2週間の夏休みを終えて瀋陽に戻った翌日の25日の朝、瀋陽日本人会副会長の高木さんからmailが入っていた。
『皆様のご尽力の下、5月20日に新しい「日本語資料室」が立ち上がったばかりで、誠に心苦しく存じますが、「開元大夏」オーナーの赫さんからのお話を下記連絡させて頂きます。
経緯:
ご存知の如く「開元大夏」は多くのテナントが入居しておりますが上海の「錦江集団」が、4階〜12階までの1.1万M2を18年間契約で借り受けることになった。
本集団は中国各地で経済性飯店(東横INのようなスタイル)を経営しており、本スペースも全てホテルとして使用する。
11月1日より全面改装を行うため、既存テナント(自分の執務室も含め)には10月末迄に転出頂くよう正式通知を出した。
対応とお願い:
皆様の移転先については「和平区政府」と何度もお会いし、大所高所から本資料室の意義を説明し、下記(*)のビルの3階(100M2以上)を無償で貸して頂けることになった。
移転に伴う経費負担、移転後のエアコンの設定などは責任を持ってやらせて頂くことをお約束する。
皆様には移転早々大変なご心労とご迷惑をおかけすることになってしまうが事情ご賢察の上、何卒ご了解頂きたく宜しくお願いしたい。
つきましては、早急に移転先を視察頂きたい。先ず和平区政府を訪問、担当局長に挨拶の後、現地にお連れ頂くことを考えている。
*西塔近くの「和平区国際孵化器〜」中小企業支援センターの建物』
一 読してショックで言葉も出ない。今年の3月、それまでの資料室が大家の都合で移転せざるをえなくなり、資金の全くない私たちの行き先探しでは全く当てもな く大変な思いをした。幸い、状況を見た方々から温かい支援の言葉と戴いた。特に、在瀋陽日本領事館、瀋陽日本人会、朝日新聞社の方々から助けて戴き、親日 家の中国人青年実業家の赫さんから実際の建物提供申し出を受けて、5月に開元ビルの6階の一画に新しい資料室として引っ越すことが出来たのだった。
6月末には関係者を招いてお礼を籠めて新しい資料室の披露を行った。その後は教師会としては直ぐに夏休みだったので、広々と気持ちの良い資料室を十分利用する間もなく、再度の引っ越しの必要に見舞われたわけだ。
ショックから醒めてみると、オ−ナ−の赫さんは私たちに無料で資料室の場所を提供してくださったばかりか、自分の都合で私たちに引っ越しをさせなくてはならなくなったにせよ、夏休みの間で教師会の誰もいない間に次の移転の場所を見付ける努力まで自らやってくださっている。
これは凄いことだ。というのも、中国で日本人教師会という非公認の一任意団体が自分たちの活動のために拠点となる部屋を借りると言うことの難しさを、この春の引っ越しの時に十分私たちは学習しているのである。
そのような状況の私たちのために、すでに和平区の政府に頼んで私たちの資料室の受け入れ場所を確保したということは、信じられないほどの厚意と実行力、及び赫さんの実力である。何しろ私たちの資料室は、任意団体が運営しているというだけでなく、150平方米の広さのテナント料が払えないというのに、その組織のために場所を確保できたのだから。
山形 達也
年8月28日 (月)
和平区政府に出かける
今私たちの資料室の入っている開元ビルのオ−ナ−の赫さんにはじめに紹介して下さったのが日本人会副会長の高木さんだった。話が全部纏まるまで、全ての交渉に立ち会っていただいたほか、契約書の日本語訳まで綿密にやって下さって、全て高木さんにお世話になったのだった。
今回私たちの再度の移転の話では、連絡が高木さんからあっただけでなく、和平区政府の高官と会うのも、新しい場所を管理する責任者に会うのも、全て高木さんがお膳立てしてくださった。
8 月18日月曜日10時、開元ビルで出会って、私たちは和平区政府に出掛けた。在瀋陽領事館の森文化担当領事、高木さん、彼の部下の馮さん、赫さんの部下の 劉さん、教師の会の峰村副代表、鳴海副代表、そして私である(南本代表は受業があって来られなかった。私は何でもない立場である)。
大きな建物の和平区政府の4階の広々とした招致局の執務室に通された。紹介された局長は40歳そこそこの朱さんという美しい女性である。副局長も出席して総勢10名が部屋の隅のソファに座ってもまだゆとりのある執務室である。
朱局長は先ず今回の件で理解していること、つまり、
『日 本人教師の会が運営している日本語資料室がやむを得ない事情で引っ越しせざるを得なくなくなった。元々日本語資料室が開元ビルに入居したことも知っている し、和平区政府も影で支援してきたことである。今回の移転にあたり、政府の施設のひとつである基地の一角に、その移転の場所を和平区政府が提供出来ること は大変喜ばしいことである。』
日本語資料室を和平区政府も影で支援してきたこと というのは、一任意団体の、しかも日本人の使う施設の内容と存在を人民政府が全く知らないことはあり得ず、したがってオ−ナ−の赫さんを通じて、関知、あるいは承認していたと言う意味だろう。
ここで高木さんが隣にいた私を突っついて教師の会からご挨拶が必要ですという。隣の峰村副代表を省みても、やりなさいという身振りである。ここでごちゃごちゃしているわけにも行かず、私は教師の会の代表に成り代わって、とっさにお礼の言葉を述べることになった。
朱局長は、具体的に私たちが借りる予定の建物と部屋について述べ、今回の移転で、さらに和平区政府と資料室との結びつきが強まり、教師の会を通じて和平区のイメ−ジを日本に伝えたいということだった。
また話の最後に私がお礼ご挨拶を言うことになった。高木さんの部下の馮さんは阪大工学部出身で日本語が日本人と同じように巧みで、彼が通訳をした。
日 本語は中国語にすると、書いても話しても長さが3分の2くらいに短くなるのが普通である。それなのに、彼の通訳は私の言ったことより長い。きっと挨拶慣れ ない私が当然言わなくてはならない感謝の言葉を抜かしていて、それを補ってくれているのだろうと思って聞いていた。後で馮さんに確かめると、案の定だっ た。
山形 達也
2006年8月29日 (火)
科学技術孵卵器
その後、私たちは西塔の近くにある和平区の科学技術孵卵器の建物に現場を見に行った。乗り物は全て森領事の運転される車に便乗させていただいている。この施設は和平区政府の建物である、まずここの責任者の朱部長に引き合わされた。この部長さんも肢体の美しく引き締まった30代の女性である。
ここは中小企業のventure に政府が無償で場所を貸し与え、さあやってご覧と言うための建物のようである。電話代、internet代、そして夏季の空調運転費用は自分たち持ちだ が、部屋代、高熱水道費は無料だという。日系、韓国系のventureがすでに入っているという。NECの合弁も入っているとか。
聞いてみると貸し出し期間はひとまず2年で、延長もあるという。延長した例があるかと聞いてみたら、2005年から始まったので、まだ更新したことはないという返事だった。至れり尽くせりのventure育成に思えるが、どのような基準でventure企業を選ぶのだろうか。
2階の部屋を見せて貰った。一部屋30平方米くらいの広さで2部屋を貸しましょうという。二つでは狭い。3部屋欲しい。実際3部屋隣り合っている。
上の階には小部屋の会議室が3部屋と、5-60人はいるホ−ルがあり、ここも予約すれば使えるという。むしろ、それぞれの部屋に会議室を作ったりしないで、積極的に会議室やホ−ルを使うようにということだった。そういうことなら、日本語資料室も2部屋でやっていけるかも知れない。
ここで昼過ぎになった。このような施設全体の責任者に午後4時に会って細部を詰めると言うことになって、一旦ここで解散した。私たちは森領事に薬科大学まで送っていただくことになった。ありがとうございました。
さて、次は3時半に在瀋陽日本領事館に集まった。今度は教師の会の南本代表も一緒である。午前中時間を割いて交渉に当たってくださった高木さんは所用で来られなかったが、代わりに高木さんの部下の阪大卒で日本語ぺらぺらの馮さんが来てくれた。
4時に午前中訪れたビルに行くと、朱部長のほかに、科学技術局長の印さんが私たちと会って話を詰めようと待っていて下さって、約1時間余りの会談が始まった。状況の説明と橋渡しは今度は高木さんに代わって馮さんが務め、しかも彼は通訳も兼ねていた。
どのような目的でここを使うのか、日本人教師の会とは一体どのようなものか、という説明を南本代表がして、この説明を印さんは受け入れたようだ。しかし、最終的には政府の認可が必要なので、日本人教師の会の活動、日本語資料室の活動、の説明を2-3枚に書いて文書で提出しなさい。それで問題なければ受け入れましょう。
開元ビルとの契約書も見せなさい。それの内容で必要な修正を施して契約書が作れるでしょう。
ということになった。条件は朝聞いたとおり、部屋代無料、ユ−ティリティ無料、夏季はク−ラ−1台につき150元。電話、internet代金はこちら持ち。契約は2年。
2年経っても私たちはventureが育つみたいに育つ組織ではないので、心配なところがあるけれど、朝、和平区の招致局で聞かされたように熱烈歓迎なら、その先を心配することはないだろう。大事なことは、私たちの存在が役立つことであろう。
というわけで、後は私たちが教師の会と日本語資料室の活動について説明の書面を提出すれば(そして受け入れられれば)、何時でも引っ越しできると言うことのようである。
後は、全てがうまく行きますように。今回も多くの方々の好意に頼っている。ありがたいことである。日本語資料室の存在を出来ることならもっと意義のあるものにしたいものである。
山形 達也
2006年8月30日 (水)
藤原 英弥先生
藤原 英弥先生から、教師の会が何時の頃からあったのかという問いに返事があった。
山形先生:
メール有難うございます。夏休みに医科大学の渡辺先生と盛岡でお会いして教師会のことは伺っておりました。先生のことも。
さて、ご依頼の件:
私は1996年に鉄嶺の瀋陽中華国際学校に赴任、2年間いました。その後、中国医科大学へ。
手帳を見ますと1996年10月5日に遼寧大学で在瀋陽日本語教師会があったという記録があります。私も出席、これは総会と歓迎会でした。総領事館の領事二人も出席していました。
1996年の写真を探せば出てくると思いますが、20名以上集っていました。遼寧大学の潮田先生・瀋陽大学の山下先生などすぐ思い出します。
遼寧大学の日本語教師を中心にこの年以前から日本語教師会があったようです。遼寧大学の日本語文化祭、瀋陽日本語弁論大会等を実施していました。会場は遼寧大学でした。
石井先生が遼寧大学に着任(1998年?)してから関西遼寧会等の援助で集会所等ができていった・・・・・・・・
私が鉄嶺にいた当時は春に花見の会も実施して親睦を深めておりました。
歓迎会・送別会には領事さんも招待?二次会は領事館持ち。
以上の状況報告でよろしいでしょうか。遂に今年も瀋陽訪問を果たせませんでした。
皆様によろしく、といっても両渡辺先生しか面識はありませんが。
今年の2月に岩手県の医師不足の解消策として、中国医科大学の産婦人科医師高嵩さんを招聘、現在岩手医科大学で修練医師として活躍中です。
以上簡略なご返信まで。
山形 達也
2006年8月31日 (木)
日本語資料室って
和平区政府の施設を借りるために日本語資料室と日本人教師の会の説明が必要と言うことになった。
南本代表が先ず原案を作り、鳴海、峰村、そして山形の三人が検討し、最終的な説明が出来上がった。
8月31日は南本、峰村、山形の三人が夜3時間集まって今後の方針を検討した。和平区政府の建物が借りられようなら、今の資料室を9月中に引っ越そう!
伊藤忠の瀋陽事務所代表の高木さんが、今回の件でも仲介の労を執って下さっている。現在の場所を借りるときの契約書は高木さんが全部翻訳して下さったし、両国語に堪能なスタッフを抱えておられるので今度も翻訳をお願いした。快く引き受けて下さった。ありがたいことである。
私たちの作成した文書は、日本語では以下の通りである。
『瀋陽日本語資料室』
開元ビル6階618号室
瀋陽市和平区南五馬路135号
電話:2324−2303
「瀋陽日本語資料室」は大阪のNPO「関西遼寧協会」(1985 年から遼寧省政府をはじめ多くの関係機関と友好交流している特定非営利活動法人)、「市岡国際教育協会」(在日外国人に対する日本語日常会話教室を開いて いる特定非営利活動法人)の支援と協力を得て2000年6月に小北辺門の日本企業の借りたビルの3階に設立されたものである(当時の住所は、大東区北関街 33号1門)。
「瀋陽日本語資料室」の設立経緯及び現状については教師の会のHPの中を参照いただきたい。http://www.geocities.jp/kyoshikai_shenyang/shiryoushitsu0.html
現在「瀋陽日本語資料室」には、「関西遼寧協会」及び支援団体から送られてきた書籍、日本政府の国際協力基金から寄贈された教材と書籍、個人からの寄贈図書、ビデオテープ、各種日本語を勉強するための辞書や参考書、小説、新聞、週刊誌、指導用教具・教材等を含め約5000冊(点)ある。
われわれ教師はこれらの資料を活用して日々研鑽に努めているところである。と同時に日本語を学習している学生を主体にこれらを貸し出している。借りる希望者は資料室で氏名等を登録して「利用証」を作り、それを提示して「貸し出しカード」に記入することで、もちろん無料で借りることができる。貸し出し期間は最長2ヶ月までとなっている。2006年8月現在資料室を活用する登録者は1300人を超えている。貸し出しは我々教師の学校勤務が休みの日に限られるので、原則として土・日曜日に限られる。
この貸し出しのための管理運営は教師の会の会員全員が協力して当たっている。
2006年5月には、このビルの借り主である日本企業の都合で、日本語資料室は移転せざるを得ない状況になった。幸い、和平区の開元ビルのオ−ナ−である赫子進氏より『以前自分が日本に留学したときに日本人に大変親切にされた、今度は自分の出来るお返しをしたい』という申し出を受け、開元ビルの6階に150平方米の場所を無償提供いただき、移転することが出来た。
2006年5月の移転までは、「瀋陽日本語資料室」は日本のNPO である「関西遼寧協会」の所有するものであり、「瀋陽日本人教師の会」はその運営を委任されているという形であった。しかし、この移転を機に、「関西遼寧協会」の所有の全ての書籍、機器、什器は、「瀋陽日本人教師の会」に所有権が移転された。つまり、「瀋陽日本語資料室」は、瀋陽で日本語教育に身を捧げる 日本人教師の集まりである「瀋陽日本人教師の会」の貴重な財産となったのである。
瀋陽で日本語学ぶ学生が利用するだけではなく、「瀋陽日本語資料室」がもっと広く中日友好に役立つようにするにはどうしたらよいかを、私たちは日夜考えている。
山形 達也
2006年8月31日 (木)
日本人教師の会とは
以下は和平区政府に提出する日本人教師の会の説明である。
『瀋陽日本人教師の会』
瀋陽日本人教師の会の発足の時期ははっきりしていないが、1996 年10月5日に遼寧大学で在瀋陽日本語教師会があったという記録がある。このときは瀋陽及び近郊(鉄嶺)の日本人教師のほか、総領事館の領事二人も出席し ていた。したがって、この年以前から遼寧大学の日本人教師を中心に、教師会として定期的な会合が持たれていたと思われる。教師会としての活動が形をなして きたのは、日本語資料室が小北辺門に出来てからである。
2006年7月5日現在会員は42人である 。
1 瀋陽日本人教師の会の趣旨
この会は瀋陽市とその周辺で日本語を使って教育・研究に携わっている日本人教師や研究者の集まりである。さまざまな経験や資格でここ瀋陽に来た私たちは、年齢や性別、経歴などを超えて、一人の人間、一人の日本人教師・研究者としてこの会に参加している。授業や研究を進める上で必要な情報・教材などをお互いに交換し合うこと、異国で生活する不自由さや面白さを話し合うこと、この二つが私たちのこの会に集う主たる目的である。したがって、この会の運営は会員全員で分担し合い、協力し合うことによって進めている。そして私たちの活動をささやかながらも日中友好の一助にしたいと考えている。
2 会員資格(瀋陽日本人教師の会会則より)
○ 日本国籍を有し、瀋陽市とその周辺で日本語を使って教育・研究に携わっている人で、各教育機関から招聘状あるいは専家証を発給されている人およびその家族でこの会の趣旨に賛同される人で本会が認める人。
○ 年会費を納入した人
3 瀋陽日本人教師の会の主な活動内容
日本語を教える授業やその指導方法・研究を進めるために必要な教材を作成したり、教育に携わっている教師同士がお互いに情報交換したりする。そして、教師の資質を高めるための研修会も随時開催する。
毎年9月の年度始めの定例会(本年は9月16日)でこの会の趣旨を説明・確認し、役割分担と予定を話し合いで決める。その後は原則として長期休み期間を除き、毎月第2土曜日の午後、定期集会(「定例教師会」と言う)を開催する。
以上これらの会合は日本語資料室を拠点として開催している。
会員の親睦を図るための食事会(歓送迎会を含む)や、親睦旅行等も実施する。
3-1 各種行事への協力
○ 瀋陽日本人会が開催する瀋陽日本語弁論大会への協力
中国人の学生が参加する日本語弁論大会を協賛し、その企画、運営、審査には教師の会全員が当たる。参画については別途実行委員会を組織し、主催団体(主管 瀋陽日本人会、共催 瀋陽市人民政府外事弁公室、瀋陽市教育委員会)や機関との連絡を密にして、特に弁論大会設立の趣旨の継承に努力する。
○ 在瀋陽日本国総領事館が主催する日本語文化祭への協力
領事館が開催する「瀋陽ジャパンウイーク」の期間中に1日、日本語文化祭が開催される。これは日本語を学んでいる中国人の学生の日ごろの学習の成果を発表するまたとない機会であるので、各大学等へ奮って参加するように呼びかけている。
と同時に、この行事は領事館と密接な連携のもとに、主として教師の会が事前の立案・企画から当日の運営まで携わっている。
○ 領事館の施設や設備等を活用しての自主的な行事の開催
領事館には日本文化の紹介の学習に大変役立つ日本の伝統的な遊び道具、雛人形等も取り揃えておられるので、今後、われわれ教師は、領事館とも協力して、こういった文化面の体験学習も行っていきたいと考えている。
○ その他、各種行事等への参加協力
主として領事館が関係する行事等で、中国人の日本語学習の一助になると思われるものに対しては、これを各大学の学生たちに紹介し、参加を呼びかけている。もちろん、教師だけが関係する行事には教師の会会員が積極的に参加している。
○ 日本語クラブの発行 年3回発行
○ ホームページの維持 会の広報と活動の歴史の記録
3-2 日本語資料室を教師の会の有形の財産として持ち、これの有効利用に努めている。
現状の利用形態は「瀋陽日本語資料室」の項を参照いただきたい。
4 今後の「瀋陽日本語資料室」活用について
この資料室の利用は日本人教師や日本語を学ぶ学生などに限らず、将来、中国人日本語教師、瀋陽日本人会会員はもちろん日本語の資料や図書等を必要とする人なら誰でも利用できるようにしたいと思っている。
当面は瀋陽日本人会と連携を密にして会員の方々の積極的な利用を望んでいる。その場合中国の国情に反しないようにすることは当然である。
山形 達也
2006年9月3日 (日)
小林美恵子先生
1989-1990年と、二度目は1999年-2000年に瀋陽で日本語教師をされた最上先生が色々と調べてくださった。そのおかげで、1994年-1995年に瀋陽工業大学におられた小林美恵子先生からmailがあって、その頃の様子を知らせてくださった。
小林美恵子です。
さっそくにメールありがとうございました。
私の日本人教師の会の経験は、最上先生を通じてお知らせしたとおりです。これは自分の記録を確認してお返事しましたので、日にち、場所等は間違いないはずです。教師の会の「歴史の証言」(すごいですね、なんか!)としてHPに保存してくださってもちろん、かまいません。
さらに具体的にというお話ですが、うーん、場所は遼寧大学の中でしたがどの建物・部屋かまではわかりません。その日原土先生(講演者)は奥様とご一緒でした。会費は一人50元(ははは!これは確かです。息子と2人で100元とられぎょっとした。当時としてはけっこうな額だったんですよ)覚えているのはそんなところでしょうか。
私は東京都から派遣されて94 年9月から翌95年8月まで瀋陽工業大学におりました。当時小学校4年だった息子と2人で行き(何も知らずに連れていったんですが、向こうでは旅費その他 も2人分負担しなくてはならないということでだいぶ顰蹙ものだったようです。)、息子は現地(鉄西区)の景星二校という小学校に1年いました。私としては とっても楽しい1年間で、是非任期の延長をと申し出たのですが、東京都は許してくれず・・というわけです。
ただ、最初に日本人教師の会に出席したときはこれから最初の寒い冬に突入という時期で少々不安な時期だったこともあり、この会に参加していたのが瀋陽市内だけでなく少し郊外のかたも多かったようであること、その後特に親しくしていただいた中国医科大の鮫島先生一家は多分まだ赴任前だったことなどもありで、あまり個々人の先生方の印象が残っていません。
世話役は神奈川県の教員として遼寧大学に派遣されていた佐藤英二郎先生でしたが、このかたとは今はもう連絡がありません。そのほかに遼寧大学には伊豆蔵恵美子さんという方がいましたが、このかたは、私が行ってまもなくにお帰りになったように思います。前島正吾先生には多分このときお目にかかったような気もし ます。たしか山梨県出身のかたがいらっしゃいました。
私の赴任前、2 年間工業大学にいた藤井達也先生が熱心に世話役をされていたということは佐藤先生から伺いました。彼のメールアドレスは最上先生にお知らせしましたので、多分そちらに情報が行くと思います。彼は埼玉県から派遣された方で、今は埼玉の高校で中国語を教え、中国語の雑誌などに連載をもたれるなど活躍していらっ しゃいます。
そのほかに、私が当時知っていて、今も連絡先が分かる方を以下にお知らせします。ご連絡をされる場合は小林から紹介されたと書いてくだされば大丈夫だと思います。
この夏も大連から瀋陽経由で長春まででかけた知人に話をききましたが瀋陽も今は直行便もあるし、だいぶ変わったようですね。鉄西区については3 年ほど前に王兵という若い監督が9時間の長編ドキュメンタリー映画『鉄西区』を作り、日本でも山形映画祭その他で数回公開されました。懐かしい?場所も写されてちょっとジーンとしましたね。できれば一度再訪してみたいもの、などとも最近は思っています。30人規模の補習校ができている、というのには驚きますし、頼もしいかぎりです。
便利になったとはいえ、いろいろ大変なこともある生活かとお察ししますがどうぞお体に気をつけてますますご活躍ください。こんどゆっくりHPも見せていただきます。それでは取り急ぎお知らせまで。
山形 達也
2006年9月4日 (月)
藤井達也先生
最上先生あてに、1992-1994年に瀋陽工業大学におられた藤井達也先生が、最上先生に教師会の始まりのことについて書かれた文書を戴いた。藤井達也先生は何と、教師の会を初めて作った先生である。
最上先生
ご無沙汰しております。藤井です。
「日本人教師の会」は誠に僭越ですが、私が作りました。
当時、日本人日本語教師が増えてきたのと私の瀋陽工業大学の授業が、調整が悪かったのかコマが少なくて、時間的に動けたからです。
各校訪問ということで、瀋陽工業大学や色々なところで持ち回りで食事会をしたりを1.2ヶ月ごとにしていました。食事だけではなく、部屋を見せていただいて、みんなそれぞれ不便なところで頑張っているんだなあと勇気づけられたり、生活の工夫などを学び合っていたように思います。初回の頃は社会科学院で教え ていた宮沢さんという方に「言い回しのニュアンスや語法の違いを例を挙げながら説明した」という報告?をして頂いたりしたのですが、このような授業実践報告を義務的にしてしまうと集まりが悪くなるということもあり、現場や授業で苦労していることなどを話し合ったり、悩みを話し合ったりするような感じが多かったように思います。シルバーボランティアでいらしていた割と年配の方達にはたまに日本人と話すだけでもストレス解消にはなっていたように思います。
最初は領事館の文化担当の梅沢さんというかたに来ていただいて協力して頂いたりしました。北海道開発庁(当時)の出向の方だったと思います。
アルバムを見れば、みんなで撮った写真などが出てくるし、名簿も出てくるかもしれません。名簿も最初の頃は私がワープロで作りました。
私がいた頃は遼寧大学には大平先生という方がいらして、その後、佐藤栄二郎先生がいらっしゃいました。大平先生がいた頃に始めたという記憶があるので、92年の末くらいかなと思います。日記を探せばもっとわかるかもしれません。
あと、ざっとホームページを見たのですが、遼寧大学は神奈川の県立高校の先生が派遣されていて前のメールに書いた佐藤さんの次が潮田先生だと思います。
潮田先生のように今中国語の授業を持っている方とはおつきあいがあるので連絡が取れます。
私は今、高等学校中国語教育研究会・略称「高中研」の代表理事をしており、そちらでも何かお役に立てるかもしれません。
山形 達也
2006年9月4日 (月)
最上久美子先生
1989年、1999年それぞれ1年間瀋陽で日本語教師をされた最上久美子先生から教師の会のことについて返事を戴いた。
小林美恵子先生、藤井達也先生から当時の様子を書いた手記が寄せられたのも、最上先生のおかげである。
私のいた頃(1989年)は、「教師の会」というような形はできていませんでした。それ以前は連絡や活動があったかどうか、分かりません。
1989年という年は、その6月が天安門事件の年で、私の行った9月はまだ危険だという事で、外国人教師はかなり国に帰ってしまったままでした。私自身、瀋陽工業大学の3階建ての外事処の建物に、一人で住んでいました。
瀋陽市全体で外国人教師も少なかった事もあり、市や省から晩餐会(日本人だけではない)に招待されたり、正月には日本領事館から招待されおせち料理をいただいたり、2泊の旅行(丹東)に招待されたりしました。また、遼寧大学で、留学生たちも一緒に、在留婦人たちとの交流を持った事もありました。その中で、親しくなった人たちと個人的な連絡をしていました。領事の方とも親しくお付き合いできました。
渡辺文江先生は、その頃すでに遼寧大学滞在4年目だったかと思いますが、私とは個人的に親しくお付き合いさせていただき、授業の事など教えていただきましたが、あまり集まりにはおいでにならなかったように覚えています。でも、お聞きになってみてください。
一大学内でさえ、何の引継ぎも連絡もなく始めなければいけなかった経験から、次の先生方に引継ぎの連絡を持つように努力しました。幸いに続々と素晴らしい先生たちに恵まれ、工業大学においては、私の後少なくとも、平野先生、藤井先生(霜鳥先生と一緒)、小林先生、降籏先生まで確実に連絡がつながります。ま た、私は、1990年に帰国した後も、95年まで工業大学と関わりましたので、代々の先生方とも親しくさせていただけたと思いす。
平野先生から、日本人教師の名簿ができた、と頂いた記憶がありますので、会を作る気運ができつつあったかと思います。だから教師会としてまとめて出発できたのは、藤井先生のお働きでしょうね。(この名簿は捜しているところです。)
余談ですが、工業大学のあった鉄西区は工業地で、当時市内で最も空気が悪く、他の学校の先生たちは敬遠して来てくださらず、こちらから出かけなければお会いできませんでした。
また、当時の交通は、タクシーは危なくて一人では乗れず、今よりひどい状態のバス(汚いし混んでいるのはもちろん、自転車の方が早いし、すぐにえんこして降ろされるなど)、また、当時の公安による外国人管理の面からも、私的にはちょっと動きにくかったかもしれません。
とにかく現在の教師会につながったという事は嬉しいですね。
山形先生という方を得て、日本人教師会の歴史が記録される事になり、(私の立場からは、)神様はなんと時にかなって素晴らしい業をなさるのかと、感動しています。先生、ありがとうございます。
山形 達也
2006年9月5日 (火)
降旗郁司先生
降旗郁司先生の最上先生宛のmailが転送されてきた。1995-198年の頃の教師会の様子である。
最上久美子様
こんにちは!
東京の小林美恵子先生からメールを頂きましたので、ご返事いたします。
私が沈陽工業大学にいましたのは、1995年8月から翌年1996年7月までと
1997年8月から1998年7月まで、です。そのとき、すでに沈陽日本語教師の
会が組織されており、ときどき会合がもたれました。最初は中国医科大学の
鮫島千春先生<九州・鹿児島県>が中心になって会をまとめてくださったと記憶しています。その後は遼寧大学の潮田(?)先生<神奈川県>がやってくださったと思います。
私 の2回目の赴任の折は、遼寧大学の広田真二先生(神奈川県)と吉川正国先生(大阪府)が会の責任者として努力してくださいました。海外青年協力隊派遣の若 い日本語の先生も数名おられて、皆一生懸命頑張っていました。その時、山形先生のメールの中に名前のある鉄嶺市の中華国際学校の藤原英弥先生(盛岡市)も おられました。
およそ10年前の事ですので、記憶が薄れていて詳細な部分については思い出しませんが、現在の沈陽日本語資料室のホームページを見て、日本語教師の会の組織や資料の整備・保管・管理など随分立派になったと感じました。
山形 達也
2006年9月7日 (木)
稲田登志子先生
稲田登志子先生から連絡があった。
山形先生
瀋陽ではお世話になりました。大変ご無沙汰しております。
HPの係りの記録の発足についての部分を読ませて頂きました。
山形先生を始め諸先生方が教師会のためにご尽力を尽くされていらっしゃるようで、とても感動致しました。
この度の資料室の度重なる移転につきましては、本当にご苦労なさって
いることと存じます。
山形先生と教師会でご一緒した会員の中では、渡辺文江先生の次に私が古くからの瀋陽を知る者だと思います。ご協力しなければと思いつつ、ご返事が遅くなってしまい申し訳ありまん。
HPの藤原先生のお手紙に「1996年10月5日に遼寧大学で在瀋陽日本語教師会があった」と書いてありましたが、確かにその頃が日本人教師会の正式な発足です。
報告書によると、96 年11月3日の教師会で97年1月11日の遼寧大学での弁論大会開催が決定されたと書いてありました。それで、第一回の教師会はそれ以前に実施されていた と思います。実家にある手帳を見れば、教師会の日にちはわかるとは思いますが、家の者に手帳の確認を頼めないので、はっきりした日にちの確認は今回の申請 には待ちあわないかと思います。HPへの記載のために次に帰省したときに見てみようと思います。
私は96年5月に赴任し、中国医科大で鮫島先生とご一緒しました。
鮫島先生に教師会のことをお伺いしたところ、瀋陽市内を中心に数人の日本人教師が不定期に食事会をして、仕事や生活面での情報交換をしているが、市内の日本人教師全員に呼びかけて組織化しているわけではなく、勉強会や行事の開催は行っていないとのことでした。
市内で活動していた4名の協力隊員からは教師会があるという話は聞きませんでした。また私は当時、協力隊員として、赴任当初に領事館にご挨拶に伺いましたが、当時の広報文化担当の畔津領事からは日本人教師会の紹介はありませんでした。
本格的に教師会の活動が組織されたのは、96年の新学期が始まってからでした。神奈川県派遣の遼寧大学の潮田先生や工業大学の降旗先生や医科大の鮫島先生や私を含む市内の5名の協力隊員などが市内の日本人教師に広く声を掛け、教師会を組織化することになり、遼寧大学で集まることになりました。
その時の教師会で「瀋陽日本人教師の会」という名前をつけ、名簿も作り、畔津領事に顧問をお願いすることを検討し、その後、引き受けて頂きました。
教師会の機関紙発行はありませんでした。
『瀋 陽日本語クラブ』は私がいた当時は瀋陽大学の山下先生が大学内の教え子の文集として、自費で製作していて、それに時々、教師が投稿するという形で載せてもらっていました。これは私の推測ですが、山下先生の後任までで瀋陽大学に協力隊員の派遣が打ち切りになったので、その名前を教師会の雑誌に引き継いだもの だろうと思います。
教師会発足の直後に日本人会会長で住三塑料の松本さんという方が日本人会として、瀋陽に貢献したいという申し出があり、私達、教師も弁論大会を開きたいが、資金がないので、協力して欲しいという気持ちがあり、意気投合し、協力して弁論大会を行うことになりました。当時は交流基金の弁論大会助成の申請は行って おらず、
費用はすべて会長が日本企業を回り、寄付を募って、行っていました。
瀋陽日本人会や教師会は中国政府に公認されていない任意団体のため、日本人だけで、行事を開催されることはできず、中国の団体を主催にしなければならないとのことで、日本へ留学した中国人の中日同学会という団体を主催にしました。
その事務局が遼寧大学にあり、会計などの事務処理は中国側に任せることになり、遼寧大学で弁論大会を行うことになり、教師会も1度、医科大で行った以外は主に遼寧大学で行っていました。
これをきっかけに日本人教師会が活発に始めました。
ですから、資料室ができる前の私が赴任した2年間も、教師会では瀋陽大学で弁論大会の開催をしたり、会員のうち、数人が遼寧大学の「日本語の夕べ」
したり、歓迎会、送別会をするなどして活発に活動していました。
全体では、主に瀋陽大学で月に1度は集まっていましたし、弁論大会開催直前は弁論大会担当の数人の会員を中心に頻繁に集まっていました。
当時、資料室はなかった代わりに領事館の一室に日本人が寄付した本を保管している図書室があり、教師達や日本人が利用していました。教師達が領事館を訪れたときに文化担当領事とお会いしてお話することもありました。
教師会の組織としての発足についてはこのような経緯です。
山形 達也
2006年9月8日 (金)
財産のない教師の会
日本語資料室の移転の契約のために、和平区政府へ日本人教師の会と日本語資料室の説明が必要で、それを日本語で作成してから中文への翻訳を、伊藤忠瀋陽営業所高木所長の部下の馮さんやってくださった。
8日金曜日朝、和平区の孵化器ビルに、南本、鳴海両先生と馮さんが出掛けて先方の責任者である朱部長に出会って渡した。
これを上に上げてそして契約書の交換という手続きになるらしい。南本先生は、この夏まで瀋陽におられた小林豊朗先生入魂の教師の会の印鑑を大事に握りしめて出掛けたのだったが。
教師の会が使う週末はこのビルは本質的には休みなので、出入りが問題なくできるよう警備会社に見せるために教師の会の写真入り身分証が必要となるらしい。訪ねてくる学生や一般の利用者をどうするかという問題も協議しなくてはならない。
なお、一部屋につき1500元、二部屋で3000元のdeposit保証金が必要という話を今日聞いて、特に財産のない教師の会は動揺した。教師の会も財産を持たなくてはいけないのだ。
山形 達也
2006年9月13日 (水)
沈陽三洋空調公司のご好意
和平区政府からまだ契約書が来ない。鳴海先生が何度も孵化器ビルの朱部長に電話しているけれど、まだ、なのだそうだ。
一方、資料室担当の峰村先生は業者と連絡を取って引っ越しは19日の火曜日と決めた。今度は前回とは違って、荷物の搬出から運び込みまで全て業者に任せル方針である。
ところが、契約書が交わせていないので、引っ越しの日取りも怪しくなってきた。ことによるともっと先になるかも知れない。
ところで今の開元ビルの資料室には、沈陽三洋空調公司の蔵本総経理(当時)のご好意で2台の空調が寄贈さている。西向きの部屋なので、空調の寄贈はとてもありがたいことだった。
日本人会幹事会で、引っ越すけれど教師の会では空調が買えないしという話をしたら、直ぐに蔵本さんがモニタ−になってくださいな、とおっしゃって、つまり実質的には寄贈して下さったのだ。
今度の引っ越し先の西塔近くの和平区政府所有の孵化器ビルを下見したら、空調が入っている。それで、この寄贈された空調機は不要となってしまった。沈陽三洋空調公司の蔵本総経理のご好意が、無になるわけでとても残念である。
この空調は元来、沈陽三洋空調公司のものなので、これをどうしたらよいかを蔵本さんに代わった新しい野崎総経理に伺っているところである。
山形 達也
2006年9月15日 (金)
契約書は渡したのに
先 刻、南本先生から伺った話だと、私たちの引っ越し先に予定されている和平区政府の孵化器ビルで水漏れがあり、その修理と改修があるので私たちの引っ越しは 当初予定していた19日(来週火曜日)ではなく、10月初旬の国慶節の連休明けにして欲しいと、ビルの責任者の朱部長から連絡があったそうだ。
契約書はどうなっているのでしょう? こちらは所定の書類をとっくの昔に渡したのに。
最初の話の時には、契約書は直ぐに交換できてもう次に日には引っ越しできますよと言われて、皆ほっとして笑ったのに。
何か持って行かなくてはならないのだろうか?
ともかく、10月末までは今のところにいられることになっているので、10月の引っ越しでもいいけれど、物事を計画的に進めるのが大変なところであることを、再認識したところである。
山形 達也
2006年9月16日 (土)
9月定例会記録
9月16日土曜日午後2時 新年度の教師の会定例会が開元ビルの日本語資料室で開かれた。
出席者:
森 信幸領事 特別会員・本会顧問
安部 玲子 遼寧省実験中学
池本 千恵 和亜久外国語培訓中心
石井みどり 東北大学
宇野 浩司 瀋陽職業技術計算機学院
岡沢 成俊 東北大学
片山 皚 瀋陽航空工業学院
加藤 正宏 瀋陽薬科大学
金丸 恵美 瀋陽師範大学
河面弥吉郎 東北大学
坂本 豊 瀋陽薬科大学
辻岡 邦夫 東北育才外国語学校
中野亜紀子 東北育才外国語学校
中村 直子 瀋陽市朝鮮族第一中学
鳴海 佳恵 遼寧教育学院・遼寧省基礎教育教研培訓中心
林 与志男 瀋陽航空工業学院
南本 卓郎 瀋陽薬科大学
峰村 洋 瀋陽薬科大学
森林 久枝 東北育才外国語学校
山形 達也 瀋陽薬科大学
山形 貞子 瀋陽薬科大学
山田高志郎 東北育才学校
渡辺 京子 中国医科大学
渡辺 文江 遼寧大学外国語学院
新会員:
石原 南盛 遼寧大学
加藤 文子 瀋陽薬科大学
佐藤るみ子 瀋陽師範大学
田中 義一 瀋陽大学 (本日欠席)
中田 知子 東北育才学校
藤平 徳雄 遼寧大学
松下 宏 東北育才学校
若松 章子 東北育才外国語学校
特別参加者:
貴志豊和 瀋陽薬科大学客員教授
辻岡夫人
欠席者:
岩田 敏和 撫順市朝鮮族第一中学
野崎 勉 東北大学機械工程及自動化学院
林 八重子 瀋陽航空工業学院
南本みどり 南本夫人
出席34名
先ず会則の改正が審議された(司会は前回の渡辺文)。
新しい会則に従い会長が選出された。副会長は会長が若干名指名した。
会長 南本 卓郎
副会長
池本 千恵
鳴海 佳恵
峰村 洋
山形 達也
教師の会の会員はそれぞれが必ず何かの役割をすることになっている。
研修・レクリエ−ション係
書記・会計係
ホ−ムペ−ジ係
資料室係
編集係
弁論大会係
クリスマス会係
日本語文化祭係
全員が以上のどれかに入った。
担当の詳細は、ホ−ムペ−ジの会員のペ−ジに載っている。
なお、教師の会日記の過去版は、「活動の記録」の中をたどると見つかるようになっている。
たとえば、2005年度の日記は以下のURLである。
http://www.geocities.jp/kyoshikai_shenyang/records2005.html
どうかよろしく。
山形達也
2006年9月16日 (土)
9月定例会のあとで
第1回の9月16日の定例会の後は、新年度の全員の懇親会。
歓迎会だけれど、新会員も同じように会費を払うので、懇親会と呼んだ方が良さそう。
5時過ぎに3軒東の香味堂(6月の24日に日本人会の幹事さんたちを招いて謝恩会をしたところである)に移って、懇親会。
司会は薬科大学の峰村先生。お見事。
テ−ブルは大二個、中一個。参加者30名。
挨拶:
南本会長
森領事
余興として、各学校別に唄の演し物があり、薬科大学からは加山雄三の「君といつまでも」 池本さんもここに参加
「ぼかあ、しわせだなあ。。。」の台詞は加藤正宏さんが文子さんに向かって述べて満場の拍手と大爆笑。
森さんは、10月に結婚する鳴海さんに僕の妹が結婚するみたいと言って、「かぐや姫」の「妹」を歌った。今日はかつらなしの熱演だった。
このほか、「上を向いて歩こう」「朧月夜」「おいらはみんな生きている」「瀬戸の花嫁」「世界にひとつだけの花」などなど。
食事はテ−ブルののセットメニュ−を注文した。森領事から寄付があって会費一人40元。会員でない人たちは60元。
なお、定例会の時に、南本会長から、会員の懇親を深めるためにこれからは定例会の終了後には、都合のつく人たちで何時も一緒に食事をしましょうという提案があり、好感を持って迎えられた。
山形達也
2006年9月17日 (日)
資料室再度の引っ越し準備
日本語資料室が開元ビルに越したのが今年の5月で、定例会をここで開いたのは、いままでに6月24日、そして9月16日の二回だけである。
10月中にここから越さなくてはならない。和平区政府が私たちの面倒を見てくれることになっていて、契約書の交換の前段階まで漕ぎ着けたけれど、まだ契約に到っていないため、何時引っ越せるかが分からない。
私 たちの最初の心積もりは9月19日には引っ越しというものだったが、それは延期となった。しかし、一旦決めたことのすべてはご破算には出来ないので、今日 の日曜日17日は、引っ越しの準備である。資料室の中の本をダンボ−ルに詰め、そのほかのものもパックしてしまい、何時でも専門の引っ越し業者が来れば運 べるようにしようというものである。
資料室に今まで心を砕いてこられた峰村先生の指揮のもとで、
片山(航空学院)学生2名
山田、中田、松下(東北育才学校)
宇野、中野、若松、池本、鳴海、
峰村、峰村夫人、南本、加藤文子、山形達也
薬科大学学生10の名
が集まって9時から10時半まで働いたら、全てのものはすっかりダンボ−ルにパックされてしまった。
後は、何時の日になるか分からないけれど、ここから業者が運び出して新しい資料室に入れて整理するだけとなった。みな様 大変お疲れさまでした。
昼を山形達也は薬科大学の峰村、峰村夫人、南本、加藤文子さんたちと近くの呉師伝餃子で一緒に食べた。
今の資料室の近くには食べ物屋が沢山あり、あちこちで食べたけれど、ここがしずかで一番落ち着ける。ここに来るのもきっと今日が最後だ。ビ−ルは別で一人あたり15元。
大した労働でもなかったと思ったけれど、この後うちに帰って2時間昼寝をしてしまった。食べ過ぎだったからかも知れない。
山形達也
2006年9月18日 (月)
HP係の仕事
教師の会に新しい会員が加わったし、今年度の新しい名簿が必要である。というわけで、朝一番に係の名前も書き込んだ名簿を、先ず作成した。
この新しい会員名簿をホ−ムペ−ジにも載せなくてはならない。今までの会員名簿も直して、この1年に去った人たちを旧会員ペ−ジに移さなくてはならない。
教師の会の歴史をたどるうちで明らかになった10年くらい前の会員の名前も、3名を旧会員のペ−ジに書き入れた。
な どなどの仕事を始めたら、とうとう丸一日これに掛かりきりだった。ほかの先生の講義にも出ようと思ったのもパス。研究に関係あることというと、暁艶に彼女 の研究の手ほどきの話しをしたのと、大勇の蛍光染色試料のために蛍光顕微鏡の調整をして、検鏡を一緒にやったことくらいである。その蛍光顕微鏡の調整で は、眼を痛めたみたい。
なお、新しくした会則があるのでHPを更新。そして今回やっと気付いて、前回の会則を 別の場所に残した。今まで更新だけをしてきたから、昔の会則は消えてしまって、たどりようがない。大した会ではないから、いいとして貰うより仕方ないけれ ど、これからは更新する度にその前のもsaveして、残すことにしよう。
会員には新しい会員名簿を校正のために発送した。追加情報と変更が今日のうちに3件寄せられた。
2003 年度には日本語クラブの編集をしたし、日本語クラブをHPに載せる作業も私がもう3年もやってきた。最近、日本語クラブを編集した原稿からHPを作るのが 何故かとても面倒なことになっている。編集していない原稿と写真からなら簡単なことが、やけに面倒になっている。
この春から日本語クラブをHPに載せる作業を私は2006年度からはもうやらないと言い続けていたが、幸い有望な新人が日本語クラブ編集係に加入したので、私はこの作業からは抜けられそうである。
山形達也
2006年9月20日 (水)
瀋陽路上市見学ツア−の計画
3年前に瀋陽に来て瀋陽日本人教師の会に入ったが、この会になじむには半年以上掛かった。つまり、はじめから顔見知りとか親しい人がいるわけではなく、会に出て互いに顔を見ているうちに、そして発言を聞いているうちに話のきっかけが出来てくるわけだけれど、1ヶ月に1回集まるだけだと互いに親しみを覚えるのに半年は掛かるというわけだ。
今年の第1回の定例会に集まった東北育才学校の先生は3人とも新人で、遼寧大学の2人も新人である。つまり彼らには同じ学校に身近な先輩がいない。きっと瀋陽と言う異国の地に来て心細いに違いない。
それで路上市のツア−を思いついた。路上市は昨年の5月に薬科大学の加藤先生に案内されていったのが最初で、それから何度も相変わらず加藤先生にくっついて出掛けている。加藤先生の好きな古本に私は興味ないけれど、篆刻の練習用の石や、本物用の石、あるいはすでに店のおじさんが自分で彫り込んだ唐詩が側面に刻まれている石など、見ていて楽しいし、買うのも楽しい。硯も、筆もあるし、勿論画や書も売られている。このようなところを一緒に歩くと瀋陽に親しみを感じるだろうし、何よりも私たちと親しくなるだろう。
朝9時頃出会って中街の路上市を巡って、11時半頃馬家焼麦(1796年開業の由緒ある店である)で食事をしよう。
そう思って、先ず加藤先生にお伺いを立てた。今度の日曜日の午前中は大丈夫、付き合いましょうと言う返事だったので、東北育才学校の先生は3人と遼寧大学の 2人にmailで誘った。遼寧大学の2人からはすぐに参加するという返事があった。こちらの好意に直ぐ即応して返事があるのは嬉しいことである。私たちも今度の日曜日を楽しみにしている。
2006年9月24日 (日)
教師会新人歓迎瀋陽ツア−
9 月24日のツア−で新人の参加者は、遼寧大学の藤平、石原両先生と東北育才学校の松下、中田両先生、それに薬科大学の坂本先生の5人。旧人は案内役の加藤 先生、その夫人、私たち山形・山形の4人の合計9人だった。故宮のバス停で待ち合わせて、先ず故宮の前にある土産物屋を覗く。篆刻用の寿山石,巴林石を置 いている店は定価販売で絶対に負けないという話なので、石を眺めて眼を養うだけ。
土産物屋の裏に日本が満州国を作る前の時代の張作霖時代に東北三省を統括した役所の二階建て建物が残っている。使われなくなって久しく、大分痛んでいて接近禁止と壁に書かれている。市役所はこの建物を歴史建物として保存したいけれど修復の金がないように見受けられた。
直ぐ近くに公共厠所があって、瀋陽初めての先生ひとりが社会見学と言って中に飛び込んだ。使用料を集めるらしい人が建物の前にいなかったから無料トイレだろう。外まで匂いが来ていないから結構綺麗にしているのではないだろうか、ここは観光地のまっただ中だし。
故 宮の横を通って中心廟にいく。14世紀に作られたもので、この故宮のある瀋陽城の中心に建てられたお寺である。前に加藤先生に案内されて初めて来たときは まだ閉鎖されていて中に入れなかった。最近公開されたと言うことだ。小さな、小さな本堂だが、次々と参詣の人が来て太い線香に火を点け祭壇に捧げてぬかづ いていた。ひと組の参詣人には黄色の衣装を付けた坊さんと思われる人が小声で教典らしいものを唱えていた。
次に中街の目抜き通りにある1928年建設の瀋陽春天デパ−トに行った。店に中は昔の御徒町のアメヤ横町的に細々と仕切られて個人商店の競演になっていたけれど、ここは中国人資本で建てられたもので、床のモザイクタイルが美しい。
10時になってやっと中街の一画の古玩城を中心に出来ている路上市にたどり着いた。壊れたカメラ、時計、置物、玉の飾り、壺などの古物を売っているござを覗き、篆刻の練習用の石を買い、篆刻の実際を目の前でみてその見事な術に驚き、買おうとした彫刻刀が、2本が3本になっても絶対に負けようとしないおばさんのしたたかさと、交渉を引きと取って3元負けさせた加藤さんの見事な駆け引きに感心したりした路上市の二時間だった。
DVD が1元で売っている?あっ、これ日本のだ。欲しいし、安いけど心配だなあ、と中田先生。プレイヤ−が壊れちゃうかも、と松下先生。その一刻は二度とないこと、欲しいと思ったときはためらわずに買うこと、人生一期一会だよ、などと人生哲学を口を出して、新人の中田先生をけしかけた私。
昼には中街西北にある馬家焼麦という瀋陽のどのガイドブックにも載っている超有名レストランに行った。この店と並んで老辺餃子館が載っているが、後者は高くて美味しくない。馬家焼麦は気取りがなく、安くて美味しいのだ。
餃子5種類(一篭250g)おかず4種類、ス−プ1種類を頼んで、9人で飽食した。これで一人あたり21元。
どのくらい飽食したかというと、私はうちに帰ってひたすら眠く、夕方目覚めた後もお腹がまだ一杯で夜食をスキップしたくらい。
食事の後でバス停まで行く間に人混みの中で互いにはぐれてしまい別れの挨拶は出来なかったが、このツア−の試みは成功したと思っている。
山形達也
2006年10月1日 (日)
資料室の移転交渉が進まない
日本語資料室は移転が迫られている。オ−ナ−が新しい移転先を見付けてくれていて、私たちはそれに乗って移転するつもりになっていたが、移転先の和平区政府は契約書をとりかわすというところまできて、その先が進まない。
資料室の内容は、今は瀋陽日本人教師の会のものであり、瀋陽日本人教師の会がこの契約を結ぶ主体である。中国政府はこの会を公認していない。聞いた話では中国政府が公認しているのは北京の日本人会だけで、じつは瀋陽日本人会も公認されていないという。
こ の公認されていない団体に部屋を貸すのはいかがなものかと、和平区政府の役人が考え込んでしまった可能性がある。ただでさえ始終両国の間ではきしみがある のに、地方政府が非公認団体に部屋を貸してしまうと、その責任者がいつか足を掬われることになるかも知れないと考えてしまう可能性は大である。
政府が公認しない団体と付き合うことが問題になる社会、じゃ、公認とは何なのか、色々と考えてしまう。
日本領事館に出張って貰う必要がありそうだ。日本政府も中国政府と対話を復活して両国の友好に努めて欲しいものだ。
山形達也
2006年10月14日 (土)
10月の定例会
10 月14日土曜日、定例会が開元ビルの日本語資料室で開かれた。この場所ではこれが最後。9月17日に9月中の引っ越しに備えて荷造りをしてしまったから、広い閲覧室はダンボ−ルだけ。会議室は新しいところには持って行けないために解体されずに残っている大きな机と、椅子があるだけである。
出席:池本、安部、中野、若松、森林、中田(知)、宇野、峰村、渡辺(京)、坂本、南本(卓)、南本(み)、松下、中田(時 新人)、加藤(正)、加藤(文)、河面、中村、野崎、藤平、田中、佐藤、金丸、岡沢、山形(達)
欠席:山形(貞)、辻岡、片山、林(輿)、林(八)、石原、渡辺(文)、鳴海
一番大きな関心は資料室が、何処に引っ越せるかである。引っ越しの期限は10月末までと切られている。引っ越し先予定地の和平区政府の孵化器延町と局長宛に、10月9日休暇明けの在瀋陽日本総領事館からの公文書が届けられている。これは伊藤忠商事の高木さんと馮さん、日本総領事館の森領事のご尽力によるも のである。
この書簡を先方に届けるのに立ち会った南本会長によると、先方はこのような総領事館によるお墨付きを手に入れたがっていて、これで安心だと思ったようだという。しかし、ともかく先方から受け入れOKという返事があるまで、何も決まったことにはならない。
もし10月中にOK の返事がなかったらどうしよう。考えたくもないことだし、実は考えてもどうしようもないのである。その時は領事館に泣きつこう。
前回の定例会の時会員のうち8名が瀋陽日本人会に加入申請をした。今日の定例会では更に6名の加入希望者があったので会費を預かった。今月の瀋陽日本人会の幹事会に持っていって手続きをお願いしよう。これで殆どの先生は日本人会に加入したことになるのではないだろうか。
東北育才学校に中田時雄さんという新人が到着。とてもおしゃべりな先生である。
3時には話が終わって各係の会合に移り、4時には東北大学の近くの羅香魚館に行った。18名が入れる部屋がなく、二つに分かれて宴会。メニュ−から料理を選んだのは、森林、池本の両先生。とても良い選定だった。一人43元。終わったのが7時。
次回は11月11日土曜日、勿論和平区孵化器ビルの予定なのだが。
山形達也
2006年10月22日 (日)
松井菜穂子さんのソプラノリサイタル
21日夜には松井菜穂子さんのソプラノリサイタルが遼寧大劇院で開かれた。
松 井菜穂子さんは東京音大出身のソプラノ歌手で、中国語の美しさに魅せられて中国が好きになったいう。昨年上海でコンサ−トを開いたそうだし、今度が中国2 回目のリサイタルだそうだ。中国語の勉強も本格的に始めて3年だそうで、舞台では中国語で挨拶、うたの解説、おしゃべりが展開した。隣りに座っていた中国 語に不自由しない峰村先生が大いに関しておられたから、結構なものだったらしい。
歌は、日本のサクラに始ま り、ロシア民謡、新疆民歌、モツアルトのモデット、ハレルヤ、そして最後はテノ−ルも加えてヴェルディの椿姫から二重唱、乾杯の歌、巴里を離れて、ああそ は彼の人か、で豪華絢爛に終わった。柔らかな叙情味のある良い声の人だった。瀋陽で初めて聞く本格的な音楽で、こちらは大いに感激だった。
300 人入るという小ホ−ルには、教師の会からも沢山の会員の姿が目立った。日本語を教わっている学生たちも詰めかけて満員のはずだったが、真ん中の良いところ に結構空きが目立った。市の文化局の主催なので、お偉方には券が渡され、しかし当日になって当たり前みたいに欠席したのだろう。勿体ない話だけれど、招待 席がある以上防げないかもしれない。薬科大学の学生でも180人の希望者に対して30枚の券しか回ってこなかったという。この次には大ホ−ルでやって欲し いものだ。
会場で在瀋陽日本国・阿部総領事の姿を見かけて、資料室の引っ越しに際して先方に公文書を書いて下さったお礼を申し述べることが出来た。しかし、移転については先方から色よい返事がなく、10月末には開元ビルの改修工事が全面的に始まるというのに、全く先が見えない。
山形達也
2006年10月27日 (金)
資料室の引っ越し荷物の一時保管
日本語資料室の移転は、和平区政府所有の孵化器ビルへの移転の話が出ていて、8月28日に会いに行った和平区政府の朱招商局長は大歓迎といってくれた。しかし、ビルを管理する別の部門の局長に合って、先方の要求する書類も提出したが、水が漏れたとか何かの理由を言われて、なかなかOK がもらえない。
その局長が『日本人教師の会という非合法団体を入れて、自分は責任を取れない』ということらしく、認可してくれない。
教師の会の顧問役である森領事及び伊藤忠の高木さんの奔走で、『日本人教師の会というのは中国の瀋陽地区で日本語教育研究に携わる日本人の先生の任意の集まりで、特定の思想に染まらず、地域の発展と友好のために活動している団体である』という在瀋陽日本国・阿部総領事による公文書が10月9日に先方に届けら れたにもかかわらず事態は進展しない。
開元ビルの改装は11月から始まるので店子は10月末までにでなくてはならない。開元ビルのオ−ナ−はそれで私たちの引っ越し先を早めに手配して見付けておいてくださったのだが。
行く先の見通しが立たないので、ビルのオ−ナ−は2階の改装中のビルに倉庫を用意した。28日土曜日に日本語資料室の荷物を動かすようにという手配もしてく れた。南本先生が26日木曜日に現地を見に行ったところ、その倉庫も工事中で、やっている工事の人も、事務の人も30日までは終わらないという。工事中に 運び込むことは危険だし、工事中に運び込んだら、運んだ荷物がなくなることだってある。しかし30日にはもう事務の人たちはビルから撤収しているし、こち らだって授業がある。
南本先生、工事の人、事務の人、伊藤忠の高木さん、ビルの尚総経理の間に電話が飛び交い、ともかく29日の日曜日に荷物を動かすしかないと言うことになった。
一応28日という連絡が教師の会に廻ったが、29日という会場が大至急廻っている。29日に倉庫が落ち着いていて荷物が運び込めるといいのだが。
11月11日に予定されている教師の会の定例会は、森領事から総領事館を使って良いという申し出を頂いている。
山形達也
2006年10月29日 (日)
日本語資料室の荷物の移動
10月29日の日曜日午後1時引っ越しというか荷物の移動開始ということで、私は峰村先生と一緒に12時半頃開元ビルに6階の資料室に着いた。日曜日の昼と言うことでバスは結構混んでいる。何と、私は席を譲られてしまった。今日は暑くも寒くもなく、働くには手頃な日である。
私たちが着いて5分後には南本卓郎・みどり先生に率いられた薬科大学の1年生、屈強なと言っていいほど大きな男の学生が9人。そしてかわいらしい3年生の女子学生が1名到着。
今の時期は、2年・4年生は12月3日の日語国際1級試験に備えて勉強中なのを邪魔できないから、1年生を連れてきたというのが南本先生の弁。だけど、日本語の学習を始めたばかりで、日本語が心許ないから通訳として3年生1人も連れてきたとのこと。
みどり先生によると、「『行きます』は教えたから分かります。でも『行きましょう』とか、『行って下さい』といってもまだ分からないんですよ」ということだった。実際、その通りだったけれど、働き出すと荷物を運ぶという明確な方針は伝わるから、彼らはじつによく働いた。
「学 生さんが頼もしいし、60才以上は遠慮しましょうか」と、私は言ってみたけれど、実際は6階から荷物を地階の倉庫に運ぶというのは若者9人くらいでは出来るわけない。最初に荷物を出してエレベ−タで下に運んだあとの彼らは、二つに分かれてエレベ−タで6階から地階まで運ぶ作業と、峰村先生に率いられて地階の倉庫に運び込む作業に従事し、私たち(つまりの応援の教師たち)は6階にいて資料室から荷物をエレベ−タまで運び出すという作業に没頭した。
私たちというのは加藤先生も含めて薬科大学の5人、医科大学の渡辺京子先生、東北育才の若松先生、ワ−ク語学学校の池本先生などである。少しして、東北大学の石井みどり先生、岡沢先生も参加。瀋陽師範大学の金丸先生も終わる前には間に合った。
地階の倉庫は1室を借りることが出来て、峰村先生は最初は全部の荷物は入りきらないと思ったらしいが、そこは差配よろしく、全部が収まって感激だった。終わったのが2時45分。この1年生の実力は全く大したものだ。本当にありがとう。そして、今日資料室に駆けつけてくれた先生たち、本当にありがとうお疲 れさまでした。
若松先生はこのあと元気に二胡を下げて、三好街近くのレッスン場目指して歩いて行った。大したものだ。私はうちに帰ってうとうとしてしまったのに。
山形達也
2006年11月2日 (木)
瀋陽日本人会クリスマスパ−ティの準備会
瀋陽日本人会という瀋陽在住の日本人が作っている組織がある。法人で約70社、個人会員300名くらいが登録されているという。領事館に登録している日本人だけで3万人、短期出張を入れれば5万人を超えるだろうと言われている大連には遠く及ばないが、人数が少ないだけにまとまりが良いかもしれない。
この日本人会の大きな行事は瀋陽日本語弁論大会で、最終選考会は毎年4月にホテルの大きな会場を借りて開かれる。今年で10回を数えた。日本人会のもう一つの大きな行事が12月に開かれるクリスマス会である。これは会員、その家族も含めて集まって食事をしながら楽しむという会だから、会員にとっては弁論大会よりも恐らく大きな意味のある会だろう。
11月はじめには日本人会の幹事会で幹事会社から1名ずつ出てクリスマス会実行委員会を作って準備を始める。日本人教師の会にも毎年3名くらい出てくださいと言われている。
2003 年9月に私たちが教師の会の集まりに初めて出たとき、色々の役を決める時に私の妻がクリスマス会の委員に手を挙げたら、中道恵津先生から「実行委員には若い女性になって欲しいと言われていますので、それなりの方でないと」といって断られてしまった。妻はそれでひどく落ち込んだし、わたしもそれ以来、このこ とを「根に持って」いる、というと大袈裟すぎるが、誰が教師会の実行委員になるか関心がある。
結局その時は誰もなり手がなく、11月になって会の代表があれこれと相談して、その時70歳代の女の先生と60代前半の男の先生を選んでいたっけ。
昨年は事前に実行委員を決めていなかったので11月始めに直ぐ委員を出すように言われて、その時の副代表の南本先生がやむなく実行委員になった。相変わらず、若い女性からはほど遠かった。
今年は9月の定例会の時に、この委員も決めて置こうと私は主張したけれど、正直いって誰が希望するか皆目見当が付かなかった。私は「実行委員には若い女性になって欲しいと言われていますけど、」なんて余計なことは言わなかった。
幸い直ぐに手が上がって、森林先生が私がやりましょう。同じく東北育才学校の若松先生も、じゃ、私もと続いて志願してくださった。男の石原先生も(あとで東北育才学校の若い山田先生に代わった)手を挙げて、これで3人。若い女性を中心に、実行委員が決まったのだ。
10 月末に日本人会事務局から教師の会に実行委員を3人出して欲しいという依頼があった。私は直ぐに3人の名前と連絡先を書いて送った。入れ替わりに実行委員 会で中心になる幹事会社の人から、「それぞれの会社から出てくる実行委員は男ばかりなので、教師会は是非妙齢の女性を3人選んで欲しい」というmailが あった。
何だか、セクハラ気味の発言じゃないかと思わないでもないが、「教師の会からの実行委員はすでに決めていたので、後の祭りですね」と書いて返事を送った。実は言うまでもなくこちらから参加する先生たちは、選りすぐりの若い妙齢の先生たちなのである。
12月10日のクリスマス会に向けて、実行委員会の初会合は明日開かれるが、教師の会から参加した先生たちを見てきっと他の委員たちは心豊かにクリスマス会の準備を進めることが出来るに違いない。
3人の先生たち、お疲れさま、ありがとうございます。
山形達也
2006年11月5日 (日)
日本語クラブ24号の編集作業
日 本語クラブ24号は、前年度までの中道恵津編集長に代わって加藤正宏新編集長の下で発行される2006年度の第1号で、発行日は11月11日の予定であ る。順調なら日本語資料室にある機器を使って発行されるわけだが、日本語資料室が閉鎖されて資料・機器はすべて倉庫の中という状況では印刷ができない。
というわけで11月4日土曜日の午後、薬科大学の私たちの教授室を提供した。何度か書いているように、私たちの教授室は60平方米あって、コンピュータは Windowsが3台、Macが3台あり、レーザープリンタ、スキャナプリンタ複合機、コピー機などもそろっている。土曜日午前中のセミナが終わった後な らば編集作業で何時間占領してもかまわない。
ちょうど午後1時になって「お邪魔します」と、加藤、池本、山 田、佐藤先生4人が到着して、挨拶もそこそこに日本語クラブの作業が始まった。幸い、加藤先生は何度もここに来ておられて勝手知った場所なので、私がいち いち説明に煩わされることもほとんどない。2時頃には妻も用事から帰ってきて「頼まれたお菓子、いいのがないのよ、でもないよりましでしょ。」とクッキー を差し出した。これと紅茶のティバックを用意して、後は自分で自由にということになって、作業環境が整った。
見ていると、これから編集というわけではないようだ。皆から集まった原稿は最終的に池本先生のところで編集そして写真も加えて割り付けが済んでいて、プリントアウトした原稿を今日ここで皆が集まって校正して、最終版をプリントしてコピーしようという段階みたいだ。これなら二三日かかることもなく、今日一日で終わるだろう。
しかし、構成が終わったところで原版を直すのは一人の作業だし、編集後記も残ったページにあわ せてそれぞれが書かなきゃと言うわけで、結構皆が忙しそうに時間が経って行く。4時頃にはすっかり空が暗くなって、秋雷の襲来があった。窓を開けて下をす かしてみると傘が歩いている。雨なのだ。
編集作業が終わる頃か、一段落した頃に大学の外に一緒に食事に行こう と私たちは考えていたので、「5時頃に食事をどうしましょう。雨だから近くでは学生食堂しかないけれど。」と言ったけれど、何しろ雨だし、原版からのコ ピーが始まったばかりだし、はかばかしい返事がない。それじゃ、出前にしようか。「出前を頼むにもねえ、最近大学がうるさくなって持ってこないのですよ。 心当たりの店の電話は知らないし。」
ここで思いついたのは私の研究室の陳くんで、今修士課程の1年生になった 陳くんは学部の頃から加藤先生と親しい。とても親切だし、頼めば雨の中でも出前を頼みに行ってもらえるのではないだろうか。というわけで電話をしたら陳く んは快く頼みを引き受けて雨の中を、大学の正門近くにある招待所の餐庁にいってくれた。
「中身は何でもいいよ。ごちそうを食べようと言うわけではないんだから。」というわけで、頼んだのは餃子3人前、炒飯3人前、ニラと卵炒め、豆三鮮。雨に濡れて戻ってきた陳くんは、「ほかに、先生が好きだから、ガーダー湯もたのみましたよ。」
6 時半頃届いた出前に陳くんも入れて7人が集まって食事になった。支払いは66元。一人あたり11元。招待所の食事は学生食堂よりはましだけれど、普段なら ちっとも感心しない味だ。しかし、見ているだけでも共同で何かやっている気になっているし、こうやって仲間と仕事をして食べる食事はそれ自体が美味に感じ られる。その間も、コピー機が1ページのコピーを終えるたびに山田先生は次のコピーを続けて手をちっとも休めない。
食 事の後、遠方の佐藤先生とこの後で用事のある池本先生が二人先に帰って、それでもコピーがすべて終わったのが9時だった。後の製本は学生さんを呼んでやり ますからと加藤先生。雑誌発行がこんなにスムースに進んだのは今回が初めてだとのことだという。編集の実務担当の池本先生が慣れて、全員が集まるまでにほ ぼ完全に割付まで終えていることが大きかったのだろう。加藤先生が新しく編集長になったためではないのだ。
私としては、3年続けてやってきた日本語クラブをwebに載せる仕事から降りるけれど、山田先生の仕事ぶりを見ていると、彼が完全に肩代わりしてやってくれ ると言うだけでなく、HPの運営そのものも任せられそうに思える。日本人教師の会の将来が明るく見えて、とても嬉しかった。
山形達也
2006年11月11日 (土)
在瀋陽日本総領事館
11 月11日の土曜日の教師会定例会は在瀋陽日本総領事館に場所を借りて開かれた。在瀋陽日本総領事館葉瀋陽市の地図を見ると真ん中よりもちょっと西南に寄っ ていて、運河に近い風明の地にある。東隣がアメリカ領事館、その北が韓国領事館。在瀋陽日本総領事館の北は北朝鮮領事館である。この一画は二重の有刺鉄線 の塀に囲まれ武装警官によって警備されている。
入場者はあらかじめ総領事館に届け出ている。その名簿が守衛に渡されていて、彼らが、私たちのパスポ−トと照らし合わせて入る許可が出る。届け出がないときは、領事と一緒だとしても、必ずパスポ−ト番号が控えられる。
数 年前に北朝鮮の脱北者が日本総領事館に駆け込み、その時の日本側の対応が生ぬるいと行って非難囂々であった。門のところで駆け込んできた脱北者が掴まって いる間、数人は間隙を縫って領事館の建物の玄関ないにたどり着いたにもかかわらず、武装警官は玄関まで入り込んで彼らを捕まえて引きずり出してしまった。 これは日本の主権の侵害であるといって領事館の弱腰が非難された。この騒動の間に武装顕官が構内に落としていた帽子を領事が拾って渡している写真まで掲載 されたから、ますます日本の弱腰外交といって声高に難じられたように思う。
でも、門の外の警備を請け負ってい るのは警備の武装警官である。彼らの手落ちで人が中に入ってしまった場合、それを止めるのは彼らの責務であろう。彼らが脱北者であったから同情的な日本の 論調は「日本の主権を侵す行為だ」といって不満を鳴らしたけれど、彼らが襲撃者だったと考えれば、警備の武装警官の行為は是認できるはずだ。彼は無届けの 不審人物を中に入れないという責務が与えられていて、その職責を果たしたに過ぎない。
勿論、警備にも関わらず、警備の手に捉えられずに塀の内部に入り込んだものは日本政府の保護下に置かれるという取り決めがあったなら別である。それなら、警備の行動はやり過ぎである。人権侵害といって責めてよい。しかし多分、このような取り決めはないのではないか。
この日私は加藤夫人と薬科大学からバスに乗って領事館目指して出掛けた。彼女は日本語クラブ編集の加藤先生の夫人で、加藤先生から新しい日本語クラブ24号を集まりに届けるように預かっている。加藤さんは朝からいつものように古物商巡りに出掛けていてその足で集会に出るつもりだから、荷物になる日本語クラブは邪魔で彼女に預けたのだ。私は手伝ってあげたかったけれど、私も日本人会の新入会員に届けるために預かった沢山の重い書類があって、出来なかった。
バスを降りて領事館目指して歩いていると正門の方から加藤さんが歩いてくる。私が気付いて両手を挙げて振ると、加藤さんは照れ笑いを浮かべて脇見をしながら近づいてくる。夫人めがけて大きく手を振ってニコニコするのは照れくさい年頃らしい。
領事館の鉄格子の潜り戸のところには、私たちの到着を待ちかまえた警官がメモと一緒にいて私のパスポ−トと照らし合わせてOKを出してくれた、二重の門をくぐると中には森領事を始め少し前に到着した教師会の先生たちが集まっておられた。
これでひとかたまりの人数が揃ったようで領事に率いられて建物に入る。玄関を入って直ぐのドアを開けると数人しか入れない空間があり、この中に入って今のドアを閉めないと次のドアが開かないという仕掛けになっている。厳重な仕掛けで不審者は中に入れないという仕組みらしい。だけど内部が火事だったら外に出るのに手間暇掛かりそうだ。外から大きな荷物を運び込むときはどうするのだろう。色々と気になることがある。前に来たときは、このドアを入る前に携帯電話をロッカ−に入れて置いてくる仕組みになっていた。つまり、携帯の種類によっては内部の音(電波?)を拾って外に発信する、盗聴器みたいな携帯があるという ことらしい。
領事に率いられて廊下を歩くとあちこちで曲がる。昔の道が真っ直ぐでなくあちこちで曲がって見通しの悪い城下町を歩いているみたいだったが、また、さっきの落とし戸みたいな仕掛けの小部屋を通る。ここをでると、廊下も広く真っ直ぐ歩く距離も長くなり、「あ、これが昨年出来た新館か」と納得した。森用事に聴くと、そうですという答え。日本語文化サインでキュ雄牛かの多くの会員はここを知っているけれど、私は初めてだった。だから突然大きな広間に出て、そこには日本の風俗が大きなガラス棚に入れられて展示してあるし、浮世絵だのタコだのが壁に掛かっている。雛壇もある。あれ嬉しいとおひな様に近づいたら、どうも足許の感触がおかしい。見ると、いつの間にか何と私は靴のまま畳の上を歩いていたのだ。「これじゃ、まるで中国人じゃない?」と自分のことを言い訳しながら畳を降りたけれど、中国の方々、ここで引き合いに出してごめんなさい。
山形達也
2006年11月12日 (日)
11月の定例会
11月の教師の会の定例会は別項に書いたように在瀋陽日本総領事館で開かれた。
出席:森 信幸(特別顧問)
安部玲子、池本千恵、石井みどり、石原南盛、加藤正宏、加藤文子、金丸恵美、佐藤るみ子、田中義一、辻岡邦夫、中田時雄、中田知子、中野亜紀子、中村直子、鳴海佳恵、野崎勉、藤平徳雄、松下宏、南本卓郎、南本みどり、峰村洋、森林久枝、山形達也、山田高志郎、若松章子、渡辺京子、渡辺文江
特別参加:金倉美佐恵(総領事館勤務)
欠席:山形貞子、宇野浩司、岡沢成俊、片山皚、河面弥吉郎、林与志男、林八重子
一番の関心は日本語資料室がどうなるかというものだった。日本語資料室はすでに2ヶ月も閉鎖していて、本棚も中の本も荷物となって片付けられて倉庫の中である。和平区との交渉に当たった森領事から、移転予定先のビルの上部機関の局長が難を唱えている、総領事からの手紙にもうんと言わなかったけれど、総領事が副市長に公式の依頼の文書を送り、それに添え書きがついてその局長の下に送られたので話は進展するだろう、と言うことだった。まだ決まったわけではないけれど、先の暗闇が少しは明るくなったかなと言う感じである。
このほかの議題として、市政府当局は瀋陽日本人会 と定期的に交流していて、日本人会からの商工業の上での苦情を聞いて対処していることを知ったので、この教師の会でも、生活上の苦情や提案があれば、日本人会経由で市当局に伝えることができる。と言うので、会員から言いたいことを訊いてみた。
一番多かったのは郵便物に対する苦情だったが、これはそれぞれ状況をはっきりさせないとただの水掛け論で終わってしまう。しかも市当局に言うことでもないようだ
市のタクシ−運転手の乗務交代が夕方の6時なので、夕方のタクシ−を止めても自分の会社の方面に行くのでないと乗車拒否されることが多い。夕方という一番使いたいことが多い時間帯にこういうことがあるのは困る、と言う意見があった。その通りだ。これは伝えよう。
山田先生が、日本語放送をたとえ5分でも良いからやって欲しい、と言う意見が出た。意図が分からず、彼の顔を見ると、日本人である自分たちが聞きたいというわけではなくて、学生に生の日本語を聞く機会を与えたいというものだった。なるほど。だけど、これを市に言ってどうなるだろうか、全く先が読めないと思うけれど。
定例会の終了後、私たちはいつものように、と言っても3回目だけれど今回は森領事が予約してあった水 上漁港というレストランに向かった。全部で23人が一部屋に入って二つのテ−ブルに分かれて座った。たまたま私の右隣には森林先生、左隣には山田先生が座った。森林先生とはクリスマス会のことを話し、左の山田先生とは先ほどの日本語放送のことを話すことになった。
先ほどの発言を取り上げて市当局に日本語放送をして欲しいと言ったとしても、それを何処が受け入れるのか読めないし、どう扱ってくれるかも分からない。それよりも自分で出来ることで始めたらどうでしょう、と言うのが私の提案である。
この瀋陽で自分が勝手に放送を始めたりしたら、即刻お縄頂戴になりそうだ。放送に代わるものとしてinternetがある。自分で自分のサイトを運営して、 そこを訪ねれば、日本語の放送が聞こえるというのはどうでしょう。Internetのサイトで、音声付きビデオが見られるからビデオにして送り出すようにすればいい。あるいは紅さんの中国語講座のように、クリックすると声が聞こえてくるやり方もあるじゃない。あのようにして、自分でHPを作って、その中に音声を入れたたらいいんじゃないでしょうか。
山田先生は載せるニュ−スはここに朝日新聞もあるし、読売新聞も あるし、元を明かせて載せるならどちらも喜んで話を提供してくれるのではないかという。中国ネタならサ−チナと言うのがinternetに載っているか ら、然るべき手続きを踏めばそれを日本語の音声で読み上げるサイトだって作れるかも知れない。
それじゃ、もう 直ぐにも出来るじゃないですかと私。すると、山田先生はデジタルレコ−ダがあれば直ぐにも出来ますねと言う。言われて思い出したが、私もデジタルレコ−ダ を持っている、5年前だけれど、色々なアイデアを思いついたとき忘れないよう直ぐにも録音しておきたくて買ったのだ。買った頃には、もうアイデアが湧き出 でて困ることなくなっていて、その後は長くしまってあったのだ。たしかソニ−製で、PCにfileが移せるものだった。きっとこれで、山田先生の夢が手作 りながらもともかくも始められるぞ。うちに帰ったら探してみよう。そう、何でも先ず出来ることから始めることが大事なのだ。
山形達也
2006年11月16日 (木)
日本語資料室の移転交渉
教師の会の日本語資料室の中身は荷物となって、今は開元ビルの地下の倉庫にしまわれている。開元ビルのオ−ナ−がビルをホテルに貸すことを決めたとき、彼は和平区政府と交渉して和平区の持つビルに日本語資料室が移転する話はほぼ決まっていた。挨拶に行けばそれでよいという話だった。
8月に在瀋陽日本総領事館森領事、伊藤忠瀋陽支店の高木所長および馮さんに率いられて挨拶に行ったとき、和平区の招商局長は大歓迎だ言ってくれた。その後和平区政府の所有する孵化器ビルを管理する部長も私たちに貸す部屋を見せてくれた。孵化器を管理するところは科技局で、この部長に会ったところ、契約でき れば明日にでも越せるけれど、日本人教師の会と日本語資料室の説明文書が欲しい、ということだった。
私たちはそれを直ちに日本語で用意して、中国語訳には、今までの交渉で全てお世話になっている伊藤忠瀋陽支店の高木所長および馮さんが当たってくださった。9月の初めには先方の要求する書類を出したのに、その後いっこうに音沙汰がない。高木所長および馮さんが先方に訊いてみると、初めは二階で水漏れがあってその修理が大変だとか言っていたようだが、結局「認可されていない非合法団体を入居させることは出来ない」と主張しているようだった。
それで、高木所長と森領事は在瀋陽日本総領事館に働きかけて、教師会と日本語資料室の内容と意義を説明して、保証をした総領事の公式文書が総領事館から局長宛に送られた。しかし、相変わらず公式には何の返事もない。それで、さらに在瀋陽総領事から瀋陽副市長宛にお願いの公式文書が届けられた。瀋陽副市長からは「よしなに頼む」と言う添え書きがついて、科技局長のもとに送られたのが11月9日だった。
このような状況なので話は進むだろうと言うことを、私たちは11月の定例会の時に森領事から聞いて一安心したのだった。
先方に高木所長が電話したところ木曜日に会おうと言う返事があった。それで、高木所長および馮さん、森領事の出張で代わりに川端領事、そして教師会私たちが孵化器ビルに顔を揃えたのは午後3時過ぎだった。会見の約束は3時半である。ビルの部長はにこにこと私たちを迎えてくれた。
時間になってロビ−から6階の会議室に場所を移したが、局長が現れない。暫くすると、急用が出来て来られなくなったという説明で部長が代わりに説明をしますと言うことだった。
科技局としては日本語資料室を歓迎する。和平区もすでに許可している。あとは契約書を交わすだけである。この契約書は開元ビルで使っているものと本質的に同じでよいが、入居して3ヶ月以内に団体の認可申請をして許可を取って欲しいという条項を付け加えたい、という。
瀋陽日本人会も瀋陽で15年活動してきて、市当局から交渉相手として扱われているが認可を受けていない。中国で認可を受けているのは北京の商工会議所だけだという話を私たちは高木所長から聞いている。
局 長の言う団体認可申請を何処にして、何処で認可を受けたらよいと言っているのか、日本人側では領事館も、高木所長もそれを知らない。結局これがこの交渉の 焦点である。こちらは何処で認可がなされるのか全く情報を持たないのだから、局長がそれをこちらに提示する必要がある。それを通訳を買って出ている伊藤忠 瀋陽支店馮さんが部長に言ったが、ここでは答えが出ない。
私たち教師の会の団体としての目的と活動範囲、そし てその質、安全性、有用性は総領事の公式文書で日本側としては最大の保証をしているわけだし、副市長もそれを認めたから和平区に、話を進めるように命じて いる。それをこの局長は蹴っているわけで、話は最初から一歩も前進していないわけだ。「非合法団体をこのビルに入れるわけにはいかない。」
頑 固と言えば頑固だし、彼の内実はこうなのに今日話し合いが出来るようになったから会おうと言うなんていい加減と言えばいい加減だ。結局今日の話は物別れ で、次には川端領事と高木所長が団体認可問題をこの局長とさしで話して見るということになった。教師会の問題だけれど高木所長と在瀋陽日本総領事館、及び 領事に頼り切りの情けない教師会である。しかし客観的に見て私たちにはその能力が全くない。窮地の私たちを一生懸命助けてくださって、私たちは本当に感謝 している。
山形達也
2006年11月19日 (日)
瀋陽探訪ツア−の参加者から
南本 卓郎:
昨日は楽しい探訪をさせていただきありがとうございました。これを企画された山形先生、よくもあんな人の家まで入って行って、瀋陽の歴史を物語る建造物などを見ることができたものだと案内された加藤先生に改めて御礼申し上げます。
その後私たちは、東関教会と周恩来元首相が通った小学校を見て帰りました。
今後もこのような機会がありましたら、ぜひ参加したいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
若松 章子:
瀋陽に来る前から日本人教師のホームページなど覗いていたので、旧跡を調べていらっしゃる先生がいらっしゃることは知っていましたが、めったにお近づきになれるチャンスもあるまいと思っていたのでこのようなツアーに入れていただけてうれしい限りです。特に元東北銀行の石碑(?)の「日本帝国主義投降後云 々」などの文言が街のど真ん中にあるのなど、よかったといったらおかしいですが、ああいうものをみて実感したかったわけです。
古物市場で買った挿絵入り講談本、帰ってから学生に話したら、1970年代くらいの古くて数が少なくなっているものは一冊千元ほどもするそうです。また行っていろいろ見て詳しく知りたくなりました。このようなツアー私の中では貴重な「またとない機会」になっていますが、ぜひとも「またの機会」を願いたいとこ ろです。
山形 達也:
全部で17名が10時に大西門に集まりまし た。最初に張学良の創った同澤女子中学校を見ました。古い建物で趣のある作りです。その後午前中は故玩城の近くにでている路上市を先ず加藤先生に案内されたあとは思い思いに散って、好きなところを探索しました。古本を探したり、DVDを買ったり、印鑑のための石を探したりと、様々でした。
昼は歴史の長い金の店を見てから、1796年創設の馬家焼麦に行きました。二つの大きな丸テ−ブルをくっつけて良い感じでした。焼売4種類2kg(作る粉の 量で量ります。通常パスタは一人あたり100gです)おかず4種を取って、ビ−ルも10本、ヨ−グルト、一人あたり22元でした。
その後は、清朝の高官の私宅を外から見ていたところうちの人が中を見ても良いというので、思いがけず、中庭の広いしっかりとした200年くらい古い家を見せ て貰えました。その次が圧巻の瀋陽城壁の残骸です。城壁の石垣が20メ−トルくらい続いているところが、古物商の仕事場の中に取り込まれて外から全くうか がえないのですが、今日は幸い入って良いというので、狭い通路を順に交代で通って石垣を見てきました。
この瀋陽の城壁を壊したときにでた石を自分のうちに取り込んでいる家を見たりして路地の中を歩き回りました。近代化している瀋陽にこんな暮らしが残っているのかと驚くような庶民の暮らしを垣間見ました。
そのあと、瀋陽城よりも古く1318年にできた中心廟、中国人が1928年に作った春天百貨店、中華民国時代の東北銀行、長安寺を見て3時半お開きになりました。
導師の加藤先生、本当にありがとうございました。
山形達也
2006年11月20日 (月)
デッドロックにとうとう打開策
11月20日先方から指定されて、午後2時の会見時間に間に合うように孵化器ビルに出向いた。会議の出席するこちら側は総領事館から森領事と、通訳の翁鉄軍さん、伊藤忠瀋陽支店長の高木さん、通訳も兼ねる馮さん、教師の会の南本先生と私。先方は科技局の印局長、朱部長の他、初めて会う賈輝さん、正体の分からない若い人。賈輝さんはこのビルにいるソフト会社の社長だそうだ。
印局長は、和平区は受け入れを決めているし自分も日本人教師の会と日本語資料室をこのビルに歓迎する気持が大いにある。しかし、この教師の会が団体として認可されていることを求める気持は変わらない。
印局長が賈輝さんに訊いたところでは、中国の団体が何かを企画したり主催すれば、申請の手続きも簡単だし、許可も下りやすい。日本の団体では無理なことでも中国企業が主体なら可能である。したがって賈輝さんが表に立つという形ではどうだろう。そうならば全面的に援助する気である、と言う発言だった。
これを受けて賈輝さんは、印さんに言われてここにきたが、中国で活動する団体は合法的な団体でなくてはいけないが、教師会にはその資格がない。教師の会を中国で通る形の団体にするために、印さんからご指名を受けて全面協力する気でいる。
説明では賈輝さんは瀋陽の名門大学である東北大学を卒業して、日本にも10年留学したという。日本を知る身として、日本のためにも故国のためにもなりたいと思い、教師会の保証をしよう、後見人となろうということらしい。
私たちは初めて聞く話で、どのような形であるかと言うことに疑念が残ったが、高木さんが真っ先にお礼を述べ、森領事も印さん、賈輝さんのおかげで、このように日中の架け橋として活躍している教師の会が拠点を持って活動を続けられることは誠にありがたく、と言ってお礼を述べた。引き続き、南本会長も、感謝の言葉を述べている。
印局長は契約書に前に主張したように認可団体登録を3ヶ月以内に申請すべしという文言を盛り 込むという。賈輝さんの会社は当然認可されているわけで、その下部組織にたとえば図書館という形で潜り込むなら、独立の団体として認可を受ける必要はあるまい。認可申請と言うことは、下部組織ではなく、認可を可能にする何らかの方法を使うのだろうか。この辺のところが私には良く飲み込めないまま、話は明後 日の契約書交換、引っ越しは今週の金曜日という具合に進んでいった。
帰りは領事館の車で送ってもらったので、 森領事に聞いてみた。この話は領事館の口利きなのですか?返事はそうですと言うことだった。なるほど。私たちが相手側企業を知らないだけで、お膳立てが出来ていたので、疑心暗鬼で異様に思ったけれど、先の開元ビルのオ−ナ−の、日本にいるとき日本に世話になったから今度は困っている日本人に恩返しする番で すというのと同じような人が現れたと言うことだろう。
私はこの話が壊れた場合には、侠気に富んだ日本企業(会社)を探して、そこの図書館でも、日本語資料室でも名前は何で良いけれど、そこの庇護の元に入ってやっていく道はないかと思っていた。それが何と、日本企業ではなく中国企業がそれを買って出てくれたわけである。
山形達也
2006年11月23日 (木)
三ヶ月振り回されて
開元ビルにオ−ナ−の好意で入れていただいていた日本語資料室の移転が必要になったときに、開元ビルのオ−ナ−の口利きで、和平区政府が自分のところの孵化器ビルに入って良いですと言ってくれたのこの8月だった。
それから何度私たちは交渉に出掛け、朗報を待ち望んだことだろう。相手は和平区政府なので私たちに出来ることは何もなく、実際上は伊藤忠瀋陽支店長の高木さん(及び馮さん)と、在瀋陽日本国総領事館の森領事、川端領事が全ての交渉をやってくださっていた。
総領事からは相手の局長宛に公文書も一度送られた(10月9日)。それでも局長は教師の会を受け入れることに首を縦に振らない。日本国阿部総領事からは瀋陽市副市長宛に「日本人教師の会はこれこれこのように御地の日本語教育のために力を尽くしている教師の親睦団体で、決して怪しいものではないことを日本政府が保証するから、和平区政府の孵化器ビルに彼らの資料室を置かせてやって欲しい」と言う公文書も送られた(11月9日)。
副市長はそれに和平区の局長に「よしなに計らえ」と添え書きを付けて送っている。このような状況を受けて私たちは11月16日に日本総領事館川端領事、高木さん、馮さん、日本総領事館通訳翁さん同道の元にふ化器ビルを訪ねたが、面談の約束があったにもかかわらず局長は不在だった。代わりの部長が私たちに応対 して、「契約をしても良いが、契約書には、『3ヶ月以内に日本人教師の会は登録申請をする』と言う条項を入れる」と述べた。
日本人教師の会を何処に登録申請して、許可を貰うのか、と言うのが焦点になるが、誰も、つまり日本側も、さらには驚いたことにはそれを主張する中国側も何処に申請して何処で許可が貰えるのか、大体そんなことが可能なのかを知らないのだ。瀋陽日本人会だってその意味では「非合法団体」になるわけだ。
このときはそれが焦点で、しかも局長不在であり物別れだったが次の月曜日の11月20日は先方から会談を求めてきた。その時の状況はすでに20日の日記に書いているが、中国企業を保証人にしようというものだった。それでその提案を受けてその時は、めでたしめでたしで終わった。しかし実際に契約書を交わすために高木さんと馮さんが契約書の検討に入って先方と連絡を取ると、先方の躊躇がますます顕著になり、引き受けると言った中国側の総経理も弱腰になってきて、結局、ここで無理して教師の会を引き受けて貰っても、本質は日本語資料室を受け入れたくない気持が見え見えである以上、絶えず不安を抱えることになるから、断念するしかない、と言う結論が出された。
和平区が引き受け、直ぐにでも移って良いと言うことだったから、私たちは9月17日には荷造りをし、移転を待っていたのだった。つまりその日以来資料室は閉鎖されているのである。実際にビルの改装開始で開元ビルを最終的にでる日限は10月末日だった。
「瀋陽日本人教師の会は非合法団体」だから局長は自分の責任でビルに入れることを認めることが出来ないのだろう。東北三省は日本語教育に力を入れ、日本企業の進出を待ち望み、大歓迎しているにもかかわらず、日本語教育に自分の時間と身を捧げている日本語教師の集まりに、このような冷たい仕打ちしかできないの だ。
間に入って先頭に立って交渉をしてくださった高木さん(そして馮さん)、森領事・川添領事には、私たちはただただ感謝の言葉しかない。本当にありがとうございました。当事者でありながら私たちは当事者能力に欠けていて何も出来ずに全部頼り切りだった。
結果が、うまく行かず実に残念でしたし、又この先も行き先探しにお世話になりますが、どうかこの先もよろしくお願いいたします。再度、ありがとうございました。
山形達也
2006年11月26日 (日)
賑やかな薬科大学の教授室
11月25日土曜日午後2時から薬科大学の私の教授室でホ−ムペ−ジ作成のための講習会が開かれた。どうしてこのような話になったかというと、私はHPの係を ずっとやって来てコンテンツを色々と広げてきかが、いまでは一人で全部をまかないきれなくなってきている。それで、前期はほかのそれぞれの係にお願いして、それぞれ担当の原稿を作ってもらってそれを載せていた。しかし今期からは、それもそれぞれにお願いしたいという希望を述べておいた。
定例会記録がこのところHPに載っていないので、係の中野先生にお願いしたところ、原稿は出来ているからwebsiteへの載せ方を教えて貰えば自分でやり ます、と言うことだった。すご−い。それならば、何時か土曜日に大学に来てくださればお教えしましょう、と言うことになった。と言う行きがかりで、 Windows音痴の私がホ−ムペ−ジ作成の手ほどきをすることになったのだ。
土曜日にも何かと用事があって 延ばしのばししていたけれど、とうとう11月の定例会には中野先生のあの目で見つめられて、何時教えていただけるんですか、と言われて、とうとう「じゃ2 週間後の土曜日の2時に」と約束をしてしまった。その時山田先生も横にいて、「私も行きますから」と言うことになった。さらにこの話を聞きつけて、他の先 生もいらっしゃりそうなので、HPの掲示板にも公開しておいた。
土曜日は、中野、安部、池本、若松、山田先生が来られたが、このほかに日本語クラブの増刷りをしたいという加藤先生と文子夫人、その手伝いをしようという南本先生も来られて私の部屋はいちどに賑やかになった。
若松先生は土曜日午前中の中国語の学習で安部先生と一緒なので付いて来たけれど、元々野次馬らしく、私たちの建物の2階にある卓球台で峰村先生が遊んでいる と聞くと、直ぐにそちらに飛んでいってしまった。山田先生の技術はUnixを使って直接HPに書き込むというやり方なので初心者には難しく、私がソフトを 使うhtml文書作成をおしえた。
フォルダ−に一つ原稿を作ってindexと名付け、もう一つ写真を入れたfileを作って相互にリンクを張り、ここまで出来れば、サ−バにサイトを作って実際にサ−バにアップロ−ドするだけである。安部先生は実際にYahoo にwebsiteを登録して、これで自分のHPが始められると張り切っている。
横では加藤先生が黙々とコピ− 機相手に日本語クラブの増刷りを行い、文子さんがそれを助け、池本先生は「あら、ホントは私の仕事ね」と言いつつも、私の頼んだ別の仕事に掛かりきりである。この別の仕事とは、教師の会で愛唱曲集を今までに第1集と第2集と発行したが、近いうちに第3集を発行ししよう、今度は欲しい歌は全部網羅しようという計画で、1000曲を越える歌の歌詞を私が集めたのだ。歌を集めすぎてしまったし、私個人の好みなので皆で希望する曲を選部必要がある。30ペ−ジに及ぶ歌のタイトル、と歌詞から欲しい歌に丸を付ける作業が池本先生を待っていたのだった。
6時頃今日の作業の終 わる目処が付いたので、学生の陳陽くんに近くのレストランに電話をして貰った。近所のイスラムの又一飯店は前夜薬科大学の面子で行ったばかりなので、湘香餐庁に部屋を取った。それなりのレストランに、しかもこの近間で10人の部屋を直前に取るとなると余り選択の余地がないのだ。辛いのと高いのがこの店の欠 点だが、もちろん味は上等である(一人あたり47元だった)。
陳陽くんも加えて割合珍しい顔触れで話もはずみ、激辛料理を楽しんで店を出たときは小雨が降っていた。このあと寒くなりそうだ。
山形達也
2006年11月29日 (水)
日本語資料室の新たな移転先
日本語資料室の移転問題で、当てにしていた和平区孵化器ビルの態度が頑なで私たちを受け入れるとは思えない状況になった。私たちは他を探さなくてはならない。和平区孵化器ビルの話を持って来てくださった伊藤忠高木さんが、又他のところを探す努力をしてくださるだろうけれど、今まで教師の会は何の能力もな く、全て高木さんと領事館のかたがたに交渉をお願いするしかなかった。
私たちにも出来ることは何だろう。私たちで日本語資料室の移転先を見付けられるだろうか。このような状況で思い出すのは、開元ビルのオーナーの好意的な提案があったときに、別のビルのオーナーからも貸して良いという話があったことである。
3月末の日本人会総会で日本語資料室の移転先がないと教師会が訴えたときに、朝日新聞が「草の根交流ピンチ 日本語資料室の行き先がない」と言う記事を載せてくれた。これに対して中央大学の李廷江先生が、自分は日本人に世話になっている、自分の友人にビルのオーナーがいるからそこに話をして無料で部屋を使って貰おうと申し出て下さった。
4月3日に私たちがその集智ビルのオーナーに会ったところ、自分の友人の李廷江 先生が日本人の窮地を見かねて無料で部屋を貸してあげて欲しいと言っている、友人の言うことだから私も無料であなた方に部屋を貸す、どの部屋でも良いが、部屋の管理をしている別の会社へ管理費・光熱費は払って欲しい。この管理費が1年約2千元と言うことだった。
このあと伊藤忠の高木さんの友人である開元ビルのオーナーから部屋を無料で使って良いという申し出を頂き、管理費・照明費も不要で自分の電話代だけで良いという寛大な条件だったので私たちは開元ビルを選び、そして集智ビルのオーナーには事情を話して丁重にお断りをしたのだった。
あれから半年経っている。再度集智ビルのオーナーに部屋を頼めるだろうか。駄目かも知れないが、私たちは部屋探しが出来るところを他に知らないのだ。先ずここから始めよう、と言うことで、鳴海さんが集智ビルのオーナーに連絡したところ、「いいよ、何平方米の部屋が要るの、見に来ませんか。」と言う返事が直ぐにあった。11月24日金曜日のことである。
状況を高木さんにも領事館にも報告して、27日月曜日午後4時集 智ビルに私たちは出掛けた。森領事、伊藤忠からは馮さん、教師会の南本、峰村、鳴海、そして私である。オーナーは不在だったが係の人が直ぐに次々と部屋を見せてくれた。140平方米は立派で広すぎる、86や110平方米では狭いね。120平方米のところが場所もいいし、これにしよう、などと仲間内で相談し て、オーナーの部屋に行ってオーナー代理と話をした。
部屋は前に言ったように部屋代は無料で貸そう。しかし管 理費は1平方米あたり毎月3元必要で、電気代も別途払う必要があることが分かった。120平方米だと毎年4320元だ。とんでもない。一番小さい部屋が 86平方米なのでこれでも毎年3096元だ。たまたま教師の会は今までの蓄積で現在は3千元を持っているが、私たちにその先毎年3千元を払う財源がない。 しかし、資料室の閉鎖が3ヶ月も続いているのだから、もう選択の余地はない。
毎年3千元の財源は別途考えるこ とにして、先方が良ければここを貸していただくようにお願いしよう、と私たちは即座に決めてオーナーの李暁東さんに電話をした。この電話は伊藤忠の馮さんにお願いした。馮さんは阪大工学部卒で日本語堪能な好青年である。馮さんは出張の予定があったのに、高木さんの配慮で参加して貰えたのだった。
オーナーは良かろう、私たちの教師の会の存在を公安と安全局が別に問題にしないなら、契約しよう、契約書については今までのひな形をこちら(教師の会)が送ってくれれば、それを検討しよう、と言ってくれた。公安と安全局には領事館に出張っていただいて別途お願いすることになっている。
以上のことが馮さんから高木さんに報告されて、高木さんが早速契約書のひな形を作成して下さった。高木さんがこの契約書のひな形を集智ビルのオーナーの李暁東さんに送ったところ、11月29日にはこれでいいから何時でも契約しようという返事が来た。
あとは両者の時間の都合をすりあわせて一緒に出会って契約書を交わすだけである。
山形達也
2006年12月5日 (火)
集智ビルの日本語資料室
12月4日午後、瀋陽日本人教師の会は集智ビルの李暁東さんと部屋の貸借契約を交わした。
12月5日朝、南本さんから以下のmailが教師の会の全員に届いた。
8月末から話のあった「和平区国際科技孵化器」への移転は、話し合いをはじめてから約3ヶ月経ちましたが、一向に埒が明かなく、話が進展どころかむしろ後戻りをしている状態でした。そこでこの話は凍結して、他にもあたってみようということになりました。
3月に移転の話が出たときに、瀋陽で資料室を探していると言う記事を朝日新聞が 取り上げてくれ、東京版に載ったことがあります。その際に中央大学教授の「李廷江」先生から、友人の瀋陽市のビル「集智大厦」(瀋陽市和平区南京南街150号)の オーナーである「李暁東」社長を紹介され、ビルの1室を家賃を無料で貸してやろうと言うことで、会ってお話を伺ったことがあります 。そのときには今回のようなことになろうとは夢にも思わず、いろいろと考えて現在の「開元大厦」へ決めて引越しをしたわけです。
その、「集智大厦」へもう一度移転の話を持っていったら、気持ちよく引き受けてくださることになりました。話し始めてからわずか10日足らずで契約をすることができ、今日(12月4日)無事に契約を交わしましたのでお知らせします。
詳しいことは今度の教師会でお話させていただきます。
新しい資料室の場所は「集智大厦」(瀋陽市和平区南京南街150号)で、東北開放記念碑からはそんなに遠くなく、バス停で言えば、新華広場と太原南街の間の高架になっているところです。
後は、安全局(公安関係を含む)との話し合いが残っていますが、それも領事館のお世話で近いうちに日時等が設定されるものと思っています。
つきましては引越しを12月9日(土) 9:00から行いたいと思います。「開元ビル」に9時前にお集まりいただいて「集智大厦」へ運ぶことになりますが、 当日お手伝いいただける先生は12月7日(木)までに峰村先生へ連絡をお願いいたします。(学生にも手伝いを依頼する予定です。)
当日の予定は下記の通りにしたいと思います。
引越し日時
2006年12月9日(土)
* 9時に、業者および教師の会の先生で都合のつく方集合
* 業者名:「多摩運輸」 担当者:朴紅梅さん(日本語堪能)、携帯:138−4018−9430
* すぐに作業開始。地下の倉庫(鍵は南本が持参)から、業者のトラックへの積み込み。
教師側は、壊れ物に注意をするよう、監視?のみで、軽い物以外運搬はしない(原則)。
したがって、係りは、か弱い?女性でも可。
?A 「集智大厦」へは、10時頃一便が到着予定。できたら「開元大厦」出発時に「集智大厦」の賀さんへ一報入れる。
* 当日、「集智大厦」では、トラックは地下のエレベーターの近くまで行けるそうです。
* 第2便が必要な場合は、二人は「?元大厦」に残って、荷物の保管、運搬の指示等を担当し、最後に「集智大厦」へ来る。
「集智大厦」では、8階までエレベーターで荷物を運び、811号室
に入れる。その後、室内の整理をする。
年末のお忙しいときではありますが、お手伝いいただける方はどうぞよろしくお願いいたします。一段と寒さが厳しくなってきますが、どうぞご自愛ください。
南本卓郎
2006年12月11日 (月)
瀋陽日本人会のクリスマスパ−ティ
12月10日は瀋陽日本人会のクリスマス会だった。毎年12月はじめに開かれるクリスマス会は日本人会の年間の行事予定の中では会員に一番の関係の深いメインイベントである。毎年、五つ星ホテルのマリオットホテル(万豪酒店)の豪華な大広間を借りて開かれている。クリスマス会については私が前に「日本語クラブ」19号に書いた文章がある。
『教師会の定例会のあるとき、実行委員会のメンバーから年末のクリスマス会への要望を問われて、中道秀毅先生は「クリスマス会で座る所ね。あれは私達はあちこちのテーブルにバラバラに座らされるでしょ。だから、テーブルに座っても周りは会社の人ばかりでね。会社の人たちは互いに知っているけれど、こっちは誰一人知らないから除けもんになっちゃって、ちっとも面白くないですよ。教師の会の会員でテーブルを囲むことは出来ないでしょうかね。今度は是非教師で纏まって坐れるようにして貰いましょうよ。きっと楽しいですよ。」とおっしゃる。』
『たしかに初めての時、私達が割り当てられた席はwife と二人のほかはすべて初対面という厳しさだった。私を含めて日本人は、初対面同士がテーブルを囲んだときに全員の口がほぐれるような話題を出すのが苦手である。何とかしなくちゃと思いつつも、ばつの悪い時間だけが流れる。おまけに、皆が同じように白紙ならともかく、ほかの人たちは互いに話をしているのに、こちらはその話に入っていけない。やむまく隣の会社の人と話そうとしたけれど、会話はぼそぼそとして全く弾まなかった。』
しかし、瀋陽在住の日本人が互いに皆を知っているわけではない。10人のテ−ブルで初対面同士が顔を合わせた時に話の糸口を探るのはお互い様だろう。仲間だけで集まりたいというのは、教師が世間から隔離された特殊な職業なのだということの反映かも知れない。
今年のクリスマス会は、瀋陽日本語補習校の生徒たちのクリスマスの歌で幕開けだった。低学年の子どもたちは一生懸命歌うのだ。とても可愛い。つい引き込まれてしまう。指揮をしているのはサンタの恰好をした東北大学の岡沢さんで、彼は補習校の校長も兼ねている。歌が終わると岡沢さんがマイクを持って子どもたち一人一人にインタビュ−をしている。「どうでした。難しかった?」なんて訊いている。岡沢さんは普段は照れ屋なのかぼそぼそとしか話せない人だが、へえ、やるときにはちゃんと出来るんだ。
昨年まではクリスマス会の演し物は外部から呼ぶ雑伎団が主なものだったが、今年の準備委員会は趣向を変えて会員手作りのクリスマス会という方向を打ち出したのだ。それで外部のプロは獅子舞だけだった。
二人ひと組の獅子舞が二組。横浜の中華街の春節で馴染みの、というかジャッキ−チェンの映画で馴染みのというか、雄壮な踊りの獅子舞で、これは良かった。昨年までの雑伎団は子どもの曲芸が多く、その器用さに感嘆するけれど、やはり小さな子どもにこれだけの演技を強いた残酷さは拭えず、見ていてやりきれない気持にさせられたものだった。
次は赤いサンタの服を着た人がステ−ジに立って、空気で膨らませたゴムの細長い袋 を手際よく折っていって、子どもたちにプ−ドルを作ったり、キリンを作ったりし始めた。良く大道芸人が見せる芸である。どう見ても本職の芸人と思ったのだが、付け髭を取ると何と彼は三菱に勤める森さんだった。子どもたちは喜ぶし、皆もびっくり仰天でその至芸に引き込まれた。
その後の圧巻は、幹事会メンバ−が登場したのど自慢大会の趣向だった。水戸黄門姿で阿部総領事、助さんの恰好の日本人会長の世古さんが審査席に並び、鐘つき係におかしなアメリカ縞模様の服を着た田代さん。司会役が付け鼻と眼鏡とちょび髭の、トニ−谷こと苫谷さんというわけ。出てくるだけで満場が湧いた。予選を勝ち抜いてきたという口上で出てくる人たちが、どれもずっこけ演技で笑いに笑った。衣装に凝りに凝ったのが良かった。
食事はこの値段にしてはまずいという不満が今までは鬱積していた。準備委員会では150元の会費を200元に値上げした食事を試食したと聞いている。事前の 情報では会費が200元に上がると言う話だったが実際には以前と同じに150元に抑えられていた。その食事は、値上げをしなかったにもかかわらず、昨年ま での不平不満が嘘みたいに上等になっていた。文句は言ってみるものである。
クリスマス会の最後に委員会に人たち全員を集めてそれぞれを紹介するという場が今年は見事に設定されていた。皆が実行委員たちに拍手を心から送ることが出来て、とても良かった。
実行委員の方々、ありがとう。会員手作りのクリスマスという路線が早めにでていたら、三十数名を擁する教師の会でも何かできたと思う。来年を目指して頑張ろう。
山形達也
2006年12月16日 (土)
森領事の講演 「寒冷地技術を利用した環境対策について」
12月16日今年最後の定例会が、在瀋陽日本国総領事館の一隅で開かれた。
出席者:石井、池本、石原、宇野、加藤(正)、加藤(文)、金丸、佐藤、田中、辻岡、中村、中野、中田(知)、中田(時)、鳴海、野崎、林(輿)、藤平、松下、南本(卓)、峰村、森林、若松、渡辺(文)、山形(達)
特別参加:森領事、苫谷日本人会事務局長
欠席:山形(貞)、安部、片山、林(八)、渡辺(京)、南本(み)、河面、岡沢
1. 日本語資料室が集智ビルの811号室を借りて再開されたことが報告された。
2. 領事館森領事から連絡:2007年は日中友好35周年に当たるので文化・スポ−ツ交流年と名付けて行う企画を外務省が募集している。いいね。教師の会のHPを外注恰好よくする費用を出して貰えないだろうか。
3. 日本語弁論大会実行委員から:最終弁論大会を予定していた4月29日(日曜日)は出勤日の可能性があると指摘されたので、22日に変えるために場所をあらたに探しているとのこと。したがって12月半ばには各単位に弁論大会の日程を通知する予定だったが暫く延期。
4. 資料室係から:半年近く閉鎖していたので、1月13日まで週末開館。開館時間は10時-2時。
5. 今まで多くの本が戻ってこないので、貸し出す相手を制限したい。貸し出しは、教師の会の会員とその紹介者、日本人会員と家族に限る。
6. 山形達也から:教師会の愛唱曲集1と2に替えて、新しい歌を加えて決定版を作る計画している。今度の費用は各自負担して貰えるだろうか。OK。
7. 山形達也から:12月22日に開かれる日本人会幹事会に出席して、教師の会の現状を訴えて援助を求める計画で、当日配布予定の資料を配った。
午後4時からは、森信幸領事の講演で、題して「寒冷地技術を利用した環境対策について」。3階の大ホ−ルで行われた。
森領事は元来国土交通省北海道開発局の出身で、今まで寒冷地対策というと、温暖地方と同じように生活が出来るように、防寒、断熱、水道の保温、排水処理に力が注がれてきたが、それには多額の費用がかかり、結局生活は温暖地のスタイルを真似しているわけで、住むなら寒冷地以外の方がよいということになってしまう。逆に寒冷地であることを利点に出来ないかという逆転の発想で、寒冷地に冬季には豊富にある雪や氷を利用して快適な生活ができるではないかという提案だった。
実際に北海道の美唄市の例が示された。老人ホ−ムの一画に大きな断熱性の良い倉庫を造って、年間降雪8mもある雪を冬季に運び込み、これを夏の冷房に使っているというものだった。
言うまでもなく夏が暑ければ電気利用の冷房を何処のうちでも使うわけで、部屋は快適な温度になるけれど、室外は暑くなる。これが都会のヒ−トアイランド現象といわれているもので、暑ければク−ラ−をつけ、都会の気温は上昇し、暑くなれば更にク−ラ−をつける家庭が増え、外気温は上昇して悪循環になる。ク−ラ−のエネルギ−源である電気は、火力発電なら石油資源を使い、空中の炭酸ガスを上昇させる。
冬場に無尽蔵に出 来る氷を夏まで置いておければそれがク−ラ−のただ同然のエネルギ−として使えるというのが、この説である。夏の北海道から東京への貨物輸送は4分の1が 空荷なので、それを利用して実際に、北海道の氷を東京に運び東京の夏場の冷房に使う実験が始まっているそうである。
瀋陽は札幌に比べて夏は暑く、冬は平均10度以上低い。冬場には十分の氷ができる。瀋陽の冬は地域暖房で、石炭を焚いてボイラ-の湯を循環させてその地域の 建物を暖房している。そこに大きな地下貯氷槽を作って、冬に氷を入れておけば、暖房のため配管がそのまま利用できる。夏場の冷房がまかなえるはずだという。北海道の美唄市の夏の暑さを知らないが、瀋陽が例に出ればよく分かる。夏は東京ほどではないにしても、結構暑くて冷房が必要なのだ。
森領事の話で具体性を欠くのは、瀋陽のように断熱性の高い建物で、その容積の何分の1の体積の(地下倉庫を造って)冬場に氷を溜めればよいのか、その計算と、エネルギ−採算性、コスト計算のバランスが出ていないことだった。しかし、これはこれからの話で、瀋陽市の東北大学がこの話に乗り気で具体的な実験を始めるのだという。
この壮大な話は、夏場の電気代の節約というだけでなく、エネルギ−消費を抑え、炭酸ガス放出を抑え、いいことづくめである。しかも瀋陽だと冬場の氷の切り出しと貯蔵という人出を必要とするので景気対策にもなる。
大変結構な話である。中国のようにトップが一度決断するとことが速やかに進む国で、この話を理解して壮大な実験プロジェクトができるといい。実際に地下貯蔵庫を持つ建物を造って、ほらこの通りという具体例を示せれば話は早いだろう。森領事、がんばれ!!!
山形達也
2006年12月17日 (日)
続いて送別会兼忘年会
12月16日の定例会の終了後、領事館近くのレストラン登瀛泉大漁港2階の瀛泉庁で、教師会の忘年会と、1月に瀋陽を去る二人の先生の送別会兼用の会が開かれた。
野崎、藤平の二人の先生が所用で抜けて、森領事と苫谷日本人会事務局長も加えて総勢24名。三つのテ−ブルに別れて座った。
幹事は峰村、渡辺文江、石原先生の3人だった。会長挨拶、苫谷さんによる乾杯、食事のあと、先ず峰村先生のハ−モニカによる曲のイントロクイズがあった。三つのテ−ブルで競うものである。
いつでも夢を、雪山賛歌、オ−ルドブラックジョ−、もみじ、里の秋、荒城の月などよく知っている曲ばかり26曲。驚いたことに自称音痴の南本先生が一人で10曲近く当てて、そのBテ−ブルが12曲正解で優勝。私のいたAテ−ブルは声の大きい、つまり曲が分かったときに手を挙げると同時に大きな声でハイハイと絶叫していた森林先生と私がいたために8曲で2位、Cテ−ブルは幹事3人が抜けたけれど健闘して6曲を当てていた。
余興は優勝のAテ−ブルから始まり、「世界に一つだけの花」を全員で歌った。Bテ−ブルでは、山田先生と私が替え歌を用意していた。発想は、瀋陽に来て印鑑作りを始めた自分たちのことをからかったもので、どうせ歌うならもっと増やそうと2、3番を私が朝急いで追加したのだった。原曲は「北の宿から/都はるみ /阿久 悠作詞/小林亜星作曲」である。
ナレ−ション:『瀋陽へ来て、作詞家 阿久 悠さんの才能の素晴らしさを改めて実感しました。みなさんは、どんな「北の宿からを」お過ごしでしょうか。お聞きください。私たちの「北の宿から」。』
あなた変わりは ないですか
日ごと寒さが つのります
押しはもらえぬ 印鑑を
寒さこらえて 彫ってます
男心の 未練でしょう
あなた恋しい 北の宿
吹雪まじりに 汽車の音
すすり泣くよに 聞こえます
見てはもらえぬホ−ムペ−ジを
涙こらえて書いてます
男心の 未練でしょう
あなた恋しい 北の宿
あなた死んでも いいですか
胸がしんしん 泣いてます
一人淋しく資料室
貴女のおいでを待ってます
男心の 未練でしょう
あなた恋しい 北の宿
この「北の宿」と「瀋陽」がぴったり重なるのがいい。どうせ見ては貰えぬHPを一生懸命書いている、という空しさもいい。資料室を皆に役立てようと教師会が りきんでいるのに誰も来ないという淋しさもいい。瀋陽で知った印鑑づくりをせっせと励んでも、上げたところで使って貰えぬ悲しさもいい。雪がしんしんと降 る瀋陽の静けさと、あきらめを突き抜けた心境とが奇妙にマッチする。
これ、瀋陽日本人教師の会のテ−マソングにならないか。文字通り自画自賛だけれど。
お別れの中村先生は、はじめは寒くておびえた瀋陽も2年いると大好きになって別れがたい、それには教師の会の存在が大きな中心だったというものだった。彼女はこの春の弁論大会実行委員会の中心人物として活躍した。
金丸先生は、初め本渓にいる頃は瀋陽に来て教師会に出るのが唯一の楽しみだったのに、瀋陽師範大に移ってからのこの1年は教師会も、あ、またかという気分になってしまって、お別れでも涙も出ませんという何とも賑やかな彼女らしいしまらない話だった。
こ の夏に瀋陽を去った先生の中に中道秀毅先生がある。それまでは、送別の先生がある度に中道秀毅先生は、恵津先生が「あなた、いい加減にしなさいよ」という のも聞かばこそ、率先して前に出ていって彼女に捧げる歌を歌っていた。彼女というのは、女性の先生にだけ歌っていたわけだ。
秀毅先生の跡を継ぐと決めている私は、このときも前に出て行って、二人の先生のためにそれぞれの名前を読み込んだ「思いでのソレンツアラ」を歌った。
歌のうまい妻がいると、私の歌を彼女は「死んでも止めてみせる」のだが、妻は今日本に行っているので、私はのびのびと自由に振る舞えるのである、他の先生の迷惑を顧みなければ。
私が最初に歌えば、それを聴いた誰もが安心して歌う気になることは今までの長い経験が証明している。
このように賑やかに5時から8時まで続いた宴会は、最後の森領事の「足を90度に開いて俵を持ち上げるように下から突き上げる」万歳三唱、鳴海さんの「お手 を拝借、三本締め」で終わった。終わって分かったことだが費用は森領事が払ってくださって、全員が感謝。せめてそれなら、というので教師会の基金として全 員がそれぞれ50元のカンパをした。こんな具合にいけば、資料室の維持費が私たちで捻出できるかも知れない。
山形達也
2006年12月24日 (日)
資料室の本のこと
瀋陽日本人会の幹事会にオブザ−バとして領事館と、瀋陽日本人教師の会が参加していて、私は昨年秋から教師の会の代表として出ている。12月22日に開かれた幹事会では、教師の会の資料室の経過報告をしてさらに、教師の会が日本語資料室の運営費の捻出に苦労している内情を話したところ、幹事から色々と意見が出た。
ある幹事からは、日本語資料室にはこれといった本がないではないか。それで十分に利用されていると言えるのか。こんな資料室を苦労して持つ必要があるのか、という意見があった。
いまは教師の人たちが図書の回収に悩んでいることに話を絞ってみたい。
2000年の資料室の開館以来、日本語のめぼしい本が殆ど失われてしまったと、私たちは昨年まで7年間この教師の会を守り育てきた石井先生から聞いている。
教師の会の集まりでは、日本語の図書を学生や一般の人たちに利用して貰いたいけれど、一方で図書がなくなる現状をどうしたら防げるかと何時も議論している。日本の図書館では図書への書き込み・いたずらが問題になっていると思うけれど、ここの資料室みたいに、貸した本が殆ど返ってこないという悩みはないだろ う。
これは中国の国民性にあるといって良い。お金がそうだ。借りた金は返すというのが日本人の間では当然の感 覚だが、ここでは違う。豊かな人が貧しい人を助けるのは、それが当然という感覚が長年の庶民感覚だから、貸すと言うことはあげると同じだ。ちなみに中国では、貸すと借りるの言葉の区別はない。どちらも借である。お金でそうだから、借りた本は貰ったことと同じと思う人が多いことになる。
もう一つは、共産制のためかどうかは分からないが、私有財産という観念が乏しい。人のものでも必要なときに誰でも使う。研究室でも最初の頃は、私たちの机か らハサミ、ペン、定規、本、何でも置いてあれば持って行ってしまって、返ってこない。私たちは、使っても良いけれど断って持って行きなさい、そして必ずもとの所に戻しなさいと、しつこく繰り返し言い続けた。
今ではものがなくなることはない。彼らも何か良いものを自分のものにするという悪意ではないのだ。必要だから、黙って使うだけなのである。
本も同じで「貸してください」と言われて貸すと、返ってこない、返却を催促するともう誰か他の人に貸しました、今は誰が持っているか分かりません、と言うことになる。したがって研究室の本は室外持ち出し厳禁、実験室に持っていくときも備え付けのノ−トに記入しなくてはいけないことになっている。
資料室の本がなくなるには別の理由もある。学生は移動するわけだし、先生方の瀋陽滞在が平均2年だから、先生がここを去るときまでに返却されていないと、学生の移動は辿りようがなく本も行方知れずになる。
この問題は貸した本の原簿を見てうるさく督促をするにしても、根本的に本がなくならないようにするための対策が、会員の間で真剣に話し合われた。
本を借りるための身分証の発行の時に、50元の発行料と50元の預かり金を申し受け、預かり金は身分証と引きかえで返還する、という案が資料室係から提案さ れた。実際、瀋陽の公共図書館で本を借りるときには、50元あるいは100元のdepositをとり、本を返さない限り金の返却には応じないという。
ところが教師の会で議論されると、金を預かる方はよいが、いきなり返還を求められたときに当番の先生が立て替えなくてはならないという問題がある。日本人が金を取っているのだと言う噂だけが広がると、あとでどんなことになるか分からない。資料室の当番が金を受け取ると、そこに現金があるわけだから、悪い心を誘発するかも知れない。
このように問題点ばかり指摘されて、大体が本はなくなるものですよ、仕方ないじゃない ですか、いままでどおりいきましょう、但し(教師会会員・日本人会会員および)日本語教師の教えている学生以外の素性の分からない人には貸さないことにして会員の紹介者ならいいことにしましょう、と言うことになった。
しかし、会員の紹介者が本を借りて、その会員が帰国してしまい他の先生が本の返却を催促すると「一体アナタはどんな権限で本をかえせというのですか」と逆ねじを食らわせられたという話も聞いている。
この方式ではとても危ない。ますます本が減っていくだろう。良い対策がない以上は、本を増やすように考えなくてはいけない。日本人会の会員にお願いして、帰国時に本を寄付していただくのもその一つであろう。日本から本を送りたい善意の人たちは沢山いるけれど、送料の高いのが大きなネックになっている。せめて教師の人たちが休暇のあと瀋陽に戻ってくるとき、本を出来るだけ持ってくることも役立つだろう。
山形達也
2007年1月2日 (火)
日本語資料室の役割
12月22日に日本人会幹事会が開かれたときに、私は日本人教師の会の代表として、教師の会と資料室の置かれている現状を述べ、日本人会からの資金援助を訴えた。
これは、今度借りることになった資料室はビルの持ち主の好意により部屋代は無料になったけれど、管理費と電気代4千元を毎年負担しなくてはならなくなったた めである。教師の会の財源は会員の会費だけから成り立っている。年間50元の会費は今年度から100元になったが、その値上げにも大変な議論のやりとりが必要だったことから見て、今の会費を2倍以上にすることには問題がありそうに思う。
新しく加入する人の立場に なってみてみよう。日本から瀋陽に日本語の教師に来たときに、瀋陽に教師を助ける会があると聞いて入る人たちが殆どである。会に入ってみると、弁論大会、 文化祭、ホ−ムペ−ジ、資料室などいろいろな役割があって、それぞれどれか一つは分担しなくてはならないと言われる。
資料室というとても役立つ図書館があると知って、それは大変結構と思っても、入ったばかりなのにその運営に責任を持たされるので先ず驚く。それだけではなくその金銭的負担まで強いられる、となるとこの瀋陽日本人教師の会に入ることに二の足を踏む新会員が増えるのではないか。会員が必要経費を負担したときに、会員数が減れば一人当たりの金銭の負担は増える道理である。悪循環になる可能性がある。出来ればこれを避けて、教師の会の会員は運営だけに骨折って欲しい。
そういう思いで、日本人会幹事会に出て、資料室運営に対する援助をお願いした。それに対して、幹事から様 々な意見が出た。その時はそれ以上教師の会の立場を説明する時間がなく、会長から教師の会から改めて日本語資料室の存在の目的と意義、そしてその必要性を、今後の運用と活動計画(予算、事業内容)と共に訴えなさい、ということになった。
幹事会で出された意見を要約すると以下のようである。一つは、日本人会の中に資料室の存在意義を位置づけられるだろうかというものである。
○資料室の存在が日中友好に本当に役立っているという証拠があるのか。
○ 教師の会が資料室を持つことで日中友好をする価値と意義があるのか。
○日本人会との関係が分からない、資料室を支援して日本人会にとってどのように役立つのか。
もう一つは、教師の会が本当に資料室を必要としているのだろうか。なくたって良いじゃないか、ともう一度考えてご覧。なくてやっていけるならこの問題は根本的に解決するよと言うものである。
○資料室を開くための当番などが先生たちの負担となっているとも聞いている、この際、資料室の持ち物を捨てて身軽になれば問題は全て解決するのではないか。
○ 財産を持たなければ、教師の会が集まるだけで済むわけで、資料室を持つ必要があるのか。
このあとの発言は教師の側の意見もよく知っていると思われる、日本語弁論大会にも関わった幹事から出たものである。聞いた途端にはびっくりしたけれど、発想の転換、提案を逆転の発想で吟味するというのはこの頃は何処の企業でも当たり前のことであることに気付いてみると、なるほどと思う。同時に、まだまだ説明の足りないことに気付かされる。
大体、瀋陽に日本人の日本語教師が来た頃には、自分が持ってきている資料以外 に何も頼るものがなかったわけである。日本語を教えるための教え方の教材、辞書、辞典、字典も沢山あるが一人の先生が用意するには限りがあり、誰もが足りなくて口惜しい思いをしただろう。日本語を勉強する学生には、教科書以外の読み物が必要だろう。真面目な副読本も大事だろうが、それが漫画だっていいし、 ニュ−スの載っている新聞でも週刊誌だっていいわけだ。つまり日本語の読み物ならなんでも役立つはずである。
このような日本語教師たちの思いが結集して、日本語の図書を揃えようという大阪の特定非営利活動法人 日中ポランティア活助センターの設立となり、そこが中心となって2000年6月に日本語図書5千冊を揃えた日本語資料室が瀋陽市に発足したのだった。
私は日本語教師ではないが、教師の会に最初に行ったときにこの資料室がどんな苦労と善意で作られたかをその時の会の代表の石井先生から聞いた。『資料室が何とかぼそい線で支えられているのか』と驚いて教師の会を私の出来ることで助けようと思ったのだった。だから、教師の会や資料室の意義は私にとっては自明のことだったけれど、日本人幹事会にとっては、どうということのない話である。身を入れて聞く気になって貰うためにすら、こちらは努力を払わなくてならないわけだ。
日本人会幹事会に働きかけて支援をして貰うためには、日本語資料室の存在の意義を最初からゆっくりと説明し理解して貰う必要がある。ここのところを急いではいけないのだ。
山形達也
2007年1月13日 (土)
日本語資料室の一日
1月13日の土曜日は日本語資料室の当番だった。先の12月から当番は二人、交代なしで午前10時から午後2時までになった。それまでみたいに一日二交代で 複数制だと、当番が頻繁に回ってくるので当番を負担に思う人たちがいると言うことが考慮されたらしい。この新しいやり方だと、もし誰もが均等に当番をやる なら、2ヶ月に1回という計算になる。
借りている本の他に、南本先生が朝日新聞瀋陽支局から貰ってきた新聞を 私の所に「先生新聞読みたいでしょ」と置いていった古新聞がリュック一杯ある。このほかに、新しい資料室に寄贈したい手持ちの本も20冊以上あったので、本を返しに行きたいといううちの学生の楊方偉くんにリュック一つを持って貰って一緒に行った。バスなら1元、タクシ-で12元。前の開元ビルよりは遠くなった。タクシ-に乗って、新華広場、西南角、集智ビルというと、直ぐに話が通じたが、楊くんが直ぐに分かって彼が中継したのだった。
今度の資料室は86平方米の広さだ。前の開元ビルは二部屋あわせて150平方米あったから、ここを見たときは「あれ、狭い」と思ったものだ。でも、もう見慣れて我が家みたいなくつろぎを感じる。入口から入ると部屋は細長く続いているが、奥の方は本棚で仕切って教師用の部屋にしてある。したがって手前がぐるり と本棚に囲まれた閲覧室で、そして会議室も兼ねている。
10時には今日の相棒の池本先生も現れて、先ず部屋の掃除。電気掃除機を掛けて、その後モップで水拭き。いま外は雪で汚れているから、部屋の中まで靴の跡が残っている。一緒に来た楊くんが途中から床ふきに加わってくれて、私たちは大分楽をした。やがて若松先生がひょっこりと現れたが、このあと新年会をやることになっていて、その場所が分からないからあとで一 緒に行くためにここに現れたという。でも、その前に大福源というス−パ−にお土産を買いに行くわと言って出ていった。
電話が掛かってきて学生がこれから来たいという。最初の男子学生は、両親と一緒で、理科系の高校2年生。日本留学を目指していて、質問があるという。この質問には中国語も堪能な池本先生があたってくれた。どういう勉強をしたらよいか、日本にはどういう専門学科があるか、どんな大学がいいか、果ては日本で大学を出てから就職できるだろうか。中国籍だから不利と言うことはないか、そしてどういう会社に就職できるだろうか。などと、日本語勉強のためにはどのようにしたらよいかと答えていた池本先生の手に余ることを、やがて聞き始めた。親も真剣なまなざしで池本先生を見つめている。
私の所から行った学生が修士課程を出てカネボウに就職したが、日本の企業が国籍で区別をしているとは思われなかった。参考までにと思ってそのことを言っても、カネボウなんて知りません、という。ばかばかしくて私は相手にするのを止めた。池本先生は真面目に相手をしている。
このほかにも女子高校生が二人来た。文化系学生で、本を借りて帰りたいというので利用証を作成した。利用証のためには写真を持ってくることになっていて、このことを当然知っているはずなのに、一人の学生が持っている写真はキティちゃんが印刷されている小さなタックシ−ルである。学生証も持っていないが、中野先生と若松先生に習っているという。若松先生はもうすぐ戻ってくるだろうから、いいか、と言うので利用証を作った。
もう一人の女子学生も同じように利用証を必要としたので作ったが、彼女の写真はあまりにも幼いので、池本先生が訊くと小学校6年生の時の写真だという。自分で気に入っていて6年前の写真を使っているのだ。何とも驚きだが、国が違えば考え方も違うのかなあ。私もこの先は老顔になる一方だから、ここでは古い写真を活用してみよう。
学生は昼までに帰り、私たちは2時までが持ち時間でも実際はあとの都合もあって3時半まで、図書の整理などをしながら資料室にいた。
タクシ-で九香堂餐庁という名前のレストランに移動した。池本先生の友人の経営するレストランで、店長には日本留学経験があって、専門はインテリアデザインだが、アルバイトで覚えたという彼の打つソバが絶妙に美味しい。と言うわけで、ここを時々利用させて貰っている。今日は年が明けても瀋陽に残って仕事をしている先生たちの新年会の日。
7人集まった顔触れは中堅層が厚く、教師会の若手と高年者組の二極分布と違って、珍しい顔触れが一堂に会したという感じだった。そして、日本語の教え方、学生の反応とか試験、採点とかの苦労が話題になった。こういうくつろいだ話しが出来るために教師の会があるのだろう。哈爾浜の氷祭りに夜行往復した経験や、瀋陽郊外のスキ−行きの話しもでた。みんな積極的に瀋陽生活を楽しんでいるようで、嬉しいことである。
山形達也