2006/9/25 (Mon) ねつ造論文
うちの学生から聞いた話である。裏を取っていないので真偽、及び正確なところは分からない。
こ の大学の博士課程の院生が論文ねつ造で大学から追放されたそうだ。話によると、この学生はこの大学の院生が書いた論文を丸写しにして別の雑誌に投稿し、受 理されて、出版された。就職するためにある別の大学に申請を出したところ、internetでその大学が申請者の書いた論文を調べたら同じものが二つでき てきたので、ばれたという。
もとの論文のクスリの名前を別のものにした以外はもとの論文の殆どを使って、デ−タを改ざんした全くのねつ造論文らしい。
分からないのは、論文を投稿したときに教授が知らなかったのだろうか。教室の長が関与しない論文なんてあり得ないことだから、教授が知らなかったと言うことは、考えられない。
教授が見ていて、ねつ造に気付かなかった?日常自分の研究室の研究の進行具合を見ていれば論文のねつ造には気付きそうなものだと思う。
と言うことは、この学生は常日頃から教授にねつ造したデ−タを見せていたか、教授が自分の研究室の論文草稿に全く目を通さずに(つまり全く手を加えないで)投稿したか、あるいは学生が教授に知らせないで投稿したかである。
状況が分からないからどれも推測の域を出ないが、人間せっぱ詰まれば、何でもありなんだなと思わざるを得ない。心しよう。
2006年9月26日 (火) 新年度の集りと胡丹の送別会
研究室新年の集まりと、胡丹の送別会を兼ねての食事会。大学から東に1ブロックの新洪記に出掛けた。手ごろな価格で美味しいので、3階建ての店は何時でも満員である。今日は個室を予約しておいた。6時から310号室。
王Pu、関(王さんの恋人)、王麗、馬敏(王麗の夫)、王毅楠、王暁東、鄭大勇、陳陽、陽暁艶、胡丹、秦盛蛍(胡丹夫人)、山形達也、山形貞子、楊方偉、宋明の15人。Kanさんは欠席。
勧君更尽一杯酒 西去陽関無故人 を口にしながら、胡丹にビ−ルを勧めた。これはこの店の地ビ−ルで大きなデキャンタ−に入っている。
勧君更尽一杯酒 西去陽関無故人 の4聯目を変えて
勧君更尽一杯酒 東去瀋陽只有彼 にした。意味はこの瀋陽を東に去れば、知っている人は(頼りになるのは)只彼女だけである、ということになる。
胡 丹は10月3日に瀋陽を飛び立って日本に行く。彼女は一緒には行かれない。胡丹は彼女が出来るだけ早く日本に行けるようにしたいと思っているし、先方の東 大の山本先生も同じように二人が早く一緒になれるように心を砕いてくださると思うけれけれど、博士課程の入試が終わるまでは無理だろう。というわけで、胡 丹が留学で去ったあと半年近く彼女をうちの研究室で預かることにしよう。
彼女はこの夏、教師の会の仲間の池本千恵先生から毎週2回の日本 語の個人教授を受けた。忙しい池本先生にしては特例なことで、しかも授業料は若い収入のない二人の状況を考えて破格なものだった。そのお金で日本語の勉強 の本を買いなさい、と言われたそうだ。池本先生、ありがとう。
この日の食事は12皿、餃子4皿、飲み物5杯(190元)を入れて、608元。
なお、あとで分かったことだがKanさんは胡丹の送別会を知らなかったそうだ。日曜日から研究室の掲示板に書いて置いたし、知らなかったとは思わなかった。学生の間のコミュニケ−ションの悪さを知らされてショックである。
6月にJBCに送って断られた胡丹の論文の最終仕上げに一日中取り掛かっていた。あと実験がひとつ終わっていない。現在これは王麗が引き受けている。胡丹が出掛けるまでには論文を投稿することは出来ないが、形は出来たことになる。
このあとは大勇の論文を仕上げよう。apaoptosisを証明する実験が残っているだけだ。
2006年9月28日 (木) ティ−テルアルバイト
薬科大学の先生から聞いた話だが、ある日本人が彼のところに話を持ってきたという、「博士を取りたい人がいるので、その人の名前を一番最初にした論文を書いてくれないか」。
こ の先生は毎年20報くらいの論文を書いているという日本でも信じられないくらい活動的な先生である。きっとこんなに沢山の論文を出しているのだから、ひと つくらい論文のトップに名前を入れることくらいやって出来るだろうというので目をつけられたのだろう。「この話は取引である。論文に名前を入れてくれたら 300万円だそう。そして毎年百万ずつだそう。」と言う提案だったそうだ。
研究費がないのはこの先生も私と同じで、研究費の工面には大変 苦労している。研究費は幾らでも欲しい。しかし、ここの学生に研究すると言うことはどういうことであるかを身を張って教えているのに、「お前の論文をほか の人の名前で発表する」なんて言えるわけ無いじゃないかと言って、断ったという。昔ドイツで論文作成を代行して博士が取れるという話があったが、それと同 じである。
先週、生命科学基地クラスの4年生の徐蘇さんが大学院で私たちの研究室の修士に来たいといってきてOKした。今週は、曹亭(女 偏)さんが同じく修士を希望してきた。彼等は選抜試験なしで2年間の修士課程にはいることが出来る。他の人は3年間だけれど最初の1年は講義に明け暮れ る。基地クラスにはこれがない。卒業研究をしないのが問題だけれど、2009年夏に卒業というはこちらの予定とぴったりなので、歓迎である。
二人とも女子学生で、妻は男子の方が良いのに、と言う。男女で差別しちゃいけないんじゃないと私。しかし、妻に言わせると私は女子学生にはたちまちニコニコして歓迎してしまうと言う。ヤレヤレ。
2006年10月3日 (火) 胡丹の留学
朝早くラボには胡丹が来た。今日の全日空の飛行機で成田に向かう。東大の柏キャンパスにある創成科学研究科の山本一夫先生の研究室で博士課程に入る予定である。
山 本先生のご尽力で日本政府の奨学生となることが出来たので、日本の学業生活は安泰に保証されている。日本政府の奨学生ははじめの半年は研究生として過ごし 博士課程の入学試験を受けなくてはならない。これにパスしなければ博士課程には入れず奨学金も取り消されてしまう。彼は薬科大学の成績も良いし、英語も出 来るし、そして何よりも修士課程の時にそれなりの業績を挙げている(論文2報、投稿中1報)ので大丈夫だと確信している。
勿論それでも胡丹にしてみれば遠い異国の地に向かうわけで、この数日は緊張で何をしても上の空だった。9月28日の木曜日には研究室のプログレスリポ−トで最後の仕事のまとめを話したが、いつもの迫力がなかった。もう関心がないといってもいいのかも知れない。
明日からは、胡丹の奥さんである秦さんは一人瀋陽に残されてしまう。それで、私たちのラボで彼女の面倒を見る約束になっているので、胡丹の持っている研究室の鍵は彼女に渡すように言ってある。
し かし、忘れっぽい胡丹のことだ。聞くと鍵はズボンにキイチェインで付けている。今日空港に一緒に彼女と行っても別れ際に鍵を渡すのを忘れてしまうに違いな い。今置いて行きなさいよ、と言って鍵を受け取って、彼を送り出した。この次胡丹に会うのは日本でだろう。楽しみである。
ところで、10月1日の日曜日から中国は国慶節の1週間の休暇である。時期は良く、暑くも寒くもない。国中挙げて旅行シ−ズンである。大学の日本語の先生たちも皆それぞれに旅行である。私たちは何時も通り仕事で研究室に来ている。
こ の休暇に故郷に帰ったのは院生のうち二人だけである。昨日は昼時にラボにいた学生3人を連れて大学の招待所に出掛けた。ここは特に美味しいレストランでは ないが、大学の学生食堂よりはずっとましな味である。しかも高くない。5人で食べて何とたった40元だった。余り沢山食べ過ぎて午後は半分居眠り。ホント は休暇だからと心で言い訳をしていたけれど、こんな具合では、何もしないでこの1週間が過ぎてしまいそうである。
2006年10月6日 (金) 中秋節
1日から始まった休暇の間私たちは毎日ラボに来て、何をすると言うこともなく時間だけが経って中秋節の6日 となった。この日は伝統的に家族が全部集まって誰も欠けていないという意味でそれを丸い満月を重ねて祝いをする日である。国慶節の休暇と重なるから中国中 で家族の元に集まる人たちが合計で4億人旅行したという。
その休暇の間に、うちが遠くても帰った人もいるけれど、遠くて帰れずに宿舎にい て毎日ラボに来ている「家なき子」が私たちのラボに数人いる。ここに残っていても恋人とデ−トしたり食事をしたりして楽しんでいる学生もいるので、恋人の いない「恋なき子」と「家なき子」を4人誘って、この日は食事に出掛けた。
この秋修士に入った陳陽、陽暁艶、修士2年になった王毅楠、そ して胡丹の新妻の秦さんの4人が、上記の「恋なき子」と「家なき子」に該当する。胡丹は10月3日に博士課程入学のために東京に向けて旅立ってしまって、 ひとり残されたのは新婚早々の秦さんである。この秦さんのことはこれから半年間は私たちの研究室で面倒を見ることにしているので、翌日から私たちのラボに 来たけれど、何かをするに付け胡丹を思い出すらしく、翌日は殆ど半泣き状態だった。一方で東京に行った胡丹は好奇心に充ち満ちて、かつ極楽トンボぶりを発 揮して新妻のことなど忘れてはしゃいでいるに違いないけれど。
大学正門から東に行って直ぐのレストラン老婆湯の食卓は丸テ−ブルなので、 この日にふさわしい。疑似家族が集まってひとつの火鍋(しゃぶしゃぶ)を一緒につついて、和気藹々と楽しんだことになる。日本語の分からない学生が二人、 分かる学生が二人(陳陽と王毅楠)。それで、日本語、英語、中国語チャンポンに飛び交った。
恥ずかしい話だが、私の中国語はもう絶望的である。今日この頃では、おぼえる端から忘れてしまう。昨日は王麗に「先生の中国語は皆3声だよ」と言われてしまった。「月餅を一緒に食べましょう」と一生懸命誘っているのに。それで、益々落ち込むという次第。
2006年10月8日 (日) SiRNAとPCRのprimerの設計
8日の日曜日はまだ国慶節休暇の続きだが、陽暁艶がコンピュ−タを使って遺伝子のSiRNAを設計するには どうしたらよいかを教えて欲しいというので、ラボに出掛けた。今まで研究室の人たちに私はやり方を何時でも教えると言っていたけれど、実際に教わりたいと 言ってきたのは彼女が最初である。ここではSiRNAの配列を決めたり、PCRの時のprimer配列を選ぶのは全部私の仕事となっている。
先 ず目的のタンパク質と遺伝子を調べて、それが単一タンパク質なのか、あるいはサブユニット(別の遺伝子から作られる)から出来ているのかを知らなくてはい けない。遺伝子の配列も、主として使うのはNCBIデ−タベ−スだが、ここの配列が正しいという保証もないので別のデ−タベ−スEnsemblも使う。両 者の一致した配列を使うと言うことになる。
両方でmRNA(cDNA)の配列を調べて、これらをBlastのtoolで一致しているかどうかを調べる。両者で一致している配列なら信頼して良いだろう。
mRNA はintron部分が除かれてexonが繋がっているが、別の exonを繋いで構造の違ったmRNAが出来る機構がある。alternative splicingと呼ばれるこの機構で同一の遺伝子から数多くのタンパク質が作られる。と言うことは、alternative splicingでcDNA のvariantsが出来ていると言う記載があるかどうかを注意深く確認しなくてはならない。
そのためにはUniProtと言うタンパク質デ−タベ−ス盛りようする。同時に、タンパク質の性質が詳しく記載されていて大いに役立つ。
Variantsがあるときにはvariants全部で共通の配列を選んで、全てが一度に検出できるようにするか、あるいは別々に調べたければ互いに入りこまないような配列のprimerを設計する。
Ensembl が役立つのは、exonとintron配列が載っていることである。Primerを選ぶとき、left primerとright primerは別々のexonに乗っていて間にintronをはさむ必要がある。これは試料にDNAが混入しているときに、混入DNAから増幅している場 合には、mNRA由来のcDNAから増幅した場合に比べてずっと大きなDNAが出来るから、調べたいmRNAから増幅したかどうかが直ぐに分かるからであ る。
さらに、SiRNAのタ-ゲット配列がこのleft primerとright primerの間に入っている必要がある。そうでないと、SiRNAが効いて発現を抑えたかどうかが分からない。
と 言うようにあちこちをあたりながら調べるので、primerを設計したりSiRNAの配列を選んだりするのに2-3時間掛かるのは普通である。ここは internetの接続が遅いから半日かかって一つがやっと言うときもある。今日はPDGFbを対象に調べて3時間で終わった。暁艶の宿題は、このさき PDGFaを自分で調べてみて、習ったやりかたを確実に覚えることである。だから自分でやった上でそれを今度は陳陽に教えるように言っておいた。
2006年10月10日 (火) ラボの停電・実習・寧娜さん
9日の月曜日は、朝6時から夜の7時まで停電と予告されていた。大学のほか直ぐ隣りにあるのでうちのアパ− トも停電の対象に含まれている。1週間の休暇中怠け癖が付いて朝起きるのが遅くなっていたのを頑張って朝の5時半に起きた。シャワ−を浴びて支度したとこ ろで6時。「まだ消えないね。まだ工事の人が揃っていないのかも。みんな集まるときはいい加減なんだから」などと妻と話していたら明かりが消えた。言わな きゃ良かったとぼやきながら時計を見ると、6時3分過ぎだった。こう言うところは時間が正確である。
停電の困るのは同時に断水になることである。断水になるとトイレが使えなくなる。トイレの使えない建物にいたら悲惨である。それで、私たちは教師の会の日本語資料室のある開元ビルに行くつもりでいた。7月の停電の時にも、開元ビルに一日避難していたのだった。
こ の日は朝が早いのでうちにぐずぐずしていたら、何とまだ水が出る。水が出るならうちにいるよりもラボにいる方が何か仕事になる。と言うので、二人でラボに 出掛けた、5階までエレベ−タなしで階段をのぼる。でも、実は毎日私は階段を上がって運動しているのだ。そして誰もいない5階で教授室にたどり着いて窓の スクリ−ンをあげたら、結構明るい、そしてとても静かな快適な環境となって、半分昼寝をしながら月曜日を過ごしたのだった。
10日の火曜日。土曜日に休暇から戻ってきた王PUくんが私に「関さんと結婚しました」と言うので、私は大いにびっくりした。あとで同じく休暇の間休んでいた鄭大勇くんに「休みの間に、結婚した?」と訊いておどけて見せたくらいである。
な るほど、彼は休暇を取りたかったわけだ。と言うので、昨日買っておいた紅い(紅包と呼ばれている)封筒に千元を包んで結婚のお祝いに上げた。いえいえ、と 遠慮して手を出さないので、本当に結婚したの?と疑うように言ってひっこめる仕草をしたら、彼も慌てて手を出したのでめでたく手渡した次第である。
生 命科学基地クラスの女子学生が今日から2週間研究室実習だという。そんなこと言ったって2週間で何も出来るものではない。2週間彼等に恰好よく奉仕するの は犠牲が大きすぎる、と言うので、朝王麗に電話して、2週間のあいだ彼女の実験を見せて説明し、そして実際に細胞培養とRNAの抽出、そのPCRをやらせ られないだろうかと頼んだ。この二人の女子学生、徐蘇さんと曹亭(女偏)さんの二人は来年5月にはこの研究室の修士課程にはいるので、2週間の間の見学と いえどもちゃんとした実験の手技の基本を身につけさせたい。それには王麗から教わるのが一番である。彼女は器用で、気がよいのでつい私たちは彼女に色々と 頼み事をしてしまうが、王麗は本当に頼みになる。
彼女たちが実習に来るというのは土曜日の夕方、陽暁艶とまだ研究室で仕事をしている時 に、徐さんが訪ねてきて知った次第である。どうしようかと思い悩んで、そうだ、王麗に頼もうと言うことにしたのだ。それでも、急に話を聞かされた王麗には 悪いので、朝一番には彼女たちの面倒を私が見た。つまりPCで遺伝子情報を検索して、それに基づいてどうやってSiRNAやPCRのprimerを設計す るかを私が教えた。土曜日に暁艶に教えていたので、楽に教えることが出来たのである。
1時半には寧娜さんが来た。彼女は成績優秀で推薦さ れて北京の中国医科科学院薬物研究所の大学院に入ることが決まり、3月からの卒業研究もそこに行くので、それまで分子生物学の勉強をしたいので私たちの研 究室で実験を指導して欲しいというのである。ちなみに胡丹は推薦入学者である。
普通ならすぐに断るところだが、彼女はここの日本語の峰村 先生の愛弟子であり、私とも顔見知りである。おまけに4月の弁論大会で彼女はとても優れた印象を残した。そして決定的なのは、彼女が行く先の研究所の陳乃 宏老師は、かつて三菱生命科学研究所の東秀好さんのところのポスドクで、私と顔見知りである。東さんは私が研究所をやめるまでは私の研究室の研究員だった ので、陳乃宏老師とは浅からぬ縁がある。これは断るわけにはいかない。無理でも何とかしよう。と言ってもあと2週間は二人の女子学生の実習があるので、私 たちの研究室はスペ−スからいっても無理である。ちょっと待って貰おう。
2006年10月13日 (金) 楊方偉のお手柄
10月11日水曜日
水曜日6時半からの研究室Progress Reportの出席者は:Kan、曹、陽方偉、暁東、秦盛宝、徐蘇、陳陽、王毅楠、王麗、暁艶、王Pu、鄭大勇、山形貞子、山形達也。
10 月中に王麗の博士課程の学生の中間審査会があるという突然の連絡通知が王麗宛にあったそうだ。昨年は8月に知らされて9月にあったのが、今年は一体あるの かな、そういえば、修士課程の中間審査は昨年胡丹の時には(学科始まって以来始めて)4月に行われたが、今年はなかった。
王麗は書類を作 成しなくてはならず。聞かれて何でも良いと返事をしておいた、タイトルは実際の時は変わっても良いから今は何でもいい。内容は、今得られていることを書い ておけばよい。但し、全て盛りだくさんに話をしないように、注意をしておいた。そんなことをしたら誰も分からないからである。
10月12日木曜日
貞子が日本に出掛けた。健康のcheckをしていてその結果を聴くためである。予定としては10月24日火曜日にもどるつもり。
暁 艶の実験で、友人から分けて貰ったoHAという物質が細胞のapoptosisを引き起こした。勿論現段階ではapoptosisかどうかは分からない が、この細胞を血清入りで飼うときには何の効果もなく、無血清培地にしたときに濃度依存的に細胞が死んだので、これは何かあるということになる。暁艶は、 始めたばかりでこのような現象にぶつかり、大変なlucky girlだ。
10月13日
貴志先生の明日ある講義のためのpptが講義室のPCで見られないという事態に、私たち総動員でお付き合いさせられてしまった。Macで作成したときに写真をQuick timeで入れてあり、PCがこれでは動かないのだ。PCにQuick timeを入れてもだめ。
そ れでPPTの中の写真を一度取り出してjpegに替えようとしたが、時間が掛かって大変。同じものがスライドで出来て持っているというので、駄目ならスラ イドプロジェクタでやればいいということになっていた。すると楊方偉が、写真のformat転換がそんなに大変なら、スライドプロジェクタで壁に映してデ ジカメで写してそれを改めて取り込んだら速いのではないかと言いだした。確かに早いけれど写真の質が落ちるに違いないと言ってみたけれど、ともかく確実に 作れる方法である。Format転換は時間が掛かってやりきれない。それで、暗室にスライドを持ち込んでデジカメでぱちぱち。何とこの方法でpptを作り 直すことが出来たのだ。楊方偉のお手柄である。
楊方偉といえば、彼はもうセミナを1ヶ月聞いていると言い出したので、分からないからやめ たいと言うの かと思ったら、自分も入れて欲しい、自分も話したいと言うのです。びっくり 仰天。初めての申し出だ。2年前にNick TanにもあきにJournalを紹介させたが自分からやりたいと言い出したのではなかった。凄い男だ。
2006年10月15日 (日) レ−スのパンティ
10月14日土曜日
Journal Clubは、山形と王毅楠。私が紹介用に選んだPallerの今年のJ.Investigative Dermatologyに載った論文は、ここにいる人なら誰でも直ぐ理解できる内容で、しかもtechniques とtechnical termsは今の新人が皆馴染みにならなくてはならないものなので、今の時期にやって良かったと思う。王毅楠はCaveolin-1のalphaと betaをRPAで検出して、それぞれにmRNAがあることを示した論文。
セミナの終わったあと、前の国際交流所長である李募春の姪ごさ んの李翠芳さんが来た。彼女は成績優秀で推薦で崔先生の研究室に入ったそうだが、生物薬学も勉強したいので、ここの土曜日のセミナに出席したいと言うこと だ。方偉から色々の情報を得ているみたい。頑張ってやる気ならいらっしゃいという返事になった。
寧娜さん(彼女も推薦)も10月から2月までここに出入りしたいと言っているので人数が急に増えることになった。ま、役立つならいいことだ。
貴志老師が来て今日の4時間の講義はうまく行ったと言うことだった。18人出ていたそうなので、結構評判がいいということだ。それにしても何しろ昨日は準備で大騒ぎだったので、まあ良かった。
朝、陳陽に彼等は夕食を貴志老師にご馳走になったということで良かったと思っていた。彼等を食事に連れて行くための算段を貴志老師に話さなくてはと思っていたが、彼等はいつの間にか消えてしまっていたのだった。
今日貴志老師に聞くと、学生食堂に連れて行って彼等の夕食を払ったと言うことだ。何だ、学生食堂でご馳走しただけか。学生に夕食をご馳走してくださってとお礼を言って損しちゃった。ま、関西人と東京人の違いかも知れない。
午後は日本人教師会の定例会に参加。
10月15日日曜日
朝 7時からいつものようにラボにきた。8時頃貴志先生が方偉の連絡したけれど電話が通じないという。講義にいる試料を彼に運ばせたいのだという。調べてみ て、彼は瀋陽に自宅に何時のを見付けて、来て貰った。それにしても貴志老師は人使いが荒い。方偉は自分で北大に留学したいと直接に連絡をして、途中、貴志 老師に少し助けて貰ったのだが、それ以来、老師は自分の昔からの忠実な弟子扱いでこき使っているのだ。
教師会の日本語クラブという雑誌の24号が今日締め切りである。来月の定例会の時の発行されるから、この時期に締め切りがある。中道編集長を継いで、今は加藤編集長が鬼の二代目編集長だ。というわけで、今日原稿を書いている。題してレ−スのパンティ。
昼 は陳陽、陽暁艶と一緒にテレビ局の先にある(バスで一駅先)蘇氏拉麺に行った。涙が出るほど美味しかった。3人前でシシカバブ、大餅も入れて24元。それ にしても私の食べる速度に比べて彼等学生の何と遅いこと。あれではきっとまずくなってしまうと思うけれど、それでも暁艶は故郷の味だといって嬉しそうに食 べている。
2006年10月18日 (水) 貴志豊和老師
貴志先生は最初に瀋陽薬科大学を訪れたのが1980年というから、もう伝説上の人物だ。武田薬品の研究所長 を退職してからは、毎年秋には薬科大学を訪れて約2ヶ月滞在して、学部学生には『有機化合物命名法』とか『薬学分子生物学日中英用語解説』などの基礎的に 大事な授業をして、それ以外に毎年新しい話題を用意して大学院向けの講演をしておられる。一昨年は『腫瘍』、昨年は『AIDS』、今年は『心臓疾患と治療 法』だった。
貴志先生は敬虔なクリスチャンで日本の長老教会の文字通り長老だそうだ。クリスチャンのくせに魚釣りという殺生が趣味で、そ のことをからかうと、キリスト教は漁師で始まったのだという。キリスト教では自分たちの教徒以外は人ではないし、まして魚などの殺生は気になることでもな いのだろう。
貴志先生の魚釣りは、海釣り、池釣りを問わず大好きで、ここに滞在中も始終授業の合間に釣り堀に行ったり、大連の海釣りに出 掛ける。昨日も釣り堀で5.5kgの釣果があったそうで、それを今日はこの大学の日本人の先生たちにご馳走するという。どういうことかというと、大学の招 待所の食堂にその魚を持っていって料理を頼み、他にも料理を頼んで一緒に食べようという仕掛けだ。今日の昼にその食事会をするというので、他のメニュ−を 選びに朝電話で呼ばれて出掛けた。私一人ではメニュ−選びが心許ないので、丁度8時前に現れた暁艶を連れて一緒に行った。
私はここに来て 東北地方名物のすいとん料理が気に入ったが、その名前がちっとも暁艶に通じない。顔のニキビのことだと言っても分かって貰えない。すいとんが細かくて人の ニキビみたいな大きさだからか、ニキビ湯という名前が付いている。中国語でニキビと言って貰っても、私の聞き覚えでうろ覚えの名前はない。彼女が東北と遠 く離れた新疆の出身だからだろうか。
メニュ−を見ると、三鮮ガ−ダ−湯というのが見つかった。そうだ、これだ。というと、暁艶もああガ− ダ−という。これはこの東北地方の家庭料理で、ス−プに小麦粉を溶いたものを入れていくところはすいとんだが、恐らく少しずつ、大きな塊にならないように 丁寧に入れていくのだろう。うちの父さんがこれを作ります、と何時か一緒に食事をした学生が言っていたっけ。
あとで訊いたら、ニキビは青春豆というそうだ。ガ−ダ−というのはかなり特殊な言い方らしい。さ、今日の昼は、魚3皿と、他の肉や野菜の7皿の他に、主食のニキビのすいとんが待っている。
2006年10月18日 (水) 陳陽のリンゴ
18日の昼は、貴志先生のつり上げた魚料理がメインで、集まった日本語教師の面々は驚いたことに今日はビ− ルなしの昼食である。へえ、ビ−ルなしでも食事が出来るんだと新しい発見をしたくらい、何時もこの先生たちは飲んでいる。といっても、瀋陽産の普通の雪花 ビ−ルはアルコ−ル度4%だから、水みたいなものだし、水よりも安いとも云える。
3kgある草魚は、四川省名物の水煮魚で調理されてい た。水煮という名前だけれど、使うのは水ではなく油である。洗面器の大きさの洗面気風うつわに真っ赤な唐辛子と切り身にした魚の肉が油の中に入っている。 といって、油で揚げた風でもない。一度蒸してから油の中に入れるのだろうか。唐辛子は水よりも油でその辛みが抽出されるから、理に適っている。従業員が 持ってきて中身を見せると、その後横の机においてこの唐辛子を先にすくい取ってくれる。大きな更に山盛りの唐辛子で、日本で買ったら高いだろうなとつい 思ってしまうくらいの量だ。いつもの水煮魚と違って、魚が大きくしかも全部入っていたのか、今日のは豪華版だった。下の方にもやしが入っているのが普通だ けれど、そしてそのもやしが美味しくて私の大好物なのだが、あまりに沢山の魚に邪魔(?)されて、今日はもやしまで行き着かなかった。
松 笠魚と呼ばれている魚は、魚の身を巧みに切ってあとで毟りやすくした上で油で揚げ、甘いトマト味で絡めてある。川魚なのに骨が巧みに除いてあって、邪魔に ならず食べやすく、しかも何よりも味が良くて最高だった。もう一匹の魚は清蒸紅醤風に料理してあった。蒸して醤油味の汁に入っている。ちょっと泥臭くっ て、これはショウガをもっときかせて作った方が良かっただろう。
このほかの料理7点、先ず安くて美味しくて取り合わせが良いという観点か ら暁艶の助けを借りて私が選んだのだが、結構評判が良かった。貴志先生がこのレストランに魚の料理代として払ったお金(と、魚の釣り堀に払った分)は除い て、74元、貴志老師とその学生別にして一人10元ずつ集めた。美味しかった昼食で、午後はひたすら眠く、睡魔と戦いならが大勇の論文を書いていた。
夜は研究室のプログレスなので何時もはたいていここで軽く夕食を食べる。しかし夕方になっても未だお腹が空かないので、食堂煮出掛ける暁艶にりんごを買ってきてと頼んだ。彼女は3つ買っててきてくれた。
一つを洗って皮をむいていると、陳楊が部屋に入ってきて、『先生、おいしそう。半分分けてください。』という。私は晩ご飯のつもりだったので1個を食べるつもりだ。『冷蔵庫に入っているから出しなさいよ。一つあげるから。』
ハイと言った陳陽はりんごを洗ってからまた私のところに来て、先生、これ剥いてという。こっちは自分のを剥いている最中だ。『あとでナイフを貸すから、自分で剥きなさい。』『イエ、駄目です、剥けません。剥いてください。』冗談じゃない。
駄目、だめ、ダメ!!!
とうとう仕方なく。陳陽は自分でりんごを剥き始めた。一度もりんごを剥いたことのない男である。左手でりんごを握って、右手のナイフで皮を削いでいる。ゴボウを削ぐみたいなやり方である。危なくて、見ていられない、でも、この際やらせなくてはいけない。
やっと剥いたらりんごを陳陽は半分にして『先生、もっと食べない?ぼくは半分でいいんです。』『???』『食事をしてきたし、これデザ−トです。』『???』
というわけで彼の半分を貰って食べ始めたら、陳陽は、『それ、置いとかなくっちゃ。私が初めて剥いたりんごです。食べてしまうと証拠が残らない。。。』
2006年10月19日 (木) The Longenst Day
10月10日火曜日から、生物科学基地クラスの女子学生二人を私たちの研究室で、実習と言うことで受け入れ ている。彼女たち大学院入試がなく6年間の一貫教育で修士卒業までが一セットになっている。もうひとつある理科基地クラスは8年の一貫教育で、これは博士 卒までが一セットになっている。入試がないだけに中での選別がきびしく、でるときには半分近くに減っているという。
彼らの教育の中で、2週間の研究室実習があるというのも一つの売りであるらしいが、此方の方はそんなことを聞いたことも通知されたこともない。
ともかく、彼らは先週から2週間の実習と言うことで来ている。歩日の月曜日はこの建物が一日停電だったから、貴重な一日がフイになっている。2週間という短い期間で実験を教えることは出来ないから、誰かの傍で付いてみていることになる。この誰かを王麗に頼んだ。
今 週の火曜日、17日になって、大学から『学生を送るからよろしく頼む。このプログラムの内容はこれこれ、こうこう。19日には報告書を書かせてそれに評価 を書き入れて出しなさい』という書類が来た。書類の日付は10月9日になっている。何と8日経って、もう役に立たない頃、しかし間に合って届いたわけだ。 ま、あと3日あるから、学生をきちんと見て評価に何と書くか考えればよい。
水曜日18日の夜、研究室のセミナが終わった夜8時になって、この学生二人が私に話があるという。訊くと、何をいっているのかよく訳が分からない、急に試験をするのだって?
落ち着かせて、というか此方が落ち着いて再度訊くと、何と翌日の19日にこの二人に面接試験をしろと言うことなのだ。この二人は修士課程で私の部屋に来ることを希望している。基地クラスだから試験はないということだった。此方が良いと言えばそれでいいという話だった。
と ころが、公式の試験をするのだという。話では面接に立ち会うのは教授3名。貞子が今日本に行っているから他に二人の教授を至急捜さなくてはならない。しか も今日の明日である。大学がこの試験の詳細を書いた書類を見せて貰った。発行の日付は10月18日だ。今日だ。そして、その中に明日試験をしろと書いてあ る。なんということだ。一緒に、二人分の解答用紙もすでに届いている。つまり、この先この解答用紙は保存すると言うことだ。真面目な試験なのだ。
試験は、先ず1.彼らが明快に漢文を読み話すことが出来るか。
2.専門知識を面接で訊け。一人20分。配点40
3.専門英語。500語くらいの英文の翻訳(中文への)と、そのabstract作成。配点40
4.実験操作について英語で口頭試問。実験操作が5点、口語英語が5点で、配点20
以上、100点満点のうち60点以上が合格で大学院に進学出来ると書いてある。学生もびっくりだが、此方もびっくり。19日は忙しい日になる。
前 から世話になっている生化学教室の老張景海教授(区別するために私は老張老師と呼んでいる)のところの小張老師は、この大学で修士課程を終えて、韓国に 行って2年間博士課程で虫の免疫を研究し、ここに戻ってから今年博士を取った。そして直ぐに助教授になった。だから彼女には資格がある。生化学教室の老張 老師のところでも志望者2名の試験をしなくてはいけない。小張老師と話したところ、こういうことが分かったので、じゃ、一緒にやろうということになった。 此方の試験官は老張老師、小張老師と私の3名。そして志望者は4名である。英語の問題は小張が作ってくれることになった。此方は面接で聞くもことを考えて おけばいい。
このようなことを水曜日夜から、木曜日の午前中まで、電話で、そして実際に会って綿密に打ち合わせた。
木曜 日2時には私の教授室で試験ということで、私たちのほかに、4人の学生が集まった。面接口頭試問と、英語の中訳だが、時間の節約のために英語の中訳を出し ておいて、学生を順番に面接しようということになった。うちの学生は私が英語で、そして老張老師の学生は彼が中国語で面接するということにしていた。
(続く)
2006年10月19日 (木) その二 The Longenst Day
面接の最初の学生がうちの徐さんだったので、私が英語で審査を始めるという運びとなった。
今年のノ−ベル医学部門受賞者は誰だか知っている?どんな内容だった?
RNAi(RNA interferrence)だったけれど、誰が受賞したか覚えていない。という答え。
いいよ受賞者の名前は。じゃ内容は? う−ん、mRNAの制御だけれど、といって徐さんは説明を始めたが、それはRNAiではなかった。うちの研究室ではsiRNAを日常的に使っているから、彼女が来て以来二回あった水曜日のセミナで当然耳にしているはずなのだが。
ま、いい。それじゃそうやって出来てくるタンパク質を見付けたり、量が多いか少ないかをしらべるにはどうするの?
RT-PCRでmRNAの量が分かりますし、タンパク質はWestern blottingで調べます。いいね、じゃ、Western blottingとはどういう内容なのか説明しなさいな。
というので、彼女はやったこともないことを一生懸命説明した。言葉につまるので始終此方は助け船を出して、言いたいことを言わせた。電気泳動をして、膜に移して、それをblockしてから一次抗体、二次抗体で反応させます。反応したことをどうやって検出する?
こ このあたりはかなり専門的になってくる。やったことのもないので、細かな内容を知らない。二次抗体にその存在を微量でも検出できる増幅装置が付いているの だ。それよりも、どうして一次抗体にこの装置を付けずに、二次抗体まで反応させるのかを答えさせたかった。これは知識と言うより考える力である。聞けば直 ぐに暗記してしうだろうけれど、こういう機会になぜだろうと考えて欲しい。
でも案の定、答えが出なかったので理由を教えた。何時までこういうことを覚えているだろうか?
Westernがでたので、それじゃ、Southern、Northernは?ということなる。Easternは、未だ使われていない。
このように色々のことを聞いているうちに30分が経った。
次 の隋さんは老張老師のところの学生で、彼が質問をするのかと思ったら、このまま私に続けてやれと言う、やれやれ。老張老師のところではサソリのタンパク質 で腫瘍を抑えるという仕事をしているから、じゃ、腫瘍がどうして発生するかという質問から始めよう。遺伝子の傷、変異から始まって、最後はそれを治すため の方法まで、彼女とは広い話をした。
三人目はうちの曹さん。RNAiが効いたかどうかを、試料のRNAを抽出してRT-PCRで調べるの が普通のやり方である。ここのところを質問して説明させた。primerをつかう。それじゃ、primerの大きさは?20nt。どうして20ntなの? それより短いといけないの?
短いとtarget以外のところ反応するようになります。長いと?長くても精度が下がります。いえ、違うよ、 それは。長い方が良いけれど、経済的な問題だし、必要ではないからさ。という具合に始まって、RT-PCRの操作の各ステップの意味を説明するのが彼女の 試験となった。
最後の韓さんは老長老師の学生で、ある遺伝子を狙ってその発現を抑える方法について質問した。三つ挙げてくれたが、どれも 思いつきとしてはいいけれど実際には使えない方法だった。でも、質問されてともかくこうしたらと考えたのだから立派である。それぞれなぜ使えないかを説明 しながら、正しい方向を思いつくよう誘導した。そしてその間に、彼女がどのくらい理解しているか分かるような質問を挟んで、30分を過ごした。
面接の間、全ての学生が英語が聞き取れるわけでもなく、英語を使って十分に話せるわけでもないので、書記を務めている小張老師がその時には説明役を買って出た。
これで、口頭試問で2時間余を過ごした。この間学生一人あたり1時間半を掛けて英語の翻訳と要約を作った。成績は小張がつける。
このあと、うちの学生一人づつ実験操作についての口頭試問である。王麗に書記になってもらい、一人20分づつ。
最後の全部のまとめは小張老師にお願いしたが、結果は全員合格点。
ともあれ、3時間近くこちらは英語で面接官を務めたので、学生も疲れただろうけれど、此方も大いに疲れたという次第。考えようによっては此方も英語の能力が試されたわけだ。
2006年10月20日 (金) かぶりつきのど迫力
この大学の環境学科を育てるために北里大学から川西先生が徳田先生や窪田先生を率いてこの1週間来ておられ るし、貴志先生、坂本先生の滞在ももう終わりである。それでこの際、薬科大学の日本人の先生たちで一緒に集まって食事をしようと加藤先生が中心になって企 画された。しかし、彼らご一行様は大学の方の接待にでることになったし、池島先生も環境の先生たちと付き合うというので欠席。
それで夕食 会は、水曜日の貴志先生の魚を囲む会と変わらない顔触れだった。貴志、坂本、南本、みどり夫人、加藤、文子夫人、峰村、尚代夫人、そして私の9人。場所は 近くに出来たイスラム教のレストラン。例によってメニュ−選びをやることになって、その間に皆はさっさと飲み始めて、面倒くさくて端から沢山注文して、そ れでも結構美味しかった。一人42元。
お互い気心のよく知れた仲間なので話は弾んで、8時過ぎ、用事がある貴志先生の退席を機にお開きと なったが、南本先生が薬学部の日本語を学んでいる学生が1年生から3年生まで集まって、今夜は学生食堂の5階で歌と踊りの会を開いているという。遅いけれ どこれから行くけれど一緒にどうですか、と誘われて、一緒について行った。他に加藤先生夫妻も一緒。
食堂を半分片付けて広くしてホ−ルに してその周りを学生の椅子が沢山囲んでいる。上ではミラ−ボ−ルが周り、ストロボが発光していいム−ドである。そして180人という人数は結構圧巻であ る。これだけの学生がここで日本語勉強中で、南本、加藤、峰村先生峰村先生たちの学生なのだ。
私たちが学生の拍手で熱烈歓迎されたあと、 合唱があった。日本語の歌だ。ポップ調である。次いで女子学生6人による踊りがあった。ハンガリ−ラプソディからとったメロディに乗って強烈に踊りまく る。迫力満点。なにしろ二十歳くらいの充実した身体だ。まるでプロのようだ。私たちはホ−ルの一番前の席を譲って貰ったので、ほんと、かぶりつきで、ど迫 力。慌ててカメラを取り出して撮りだした。
こんな凄いのを見せて貰うだけで終わってはいけない。こちらも応えなくっちゃ。と言うので南本 先生に、答礼に『君といつまでも』を加藤さんにやって貰おう、と言っているうちに次の合唱の演し物が終わって、三人の司会が終わりだというので、慌ててこ れから先生たちが歌うから、と伝えて貰った。
そして私たち5人が加山雄三の『君といつまでも』を皆の前で歌ったのだ。最初に、私は山大爺ですと言って自己紹介した。
この歌の中の、ぼかあしあわせだなあ、と言うところは加藤夫妻と、次いで南本夫妻がやった。加藤さんは悪のりして、ぼくはふしあわせだなあ、君といると自由がないんだ、と付け加えて、学生の拍手を貰っていた。このくらいのことはこの学生たちはいとも容易に理解できるのだ。
あとで聞いたところでは、自称音痴で学生の前で日本語の歌を歌ったことのないという加藤先生に、学生が『せんせい、歌がとってもうまくなりましたね』と言ったそうで、加藤先生ご満悦である。この演し物をやってよかった。
あ の『君といつまでも』の唄、やはり難しく途中のさがるところで音程が分からなくなってしまったけれど、それでも『ぼかあ、気持ちよく』歌ってきた。これ で、こっちは知らないけれどこれからはこの大学の180人がぼくを見ると分かるということになってしまったに違いない。アハハ。
昨日の入試の疲れが尾を引いて今日は朝から元気がなかったが、夜になって疲れが吹っ飛んだ感じである。南本先生、誘ってくださってありがとう。
2006年10月22日 (日) 手抜きと誠実さ
3年前に研究室の開設と同時に買った複写機はリコ−製で、自動給紙が付いていない、速度が遅いなど言いたいことはあるけれど、こちらの払った値段でそれなりの機能を果たしているから文句を言ってはいけないと思っている。
9 月から10月に掛けて薬科大学に集中講義に来ておられる先生たちのコピ-も引き受けることがあり、その時にはA4四枚で一元という世間並みの値段を頂いて いる。外よりも安いと、外部の人がここを利用するために殺到するかも知れないので、それを防ぐために安くしていない。頂いた金は紙代よりもずっと多いけれ ど、研究室の研究費用に還元している。
このような事情で大量にコピ−があって、トナ−がなくなってしまったので、リコ−の代理店に電話を した。リコ−の代理店は何時電話をしても、30分以内に来てくれるという中国では信じられないサ−ビスの良さである。修理・調整の時はトナ−をまき散らさ ないように十分注意しているし、態度も良い。
今回来た人はいつもの人と違う人だった。それでも、何時も通りトナ−を新しく詰めるまでは良 かったけれど、コピ−をした紙の端の方に帯状の汚れが出るので、これを直すように頼んだら、ああだ、こうだと言いながら、パネルにある数字を色々と叩い て、そしてコピ−をしている。どうだ、これでいいだろう、と言ってみせるのを見ると、確かに汚れはないが全体にト−ンが薄くなっている。濃度を下げれば汚 れが出なくなるという道理である。
これでは誤魔化しである。こんなことで、こちらは誤魔化されないぞ。
そんな姑息なことではなく、ちゃんと汚れが出ないように直せよ、と私は言う。学生が端から中国語で言ってくれる。しかし、彼の態度は変わらない。また数字をあれこれいじってコピ−するだけである。
そしてとうとう、もう三年も経っている機械だ。これこれの部品を交換しなくては良くならないという。本当かどうか怪しいものだけれど、部品の名前を聞いて、280元を払って、なお、この人の名前も聞いておいた。
彼 が帰ったあと、学生に、そういうことなら会社に訊いて部品を交換してみようかと言った。しかし、学生は、先ずはいつもの人に来て貰いましょう。今日の様子 を電話しますという。だって、同じ人が来たら困るじゃない。と言うと、聞いておいた名前を言いますから大丈夫です、という。
実際に学生は同じリコ−の代理店に電話を入れてくれて、あとで訊くと、○さん(この日来た人の名字だけ)じゃないいつもの人を寄越して下さい、と言ったそうである。
翌 朝研究室に来たのは、何時も来る人だった。20分くらい機械をチェックして、そして汚れがもう出ない状態にしてくれた。いずれ部品交換が必要になるけれ ど、まだもう少しは持つでしょうと言うことだった。そして幾ら?と訊くと、トナ−交換に伴う通常のメンテナンスです、不要です、と言うことだった。
昨日来た人は、このいつもの人の先輩社員なのだそうである。だから私たちにも態度が横柄だったのだろう。こちらの要求にもごまかしで対応するという、言ってみれば中国的なものだった。
この二日間に、同じリコ−の社員の、一人はこのようないい加減な誤魔化しと無責任さ、一方で同じ社員のもう一人はしっかりとした責任ある技術と対応を見ただけでなく、学生のじつに強かな対応を見て、いや彼ら持たしたもんだと感心した次第である。。
2006年10月30日 (月) 王麗の博士課程の中間審査会
王麗はいま博士課程の2年生である。瀋陽薬科大学の修士課程は3年間だが、博士課程に進学するときに限り修士2年を終わったところで博士課程に入れる。但し修士号は持っていないままだ。
王麗は胡丹と同級生だが、博士課程進学を選び、胡丹は修士号取得を選んで3年を終えて、修士号を持ってこの秋日本の博士課程にはいるために日本に向かった。
昨 年博士課程の2年だった王Puは9月に博士課程の中間審査があった。審査員の前で15分の報告を行い、このあと2年で卒業できるか、研究期間を延ばせば卒 業できるか、あるいは望みがないかが判断される。この中間審査は初めて行われたものだった。その4月には胡丹も修士課程2年で中間審査を受けた。この修士 課程2年の中間審査も初めての試みであった。
今年は大勇が修士課程の中間審査の予定だったけれど中間審査会がなかった。何の連絡もなかった。朝令暮改の現代版だろう。だから、博士課程の中間審査も新年度になっても全く連絡がなかったので、去年あっただけでなくなったのだろうか、と私たちは話していた。
ところが目出度くも畏くも、10月11日になって、彼女に10月中に博士の中間審査会がありますよという連絡があったそうだ。当然の話だし、結構な話だ。
昨 年で見当が付いているから、王麗は王Puに確かめて、こんな具合かなと言いつつPowerPointを使って発表の用意を始めた。発表の用意が出来て、そ して一方では審査書式が廻ってきて、色々と書き込むところがある。指導教官の私も、この研究の将来性という項目で結構な量を書かされた。王麗は本研究の背 景、やったこと、この先の見通しなど書きまくっている。
月末が近づいても何時が発表かなかなか分からない。26日(木曜日)になってやっと発表は金曜か土曜日だという。
金曜日はとうとう何の連絡もなく、土曜日になって発表は月曜日です。だけど、口頭発表が良いですか、それとも小論文が良いですか、という質問と一緒だった。
一 体何のためにPowerPointを使って発表の用意をしたんだ。口頭発表ですよ、と返事をした。すると先生は出席しますか、という質問が来た。驚いたけ れど、そうか、昨年のつもりで私は出席するのが当然と思っていたけれど、別の審査員の構成もあるのかと思って、訊いたら、審査員は私がでるつもりなら私を 入れて他に二人で、その場合には老張老師と小張老師が審査員になるでしょうということだ。生化学の最小の単位であり、よく知っている内輪の面子といって良 い。こんな面子で審査をやって良いのだろうか。
ともかく、10月30日の月曜日、会場に集まったのは発表する当人の王麗、そして私、老張と小張。
王麗にはあらかじめ言っておいたから、彼女は中国語で早口で発表している。15分。質問は老張から一つ。SiRNAでシアル酸転移酵素を抑えてGD1aが下がったのは分かるが、GM1aがどうして上がったのか、という質問だけ。
小張はせっせと書類に審査結果を書き込み、私たちがサインをして、これで審査は良いのか、彼女が来年博士課程3年をやっても大丈夫だということになったのかと訊いたら、OKという返事だった。
はたと気付いたのだが、私が小論文で良いという返事をしたら,きっとそのまま審査したことになって、そしてそれでもやはりこのような立派な書式の審査結果報告が出来たのではないだろうか。私が気付かないために、老張老師の忙しい時間を潰させてしまったのではないか?
だって、このコ−スで博士課程2年生は王麗だけではないのだ。他にももっといたはずだ。しかし審査会は王麗一人だけ。とうことは、他の人たちは書類ですませてしまったに違いない。頭が回らなくて、なんだか老張老師に悪いことをしたみたいだ。
2006年11月1日 (水) 研究のコストパ−フォマンス
科学研究には金がかかる。大昔のよき時代の大学では講座あたりの研究費が国から提供されていた。大学運営の ためにお事務経費が潤沢でなければ、この研究費から廻すしかない。私が東工大に行った頃は、この中央経費や電気代などのユ−ティリティでこの講座研究費は 消えてしまって、手元に来る金はほとんどなかった。
研究費は科研費などの競争的研究費に頼るしかない。競争的というのは、それぞれが自分 の研究の目的、意義や予想される成果を書いて申請し、誰かがそれを審査して研究費を与える制度である。研究費を審査して与える期間が多数あると、良いと認 められる研究には膨大な研究費がつくし、下手をすると全く研究費が貰えない。競争的研究資金とは良く言ったものである。他人はいつでも競争相手なのだ。限 られた資金で研究を進めるとなると、勢い研究の経済効率に目が向く。無駄を省き、同じ研究費で効率的な研究を進めようとする。良いことである。
但し良いことばかりではない。研究室のボスは何時も研究費獲得という使命を忘れることはないから、何時もストレスにさらされていることになる。私が東工大に在職中に急性膵炎になったのも、それ以外の原因は考えられない。
さて、瀋陽薬科大学に来て直面したのは研究費の問題である。大学は研究室開設に伴う初期費用をまかなうための研究費を用意してくれた。大いに助かったけれど、ミリポア純水製造装置、炭酸ガス細胞培養装置、クリ−ンベンチなど必要なものを買っているうちになくなった。
毎 年の研究費も、一つは定年を過ぎているという理由で、二つめは外国人教官という理由で中国では申請できない。唯一の方法はこの大学の教授と組んで研究費を 申請することだが、二年続けて申請が通らず、とうとう3年目からは申請に外されてしまった。とうわけで、何もないので大学は毎年5万元(今のレ−トで約 70万円)の研究費を渡してくれるが、これ以外は自分で研究費を算段するしかない。
薬科大学で貰う私の給料は、そういうわけで研究費に直 行である。さらに、私と妻の日本の年金は、中国で暮らしているので日本-中国の航空運賃を払う以外には本質的には手を付けなくて良いので、それも使う。こ の3年はそれでやってきたけれど、4年目が始まって業者に払う金が今までに比べて格段増えたので、計算してみる。この具合で研究経費が増え続けると、1年 後に私たちは破産してしまう。
というわけで、皆にコストパ−フォマンスに目覚めて貰う必要が生じた。東工大のころは院生一人一人に自分の 研究テ−マと必要経費を書かせて皆でそれを審議、討議し承認すると言うことを毎年はじめにやっていた。これは自分の研究に責任を持つという意味で必要な社 会教育である。大学院の初学年で始めても早すぎないというのが私の考えだった。
ここではそのような社会環境が整っていないので、学生には 研究計画も予算も自分でたてることはやらせていなかった。しかし、このように研究費が膨らむと、自分たちがどのくらい金を使っているか、そしてそれが有効 かを何時も考えさせなくてはならない。無意味な実験や、失敗の実験、後始末をすることなく放置してしまった実験がいかに無駄使いになっているかを認識させ よう。
ということで、11月1日の夜には皆に集まって貰って、コストパ−フォマンスを意識することの必要性を説いた。そしてそれを日常的 に感じさせるために、自分たちの実験を毎日振り返って、細胞用に10センチディッシュを何枚使ったから幾ら、培地何cc使ったから幾ら、電気泳動1枚した から1元、それを膜にブロットしたので10元、抗体染色を、しかもECLを使ったので1回30元というように、ノ−トに付けさせることにした。こうすれば 自分の実験が最終的に論文になるまでに幾ら掛かるか、そして如何に少ない費用で研究を進められるかを考えるようになるだろう。
実験を減ら せというのではなく、実験の無駄を減らすのが目的だと言って話したが、何処まで分かって貰えただろうか。実際今まで色々の実験をやりながら、まだ何の答え も道筋を見付けられない人もいる。ある試薬を細胞に与えれば、それがある反応を促進するか、抑えるか、あるいは全く関係ないかである。何度やっても、その どれであるかが分からないというのでは、幾ら研究費があっても足りるわけがない。
来週から妻が治療を受けるために日本に行って入院するこ とになっている。1-2ヶ月か、あるいは3ヶ月か、始めてみないと分からない。今の段階では少なくとも今学期一杯は休むと思われると皆に話した。誰もが深 刻な表情で聞いていたから、このようなコストパ−フォマンスを意識しなさいと言うある意味では危機感を植え付けるのは、時機に適っていると言えよう。
2006年11月6日 (月) 怒りの講義室
11月1日から地域暖房が入った。大学も、アパートも暖かい。11月初めに寒波が来て日中の最高気温は数度、最低気温は零下数度だから、朝大学に来るときの道の水たまりは凍っている。私たちは日本にいた頃の真冬の服装に身を固めている。
大 学構内の銀杏並木も殆どその黄色い葉を落とした。名前を知らないので便宜上中国ポプラと呼んでいる大木も、葉を落として、この1週間大学の緑色の制服を付 けた掃除の人たちは朝から夕方まで構内の葉の掃除に追われていた。残っているのは松の木などの常緑樹だけだから、大学構内は明るい彩りが消えて暗くなった 一方で、葉を落とした梢を延ばした木々で空が明るくなった。これから3月に再び陽光が訪れるまで、沈陽は長く厳しい冬に入る。
今日10時 になって、いつものように分子生物学の講義に図書館東側の講義室に出掛けた。講義は10時10分からである。講義棟の入り口を入って直ぐの階段の下の守衛 室で、教室の鍵を受け取ってから教室に向かうというのが段取りである。この鍵は教室の中のコンピュ−タを囲った箱の鍵である。私たちは PowerPointで作成したfileを入れたUSBひとつ持って講義に行けばよい。プロジェクタは天井に設置されている。
瀋陽薬科大 学にこの手の設備が出来たのは、東京工業大学よりも、そしてその頃講義に通っていた横浜国立大学、中央大学のどれよりも早かった。多分2-3年先行してい たと思う。大したものである。日本で使っていたOHPを、沢山のOHスライドと一緒に持ってきたけれど、一度も出番がない。
今日は守衛室 でいつもの図4と書かれた鍵を探したがない。係の人と見慣れない別の人が、図6と書いた鍵を差し出して盛んに私に何か言っている。当然がら私には何のこと か分からないので、研究室の学生に電話をした。研究室にいるはずの学生の誰にも携帯が通じない。やむなく教授室にいる妻に電話を入れた。彼女は実験室に 走っていって、学生に替わって何にを言っているのか聞いて貰った。
すると、いつもの講義室の図4の鍵がないから図6を使えということらしい。そんなことを言ったって学生は図4に集まっているはずだ。ともかく、図6の鍵を持って4階のいつもの講義室の図4に行った。係でない別の人も付いてきた。
教室に行くと当然のこと、学生はもう全部集まって私を待っている。この係でない別の人と私は話が通じないから、集まっている学生の代表と話して貰った。すると、ここの図4の鍵はここの箱の中に閉じこめられているから、鍵がないのだとこの人は言っているいう。
つまり前の授業でここを使った先生が鍵を閉じこめてしまったのだ。そして、この係でない別の人がマスタ−キイを取りに1階に降りて行った。その間私はもう話を始めていたが、やがてその係でない別の人がコンピュ−タの箱を開けてくれた。中にはその失われた鍵が入っていた。
こ んなことなら、どうして初めからここに来て箱を開けて鍵を取りだしておかないんだ。係の役目だろう、それが。ここでは先生が鍵を借りるときにノ−トの名前 を書くシステムになっているから、講義が終わって鍵を返還するとき、当然、ここの係の人は異常と原因を知っていたわけだ。
せめて、マスタ −キイを持って直ぐに最初から一緒に付いて来てくれればいいわけだ。時間を無駄に10分空費することもなかった。それなのに、何で別の部屋の鍵を寄越した んだ。実際、行きがけに見てみるとその部屋には別の学生が集まっていたし、元々の部屋には私の学生が集まっていたのだ。
全く、こんな具合にときどき理解に苦しむところである、中国と言うところは。
2006年11月11日 (土) 院生の研究派遣と秦さんのデビュ−
11月6日日曜日から、研究室の院生二人を遺伝子操作の技術を習得させるために外部の研究機関に派遣した。 私たちの研究室ではRNAを抽出して特定の遺伝子の発現を調べたり、SiRNAを使って特定の遺伝子発現を阻害したりというような分子生物学の基本的、か つ先端的な技術を使ってはいるものの、遺伝子を切ったり繋いだりというごく初歩的なことが出来ない。早い話、教授の私がそれを実際に使ったことがないか ら、教えようがないわけだ。知っているのは原理だけである。
SiRNAを使って特定の遺伝子を抑えたときの現象は、当然のこと、逆にその 特定遺伝子を強制発現させたときの現象と反対になるはずである。反対になれば、その現象がその遺伝子の所為であることが確実に云えるが、しかし実際にそれ をやるまでは、当然そうなるとは誰も断言できない。やってみるしかないのである。
SiRNAを今や日常的に使っているけれど、その裏返し の遺伝子導入の技術を手に入れる必要がある。今博士課程3年の王Puくんはとても良い仕事をしてきたけれど、それを遺伝子を強制発現の実験をすることで更 に証明したい。王Puくんがこの技術を身につければ、博士を取ってポスドクで外国に行ったときに肩身の狭い思いをしなくて済む。
折角技術 を習得してきても王Puくんはあと1年もしないで居なくなってしまうので、それでは私たちの部屋としても困る。というわけで研究室に習得してきた技術を伝 えるために修士課程2年の王毅楠くんも一緒に派遣した。彼らは約4週間の予定で研修をして、実際に強制発現用の遺伝子を発現ベクタ-に入れて持ち帰ってく る予定である。
院生8人のうち2人が今不在だし、妻も火曜日から帰国したから研究室はちょっと淋しくなった。私一人で全部を切り盛りしなくてはならないが、そう意識するだけで結構疲れるものだ。
土 曜日にセミナには、秦さんが初めてのspeakerとして登場した。彼女は修士を出ているけれど私たちの研究室の研究方向のbiotechnology、 glycobiology、tumor molecular biology、signal tranductionには、ここに来るまで触れたことはなかった。それでどのようにJournal Clubで論文紹介をするか心配だった。
今 学期の研究室のセミナには新人学生が数人参加しているので、研究の背景を十分説明しないと彼は理解できないまま取り残されてしまう。ここのところが始めて 論文紹介をする人にはなかなか分からないことで、speakerは論文を内容をまだ知らない人に分かるように説明して内容を分かって貰おうというよりも、 何とか自分が分かったことを言おうとする。
Speakerは、いってみれば講義をする立場に立たなくてはいけないのに、それを忘れて試験を受けている気分になって話をしてしまう。そうすると、初めてこの論文について話を聞く人には最初から取り残されてしまうことになる。
そ れで、秦さんの話に私は時々口を挟んで背景を話すよう促したり、実験結果の図やグラフを、どのような実験をして得たのかを詳しく説明させたり、(聴いてい る人たちにとっての)理解の助けを出した。このように私が色々言っても立ち往生をしなかったということは秦さんがきちんと勉強をしていたことを示してい る。彼女は英語をまだ話慣れていないから分かり難いけれど、決してひどいものではない。85点がつけられる。デビュ−としては上出来といえる。
早速このことを日本にいる胡丹に、mailに書いて送った。胡丹は自分の方が何かに付け彼女よりも良くできると思っているのだ。だから、今度も
「Dear 山形先生
先生のご指導の下で彼女はどんどん進歩してきたのは本当にうれしいことですね、いろいろとありがとうございました。」
という返事が直ぐに届いた。胡丹自身は「今は実験に関してはまだ正式なテーマをはじめていません。訓練の実験をしています、レクチンの抽出、分離をしています。」ということである。
2006年11月16日 (木) 怒りのセミナー
11月21日と22日の二日間、私の友人が瀋陽を訪れる。ス−パ−糖鎖の研究班を一緒に組んだ仲間だ。彼の 今いる長岡科学技術大学を志願している学生が瀋陽にいて、その面接かたがた瀋陽の我が研究室を訪ねてくれる。この機会に大学院向けのセミナをして貰いたい し、研究室では皆のそれぞれの話を聴いて色々と研究上の示唆を貰いたい。瀋陽はもう冬に入っているけれど、勿論瀋陽の名所旧跡も案内したい。様々な思いが 吹き出してくる。
私たちはここに来てもう3年経ったのだ。私は糖鎖生物学の専門家のつもりなのに、糖鎖の話をまだ大学で一度もしたことが なく、不満も溜まっている。まだここがその話の出来る状況ではないと思って、自分で遠慮していると言えるけれど。私たちの研究室の話を他の人たちとオ−プ ンに議論したこともない。同じ土俵にいる同じ力量の仲間がいない。
水曜日夜はいつものように研究室のprogress reportだった。これはそれぞれの学生に毎月1回廻ってくるもので、自分の研究の1ヶ月分の進展の話をする。こうやって別の人の研究の話を聴けば、分 からない単語も出てくるだろうし、何故そんなことをやっているのか分からないこともあるだろう。あるいは何かおかしなことをやっていると思って注意したく なるかも知れない。progress reportを聴いている人のレベルによって、ちゃんと話を訊いていれば、様々の段階の疑問、質問があるはずだ。
それなのに、大学院のシニアの一人か二人が質問したきりで、残りの10人を超える院生・学生は例によって何も言おうとしない。こんなに無反応で、話が分かったのか?と言うのが私の一番の気になるところである。
貴 重な時間を使って集まっているのだから、誰かの話をただ聞き流してしまうのは勿体ないことだ。聴いて理解して自分の研究の参考にするのでなくては全くの無 駄だ。もし人の話を聴いてちゃんと理解して筋を追って消化していれば、必ず質問・疑問の一つや二つはたちどころに出てくるはずだ。それがでないというのは 聴いていないのか。
『来週は日本から専門家の先生が来られます。セミナをして、更に私たちのprogress reportにも出て、中国の学生はどんなだろうと見るのを楽しみにしていらっしゃいます。その時、こんなシ---ンとしたセミナでは恥ずかしいですよ。 せめてその時の練習と思って、全員が質問の一つや二つをしなさい。それが出来なければ先に進まないからね。』とうとう私は英語で宣言した。
今 急にそんなことを言ったって、練習したからってセミナが急に活発になるものではない。だけど、この何時も受け身の中国人学生の態度に何時もいらいらさせら れているのだ。自主的に進んで疑問を持ち問題を解決しようという積極的な態度がなくして、どうして一流の研究者になれるだろう。私は彼らを一流の研究者に 育てたいのだ。
ともかく質問を発しなければ先に進まないと私が宣言して、皆一様にシ−ンとなり、隣同士でひそひそ話が始まった。それでも 直ぐに手を挙げたのは暁艶だった。彼女はまだ修士1年に入って研究を始めたばかりであるが、とても素直な性格である。更に分からないことは徹底的に尋ねて くる。いまも、その試薬の濃度を使って細胞はどうだったか、痛んでいなかったかを訊いている。阻害剤を使うときは細胞の状態を何時も注意深く観察していな いと、訳の分からないdataが出るだけだと教えているからである。
その後が続かない。「暁東!」と私がいう。修士の2年である。 「Tamophexinとは何ですか」という。エストロジェンリセプタの拮抗阻害剤だとspeakerの敢さんは説明したはずだ。え、化学構造を知りたい の?何処から取られたものか由来を知りたいの?一体何を知りたいのか、Kanさんは戸惑ってしまう。暁東は質問しろと言われてともかく目に付いた馴染みの ない物質が何かを口にしただけに違いない。もうちっと、身のある質問が出るようじゃなきゃ、話が分かっていることにならないぞ。
というわ けで、全員が何か言うまで質問を強制した。まだ学生の、セミナに来るようになって一ヶ月も経っていない寧娜さんは、効果のでなかった阻害剤の濃度を問題に した。この阻害剤の効果が出るかでないかで研究の方向は全く違う方に行くわけである。寧娜さんに指摘されて考えてみると、このような低い濃度で調べるだけ では足りないのではないかと思える。実際にやってみてどうなるかは分からないけれど、彼女は私たちの考えの盲点を突いたのだと思う。彼女は研究の初心者と も言えないくらい初心者である。背負うた子に教えられ、である。質問を皆に強制してよかった。
speakerは合計3人いたし、そのたびに私が大声で叱咤激励したので、終わった9時には、私は声も身体も疲れ果てていた。
2006年11月21日 (火) 古川先生のセミナ−
長岡技術科学大学の古川清先生が瀋陽の私たちを訪ねてこられた。11月21日火曜日全日空NH925便で12時40分桃仙空港に到着。私は招待所の徐さんと一緒に学長の車に乗って出迎えに行った。
空 港から予約してあるマリオットホテル(万豪酒店)まではクルマで20分くらい。この万豪酒店は五つ星ホテルで瀋陽では一番のホテルと言われている。古川先 生に頼まれて私が予約しておいたのだ。私が費用を持つのだったら二の足、三の足も踏んだに違いない高級ホテルである。チェックインした部屋は24階の Presidents floorだった。豪華だが落ち着いた作りの部屋で、眼下に2008年の北京オリンピックの時にサッカ−の会場になる五里河体育場がみえ、その先にコン河 (またの名は瀋河)が流れている。この河の北に瀋陽が作られたので瀋陽と呼ばれたわけである。
部屋には綺麗なリンゴ、バナナ、オレンジが コンポ−トに盛ってあって、あまりに見事なので本物かなと気になって触ってしまった。あとでは同じように古川先生も触ってみたのでお互い笑ってしまった。 しかし、この豪華な部屋でゆっくりとはしていられなかった。というのは大学で古川先生のセミナが3時から予定されていたのである。
古川先 生の滞在は21日午後、そして22日だったので、彼のセミナは22日水曜日の午後が良かろうと思って、あらかじめ10日前には国際交流処と研究生処に届け てあった。しかし日曜日になって、セミナの予定されている水曜日の午後は、論文ねつ造問題について学長が院生を全部集めて訓辞をする会が開かれることに なったから、午後2時の開催では時間がぶつかってしまって無理ですとうちの学生が言ってきた。じゃ4時にしようか、と一旦は時間を変えて見た。
ところが、もし学長が学内で同じ午後の4時に別の講演会が予定されているというポスタ−を見ると、自分の講演を早く終わるようにと言われたみたいで面白く思わないだろうから、その時間はやめた方がよい、と言う意見があった。そうなると、水曜日の午前中か火曜日しかない。
図 書館の5階に講演会場が二つあるが、その使用日程の調整をする係の人が日曜日に掴まらず月曜日もずっと掴まらない。中国では係は役ではなく人なのでその人 が現実的に不在だと、誰も代わりが出来ないのだ、待つしかない。と言うわけで月曜日午後3時になってやっと空いている時間は火曜日の午後3時ということが 分かって、古川先生のセミナは火曜日の3時開催に決まった。うちの学生たちはポスタ作りに励んで、月曜日の外も暗くなった5時頃、ポスタを手分けして貼り に行った。
と言うような事情で、e-mailで古川先生には直ぐに知らせたけれど、長岡市から東京に移動して飛行機に乗った古川先生には 伝わっておらず、彼は到着した空港の出迎えの時に、このあと3時からセミナですよと聞かされたのだ。「まさか。ずっと忙しくてPowerPointを作る のがやっとで、話すことは今晩ゆっくり考える時間があると思っていたのに。」とは古川先生のぼやきである。
幸いマリオットホテル(万豪酒 店)は空港から瀋陽市に入った南端にあり、薬科大学はそこから2-3kmなので、2時には大学に着くことが出来た。USBを私の部屋のPCにさし込んで動 くかどうかを確認して、ついでに一つ一つスライドを見ながら話の内容を聴いた。久し振りのサイエンスである、しかも私の領域の研究である。 internetのおかげで最新の論文には何時も目を通しているけれど、学会には3年後無沙汰しているから、このような研究を直に聞くと無性に嬉しくなっ てしまう。何度も彼の説明を遮って訊きたいことを言い続けているうちに3時15分前になった。
図書館は隣の建物だが一旦外に出ないと行けない。風が冷たい。図書館に入るとうちの学生が管理室にいて、係の人がエレベ−タの鍵を開けてくれた。つまり何時もは誰も乗れないようになっているようだ。節電対策だろうか。
5 階の講堂で開かれた古川先生のセミナ『動物細胞に於けるN-グリカンの役割』には学生が120人くらい集まった。話は糖鎖というものに馴染みのない学生た ちにその構造と意義を説くところから始まって、やがて彼らの先進的な研究の内容に入った。45分くらいの話を終えて質疑応答の時間には結構反応があって全 体が終わったのは4時を大分過ぎていた。話の最後に古川先生は自分の大学で研究をやりたいと熱望する人は歓迎するから、あとで話しに来るようにと言ったと ころ、話のあと10人位に取り囲まれていた。実際ここで全ての人と話すことは出来ないので、翌22日午後私の研究室に会いにいらっしゃいと言うことでお引 き取りを願った。
部屋に戻る道々、私は久し振りにサイエンスのいい話を聴いて満足だったし、古川先生は明日のつもりだったのにセミナが今日終わって、もう気にするものもなくほっとした表情を浮かべていた。
2006年11月22日 (水) 古川先生へのご進講
11月22日水曜日午前中古川先生は故宮見物に出掛けた。3時間程度の時間しかとれないときの瀋陽の見所と 言うと、瀋陽のど真ん中にある故宮しかない。故宮は清朝の最初の宮殿で、まだその頃は北京に明朝があった時代に、東北地方を席巻した女真族の族長ヌルハチ が構えた宮殿である。北京に明朝が作った故宮の小型版といってもいいし、小型版と言っても明朝の宮殿と違って女真族の作りの宮殿であると強調してもいい。
私 はまだ薬科大学のお客の訪問教授の時代に一度、そして昨年私の友人たちが瀋陽を訪れたときに一度故宮を訪ねている。今回は私に代わって研究室の修士1先生 の陳陽くんに案内を頼んだ。陳陽くんは背丈が190cmもある上に、ファッションの先端を行く人で髪は長髪、着ている服はそこら辺では見かけない凝ったも のなので、薬科大学では彼のことは誰でも知っている。人と同じでは嫌だ、と言う強烈な主張がある人だが、勉強はよくするし、日本語能力も高く、しかも人 懐っこい。
22日の午後は研究室で古川先生を交えての研究討論会を予定している。討論会と言っても、古川先生の今の研究は昨日公開のセミ ナで聴いているので、今度は私たちの番である。出来れば院生それぞれに話をさせて古川先生と知り合って欲しいけれど、院生8人の研究進展はバラバラだし、 時間も掛かる。それで二人を選んで話をさせた。一人は、博士課程の王Puくん、もう一人は博士課程2年の王麗である。
王Puくんは博士課 程の時から預かった学生である。そのころ生化学教室の張先生のところと共同研究を始めようかという話になった。張先生のところでは民間薬として昔から使わ れているサソリの毒が神経毒だけではなく腫瘍の抑制にも使えるというdataを出していた。このサソリの毒素は精製されて構造が調べられて、大腸菌の中で 作らせた組み換えタンパクである。
腫瘍の抑制と言っても細胞の何処にどのように効くかかという機構がまだ分かっていない。細胞の中のシグナル伝達なら私たちが出来る。というので、張先生のところから学生が一人来て共同研究が始まった。この学生がその頃博士課程に入ったばかりの王Puくんである。
培 養細胞を色々と揃えて、彼の持ってきたサソリの毒素を加えると、どの細胞もよく死ぬ。正常細胞も死ぬ。そして死に方がどの細胞でも同じようである。これ は、サソリの毒素ではなく標品の中に入っている大腸菌のエンドドキシンではないかと疑って、その標品をクロロフォルム-メタノ−ルで抽出して見ると、その 抽出液でも同じように細胞も死ぬ。
つまり大腸菌で組み換えタンパク質を作ってその効果を調べていたつもりが、混ざっていたエンドドキシン が細胞を殺していたのである。王Puくんは博士課程に入って最初の8ヶ月を全く無駄なことをやって潰してしまったのだ。責任は製品の検定をしていない張先 生の研究室にあるが、私も材料を人に頼っていたのでこのようなことが起こったわけだ。
それでどうしようかと張先生に訊くと、そちらで好き なテ−マを与えて好きにやってくれと言う。つまりうちに博士課程の途中の学生をぽんと寄越したことになるわけだ。呆れた話だが、研究熱心な王Puくんを 放っておくのは気の毒である。と言うわけで私たちの研究テ−マから選ぶことにして、彼の博士課程の研究は昨年の5月から始まった。
それか らが凄かった。王Puくんは猛烈な勢いで実験をして、半年後の9月には課程2年になった学生の中間審査があったが、それを軽くクリアできるだけの成果を挙 げていたのである。彼の研究は、ガングリオシドGM3による細胞の挙動の変化がどのような分子を通じて引き起こされるかを明らかにするものであった。
王 麗はFBJ細胞を使ってGD1aがカベオリンやStim1の発現を制御していることを明らかにした上に、まだ他の分子も制御されていること、そしてそれら の制御回路はどのようなものかを明らかにしてきた。私たちの研究室の一番のねらいはGD1aのシグナルが細胞にどのように伝わっていくかを知ることであ り、そのために私たちは様々な実験手法を試みているが、彼女は結果がどう出るか分からない、このような「あたりをつける」実験も嫌がらずに進んで引き受け てやって呉れる姉御肌の女性である。
水曜日の午後2時から研究室の全員が集まって、二人の話を聴いた。全部で16人ここにいるけれど、二 人は古川先生に向けて話している。古川先生に話を分かって貰って、そして研究に対する批判・意見を聞きたいのだ。実際二人の話の熱意と内容は古川先生伝わ り、それぞれ的を得た批評と激励を貰っていた。ひいき目にしても、二人は立派な成果を挙げている。私もこうやって成果を聴いて、ここのような環境で良くも ここまでこれだけの結果を出せる学生を育てたものと思ったのだった。
2006年11月27日 (月) 日本留学志望のこと
22日水曜日午後は前に書いたように、学長が院生全員を招集して、論文ねつ造事件について皆の注意を喚起す る会があった。それとぶつかるので古川先生のセミナを到着早々の21日に変えたのだが、22日午後、私たちの研究室ではセミナを開いた。学長の話に出られ なくなるわけだけれど、うちの院生にきいたら、この研究室で論文ねつ造をしようと考える人は一人もいないでしょう、ですから出席する必要はありません、と 言うことだった。
そのような状況下で水曜日午後2時に古川先生と私の他に、院生と学生が14人集まって王PUと王麗の研究発表を聴いたのだった。古川先生も所々質問をするけれど、うちの学生たちも色々と聞いている。人の話には質問で応えなさいと叱咤激励した効果が出ているようだ。
質問が出ることで、聴いている私もそうか、こっちのことを調べなくてはいけなかった、など思いついたりするので、このように皆が興味を持って話をフォロ−することはありがたい。
4時半になって、そういえば昨日のセミナで、聴いている学生に長岡技術科学大学への留学に興味がある学生はいらっしゃいと古川先生が言ってあったのだ、と思ってドアを開けると学生が5人外に待っていた。全員女性である。
「古 川先生、先生のところに留学したいのです。」と口々に言っているけれど、古川先生は誰でも直ぐ来られる用意をしてこの席に望んだのではない。成績優秀で、 そして自分のところに来て研究をしたい学生がいれば、奨学金が取れるように努力しようと言うものである。言うまでもなく、中国から来る学生は一般的には奨 学金が得られなければ日本で勉学を続けることは困難である。
ただし今では中国にも結構な数の富裕層が出始めたという話である。富裕層の リッチ振り私などの想像を絶しているようで、このような人たちは子女を日本に留学させることとなど何でもないのである。現に古川先生の一つの瀋陽訪問の目 的はそのような留学志願者に会って面接することで、その学生は昨日もセミナを聴きに来たし、今日もここに来ていた。
古川先生は一人一人に 丁寧に対応しながら、「奨学金を申請することになると、それは成績順になりますから、ともかく学部の成績が良くないと通りません。あなたたち大丈夫です か?」。と言っている。彼女たちそういわれると互いに顔を見合わせているし、さっきまでの元気が弱くなったようだ。「メイルアドレスを教えますから、私の ところに留学を希望する人は、公式の成績証明書の電子アイルを送って下さいね。」と言うことになった。
その翌日には古川先生は次の訪問地 の上海に向けて瀋陽を飛び立ったあとだが、新たな学生二人が訪ねてきた。同じく留学希望である。成績証明書を二人とも持っていて、クラスの1番と8番の子 である。GPAともにいい値である。これなら古川先生のところで受け入れて貰えるかなと思いつつ、彼のアドレスにスキャナで成績を取り込んでから添付書類 で送った。
日曜日になってそのうちの一人が来て、「古川先生のところに留学したいと先生にお願いをしました。その時は両親と電話で話して 留学して良いと言われたのですが、この週末に自宅に帰って親に会ったところ、留学はやめて欲しいと説得されてしまい、考えを変えました。今からやめてもい いですか?先生、ご迷惑を掛けて済みません。」
留学志願をやめたいというなら、いいも、悪いもない、ああそうですかと言って今回は古川先生に連絡するだけである。今回は私が推薦しているわけでも何でもなく、単に志願を中継しているだけである。
で も、いつかのことを思い出してしまう。今から4年前のことで、私が日本にいた頃である。薬科大学に時々来ていたので親しくなっていた当時の薬大の日本語の 先生からクラスの女子学生が日本に留学したい希望なので留学先を見付けて欲しいと頼まれた。本人を知らないのに推薦は出来ないけれど、何しろ知っている先 生に頼まれたのだ。断れない。
と言うわけで彼女とmailのやりとりを何度もして、希望を訊いて東北大学の私の友人に頼んだ。彼は彼女を 研究室で留学生として引き受けようと言ってくれた。これは2月頃のことだった。ところが7月に私が瀋陽に来たときに初めて会った時に、世話になった先生と いうので私たちのことをまめに世話してくれたが、やがて日本に留学したくないという。どうして?母が反対しています、という。
一方受け入れ先の友人は大学の国際宿舎の手配までして待っているのである。行きたくないというならどうしようもないが、私はこれでこの友人の信頼を一切失ってしまった。
それ以来私は留学の世話にはとても慎重である。本人を直接1年以上見ない限り推薦しない、と言う鉄則を設けたのである。きついようだが、隣の池島先生は3年自分のラボにいなければ推薦しないという厳しさである。
2006年11月30日 (木) 長岡技術科学大学と瀋陽薬科大学が近づく
帰国した古川先生から連絡があった。長岡技術科学大学 で来年3月に大学院GPプログラム(大学院生の相互交流による研究推進プログラム)会議をすることになった。ついてはこの会議に瀋陽薬科大学の国際交流処 長の程卯生教授に出席して貰うよう頼んで欲しいというものだった。
瀋陽薬科大学における教育・研究の取り組み(日本語学科があるとか、環境学 科の問題点など)を20分ほど話をして貰えたらよい。旅費・滞在費は全て、長岡技術科学大学で負担するという、つまり招待である。この会議には外国から他にも数名出席する予定だそうだ。
こ のような内容なら、先日古川先生の訪問の際に程卯生教授が主催した晩餐会があったから互いに知っているわけだし、古川先生が直接招待状を書けばよい。古川 先生は何しろアメリカに7年間滞在しただけあって、私など足元にも及ばない見事な英語使いである。それなのに自分で直接書かずに私に依頼してきたのは、私 の顔を立ててのことだろう。というわけで、彼の依頼に応じてまずい英語で書いて程卯生教授に頼むことにしよう。
Dear Prof. Dr. Cheng Maosheng:
CC: President Wu ChunFu, Prof. Furukawa
Professor Kiyoshi Furukawa, who visited our University last week and whom you kindly invited to dinner with me, sent me a mail, asking if you could visit to attend a Meeting on Graduate School GP Program to be held at Nagaoka University of Technology, on March 9, 2007.
The meeting may mean the start point of mutual exchange of graduate students and faculty staff between two universities in future.
At the meeting you may talk on the successful education of pharmacology using Japanese language at Shenyang Pharmaceutical University and its benefits to students and society, and start and perspectives of Department of Environment at Shenyang Pharmaceutical University, for example.
You may be allotted 20 minutes for your talk.
Your travel expenses including accommodation for up to three nights would be covered by Nagaoka Universsity of Technology, Professor Furukawa wrote.
Several representatives from abroad would also join the meeting. I understand that, when you will attend the meeting, you will represent Shenyang Pharmaceutical University, and in case when you cannot be present at the meeting, someone else representing the University will attend it.
According to his explanation, GP may stand for Graduate Practice. Graduate School GP Program may mean a budget supporting education and research at the graduate school.
Once you may send me a positive answer, Prof. Furukawa will have direct contact with you.
Yours sincerely,
Tatsuya Yamagata, D.Sc.
P.S. There is a Graduate School for Environmental Research at Nagaoka Universsity of Technology.
私 の出したmailに二日後には程教授から返事があった。古川先生から招待を受けた会議で、薬科大学に於ける日本語による薬学教育の成果の話をするなんて嬉 しいじゃないですか。自分か学長かが出席できるようにしたい、二人とも駄目なら誰か薬科大学を代表出来る人を会議に派遣することにしましょう、と言うもの だった。これで古川先生は私の顔を立てたわけだから、あとは互いに直接話を進めればよいことになったわけだ。
2006年12月6日 (火) stomach fluに掛かる
11月30日木曜日の夜うちに帰って晩ご飯を作って食べ始めたが、どうも気が進まずのろのろと少しだけ食べ て後片付けをしたあと、ソファの上に身体を丸くして横になった。どうも気分が悪いのである。テレビを付けて音を聞きながらそのまま1時間ぐらい耐えていた けれど、とうとうトイレに行った。
ひどい下痢だった。その最中にどんどん貧血気味になり胃がむかむかしてきた。何とかトイレを済ませたと ころで、胃の中身が突き上げてきて嘔吐した。これが10時頃のことだった。ひとまず収まって就寝したが、夜中の12時に、又同じことが起こった。トイレに 座っているだけでも気持ちが悪く、頭の中の血が引いていくのが分かる。汗だけがむやみに出る。再び下痢をしたあと、暫くバスル−ムの床に踞って気分の悪さ を耐えたあと思いっきり嘔吐した。しかし気分の悪さはずっと続きもう寝るどころではない。朝の4時になっても同じことを繰り返した。
翌日 になっていつもの時間には出掛けられず、8時頃に学生に電話をして遅くなることを伝えた。10時頃に研究室に行ったが、熱はないと思うけれど自分でも正常 ではないのが分かる。原因の分からないのが気持ち悪い。昨日悪いものを食べた覚えはなく、どうしてひどい嘔吐と下痢に見舞われたのか分からない。結局、こ の日の夜の研究室パ−ティも含めた全ての予定をキャンセルしてうちに帰ることにした。王毅楠と暁艶がうちまで一緒に送ってくれた。帰って直ぐ寝てしまった が、目覚めてからもしやと思って熱を測ると38.3度ある。そうか、これが、風邪のウイルスがお腹に来るstomach fluだなと納得した。
嘔 吐は一晩だったが、下痢が丸二日続いた。熱も二日続いて、3日目の日曜日には微熱になった。お腹をこわすと収まるまで何も食べないというのが私のいつもの やり方である。学生たちが始終電話をしてくれたし、実際毎日うちに見に来てくれて、食べ物の心配もしてくれたが、木曜日の夜以来、金、土、と食べずにやっ と日曜日になって学生の作ってくれたおかゆを食べ始めたのだった。
中国に暮らしていて一番恐ろしいのは病気になることだ。今まで、風邪や 腹痛で休むと学生たちが来て病院に行きましょうと言ってくれるが、何時も私は断っている。私の具合の悪くなるときは決まって、妻が用事で日本に行っている ときである。一人で具合の悪くなるのは、本当に不安だ。一方学生だって一人っきりの老師の具合が悪いとなると心配で心配で堪らないだろう。せめて病院に 入って欲しいに違いない。
でも、病院には入りたくない。妻が救急で病院に運ばれたこともあり、ますます病院忌避症の感じである。その時の ことを一度書いてみたいと思うが、一方で、それを書くのもおぞましい。この8月に妻が緊急入院して、その時はその病院が思ったよりも程度がよかったので、 ちゃんとした病院もあるという認識は持ったが、病院忌避症は抜けていない。
というわけで、健康第一と心がけて中国では暮らしている。一番大事なのはよく寝ることだと思って、何時も10時半には寝て朝5時半に起きるという生活を続けているけれど、とうとう風邪のウイルスにとっつかまってしまったわけだ。
今回は下痢が二日続き、脱水症状になりかけた。身体が水を受け付けないときは、どうしても点滴が必要となるだろう。救急に行かなくてはならない。それで乱雑な救急の広いフロアで点滴を受けている自分の姿が思い浮かんで、苦しい症状が二重に情けない思いだった。
下痢が二日で終わったときはどんなに嬉しかったことか。かさかさ、しわしわになった手を擦り合わせながら歓呼の声を上げた。声は一人切りのうちの中でうつろに尾を引き、響いて消えた。
2006年12月8日 (金) 天皇誕生日祝賀会
昨年の12月の何日だったか、私たちの教授室の隣の池島先生が入ってきて、「今日の天皇誕生日祝賀会の招待 が来ているでしょう。一緒に行きましょう」という。在瀋陽日本国総領事館の主催する祝賀会があるらしいことは日本人会幹部の人たちの言葉で聞き知っていた けれど、私たちのところに招待状は来ていなかった。
「いえ、呼ばれていないんですけれど。」と答えざるを得なかった。気の毒に池島先生は非常にばつの悪い思いをしたに違いなく、こちらまで困ってしまったのが昨年のことである。
今年は瀋陽滞在4年目にして初めて天皇誕生日祝賀会の招待状が届いた。在瀋陽日本国総領事館・安部総領事の主催する祝賀会を12月8日シェラトンホテルで開くので出席して欲しいという領事館の紋章入りの招待状だった。
私 の風邪のあと同じような症状で休んでいた池島先生が8日には出てきたので、今日の会に一緒に行こうと思って朝となりの部屋に入っていって声を掛けた。「今 年は天皇誕生日祝賀会の招待を初めて貰いましたよ。後で一緒に行きましょう。」ところが、池島先生は「いえ。今年は貰っていないんですよ、ですから、先生 お一人で。。。」今度は私が大変ばつの悪い思いをしてしまったのだった。
何でこんな、私たちにとって具合の悪い事になるのだろう。薬科大学の日本人教授二人を毎年交代で招くことにしたのだろうか。二人一緒に招んだっていいだろうに。
と もかく5時半開演というので5時過ぎにタクシ-に乗って、五つ星の、中国語では喜来登酒店というシェラトンホテルに出掛けた。シ−・ライ・ダンと言っても タクシ-の運転手になかなか通じない、いや、通じていないのではなく、私のダンの発音がいけないらしく、嬉しそうに盛んに直している。このダンはdeng で、denの発音は出来なくても、dengは日本人には得意な発音のはずなのだが。運転手は私が何度言っても言い直している。私には違いが分からない。
ホテルに着いたらメ−タ−は8元だった。10元出したら1元のお釣りしか寄越さない。1元を持った手を突き出してこちらの出方を伺っている。こんなことでめげる私ではない、きっちり2元のお釣りを取ってタクシ-を降りた。
案 内にしたがって3階に行くと総領事館の領事たちが総出で私たちを出迎えている。部屋はかなり大きなところで、長方形型の部屋の短い壁の一隅に祭壇みたいに 高くなっていて、その後方の壁には左に中国国旗、右に日本国旗が掲げてある。その前にこちらを向いて椅子が12位並んでいる。名前が書いてあって真ん中は 阿部総領事だった。
反対側の隅にはやがて提供される料理が並んでいる。開始時間の5時半頃にはこの部屋に溢れるほどの人たちが集まってき た。部屋の入口で飲み物を片手にした人の数が増えている。日本人会の会員は二百人くらいと聞いていたのに、そんなものではない。五百人近い参列者だったと 思う。着物姿も目に付き、その美しい着物姿の女性にあでやかに挨拶されて、しばし絶句してしまった。私たちの薬科大学に学士入学して4年生に在学して中薬 (漢方)を勉強中の片山さんだった。その時は学生さんという意識が見ていたけれど、彼女は妙齢の婦人で、実は領事夫人なので今日は領事館の接待側の一員と して心を砕いているという。いや、お見それして大変失礼いたしました。
やがて視界の言葉で開会が宣言され、先ず雄壮な中国国歌だった。こ の頃オリンピックゲ−ムの時に聞く機会が増えた国歌である。次いでゆったりとした日本国歌が流れた。私は嫌な思い出に繋がる君が代は好きではないが、こう やって異国で聞くと、自分は日本の国のひとりであり、ある時は自分の行動が日本の代表として見られることもあるのだという気持を強く意識する。
阿 部総領事の挨拶が始まったが、会場の後ろ半分は新たに入ってくる人たちもいるし音響が悪くて挨拶が聞こえないので、皆が勝手に談笑している。うるさくてま すます聞こえない。したがって皆が総領事の発言そっちのけで勝手に振る舞うという悪循環が起きていたようだ。仕方なく前の方に行って挨拶に耳を澄ませた。 日本の総理が替わって日中関係が改善される方向に踏み出したことは、総領事の挨拶、続いて立った中国側の来賓の挨拶にも伺われる。結構なことである。
招待側と来賓の挨拶のあとの懇親会では、教師の会の馴染みの南本先生や、瀋陽における知人に出会ったほか、今までに見知っていてもなかなか会えない人たちに会い、あるいは新しい人たちに紹介されたりしているうちに、気付くと瞬く間に1時間半が経っていた。
2006年12月9日 (土) 東工大で国際大学院志願者募集 その一
10月半ばのこと、東京工業大学の以前の同僚だった三原先生からmailが届いた。
『東京 工業大学大学院生命理工学研究科の国際大学院(全国全体の制度)が新しくなり、新規に来年2007年10月入学者から 生命理工学研究科だけで国費留学生 を7名取れるようになります。募集はすでに始まっており、11月10日までにノミネーション(GPAとTOEFL)12月に正式申請です。』
『もしいい学生がいましたら、ご推薦ください。GPA>3.2、TOEFLE >200が理想として要求されます。修士・博士一貫コースです。修士持っている学生も入学できますが、米国などと同様、もう一度修士からです。』
東 工大には以前から国際大学院が開設されている。この国際大学院は留学生に日本語能力を要求せず、英語が公用語だった。じゃ、留学生のために英語環境が十分 用意されているかというと、学生課にも、国際留学生宿舎にも英語を話す職員が誰一人いないという状況だった。講義も修士課程で最低3つの科目の履修が要求 されているのに、急遽用意した英語で開講した科目が3つだけなので、国際大学院の留学生は否応なしにこの3つを取らざるを得ず、評判が悪かった。
生 体分子工学科の教授たちで連合して作ったbiotechnologyの講義で私も数回英語で講義をしたことがある。15人くらいの学生がいて何人かは顔見 知りの日本人学生である。おやおや留学生じゃなくて日本の学生が聴いているのかと思いつつ外国人らしい顔を探して、「Hello. Where are you from?」と訊いたら、「I'm a Japanese.」という答えが返ってきた。彼の研究室とは仕事のつながりがあって、やがて彼の修士論文の審査をしたくらい密接な付き合いになったのだ が、今でも彼のその時の憮然とした顔を思い出す。
私は1993年にポ−ランドで開かれた国際糖質学会の時にクラコフ大学の友人に頼んで、 良い学生を推薦してもらった。翌年こうやってリクル−トした学生が私の研究室に来た。Kasiaというこの女子学生は私の研究室で学位を取り、その後東京 医科歯科大学の職員となった。ヨ−ロッパにあって列強に翻弄され続け、しかし独立不羈の心を失わなかったポ−ランド人のねばり強い根性を持つ一方で、大和 撫子の美しい心情を併せ持ったKasiaはやがて日本人と恋をして、私たちが日本の両親となって結婚をした。このように国際大学院は私たちに深く関わって いる。
文面によると、あの頃の国際大学院は東工大一つのものだったが今では全国規模になったようだ。しかも日本政府の奨学金でサポ−トす る留学生の数も大幅に増えたらしい。インタ−ネットでこの募集を調べてみると、留学生の応募できるところはアジア諸国である。国策としてアジア重視に本気 で転換したように見える。
三原先生と何度もmailをやりとしながら、薬科大学の中に「東京工業大学国際大学院コ−スの募集」という掲示を英語、中文で張り出した。二日のうちに色々な質問を抱えた10人位の学生が私のところにやってきた。
必 要経費のほぼ全額が政府奨学金でまかなえる留学生の募集である。殺到しない方がおかしい、と思ったが、人数が思いの外少なかったのにはわけがあった。一つ にはTOEFL>650点以上の成績を持っていること、一つには成績が上位10%に入る学生であること、という条件が付いていたのだった。薬学部に は日本語クラスがあるが、最初の2年間は英語を勉強して(中国の)英語6級試験に合格しないと日本語クラスの3年生に進学できない。したがって日語班の学 生は英語も良くできるけれど、TOEFLなどの資格を持っていない学生が多い。又、基地クラスを除く学生は3年までの成績で上位10人は大学院入試免除と なり中国のどこでも行きたい大学院に進学できる。こうやって推薦を受けた学生は志望校に登録するとそれは(中国では大学院も研究所も国立が殆どである)国 と契約したことになって、それを取り消すことなどとんでもないことである。ということは、11月という時期では、来年度の学生を募集するには遅すぎると言 うことである。
私のところに来た学生には、私は単に仲介人であること、したがってTOEFLと大学の成績を証明する公的書類を持ってくれ ば東工大の試験委員会に取り次ぐと話したところ、東工大の設定した期日の11月10日までに書類を持ってきたのは3人だけだった。薬学日語の李さん、薬学 英語の呉さん、同じく薬学英語の楊さんである。
もちろん3人分の書類を私は東工大に送った。こうやって集まった書類から東工大の入試委員会は書類選考をして、選ばれた候補者に面接を行うと言うことである。
(続く)
2006年12月12日 (火) わが研究室の詩人
来年度私たちの研究室の修士に来たいと希望している生命科学基地クラスの学生の一人に曹亭(女偏が付く)さ んがいる。もう一人の徐蘇さんが小柄でぴちぴちと元気なのに比べると、背が高く落ち着いて老成した雰囲気の女子学生である。10月に2週間私たちの研究室 に実習に来たあとは授業や実習に忙しいらしく、週二日の研究室のセミナに参加する以外は二人とも滅多に研究室には来ない。
その彼女が数日前やってきてリボンで飾った巻いた紙を私に差し出した。「何ですか?」「詩を作ったので、先生へのプレゼントです。」開けてみると南画風の険しい山岳の画の上に詩が印刷してある。詩は以下のように読める。何と私の名前が読み込んであるのだ。
山巒霧靄蔵、
形廊不可量。
達変天下事、
也道世無常。
山巒霧靄蔵 shan(1) luan(2) wu(2) ai(3) cang(2)
形廊不可量 xing(2) kuo(4) bu(4) ke(3) liang(2)
達変天下事 da(2) bian(4) tian(1) xia(4) shi(4)
也道世無常 ye(3) dao(4) shi(4) wu(2) chang(2)
聞いてみるとこの詩の意味は、『連山は霧や靄に包まれたりして、時に応じ形が変わり、全容は量り難い。同様に世の中の事象も明確には捉えがたく、原理は分かっていても、どうしようもないことがあるのだ。』
名前を読み込んでいるだけでなく、ちゃんと深遠な意味があり、しかも第一、二、四節の終わりで韻を踏んでいる。びっくりである。どうしてこんな事が出来るのだろう。
私 にこの詩の字は難しくて読みこなせなかったが中国人ならすらすらと読める。中国人なら漢字を駆使して詩を作ることも容易に出来るのではないかと思って他の 学生に聞いたら、とんでもないという。そんなことは普通の人には出来るわけないですという。日本人が何やら紙に時を書き散らして詩ですというのとはわけが 違うようだ。どうも曹さんは特別の才能に恵まれているみたいだ。
曹さんは三国志で名高い曹操の子孫だという。私の子どもの頃は吉川英治の 三国志の影響を受けて悲劇の英雄劉備が善玉で、曹操はとんでもない悪役としてインプットされていたけれど、その後分かってくると曹操は一国を作っただけ あってただ者ではない、それどころか喜怒哀楽の感情がはっきりして人間的魅力に溢れている。おまけに詩人なのだ。かの有名な唐詩の出来る数百年前の詩人で ある。
紀元207年、当時32歳の曹操が北方の袁紹を破って故郷に帰って来たときに作った、「歩出夏門行」という詩の一節に有名な詩句がある。
老麒伏(木歴)
志在千里
烈士暮年
壮心不已
『駿馬は老いて厩の一隅で動けなくなっても、心は千里に飛んでいる
烈士は歳を取っても、なお心は若いときのままである』
曹操の三男も詩人として名高い。特に皇帝になった兄曹丕に兄弟という字を使わずに兄弟を読む詩を直ちに作れ、さもないと首を刎ねると言われてつくった「七歩詩」というのがある。
煮豆持作羹
漉叔以爲汁
其在釜下燃
豆在釜中泣
本是同根生
相煎何太急
『豆を煮て吸い物を作り
味噌を漉して汁物を作る
豆がらは釜の下で燃え
豆は釜の中で泣いている
もともと同じ根から生まれたのに
どうしてこんなにまで煮て、ひどく苦しめるのですか』
曹 操の次男である曹丕は曹操の後継者と決められて文帝となっていたが、直ぐ下の曹植があまりにも優秀なので曹丕には絶えず気になっていた。「三国志演義」に よると、曹丕はある日曹植に七歩いく間に詩を作れ、できなければ死を賜うと命じた。曹植は歩きだして七歩のうちに見事な詩を作ったので、曹丕もその臣下も 感心したが、曹丕はさらに即座に兄弟を題にした詩を、しかも兄弟の二字を使わないでつくれと命じた。
この曹丕の言葉を受けて、直ちに曹操が詠じた詩がこれである。
『もとは同じ父の元に生まれた兄弟なのに、どうしてそんなに私に激しく当たるのですか。』
これには、兄の曹丕は深く恥じ入ったという。
私たちのところの曹さんは、間違いなく曹操、曹植の血を引いている。
2006年12月15日 (金) 研究室で火鍋パ−ティ
12月14日は久し振りに研究室で火鍋パティ-を開いた。昨年小川さん、大貫さんが訪ねてきたとき以来だか ら1年半ぶりである。ということは昨年度の卒業研究生には一度もこの機会がなかったわけだ。もちろん、外のレストランには歓迎・送別などの機会を設けて出 掛けていたけれど、自分たちの部屋で落ち着いて飲み食いするのは又格別である。
今年は最終学年在がすでに6人来ていて私たちの研究室は今から大世帯である。日語クラスは日本語先生たちから日本語を習っているから、彼らの先生たちも招いたところ都合の付いた南本先生が参加したので14日は合計15人が教授室に集まった。
鍋に使う野菜は近くの朝市に朝早くから学生たちが出掛けて手分けして買って来た。午後はカラフ−ルに肉やその他の必要なものの買い出しに行ったようだ。ビ−ルも運んできている。私はお金を出すだけだから楽をしている。
最 初の予定していた日には私がお腹に来た風邪でダウンし、次に決めた日は学生の数人に夜の授業が入ったので延期して今日になったのだった。それでも、急に二 人が欠席すると言ってきた。今週末に大学で就職説明会があり、そのために薬大に出張して来ている企業の人たちにサ−ビスするための要員として担任の先生か ら指名されて、そちらに行かなくてはならない。この人たちは就職しない学生でないとまずいわけで、それで、進学することを決めている学生が駆り出されたと いう。就職説明会に無関係なのに駆り出されるわけで、何とも人使いの荒い大学である。
中国に来て馴染みになったものに「台布」という薄い ビニ−ルがある。食事のテ−ブルに乗せて一回ごとに使い捨てるのである。中級のレストランではよく見かける。言うまでもなく下級の店ではテ−ブル表面をそ のまま使っているし、高級レストランになるとテ−ブルクロスが使われている。この台布は140 x 180 cmの大きさのビニ−ルが10枚入って10元という安さである。私たちも何かの時にはこれを利用しているが、最近は出番がなかった。
5時を過ぎると洗って刻んだ野菜などが続々と実験室から届きだした。学生は実験室を使ってもう用意を始めていたらしい。こちらも慌てて教授室の会議テ−ブルに台布を乗せる。皆が参加してパ−ティの用意をした中で私のしたことはこれ一つだったみたいだ。
6 時には皆も集まり、鍋に火が入りビ−ルを注いだところで私が挨拶をした。冬になったので、鍋をして皆で一緒に楽しく暖まろう!!!中国の初級教科書に「春 天来了。桜花開了。」というのがあったので、「冬天来了」と始めるつもりだったのに、「冬天開了」と言ってしまったので、皆が大笑い。これで座の緊張が一 遍にほぐれたみたいだ。
宴もたけなわとなって、そろそろ皆の隠し芸が見たい時間となった。修士1年生の陳陽くんが音楽に合わせてダンスを するという話を聞いているので、是非見たいと所望した。「だって、まだ早すぎますよ。誰か先に何かしなきゃ。先生、何かやって下さいよ。」という。隣の王 麗も「本職の前には前座が必要でしょ。だから先生、先ず何か始めなさいよ。」と、私を前座扱いである。
この際、興業主の役割だけでなく座 持ちも私の役目と割り切って、「いとしのソレンツアラ」を歌った、イタリアのカンンツオ−ネだと説明して歌ったのに、聴いている彼らは、何さ、日本語じゃ ないの。という。仕方なく「サンタルチア」イタリア語で歌っておまけにした。何しろ歌ではプロはだしの妻がここにいないから、私も気楽に歌えるというわけ である。
さあ、陳陽くんの出番だ。日本の人気歌手に浜崎あゆみがいる。私は彼女の等身大の看板が電気店にあるのを見ているので、彼女の容 姿は脳裏に焼き付いている。中国には蔡依林という台湾生まれの、浜崎あゆみに匹敵する人気歌手がいる。陳陽くんは彼女のファンで、彼女のコンサ−トに聴き に行っただけでなく彼女のDVDを2枚も持っていて、今は私が借りて時々観ている。私も蔡依林のファンである。
蔡依林は身体を激しく動か しながら歌うが、陳陽くんはそれをしようというのだ。部屋の灯りを消したと思ったら、学生が非常用に用意してある懐中電灯2本を持ちだして、これで陳陽を 照らし始めた。まるでライブコンサ−トの雰囲気だ。蔡依林の歌に会わせて、陳陽は激しく踊り出した。背が高くて身体の細い陳陽くんは激しく手を、腕を、脚 を、そして腰を動かす。セクシ−だ。女子学生に混じって私たちも、キャ−キャ−叫ぶ。
一体何処で練習するんだろう。そんな場所が薬科大学の中にあるとは思えない。DVDを観ているだけで踊りが頭の中に入ってしまったのだろうか。
陳陽のダンスのあと皆それぞれに、歌ったり、笑い話を披露したりして、最後にまた陳陽くんのダンスでこのパ−ティを締めくくったのは夜の9時だった。
2006年12月20日 (木) 東工大で国際大学院志願者募集 その二
(12月9日の続き)
11月10日が東工大入試委員会での応募締め切りと聞いていたが、13日には 三原先生からmailがあった。東工大入試委員会で応募者の審査をしたところ、薬科大学から応募した3人とも第一次選考に通って、次は面接だという嬉しい 知らせだった。しかし、この面接というのが急で忙しい。入試委員会委員の一人である大倉先生が丁度北京で学会があって北京に出張するのにあわせて、中国の 応募者と面接をしたいということである。面接の出来る日は17-19日の3日間だ。
忙しい話だ。私は急遽この3人の候補者に第一次審査の 合格を告げ、面接日に会わせて北京に面接に行けますか、出来るだけ行くように、と伝えたのだった。中国の北京で面接をすれば中国の応募者全部が面接に来ら れるのだろうか。瀋陽から北京の距離は、東京から広島くらいである。近いというか遠いというか、人の置かれた状況によって違うだろう。しかも、旅行の費用 がかかる。面接に行かなければ権利放棄になると分かっていても、果たしてわざわざ時間と金を掛けて北京まで出掛けていっても無駄かも知れないという疑い が、志願者にはつきまとう。
最初に連絡が付いたのは薬学日語の李さんだった。彼女はTOEFLの成績は持っていなかったが、 IELTS(International English Language Testing System)という主として英国語圏で普遍的に通用する資格を持っていた。9点満点で7点という実用上全く問題ないというレベルである。実際、彼女と話 してみても日本語から英語へ、英語から日本語へと継ぎ目なくスム−スに言葉が変えられ、自分の考えをよどみなく述べることが出来る学生である。北京で面接 という話も彼女は、ええ、出掛けます、頑張ってみます、と健気な感じで決意を述べていた。
もちろんここまでは私が全てを仲介していたけれど、この時点では李さんは入試の三原先生、大倉先生と面接時間、場所の打ち合わせを直接mailで行うようになり、両者の間に行き違いがないようになっていた。
薬 学英語の二人に北京で面接という話を伝えると、一人はこの週末はとても忙しくていけないという。もう一人もアメリカの大学に出す書類の締め切り期限が週末 でそれにかかり切りだからとても北京には行けないという。時間が作れないなら仕方ないが、一人が気になることを言っていた。北京にわざわざ行っても必ず受 かる保証がないから行くのは無駄だ。なぜなら李さんは薬学日語で先生の教え子だから彼女の順位が良いに決まっている、だから私が行っても意味がないのだと いう。
これには私は唖然とした。しかし一方で、中国を深く覆うもやもやとした情実社会という噂を確認した思いであった。私は何度も書いて いるように今回は単なる仲介者であって、推薦人ではない。一定の水準以上の学生に応募させているだけで、あくまでも選ぶのは東工大の入試委員会である。現 に順位が付かずにここの3人に面接の通知が来たのだ。素直に面接に行けば、誰が通るか分からないし、あるいは全員が通るかも知れない。面接に行かなけれ ば、理由が何であれ、それまでである。国費留学生に選ばれるわけがない。
ともかく、薬学英語の呉さん、楊さんの二人はせっかくの機会だったのに見送ってしまった。もちろん、それで良かったのかも知れないし、大変惜しいことをしたのかも知れない。ここのところは東工大の関係者以外分からないことである。
17日の前日から北京に行った李さんは翌日戻ってくると直ぐに私に会いに来た。面接はどうだったのかを訊くと、自分としては質問に対して言いたいことを言えたので、結果はどうであっても全力を尽くしたという気持だと、嬉しそうだった。
面 接の大倉先生は、東工大の頃の同僚でよく知っている先生だが、李さんが北京に出掛ける前には、私が大倉先生を知っていると言うことを彼女に言うことは良く ないと思って何も言わなかった。ところが李さんは大倉先生から暖かい伝言を持って帰ってくれた、「山形先生、瀋陽で元気にやっている?」。
李さんは面接の時に訊かれて、東工大で採用されたら勿論迷うことなく喜んで進学すると行ったそうである。彼女は成績も優秀だし、目配り気配りが行き届いていて、人柄もいい。かならず有為の人材として育ち、日中橋渡しの掛け替えのない人物の一人になるに違いない。
11 月21日彼女の志望研究室の石川先生から彼女に電話インタビュ−があり、石川先生の審査もパスして、彼女は22日に正式に東工大から国際大学院国費留学生 推薦の内定受けたのだった。あとは12月20日までに書類を東工大経由で文科省に申請を出せば、間違いなく日本政府の国費留学生が決定する。
2006年12月22日 (金) ノロウイルスのこと
今日本でノロウイルスが大流行だという。Internetでノロウイルスについて書かれていることに目を通すと、12月初めに私が掛かったのも、ノロウイルスのように思える。
『ノロウイルスによる感染性胃腸炎や食中毒は、一年を通して発生するが、特に冬季に多い。手指や食品などを介して、経口で感染して、嘔吐、下痢、腹痛などを起こす。感染してから発症するまでの時)は24〜48時間。
通常,これらの症状が1〜2日続いた後,治り、後遺症はないが、幼児や高齢者など体の抵抗力が弱い人では、脱水症状を起こして重症になりことがある。』
感染源は、以下の場合が考えられる。
『ノロウイルスに汚染されていた貝類を,生あるいは十分に加熱調理しないで食べた場合。食品を取り扱う人(家庭で調理を行う人も含まれます)が感染していて,その人を介して汚染した食品を食べた場合。患者のふん便や吐瀉物から二次感染した場合』
以前からこの大学でも冬になるとお腹に来る風邪が流行るから気をつけるように言われていた。今年も流行っていると言うことだ。私は自分のことを風邪だと思っていたけれど、接触感染性の胃腸炎だったかもしれない。
『ノ ロウイルスは手指や食品などを介して』感染するとなると、お札がまず気になる。中国の紙幣は紙質が日本と違っているので、お札が汚れているのがはっきり分 かる。瀋陽に来たときの隣の池島先生が、「ぼくはお札に触ったら必ず手を洗います」と言うのを聞いて、私も必ず手を洗うことにしている。お札を触った手で 触れる財布は洗わないから、処置が中途半端であることは自覚しているけれど、お札に触ったあと手を洗わないよりはましだと思っている。
中 国の衛生思想は、日本に比べるとまだまだといって良い。手を洗うという習慣が根付いていないらしく、トイレでばたんとドアを開けて個室から出てきた人で手 を洗う所を目撃するのは数回に一度である。だから、大学の食堂では良く食中毒が出ますと秘かに囁かれているけれど、服務員の手洗いがなおざりにされている とするなら、流行っても不思議はない。
私はこの間の嘔吐と下痢の時、初め症状から急性の食あたりかと思い、しかし原因が思い当たらず悩ん でいたけれど、ノロウイルスかも知れないと気付いて思い出してみると、丁度その2日前には大学の食堂が作った小龍包をたべている。これは夜に研究室のセミ ナ−があるので夕方食堂に食べに行く学生に頼んで、4個1元で買ってきてもらったのだ。小龍包だから蒸かしてあって受け取った時にもまだ暖かい。
小 龍包はプラスチックの袋に入れられていて、割り箸と一緒に、さらにプラスチックの袋に入っている。以前自分で買うときに見たことがあるけれど、服務員は小 龍包をプラスチックの袋に入れるときに、手が小龍包にも袋の内部にも触らないように気をつけている。だから、小龍包が汚染されているとは、先ず考えられな い。
食堂では1年前から現金扱いがなくなり、あらかじめ金をデポジットしたカ−ドしか使えなくなっているから、その意味では現金のやりと りで手が汚れることはない。でも、もしも手が初めから汚染されていたら、どうだろう。入っていた割り箸も手で持って袋に入れてくれたわけだから、汚染の可 能性はあるし、そんなことを言えば、プラスチックバッグの取っ手のところで手で結わえたところも、汚染される可能性がある。
こう思ってみ ると、たとえばパンはプラスチックの透明な袋に入った包装で売られている。内部のパンは綺麗かも知れないけれど、その袋は手で持つわけだから汚染されてい るかもしれない。いままで、洗うことの出来る缶詰や、瓶詰め、ヨ−グルトなどは買ったあとうちで流水で洗っていたが、パンの包みなどを洗うことは考えたこ とがなかった。でも、これからはこのように、人手に直接触れたものが汚染されている可能性を忘れてはいけないのだろう。
日本では今ノロウ イルスが流行っているという。その原因の全てが汚染された、たとえばカキのような二枚貝によるものでもないだろうと思う。集団で発生するのは、日本でも食 品の衛生的な取り扱いがおろそかになっていると言うことだ。食品を取り扱う人たちが手の滅菌を心がけるだけでなく、消費者としても、人手が触れることで汚 染の機会があることを忘れてはいけない。
2006年12月23日 (土) 生命科学部の創設
私が現在在職している瀋陽薬科大学は歴史をたどると名門である。薬科大学の日本語の教師にして私の友人である加藤正宏さんによると、
『瀋陽薬科大学は1931年11月20日 中国工農紅軍軍医学校として江西瑞金において創立されたが、実質は、1932年に中国工農紅軍衛生学校と改称されているので、中国工農紅軍軍医学校を母体としている中国医科大学と兄弟校と言える。
現 政権の建国直前(1949年7月)に、再度、医科大学の一学部となった時期があり、日本の敗戦(満州国の滅亡)の時に、国民党が接収し、国立瀋陽医学院と 名付けた旧満州医科大学の薬学系から、佐藤潤平教授を含む教職工22名に加えて学生110人のほか、実験器具、薬品、設備、標本、図書など受け継いでい る。』
中国には薬学の単科大学としては、瀋陽薬科大学のほかには南京薬科大学しかなかったから、瀋陽薬科大学は長年薬学の最高峰として中 国中で認知されていた。私が瀋陽薬科大学に時々講義に来たときは国立大学だったが、着任した2003年には国立大学から格落ちの遼寧省立大学に変わってい た。
それは、こういうことだろう。国の基本は教育にありということで90年代から大学が急増した。文教予算は中国でそれなりの額があるだ ろうけれど、世界に吾して一流の研究を進めようとすると、為替交換の比率から見て20倍の文教予算が必要となる。もちろんそんなことは不可能に違いない。 どうするかといえば、一極集中しかない。
というわけで、どのような基準で選別したかは知らないが、一定の基準を満たす国立大学と、それ以下の省立大学とにわけ、その中でも重点大学を指定して教育予算を配ってきたということだろう。
重 点大学になっていないと言うことは、研究費の申請資格がないだけでなく、隣の池島先生によると、中国に長年働くと申請できる永住権を保証するグリ−ンカ− ドも申請する資格がないという情けない三流大学の悲哀を味わうことになる。大学当局がそれで良しとするわけはなく、その局面打開に色々と画策をしてきてい る。
その一つが大学合併で、この地区の幾つかの大学を合併すれば、数字の上では学生数何万人となって全国的に数番目、教授の数でこれも数 番目ということになって、目出度し、目出度し国立大学ということになる。私たちがここに来て直ぐの2004年には合併の話が起こっていることを聞かされて いた。しかし、4つの大学が合併するとなると、なかなか纏まらない。事務部門ではそれぞれ縄張り争いがあったりするからだろうか。合併話が進んでいると か、それが壊れそうだと言う噂は何度も聞いた。公式には2005年の終わりの大学主催の忘年会で副学長の口から合併が本決まりとなったと聞いたが、今は国 に断られたらしいとかいう噂が流れている。
合併して引っ越しとなると私たちの研究生活にも、日常生活にも大きな影響が出るので気になるが、噂ばかりである。その中の話に「中国では何時いきなり引っ越しといわれるか分からない」というのがあるが、こればかりはどうしようもない。
と ころが最近、身の回りに関係のある変化が突然起こった。私はここに来て以来、薬学研究に於ける生物学的視野の必要性を訴え、したがってライフサイエンスの 中心をこの大学に作るくらいの気構えで大学を変えて行かなくてはと言っているが、先日、生命科学部を創設するという発表があった。薬学院に属している薬理 学科と、製薬工程学院の生化学・分子生物学科が一緒になって生命科学部となるという。共にこの大学では一番金回りの悪い学科で、私はこの後者に属してい る。
ライフサイエンスを目指そうというこの大学の高尚な理念か、あるいは、お荷物な貧乏学科を放り出してしまえと言うことかも。
学 内internetを見ると、新しい生命科学部の学部長、副学部長になりたい希望者は25日昼までに届け出なさい。26日に公開の講演会をしますという通 知が21日付で載っている。つまり裏ではどのよう談合があるか、そんなものはないのか知らないが、表向きは立候補の募集である。資格のあるのは当該学科に 所属の導師(博士学生を指導出来る資格)教授で、原則として55才以下だそうだ。しかも中国国籍に限るなんて書いてない。
ということは私 にも機会があるということだ。中国語の話せない私が手を挙げたって笑い話で終わるだろうし、私だって研究から離れて管理などやる自分には興味がないから、 ただの話である。しかし、今まで科学研究費の申請では定年を越えている、外国籍だから申請できないと言う具合に、資格外れだけを意識してきたから、今度の 募集を見ると自分が排除されてはいないと感じるわけで、実はとても嬉しいのである。
2006年12月30日 (土) 今どき大学院生のなげき節
薬科大学では学部ごとに年末になると盛大なパ−ティが開かれている。私の所属しているのは製薬工程学院だ が、年末のパ−ティに出席したのは2005年のことだった。2003年には恐らく私たちが所属していることを知らなかったのだと思うけれど声が掛からな かったし、2004年末にはパ−ティの3日前に声を掛けられて、その日は総領事館に出掛ける予定だったから参加できなかった。
2005年 の製薬工程学院のパ−ティに初めて出た時、知っているのは生化学科の数人の先生だけで、あとの180人は殆ど未知の人たちだった。にもかかわらず驚いたの は、私の誕生日が間近と知って、私のために誕生日のケ−キと祝いの言葉が用意してあったことだ。司会者が開会を宣言すると直ぐに学院の党書記(言うまでも なく学院長よりも地位が上である)がマイクを引き取って、何やら喋っている。私の隣の小張老師が「前に来なさいと言っているわ」と私を前に押し出す。ふわ ふわと前に出て行った私に大きな60センチはありそうな誕生日のケ−キの入った箱が党書記から手渡され、カラオケの「Happy Birthday」の音楽が高らかに鳴りだして、180人が私のために歌ってくれたのだった。
何十年と生きてきて、このようなことは初め ての経験だった。1月1日が誕生日だから、大体が人が集まるときではなくて家にいるし、うちにいると新年のおめでとうに紛れて誰も私の誕生日を思い出さな い。だから職場の全員が私のために祝ってくれるなんて生まれてはじめての感激の体験で、その後でマイクを握って述べたお礼の言葉がのどにつっかえ気味に なったのだった。
帰りに車で送ってくれた小張老師が、「今日はどうでした。楽しかった?又来年も出ます?」と訊くので、「初めてのことで とても感激したけれど、来年の新年会も同じように誕生日になってしまう、毎年私の誕生日なんて皆がしらけるから、来年はもうやらないと約束してくれるなら 喜んで出ましょう。」と返事したのだった。
この小張老師というのは、若い女性の助教授で、同じ生化学の教授が張先生なので区別のために若 い彼女を小張老師、ボスを老張老師と呼んで区別している。韓国で博士課程を終えそこでの研究で博士を取ったばかりの先生である。英語が堪能なのでもっぱら 私と大学との間の連絡将校を勤めてくれている
これが昨年のこと。今年も新年会があるからと言って招かれた。旧年中に開くのに中国ではこの 手の宴会を新年会と呼び、したがって会の席上では「新年好」と言う挨拶が飛び交うので、日本人にはちょっとなじめないところがある。そしてどうなっている のか仕組みは知らないが、この手の宴会は会費を出すことがないから、費用は学院持ち、つまりは出所は学生の授業料なのだろう。
今年の新年会は12月29日の6時からで、綺麗なレストランの一部屋で開かれた。二部屋をつなげて8 x 40 米くらいありそうな広い空間にテ−ブルが15個。1年経っても相変わらず見知った顔が増えていない。頼りは生化学の3人の若い先生だけである。
端 に舞台があって、まず最初はそれぞれの教室からの演し物があった。それぞれ歌を歌ったり。コントをやったりで、生化学からは掛け合いで研究者であることの つらさをからかった11人のコントだった。聴いていても全く分からないが、原稿を読むと何となく意味が分かる。それから発想を得て、私が勝手に創作した 『今どき大学院生のなげき節』は、以下の通りである。
末は博士か 大臣か
先を夢見て 大学院
一流雑誌に 論文を
載せられるよう ひたすらに
毎日がんばる 生活さ
良い研究を やるように
口で言うのは 簡単さ
教授は言ってりゃ 済むけれど
何時も言われる 身となれば
言葉の鞭で 追われてる
寝る間も惜しんで 働いて
仲間は誰もが やつれ果て
目の下真っ黒 ふらふらと
実験しながら 居眠りで
はっと気付くと また失敗
やっと休める 昼飯も
学生食堂は 満員で
見渡す限り 人ばかり
坐れる場所も ありません
5分で済ます 昼ご飯
結婚している 学生は
惚れて一緒に なったのに
妻は暮らしに 不満顔
結果を出して すこしでも
早く世に出て 儲けてね
まだ独り身の 学生は
男ばかりが 多い世に
早く相手を 見付けたい
だけどあまりに 忙しく
相手を見付ける 暇もない
こんな苦労を 積み重ね
やっとの思いで 博士号
とったところで 訊かれます
あなたはいったい 何処出なの
えっえっ?いったい 何処だって?
そんな大学 知らないわ
2007年1月5日 (金) 独り者集まれ
瀋陽大学は1月1日だけが公式には休みだけれど、暮れの30日土曜と31日日曜日を授業の日に振り替えて2 日3日を休みにしている。これは学部の学生の話で、研究はもともと土日も休みというわけではないから、同じような理由で私たちの研究室の2日3日を休日に する理由はない。と言うわけで、私の教授室の白板には『只元旦休息』と書いておいた。休みは1月1日だけだぞと言う意味である。
それで元 旦は休みにしたけれど、私は一人でうちにいても意味がないので土曜も日曜も、そして元旦もラボに出掛けた。11時頃、敢さんが誕生日のケ−キを提げて『生 日快楽』ということで、ご主人と一緒にやってきた。ご主人は飛行機会社の設計部に務めていて、飛行機の機体の設計図を、実際に部品が作れるような行程にわ けてコンピュ−タで設計する部署にいるという。中国にいると言うか、瀋陽に住んでいると、コンピュ−タのソフトに強いという人に良く出会う。
敢 さんのご主人もそのひとりである。私が以前在職していた東工大はさすがに理系の最高学府だけあって、私の研究室にもコンピュ−タのソフトにめっぽう強い仲 田さんのような学生もいたが、一般的には中国の方が理系に強い人が多いような気がする。政治家だって理系出身なのが中国だ。
元旦は公式に は休日にしてあるけれど、瀋陽にうちのある学生は実家に戻ることが出来るが、うちのない学生たちは大学の敷地にある寄宿舎に住んでいる。結婚しているか恋 人のある学生はこの日は一緒に過ごす相手がいる。と言うわけで、独り者の私は、ホ−ムレスの家なき子と、ラブレスの恋なき子たちに夜は一緒に食事をしよう と誘っていたのだった。大学の近くで歩いていけるところで、安くて美味しいところを探して学生に聞くけれど、学生は自分の懐で行けるような所は、あんな所 は美味しくありませんという。この際、連れて行って貰って美味しいものを食べたいのである。
と言うわけで、大学の西門の斜め先にある湘香 餐庁に電話をして予約した。私のほか、大勇、王毅楠、暁東、暁艶、陳陽、楊方偉、秦盛蛍、曹亭の総勢9人である。ここは胡北省の料理で、胡北省は陳陽くん の出身地である。したがって彼がメニュ−を見て決めるのは当然という感じになった。『陳陽に選ばせては、値段の張るものばかり選んでしまって駄目だから、 ほかの人手伝ってよ。』と私が喚く。王毅楠くんと秦盛蛍さんは河南省の出で、私の頭の中の地図では湖北省と近いのだ。でも二人ともにやにやしている。陳陽 の選ぶ方が美味しいに決まっているからだ。
9人くらいで円卓を囲むと、皆で一緒の話題が共有できる。隣とだけぼそぼそと話している食事は ごめんだ、人数は制限されているとはいえ、これは私たちの研究室の新年会なのだ。それで、日本語の『一年の計は元旦にあり』中国語で何というか楊くんに訊 いた。すると彼は『一日之際在于晨』というのであって、一年というのはないという。王毅楠くんに訊いても、そうだという。仕方ない、それじゃ作ろうと言う ことになって、『一日之際在于晨 一年之際在于春』という対句が即席で出来上がった。それにしても、どうして中国には『一年の計は元旦にあり』と言うのが ないのだろう?
料理が3点運ばれて来たところで私はお茶のコップを持って「じゃ、始めましょう。Homelessとlovelessの新 年会です。でも『一日之際在于晨 一年之際在于春』といいますから、食事しながらそれぞれの今年の目標、夢、希望を述べませんか。私は、生きていると毎日 が新しい刺激的な冒険であることに気付きます。この冒険が長く続くよう健康に留意しようというのが今年の決意です。」と挨拶して乾杯の音頭をとった。学生 諸君は青島ビ−ルである。ここは安いレストランではないから、瀋陽産の雪花ビ−ルを置いていない。
皆それぞれ今年の抱負を述べて陳陽くん の番が回ってきた。彼は184cmもあるけれど身体は細いので、彼の第一の希望は筋肉を付けると言うものだ。第二が両親から毎月貰う小遣いが600元にな らないかというのである。大学から貰う奨学金が月に200元ある。合わせて800元になるわけだ。最近の大学での最低賃金と同じである。月に800元も要 るの?と隣の王くんに訊くと、それだけあれば2ヶ月は楽に暮らせますという。贅沢なのだ、彼は。
もっとも、蔡依林のコンサ−トのDVDを 持っていて快く貸してくれるのは彼だし、私も彼の贅沢の恩恵を受けているわけだ。勤め始めた同級生が両親に仕送りを始めているというのに、自分たちは親に 頼っていることを殆どの院生が気にしている中で、彼は異色の存在である。Going my wayと言うと恰好いいけれど、別の言い方をすれば、まだ幼いと言うことになるかも知れない。
2007年1月10日 (水) 新しい学部が出来た
年末の12月30日付で発行された瀋陽薬科大学報の第一面に、「『国際薬学合作研究中心』および『生命科学 及生物製薬学院』成立」と大きく出ている。目を通すと、これからの薬学研究と教育は基礎が先ずます重要になり、さらに高度に科学技術的に国際的に発展方向 に向かわなくてはならない、しかも国内及び国外に影響力を与えなくてならないから、この二つを作ったと書いてあるようだ。
すでに本学には 9つの合作研究室があるとも書かれていて、別の表に私たちの研究室の名前が書いてある、隣の池島教授も載っている。大分前に北海道薬科大学先生が兼任教授 となって作った研究室があって、その教授が退官したあとこちらの責任者の助教授が昇格して教授になっている研究室の名前もある。
私も隣の 池島先生も日本人だから、国際的な研究室と言うことなのだろうか。だけど、日本とつながりを持って教育と研究をしているわけではないし、それを目指してい るわけでもない。ここの学生を世界の一流に通じる研究者の卵に育てることこそが念願である。研究に国境はないから、国際的と言うなら研究そのものがそうだ し、そんなことを言えばわざわざ国際と銘打つのもおかしいわけだ
もちろん私たちの所の卒業生で今まで日本を含めて海外に行った学生もいる が、こう言うのを国際協力というのだろうか。日本に行った学生たちも、(感心にも)自分たちで勝手に進学先を選んで日本の大学院に入った学生が半分くらい いるし、カナダの大学院に進学している譚くんも卒業研究の時に自分で大学院はカナダに行くと決めていて、私は推薦書を書いただけである。この夏に博士をで る予定の王くんはアメリカに行きたいといっているけれど、何も私の功績ではない。彼がそうしたいと思っているからである。
この大学の出身 者で今アメリカで教授をしている景先生がこちらに持っている薬理研究室も名前が載っている。私たちと同じフロアなので様子がよく分かる。1年に2回くらい 合わせて1ヶ月くらいこちらに来て学生を指導しているが、先生不在の時が長いのに、学生は何時も真面目に実験をしているように見える。これならば国際的な 合作と言えるだろうと思う。
昨年日揮という日本のプラント会社がこの大学に作った寄付講座も名前が挙がっている。これは日本の企業が金を出しているから、こちら側は何をしているか知らないが、合作の名前に値するかも知れない。
私 たちは生化学に属しているので、今までの製薬工程学院から『生命科学及生物製薬学院』に所属替えで、なおかつ組織横断的に『国際薬学合作研究中心』という 名前の下にも入るのかと思ったが、いろいろと人の話しをきくと、初めから『国際薬学合作研究中心』と言う組織に所属替えをするみたいである。となるとこの ような研究室を集めてひとくくりにすることが、どういう狙いで、どういう効果があるのか気になる。
新聞を読んでも、そういっては何だが、 中国はスロ−ガンの国、美辞麗句の国だから、きれいで格好の良い言葉に操られて何が何だかよく分からない、とぼやいていたら、生化学教師の主任で、私の所 との連絡係(liaison officer)ということになっている小張老師が説明に来てくれた。
彼女の説明によると、『国際薬学合作 研究中心』を作った主要な狙いは、外国人の教授がここで研究費が取りにくいのを何とかするために作ったのだという。どういう戦略があるのか分からないが、 9つの研究室を集めることで研究費が取れるようなら、それは大変結構なことである。主任が学長の兼任で、副主任が今までの研究生処(大学院教務課)にいた 人だそうだ。今まで事務官僚組織にいてこれからは専任でこの任に当たると言うから、当然何か業績を挙げることを狙うだろう。それが外部からの研究費導入な ら、もちろん双手を挙げて賛成である。
ともかく国際中心の方針はまだ確実に決まっているわけではないそうで、私たちはとりあえず『生命科 学及生物製薬学院』に所属するのだそうだ。なるほど。私たちは今までのように生物化学に属しているのが無理がないし、その上で必要なら組織横断的な国際研 究中心の一つとしても数えられるというのならいいだろう。
名刺も作り直さなくてはならない。『国際薬学合作研究中心』はどういう名前にな るだろうか。International Center for Pharmaceutical Researchだろうか。いや、最初の所にresearchを入れた方が良い。International Research Center for Pharmaceuticsかな。
2007年1月15日 (月) 論文報奨金
生化学教室の主任の小張老師から、昨年発表した論文を集計する時期になったと、連絡があった。ただ届けるだけではなく色々とあるようで、英語ではらちがあかず、電話は学生の王麗さんに渡して、後は任せた。
王 麗さんが言うには、論文の別刷りそれぞれ1部ずつと、電子ファイルが要ると言うことで、別刷りは手渡し、電子ファイルはmailに添付して送った。王麗が PCに向かって何やらごちゃごちゃ言っていると思ったらそばに来て、「大学からお金が出ますよ。誰と分けたいですか?」と訊く。
突然こんなことを言われたって何のことか分からない。お金が出るのはいいとして、何で皆にお金を上げなくてはならないんだ?
論文の出版に要した費用かと聞くとそうでないという。大学から出る金は、論文の載った雑誌のインパクトファクタ−が2.0以下だと800元で、それ以上だと3000元だという。つまり報奨金みたいなものらしい。
こ のインパクトファクタ−とは、学術雑誌の評価の基準となっているもので、だれかが論文をある雑誌に出版するとする。すると、その後のある年度1年間に、そ の論文が新しい論文に何回引用されたかを表している。著者が自分の論文に以前の論文を引用するのは普通だから、これは統計には入れられていない。インパク トファクタ−1ならば、その年には1回引用されたことを示している。このインパクトファクタ−を著者ごとに集計して、それを雑誌ごとに出して Science Citation Indexが毎年発表している。
私たちの領域の専門誌であるJournal of Biological Chemistryが5-6くらい。細胞生物学の最高峰のCell、有名なNatureやScienceだと20を越えている。昨年出版された一つの論文 は一昨年夏には送っていて、だから2005年度に出版されると思っていた。これは亡くなった井上康男先生への追悼号で広く原稿を集めたためか出版が遅れて 昨年夏にやっと出版されたものである。このGlycoconjugate Journalは、その頃1前後だった。だからこのfirst authorだった王麗は、この雑誌のインパクトファクタ-が高くないから、大学の奨学金申請を見送ったといっていた。このGlycoconjugate Journalのインパクトファクタ-が高いかどうかにかかわらず、追悼号だから、私としてはその雑誌に出さなくてはならなかったのである。
PC を見ていた王麗が奇声を上げた。驚いて見ると、彼女は2005年度はこの雑誌は3.6ですよ。とうわずった声で言っている。3.6なら、このインパクト ファクタ−は悪くはないわけだ。評価の高い雑誌に自分の論文が出ていたと知って彼女は顔のニタニタが止まらない一方で、奨学金の申請をしなかったよう、と 言って嘆いているわけだ。
ついでに訊くと、もう一つの胡丹くんのMMP-9の論文は3.0なのだそうだ。Biochemical and Biophysical Research CommunicationsよりもGlycoconjugate Journalが高いというのは信じにくいが、近年糖鎖生物学への関心が高まっていることを反映しているのかも知れない。
ともかく昨年の 論文2報がそれぞれインパクトファクタ−が3.0以上なので、それぞれ3000元が貰えるのだという。但し、「ひとり800元以上になると税金が取られる から、受け取るのは分割した方が良いですよ。分けても集めてあとで先生に全部上げますからね。王Pu、私、胡丹、貞子先生、それに先生の5人でわけてうけ とりましょう。」という。
論文を出すと一人一人に大学がお金を呉れるという仕組みを聞いてまだ消化しきれないから、はかばかしい返事が出 来ないが、研究費として返ってくると思えば断る理由は全くない。2004年にも論文を出しているがこのような話しはなかった、と、ついみみっちいことに考 えが及んでいく。どうしてだろう。
大学が呉れる研究以外の研究費は全部私たち個人で出しているから、うちの研究室の学生はこのような報奨 金が入ったら研究費に還元するのは当然と思っているが、これが学生個人の懐に入るなら学生もつい真剣になって研究をするのではないか。何しろ秦の時代、敵 兵を一人殺して首級を挙げれば位が貰えるという恩賞制度で国を強くしたという伝統が生きている国である。
充分な外部研究費があれば、学生 に論文報奨金を上げられる。つい一瞬、学生は賞金に釣られて春節休みも休まず実験をするという贅沢な白日夢を見てしまった。但し学生が春節休みも帰省しな ければ、こちらも日本に戻れない、日本に戻ったら、ソバを食べよう、ウナギを食べよう、温泉に浸かろうという夢が消えてしまう。つまるところ今は、なかな かうまいバランスの上に立って暮らしているのだ。