瀋陽からのリポート
山形 達也(中国瀋陽市・瀋陽薬科大学)
§1 没弁法(メイバンファ)の暮らし
「ボーン」という音と共にMacのモニターが消えた。明かりも消えた。停電、こちらの言葉では「断電」である。「また向かいの部屋で何か使ったんだわ」と妻の貞子が向かいの机に座ったまま言っている。彼女のMacは携帯できるiBookなので停電の影響は受けないが、こちらは今打ち込んだデータを失って「ヤレヤレ」とつぶやくだけである。消えてしまった努力を嘆いてみても、怒ってみても始まらない。中国暮らしも3年経つと、起こったことを何でもそのまま受け入れられるようになる。
このところこのような不慮の停電が時々ある。私たちの教授室は瀋陽薬科大学に3年前に建てられた9階建ての建物の5階にあって、60平方メートルの広さがある。研究室ではないために、この一画の電気容量は大きくないけれど、あまりにも広いためか、向かいの教授室で内部を仕切って実験室が出来て以来、時々突然の停電がある。
実験室にして機器を使えば、当然電気を食うから容量が足りなくなることは分かり切ったことなのに、このように実際にフューズが飛ぶまで、誰も、大学の施設も何もしない。1ヶ月くらいでこの手の停電が収まったから、工事をして電気容量を変えたのだろう、と思いたい。あるいは実験室で容量の上限を見計らいながら機器を使っているだけかも知れない。となると、また突然の停電と言うことになる。この国では「何でもあり」なのである。
停電は今の日本や米国では滅多に起こらない。停電が起これば10ヶ月後の出産数の増加なんて楽しい社会現象が新聞記事となって皆を楽しませてくれるが、中国では突然の停電が結構時々あるので、目に見える出産数の増加とはならず下支えをしているかも知れない。
これ以外にも電気設備のチェックと言うことで時々計画停電がある。これはどこの国でもやることで当然のことだと思うけれど、驚くのは代替の送電を用意することなしに停電となるのだ。昔私の所属していた三菱生命研には無停電回路というのがあって、地下には非常発電装置が設置されていた。停電になったらそれを感知して、地下のディーゼル発電機が急遽動き出して限られたところに通電するのである。
その頃は一瞬でも電気が切れたら困るコンピューターもなかったし、顕微鏡手術といっても相手はニワトリの胚だから停電になればまたやり直せば良かった。それで、無停電回路に繋いでいたのは炭酸ガス細胞培養器とニワトリの卵の孵卵器くらいのものだった。電気設備のチェックの時には電源車がきて、冷凍庫、炭酸ガス培養器などに電源を供給してから電気の保守工事をしていた。東京工業大学の毎年の電気設備点検の時もそうだった。給電が切れたら大変なことになる機器があれば、代替の電源を用意すると言うことを考えるのは当然であろう。
しかし、今ここでは何月何日に電気設備点検のため朝○時から夕方○時まで停電するという紙切れが建物の中の掲示板に貼られるだけで、電気の来ないと困る機器はないかという調査はいまだ嘗て一度もない。私たちの研究室で一番大事なのは細胞培養器と、細胞を貯蔵しているマイナス80度の冷凍庫である。私たちの隣には中国生活10年という大島教授がいる。
大島教授に訊くと「そんなことを言っても無駄ですよ」とにべもない。彼も私たちと同じように細胞培養器と、細胞貯蔵のための冷凍庫を持っているけれど、停電の時にはただ耐えるだけだという。停電が終わって給電されたあと細胞が生きていれば、この上ない幸せで、細胞培養器の細胞が死んでも「また凍らせておいた細胞を起こせばよい。もし冷凍庫に保存してあった細胞が死んでしまったら、また細胞をどっかから集めてくるだけですよ。」と言うことがさばさばしている。10年もここで暮らせば考え方は中国人である。
実際、今までこのような計画停電、あるいは突然の停電の間に、細胞培養器の細胞は死んでしまうし、冷凍庫に保存してあった細胞もそのあと生き返らなかったことが何度かあった。そのために液体窒素の細胞保存容器を使っているが、約束の液体窒素の補充が来ないこともあって、そのときには容器の上の方に入れてある細胞が死滅してしまう。
通常の冷凍庫も停電の間には溶けてしまうのでせめてドライアイスを買って冷凍庫に入れたらと思うけれど、ドライアイスは瀋陽ではどこにも売っていない。ケーキやアイスクリームを買って「お持ち帰りの時間はどのくらい掛かるでしょう?」「はい、30分でございますね。」といって貰って帰る箱にドライアイスを入れてくれるようなサービスは瀋陽では皆無である。ドライアイスの代わりは保冷剤ということになる。それで、今までに手に入った限りの保冷剤が不測の事態が起きても少しでも持ちこたえるべく、冷凍庫の空間には沢山入れてある。ともかく停電があって細胞が死んでも、諦めるしかない。ここは「没弁法(メイバンファ、言ったところで仕方がない)」の国である。
§2 たった65万円の研究費で何が出来るって言うの?
3年前に私と妻の貞子は生命科学の研究室を開くために、中国の東北三省の中心の遼寧省の省都である瀋陽にある瀋陽薬科大学から招かれた。瀋陽は戦前の日本が中国に満州国を作っていたころもこの東北地方の中心で、奉天と呼ばれていたところである。
国共対立時代に長征を行った紅軍の衛生部がその発端だと言われているし、奉天に満鉄が作った満鉄病院が元になって作られた満州医科大学の一部も取り込まれているので、歴史の古い学校である。2002年に盛大に創立70周年祝いをしたという。私たちが東工大を辞めたあと、長年の友人が所長をしている研究所に拾って貰って農水省の研究費で細々と研究を続けているときに、瀋陽薬科大学の客員教授を続けていた大学時代の先輩が紹介して、間を取り持ってくれたのだった。
そのとき、研究室開設のために30万元(約400万円)の準備金が用意された。中国で暮らすと分かるがこれは結構大きな額である。その半分は日本からの機器の輸送費と税金に遣ったが、残りで超低温槽、炭酸ガス培養器(どちらもサンヨー)、MilliQ、国産のクリーンベンチ2台を買い、そのほかにも細々とした研究室の機器を買うことが出来た。
最低の機器が揃っても生命科学の研究を進めるにはそれなりの研究費が必要である。毎年の研究費は科研費に当たるものを取らなくてはならないが、ここに来て分かったことは、私は外国人教授なので科研費に応募できないということだった。どうするかというと、この大学の教授を前面に出して後ろに私の名前をくっつけて出すのだという。ところがこれを2年続けても通らない。とうとう3年目には私の名前があるから通らないと思ったのか、その先生から放り出されてしまった。
ともかく研究費がなくては気の毒だというので、大学から毎年5万元の研究費が支給されている。日本円で65万円くらいである。中国では人件費は安いが、研究に必要な機器も試薬も世界標準品が世界中で使われているわけで、従って研究にかかる費用は中国でも日本でも同じである。65万円ではあっという間になくなってしまう。日本−中国の往復渡航費は別として、妻の給料でここの私たちの暮らしは十分まかなえるので、私のボーナスを含めた年間給与6万5千元(約1百万円)は全額を研究費に廻している。勿論それでも足りない。日本に戻ってくるときに試薬、抗体、機器のたぐいを買うために、私たちは毎年3百万円くらいを日本で支払っているし、日本円をこちらの元に替えている。
私たちの研究室の博士課程には、teacher(講師)と呼ばれる学生が一人在学している。この大学では1学年1千3百人の学生を教育するためには通常の教授・助教授の数では足りず、大学を出たばかりの学生を大量にteacherにして講義を担当させている。生化学を例に挙げれば、私の来る前にはこの大学には生化学の教授が一人いるだけだった。その研究室には助教授が2名いるほかにteacherが10名所属していて講義を担当している。今では修士を取っていないとteacherになれなくなったが、数年前までは大学を出たら直ぐに採用されて教壇に立って教科書を読み上げていたようだ。薬科大学では研究をしたこともない人が生化学や分子生物学を、教科書を読むことで教えているのだ。
そのような大学を出ただけでteacherになった人の一人が、片手間に大学院に入り修士を取った。そして私の研究室が出来たばかりの時に、「山形老師のところは誰も学生がいなくて大変だろうから、一人面倒を見て下さい。」とある有力な教授の後押しがあって私たちの博士課程に入ってきた。講義をしながらだから研究室に半分の時間もいないし、したがって実験も進まない。それでも肩書きは講師なので、若手向けの科研費に私たちの研究テーマで2万元の研究費の申請を書いて昨年応募させたところ、それが薬科大学から採択された3人のうちの一人になった。
2万元といえども私たちの研究室にとっては大事である。決定を聞いてから半年位して「2万元はどうなったの?」と訊くとまだだという。それから3ヶ月して訊いても、まだだという。「どうして?」というと、省の関係者が病気なのでどうにもならないのだという。唖然として、そんなことあり?と叫ぶと、2004年度に科研費を貰えることになった人にもまだ研究費が来ていないのですと笑っている。まして2005年度においておや。でもねえ、それじゃ、そのteacherが学位を取って研究室を出てしまってから研究費が来ることになりそうだ。その時は私たちの研究室ではなく、そのteacherが何処かにいて貰うことになるのじゃないだろうか。
§3 卒業研究の指導を終えて
瀋陽薬科大学の新学期は毎年8月末に始まり1月半ばまでが前期である。旧暦の正月は春節といってこれが中国中で一番大事な節目である。公式には元旦を挟んで2週間の休暇があるが、大学では5〜6週間の冬休みである。春節休暇のあと2月後半に後期が始まって6月末に卒業式がある。
卒業研究はこの後期になってから始まる。卒業研究の配属は9月に学生が研究室を訪ねてきて10月半ばには最終的に教務課が発表して決まるが、東工大の時みたいに最終的に学生側で調整して決定すると言うことがない。ここでは学生が訪ねてきてこちらがOKを言うとそれが意思決定になる。なぜかというと、薬学部、製薬学部、中薬学部の間で学生が配属研究室を選べるので、数百人の学生が集まって自ら調整することは困難だからだろう。こちらは学生が訪ねてくると、その後もっと希望者がいるのではないかと思って決めるのをためらうが、端から決めていかないとあとで双方が困るシステムになっている。
私たちの教授室は広々としているけれど実験室は狭いので、卒業研究の学生は毎年3人しか採らないことにしているが、今年は断り切れずに4人を採ってしまった。2年前は研究室の体裁が出来たばかりで、卒研生が来たときの彼らの先輩というと、細胞培養を1回ここに入って経験しただけという違いしかなかった。それから2年経って、ここに入ってピペットを初めて持ったような学生もそれなりに実験をやって実験技術の蓄積が出来てきたので、卒研生にはそれぞれ彼らに指導者して貰うことにして研究テーマを与えた。
日本の大学でこのように先輩の学生に指導を頼むと、必要十分な研究指導をしてくれるので安心して任せられるが、中国ではかなり様子が違う。どんなにこちらが信頼できると思っている学生でも、彼らは「頼まれた以上は卒研生の教育に自分は責任がある、きちんと教えて恥ずかしくないように育てよう」というような考え方をしない。
自分はこの学生の先輩で、先輩だから当然「偉い」し「権威があり」、したがって後輩は教えを請わねばならず、請われて気が向けば教えても良い、という態度が一般的のようである。自分の持っている知識と技術を全て懇切丁寧に卒研生に教えたのは、指導を頼んだ4人のうちのただ一人、秦くんだけだった。秦くんはもともと日本語が上手だったので研究と生活の上で私たちとこの3年間特に密接な関係があり、私たちの持つ考え方が伝わっていたのだと思う。彼はこの夏には修士を卒業して、そのあと日本の博士課程に入って研究を続けることを目指している。
このような目に見えない階層性、上下関係はあちこちで発揮されている。たとえば院生が教務課に学部時代の成績証明書を発行してもらいに行く。日本だと教務課にいる人が誰でも対応して、問題がなければ即座に発行してくれる。しかしここでは、ほかの書類を持ってこいとか何かと難癖を付けて発行を引き延ばすそうである。そして次にその書類を持っていったときその人がいなければ他の人が代わってやることは決してなく、その人が勤務に出てくるまで待たされる。課長はこの遅延を見て見ぬふりである。書類の発行は係の責任で当然しなくてはならないことなので、最終的には発行されるけれど、ともかく時間が延々と掛かる。
つまり、その人は書類を発行する上で「自分がうんと言わなきゃ駄目なんだぞ」と、如何に自分の存在が大事かを示そうとするのである。このような係の底意地の悪さも、二十年前の日本の区役所や郵便局の態度の横柄さを思い出せば、何も中国特有のことではない。日本にもこの間まであったことだ。
ともかく、卒研生はだれもが大変意欲的でめげることなくどんどん研究を進め、2月20日から始まった卒業研究は4ヶ月後の6月20日に発表の日を迎えた。一人10分話して5分質疑という時間の割り当てで、発表は勿論PowerPointを使用して行う。
私たちの研究室の研究の紹介かたがた、発表テーマを書くと:
1.ガングリオシドGD1aによるメタロプロティナーゼMMP-9の生産制御機構
2.PI3K-mTOR経路のGD1aによるカベオリン生産制御への関与
3.Ca-カルモジュリン経路とGD1aのシグナルの関係
4.ゼラチンザイモグラフィーによるMMP-9の測定法の問題点
どの研究もsiRNA とPCRが中心で、それに少しばかりのWestern blotsが加わるだけだが、シグナル伝達分子の名前が頻繁に出でてくるし、この大学では同業者はいないので誰にも分かって貰えなかったようだ。つまり研究内容に即したまともな質問は皆無で、ゼラチンザイモグラフィーのやり方についての質問や、siRNAとは何かというような質問が出るだけだった。
とうとう3人目の時には質疑の時間にこちらに向かって「来学期には皆を相手にしてセミナーをやって欲しい」という要請が教室主任から出された。「それじゃ、私はそちらの仕事も知らないし、お互いにセミナーをやりましょう」と返事をした。効き目のある薬を天然物から取ることが研究の中心だったこの大学は、いまは薬の効き方を分子レベルで理解する方向の研究を目指そうと一生懸命である。それでも生命科学の考え方が沁み通るにはまだまだ時間が掛かりそうだ。
§4 中国語が分からないことで見栄を張ると
中国に赴任することが分かってから来るまでの1年間は、うちの近くのカルチャー教室で初級中国語を勉強した。毎週土曜日の1時間である。妻と一緒だったので中国人の先生は区別するために私のことを、中国語の発音で「山形達也先生」と呼んでいた。「先生」は男性に対して「○○さん」という程度の呼称である。先生の本当の意味では、中国では「老師」となる。
したがって、中国に来たときには自己紹介くらい中国で言うことが出来るようになっていた。それで初めての機会に黒板に私の名前を書いて、中国語で「私は山形達也です。」と話し始めたら、満場大爆笑となった。笑いの収まった学生に聞いてみると、「達也」の発音が問題なのだった。中国語でダーイエなのだが、ご存じの通り中国語には四声というのがあって、ダーは2声でなくてはならない。イエは3声である。ところが私は中国語の先生の発音を聴いていて、聴いたとおりに発音したつもりだったが、ダー(4声)イエ(2声)で発音していたのだ。「ダー(4声)イエ(2声)」となると「大爺」で、文字通り「お爺さん」である。何しろぴったりの言い間違えになったので、皆が喜んだのは当然である。
後で調べてみると「大爺」はただのお爺さんではなく、特に歳を取った風格のあるお爺さんのことらしい。そして「山大爺」となると、山賊の頭目のことも指すらしいとわかった。いいじゃないか、小さいながらも研究室の頭目だし自分のことを「山大爺」と呼ぶことにしよう。というわけで、今では学生は私のことを蔭では「山大爺」と呼んでいる。
しかし、どうも学生だけではなくこの大学中で「山大爺」と呼ばれているのはないかと思ったのは、ある日私の教授室に勿論中国語で「山教授はいますか?」と言いながら入ってきた人があった。話のあとで分かったが、機器の宣伝売り込みの人だった。きっとどこかの研究室で、「あそこの山大爺」のところに行ったら?といわれて、「山大爺なら、名前はきっと山だから、山教授だろう」と思って私のところに来たに違いない。
瀋陽に来て3年が経とうとしているけれど、中国語は来たときのまま全く進歩していない。必要がないから勉強に身が入らないためである。
2003年の秋に研究室を作ったとき、それまでに毎年短期集中講義に来ていた関係で顔見知りの学生たちは修士1年でほかの研究室に所属していたけれど、「修士の1年は講義にだけ出て時間が余っているから、山形研究室に行って研究室作りを手伝いましょう」ということで、春になったら日本に留学する予定の学生も含めて5人の学生が来てくれた。
この学生たちは日本語専攻の学生だった。薬科大学には入学成績上位の60名が選ばれて「日本語班」となり、最初の2年間の外国語は英語を勉強して国際4級試験に通った上で、3年に進学して日本語を集中的に勉強する。毎週30時間の授業のうち24時間が日本語の勉強にあてられるという集中ぶりである。だから10ヶ月後には国際能力4級試験、15ヶ月後には国際能力1級試験に大半の学生が通ってしまうのだ。
このような学生に囲まれている上に、中国の学生は老師想いで外部との交渉は一緒に立ち会うか、代わりにやってくれる。したがって中国語を覚えなくてはならない局面に遭うこともなく暮らすことができる。それでも、研究室に入ってくる学生の半分は日本語を話すことは出来ないので、研究室のセミナーも指示も英語を使うことになり研究室の公用語は英語だが、それでも学生には英語が通じるので、中国語を覚えなくても用は足りてしまう。
一方で日本の面積の3分の2の大きさの遼寧省の省都である瀋陽という大都会でも、街では先ず英語が通じない。バスでもタクシーでも、レストランでも、英語が通じるところはまれである。したがって何処かにタクシーで出掛けるときは行き先の名前を中国語で覚えて、「○○に行って下さい」というわけである。
この3年間に中国語の勉強を全くしなくても、それなりに発音がさまになってくるので、このごろではタクシーに乗ってもすんなりと行き先が通じるようになる。中国のタクシーの最上の席は助手席ということになっているので、私も助手席に座ることが多い。タクシーの運転手は話し好きが多く色々と話しかけてくる。行き先を流暢に述べたのにあとの話がしどろもどろなので運転手は不思議に思って「瀋陽に来てどのくらいなのだ?」と訊いてくる。正直に「2年半」と答えると、「2年半もいてまるで分からないとは、おまえさんは阿呆かね」みたいな顔をするので、その次の時は「まだ3ヶ月さ」と答えてみた。
すると運転手はまるで言葉が通じないはずの私に始終話しかけ、東に戻れば最低料金の7元のところに行くのに、先ず西に行き、次に南に向かい、次いで東に走ってから北に向かうという四角形の三辺(瀋陽は大体碁盤の目に路がある)を走って何と15元を請求された。文句を言いたいけれど日本語しか出てこない。仕方ない。見栄を張った罰だが、高い教訓だった。
しかし、瀋陽の運転手の全部が悪いわけではない。見栄を張ったのが悪いのだ。このような不正行為は瀋陽に慣れなかった3年前から今に到るまで、このときただ一度きりである。自分も中国語を勉強しなくっちゃという気に改めてなっただけでも、ありがたい教訓と言うべきであろう。
2006年8月
Profile
1937 年東京にて生まれる
1960 年東京大学理学部化学科卒業(生物化学・江上不二夫指導教授)
1962 年東京大学大学院化学系理学修士(生物化学・江上不二夫指導教授)
1968 年名古屋大学理学博士(生物化学・鈴木旺指導教授)
名古屋大学理学部・助手・講師・助教授、シカゴ大学小児科研究員、三菱化学(当時は三菱化成)生命科学研究所・主任研究員・室長・部長、東京工業大学客員講座教授、日本皮革研究所教授・理事研究員を歴任。
2003年から妻・貞子と共に瀋陽薬科大学教授。
1989年FCCA(Forum: Carbohydrates Coming of Age)という組織を作り、TIGG(Trends in Glycoscience and Glycotechnology)の初代編集長(1989-1997年)。
1960 年-70 年代:コンドロイチン硫酸の構造、分解酵素、プロテオグリカンM, V 型コラーゲンなど細胞外マトリックスの研究。80 年代からは糖脂質分解酵素(EGCase)、糖脂質特にガングリオシドの機能の研究のほか、「細胞を用いたオリゴ糖のバイオコンビナトリアル合成」の研究。今は中国で、腫瘍細胞の転移とガングリオシドの関係の研究を行っている。