2005/03/12 07:36
花火で彩られた中国の元宵節
中国人はお祭り好きだ。旧正月は天下晴れての休日が1週間続き、そのあとも元宵節と呼ばれる1月15日(今年は2月23日)までは正月気分である。どのように正月気分かというと、大学はもちろんお休みだし、大学の傍の飲食店もちゃんと開いているとは限らず、店を開いたとしてもある程度その日の日銭を稼ぐと店を閉めてしまうという感じである。この時期は家族、親族や友だちが集まって親睦を深める期間みたいで、朝から、花火を上げたり、爆竹をならしたり、賑やかなことである。
元宵節の1月15日は湯円と呼ばれる甘い餡を入れたお餅を食べる習慣があるという。縁起物だから食べましょうと胡丹くんが買ってきてくれて、昼は皆が集まった。この季節は家楽福に行くと大きく売り場を拡大して冷凍の湯円が何種類も売られている。一つ二〜三センチくらいの大きさに丸めてあって、外は餅米粉で、餡は甘いごま餡(日本のごま餡のおはぎを思って欲しい)、が入っていたり、甘いピーナッツの餡だったりする。冷凍のままの湯円を熱湯に入れて、熱くなったところで椀によそって食べる。
ちなみに、六仁という餡は:白砂糖、白ごま、落花生、葵花子仁、胡桃仁、白瓜仁、榛子仁を含み、八仁いう餡は:白砂糖、白ごま、落花生、胡桃仁、緑豆、干ブドウ、葵花子仁、紅棗、蓮子を含んでいて、ともかく甘い。味は餡によって微妙に違うけれど、全部で8個食べたら、もう沢山という感じだった。
午後時間が経つにつれて、聞こえてくる花火の音の間隔が近くなってきた。窓から見るとあっちの煙突の横、こっちの建物の上という具合に、あちこちで花火が上がっている。この花火は勝手に皆が打ち上げ花火を上げるのと、どこかの団体か役所が花火を打ち上げる大規模な花火とが混在している。
夕方になって、元宵節の祭りを見に行こうという胡丹くんと彼女に誘われてバスに乗るために歩いていると、花火を売る露店が沢山出ていた。台の上には線香花火、爆竹、小さな打ち上げ花火のたぐいを置いて、台の周りにはもっと大々的な打ち上げ花火が積み上げてある。小は10号ケーキの箱くらいから、大は石油缶を超える大きさまで沢山周りに積んであって、更に店の人たちが景気づけに直ぐ傍で花火を打ち上げていた。もし引火したらとぞっとしながら、それでも石油缶くらいの大きい花火はいくらか訊いてみた。かなり高く飛ぶ連発式で300元だという。
今日は大きい花火がいくらでも見られるので自分でやることはなかろうと、一つ3元の爆竹を二つ買って、大混雑のバスに乗り、南の瀋河河畔にある瀋陽で二番目に大きい五里河公園に向かった。最初はこの公園で花火を上げているように見えたのに、近づくとこの公園の隣の河畔花苑とよばれる大きなマンションブロックの中から、矢継ぎ早に盛んに花火が上がっている。ここは日本企業の人などが住む超高級住宅である。バスを降りて大勢の人たちの流れに乗って河岸の公園に向かったが、眼は左手の豪華な花火に惹きつけられ、一方で雪と氷で覆われて危険この上なしという道を歩くので、花火で明るくなった足元も見なくてはならず忙しい。
元宵節の祭りは灯会、つまり提灯祭りと聞いていて、様々な形をした色とりどりの提灯をイメージしていたけれど、簡単に言うと、青森のねぶたのように人の形や建物を張りぼてで造って中から照明する見せ物だった。清代初期には灯会というのが書かれているから、歴史のあるもののようだ。会場は露天の公園で、一人30元という、日本円にすると400円だけれど、生活感覚で考えると三千円くらいに当たるかなり高い入場料を取るけれど、大勢の人たちが解放軍に警備された会場に続々と詰めかける。吹きさらしで気温はマイナス20度以下というのに、よくぞこれだけ人が出てくるものだと寒さでせわしく足を踏みならしながら感心した。
この灯会は公式には国際新春灯会(2005 Chna Shenyang International Lantern Fair of Spring Festival)と呼ばれていて、中国文聯、中共瀋陽市委、瀋陽市人民政府、紅塔遼寧煙草公司の主催だそうだ。会場にはいると、伝説上の黄帝が道を尋ねている構図など歴史に取材した場面の張りぼてが並んでいて、内部からの照明で色鮮やかに輝いている。多くの人が写真を撮っていたけれど、胡丹くんは研究室のカメラを持ってくるはずだったのに忘れたし、私のカメラは電池が残り少なく使い物にならず、胡丹くんの彼女はせっかくの機会なのに写真にとって貰えなくてご機嫌斜めだ。
張りぼての展示の中には各国領事館の名前が付いたお国自慢の企画があり、エジプトは大きなピラミッドを従えた眉目秀麗なスフィンクスを出しているし、フランスはエッフェル塔、英国はビッグベンを作っている。一方日本は大きな板に、小田原提灯、白河提灯など十五個くらいの提灯が貼り付けてあるだけだ。見栄えのしないことおびただしい。どうでも良いことかも知れないが、日本領事館の名前を冠するならこんなことでお茶を濁すのではなく、青森のねぶたそのものを持ってきて練り廻して欲しかった。
出しものは沢山あってそれら全部を廻って見ているとますます身体が冷える。会場の瀋陽河側には10メートルおきくらいに解放軍兵士が不動の姿勢で立っていて、この寒いのにと驚いてしまう。ことによると、凍り付いた河を歩いてきて会場に無料で紛れ込む不心得な市民がいないよう警戒しているのかも知れない。解放軍兵士に見守られたこの会場の中では爆竹を鳴らせそうもないので、私たちは会場から出たあと広い道にたどり着くまでの通路の横にでて爆竹に火を付けた。小さな数百個の火薬の小包が弾帯みたいに並んでいて、端に火を付けると次々に燃え移って派手な音を立てる。
正月に花火を上げるのも爆竹を鳴らすのも、悪霊を脅して追い払い悪霊が今年は自分の家族に近づかないように願っての行事と聞いたので、私は至極真面目に、私たち研究室の全員が健康に恵まれて順調に研究が進むよう願って、生まれて初めての爆竹に火を付けたのだった。
目の前の河畔花苑の花火が連続して打ち上げられ、胡丹くんの彼女は空を見上げながら隣の胡丹くんを軽く叩いている。「カメラを忘れちゃって、本当にしょうがないわね。私のことを本当に大事だと思っているの?来年はきっと持ってくるのよ。」はい、来年は私もカメラをちゃんと充電して来ましょう。
2005/03/18 21:37
親殺し未遂と親孝行
先日のYahooニュースで、中学生のカップルが女子の方の父親を階段から突き落とし、さらに首を絞めて殺そうとして逮捕されたというのを見た。この二人は交際の挙げ句女子学生が妊娠し、女子の父親からどうやって責任を取るのかと迫られたからだという。
うるさいことを言うから消してしまえという、単純で、しかも目先のことしか見ていない粗暴な発想だ。この父親が娘の妊娠の経緯を最初どのようにして知ったか分からないが、娘が妊娠したと聞けば、相手の男に一体どうするつもりだと先ず聞くのは至極当然のことだ。年齢を重ねた父親なら、相手の男を責めたにしても、その先どのような落としどころがあるかを考えていただろう。
今の日本の法律では人殺しと親殺しを区別していない。つまり、親だから他人より大事にしろとは教えていない。しかし、親はたった一人しかいないという特別の存在である。そして親と子の関係は何をもってしても解消のしようがない事実として存在する。そして親だからこそ、娘を妊娠させた男にうるさく迫ったのだ。他人なら、うわさ話には取り上げても立ち入って意見をする人などいはしない。
というわけで、この子たちにとってうるさい意見をしたのが親だったので親殺し(未遂)となったわけだが、この子たちに親孝行という言葉がチラとも浮かんだことがあるだろうか。ことによると「親孝行って何?」と本気で訊かれるかもしれない。
一方、一般論だけれど中国の学生はとても親思いである。私たちの研究室にいる学生たちに聞くと、親孝行をするのは自分の義務だとはっきりと言う。親を大事にしたいと思っているのは日本人の私たちだってそうだ。特に結婚をして子供を持つようになると自分を育ててくれた親の苦労が分かるから、自分を育ててくれた親にやっと(やっとだけれど)感謝の念を持つようになる。
しかし、中国の学生の親孝行志向はもっと強烈である。大学を出たらどうする?という質問には、多くの学生は給料のよい企業に就職して親に楽をさせたいという。大学を選ぶのも、就職するのも、留学するのも、自分の進路を親の意見で決めるのもあたり前と思っている学生が多い。日本人である私たちは親のことは大事には思うけれど、ここまでは入れ込まない。
この違いは、中国にまだ儒教思想が色濃く残っているためではないかとずっと思っていた。しかし、もっと別の理由があるようだ。
中国では大学の学費が所得に対して大きすぎて問題になっていると、3月13日のYahooニュースに載っていた。3月11日に広東省・広州市にある大学でフォーラムが開かれ、子どもを大学で学ばせると、農民だと13年分の所得が掛かってしまうことが指摘され、この解決策を探ることが提案されたという。
このフォーラムに出席者した人たち(大学の先生)は、全国の大学の学費の平均が、1995年の1年あたり800元から2004年には5,000元前後に高騰しているだけでなく、初年度の諸経費や食費、被服費を含めると、4年間の高等教育を受けるためには、4万元の費用がかかるという計算をしている。
2004年の都市部住民の実質的平均所得は9,422元、農村部では2,936元だそうで、子どもに大学教育を受けさせるためには、都市住民は4.2年分の所得を、農村住民は13.6年分の所得を費やさなければならないことになる。
また、学生の25%が、自分の家庭がこれだけの高額の費用負担に耐えられないので、「大学に入るのではなかった」と考えていることも示されたという。この瀋陽薬科大学ではどの程度の学生がこのように考えているかは知らないが、学費は今年度の入学者で5,200元、入学初年度の特別経費が1,475元、寮費が1,200元、なので、食費、衣服費、などを加えて4年間で予算4万元とすると、残りは毎年3,230元、したがって毎月270元なので、毎日9元の食費しか残らないことになる。
しかし、毎月500元くらいは食費、衣服費などのために必要である。つまり4年間であと1万元必要で、この大学では4年間で5万元掛かる。子ども一人を瀋陽薬科大学に入れると、都市住民は5.3年分の所得を、農村住民は17年分の所得が掛かってしまう。薬科大学の日語班、英語班の修行年数は5年だから、都市住民では6.6年分の所得、農村住民では21.3年分の所得が必要だ。
これは、信じられない過酷な数字だ。上記の、人々の収入の計算が違っていて、実はもっと所得が多いか、あるいは大学生活にこれだけの金が掛からないかのどちらか、あるいは両方でなければ、中国における大学生活は成り立たないに違いない。
うちの研究室の学生の半分 は農村出身である。ある男子学生に訊くと、彼にはお姉さんがいるが彼女は中学校をでたところで進学せず、大学まで来たのは彼だけである。ある女子学生は三 人姉妹の真ん中で、上の姉は小学校、下の妹は中学校で終わり、彼女だけが大学に進学したそうだ。どうしてか。
答えは簡単で、金がないの だ。限られた教育費は無駄になるところには一切使わず、一番効果が予測されるところに有効に集中投資したわけだ。この大学に入って来た彼らは親と兄弟の犠牲の上に高等教育を受けていることになる。したがって、それだけの犠牲を払う親兄弟に対して、いつか自分が沢山稼いで、しかも教育を受けられなかった兄弟の分も稼いで親兄弟に恩返しをしなくてはと思うのは、当然すぎるほど当然な成り行きだろう。すべての学生が生活の貧しい農家の出身ではないけれど、これが、中国の学生が親孝行を口にする大きな理由のひとつではないだろうか。
それにしても先ほどの計算では、農民にとっては教育費がべらぼうな負担である。これだと農家でも収入の多い豪農の子弟だけが大学に進学できることになってしまう。実は、以前は大学の学費は殆ど只だったという。言って見れば殆ど全員が政府奨学生だったようだ。今は政府の支援が減って、奨学金を貰う学生の割合が減る一方、学費がどんどん上がってきたというのが、このフォーラムの背景にあったわけだ。
過大な教育費を負担しつつも、自分に夢を託して一所懸命働いている親を持つ中国の学生たちが、日本の親殺し未遂のYahooのニュースを見せたらきっと理解出来ず、目を剥くだろう。
2005/03/26 06:39
春分が過ぎて黄砂の季節
まだ寒い瀋陽でも、春分ともなると朝6時前には空は明るく輝いている。春分を過ぎた今朝は8階にあるアパートのカーテンを開けながら外を見ると、ビルの上を高くヘリコプターが飛んでいた。こんな朝からおかしいなと思いつつよく見ると、このヘリはとても早く移動している。何だか妙だと脳の中の記憶細胞がささやくのでよくよく目をこらすと、風に吹かれて空中高く飛んでいるビニールの買い物袋だった。
大学に行くためにアパートの玄関から外に出ると風が強く吹き付けてきて、耳が痛く、慌てて帽子を深くかぶって耳を覆い隠した。もう真冬の耳まで隠れる毛糸の帽子に替えて野球帽をか ぶっている。空は春の陽光に溢れているのに、この風の冷たさはちぐはぐで東京から来た私たちはまだ慣れることがない。
高い建物に囲まれたアパートの中庭ではつむじ風が舞って、ビニールの袋、煙草のから、爆竹の紙の破片、その他諸々のゴミが渦を巻いて飛んでいる。この数日の暖かさで雪と氷がほとんど溶けて、隠れていたゴミが一斉に出てきたのだ。
全部の人ではないだろうけれど、中国の人は道に物を捨てることに躊躇がない。何でも歩きながら捨てていく。食べ歩きをしながら、包みをちぎって端をポイ、果物の皮をポイ、口から種をポイ、食べおわるとすべてポイ。袋もポイ。このゴミが空を舞う。朝の路上には清掃のための作業員が帚とちりとりを手にして歩いて姿をよく見かけるし、昨年の秋からは目抜き通りに紙くず入れが設置されたけれど、路上のゴミはこういう事情でなかなか減らない。
このあたりの路上ではたいていの人は手鼻をかむので、紙を使って鼻をかむ人はあまり見かけない。先日路上で妙齢の美女が紙を使って鼻をかんでいるのを見てさすが佳人と心がときめい た。しかし彼女は紙をそのまま道に捨てて歩き去って、私のインスタントの恋をたちまちさめてしまった。ゴミを増やさないから手鼻は推奨されるべきかも知れないが、粘液は乾いて微少な粒子となって砂埃と一緒に誰彼なく鼻腔を襲ってくる。瀋陽に暮らすと免疫力が弱いと早々とダウンするだろうし、一方元気な人は免疫力が鍛えられるという効果があるかも知れない。
朝は晴れていたのに午後の空の半天は茶色に染まった。ゴビ砂漠から起こる西風が砂漠の砂を大量に運んできて砂嵐と呼ばれる時期が始まったのだ。これから5月までは、黄砂の季節となる。強い風で時には目が開けていられないほど土砂が飛んでくるだけではなく、細かな粒子が二重窓で締め切った室内にも毎日うっすらと溜まる。したがって毎朝机や椅子の上を拭くところから一日が始まる。
街にはゴミが散乱しているし、埃も多いので、このような環境で育ってきた学生には実験室を清潔にするという発想がない。研究室では最初に、埃にまみれて実験を行っては、その結果は信用できないことをさんざん言って聞かせなくてはならない。
細胞の培養室は、ほかの実験室と完全に隔離されている。部屋の外で上着を脱いで手を洗ってから上履きに替え、部屋に入って白衣を羽織って、さらに手を滅菌してから、操作に取りかかる。操作中に空中や手に付いた雑菌が入り込めばたちまち培養細胞が汚染されて死んでしまうので、清浄な環境というのが飲み込める。床も汚くてはいけないことも覚える。
培養した細胞からRNAを抽出して、その中に含まれているmRNAに基づいてDNAを合成させ、PCRという技術で、この細胞がどんなタンパク質をどれだけ合成しているかを調べることを、私たちの研究室では日常的に行っている。
このRNAはRNAを分解する酵素に弱い。そしてRNA分解酵素は、私たちの唾、汗に含まれていて、しかもこの酵素はべらぼうに強いのだ。手で触ったところにはこの酵素が残っているので、RNAがたちまち分解されてしまう。1960年の初めにtRNAを精製して世界で最初に構造を決めたHolleyのグループは、まだこのようなことが知られていなかったから、精製するRNAはいつの間にか壊れてしまうし、大変な苦労をしたということだ。
それで、RNAを扱う実験スペースはほかのところと全く別にしてあって、使う器具も滅菌している。ここで仕事をするときは、手袋をして、マスクを付けて、そして会話厳禁である。窓も開けてはならないので、実験室が出来たときにどの部屋にもエアコンを買って備え付けた。というわけで、実験室は清掃をまめに行い、恐らく私たちの実験室はこの大学で一番綺麗に片づいていて、しかも清潔である。
研究室で使う小道具にEppendolf Pipetteというのがあり、1ミリリットルの1000分の1という少量の液体を取るのに必須の機器である。1本2〜3万円で、様々の大きさが必要なので、一人で4本を一組として使い分けている。私たちの実験室には、培養室の滅菌環境で使う2組、RNA用に1組、実験室で3組必である。
今日、このpipetteをオートクレーブという高圧蒸気滅菌器で滅菌したあと、学生の一人が「壊れました。ノブは動きますけれど液体が吸えません」と言ってきた。胡丹くんはそれをいろいろと調べてみて、「中でかちゃかちゃ音がしている」と、言う。仕様書を見つけ出して渡すと、分解して子細に見比べて「一つ部品がありません」という ことだった。
それを聞いて貞子はぴんと来て、「きっとどこかに小さな部品をはねとばしたに違いないわ。実験室の実験台の下を調べましょう。」と、学生を率いて実験室に向かった。初めの頃の実験室は実験台の下にゴミと埃をため込んでいたけれど、今では実験台の下にもほこりがない。探すと直ぐに実験台の下から小さなバネが見つかった。
私たちは次の三つのことで大いに満足である。
1. 機器が壊れたときに、直ぐに具合が悪いと学生が言ってきたこと。黙っていても済むわけだから、こういうのは、隠されるともうお終いなのだ。今回は床に飛んで行った小さな部品を直ぐに見つけることが出来た。
2. 胡丹くんがそれを分解して部品が一つないことを見つけたこと。動きがおかしければ何故だろうと調べる気が出てきたことは、科学者の卵として素晴らしい成長の証である。
3. 直ぐに床を探して綺麗な実験台の下の床の上で、失せたバネが簡単に見つかったこと。ゴミと埃だらけでは見つけられなかったかも知れない。
というわけで、外は砂嵐でも、学生も科学者の卵として順調に育ち、私たちの研究室も順調である。
2005/03/27 08:45
沈慧蓮さんの後継ぎが現れた?
後期が始まって直ぐ、大学の私たちの教授室に一人の女子学生がやって来た。丁度入り口のところにいた妻の貞子に「こんにちは」と言ったと思うと、あっけにとられた貞子を置き去りにして部屋の奥のMacの前に座っている私のところにずかずかやってきて、「Hello, Yamagata」と言った。「そりゃないでしょう。「Dr. Yamagata」というのよ」と貞子にたしなめられている。
一方、私は彼女を認めて「黄欣ですね」と言っていた。薬学部日語班の4年生で、日語班は5年制だから卒業まであと1年半残している彼女には、一昨年秋に日本語資料室で会ったことがある。日本語資料室は大阪のあるNGOが瀋陽市に設立して、今では瀋陽日本人教師の会が管理、運営しているところで、日本語の本やビデオ、教科書、雑誌などが置いてあって瀋陽市の日本語教育の一つの拠点となっている。私たちが訪ねて行ったときに、そこに日本語の先生に連れられて勉強に来ていた、日本語の勉強を始めたばかりの彼女に会ったのだった。それ以来顔見知りの学生である。
彼女は英語で続けて言うには、「いま私は英語の勉強をしている。ついては英語の勉強のために、ここに来て先生と英語で話をしたい。」可愛い女の子は何時でも歓迎だけれど、だからといって彼女の英語の勉強に付き合う義理はない。
「英語の勉強をするのは結構だけれど、私は何時も忙しい。それは勘弁して欲しい。」と断った。だけれど、彼女はそんなことを気にもせず「生化学の勉強をして生化学が好きになった。分子生物学も面白い。先生は生化学だから、ここは私の役に立つ。」などと、実に勝手に自分の言いたいことを言っている。
この李欣さんという女子学生は日語の学生だから、1〜2年生の時には英語を学び、国際英語4級試験を受けている。これに通らないと日語クラスから追い出されてしまうのだ。この英語の資格と、ほかの科目に75点以上を取ってはじめて3年生に進学できて、日本語の勉強を始め、ほとんど日本語だけをみっちり一年間勉強することになる。これ以外には後期に日本語で生化学を教わるだけだ。
私は3年生の後期には生化学を教えている。昨年度は彼女のクラスを教えたはずだが、この子はいなかったような気がする。それなのに生化学が好きだって?
それで再度「李欣さんの希望は分かったけれど、あなた一人の英語の相手はしていられない。」と言ったが、彼女はけろりとして、攻める方針を変えた。「授業がなくて空いているときと週末に先生の実験室に来て、実験している先輩を助けたい。」とこの「先輩」だけは日本語にして、丁度コンピューターのところで仕事をしていた二年上に当たる王麗さんを指して言うのだ。
週末に学生を受け入れるというプログラムは、特別待遇の基地クラスの学生にだけ当てはまる。実際、今基地クラスの2年生が一人土曜日の私たちのセミナーに参加している。だけど、ほ かの学生にサービスする義理はない。「学生を研究室に受け入れるというプログラムは日語班にはないし、きっとあなたは実験の手伝いよりも、院生の邪魔になるからお断りですね。」と私は言った。
彼女はそれでもめげず、ニコニコとして、「二人とも大分神経質になっていますね」という。「とんでもない、あなたは神経質になっているかも知れないけれど、まさか私が。」というと、「先生、眼がとても神経質そうですよ。でもこれは冗談です。」と私を手玉に取っている。
「過去4年の間、実験を沢山やって来ました。きっと先輩の研究の役に立ちますよ。」と続ける。しかし学生実習をしたくらいで実験に慣れているなんて言われたらたまらない。試しに「どんな実験をやったの?」と訊くと、「生化学ではタンパク質の・・・」と言い掛けて言いよどんでいたので、「タンパク質の電気泳動による分離実験?それともカラムクロマトグラフィー?」と助けたが、よく分かってくれない。彼女の英語の発音が悪いと思ったのだが、逆に「先生、先生の発音が違いますよ。先生は日本人の発音ですね」と来たもんだ。その通りとしても普通はここまで言わないのに、先生を掴まえて大した心臓の持ち主である。
おまけに「英語の国際6級の資格も取りましたから、今は話すのに慣れていないけれど、英語の本を読むのは全く問題ありません。直ぐに英語も自由に話せるようになりますし、きっと先生の実験室の先輩たちの助けになります。」とあくまでも強気である。
ここまでこのような話を続けるなんて、ずいぶん忍耐強いことだが、この時の彼女は運が好いと言って良いだろう。その朝、別の女子学生が来て来学期に私の研究室の修士になりたいといって訪ねてきたのを、断ったばかりだった。面接の上で人の希望を打ち砕いて彼女の描いている運命を変えてしまったのだから、そのあとずっと後味が悪かった。こういう場面のあとでは、どうしてもその気持ちを補うように心が動いてしまう。
そういう背景があったので、李欣を相手に話をつづけて、もうここまで来ると断るのも面倒になってしまった。それで、「私たちは毎週土曜日に、研究室のセミナーを英語でやっている。それに出てきたらどうですか?8時半開始なので遅れないように来なさい。来られないときは事前に連絡を入れなさい。さもないと、追い出しますよ。」と言ったら、満面の笑顔になって、両手を空に突き上げて「やったー。」といって立ち上がった。そしてぺこんとお辞儀して、「それじゃ、先生、さようなら」と 踊るような足取りで帰っていった。
やれやれ。でも前にもこんな人を見たことがある。彼女の帰ったあと、さっきからこの部屋にいた「先輩」である王麗さん、貞子、私の三人は互いに顔を見合わせて「沈さん、そっくり。」「第二の沈慧蓮さん誕生。」「ミハチンそのものじゃない?」という言葉が飛び交った。
ミハチンこと沈慧蓮さんが京都に去って半年、そのあとを埋める人材が来たらしい。
2005/04/01 22:02
上有政策 下有対策
修士2年の胡丹くんが珍しく朝7時半に教授室にやってきて、「先生、修士の発表会があるそうで、報告書を書かなくてはなりません。こんなこと初めてですよ。」と言う。中国の修士課程は3年間で、最初の1年間はほとんど講義で埋まっている。それで、研究室の配属は決まっていても、研究室で研究を始めるのは2年生になってからということになっている。だから公式には実験をはじめて半年しか経っていない。
1昨年秋に瀋陽に来たとき、私たちを待っていたのは修士の1年に進学したばかりの胡丹くんたちだった。彼らは進学する研究室は決まっていたけれど、この大学のルールでは最初の1年は講義に出るだけで、研究室には行かなくて良いという。そして彼らが言うには、その間、空いている時間を出来るだけ有効に使って新設の山形研究室で勉強したいという。希望を容れて、私たちは彼らの指導教授に会って事情を話し、その研究室所属で派遣という形で、胡丹くん、王麗さん、魯くんがやってきた。このほかに、日本に留学するのを待っていた朱くんも、薛蓮さんも加わって、私たちの研究室が始まったのだった。
始まったと言っても、どの部屋も建築直後でゴミだらけである。大きな教授室には机・椅子が、実験室には実験台が入っているだけで、ほかには何もない。部屋を大掃除し、試薬や実験機材を注文するところから始まって、彼らは研究室作りの仲間となった。一緒に分子生物学・腫瘍生物学の勉強もしたし、教授室の大きな机で一緒に鍋を囲んだりした。半年経って実験も出来るようになり、私たちの研究室に来た学生たちはほかの学生と違って、最初の修士1年生の時から研究を始めることが出来たのだった。
1年生の終わりに胡丹くんは、それまでの指導教官を変えて私たちの研究室の院生となった。王麗さんは、以前の指導教官と共同指導という形になって、私たちの研究室に残った。魯くんは、1年を終わったところで韓国留学の道を選んだ。
中国の修士の年限は3年だが、2年で修了して博士課程に進学するコースもある。その場合には、修士の学位は授与されないが、博士課程に進学する学生はほとんど、この短縮コースを選ぶ。王麗さんは早く博士が取りたいので、この短縮コースにするつもりである。一方、胡丹くんは天然物有機化学から細胞生物学に変わったので、修士課程は落ち着いて修行する時間と位置づけて、最初から3年コースにすると宣言していた。
教務課からは、現在修士課程2年の院生である胡丹くんたちに、今までの進歩状況を書類に書いて出すように、そして審査をかねて報告会があるとの通知が来たのだ。今までこの薬科大学で、このようなことはなかったそうだ。今年から修士の研究・教育に熱心になったみたいだが、2年前の春はSARSですべてのカリキュラムがずたずたになったし、昨年はまだその尾を引きずっていたから、仕方ないのかも知れない。
SARSといえば、その最盛期の4月にはこの大学は外部に対して完全閉鎖を敢行した。大学のキャンパスにいる学生は外に出ることを禁じられた。5千人を超える学生は、それから2ヶ月近く大学構内に閉じこめられた。
この閉鎖命令は突然出されたので、その朝大学の外に出かけた学生は、夜戻ってきても中に入れてもらえなかった。大学は、大学の持つ招待所及び大学のアパートを利用して学生を収容し、大学の中には一歩も入れさせなかった。
王麗さんの男友達の馬さんは瀋陽に実家がある。丁度その日に実家に出かけていた馬さんは戻ってくると、大学に入れないどころか、大学と塀を隔てた一隅にあるアパートに軟禁されてしまった。禁の解けるまでの二ヶ月間、二人はお互い宿舎の窓に立って手を振りながらケータイで話し合ったという。
大学のキャンパスは元々背丈よりも高い石と煉瓦の塀で囲まれているが、越える気になれば足をかけて塀をよじ登ることが出来た。それを断固として防ぐために、大学はSARSの封鎖開始と同時に工事を始めてこの塀をもっと高くし始めた。私たちが瀋陽に赴任したのは丁度SARSの封鎖が解けた直後だった。私たちのアパートは大学に小さな通用門に接しているけれど、この塀の丁度外に建っていて、それまでの通用門も石で塞がれてしまった。
その時は一年振りに薬科大学に来たので、旧知の学生と会おうということになった。彼らは大学の中の寮に住んでいる。大学の正門を廻ってくれば急いでも15分は掛かると思ったら、電話で話し合って何と5分もしないうちに彼らがアパートの中庭に現れた。「どうしたの?」と訊くと。「塀を乗り越えてきたんですよ。『上に政策あれば下に対策有り』ですものね。」と手をぱんぱんとはたきながら、魯くん、胡丹くんたちはニコニコとして答えたのだった。
「志があれば何でも成る」と信じる若者相手には、この高い塀でもまだ足りないのだ。それが大学にも分かったと見えて、その後、塀の上にはさらに鉄枠が植えられて、有刺鉄線が四重に張り巡らされた。さすがこれを乗り越える学生はいなくなったと思うけれど、大学の塀に沿って外を歩くと、中の大学の建物が何か刑務所みたいだ。
さて、修士2年生の書類提出だけれど、胡丹くんも王麗さんも、期日までには書き上げた。「発表会は何時に決まったの?」と訊くと、「まだ分からない。」という。しかし続けて「でも、薬理学研究科も中薬研究科も発表会をやめたそうです。」という。
「どうして?」と、当然の疑問がわく。「だって学生はこの時期忙しいし、先生たちだって忙しいので、それじゃ書類だけ書いて、発表会はやったことにしましょうと言うことになったみたいです。」
なんと、今度は上に立つはずの先生たちも下々の学生に合流して「上に政策あれば下に対策有り」ということになったのだった。
2005/04/08 21:06
一緒に来てくれてありがとう
日本人教師の会というのが瀋陽にあって、毎月1回会合が開かれる。春節休暇を挟んで1月と2月の定例会は休みだったので、3月には久しぶりに仲間の先生たちと顔を合わせた。
最初に出合った加藤正宏先生と、「あのときは笑ってしまいましたね。」と思い出話が始まった。というのは加藤先生が1月2日に大学の私の部屋に用事があって訪ねて来られたとき、先 生と顔見知りになっていた院生の胡丹くんが入ってきたので、加藤先生は「おめでとうございます」と胡丹くんに声を掛けた。
胡丹くんは既になじみの加藤先生を見て、ニコニコと挨拶をしようとしたところだったが、びっくりした顔をして「えっ、何が?」と問い返したのだ。これには加藤先生も驚いて「新年おめでとう」と言い直した。胡丹くんはこれでやっと納得して「おめでとうございます」と返事をしたのだった。
中国では旧暦が正月である。新暦で正月を祝う習慣はないから、「新年好」と聞いたならともかく、「好」だけに相当する「おめでとう」だけを言われて、面食らったのに違いない。中国と私たちの風俗の違いを浮き彫りにする格好のネタとなる。
この瀋陽日本人教師の会は瀋陽で日本語教育に携わる日本人教師の集まりで、会の規約には日本語教育の実を上げるための会員相互の助け合いと研修、および親睦が謳われている。私たち夫婦みたいに日本語教育には関わっていない会員も入るようになったので、規約の「日本語教育に携わる」が、瀋陽で「教育に携わる日本人の集まり」という具合に変わって来た。
ここに集まる日本人教師の年齢構成は、年長組と、年少組との二つの山にはっきりと分けられる。私も入る年長組は、日本の学校で定年になったあとさらに仕事を中国に求めてきた人たちである。日中技能者交流協会で研修を受けて派遣されてきた先生たちが半分くらいで、もちろんほかのルートも沢山る。
若い先生はほとんどが女性で、若い男性教師は数えるほどしかいない。半数が青年海外協力隊からの派遣で、あとは県と瀋陽市との交流協定に基づいて派遣された先生、個人的に瀋陽の学校の先生募集に応募した人たちなど多彩だが、ほとんどは女性であることが際だっている。
これは日本の就職事情を反映しているように思う。今日本での就職は厳しい。海外でなら職があるかも知れない。それが自分のためにも、その国のためにもなるならステキじゃないと思い切って、海外に飛びだしたいのは男女を問わないと思う。しかし、海外で仕事をしたあとのことを考えると、恐らく男性は腰が引けてしまうのだろう。日本に数年して戻って職を探すと前よりも探しにくいと案じるだろうし、実際そうだろう。年を重ねるごとに職は見つけにくくなるものだ。
一方、女性だと職を選ぶのに男ほど見栄を張らないのではないだろうか。それほど深刻にならなくても、何かは見つかるさと思えば気軽に海外に出られるのだろう。瀋陽の日本人教師の会 でお会いする、若い女性の先生たちは皆、意欲的で、しかも魅力的である。意欲的な人でなければ、海外の暮らしという冒険をする気にならないのだろうし、こ の意欲が彼女たちに生き生きとした魅力を与えているに違いない。
一方で、年長組を見ていると、ここにも際だった特徴がある。前に書いたように、年長組の赴任はほとんどが定年後の第二の人生である。当然、女性だけの赴任、加藤先生のように男性一人だけの赴任、夫婦揃っての赴任がある。
二人揃って赴任している場合には、私たちみたいに二人とも働いているか、あるいは、妻の方が教師として働いていても夫は仕事をしていない場合がほとんどである。日本では夫が外で働いて、妻は家庭を預かるというのが多いように思われるが、瀋陽ではそれは例外である。
別の言い方をすると、妻が中国で仕事をする場合は、夫は一緒に付いて行くが、夫が仕事をするために中国に行く時は、妻は「私はいいから、あなた一人で行ってきて」ということなのだ。加藤先生がこれに当たる。これは妻がそれまでに築いた生活を投げ捨ててまで一緒に行くことはないという判断を下したからだろう。
男が40年近くせっせと仕事をしている間、妻は家にいて営々と自分の城を築いてきている。夫が定年後どこか別のところで仕事をしたいといっても、夫に付いて行って、それまでの自分の友人、なじんだテニスクラブ、行きつけのレストランやブティークと別れて全く新しい生活を始める気にはならないのだろう。夫の方は、定年になって、それまで先生をしてきた妻が「今度は中国で教師をしたい」と提案しても、自分の拠るべき世界は自分の定年とともに雲散霧消しているから、妻と一緒に動くことに何の抵抗もない。
私の場合は幸い妻も同業者なので、私の選んだ道をともに歩くことが出来る。それでも、妻は中国に来ないという選択もあったわけだから、本当にありがたいことである。
これに気付いて、「一緒に中国に来てくれて、とても感謝しているよ。」とつぶやいたところ、「そうよ。来なくたってよかったんだから。ありがたいと思いなさいよ。」と妻に言われてしまった。こんな話をした翌日は、ちょうど私たちの結婚記念日だったので、妻への感謝の気持ちを込めて、日本から持って来て冷蔵庫にしまってあった貴重なチョコレートを紙に包み、上に「ありがとう」と書いて、朝大学の部屋の机に置いておいた。
離れたところにある実験室から部屋に戻ってきた妻は、これに気付いて包みを取り上げたけれど、「えっ、これ、何が『ありがとう』なの?」
やれやれ。どうもチョコレートくらいでは駄目らしい。だいたいが日本で一緒に買ってきた、共通のお菓子だしね。
2005/04/16 09:05
緊張する両国の関係
いま中国では日本の国連常任理事国参加反対に発した反日デモが吹き荒れています。この二週間日本の友人、知人から、様子を尋ねるメイルが頻繁に届くようになりました。
先週の日曜日には中国各地でデモがあったことは、日本のニュースで読みました。瀋陽でも千人規模のデモがあったと言うことです。あらかじめ領事館から注意するように伝達を受けていました。後で聞いたことですが、3回にわたって総領事館に向けた整然としたデモ行進があったと言うことです。明日の日曜日にも瀋陽を含めて各地でデモがあると、日本のニュースには出ていますね。
一般の人はデモのことは知らされていないようにと思います。テレビのニュースには出てきません。新聞にも書いていないと言うことです。でも、メイルで誘い合ってこの反日感情があおられていると思います。実際、私のメイルアドレスもこちらで公開していますので、中国語のメイルが沢山入って来ます。その中には反日、日本製品不買の呼びかけ、デモ参加の誘いがありました。
反日デモでは、いままた、「歴史から目をそらし、過去に責任に負うことの出来ない日本に国連常任理事国になる資格はない」と中国の国民から訴えられています。
私はその通りだと思います。世界に戦争を仕掛け、中国に侵略し多くの人を殺し財産を奪い、そして戦争に負けた日本は、「あのときは悪いことをした」といいました。しかし、今になって平気で歴史の教科書を書き換え、中国に侵略ではなく「進出」したと言い、西欧諸国の支配を受けているアジアの平和のために戦ったと主張しています。日本がそのように行動したには理由があることは分かります。しかし、これは明らかな視点のすり替えで間違っています。日本に戦いを挑んでもいない国々に攻め込み、人々を殺戮したことは事実であり、これを覆い隠すことは嘘つきであれと教えることです。隣国の自由を奪い、人々を殺戮したことは、明らかに消しようのない私たちの歴史の汚点です。
教科書問題は日本の内政問題だと日本の政治家は言います。実際教科書をどうするかは日本が自分で決めることでしょう、しかし、その過程で日本が過去を抹殺して知らん顔をしていることが分かったら、被害を受けた国が抗議をするのは当然だと思います。嘘をつくことはこの上なく恥ずかしいことです。日本は何時から恥知らずの国になったのでしょうか。
これは日本の政治家が間違っているからに違いありません。日本は私たち一人一人の投票による選挙で政治家を選びます。ですから今の政府は日本人に支持されているわけで、これが日本人の大方の意見かもしれません。もちろん私は、今の日本政府を支持していません。何時も選挙で負けていますが、数が少なければ仕方ないことですね。
国連常任理事国についてさらに私の個人的意見を書くと、日本が国連常任理事国になりたいというのはナンセンスです。
第一に、日本はまだ大人の国ではありません。口先でお題目の世界平和を唱えているだけで、世界に平和をもたらしそれを維持するだけの、しっかりとした国際戦略を持っていません。つまりは、理事国になったとしてもアメリカの尻馬にのるだけのことしか出来ず、みっともないだけです。今でもアメリカの意のままに行動している日本を恥ずか しいと思ったことはありませんか。
第二に、国連の分担金のうち22%を日本が出しています。中国は2%です。常任理事国になったとしても、拒否権もありません。こんな不平等なところに顔を出すことはありません。日本は国としては余所の国に借金をしていません が、日本の将来の国民に対しては国債という形でべらぼうな借金を負っています。内情はこんな貧乏国なのにどうして金持ちの顔をしたがるのでしょう。日本は身分不相応に国連に金を出すことはありません。分担金も減らしたら良いし、理事国に立候補するなどもってのほかです。
人々が意思を表明するためにデモをするのは当然です。しかしそのデモが暴力的になると、その結果が一人歩きします。北京で日本大使館が損害を受けました。上海で日本人が殴られました。日本がそれについて中国に抗議をするのは当然ですが、そうなると元の、何故中国の人々が常任理事国への立候補に反対したかという争点がどこかに打ちやられてしまい、やれ打った、やれ蹴ったという枝葉に目が移って、両国民はそれだけで反感を強め合います。
大事なことは、お互い落ち着いて話し合うことでしょう。お互い冷静にならないといけません。日本、中国、韓国がいがみ合って得するのは、アメリカその他の欧米諸国です。
大学の中では何の騒ぎもありません。大学の中に、看板も、ビラも、集会もありません。研究室では心優しい学生たちに囲まれています。街に出ても何時も通りで、私たちは罵声の飛び交う中で暮らしているわけではありません。
日本と中国は隣同士で、この地政学的関係は未来永劫変わりません。隣同士で緊張と喧嘩に明け暮れるよりも仲良くする方が住みやすいのは、隣近所の付き合いを考えてみれば直ぐ分かります。おまけに、隣近所のおつきあいと違って、お互いに助け合わなければ生きていけない社会なのです。
国と国の間の理解は、人々の個人的レベルの付き合いによる相互理解が基本でしょう。お互いに付き合って理解することで、「みんな違って、みんないい」ことが素直に受け入れられます。
日本には留学した学生が沢山います。彼らは報道が十分行き渡った日本で暮らしているので、きっとつらい思いをしているのではないかと思います。彼らがいじめられて反日感情を持ってしまったら、およそ意味ないことだと思います。今こそ良い機会です。彼らがつらい思いをしないように、もし周りに留学生がいたら、ぜひ話しかけてみて下さい。お願いします。
2005/04/20 18:46
再び日中関係について
反日デモで惹起された日本と中国のぎくしゃくした関係について、再度私見を述べさせて下さい。私はこの国で政治的な存在ではありませんので、出来れば触れたくないことですが、今の状況はそれを許しません。
昨夜中国のテレビで、中国の外相が大集会で演説しているのを見ました。日本のことらしいとは見当が付いたものの内容は全く分かりませんでした。朝になってinternetのニュースを見て、やっと理解できました。
そしてほっとしました。恐らく、これで中国の大きな反日運動は収束に向かうでしょう。この数週間私たちと距離を置いているように思えた研究室の学生たも、今日はそれ以前の振る舞いに戻った気がします。
【中国共産党中央宣伝部などは十九日、北京の人民大会堂で、党、政府、軍の幹部ら三千五百人を集めた日中関係に関する情勢報告会を開催。反日デモが拡大する中、李肇星外相が両国の歴史摩擦などに触れつつ「日中友好が唯一の正しい選択だ」と両国関係改善の必要性を強調し「無許可デモなどには参加せず、社会の安定を保つべきだ」と促した。新華社電や中国中央テレビが伝えた。】(西日本新聞) - 4月20日2時17分更新
西日本新聞は、さらに演説の内容を伝えています。
【李外相は、日中両国の二千年の交流史を振り返り「中国も日本から多くを学んだ」と指摘。日本の対中侵略を経て国交正常化して以降は「政治、経済、文化、教育、民間往来の大きな進展が両国民に利益をもたらし、地域や世界の平和と発展にも重要な役割を発揮してきた」と述べた。】
【他方、歴史、台湾問題をめぐる日本側の態度を批判し「近年は複雑な局面が生じた」としながらも「日本は重要な隣国。互いの利益は不可分であり、友好協力が両国国民の根本利益に合致する唯一の選択」と訴えた。】
【また、戦略的な大局から胡錦濤政権が日中関係の改善、共同発展を目指している点や中国発展には法治や社会の安定維持が必要と強調。「党と政府が両国間の問題を適切に処理できると信じてほしい」とし「無許可デモには参加せず、愛国の情熱は仕事や勉学に振り向けるべきだ」と話した。】
(西日本新聞)の解説によると、
【中国ではこれまでデモに関する報道はほとんど行われておらず、国営メディアを通じた全国への反日デモ抑制方針の明示は初めて。中国指導部はデモを愛国行動として容認し被害への罪、賠償を拒みつつ、過激行為の横行、日本側での反中感情の高まりに危機感を抱き、事態収拾に本格的に乗り出した格好だ。】
【報告会は緊急措置とみられ、異例の取り組み。指導部はデモの無軌道な拡大や国内不満層と連動した反政府運動への転化を強く警戒しているとみられる。背景にはネット社会で情報統制が取れない政府側の苦慮があり、デモが実際に沈静化するかどうかは微妙な面がある。今回の措置を受け、今後は胡政権の指導力が問われることになる。】
李外相の演説は、日本の近年の態度を非難しつつも、自国民に冷静になるように訴えています。これは、大いに歓迎です。反日デモで日本の財産、日本人への危害が続けば、日本でも中国への反感がたちまち高まります。現に日本の中国関係の施設が、いたずら、攻撃の的になっていることがYahooニュー スに出ています。これはたちまち中国の民衆に伝えられ、それは反日感情の火に油を注ぎます。ますますエスカレートする両国民の間の反感を、これ以上あおないようにしようという措置は、別の見方をすれば、今回の反日デモも自然発生ものではないという分析にもなるでしょう。
広大な国土と膨大な国民を抱える国は、政権が強い力をもち、国民が強い求心力と持たなければ国を維持していくのは難しいでしょう。国民の中の経済格差が大きく広がって行く中で不満が高進するのも避けられないことです。政権維持のために取る選択肢の一つとして、隣の国への反感を高めて国民の求心力を高めていると日本のマスコミによって分析されています。
一方この行き過ぎが政権を脅かすという見方も正しいでしょう。昨夜の発表で、今回の反日デモは収束に向かうでしょうが、火種は残っています。それは今の日本の態度です。歴史認識とその対応について、日本人は中国から責められても仕方ない行動を取っていると思います。
私は日本が言葉を尽くして心から謝ったとは思えませんが、「日本は戦争で悪いことをした」と、中国に何度も公式に謝っています。「もう何百回も謝ったのに、まだぐずぐず言うのか」というのがこのごろの日本の態度です。これを個人の振る舞いに置き換えれば直ぐ分かることですが、「うるせえな。こんなに謝ったのにまだ足んないっていうのかよ」とケツを捲るのでは、本気で悪かったと思っていない証拠です。
かつて中国に経済的野心と領土的野心をもって侵略し、人々を殺し財産を奪たことを本当に済まないことをしたと思っているのなら、日本の歴史を書き換えて、まるでそのようなことがなかったように口を拭っていられるはずがありません。
個人にとっては掛け替えのない命を奪う戦いを仕掛けたことは、もう二度としないつもりならば、いくら謝っても謝り足りません。日本は中国を始め被害を与えた近隣諸国に、謝り続け、「もういいじゃないですか。もう日本は十分謝りました。もう過去のことは済みました。過去は置いて、これからは一緒にアジアと、世界の発展と安定のために努力しましょう。」と、中国および近隣諸国から言われるまでは、過去の罪は消えないということでしょう。
常任安全保障理事国も、近隣諸国がまだそんな資格はないよと言っているのになりたがるなんて、とても傲慢だと思います。是非出て欲しいと言われるだけの信頼を得てのちこそ、なる意味があるでしょう。
恐らくここに書いたことを、今の日本で公言するのは勇気がいるように思います。でも、人の意見が自分と違うからといって、それを言うことを許さない風潮は、是非とも止めなくてはなりません。戦前のことですが、国の言う聖戦の遂行に少しでも反していると見なされれば、たちまち「非国民」と言って皆から非難されました。批判的な言動は全く許されませんでした。今の北朝鮮の体制を誰もが言葉を尽くして非難していますが、ほんの60年間の日本はそっくりその通りだったのですよ。
いまの日本は、いままた統制の道を歩んでいます。いま、式典で国歌を歌わない先生は愛国心がないといって処分を受けています。国は愛国心を強制しています。
誰でも自分の生まれた日本の国を愛したいはずです。しかし、これは強制されてすることではありません。強制されなくても誇りに思い、愛することの出来る国であるようにするのが、政治家も含めて私たち一人一人の責任でしょう。北朝鮮を非難し、韓国、中国を批判するだけでなく、今までの日本の態度を省みて、今後どのように日本は振る舞うべきかよくよく考えて欲しいと思います。
2005/04/23 06:47
老孔雀開屏、自作多情
研究室に入れて欲しいと言って押しかけてきた李欣さんに根負けして、彼女の希望を認めてから最初の土曜日が来て、彼女は私たちの研究室のセミナーに出てきた。研究室の構成メンバーは私と妻の貞子もいれて、卒研生以上が10名である。このほかに、以前紹介した(来るのを断ったら泣き出してしまった)基地クラスの2年生である宋さん、薬学英語班4年生の陽さんがいるので、学生メンバーは李欣さんを入れてこれで3人になった。
この日から黄欣さんがメンバーとして加わったので、最初に自己紹介をしてもらった。「天津から来た黄欣です。幸いこの研究室に入れて貰えて、これからセミナーに出たり、実験室に行って皆の手伝いをして勉強しようと思います。」と言った。
「実験室に来たら皆の邪魔になるから駄目と言ったじゃないの。セミナーだけですよ。」とびっくりして口を挟んだが、にこにことして「はい、セミナーに出て一所懸命勉強します。」と、平然としている。そして「私は、食べることが好きだし、水泳や卓球などの身体を動かすスポーツが大好きです。」という。好きなものに勉強が入っていないので「サイエンス以外は何でも好きなんでしょ?」と混ぜっ返したが、平気なもので「サイエンスはもっと好きです。」と全く悪びれたところがない。
どうしても、以前ここにいた上海出身の沈慧蓮さんを思い出してしまう。彼女は留学してこの4月からは京都大学大学院の修士一年生となった。沈さんは、何を言っても、つまり誉めても、叱っても、嫌みを言っても、当てこすりを言っても、皮肉を言っても、ケロリ平然としている人である。何を言われても応えない。きっと「私は誰にでも好かれている」という強い信念の持ち主に違いない。もちろん、沈さんのことは嫌いどころか、彼女の天真爛漫な性質を私はこよなく愛していて、ミーハー、転じてミハチンと呼んで可愛がっているのだけれど。
土曜日の午前中の研究室セミナーは、ジャーナルクラブと名付けている。これは、新着雑誌から論文を読んできて報告する会で、一回に二人のスピーカーが一人1〜1時間半を使って論文の内容を英語で紹介する。取り上げる論文は英文の一流誌に発表された原著論文である。私たちの研究室の公用語は英語なので、最新の様々の領域の研究成果を理解し、さらに論文の構成はどうなっているのか、話の展開を論理的に進めるというのはどういうことなのかを、英語で勉強しながら、英語を読み、そして話す訓練をしていることにもなる。
文献紹介を聴く人たちも勉強の良い機会だから、私たちの研究室では、セミナーに出たら必ず一つや二つは質問しなさいと言って教育をしている。話をきちんと聞いていれば、聴きながら分からないこと、おかしいと思うこと、あるいは糺したいと思うことが必ずあるはずである。その場で疑問を解決すればあとの話の展開に興味が繋がるが、分からないままでいたらば、分からないことだらけになって、最後にはただの子守歌になってしまう。
さらに、質問をすれば、きちんと聴いて理解しているかどうかが私に分かる。つまり聴き手が怠けているか、きちんと聴いているか、これで評価できるのだよと学生に言っている。このような自己表現も大事なことで、学会・講演会で人に覚えてもらうには、機会のある度に立ち上がって質問をすればよい。実際、本当に訊きたくて質問する人だけでなく、自分を売り込むために質問をしているんじゃないかと思いたくなる人も時に見かける。人の話をしっかり理解しながら聴く習慣が身に付くならば、ここの学生が後者のような人になっても良いとも思う。
もう一つは、話す方がいくら一生懸命話したって、話のあとに質問一つ出なければ話す方は悲しい。講演会・学術講演で話が終わってシーンとしているときなど、気の毒で見ていられない。会場から質問の一つも出ないときは、司会者もつらい。質問のないのは講演者の責任が大半だから、実を言えば、反応がなくたって仕方あるまいと思う。
しかし、司会者は講演者に対する礼儀も示さなくてはならないから、全聴衆を代表して何か質問をひねりださねばならない。司会者のこのつらさを知っているから、その話に門外漢だとしても手を挙げて何か口走ってしまうのは私がおっちょこちょいだからでもあるし、礼儀正しいからもある。
そう、どんな小さな話にも質問の一つもするのは話す人への礼儀である、と私は信じているので、学生にうるさく言っているのだ。何しろ、今いる中国は礼儀の国だし。
セミナーでは、もちろんはじめて聞く話について行くためには次々訊きたいことが出てくるし、率先して皆が質問しやすくしないといけない。だから何時でも私が口火を切る。この日は10分の休憩を挟んで3時間の間、皆何かしら質問したり、意見を述べて活発なセミナーだった。ただし王麗さんはひとりどうしてかおとなしかった。わざわざ彼女に「何も言うことはないの?」と訊いたくらいだ。
今回からレギュラーメンバー以外の女子学生が三人になったわけだが、彼女たちはまだ学部の学生なので、活発に質疑に参加したのではない。となると、男性陣が後輩の女子学生に格好良く思われたくて、頑張ったのだろうか。
終わった後、王麗さんに「どうしたの、今日は。おとなしかったじゃない。みんなは若い雄クジャクで頑張っていたよね」と言った。彼女は「なんですか、それ。」と言う。「だって雌の前で張り切って尾羽を広げているみたいで、彼女が来たことは良かったみたい。」と説明した。
すると彼女は「老孔雀開屏、自作多情」とポツンと言った。意味を訊くと「歳をとった雄の孔雀が、自分の歳も忘れてすりきれた尾羽を広げています。でも雌は振り向かないので片想いです。これ先生のことです。先生張り切っちゃって、大丈夫ですか?」
どうも、王麗さんは言うことがきついね。ひょっとして歳の若い雌孔雀を気にしているんだろうか?私も気になるけど。
2005/04/30 07:05
不思議の国の山大爺 その5
数回前の『上有政策 下有対策』に書いたように、この薬科大学では今まで修士課程の学生に対して2年目の中間報告会、あるいは中間審査は行われなかったけれど、今年度は突然それを 開くことになった。これまでのように「何もない」というしきたり通りだと思っていた胡丹くんたちは、大慌てで報告書を書き始めた。話を聞いてから締め切りまでに1週間もなかったのである。私もせかされて、胡丹くんの研究について指導教官としての所見を書き、書類にサインをして彼に返した。
他の有力な研究科では、そんな突然降って湧いた余分な行事を、先生と学生と共謀で会を開いたことにして済ませてしまったらしい。しかし私たちの研究科は生化学や分子生物学などのここでは新しい分野で、したがって製剤など「儲かる」学科中心の大学の中では力が弱いらしく、私たちの研究科では発表会をやるみたいだ。
しかし私は大学から何も知らされていなくて、院生の胡丹くんが仕入れてくる情報で一喜一憂しているだけだった。来週にはあるらしいと聞いていたのが、月曜日には何もなく、火曜日になって胡丹くんが「明日の午後発表会になりました。先生は都合がよいですか?」と言ってきた。もちろん「いい」というしかなく、Powerpointで用意した発表をUSBディスクに入れた胡丹くんと、当日になって本館3階の会議室に出かけていった。
会議室にはすでに知己となっている教授が二人、他に知らない先生らしい二人がいて、審査をする人は私を入れて5人と勘定できた。といっても私は報告書の書類も貰っていなかったし、そこでも廻ってこなかった。学生は胡丹くんを入れて13人が入ってきて着席した。
初めに先生たちの間でやりとりがあって、胡丹くんが最初に中国語で話をすることになった。彼の発表のスライドの図の説明だけは英語だが、本文は中国語で書いてある。きっちりと10分の発表は、スライドに書いた中国語を読み上ているようだった。あと質疑が5分くらいだったろうか。
胡丹くんは細胞膜にあるガングリオシドが細胞内にシグナルを発しているという仮説のもとに実験を進めてきた。ある特定のガングリオシドがあると細胞膜の特別の構造の中でリン酸化を受けるタンパク質の種類が大きく変わることを見つけている。このタンパク質を綺麗に分離するために彼は二次元電気泳動法の腕を磨いて、それに抗体染色(immunoblotting)によるリン酸化タンパク質の検出法を組み合わせて研究を進めて来た。
胡丹くんが話し終わると、ガングリオシドとは何か訊かれたり、どんな人がガングリオシドは研究しているのかなどと訊かれていた。まだ珍しい分野だからだろう。胡丹くんは、スライドで沢山のタンパク質が綺麗に分離されている二次元電気泳動の結果を見せたけれど、それは何処に頼んでやって貰ったのかと聞かれて、「これは自分のところで、自分でやったのです」と、途端に文字通り胸を張って誇らしげに答えていた。
胡丹くんの発表が終わったところで、研究科主任の教授から私はもう外に出ていいと言われて、鄭重にドアの外まで見送られてしまった。中国語が分からないのでいても仕方ないと言うことだと思うが、同じ研究科の教授というよりお客という受け止め方をされているのだと思う。研究科としては別に望んでもいないのに、中国語のわからない教授を大学が招いてしまって困っているということかも知れない。
私の研究室の修士2年に胡丹くんのほかにもう一人いるのが、王麗さんである。彼女は「博士課程に進学するなら、修士課程を2年で終えて博士課程に進学できる」という大学の規定を利用して博士課程進学を考えていた。いままでは、別の薬理学研究室に籍を置いたまま私の研究室に来ていたが、博士課程では私の研究室に所属したいという。そうなると,別のところから私の研究科への移籍になる。このようなケースは少ないと見えて、王麗さんが手続きに走り回っているけれど、よくわからないという。私の研究科からは、私のところへの進学希望候補がいるとも何とも聞こえてこない。
胡丹くんの時もつんぼ桟敷に置かれたままだったけれど、彼の中間報告には別に問題は起こりようがないからまあいい。でも、今度は博士課程に進学できる数が限られているのに希望者はそれより多いという話だし、私のところに博士課程の学生が何人採れるのかも気になって、研究科の先生に伺いを立てた。
すると生化学教室の主任教授から連絡が入るし、生化学教室の主任の助教授からも連絡が入るし、前年度の主任教授からも電話があって大変賑やかなことになった。初めは私も含めて4人の教授のいる研究科なのに、3人しか学生が採れないということだった。だんだん増えて私は二人まで採れるという話になっていった。実は人数よりも、このような進学手続きなどの決まり、申請や審査の期日を私にもきちんと知らせて欲しいと言いたかったのだ。私も同じ研究科なのだから。
木曜日になって、博士進学希望者の審査会を、金、土、日、の三日間のどこかでやるから空けておいて欲しいという連絡が初めて私宛に入った。金曜にあるならば翌日のことなのだけれ ど、それもまだ決まっていない。これが中国式なのだ。結局金曜日になって、翌日土曜日の午後に開くという電話を貰った。
中国では大体の日時は狭めてもぎりぎりまで開催日が決まらないのは、決定は自分が自由に行使できる権利だと、偉い人が見なしているからだろう。あるいは同じ理由で、それよりももっと上の人との予定がぎりぎりまで決まらず、それに合わせなくてはならないので、決めようがないというのかも知れない。日本の感覚から見ると理解しがたいけれど、ともかく、全くの不意打ちではないのだから、組織の一員としては、まあそんなものだと思うしかない。それに今度は自分の属する研究科から正式に連絡を受けたのだから、もちろん文句はない。
それにしても、胡丹くん、王麗さんは私を通じて知らせが来るという公式なルートはなかったわけだから、どのようにして中間報告や、博士進学の申請を知ったか訊いてみた。胡丹くんは「彼女から聞いたのですよ。彼女は薬理学研究科で、知らせがあったのです。」
王麗さんも同様に、彼女の恋人の馬さんの属する研究科の通達を、彼を通して聞いたという。と言うことで、情報過疎地である私の研究室にいる学生たちにとって、恋人をこの大学の別の研究室に持つことは、ここで生き抜くためには必須の条件のようだ。
2005/05/04 11:11
ゴールデンウイークに巡る瀋陽史跡 その1
五月になるとハイネの「美しき五月になれば」という詩を何時も思い出す。美しい詩だけれど春が徐々に訪れる日本ではあまりぴったり来なかったが、瀋陽で暮らしてみるとハイネの気持ちがよく分かる。瀋陽では11月から3月まで寒く長い冬に耐えなくてはならない。高緯度のドイツも同じだろう。4月半ばになるとそれまで零度以下だった気温が,どんどん上昇して、凍った土から芝生が青く芽を伸ばし、木々の芽が一斉に吹き始める。桃が開花して直ぐレンギョウが続き、今はライラックが花盛りだ。長い冬を越して一斉に春に目覚めた生命の躍動に心躍る気持を今瀋陽で味わっている。
5月1日のメーデーから始まる一週間は、中国でも労働節休暇と呼ばれるゴールデンウイークである。今年は後ろの土日も一緒にくっつけると9日間の大型連休となる。故郷まで片道4日 も掛かるような学生はさすがに帰省しないけれど、天津、上海(上海だと片道汽車で28時間という)から来ている学生は、二三日前から休みにして故郷に帰 る。
目次
私たちはこの休みの一日、瀋陽で得た友人である加藤先生に案内されて瀋陽史跡と隠れた名所巡りに出かけた。加藤先生は薬科大学の日本語教師の一人で、昨年秋ここに来るまでは関西の高校で世界史の先生だった。今回が初めての中国ではなく、現役の四十代の教師のころ西安に二年間、そして定年前の二年間は長春で日本語教師をしたという。日本の教職を中断して中国に来て日本語教師をしながら暮らすなど、よほどの興味がなければ出来ないし、たとえそう思ってもなかなか周囲の事情が許さないであろう。加藤先生は、その「よほどのことがある」先生なのだ。世界史、特に日中の現代史が専門で、調べれば調べるほど興味が募り、とうとう現場に自分の身を置きたいと希求するほどのめり込んでしまったものと思われる。いまの加藤先生の週末の日課は、市内で開かれる古書、骨董市巡りなのだ。そこで現代史に繋がる様々な本、写真、証書などを見つけている。
丁度、加藤先生の奥様も10日間の予定で日本から訪ねてこられていて、ご一緒した。彼女は文子さんと言って以前は学校の先生だったけれど、加藤先生の長春赴任に合わせて学校を辞めて長春では一緒に暮らしたという。でも、今の加藤先生は単身赴任なのだ。これは以前『一緒に来てくれてありがとう』に書いたように、「亭主はともかく、自分の築き上げた生活も大事なのよ。中国に行きたければ一人で行っていらっしゃい。」というケースだろう。
文子さんは水曜日に瀋陽に着いて次の週の金曜日には日本に戻るとのことだ。土日もこちらで一緒に過ごしてから日本に戻ればよいのにと思うが、彼女に言わせると、加藤先生は土日には彼女を放り出して自分は一人で骨董市巡りに行ってしまうから、週末前に帰っても同じことなのだという。
さてこの日曜日は朝8時半に大学の前のバス停で待ち合わせた。もう風は冷たくなく、空も青く澄み渡り、黄砂の気配もない。私たちは数日前までの冬の衣装を脱ぎ捨てて軽装である。加藤先生は古物市までの2kmくらいの距離を普段は歩くそうだけれど、今日は私たちに付き合って一緒にバスに乗った。バスの代金は1元。ワンマンバスで、乗るときに1元を運転席の横の箱に入れる。運転手はおつりを呉れないから、もし1元がなくて大きな札しかないときには、自分がにわか車掌になって、あとから乗る客から自分の釣り銭が出来るまで金を受け取らなくてはならないと聞いている。バスは誰もが遊びに出かける気楽な服装をした人たちばかりでいっぱいだったが、貞子が吊革につかまると、直ぐ若い男に席を譲られていた。
在瀋陽日本国総領事館の近くの停留所でバスを降りた。「2週間前の反日デモの時はこの手前にバリケードが置かれていて、ここまで入れなかったのですよ」とのことだ。領事館は50mくらい先の角にあるが、今は逆の方向に戻って運河に掛かった橋を渡る。瀋陽市内には運河が掘巡らされていて、この河畔は随所に公園となっている。これらの河畔公園を含めて緑地帯が市内面積の25%を占めるという話で、この一帯は市内屈指の風致地区である。その角に「瀋陽魯園花卉文玩中心」という二階建ての奥行きの長い建物があり、一階は生花の問屋、二階が骨董商だという。その関係で、この裏の河畔の広場に週末に古書・古物の市が立つのだそうだ。 店を通り抜けて外に足を踏み入れると、アスファルトの地面に2メートルくらいの幅に布を敷いて、その上に古本が広げてある。古本屋にはそれぞれ得意な分野があると見えて、紅衛兵の 紅い手帳や紅いその手の本だけを置いている店、小説本ばかりの店、人体芸術写真・素描などヌード本の店、昔の教科書が主体の店など様々だ。古本の表に「唐 宋詩選」なんて書いてあると、思わず「あるある」なんて声が出てしまい、店の親父に声をかけられてしまう。貞子は日本の歌の本を見つけて手にとって中を見 ると、「五線紙がない。えっ、これ数字で書いてある」ということだった。
二胡の楽譜は見慣れた五線紙ではなくて数字で書いていると聞いたことがある。きっとそれだろう。知った歌なら数字と音との関係が解読できるということになって、知っている歌の載っ ている歌の本を探し始めた。とうとう日本の歌が中国語となって一緒に書いてある歌の本を見つけて、2元で買っていた。15年前に出版された本で、裏には定価は0.3元と書いてあった。 「同学門 手拉着手 走在田野 和地頭」
これは「おてて、つないで、のみちを、ゆけば」の「靴が鳴る」である。音程は「1123,5565,332112,3212」と書いてある。ドは1,ミは3、ソは5,上のドは上1点付き1であることが直ぐ分かった。
古本屋の中での加藤先生の顔なじみは、教科書、地図、古い写真などを扱っている人たちで、加藤先生はもう半年通ってお互い親しい友だち同士のようだ。文子夫人は「我的太太」、私たちも「我的朋友」といって紹介されて、彼らに暖かい笑顔と親しげな言葉で歓迎された。その一人は、有名大学の出身で定年後、好きなことを始めてこの道に入ったという。そこにはロシアが出版した日露戦争前の満州地方の地図があった。いまちょうど石光真清の書いた四部作「城下の人・曠野の花・望郷の歌・誰のために」(中公文庫)を日本語資料室から借り出して読んでいる。欧米の列強の露骨な圧力におびえながら日本が富国強兵の道を走る明治・大正時代を、明治元 年生まれの石光真清が自分の数奇な軌跡を記述することで描ききっている奇書と言って好い。いまこの時代に惹きつけられていて、とても関心のある時代であり、旧満州という場所である。でも、値段を聞くと千元(約1万3千円)とのことで、とても物好きで買える値段ではないことが分かった。
2005/05/06 09:55
ゴールデンウイークに巡る瀋陽史跡 その2
古書の前で加藤先生はしゃがみ込み、幾つかの教科書を手早く広げて調べている。やがて「ほら、先生」といって見せてくれたのは「高小2修身教科書」というもので、出版は中華民国二十七年と書いてあって1938年に当たるそうだ。「酒を飲むな、煙草を吸うな」から始まっている。高小2年というと、今で言うと中学二年生に当たる。中2といえば子どものようだけれど、日本でも明治時代の初めには高等小学校を出て代用教員になった時代があったから、青年として扱われても不思議ではあるまい。この修身教科書の終わりの方には「中日経済協力」「中日合作東亜和平」などの項目が出てくる。出版は北京だからいわゆる傀儡偽満州国ではない。日本が攻め込んでいた中華民国である。日本が仕掛けた戦争で戦禍が中国全土に広がっていた時代だけど、中国では日本はアジアの一番近代的な工業国で、日本に見習って国力を高め一緒にアジアの平和に尽くそうと子ども達に教えていたのだ。 青空の下の古物市では、本のほかに首飾りの玉や腕飾りを冷やかしたりして2時間以上楽しんでから、先ほど通り抜けた大きな建物の二階に上がった。明るい陽光の下から暗い建物の中に入ったので、両側の店は暗くて全部仕舞た屋に見えてしまったが、目が慣れてくると立派な篆刻の店、貨幣の店、画幅の店、書の店、玉石の店など間口二間、奥行き一間半位の店がずらっと並んでいる。加藤先生はここでも顔なじみで、あちこちの店に立ち寄って挨拶をしていく。上品な店主のいる書画の店では、とうとう私たちも椅子に座り込んでお茶までご馳走になってしまった。この店主は勤めを持ちながら、週末はここに来て好きな商売をしているとのことだった。 店を出て河畔に立つと、もう初夏といって良い温度の中で、風が頬を優しく撫でて心地よい。河畔にはライラックの樹が立ち並んでいてその全部が満開なので、まき散らす香りに全身が包まれてこれも快い。この河畔から領事館は直ぐで、南三経街という広い道に面して米国総領事館、この奥の西には日本総領事館と続いている。広い道と日本総領事館に続く道にはトヨタのハイエースに似た公安の車が隙間なく並んでいた。日本総領事館の入り口は二重に閉鎖されていて、警備の警官、武装警官が門の周辺に多数立つほかには人影がなかった。反日デモ発生を厳重に警戒しているのだろう。
米国総領事館から反時計回りに日本総領事館を通り過ぎてその横手に出ると、別の入り口があって、瀟洒な3階建ての建物がほとんど出来上がっていた。かねて聞いていた話によると、総領事館の敷地の中に日本会館を建てて日本文化の紹介、日中交流の場に使うとのことである。この5月23日から28日まで、在瀋陽総領事館と遼寧省人民政府の共催で開かれる「 2005年瀋陽中日経済交流活動週間」がこの会館のオープニングを飾るはずである。4月に火の手の挙がった反日運動がこの「 2005瀋陽中日経済交流活動週間」開催に水をかけたに違いない。
反日デモの燃え広がる最中の4月19日に李外相が党高級幹部を集めて「反日デモの静観は国益に反する」という演説した。それ以来、目に見える反日運動は収まっているが、歴史認識の違いという問題の根本が解決していない以上、不安の種を抱えたままの開催となるであろう。日本からも沢山の経済界の人々が参加して、この催しを成功させて欲しいと願っているのだが、どうなるだろう。
この新築の建物を過ぎてそのまま進むと、日本総領事館の裏手の北に当たる敷地に北朝鮮の旗の翻る建物が出来ていた。加藤先生の解説によると、彼の着任時には建築中だったそうだ。建物はベージュと穏やかな茶色で彩られた高級別荘風の建物だが、日本国総領事館よりも塀が高いこと、門が格子ではなく中が見通せないことがいかめしい印象を与えていた。ここももちろん高い塀の外側がさらに金網の柵で囲まれて、多くの警備兵の姿が見られた。北朝鮮領事館の北側一帯は大きな公園になっていて、休みのことではあり、沢山の家族連れでにぎわっていた。
中国の公園の特徴は、子供用の遊具だけではなくて老人用の遊具が多数用意してあることである。老人が手すりにつかまりながら前後に遊具で足を動かしている。横では老人が鉄棒にぶら下がっている。私も真似をしたけれど懸垂のあと逆上がりが全く出来なくなっていて、いつの間にか老人になったことを自覚した。
子どもを避けながら公園をどんどん歩いていくと、北朝鮮領事館の裏手の東に当たる位置に同じような作りの同じ色の建物が見えて来て、これは韓国の旗を掲げていた。当然これは韓国領事館であろう。どちらも将来一緒になることを考えていて、北が南を併合するから同じ色の建物でいいよと言ったのか、南が北を吸収するつもりで同じにしてお こうと言ったのか、どちらか分からないが、同じ趣向の建物というのはなかなか暗示的でよい。 先刻降り立ったバス停に戻る途中、歩道の煉瓦色の敷石に綺麗な字で大中小学生に学業を教えますという白墨の字を見つけた。「随到随学」というのは何時からでも始めますという意味だろう。大学生のアルバイトだろうか。薬科大学で聞いたことだけれど、日中・中日翻訳などは高額が稼げるので大歓迎らしいが、何時もあるわけではない。高校 生、受験生に受験勉強を教えるのはごく普通のアルバイトなのだそうだ。レストランのウエイトレス、ウエイターなどは学則で禁じられているという。ここでは 大学生はエリートなのだ。
バスに少しだけ乗ってから、瀋陽市の街の昔の中心を目指して歩いた。この昔の街の中心は故宮と繁華街の中街を含む一帯で、戦後まで大きな城壁に囲まれていたという。日本が瀋陽に奉天という昔の名前を付けて、旧満州、今の東北地方の経営に乗り出してからは、瀋陽城の西に奉天駅を作って、そちらが新しい瀋陽の中心として発展したとい うのが加藤先生の解説である。ちなみにこの奉天駅、いまの瀋陽南駅は、辰野金吾設計の東京駅に似た優雅な駅舎である。ただし、奉天駅は1910年完成、東京駅は1914年竣工なので、奉天駅の方が古いから、似ているのは東京駅と言うべきだろう。バスを降りて広い道を歩くとやがて横手に奉天路という広い道が見えてきた。以前の街の名前がここに残されている。
2005/05/08 11:13
ゴールデンウイークに巡る瀋陽史跡 その3
奉天路を北に向いて歩いていくと、歩道いっぱいに車を置いて水洗いしている自動車修理工場があった。加油站と呼ばれるガスステーションでは、そう言えば洗車をしていないみたいだから、別の小さな商売が出来るのだろう。水しぶきを避けながらそこを通り過ぎると直ぐ左に、奉天路に面して南清真寺があった。 ここは回教寺院でここも境内は ライラックの花の盛りである。境内は黒い服を着て白い帽子をつけた人たちで溢れていた。煉瓦作りであることを除けば、回教寺院といっても外観は私たちの知っている一般の寺とほとんど変わりのない造作だった。内部を覗くと、人々は床に拝跪してメッカの方角を拝むので絨毯を敷いた広々とした空間だった。回教では男女一緒に礼拝することはなく、寺院が男女別に分けられているとか、寺の横に男女別の大きな沐浴室が設けられているとか、加藤先生の説明に初めて知る ことが多かった。本堂の裏手に回ると、本堂奥には三層六角形の望月塔がそびえていた。これも日本の寺の塔と変わらない反りの屋根を持ち、優雅な印象である。加藤先生に言われて気付くと、上部の水煙に代わって先端に「新月と星」というイスラムの印(実際には三日月と星)が高々と掲げられていることが、違っていた。
清真寺を外に出ると加藤先生が「ほら、周りを見てご覧なさい」と指さす。周りは住宅街で、周りは6〜7階建ての住宅ビルが沢山目に入る。言われてみると、周囲のビルには壁に青い模様が入っている。屋上の隈取りも鮮やかな青色である。この青色はこの寺を回教寺院として特徴付けている色である。ここは瀋陽の回教信者の集落で、東北地方では最大であるとのことだった。 回教寺院から東に向いて歩いていくと西順城路に面して道教の寺院があって、一人2元で中に入ることが出来た。ここは私たちの大学から日本語資料室に行くときの通り道で、何か由緒深げな建物で以前から気になっていたところだった。道教の寺は道観(道教宮観)と呼ぶそうだ。建てられたのは1663年 の清代初期である。中にはいると直ぐに関帝殿があった。横浜中華街の豪華な関帝廟を見慣れているのでそれと比べると素朴である。 真正面に関羽、右に義子の関平、左に部将の周倉の像がある。入ってくる人は皆像の前に拝綺して額ずいている。孝心、忠節の権化として尊敬を集め、武神としてあがめられ、後代になって科挙に受かる神様、無病息災を祈る神様、招財開運、商業の神様にまでなってしまった。両側の壁には関羽の事跡が描かれていた。三国志の有名な劉備、関羽、張飛の桃園の契りが描かれていて、こうやって知っていることが出てくると喜ばしい。おまけに描かれている関羽の顔が、中国で作られた大河テレビドラマの三国演義に出てくる関羽そっくりなので、これまた大いに喜んでしまった。もちろん関羽として世の中に広く流布されている顔の役者を選んだのだろうけれど。関帝殿の左手には馬の石像があり、これはそれ以前は呂布が乗っていて曹操から贈られた赤兎馬であろう。皆通りがかりにこの馬をなでていくので、私も尻と鼻面を撫でて三国志の世界に浸った。
道教寺院の中では、関帝殿の後ろには老君殿、玉皇殿が順番に並んでいて、それぞれ太上老君、玉王大帝が祭られている。太上老君は道家を創始した老子のことで道教では神として崇められている。玉皇殿に祭られている玉王大帝はギリシャ神話で言えばゼウスに当たると考えてよい。老君殿の前では高校生位の女性4人が並んで長い線香の束に火を点けてそれを捧げ持って真剣に拝礼して祈っていた。この火を付けた線香は、こうやって祈った後はその後方にある大きな護摩壇に投げ込まれて盛大に煙を上げている。 頭髪を頭上高く髷に結って黒い衣服を付けて一目で道士と分かる人たちが参拝客の世話を焼いている。老君殿の回廊の横では若い女性の二人連れが跪き、白い四角い筒のようなものの上部 に火を付けて、下部を手で捧げ持ち、隣に立つ道士の叩く木魚を聴きながら、火が燃え尽きて支える手が危なくなるまで熱心に祈っていた。このように若い人の参詣が多いところを見ると、革命で無宗教を推し進めたはずだけれど、宗教心は人々の心に強く宿っているらしい。
玉皇殿の奥には三官殿があって、伝説上の三官大帝である、尭、舜、禹が祭られている。面白いのは、この隣の建物には唐代の科挙に落ちたけれど剣術を好くし、豪放洒脱で人から好かれた養生術の大家の何某という人が神に祭られている。何でも彼でも都合よく取り込んで神にしてしまって祈るという宗教は、日本人にはなじみがあって、好感が持てる。自分を厳しく律するなんてなかなか私たち凡人には出来ることではないし、偉い人にあやかって楽に生きていきたいと気易く願える宗教は気楽で好 い。
宮観をでた後は西順城路をわたり、加藤先生について細い道を伝って歩く。両側は煉瓦作りの一階建ての共同長屋が続いている。長屋の切れ目から中を覗いて加藤先生は「何だと思います」とのことだった。周りと違う大きな家が見えていて、加藤先生によると奉天軍閥の高官の家だということだった。隣と比べて屋根の水仕舞いが丁寧に作ってあるとか、軒の下の支えの入り方が違うとか加藤先生の説明は丁寧である。この後、大きな韓国料理屋の裏手に入って、細い路地を曲がらずにどこかのうちの横手の階段を加藤先生はすたすたと昇りだした。先頭に立って上まで着いて、その踊り場の突き当たりに張ってある鉄条網から下に首を出して見せて、「覗いてご覧なさいな、これが城壁の残骸ですよ。」ということだ。代わって貰って網の隙間から首を恐る恐る出して左下手を望み見ると、石垣がある。これだ。これがいま評判の瀋陽城の城壁の残骸なのだ。
いきなり瀋陽城の城壁が話に出てきて分かり難いかも知れない。いま私が瀋陽にいて参加している瀋陽日本人教師の会というのがある。この会のホームページを昨年から引き継いで作ってきたのは私である。ホームページを愉しめるものにするために様々な企画を立ててきたが、その一つが会員一人一人のタレント性を紹介する「会員交流のペー ジ」だった。加藤先生はこの企画に乗ってくれて、「瀋陽史跡探訪」という記事を書き始めて、最近の「満鉄付属地その一」に至るまでもう5回も執筆を重ねている。その中に、「瀋陽城市城壁と城門」というのがある。
(http://www.geocities.jp/kyoshikai_shenyang/sakuhin1kato.htm)
加藤先生のその記事によると、清の初代皇帝となるヌルハチが満州地方を平定したとき、いまの瀋陽の地は既に明の作った瀋陽衛と呼ばれる城市があった。ヌルハチはその中心に宮廷の建 物となる故宮を造営して、この地を都とした。清という国名を名乗る女真族が、山海関で万里の長城を越えて明の支配する中原に侵入する前のことある。城壁は明時代の城壁を改修して頑丈なものに作り替え、上部の幅6メートル、高さ12メートルに及ぶ巨大なものであった。こうやってこの宮廷と付属の地域を高い塀で囲んだ瀋陽城を中心に瀋陽の街が出来た。その後日本が支配した時代は、奉天駅を中心とする満鉄附属地が中心となって広がり、この合体したものが今の瀋陽の原型になっているとのことだった(瀋陽の歴史も、加藤先生の「瀋陽史跡探訪」に詳しい)。
2005/05/14 06:21
ゴールデンウイークに巡る瀋陽史跡 その4
加藤先生の記事によると『しかし、中国建国後1958年の「大躍進」の時に、北順城路に沿った南側の部分の城壁の基礎段を残して、城壁は全て取り壊されてしまった。1982年に、この基礎段は市級文物保護単位に指定されたが、既に城壁の基礎として使われていたレンガは住民によって持ち去られたり、その基礎段の上やその傍らに建てられたバラックの建築資材に化けてしまって姿を消し、市民から忘れ去られてしまった』という。
いま、この一体を訪れると、瀋陽城の西の城門、東の城門、西北の望楼が見られるが、これはその後に再建されたもので、昔の城壁は跡形もないと思われていた。ところが、昨年の12月に城壁の基礎部分の一部が発見されて歴史的に価値のあるものとして一躍脚光を浴びたということだ。瀋陽市はこれを修復して歴史公園を作る計画だという。加藤先生はその新聞記事を頼りに大変な苦労をしてそれを探し出して、「瀋陽史跡探訪」の中の「4.瀋陽城市城壁と城門」に紹介を書いておられる。 (http://www.geocities.jp/mmkato75/shenyang4.html)
今、韓国料理屋の横手の露地を入って階段を上ったところから左下手にわずかに俯瞰できたのは、加藤先生が自分で発見したこの城壁の10メートルくらいの基礎部分なのだ。しかしその北側には直ぐこれに接して建物が建っているので近づくことができない。
それで大回りをして南側に廻るとそこには屑やさんがあった。加藤先生がそこの人に店の裏に通して貰うよう頼んで、ゴミを掻き分けながら奥に廻ると、2メートル位の高さで煉瓦と石の城壁のでこぼこの基礎部分の一部が目の前に続いていた。
幻の瀋陽城城壁の一部を始めて目にしたのだ。しかも、これを目にした人はほとんどいないはずだ。これを訪ね当てた加藤先生の案内なしにはとても見つかるところではない。先ほどから悩まされていた空腹感も忘れて、興奮に暫しそこに佇んでいたのだった。 そのあと私たちが昼ご飯を食べるために目指したのは、正陽街に面した馬焼麦という名の1796年開店のイスラム料理店の老舗だった。瀋陽のどんなガイドブックにも載っている有名店 だけど、私たちも加藤先生もまだ来たことはなかった。1時過ぎなのにひどく混んでいて、1階、2階の大部屋を素通りして幸いなことに包房(小部屋)まで案 内され、おそらくとっておきの豪華なテーブルに導かれた。焼麦は焼売と本質的に同じ感じで、この店では中の餡が二十種類くらい選べる。私たちは羊肉、牛 肉、そして三鮮を選んだ。三鮮はニラ、卵、エビである。それぞれ二両(百グラム)を注文した。このほかにおかず三品を取った。さすがに評判の高い店で、塩辛くなく味がよく、私たちは大いに満足した。これにビールを2本取って、勘定は115元だった。この味でこの値段なら全く文句はない。
昼食を堪能してまた細い路地を歩くと、煉瓦造りの高さの低い長屋が両側に続く。道は狭い。その長屋の壁には、明らかに城壁の煉瓦を利用したと思われる黒い大型の煉瓦や石が組み込ま れているのを見ることができた。今の時代の私たちは、「なんてことを」と思うが、当時としては不要になったものを再利用するのは当然のことだろう。
さらに歩いて、広い道に出た。この道は北順城路と呼ばれていて、瀋陽城の北側を巡る道路である。この道に沿って歩くと、先ほど見た城壁の基礎部分のあった場所よりも少し東側で、「ここにも城壁の一部が見つかったのです」とのことだった。城壁のための盛り土で高くなった段と城壁の一部を利用してバラックが建っていたが、これらは昨年末の瀋陽市の城壁公園計画に基づいた立ち退き命令により、あっという間に取り壊されたそうである。しかし、それから5ヶ月たった。家の取り壊された後の廃墟はそのままになっていて、家造りに利用されていた城壁の黒い煉瓦は今ではほとんど残っていないほど、持ち去られてしまったらしい。「城壁で名高い石や 煉瓦があるそうだから記念に持って行こう」というのか、「使えるものなら何でも手に入れよう」というのか。ま、両方だろう。
この後私たちは中街の西北の一帯の道の両側に布を並べている路上の骨董市に案内された。ここも、古本を置いている店、置物の店、壊れた楽器を並べている店、貨幣の店、鍵の店、小石を置いている店、篆刻の店、玉飾りを置いている店、そのほか有りとあらゆる思いつく物は何でも商品になるという感じで並べられている。その中で私の目指し たのは、石である。石といっても判子の彫れる石で、加藤先生から、1〜2元で売っている石に自分で篆刻が出来ると言うことを聞いて是非やってみたい、それにはまず石を手に入れなくてはということになったのである。
石といっても堅くはなく、 柔らかくて刃物で削れる石だそうだ。コンクリート色の石ではなくて、玉の親戚みたいな少し透明の様々な色あいで、色模様の混ざり具合がまた様々で楽しい。例を挙げると、ちょうど3センチくらいの径で高さ5センチくらいの手にすっぽりと握れるくらいの石である。その下面は平らに磨ってあってここにナイフで刻 むのだという。
しゃがみ込んで石を選ぶと、どれも表情があってその微妙な違いがどれも気に入ってしまってなかなか決め難い。やっと8個選んで買おうとしたら、加藤先生に「またここに来ると、また違う感じの石があるから、今日は5個くらいにしたら」と言われて、5個で10元を支払った。すごく安く貴重な宝石を手に入れた気分である。立ち上がって みると、貞子と文子さんがいない。この道端の古物市のそばに、これまたビルに入った骨董店があって、加藤先生によると、彼女たちはこの中に店を持つ加藤先生のなじみの店に行っているという。
探して行って見ると、店主はかなりの彫刻の匠のようである。店で見本を見せられてすっかり気に入って、貞子は猪を彫って貰うように加藤先生抜きで文子さんの助けを借りて交渉をしたところだったという。加藤先生の中国語の仲介なしで話が成立したので、二人とも興奮している。
これで夕方の4時になって、この日の瀋陽探訪はこれでお終いとなった。加藤先生に案内されて過ごした充実した一日だった。貞子は骨董市で加藤先生の知人に紹介されても挨拶以上のことは言えないし、ものを買おうと思っても言いたいことの百分の一も言えない状態に一念発起したらしい。翌日は研究室で学生の胡丹くんを捕まえて久しぶり に中国語で話し始めた。胡丹くんも以前は「破門ですよ」と言ってはいたけれど、中国語で話しかけられて機嫌の悪いはずがない。たちまち二人で意気投合して中国語が熱く交わされていた。賑やか過ぎるけれど、まだ休みなんだから、ま、いいか。
2005/05/20 21:52
悪友に被せてみたい緑の帽子
むかし最初の職を得て10年 間住んだことのある日本の名古屋は風の街だ。そのころ、名古屋にもご当所ソングを作ろうと言うことになって、石原裕次郎が「白い街、名古屋」と歌ったけれど、名古屋にいた私たちは、それは間違いで「風の街、名古屋」じゃなきゃと笑ったくらい、伊吹おろしが強く吹きあれる街だった。そのあと2年住んだシカゴの街も、Windy Cityと呼ばれるくらい風の強い街だった。
瀋陽の人たちはどう言っているか知らないが、瀋陽も風の強い街である。冬の冷たい風は容赦なく襟元に吹き込み頭から熱を奪うので、毛糸の帽子とフード付きのコートが欠かせない。フィンランドの友人が彼の地では「真冬に帽子を被り忘れると頭が冷えて頭痛のあと昏倒するのよ」と言っていたけれど、私たちは最初の冬にここでそれを実感した。
長い冬が終わって春になっても風が砂を巻き上げるので、瀋陽の街で頭から埃だらけにならないためには帽子がいる。真冬が過ぎると、私は息子から貰った革で出来た野球帽の形をした帽子を被っている。
瀋陽駅に近い太原街というのはファッションの街で名高いところで、地上だけでなく、太原街という街路の下が3層構造の地下街になっている。3年前に日本から一緒に瀋陽薬科大学を訪ねた悪友が、何処で聞いてきたのか「肩ひもが透明になったブラ」を売っている情報があると言って、わざわざ私を誘って買い物に行ったのが最初だった。
太原街でめでたく目的のものを見つけて、彼は研究所のすべての女性に土産にするんだと最初は喚いていたけれど、そのうち段々理性的になり、結局大学に入ったばかりの自分の娘に買っただけだった。私は、自分の娘にだってブラを買って帰る趣味はないが、ま、人さまざまである。
翌年私が一人だけ瀋陽を再訪して日本に戻ったとき、彼に土産話として、今年の瀋陽のファッションは「全部が透明になった透明ブラ」だよという作り話をした。悪友はこれを本気にして「何で買ってきてくれなかった?」としきりに残念がっていた。自分の娘に透明ブラをつけさせて、どうする気なんだろう?これは娘ではないね、きっと。
太源街の地下街はここで火事になったら?という恐怖を感じてあまり行かないけれど、若い女性向きの楽しいというか可愛らしい品物を売っているので、女子学生が同行すると寄ることがある。その時帽子屋を見つけたので覗いてみると、昔の中国の人民帽みたいなスタイルを保ちながらも、今は素材も色もデザインも昔とは大違いでとても良い感じである。
それで、昔アイルランドを訪れたときに買い損なった緑の帽子のことがずっと残念な記憶だったので、せめてここでそれに似た緑色の帽子を買おうと探したけれど、全くない。店の親父に尋ねても「没有」という。無いとなると欲しくなるもので、その後も心がけたがどこにもない。
よく知られているように、アイルランドは緑が国の色である。アイルランドの国の花は、三つ葉のクローバーに似た緑色のシャムロックで、郵便ポストにも、飛行機にも、至る所に緑色が使われている。シカゴにいたとき、アイルランドの守護聖人、聖パトリックの命日であるセント・パトリックス・デーには、目抜き通りでアイルランドゆかりの人々の祭りの行進があったけれど、誰もが緑一色で着飾っていた。祭りの時にはシカゴの街を流れる河の色まで緑色に染めてしまうのだ。
「グリーンスリーブス」(緑の袖)というアイルランドにはとても古い民謡がある。哀愁を帯びた旋律で日本でもよく知られている。グリーンスリーブスとはヘンリー8世の愛人の名前であり、独身男性が彼女を慕って歌う歌なので、緑という色には、「不倫」という意味があると聞いたこともある。
ある日研究室で緑色の帽子を探していると話したら、日本語の達者な胡丹くんは大笑いして「それは駄目ですよ」という。「何故っていうと」と、説明してくれた。中国では昔から女房を寝取られた男を、「間男に緑色の帽子を被らされた」と表現するのだという。だから中国では緑色の帽子は決して売っていないし、あったとしても誰も決してかぶるわけがないという。洋の東西で緑色が似た意味で使われているところが面白い。
終わりを意味する言葉と発音が同じだから、人には決して時計を贈らないとか(腕時計は発音が違うので別である)、日本と違って奇数ではなく偶数が喜ばれるなどの中国の常識は覚えたけれど、緑の帽子の話は知らなかった。
それで緑の帽子探しは断念したけれど、良いことを思いついた。例の悪友に上手いことを言って、彼が今度中国に来るときに、緑の帽子を被って来させよう。それにはどうしたらよいかといま悪巧みの最中である。
2005/06/03 09:11
友人を瀋陽に迎えて その1
今週前半の火曜日、友人が二人瀋陽に訪ねてきた。一人は修士時代の研究を私が指導したので、私の教え子と言ってもよい大貫洋二さんで、今はバイオ関係の会社の中堅である。もう一人の小川博さんは、最初に出会ったとき私は大学にいて彼はバイオ関係の会社員だった。小川さんの会社が新しく扱おうとしている商品の市場性、将来性について質問されたのが最初で、それ以来妙にウマがあって、いつの間にか友だちになっていた。
小川さんは化学の出身で大学院の修士も終了している。もし続けていれば研究者になったに違いない緻密な頭脳を持っているけれど、彼の日常やりたいことは音楽なのだ。空いている時間は、バイオリンを弾き、リコーダーを奏で、歌を歌い、オペラに出演しているか、音楽仲間とビールを飲んでいる。ただし、仕事はプロそのもので、それ故に私の尊敬する友人の一人なのだ。自由になる時間を増やすために、今は自分の会社を持ち、言ってみればバイオのフリーターとして働いている。
この小川さんと一緒に訪ねてくる大貫さんを指導したのは15年前だった。学生のときから妙に老成した雰囲気を漂わせている人で、会社に入ったときも全く新人らしい様子はなく、周囲の様子がまだ全く分からないのにずけずけと思ったことを会社の偉い人たちに提言してのけたと聞いている。大貫さんとは彼の卒業後もバイオの研究会や学会でよく顔を合わせたが、実は彼は大の音楽好きである。小川さんは毎年1回府中芸術の森劇場でオペラにでて歌っているが、数年前から大貫さんがそれを観に行く常連に仲間入りするようになってからは、新橋のアルテリーベでも互いによく顔を合わせるようになった。
この新橋のアルテリーベは、毎夕歌い手が生で出演する音楽レストランで、ビヤレストランといった方がよいかも知れない。瀋陽に来る前は、小川さんに会うというと何時も場所はアルテリーベだった。当然、この二人はビールが大好きで、昨年の夏会ったときもビールを飲めなくなっている私を前に、このアルテリーベで気持ちよく飲んで歌っていた。
この私の友人ふたりが東京から瀋陽5日間の予定で遊びにきた。目的は、餃子を食べて地ビールをたらふく飲んで、どんな音楽会があるか覗いてみて、瀋陽の名所旧跡も廻って、ついでに私のいる薬科大学にも寄ってみようか、と言うものらしい。
瀋陽にはサッポロビールの名残の雪花ビールがあるけれど、この生ビールが何処で飲めるか分からないので、「瀋陽日本人教師の会」の先生たちにメイルで質問をした。さらには瀋陽では音楽会は何処でやっていますか、何処でその情報が入りますかということも尋ねた。
すると、雪花の生ビールは夏になるとあちこちの路上レストランで飲めること、しかし雪花ビール専門のビヤホールはないこと、それ以外の店で作っている地ビールが飲めるレストラン情報など、次々と先生たちからの情報が届いた。音楽会情報は○○新聞を買えば載っていること、大劇場に行けば窓口に公演予定が張ってあることも教わった。加藤先生はわざわざ大劇場に行って窓口の情報を持ってきて下さった。ありがたいことである。しかし、雑伎団は常設ではやっていないし、週日に音楽会もない。この瀋陽は未だ文化都市とは言えないらしい。
友人二人は午後3時半に空港に到着してホテルまでリムジンで運んで貰えるという。それでその日は5時にホテルに迎えに行って、そのあと大学に連れてきて研究室挙げての歓迎会をすることになった。研究室のパーティは時々やっているけれど、今年は卒業研究生が全員男子と言うこともあって、彼らが配属されてから1回しか開かなかった。おまけに4月に入ってからは反日デモに端を発する硬い世情が研究室でパーティをする雰囲気を許さなかった。
その期間、薬科大学の中で何が起きたと言うこともないけれど、研究室の学生は日本人の私たちとは「距離を置きたい」という感じであった。4月10日、17日と瀋陽では初めてこの手の街頭デモがあったが、4月19日に中国政府の李外相が共産党の幹部を一堂に集めて「反日デモの猖獗は中国の国益に反するから鎮めるように」という演説をした翌朝になってやっと、彼らの態度が元に戻ったのだった。
2005/05/28 08:38
友人を瀋陽に迎えて その2
研究室では、電磁炉と鍋が使えるので、いわゆる鍋が出来る。今回も肉を買ってきてしゃぶしゃぶをしようということになった。火曜日の朝、先ず朝市で野菜を買い、その横の専門店でスライスした牛肉を買ってくるからと胡丹くんが言ってくれる。「じゃ予算はいくらにしようか?15人の予定なので、一人牛肉200グラム用意するとして合計3kgだから、200元?」と聞いたら、胡丹くんは「先生、今回はケチですね。そんなことでは先生の大事なお客さんを迎えるのに恥ずかしくありませんか。」という。だって「前回は沢山余って翌日も皆で食べていたじゃないの」と反撃する。何時も私がスポンサーなのに翌日の余り物の会の時には声をかけられなかったので、私は今もそれを根に持っているのである。今回は余分に買いたくない。
結局300元を渡して、こんなものかな?これでビールも買えるだろうか?」と訊くと「1本2元だから20本買っても40元ですよ。」とのことだ。雪花ビールには値段で数種類あるけれど、日本人は高くても安くても大して味の違いはなく、どれも美味しいという。アルコールの飲めない私のためには「飲むヨーグルト」と叫んだら、横で妻の貞子が「ビールは2元なのに、ヨーグルトは6元するわよ。贅沢ねえ。水でいいわよ。」といっている。安い水でも1〜2元だから、水よりも安い雪花ビールというのも嘘ではない。
胡丹くんが今回は全体の段取りをして、当日朝、卒業研究の学生を率いて朝市に行って野菜と牛肉4kgを買ってきた。スライスされて凍っているので嵩張っている。これだけ沢山の牛肉をしまうために実験室の冷蔵庫と冷凍庫を皆で大わらわに整理した。そのあと、王麗さんも加わって、あと何を買いましょう?ということになった。
午後には数人の学生が近くのスーパーのカラフールに、草魚、湯葉、豆腐、粉皮、果物、菓子、酒(白酒と呼ぶ焼酎みたいなもの)などを買いに行った。講義から戻ってくると、教授室の一画にはこれらが大きな場所を占めて置かれていた。ビールも24本1ケースを二人で運んできたという。大瓶660ml入りで何と2元。24本で48元。日本円にして630円である。何とここでは日本の1本分で24本買えるのだ。
彼らが泊まるホテルはHoliday Inn in Shenyangで、瀋陽駅近くの毛沢東の像が高くそびえる中山広場の近くの良い場所にある。彼らはツアー会社の手配でホテルまで送って貰えることになっているというので、ホテルで会うことにした。約束の時間に間に合うように胡丹くんと二人でタクシーで出かけた。タクシーが走り出したら電話が掛かって来た。大貫さんは世界中何処でも使えるケータイを持っている。飛行機が30分遅れて、しかも空港で30分経ったけれどまだツアーの出迎えに会えずリムジーンに乗れないという。
私たちが空港に出迎えれば良かったけれど今更仕方ない。先にホテルに行って待つことにした。瀋陽の街の案内を手に入れておこうと思ってコンシェルジェのところに行った。デスクの横の棚にはわずかのパンフレットしか入っていない。どれも中国の他の都市のホリデイインの案内である。劇や音楽会のチラシもレストランの案内も、名所案内のパンフレットも、市内観光バスのガイドもない。何となく悪い予感を持ちながらコンシェルジェに市内の観光バスの情報を尋ねた。彼は直ぐにどこかに電話をして、代わって話せと電話を差し出した。すると、相手が私に訊くのは、「そちらは何人だ?」
「市内観光をしたいのだが、観光バスがあるのか、何処を廻るのか、何時間かかるコースがあるのか、いくらか」と尋ねたけれど、話の要領を得ない。そこで中国語を話す胡丹くんに替わって貰ったら、結局、市内観光バスはない。この電話は、「こちらの人数と国籍を見てガイドを付けて市内を案内する旅行ガイドで、高いですよ」とのことだった。ここは四つ星ホテルである。コンシェルジェも置いている。だから案内のないのは、つまりここが悪いのではなく、瀋陽に市内観光バスがないかららし い。
二人はなかなか着かない。瀋陽は清朝の発祥の地で沢山の遺跡があるし興味深い観光スポットもある。観光コースを整備して迎えれば、日本からの観光客が沢山来るに違いない。日本と瀋陽は近い。何しろ成田からでも3時間掛からないのだ。退屈する前に着いてしまう。胡丹くんと、勿体ない話だね。観光バスを買って商売をしようか。先ず観光業で稼いでそれを研究費にするのが賢明かも知れないねと、話が弾んだ。
2005/06/03 09:14
友人を瀋陽に迎えて その3
やがて二人がホテルに到着して感激の対面となった。詳しく聞いてみると、今回のツアーに含まれているのは航空券とホテル代だけで、誰の迎えもなかったし、ホテルまでのリムジーンも含まれていなくて、空港で市内連絡バスを探してここに来たそうだ。初めからそう聞いていれば、僕たちが空港に行ったのに。
ともかく大学では研究室の人たちが料理の用意をして待っているので、タクシーで大学に戻った。道々二人は、「瀋陽ってこんなに大きい街とは思わなかった。とても活気に満ちている」と言っていたが、やがて猛スピードで他の車を追い抜き、道を渡っている人や荷車を縫って走るハンドルさばきに段々恐怖が募ってきて、口が凍り付いてしまった。私も今は慣れてしまったけれど、最初はタクシーに乗るたびに身体が凝り固まったものだ。
大学の教授室は広くて一画に大きな会議用テーブルが置いてあり、何時もセミナーの時に12名が集まる場所がある。今日はここにしゃぶしゃぶが用意されている。机の上には薄いビニールの紙が敷かれている。これは中国で初めてお目に掛かったけれど、「十人卓台紙」と言って売られているポリエチレン製の薄いフィルムで、机の上に敷くディスポのテーブルクロスに当たる。この上で宴会をして、あとはくるりとはぎ取って捨てれば、何処も汚れないという仕掛けである。おまけにテーブルの上に何が落ちても、あるいは何を落としてもそのままくるんで捨てられる。うまい仕掛けである。
瀋陽の事歴に詳しい日本語教師の加藤先生も今日は招いてあって、今日の宴会の総勢は15人だった。加藤先生は中国語が自由に話せるので、私たちの研究室の学生の中でも人気が高い。水より安い雪花ビールで、先ず「熱烈歓迎」を口にして、日本式の乾杯をした。日本式と断ったのは中国に来てこちらの風習を知ったからである。日本にいれば、先に料理が来ても来なくても「先ずビールで乾杯」と言うことになるが、中国式では、料理の皿が先ず3皿出たところで主催者が挨拶を始めて、4皿出たところで乾杯をしてそのあと食べ始めるのが普通のスタイルらしい。
この「乾杯」は中国式では、文字通り「乾杯」で全部飲み干すことになる。さらに、中国に来て覚えたけれど、そのあとひとりで自分のコップに口を付けて勝手にビールを飲むなんてことはせず、飲むときは誰かにも声をかけて「誰々先生、乾杯!」といって一緒に飲むことを知った。最初の一杯はともかく、そのあともこの一気飲み方式を続けられる日本人は多くないから、その時は「慢慢喝(マンマンハー:ゆっくり飲んで)」あるいは「一点一点(イーディアル、イーディアル:一寸だけ)」ということになる。
料理も鍋を二つ用意して、片方は普通のスープで、もう一つは四川の辛い味にした。肉も野菜もふんだんにあるし、豆腐、きのこも拉皮も沢山あるので簡単にはなくならない、ビールもそれこそ水のように豊富にある。途中でビールではお腹が張るというので、白酒に切り替えたら二人はこれが大層気に入ってしまった。「中華料理にこんなに合う美味い酒はない」とのことだ。料理は牛肉のしゃぶしゃぶなので無国籍料理みたいだけれど、使っているたれは中国人の好きな味なので、味は中華料理といって良い。実際、今は飲めない私だけれど、白酒は中華料理にぴったりの酒であると思う。何しろ、それで私は飲み過ぎて膵臓を壊したのだから。
白酒はアルコール52度という強い酒なのに、二人ともコップから水のように飲むので、とうとう二人とも酔ってきた。小川さんは何にでも好奇心の強い人だから、歴史が専門の加藤先生に向かって「歴史も、誰が統治したかという見方ではなくて、経済面の発展や相互作用で見ていくと世界歴史もまた面白い」と気炎を上げ始めたが、やがてさらに酔いが廻って、小川さんは立ち上がって歌を歌い始めた。
[Das gibt's nur einmal(1931年ドイツ映画「会議は踊る」の主題歌)]、[Wien, du stadt meine traeume(ウイーン、我が夢の街)] から始まって、アルテリーベで出している歌集を見ながら歌い出した。この歌集は小川さんから私へのお土産である。歌で稼いでいるわけではないが、プロはだしと言いたい美声である。ただし、今日は酔いのために音程が外れまくって、あまりいただけない。貞子は中国語で覚えたテレサ・テンの歌を二つ歌って、全員から喝采を浴びている。彼女の声は実に美しい。私は学生に何か歌えと言われるたびに「詩吟」を唸って、蛮声でみなを驚かせ、呆れさせているけれど、今日はその歌集にあるサンタルチアをイタリア語で歌って気分が良い。貞子と二人で「朧月夜」や、「花」を初めて歌って学生を喜ばせた。博士2年の陳さんもソプラノの美声を聞かせてくれた。小川さんは歌に合わせて一人で踊りまくっている。学生は、「日本人ってこんなにおかしな人種なんだ」という発見に目を輝かせて、喜んだ。メッチャ楽しい晩となったが、明日もあることだし、ともかく世話係の学生二人と一緒にホテルに向けて送り出したのが夜の10時だった。
2005/05/30 13:39
友人を瀋陽に迎えて その4
翌日の水曜日朝は胡丹くんと二人で9時にホテルに迎えに行った。しかし、ロビーにはどちらの友人もいない。小川さんの部屋に電話をしたら低音のがらがら声で「はい。今降りていきます」とぼそぼそと言う。未だアルコールが残っているようだ。私は飲んではいないけれど、友人と久し振りに会えたという興奮のためか、一夜明けたのにまるで昨夜酔ったみたいな気分である。それが実際の二日酔いだったらつらいだろう。昨夜の大貫さんはもっととろんとしていたので、まだ寝ているかと思って電話をしたが、もう起きていて直ぐに降りてきた。顔を見ると昨夜のアルコールの痕跡は全く残っていない。若さというのはたいしたものだ、年上の小川さんはまだ白い顔をしているというのに。
先ず故宮の見学に行きましょう。この故宮は北京を攻略する前の清朝初代のヌルハチと第二代のホンタイジ(皇太極)の王宮の建物である。1637年に完成したというのでざっと370年前の建物である。ホンタイジの息子の順治帝はホンタイジの弟のドルゴンに助けられて北京を占領し、明朝の造った紫禁城を改築して王宮として移り住んでからは、そちらが都となったが、その後の皇帝はたびたびここに巡幸している。北京にある故宮に比べるとこじんまりと小さく可愛い。満族の様式で建てられているという。
故宮の右側の一画には広場があって、奥の突き当たりに八角形の大政殿がある。この大政殿は儀式の時にヌルハチが座った場所だ。大政殿の正面は細長い広場に面していて、この広場を両側から囲んで5個ずつ十王亭と呼ばれる方形の建物が建っている。清朝の旗本は八旗の軍隊に色で分けられていたそうだ。それぞれの隊長で八個の建物、そして全体の政務を見る相談役の大臣が左右に二人ということで十個の建物がある。今、それらの建物には、ヌルハチの使った武具、ホンタイジの衣装、武具、当時の兵装などが飾られている。正白、正黄、正紅、正藍、副白、副黄、副紅、副藍で八色の旗になる。旗にはどれも龍が付いている。中国皇帝は龍がシンボルだが、清朝は関内を征服する前から龍を使っていたらしい。今日の小川さんは草色のシャツ、大貫さんは草色のポロシャツで、まるで示し合わせたみたいに同じ色だ。私のシャツも薄緑なので9番目の草色の旗のヌルハチ軍団が出来たみたいである。
大政殿の横には元の至正12年(1352年)の石碑があって、この地域を瀋陽城と呼ぶと書いてある。ここを瀋陽と名付けた一番古い証拠なのだった。
故宮の奥の一段と高いところは大奥で、ホンタイジと正妻の皇后の寝室、妃4名の建物がきちんと並んでいる。建物にはそれぞれ何々という名前の妃が住んだと書いてある。これ以上妃がいたら何処に住まわせたのかというのが私たちにとりついた疑問だった。また一人増えたから一寸お詰めになって、という具合にはいかないだろうから、その時は何処に置くだろうかという興味を持ちながら他の建物を見て回った。
二代目皇帝のホンタイジの弟にドルゴンという人がいて、彼の軍事的才能と、明朝の将軍の呉三桂の裏切りで満州族は中原を席巻するが、ドルゴンは皇帝とはならなかった。ホンタイジの息子の順治が三代目となって、ドルゴンは幼い彼を補佐した。順治帝を生んだホンタイジの妃はその後ドルゴンの妻となったという。それで、順治帝はドルゴンの息子ではないかという説もあるそうだ。
明の北方から興った満族の帝国はヌルハチからホンタイジに掛けて数十年の間明を攻めたが、明軍も強く、長城の存在にも阻まれて関内に侵攻できなかった。このとき清軍に立ち向かったのが呉三桂将軍の率いる明軍で、決して弱くはなかったのである。しかし衰えてきた明国では李自成の反乱があり明朝を滅ぼした。呉三桂将軍は蘇州生まれの陳円円を北京に置いてきたが、このどさくさの間に陳円円は李自成に奪われてしまったのである。それで、反乱軍の李自成と明軍の呉三桂の戦いとなったが、陳円円を取られた怨みは深い。李自成に恨みを晴らすためには手段を選ばず、長城の山海関を開いて清軍を引き入れ、清軍はこれに乗じて北京を占領したのだった。
史上の人物が人間臭くて面白い。呉三桂はその後は清朝の高官となって引き立てられたが、今の中国から見ると敵に内通した売国奴ということになり評判は良くない。それなら明国の評判が相対的に高いかというと、圧政だったということでこれも高い評価ではないようである。
2005/05/31 08:27
友人を瀋陽に迎えて その5
故宮を西の一画に廻ると文溯閣があった。1783年(乾隆48年)に建てられた四庫全書を収めるための建物である。康煕帝が編纂させた四庫全書は8万冊近い書物で、全国に七カ所設置したという。胡丹くんが説明を読んで、北京の円明園にある四庫全書は1860年の英仏連合軍の攻撃で灰と化し、南の三つの都市の四庫全書も戦乱でなくなり、北京の四庫全書は他の宝物と一緒に蒋介石が台湾に持って行ってしまったので、今は中国に二カ所しか残っていませんと言う。瀋陽の分は無事に残っていて、今は甘粛という地で保存されているとのことだ。
「台湾にあるなら、それも数えて三カ所に残っていると言わなきゃおかしいのでは?」と早速疑問をぶつける。「だって中国は台湾も中国の一部だと言っているじゃない?」しかし胡丹くんはにやにやしている。きっと、そこには二カ所しか残っていないと書いてあるのだろう。
時計を見ると1時になっていて、昼食の時間である。このあたりのレストランで、しかも二人が熱烈に希望している餃子を食べさせる店というと、故宮の面している瀋陽路の一つ北側にある通りの中街にある老辺餃子館がよい。
繁華街の中街まで歩いていくと、ウイークデイの昼間なのに結構人出が多い。小川さんがどうしてなのかと訊いてきた。「恐らく、中国では人が多いので、必要以上の人を雇い、仕事を少なくしているので結構暇な人が多いのではないか」と回りくどい推測を話すと、「あ、ワークシェアリングですね。」という簡潔な返事が返ってきた。なるほど、中国は時代の先を行っているんだ。趣味の世界に生きる小川さんにとっては理想の形態かも知れない。
老辺餃子館は昼食時を過ぎているのに未だ沢山のお客で一杯だった。奥の方に案内されて、メニューを見て焼き餃子を一つ、蒸し餃子を3種類注文した。焼き餃子は三鮮(エビ、卵、ニラ)しかないが、蒸し餃子は20種類位の餡が選べる。このほかにスープとおかず2種類。大貫さんは至って元気で、小川さんは遠慮すると言っているのに、昼間からビールを飲みながら餃子を平らげていく。二人とも刻んだニンニクと唐辛子を酢に入れた「たれ」を付けて食べる方式が気に入ったみたいだ。餃子4皿がみるみるなくなって、胡丹くんが小声で「食べ物が全部なくなったら、お客さんにとって食べるものが足りないと言うことですよ。もっと注文しましょうよ。」と囁く。さらに餃子を1皿増やし た。
どれも3両(150グラム)ずつで頼んだから、150x5で合計750グラムである。一人平均175グラムとなる。餃子の重さは粉の目方だから、スパゲッティでは一人平均100グラムを茹でることを思えば、この昼に私たちが餃子をいかに沢山食べたことか、お分かりだろう。
お茶は八宝茶で、八宝茶にはいろいろの内容がある。蓋をずらしてみた感じでは、菊花、不明の花、薬用人参、桂元(竜眼)、クコ、乾燥棗、氷砂糖などが入っているようだ。これに湯を注ぐ係りは70センチ位の細長い口を持ったやかんから、茶碗めがけて少し離れたところから湯を注ぐ。今日のウエイトレスは10センチ位しか離れられないので未だ新米かも知れない。前に来たときは50センチ位離れたところから湯を注いでいた。大した技術である。
満腹して店をでたのが3時。この老辺餃子館を出たところが中街の通りである。ここを歩いてみたいと二人が言うので、歩行者天国仕立ての中街を歩いた。両側にアパレル、CD、靴、ファッション、デパート様々な店が並んでいる。一昔前の日本の繁華街のように、大きな音で音楽をならしている店があちこちにある。「手を繋いでいる二人の姿が日本より多いですね。」と大貫さん。小川さんは「女性は背が高くて、しかも姿勢も、スタイルも良い人が圧倒的に多いですね。」と、私が瀋陽に来て驚いたことに同じように感じ入っている。
ケンタッキーの先に見慣れた飾りの吉野家を見付けて、「牛丼を腹一杯食べてきたと言って日本に帰って自慢しようか。」なんて二人で言い合っている。吉野家の店のガラスには大きくポスターが貼ってあって、「100%香港企業」「中国人 中国心」と書いてあった。これは、反日デモが起きて襲撃されるのを避けるための用心だろう。何しろ大きな一枚ガラスで、壊し甲斐がありそうだから経営主は心配で、「転ばぬ先の杖」とばかりに張り出したに違いない。
中街には薬屋も多い。二人とも薬に多少の関係があるので気になって覗いてみると、カウンターの中にはその許容できるスペース以上の数の白衣を着た女性が入っていて、やってくるお客の相手をしようと待ちかまえていた。「やせ薬が欲しいと言って入ろうかな?」と恰幅の良い小川さんはつぶやいて中に入った。たちまち何十という眼が集中し、売り子さんの言葉が店内にどよめく。それを振り切って奥まで入ったところで「二日酔いの薬を買おうかな?」と小川さんが言ったのを胡丹くんが中国語にした途端に、近くの白衣の女性が左を向いて声を出し、それがドミノ倒しみたいに次々と伝わっていって、入り口近いところの売り子さんが何か叫んでこちらを見た。そこに二日酔いの薬があったらしい。
2005/06/01 15:11
友人を瀋陽に迎えて その6
無事に二日酔いの薬を買い、外に出てから水を買って薬を飲みながら、小川さんは、「それにして凄いですね。どうしてあんなに売り子が大勢いるんでしょう。あれは、みな薬剤師なんでしょうかね。」と言っている。あんなに薬科大学出身がいるとは思えないけれど、私には答えられない。
中街が正陽街にぶつかったところで南に向かい、少し歩いて張学良帥府に行った。張学良は日本軍によって1928年爆殺された中国東北地方の軍閥の張作霖の息子で、ここは親子二代の軍閥政権の中心となった建物である。大きな門を入ると典型的な四合院造りに出合う。中庭を囲んで四方に建物があるので、なるほどと納得できる。奥に行くと1920年頃建てられた瀟洒な洋館があり、張作霖の家族の写真、生活が展示されていた。張作霖には数人の妻がいた。「妻同士が寄り集まって話をしてはいけない。」 「それぞれの母子は毎月決まった給金の範囲で生活すること。」などの家訓が張ってあった。なるほど、同じところに住んでいても分割統治なのだ。彼らに共同戦線を張られたら何かと困るに違いないと想像して笑ってしまった。
1931年瀋陽の柳条湖という場所で鉄道を爆破した日本軍は、いわゆる満州事変を起こして満州占領を目指した。この事変で張学良はこの地を追われたが、1936年、抗日よりも先ず打倒共産党を掲げる国民党の蒋介石を西安で監禁して、強制的に共産党の周恩来、葉剣英などと会合を持たせた。この結果第二次国共合作ができて、統一抗日戦線が実現できた。張学良は事変のあと蒋介石の手で54年間も台湾で軟禁されて、その後の歴史の表面には出てこなかった。しかも、彼は親のかたきとして日本を敵視していたので日本とは疎遠であり、日本人にとってはなじみが薄い。ただし、中国では中国の統一を実現し発展を押し進めた英雄として高い評価を得ているという。
小川さんと大貫さんが私たちの研究室の研究内容を聴きたいというので、そのあと一緒に大学に戻った。大学の近くの果物屋の店先でイチゴを山盛りにして、ちりとりでイチゴを掬って売るところを見せて、そのイチゴを3kg買ってきた。ちりとりでイチゴを計りとって売る豪快さに二人は言葉も出ない。おまけにこんなにあって9元(約120円)という安さに二度びっくりという顔つきである。
大学に着いて、イチゴを食べてたっぷりと水分を補給して生き返ったところで、研究室の人たちに、informal talk on his/her projectを して貰った。先ず、大学院博士課程の陳さんが説明を始めた。私たちの研究室は、腫瘍細胞の転移のメカニズムの研究に集約している。転移する細胞と転移しない細胞の組み合わせを持っているので、その違いを調べている。ガングリオシドと呼ばれる細胞膜の成分の一つが細胞にあるかないかで転移する能力が左右されることを、私たちは今までに明らかにしてきた。
陳さんはガングリオシドの有無で細胞内のシグナル伝達系がどのように違うかを、シグナル伝達の阻害剤を用いて調べている。最近ではガングリオシド合成を阻害したときの違いを調べて、面白い結果を出している。胡丹くんは界面活性剤に対する溶解性で見ると細胞表面は決して均一のものではないことが今では知られているので、転移性の細胞と非転移性の細胞とでこれがどう違うかを、二次元電気泳動法で調べている。王麗さんはこの二つの細胞ではガングリオシドの組成が違うことがある分子の発現を左右していることを明らかにしている。
今ここにいる卒業研究の学生は、一人が薬学院日語班、一人が薬学院英語班、一人は中薬院の所属である。それぞれ、外国語は日語と英語、英語、英語が使える。卒業実験の学生もここに来てまだ2ヶ月半だというのに、それぞれ堂々と英語で自分のやっていることを説明している。聞き手の小川さんはまだ二日酔いから抜け出せずにいて、話に頷いているだけだけれど、大貫さんは鋭い質問を発している。それにも学生はしっかりと受け答えをしている。大変頼もしい。彼らの全く照れずに話す度胸は日本人の学生よりも上である。
そんなこんなで夜8時近くなり、昼の餃子で満腹したお腹も少し減ってきたところで、私たちは大学の外の春餅店に出かけた。陳さんも食事がまだだと言うことで彼女も誘った。春餅は東北地方の食べ物で,薄く延ばした小麦粉で出来た直径20センチ位の衣におかずを包んで食べる。挽肉の入った卵焼き、香菜と細切り肉炒め、薄切りジャガイモとピーマン炒めなどが春餅には良く合う。おかずはいろいろ取り混ぜて乗せられるので様々な味が楽しめる。これに唐辛子を入れるとまた刺激的で美味しい。私たちは昼の餃子の食べ疲れで食欲旺盛とはいかなかったが、それでも6人で雪花ビールを飲みながらおかず5皿と春餅合計80枚を平らげた。
2005/06/02 06:48
友人を瀋陽に迎えて その7
三日目の木曜日は大学を7時半に出て胡丹くんとタクシーに乗った。「假日(ジャーリー)酒店にやって」とタクシーの運転手に言うのはこれで3回目だが、今回も通じない。3回繰り返し試みたところで、隣でにやにやしている胡丹くんにバトンタッチした。假日の假は暑假(夏休み)にも使う字で、假日は休日という意味である。假日酒店はHoliday Innのことである。中国語の発音は依然として難しい。
朝ホテルで会った二人は至極元気で、小川さんもつやつやした顔色を取り戻していた。やはり昨日の彼は二日酔いだったらしい。今日は目一杯飲むぞという顔付きである。朝早く出かけたのは、観光バスが市政府広場から出ていて、バスの出るのが朝7〜9時という情報を手に入れたので、先ずそこに行ってみれば何か具合の良い観光バスがあるかも知れないということになったからである。
その場所に着いてみると、市外に出て北朝鮮との国境近くに行くバスとか、植物園に行くバスはあったけれど、福陵(東陵)に行くバスはなかったし、市内の観光バスもなかった。それで4人でタクシーに乗って福陵を目指した。5階から7階建ての住民の灰色のアパートが延々と建ち並ぶ市街をぬけて、やっと少し草木の茂る丘が見えるようになったところで、もう福陵だった。25分位で着いただろうか。28元で、思ったよりも安い。
福陵は東陵とも呼ばれていて、清朝創始者であるヌルハチとその正妻エホナラが葬られている。ヌルハチは満族を統合してこの東北地方満州に人口100万 人の満族の国を打ち立てた。ヌルハチはこの後金王朝の初代皇帝で、のちに清と改名したので清朝の太祖となっている。瀋陽の中心地に、今は故宮と呼ばれている立派な構えの王宮を造営したことでも分かるように、すでにこの、北京から見れば化外の地から、遙か西南の関内を望んでいたことは間違いない。この墓陵は子どものホンタイジの時代になって造営された(ホンタイジの天聡3年(1629)に着工、清の順治8年(1651)に完成した)そうで、ホンタイジの墓陵である北陵よりも規模は小さいものの、構えはほぼ同じで、美しさは故宮と相通じるものがある。
門の前には石畳みがひろがり、周りには20メートル位はありそうな大きな槐(アカシア)が数本白い花を付けていた。このアカシアが見えると私の鼻がむずがゆくなり、盛大なくしゃみと鼻水が出てくる。日本で悩まされた花粉症とは昨年春から縁が切れたと喜んでいたが、東京ではなじみのなかったアカシアによって昨年感作されたと見えて、花粉症の再発である。今年の春はつらさのあまり薬のお世話になっている。
門を入ると広い参道が私たちを北に導き、両側はうっそうとした林である。胸に鑑札を下げた小柄な若い女性がやって来て私たちに何か一生懸命言っている。胡丹くんによると彼女はガイドで、ここはガイドを雇うと話がよくわかりますよと言う。胡丹くんは気の優しい青年で、人の勧めをなかなか断れない。50元で雇った彼女は「こんにちは」と最初に言ってくれたが、あとは中国語だった。胡丹くんを介してガイドの説明を聞くので、時間が掛かる。この参道を半分も歩かないうちに、彼女と一緒に雇われた別のガイドがもう戻ってきた位で、彼女は私たちに並の三倍以上の時間が掛かった。私たちは彼女の稼ぎをだいぶ損なって しまった。
ヌルハチの死後二年間墓所が決まらなかったのは、場所選びに時間が掛かったからだった。最終的には風水の診断で、南に渾河が流れていて丘のあるこの瀋陽の東北に当たる景勝の地が選ばれたのだという。この参道を歩いていくと両側に駱駝、馬、獅子などの石像が並んでいる。これらはその後の清朝の歴代皇帝がこのヌルハチの墓に北京から拝礼にくる度に整備されたものということだった。道を囲む背の高い木々は清代約300年の間に植えられたものだという。大きな太い松が真っ直ぐ伸びているのが見事である。
やがて石造りの登りになった。しかし石段ではなく、かろうじて足が引っかかる石の滑り止めで出来ている。ガイドさんが言うには、「ここはヌルハチの霊を尊敬するために頭を下げる場所です。」言われてみると、この坂を登るためには誰もが前屈みの姿勢を執らざるを得ないように出来ている。この先に引き続き108段の石段がある。可愛いガイドさんがさあ数えましょうというので、一緒に並んで声に出しながら、初めて中国語で108まで数を数えてしまった。
この石畳の真ん中は盛り上がっていて左右とは別の石が敷いてある。「この真ん中は神様の通る道です。右は皇帝の道、左は大臣の道です。」とガイドさん。「そんなことを言ったら私たちの通る道はないじゃない?」
「そうです。普通の人々の道はありません。」半分冗談だろうと思って聞いていたけれど、あとで本を調べると、清朝の時代にはこの東陵は聖域として一般に開放されていなかったそうだから、一般の人が通る道はないというのは実は本当かも知れない。
2005/06/03 07:15
友人を瀋陽に迎えて その8
この参道の坂の左右には小さな山があり、左は青龍、右は白虎と呼び、このような造りは大変めでたいのだそうだ。この参道は橋になっていて、山のあいだの谷から持ち上がっている。もし、二つの山の間の道が谷間だとその家族から泥棒が出ると言う説明だ。そうかもしれないが、自分の家の墓に行くのに左右に山を持つような豪気な家ではないから、気にすることもあるまい。
階段を上った先にある正面の建物は、故宮の大政殿に擬することが出来る。大政殿の先に並び立つ十王亭と同じ配置で、松が植えられたとのことだ。今はその1本の巨木だけが右手に残っている。400年近くを経た松の古木である。この建物の先には三階建ての楼閣があり、隆恩門と呼ばれていて、高い城壁で囲まれた区画(方城)への入り口となっている。故宮で言うと奥の院に登るところにある鳳凰楼に相当し、実際これが出来たときはこの地で最高の眺望を得られたという。城壁の上を歩くと、木の間越しに遙か瀋陽の街を望むことが出来た。
この隆恩門をくぐると城壁の中を通るのでトンネルみたいな通路となる。その真ん中に厚い扉があるが、扉を閉め込むためのかんぬきの孔が門扉の外側に付いていた。普通の住宅なら、門扉の内側であるはずである。つまりここは奥津城なので死者の霊をここに閉じこめていることになる。
今日は快晴で皇帝の印の黄色の瓦を戴き青丹で塗られた建物はどれも美しく輝いている。青空によく映える。突き当たり正面の建物は皇帝と皇后の魂の宿るところのようだ。中を覗くと、こちらに向いて大きな黄色の布の椅子が二脚あってその前の台には供物が置かれていた。供物といっても生菓子や生花ではなく、石造りのそれである。したがってこの黄色の椅子は間違いなくヌルハチとエホナラのためだ。このあたりには大型のツバメが盛んに飛んでいる。私たちは勝手に岩ツバメと名付けたが、この堂宇の中も相当の速さで飛び回っている。中に巣があるのだろう。
この建物の石造りの土台の角には雨水をはき出すための口を開いた龍の頭があった。ガイドさんが言うには、「この龍の口の中に手を入れると幸せが来ます。同じように水道の蛇口に手をかざすと幸せになります。」ということだった。手を洗うたびに幸せが来るというのは簡単でよい。衛生観念を植え付けるのにもってこいである。ちなみに、水道の栓を日本では蛇口を言うが、中国では水龍頭と呼ぶそうだ。
この建物の裏に回ると、現世と冥界を隔てる門がある。その先の方城に造られたトンネルを潜っていくと、方城を出たところの北側の壁に大きな陶器タイルで牡丹が描かれていた。何気なく見過ごすところだったけれど、ガイドさんの説明によると、この牡丹は7つの大輪の花と2つの小さい花、そして2つの小さなつぼみ、合計11個の牡丹の花を付けている。
牡丹の活けてある花瓶はヌルハチで、これらの牡丹の花はそれぞれの皇帝に当たるという。康煕帝、乾隆帝を始め元気に治世を全うした皇帝が7人、西太后の旦那の咸豊帝のように長生きしなかった皇帝が二人、ラストエンペラー溥儀のようにつぼみのまま散った皇帝が二人で、これを造ったときに実は清朝の命運がすでに決まっていたのだという。なかなか面白い説明だ。ガイドさんはこれでやっと説明が終わって帰っていった。
ここは実際の墳墓の手前の地下に当たり、その壁は楕円形を描いて両側に張り出している。この壁は上から見ると三日月型で、人生をかたどっているそうだ。その形からこの宝城(墳墓)は月牙城とも呼ばれている。
方城の中の両側にある建物は儀式の時に使われた建物らしい。今は右手の建物の中には清朝12代の皇帝とその妃の蝋人形が飾ってあった。二代目のホンタイジまでは満服を着ていて、3代目の順治帝からは漢族の服装になっている。8代目の咸豊帝は30歳の若さで世を去っているので、若者の顔をしている。一方、その妃の西太后はその後47年に亘り「垂廉の政」を行った人だ。この蝋人形では老年の顔に造られていて、若い夫の咸豊帝との釣り合いが悪く、一寸気の毒である。
西太后は今まで良く言われたことがなく、清を滅亡させた我が儘な化け物的お婆さん位にしか思っていなかったが、最近の浅田次郎の「蒼穹の昴」を読んで大分見直した。一人の人物像を全く違う観点から生き生きと描ききることが出来るとは、浅田次郎は大した小説家である。
左手の建物には歴代皇帝の陵の解説があった。ヌルハチ以前の4代の先祖の墳墓は永陵といって撫順の近くにあるらしい。二代目のホンタイジの墓が昭陵(北陵)で瀋陽市内の北にある。永陵、福陵、昭陵の3陵が清朝にとっては関外の陵で、あとの皇帝の陵は北京の近くにあることを知った。写真を見るとどれも広大な陵である。そして12代皇帝の最後として溥儀の墓の写真もあった。ただし溥儀その人の写真はひどいもので、わざわざひどいものを選んだとしか思えない。溥儀の墓は他の皇帝の陵とは比べものにはならないもので、墓石しかないが、それでも墓誌と庶民にしてはましな墓石の写真があった。ただし他の陵と違って、墓の場所が書いてなかったので、これが実在するものであるかどうかは分からない。
2005/06/04 06:07
友人を瀋陽に迎えて その9
福陵を見終わったのが11時 半だったのでタクシーに乗って九一八博物館に行った。瀋陽市の中心からは北になる柳条湖で発生した満州事変(中国では九一八事変と呼んでいる)を記念して、その後日本軍が建てた炸弾碑が日中戦争の終わりまでここにあった。その場所に中国が「この屈辱の9月18日を忘れるなかれ」と建てた巨大な博物館である。広場の隅には日本の建てた炸弾碑が横倒しになっている。
1931年9月18日の夜、この地に満鉄附属地として権益を持っていた日本の関東軍が自ら南満州鉄道線路を爆破した。関東軍はそれを中国の東北軍の仕業として、東北軍の兵営である北大営を攻撃し、同時に中国東北地方の全域で軍事行動を開始した。満州事変の始まりである。
事変60年後の1991年に江沢民の指導下でこの事変博物館が開館し、その後現在の広々とした新館が建てられた。快晴の空の下から博物館にはいると館内の照明は暗く、第一室の青色の暗い照明に浮かぶ4カ国語の挨拶文を見ているうちに厳粛な気分になってくる。この事変以降だけでも15年間中国を蹂躙した日本を告発する内容を収めた建物なのだ。写真、当時の資料の写真、模型、人形様々なものを使って歴史を再現しようとしている。
初め大貫さんは「日本軍のそんな残虐行為の歴史は見たくない。」と言って、小川さんに「やはり日本人として、それは真正面から受け止めなくてはならないことだ」と言われていた。その意味が段々分かってきたようで、大貫さんが結局一番時間を掛けて熱心に展示を見ていた。
4月に中国各地で反日デモがあった。デモは中国の国益に反するという中国政府の発言で終息したが、それを挑発するような発言や行動が日本の政府筋で今も続いている。両方の歴史認識の乖離はまだ埋まっていないから、このきしみはまた大きな反発に繋がる可能性がある。日本と中国の摩擦は双方の国と国民の利益にならない。他の国を喜ばせるだけである。日本側の態度にまず問題があると思う。双方の政府間の冷静な話し合いを是非続けて欲しいと思う。
博物館を出たのが1時半だったので、ここは中街が遠くないことを思い出して5月初めに加藤先生夫妻と一緒に行ったイスラム教徒の焼売の店である馬焼麦に誘った。「1796年創業なのだそうですよ。」とありがたみも付け加えておいた。
もう2時なので店内は空いていて1階に案内された。焼売6種類を100〜150グラムずつ、合計800グ ラムとおかず3品を頼んだ。小川さんも今日は元気になっていてビールを飲むという。毎回違うのが飲みたいと言うので、私を除く3人のために今日はハルビンビールを注文した。ここの焼麦は日本の崎陽軒の焼売とはだいぶ違うが、大貫さんは「そういっちゃ何ですが、昨日の餃子も美味しかったけれど、今日の焼売は断然美味しいですね。こっちの方が私の好みです。」といってビールをゴクッ、焼売をパクッ。スパゲッティで言うと一人平均100グラムのところを二倍の200グラムを食べたことになる。昨日よりも多い分は大貫さんが大方食べたのである。
この後、市政府広場に最近移転した遼寧省博物館に行き、特別展示の斎白石の絵画をたっぷりと眺めて楽しんだ。ここは上海の博物館を思い出させる瀟洒な建物である。そのあと、大貫さんが「何とかと煙は高いところに登りたがる、っていうでしょ。」というから、「そうそう、こっちもその何とかのたぐいでね。」と言って、テレビ塔を目指した。瀋陽市の中心にそびえるテレビ塔には縦に、何処から見ても読めるよう大きく、雪花ビールと書いてある。だから誰でも、ここに雪花ビールがあると思って しまう。
このテレビ塔は飛行場からも見えるし、瀋陽の良い目印となっている。中のエレベーターは展望台まで一気に196メートルを昇る。エレベーター嬢は私たちしか乗っていないのに、昇っているあいだ早口で何か一生懸命解説をしていた。全く分からなくて申し訳なかった。この塔の唯一の不満は、この塔のレストランで雪花の生ビールが飲めるようになっていないことだろう。置いてさえあれば、きっと誰もが飲むに違いないのに、テレビ塔も雪花ビールも商売が下手である。
2005/06/05 08:23
友人を瀋陽に迎えて その10
地上196メートルの展望台からは瀋陽の市のはずれまで楽に見渡せた。といっても、この瀋陽のあたりはいつも空気が汚れている。今日は晴天だが、それでも遠くは霞の中である。薬科大学、うちのアパート、カルフールが直ぐ南の足下に見える。「そうか。お土産に駄菓子を買うなら、カルフールに行けば教えてあげられる」というわけで、「このあと、あそこまで行きましょ。その後直ぐ近くには地ビールを飲ませる新洪記もあるし。」と誘った。
小川さんは「瀋陽日本人教師の会」のホームページに私たちの書いているレストラン案内をプリントアウトして持って来ているので、「新洪記というレストランで地ビールを飲ませる」ことはちゃんと知っているのである。
展望台から見たカルフールは近かったけれど、地上に降り立つと工事をしていてあちこちが掘り返されているし、ほこりっぽく歩きにくかった。来年園芸博覧会を瀋陽市で開くことになっていて、そのために瀋陽市は植林の真っ最中だと聞いたことがある。この目抜き通りの車道の端を掘り返している。そこに木を植える場所を造っている。歩道も全部作り直しである。うちの近くでも、何でこんなところにと思うようなところまで60センチおきくらいに穴を掘ったかと思うと、柳、ライラック、桃の木がいつの間にか植えられていた。
これだけ大量の木を用意するのも大変だろう。「そうだ、毎年どこかで園芸博覧会をするなら、その街に前の街で植えた木を抜いて持っていけばいいじゃない?簡単、簡単、万事めでたく解決!」なんて私たちは悪い冗談を言い合いながら、足許の溝に足を取られないよう用心して歩いた。
カルフールは日本では撤退することになったそうだが、うちの近くの店は瀋陽で三番目の店で、つい最近中国進出10周年記念売り出しをやっていたから、中国では定着したらしい。今日はウイークデイの夕方だけれど結構混んでいる。早速私たちお気に入りの駄菓子のコーナーに案内して、袋菓子を能書きとともに勧めた。日本の研究室へのお土産にお菓子を買おうと思っても、瀋陽空港で売っているものはお茶とチョコレートだけだ。チョコレートは一寸いただけないし、買うとなるとこういう袋菓子がおすすめである。家庭向きなら鍋に入れる湯葉もよいし、拉皮もよい。
大貫さんは日本にあのうまい白酒(バイジュー)を買って帰るという。白酒は中国で中華料理を食べながら飲むと最高に美味しいけれど、日本に持っていくとただの臭い酒というのが私の経験である。しかしそんなことを言っても、大貫さんは人の話を聞く人ではない。
中国の空港はチェックインで預けるスーツケースに入れてあればよいが、アルコールの機内持ち込みは厳禁である。今買って荷物に入れるのがよい。しかも空港で売っている酒は高い。この売り場で飲んで試すわけでもないのに、大貫さんはあれでもないこれでもないと迷っている。彼の持っている案内書に「貴州のマオタイ酒、山西省のフェン酒、台湾の紹興酒」などと書いてあるので、その通りでないといけないのかもしれない。研究室で飲んだのが美味しかったというので、それを1本、それと高価なマオタイ酒を1本買っていた。
中国では白酒をシェリー酒用のグラスのもっと小型のグラスに注いで飲むけれど、大貫さんはきっと持って帰った白酒をコップになみなみと入れて、自分がここでやったように、「これをぐいっと飲むんですよ」と言って人に勧めるのだろうなあ。
二人とも買い物を入れたビニール袋を二つ三つ持って大通りを渡った。目指すは向かい側にある新洪記である。このあたりの綺麗で美味しく、そして値段が手頃のお勧めレストランである。おまけに二種類の地ビールもある。1階で料理の見本を見て注文する物を選ぶのだが、ついでに果物ジュースも美味しいそうなのを見付けた。
3階に戻って大きなデカンターに入った二種類のビールに、もう一つ絞りたてのハミグア(メロン)ジュースも頼んで、「お疲れさま、乾杯!」と言うことになった。ビールを飲む連中を相手に何時もお茶を飲んでいる私としては、メロンジュースが美味しい。立て続けに飲んでしまう。すると胡丹くんはウエイターが持ってきた注文票をしらべて、「ムムム、ビールのデカンターが一つ18元。二つで36元なのに、このメロンジュースは小振りの一杯で38元ですよ。先生。一人でこれを飲むなんて凄い贅沢ですね!」「私にも飲ませて下さい」と叫んでいる。
ここの料理は美味しいし見た目も綺麗である。小川さんも「旨い。この店はまた来てもいいですね。」と言っている。四川の水煮魚という、唐辛子を山ほど入れて黒魚(淡水の鯉のような魚)を油で煮る料理も、このピリ辛の味が気に入ったようだ。
料理を食べ終わる頃の9時 半に私のケータイが鳴った。研究室からの電話で顕微鏡のカメラに繋いだコンピューターが具合悪い。今細胞の写真を撮っている最中で、困り切っていると関さんが言う。私が行かないと分からないので失礼して大学に戻ることになった。明日は朝ゆっくりして昼前には大学に訪ねてくるという約束をして、二人をタクシーに乗せた。行き先のホテルの名前を運転手に告げたのは、もちろん私ではなく胡丹くんだった。
2005/06/06 00:42
友人を瀋陽に迎えて 最終回
四日目の金曜日は11時までに大学にいらっしゃいという約束がしてあった。小川さんと大貫さんは朝は少しゆっくりして、そのあと薬科大学に来て大学の(学生)食堂で昼を食べてみたいと言うことだったからである。丁度よかった。私は午前中に、近くの三好街に行ってコンピューターの部品を買ってきた。
大学の昼の授業は12時に終わるので、それを過ぎると食堂へ人がまるで河みたいに流れ込み、溢れた水のように流れ出てくる。12時前でも、早めに終わる授業もあるし、講義に出ない院生もいるから、昼の食堂は11時には開いている。それで混む前の11時過ぎには食堂に行きましょうと言っていたのだ。
10時半頃に二人が到着したので、まず実験室を案内した。二部屋しかないし、狭いからあっという間に見学できる。日本の実験室に比べてあまりにも実験機器が少ないのに二人とも呆れ顔であった。これでも私費を投じて最善の環境になるよう尽くしているのである。
薬科大学の食堂は五階建てで、各フロアで別々の業者が食事を提供している。いろいろと好みがあるけれど5階が一番安心の食事を出している。ここはカフェテリア形式でおかずがざっと 40種類位大きなバットに入っていて、カウンタの中にいる係にこれといって指すと、こちらの盆に装ってくれる。見て気に入った物を選べばよい。ジャガイモの細切りだけが1元、青菜が入っていると1.5元、何らかの肉が使っていると2.5元なのだそうだ。
支払いは全部取ったあとカードで支払う。カードであらかじめ現金をデポジットしておくプリペイド形式である。昨年後半から衛生意識が高まって現金を扱わなくなったのである。
幸いまだ時間が早かったので8人がけのテーブルが一つ空いていて、私たちはここを占領した。私と貞子は今日は二人でおかず4品、饅頭一つを取って、半分ずつにした上で、小川さんと大貫さんに、彼らと重なっていないおかずを分けて上げた。彼ら同士でも分けているし、こちらにも廻ってきた。というわけで私たちはたちまち、この食堂の7品位のおかずを味わうことが出来たわけである。
食べた上での二人の印象は、日本の食堂に比べて選ぶことに出来る品数も多いし、味もよい。値段も考えると、実に感激的だと言うことである。これは1年半前に私たちがここに来たときの感想とピタリ同じである。私たちもここに来た当時は毎日昼を楽しみにして食べに来た。それが一月経ち、二月経ちして、そして、混雑にうんざりしてしまい、今は本当に必要に迫られない限りここには来ない。
瀋陽に来て初めてビールなしの昼ご飯のあと、二人は中街に行って何か土産物を捜したいと言うことだったので、胡丹くんと、そして今度は貞子が付き合って出掛けていった。今までの殆どの経費を私が持ったので、夜の食事は二人が私たち三人を招きたいという。
胡丹くんの話を聞くと、日本語の教師だった野呂先生が昨年6月瀋陽を去る前に胡丹くん達学生3人を招いて、日本総領事館近くの日本食レストラン「東京」に行って別れの食事をした。ウナギ、天ぷら、焼き鳥、すしなどを一人前ずつ取ってそれを皆で分けたので、ウナギは一口、天ぷらのエビは半分食べただけで大いに心残りがあるようだ。それで、夜はその日本食レストランでご馳走になることになった。
というわけで、二人に加えてこちらは胡丹くん、貞子、私がレストランの二階個室に案内された。4日間を一緒に過ごした胡丹くんには二人から謝金が渡された。胡丹くんは「そんなもの、当然のことをしたまでですから、要りません」と言っているけれど「いいから受け取りなさい」と私は口を出した。それで、胡丹くんは「彼女にこれでスカートを買って上げられる」と言って喜んでいる。さらに「今日、金製品を売る店にも行ったけれど、金の指輪はとても高い。いまに買えるように、また何度も来て下さいね」と二人に言っている。
「一緒に四日間を過ごして見ると、先生を入れて三人はとてもよく似ていますね。」と胡丹くんはビールの乾杯のあと言い出した。「えっ。どこが?」
「日本人らしくないところが似ているんですよ。」それぞれはっきりした主張を持っていて、簡単に人の都合に合わせて自分の行動を変えたりしないし、群れることで安心したりするタイプでもないことを指しているらしい。その通り。短期間でよく分かったものだ。私に言わせると、それ故にそれぞれ魅力的だけれど、調和を乱すので、社会的にはあまり偉くなれないわけだ。でもこれが、それぞれ自分で決めた自分の性格なのだから良いも悪いもない。そして三人それぞれ個性が強いのに、お互い仲良くやっていられるところが面白い。
明日は朝7時にホテルを発つというので、これでさようならである。こうして、小川さんと大貫さんの五日間瀋陽の旅の4日目が終わった。遠いところを私たちに会いによく来てくれたと思う。どうもありがとう。どうかお元気で。また何時でも訪ねてきて下さい。
付録
今回友人を瀋陽に迎えて案内するのに当たって、瀋陽に来て知り合った教師の会の先生がたにいろいろと情報をいただいて大いに助かった。生ビールが何処で飲めるかとか、音楽会情報はどうやって得たらよいか、さらにはどこそこのレストランが美味しいなどの貴重な情報だった。なかでも加藤先生は何か見に行ける催し物がないかとあちこち調べて、雑伎団があること、そしてその切符の手配までして下さった。
雑伎団の最初公告されていた予定公演日は火曜日だったが、実際には切符は売り出されていなかった。しかし公演行われることになって、それは木曜日にあることになったという。
それなら行けるというので切符をお願いしたら、いや、一日延びて金曜日になったということだった。最後の晩だけれど是非行きたいとお願いしたら、前の日になってそれが再三延期されて土曜日になった。二人は土曜日の朝瀋陽を発つのでこれでは無理である。予定がくるくる変わるのは中国式なのだと思うしかなかった。
あとで加藤先生に聞くと、丁度24日〜28日に「2005年瀋陽中日経済交流活動」週間が瀋陽市と日本総領事館との主催で開かれたので、雑伎団公演はこれを睨んで最も都合のよい日に変えられたのではないかとのことだった。偉い人の都合に合わせるために何ごとも間際まで決まらないのは、大学の会議でもうなじみになっている。
それにしても、間に入って加藤先生、いろいろありがとうございました。沢山の貴重な情報を下さった先生がた、どうもありがとうございました。おかげさまで、二人はもちろん、私までたっぷりと瀋陽を楽しむことができました。