2009/01/01 11:30
誕生日のお祝い
年の瀬とか新年という節目を迎えると「もう幾つ寝るとお正月」と歌って新しい年の到着を待ちわびた子供のころが懐かしい。年々それなりの自我を発達させていたはずだが、その頃の記憶は断片的で、何を思っていたのか思い出すことが出来ない。
新年が来ると何もかもが一新して変わるものと思っていたのに、時間の切れ目があるわけでもなく、そのまま日常が続いているのだと言うことに気付いたのは何時だったろう。このことを覚えているくらいだから、結構な歳になるまで新年が来るとすべてが新しくなると信じていたに違いない。言ってみれば奥手だったのだろう。
新しい年が来て私が何時も感じるフラストレーションは、私の誕生日が元日なのでそれと重なっているために誕生日は祝って貰えないことである。家族が揃って「新年おめでとうございます」とお屠蘇を祝うときに、上手くすれば思い出して貰えて「あ、お誕生日おめでとう」と言って貰えることもあるくらいだ。
ところが中国に来てそれが変わった。私の誕生日の時は研究室の学生が集まってケーキを用意して祝ってくれるのだ。もちろん妻の誕生日の時も同じだが、私の誕生祝いは日本にいるときは家族の間でも、外でも全くなかったことなので特筆に値する。
私は中国語が全く分からないにもかかわらず中国での暮らしが出来るどころかここで暮らすことが大好きな一つの理由が、これかも知れない。人生何十年で初めて手に入れた幸福!
この大晦日に私には何も予定がないことを知った学生が計画を建てて知らせてくれた。「午後2時には教授室で集まってケーキでお祝いをします。そして5時には一緒に出て食事に行くことにしていますので、その積もりでいて下さい。先生は払わなくてもいいのですよ。」
研究室の学生たちから食事代を持つから是非出て下さいと言われることなんて滅多にない。多分これが初めてである。蘇氏拉麺に数人の学生を誘っていったとき、皆が私の分も払うと言って聞かなかったことがあったが、それを除いての話だ。あれも年末だったかも知れない。
午後2時の集まりにはこの日一日外で用事のあった徐蘇さん以外の人たちが集まって、好利来の30センチのケーキを食べた。
二宮老師が音頭をとって「Happy Birthday」。曹婷さんが切り分けているのはキーウイ、杏、パイナップル、梨、ブドウなどの果物が載っているショートケーキだ。どの果物が好きですかと聞かれて、あれもこれもと指さしたら、私の一切れのケーキに果物が全部山盛りになって皿に載った。6年前には余り食べたくなかった中国のケーキも今は十 分美味しくなった。
終わって、「このままじゃね」と言う発言が出て、陳陽くんに踊って貰おうという声が大きくなった。陳陽は浜崎あゆみを思ってくれるとわかりやすい蔡依林の歌と踊りのDVDにあわせて、ホット・セクシーに踊りまくる特技があるのだ。もう1年以上観ていない。二宮老師はまだ知らない。陳陽の踊りを最後に観た時は、その直ぐあと北大に行った楊方偉くんも一緒に踊ったので皆笑い転げたっけ。陳陽は190センチもある長身で、一方、 楊方偉くんはちっちゃくってコロコロと可愛いのだ。
陳陽はもう1年踊っていないんで忘れちゃった、と言いつつも、悪びれずに踊った。こういう度胸が嬉しい。彼に限らず中国の学生は、へたに遠慮しない。堂々と悪びれずに人前で歌う。演技をする。これは私も見習わなくてはいけない点で、い までは私も何かあると、いや、何もなくても、しゃしゃり出て歌を歌ったりするようになってしまった。
夕方になって出掛けたのは、東北大学の前にあるバイキングの店だった。私には初めての店だったが5時だというのにすでに店は一杯の人で、喧噪と食欲に充ち ていた。大晦日の夜なのでうちの都合で来られなかった人が4人いたけれど、陳陽、暁艶、曹、黄澄澄、張嵐に加えて卒研生の江文、張添翼、朱、張笑たちを加えて一行10名。
服務員はチロル帽を被って衣装もチロル風で、焼き肉の長い串を持って忙しく、客に配り歩いている。私たちは野菜などのサイドディッシュと飲み物は店の一隅に取りに行き、個室を占領して次ぎ次ぎと運ばれてくる肉を食べ続けた。「大学の学生食堂では、今は肉と言ったら鶏肉だけでほかの肉は全然ないんですよう」 と皆は学生食堂に不満があるようだ。
中国の物価の値上がりは激しく、特に豚肉牛肉が高くなっている。学生食堂ではそれに伴って値上げをする事も出来ないので、「7割は野菜ばかりなんです」と言うことになる。皆は肉に飢えているわけだ。私も学生の頃はひたすら肉ばかり食べたかったのだから当然だ。
食べるのも一段落して、ゲームになった。英語で1から数字を唱えて次の人に順番に廻していく。このとき7の倍数とか7を含む数を言ってはいけない。皿をチンと叩くだけである。うっかり言ってしまう、タイミングが狂う、すべて罰として歌を歌うか酒を飲まされる。
卒研生たちは期末試験がちょうど終わったばかりで疲れているためか、間違ってばか りいた。卒研生の江文くん、朱さんは私の畏友である加藤さんの教え子だが、日本語で巧みに歌を歌う。加藤さんは歌が全く駄目で教えていないはずである。つ まり、この学生たちが向上の意欲と豊かな能力に恵まれていると言うこと だろう。
私は60年代の懐かしい黛ジュンの「天使の誘惑」の歌詞の説明をして、歌った。
『好きなのに あの人はいない 話相手は 涙だけなの
幸せは オレンジ色の 雲の流れに 流れて消えた
私の唇に ひとさし指で くちづけをして あきらめた人
ごめんなさいね あの日のことは こいの意味さえ 知らずにいたの
(作詞 なかにし礼)』
陳陽に中国語にして貰ったけれど、状況がなかなか飲み込めないらしかった。「あの人が私のことを好きだったなんてその時は知らなかった、今になってやっと恋の意味が分かったわ、あの人は今ここにいないけれど、好きだわ」なんて、まだるっこくって理解できないかも知れない。
でもこの歌を通じて私の言いたかったのは、「後悔することのない人生を送ろう。これから忙しい人生を送ることになる。怠けたら取り返せない時間。一瞬で決 断をしなくてはいけない人生。人生の選択は一つしかできない。あとで後悔することのないように、智慧を磨いて、人生を生きていこう」というものだった。
2009/01/02 15:48
今年もどうかよろしく
ODNのこのHPには大体毎週2回くらいを目標にして書いてきている。いつも一つのまとまった話として書こうとしているので、時間経過を忠実に反映していない。それでも、目を通してみると、いろいろな出来事が書いてあるから、瀋陽では何時も遊んでいるみたいだ。
でも、本当は毎日結構充実して暮らしている。日本の大学にいるといわゆる雑用という類の委員会などの仕事が山ほどある。大学自治を標榜する以上は仕方ないことだが、一番大事な講義、研究室の学生の研究指導、論文書きのほかに、学会活動、研究費の申請書など山のような仕事に追われるのが普通だ。
実際大学の先生たちは教授が良くつとまると思う。実際は超人的な体力と頭脳に恵まれている人だけが出来る仕事である。大学の日常的なできごとに加えて、研究領域の新しい学問の進歩に遅れないよう何時も専門のジャーナルに目を通して、関係論文を読んでいなくてはならない。その上、研究領域の専門ジャーナルの論文のレフェリーを始終頼まれる。
となりの部屋にいる池島教授は働き盛りで、顔を合わせると何時も忙しい、忙しい、と口からでてくる。「○○大学から講義を頼まれているんで、明日から日本に1週間出掛けますが、まだ頼まれた論文審査があと5つもあるんですよ。大変ですよ。これを全部終わらせなくっちゃ、出掛けられません。山形先生なんか論文審査をどうしているんですか?」
この論文審査は、研究者が論文を書いて送るとそのジャーナルの編集長が論文原稿を同業の専門家に廻して審査することをいう。匿名である。審査するレフェリーあるいはレビューアはその論文について、その研究の意義がある新しい研究か、研究の目的に沿って論理的に正しく研究が行われているか、内容は正当に書かれているか、何処かに破綻や誤りがないかなどを調べつつ精読して、最後にこの論文がこのジャーナルに出版するに値するかの評価をするのである。
つい熱心になって厳しくなり過ぎたりするレフェリーもある。論文を出す立場からすると「ここまで文句を付けるのか」と腹の立つことが多いが、別の見方をすると、論文を書いて、一番熱心に読んで呉れるのがこのレフェリーであろう。
現役のころは私もこの査読を良く頼まれた。一つ頼まれると殆ど丸一日費やして十分背景を調べ、内容を十分に読んで公平な査読をしていた。査読を引き受けると、ジャーナルに論文が公開されるよりもはるかに早く内容を知るという特典もある。つまり大いに勉強になる。
人によってはこれを自分の研究に利用したりする。実際、私たちが1976年細菌から新しく発見した糖脂質を分解する酵素の論文をJournal of Biological Chemistryに投稿したとき、通常は1-2ヶ月のところが査読に半年かかり、その間に何と速報誌に別の材料を使って同じ性質の酵素の発見が発表された。
あとで、その研究室のポスドクが私たちの研究室に半年滞在したので聞いたことだが、私たちの論文をレフェリーとして読んだ研究室のボスは、大急ぎで手にはいる限りの材料を調べまくって、とうとう蛭から私たちが微生物で見つけたと同じ酵素を見つけて一足早く発表したのだった。
レフェリーをすることで他人の論文を全面的にパクる人はいないにしても、こういう風に人の発見を自分の研究に利する人はいる。それでも同業者によるシビアな査読以外に論文を公平に評価する方法はないので、peer reviewという査読は続けられている。
このように大事な査読だが、私は定年になってからは、全部断ってきた。頼まれても忙しいから引き受けられませんと断っているうちにだんだん査読が来なくなる。昨年はあるジャーナルの編集委員になって欲しいという申し出もあったがこれも断った。理由は、そのようなことをしていると自分のために使う時間が無くなってしまうからである。申し訳ないが、研究社会にはずっと貢献してきたのだ。今 は許して貰おう。
若いころはいくら忙しくても時間はいくらでもあったし、エネルギーも無限だった。「忙しいことこそ有能な証拠だ」と嘯きながら仕事をしていられた。実際誰かにものを頼むときも、「有能な人こそ何時も忙しいんですよ、先生にこそお願いしたいんですよ。先生にこれが出来ないはずはありません」なんて言って頼んでいた。
ところが人は歳を取る。歳を取ると言うことは時間を横軸にして縦に仕事量を目盛ると、それが若いときに比べてがた落ちしてくると言うことだ。私も例外ではない。能率の落ちる中で、それでも研究を続けるためには余分なことを減らすしかない。
幸いこの大学にいると 講義以外は、言葉の壁のために一切の公務がない。教授会もなければ、何とか委員会に出る義務もない。すべては研究室で勉強と指導のために使えるのだ。だから講義のあるとき以外は、私の時間はとても規則的である。
毎朝7時ごろには研究室に行き、夜は7時までいる。学生は8時までに来る。火曜と木曜日は研究室の学生のWeekly Reportの日である。ひとり1時間ずつ顔をつきあわせて実験結果を検討する。水曜日の夜は研究室全体のProgress Reportの時間で、土曜日の午前中はJournal Clubである。
私は教授室では何時もPCの前に座っている。もちろん研究室の学生は始終やってくる。「細胞の形がおかしいです、見て下さい」、「ピペットが壊れました」、「○○のSiRNAがもうチューブに残っていません」などなど。
それ以外はインターネットでアクセスして新しい論文を読む。論文を書く。NCBIのデータベースにアクセスして研究に必要な遺伝子情報を調べる。様々な データベースを使って、プライマーを設計する。SiRNAの配列を設計する。研究仲間とEmailを使って研究のアイデアを交換し、議論する。研究の新しい方向を考える。
そして、週に二回はそれぞれ2時間くらい掛けてODNのHPのための原稿を書く。ときには、ODNの仲間のHPを覗きに行く。ODN仲間のHPを見ることで緊張がほぐれて気持ちが癒される。それぞれの人たちの生き方を見て感銘を受ける。元気を貰う。
皆さま、今年もどうかよろしく!!!
2009/01/06 12:15
友人の退職記念パーティ
昨年秋、日本の某企業の研究所の所長を長い間やっていた友人が退職した。私が東工大を辞めたときに行き先がなく途方に暮れていたときに、それなら自分のところにおいでよと言って私と研究室をそっくり引き受けてくれた気っぷのよい男である。 その彼も所長職が16年。もう十分やったねと言うことで退職することになった。かれの退職パーティに招かれたけれど遠方でもあり勘弁して貰った。その代わりに挨拶状を書いて、司会者に代読して貰った。
以下は私の挨拶文である。代読したのは私の教え子で、修士を卒業したあと友人の研究所に採用されて今そこで元気に働いている。読み終わったあと気の毒にも、私の代わりに友人から「どつかれていた」と言う話である。
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今から35年前の1973年のことです。私は名古屋大学の助教授を辞めて三菱化成生命科学研究所に移りました。1960年代後半からの大学紛争の後遺症でぎすぎすした大学の研究室の雰囲気がやりきれなくなったからです。
新しいことを勉強しようと移った先は、発生生物学研究室でした。新進気鋭の先住人の中に、入江伸吉さんがいました。彼は私の大学の同じ研究室の出身なので、先輩である私を知っていたようですが、私は全くの白紙から彼とつきあうようになりました。
何ともわがままで、甘えっ子で、まるで弟が出来たらこんな気分かという感じでした。
入って2ヶ月経って、私にとっては初めての研究室旅行のとき一緒に風呂に入りました。私が身体を洗っているとわざわざ私のところにきてしゃがんで覗き込み、「なんだ。たいしたことねえや。」と言いました。ちなみに入江さんはAV俳優並みの威容を誇っていました、少なくも、あの頃は。
その頃の私たちは若さに任せて、何かと理由をもうけては集まって飲んでいました。問題は、入船さんは酔うとズボン越しに私のちっちゃな一部をぎゅっと握るのです。そして、おそらく、安心するのです。「俺のは、でっかい。」
ときには酔っぱらった挙げ句、私を抱きしめて「ガタさん、好きだよ」と、ブチュッと口づけをするのです。今でも本格的な野球ができて、K1格闘技にも出られそうな身体の入江さんに抱きしめられて、何で私が抵抗できるでしょうか。
床に押し倒されて、やがて、やっとの思いで立ち上がり、誰も見ていなかったかと周りを見回し、そして決意をするのでした。自分の身体を鍛えて、何時かは、あいつを押し倒してやるぞ。
そんなこんなで親しく付き合っているあるとき、
「ガタさん。ガタさんが死んだら弔辞を読んでやるよ。」と入江さんは言いました。弔辞を読むと言うことは、私に一番近い存在だと言うことです。それまで私 にそんなことを言う人はありませんでした。それを言う可能性のある人を思いつかないくらい、私にはそれほどまでに親しい友人はいなかったのです。
私はジーンと胸を打たれました。「入江さんは、こんなにも私を愛してくれているんだ。」
「おまえに弔辞を読んでやる」と言い出した代わりに、入江さんがそのとき何を交換条件にしたのか思い出せませんが、入江さんは、このように何時の間にか人の心を開かせ、心の中に入り込んで、しっかりと人の心をつかんでしまう人です。入江さんの握り技ですね。
だからこそと言っていいでしょう。ここの所長になって以来、所長としての入江さんには、あれで良いんだろうかというセクハラまがい、あるいはセクハラそのものの行動やことばが沢山ありましたし、これが所長のやることかよという言動も沢山あったようですが、○○さん、などなど、多くの女性の心をしっりつかんで、研究成果を上げて輝く光を○○○バイオ研究所に集めてきました。このほかにも、もちろん、○○さん、など沢山の男性の心もしっかりと掴んで、「○○○バイオ、ここにあり」と言わせるまでに、この研究所を発展させてきたのだと思います。
人の心を掴むと言えば、今から40年近く前、入江さんが由美かおると並び称せられた「かおる」さんの心と身体を掴むことができたのが、彼のその後の成功の一番大きな要因として挙げなくてはなりません。入江さんの、あの飽きることのなき好奇心、とめどなき幼児性、無防備なまでの人への信頼感をうまく制御し、 研究、事業へと向かわせたのは、かおる夫人の偉大な功績です。
今日まで大変世話になった入江さんへの感謝の念を、「かおるあってこそ、入江あり」と、彼女にこそ捧げたいと思います。
この先は、つかみ技の得意な入江さんと私とどちらが先に弔辞を読むかという競争になりそうです。「長幼序あり」と言いますから私が先で、入江さんの出番でしょう。バイアグラなり、○○○コラーゲンなり、何でも身体に良いというものを端から試して身体を鍛えて、私に押し倒されることのないよう、長生きして下さい。
2009/01/09 20:52
中国からアクセスできないサイト
数日前ののYahooによると、「中国の動画サイト土豆とYouku、著作権対策で日本からのアクセスを遮断(2009/01/06)」と書いてある。
『中国の動画投稿サイト「土豆(Tudou)」は5日、日本と韓国からのアクセスを遮断することを明らかにした。NHKなどの日本のテレビ局が毎月数百の不法な動画を削除するよう土豆などに要求しているので、今回の遮断措置は、動画の削除にかかるコストを削減するためだけではなく、著作権リスクを回避する ために実施されるのではないかと専門家は見ている。』
中国当局が海外からのアクセスを遮断するのは初めて知ったが、自国におけるインターネット接続を規制していることは広く知られている。公式には認めていないかと思ったが、北京オリンピックを機に、その規制が一部緩和されるというニュースを読むと規制をしていることを公言しているわけだ。「中国のネッ規制 を海外メディア対象に一部緩和(7月31日3時43分配信 読売新聞)」
『中国当局に好ましくないホームページなどへのインターネット接続が規制されている問題で、北京五輪組織委が、「遅くとも開幕(8月8日)までには、規制を緩める」との方針を決めた。組織委関係者によると、規制が解除されるのは、これまで閲覧出来なかったBBCの中国語ホームページなどの一般情報で、早ければ8月1日から実施される。しかしこの措置は、あくまで海外メディアに対する規制緩和にとどまり、一般市民は今後も閲覧することは出来ない見通し。』
『中国のインターネット規制は、反政府的な言論を一般市民の目から遮断するのが目的。反政府的なホームページにとどまらず、批判的な声を客観的に報道する海外メディアのホームページでさえも、中国語版では接続出来ないようになっていた。』
実際、北京オリンピックを機にこの国の情報制御が大分ゆるくなったことを実感した。結構なことだ。たとえば、インターネット上でみんなが参加して作る事典であるWikipediaが、日本語版も英語版もここで見られるようになった。
私はODNでmypageに書いているほか、瀋陽日本人教師の会、研究室、野呂先生の想い出のHPを持っている。それぞれの掲示板をTeacupというプ ロバイダーで作っていた。この掲示板が2007年春頃からこの国ではアクセスできなくなった。日本からは自由にアクセスできる。オリンピックを機会に直るかと思ったけれど、依然として見られない。
この掲示板には時々悪質な荒らしが入る。始終チェックして削除しないといけない卑猥な書き込みだ。しかし、ここから見られないので実際上どうしようもない。そのまま諦めている。
上記の瀋陽日本人教師の会、研究室、野呂先生の想い出のHPはYahooのGeocitiesに無料で場所を借りて作成している。これらも過去5年間、時々アクセスできなくなることもあったけれどせいぜい不通期間は三日くらいだった。
昨年秋、これらのHPが一斉にアクセス不能になったとき、オリンピックも終わったことだしせいぜい数日くらいのことだろうと思っていた。それが1週間、1ヶ月、そして今や3ヶ月以上ここからはアクセスできない。日本では見られるのでYahooの問題ではない。恐らくこの国でGeocitiesへアクセス を本気で遮断しているのだろう。
政治的内容あるいはポルノを規制しているのだろうか。少なくとも私たちが直接の対象になるとは思えない。どうしてだか分からないが、ここからは infoseekプロバイダーもアクセス不能である。こういうことが日本で起こったら原因解明のために追究しまくるけれど、この国では面倒を引き起こしそうだ。そういうことはしたくない。
ともかく、瀋陽日本人教師の会と研究室のHPをこの国からもアクセスできるプロバイダーを探して移すという自衛策を考えなくてはなるまい。どちらも情報発信の場としてHPを位置づけているからだ。日本だけでなく中国からアクセスできないと困る。
更新の必要のために、言ってみれば盲目の手探りでいじってみたけれど、あちこちがおかしなことになっている可能性がある。早いところ何処かに作り直さないといけない。
YahooのGeocitiesは最高使える容量が50MBなので、日本人教師の会のHPは内容が大きいために、 Geocitiesのサイトを三つも使わせてもらっている。これらを統合し、今までの不備な点もこの際直すとすると、結構大がかりなことになりそうであ る。おまけに研究室のHPもある。この際、ODNのmypageに書いてきた昔の「瀋陽だより」も、写真など付けて何処かに綺麗に載せたい。
出来ればこの春節休みにやり遂げたいものだ。瀋陽日本人教師の会に私も入っている以上、この会のHPを発信するのは私の責任である。夢で終わらせてはいけない今年の夢である。忙しい春節休みになりそうな予感がする。
2009/01/11 15:45
電動自転車は「街の殺し屋」
今日のYahooのニュースに、瀋陽に暮らして案じていたことが出ていた。『一見「アシスト」違法な電動自転車、大阪ミナミで横行(1月11日 読売新聞)』
『方向指示器やナンバープレートのないペダルの付いた原付きバイクが、大阪・ミナミの公道に横行している。アクセル付きでペダルをこがなくても走ることができ、道路交通法上は、「ペダル付きの原動機付自転車」となる。大阪府警はすでにノーヘル、無免許による道交法違反や、整備不良による道路運送車両法違反 で所有者らに警告を始めており、今後、取り締まる方針。』
『最近、健康・エコロジーブームから電動アシスト自転車が人気で、昨年1月〜11月までの出荷台数は約29万5000台で、原付きバイク(約27万 5600台)を抜いた。大半は中国製で、価格は3万円〜5万円前後。16〜20インチの折りたたみ自転車風で、家庭用コンセントで約8時間充電すると 15〜20キロの走行が可能。最高速度は20キロ前後にもなる。』
瀋陽の道の歩道は広い。狭いところで2メートル、広くて5-6メートルある。昔は車道の一部が自転車道だったようだが、クルマが増えるにしたがって、それを廃止して車道を拡げ、歩道を日本と同じように自転車が走るようになった。
広いから日本とは異なり、さほど危険はないみたいだ。しかし、車が横断歩道で人や自転車を追い払って通るのを当然としているように、自転車は今度は人に対 して上位にある。自転車は人がよけると思って走ってくる。まだ、それを知らなかったころの私は、まともに自転車に突っかけられた経験がある。
それ以来自転車はこちらからよけるものと言うことを学習した。道を歩くときは、地面を見てマンホールの蓋が開いていて落ちる危険がないかどうか調べ、痰を踏まないよう慎重に歩くだけでなく、前後左右に何時も視線を動かしてクルマや自転車が近付く危険を察知しなくてはならない。
けれども、この数年危険を感じるのは、電動自転車だ。自転車は前照灯を付けるべしという法規がないのか、彼らはライトなど付けていない。無灯火で走ってくるから、怖い。電動自転車となると速い上に無灯火である。それがさらに無音で走ってくる。それがいきなり脇を走り抜けたあとの怖さ。前から来るときは自転車より速く近付き、無音だ。暗くなってからだと、恐怖そのものだ。
もう2年以上前のことになるがYahooニュースに記事があった。
『電動自転車は「街の殺し屋」関連事故で今年48人が死亡—浙江省杭州市(2006年11月9日(木) Record China)』
『電動自転車の乱暴な運転による事故が多発している。今年11月8日に市の交通管理部門が発表した情報によると、杭州市では今年に入ってから、電動自転車が引き起こした交通事故によって48人が死亡したという。電動自転車は「街の殺し屋」と言っても、過言でないほど危険な存在になりつつあるのだ。このため市の交通警察は、電動自転車の違法行為に対する集中取り締まりを開始している。』
このように危険を感じる電動自転車だけれど、教師の会の集まりで小耳に挟んだが、「お土産にはあれがいいね」なんて囁かれている。「持って帰って売ったら儲かるんじゃないかな。」なんて言う声もあった。日本にないもので、便利なものという意味では目の付け所がいい。
実際にはもっと手の早い人たちが輸入して日本で売っていたのだった。さすが大阪だ。『大手通販サイトでは、「自転車部門」の売り上げ上位にランキングしているが、販売実数は明らかにされていない』という。
『販売業者側は行政指導を受けないよう「公道を走ることは避けてください」などの注意書きを添えている』ということだから、電動アシスト自転車ではなく原動機付自転車扱いになり、自転車の積もりで乗ったら違反ということは承知なのだが、 一方で、『「どこでもすいすい」「乗り心地最高!」などの宣伝文句も付け加えて』乗りたい気持ちを煽るところが、ずるい。
日本では原付免許を持っていればいいわけだし、方向指示器、前照灯などを付けて登録して(ナンバーを取って)乗れば便利な乗り物だ。原付だから当然車道を走るのだろう。
中国でも同じように扱って欲しいけれど、少なくとも瀋陽では広い歩道をクルマが平気で走るのだ。電動自転車に車道を走れと言っても誰も守らないだろう。それなら、せめて前照灯設置義務、点灯義務を法律で決めて徹底させて欲しい。
この国の建前は法治国家だが、実際は「上有政策 下有対策」の国だから、ランプを付けなきゃ駄目なんて言っても、取り締まりを受けたら、「あれ、置いてあった間に誰かに取られたみたい、気付かなかった」くらいのことは言いそうだけれどね。全く、それもありそうな話なんだから。。。
2009/01/14 11:07
愛唱曲集発行の締め
2007 年6月に瀋陽日本人教師の会は朝陽の化石を見に行くバス旅行を催した。2回目のバス旅行である。これに合わせて、私は瀋陽日本人教師の会編集「愛唱曲集」を用意した。B5判で目次30ページ、載っている歌曲は1254曲、本文480ページと言う大作である。詳しいことは 2007年6月11日に「印刷を頼んで覚えたこと」というタイトルでここに書いた。それから1年半経って、やっと私はこの歌集から解放された。以下はその顛末記である。
この歌集の後記に私が書いた記事は教師の会の紹介から始まっている。最初にその後記を引用する。 ----------
瀋陽は中国東北三省の中心的な街で遼寧省の省都である。以前の名前は奉天と言った。この地域では日本語学習熱が盛んである。瀋陽には瀋陽およびその周辺地域で日本語を教えるために日本から赴任している日本人教師の集まりがある。瀋陽日本人教師の会と言って、十数年の歴史がある。
2006年の春に教師の会始まって初めてという1泊バス旅行を計画して、瀋陽から車で3時間離れた岫岩市に行った。中国は玉を産し、玉は高貴な印として古代より尊ばれている。日本人の私たちにはあまり馴染みのない玉だが、中国の玉の約8割はこの岫岩で算出される岫岩玉であることを知って、その産地を訪ねることにした。
片道3時間のバス旅行を退屈しないで過ごすには、歌が欲しい。中国のバスには日本の歌のカラオケは用意されていない。各自が歌の本を持っていくと言ってもそれぞれてんでバラバラだと、一緒に歌うというのに難がある。
どうしたらよいかと考えているうちに、歌の本を編集してしまおうと思いついた。インターネットで集めたが、私だけでは限られているので、中道秀毅先生、小林豊朗先生にも歌を推薦して貰った。戦後の歌と、それ以外の歌でそれぞれ二百曲を集めてコピー製本して、旅行に間に合わせたところ結構楽しめた。
旅行に参加できなかった会員にもその後で配って、集まりの時には全員が同じ本で一緒に歌えるようになった。ところがこの歌の本は教師の会の若い会員には評判が良くない。「何ですか、これ。歌の本って言ったって、知っている歌は『仰げば尊し』だけですよ」という具合である。中心になって歌を収録したのが若くはない私たちだから、最近の歌は当然のこと全然入っていない。
それで教師の会の全員が歌える歌集にするために、次の版の編集を計画した。若い中村直子先生も、池本千恵先生も協力してくれた。古賀メロディを集めるためには林与志男先生の協力があった。昔は長髪のフォークシンガーだった森領事も選曲に協力してくれた。
最後には池本先生と手分けして、編集作業に当たった。印刷を控えた最後の1週間は千曲を越える歌集の編集に二人とも文字通り眼を腫らして頑張った。出来上がった歌集を楽しんで頂けたらとても嬉しいことである。(2007年6月)
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この愛唱曲集は第一義的には教師の会の人たちが楽しむための歌集である。しかしそれだけなら30部もあれば間に合う。数年分の会員を見越しても50部で十分である。それなのに200部印刷したのは、私がこれを教師の会の活動基金を集めるのに使おうと思ったからだった。
歌を選ぶのにインターネットを渉猟して数ヶ月の時間が掛かった。いろいろのジャンルの歌を探した。そして選ぶ基準は、自分がいずれ老人ホームに入るとしたらこれ一冊を持っていけば良い本にしようと言うものだった。だから童謡、文部省唱歌、校歌などは漏らさず収録した。60年代の歌は一番なじみがあるので知っている歌は全部入れた。そのあとのJ-POP、ニューミュージックを私は殆ど知らないけれど、それを入れないと一般化しないからこれは会員の人たちの意見を来てどんどん収録した。
つまりこの歌集は、老人ホームを控えた私たちの世代にはきっと受け入れられると思ったのだ。それで私の考えたのは、私の中学、高校の同窓生たちに当たってみよう。歌は版権があるからこれを売るわけにはいかない。しかし瀋陽で活躍している講師の会の人たちの苦労を話し、その活動を支えるためになにがしかの寄付を募るということことなら、きっと協力が得られるだろう。
それで、歌集の印刷原価は30元だったので、一冊あたり最低30元、出来ればそれ以上の寄付をお願いすると言うことで、教師の会の会員に先ずお願いし、会員を通じて瀋陽在住の日本人会会員にも声を掛けた。
私と同じ世代の教師の会の会員でも「いずれ老人ホームに必携」と言うだけで拒否反応を示す人もあったりするし、もともと教師の会全体で企画したものではな かったので全員が協力的というわけではなかった。それでも歌集を一人2-3冊受けとってくれた会員もあったし、池本先生と渡邊京子先生は歌集を捌くために大きな努力をしてくれた。さらに私と妻の中学校の同窓生たちの熱心な協力があった。おかげで2008年末までに200部が全部捌けた。
それで、この歌集発行事業から印刷原価を引いて6870元、日本円にして約10万円という金額を、多くの方々のご厚意のおかげで瀋陽日本人教師の会に寄付 することが出来た。わたしは嬉しい。教師の会は今は日本語資料室もなくなって苦労を重ねているけれど、きっとこれが少しは役立つ日が来るに違いない。
2009/01/16 17:21
新年賀詞交換会
総 領事館で今年の新年会が開かれた。平日の1月15日の午後5時からだった。事前に参加登録をしておいて、パスポート持参でタクシーに乗って総領事館に出掛 けた。出がけに用事があって遅くなり、着いたのは5時5分前だった。奥の部屋から琴とチェロの音が聞こえ、そこに人が集まっている。
人垣の後ろから覗き込むと、総領事のチェロだった。お琴はあとで分かったが、総領事夫人だった。心のこもった素晴らしい歓迎である。
集まった人たちは50人くらいだろうか。金融危機の影響を受けたのか、ほかの理由があるのか、思ったよりも少ない人数だった。総領事が最初の挨拶をした。私たちと目線が同じところにある。「まず は昨年の5月に着任して以来、瀋陽で皆さま方と親しくなろうと努めてきました。そしてそれは成功したと思います。 こうやって仲のいい関係が出来てきたみたいで嬉しいです。」と言う挨拶から始まった。
「昨年の金融危機を受けて今年の世界情勢がどうなるか予断を許しませんけれど、それでも元気の良さを現地から発しましょうよ。先ず私たちが元気にここで仕 事に取り組み、元気を日本と中国に発しようではありませんか。」と続いた。総領事の気取らない人柄がにじみ出る暖かな新年の挨拶だった。
長春の教師会から参加したという先生たちに紹介された。話を聞くと会員が40人もいるという。長春教師の会会長、あるいは副会長と肩書きが書いてある名刺 をもらった。瀋陽の教師の会からは私を入れて二人が参加しているが、何となく釣り合わない。話も合わない。私は延辺から参加する予定の先生を捜すことにし た。
瀋陽には瀋陽日本人会というのがあり、二ヶ月にいちど幹事会が開かれている。2007年の秋までは教師の会を代表して私がオブザーバーとして2年近くこの 会議に参加していたが、教師の会が今の会長に替わったのを機に他の人に替わって貰った。だからこの新年会で知っている人は数少なくなってしまった。
逆に言うとごく少ない知人と喋りながら食事が出来る。総領事のほかには伊藤忠商事の高木所長、そこの助理の賈さん、北海道銀行の庄司所長たちと久しぶりにお喋りをすることが出来た。
食事は、煮付け、きんとん、酢の物、数の子、目の下1尺2寸の鯛の焼き物、刺身、天ぷら、サラダ、五目寿司など広いテーブルにいろいろと乗っている中から 自分で選ぶスタイルである。前回総領事館に呼ばれたとき、総領事がシェフの日本料理を教育したという話を聴いている。日本料理が美味しい。日本料理を食べ るのはそれ以来である。思わず食べ過ぎてしまう。
吸い物も美味しい。五目寿司をご飯茶碗によそうとまた美味しい。満腹と思ったら、総領事に声を掛けられた。「お汁粉が出来ていますよ。」
前回招かれたときは、総領事の指導の下でシェフが自分で作った羊羹を食べ損ねてしまったので、これは見逃せない。賈さんと食堂に行ったが最初の分は終わりで、ちょうど次の分を作っているところだった。でもここにいないと逃してしまうかも知れない。
伊藤忠の賈さんと喋りながらお汁粉の出来るのを待った。彼は18才の時に日本に行って日本の大学と大学院も出て、会社にも就職した経験がある上で伊藤忠に就職したのだという。何と10年間日本にいたのだ。「私の青春のすべてが日本です」という。「わが青春に悔いなし、ですか?」「ええ。全く悔いないですよ。」
伊藤忠の高木所長は当然のこと経済通である上に話が上手で、しかも中国語は自由自在である。薬科大学に高木さんを招いて学生に講演して貰ったら学生には大いに勉強になると思って高木所長に頼んである。この賈さんも「今までの10年間の私と日本」を学生の前で話せば、大いに受けるのではないだろうか。殆どの 卒業生が日本の国立大学に進学するという、有名私立高校である東北育才学校などで彼を講演に招いたらいいと思う。今度、そこの日本語教師である梅木先生に 話してみよう。
やがて期待していた延辺の小林先生に会うことが出来た。出がけにタクシーが掴まらず40分以上も瀋陽のホテルの前でタクシーを待ち続けたという。瀋陽は夕方の6時がタクシー乗務員の交代時間である。それで、5時を過ぎると軒並み乗車拒否にあう。5時前でもタクシーが掴まらなくなったと言うことは、物価の値上がりで総体的にタクシーの料金が安くなって、多くの人が利用するためだ。
必要なときに即座にタクシーに乗れるよう、値上げをして欲しいというのがぼくたちの偽らざる心境である。なんだか「蜘蛛の糸」的な発想で、一寸気が咎めるけれど。
延辺の小林先生とは前にも会ったことがある。昨年、延辺に国際交流基金で「ふれあいの場」という日本のミニ図書館が出来たこと、その管理運営に携わっていることなどを聞いていたので、私たちの資料室再建の参考に話を聞きたいと思っていたのだ。
しかし、瀋陽日本人教師の会の資料室については総領事がアイデアを出して再開へ向けての動きが始まっている。それでこのことを訊く必要はなくなったが、小林先生は私のこのHPにも目を通していて話が弾んだ。資料室再開へ向けての動きは、別に項を改めて書くことにしよう。
1時間半の歓談の時間は過ぎて、総領事夫人によるお琴による「さくらさくら」の演奏で送られて、私たちは総領事ご夫妻と館員の人たちに別れを告げた。そう、期待のお汁粉も、総領事が日本から持参したお餅が入っていて、とても美味しかった。幸せな気分で家路についた。
2009/01/19 21:43
研究室の新年会
1月13日の夕方私たちは天潤食府で研究室の新年会を開いた。昨年10月には貴志先生を、そして11月には鈴木匡博士を招いて研究室のパーティを開いたところである。万事が値上がりしている中でも、このレストランは私たちが行ける範囲にある。
私より一足早く日本に行って欠席の貞子を除いて、学生は全員が揃った。そして皆がご機嫌である。あと1週間で春節休みが始まるのだ。
私たち働き蜂の日本人から見るとこの春節休みは長すぎる。せめて、春節休み6週間の最後の1週間を短くして、研究室に戻り細胞培養を始めたらいいと思っている。 実際、細胞を使う実験をしていると、凍らせておいた細胞を液体窒素から取り出して蘇らせ、実験に使えるようになるまで数日が無為に過ぎるのだ。学校が始まりました、じゃ研究室に戻って仕事を始めましょうでは最初の1週間が無駄になる。
大体この6月に卒業する学生たちは、論文をしっかり書くために実験に身を入れて休暇どころではないはずだ。まだ論文の筋書きさえも出来ていないじゃないか。もしこれが日本ならば、休む学生は一人もいない、少なくとも私の知っている頃は誰一人いなかった。
しかし、彼らにはそんなことは思いもよらない。春節休暇6週間を5週間にして帰ってこいという私を無表情に眺めるだけである。研究が好きなんて言うのはただのお題目に過ぎないのか。1月10、11日と全国共通大学院入試が行われた。今度うちに来る卒業研究の学生のうち二人はこれを受けている。これに備えて数ヶ月重圧の下に勉強してき たわけだから、試験が終わって彼らはとても楽になったに違いない。試験の翌日顔を見て、「え、こんなに美人だったっけ」と思わず口に出てしまうほど、晴れ 晴れとしたいい顔つきになっている。
と言うわけで、「ナンで実験をやらずにうちに帰りたがるんだ」と未だに心の中でぶつくさ言っている私を除いて、皆がリラックスして集まったのが今日の食事会だった。大学院は関、王麗、張嵐、暁艶、曹婷、徐蘇、陳陽、黄澄澄、王月の9人。卒業研究生が、張添翼、江文、張笑、朱の4人、そして二宮老師と私で合計 15名。
先ず乾杯。そして次々に運ばれてくる15皿の料理とスープ2椀を円卓の中央の回転台に並べて皆で食べながら、それぞれの乾杯を連続して二宮老師が受けている。一通り乾杯攻勢が終わったところで先ず、私の今年の抱負。健康に留意してそれぞれの人たちの論文を書きまくること。中国語で少なくとも一つは歌が歌えるようになること。蔡依林なみに踊って歌う陳陽がこの夏卒業していなくなるので、そのあとを継いで来年の新宴会では私が踊ること。
二宮老師は今年は飲まない年にしようと言うので皆大笑い。彼はいつもは糞真面目人間だが、宴会でビールを飲むと超愉快人間に変身するのだ。冗談を連発して、歌って踊りまくる。誰もがこの愉快人間を愛している。
王麗さんは博士号を取っていて、もうすぐ日本に行く。某研究所のポスドクに採用される話が進んでいる。同級生で夫の馬さんも日本でポスドクをする場所を探すはずだ。二人だけで新しい生活に乗り出す先にあるものに期待して胸を熱くしているみたいである。
曹婷さんは修士を終えたら海外に行きたいというので、イタリアのミラノ大学の友人に推薦した。その結果、今年の秋から彼女はミラノ大学の博士課程に進学する。恋人と別れて半年経ったところだ。Independentな人間を目指そうと決意していると言うことだった。ふーん、なるほど。 陳陽くんは修士を終えたら日本の大学の博士課程に進学したいと希望している。奨学金支給対象に採用されなければその夢は叶わない。他力本願みたいだが、奨学生に採用されるかどうかの決定は、いままで全力を尽くした上でのことだから、天命を待つ気分だろう。
徐蘇さんは修士の2年を終える前にIELTS(主として英国系の英語圏での英語能力試験)でよい成績を取って、英国に留学したいと思っている。厳しい将来が待っているが表情は明るい。
暁艶さんは博士課程に進学することを決めた。中国の進学では先ず全国統一試験に合格しないといけないところが日本とは違う。これから受験勉強に身を入れて頑張るとのことだ。 関さんは博士課程に入って6年目となり学位論文を書く準備が出来てきた。今までは自分のことだけで手一杯だったが、これからは人の研究のためにも役立ちたいと、殊勝なことを言っている。
このほかにもあと7人が今年の夢を述べているうちに料理を食べ尽くし、さあ、これからショータイムということになった。この天潤食府の良いことは15人が 円卓を囲んで一緒に食事をする事が出来るだけでなく、広い部屋には十分スペースがあるし、カラオケもある。というわけで、学部学生の寮の門限の10時直前 まで、私たちは歌って踊った。トイレでは酔っぱらった若い人とも、わけもなく肩をたたき合って仲良くなった。
会計は540元。この2週間は朝8時に遅刻すると10元という罰金を取ることにして今日の資金の足しにした。それが60元ある。残りを半分にして、私と二宮老師がそれぞれ240元ずつ。安いものだ。これで全員が新春の宵を遅くまで楽しめたのだ。
2009/01/23 23:37
男、女、そして女博士
私たちの研究室の学生は今や圧倒的に女性ばかりである。成績が良くないと入れない日本語コースはもちろん女子の数が男子を圧している。それでもこの頃は男子が増えてきて、最近の瀋陽薬科大学新入生では女子7に対して男子3くらいになってきたらしい。
女子が多いのは、日本もそうだが、薬学が女子に人気の高いためだ。もちろん手に職を付けておけば、何かの時には稼いで生きていけるという考え方がある。二つ目にともかく試験をすれば女性の方が良くできるからである。女子は一般的に男子よりも集中力が高いうえに、受験期と同じ頃男子を襲う猛烈な性欲とは無縁である。受験勉強では男子は女子に勝ち目がないのだ。それにもかかわらず、男子の割合が増えてきているのは、この国の十年年先には年頃の男性が3000万人多いという歪な性比と対応しているからだろう。
ともかく、そういうわけで私たちのところは女子学生ばかりで、修士課程を終えたらどうするか?という相談を彼女たちとすることになる。博士課程へ進学しようか、就職をしようかと揺れる悩みのほかに、彼女たちはもう一つ結婚しなくっちゃという大きなプレッシャーがある。どのくらいこれが意識を締めるかという と、日本で言えば、戦前の社会を想像すると大体合っている。
あの頃の日本は、年頃の女子は結婚するのが当然と思われていた社会だった。結婚しないと行き遅れると誰もがあせっていた。これは嫁き遅れると書いて「いきおくれる」と読ませていたっけ。
今の中国の誰でも知っているジョークに「人類には三つの性がある。男、女、そして女博士だ」というのがある。これの意味するところは、女博士は結婚相手ではないと言うことだ。このジョークに出てくる女博士は「結婚適齢期」を過ぎた女性のイメージだ。したがって、独り者で、不機嫌で、皆の幸福を嫉んで誰彼なく当たり散らしているネガティブな存在としてイメージされている。そして驚くことには、これはただのジョークではなく、中国では現実味があるのが怖い。
実際この話を持ち出すと、「だってそうですよ、あの○○学科の○○老師も○○老師も結婚していませんよ。本当に怖いですよう。」と学生が肩をすくめる。
年頃で結婚しないともう相手にされず、婚期を逸してしまうという考えは、彼ら女子学生の中で強迫観念とまでなっているように見受けられる。私たちは今まで女子学生の日本の大学院修士課程への留学を大分助けてきた。そのあと博士課程を続けたらいいのにと思っているのに、例外なしに修士課程で辞めてしまう。もったいない、と思ってしまう。
日本の場合も、女性の博士が誕生する昭和前期では、彼女たちは結婚していなかった。日本で女性初の理学博士となったのは保井コノで1927年のことだっ た。彼女は女子高等師範学校(現お茶の水大)を卒業して 母校で女性初の理科専門の教諭となる。「サンショウモの研究」を 国際的な植物専門雑誌に発表してドイツ・ボン大学のシュトラス・ブルガー教授から招聘されたが文部省は認めなかった。
やがてハーバード大 に2年間の留学が命じられたが、「理科及び家事研究のため2年間の留学を命ず」と何故か家事研究の項目が加わっていた。昭和2年、「日本産亜炭、褐炭、瀝青炭の構造についての研究」と関係論文を添えて、東大に学位を請求し、教授会では満場一致で認められた。
( http://www.pref.kagawa.jp/kocho/sanukino/2005/spring/9_10.htmによる)しかし、彼女の伝記を見ても結婚した形跡はない。
私の研究する領域で尊敬する先達のお茶の水女子大学の阿武喜美子先生(http://www.riken.jp/r-navi/video/index.htmlで彼女のビデオが見られる)や、私よりも年長の瀬野信子先生もそれぞれ独身だった。
でも瀬野信子先生と同じ世代でも、そしてそれ以降の私たちの世代になると、独身の女性研究者はほとんどいなくなった。それぞれ結婚して家庭を持ちながら研究を続けるというのが当たり前の生活に急激に変わったのだ。敗戦後の日本の社会が激変するのと軌を一にしていたと思う。
つまり日本ではジョークでささやかれる中国の社会の経験を殆どしないで、「女性博士は人ではない」時代を通り過ぎてしまったと思う。
そして今の日本では女性博士が相手として敬遠されるなんて言う次元を越えて、社会はどんどん変わってきている。今では結婚しない独り者のままの普通の女性の数が増えてきたという。
1980年と2000年を比較して、女性の未婚率は、25〜29歳では24.0%から54.0%へと倍増し、30〜34歳では9.1%から26.6%へと 3倍に増えている。(少子化対策 http://www8.cao.go.jp/shoushi/whitepaper/w-2004/html-h/index.html)
高学歴と高収入の結果、収入があれば結婚なんて面倒くさいことはしたくないと思うようになった結果だろう。セックスだって、最近のアメリカでの調査によれ ば、女性の2人に1人が「セックスよりもネットの方が楽しい」のだ(AFP、米世論調査、2008年12月16日 )。結婚しない女性が増えるのは不思議ではない。
ともかく来年の夏は私たちの修士課程から1人の男の修士と、3人の女の修士が誕生する。男子は博士課程に進学したいという。そして現在のところ、女子学生の3人とも博士課程に進学して研究を続けたいと言っている。学問を志す新進気鋭の学徒を送り出す喜びの一方で、「人類には三つの性がある。男、女、そして女博士だ」というあのブラックジョークを考えると、喜んでばかりもいられない。中国の経済力が急速に強くなって、日本で起こったような意識の変化が、ここにも訪れるよう願わずにはいられない。
2009/01/27 10:16
新年快楽 万事如意
今年は1月26日が旧暦の元旦で、中国ではこの日から新年が始まる。
「新年快楽 万事如意」という言葉が飛び交う。
瀋陽日本人教師の会は在瀋陽日本国総領事館の松本総領事から素晴らしい新春の贈り物を戴いた。春節休みの後私たちが瀋陽に戻ったあと、瀋陽市図書館の一部屋に日本人教師の会寄贈の図書コーナーができる運びとなりそうである。
何度も書いているが、瀋陽の日本人教師の会のよりどころである日本語資料室は2008年3月末から場所を失った。資金のない教師の会としては、好意から場 所を無償で提供されているので、先方にもう置いておけないと言われれば動かざるを得ない。2006年春以来3度目の引っ越しである。
什器を片付け蔵書を段ボールに詰めて、これも厚意にすがって「何氏眼科」の倉庫に置かせて貰って、春以来改場所を探しつづけてきたが、家賃が払えずに借りたいというのだから見つかるわけがない。
それでも、基金もなく、資金資金の裏付けもない教師の会としては、好意で部屋を貸そうという人を見つけるしかなく、探し続けてただ時間が経っていった。
それが一転して闇夜に光が一瞬見えたのが11月のこと、春に瀋陽に到着された松本総領事に教師の会が公邸に招かれた時だった。私たちの置かれた苦境を述べたところ、総領事は「公共図書館には場所があるでしょう、そこに話してみればいいかもしれませんね」と言って下さった。
私たちも場所探しの一環として広大な建物の市図書館を当たったけれど、外国人で、しかもただの人では全く相手にされなかった。しかし、日本国総領事が公的なルートから打診すれば道は拓けるかもしれない。
教師の会としては全く手詰まりだったので、総領事のアイデアに飛びついた。総領事に伺ってみると交渉をしても良い、しかし資料室の実態を知らないから、試料を用意した上で資料室の説明をして欲しいと言うことだった。
瀋陽に長い池本先生と私が協力して資料室の資料を作成した。A4で13ページになった。それを十数部作成して、12月19日教師の会の役員4人で総領事館を訪れ、松本総領事と同席の菊田領事に資料室の経緯と現状の説明をした。
私たちの話を聞いた上での総領事の総括は、場所を借りる資金もなくその当てもない教師の会が、本を置ける場所を探すと言うこと自体が無理なのではないかということだった。「あなた方は出来ないことを考えているのですよ。現実を見なくてはならないでしょう?」と。
私たちは「このままだと資料室が開けない」という現実が怖くて目をそらしているけれど実際、その通りなのだ。
したがって私たちの総領事へのお願いは、「いままで無料で場所を貸してくれる人々の好意にすがってきたけれど、今はないし、この先も難しいでしょう。総領事から先日示唆されたように公共図書館に本を全部渡してなおかつ私たちが出入りできるようだと良いけれど、私たちが個人的に図書館に頼みに出掛けても相手 にされません、どうしても総領事のお力を借りなくてはならないのです。」
その結果、総領事は公共の図書館に訊いてみること、あるいは図書館、大学に「ふれあいの場」が設置されそこに教師の会の図書を置く可能性も探してみましょうか、ということになった。春節前の1月中旬に先方に打診して教師の会と一緒に先方と談合しようと言うことだった。
ところで私は1月17日に休暇をとって日本に戻ってきたが、瀋陽に留まっていてこの件で後を託した池本先生から、21日にメイルがあった。
池本先生の知らせの内容を簡単にまとめて書いておく。松本総領事が瀋陽市図書館との会談を設定して下さって、総領事、菊田領事、平柳領事、翁通訳が教師の 会の二人とともに瀋陽市図書館を訪れ、瀋陽市文化局・梁利人副局長、瀋陽市図書館の李長武館長、周佳兵氏との会談がもたれた。
総領事自らが中国語で事情を説明してくださって、終始、和やかなムードで話し合いが行われた結果、基本的には資料室の図書を市図書館に移すということが承認され、以下の点が確認されたとのことである。
1.資料室の図書は、市図書館に寄贈し、保管・管理の一切を図書館に任せる。
2.資料室からの寄贈ということが分かるようにする。一室に瀋陽日本人教師の会寄贈と看板を書いてそこに本を置く。
3.教師会の定例会の集まりのために会議室を使うことができる。
4.2月下旬、瀋陽に教師の会の会員がそろった時点で、図書館の担当者・周さんに連絡して、資料室の蔵書リストを作成する。
昨年の3月以来、蔵書を倉庫に預けたままそのさき何の成算もなく、毎月の定例会ではあちこちをさまよっていた私たちにとって、欣喜雀躍、これほど嬉しい知らせはない。松本総領事のアイデアと総領事館の方々の実行力のおかげである。先人たちの努力でできた日本語資料室が、形を少し変えるけれどその内容が存続 できることになりそうでほっとしている。
2009/01/31 09:29
蘇氏拉麺の青春
日揮という有名なプラントエンジニアリング会社が日本にある。どういういきさつか分からないけれど、4年前に日揮は瀋陽薬科大学に寄付講座を作った。寄付講座といってもその冠講座に誰か教授がいて研究、あるいは講義をすると言うものではない。
日本から毎年一回誰かが来て学生向けにGMPの講義をしているようだ。GMPとはGood Manufacturing Practiceの略字で、インターネットによると医薬品の品質を確保するため、製造にあたって遵守すべき基準のことを言う。日本では薬事法に基づく「医薬品の製造管理及び品質に関する規則」と「薬局等構 造設備規則」がGMPにあたる。これらは医薬品製造業の許可要件であり、製造管理や品質管理に不備があれば業務停止処分を受けるのだそうだ。
薬学との関係で言えば、製薬会社の工場のプラントを設計・施工するのが日揮だろうと思っていた。だから薬学の学生にGMPの講義をするのは、日揮が将来製 薬関係の業務を直接手がけるつもりかも知れない。そのためか日揮は寄付講座を作って直ぐに学生を採用した。将来の幹部養成だろう。日揮は日本の有名会社なので就職希望学生は群れをなして集まる。いままで薬科大学の卒業生が毎年1-2名採用されて、日本で教育を受けて来た。
日揮が中国の何処に拠点を置こうかと瀋陽薬科大学に物色に来たときに会ったのが、若い竹俣さんと陳さんのふたりだった。その後は薬科大学に寄付講座と書いた部屋を置いて毎年1-2回学生の採用などの用件で訪ねてくるだけのように見えるが、そのたびにお喋りをして親しくなった。
昨年12月に竹俣さんと陳さんが瀋陽にやってきたとき、この二人に豪華なレストランに招かれた。陳さん出身の福建省料理で、陳さんの友人がやっているレストランだという。
でもその友人との出合いは偶然だったそうだ。陳さんたちが食事に行こうと言って入ったレストランで、挨拶に出てきたオーナーに何か見覚えがある、オーナーも何か不思議な顔をして陳さんを見る、そしてふたりは福建省で小、中、高が一緒だったことが分かったという。福建省を遠く離れた瀋陽で、三十年ぶりに劇的 な再会を果たした訳だ。
福建省は台湾に近く、日本人は台湾料理になじみがあるし、「味はマイルドで日本人好みです、お勧めです、是非知って欲しいのですよ」と言うことで誘われたのだった。実際、はんなりと言っても良い上品な味で、どの料理も美味しくご馳走になった。しかし。最後の会計をちらりと見ると、紹介されてもこの先気軽に は来られそうもないと思う値段だったけれど。
その翌日、きっと彼らはご馳走ばかり食べていて私たち庶民が何時も食べているものを知らないんじゃないか、そういうところに誘ってあげようと思いついた。私が月に一度くらい行きたくて堪らなくなるのが、蘇氏拉麺というチェーンのうどん屋である。瀋陽で最初の学生だった沈さんに連れて行かれて好きになった。 彼女は今日本で働いている。
蘇氏といっても蘇州に関係なくこの店の出自は新疆で、だから一緒に店で出すシシカバブの肉は本物の羊肉である。瀋陽では、羊肉と言っても羊でなく山羊の肉が出たりする中で、この蘇氏拉麺の店では大丈夫だという。
拉麺だから読みはラーメンだけれど、作るときに粉を練った塊を手で引き延ばして作るから拉麺なのだ。言うまでもないけれど、拉は拉致でも使う「拉」で、 引っ張るという意味である。だから内容はうどんである。どこでもこの手の店は注文に応じてお客の目の前で塊を手で引き延ばして(拉して)、湯の中に放り込 んで茹でる。作り置きを使うとか、あるいは乾麺を使うなんてことは絶対にない。
大学から歩いて15分くらいのところにこの店がある。歩いていて夜の瀋陽は綺麗である。建物が色とりどりのイルミネーションで輝いている。ホテル、マンションだけでなく、病院すら綺麗に光で飾られている。一昨2007年の年頭から始まったように思う。沢山の電力を消費しているのかと思ったが、聞くところによると、この光はネオンサインではなくLEDなので維持費は問題にならないそうだ。建物ごとに勝手にやっているのではなく、街全体が総括的に美しくなるようにイルミネーションを統括していると聞いた。
このライトアップは夜9時になると消える。その意味では瀋陽の夜は、日本に比べるとずいぶん早い。夕食は大体5時頃から始まる。夜の集まりも5-6時頃から始まる。だから終わるのも早く、うちに帰って時計を見ると8時か遅くても9時だ。日本にいるときは集まりに出ると帰宅が大抵深夜だったことに比べると、瀋陽の夜はとても健全である。拉麺を食べに行こうと誘ったとき陳さんはもう日本に戻っていて、竹俣さんが日本で教育を3年受けた部下である薬科大学の卒業生の女性をふたり連れてきた。
こちらも女子学生ふたりを連れて行った。先方は日本語が自由に話せる。こちらの学生は日本語を話さず、英語遣いだ。でも、彼らはたちまち意気投合し、そして当然ながら中国語で賑やかに楽しんでいた。竹俣さんと私は日本語でお喋りを楽しむ。時々英語が飛び交う。
蘇氏拉麺の麺は太いか細いかがあって、あとは牛肉か鶏肉かが選べるだけで、スープの味は同じだが、これが絶妙に美味しい。あとは好みに応じて辣醤を加えて辛くする。酢を足して酸っぱくする。新疆ではこの両方を加えて食べるのが普通だ。
竹俣さんは辛いのは駄目だそうだが、この店の蘇氏拉麺の味はとても気に入ったらしい。お供のお嬢さんたちは日本で3年暮らして口がおごっているのではない かと気にしていたけれど、彼女たちも美味しいと言ってくれた。竹俣さんはさらに羊肉串が気に入って、次々注文したらこんなに美味しいなんてと言いつつ8本を食べ尽くした。私も付き合って4本も食べた。
竹俣さんとお嬢さんのひとりがここで帰り、残った余敏さん(ユーミン)という名前のお嬢さんと私たちはさらに向かいのマックに行ってアイスクリームを食べてお喋りをした。私も気分は二十代になってしまった。帰りも零下15度の寒さなど全く気にならずに、白い息を吐きつつお喋りしながら歩いたのだった。
2009/02/03 15:19
私たちもミーハー
中国での最初の学生である沈慧蓮さんに私たちがつけたあだ名はミハチンである。ミーハーのチンさんというそのものずばりのニックネームである。彼女は結構これが気に入ってくれて、今でも彼女を呼ぶときはミハチンだし、彼女もミハチンですと言ってくる。チンは愛称のチンでもあり、名字のチンでもある。
日本語のWikipediaによると、『ミーハーとは、ある特定の事ばかりに夢中になる者に対しての呼称』だそうだ。『昭和初期に生まれ、当時の女性の名前に多かった「みよちゃん・はなちゃん」から来ていると言われる。最近は、「ある事象に対して(それがメディアなどで取り上げられ)世間一般で話題になってから飛びつく」という意味で使われる事もある』という。
私の感覚だと、「何でも珍しがって飛びつく」という感じである。何も「特定のことばかりに夢中」になるという感じではない。流行に敏感で、ブラピが流行れば追っかける人のことだ。ぼくたちのミハチンは、研究室の話題のある度にいつも顔を出すのだ。それでミーハーのチンさんになったのだった。
この数年日本に殆どいないこともあり、最近の世の中の情勢には疎く、恵方巻きを知ったのは昨年の春節休暇で日本にいたときだった。節分の日に出先の帰りにたまたま駅の近くの東急ストアに寄ったら「節分には恵方巻き」と書いて太巻きを売っていた。ちょうど良いと思って買って帰ったのだった。
そんな具合だから、恵方巻きのことは関西生まれくらいの知識しかなかった。今年の節分の今日、用事があって駅を通ったときに見ると、京樽でも、千代田寿司でも、東急ストアでも「節分の恵方巻き」とチラシを掲げたところに人が群がっているではないか。
節分の恵方巻きの意味もいまだによく知らないのに、食べることなら何でも歓迎である。よっしゃと太巻きを買ってきた。「今年の方角は東北東です」なんて掲示もあったので、そちらを向いて食べるんだよと妻に言いつつ、昼に太巻きを半分に切った。どうせ買うならおいしそうなのが良いと思って、海鮮太巻きにした のだった。
太巻きの半分を食べてから、やはり調べてみようという気になってインターネットで調べた。『節分の夜にその年の恵方に向かって目を閉じて一言も喋らず、願い事を思い浮かべながら太巻きをまるかじりするのが習わしとされている』とあった。
All aboutによると、『恵方巻きの特徴は何と言ってもその食べ方』にあり、『太巻きを一人が一本ずつ食べなくてはいけない。福を巻き込むことから巻き寿司。縁を切らないよう包丁を入れずに丸ごと1本。七福神にあやかり7種類の具が入った太巻きが望ましい』という。
http://allabout.co.jp/family/seasonalevent/closeup/CU20060124A/
これを最初に読めば良かった。私の買ってきたのは海鮮太巻きで、これでは中身が違う。店でほかの太巻きと比べたけれど、キュウリ、かんぴょう、卵が断面に見えて、海鮮太巻きに比べて貧相だから止めたのだった。
恵方巻きを食べるときには縁を切らないように包丁を入れないというのに、そうとも知らずに半分に切って妻と分けたのだった。妻と縁を切ったことになる。これはいけない。
All aboutによると『恵方を向き、願い事をしながら、黙々と最後まで食べる』のが作法だそうだ。でも東北東を向いて、「みんな元気でいますように。幸せになりますように」と口頭で願い事を述べて、一口食べてから食卓に座って残りを食べたのだった。全然作法に外れている。
こうやって面白がってよその地方の習慣をさっさと取り入れるのが私たち日本人の特徴だと思う。日本人は大昔から宗教を次々と取り入れてきたし、クリスマスだって、バレンタインだってそうだ。なんでも面白がるというのは日本人の大きな特徴で、鎖国時代に日本に来たロシア人も記載している。私たちも日本人の名 に恥じず、節分の日に太巻きを食べる習慣に乗ったが、だいたい大部分の日本人がミーハーなのだ。
恵方とはその年の方位神の一つである歳徳神の在する方位なのだそうだ。方位神は八人いる。歳徳神は八将神の母であるという。「ちんぷんかんぷん」の世界に入ってしまうが、方位神も八だし、八将軍も八だし、中国ではめでたいことは八なのに、七福神にちなんで、かんぴょう、キュウリ、シイタケ、だし巻、うなぎ、でんぶ等七種類の具というのは、どういうことだろう。
ともかく、私たちは作法から外れた食べ方をしてしまったが、恵方巻きを食べるのは節分の夜だと言うから、まだやり直しがきくだろう。後で再度出かけて、節分の豆と一緒に恵方巻も買い直して、夜には作法通りの食べ方をしてみよう。
なお以前ここに書いているが、「ちんぷんかんぷん」は、辞書によると「珍紛漢紛」(ちんぷんかんぷんで何が言いたいのかわからないと書いてある。これは実は中国語で、「听不懂、看不懂」(ting bu dong kan bu dong)「耳で聞いても分からない、字も見ても分からない」という意味の言葉から来たに違いないと、私たちは確信している。
2009/02/06 19:40
女子学生の曹婷さん
12月6日のこの欄に王くんが優秀博士論文賞を受賞したという知らせを大学から貰ったとき、私は泣いている学生の曹婷さんと話をしていたと書いた。私たちは所属している学生とは毎週一回、日を決めて少なくとも一時間、個別に研究の検討をしている。
曹婷さんは吉林省の出身で、父親は三国志の曹操につながり、先祖は代々昔の清朝の役人だったという。つまりお家柄を誇る旧家のお嬢さんで、しかも一人っ子である。うちで掃除洗濯炊事などの家事はやったことはなく、ひたすら勉強とお稽古ごとに時間を過ごしていたらしい。
と書くと、頭は良いけれど家柄を鼻に掛け、付き合うには小生意気な女の子を思い浮かべるだろう。大事に育てられて一人っ子となると、大体廻りに気を遣わない。周囲に気配りをするのが社会に生きる智慧だなんて思ったこともないから当然で ある。言いたいことを直ぐに包み隠さず直に表現するので、廻りとも始終摩擦を起こす。日本人よりも人に対して割と本音を出す中国人でも、さすがここまでは言わないことを平気で人に対して言うらしい。
この彼女が、研究室に正式に来るようになった一昨年春、あっという間に研究室の先輩の男の子を掴まえた。つまり研究室に一組の恋人同士が誕生したのだ。一般的に中国の人たちは日本人ほど廻りに気を遣わない。だから恋人同士は、廻りに人がいないがごとく奔放に振る舞う。私たちは何しろ恋は個人のプライバシーに関わることだと思っているから、見ているしかなかった。
でも、狭い研究室で二人だけ公然と別の空間を作られると、何かと不自由というか、不便というか、障害がある。はっきり言うと邪魔だ。建物の外を二人が手を繋いで歩いていて、「はーい、先生」と声を掛けられても、それはそれでいい。しかし、研究室のセミナーの時には隣り合って座らないこと、というのはかなり 早い時期に申し渡した。
彼女の相手は、ごく真面目で、明るくて、皆から好かれて研究室の中心になるような男の子だ。研究室の学生、つまり女子学生が彼にいろいろと教えを請おうとする。それが彼女には邪魔である。恋人が私を放っておいてほかの女の子とじゃれていると思う。自分の仕事は放り出して、邪魔をしに駆けつけるのだ。駆けつけると言っても狭い部屋に十人を超える学生がいる。一ヶ所で起こることから誰もが逃れようがない狭さなのだ。やがて部屋中が息を潜めて二人から離れていようという雰囲気が出来てしまった。
それでも恋の始まりから一年が経過して、この男子学生が卒業した。もちろん将来を巡ってすったもんだがあったようだが、最後に二人はキッパリと別れた。
一人になると、曹さんは研究上の有能さを発揮しだした。恋が終わって彼はいない。今の研究室で頼りに出来るのは私という教授しかいないと悟ったのだろう、私にすり寄ってきた。頭の回転はいい。記憶力も抜群である。骨惜しみをしない。手抜きもない。研究は手際が良くしかも結果は信頼できる。つまり安心できる学生である。
ところで研究室のもう一人、問題を抱えている学生がいて、この日、この関さんの実験を手伝ってくれるよう彼女に話をしていたのだった。この関さんもジコチュウで、実験の失敗はすべて他人の所為にする。決して自分が悪かったとは思わない。
関さんはteacherをやりながらなので、専業の院生に比べると博士を取るために時間が掛かるはずだ。しかし、早く博士を取りたいというので限られた時間にめちゃくちゃに実験を詰め込む。相手は生きている細胞なのだ。物質の物性を測るのとは訳が違う。あせってがちゃがちゃやっても信頼できる結果が出るはずがない。コントロールが抜ける。細胞の成育が悪かったとか、あとで言い訳をするような細胞を平気で使ってばんばんと沢山の実験を進めてしまう。いくら注意しても分かってくれない。
おまけにこの関さんは研究室に来たときから自分は博士課程の学生で、しかも自分はteacherだと言うのでほかの院生に対して威張っていた。しかしたち まち力を付けてくる若い学生たちに実力で抜かれてしまった。関さんとほかの学生の間の溝は深まるばかりである。しかし、これは関さんが蒔いた種なのだ。
それでも5年経って論文をまとめる段階になってきた。しかし最後の決め手の実験がなかなか進まない。私たちは繰り返し実験をして信頼できる条件下で3回同じ結果が出ればそれを信用して、平均値を出して論文に発表するデータにする。
ところが期限が迫ってきて神経質になったのか、この3ヶ月間全く結果が出ない。もうノイローゼ気味である。それで、私は曹さんに目を付けて関さんを手伝わせることにした。もし曹さんが関さんの思ったとおりの結果を出せなくてもそれを受け入れなくてはならないことを関さんに納得させた上で、曹さんに話をして了解を得たのだった。
曹さんに理由を話して関さんの仕事の仕上げの実験を頼むと言ったとき、実は私も皆から疎外されてつらかったと言って曹さんが泣き出したのだ。私は唖然、呆然とした。彼女だってジコチュウに振る舞って廻りと今の関係を作ってしまったのだ。それなのに、疎外されたと言って泣いている。二人とも共通して自分に対する反省が全くない。
そうは言っても、関さんは元気で前向きのいい性格だし、早く学位を取って巣立って欲しい。来年夏に修士を終える曹さんは有能な研究者になるだろう。曹さんはそのあとは海外に行って博士を取りたいという。私たちは隣の池島老師と違って、修士を終わって外に行きたい学生は好きにさせる主義である。
曹さんのためにイタリアのミラノ大学の友人にメイルを書いて博士課程に推薦した。すると彼が引き受けてくれて、来年の12月にはミラノに行くことになっ た。瀋陽の街を歩いているとモデルになりませんかと声を掛けられる彼女に、本場のミラノでも同じような声が掛かるだろうかと冗談半分で期待している。
2009年02月28日(土)
偽物で研究が被害を受けた
中国はコピー文化(?)花盛りである。2001年にWTOに加盟してから表向きは出来ないことになっている。しかし、偽物を作ってはいけないと言われても、どこ吹く風と聞き流して偽物を作り続けるのが一般庶民のしたたかさである。
コピー版のDVDが摘発されて集められブルトーザーに押しつぶされるニュースが流れても、ますます偽物は横行する。中国人にとっていけないことは海賊版を作ることではなく、捕まるようなヘマをすることなのだろう。
1月25日のlivedoor newsは『 2009年1月25日、 山寨(さんさい=パクリ)が中国の08年の流行語の1つに選ばれた。春節(旧正月)には国民的年越し番組「春節晩会」(春晩)の「山寨版」まで登場し、話 題を集めた』と言う記事を載せている。http://news.livedoor.com/article/detail/3991082/
『「山寨」とはもともと広東語で、その昔王朝に抵抗する盗賊が立てこもった山中の砦を指す。それが転じて違法にコピー商品を製造する地下工場を意味するようになった。権威や権力に真っ向から立ち向かう「知恵や勇敢さ」も受けているようだ。』
『 今や性能面でも本家を凌ぐ出来栄えで、増殖する「山寨商品」。1台1000元(約1万3000円)で売られた米アップル社「iPhone」の山寨版 「Hiphone」は、世界で1億5000万台を売り上げる大ヒット商品に。中国の3大ポータルサイトyahoo、google、百度(Baidu)を合 体させた山寨サイト「baigoohoo」も、ユーザーから「情報量が多くて使いやすい」と好評を博している。(翻訳・編集/NN)』
中国では海賊版は義賊みたいなものとして多くの国民の支持を得ているのだ。
コンピュータのソフトウエアは数年前までは、瀋陽の秋葉原と言われる三好街に行くと堂々と売られていた。普通のものは3元でソフトウエアが手に入り、7元もすると製造元の名前入りで、「7元もするんだから大丈夫です。これなら安心です」と言って薦められた。
この頃はWindowsの違法OSを使っているとMicroSoftからの信号でブラックアウトしたりするようになっているから、さすが堂々と売るってわけ にはいかなくなった。でも、店頭にはないだけで欲しいと言えばいくらでも手に入るらしい。ともかく誰も悪いことだとは思っていないんだから。
この中国の偽物文化にとうとう私たちも巻き込まれてしまった
私たちの研究に使っている材料は動物細胞である。マウスなどの生きものは管理が大変なので実験には使っていない。動物細胞は無菌的に培地の入ったシャーレに 入れて、これを5%の炭酸ガス入りの37度の培養器に入れて飼う。
細胞の状態がいいか悪いかには、使っている血清の善し悪しが大きく影響する。このほかに、シャーレや培地の善し悪し、培地のpH、培養器の炭酸ガス濃度、温度も細胞の状態に影響する。培地は名前の通ったメーカーの既成の培地を買っているし、培地のpH、培養器の炭酸ガス濃度、温度などはおかしいときはひとめでわかる。
したがって経験的に細胞の具合の悪いの は、大抵血清がおかしいかシャーレが不良品かである。私たちの部屋では昨年11月から細胞培養が不調になりはじめた。まとめ買いしていた血清の同じロットがなくなって、新しくしたときにこの手のことが起こる。だから、血清を取り替えて調べたところ少しだけ良くなった。
培養に使うシャーレは別のメーカーにしたが、これは影響なかった。細胞の状態は少し良くなったが、これ以上打つ手はなく、依然として細胞はあまりにも元気がない。そうこうするうちに春節休暇に入り、私たちを含めて殆どのメンバーが故郷に帰った。
その間実験を続けていたのが房さんで、細胞の具合が悪いのであちこちの同僚に聞いたらしい。休暇明けで戻ってきた私たちの前に突き出されたのは、二袋の GIBCOの培地だった。「左のがここで使ってきたもので、右のは学長研究室から貰った袋です。見ただけで違うでしょう?偽物かも知れませんよ。」
右の袋の印刷された字体に比べて左のは活字が細い。それ以外にはlot numberが違う。それで写真を取って日本のGIBCOのメーカーであるInvitrogen社に送った。
中国の、海賊版文化は盛んなものだが、それらはそれを必要とする人たちのものと思っていた。自分たちがこのような形でだまされて、大きな被害を被るとは思いもしなかった。
細胞の培地では、既成の品が高くて買えずにやむなく60年代初めには自製したことがある。やってみると分かるが、培地を自分で混ぜて作るなんていうのは実に 面倒である。こんな面倒なことが良くできると思う。労が多くて絶対に割が合わないと思うんだけれど、そして培地なんて研究にしか使わないからそんなに売れる品ではないと思うけれど、何でも商売のネタになるんですね、この国では。
折り返し返事が来た。『ご連絡ありがとうございます。写真左のものは明らかに偽物です。もし同じようなものがありましたら、決して使用しないでください。』
『本物と違うところは、まず使用している文字のフォントです。偽物のフォントは本物のものより細いフォントを使用しています。』
『また明らかに異なるのはロット番号の桁数です。ちなみに写真左のロット番号は実際に存在した番号ですが、すでに使用期限が切れています。』