007年3月18日 (日) 瀋陽の50年ぶりの大雪
今年の春節は例年より遅く2月18日だった。それで後期は3月5日の月曜日から始まった。3月1日に私が瀋 陽に戻ったところ、卒業研究の楊くん、博士の関くん、王麗さん、修士の大勇くん、王毅楠くん、暁艶さん、秦さんなどの学生は私に合わせて前日か、あるいは遅くてもこの日までに瀋陽に戻ってきて研究室に顔を出した。
黒竜江省の暁東さんは土曜日に戻ってきた。後残っているのは修士1年生の陳陽くんだけである。彼は河南省の出身である。学生の時から休暇になると真っ先に寮を去り、休暇の終わりには戻ってくる学生の一番最後になるとのことだ。皆が笑いながらいう、「陳陽はお母さん子なんです。」
何しろ、この年齢になるまでリンゴを自分で剥いたことがないくらい母親が面倒をみてきたようで、従って、必然的に今でもべったりと母親に甘えたいのだろう。
4 日の日曜日は明け方から雪が降り出した。昼間はまだ雪が舞っているだけだったが、午後は激しくなった。私はいつもの日曜日のようにラボに来て窓を背にしてMacに向かっていた。2時頃暁艶と暁東が部屋に入ってきて私の向かい合わせにおいてある2台のPCに向かって何かを始めた。
やがて3時 頃、二人が言うには「今日の雪はだいぶ積もりそうなので今日は早めにうちに帰った方がいいですよ。」窓から外を見ると、強い風で雪が白いベールとなって風と息を合わせて舞い踊っている。それでも、窓から見える下の道はすべてが白いわけではなくまだ黒くて雪の積もっていないところもある。
「ま だ、いいんじゃない」といって私は仕事を続けたけれど、二人は執拗に危ないから帰りなさいと言う。とうとう根負けして帰ることにしてMacの電源を切った。すると二人も言い合わせたようにPCの電源を落として帰り支度を始める。二人が帰るなら、うるさく言う二人がいなくなるわけだから、もっと仕事をしようと思ってMacを点けたら二人の様子がおかしい。顔を見合わせている。何しろ二人との会話は英語だから、もどかしいし、間違いも起きる。
結局わかったのは私の帰るのに合わせて、私を送っていこうと二人が考えていることだった。とんでもない、雪が積もったって、うちまでは800メートルくらいなものだ。大したことはない。「いいよ、いいよ」と言うのに二人はどうしても送ると言い張る。しかたない、まあ、いいか。
研究棟をでたところが階段で、まずここに積もった雪を気楽に踏んで歩けると思ったら大違いだった。脚は深くそして斜めに曲がって沈み込みたちまちよろけて、次の脚がとんでもないところに埋まって尻は雪の上だった。私は両側から二人に抱えられて雪だまりから引き上げられた。路面にでると、雪は強い風で深い吹きだまりを作っている、風の通り道には全く雪がないけれど、それだけをたどって歩いていけるわけではない。雪だまりに足を取られ両側からまた引き上げられてと言う具合に、この雪の中を歩くのは想像以上に難儀だった。日常的には5分くらいで歩いている路を、道路の真ん中に放置された車を何台も横目にみながら1時間近くかかって掛けてうちにたどり着いた。それも半分は両側から腕を抱えられながら。
さてうちに着いてみるとこのまま二人を大学の寮に帰すのは気の毒である。暁艶は176cmくらい背があっていつも買い物の荷運びを志願してくれるほどたくましい女性だが、もう一人の暁東は妻と同じくらい小柄な女性なのである。力仕事をさせてそのままでは申し訳ない。土曜日にgroceryに行っているし、スパゲッティならすぐに作れるからそれを作ってごちそうしよう。
と言うわけで、日本から運んできたスパゲッティで急遽夕食を作って二人に食べてもらった。聞くとスパゲッティを初めて食べたと言うことだ。本当に気に入ったかどうかわからないが、初めてのものをご馳走できたというのは嬉しいものだ。
こ の雪は50年ぶりの大雪だったという話で、月曜日の朝まで降り続き、瀋陽空港は火曜日午後まで閉鎖されたほか、瀋陽に来る汽車も途中で止まってしまった。陳陽からは日曜夜には「汽車が途中で動きません。」そして月曜日には「瀋陽駅に着きましたけれど、大学まで行けません」と言う電話がかかり、結局大学に彼がたどり着いたのは火曜日の夜だった。
その後しばらく経ってから陳陽が「先生、私はまだ先生のスパゲッティを食べていませんねェ。」と言う。
彼を誘った覚えはないのだ。暁東たちが食べたのを聞いたのだろう。全く困った甘えっ子である。
2007年4月8日 (日) 瀋陽薬科大学って? その一
昨年12月に書いた日本留学志望の李さんを巡る話の続きである。東工大の国際大学院国費留学生募集の Websiteには12月20日締め切りと書いてあった。李さんは東工大から入学者候補として11月22日までに必要書類を出すように言われた。送った書類に問題がなければ合格判定が全学会議で出る。
中国では戸籍の証明を取り寄せたりするのに思いもよらない時間が掛かることが多く、それが一番の心配だった。大学の書類もなかなか出ないことがある。それでも期限の1週間前には書類が揃い、李さんはそれを発送して三原先生から安着の知らせを貰って晴れ晴れとした顔をしていた。
ところが年も押し詰まった12月27日に東工大の三原先生からメイルがあった。『全学の会議で順次大学での合格案など決まって行きますが会議にかけていくに従い、国費奨学生候補は東京工業大学の協定大学からが望ましいという状況が分かってきました。それ以外の場合は、大学のレベルを説明しなくてはなりません。そちらで瀋陽薬科大学のレベルなどを説明する文章を作成していただけないでしょうか? ランキング、薬科大学の中でのレベルなど資料があれば添付していただければ幸甚です。協定大学は工学系しかなく、苦慮している次第です。』
李さんの行くのは生命理工学研究科で、東工大としては比較的新しい部門である。当然、東工大設立以来その中心だった工学系とは目に見えない争いがあるだろう。『生命理工学科では、瀋陽薬科大学なんて聞いたこともない大学から学生を採るんですか?名門の清華大学からの応募が少ないんですかねえ?』と工学系から皮肉混じりの嫌みを言われて、『そう言や、山形先生の話で学生の推薦を決めてしまったけれど、いったい瀋陽薬科大学って、どの程度の大学なんだ?』ということになったのだろう。
日本でも大学の格付けが盛んである。大学の格付けには、いろいろの要素が使えるから、従っていろいろの順位付けがある。ちなみに東工大は日本の大学の中で何位かというと、計算方法によって6位から9位に来る。The Times Higher Education Supplement World University Rankings International Comparison’s World’s Top 100 in Technology によれば、東工大は世界の工科大学の第18位にランクされている。日本の大学ランキングの上位にはいわゆる旧帝大が並ぶ。それに続いて6位から9位ということはかなりいい線を行っていることになるが、東工大は日本中に鳴り響いている名前ではないし、中国の名門と目される清華大学と共同の学生教育プログラムを立ち上げてはいるけれど、中国では先ずほとんど知られていない。かなり玄人好みの、あるいは通なら知っている大学といえるだろう。
さ て、瀋陽薬科大学はどうだろうか。中国でも毎年大学順位表が発表されてwebで見ることが出来る。普通は100位までが発表される。これに薬科大学は入っ ていない。人から聞いた話では140位のあたりらしい。しかし中国の大学の評価が、正確にはどのような基準に基づいてなされるのかよく分からない。少なくとも、学生数の多いところは評価が高い。中国では『大きいことはいいことだ』ということのようだ。この薬科大学だって、『瀋陽にある医科大学など三大学と合併すれば学生数は全国2位になります』と、皆が期待を込めて嬉しそうに言うのを何度も聞いたものだ。合併は話だけでなかなか実現しそうもないが。
東 工大の入試委員から、瀋陽薬科大学の評価についての資料を求められたので、私は学長と、学長補佐で国際交流処長でもある程先生に、この大学の評価を表す客観的資料を、これこれの理由で必要としていると言って、お願いした。ことはこの大学の学生の日本への留学に関することである。彼らにお願いするのが筋である。しかし、ひょっとして期日までに資料が貰えない場合にはそれでは困るので、一番困る李さんに資料を探すように言った。『何時までですか?』と李さん。『三原先生のメイルでは年明け早々に資料がいるみたいですね。頑張って集めて下さいな。』と私。
幸い彼女は故郷と家族から離れて瀋陽にいるので、年末年始だからといって特別な家庭の行事はない。それで、三ヶ日のうちに資料を探してきた。一つは『瀋陽薬科大学は1931年に江西省の瑞金で誕生して、中国では歴史が最も長い、優良な伝統に育まれた薬学の総合的な大学です』で始まる紹介である。名門と言ったって漠然としている。もっと具体的な、しかも他と比較できる資料が欲しい。
(この稿つづく)
2007年4月15日 (日) 瀋陽薬科大学って? その二
『2004年には、発表論文860篇,131篇はSCIに収載されました。昨年2005年には、発表論文1,014篇,197篇はSCIに収載されて,中国国内では連続して中国薬科大学と北京大学薬学院などの薬学関係の学校の首位に立っています。』これで業績がかなり具体的になったが、他の研究機関のそれと比べる客観的な資料が必要である。
つまり漠然とした基準による大学順位ではなく、大学の発表する論文数の順位や、大学の獲得する競争的研究費の額などで大学の評価を行えば、大学の生産性の優劣などの資料として客観的に使える。
そ の意味で唯一手に入った資料は2001-2003年の3年間にMedlineに収載された論文の数のrankingだった。Medlineに載るjournalとScience Citation Indexの対象になるjournalと同じではないが、Medlineのjournalに載る論文で大学を評価するなら、私たちの評価の感覚に近い。
こ のwebに載っている論文数rankingの資料では、中国大陸の各大学/科研機構で比較すると、中国科学院を1位として、北京大学、復旦大学、清華大学、協和医科大学、浙江大学、南京大学、武漢大学、第四軍医大学、中山大学がこの順で10位まで並んでいた。瀋陽薬科大学は16位となっていた。
と ころで論文の数は研究に関わっている人の数に比例する。研究機関の規模が大きければ、発表論文の総数は多いに決まっている。教授、助教、大学院学生、ポスドクなどなどが研究に関わっている。従って研究者の数で割れば、一人あたりの生産性あるいは活動係数の優劣を出すことが出来る。これが直接的な大学・研究機関の構成員の能力比較となる。高けりゃ良い大学である。
教授の数は公表されていても、研究者の数は分からない。それで各大学で発表されている(昨年度の)教授の数で代表することにして、この数で上記の発表論文数を割って、一人あたりの数字の高い方から並べると、ダントツ1位は中国科学院。北京大学の2位、上海交通大学医学院の3位、協和医科大学の4位、南京大学の5位に続いて、何と瀋陽薬科大学は6位である。全学挙げての論文数では16位だったが、一人あたりの生産性では6位という立派なものである。論文総数では3位と4位だった復旦大学、清華大学よりも遙かに上に位置する。
一人あたりの生産性は、もちろん研究費の潤沢度に影響される。清華大学などの研究費は薬科大学より遙かに豊かに違いないから、清華大学の生産性よりも高いと言うことは薬科大学は結構優秀なんだなと言うことであろう。
学生数はおざっぱに言ってみれば大学の規模であろう。学生数で割れば研究の基本的性能ということになるだろうか。それで公表されている(昨年度の)学生数で割ると、瀋陽薬科大学は9位である。つまり総数で16位、生産性で6位、基本的性能で9位となった。
先ほど、東工大は日本の大学ランキングで計算方法次第で6位から9位に位置すると書いたが、いみじくも薬科大学の中国で占める位置も良く似ているではないか。
『薬科大学は日本では全くと言っていいほど知られていません。中国ではあまり知られていませんが、薬学では長い歴史のある名門です。業績もありますし、言ってみれば中国における日本の東工大みたいなものですよ。』と、上記の資料を付けて三原先生に送った。
この説明はとても良かったに違いない。彼はすんなりと納得してくれたようで、東工大全学会議の中で薬科大学の位置は無事に承認されたようだ。
『いやあ、知られていないですけれど、瀋陽薬科大学は中国の理系大学では6位から9位に位置して、この東工大の位置と同じなのです』と三原先生。
教授会全員『なるほど』と納得。
それから3ヶ月経った4月3日の昼頃、李さんが泣きながら私のオフィスにやってきた。彼女はとてもメリハリのしっかりした日本語を話す人である。それが涙混じりの声なので何言っているか良くわからない。泣きながら手の中の一枚の紙を私に見せようとする。
一 目見た途端にわかった。紙には日本語で入学許可証と書いてあって印鑑が押してある。東京工業大学の修士課程入学を志願していた李さんは、選抜の過程を経て最終採用候補に残され、日本政府奨学金の申請が大学から文科省に出されていた。この段階まで来ればきっと通るよと私がいくら言っても、不安が残っていたのだ。その彼女に最終的に大学の公文書として入学許可書が届いて、安心と嬉しさのあまり泣いてしまい、それでも私に入学許可書を見せに来たのだった。
ところで、学長と学長補佐に大学の地位を示す客観的資料をお願いしたが、結局期日までに返事が来なかったし、未だに来ていない。しかし私は泰然としている。こんなこと位でうろたえてはいけない。何故って、ここは中国なのだから。
2007年4月29日 (日) 秦さんのこと
秦さんは私が瀋陽に戻った翌日の金曜日に別れの挨拶に来た。その翌日の3月3日に彼女は日本行きの飛行機に乗り、すでにこの春東大の博士課程に入った夫の胡丹と一緒になる。
胡 丹は日本国政府奨学生になっているから学費・生活費の心配はないけれど、二人になれば生活はぎりぎりだろう。日本でアルバイトでもすればやっていけますと胡丹はきわめて楽観的なことを言う。「とんでもない、就労できないビザで日本に行くのだから、働きたいと言って職を探すと悪いやつに搾取されるかもしれないし、強制送還もあり得るよ」と脅しておいた。
胡丹は薬学日語で5年制なので一つ若い秦さんと卒業は一緒だった。秦さんの友達が胡丹を男朋友の候補として紹介したのがなれそめだという。中国語でいう男朋友は、ただの友だちではなく将来を約束した恋人のことを指している。
後 で胡丹が私たちに言っていた。「彼女が私を男朋友に決めたのは、私が不細工で不器用だから、この男なら他の女が寄ってこなくて安心できそうだと言うんです。」女性はいつの世でも、世界の何処でも落ち着いているものだ。私も妻からは同じような理由で選ばれたに違いない。男が女を選んだつもりでも、実は女性が選んでいるのだ。そして女性はいつも正しい。
胡丹が不器用で不細工かどうかはさておき、彼はたちまち彼女に夢中になった。それまで4年間一緒に学生食堂に食事に行っていた寮で同室の魯くんも、朱くんもお呼びではなく、何も知らずに冬の休暇で日本に帰っていた私たちの所に彼らの嘆きのメイルが届いて、私たちもことの顛末を知ったほど急激に燃え上がった恋の炎だった。
やがて瀋陽に戻った私たちを胡丹は待ちかまえていて、彼女を紹介してくれた。私たちが驚いたのは、次の休みの機会にそれぞれの故郷に戻って両親に相手を紹介するというせっかちさだった。男と女は互いに恋に陥ちる。恋に陥ちれば夜昼なく相手を考え続け、相手を求め続けて、そして生涯一緒にやっていく相手と思えればそう決める。こんなに短い期間で、直ぐに決めていいものだろうか。恋に貴賤なし。恋に遅速なし(なんて言うかな?)。それはともかく、彼らを見ていると親に紹介してそれが公認となることで互いに「恋人同 士なんだ」と安心するらしい。
と言うわけで二人とも修士課程を終えた昨年7月、別の言い方をすれば灼熱の恋から2年半の月日を経て、彼ら は郷里で結婚した。胡丹はその前から日本の博士課程に進学したいと言い、私たちは彼を友人の山本先生に紹介した。彼は山本先生の骨折りで東大推薦の国費留学生に選ばれ、10月初めには渡日することになっていた。
修士課程を終えた二人は大学の宿舎から出て大学近くのアパートを借り、胡丹は東大に行くまで私たちのところで研究を続けた。やがて胡丹の日本行きの日が迫った。胡丹が来て言うには「彼女をこのまま瀋陽に一人置いておくのは心配だし、故郷に帰しても心配です。自分が東大の博士課程の入試に入ったら出来るだけ早く呼び寄せますので、それまでこの研究室に置いて貰えないでしょうか?」
私 たちも心配していた。研究室に来れば一日中彼女を見ていられるし、彼女がまだ知らない生化学、分子生物学の基礎的な技術も教えられるから、将来を考えると一挙両得だろう。それで、胡丹が出掛けたその日から泣きはらした眼のままで秦さんは研究室に来て働き始めた。ゼラチンザイモグラフィも、電気泳動も、イムノブロッティングも直ぐに覚えてたちまち1級の技術レベルに到達した。彼女は胡丹よりも実験センスがいい!
その間彼女は日本行きに備えて日本語の勉強を始めた。胡丹の日本語は見事と言える域に達していたが、一方秦さんはまだ全くの初心者である。教師の会の同僚の若い先生が、忙しい中から時間を割いて、そういう事情ならと言って破格の値段で日本語教授を引き受けてくれた。
秦さんが日本に出掛けるときの日本語はまだたどたどしいものだったが、メイルで書いてくる日本語はたちまち進歩した。
「こんばんは,お元気ですか?先生のEメールをありがとうございました。励ましてくださいましてありがとうございます、私は頑張ります。
今日は彼と一緒に学校の前に公園に行きました。公園に桜の花は多く、とてもきれいですね。私たちは桜の花の写真を撮りました。先生に写真を見ていただきます。」
最 近の頼りでは、胡丹のいる山本研究室で秦さんはいろいろな細胞の糖タンパク質の二次元電気泳動の後レクチン染色をするという仕事を頼まれたらしい。「まだ日本語で話されてもよく分からないけれど」と書いてきているが、私たちもアメリカに留学したときに覚えがある。ちゃんと話せなくても、仕事ではちゃんと結果を見せるぞ!と思ったものだ。秦さんのここで覚えた電気泳動の技術が彼女の生活の助けになっているなんて、とても嬉しいことである。
2007年6月15日 (金) 今年の卒業研究
生化学科の主任である小張老師から電話があった。「いま先生のところは卒業研究の学生が何人いますか?」「2人です。」
「も う研究がまとまって発表できる状況ですか?」という。あわてて「いえ、いえ、まだ終わっていませんよ。」と言ったのだが、それ以上面倒な話しになるらしく先方は私を避けて、「誰か大学院博士課程の学生を呼んで下さいな。」と言われてしまった。互いの共通言語は英語しかないから、面倒な話になると、と言うか微妙な話になると、彼女は英語をやめてさっさと中国語の出来る(当たり前のことだが)うちの学生の誰かを掴まえて話を進める。
こういう訳で実験室まで行って呼んできた王くんは、しばらく小張老師と話していたが、やがて電話を置いて「卒業研究の発表は、来週の月曜日になりました。午後1時からでここからは二人続けて話します。発表時間は一人7分だそうです。」と話を伝えてくれた。卒業論文の提出も、同じく月曜日だという。
思わず絶句する。すでに卒業実験の学生が聞いてきて私たちたちが理解していたところでは、発表は次の週の週末だった。
電話を受けたのが木曜日の午後で、発表の日まで後3日しかない。まだ学生は論文発表の準備に取りかかっていない。学生は今年は2人しかいないが、一人は良いとして、もうひとりの宋さんが心配だ。
彼 女は数日前の月曜日の朝、ほかの学生と同じように私たちの部屋に朝の挨拶に顔を出した。しかし、全然一言もしゃべれずにうーうー言いながら頭を挨拶するように二度上げ下げして出て行ってしまった。そのとき部屋にいた暁艶さんが驚いて追いかけて彼女を掴まえて訊いてわかったことは、プレッシャーで自分の精神が壊れてしまった、数日間休ませてくれと言うことだった。これを宋さんは「口が利けない」ので紙に書いて、暁艶に見せたのだ。
こういうことは扱った経験がないので戸惑ったけれど、「良いでしょう、休みなさい」と指示して、一方では宋さんの先輩に当たる大学院修士の暁東さんに「彼女と連絡を取って、彼女の卒業研究をまとめる手伝いをするよう」に頼んだ。
こ のときは卒業研究の発表は次の週の終わりと思っていたので、今週いっぱい休んでも良いと考えたが、こうやって電話で来週の月曜日が発表とすると、このままではいけない。暁東に話して、宋さんの様子を見て欲しいと頼んだ。暁東は宋さんと連絡を毎日取っていたようで、「もう大丈夫みたいですよ、明日の金曜日には出てきます」ということだった。
金曜日の朝7時半頃から学生がぽつぽつ私たちの部屋にやってきて朝の挨拶をする。この朝の挨拶は毎日朝来たらするようにと言ってあるので、彼らの習慣になっている。ふつう彼らは朝会っても挨拶の習慣を持っていないのだ。この日最後にやってきたのが宋さんで、元気な声で「お早うございます」と叫んだ。大体彼女は何時も元気で大きな声を出して挨拶をする。聞き慣れた何時も通りのしっかりした声なので、何の抵抗もなく受け入れた後、彼女は数日間休んでいて今戻ってきたことを認識した。
訊くと「大丈夫」だという。眼もそらさないでこちらを見ているし、大丈夫だろう。暁東の話では、実験をやっていては論文を書く時間がないと思うあまりにどうして良いかわからなくなったみたいである。休んだことでやっている実験も投げ出してしまったのだから、それまでのことを書くだけのことだ。きっとできるだろう。
卒業研究の発表練習は土曜日の午 前中に設定した。発表練習も教育のうちと考えているので、いつもは数回の練習をしてパワーポイントの中の内容、書き方、話の構成、話し方すべてを直してい くのだけれど、今回は時間がない。明日1回だけで終わりである。卒業論文でも、いつもは提出前に原稿を読んで直していることを思い出した。今年はこんなこ とで良いのだろうか。
これは中国に来て4回目の期末を迎えて、私たちはもう大抵のことには驚かなくなったということだし、もう一つは、自分たちのやり方、つまり研究と教育における信念と流儀を忘れかけていると言うことでもあるだろう。心しなくてはいけないことである。
2007年6月23日 (土) お祝いと送別会のこと
6月17日(日曜)、鄭大勇くんの修士論文発表。
6月18日(月曜)、宋明、楊方偉くんの卒業論文発表。
6月19日(火曜)、王Pu(僕という時の人偏が王偏)の博士論文審査会。
6 月19日夜は王Puくんと、彼と同じ日に博士論文を発表した招さんの二人を祝う晩餐会があった。今までこのような博士号を取った人を祝う会には、この大学の教授から何度か呼ばれたことがあった。博士論文審査会の時のレフェリーを務めた教授たち数名(だいたい半分は中国医科大学、中国科学院、遼寧大学などの外部から請われて来ている)、博士論文を発表した本人たち、研究室の人たち、私たちみたいな関係者何名かが呼ばれていて、割合と豪勢な食事会である。私たちのところにも博士がいるので、このような宴会の出資者は誰か大いに気になる。
日本に私たちがいたときは、もちろん私たちが博士号取得者にお祝いの会を催していた。ある時ドイツに行って友人の教授を訪ねたとき、ちょうど彼の研究室の博士の発表の日だった。そして夕方は皆が集まるお祝いの会が延々と続いた。訊くと、博士を取った人がお礼と感謝の気持ちを込めてこのような盛大な感謝の会をもつのだという。「いい風習だなあ」と思った。私が博士号を取った時は、そのあと指導教官に感謝する会も開かなかったし、お祝いもされなかったが、今思うととても気が咎めることである。
王Pu くんに今日は誰が費用を払うのと聞くと、もう一人の指導教官(王くんは老張老師の研究室の学生で、私たちは預かって彼を育てただけである)である老張老師かもしれないし、自分かもしれないといって暗い顔をする。そんな大事なことが決まっていないのは不思議な気がするが、夜の食事会があるというのも公式にはその日の審査会の時に聞かされたのが初めてなのだ。審査会の秘書役の小張老師から「このあと、食事会があるけれど、先生たち時間がありますか?」
今までにほかのお祝いの会に出たことがあるから、当然、王くんの時にも食事会があるのは予期していた。私が主催するのだろうか?気になる。でも正式の指導教官は老張老師なのだ。私の出る幕ではない。
こ の日の食事会はかなり豪華なレストランで開かれた。王くんと奥さん、招さんと旦那さんの二組、妻と私のほかに通訳として私たちの学生の王毅楠くん、老張老師と、審査員を務めた大学の同僚教授1名、老張老師の研究室の副教授二人の合計11名だった。審査をつとめたほかの大学の先生方は(どうしてなのか)来ていなかったので内輪の会合だった。あとで王くんにこっそり聞くと、スポンサーは老張老師だったという。博士号を取得した人がそれまでの指導に感謝を込めて会を催すというのはドイツだけの麗しい風習のようだ。
三日つづいて発表会があって私たちの研究室の卒業生は最後の試練を終えたわけで、私たちの研究室もお祝いと送別会をすることにした。卒業を控えて皆それぞれ忙しく、6月22日金曜日の夜だけが卒業式までの間に全員が集まれる日だった。
18 名という大人数になることが予想されたけれど、二つのテーブルに別れて座りたくなかった。それで、18名が一緒に座れる大きなテーブルのあるところを探して、大学のそばの陸軍病院の中の金利賓館を予約した。中国で陸軍というのは特別な位置にある。駅の窓口で切符を買い求める人たちの長蛇の列があっても、兵隊や軍の関係者はいつでも先頭に割り込んでいいし、汽車には何時軍の人が来てもいいように座席の余分があると聞いたことがある。つまり、この施設の中のレストランは超豪華仕様で、行ってびっくり。
今年卒業で祝うのは博士の王Puくん、修士を終える鄭大勇くん、学部を終える宋明さん、楊方偉くんの4名。この日はさらに寧娜さん、李杉珊さんも加えて卒業のお祝いをした。この6名はこの卒業で瀋陽を去ることになっている。お祝いと同時に送別の会である。
卒業生一人一人に向かって私が思い出を述べ、彼らは感謝を述べ、乾杯を繰り返し、気が付くと宴を始めてから3時間が経って終わりの時間が近づいていた。
超豪華なレストランで私たちはすっかりびびってしまい、料理を注文した王毅楠くんと楊方偉くんが節約に努めたので、支払いは予想の半分の691元だった。
2007年6月27日 (水) 彼らの卒業写真
「先生、あつーーいです」と言いながら、6月にこの薬科大学を卒業する李杉珊さん、寧娜さんが私たちの部屋 に入ってきた。つづいて楊方偉くん。三人とも、黒い卒業ガウンを着ている。今日の最高気温は予報では34度だ。東京に比べて湿度が低くてしのぎやすいとはいえ、真夏の太陽に照らされていたらこの格好では苦しかろう。
卒業生がガウンを着るのは毎年の6月末の大学風景で、私たちもすっかりなじみになった。学部卒業生は黒一色。修士は黒と青、博士は黒と赤、の色の違うガウンであることも覚えた。
1回見に行った卒様式では、正式のガウンに身を固めた学長が、卒業生(代表の頭の帽子の房を左から右に垂れるように移したのもみた。つまり卒業生の帽子の房は右側に垂らすのだ。房の色は資格によって違う。
昨 年は胡丹と彼の愛妻が修士課程を出て、そのとき私たちのためにもガウンを借りてきてくれたので一緒に写真を撮った。そのときに聞いたけれど、ガウンは1時間5元で借りるのだそうだ。学生はクラスごとにまとめて同時にガウンを借りて来て、クラス一緒の卒業写真を撮り、さらには仲間同士の写真を撮り合う。そして時によっては、時間を気にしながらも私たちの部屋まで来て「先生、一緒に写真を撮りましょう。」と言うことになる。
昨日の夕方は別のクラスの曹さんがガウン姿を見せに来たけれど、「これ5時までに返さなくてはならないのです。」と言うので時計を見ると、5時1分前だった。
そ のあとで昨年卒業した暁艶さんに聞くと、ガウンは大学が持っていて貸し出すのだという。夏の日に学生が何度も着るために汗で汚れがだんだんひどくなってきて、今年は新品のガウンに換えたという。「去年の私たちは汚いガウンだったんですよ。臭くて損しちゃった。」と言うことだった。ちなみに私たちが昨年着たガウンは、「これは新品です。」と胡丹が保証していたっけ。
ともかく教授室を訪ねてきた卒業生と、私たちは並んで撮ったり、組み合わせを替えたりして、急いで写真を撮った。私たちがここに来た4年前は、私の持っているデジカメが唯一のカメラだったが、今は学生は誰でも持っている。カメラがなくても、誰でも持っている携帯に付いたカメラがある。カメラの台数だけ写真を撮るから、時間が掛かる。
一緒に並ぶと、彼らは重ね着をしている上に、暑い日射しの中を急いでここまで来たのだから、若い彼らの身体からは熱が放散している。たちまちこちらまで熱で炙られて暑くなり、のどが渇く始末。この三人組もガウンを返すまであと3分しかありませんというので、忙しかった。
今 年の卒業式は6月27日に講堂で挙行される。卒様式には3年前にその時の卒業生の沈慧蓮さんに誘われて一緒の講堂に行ったことがある。ガウン姿の学長以下の教授が居並ぶ壇上に、しきたり通りのガウンを着た学生代表が出て行って、証書を受けとるのだった。席に座ってこれを見下ろしている大講堂の中の卒業生は、ほとんどがTシャツ姿だった。
薬学部を出ると、理学士の学位が授与される。この学位を授与されるには、日語では日本語4級試験に合格 していることが必要条件である。この試験に通っていないと、単に瀋陽薬科大学の卒業証書を授与されるだけである。と言うことは、卒業証書と学位記と二本立てであり、それぞれはパスポートくらいの大きさの二つ折りである。卒業証書や学位記を示す必要があるときには、彼らは手持ちのこれらを見せるか、コピーを提出すればいい。
日本の場合にはA3よりも大きな紙で、これをコピーして提出するなんて思いもよらない。私の場合には長い間筒に入れてしまってあったけれど、どうせ私が死んだら捨てられるんだと思ったら気の毒に思えて、筒から出して額に入れ、居間に飾った。いずれにしても証明が必要なら、大学の教務課から証明書を取り寄せる必要がある。自分で手持ちの出来る卒業証明書や学位記があってこのようにコピーして使うと言う発想があるなんて、実際にぶつかるまで思いもよらなかった。
ちなみに結婚証明書もパスポート見開きの大きさに二人の写真と一緒に結婚証明が印刷してある。2冊発行されて二人が何かの時のために持っている。必要なら、これを見せる。たとえばホテルの泊まるときに、一緒の部屋を取るならこれを見せなくてはならない。もっとも中国にもあるラブホテルでは、結婚証明書を見せることを要求しないという話を人から聞いた記憶がある。ま、当たり前だね。
2007年7月16日 (月) 台北で開かれた学会
7月7日から台湾の台北で開かれた第3回国際糖類分子免疫学学術会議に参加して、14日夜には台風4号を避けながら成田に戻ってきた。
この学会は台北にある長庚大学の呉明道先生がTexasで開いた第1回から数えて20年経って第3回が開かれたことになる。第2回は1999年に台北に戻った呉明道先生により開かれている。あとで分かったことだが、この3回の会議全部に出席した人が一人だけいた。
昨年夏に私が以前いた研究所宛に送られていた呉明道先生からの招待状を受け取った。国際学会にはここ数年全く出席していない。日本の学会にも行っていない。
瀋 陽に来て研究を始めて3年経ってそれなりの成果が出始めたのでそれを発表したい。薬科大学の国際交流処の程処長に聞いたら行っていいという。学長にも聞いたら、良いから是非行きなさいと言ってくれた。台湾と台湾の間に直行便はないので、中国から台湾に出かけることが問題になるかと思って尋ねたのだ。
1 月にabstractを送り、6月には台北の予定を書き送り、一方で瀋陽ム成田の往復を瀋陽で買い、日本で成田ム台北の往復便を買った。7月7日には瀋陽を朝8時半に飛び立ち、昼過ぎに成田に着いて貞子に迎えられた。彼女は検診があったので私よりも1週間早く帰国していた。彼女は私のために小さなトランクをうちから持ってきていた。台北旅行用なのだ。大きなトランクは成田で1週間後にうちに届けて貰うよう宅配便に頼んだ。
台北に夜の9時頃着いたが迎えに来ているはずの事務局の人が来ていない。そこで出会った旧知のBasu博士と一緒になり、かも探しに来ている白タク運転手に声を掛けられ、中央研究所まで1600元で手を打って運んで貰った。
約 1時間で台北市の南東にある南港地区の中央研究所に着いた。これは英語名ではAcademia Sinicaで、同名のものはもちろん今の中国にもあるが、漢字名は科学研究所である。台湾でのAcademia Sinicaは生物化学、分子生物学、ゲノミックス、数学、物理、などの研究所の集合体で、台湾のアカデミックな研究の大きな中心の一つである。 activitiy center と言う名前の宿泊施設、講堂、体育施設も備えている。
台北には1998年シアル酸関連糖鎖生物学会が 開かれてきたことがある、同じ会場だった。さらに2002年にはAcademia Sinicaの生物化学研究所の教授である井上康男・貞子夫妻に招かれた。井上先生は東大の定年の後Academia Sinicaに招かれて2002年末まで研究室を持って台湾に糖鎖生物学を定着させようと努力をしておられた。
と言うわけで今回を入れて 3回の台北訪問だった。何時行っても台北の印象は良い。人々はやたら元気で街は喧噪に満ちているけれど、表情が明るく屈託がない。瀋陽との大きな違いは。瀋陽の街を歩くとだいたい若い女性は背が高くおしゃれをしていて「私は美人よ」という感じでつんとして歩いているけれど、台北ではそのような美人は先ずいない。日本と同じで皆親しみやすい可愛い顔をしている。着飾ってもいない。これも日本と同じである。それで寛ぎを感じるのだろうか。
中国 語は依然として分からないけれど、それでも時折口にする中国語の発音と英語で、私は「お前は日本人ではないね、中国人だろ」と言われることが多かった。中国人なまりのある英語を話すようになってしまったのか、と思わないでもないが、私は元来楽観的な人間なので、これは誉め言葉だと受け取っている。日本人離れした英語なんだよ!!!
しかし、長年英語の存在しないところで英語を使っていると「鳥なき里のこうもり」という具合で、だんだんおかし な英語を話すようになっているに違いない。このことわざに相当する表現は中国にも英語にはないと、長年の友人であるJohns Hopkins大学のYC Lee教授が教えてくれた。もし英語で言うなら、「In a bird-less land, bats rule the sky.」というのはどうでしょうと言うことだった。つまり、私はA Batmanなのだ。今度映画があったら、どんなものなのか見てやろう。
2007年7月26日 (木) 台北の学会で
台北で開かれた学会は世界各国から研究者が集まっていたけれど、参加者は50名足らずで小さなものと言って良い。昔からの知己とも久しぶりで会えたし、研究を通じて名前を知っていても初めて会って話を交わすことで親しくなった人もいた。
イ タリアのSandro Sonninoはイタリアのミラノから来た。古い友人のTettamanti の跡を継いだ教授で、糖脂質研究の大きなグループを率いている。今回はそのグループにいるAlessandro Prinettiがあらたに知人に加わった。糖脂質の世界的研究のメッカであるシアトルの箱守研究室でポスドクをやっていて、そのときの彼の論文で彼の名 前も知っていたのだった。今40歳になったかならないかの年齢で、テノール歌手のパバロッティを若くしたような身体に貫禄がある。細胞表層の糖脂質、細胞 の外から与えた糖脂質の効果について私たちと同じような疑問を持っているようで、互いに腹を探り合いながら、それでもいろいろと議論をした。
Sonnino は彼らのところにPhDプログラムというのがあって、枠は11人。そのうち1名は非ヨーロッパ系の学生のための枠だという。 「と言うことは」、と私は彼に確認した。今私のところにいる修士課程の学生が修了したときにこのプログラムに応募できるのか。修士号を持っていることが絶 対条件で、選ばれれば次の年の1月から博士課程が始まるという。イタリア語は必須ではないとのことだ。今修士2年に在学している王毅楠くんは後1年でよい 研究を仕上げれば、これの候補だ。
学会の二日目に私の順番が回ってきて20分の講演をしたが、この内容は最初のabstractで用意し たものではなく、王Puがやった別の研究に基づいて講演をした。というのは、最初用意した話は投稿した論文がまだ受理されていないので、話すわけにはいか なくなった。王Puの研究はすでに1報公表されていて、一つは受理されている。あとの1報もレフェリーの要求に沿った修正を行えば無事に通ることが期待で きる。
今までマクロファージは刺激されるとTnfと言う細胞が出すシグナルを合成・分泌するが、この生産はガングリオシドが抑えると言わ れている。ところが私たちの使っている細胞では、ガングリオシドがTnfの生産を亢進させることが見つかっている。この時のガングリオシドGM3のシグナ ルの通り道を私たちは解明して、これが全く新しい経路であることを見つけたのだった。
この話をしたこの学会は糖鎖関連の学会だったが、シ グナルの話は私の講演以外にはほとんど出てこなかった。つまりシグナルの分かる人たちはまだ少数派だ。「糖鎖生物学をやっています」と言えば、研究室では 糖の検出、分析、同定が日常的な基礎技術としてありそうだが、私たちのところではまるで出来ない。分析のための機器を全く持っていないのだ。せいぜい、 HPTLCをするくらいである。私だって道具がなければ、ある試料がどんな糖を含んでいるかと訊かれても全く分からない。
と言うわけで私 たちは糖の検出、分析、同定の方には踏み込まないで済むようにしながら、糖鎖生物学の最新のテーマとして、糖脂質が細胞のいろいろの機能にどのように働き かけているかを調べている。このようなテーマでは細胞の中でのシグナル伝達が対象となる。糖鎖のことが全く分からなくても、現代生物学の最新のトピックス を対象として研究できるのだ。
と言うわけで私たちの研究の報告は、ガングリオシドGM3のシグナルがどこを通ってTnfの発現を上昇させるかという内容だったが、恐らく今の糖科学研究のレベルからはぶっ飛びすぎていて、参加者に直ぐには理解されない内容だった。
それでもこの研究を遂行した王Puが博士課程を終えて、いまは中国以外のところでポスドクのポジションを探していることを付け加えると、講演を聴いていたアメリカのジョンズ・ホプキンス大学の教授から早速ポジションのofferがあった。
こ の若い教授は細胞がある特定の構造の糖鎖を認識したら次にどうなるかという研究をやっている。当然この先はシグナル伝達に行くだろう。この修練を積んだ研 究者が欲しいに違いない。王Puも今までとは毛色の違う研究をすることで視野が広くなるだろう。ジョンズ・ホプキンス大学は一流中の一流大学である。一流 好みの中国人もこの点でも満足だろう。この話がまとまるといい。