2007 年6月に瀋陽日本人教師の会は2回目のバス旅行として化石を見に行った。これに合わせて、私は瀋陽日本人教師の会編集「愛唱曲集」を用意しただけでなくこ れを利用して教師の会の基金集めを始めた。それから1年半経って私はこの歌集から解放された。以下はその顛末記である。
この歌集の後記に私が書いた後記を引用する。
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瀋 陽は中国東北三省の中心的な街で遼寧省の省都である。以前の名前は奉天と言った。この地域では日本語学習熱が盛んである。瀋陽には瀋陽およびその周辺地域 で日本語を教えるために日本から赴任している日本人教師の集まりがある。瀋陽日本人教師の会と言って、十数年の歴史がある。
2006年の 春に教師の会始まって初めてという1泊バス旅行を計画して、瀋陽から車で3時間離れた岫岩市に行った。中国は玉を産し、玉は高貴な印として古代より尊ばれ ている。日本人の私たちにはあまり馴染みのない玉だが、中国の玉の約8割はこの岫岩で算出される岫岩玉であることを知って、その産地を訪ねることにした。
片道3時間のバス旅行を退屈しないで過ごすには、歌が欲しい。中国のバスには日本の歌のカラオケは用意されていない。各自が歌の本を持っていくと言ってもそれぞれてんでバラバラだと、一緒に歌うというのに難がある。
どうしたらよいかと考えているうちに、歌の本を編集してしまおうと思いついた。私だけでは限られているので、中道秀毅先生、小林豊朗先生にも歌を推薦して貰った。戦後の歌と、それ以外の歌でそれぞれ二百曲を集めてコピー製本して、旅行に間に合わせたところ結構楽しめた。
旅行に参加できなかった会員にもその後で配って、集まりの時には全員が同じ本で一緒に歌えるようになった。ところがこの歌の本は教師の会の若い会員には評判が良くない。「何ですか、これ。歌の本って言ったって、知っている歌は『仰げば尊し』だけですよ」。
それで教師の会の全員が歌える歌集にするために、次の版の編集を計画した。若い中村直子先生も、池本千恵先生も協力してくれた。古賀メロディを集めるためには林与志男先生の協力があった。昔は長髪のフォークシンガーだった森領事も選曲に協力してくれた。
最後には池本先生と手分けして、編集作業に当たった。印刷を控えた最後の1週間は千曲を越える歌集の編集に二人とも文字通り眼を腫らして頑張った。出来上がった歌集を楽しんで頂けたらとても嬉しいことである。(2007年6月)
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瀋陽日本人教師の会は在瀋陽日本国総領事館の松本総領事から素晴らしい新春の贈り物を戴いた。春節休みの後私たちが瀋陽に戻ったあと、瀋陽市図書館の一部屋に日本人教師の会寄贈の図書コーナーができる運びとなりそうである。
瀋陽の日本人教師の会のよりどころである日本語資料室は2008年3月末から場所を失った。資金のない教師の会としては、好意から場所を無償で提供されているので、先方にもう置いておけないと言われれば動かざるを得ない。2006年春以来3度目の引っ越しである。
什器を片付け蔵書を段ボールに詰めて、これも厚意にすがって「何氏眼科」の倉庫に置かせて貰って、春以来改場所を探しつづけてきたが、家賃が払えずに借りたいというのだから見つかるわけがない。
それが一転して闇夜に光が一瞬見えたのが11月のこと、春に瀋陽に到着された松本総領事に教師たちが公邸に招かれた時だった。私たちの苦境を聴いて、総領事は「公共図書館には場所があるでしょう、そこに話してみればいいかもしれませんね」と言って下さった。
私たちも場所探しの一環として広大な建物の市図書館を当たったけれど、外国人で、しかもただの人では全く相手にされなかったが、日本国総領事が公的に打診すれば道は拓けるかもしれない。
教師の会としては全く手詰まりだったので、総領事のアイデアに飛びついた。総領事に伺ってみると交渉をしても良い、しかし資料室の実態を知らないから、試料を用意した上で資料室の説明をして欲しいと言うことだった。
瀋陽に長い池本先生と私が協力して資料室の資料を作成した。A4で13ページになった。12月19日教師の会の役員4人で総領事館を訪れ、松本総領事と同席の菊田領事に資料室の経緯と現状の説明をした。
私たちの話を聞いた上での総領事の総括は、場所を借りる資金もなくその当てもない教師の会が、本を置ける場所を借りたいと言うこと自体が無理なのではないかということだった。「あなた方は出来ないことを考えているのですよ。現実を見なくてはならないでしょう?」と。
私たちは「このままだと資料室が開けない」という現実が怖くて目をそらして来たわけだ。
し たがって私たちの総領事へのお願いは、「いままで無料で場所を貸してくれる人々の好意にすがってきたけれど、今も、この先も難しいでしょう。総領事から先 日示唆されたように公共図書館に本を全部渡してなおかつ私たちが出入りできるようだと良いけれど、私たちが個人的に図書館に頼みに出掛けても相手にされま せん、どうしても総領事のお力を借りなくてはならないのです。」
その結果、総領事は公共の図書館に訊いてみること、あるいは図書館、大学に「ふれあいの場」が設置されそこに教師の会の図書を置く可能性も探してみましょうか、ということになった。春節前の1月中旬に先方に打診して教師の会と一緒に先方と談合しようと言うことだった。
ところで私は1月17日に休暇をとって日本に戻ってきたが、瀋陽に留まっていてこの件で後を託した池本先生から、1月21日にメイルがあった。
池 本先生の知らせの内容を簡単にまとめて書いておく。松本総領事が瀋陽市図書館との会談を設定して下さって、総領事、菊田領事、平柳領事、翁通訳が教師の会 の二人とともに瀋陽市図書館を訪れ、瀋陽市文化局・梁利人副局長、瀋陽市図書館の李長武館長、周佳兵氏との会談がもたれた。
総領事自らが中国語で事情を説明してくださって、終始、和やかなムードで話し合いが行われた結果、基本的には資料室の図書を市図書館に移すということが承認され、以下の点が確認されたとのことである。
1.資料室の図書は、市図書館に寄贈し、保管・管理の一切を図書館に任せる。
2.資料室からの寄贈ということが分かるようにする。一室に瀋陽日本人教師の会寄贈と看板を書いてそこに本を置く。
3.教師会の定例会の集まりのために会議室を使うことができる。
4.2月下旬、瀋陽に教師の会の会員がそろった時点で、図書館の担当者・周さんに連絡して、資料室の蔵書リストを作成する。
昨 年の3月以来、蔵書を倉庫に預けたままそのさき何の成算もなく、毎月の定例会ではあちこちをさまよっていた私たちにとって、欣喜雀躍、これほど嬉しい知ら せはない。松本総領事のアイデアと総領事館の方々の実行力のおかげである。先人たちの努力でできた日本語資料室が、形を少し変えるけれどその内容が存続で きることになりそうでほっとしている。
(山形 達也)
2009年2月7日京都の妙心寺花園会館で、瀋陽日本人教師の会の第2回目の同窓会が開かれた。これは2005年度の前期に会長を務めた多田さんが幹事役を引き受けて企画されたものである。
なお、第一回は2008年4月5日京都で開かれた。2005年度後期から2年半の間会長を務めた南本卓郎さんが提案して、京都在住の若松さんも手伝って開かれたと聞いている。
同窓会が2月に開かれたので春節休暇で日本に帰っていた私と妻も参加することが出来た。瀋陽現役組は私たちのほかに、遼寧大学(遼陽)の渡辺文江さんで、合計31人の参加という盛大な会となった。
7 日12時半、花園会館で集合。私たちは新幹線京都で下りて山陽線を探した。 山陽線のホームに着いてしばらくすると、高山さんご夫妻(薬科大学03秋〜06夏)が現れた。懐かしい二人に出会って、もう早速同窓会の開始である。お二 人は昨年の6月に教え子の卒業に会わせて瀋陽を訪れているので、その時以来だ。電車がだんだん西の山並みに近付き、大文字焼きの大の字が見えたと喜んでい るうちに4つ目の「花園」駅に着いた。
駅を下りたところで、澤野千恵子さん(東北育才01秋〜04夏)と一緒になった。生まれ故郷の瀋陽で日本語教師をしたあと北京の学校に移って中国語の勉強をされた先生だ。今は日本で英語、フランス語、中国語の勉強を続けておられると言うことだった。
花園駅から京都妙心寺までは指呼の間。その妙心寺の東隣にある花園会館は妙心寺と強い関係のあるところのようだ。フロントにいた人が、お坊さんの格好をしてその午後妙心寺見学を希望した私たちを案内してくれたのだから。
ロビーでは受付の多田夫人、稲田さん(医科大95-97年、遼寧教育学院02-03年)に会って「やあやあ暫く振りですね。」もうそれからは次々と懐かしい顔を見いだして、お互いに興奮気味。話が止まらない。
正式の同窓会は、3階の一部屋で5時から食事をしながら開かれた。参加者は:
石 井康男(遼寧大学)、稲田登志子(遼寧教育学院)、大久保千恵(瀋陽朝鮮族第一中学)、岡田重美(遼寧大学)、加藤正宏(瀋陽薬科大学)、加藤文子(瀋陽 薬科大学)、鉄本羽衣(瀋陽大学)、桐山吾朗(瀋陽師範大学)、桐山恒子(瀋陽師範大学)、河野美紀子(遼寧省実験中学)、斎藤明子(遼寧省実験中学 校)、酒井和重(東北育才学校)、沢野千恵子(東北育才学校)、沢野美由紀(瀋陽薬科大学)、沢野瑠璃(瀋陽薬科大学)、高山正義(瀋陽薬科大学)、高山 敬子(瀋陽薬科大学)、多田敬司(東北大学)、多田敏子(東北大学)、田中義一(瀋陽大学)、辻岡邦夫(東北育才外国語学校)、中道秀毅(瀋陽師範大 学)、中道恵津(瀋陽師範大学)、南本卓郎(瀋陽薬科大学)、南本みどり(瀋陽薬科大学)、峰村洋(瀋陽薬科大学)、峰村尚代(瀋陽薬科大学)、山形達也 (瀋陽薬科大学)、山形貞子(瀋陽薬科大学)、若松章子(東北育才外国語学校)、渡辺文江(遼寧大学)
この愛唱曲集は第一義的には教師の会の人たちが楽しむための歌集である。しかしそれだけなら30部もあれば間に合う。数年分の会員を見越しても50部で十分である。それなのに200部印刷したのは、私がこれを教師の会の活動基金を集めるのに使おうと思ったからだった。 歌 を選ぶのにインターネットでいろいろのジャンルの歌を探した。選ぶ基準は、自分がいずれ老人ホームに入るとしたらこれ一冊を持っていけば良い本にしようと 言うものだった。だから童謡、文部省唱歌、校歌などは漏らさず収録した。60年代の歌は一番なじみがあるので知っている歌は全部入れた。そのあとのJ- POP、ニューミュージックも入れないと一般化しないからこれは会員の人たちの意見を来てどんどん収録した。 つまりこの歌集は、老人ホー ムを控えた私たちの世代にはきっと受け入れられると思ったのだ。それで私の考えたのは、私の中学、高校の同窓生たちに当たってみよう。歌は版権があるから これを売るわけにはいかない。しかし瀋陽で活躍している講師の会の人たちの苦労を話し、その活動を支えるためになにがしかの寄付を募るということことな ら、きっと協力が得られるだろう。 それで、歌集の印刷原価は30元だったので、一冊あたり最低30元、出来ればそれ以上の寄付をお願いすると言うことで、教師の会の会員に先ずお願いし、会員を通じて瀋陽在住の日本人会会員にも声を掛けた。 私 と同じ世代の教師の会の会員でも「いずれ老人ホームに必携」と言うだけで拒否反応を示す人もあったりするし、もともと教師の会全体で企画したものではな かったので全員が協力的というわけではなかった。それでも歌集を一人2-3冊受けとってくれた会員もあったし、池本先生と渡邊京子先生は歌集を捌くために 大きな努力をしてくれた。さらに私と妻の中学校の同窓生たちの熱心な協力があった。おかげで2008年末までに200部が全部捌けた。 そ れで、この歌集発行事業から印刷原価を引いて6870元、日本円にして約10万円という金額を、多くの方々のご厚意のおかげで瀋陽日本人教師の会に寄付す ることが出来た。わたしは嬉しい。教師の会は今は日本語資料室もなくなって苦労を重ねているけれど、きっとこれが少しは役立つ日が来るに違いない。(山形 達也)
企画・準備の多田さん、南本さんの挨拶のあと、今の瀋陽教師の会の状況を山形達也が報告。必然的に2008年春から日本語資料室が閉鎖されていること、そして在瀋陽日本国総領事館の松本総領事の奔走で本を瀋陽市図書館に寄贈してある意味で存続する目処が立ってきたこと。 こ のあと司会を斉藤さん(遼寧省実験中学03春〜05春)、峰村洋さん(薬大03秋〜07年夏)がひきうけて、参加者それぞれが挨拶。人数が多いので一人の 挨拶は30秒限定という注文だったけれど、誰もが瀋陽時代の話したい想い出が沢山あるし、瀋陽を去ってから今までの話したい事柄もいっぱいあるので、とて も終わらない。終わるわけがない。 終了予定時間はどんどん伸びて、最後に峰村さんの作った替え歌「瀋陽教師の会」を歌い、これも峰村さん の替え歌「鬼のパンツ」を男どもが所作を付けて歌い、女性陣の爆笑を誘った。最後に次回の同窓会幹事を中道さん(瀋陽師範大02秋〜06夏)が引き受け て、記念写真を撮って9時過ぎ終了。 こうやって集まって懐かしい顔をみると、たちまちあの時代の教師の会の雰囲気に戻って、濃密な時間を過ごしたような気になった。しかし、それぞれの人たちと個別の話を十分にする時間はほとんどなく、終わってみるとそれが心残りだった。 同窓会の人たちとまた来年伊豆で出会う約束をして、私たちは翌朝10時に会館を出て、京都大学に留学している中国の学生二人に会うために京都に向かった。 同窓会のHPは: http://www.geocities.jp/kyoshikai_shenyang/dousoukai0.html (山形 達也)
1月27日に「資料室の新しい方向に一筋の光」と言う題で書いたように春節休暇中に資料室問題に展開があった。
それで休暇を終えて戻って来た私たちは3月7日に集まって今後の相談をした。集まったのは:石原、松下、土屋、伊藤、池本、有川、山形で、集まった場所は薬科大学の山形の部屋。
1月21日の会合は、すべては松本総領事が中国語を用いて初めから最後まで集まりの話を仕切って下さったと言うことである。教師の会の本を市図書館が受け入れることについて話がスムースに進んだのは松本総領事のおかげである。
休暇中に領事館の平柳領事から、この先は出来るだけ早く先方の瀋陽市図書館の周副館長と連絡して今後のことを教師の会の主導で進めて欲しいと言われ ていた。つまりもう、領事館の手を離れた問題としてとらえられていると理解して良い。レールは敷いて上げたのだから、あとはちゃんとやりなさい。
それで私たちは集まって、今後の対応を相談した。もめる話でもないので1時間ちょっとでこの先図書館と会って話す内容の骨子が決まった。そのあと、夕方日本人会の中の九州人会に出席する池本、有川先生たちと別れて、残りの5人は市図書館を観に行った。
薬科大学から約1kmくらい南に向かって歩くと科普公園という広大な公園がある。この公園の中に市の図書館が建っている。幅70メートルくらい。奥行き200メートルくらい。階段状になっていて、一番高いところで6-7階の高さである。横から見ると三角形の積み木である。 この階段は東に向けて開けていて、つまり東側から階段を3階分くらい上がっていくと入り口に到達する。ここは2階と言うことになっていて、入ると広 いホールがあり、受付を回り込むと建物の中央には天井までオープンの広い空間があり、その端をエスカレーターが、更に3階、4階、5階と上がっていくのが 見える。広場の北と南の両側にそれぞれ広い閲覧室が開けている。ともかくブッたまげるほど広い。
私たちは見学に来ただけで、ある意味で不審な行動を取っていたわけだが、誰も気にしない。2階にある社会科学の閲覧室に入って、外国語の本は何処かと聞くと3階の南の部屋だと言われた。
エレベーターで上がってその部屋にはいると、届け出なしに本を帯出すると ピーッとなる柱が立っていて、その中は開架式である。係は一人が机に座っていたので、互いに会釈を交わした。部屋の広さは80平方米くらいだろうか。書庫 は背の高さより低いくらいのスチールの本棚が10列くらい並んでいる。奥行きは4メートルくらいかな。
見ると日本の本は1列の両側に並べてあるだけで、新しい本はない。教師の会の本が加われば、それなりに日本の本の所蔵として瀋陽市図書館の株が上がるのは確かだと思う。
しかし、私たちの公称6千冊の本は段ボール70箱に入っているが、ここに並べたら書架幾つ分になるだろう?2-3列の書架で本がすべて収まってしまうなら、教師の会寄贈の本として特別の部屋を用意して貰えないかも知れない。 私たちの活動を支えるために日本の新しい本を含めて私たちは必要として来たが、本を手に入れるのはとても困難である。何度も日本から本を送って経験 しているが、本は重くて、送料がかかる。日本の方々に本の寄贈をお願いしても、送料まで自分で持って送って下さいとなかなか言いにくい。
日本の出版業界も景気が悪くなっているという話だが、次々と出る新刊本は依然として早いサイクルで店頭から取り去られて断裁の憂き目を見ている。政 府機関が予算を付けて一定の冊数の新刊本を買い上げ、中国を含めて諸外国の図書館に寄贈すると言うことにならないだろうか。日本の出版業界を救い、世界日 本の文化を伝える立派な事業になる。
私たちの資料室の本を瀋陽市図書館に寄贈しても、ここに日本の本を置くことで、日中交流の種が蒔かれたと言うことだ。これからも どんどん本がここに増えるようにしたいし、それを願っている。
この時期に2兆円を納税者にばらまくという史上空前の愚行をするよりも、もっとましなことを考える首相が日本を率いて欲しいものだ。つくづく、情けない。
(山形 達也)
3月14日土曜日午後2時から薬科大学食堂で、2008年度第5回定例会が開かれた。1年前の3月に日本語資料室が閉鎖されてからは、教師の会は毎月の定例会の場所を探してさまよっている。
2008年9月は遼寧大学。10月は遼寧師範大学。11月は文化セミナー開催という大義名分があったので、領事館を貸していただくことが出来た。 12月は航空学院。そして2009年の3月は瀋陽大学の予定で、借りられることになっていたのが、直前になって瀋陽大学は瀋陽市の管理下にあり、「市が何 というか分からない、正式の申請書を出すと何時返事が来るか分からない」と言うことになった。つまり体の良い断りを食ってしまったのだ。
やむなく5月の会場に考えていた薬科大学を当たって、OKが取れて開催となった。以前、薬科大学は係りの伊藤先生と一緒に当たったけれど会議室に使 える場所なんて思いつかない。図書館内には立派な会議室があるが、ここを借りられそうなんてとても思えなかった。それで食堂に小部屋が幾つかあるのに目を つけて、伊藤先生が食堂の係りに中国語で、これを借りられないかと頼んだ。「その食事の前に一寸した会合をするけれど良いですか?」
そう。大学当局は全く絡まずに会合のための場所が取れたのだった。8-10人が囲むことの出来る丸テーブルが大小3つ入った部屋である。30人足らずの教師の会の集まりにちょうど良い。
最初に学生が作っている2008年度日本語文化祭実行委員会の学生の面々の4人が、係りの高澤先生に率いられて挨拶をした。
日本語文化祭は1997年から2003年(第7回)までは遼寧大学で開かれていた。2004年は西安の日本人の不祥事を受けて中止された。2005年は領 事館の新館ホールで遼寧大学の石井先生が第8回のために集めた金を使って開かれたので、どちらが主催とも謳っていなかった。 2006年と2007年は領事館の主催で開かれた。総領事は領事館の主導で続けますと言ってくれたというが、総領事と文化担当領事が変わって考え方 も変わったらしく、2008年は領事館は財政的支援は一切考えないと言うことだった。それで2008年の日本語文化祭は、急遽、教師の会主催として開くこ とになり、それでも場所だけは総領事館ホールを借りて開催された。
いよいよ2008年度、2009年5月予定の日本語文化祭である。今回の日本語文化祭は教師の会が全面的に主催しないと成り立たないということを全 員が認識していた。一方で係りの高澤先生の発案で、先生たちが言い出したのでは真の意味での学生の祭典とはならない。学生の自主性にまかせようではない か、と言う新機軸が打ち出された。それで2008年度から「瀋陽日本語文化祭」は:
中日両国の交流と親善を目的とする。
高校、大学で日本語を学ぶ学生が、日頃の学習の成果を発表し、日本語学習の更なる習熟をめざす。
日本語を学ぶ学生が一同に会し、他校、個人と互いに親交を深める。
学生が日本語文化祭を計画・立案しその活動を通して、協力し合い互いの親睦を深め行動力、協調性を高める。
と言う目標を掲げ、 遼寧大学(学生2名・藤平)、瀋陽薬科大学(学生4名・田中)、瀋陽航空工業学院(学生3名・中野)、瀋陽大学(学生2名・高澤)が実行委員会を作って12月から動き出したのである。
私たち全員の前に学生の4人がやってきて、初々しい挨拶だった。今後の実際の日本語文化祭の準備が進む状況はブログで見ることが出来る。(http://blog.livedoor.jp/kyosikai2009/)
2009/03/20 山形 達也
教師の会のHPが中国から数時間から数日間見られなくなるのは良くあることだったが、昨2008年9月中頃から始まったアクセス不能は、2か月経っても続いていた。
教師の会以外にも私が持っている自分の研究室のHP、野呂先生のHP もアクセスできなかった。瀋陽日本人補習校が作ったHPも見られなかった。これらの共通点はYahoo.geocitiesと言うサーバーなので、これが 選択的にすべて遮断されたと考えてよい。ある人によると、 「Yahoo.geocitiesには、わいせつサイトが多いから当局が遮断しているんですよ」ということだ。教師の会のHPは清潔そのものなのに。。。
対策としてはほかのところのサーバーに教師の会のサイトを持つしかない。そう思ってFC2にサイトを作ったが、ここも2週間位掛かって完成しないうちにアクセスできなくなった。これだと教師の会のHPがねらい打ちされているみたいだ。
しかし教師の会だけねらい打ちして遮断される理由はとても思いつかない。よし、京都に行こう、ほかのところに作ろう、と言うわけで無料サーバーを色 々と探した。沢山の無料サーバーがあるけれど、容量に限りがあったり、容量が十分あるとFTPが使えないとか、良いと思うと日本からしか使えないとかいろ いろと問題がある。
12月の教師の会で現状を訴えて有料サイトでHPを立ち上げても良いという承認を貰った。2月に休みがあるから、日本にいる間に別のサイトに立ち上げようという計算だった。
日本に戻ると教師の会のHPはウェブで普通に見ることが出来る。見てみると一年以上更新をさぼっていたので、いろいろと内容が欠けている。それで、先ず、今までの Yahoo.geocities サーバーで、それまで怠っていたコンテンツの更新を始めた。
こうやって久しぶりに教師の会のHPに身を入れて作業をした最後の方に、定例会議事録の更新があった。書記・会計係が電子ファイルを作成したのを受けとっては毎回サーバーにアップロードしていたが、それをやってこなかった。つまり、ノートに手書きのまま、溜まっている。
ノートを借り受けて来て、HTML文書を作成し始めたが、これをこんな面倒なことをしないで最近凄く進化したブログサイトを借りて載せることにしたら、この先係りの人たちが直接ウェブに乗せられるのではないだろうか。おまけに写真を載せるのも今はとても簡単になっている。
それでLivedoor blogに活動記録のサイトを作ってみた。これがブログと思うと、定例会の単に議事録の記録だけに留まらず、少しは生きている血を通わせたくなる。雰囲気を伝える写真も載せたい。
今年度の分を作ってみて、自分としては結構満足できる出来映えだった。そして気付いたのは、これは書記・会計係の領分の話だ。自分はHP係りという ところで係りの日記を書いている。この日記も書き込みやすいブログにすればほかのHP係りも日記を書きやすくなるのではないか。
そう思って、cocologのブログを申し込んで今年度の日記を載せてみた。瀋陽市の図書館に見学に行ったことを前回は書いたが、それに関する写真もさくさくと載せられる。これはいい。
思いつくと直ぐに走り出してしまい、止まって考えないのが私の悪い癖で、三つ子の時からこれは全く変わっていない。教師の会のほかの係も、このよう に係りのブログが作ってあれば、係りがそれにどんどん書き込んでくれて教師の会の活動が充実したものになるのではないかと思いついてしまった。
それで弁論大会係には
http://blogs.yahoo.co.jp/kyosikai2007
日本語文化祭係には
http://blog.livedoor.jp/kyosikai2009/
を先ず作ってしまって、それから係に連絡をした。さすがに事後承諾ではまずいと気付いて夜になってから電話をして、事情を話してお願いをした、「これを使って、係りの活動をどうか別の面からも書き留めておいて下さいね」。
弁論大会係と日本語文化祭係にブログが出来たと知らせたときに、ほかの係りにも知らせて希望を訊いたところ、「研修・レクリエーション係」から、面白そうですね。ブログを作ってくれたら使ってみましょうか。」という返事があった。喜んで早速ブログを用意した。
研修・レク係りに作ったブログは以下の通りである。
http://blog.goo.ne.jp/kyosikai2009/
ともかくレールは敷いたのだ。あとはみんなに走り出して貰うしかない。加油!!!
(山形 達也)
ところが2006年になって突如資料室は移転に次ぐ移転に曝された。2006年に二回、2008年に一回である。移転費用の一部は前のオーナーが持って下さったが、教師の会も応分の支出が増えた。 特に2006年末に開元ビルから集智ビルに移ったとき、賃料は無償だったけれどビルの管理費・暖房代、電話代、電気代に年間約4千元かかるように なった。それで賛否両論の中で会費を2007年からは年100元に値上げとなったし、新入会員には応分の負担をお願いすると言うことで入会金50 元も決めた。
私たちの頭はどのようにして教師の会の財政規模を強化するかで占められていた。会費の値上げは安易だが、有効性は疑わしかった。教師の会は参加が全く任意の集まりなので、会員がもし減ったら残った人たちの負担はどんどん増してしまうからである。
それで、歌集を作ってそれを配布して寄付を募ろうと思いついて、私は2007年の6月のバス旅行に間に合うよう、薬科大学の図書館で歌集200部を 印刷した。480ページという大部なものとなったが、大学の教科書は紙が薄いので300-400ページになっても大した厚さにはならない。安心して頼んだ のだったが、図書館印刷部は日本人が使う本に薄い紙は使えないとばかりしっかりした紙を使ったので、一冊が750グラムもあるという扱いにくいものになっ てしまったのは誤算だった。
2009年3月の定例会の議事録は、2008年度の活動記録に載っている (http://blog.livedoor.jp/kyoshikai_shenyang/archives/51230953.html)。あと一つだけ強調したいことだけを書くことにする。
定例会で、教師の会の会計を、一般会計と特別会計にわけて、 今までの収支残金の中から今年度の収支を除く分を特別会計として特別な会の活動に使うこにしたらどうかという提案が会計係からあった。これについての補足を書いておきたい。
教師の会は集まる教師の人たちは、長年毎年50元の会費を出してやってきた。2006年まではそれで間に合った。教師の会は2000年に日本語資料 室というのが出来てからはそこを
活動の拠点としたが、資料室の設立と運営はNPOのもので、そのNPOの代表理事だった石井先生が資料室の運営の一切の責 任を負っていた。2005年秋石井先生が瀋陽を去られることになったとき、それまでの資料室運営資金の残りが教師の会の会長に渡された。
最初の4枚の写真は開元ビル時代の資料室。
下の3枚は集智ビル時代の資料室。
2009/03/27 山形 達也
1月27日にここに書いたように、一年前集智ビルの貸し主の都合で日本語資料室の閉鎖という憂き目に会い、大量の日本語図書を抱えたまま行き場を失った教師の会の資料室問題に、松本総領事が解決の道を与えて下さって、市図書館との間に下記の合意が出来た。
1.資料室の図書は、市図書館に寄贈し、保管・管理の一切を図書館に任せる。
2.資料室からの寄贈ということが分かるようにする。一室に瀋陽日本人教師の会寄贈と看板を書いてそこに本を置く。
3.教師会の定例会の集まりのために会議室を使うことができる。
4.2月下旬、瀋陽に教師の会の会員がそろった時点で、図書館の担当者・周さんに連絡して、資料室の蔵書リストを作成する。
実際に教師の会の関係者が瀋陽に揃ったのが3月で、先ず私たちはこのことで3月8日に薬科大学で集まって打ち合わせをしてから、市図書館の副館長と 3月13日に面談の約束をした。1月21日の総領事主導の下で瀋陽市文化局、図書館、領事館、教師の会が集まったときは春休みの最中で、有川先生と池本先 生に出ていただいたが、教師の会の責任者がいなかったのである。
これは今の会の金がすべてを一緒にしているからいけないので、毎年の収入と恒常的な支出とを扱うのと、会の活動を支える特別会計とに 明確に分けた方がよいのではないだろうか。それで会計係の渡辺京子先生から提案がなされて、4月から実行するよう承認された。 2009年3月の定例会で、提案の背景説明を私から補足したが、ここにこうやって書き残しておきたい。
このようにして皆の寄付により、教師の会は今2万元近い残金がある。 こんなにあるなら、懇親会に使ったらいいという声を聞いたことがある。昨年末、今の資料室の本を預かっていただいている何氏眼科にお礼の気持ちを表 すのに、角膜移植の会「愛の光」に寄付をしようと教師の会で言い出したとき、貯まっている金から出せばいいじゃないかという声も聞こえた。
3000元を寄付目標にしたが、1300元しか定例会では集まらなかった。残りは石原、松下、池本、山形が負担して何氏眼科に教師の会として寄贈した。
印刷原価30元なのでそれ以上で「お買い上げ」を願ったが、会員の人たちが原価で「原価で買えるんですね」とこれを持って行かれたのには密かに涙が 出た。それでも、もちろん多くの会員のおかげで、そして日本人会にもお願いして協力いただいたし、前にも書いたけれど私たちの中学の同窓生にも沢山お願い して、最終的に教師の会に6875元の寄付をしたのも教師の会の活動を支えるためである。 更に特筆すべきことは、森領事は2007年5月まで教師の会の顧問をしてくださったが、定例会のあとのいつもの食事会で森領事が全体の食費を気前よく出して下さることが多かったのだ。
私たちは森領事の気持ちをありがたく受けていたが、やがて私たちも食事をしたつもりで自分たちの費用を出して教師の会に寄付をするようになった。
3月13日に出掛けたのは、石原、土屋、池本、山形の4人と、通訳をやってくれる瀋陽師範大学の周男さんであった。約束をしてあったのに副館長は会議を理 由に現れず、代わりに李主任が私たちの対応をした。いろいろと話し合ったが、殆どすべては副館長に伝えると言うだけで、手応えがすくなかった。しかし「日 本語の本を図書館のコンピューターに登録するソフトがない。手書きで記録を保存するというわけにはいかないので、そのソフトを発注して手に入れるまで、本 の搬入は待って欲しい。」ということだったので、姿勢は前向きなのだという感触を得ることが出来た。 早速4月の定例会から会議室を使わせて欲しいと私たちは申し入れた。しかし先ず、中国語の分かる中国人(と言うのもおかしい表現だが、教師会の日本 人のほかに誰か中国人ということ)が会議にいてくれないと困る、という。たとえば地震があったら困るというのだ。そりゃ、困る。このような人がいてもいな くても、申し訳みたいな数の鉄筋を入れただけの建物に地震が襲いかかったらひとたまりもないのだ。 4月11日に会議室を貸してくださるようお願いしますと頼んだ。もぞもぞ言っている。やっと一応良いだろうと言うことになった。しかし、また連絡してくれと言うことだった。
会談が終わって外に見送られた私たちは、互いに不得要領な顔を見合わせた。話は総領事の仕切った方向に進んでいるみたいだが、大丈夫なのかなあ。あとで話を聞いた副館長が、何も反対を言わずにそれぞれの事案にOKを言ってくれるのだろうか。
と言って、私たちの出来ることは、総領事に話の進行を報告することだけである。3月27日に平柳領事と会って会談事項を報告した。3月29日には日 本人会がある。このとき松本総領事とはきっと顔を合わせるだろうし、年末以来の松本総領事による市図書館への働きかけに、ともかくあらかじめお礼と報告を 述べておく必要を感じたのである。
4月に入ったところで資料室係りの代表である土屋先生が、中国人の学生(周男さん)を介して図書館の李主任に電話をした。その結果4月11日は会議室を使って良いと言われたが、また前の日に再度確認をして欲しいという。 大丈夫かなあ。前の日に電話をしたら、「あ、もうほかのことで使うことになりました」なんて言われるのではないかなあ。どうしてか考えは悪い方に行ってしまう。
余計なことだが、中国で「大丈夫」は「我が家の主」という意味である。家の主は大丈夫でなくてはならないということから、日本で今使う意味になったのだろう。
ともかく市の図書館を使って会合を開くなら、そのあとの懇親会もそのあたりで開かなくてはならない。瀋陽市図書館は青年大街と言う市の目抜き通りに 面して建っている。向かいはシェラトンホテル、ホテルマーベロットが建ち並び、横には瀋陽の企業勤めの日本人が好んで住む河畔花園という住宅団地がある。 つまりこのあたりは超一等の最高級地なのだ。 このあたりで私たちが行ける場所をあらかじめ探しておかないと、時間の無駄になる。というわけで、土曜日の午後を使って、学生の暁艶と一緒に食事の場所探しをしようと思った。
図書館を出て西に真っ直ぐ文体路を進むと40階建てくらいのビルが壁みたいに並んでいる。その下には豪華なレストランがある。何時か日揮の陳さんが連れて きてくれた福健省の「竹林何とか」もここにある。でもそのならびの店に、覗いてみるとまあ入っても良いくらいの値をつけた料理が並んでいるのが見えた。暁 艶と入ってメニューを見せて貰う。一人あたり40元くらいで何とかなるかも知れない。でも教師の会の人たちに勧めてここに来るなら味も見ておかないといけ ない。
と言うわけで、まだ午後3時にならないのに、つまりまだ食べたばかりの昼ご飯が消化していないのに食事をすることになった。二人だけではもの足らな いので、図書館で出合った薬大の学生二人にも電話をしてきて貰った。二人は盛んに照れているけれど、こちらは食事をする人口を増やすことに関心がある。 味はまあまあ。値段もまあまあ。店はきれいと言うことでこの店を定例会のあとの食事の店として推薦しよう。
20090408 山形 達也
教師の会の4月の定例会は、初めて瀋陽市図書館を借りて開かれた。前々からお願いをして、先方から言われるとおり4月に入ってもういちどお願いして、「多分良いだろうが、前の日にもういちど電話するように」と言われた。
この段階で私たちは大分悲観的になってしまい、前の日に電話をすると「もう予定で塞がっている」と言われるのではないかと案じていた。ところが、前 の日にこれまで通訳をしてくれた瀋陽師範大学の院生である肖男さんが図書館に直接で向いたところ、翌日使って良いといって案内してくれた部屋はVIP用の 大きな会議室だという。
この時点で私たちは図書館の態度に半信半疑であったことを恥じた。総領事館が間に入って進んだ話は守られているのである。疑ったりして大変申し訳なかった。
さて、4月11日は図書館のホールで皆と待ち合わせた。1時半には職員の女性が、私たちが教師の会の人たちかと確認に来てそのまま会議室に案内してくれた。行ってみると6 x 12メートルくらいの広さの赤い絨毯の敷かれた大きな会議室だった。 会議室と言っても机が全く置いていないのだ。長い方の壁に沿ってゆったりとしたソファーが片側に8脚ずつ。側面には椅子が10脚。つまり26人が使えるようになった部屋である。
国家主席が外国の賓客と会見している模様の写真を見たりするが、言ってみればあのような案配である。壁にはそれなりの額が飾ってある。中国の会議というのはこのような場所で行われるイメージそのものなのだ。
出席は25名。壁に沿ってこの字型に配置された椅子に座っての会議は、だだっ広い部屋での初めての経験で、皆戸惑いを隠せない。 次の5月は東北大学を借りて行うし、6月は総領事館で第5回文化セミナーを開く予定なので、定例会も総領事館を借りて開いて良いことになっている。 その次ここを借りるとすると新年度の9月である。その時には普通の会議室を借りたいけれど、今は図書館には話の通じる人がいない。
私たちが今日ここを1時半から5時まで使ってよいと言うことをこちらに連絡する人がいるだけで、それでは次回も貸してくれるのか、その時は別の部屋 にして欲しいということその人に言っても、まるで通じないのである。つまりそれは彼女の権限外のことで、それじゃ誰に言ったらいいかというと今までのルー トで、何時か会ったことのある李主任に言うほかないようだ。今日李主任は不在である。
今回の定例会の主題は4月26日に予定されている瀋陽日本語弁論大会の運営についてだった。これは休憩のあと3時半から弁論大会担当の日本人会の理事たち4人が参加して話された。
弁論大会は瀋陽日本人会が主催しているが実行部隊は教師の会である。弁論大会実行委員会は、藤平先生が代表をしている。前回も彼がとりしきったからもう慣れたものである。運行手順の説明があると、今回が初めての人たちから幾つかの質問があっただけである。
同じことが2004年に私が初めて司会をやったときにも起こった。原稿をその場で読み上げてみて、何と主催者のはずの日本人会会長を来賓で紹介しているの だ。絶句するところをそのまま読み上げたけれど、実行部隊の教師の会を日本人会が低く見ているようで不愉快だった。あとの反省会で「こんな阿呆なことは止 めましょう」と申し入れた覚えがある。 さて、日本語専攻の大学生がスピーチをする大学一部では、合計15人が話をした。午後の高校生の部では今年から即席スピーチがなくなり、その代わり14名が選ばれて話をした。最後の日本語非専攻の大学二部では15名。 それぞれのスピーチは6人の審査員によって各項目の点を付けられて、順位が決められる。3年前までは審査員の評価が最終点にどのように反映されるかは、弁 論大会実行委員会の一部の人たちがここのところを握っていて、一緒にやっている教師の人たちにも公開されなかった。つまり審査員の評価がまた別のファク ターで変えられていた。
そして弁論大会を実質的に運営している瀋陽日本人教師の会は協力と言うところに名前が挙がっている。教師の会は日本語を学ぶ学生たちに弁論大会を知 らせ、彼らから作文を集め、審査をし、最終選考の弁論大会に臨む態勢を作り上げ、教師の会の全員が弁論大会当日の大会運営に当たる。 9時から大会が始まった。最初に司会者から来賓の紹介があって、来賓の挨拶がある。最初は松本盛雄総領事で、引き続き、遼寧省人民対外友好協会常務副会 長、そして瀋陽市人民政府外事弁公室副処長が来賓として挨拶をした。中国語だったが翻訳はなかった。
会場を埋める大半の学生は日本語が分かるから来ている 中国人学生なので、問題はないのだろう。
大会の休み時間に日本人会の人とお喋りをしたが、中国の二人の来賓挨拶って言うけれど、プログラムを見ると主催って書いてあるじゃない?主催者なのに来賓っておかしいよねと言うことになった。
そのあと、日本人補習学校のことで藤平さんから要望があった。補習校は日本人会が始めたもので、個人的に頼まれた教師たちが運営に協力している。藤平先生 はキャノンの秋山代表が北京に移ったあと急遽校長を引き受けて補習校の運営よろず相談に乗ってきたが、この夏で帰国するのでだれかあとを見る人がいません かと言うことだった。これはいい。しかし、彼ともう一人これを手伝っていた齋藤先生が二人とも報酬を受けないボランティアだったというので、私はちょうど 日本人会から理事がでている機会でもあり、無報酬で教師の会の人たちの好意を当てにするのはおかしいのではないかと発言した。 藤平先生はこれを聞いて慌てて、「報酬はあるのだが自分はどのくらい貢献できるかどうか分からないので辞退したのだ」ということだった。
補習校の先生たちは主に遼寧大学留学している日本人学生が1時間当たり60元でアルバイトをしているという。それを束ねる教育専門家が全くいなく て、以前は教師の一人に校長を頼んでいた。報酬は1時間あたり80元である。この先生は責任の重さと報酬の軽さに耐えられず1年保たずに辞めてしまってい る。
補習校で学生のアルバイト教員を監督し、父兄の相談を受け、そして1年に亘って順当なカリキュラム造りとその実行に気を配るなら、土曜日の4時間出 掛けて、それだけで済むはずがない。毎週4時間分の報酬を受けとればいいと言うものでもないだろう。補習校運営の責任を負って貰うならば。
日本人会の日本人企業戦士たちは、1泊700元というホテル住まいをし、日本の日本人なみに給料を貰い、(日本の家族も給料を貰っているはずだ)、それ以外に様々の使い道の金を持っている。
日本語を教えている日本人教師たちは、宿舎は学校提供だが、毎月3-4000元の中国人並みの給料で、誰もが日本語教育に人一倍献身している。
日本人会は補習校のことでは教師の人たちの好意にすがるのではなく、日本から補習校の校長になって責務を果たす人を探して「中国基準で」雇うことを 考えるべきだろう。それでは来ないから、日本から日本人を雇うと数百万円になってしまうから、 なかなか出来ないから手伝ってくれなんて、教師の会に話を持ってくるのは間違っているというものだ。
20090413 山形 達也
4月14日火曜日の朝8時過ぎ、遼陽の渡辺文江先生からケータイに電話が掛かってきた。「大丈夫ですか、今時間あります?」
火曜日の朝はPCに向かいあっていただけなので、もちろん大丈夫。渡邊先生の声は興奮してトーンが高い。「昨日の月曜日、遼陽に松本総領事が平柳領事と一緒に見えて講演されたのですよ。」
遼陽は瀋陽の南約100kmにある街で、歴史的には瀋陽よりも古い。日露戦争にも遼陽会戦として名前が残っている。遼陽には、瀋陽にある遼寧大学の 一部としての外国語学院が置かれていて、彼女はここにもう8年滞在して日本語を教えている。渡辺先生が松本総領事の講演をお願いしていたのは、知っていた けれど、それが昨日のことだったわけだ。
「遼陽まで丸一日掛けて出掛けていただくのをとても申し訳ないと思っていたけれど、大学はそれこそ大学挙げての歓迎でしたし、総領事は見事な中国語 でプロジェクターを使って講演されたしね。中国人の先生が外国人であれほど見事な中国語は聞いたことがないと言っていたけど、学生にこの中国語で講演する というのがいいんですよね。さすが外交官ですね。」
「講演のあと質問を受け付けたら学生から質問が矢継ぎ早でしたけれど、どれにも丁寧に答えられて、、。総領事は本当に謙虚な方ですね。ちっとも偉ぶったところを見せないし、、。」
「講演だけでなく授業も見に来られましたよ。実は五十嵐先生と大分慌てたけれど。熱心に見て下さって感激でした。」
「大学も教員が百何十人も総出で歓迎したし、お帰りの時は日中双方の旗が掲げられていただけでなく皆が小旗を打ち振ったのですよ。」
大学挙げての歓迎と講演に対する熱心な反応で、仲を取り持った渡辺先生としては大いに面目を施したと言っていいだろう。一日経っても興奮が冷めないのも無理はない。わたしは聴き役である。
「昨日ことはまとめて総領事に報告しようと思っているんですよ」と渡辺先生の話が続いたので、思いついた。
「もちろん、それも大事でしょうけれど、研修・レク係りのブログを作ったでしょ、教師の会のHPに。ここにも写真入りでばっちり書いて載せて下さいな。」と私はお願いをした。
きっと近いうちに、渡辺先生の記事がブログに載るだろう。それをどうかお楽しみに。
20090414 山形 達也
4 月26日の日曜日、商貿飯店で第13回瀋陽日本語弁論大会が開かれた。主催者として瀋陽日本人会、遼寧省教育庁、遼寧省人民対外友好協会、瀋陽市人民政府 外事弁公室が並んでいるけれど、実際に毎回6万元という少なからぬ金を出してこれを毎年行っているのは瀋陽日本人会である(国際協力基金からも数千元の援 助があるので、助成として国際交流基金の名前が載っている)。
後援には、在瀋陽日本国総領事館と、国際協力機構中華人民共和国事務所の名前があった。後者の存在は今まで知らなかった。
私の知る限り2006年前までは、審査の評価方式について審査に関わった先生たちからいつも激しい抗議が出ていた。これを公開するとそのまま学生に伝わるからと言う理由で、一部の人たちは最終成績の計算法の公開を拒み続けた。 その一部の人たちが去って昨年からは審査の基準が審査員に徹底し、しかもそのあとその評価基準のどれかにファクターを掛けることもなくなり、最後の 成績まで評価の仕方が透明化した。結構なことである。教師の会の中で審査方式を巡る激しい言葉のやりとりもすっかり消えた。弁論大会実行委員が、今年度か らは高校の部は即席スピーチを止めようではないかといって理由とともに皆に計ると、さしたる異議なくそれが皆に支持された。つまり実行委員会が他の人たち から信頼を得るようになったと言うことだろう。
弁論大会の最後にそれぞれの部門の発表者の中から1、2,3位が選ばれて日本人会を代表する会長や副会長から賞状と賞金を貰った。 これで会は終わったが、順位を聞いた日本人教師の中の数人の先生たちは発表順位が気に入らない。自分たちの評価と大幅に違うと言って発表した学生と集まって議論をしている。
私はその中に首を突っ込んだ。だって、このあと日本人会主催の慰労会が上の階で待っているからだ。「さあ、一緒に慰労会に行きましょうよ。」 でもこの提案はあっさり無視された。「この第一部のこの人の賞状なんて納得できませんよ。だって日本語は滅茶苦茶だったですよ。文法的にも語法的にも、発音も、私ならこれは遙か下の方につけますよ。審査員のひとたちは一体どこを見ているのでしょうねえ。」
私はカメラ掛りで結構忙しかったが、第一部ではこの学生の発表が一番印象に残っていた。「経済的に発展してきた中国がそれにふさわしい国として振る 舞うためには、 国の将来を担う自分たちの責任が大きい」というものである。視点がしっかりとしていて、私は大変好感を持った。 恐らく、アクセントが日本人とは違い、語法も間違っているところがあったのだろう。日本語を教える教師の目から見ればそれは減点対象だろうが、一般人であ る私たちは多少おかしい日本語が言葉に混じっていてもそれを無意識に日本語に変換して内容を聞く習慣が付いている。教師だけが審査員ではないから、私のよ うな印象で内容を高く評価した人がいたと言うことだろう。
日本語弁論大会だから日本語のレベルは高くなければならないが、内容だって弁論にふさわしい主張が必要である。この両方のバランスを取るために審査員の中に、日本語教師だけではなくて、日本人会、領事館、JAICAなどの「一般の人」も入れているのではないだろうか。 学生のアップの写真は上から
大学Ⅰ部
1位 朴成日 夫婦喧嘩 (遼寧大学)
2位 朱妮 ラブレター (瀋陽師範大学)
3位 李帅男 中国と一緒に生きる (瀋陽師範大学)
大学Ⅱ部
1位 陈风收 中国の医者と患者の関係 (中国医科大学)
2位 俞颖 日頃から子供心を (瀋陽薬科大学)
3位 陈佳卉 文化の差を理解しよう (瀋陽薬科大学)
教師会日記 20090430 山形 達也
資料室の閉鎖で行き場を失ってしまった教師の会の図書を、市の図書館に寄贈して活用したらどうだろうかという言う松本盛雄総領事のアイデアが実を結び、私たちは3月23日に市の図書館に話し合いのために出掛けた(4月8日「瀋陽市図書館との交渉1」と言うタイトルで書いている)。
図書館側の代表として私たちに会うはずの周副館長が不在で、代わりが李主任だったためもあって、話しは大枠の確認に過ぎず、実際の話しはなにも進まなかった。ともかく副館長に伝えてください。ええ、伝えておきます、と言うやりとりで終わった。
図書館側の最大の問題は、図書の管理システムが中国語と英語しか扱えないと言うことにあるらしい。バーコードリーダーで本のバーコードをさっとスキャンすると、たちまち本の貸し出し、返還が登録できるというシステムが設置されているが、日本語は扱えないらしい。
新しいバージョンを買わないとできないし、それは何十元という高価なものらしい。それを手に入れないといけないというのは分かったが、それを購入する手続きを始めているのかどうかはよく分からなかった。
5月31日に師範大学の中国人の女子学生に図書館から電話が入った。彼女は3月23日に李主任に会ったときに通訳をしてくれた学生である。私たちに 連絡が入ってもどうしようもないので、彼女を連絡先としてお願いしてあったのだ。6月5日に図書館に来るようにとのことである。私たちの間で急遽相談して 行ける人を探した。
すると次の日には電話で変更があって6月3日水曜日の3時半に図書館に来るようにと言う。5日ならば来られるはずの土屋さんが駄目になって、その日は石原、松下、池本、そして山形と、この日に通訳を頼んだ遼寧大学の王さんが、3時半に図書館に集まり、周副館長と会った。
周氏: 日本語も取り扱える管理システムは30-50万元するので、まだ買えない(今はVer. 2で、Ver. 3が日本語も取り扱える)。新しい日本語図書の登録カードを作る必要がある。しかし図書館の日本語が分かる人が退職する。新しく日本語の分かる人が来るか どうか、分からない。
図書登録カードの作成等は教師がここに出向いて、学生のボランティアで、出来ないか?弁当代は出せる。
市図書館としては本を運び込み、保管し、図書の登録カードを作る部屋は1週間くらいあれば用意できる。そこに運び込めるか。ここに運び込んだら、それで寄付が成立すると考えて良いか。
教師: 本を図書館に運び込んだ時点で、市図書館に教師の会が寄贈したものと考える。
周氏: 本の登録カードを作ったら、本を貸し出せる。貴重本は鍵のかかる書架に保管して貸出禁止にできる。
最終的に確認できたこと:
6月中に本を運び込む 。搬入するトラックと人は図書館で用意できる。
7月、8月、本は図書館で管理する。
9月~ 教師会と学生の協力で図書館でパソコンに入力する。
周副館長は、本を運ぶときに、本の数や内容について書いた契約書を交わしたい(教師会側が作成)との意向だった。教師会側に図書の明細はなく、運び 込んで登録する作業と同時、あるいは教師会から人が来て(アルバイト学生にも助けられて)Excelで入力することで、目録が初めてできる。
したがって、本を運ぶ前に、何氏眼科の倉庫に行って、運ぶ本の冊数を数えこれを記入した仮寄贈合意確認書を作成する必要がある。そして9月に目録を作った段階で改めて契約書を交わすという内容の確認書を作る 。
6月13日の定例会でこれが諮られたあと、次の週の土曜日(20日)にできる人たちで良いから何氏眼科の倉庫に集まり、本を段ボールから開けて整理して冊数を数え、そして日曜日(21日)に市の図書館に運ぶことになった。
6月16日現在における作業予定:
6月20日(土)何氏眼鏡店で書籍の数など確認作業:
午前10時~ 瀬井、宇野、山本、中田、松下、土屋、学生1
午後~ 高澤、梅木、山本、中田、松下、土屋、学生1
それぞれご都合のつく時間から時間まででOK。
6月21日(日)搬送日:
何氏眼鏡店 8時45分集合 梅木、有川、山本、松下、土屋、通訳(肖男)
書籍搬出後、梅木、有川は欲しい備品などを取りに来る人のために店で待機する
市立図書館 9時45分集合 石原、山形、伊藤、(トラックの到着時間不明)
(松下、土屋、肖男の3人はタクシーで移動)
20090616 山形 達也
瀋陽市の図書館に本を寄贈することになって、私たちが直面したのはどんな本をいったいどれだけ持っているかを私たちがリストにしていないことだった。この話を瀋陽市図書館に仲介して下さった松本盛雄総領事にも一番最初に聞かれたのは、このことだった。 「本は6千冊くらいあるのですけれど、本の目録あるいは登録カードは作っていないのです。」と、なんとも気恥ずかしい答を繰り返してきたのだった。
瀋陽市図書館との話でも本を引き渡すときに契約書を交わす、そこに本の目録をつけるという話になって、私たちは同じことをくりかえした。 とうとう私たちも、本の詳細な目録はともかく本の册数はきちんと数えてから渡さないといくら何でもまずい、ということになった。
市図書館から6月中に場所を作って本を受け取ると言う知らせをもらったのは、6月の教師の会の定例会の前だった。6月13日の定例会で2008年度の会期は終わり、先生方もだいぶ入れ替わる。
それで図書館に本を引き渡すのは6月21日の日曜日しかないということになった。28日なると月末で離任に向けて忙しい先生が増える。 となると、本の册数の確認作業日は20日の土曜日しかない。それで前の日記に書いた、土屋先生からの作業確認ということになったのだ。 実際に6月20日(土)何氏眼鏡店の二階に書籍の数など確認作業のために集まったのは以下の先生たちである。
午前10時〜:瀬井、宇野、池本、山本、中田、西岡、松下、土屋、学生(孫)
午後〜:池本、山本、中田、西岡、松下、土屋、学生(孫)、高澤、山形、石脇、巽、梅木、廣瀬、そして何氏眼鏡オーナーの冨島様
私は研究室のセミナーをいつものように終わってから出かけて、午後1時半に砂山街の砂陽路バス停の先にある何氏眼鏡店に着いた。 ここの2階の倉庫に何氏眼鏡オーナーの冨島様のご好意で本を預かっていただいていたのだった。 作業は80個くらいの段ボールをあけて、本を外に出して、有害図書(!)を除いてから、ハードカバー、文庫本、漫画本に分けて数える。改めて段ボールに入れて内容を記録していく。
重い段ボールを運んで開いて本を出し、本を分類して数えてまた詰めて隅に積み上げるという作業で、立ったり座ったり運んだりという、特に老人には大変過酷な作業である。 この6月で帰国あるいは別の任地に去られる先生が14人、残る先生が13人。20日の作業にはここにまだ残る先生方が多かったが、これ限りで瀋陽を去られる14人の先生がたの中からは山本先生、中田先生お二人が来られて、朝からずっと働きづめだったのには頭が下がった。
私など皆の写真を撮った後は大した作業もしなかったのに、それでもその後二三日は腰が激しくうずいたのだ。 何氏眼鏡オーナーの冨島様が午後現場にこられて、私は初めて会ってお話をすることが出来た。
作業の終了は3時過ぎだった。先生がた、本当におつかれさまでした。
教師会日記 山形 達也 20090622
6月21日(日)搬送日の予定:
何氏眼鏡店 8時45分集合 梅木、有川、山本、西岡、広瀬、瀬井、松下、土屋、通訳(肖男)
書籍搬出後、梅木、有川は欲しい備品などを取りに来る人のために店で待機
市立図書館 9時45分集合 石原、山形、伊藤、謝巍(通訳)。松下、土屋、肖男の3人は本を積み出した後、タクシーで移動。調印終了は11時。
という訳で、日曜日の朝は、瀋陽市図書館に出かけた。大学から図書館まで歩いて15分。その半分は科普公園の中を歩く。 図書館のロビーで集まった私たちがおしゃべりしながら待っていると、10時ころ、ポロシャツ姿の人が気さくに声をかけた。前回会見をした周副館長だった。 トラックの遅延のためまだ本が着かないのですが、と言っていると、どうぞ私の部屋に来て待っていてくださいということで、5階の副館長の事務室に行く。
鉄観音のお茶をごちそうになる。特別のものだったらしく、どうですかこれは鉄観音ですよ、おいしいでしょう、ということだった。いろいろと話しかけ てくれて、ここには師範大学から通訳で来てくれた学生がいたが、薬科大学日本語教師の伊藤先生が中国語で返事をして、話が弾んでいた。
伊藤先生によると副館長の言葉遣いはとても丁寧で、しかも教養があふれているということだった。威張っていないお役人に会うと、私はすぐに嬉しくなる。 やがてトラックが着いたという連絡があって、私たちは3階の外語書籍閲覧室に移った。ここは前に来たときと違って本を入れる書架の高さが全部高くなっていた。こうして場所を作って新たな本を多数収容するためだ。
やがて本が運び込まれてきた。勿論段ボールのままで、運ぶのは図書館側で用意した運送会社の人である。この閲覧室の奥の壁に段ボールを並べていった。合計72箱。
それで調印。副館長は用事があって退席し、代わりが3月に会ったことのある李主任だった。調印して交換する覚え書きは、あらかじめ日中二ヶ国語で作 成してあるもので、先方は館長のサインと図書館の公印が押してある。こちら側は石原会長のサインと印鑑と行きたいところだが、瀋陽日本人教師の会の印鑑が 今は持ち合わせないので、後で押してから届けることになった。
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6月21日のメイル:蔵書搬入完了: 今日予定どおり、瀋陽市図書館に5364冊の書籍を引き渡し、「覚書」も交わしました。段ボール72箱です。図書館では2階の閲覧室に書棚もすでに用意されていました。本はまだ段ボール箱に入れたまま保管されています。
以上報告です。皆様連日ご苦労様でした。
師範大 土屋 登
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6月25日のメイル:
6月23日(火)午後図書館へ出向き、池本先生に作っていただいた印を押して、李向東主任に会いました。「その時の内容」は添付の通りです。おおよそ予想通りの対応でした。私の手元に「覚書」一部が保管してあります。
土屋 登
「その時の内容」
6月23日(火)李向東主任・土屋・謝巍(通訳)
「瀋陽日本人教師会」と押印した覚書見せる。
土屋:我々は外国人の私的な団体なので、正式の丸い印は作れないと業者に言われた。したがって秋の正式な覚書でもこの小さい印しかない。
(李主任は部屋を出て上司に確認に行く)
李 :あなた方は私的な(通訳「大衆の」)組織でしたね。では、これで結構です。こうして双方が一部ずつ保管しましょう。我々は梁書記に報告しなければな りません。正式にサインするときには梁書記に連絡して来てもらうつもりですが、まだわかりません。そちら(教師会)もどのように進めるか段取りを考えてく ださい。このことはまた話しあいましょう。
土屋:公的な確認が必要なら日本領事館に相談してサインするときに立ち会っていただくことも考えられます。秋になってから話し合いましょう。
李 :本はまだ開封してありません。教師会が目録を作っている間に我々は図書館の印を押してコードを付けます。すべて目録を作り終わった後、看板を 掛けて読者にオープンにしたいと考えています。整理しているうちに看板を掛けて、読者が本を読むと面倒なことになる可能性がありますので、目録を作り、整 理し終わってから正式にサインし、看板を掛けてオープンします。 土屋:我々もそれがいいと思います。すべて整理を終わってサインしてから読者に見せるべきです。七月になると日本人教師の多くは一時帰国しますの で、九月にならないと対応できません。もし緊急に何かありましたら通訳の謝巍に連絡をください。彼女から私に連絡することになっています。これまで誠実に 対応していただいて感謝しております。
教師会日記 山形 達也 20090626
2008年度瀋陽日本人教師の会の会員は、領事なので顧問という形の菊田悦二氏を除くと、以下の28人だった:
有 川里菜、五十嵐基順、石原南盛、石脇千代子、伊藤尚美、宇野浩司、梅木愛、片山皚、熊倉亜紀子、齊藤都、瀬井康代、高澤祐一郎、多田俊明、巽保隆、田中典 子、土屋登、中田富之、中野亜紀子、中野牧男、西岡豊、廣瀬元彦、藤平徳雄、松下宏、松山三恵子、山形達也、山本健治、渡辺京子、渡辺文江。
このほか会員と同じように会費を払っているけれど、係の分担を持たず定期的に出席しない会友が4人:
池本千恵、貴志豊和、坂本豊、四宮貴久。
6月末に2008年度の活動を終えた時点で、帰国あるいは別の場所に居を移す先生は以下の14名:
五十嵐基順、石原南盛、伊藤尚美、熊倉亜紀子、齊藤都、田中典子、中田富之、中野亜紀子、西岡豊、廣瀬元彦、藤平徳雄、松山三恵子、山本健治、渡辺京子。
従って残留組は以下の14名:
有川里菜、石脇千代子、宇野浩司、梅木愛、片山皚、瀬井康代、高澤祐一郎、多田俊明、巽保隆、土屋登、中野牧男、松下宏、山形達也、渡辺文江。
ちょうど、半分が入れ替わることになった。
2008期の終わりに当たる6月初め教師の会の一部の私たちを相手にして、会長の石原さんが後任の会長として若い先生を推薦したい、教師の会はちょっと淀んでいるので、人事を刷新することによって新しい風を導入し、若い人の発想で遠慮なくやって欲しいと言い出した。
これは、会則で会長は毎期の最初の定例会で選出するときめられているが、初めての顔合わせで誰かを選ぶという困難に代えて、あらかじめ前年度の執行部が候補を推薦するのが慣例となっているためである。
しかし「教師の会はちょっと淀んでいるので、人事を刷新することによって新しい風を導入」したいなんて言うのは、第2期目に入る時か、あるいは停滞していてそれが自分の責任だと思った時点で言うべきことだろう。
今、日本の政局に熱い目が集まっている。一つは長い間続いた自民党と公明との政権基盤が崩れて、民社党に日本の政治の場を引き渡す時期が来たと誰もが思っている。
もう一つは、小泉の後の首相が安部、福田といずれも1年で政権を投げ出し、その後の麻生が任期前にのたれ死にしてしまうのではないかと、野次馬としてはこんな面白い見物はない。
それにしても自民党内部の分裂ぶりは凄い。マニフェストというのは私たちはこうしますという政策を書くことだと思う。つまり政党一つあたり1種類のはずだ。それが各会派ごとにマニフェストができそうなおかしな雰囲気だ。本来別の政党となるべきなのが政権維持という形で一緒に集まったのが自民党であることをこれほど赤裸々に暴露していることもないだろう。
(今の時点では7月22日に衆議院解散で、8月30日が投票だそうだ)
話がずれた。日本人教師の会はただの同好会である。瀋陽で教育と研究に従事している日本人が集まって助け合いましょうというのが目的だ。
今は会長という言葉を使っているが、数年前までは、内部では連絡係、外に向けては代表という言葉だった。会長というと重みがあって、なった人は会長と言う名前にふさわしく振る舞わなくっちゃと言うことになって、おかしなことにもなる。
できることなら、会長という名前は止めて、以前のように連絡係に戻したらどうだろうかと個人的には思っている。次の会長には申し訳ないけれど。
20090717 山形 達也
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