教師会2005年度日記
2005年8月30日 (火) 山形 達也
新学期が始まるに当たって、ホームページ係を二年やってきた経験から、28日に以下の提案を会員にメイルした。
------------------------------
9月17日から新しい年度の瀋陽日本人教師の会が始まります。いままでの例ですと、最初の集まりで会の中にいろいろある係りが決まります。
教師の会の役割には、弁論大会係、ホームページ係、資料室係、研修係、日本語クラブ編集係、連絡係、などあります。このほかには、ミーティング、書記があります。全員誰もが、どれかの係をする約束になっています。
この次も私はホームページ係を希望していますが、その経験と立場から一つ提案があります。
ホームページ係が教師の会のすべてに目を配るのは、今までの経験から言って難しいものです。しかし一方で、ホームページの拡充は、この会として常に望まれていると思います。
それで提案ですが、このそれぞれの担当の係の数名の中からひとりがホームページ係も兼任する(担当する)というのはどうでしょうか。ホームページ専任の2名くらいのほかは、それぞれの係が集まってホームページを運営するという提案です。
現在のホームページのコーナーの半分以上は、専門の係が担当することになり、よりよくなると思います。各係のホームページ担当者は内容を考えて用意するだけ にして、その原稿からホームページの作成と、ウェブサーバーへのアップロードということは、ホームページ専任の係が担当することにしましょう。
ホームページに「瀋陽暮らしの智慧」というコーナーが作られています。これの更新のためにこれの担当専門の係もあると良いと思っています。いかがでしょうか。
以上の提案を次回の定例会で相談していただきたいと思います。 定例会の司会がどなたか分からないので、現在の会員の方々全員にメイルしました。
------------------------------
いままではホームページ係が考えて関係者に当たっていたけれど、それぞれの人たちに任せようというものである。
ホームページ係の負担は軽くなるけれど、ホームページの更新が行われずに内容が軽くなる危険もある。
その時は、また考えよう。担当者が何もせずにいたとしても、充実したくないというのは、それも会員の意志なのだから。
2005年9月17日 (土) 山形 達也
2005年度第一回の教師会の定例会が開かれた。
新人2名、短期新人1名を加えた合計34名が今年度の会員数。
年度末で石井代表が転任された(ただし、特別会員)ので、代わりにいままでの副代表である多田先生が代表に選出された。多田代表の指名で、副代表に鳴海、南本卓郎両先生。
HP係からの提案で今年度から各係の中から1名がHP担当と言うことになり、合計10名近い大所帯でHPが運営されることになった。
HP専任:山形 達也
HP及び研修係兼任:岡沢 成俊
終了後数分間の顔合わせ。今後の方針は次回ということに。
なお、会員の懇親会は次回(10月15日)の定例会のあと。
2005年9月28日 (金) 山形 達也
現会員名簿を作成。
現会員名簿をHP用にも編集をした。2003年度の会員名簿を残したので、2004年度も同じようにして残す。今後は毎年の会員名簿を保存しよう。
現会員名簿は会員紹介を付けて、membersという名に変えた。
会員紹介で二人の会員の更新が届いたので編集した。以上の作業をしたけれどgeocitiesにアクセスできず、uploadが出来ない。大学のLANが細くて外部に繋がらないことが、この頃は頻繁に起こる。研究遂行に大変困難な問題となっている。
2005年10月15日 (土) 山形 達也
2005年度第2回の定例会と歓迎会だった。
山形達也は10月8日から風邪に掛かり、それが酷くていつまで経っても熱が引かず調子が悪い。それで、この日は欠席してしまった。
それにしても日本語クラブ第21号(2005年度第1号)の原稿は、明日16日の締め切りである。原稿の集まりが悪いと編集長・中道先生がどんなに嘆かれるかと思うと、重い頭を抱えて内容を考えなくてはならない。
やれやれ、風邪がどんどん悪化しそう。
2005年10月22日 (土) 山形 達也
第2回定例会の時に、遼寧省による外国専家表彰のことが伝わって、それがホームページに載ることになった。多田先生と、南本先生のお骨折りである。
たいへん面映ゆいことながら自分に関するニュースをアップロードした。
今年から加入された先生方の紹介記事を「会員紹介」欄に載せた。石井みどり、中野亜紀子、辻岡邦夫の三先生である。
熱のある時に届いた原稿を夢うつつのうちに扱ってどこかに失ってしまったりして、先生方にはご迷惑をおかけしました。ごめんなさい。
2005年11月1日 (火) 山形 達也
昨日10月31日に、日本人会の幹事会が開かれ、都合の付かなかった多田先生に代わって山形がホテルマリオットで開かれた会に出席した。
皆それぞれ忙しいだろうに、進出企業のトップの人たちが集まって、真剣に日本人会の議題を討論している姿勢に感銘を受けた。
教師の会の人たちも企業の人たちとは目的が違うが、それぞれ皆全身全霊を打ち込んでこの地でがんばっている。
2005年11月5日 (土) 山形 達也
金曜日、加藤先生が瀋陽史跡探訪の新しい記事(7番目)と一緒に現れて、二人でホームページビルダーを使って文章と写真を編集した。
土曜日には写真のtitleを変更してwebに載るようにして、無事providerにuploadした。
日本語クラブ21号(今年度第1号)の印刷が今日日本語資料室で行われると聞いている。中道編集長を悩ませ続けた原稿の集まりが遅いという問題は無事解決したのだろうか。
日本語クラブ21号は1週間先の日本人教師の会の定例会の時に配布される予定。
2005年11月12日 (月) 山形 達也
12日は2005年度第3回定例会。
会則の改正最終案が承認された。会員資格が、日本人で日本語を教える教師だけだったのが、日本語を使って教育・研究を携わっている人たちにまで広がった。
というわけで、私たちも晴れて公式の会員であることが認められたわけである。めでたし、めでたし。パチパチ。
航空学院に新任の先生二人。
日 本人会と教師の会との関係が報告され。議論された。しかし、歴史的な経緯を正確に知っている人たちはいないので、現状の日本人会から受ける扱いは教師の人 たちに不満を生じているようである。日本人会主催のクリスマス会が12月11日に開かれるが、参加者は減るのではないか。
瀋陽日本人弁論大会が来年4月には第10回を迎える。日本人会のほかに瀋陽市人民政府外事弁公室、瀋陽市教育委員会も主催団体だが、資金源は日本人会なので、実質日本人会主催と言って良い。
そして運営では教師の会が全面的に担当している。
問題は、たとえは弁論大会入選作品集には瀋陽日本人教師の会の名前はないことだろう。教師の会はこれに命をかけるという感じがするほど一生懸命なのに。
そ して、大会で実質的に運営する教師の会が司会もする。二年前の大会では、出席している日本人会の数人の人たちを主賓として名前を読み上げたのだ。原稿を見 て私は絶句したけれど、その時はそのまま読み上げた。実行委員会にこれの見直しを要求したけれど、この春は中止になったのでどのようになっているか知らな いが、日本人会のこの態度も問題だろう。
明らかに両者の間に乖離がある。しこりがある。
2005年11月15日 (火) 山形 達也
11月12日の定例会で承認された会則をホームページに載せた。
新人の林与志男・八重子夫妻の写真と紹介を載せた。
高山敬子先生の写真が新しくなった。可愛い〜と思わず叫びたくなるような。
新疆の民族衣装に身を包んだ鳴海マダムのすてきな近影を、会員紹介欄に載せた。
日本語クラブ21号は11月12日付で会員の手に渡った。その原稿も受け取っているけれど、ホームページに載せるための写真の処理に時間が掛かってまだ載せるところまで行かない。
もう一寸時間を下さい。
2005年11月19日 (土) 山形 達也
土曜日の午前のセミナーが終わると週末の自由な時間が沢山あるような気がして幸せな気分になる。
それで午後は日本語クラブのwebのための編集の続きに取りかかった。今回の日本語クラブは原稿が満載で、チェックポイントが多い。
Word の原稿に付いてきた写真は、一つ一つリサイズして(縦横の日がゆがめられているのだ)、おまけに写真の番号を付け直す(Wordで写真を載せるときにはこ れを気にしなくて良いけれど、internetではそれぞれの写真に別々の英数字のtitleを付けることが必須)。
それと不思議なのは、Wordで綺麗な原稿にしても、それをHPビルダーに持って行って(その段階ではまったくおかしくない)、webで見ると字体や字の大きさが所々でおかしくなっている。
おかげで、タグを少し覚えてhtml文書として校正することを覚えたが、とても全部には手が付けられない、膨大すぎる。というわけで、すべてを綺麗な表示にできない。
Wordの日本語クラブの原稿についていた写真のうち数枚の解像度が低すぎてwebでは使えない。2枚は、どうしてかモノクロをカラーに変えられないし、リサイズも出来ない、コピーも出来ない。どうしてこうなるか不明。
それで、合計7人の先生方に改めて写真を送って欲しいと依頼した。今日までに二人以外からは写真が届いた。
今回は、原稿が長いので二つに分割しているけれど、相互に飛べるようにして原稿が二つに分かれていることが分からないようにすることに成功した。今まで、出来るはずだと思っていたのが、ファイルをたぐる記号(#)を見つけることが出来たので、初めて出来るようになった。ワーーーイ!
2005年11月20日 (日) 山形 達也
今回の日本語クラブ21号のwebへの編集ほど手間取ったのは初めてだったが、やっと午後にはサーバーにアップロードできた。
一人の先生からは、お願いした写真が来なかったが見切り発車してしまった。
字体の不揃いもなく(出来るはずのない原稿をコピーしても出てくるのが不思議)、サイズも同じで綺麗な仕上がりになった。原稿は二枚あるけれど(20号までは1部、2部と分けていた)それを感じさせない仕組みに仕上がったのが嬉しい。
HPビルダーを使い始めて1年半経って、やっとhtml文書がいじれるようになった。
夕方、二人の先生のブログを教師の会からリンクを張ってアクセスできるようにした。題して「瀋陽日本語教育現場の声」と、物々しい。
もうすこしブログを持つ先生がたが増えると良いのだけれど・・・。
2005年11月23日 (水) 山形 達也
教師の会のホームページからリンクを張って、先生二人の個人的なブログにアクセスできるようにした。これは「瀋陽日本語教育現場の声」を関心のある人たちに伝えるという一大プロジェクトの一環である。
ついでに私のHPにもリンクを張った。
このようなブログを作る仲間を増やすために、仲間の男性教師Bさんに、次の時の定例会にブログの作り方の解説をして下さいとお願いした。
「承知しました。しかし、説明をその時にしただけでは誰も始めないでしょうから、今のHP 係(8人いる)が今すぐブログを始めましょう。やりかたは簡単です。ブログを始めるのがいかに簡単だったか、あるいは苦闘の様子を話すと皆にわかりやすい から、直ぐに始めましょう。」そして私にも名指しで、「HPだけではなくブログも始めなさい!!!」と、檄が飛んだ。
名 指しの私は逃れようがなく、この忙しいのに、何と、ブログ造りを始めてしまった。今週の木、金、と新しい内容の講義がある。そして土曜日は研究室のセミ ナーで新しい論文を紹介しなくてはならない。勉強のために全く知らないカルシウムイオンチャンネルに関する論文を紹介する予定で、読むものがたくさんあ る。
火曜日の朝には、推薦されるままのYahooでつくったところ、出来が気に入らない(字の間隔があいてしまう)。それで夜帰ってからDoblogで作り始めた。ところがこれはアクセスに時間が掛かって、ドメインを二つ作ってしまったらしい。けれど自分のページにアクセスできない。
次にinfoseek にアクセスして、楽天にブログを作った。これはスタイルが多少田舎臭いところがあるが、初心者でも迷うところが少ない。おまけにブログへの書き込みは公開 するところだけではなく非公開分も指定できる(つまり秘密の日記が書いておける)。これはあとで自分だけで見ることが可能である。
と言うわけで火曜日には3つのサイトにブログを作ってしまった上に、水曜日には私のMacについているexciteでブログを作った。これは大分スマートだし、アクセスも簡単である。問題は、カテゴリーにどのように指定したらよいのか、まだ分からないことである。
つまり今4つが走っている。まるでブログ荒らしである。ごめんなさい。二〜三日のうちにどれか一つに絞り込もうと思う。楽天かexciteになりそうである。
ほかの先生たちもやっているかなあ。
やって欲しいよなあ。こんな大爺が頑張っているんだから。
2005年11月28日 (月) 山形 達也
男性教師Bさんの熱心な勧誘によって、女性教師DさんがBlogに登場した。
これで、教師の会のHPからリンクしている個人Blogは4件になった。それぞれを訪ねれば瀋陽の日本語教育の現場がのぞけるという趣向。
男性教師Cとして登場している私は、最終的にはラクテンのblogだけに書き続けていて、あとは自然消滅。
ラクテンのblogはほかのと比べてあか抜けていないのが難だけれど、使いやすいのが気に入った。ただし、ラクテン仲間はあまりacademicではないみたいな印象を受けている。これは、教師の会のHPの中にBlogがあればよいのだから、我慢しよう。
三日坊主にならずに6日間続いたので、昨日自分のHPからもリンクを張り、Blogを持っていることもメニューに載せた。
男性教師Bさんの熱心なBlog布教に応えて、Blogがもっと増えて欲しいし、そしてその時は続けて欲しい。
ところで、日本語クラブ21号をwebに載せてから、少しずつ写真を増やした。
昨年度までの会員だった沢野美由紀先生からは、瑠璃ちゃんの写真が届いた。会合には何時も連れられて出て来ていた瑠璃ちゃんは物怖じしない性格で皆からかわいがられていた。
このほか印刷された日本クラブには入っていない写真が載っているのは、鳴海、高山、峰村、丸山、石井、加藤、金丸の諸先生の分です。
今回の21号並みに以前のページもこぎれいにしたいのですが、時間が掛かりそう。ま、引退したら、ね。
2005年12月3日 (土) 山形 達也
今までひそかにBlogを始めていた女性教師Eさんの存在が明らかになった。彼女は今年いっぱいで瀋陽を離れなくてはならない。それで、瀋陽の教職の思い出、教室のこと、日本語教育のこと、教え子のことを書き始めたという。
これで、5人、
今朝、男性教師Bさんからmailが入っていて、新たに男性教師Fさんが加わったという。某大学の日本語学科で藤村の「破戒」を教えているというので高度の日本語教育に関わっている。
これで、6人。このプロジェクトを発足させ、声をかけ始めてから参加者が倍増した。教師の会の「瀋陽の日本語教育の現場の声」は大分声が大きくなったにちがいない。
この増加の趨勢を背景に男性教師Bさんは12月10日の定例会でBlog Projectを説明し、いっそうの勢力拡大を図るということだ。
先生方、始めるのを急がないと、男性教師Hか女性教師Hになってしまいますよ。
2005年12月10日 (日) 山形 達也
昨日の12月の定例会でHP係からブログの勧めがあった。
日本語教育に携わっている現場の教師の声を生々しく発信しようという試みで、これには各個人がブログを持って書きまくらなくてはならない。通常は敷居が高い。
それで、岡沢先生が各係のHP担当者に、ブログを始めなさいと勧誘、あるいは命令を出したところ、奏功して、今日現在8名9サイトが走っているというわけだ。
こんなに簡単に作れますよと言うことで、後どれだけの先生が乗ってくれるだろうか。今すでに女性教師Aさんから始まってIさんまでいる。アルファベット26文字に入りきらない数の教師の数だが、さて、どうでしょう。
2005年12月10日 (土) 山形 達也
今日の12月の定例会は終了後に今期で帰国する斉藤先生の送別会が予定で組まれていました。
ところが定例会の議事の最中にこの9月に代表に選ばれたばかりの多田先生が同じく今期限りでアモイに移るという発表があり、全員の胸に衝撃が走りました。7年間にて瀋陽の主だった石井先生に7月に見捨てられたばかりでした。
と りあえず南本副代表が必要なときには代わりを務めて、3月はじめの定例会で代表選出をしようと言うことになりました。短期の滞在の先生が多い中で例外的に 長い石井・多田先生などを見ていると、瀋陽にずっとこのまま永久にいらっしゃるという安心感となってしまっているので、こういう現実を突きつけられると慌 ててしまいます。
というわけで、送別会は斉藤先生と、多田先生が対象でした。
多田先生が何時も送られる人を「フレー、フレー」といって送るので、多田先生が斉藤先生にエールを贈り、そのあと全員で多田先生にエールを贈りました。
2005年12月12日 (月) 山形 達也
11日の日曜日は瀋陽日本人会の主催するクリスマス会が五つ星ホテルの一つであるマリオットホテル(万豪酒店)で開かれた。教師の会の会員は、この会には個人の資格で入っている。それでも、教師の会からも実行委員が出ていて、今年は南本卓郎先生だった。
この日までの準備はもとより、当日は赤い服を着て、受付、運営に走り回るのである。
会費は一人150元。このほかにテーブルごとの勝ち抜き試合があり、これの参加料が一人10元。
12時に、日本人会長の挨拶に引き続き在瀋陽日本総領事館の小河内総領事の今年を振り返るという講話があって、全日空窪田さんが乾杯の音頭を取っ手会が始まった。
最初の出し物は、今年発足した日本人補習学校の生徒たち17人で、岡沢先生に率いられてクリスマスソングを歌った。
日本人の子弟がこのところ急激に増えている。実際にはもっといるけれど、土曜日に開かれる補修校にはこれしか通っていない。今に日本人学校開設の要望が強まるだろう。今のところ、補習校で働いているのは、多田、岡沢両先生の二人である。
雑伎団の演技を見ながら食事が出た。
テーブル対抗は、「ドラエモンの作者は手塚治虫である「光の三原色は、赤、青、黄色である。○か×か」というような質問で振るっていって、最後に残った4テーブルでじゃんけん。買ったテーブルは1千7百何十元を手にした。
それから皆の期待に満ちた視線を浴びて。ビンゴゲーム。豪華景品が次次と幸運な人たちに配られた。
今日の総合司会は、ブリジストンの潮田さん。体育大学の元気な学生と、全日空の安藤さんが司会。
3時にお開き。お疲れさまでした。
教師の会からは、私たちの他、南本夫妻、峰村、高山、竹林、斉藤、多田先生などが参加。
2005年12月22日 (木) 山形 達也
137億年前に宇宙が誕生したという。
そのうち、私たちの知っている物質が4%、暗黒物質23%で、アインシュタインの予言した暗黒エネルギーが70%。
その誕生したときの宇宙の大きさは?暗黒物質って?暗黒のエネルギーとは?
理解できない。付いていけない。
地球は46億年前に誕生した。生命は35億年間に誕生したという。
瀋陽日本人教師の会は何時誕生したのだろうか。石井先生の瀋陽赴任時、つまり7年前にはあったらしい。
何時か歴史を調べよう。
私にとっては私がこの会に参加し、ホームページつくりに加わった2003年秋からこの瀋陽日本人教師の会は存在している。
ついでに書いておくと、ホームページ作成は最初は大変だった。
ホームページ作成のためにはWindows パソコンを使わなくてはならない。私は1987年からNECパソコン、1989年から切り替えてMacを使っているのでパソコンではベテランの領域にはいるけれど、Windowsは使ったことがない。ホームページ作成も経験がない。
だから、使いにくいWindowsを前にして毎日がトホホという心境だった。
2003年9月に係になって翌年の2月に相棒の河野先生が瀋陽を去って帰帰国された。それまで二人で勉強をしていたわけだが勉強だけで実際には何一つ進んでいなかった。前年度までに作られたページに更新も全く出来ていなかった。
2月半ば、日本から戻ってきた私は心機一転、ホームページビルダーに取り組み、懸案の更新に成功したが、今思い出しても、あの辛い切ない気持が甦る。
もっとも一旦出来るようになれば、やり方が違うだけでホームページ作成に困難はなくなった。それ以来、山形達也は教師の会のホームページ作成の中心となって、会員の助けを得て情報を集めながらその内容をどんどん増やしていくことになった。
ホームページを自由に作るようになったといっても、Macに比べてWindowsは使いにくく遅れている。世界中の人たちに使われていてソフトの種類も圧倒的に多いけれど、だからといってMacより優れていることにはならない。はるかに使いにくいマシンだと思う。
2006年3月5日 (日) 山形 達也
3月4日の土曜日、春節休み明けの新学期初めての定例会が開かれた。何時もだと第二土曜日なのだが、今は弁論大会開催を目前に控えて、少しでも早くこちらの態勢を整える必要があってこうなった。出席は30名くらい。
多田代表が1月末で突然廈門に去られて、副連絡係による代表代行が続いていたが、改めて代表代行を努めておられた南本卓郎先生が代表に選ばれた。それに伴って,一番古株の遼陽の渡辺文江先生が副連絡係に選ばれた。
いろいろとお忙しいでしょうが、どうかよろしくお願いいたします。
新人として東北大学に多田先生の後任の河面先生が着任。東北大学の自動化学院で2年前から研究室を開設しておられる野崎勉先生も、初めて参加された。
人が去ってもまた新しい会員を迎え、教師の会がこうして発展していくのはとても嬉しいことだ。でも、バランスからすると、平均として老化の方に傾いているみたい。
二 年間会員だった竹林和美先生が3月26日に大連経由で帰国されることが発表されたので、定例会のあと、急遽有志が集まることにして大明天府という近くの手 頃なレストランで送別会を開いた。個室に丸テーブルを二つ入れて貰って二手に分かれたが、全部で27名集まった食事会だった。
竹林和美先生は「これきりお別れと思うとは悲しくなるので、また会えると思ってお別れします」と話された。
仲間との別れはつらい。また何時の日か、互いに元気で、成長して会いましょう。
最後には前代表の多田先生直伝の「フレー、フレー、カズミ」が、岡沢先生により熱演された。岡沢先生の大声は初めて聴いたという人が多く、それだけで興奮ものだった。
「フレー、フレー、カズミ」
「フレー、フレー、カズミ」
なお、いつものように秀毅先生が皮切りとなって、竹林先生に送る歌(波布の港)を歌い、小林先生の(名残りの雪)がつづき、そして野崎先生の(オーソレミオ)が会場を魅了した。
この食事会では、森領事にご馳走になってしまった。
「ご馳走さまでした。」
この間、北小関門にあった日本語資料室が閉鎖されて、私たちは引っ越し先を探した。日本人会の方々、特に伊藤忠の高木純夫所長、沈陽三洋の蔵本幹也総経理、在瀋陽日本総領事館の森信幸領事、朝日新聞の古谷浩一記者、多くの方々にお世話になった。
2006年4月16日 (日) 山形 達也
第 10回瀋陽日本語弁論大会が、市内の五つ星ホテル、商貿飯店で4月16日(日)に開かれた。昨年は上海で始まった反日デモが瀋陽にも飛び火し、とうとう4 月17日に予定された第9回大会は中止となってしまった。その代わりに在瀋陽日本国総領事館で日本週間の間に弁論発表会が代わりに開かれ、最終参加者の殆 どがスピーチをすることが出来たが、順位は付けられなかった。
弁論大会は日本語を教える学校に原稿募集を伝える12月の手紙から始まり、原稿が3月に集まってからすべての原稿の読み比べが行われて、大学生I部15人、大学生II部15人、高校生の部10人が選ばれ、最終予選に臨む。
第 10回瀋陽日本語弁論大会はその最終予選である。聴衆の前で約5分のスピーチを行うが、事前に用意したスピーチだけでは甲乙付けがたいので、即席スピーチ というものがある。これはくじで引いたテーマ二つの中からひとつを選んで5分間考え、2分以内でスピーチをするというものである。日本語能力が付け焼き刃 ではこの即席スピーチをこなせない。
2年前の大会が私の聴いた初めてのそしてただひとつの大会だった。その時のスピーチのトピックスは、「お母さんありがとう」「両親に一番感謝している」というような家族ものが多く、聴いているうちに同じパターンの繰り返しで辟易した。
今回の実行委員会はこの手のテーマを避けようと決めていたので、内容は、地球環境問題、中国の交通道徳、世界の中の中国、自分たちの将来など今まで違って新鮮であった。
日本語そのものは高校の部が断然上手く、大学生I 部(日本語学科のように日本語専攻)、大学生II部(薬科大学のように日本語を学ぶが専門は別に持っている)の順となるが、スピーチの内容、即席テーマの 話の内容、取り上げ方などは、この順とちょうど逆になり、大学生II部が断然勝っていて、聴いていてとても楽しかった。これは日本語以外の自分たちの専門 があり視野が広いということを意味しているのだろうか。
以前の中国では教条主義的な発言に終始していたと思われるが、今はもっと自由に自分の意見を述べるようになったように思える。このように意見を述べられる社会が来たことは、躍動する明るい中国の未来を示していると云えるだろう。
私 は午前の部の司会をした。司会者としてジョークを飛ばしたり、明るい声援を送ったりしたいところだが、審査員(どの部も6名)に外部の声として影響しては まずいに違いないし、ただ進行だけに徹していて、実を言うと緊張しているだけで楽しくはなかったが、予定の時間通り進めるのが仕事と割り切った。
午前9時開始で11時半まで大学生I 部15人、午後1時から大学生II部15人、高校生の部10人で終わったのが4時20分。その後、中国医科大学の5人の学生さんによる夜花笠音頭、瀋陽師 範大学の8人の1年生による「津軽海峡冬景色」の踊りの披露があって、最後の選考の発表と授賞式が5時50分から行われた。
それぞれの部から、1等1名、2等1名、3等3名、が選ばれ、大会を主催した日本人会の会長、副会長から賞を手渡された。
こらだけ見事な日本語遣いが瀋陽でこのように育っているのである。瀋陽日本人教師の会、瀋陽日本人会の長年の努力がこのように稔ったことをこの大会は示しているが、さらにこの地に日本語が根付き、広がり、両国の友好親善が進むよう願ってやまない。
2006年5月14日 (日) 山形 達也
日本語資料室にある書籍、ビデオをなどの大半は、瀋陽日本人教師の会のものではなく、2000年に資料室を設立した関西遼寧協会のものでした。その後個人的な寄付、国際交流基金による購入などで書籍などの備品は増えて来ましたが、大半のものは関西遼寧協会の所有でした。
資料室の場所そのものも関西遼寧協会の所有する一画に置かれていましたので、日本人教師の会はその資料室の内容の充実を図りながら資料室の運営にのみ責任を持っていました。
今回、今までの資料室の場所から移転するに当たり、関西遼寧協会から、2006年5月8日付の契約書によって、資料室に所有する書籍、ビデオ、書架、机、椅子、パソコン、プリンター、コピー機などが無償ですべて「瀋陽日本人教師の会」に譲渡されました。
この日以降は上記の物品はすべて日本人教師の会の所有であり、管理するものとなります。
関西遼寧協会を代表とする多くのボランティアの方々の好意により、今までの日本語資料室は支えられてきました。今後はそれを土台とする大きな財産を私たち瀋陽日本人教師の会が受け継ぎ、この地域の日中友好の発展に尽くしていきたいと思います。
2006年6月5日 (月) 山形 達也
6月3〜4日には日本人教師の会始まって初めてという1泊バス旅行で岫岩に行きました。瀋陽から南にバスで約4時間です。
中国は玉が尊ばれるくにですが、その玉の有数の産地が岫岩で、歴史以前から中国の玉の7割以上を生産していると言うことです。瀋陽に岫岩玉を扱っている店で 働いている人と知り合ったことから、山形が岫岩を訪ねる旅行を計画し、途中から中道恵津先生も幹事に加わって、家族も含めて27名の旅行という旅行が実現 しました。
三つ星クラスのホテル(二人部屋で一人100元)32人乗りのバスのチャーター代金、旅行会社のガイドひとり、岫岩の博物館見学料、3食食事こみで一人450元でした。reasonableだったと思います。
3日の朝8時に遼寧賓館集合で現地到着ホテルで食事をしてから、35キロメートル離れた鉱山まで行って、世界最大の6万トンといわれる翡翠の原石を見まし た。外側は茶色のべらぼうに大きい石で、一部に翡翠が露出しているところを皆で代わる代わる触りました。この鉱山への泥の道に玉の破片が沢山落ちているの です。拾うのは自由ですといわれて、皆それぞれに沢山拾ってきました。
鉱山を降りて玉器製作工場を見学し、次いで玉器製作で著名な陳さんの工房に寄りました。回転ヤスリに水を掛けながら職人が抱えた玉を削っていって、美しい三 次元の様々な像を造り出します。細かな意匠を描きようもないのに立体的に削りだしてしまうのは、それぞれ名もない職人の腕に掛かっているわけで、ただただ 驚きです。
ここで買い物をしたのは飾ってあった翡翠の茶器が気に入って、陳さんと値段の交渉をして見事納得できる値段を勝ち取った山形貞子先生でした。
私たち日本人はあまり玉に馴染みがないので、はじめは店に寄ってもあまり関心が持てなかった人が多かったのですが、翌日の朝、玉の市場に行った時には、それ ぞれに走り回って気に入った玉の首飾りなど誰もが夢中になっていました。私も餃子作りの麺棒をはじめの日は15元で、そして次の日は何と5元で買いまし た。麺棒といっても玉で出来ているのですよ。
この玉の岫岩では今アカシアが盛りでした。バスの道中、蜂蜜の巣箱を見付けた中道先生が、「花を追って蜂蜜を集める人たちが今ここに来ているのだわ、直接交 渉をして蜂蜜や、ロイヤルジェリーを買うことが出来るかも知れない。」ということで、二日目の帰途、そのような蜂蜜集めの人を見付けてバスはストップ。ち いさなテント小屋の周りに巣箱が30個くらい。
おじさんとおばさん相手の中道先生の値段の交渉は延々30分続きました。高い値段を提示するおばさんもこれを値切る中道先生も、どちらも譲らず、これは凄い見物でした。
とうとう蜂蜜3.5kgが55元、ロイヤルジェリー500gが50元で纏まりました。おかげで何の混ざりものもない純水の蜂蜜とロイヤルジェリーが買えたのです。
今回のバス旅行は、初めて玉を身近に感じることが出来たという収穫のほか、拾ってきた玉の後で磨いたり、蜂蜜を食べながら、また旅行を思い返すというとても豊かな思い出を残す旅となりました。
2006年6月25日 (日) 山形 達也
6月24日は6月の教師の会の定例会で、今期最後の集まりだった。5月20日に日本語資料室が引っ越して以来の初めての開元ビルにおける会議。
引っ 越し以来峰村先生をはじめとする先生たちが連日のように資料室を訪ねて本の整理、整頓、清掃、本棚の製作など行い、綺麗な資料室が出来上がっていた。奥の 部屋は旧資料室から運んできた大きな机の入った会議室。手前の広い部屋は本棚に囲まれた閲覧室。窓も広く明るく広々としている。
会則が変わって、会費が100元になった。今までは50元。しかし、これからは電話、電気代を自分たちで持つことになったのでこれは当然のこととして受け入 れられた。新しい会員には今度の引っ越しで今の会員が特別徴収を負担したように入会金という形で50元をお願いすることも決まった。
現会長の南本先生が今期で旧に帰国されることになったので、次期会長を選出した。3人の候補の中から、薬科大工の峰村先生に次期会長をお願いすることになっ た。峰村先生はこれで3年瀋陽に滞在されている。今までは日本語資料室係として資料室の責任者をやっていただいていた。南本先生が去られることは痛手であ るけれど、峰村先生を会長としてこの会は立派に伝統を受け継いでいけるにちがいない。
今期限りで瀋陽を去られる先生のうち、丸山羽衣、井料衛の二人の先生は6月中に瀋陽を去られるので、この席が送別会を兼ねた。
会議は4時半まで。そのあとは新資料室移転にお世話になった方々を招いて、新資料室のお披露目をしてから、近くのレストランで宴会。
「新日本語資料室」御披露目祝賀会
1.期日:2006年6月24日(土)
2.受付:16時半〜 新資料室
3.開宴:17時半〜 於「香味館」
4.会費:一人50元
5.出席予定者:総計 42名
mso-fareast-language:ZH-TW'>
来賓招待(12名)
赫子進(沈陽延祺投資有限公司董事長)(「開元ビル」オーナー)
尚世新(沈陽延祺投資有限公司総経理)(「開元ビル」責任者)
進藤俊一 瀋陽日本人会会長(沈陽古河電_有限公司総経理)
世古健治 同 副会長(瀋陽松下蓄電池有限公司総経理)
関屋忠彦 同 同 (ブリジストン瀋陽タイヤ有限公司総経理)
高木純夫 同 同 (伊藤忠商事KK瀋陽事務所長)
苫谷耕司 同 事務局長(全日本空輸株式会社瀋陽支店支店長)
丸尾達也 同 幹事 (東芝電梯沈陽有限公司総経理)
中山 猛 同 幹事 (沈陽普利司通有限公司総経理)
大貫 明 (多摩運輸有限公司総経理)
古谷浩一 (朝日新聞社瀋陽支局長)
張潔
ご欠席者:蔵本幹也(瀋陽三洋空調有限公司総経理)
董磊 (関西遼寧協会)
mso-fareast-language:ZH-TW'>
教師の会出席所定者:
南本卓郎、 鳴海佳恵、 渡辺文江、 安藤知恵、 池本千恵、
石井みどり、 井料衛、 岩田敏和、 宇野浩司、 岡沢成俊、
加藤正宏、 金丸恵美、 河面弥吉郎、 小林豊朗、 安部玲子、
高山敬子、 辻岡邦夫、 中野亜紀子、 中道恵津、 中道秀毅、
中村直子、 野崎勉、 林与志男、 林八重子、 丸山羽衣、
南本みどり、 峰村洋、 山形達也、 山形貞子、 渡辺京子、
次第予定
司会:野崎勉
1) 開会の辞
2) 主催者挨拶並びに来賓紹介 日本語教師会会長
3) 「開元ビル」オーナー紹介 日本人会副会長 高木純夫
4) 「開元ビル」オーナー挨拶 董事長 赫子進
5) 乾杯 日本人会会長 進藤俊一
6) 祝宴
7) (余興)
8) 万歳三唱 瀋陽総領事館領事 森信幸
9) お礼の言葉 日本語教師会副会長 鳴海佳恵
2006年6月25日 (日) 山形 達也
日本語資料室の移転に際して多くの方々にお世話になったので、6月24日の教師の会の集まりのあとは、「日本語資料室移転開所祝賀会」と称してお世話になった方々を招いて食事会を計画した。
計画では招待が14名、こちら側が30名。44名入る場所を資料室の近くで探すというのは至難なことだった。近くの天都飯店ホテルに訊いてみてもその広さの 部屋がない。私たち手分けをしてあちこちを探し、実際に行ってみて食事もして見て、最終的には新資料室に近い「香味館」にした。二つのテーブルで24名と いう部屋にもう一つテーブルを入れ、44名で食事をしようというのである。
招いた方々の多くは都合が最終的には付かなくて、来てくださった方々は、森領事、日本人会世古会長、高木副会長、苫谷事務局長、前の資料室の1階のカレー屋さんをやっていた張さんの5人だった。教師の会は中国語検定試験を受けに行かれた長沢、森林先生を除いて29名が参加。今期から参加の新人、前田、山田、田中の3名も加わった。
この会が最後となる丸山羽衣さんに「Love is over」を秀毅先生が捧げた。山形も乗って「ラストダンスは私に」を羽衣さんのために歌った。学生時代は長髪でフォークを歌っていたという森領事の歌 「学生街の喫茶店」や、高木さんの「乾杯」も出て、会は大いに盛り上がり、8時終了の予定は9時になった。
教師の会としてはお世話なった方々に心からお礼を言いたいと思って計画した会だった。全部の方に入らしていただけなかったが、それでも貴重な時間を使ってい らして下さった方々には感謝の意を表すことが出来たと思うし、さらにすすんで一緒の食事とおしゃべりで心からの深い交流できたと思う。
2006年7月3日 (月) 山形 達也
7月1日に2005年度教師会の送別会が東北大学招待所餐庁で開かれた。
6月いっぱいですでに、丸山羽衣、井料衛の二人は去られている。この二人の先生の送別会は6月24日の定例会の席が兼用した。6月24日の夜の「祝賀会」はお客を招いていたので、形の上では送別会ではなかった。
今回は:
安藤知恵(1年)、小林豊朗(2年)、南本みどり(2年)、高山敬子(3年)、中道恵津(4年)、中道秀毅(4年)、長澤裕美(5年)、
の7名の先生の送別会だった。
出席:
森領事、安部玲子、池本千恵、石井みどり、宇野浩司、岡沢成俊、加藤正宏、金丸恵美、河面弥吉郎、辻岡邦夫、鳴海佳恵、林与志男、林八重子、南本卓郎、峰村洋、森林久枝、山形達也、山形貞子、渡辺京子、渡辺文江、前田静子
欠席6名(岩田、片山、中野、野崎、田中、山田)
司会:渡辺文江
2005年度は、会員42名、そのうち今年度末までに去られる先生の合計は14名。
今回の送別会の特筆事項は、教師の会編集の歌集が出来てそれを全員が持ったことである。この歌集は元々は山形達也が6月はじめの旅行のために企画製作したものだった。
この会の集まりの折々ごとに中道秀毅先生が「青、赤、黄色の 衣装を付けた テントウムシが しゃしゃり出て・・・」という具合に何時も歌集片手に「しゃ しゃり出て」歌を歌われた。それは、その会を限りに帰国される先生への惜別のこころを籠めた歌が多かった。その歌集は秀毅先生がもう三十年来使っておられ るものだった。
山形達也は歌集が手元にあれば歌を歌う先生ももっとあるだろうに、と思った。一人一人それぞれがこのような歌集を集まりの時に持っていたら、会員の心がひとつになって会が盛り上がるのではないか。今は歌の本はない。どうすればよい? 「作ってしまえばよいのだ。」
それでinternet で歌を探して歌集作りを始めた。曲は秀毅先生にも相談した。採録する歌は増えて5百曲近くになったので、二つに分けて、戦後編と、その他(戦前の歌、童 謡、寮歌、労働歌、外国の歌、コマソン)の二部にした。ひとまず作った歌集は6月はじめの旅行に間に合わせた。バスに乗っている間の無聊を歌が埋めた。
その後小林先生からも歌の推薦を受けて、7月1日には補充新版を作成して今回は会員全員に配ることが出来た。というわけで、二十数曲(歌集に載っていない歌もあった)が次々と歌われ、何と送別会は2時に始まって、終わったのが6時だった。
P.S.なお6月24日には南本先生は今期で瀋陽を去られることになっていたが、事情が変わってあと1年薬科大学に残られることになった。
2006年7月3日 (月) 山形 達也
7月1日の送別会では、全員の手元に歌集があったためか、それぞれが歌を歌った。その順番に歌われた歌を記録しておけば、それを見ることでその場の情景が甦るでしょう。
一人で歌われた歌もあれば、歌集を見ながら全員が参加して歌った歌もあります(先生の敬称は省略)。
元々は今期限りで瀋陽を去られる方々の挨拶、そして残る側の贈る言葉が交わされる予定でしたが、挨拶の後に、「それでは私はこの一曲」ということになり、それがこの送別会のスタイルになりました。
南本みどり 「故郷を離るる歌」
安藤知恵 「下町の太陽」
(これには途中から「自称アンディ」といって中道秀毅も参加)
長澤裕美 「なごり雪」
(途中から小林豊朗も参加。小林豊朗の大好きな歌です)
中道恵津 「贈る言葉」
(藤田 敏雄の「若者たち」を探したが歌集になかったので)
森林久枝 「古時計」
加藤正宏・林与志男 「王将」
加藤正宏 「雪の降る街を」
峰村洋 「案山子」
(全体を二部に分けて合唱、最後に合掌)
辻岡邦夫 「りんごの歌」
林与志男 「酒は涙か溜息か」
小林豊朗 「出世街道」
小林豊朗 「東京の灯いつまでも」
中村直子 「涙そうそう」
石井みどり
宇野浩司
高山敬子
森 信幸 「いちご白書」
(森さんは長髪のかつらを着けて、サングラスを掛けて恰好よかった。このときのための用意万端。2番からは、今度は小林豊朗が頭にかつらを載せて参加。森さんは木製のハンガーをギターと見なして逆手に持って右手で弦をはじく真似をしながら歌い続けた)
中道秀毅 「元寇」
山形達也 「人を恋うる歌」
(40年前に秀毅先生が歌ったに違いない歌を秀毅先生に捧げる)
山形達也 「恋の季節」
(40年前に恵津先生が歌ったに違いない歌を恵津先生に捧げる)
中道秀毅・山形達也 「山のロザリア」
山形達也 「君こそ我が命」
(今期限りで瀋陽を去られる長澤裕美先生に捧げる。やっと歌に託して気持を伝えました)
小林豊朗 「定時制の歌ー三田明」
山形貞子 「はるかな友に」
鳴海佳恵 「仰げば尊し」 全員で斉唱
そして6時にお開き。司会:渡辺文江
この会では岡沢さんが用意してあった携帯ピアノによって時々伴奏が付きました。
2006年7月7日 (金) 山形 達也
教師の会のホームページは内容豊に情報を発信していて、かなり良質なホームページだと自負しているけれど、目玉のひとつに会員交流のページの中の「加藤正宏の瀋陽史跡探訪」がある。
これは今まで西安、長春にそれぞれ2年、瀋陽にも2年になる加藤先生の発信している記事で、高校の世界史の先生だった加藤先生の面目躍如。中国の東北地方を占拠して満州国を作った日本の史跡をたどる物語である。
写真が多く、教師の会のホームページに許容される容量の大部分をこの「加藤正宏の瀋陽史跡探訪」が占めていて容量の上限が近づいてくることが予想される2005年秋、山形達也は加藤先生に自分のホームページを持つように勧めた。
2004年秋に瀋陽に来るときに初めてパソコンを使うようになったという加藤先生は、自分のホームページ作成に全く乗り気ではなかった。
しかし教師の会のホームページ作成を預かる身の山形としては、容量がパンクするのを見ているわけにはないかないし、「加藤正宏の瀋陽史跡探訪」のページも充実させたいし、どうしても加藤正宏自身のホームページ開設が必要なのだった。
それで2004年秋には彼のホームページ作成を始めた。そして実際に作成した。
http://www.geocities.jp/mmkato75/index.html
教師の会のホームページとは重複するけれど、ある程度の内容を作成し、そして加藤先生が自分自身で作成出来るように指導を始めた。
しかし、加藤先生がやっと本気で作る気になったのは2006年6月である。あと1年瀋陽滞在を決めた加藤先生は、突然あと1年しかないことに気付き、やっと自分で作ることを覚える気になったのである。
それまで彼の「加藤正宏の瀋陽史跡探訪」は、教師の会のHPも、加藤正宏のHPでも、何時も山形がホームページに載せるための作業をしていたが、歴史的な2006年7月5日、夕方5時間を掛けて山形は加藤先生に「加藤正宏の瀋陽史跡探訪」の「1.」の作成を指導した。
7月5日午後からまず原稿のひとつ「1.」を使ってinternetに載せる手順まで教えた。しかし7月7日現在まだinternetには載っていない。
7日の朝、加藤先生からその次の「10.満鉄附属地補足」を新しく自分で作り始めたけれど、「うまくいかない、写真は載せたけれど、字が回り込む機能がこのソフトにはない」とう電話があった。「1.」もサーバーには送り込んだんですが、見えないのですよ。」ということだ。
「いらっしゃい、一緒にやりましょう。」ということで、加藤先生は朝7時半から山形の研究室に現れて、私の隣で頑張っている。山形は勿論、必要なことはずべて、何度も何度も何度も、何度でも何度でも何度でも、教えている。
パソコンはともかく慣れて覚えるしかないのだ。ともかく覚えて独り立ちして下さい。そうすれば教師の会のホームページから膨大な加藤関係のファイルを削ることが出来る。教師の会からはリンクを張ることで今までどおり使えることになる。
頑張れ頑張れ、カトウ!!!
頑張れ頑張れ、カトウ!!!
朝7時半から夕方4時半まで。
そして夜は食事の後8時半まで。
「1.」と「10.」は教師の会からは削って、教師の会からはリンクを張ることが出来た。
ともかく、出来ました。後は加藤先生が沢山の原稿を端から載せていくだけ。。。
2006年7月09日 (日) 山形 達也
日曜日、中道先生たちが加藤先生に案内して貰って中街の古物市をみて歩くというので、ご一緒にと誘われた。加藤先生は明日の月曜日には飛行機に乗って帰国である。1週間前に帰国できたのに、この週末まで滞在を延期して古物市巡りに固執したところが加藤先生らしい。
歩きながら聞いてみる。やっと金曜日から動き出した「加藤正宏のHP」には、すでに反響が二つあったそうである。ひとつはmailでひとつは公開掲示板で。
どちらも「加藤先生、大変苦労をしているそうですね。頑張って!」という内容だそうで、それを聞いて「こっちだって大変な苦労をしたのに誰も何もいってくれないよ。」と私は口をとんがらかせてしまった。ま、しょうないか。
「瀋陽1」を新しく改訂してとりかえたのと、「瀋陽10」が新しく加わったので、この二つは教師会のHPからはリンクを張るだけになった。加藤先生はまだまだ沢山載せるものがあるということなので、夏休みも頑張ることでしょう。時々覗いてみましょう。
http://www.geocities.jp/mmkato75/index.html
前々から「自分のHPを作りませんか、手伝いますよ」と誘っていた中道先生は、加藤先生が出来るようになったのを知って俄然興味津々となって、「帰国する前に教えて貰えないかしら。どのくらい時間があったらいいでしょう。」
パソコンを使い出して2年という加藤先生に比べると中道先生は年季が入っている。先ず作ってみるのに1日あれば十分。復習してしっかりと独り立ちできるまでに二日もみておけば大丈夫。かな。
ということで、近いうちにHP作成にお付き合いする可能性が出来てきた。
2006年7月10日 (月) 山形 達也
土曜日の午前中はいつものように研究室のセミナーがあって、午後からは懸案の「日本語クラブ23号」をHPに載せる作業に取りかかった。
今度の日本語クラブは本文66頁という、いつもの倍近い長さである。「鬼の編集長」である中道恵津先生が、何時も何時も「原稿を」と催促されるのにとうとう 皆鋭敏に反応するようになって書くのが当たり前という雰囲気になったこと、3年間続いた「中道体制」の締めくくりとして今回は編集部編纂の特集という目玉 が組まれたこと、などがこれだけの大部に仕上がった背景にあるだろう。
ところが、これをHPに載せる方としては、大変なことである。大体Word で作られて写真も入った原稿を、そのままHP用につかうわけにはいかない。
写真は全て外して、それぞれの写真に半角の英数字の名前を入れる。
前回の日本語クラブ22号の時から、wordで入っている写真が動かなくて大変手こずった。今回はどの写真もびくとも動かないのだ。Wordのversionが
変わったのかも知れない。
ともかく、今回は編集部に頼んで写真を全て外した原稿を作ってもらった。写真は別に受け取ることになった。
本文をHPBに入れて、改めて写真を入れていく。
目次も印刷原稿を流用できない。これも新たに作り直しである。
それぞれの人の文章には、目次から飛ぶようにリンクを張る。本文があまりに長いのでを三つに分けたが、それでもそれぞれ200kb以上ある。
原稿では一見問題ないように見えても、internetにすると、活字のサイズが変わったりフォントが変わったり、全く予期しないことが起こる。原稿の量が増えればトラブルも比例して倍増する。
そのたびに原稿をhtml文書にして1字1字を見ながら間違いを探して直すことになる。
土曜日6時間、日曜日3時間、そして今日の月曜日3時間を使って、やっと「日本語クラブ23号」第1部が出来た。後の二つは何時出来ることやら。
「日本語教育校」の原稿も集まっていて、これもページ更新をした。2005年度会員紹介も更新。
やれやれ。来期からは「日本語クラブ」のHPへの収録は。編集係にやって貰いましょうね。
2006年7月10日 (月) 山形 達也
延び延びになっていた日本語教育校の記事の更新を全部終えた。
係の高山敬子先生からそれぞれの学校の先生たちが原稿を頼まれて、書いて送って下さったものを、HPに載せたのだった。半分くらいは届く度にやっていたが6月になって研究室が忙しくなって中断。やっと、作業を終えた。
まだ届いていない学校は、東北大学、航空学院、瀋陽大学、実験中学、瀋陽師範大学、など。
6月3・4日の玉旅行の日程の詳細(参加者に配ったもの)、参加者名簿、そして最後に中道先生の手による旅行企画・実施のノウハウを教師の会のHPに載せた。
次回の旅行企画があったら、その時は参考になるはずである。
何処かに印刷して置いておくと散逸して見つからないかも知れない。しかし、HPに載せておけば安心、という考えである。勿論、印刷物は確実に残るが、internetの情報はどうなるか分からないという心配も本当である。
私としては、Yahooが続くなら、internetの教師の会をクリックすれば全ての情報がつまっていて、直ぐに誰でも手に入れられると言うのが好きである。
2006年7月11日 (火) 山形 達也
やっと、日本語クラブ23号をHPに載せた。
土曜日からはじめて4日間。時間にして24時間くらい時間を掛けた。今日だって、朝7時から取りかかって、もう今は夕方の7時半だ。日本語クラブの印刷原稿(Word)から作ったhtml文書のあちこちがおかしく、結局、印刷用の原稿を一度text fileにしてからhtml文書を作成することでやっと問題を回避できた。
しかし、それでも随意にフォントが変わったり、サイズが変わったりするので、それらをhtml文書上で直すのに時間が掛かった。
まだおかしなところはあちこちで目に付くけれど、勘弁して貰おう。
あとひとつ、中国文字が出てこないのも困ることだ。internet上では「?」になってしまう。
ともかく、もうお終い、もう、やらない。自分の本職に食い込みすぎる。
2006年7月14日 (金) 山形 達也
中道恵津先生にホームページの作り方の基本を教えた。
彼女は青島で2年、瀋陽で4年、合計6年の中国滞在を終えてこの夏帰国の予定で、将来は自分の書きためたものを発表するためにHPを作りたいというので、ごく基本の技術を教えた。
北の師範大学から1時間以上の遠路はるばるを越えて、彼女は11時頃到着した。先ず、ソフトウエアをinstallしながら昼ご飯。何しろ暑いので外に出る気にもならず、いつものパン、チーズ、トマトの昼食に付き合わせた。パンは好利来の1個8元のパンである。
デザートは薬科大学の日本語教師の高山先生から差し入れられた「ぜんざい」。美味しい。高山先生ご夫妻は3年の滞在を終えてあと数日で帰国される。その忙し いさなかにこのようなものを作って、しかも人にあげられるなんて、凄いことである。自分たちのことを考えると信じられない。感謝ひとしお。
先ず最初にHPの登録。Yahoo で作成した。
HPの構成はもう考えてあるので、表紙を先ず作る。彼女の手持ちの写真から世界園芸博覧会の時の緑の写真を背景において、落ち着いた表紙が出来上がった。タイトルは「気の向くままに」である。
これは、「気の向くままに生きてきた私」でもいいし、「気の向くままに生きていきたい」でも、何とでも取ることが出来る。
目次は、今まで書きためた文章を、青島、瀋陽、忘れられない旅、などの旅行記などに分けていれる。表紙のタイトルの下に、目次を作った。
「忘れられない旅」の目次を作り、その一部の文章をhtml文書にした。写真の載せ方も教えた。それぞれの文書にリンクも張った。
ここまでで、夕方の7時。そういっては加藤先生に悪いけれど、彼よりも筋がよい。パソコン歴が加藤先生から長いから当然かも知れないね。
さあ出来た、というので、HPのアドレスにアップロードしたがうまくいかない。出来たものを見られないのは口惜しいので、私のアドレスが使っていないので、そこに送った。問題なくサーバーに送ることが出来て、しかも見ることが出来た。
というわけで、本質的なことは今日の一日で教えることが出来た。あとは、「掲示板」「日記」「カウンター」などを表紙に付けることだから、大した問題ではない。代わりにやって置いてもいいことである。
秀毅先生に電話して「一人でご飯食べていてね」ということで、大学の招待所餐庁に行って一緒に夕食してから、分かれた。
次回に会うのは月曜日17日。
2006年7月18日 (火) 山形 達也
7月17日夕方、瀋陽の街の北の方にあるレストラン「九香堂」に集まった。今は学校も夏休みに入って帰国される先生もあり、残された人たちの憂さ晴らしと、暑気払いを兼ねて、「教師の会・夏の分科会」を計画したのだった。
集まったのは、中道恵津、秀毅(今週末帰国予定)、峰村洋・尚代(18日帰国)、安部玲子(18日帰国)、森林久枝、池本千恵、山形達也・貞子の9人だった。
「九香堂」は教師の会の会員の一人のお友達がオーナーとなって始めた店で開店してからまだ1ヶ月である。店のインテリアも良くできていて落ち着いた雰囲気の店だ。
店の真ん中にテーブル二つをくっつけて9人で囲んで食事。食事は、コロッケ、とりの唐揚げ、トンカツ、拉皮、茄子の揚げ物、日本豆腐(玉子豆腐)の煮物、驢馬肉の煮付け、などなど、ビールを飲みながら。最後は日本ソバ。
この日本ソバは、そば粉6、小麦粉4で、この店のオーナーが自分で打ったもので、そばつゆも自家製。もう満腹だというのにお代わりまでして、舌鼓を打った。
机の大きさも、集まった人数も適当だったので、話が別々に進むこともなく一緒の話題で盛り上がり、楽しい時間だった。
教師の会の定例会の後など、「さあ、帰りに一緒に食事をしませんか」と誘って皆で出掛けると何時も大人数で、だいたい私の座るテーブルは年長組ばかり集まって、若い女性たちから何時も敬遠されている。
教師の会の送別会の時のように座る机が指定されていても、丸いテーブルは大きすぎて(座る人数は多いし、向かいは遠いし)皆でひとつの話題と言うこともないわけである。今回みたいなことは滅多にない。
つまり、言いたいことは、昨晩は若い女性を交えて一緒の話題で話しが出来て、楽しかったと言うこと。まだ、興奮しているみたい。アハハ。
8時にお開き。この次には人数が減るけれど、7月29日帰国という小林先生を囲んで、その前の晩あたりに同じように招集を掛けて一晩集まることを提案しよう。
2006年7月19日 (水) 山形 達也
日本の加藤先生からmailが届いた。
「いろいろとアドバイスありがとうございます。第1作品も手直しし、全部写真を入れられました。位置だとか行間隔には問題がありますが・・・。
現在のところ、第3作品までHPに載せることができました。明日は目次に入れた2作品を載せようと思っています。
ゲストコーナーの先生の文は消去しました。しかし、十分読まずに消去の手続きをしたため、保存できませんでした。よく読むと、画面から消去しても保存ができるのですね。以後はそれを活用しようと思います。
泳げなかった私に手ほどきし、背の立たない深みに連れてゆき、放り出してくださった達也先生に感謝いたします。」
何だか、近頃刑期を勤めて釈放されたヨットスクールの某校長みたいな気がしてきた。泳げないのに深みに放り出して、おぼれる加藤先生の頭を櫂でたたいたりして。。。
webを見るとページのレイアウトも写真も綺麗である。見事、見事。立派に泳いでいますね。後はゆっくりと泳ぎながら今まで書き貯めた文章を、見やすくwebに載せていって下さい。
なお、ゲストコーナーには「頑張れ頑張れ加藤先生!!」とエールを二回も送ったつもりだったのに、消されてしまったのは残念でした。
2006年7月20日 (木) 山形 達也
中道先生がまた遠くから訪ねてこられたので、2回目の伝授。中道先生は明後日土曜日朝の帰国の予定である。もう、これっきり、ここでの仕事を辞めてのご帰国。
彼女も中国に滞在している間に、膨大な量の書きためた文章があってこれをwebに発表したいと言うことである。お手伝いして、こういうことに役立つならよろこんで。
旅行の文ひとつで新しいページを作成。そのページの中でリンクを張って、小見出しに飛ぶ方法も教えた。目次からは別のページの中の特定の場所に飛ぶ方法である。
写真の載せ方の基本方法二つも。ついでにPhotoshopも。
そして最期に、サーバーに載せてOK。これで基本技術は全部伝授した。
http://www.geocities.jp/nakamichi20062002/
これで、internetの愛弟子二人が相次いで誕生。こちらはまともなwebisiteを持っていないというのにね。
今日の昼ご飯は、恵津先生お手製の「五目ご飯のおにぎり」だった。久しぶりにご飯を食べて嬉しかった。ご飯は嫌いではないけれど、何時も帰りが遅いのでうちではご飯を炊くことがない。妻と私の二人はご飯を食べなくても平気で過ごせるが、やはりご飯は嬉しい。
ああ、鰻どんが食べたいなあ!!!
それはともかく、中道先生。一路平安。
瀋陽に来て、教師の会に入って良かった。先生たちと知り合うことが出来て、どんなに私たちの人生の幅が広がったことでしょう。ありがとうございました。また、瀋陽にいらっしゃいね。
2006年7月28日 (金) 山形 達也
日本語資料室が新しく、広く、快適になった。瀋陽在住の日本人に帰国の際には本を寄付していってください、とお願いする計画がある。
ということは私も寄付しよう、ということで6月25日に資料室に行ったときに、ブッシュの戦争(日本経済新聞社) 、ブッシュの野望(柏書房)などを含む本十数冊を資料室に寄付して来た。しかし、7月15日に行ったときこの二冊の本が見あたらなかったし、先生方の借り出し記録にも載っていなかった。
本の内容がまずいというので、係の先生に処分されてしまった可能性がある。とすれば私はずいぶん不注意だったことになる。本には(山大爺)の印鑑が押してあった。
あるいは誰かが黙って持っていってしまったのだろうか?
2006年7月29日 (土) 山形 達也
瀋陽日本人教師の会のHPの中の日本語資料室を、とりあえず、現在の状況にあわせて新しくしました。
この8月には瀋陽日本人会幹事会にでて、日本語資料室の有効な活用法について呼びかけをする予定です。そのような話をするときっとHPを見られるでしょうから、日本語資料室の案内も古くてはいけないと思いました。
但し、旧資料室の案内、地図は歴史的な資料となったと考えて破棄せずに、そのままたどれるようにしてあります。日本語資料室の設立の経緯などの資料はそのまま、新しい資料室のHPからたどれるようにしてあります。
新しい資料室が見つかって引っ越した経緯は、日本語クラブに載った文章そのまま利用できるよう、そこにリンクを張りました。
新資料室の引っ越しの時や、初めての会合の時の写真も載せました。
いずれ、新資料室の記事や写真を充実させていきましょう。まだ、閲覧室の十分な写真がありません。