早速実験室に行って残って実験をしていた学生の一人に訊くと「明日の朝8時から12 時までこの新実験楼は断水だそうです。」というので、「うちは?」と尋ねたが何も言っていないという。でもここが水道工事の時は、隣に建っている私たちのアパートのある16階建てのビルも断水となるのが普通だ。
工事がなくても、このところうちに帰ると夕方には断水になることが多く、「そのうえ工事で朝から断水なんて、全くひどいよね。」と妻の貞子と話していた。
瀋陽に来て以来工事のための水道工事は別として、時たま夕方になると断水することがあった。でもそんなに頻繁と言うのではなかったが、今年の春になってそれが週に1-2回に増え、夏からは週に2-3回くらい、秋になってからは週に4-5回くらい夕方には断水だった。
私たちは大体夜の7時頃うちに帰ってから食事を作るので、8時頃まで断水していると夜の食事が邪魔される。毎朝何時も私は5時半に起きることにしているが、11月に入ってからは時々朝4時半に起きてご飯を炊いたり、夜のおかずを作ったりしてから出掛けるようになった。
それでも、この断水は瀋陽の水事情が極度に悪化してきて、夕方になって一斉に皆が食事を作り、風呂に入るので水が足りなくなるのだろう。仕方ないことだと思っていた。
最近のRecord China(11月11日配信)によると「中国の北方を中心に膨大な量の水不足。需要の増加などが原因」だというから、今ここでは水が足りないのだろうと納得していた。
「2007年11月、水利部の陳雷部長は、地球温暖化の影響を受け、大規模な干ばつ・洪水が頻繁に発生するなど中国の水環境が激変していることを明らかにした。地下水の過剰採取防止を前提とすると、年に400億立方米もの水資源が不足しているという。
水利部の統計によると、近年、中国北方地区の水資源は急速に減少しているという。特に黄河・淮河・海河および遼河地区の資源量は12%もの減少が記録されている。毎年、全国669都市のうち400以上で水不足となっている。特に人口 100万人以上の32の大都市のうち、30か所で長期に渡る水不足となっている。」
中国の水不足はよく知られているし、中国に来て暮らし ている私が文句を言う筋合いのものではない。黙って耐えるだけだ。と言うわけで明日も断水かと思って帰ったうちの建物の入り口に「8時から12時まで断 水」と書いてあるのは当然だったが、8階のうちのブロックの入り口のドアに、同じように書いてあるほか、「工事をするからうちにいるように。」と書いて あったから驚いた。
「うちの工事をするの?」と二人で叫んで顔を見合わせ、同時に納得した。
2週間くらい前の断水工事の 時、近所の人と半ば日常的な夕方の断水の話しをしてみたら、夕方断水で困っているのは8階のうちと、隣に住む張景海老師-王思鈴老師夫妻のところだけだっ た。この16階建ての建物は、9階から16階までの配管と、下から8階までの配管と別になっているという。水不足となると2系統のうちで一番上の8階の私 たちがもろに影響を受けるわけだった。
瀋陽の水不足の結果だから仕方ないとは思いつつ、それでも朝4時半に起きて晩ご飯の支度をしているなんて、なんだか笑える話しじゃないかと思って研究室で学生に話したら、学生の王毅楠が大学の部署に状況を伝えてくれたらしい。
私たちのお隣の張景海老師は生命科学院の院長(学部長)だし、夫人は美人で名高い王思鈴老師は薬剤の主任教授である。つまり大学の要職の二人が水で困ってい ると訴えても全く直らなかったわけだから、今更私たちが言っても断水が直るはずはないと学生は口々に「諦めなさいよ」と言う。私たちもそんなものだと思っ ていた。
それが急転直下、日曜日朝から工事が始まって11時前には工事が終わった。彼らが台所で何をしたかというと、8階の床まで来てい るうちの水の配管を切って塞いでしまい、下から16階まで水を運んでいるパイプが壁に沿って床から天井まで貫通しているが、それに穴を開けてパイプを我が 家の水道管に繋いだのだった。
2系統に別れているこの建物の排水の仕組みが分かってから、「やる気になれば簡単さ、9階から16階までの配管からうちに水を取ればよいのだから、」と私は妻に言っていた。何と、それが現実になったのだ。
これでうちの水不足は完全に解消だ。これからは水が足りなくなって最初に苦しむのは16階、次に15階、、、と来てうちが最後になるわけだ。大変結構なことだが、これは実は根本的な解決ではなくとりあえずの、目先の解決である。
「全国での水需要の増大とともに水不足は年々厳しさを増している」状況の中で、中国的な問題解決の方法で断水から免れた私たちは、「水が出るようになったからと言って水の無駄遣いをしないようにしようね。」と互いに言っている。
それでも、これで夕方の断水に備えて朝早起きして晩ご飯の準備をする必要も、トイレが使えないからうちに帰る前に大学で必ずトイレに寄る必要もなくなったわけだ。朝晩、機関銃のように迸り出るシャワーに「ただもう幸せいっぱい」の一週間を過ごしている。
2007/11/27 10:00
男はつらいよ その三
日本語資料室発信の「文化セミナー」3回目を私が担当して、11月10日に「男はつらいよ」という話しをした。講演会のあと教師会の人たちのほか会場に来ていた人たちを誘った会食があった。そこで「昔は妾を持つのが男の甲斐性だと言われていたくらいだから、男一人で数人の女性を相手にしたらいい」と、一人の先生が怪気炎を上げていた。
この先生は私の講演のあとの質疑で、「中国の杭州の男性の精子が一億2千万から4千万?に減った人が多く、不妊 症も増えているとあるスライドにありましたね。日本でも以前から、若年男性の精子が減っているといわれていますが、これは世界全体のことですね。大変な問題ですよね。どうしたらいいんでしょうね。」と発言したのだった。
「男はつらいよ」の話しの最後の方に私は1992年に発表された Skakkebaek博士らの衝撃的な報告「Evidence for decreasing quality of semen during past 50 years. (BMJ 305, 609-613, 1992)」を取り上げた。これは当時世界的な反響を呼んだ研究報告で、50年間の男子の精子数が1mlあたり1億2千万あったのが、約6千万までに減っ てきたというものだった。
多くの人たちが追試をしたし、かつ昔のデータを調べなおし、Skakkebaek博士の報告は調べ方が良くなかった、あるいは信頼できるデータに基づいているとかいう多くの議論を呼んだ。
同じ男子でも精子の数は調べ方で変動すると思われる。いつ試料を採取するかで変わってくることは容易に考えられるので、一定条件を付けて要件を満たす男性か ら精子の試料を採って調べているはずだ。あらゆる変動要素を考慮に入れてそれを排除した結果として、Skakkebaek博士の研究報告はなされていると 思う。
その後も、精子の数を調べると増えている、いや、やはり減っているなどと、言うデータが出てくる。最近の中国でも「2007年4月 7日、浙江省杭州市で開かれた中華医学会生殖医学協会と中国動物学会生殖生物学分会の第1回連合年会で、精液1mlに含まれる精子の数は、40年前の1億 個から2000万〜4000万個にまで減少していると報告された。(2007年4月8日 Record China)」という。
精液 1ml中の精子の数が2000万になったら不妊症すれすれである。冗談ごとじゃない。人類の危機は目前である。さらに「広東省性学会会長の張楓介氏によると、年々男性の健康、特に生殖機能に関する健康状況は悪化している。広東省人の14.7%が男性不妊症で悩んでいるが、その中にはかなりの無精子症患者が 含まれているという。成人男性の40%がEDに悩んでいるという調査もある。この数値は40歳以上に限れば53%にまで跳ね上がる。(2007年10月 29日 Record China)」などの記事が目に付くようになった。
精子の数の調べ方は試料採取の条件で変わるし、人によっても違うので、正確な数の比較が難しいことは考えるまでもなく直ぐに分かる。しかし、世界的な環境の悪化に伴い精子の数が減っていそうな感じである。
精子は成熟した男子の精巣の中で絶えず作られている。細精管の中のセルトリの中で精原細胞が減数分裂をして、染色体の数を半分にしてさらに24日掛かってだんだん形を変えて、泳ぎに徹した完成した精子の形に作られていく。この間このセルトリ細胞はテストステロンという男性ホルモンを必要としていて、これは細精管の周りのライディッヒ細胞から供給されている。
o,p’-DDTや農薬のビンクロゾリンは男性ホルモン受容体に結合して、受容体の働 きを妨げてしまう。つまりこれが受容体に結合すると男性ホルモンはもはや受容体に結合できない。その結果、男性ホルモンがあってもその効果が出ない。農薬 のビンクロゾリンに曝された男性は、成熟した精子の数が極端に少なくなる。
これと同じような働きをする化合物が、ほかにもあるのではない かと疑われている。産業革命以来人類が生み出してきた化合物は数百万を超えると言われている。そのうちのかなりの数のものが私たちの食品添加物、肥料、農 薬、家畜の餌、薬に使われているし、産業用生産物となったらそれこそ無数である。私たちの身体に入っても無害ということが調べられていても、様々な化合物 が単独で身体に入るわけではないし、化合物が身体の中で代謝されて別の化合物となった時に別の顔を持つかも知れない。中国では環境にまだ日本ほど注意を 払っていないから、人造の化学物質がより深刻な問題を引き起こしている可能性は日本より高いだろう。
さて、健康な授精能力のある男性が現 実に減ってきたとすると、どうしたらいいだろう。講演会のあとの質問で、「どうしたらいいんでしょう。」と聞かれたが、私には膨大な数と量の化学物質の使 用を止めて、環境汚染を減らそうと皆が考えることを期待して話をしたのだった。でも、質問した先生は性能力のある男が現実に減った時のことを心配していた のだ。
「昔は妾を持つのが男の甲斐性だと言われていたくらいだから、男一人で数人の女性を相手にしたらいい」と言われれば、それは現実的 解決策だ。でも、そりゃ原理的には可能だけれど、男が軒並み駄目になるってことは、その最後の男にだってそんな元気は残っていないんじゃないだろうか。い まの男の夢みたいな事が実現したとしても、きっと駄目なんじゃないかな。今ここでそれを心配しても始まらないことだけれど。
2007/12/01 08:56
極楽とんぼのロイヤルジェリー
研 究室の女子学生の暁艶さんが、薬科大学の近くに『中国農業科学院蜂蜜研究所』という店があって、「ロイヤルジェリーを売っています」と教えてくれた。彼女 は修士2年生で英語班出身なので私たちの間は英語だけである。私たちのことを何時も気遣って昼のパンがなくなっていないかとか、果物もまだありますかとか いろいろ気にして買い整えておいてくれる。
あるとき暁艶と老化防止の話などをして、昨年の玉旅行のときに買ったロイヤルジェリーのことに も触れたのだった。このロイヤルジェリーは道中の道端の養蜂家から直接買ったもので、初めて食べたロイヤルジェリーは生臭いものだった。これが身体に良 かったかどうかは、実際上何ともわからない。でもまた手に入れて試してみたい品の一つだった。
大学の正門を出て200mくらい東に行った ところにある『中国農業科学院蜂蜜研究所』という店は、暁艶の案内がなければそのまま行き過ぎるくらい小さな店だった。壁の一面には蜂蜜の瓶、ロイヤル ジェリーの箱などが置いてあり奥には素っ気ないカウンターがあるだけの本当に小さな店だ。小柄の品の良いおじさん一人だけが店番で、いかにも研究所の出店 の感じである。
50gずつ小さな瓶に入ったロイヤルジェリーが5個入り、つまり250gで95元(約1520円)だった。棚を見ると様々 な蜂蜜が置いてあって、それぞれにムクゲの花の蜂蜜とかナツメの花の蜂蜜とか書いてある。花が違うと蜂蜜の色も違うし、とろっとした形状も違う。ムクゲの 花(1kgが32元)や龍眼の花(450gで20元)の蜂蜜は白く結晶化している。
昨年玉旅行のときに買った蜂蜜はアカシアの花の蜂蜜で、優雅な香りがして舌触りも滑らかでとても美味しかった。3kgを70元(約1,120円)で買ったように覚えている。ロイヤルジェリーは500gで60元(約960円)だった。
道端の養蜂家という生産者価格に比べるとここの店は数倍高いが、インターネットで見る日本のロイヤルジェリーや、蜂蜜に比べると日本円で比較して約10分の 1である(日本の通信販売では龍眼蜂蜜 650g6400円、あるいは250g 2700円。ロイヤルゼリーは200gで28,000円というのを見た)。
『中国農業科学院蜂蜜研究所』の名前も本物らしく見える。蜂蜜は大体水で薄め、水飴を混ぜ、という具合に本物とはほど遠い混ぜものというのが常識だが、ここのは本物か、あるいは本物に近いのではないだろうか。
こうやって買ったロイヤルジェリーは凍っていて、昨年知った味と比較して生臭さが少なく、しかし紛れもない本物の味がしている。
ロイヤルジェリーには良いことづくめの効能が謳われている。若い働き蜂が分泌したロイヤルジェリーは女王蜂を育てる為だけに使われる。人が食べれば「制がん 作用がある、糖尿病にいい、動脈硬化を抑える、自律神経失調症に効果がある、美容によい、不老長寿に効く」、などなど。しかし、分析によればビタミンが含 まれるにしてもその含量はわずかなものだし、水を含んだ1gやそこらを舐めたくらいで大の大人の病気が治り、健康を維持する成分が補えるなんて信じられな い。
ほんの少量を舐めたって効くわけはないと思っているのに、ロイヤルジェリーを試したいのは、私は「信じることで人は救われる」という のを信じているからである。私も、ひょっとしたらこれらの成分の総合作用で、少量でも身体にいいことがあるかも知れない位には思っているのである。
「病は気から」と言われるが、これは真実を衝いている。笑って楽しく物事に対処するのと、くよくよと思い悩むのと、気分の違いは生理的な身体の反応にも出てし まう。Natural Killer (NK)細胞と呼ばれるT免疫細胞は原始的な免疫機能を持って身体の防衛のために働いている。良く笑う人と悩む人との間には大きく数の差があることが調べ られている。もちろんNK細胞の多い方が病気に掛かりにくい。
悩みは身体のストレスとして表れ、神経終末のノルアドレナリン(ノルエピネ フリン)の分泌を増やす。最近、ノルアドレナリンがあると腫瘍細胞の増殖が盛んになると言う研究論文があった。誰でも癌が見つかったと宣告されるだけで人 生は暗いものになり、悩みが増える。この悩みがさらに癌細胞の増殖を助けるなんて、酷すぎると思う。癌は人の心の弱みにもつけ込むのだ。
癌は遺伝子の病気だ。人が生きていると言うことは細胞が分裂を繰り返していると言うことで、細胞分裂の機会が増えればDNAの配列に間違い(変異という)が増える。この間違いが修復不能だと細胞は癌化する。長生きすることは癌の発病しやすいことと同義語である。
と言うことは人生くよくよすることなく、死ぬまでの自分の一生を精一杯生きることが大事ではないか。笑いが健康を助け、人生を豊にすると思えば、笑って人生 を送るのも人生の選択である。ロイヤルジェリーは身体に良いと思って舐めている脳天気の極楽とんぼの門には災いは来ないのだ。
2007/12/04 08:56
やれやれ、、、
「先生。王毅楠が遺伝子をプラスミドに組み込むところを二人の学生に教えるそうです。私もそれを見て勉強して良いでしょうか?」と曹さんが部屋にやってきて私 たちに訊いた。妻はこちらをちらりと見ながら、「いいんじゃないかなあ。」と呟いたけれど、私は「だめ。」と退けた。
たちまち美人と評判 の高い曹さんは顔をゆがめて泣き出して、部屋の外に出て行こうとする。私は「曹さん。まだ話しが終わっていない。戻ってきなさい」と呼び止めて私の前に 戻ってきた彼女と向かい合った。彼女は私よりもずっと背が高く、姿勢もいい。近寄りすぎると見下ろされてしまう。
「一つには、あなたと王毅楠は恋人同士だから、教わる仲間にあなたが入ってくると下級生はどうしても遠慮してしまうでしょう。これは好ましくないことだから、あなたの参加は遠慮して貰いたい。」
まだ涙の中から私を恨めしげに見ている。「二つ目として、遺伝子操作を人がやるのを見ていても、実際の操作は自分でやらなくては身に付かない。原理は誰だって知っているのだから、見ているだけだと、ほとんど時間の無駄使いに終わるから意味がない。」
「でも、必ず近いうちにあなたが実際に遺伝子をベクターに組み込む研究を考えるから、それまで待ちなさい。そんなに先ではないから。」
こう説明しているうちに、手放しで涙を流していた曹さんに笑顔が戻ってきて、涙を流しっぱなしの顔ながらも、最後には嬉しそうにうなずいて去っていった。
彼女は基地クラスから進学した学生の二人の学生のうちの一人で、三国志の名高い曹操と同じ名字である。詩作に巧みだった曹操の血を引いていると本人は言っていて、この研究室に来たころ実際に私の名前を巧みに読み込んだ玄妙な五言絶句を作ってくれた。
基地クラスなので、通常の学生だと6月卒業、9月に大学院進学というところを、5月に大学の課程修了、直ちに修士課程の研究を始めるというように設定されている。
彼女は同級生の徐蘇さんと一緒に昨年秋から研究室に、授業時間の空いている時に出入りし始めた。5月末の切り替え時を前にして、労働節の連休も明けて院生と して与えるテーマを考えようかと言う時期に、何とうちの院生の王毅楠と恋仲になっていたことが誰の目にも明らかになった。
つまり私たちの研究室の学生の一人として私が認識するより前に、研究室の中でカップルを作っていたのだった。所属している学生が20人を越すという隣の大島先生の研究室ではカップルを作る学生は始終いるらしいが、私たちの研究室では初めてのことである。
食事時になると二人だけでさっさと食堂に行ってしまうのは一向構わないが、全員一体だった研究室の活動は何かと阻害されて落ち着かなくなった。実験室に行っ てみると二人のベンチは離れているはずなのに、たいてい二人で何かやっている。学生が10人を一寸越える程度の私たちの研究室のセミナーで集まると、二人 は隣にくっついて互いにささやき合っている。皆のいるところで二人だけの世界を作られると、何かと皆の邪魔になる。
王毅楠はもう既に研究 室に2年半いて、その終始変わらぬ落ち着いた態度から学生全員の信頼を集めて来た人である。だから王毅楠に今までと同様にいろいろと聞きたいことがあるけ れど、特に女子学生は曹さんに遠慮して言わなくなった。曹さんには男子学生がものを言えなくなった。曹さんもほかの誰とも口を利かず、ひたすら王毅楠を見つめている。
これではあんまりである。世界は二人のためだけにあるのではない。それで春の終わりころ妻が王毅楠を掴まえて「二人が仲良く なるのは個人的なことだから勝手にしていいわ。でも、ほかの人たちが邪魔されるから、皆がいるところで二人だけの世界を持たないようにしなさい。」と言った。私は「セミナーで二人が並ばないように。必ず二人離れて座りなさい。」と命じた。
このように意見したところと言うか、それから時間が経ってこの恋人たちも狂騒の時が過ぎたのか、研究室は少し落ち着きを取り戻してきた。
若い男女が一緒に狭い空間の中で四六時中暮らしているわけだから、互いに惹かれ合う男女が誕生するのも無理はない。しかし、日本に比べて中国のこの大学の中 の社会はかなり特殊で、二人ができると何時も二人だけで行動するようになり、ほかの人たちとの付き合いが極端に減ってしまうようである。人生の一番大事な 成長時期にこのように二人だけが遊離して、それ以外の交友関係を絞ってしまうのはとても愚かなことのように思える。
でもこれは周囲との調和を考える日本人の見方であって、他人のことは一切気にしないという中国人の一つの特徴の表れといってよいだろう。異文化に囲まれて暮らしているのだから、私としてはそれを認めて受け入れなくてはなるまい。
2007/12/08 08:51
理科離れは日本の将来を危なくする
理科離れが日本で深刻に取りざたされている。そんなにひどいのかと驚いている。資源も何もないので、人の知恵によって付加価値を高める生産を頼りに生きて行 かなくてはならない日本なのに、若者がサービス業や金融関係ばかりに走ったら、日本の将来はお先真っ暗ではないかと心配になる。
妻は私と全く同じ畑の生化学者である。私たちの娘は医者で某大学の助教授だし、その夫も同じく医者で別の大学で助教授をやっている。息子は今はフーテンだが元々は 物理の専攻だった。妻の妹は工業化学だし、姉は数学である。彼女の兄は冶金だった。日本で休暇中に会う友達の一人であるノーチャンは数学だし、私のクラス メイトでもある彼女の夫は建築で、つまり私たちの周りには理系人間ばかりがいるので、あまり深刻には感じてはいないかもしれない。
Yahooニュースで見たのは「『理科に関心』国際学力調査で最下位」(毎日新聞12月4日)というものだった。内容をかいつまむと、
「経済協力開発機構(OECD)は57カ国・地域で約40万人の15歳男女(日本では高1)が参加した国際学力テスト「学習到達度調査」(PISA)の06年 実施結果を発表した。学力テストで、日本は数学的活用力が前回(03年)の6位から70位となり、2位から6位に下げた科学的活用力と併せ大幅に低下し た。」
「関心などのアンケートでは、理科を学ぶ「動機」や「楽しさ」などについて尋ねた。このうち「動機」について尋ねた5項目では、 「そうだと思う」など肯定的に答えた割合がOECD平均より14〜25ポイント低かった。これらを統計処理し、平均値からどれだけ離れているかを「指標」 にして順位を出したところ、日本は参加国中最下位だった。」
「また、科学に関する雑誌や新聞などの利用度を尋ねた「活動」の指標でも最下位。科学を学ぶ「楽しさ」を聞いた指標も2番目に低かった。渡海紀三朗文部科学相は次期の学習指導要領改定で理数教育の授業時間を増やしていく必要性を指摘した。」
日本で理科離れが進んだのは、ゆとり教育の所為だといわれている。ゆとり教育を見直し、数学や理科の授業時間を減らしたのが原因だから、授業時間を大幅に増 やすことになったという。授業時間を増やすことに別に文句はないが、それで問題は解決するのだろうかと考えてしまう。理科離れというのは理科に興味が持て ないだけでなく、嫌いと言うことである。
文科省のお偉方は、子供たちの嫌いな授業時間が増えて、そしてそれが好きになると思っているんだろうか?
理科離れにはもっと根本的な理由があるような気がする。理科を教える先生たちが本当に理科が好きで教えているんだろうか。理科が本当に好きな先生たちが現場で生徒たちを相手に教えているんでしょうか?
学校が勉強をする場であった私の子供のころと今は違って、行かなくてはならないので嫌々出掛けるところが学校なのかも知れない。だから、昔のことを書いても 参考にはならないかも知れないが、私は言いたい。私が学校に行っているころは、教える先生の熱意が感じられる学科は、私たちも先生の話に聴き入って身をい れて勉強をした。先生だからと言って義務的に、ただ教科書に沿って教えているだけの先生を私たちは鋭敏に見分けて、それなりの対応をした。つまり先生の熱 意が在れば私たちはそれに応えて勉強したし、熱意のない授業をする先生の教科にはなおざりな勉強しかしなかった。
これは誰でもそうではないだろうか。誰でも今の自分があるのは、振り返ってみると小学校や中学、あるいは高校の先生の誰かの授業が気に入って身を入れた、あるいは大好きになったと言う記憶を持っているのではないだろうか。
このような今の自分の専門あるいは自分の形成に関わりのあった昔の授業、あるいは先生との関係を調査してみたらどうだろう。何かの本で影響されたかも知れない。こうやって調べてみることで教育のあるべき姿が出てくるのではないだろうか。
何しろ教育には時間が掛かる、効果が出るには時間が掛かる。授業時間が多すぎてものを考える時間がないと言って授業時間を減らし「ゆとり教育」と謳ったあげく、それじゃ駄目だというのでは堪ったものではない。
私たちの孫の世代は「ゆとり教育の犠牲者」にされてしまっている。彼らには全く責任はないのに、皆が「ゆとり教育の犠牲者」と言って指さすことになる。「そ んなこと言ったって、俺たち『ゆとり教育』を受けた駄目人間みたいなこと言ってさあ、ほんと、どうして呉れるんだよ。」と来年の大学受験を迎えた孫息子は ぼやいている。「今更、俺たち変わりようないんだよなあ。」
愛国心を植え付ける教育に血眼になるよりも、身の回りの自然に興味が刺激され 疑問を持つ教育、自分でものを考える教育をして欲しい。これとても教育をする先生たちの在りようにすべてが懸かっているのだが、もう大人になって自分の身 の将来ばかりが気になる人たちに、今さら理科が好きになる教育が出来るわけもない。教育をいじり続けて駄目にしてしまった日本は、どうやって再生の道、将 来の道を探るのだろうか。
2007/12/11 08:35
科学をする心
大分前のこと、何かの本で読んだことがある。あまりに昔で何の本だったかは思い出せないので正確に引用できないが、それによると、「科学ばなれ」あるいは「科学をする心」などと言うと、科学はとても難しいと思われ勝ちだが、科学は誰もが日常的に実践しているのだと説いていた。
例えば、とその本は例を挙げる。「ある時自分の家にいる時部屋の電球が切れたとしてご覧なさい。あなたはどうしますか。『電気が消えた』と言って騒ぎ立てるだけでしょうか。」
電球が切れたのかな、あるいは停電なのかな、と先ずは誰でも疑う。部屋の外に出て見てほかの部屋の電灯が点いているなら、部屋のスイッチを二三度ぱちぱちしてみる。電灯がつかなければ、それは電球の故障だろうから取り替えようと思う。
買い置きの電球に取り替えてみて、点けば良し、点かなければ、この新しい電球も悪いのか、部屋の配線が切れたのかと思って調べることになる。
自分のうちの台所の明かりも消えてテレビも消えていれば、自分のうちのフューズが飛んだのかも知れないし、この一帯が突然の停電なのかも知れない。今なにか 使ったのだろうか。電気器具に新しくスイッチを入れた覚えはないけれどと思いつつフューズボックスを覗く。ここに異常がなければ、全体の停電に違いない。 直ぐに点くか、やがて何処からか何かの知らせがあるだろうとおもって、「一寸早めだけれど寝ることにするか。」で一件落着である。
誰でも これだけのことは人に言われなくてもやると思う。これが科学である。科学的思考そのものである。原因を考えるというのは仮説を立てることだ。そして、対 策、つまりそれを解決する方法を考え、実行してみる。これがまさに科学的実証を行うことである。つまり、理科嫌いとか、理科離れとか言うけれど、誰もが必 要なときには科学的思考をしているのである。科学はごく日常的なものであり、怖がるほどのものではない。
子供の頃にものの仕組み、自然の不思議に心を奪われれば科学的思考を日常的なものとして理科系の研究者や技術者になるだろう。それに出合わなければそうならないだけの話だ。
中国の政治的指導者のほとんどは理系大学の出身者である。胡錦涛主席しかり、温家宝首相しかり。これは中国の大学がほとんど理科系なので、選択の余地がなく理系を出て政治家になるのかも知れないが、日本の政治家にほとんど理系出身者がいないことと対照的である。
日本ではわずかに民主党の菅さんがいるくらいなものである。理系の思考が政治とは相容れないのだろうか。理系出身者が日本の政治に関わるようになれば、日本の政治も少しは変わるのではないかと思うが、どうだろう。
中国は理系の大学を増やし理系教育を受けた人材を大量に養成している。その結果人々は科学的思考を身につけることに成功しただろうか。
ウエスタン・ブロットという実験に使う方法があって、これはほんのわずかなタンパク質を特異的な抗体を使って染める方法である。感度を高くするために何段階 もの手順がある。ちょっと前のこと、目的のタンパク質が突然染まらなくなったという。研究室のほとんどの学生のウエスタン・ブロットがうまくいかなくなっ た。
すると一斉に「先生、うまくいきませーん」と言って来るではないか。学部学生の練習実験とは違うのだ。研究者になろうかと言って大学院で研究生活をしているのに、「どうしてだか、わかりませーん」はないだろう。
手順の中の過程で、電気泳動がうまくいったかどうか、電気泳動のゲルからメンブレンにタンパク質が無事に移行したかどうか、染色に使う抗体が大丈夫かどうか、最後の染色剤が大丈夫かどうか、それのX線フィルムの現像が大丈夫だったかどうか、それぞれを確かめていけばいい訳なのに、それを考えようともしないみたいだ。
理系の教育を受けても、科学的思考を身につけているとは限らないのだ。手順を追うだけではなくいつも考えるように彼らには言っているつもりだけれど、空回りをしているみたいだ。妻と顔を見合わせて二人でため息をついた。私たちのここでの4年間はいったい何だったんだろう。
私の見ている範囲は中国の東北の瀋陽というごく一部で、しかも薬科大学の中で私の研究室を選んだ人たちであり、理系教育を受けた中国人という母数集団を代表 しているかどうかは分からない。理系大学で教育を受けた中国の指導者は科学的思考を身につけた上で政治家をやっているのだろうか。理系教育が政治家になることとどのように関わり合えるか、大いに興味がある。
2007/12/15 08:43
王麗の最優秀奨学金
王麗さんは私たちの研究室が瀋陽にできた時から参加した学生の一人である。もちろんその時は大学院進学が決まったあとだったから、別の研究室に所属の大学院一年生だった。大学院の最初の2年間は呉英良先生の研究室所属の学生のまま私たちのところで研究を始めて、博士課程に進学したときに公式にこちらに所属を 鞍替えした。
この9月から始まった今年度の院生向けの奨学金に彼女は応募して、そこでトップの順位となって2,000元の奨学金を貰ったと言って嬉しそうに報告に来た。そしてお世話になったから「ほんの気持ちのお礼です」と言って足温器を妻に持ってきた。
大分昔の中国の大学はすべて授業料が無料だったらしいが、中国が経済成長に目覚めてからはそんなことはなくなった。瀋陽薬科大学の学部は今では全国一という 授業料を取り(一年の学費が5,200元)、誰に関しても学費免除はない。学費の用意できない親は銀行から学費ローンで金を借りて学費を払い込む。親はさらに学費だけではなく、大学の寮で暮らすための生活費用も出さなくてはならない。
学生は日本と比べて信じられないほど良く勉強するのは、 このように親の大きな負担に対して恩を感じていて、成績が良ければよい就職口があって良い給料を貰って恩返しが出来るからであり、目前の目的としては大学が用意した様々な年度ごとの奨学金を獲得して生活費にするために、よい成績を得ようと奮励努力するからである。
薬科大学の大学院は、入学時の成績で順位がついて上位の40%は学費免除になる。一年間の学費は修士で13,000元、博士で16,000元と言うべらぼうな額であるが、この人たちには学費免除と言う特典に加えて毎月200元が支給される。
したがって大学院に進学する学生は入試突破だけでなくこの成績上位に入るためにこれも死にものぐるいの勉強をする。大学院に入っても親に負担をかけ続けるか、学費免除で入って親孝行できるかと言う分かれ目だから、そりゃもう必死である。
私が瀋陽に来た頃は毎月200元の生活費を大学から貰うと、もちろん食べるだけでなくなってしまうけれど、それで生活することもできたという。今の学生に訊くと、毎月700元は欲しいですねえという返事も返ってくるが、500元あれば暮らせるそうである。ちなみに遼寧省の一ヶ月の法定最低賃金は590元であ る。
王麗の応募した奨学金は院生相手のもので、論文賞だった。学術論文を書くとそれをジャーナルに発表することになるが、ジャーナルには ピンからキリまでのランクがある。今世界的に通用するジャーナルの格付けはインパクトファクターと言って、その論文がその後何回引用されたかを示す数値で ある。もちろん毎年変わる。ジャーナルの評価だから、個別の論文ではなく、そのジャーナルの載った論文すべてを含めてその年度にどれだけ引用されているかが測られる。
生化学の専門誌で1-5くらいのインパクトファクターである。10を超すと破格と言って良い。NatureやScienceは15くらいで、Cellは40位だと思う。
王麗の論文は私たちがここに来て始めた仕事をまとめた最初の論文だった。尊敬する友人の井上康男博士が亡くって彼の業績を記念するための特集が組まれたとき、私たちも投稿したのだった。王麗を最初の著者にして、あと研究室の数人の学生も著者に含まれている。この時期のこのジャーナルのインパクトファクターは1.6位で、論文を投稿する時に、もっと高いと良いのにと密かに思ったのを覚えている。
追悼という急に決まった特集号なので質の良い論文が集まるには時間が掛かったみたいで、投稿して1年半経った昨年の2006年にやっと出版された。
この夏台北で開かれた国際学会に久しぶりに出掛けたが、台北の空港で会ったのが旧知のBasu博士だった。空港に迎えが来て居らず、私たちは一緒にタクシーをチャーターして会場の研究所に行った。その間約1時間にいろいろおしゃべりをした。彼はGlycoconjugate Journalと言うこの井上博士の追悼特集号に私たちも投稿したジャーナルのEditorial Boardになってからインパクトファクターが急上昇して、ほかのジャーナルを追い越したと言って自慢をしていた。
実際、今年になって発 表されたこの雑誌の2006年のインパクトファクターは7.446と言う驚異的な数値だった。王麗は昨年論文が出た時はインパクトファクターが低いから論 文奨学金に応募できないと言ってぼやいていたが、今年になってみると論文の出た2006年のインパクトファクターが十分高いので,ホクホクして1年遅れで 応募したらしい。
そしたらダントツの1位で最高の奨学金が貰えたのだ。「良いのかね、そんなことで。」と思わないでもないが、間違ったことをしているわけではないから、ま、結構な話である。
妻が用事で早く帰った日に、足温器を借りてきて教授室の机の下で足を温めた。この冬の寒さの到来と共に早々と左足の指が霜焼けになっていたけれど、足温器を 使ってひとまず治すことが出来た。私も論文の高いインパクトファクターのお陰で得をしたわけである。井上先生の追悼と言うことがなかったら、別のジャーナ ルに論文を送っていただろう。私の親友だった、やんちゃな井上康男先生にあらためて合掌。
2007/12/18 09:24
男はつらいよ その四 あなたはどっち?
最近読んだニュースで傑作なのがあった。「衝撃!男性の半数程度が『座りション』と判明」(2007年12月13日Google)というものである。
「松下電工が女性と男性からそれぞれ男が座ってしているかどうかを訊いたところ、女性が自分の夫は座っていると思うのは59%で、男自身は49%が座っていると申告した。「座りション」男性が増えたのは、妻に言われて、便器をよごさないためだという。」
ずっと以前のこと、妻と話していてどうして「男が決断力に富んでいるのに、女性は優柔不断が多いのか」と議論したことがあった。妻が言い出して今でも私たちの 間でお気に入りの理由は、「男はどちらか決めてからトイレに行くのに、女はともかくトイレに行くことが大事で、そのあとはどちらになっても良いわけよ。そ れを物心が付いたときから続けているでしょう。毎日5−6回は決断をする機会が男より少ないから、大っきくなるまでには差が付いちゃうのよ。」というもの である。
8年前に出版された「話を聞かない男 地図が読めない女」というベストセラーを読むと、男と女の違いは原始時代の人々の生活にす でに起源がある。男は狩りに出るので方向感覚が必要だし、いつも危険に対して身構えていていなくてはならない。方向を間違えればうちに帰れず、狩りの獲物 も捕れない。決断力がなければ危険に対応できず生き残れない。駄目な男は否応なしに淘汰されて、「地図の読める」決断力のある男の遺伝子が支配的になる。
一方で、女は家に残りほかの女たちと仲良く暮らして行かなくてはならないので、互いのこと気を遣い調和を測ることが生き残るのに必要だった。だからまず調和 を考えるという遺伝子が女性に多く行き渡っている、と言うことになる。おまけに女性は脳梁が発達しているので両方の脳を使って考えることができるし、話が できる。話で決着を付けるとしたら男は女に勝ち目はない。
20世紀の初めまで男性優性の社会が続いた。それに対して女性側から「それは ないでしょ」と言い始めたのが、サルトルの女友達としても有名なボーボワールである。「第二の性」で彼女は「女は女として生まれるのではなく、女に作られ るのだ。」と主張した。女の有り様を男社会が決めて、女らしい女、女はこういうものだというのを作ったのであって、女の能力は男と同一のもののはずだとい うのが彼女の主張である。
いまでは、人は元来男女双方になりうる用意をして生まれ、男の遺伝子がきちんと発現し、生殖原基から精巣ができ てそれが男性ホルモンを分泌すれば、脳は男の脳として発達することが分かっている。ストレスによるホルモン異常や、環境ホルモンによる干渉などでこの過程 に失敗すると、脳が男になり損ねた男になる。ともかく男と女の脳は別のもの、つまり考え方、感受性などを心として括ると、心の動きは同じではないことが分 かっている。社会が違いを作るのではなく、男と女は元来違う生物と言っても良いほど違うのだ。
男と女は脳が違い、考え方が違っているだけ でなく、成長しても分泌されるホルモンが違うから、男と女の考え方や行動が同じではない。決断力はテストステロンの量とも関係があることも分かっている。 決断力に富む男はリーダーとして歓迎されるが、テストステロンに突き動かされていて実は周りが見えないこととほとんど同じである。リーダーの周りには熟考 熟慮、洞察力のある参謀がいればこのグループの率いる集団はうまくいく。決断力と深慮遠謀との能力を一人の人間が兼ね備えるのは、生物学的に考えると、と ても困難なことが分かる。
この頃の女は、結婚相手に「強くて頼りがいがあり、しかも優しい人」を求めるが、これは元来が無理というものであろう。男は本質的には粗野で、野蛮で、自分勝手で、ともかく安全で長続きのするセックスの相手が欲しいだけなのだ。
「トイレに行くたびに決断する機会のあるなしが男と女の違いを生む」という妻の意見は、実にユーモラスで面白く、私たちの間のお気に入りの小話である。トイレ に行くとき「一寸決断してくるね」と私が言えば妻には何のことか直ぐに分かる。締まらない話を延々とする女の話に「トイレが違うしね」と妻に言えば妻には 話が通じる。妻の意見はどちらかというと、ボーボワールの路線に沿っている。
さて、私はどちら派かって?私は仕事の関係で単身赴任が長かった。20年近く一人で自分の住処の食事、洗濯、掃除をしてきた。トイレで立ってするとどうしても汚れる。汚さないためには座るしかない。と言う訳で私は早くから座りションである。
失敗する危険性も顧みず、男は進化の過程で苦労してせっかく違う脳を獲得したのに、座りションをするようになったということは、本当を言うと男の脳機能にとっては好ましくないことである。
私の身の周りでは、結婚したい男は多いが、なかなか結婚できないというのは女から相手にされていないと言うことだ。経済力のある女性は「結婚したいよう」と迫られても、男に縛られて自分の生活を失うことと比べて、得るものが少なく夢が描けないためだろう。
それでも結婚に踏み切る女性もいるが「優しい人が良いわ」と言われて男は身を縮めてやっとの思いで結婚し、結婚したあとはトイレを汚さないよう「座ってやっ てよ」とお願いされているわけだ。男が男らしくなくなっていく現状では無理ないことかも知れないが、環境ホルモンが男を蝕んで行くのと呼応して女性が強く なっていくのは,男にとっては両面の敵というべき受難の時代である。
2007/12/22 11:11
脳天気なわたしの思いこみ
研究室の女子学生の暁艶さんはいつも親切に私たちのことを気遣ってくれる。今年になって疲れやすくなった私を見るに見かねて、何時だったかは朝鮮人参を持っ てきて「これを薄片にして熱湯で成分を抽出して飲むといいですよ」と言ってくれた。薬科大学のある研究室では生薬の朝鮮人参を研究に使っていて、したがっ て簡単に品質検定ができる。つまりこの朝鮮人参は薬科大学のお墨付きである。
「元もと人は『気』を持っているんですよ。その『気』は日の出と共に上昇し夜になると低下しますね。その『気』の上昇を助けるのが朝鮮人参の有効成分」だそうで、だから「沢山摂ってはいけないし、夜になって飲んではいけない」とも言われた。
しかし、好奇心旺盛な私は最初にひとかけらを試したその夕方、また薄片を削って飲んでみた。すると効果覿面、その夜よく寝られなかった。寝られないながらに、こうやって夜寝られないと言うことは、この朝鮮人参のひとかけらは『気』を助けるのに効くというのは本当だろうなあ、と考えた。朝鮮人参はきっと効くのだ。
というわけで、毎朝大学に着くと朝鮮人参を薄く削って熱湯を注いで私も妻もそれを飲んでいる。朝鮮人参は10本が200元くらいで、決して高いものではない。4年前にその頃学生だった沈さんと薬屋で買った朝鮮人参は乾いて白かったが、今度のはねっとりしている。ボラの卵の名物「からすみ」みたいな感じである。
最近では朝鮮人参のほかに、ロイヤルジェリーや純粋と思われる蜂蜜を暁艶さんが見つけてきてくれて、私たちの楽しみも増えた。
昨年の玉旅行のときに道端 の養蜂家から蜂蜜とロイヤルジェリーを買い求めたが、その時一緒だった中国医科大学の渡邊京子先生とはその後蜂蜜の情報を交換するようになった。今度もロ イヤルジェリーが買えますよと彼女に教えた。それを買い求めに来たついでに薬科大学に立ち寄った渡邊先生に、つい最近うちの水の工 事があって、それまでのちょろちょろ水がとうとう直って機関銃のような流れのシャワーを浴びてとっても幸せだという話しをしたところ、「そんなぁ。4年間も水の出が悪いのを我慢していたんですかぁ?」と、京子先生は、びっくりしている。
シャワーはちょろちょろ、洗濯をすると水槽に水を溜め るのに30分もかかると、つい洗濯していることに心が十分行き届かずに洗濯は二日がかりだったとか、水を洗濯機に溜めておくのを忘れているうちに断水を食 らってトイレのことで慌てたとか、水に関してぼやくことなら事欠かないほど頭の中にエピソードが詰まっている。
実際4年間良くも我慢した ものだと言えるけれど、実際はこの瀋陽では水の出方はこのようなものだと思っていたからである。ここに来た時から水の出は悪かったし、水が中国には豊富に はないと言われていたので、水の出が悪くても当たり前だと思ったのだった。それがときどき断水するようになっても、そうか、前よりはもっと水が足りなく なって、ここは上階だから水不足をもろに食らっているんだな、と納得していたのだ。
「広東省広州市で、2007年「中国・持続可能な発展 フォーラム」が開催され、広州地理研究所の張虹鴎所長は人口増加・経済発展に伴い、2010年には省全体で総需要の3分の1に相当する17億8000万立 方メートルもの水資源が不足する見込み。この数値は値で、今後広東省は深刻な水不足に陥るとの予測を発表した。(11月26日Record China)」という具合に、中国に来て以来水不足のニュースは絶えず眼にしている。
うちの水の出が悪くても何処かに文句を言おうなんて 思いもしなかった。当然と思っているのだから、当たり前である。その背景には「中国の水事情は悪い」と言う思いこみがあった。これは「思いこみ」ではなく 事実だと思うが、私はそれを信じていたから、水の出が悪くても、文句を言おうとは全く思わなかった。
「思いこみ」が怖いというのはこうい うことを言うのであろう。水の出の悪いのがうちだけだとは思っても見なかった。こういう「思いこみ」、これを別の言葉で言えば、検証もしないで信じ込むような、人から見れば愚かしいことをまだほかにもやっているのではないか、とこれを機会に自分を反省してみる。
ロイヤルジェリーが身体によ いとか、朝鮮人参で元気になるとかと言うのも自分一人の勝手な「思いこみ」である。人の場合、自分でロイヤルジェリーを摂らないときのコントロールと、 摂ったときの二つを比べる実験はできない。しかし、ロイヤルジェリーを試し始めて3週間、快眠快食快便が続いている。となると、人に迷惑を掛けない「思い こみ」ならば、ま、いいのではないかと思うことにしよう。
2007/12/26 16:39
今年のクリスマスイブ
中国の大型連休は春節、労働節、国慶節でそれぞれ、1週間の休暇がある(来年から大分変わることになっている)。大学では春節の時に前期と後期を分ける冬休みがあり、夏には学年度を分ける夏休みがそれぞれ4-5週間ある。これに従って研究室も休むと、私たち研究をやってきた日本人の感覚からすると、休みすぎである。
それで瀋陽に来て以来いろいろやってみたけれど、春節休みはそのまま素直に休むしかないのが分かってきた。というのは遠い故郷か ら瀋陽に来ている学生にとっては、交通費を考えると年1回の休みしか取れない。休みを取るとすると、夏休みではなく家族も集まる春節休みに故郷に帰りたい。と言うわけで春節休みにも研究をしようという私たちの提案はあっさりターゲットを失った。
その代わり、夏休みは2-3週間に絞っている。労働節、国慶節は私たちは休まない。学生が来なくても文句は言わないが、研究室は日常通り動かしている。
労働節、国慶節のほか、名月の中秋節、クリスマスなどは、瀋陽に実家のある学生はうちに帰る。このような休日は、勿論恋人同士は二人の時間を過ごしている。
昔の戦後のころの日本のクリスマスイブは、クリスチャンでもないのにこの日を特別視して、街で飲んで食べて浮かれて大騒ぎをしていた。今はすっかり落ち着いたが、この日を一緒に過ごすことが恋人の証みたいになっているようだ。今の瀋陽は以前の日本に近いみたいで、ある程度大騒ぎしているらしいが、一方では少 なくも恋人たちにとっては特別意味のある日らしい。
恋人のいる学生は恋人と過ごすために研究室から早々といなくなる。夕方は、瀋陽に実家のない学生と、恋人のいない学生だけが研究室に残って実験をしていることになるので、何時のころからか、このような家なき子、愛なき子を誘って一緒に食事に行く習慣が出来た。
昨年のクリスマスは、結婚している女子学生の王麗さんが夫と馬敏さんが実験で遅くなるから私は独り者だと言って、私たちの中に入ってきて一緒に回教のレストランに行った。その時は、陳陽くん、暁艶さんのほかに、王毅楠くんもいた。
さて今年のクリスマスイブは24日だった。今年は研究室の白板に「24日に独りの人を誘います、一緒に楽しくクリスマスイブを祝いましょう。一緒に行く人は下にサインを。」と書いておいた。サインをしたのは、陳陽、暁艶、のほか今年の新人の徐蘇さん。それに妻が日本に用事があって行ってしまった可哀相な私だけである。
昨年仲間だった王毅楠は今年は恋人を見つけて、初の恋人たちの時間を過ごすらしい。
昨年のクリスマスイブは私 を入れて5人だったが、今年は4人である。この人数なら街のレストランに出掛けるよりも3人をうちに招いて私が食事を作ってご馳走するのも良いのではない か、と思いついた。幸い料理は毎晩作っているので、面倒ではない。ただ人数が増えると、うちの狭い台所で用意するのが大変になる。ぜんぶで4人なら何とか なるだろう。
うちに招いて食事をすると言ったら、皆大いに喜んでくれた。うちにホストの私しかいなくても、家庭でクリスマスイブを過ごすと言う感じになるに違いない。
ご飯を炊いておかずを作るとなると、彼らは沢山のおかずが出てくる中華料理に慣れているので、狭い台所では大変である。それでスパゲッティを出すことにした。今では瀋陽でもイタリア製スパゲッティが買えるが、日本からイタリアもののスパゲッティを持って来ている。
ソースは二種類を作った。二回に分けるのは一度に沢山の麺をゆでるのが難しい為でもある。ソースの一つはトマトソースで、これは前の晩からトマトを煮込んで用意し始めた。あとは椎茸とベーコンを入れればいい。
も う一つはホワイトソースで、これは一寸早く帰ってタマネギを刻んで作り始めた。鮭缶の鮭を使って良い感じにできあがった。このほか、雲豆(インゲン)、豚 肉、湯葉を日本風の味付けで煮たおかずも用意した。スパゲッティはそれぞれ1回300グラムずつゆでた。一人あたりにすると2回合わせて150グラムにな る。
さて、5時から3人が来て、もう湯を沸かしてあったのでスパゲッティをゆでて最初はトマトソースから。陳陽も、暁艶も普段は実にゆっ くり食べる人たちだが、スパゲッティは温かいうちに食べるのが美味しい。だから、たまたまTVでやっていた「Sue」を眺めながらも、出来るだけ急いで食 べるのがマナーだと教えた。
TV映画が終わるともう7時近くなっていた。そこで第二陣のホワイトソースのスパゲッティを作った。ソースが煮詰まって堅くなっていて、麺が絡んでしまったのは私の失敗だったが、味は思った通りとても良かった。
こ のあと「Pink Panther」をDVDで見て、最後に紅茶でチョコレートを食べて9時半にお開きにした。このイブは独り者を対象にしたが、私の手料理を味わった人たちは決して可哀相な人たちではなく、幸せだったに違いない。でもこれだけでは不満が出るので、今週末には研究室の全部の人たちと一緒に研究室で火鍋をする計 画を立てている。
2007/12/29 08:48
実験結果がないと泣いた暁艶
暁艶さんという修士2年の薬学英語班出身の女子学生の故郷は新疆ウイグル自治区である。私たちがこの9月に訪ねたウルムチからさらに西に向かって汽車で数時 間行ったところだという。ウルムチまで瀋陽からは飛行機でも5時間半掛かり、汽車だと4日近く掛かる。春夏2回の休みにも出費が嵩むので、春節休みにしか 故郷に帰らない。
もちろん一人っ子だから、瀋陽出身の学生が毎週末うちに帰るのを横目で見ながら、親に会いたいのをじっと宿舎で我慢している。そのためかどうか、私たちは彼女のお祖父さん、お祖母さん、にあたると言うわけで大事にして呉れる。週末の食料のまとめ買いは殆ど毎回彼女の手を患わ せている。とても有り難いことだが、だからといって研究室では彼女のことをひいきもせず、特別待遇をするようなことをしていない。
暁艶はとても行き届いて落ち着いた性格の子である。私たちの間の共通語は英語だからそんなに難しいことには踏み込めないので、いつも互いに脳天気なことばかりを話している。
ある日の午後、教授室から 実験室に行くと、途中の廊下の角の窓に向かって暁艶が一人立っていて、何か異様な雰囲気だ。どうしたの?と言いつつ近寄ると、泣いている。「えっ、泣いて いるの?」とは言ったもののどうしようもなく、私は用事のあるままに実験室に急いだ。用事を済ませて部屋に戻るとき、もう暁艶はそこにはいなかった。
今まで泣いている暁艶を見たことはなかったし、彼女が泣くことすら考えられないほどいつも元気で明るい学生なので、心配になった。実験室に戻って王麗に聞くと、「彼女泣いているでしょ。」という。「だけど訳は知らないよ。宿舎に帰ったよ。」と教えてくれた。
学生が泣いているのを知っ て放っておく訳にはいかない。それで、暁艶の携帯に電話を入れた。携帯は切ってはいなくて、直ぐに出てきた。どうしたのかと聞くと、「済みません。宿舎に 帰ってきてしまいました。」と普通の声音でいう。「どうしたのか?」と重ねて聞くと、「今夜の報告会で話すことがないんです。」 と言って泣き声になってしまった。
ちょうどその夜は毎週1回の研究進展報告がある日で、発表の順番が彼女に当たっていたのだった。皆の前 で話すことがなくて泣きたい気持ちは分かるが、泣いたまま終わらせるわけにはいかない。ともかく「泣くな。そして私のところに話しに来なさい。それも直ぐに来なさい、待っているから。」と言って、彼女がそうするというので電話を切った。
その日の朝、私たちは毎週の定期的な話しを彼女ともしていた。仕事は真面目に進めているのである。結果が出ていないことなんて、ごく一時的なことに過ぎないのだ。
やがて私のところに現れた 彼女に話した。「研究が進まなくて泣きたい気持ちはよく分かるけれど、研究成果を話すことがないくらいで泣くことはないよ。だって、泣いたって何も解決し ないでしょ?泣くのは人が死んだ時だけにしようよ。どんなことをしても、もうその人は決して帰ってこないのだから。その時は運命を感じて無力な自分を泣き なさい。」
「私だって今まで研究で生きてきて、報告会の日に話すことが何もなくてどうして良いか分からないこと な んて、始終あったよ。恥ずかしいよ、そりゃ。研究をさぼっていたわけではない。だけど成果が出ないのは、まるで自分が無能みたいなものだし、そうかといっ て無能に思われるのもしゃくだし、本当にどうして良いか分からないくらいだったよ。でも、泣くと言うことは逃避だよね、泣いて逃避しても状況は全く変わら ない。だから泣いてごまかさずに、その状態に自分で向かい合わなきゃ、何も解決しないんだよ。」
「研究がうまく進まないときには、実験計画に無理があるか、実験の何処かで知らずに失敗しているか、あるいは作業仮説そのものが間違っているかも知れないわけさ。実験の手順を検討し、それで も間違っていないなら、仮説を検証し直して新しい実験計画を立てなくちゃ。泣かずに考えようよ。私が死んだら泣いて良いけどね。」
私の長広舌を聞いていた暁艶は「分かりました。でも話す事がないのです。今夜は話しを免除して貰えますか?」と彼女は言うので、これには「うん。いいよ。」と言うほかなかった。
夜の報告会は三人が話すこ とになっていた。二人が終わって彼女の番が来たので、彼女が話さないことを私が皆に言わなきゃと思ったが、暁艶は前に出て行って「実験がうまく進まなかっ たので話すことは一つしかないのですが」と話し始めた。ガングリオシドの存在下で細胞接着が変わるので、接着分子を調べようと 思ってその予備実験をしたと、毅然とした態度で報告を行った。2時間前に泣いていたことは全く窺えない。
これなら大丈夫だ。泣いたことで彼女は一段と成長したに違いない。挫折は人を育てる。さらに言えば、一ヶ月の間全く実験をしないでいて「実験結果がないから自分は話さない」と私に宣言しに来た学生に比べれば、はるかに好感が持てるというものだ。