2005/08/25 21:47
休みが終わって瀋陽に戻る
今日25日の全日空の便で瀋陽に戻った。台風12号の影響を受けて朝から強い雨の音が続いて3時半に目覚めてしまい、洗濯、掃除などしてから、小雨の中を5時半に昨夜のうちに頼んでおいたタクシーで出発した。
全日空は成田で出発が40分遅れ、日本の空域から韓国の空域に入るところで また待たされて結局1時間20分遅れで到着した。迎えの国際交流処の蔡さんたちを待たせてしまった。
同じ飛行機にはお隣の研究室の池島先生も同じように休暇から戻るところで、瀋陽空港のバッゲージクレームで一緒になった。その時の話だと、乗っている間中葡萄酒、ビールを飲み続けたという。今回の夏の休暇で日本に戻る時も、キャビンアテンダントに勧められるままウイスキーやワインを飲んでいたら、次には「免税品機内販売」でもいろ いろと勧められて、只酒を飲んで断ったりしたら男じゃないというので、勧められるままに化粧品を沢山買ってしまったという。
化粧品は全部日本のお嬢さんたちに取られたそうで、今度のフライトでは、それを教訓にして、飲みながらも隙を見せないように頑張ったとのことだった。それで買わずに済んだと言う攻防を、まじめな顔をして話すので、荷物のでるのを待つ間退屈しなかった。池島先生は学究の徒どころか大学者でありながら、このように廻りの人に気配り・心配りのサービスの出来る人なのだ。
瀋陽に着いた時の気温が20度だった。瀋陽空港は瀋陽の南20 kmくらいのところにあって、高速道路で結ばれている。高速道路の両側は植樹帯となっていて、柳と楊が主体で植わっている。楊の一部の葉がもう黄色になり始めていて、夏が終りに近づいたことを実感した。瀋陽の街の空は半分以上秋の頼りなげな薄い雲に覆われている。
大学の門を入ると、新学期は来週から始まるからまだ人影は少ない。それでも、男女の二人がぴったりとくっついて歩く姿が忽ち沢山目に入って来た。これは瀋陽に戻ってきたという実感を与えてくれる。今の時候は薄着の二人がぴったりするのにもってこいの季節だ。
教授室には胡丹くん、王麗さんが待っていて歓迎してくれた。久しぶりの王麗さんがすごく美人に見える。彼女のボーイフレンドの馬くんはいま会議出席で日本に行っていて不在である。「あまり美人なので見違えてしまったよ。本当は一人の時の方が、くつろいでいられるのではない?」と思わず言ってしまい、危なく叩かれるところだった。
この二人の関係は、馬さんが病気で入院して点滴を受けているベッドの横に王麗さんが座り込んで、「私のことが好き?」と迫ったという。「否」と言ったりしたら点滴の針が抜かれそうな気迫だったので、馬さんは「諾」と答えてしまったという話になっている。二人は近々結婚するはずである。
胡丹くんも王麗さんもこの夏は故郷に帰っていない。鄭くんと王くんは1週間たらず故郷に帰っただけである。大学院生の人たちはほとんど毎日研究室で実験をしていたわけだ。王くんは黒竜江省の出身で、4日間故郷に帰った間に、彼の両親が探したという朝鮮人参を老師の健康にといって礼物に持ってきてくれた。
毛毛(王毅楠)くんは学部を出てこの9月に修士に入る学生なので、卒業後の2ヶ月近い休暇を楽しんだらしい。学部時代の仲間とモンゴルに2週間の予定で遊びに行ってきたといって、乳で作った飴風の菓子を土産に持ってきた。毛毛くんと同期生ということになるが、外部から大学院を受験した女子学生がいる。面接して私はOKの判定を出したが、この学生は来るのだろうか。
私たちの持ってきた大福や、杏タルト、毛毛くんの土産を食べながら研究室の学生に聞くと、「ここに来ますよ、来るに決まっています。」という返事が返ってくる。大学からは何も聞いていない。本当に来るのだろうか。大体合格したかどうかも報されてはいない。もっとも、この毛毛くんが私のところに入るのも、合格したとも配属されたとも公式には何も聞いていないのだから、女子学生だって期日になれば、研究室にやってくるのかも知れない。
明日一日は毛毛くんを除いてそれぞれから夏休み中の研究の進展状況を聞くことになった。皆張り切っているので、どのように進んだのかを聴くのが楽しみである。やはり私たちの生活の場は瀋陽のこの大学にある。休みは終わった、いざ。
2005/08/30 06:50
ない、何もない
私たちが瀋陽に戻った翌日の金曜日に、瀋陽薬科大学の日本語教師である加藤先生も関西から戻ってこられた。今回は文子夫人も一緒だった。彼女は日本の衆議院総選挙があるので、その投票に間に合うよう瀋陽には2週間の滞在である。日曜日の今日、何時ものように瀋陽の街を一緒に見に行こうと誘われた。
朝9時にアパートの下のバス停で待ち合わせて、中街のある大西門まで212路バスに乗った。久しぶりの瀋陽の街がだいぶ綺麗になっている。路に沿って街路樹が急に増えている。薬科大学も高さが2メートルある無愛想な石と煉瓦の塀を壊して、軽やかな鋳鉄製のフェンスに換えている。塀と歩道の間には、もうこの春に楊を二列に植えてある。商店街の看板も綺麗に取り替えているところが多い。
胡丹くんに先日聞いたところによると、来年のガーデニング博覧会が瀋陽で開かれるのに合わせて街を綺麗にしているのだという。商店街の新しく取り替える看板も、まず市の担当者に見せてデザインが承認されないといけないそうだ。といっても、看板を綺麗に作り替える費用は、瀋陽市ではなく個人持ちなのだという。どの店も数百から数千元の出費だ。
中街の路上市も、加藤先生に連れられて来るのがこれで数回目なので、置いてある品物が少しは目に留まるようになってきた。今までは、どれもそこに置いてあるものが珍しくふわふわと目移りがしていた。たとえば、掌中に入る気付け薬入れに様々の素材があり、飾りや絵の題材にも様々なものがあることが分かってきた。
古本も、これまでは「唐詩選」や「紅楼夢」みたいな知っている名前しか目に入らなかったけれど、今ではかなりの題名が目に飛び込んでくる。印鑑用の石も高価なものから1元で買える石まで沢山あるけれど、目利きということはないにしても、一つ1元の石の中から気に入ったものを至極簡単に選び出すことが出来るようになってきた。
やがて古物商の入った大きな古物会館に着いてその二階に行ったのは、二ヶ月前に買った竹板を持ってきたからである。1ヶ月で出来るようになるとのことだったけれど、いくら練習してもその時聴いた音にはならない。根本的に扱い方が間違っているのではないかと思って、店の主人の王さんに再度習おうと思ったのだった。
竹板を出して左手に付けて手を振ってみる。バシャ。王さんは「上手くないというのでなくて、それは違う。」と首を振って、竹板を私の手から取って自分の左手に付け、パカポコ、パカポコ、そして次にはパカッ、パカッ、パカッ、とやって見せてくれる。手の動きが速すぎてよく分からない。「ゆっくりやって下さいな。」すると、ゆっくりと 一回だけ、パカポコ。
このやりとりと何度もやっていると、一緒に来た加藤夫人の文子さんが可愛い声で「私もやってみたい。」
それで王さんが壁から外してきた別の竹板を左手に装着して、手を振ると、パカポンと音が出た。「すごい。最初の一振りで音が出るなんてすごい、天才だ。」と王さんはじめ賞賛がいっぺんに文子さんに集まった。私は王さんのように鳴らしたくて左手を振っているけれど、ちっとも王さんの音にならない。加藤先生も、見ているうちにやってみたくなって「貸してご覧よ。」と文子さんから奪い取って、「ほら。」と王さんに向けてやったけれど竹板はゆらゆら振れているだけで音が出ない。妻の貞子は右手用の竹板でパカポンと鳴らそうとしている。
王さんは連続してならさなくて良いから、「一回だけ鳴らしなさい。手の緊張を取って、手を洗ったあと水を手から払い去るように降ってご覧。」と何度も教えてくれる。パカポコ、パシャ、カシャ、フチャ、の音を聴きながら、結局、文子さんがA、私がB、貞子がC、加藤先生がDと成績が付けられてしまった。褒められたからでもないだろうが、文子さんは「私もこれが欲しい。」ということになって彼女も竹板を手に入れた。
「再見。」「また教わりに来ますね。」ということで店を後にしたけれど、文子さんは竹板を鞄に入れずに左手に付けて、音を出しながら歩いている。とても気に入ったみたいだ。自分に素直に振る舞える文子さんはもう大事な友人の一人だ。竹板の仲間となったことも嬉しい。
満州時代の絵はがきを中心に置いている店に寄ったりしているうちに昼になった。中街の馬焼麦の店に行って美味しく昼食を食べた後、私たちが目指したのは、中国医科大学近くの旧日本人街に住んでいる遅さん、苑さん夫妻の住居だった。二ヶ月前に思いがけず出合った87歳と86歳 の二人は、旧満州国時代に日本語教育を受け、その後数奇な人生をたどった人たちだ。今日の目的は再度会って昔の話をもっと聴きたいというのがひとつ。もう 一つは、遅さんは戦前の大連にあった森永製菓に勤めたと聞いている。それで懐かしいかも知れないと思って、日本で現在の森永のキャラメル、チョコレート、ビスケット、ココアなどを幾つか買い求めてきたのだった。
森永製菓の製品を知るためにインターネットで調べたときに、ついでに森永の社史も見たけれど、当時の満州国にも会社があって森永製品を販売したとは書いてなかった。遅さん、苑さんの時代が終わってしまえば、森永の人たちも知らない歴史が消えてしまうことになる。これも歴史に残らずに消えていくことのひとつなのだ。中街から満員のバスに乗った。「財布に注意してね。」と加藤先生にささやかれたけれど、混んだバスが揺れてバランスを失って私が押してしまった若い男が自分の尻のポケットをしきりに、まさぐって財布を確認しているのには思わず一人で笑ってしまった。この満員バスは街が大混雑で、着くのに相当時間がかかった。瀋陽も、クルマが増えて交通渋滞は日常的である。
バスを降りて目的の住宅街を目指して歩く。あの当たりだというところに近づいても家がない。ない。何もない。代わりに片づけられた瓦礫の間に見越しの松が二本ぽつんと残っているだけだ。なんと、二ヶ月の間にこの一画の住宅が全部取り壊されてしまったのだ。そういえば、前回ここに来たとき、ここはいずれ取り壊されると聞いたけれど、まさかと信じられなかった。遅さん、苑さんはどうしたろう。そして、あのとき私たちを取り囲んでニコニコと話しかけてきた近所の人たちの生活はどうなっただろう。私たちは突然開けた空間の向こうに聳え立つ州際飯店を見ながら、しばらく呆然と佇んでいた。
2005/09/03 15:27
入学日和の一日に思う
9月3日の土曜日は朝から空が晴れ上がって秋晴れの好天気だった。大学について正門を潜ると、新入生歓迎の大横断幕が数本かかっていた。正門の脇には幾つかの机があって新着の学生の案内をしている。新入生も三々五々到着している。一人で荷物を引いているよりは数人のグループの数が多く、よく見るとそれぞれスーツケースを引きずった両親、場合によってはお兄さん、あるいはおじいさん、おばあさんも一緒である。時たま新入生を乗せたと思しき車が到着して、中に入っていく。今日は新しい修士の学生も到着するはずで、研究室としても新年度の第一回の集まりは、研究室の規則を説明し、一緒に話し合って今後の研究室の運営に備えようという予定である。新しい修士学生としては薬科大学の薬学部から毛毛くんが最優秀の成績で入っているが、このほか黒竜江大学から王暁東さんが入学することになっている。彼女からの連絡も、大学からの通知も全くないために、彼女が本当に入学したのか、試験に受かっても本気で来る気かどうかその日まで分からないという仕組みである。
嬉しいことに8時半にドアにノックがあって、小柄な王暁東さんが入ってきた。以前、彼女の面接をしたときは胡丹くんに翻訳を頼んだので、彼も一緒にいた。それで胡丹くんは、彼女があまりにも可愛いいので、山大爺が気に入って入学できたのだと冗談半分に皆に吹聴していたので、皆も新しく来る彼女に興味津々であった。
4月に会ったきりで、愛くるしいお嬢さんという印象だけが残っていて正確な顔は思い出せなかったけれど、会った途端に記憶が蘇った。貞子にも紹介し、お互いによろしくと中国語で言い合っている。皆もにこにこと歓迎している。
8時からは全員が揃って新年度の初会議。研究室の憲法というべき規則を私が読み上げた。
1. 本研究室は第一級の研究者を育てることを目指す。
2. したがって、ここでは研究を生活のすべてに優先させなければならない。
という具合に、第一章は元気よく続くのである。暁東さんに「分かった?同意する?」と聞いたら、「ほかの皆が同意するなら。」と答えたので、皆も一緒に笑ってしまった。
研究費も設備も何もない三流の研究室にいながら、学生を一流の研究者に育て上げるというのはまるでナンセンスを絵に描いたように見えるだろうけれど、私たちはそれが可能であることを信じ、かつ学生にもそれを信じさせたいのである。これは学生がこんなヘボな大学にいてなどと、自分でめげてしまったら芽が伸びない、自信を持つことでわずかでもある可能性を伸ばそうというのが私たちの戦略である。どうしてこのようなことになったかは、また別の時に書きたい。
だいたい二時間弱で最初の研究室の集まりを終えた。教授室の窓から下を見ると、運動場にも道にも何十台という車が停まっている。路には大勢の人たちが歩いている。胡丹くんに聞くと、新入生は今日のうちに大学に着いて入学手続きをすればよいのですとのことだった。「体育館の前に行くと人がいっぱい集まっていますよ。見に行ってらっ しゃい。」と勧められて、貞子とカメラを持って眺めにいった。
研究棟を降りて路に出ると駅から新入生たちを運んでくるバスが到着するところに行き合った。路を歩いているのと同じように親子連れの新入生が多い。遠くから来たのだろう。停まっている車のナンバーを見ると遼寧省が圧倒的に多いが,となりの吉林省、その先の黒竜江省ナンバーも見ることが出来た。遼寧省だけで日本の3分の2くらいの面積がある。昨年の入学の時にはこれほどの数の車がなかったから、中国が急に豊かになっていることが実感される。それと同時に、この薬科大学が全国的な大学からこの東北の地方大学へと様変わりしていることも意味している。胡丹くんの学年の新入生で遼寧省出身者は全体の10分の1もいなかったが、今では半分を占めるようになったと聞いている。薬科大学はこの地盤沈下をおそれて、瀋陽地区のほかの大学と合併して国立大学に戻ることを計画しているという噂をこのごろは何度も聞くようになった。勤め先の大学の地位が上がるという話は歓迎である。
しかし、合併するとこの便利な地から離れてどこかに移転するだろうから、生活が不便になるだろう。折角、お隣りに巨大スーパーのカルフールのある生活が始まったばかりだというのに。
今着いたワゴン車は公安と書いてあった。つまり公用車だが中からはほかと同じように荷物を持った親子が降り立った。公私混同はここでは当然の風景なのだ。たとえば結婚式でも親が地方政府の有力者ならば、公用車を連ねて招待客を隣接する省から運んでくるなんていうのは当たり前で、誰も不思議に思わない。地位は権力で、権力は誇示するためにあると誰もが思っているようである。本人はともかく、廻りの一般庶民もそう思っているところに、この中国の抱える問題を見る気がする。
こんなことを考えて思わず肩に力が入ってしまった。廻りには、親と離れて一人で来たらしい新入生が肩に力を入れて歩いている。
2005/09/05 12:13
結婚60周年を迎える遅・苑夫妻
先週日曜日に訪ねたところ、遅・苑夫妻の家を含めてその一画の住宅は全部取り払われていて、加藤夫妻と私たち四人は廃墟にしばし呆然と佇んだことをすでに書いた。
幸い翌日、胡丹くんに電話を掛けて貰って連絡が付いた。最初はことの顛末が飲み込めなかった陳さんは、二ヶ月前に訪ねた私たちが会いたがっていることを理解すると、自分で私たちの薬科大学に出向くという。でも、87歳と86歳のお二人である。とんでもない、直ぐには訪ねて行けないけれど、次の日曜日午後2時に私たちが引っ越し先を訪ねますということになった。南湖公園の近くということなので公園西門で電話を入れる約束をした。
土曜日朝7時半、研究室に着いたばかりの私たちに加藤先生から電話があった。「今、遅さんから電話があってね。今日訪ねていらっしゃいというのですよ。でも、今日の土曜日は先生たちの都合が悪いはずだから、やはり明日の午後行くと言ったのですよ。そしたら餃子をこしらえて待っていますって。」
日曜日の朝9時過ぎにはうちの電話が鳴った。電話は遅さんで、電話にでた貞子にきちんとした日本語で、「今日は会えるのですね。何時ですか?」といった。「今日午後、加藤先生ご夫妻と私たち4人で、午後2時頃伺います。」と何度も日本語で、やがては中国語混じりで繰り返して、やっと「今天下午二点。」と分かって貰った。「それでは南湖公園西門まで来て下さいね。」ということだった。電話を置くとまたすぐ「豚饅頭を作って待っていますからね。」という電話が掛かってきた。先週月曜日 に連絡がとれて以来、遅さんと苑さんたちは一日千秋の想いで、私たちのことを待ち望んでいるに違いないと思う。胸がキュンとする。
日曜日の午後一時半に大学近くのバス停で加藤先生夫妻と待ち合わせ、バスで文化路を西に行き南湖公園の一つ先の方型広場で降りた。南湖公園の西門まで1kmくらいを歩いて、遅さん宅に電話すると先日会った長男の遅さんと、後で分かったけれど次女の大学生の息子である王くんが西門まで迎えに来てくれた。ややこしい路を10分くらい歩いて中興街のアパートの一画の一階にあるうちまで案内された。玄関の外には、次女が出ていて、玄関には長女と息子が立っていて、そして遅さんと苑さんが中にどうぞと私たちを迎えて歓迎をしてくれた。しばらくは互いに興奮して互いに何を言ったのかよく分からなかったけれど、結局、あの中国医科大学の近くの二人の住んでいた住居は市街再開発のために壊されて、住民はちりぢりになったという。
市当局は、どこかに家族のいる人たちにはそこに行きなさいということで数万元を渡し、一方、身寄りのない人には移るところを世話したらしい。ともかく、もうその生活に戻ることはなく、それまでの平和な隣近所の連帯は一切それで終わってしまったわけである。
遅さん苑さんは6人の子持ちで、子供の一人のうちに引き取られたということらしい。子供たちのうち4人は近くに住んでいるとのことで、毎日誰かが来て世話をしてくれるとのことだった。遅さんは今日はシャツにズボンを穿いてきちんとした身なりである。奥さんの苑さんもねずみ色のしゃれたスーツを着て、丸い緑の玉の首飾りを着け正装している。子供たち、といっても誰もが50歳以上だけれど、皆きちんとした衣装を付けてお客を迎える気持ちであることが歴然だった。それに引き替え、私たちは今日も暑いのでシャツ一枚の普段着姿だった。そうなのだ。昭和の初めは、それなりのお客を自宅に迎えるときは家族揃って正装したものだった。
二ヶ月前におおざっぱに聴いた話を今回は少し念入りにたどった。奥さんの苑さんは早くに父親を亡くし、母親に育てられて家が貧しかった。小学校では日本語の教育も受けたが、特に3年生の時から日本人の先生が担任となり、男の鳥居先生の計らいにより公費で小学校を終えることが出来たという。「片親で頑張っていた私を沢山助けて下さった。」と深い感謝の気持ちで鳥居先生のことを語っていた。
鳥居先生のおかげで日本語の勉強に本気になったためだろうか、そのあと旅順高等公学校師範女子部という学校に入った。この学校では漢語の先生以外すべて日本人の先生で、いっぽうで学生はすべて中国人だったという。中国人の日本語教育のための学校だったわけだ。
苑さんは勉強のほか、舞踊、体育、テニス、水泳が大好きの活発な明るい少女だった。このころの写真が何枚か残っている。元気そうな可愛い少女が写真の中で笑っている。学費は公費だったので卒業後は先生を3年やる約束になっていて、大連の小学校で3年間先生を勤めた。その後、1年間天津の横浜正金銀行(その後の東京銀行)で働き、 次に三菱天津公司に移ったが、数ヶ月で終戦を迎えたという。 ご主人の遅さんは大連市立実業学校商科を戦前卒業して、森永製品販売株式会社、次に大連鉱油株式会社、三つ目に天津徳盛永五銀行に勤めているときに終戦を迎えたという。福島徳之助氏を校長に抱く大連市立実業学校の生徒は殆どが日本人だった。陳さんの受験時は270人受験して10人が合格した。受験はすべて日本語だったという。2クラスあって、1クラス60人のうちの5人の生徒だけが中国人だった。先生はもちろんすべてが日本人で、漢語を教えた先生も塩田一雄といって日本人だったという。簿記を教わった古屋先生はビールは俺のお茶だといって24本も飲んだことがあるといって、私たちとビールを飲みながら懐かしそうに話していた。
森永の社史をインターネットで見たときに大連のことは何も書いてなかったので詳しく思い出して貰うと、別府龍という名の常務が取り仕切っていた森永製品販売株式会社には中国人は遅さんしかいなかったという。森永製菓の工場は大連市雲井町27番地にあってビスケットなどを作っていたが、遅さんのいた森永製品販売株式会社とは別組織だったらしい。
森永でも、次に移った大連鉱油株式会社でも、遅さん以外のすべては日本人の組織で何時も日本語を使っていた。宮崎吉利社長の率いる大連鉱油株式会社では、中国人としてはたった一人の遅さんは会計課にいてそろばんを使い(と言いながら五つ玉のそろばんを抽斗から出して見せてくれた)上司の長谷川課長のもとで働いていたけれど、中国語 も分かるのでとても大事にされたという。
天津に本店のある天津徳盛永五銀行に勤めたときに北京支店の副支店長となり、本店のある天津に縁が出来て、友人から紹介を受けて苑さんと終戦直後の1945年10月10日に結婚したということだった。遅さんと苑さんのお二人は今年で60年目の結婚記念日をもうすぐ迎えようとしている。
(この話続きます)
2005/09/10 07:18
結婚60周年を迎える遅・苑夫妻 続き
遅さん・苑さんと話しているうちにお二人の子供たちが昔のアルバムを出して見せてくれた。苑さんは師範部の3年生の時に日本への修学旅行に参加している。昭和12年頃になるだろうか。旅費は全部公費だったという。
20日以上を掛けて阿蘇山、神戸、大阪、京都、名古屋、伊勢、東京などに行ったという話で、実際噴煙を上げる阿蘇山の火口、「伊勢の二見浦」の夫婦岩の写真がアルバムに貼ってあった。東京では宝塚歌劇に行って、遠くから双眼鏡を使って観たという。彼女は、「阿蘇山」や、「二見浦の夫婦岩」などのことばを正確な日本語で発音した。苑さんは日本語で話していても、話が佳境に入ると中国語になってしまう。このときは加藤先生の出番である。それにしてもこの見事さは驚きである。学校時代に6年日本語使い続けたにしても、日本語を使わなくなって60年が経っているのだ。皇居前で二重橋を背景に全員がしゃちこばって写った写真も見ることが出来た。当時の二重橋付近は全くの聖域で、声を出すこともはばかられた場所だったと思う。当時市電と呼ばれた路面電車に乗っていて皇居の近くを通ると、運転手だろうか、「皇居遙拝!」という声が掛かって「直れ!」と声が掛かるまで皆そちらに向けて最敬礼で頭を下げ続けなくてはならない時代だった。
あの時代を知っているから、いまの北朝鮮の圧政を人々があきれたように語るのを聞いて、「60年前までの日本が全く同じだったのですよ。お上が威張っていて、ちょっと批判めいたことを言うと特高に引っ張られて責め殺された時代だったのです。平和憲法を捨てて、このような日本に戻りたいのですか。」と言いたくなる。
お二人の昔の写真をアルバムで見せて貰ったけれど、残念なことに二人の結婚の写真、およびそれ以降の写真が全くない。訊くと文化大革命の時に、戦前日本人の会社に勤めたとか、外国語である日本語が遣えるじゃないかという理由で総括を受けた間に散逸したという。小説ワイルドスワンを思い出す。近所どころか、自分の身の安全のためには親子の間でも、「恐れながら」といって権力に訴えでて生き延びることをはかった時代を経験してきた人たちなのだ。夕食に餃子を用意するから一緒に食べていくように勧められた。見ると、長女、次女の二人が餃子の皮を練って、なかにいれる具を用意しようとしている。それを知って、貞子と文子さん二人がお手伝いしましょうと言いながら台所に行った。
あとで聞くと、4人で一緒に餃子を手際よく作りながら中国語で様々なおしゃべりをしたということだった。何時もだと、中国語の出来る加藤先生が一緒で、どうしても話は彼に頼ってしまうことになる。ところが、台所では「中国語以外いっさい通じないし、頼るのは自分たちしかいない。」というわけで、二人とも、持てる力を総動員して話し続けたようだ。おかげで、文子さんと貞子は今日一日で中国語を沢山しゃべった感じだし、中国語で彼らと交流している実感がもてて、大変幸せな一日だったに違いない。それで餃子を作りの手伝いを終えて戻ってきた文子さんと貞子は二人ともほほを上気させていた。四人の中では私は一番駄目で、話が中国語になると加藤先生から時々中国語で説明を受けるだけで、断片的な知識しか入ってこない。中国語を聞いてもまだほとんど分からないし、話すことも出来ない状態が続いている。まあ、いい。いつか出来るようにしてやる。
やがて5時になって夕食となった。私たちがそれまで話していた遅さん・苑さん夫婦二人の寝室に折りたたみの出来る丸いテーブルが運び込まれた。丸いテーブルを遅さん・苑さん・私たち4人、長男の遅さんが囲んだ。今このうちには長女、次女のほか、6番目の末娘も来ているし、あと二人の孫たちもいるはずだけれど、ここには来ない。一つには食事を用意する裏方に回ったのと、もう一つは戦前の日本並の男尊女卑の影響かも知れない。
たちまち机の上は、拉皮、焼き豚、牛肉蒸し焼き、ソーセージ、ハム、椎茸と青梗菜、エンドウ豆炒め、鳥肉の天ぷら、卵焼きなど、十種類の皿が並んだ。「どうぞ、どうぞ、食べて、食べて。」と遅さんに勧められる。見た目も綺麗だし、おいしい。
私たちのおかずの取り方が遅いと、というか食べ方が遅いと、中国では滅多に見ることのない菜箸を一組用意して、遅さんがどんどん取り分けてくれる。「これは自分の箸ではなく、公共の箸だから、汚くないですよ。遠慮しないでどんどん食べて下さいね。」と87歳の遅さんは私たちへの気配りと全体への目配りを忘れない。こんなにすてきな料理をどうやって作ったのかと訊いたら、長女の息子が2級の資格を持つ料理人で、今日は台所で腕をふるっているのだという。先ほどであった背の高い美青年のことだった。やがて蒸し餃子が次女の手によって山盛りになって運ばれてきた。昨日は、豚饅頭を作りますからねとのことだったが、餃子のことを陳さんは豚饅頭と呼んだので、夕食に餃子のほか更に肉まんじゅうもでるのではないことが分かってほっとした。
こんなに食べきれない!「餃子は東北地方の名物だけれど、店で食べるとそんなにおいしくないよ。うちの餃子はどこの店よりもおいしいのだから。」と予め聞かされていたけれど、実際おいしい。瀋陽では餃子で名高い老辺餃子館というのがあるが、文子さんは中国語で「この餃子は、老辺餃子館の餃子に比べて大変おいしい。」と遅さんはじめ家族の一人一人に言っている。
遅さんが言うには日本人はあまりニラが好きではないので、今日はニラを入れなかったと言うことで、私たちに気を遣っていることが分かった。この遅さんの客への心配りはたいしたもので、加藤先生がビールをこぼせば直ちに布巾の手配をするし、私がズボンに餃子の汁を落とした時には直ちにタオルがあったはずだとベッドの上を探して渡して くれた。
長男が加藤先生にビールの一気飲みの中国式乾杯を強いた時、「日本式で行きましょうよ」と割って入ったりもした。87歳の遅さんだ。私があと20年生きていたとして、20年後にこんな気遣いが周りに出来るだろうか?今だって無理なのに。
遅さんは皆に気を配りながらも、自分でもよく食べ、よくビールを飲み、「心臓と高血圧なので本当は好くないのに。」と、奥さんの苑さんが心配そうだった。そうこうするうちにおなかは一杯になり、時間は6時半を回り、それでは今日は失礼しましょうとなって、別れを告げた。娘さん二人に路を先導されて歩き出したが、家族中が外に出て、私たちが角を曲がるまで見送ってくれた。
私たちが瀋陽の街を歩いていて、昔の日本人住宅らしいと思って近づいたのが縁となって、戦前の日本人に縁のある遅さん・苑さんと行き会った。そして驚いたことに夫婦二人とも戦前の日本に関係のある人たちだった。あのとき、私たちが中国医科大学に沿って歩きながら右手を見なければ、住宅は目に入らなかったろう。その時その住宅街に足 を踏み入れたとしても、近所の人たちが写真を撮っている私たちに話しかけてこなければ、遅さんたちに会うこともなかったろう。そしてそれが2ヶ月後遅かったら、二人の住む一画は跡形もなかったわけだから、出会いもなかったのだ。
人生は不思議な偶然の積み重ねの連続だ。ひととの出会いを思うと、それに運命を感じることがあっても不思議ではないとつくづく思う。
2005/09/16 10:27
何でもありの中国
日曜日の夕方、うちにいると薬科大学国際交流処の李さんから電話があった。「明日から第4回瀋陽、名古屋、南京学術研究会が瀋陽で開かれるから、先生の研究室の学生さんに出て貰うように、もう話しました」ということだった。こちらの知らないうちに学生の手伝いを駆り出してしまうなんてひどいとは思ったが、うちの研究室は日本語能力抜群の学生がいるのでこのような時に頼むのも当然だし、中国なら何でもありと思って、「いいですよ。」と承知をした。「学生さんには明日朝7時50分に大学の前からバスが出ると言いました。」とのことだ。もちろん、これも「いいですよ。」である。
李さんは名古屋にある名城大学薬学部に留学したことがあって、日本語を話すので国際交流処の中では頼りになる存在である。しかし、日本語が完全ではないので、彼は言いたいことはこちらに伝えるけれど、こちらが頼みを持って行くと、とんと話が通じないことが始終あるというのは私たち日本人の間の評判である。
今日の電話は割合はっきりとした内容で、「李さんは今日は言いたいことを、日本語できちんと伝えたみたい。」と貞子に李さんの電話を説明した。貞子も、「学生を学会の手伝いに使うなら、その前に私たちに断らなくっちゃね。」というけれど、ここではこのような事には慣れっこなので、別に怒りもしない。
30分くらいすると研究室の院生の毛毛くんから電話があった。彼の話によると、「明日の研究会に、私たち二人は出席するように。バスが朝7時50分に待っているからそれに乗るように。」という電話が李さんからあったという。
私は絶句してしまった。先ほど李さんから電話を直接貰ったが、内容が全く違う。李さんは毛毛くんには中国語で話しているので、そこでは間違いは生じない。毛毛くんの日本語はしっかりしているから、彼が言い間違えることはないだろう。ひょっとしてと思って、「学生が研究会を手伝うように言われたのではないか。」と聞いたら、それはないという。
すると李さんの意図が、彼の話した日本語と私の理解した日本語との間で大きくずれたことになる。彼が言い違えたか、私が大きく曲解したかである。私は日本語何十年もしゃべっているのだ。後者だとは思いたくない。
ともかく直ぐに大学の研究室に行ってみると、学会参加者用にはふつう配られる鞄が机の上に二つ置いてあって、研究会の抄録が入っていた。学生の王くんは李先生がさっき持ってきましたという。こうなると学生が手伝いに駆り出されたのではなく、私たちが駆り出されたのは明らかだった。
翌朝大学正門前には大型バスが2台止まっていて、先生たち、手伝いと思われる学生たちを、瀋陽の街を東西に流れている優雅な運河のほとりに建つホテルに運んだ。バスに乗る時に一緒になったのは、日本人の貴志先生と、坂下先生だった。薬学用語や分子生物学の特別講義をするために、8月終わりから瀋陽に二ヶ月の予定で滞在している。聞くと同じく、昨日突然の電話でこの研究会に参加するように呼び出されたという。
私たちの部屋の隣には私たちよりも古くから研究室を構えている池島先生がいる。数日前に池島先生に出会った時に、「近く開かれる研究会で講演をします。」と聞いて初めてこの研究会のことを知った。
池島先生によると「第4回瀋陽、名古屋、南京学術研究会」は、7月頃研究会の開催の通知と演題募集があったという。私たちは気づかなかったし、特に知らされなかったから全く知らなかった。その時池島先生に聞いた話では、瀋陽薬科大学、名古屋の名城大学薬学部、南京薬科大学が毎年回り持ちで薬学研究会をやっているということだった。
やがて隣の研究室の池島先生がバスに乗ってきて後ろに座った。当面の関心事であるこの研究会のことを聞いてみる。池島先生は研究会に参加申し込みをしたので参加費の400元を払ったし、演題は学生のポスターと併せて6題出したので100x6で合計千元払ったのですよとのことだった。私たちはゼロである。前の日に知らされて、急に駆り出されて私たちは不満だけれど、無料というところが微妙である。
日本にいれば、「前日に知らせて駆り出すなんて失礼な。」ということになるだろうけれど、中国に暮らしているとそれは当たり前のことで、いちいち目くじら立てていたら、ここでは生きていけない。ここなら何でもありだ。池島先生は千元払って参加し、こちらは急に駆り出されたというのが角が立つならば、是非にと参加を要請されて、ここ にいるわけである。
この何でも突然というのが、ここに来て一番違和感を感じることの一つである。卒業研究発表会の日程や、修士論文、博士論文の審査会は予め知らされることはなく、突然数日前に、ひどい時には直前に開催の通知がある。大学の先生が誰かの接待と一緒に食事に誘ってくれる時もいきなり「行きましょう。」である。予めこちらの都合を聞くとか、事前に知らせて予定に入れさせようという気遣いはない。
ここではどちらが偉いかと言うことが、こういう時の決め手なのだと思う。物事を決める側が偉いという感覚なのだ。つまり会合なら、偉い人の都合で日時が決まる。こちらはひたすらそれに従う以外ない。都合を聞かれるほどお前は偉くはないと言うことが言外にある。
食事に誘われる時もそうだ。急に誘われて、行くか行かないかの選択しかない。行けば誘った人に忠誠を示したことになる。友好関係が続く。断ることが重なれば恐らく見捨てられる。
今回の学術研究会もいきなり知らされた。日本にいてこのような扱いを受ければ、「いきなり会合に出ろとは何を失礼な。」というのが大方の反応だろう。都合も聞かずに、向こうの自由になる小もの扱いをされたと怒って、普通なら行かないのではないかと思う。
でもここで「直前に誘うとは失礼な。」なんて言ったら、ここの中国人はびっくりするに違いない。「先生の興味のありそうな学術研究会に誘っているのですよ。突然だというけれど、都合が悪いなら来なくても構いません。ともかく会合のあることを先生に知らせて、誘っているのですよ。何で怒るのですか?知らせなかったら怒っても良いけれど、ちゃんと誘っているのです。来ますか、来ませんか?」
ここは面子を重んじる国だ。時には面子だけが人の行動を決めるという。日本でずっと生きてきた私には、面子へのこだわりがよく分からない。今回のやり方は私の面子を無視しているのではないかと思われるが、これは今後の研究課題である。
2005/09/25 12:46
食は広州にあり その1
昨夜5日間の旅行から瀋陽に帰って来た。姚崇舜老師に誘われて中国の南にある広州・東ガン・深セン・珠海を訪ねたのだった。
この姚老師とは、2年前の夏に私たちが薬科大学に来たときにたまたま大学で行き会い、一緒だった国際交流処の李先生に紹介された。彼女も、3年前に亡くなったご主人も、薬科大学の教授で何年も前に定年退職したけれど、彼女は今は南の広州にある大学に研究室を持っていて、夏には南の猛暑を避けて北の瀋陽に戻ってきているという説明だった。
私たちの住んでいるところは薬科大学の構内に接した16階建ての教授楼と呼ばれる文字通り薬科大学の教授のための建物で、姚老師の部屋は階段を隔てて私たちの隣である。隣りといっても、彼女は広州住まいなのでふだんは会うことはない。私達が夏休みに入っても直ぐには日本に帰らずに大学で仕事をしているので、そのころになると避暑で瀋陽に戻ってくる項老師と路で出会ったりする。
挨拶はしても言葉が互いに通じないので、長い間お隣というだけの関係だった。それでも、彼女からは広州に是非遊びにいらっしゃいと誘われていた。その誘いが何度も繰り返され、もうこれ以上は断れないという状況になったのがこの夏のことである。これで断ったらもうお付き合いできない、というくらい熱心に誘われたのだった。
というわけで、せめて10日くらいは必要という旅行計画を9月20日から24日までの5日間に絞って、一緒に旅行しましょうということになった。姚老師は私達のために広州行きを伸ばして夏から瀋陽に滞在したままだった。
そして、言葉が不自由だから通訳が必要という理由で、薬科大学の日語班の5年に在学中の孫娘である小陳も今回の旅行の一員となった。小陳の両親は、広州から数十キロメートル南の東ガンに住んでいるので小陳が両親に会えるというのも理由の一つのようだ。
というわけで、20日朝私たち四人は一緒にアパートを出て瀋陽空港に向かった。瀋陽は秋の気配だけれど広州は夏なので、着いたら直ぐに脱げるようにTシャツにデニムの長袖を羽織った姿である。
2005/10/04 14:38
わが師への恩返し
10月1日から始まる国慶節の大型連休の初日、加藤先生からマンホールの蓋を見に行こうと誘われた。ちょうど今、日本から薬学の集中講義に来ておられる貴志先生は、中学2年生のとき瀋陽の北東数十キロメートルにある撫順市で終戦を迎えたという。貴志先生は、従って戦前の奉天と呼ばれたころの瀋陽もよく知っていて懐かしい土地である。 大和ホテルと呼ばれた建物が今も重厚な雰囲気を漂わせて残っていて、今は「遼寧賓館」として使われていることを知っていても、一世を風靡した満鉄の名を付けたマンホールの蓋が今でも残っていることはご存じなく、歴史の研究家である加藤先生に誘われて、街の探訪に出かけるというのでそのお供をした。加藤先生は瀋陽薬科大学の日本語の教師であるが前身は高校の歴史の先生で、現代史、特に中国現代史の研究家である。すでに西安で2年、長春(戦前の新京)で2年過ごしていて著作も数多い。瀋陽でも授業時間以外は大抵街を歩いて史跡の実地見聞と史実の考証をしておられる。
見るとマンホールの蓋に満鉄のMとレールの形のIを組み合わせた満鉄のマークの入った蓋があった。この蓋にも3種類のあることを加藤先生は見つけているという。このほかにも、奉天市のマークの入った蓋もあり、これも字体の違いで2種類あるようだ。そのあとは私たちも下を見ながら歩く。大抵は簡体字で左から書かれている現代の蓋である。
見るとマンホールの蓋に満鉄のMとレールの形のIを組み合わせた満鉄のマークの入った蓋があった。この蓋にも3種類のあることを加藤先生は見つけているという。このほかにも、奉天市のマークの入った蓋もあり、これも字体の違いで2種類あるようだ。そのあとは私たちも下を見ながら歩く。大抵は簡体字で左から書かれている現代の蓋である。
見るとマンホールの蓋に満鉄のMとレールの形のIを組み合わせた満鉄のマークの入った蓋があった。この蓋にも3種類のあることを加藤先生は見つけているという。このほかにも、奉天市のマークの入った蓋もあり、これも字体の違いで2種類あるようだ。そのあとは私たちも下を見ながら歩く。大抵は簡体字で左から書かれている現代の蓋である。
見るとマンホールの蓋に満鉄のMとレールの形のIを組み合わせた満鉄のマークの入った蓋があった。この蓋にも3種類のあることを加藤先生は見つけているという。このほかにも、奉天市のマークの入った蓋もあり、これも字体の違いで2種類あるようだ。そのあとは私たちも下を見ながら歩く。大抵は簡体字で左から書かれている現代の蓋である。
道路の下に埋設した下水、水道、ガス、電気、電話などの管に地上からアクセスするための穴が一般にマンホールと呼ばれている。開いたままでは危険だから鉄製の蓋があり。この表面に市の紋章など、この施設の責任者、管理者のマークが入っている。 戦前の当時の奉天で一大勢力だった満州鉄道株式会社(満鉄)の紋章の刻まれたマンホールの蓋は、満鉄病院として最初に建てられ、満州医科大学を経て現在の中国医科大学の構内にいくつかが残っていることを加藤先生は見つけていて、数ヶ月前に街を案内された時に教えてもらった。今回の旅が始まる太源街は当時は春日通りと呼ばれていた。北端には満鉄総局の巨大なビルが右手にあり、奉天鉄道局がそれに続く。今は瀋陽鉄道当局が使っている宏大な建物である。今の太源北路、以前の春日通りを南に向けて歩いて行くうちに当時の銀座街のあたりで、右に曲がり左に曲がり、どこを歩いているのか分からなくなった時、その道の真ん中で加藤先生が足を地面にこすりつけて「ほら」とにっこりした。
見るとマンホールの蓋に満鉄のMとレールの形のIを組み合わせた満鉄のマークの入った蓋があった。この蓋にも3種類のあることを加藤先生は見つけているという。このほかにも、奉天市のマークの入った蓋もあり、これも字体の違いで2種類あるようだ。そのあとは私たちも下を見ながら歩く。大抵は簡体字で左から書かれている現代の蓋である。
やがて住宅を取り壊している最中の一画に出て加藤先生の足取りが速くなった。つまり私たちに早く見せたい一心なのだ。「凄いのがあるんですよ、本には書いていないのに、私が見つけたのです。」と言って示されたのは、半分アスファルトに埋まっているが、中心にあるのは紛れもない日本の郵便マーク〒の入ったかなり大型の蓋である。 郵便マーク〒の両側には字があるようだがすり減っていて読めない。右側の字は、「電」に見えないこともない。詳細は分からないながら、埋もれてしまった史実が歴史の研究家に語りかけているのだ。このあたりは街中が汚くあたりはゴミだらけで、この蓋は果物の皮の残骸に囲まれながらも加藤先生に向けて燦然たる光を放っているようだ。そのあと太源北路に戻って南に向いて当時の中央郵便局の横を通っている時だった。先ほどから、私たちは道の表面をマンホールの蓋を求めて眺めて歩いていたが、道ばたの物売りが広げた布の横から覗く鉄の蓋を見ると、何と先ほどの郵便マーク「〒」が入っていて、しかもそれを挟んで右から「電話」と書いてあるではないか。新品みたいな綺麗な蓋である。
私と貞子は直ぐに先を歩いている加藤先生と貴志先生を呼び返した。加藤先生は大喜びである。物売りさんに少し動いて貰って早速写真を撮り、私たちはその姿を写真に納め、忽ち私たちは立ち止まった通行人の興味にとり囲まれてしまった。
「郵便マーク〒は郵政で手紙ですね。電話も扱っていたのでしょうか?」と加藤先生。戦前から〒が郵便だけを表したかどうかは知らないが、戦前子供の頃、母方の祖父の家に行く時に通る柿の木坂郵便局は、玄関を入ると右手の奥に小さなボックスがあり、窓口で通話を申し込むと、中でつないでくれてそのボックスの中で電話で通話できる仕組みになっていた。 戦前電話はどこのうちにもあるというものではなかった。もちろん目黒区平町の我が家にもなかった。電話のある誰かに用があって、母が柿の木坂郵便局まで出かけて電話をしたのを、お供だった幼い私が覚えているわけだ。母は実家の電話を使いたくない事情があったのだろう。祖父のうちでは広くて長い廊下の隅の壁に付いていたのを覚えている。つまり、戦前は、郵便局と電話局とは、少なくとも末端では一体のものだった。だから当時の奉天市でも郵便局が電話も扱っていて、「話〒電」と書いてあったのだろう。目の前は以前の中央郵便局だったところで、ここで太源北路は中山路(当時の浪速通り)と交差している。
私たちの目で見つけものが加藤先生の役に立って、私たちとしては「師への恩返し」が少しでも出来たと思って嬉しかった。嬉しさのあまり、「消火栓」という蓋では師である加藤先生とは別の説を立てるに至った。
地下の埋設管には多くの種類があり、マンホールの蓋がその中身を表している。蓋を見て歩いているうちに、円盤である蓋の円周上に「消火栓」という字が来るように書かれた蓋を見つけた。円周上で考えると「消」から始まって字は左回りに読むことができる。同じ内容を表す蓋として、左書きの「消火栓」「消防」「LD」も見つかったがこれ らは左書き(左から字が始まる)なので戦後のもの(つまり中国のもの)であることは明らかである。円周上の「消火栓」は蓋の中心に「水」と読める形があるのでこれを基準として見ると三字は三角形に配置されていることになる。上に「消」を持ってくると、下の基線に左から「火」「栓」となるから、これは左書きで戦後のものだというのが加藤先生の説である。
しかし、戦前は右書きだからこのように円周上に書く時は左回りではないか。左回りで書くと三角の形では上に「消」が来て、下に「火」「栓」となるわけだ。私は左回りを採るが故にこの蓋は戦前のものだといい、加藤先生は戦後のものだという。読み方一つに掛かっている。
さて、史実はどうなのだろう?
2005/10/04 19:20
ジジババの責任
今年の春からずっと私たちの研究室のセミナーに出ている学生の陽暁艶さんが訪ねてきた。薬学部英語班で、この秋最終学年に進学している。背が高く、明瞭な英語を落ち着いて話す思慮深げな女子学生である。後期に入ると私たちの研究室に来て卒業実験をする可能性が高い。
明日がお祖父さんの誕生日で、親戚家族が集まってお祝いがあるという。故郷は中国の最西端の新疆である。今は一週間続く国慶節の休暇だが、あまりにも遠くて学生の彼女はとてもお祝いの席に帰れない。それで、暁艶さんは自分の写真をメイルに添付して送りたいのでPCを使わせて欲しいと言ってやってきたのだった。
お祖父さんの歳を聞いてみると70歳になるということだ。私とたいした違いはないから、彼女は私の孫娘同然という年頃である。お祖父さんのことを大変懐かしそうに話すので、聞いてみるとお祖父さんとお祖母さんに育てられたらしい。同じように新疆から来ていて今年度博士課程に進学した王麗さんも、子供の頃両親は働いていたので祖父と祖母に育てられましたと言っている。
私たちは、正規に招聘を受けて薬科大学に赴任するまで、ボランティアとして毎年一回講義に来ていた。私たちを講義室に案内してくれた学生の班長さん(級長にあたる)は、「先生たちの歳になると、ここでは誰もが仕事を辞めて孫と遊んでいます。この歳になっても講義をするなんて日本の先生たちは本当に変わっていますね。」という。私たちは「孫も可愛いけれど、孫と遊んでいるよりも学生相手に過ごしたい。仕事が好きなんだし、」と心でつぶやいて、班長さんの言うことをそれ以上理解しなかった。
私たちは二人とも東京の出身で、大学を出て結婚と同時に就職したのが生まれ育った場所を遠く離れた名古屋大学だった。子供が出来たときには大いに困った。親兄弟親戚が全くいない土地で子供をどうやって育てるかという難問に直面した。どこにも頼るところがないので、同じ悩みを持つ仲間と一緒に乳児を育てる私設の共同保育所を作ったのだった。名古屋福祉大学の一室で、1963年のことである。
子供が大きくなってくると、大学の一室では乳児と幼児すべての面倒を一緒には見られない。次の年齢に応じた施設が必要となる。それで、あちこちの場所を借りて学童保育所を作った。母親は不要品回収業となって各家庭を回って資金となる廃品を集め、父親はガレージを貸してくれた篤志家のガレージを清掃して床を張り、何とか保育所として使えるよう働いた。一方で、妻の貞子は仲間と名古屋市に日参して、働く両親のための保育所を作る必要性を説いた。うちの子供たちは名古屋市がこうやって作ってくれた最初の公立保育園卒である。
そんな経験をしている私たちは、女も男と同じ権利と義務を持って働いているという解放後の中国の様子を聞いて、働く母親のためには公的な、あるいは職場の保育園があるはずだともう頭から信じていたのだった。先進的な中国では働く女性のために保育園も整備されているに違いない、と。
しかし、これは全くの思いこみだった。中国に公的な保育所はほとんどないようだ。働く女性に代わって子供の面倒を見るのは、その親の世代なのだった。中国では子供を共同で育てる公的な保育所がなく、子供を育てるためにはジジババの世代が、公式の制度にはなっていないにしても、社会の制度に組み込まれていたのだった。
年寄りを敬い、目上に敬意を払う伝統を持っていた中国も今はすっかり変わってしまったと言われる。しかし儒教の影響がまだすこしは残っているらしく老師を大事にするし、さらに実地に祖父と祖母に育てられた記憶があるので、今ここの学生のジジババに当たる年頃の私たちは、彼らにとても大事にされるという「良いとこ取り」をしている感じがある。
定年になったので孫の面倒を見ようというは、ある意味では自然である。中国の定年は一般に男子55歳、女子50歳であると聞いている(この大学はそれぞれ5歳上である)。
この中国の定年になる年齢を見て何とも思わず見過ごす方は、無意識の男女差別者である。この男女差は明らかに差別であって、中国は建国に際して女性解放を唱いながらも、実は根強い男性優位、女性蔑視社会であるらしい。憲法は男女平等をうたいながらも、実際は明らかな憲法違反をしていることになる。そして誰も文句を言わない。
ここの大学の教授では日本よりも女性の教授が多い。そういうこともあって男女の差別を目の当たりにすることはないが、人前で女性が派手に泣いて涙を見せるのは、女性の地位が低いことを語っているように思える。泣くというのは甘えである。対等なら女だけ泣くことはあり得ない。事実、日本の職場で女性は決して泣かない。日本では男女平等で差別がない、とはとても言えないが、それでも女性は公的な場では泣かない。
男女の地位で差別があるかないかを世界的に見ると、差別の少ないほど上位に来るように並べて日本は38位で、中国は33位で日本よりも上であった(「ダボス会議」を主催する世界経済フォーラム、2005年5月16日)。しかし根強い男性優位とそれと裏腹の女性蔑視は、男児出生率を見ると、中国は断然日本を引き離している。
自然の男女出生率は世界どこでも、そして何時でも女子1に対して男子1.05である。国営通信新華社の発行する時事問題誌・半月談によると、1990年に女児1に対し、男児は1.11だったが、2004年には女児1に対し、男児1.17に上り、海南省や重慶市などの一部農村地域では1.30に達したという。
これは大変なことである。結婚適齢期が来た時、男性の30%は相手が見つからないのだ。仮に毎年男子が千万人産まれるとして、適齢期の十年を考えると、3千万人の男性が結婚したくても出来ないことになる。「米寄こせ」みたいに「女寄こせ」と言って暴動を起こしても解決できる問題ではないと思うけれど、いずれ暴動が起こっても不思議はない数である。
現在幾ら差別があろうと、これからの女性は貴重なものとして扱われるだろう。だから、恐らく親からは望まれない性として生まれたかも知れないが、彼女らは明るく伸び伸びとしているに違いない。私の孫娘たちに幸多かれと私は願っている。
2005/10/13 22:13
金沢大学・山田先生の刺激的なセミナー
大学や研究所では外部から大学や研究機関の人たちを始終招いて、講演会・セミナーをするのが普通である。日進月歩の科学の進展についていくための簡単な方法であり、研究教育機関がどれだけ研究と教育に熱心であるかを測る一つの尺度である。私が以前いた大学では、私の研究室ですら、平均すると毎月2回外部から人を招いてセミナーをやっていた。外国から訪ねて来る研究者のこともあるし、国内の研究機関から招くこともあり、それが友人のこともあり、業績で名前を知っているだけで招聘することもあった。
優れた研究業績を挙げた人たちを招いて直に詳しく話を聞くと、勉強しながら親交を深めることが出来る。研究室の学生は「セミナーが忙しくて実験する暇がないよ」とぼやいたりしていたけれど、毎月2回のペースでずっと続けていた。私の分野はGlycobilogyという新興の分野だったので学内で宣伝に努めたと言うこともある。
若い学生の人たちにとっては、目の前で親しく話を聴き、優れた先達と会話を交わすことの意味は、その時々のトピックスが良く理解できるだけでなく、将来計り知れない恩恵があるかも知れない。セミナーの時はただ聴いていただけにしても、将来その先生に会ったときに「先生が招かれたセミナーをあのとき私は聴きましたよ」と言えれば、受けがぐっとよくなるに違いない。私の研究室が開催する招待セミナーですらこのように頻繁だったから、大学の生命理工学部では毎日一つや二つの講演会があっ た。
ところが、瀋陽薬科大学に来てみると講演会は大変珍しいものであることに驚いた。大学の掲示板に貼ってあるのは、講演会以外には博士の発表会だが、この外部の訪問者たちによるセミナーは平均して月に数件くらいではないだろうか。つまり学術交流が以前いた日本の大学に比べて残念ながら活発ではない。
外部からの訪問者によるセミナーの大まかに言って3分の1は日本人の先生がたである。これは,この大学が日本の大学との提携に熱心なためであろう。この大学から日本に留学した先生たちは多い。たとえば王麗さんの指導教官は日本の大学に5年間留学したそうで、日本語を日本人と全く同じように操ることが出来る。おまけにこの薬科大学はエリートコースの日本語班を設置しているくらいだから、日本の大学との提携に熱心なのは当然と言ってよい。しかし肝心の日本側は提携にあまり乗り気ではないようだ。
大学間の提携で薬科大学がまず求めるのは教職員の交流、学生の交換教育である。研究のインフラストラクチャー、研究費、研究の質と厚さを思うと、中国の教職員が日本に行きたがるのは当然だろうと思うが、日本から交換でこちらに来る教官、学生の希望者は少ない。日本から教官は一人も来ていないし、今年の春までは1階下にある研究室に四国の大学から院生が一人1年間の予定で来ていたけれど、今年はいない。
ところで。先日日本の金沢大学から来られた先生のセミナーは面白かった。彼の研究では、空間記憶の定着という、脳の中のなにやら訳の分からない働きが、もう既に生化学的な解析の対象となっていることが驚きだった。私は脳研究では全くの門外漢だが、幸い日本語の講演を学生が通訳する仕組みになっていた。たまたまうちの研究室の胡丹くんが通訳をしたが、彼が中国語にしている時間は、今日本語で聴いた話を頭の中で反芻して理解するための時間に使えた。そんなわけで門外漢なりに、研究内容を理解することが出来て、その素晴らしさに感激してしまった。
実験動物を使って学習させるのは八方通路という器具を使う。中央から八方にプラスティックの囲いの道が延びた先に、中央からは見えないように餌が置いてある。どの通路の先に餌を置くかというのは実験期間中変えない。この場所を覚えたかどうかを知るための実験だからだ。通路のこの真ん中にラットを置いて、餌にたどり着くまでの時間を計る。毎日これを繰り返すと、数日でラットはまっしぐらに餌を目指すようになる。これで、ラットは学習して記憶したことが確かめられる。
この実験をするとき、この八方通路は実験室の中で行うが、実験室の様々なものの置き場が毎日変わってはいけないそうだ。つまり、ラットは通路の真ん中に置かれたときに、自分の進むべき通路を、部屋の壁に掛かった時計の位置、電灯の位置、ゴミ箱の位置などと関連づけて覚えるのだという。ほうきの置き方、その時の実験者の位置にまで注意を払わないと、それがラットの記憶を混乱させて良い結果が出ない。
餌のある場所を覚えるというのは空間的配置として記憶することであり、それが、脳の海馬の細胞のある特定の信号分子をOnOffさせて伝わり、記憶として定着すると、ある分子の生産が増えることが明らかになったという話だった。私の学生の頃は、あまりにも難しすぎて、脳の働きなど研究の対象とはならないと思っていたのだから、科学の進歩は急速である。
講演が終わって私も聞きたいことが一杯あったけれど、会場の学生たちからも次々と質問が出た。ここは情報の乏しい疎外地かと思っていたけれど、瞳を輝かせて若い人たち質問をするのを聴くと、良いなあ、若い人たちが世の中の進歩を担っているのだなあと、つくづく嬉しくなってしまう。金沢大学の山田先生も若いのだ。
彼らのために、そして私のために、金沢大学の山田先生、また講演にいらして下さい!!!
2005/10/16 18:35
化石のはなし その1
中国では稲や麦を食べる害鳥としてスズメが駆除されてしまったという話を、耳にしたことがあるだろうか?大勢の人たちが田圃に集まって横に列を作って追うと雀は飛んで逃げるけれど長くは飛べない、休もうと思っても人が追いついてきて囃し立てるのでまた飛ばなくてはならない、やがて疲れで飛べなくなって捕まり、雀は最後の一羽まで焼き鳥になってしまったという話しだ。嘘みたいな話だが、沢山の人々が群れて雀を追う姿も想像できて、ありそうな気もしてくる。
話しの真偽はともかくとして、今の瀋陽薬科大学の植え込みには多くの小型の雀がいて囀っている。主楼の屋根裏には岩燕が巣くっている。このように鳥は中国でも人にとても身近な存在だが、鳥の起源は謎に包まれているという。古くはドイツで始祖鳥という爬虫類と鳥を結ぶと思われる動物の化石が見つかっているけれど、始祖鳥は既に羽毛を持ち、しかも翼における羽毛の配列が現代の鳥とまったく同じなのだそうだ。だから鳥になった最初の生物ではない。中国でも始祖鳥の化石が見つかっているがこれは肺の他に気嚢をもち、明らかに鳥としては更に進化しているという。
この中国で始祖鳥の見つかったのは遼寧省で、遼寧省といえばこの瀋陽はその省都である。ここ瀋陽から南に車で3時間くらい走ったところで始祖鳥は1992年に農夫によって発見されたと聞いた。
薬科大学に暮らしてみると日本からこの大学を訪れて講義をする先生が結構多い。薬科大学が日本各地の大学と提携している成果だろう。そのような先生は大学の賓客として扱われ、講義の合間にあちこち観光に案内して貰える。毎年来る先生は瀋陽やその郊外には行き尽くしているので、案内できる新しい場所が必要である。
たまたまこの9月に日本から環境科学の講義に来た西川先生は見かけはおじいさんだけれど、好奇心のかたまりそのもので、山でも何処でも出掛けて石や鉱物を沢山拾ってくる。この先生を今回案内するのに、この化石の出る場所がよいのではないかと外事処の処長の頭にひらめいたらしい。西川先生は私の長年の友人なので、彼を化石の出るところに案内するときに一緒に出掛けませんかと言って私たちも誘われた。
前日までの大雨で出掛けられるかどうか心配だったその土曜日は、朝から瀋陽は晴れ上がった。このような秋晴れの日を、ここでは「天高気爽」というそうだ。日本からは他にも薬学の貴志先生が一行に加わり、外事処の車で総勢7人が遼寧省の渤海湾に面している錦州の先の義県を目指した。
瀋陽薬科大学のあるところは瀋陽市の市街地の南のはずれで、瀋陽市を南で区切っている渾河に近い。瀋陽の西南も同じ位の距離で市街地から外れるかと思っていたら、とんでもない、高速道路を走って、いつまで経っても町並みが続く。場所によっては大学のあるあたりよりも遙かに町並みが美しい。瀋陽は大都会である。
やがて高速道路は沈京高速に入り、車は一路西南に向かった。このまま行くと北京に着くが、北京までは600km以上あるという。沈京高速道路は片側3車線で、無愛想に遮音壁で仕切られている日本の高速道みたいなことはなく、道路の横では二三十メートルにわたって何列にも植えられた柳楊の並木が続く。隙間からはもう色づいた田圃が見えた。畑は、トウモロコシか、高梁である。
「ほら、あの赤いのが高梁ですよ。穂先が赤いでしょ。昔の高梁は背が高くってね。高梁が伸びると高梁に馬賊が隠れられたんでね。このあたりの満州では馬賊が出たんですけどね。今は背の低い品種に変わったんですね」と、西川先生の解説が入る。
「昔、背の低い品種があれば良かったのにね。馬賊が隠れるところがなくなっちゃうから。今では、高梁酒なんかではよく使われているけれど、殆ど食べなくなってしまってね。」「いやいや、だからね、むかし日本がこっちの北の方まで米作が出来るようにしたんだよ。」
そうか、中国も確実に豊になってきたんだな、と大学の招待所の朝の食事の定番であるお粥を思い出す。昨年夏、瀋陽に定住することになるまでは、私たちも毎年訪れる訪問教授だったから、大学の持っている宿泊施設である招待所に泊めて貰って、朝はその食堂で食事をすることが多かった。
食堂に朝行くと、白い米のかゆ、黄色の小米のかゆ、黒米のかゆなどが大きな鍋に入っていて、ひしゃくでお椀によそって好みの漬け物と一緒に食べたけれど、高梁のかゆはまだ知らなかった。
「ほら、ほら、あれが黄米でね。こっちでは何と言っているのかな、作物の時は確か谷子(Guzi)って言うけれどね。食べるときは小さな黄色の米と書いてね、平たく言うと粟ですよ。あっ、ほら、あっちは赤い高梁でね。ね。ね。わかるでしょ?」西川先生は大変な物識りで、それを人に教えるのが特に大好きである。長年大学で教師をやってきたので、愚昧の輩の相手に慣れているから、時にくどいこともある。
貴志先生は相手をするのに疲れた風で、風景に見とれている様を装って生返事をしている。それでも、西川先生の相手は貴志先生に任せて、出掛ける前にinternetで大急ぎで調べた中国の化石のプリントアウトを眺めてみる。それによると、中国の特に遼寧省は化石の宝庫で、いままでに恐竜の化石はもちろんのこと、コアラの先祖に当たる有袋類の化石、鳥の進化をたどることの出来る多くの化石が見つかっているという。
米国のダイナソア国立公園には恐竜の発掘現場をそのまま覆って博物館にして、中に入るとまさに恐竜の骨格を掘り出している現場を目の当たりにすることが出来る。毎日埋め戻しているのだろうけどね。中国でも、是非このような博物館を作って欲しい。
9人を乗せた車は化石を求めて、高速道路を一路南西に向けて驀進する。
2005/10/20 12:36
化石のはなし その2
沈京高速道路の両側には広大な畑が拡がっていたが、やがて田圃に変わり、稲が黄色くなっている。さらに走って盤州を過ぎるとそれが見渡す限りの湿地帯になって、浮き島に蘆が生えている感じでそれがどこまでも続いている。道路の上の標識には酒という字の右側の酉が、赤い車の絵文字になっていて、それに×が引いてある。元来漢字は絵文字であることを思い出せる巧みな造形だ。「酒を飲んだら運転するな」という、とても分かり易い注意である。
やがて車は錦州出口を降りて阜錦道路に入った。やがて義県の街で高速道路を出て、奉国寺という寺に着いた。瀋陽から約250 kmで、3時間位だった。ここは仏教のお寺で七つの大仏がある。綺麗に手入れされた可愛い寺である。建物の配置は塔がないだけで典型的な仏教寺院造りで、奥の大仏殿には、七体の仏像がならんでいた。それぞれ9.5メートルの高さと言うから、結構な大きさである。日本の仏像は古くて大抵塗りがはげているが、ここの大仏は極彩色だ。何しろ日本の古びて古色蒼然の仏像しか知らないから、ここの大仏はなまめかしい。
この寺は1020年 遼の時代に建てられたという。遼とは今の中国東北地方に版図を広げた契丹王朝の建てた国家であって中国の中央政権から見ると北の蛮族(北夷)である。寺の 一部に遼、それに引き続く金の時代の版図、遺物が展示されているから、今では蛮族としては扱われていないように見える。しかし、11世紀半ばには150万人いた契丹族はその後数を減らし、後世ではその人口は零になっていた。歴史の中に埋没するとは、こういうことを言うのかと思う。
境内の左手には土産物屋が並んでいた。寺の造りと本質的に同じ造りの建物なので調和を壊さず、眼に煩くない。「あった、あった」と西川先生、貴志先生の二人は「化石」と看板を掲げ た店に入っていって興奮状態である。始祖鳥の見つかった場所から昆虫、魚、植物の化石も沢山出ているので、化石はこの一帯の名物であり土産は化石なのだ。
西川先生は、化石の出るところに週末に案内されることを薬科大学の学長に話したとき、「3-5元の安いものにしなさい。高いものは偽物のことが多いです」という忠告を受けたと言うことだ。店に額に入れて飾ってあるものは、安くても100元 という値が付いている。虫眼鏡まで置いてあって、いくらでも覗いて調べられるようになっているが、始めて眺めてみて、偽物と本物の区別など付くわけない。
菊花石のような石、玉、鉱石も沢山置いてある。西川先生は石を一つ一つ見ながら「これは本物」「これは贋物」なんていっている。「どうしてわかるんです」と思わず訊くと「だって、いまじゃいくらでも鉱石を溶かして作ることが出来るから、こんなに綺麗なのは怪しいね」とのことだ。
寺の中の化石の店では誰もただ眺めるだけだったけれど、寺の外にも化石の店があって、そこに行くと、すでにもう目が慣れているから、誰もがいよいよ気の済むまで選んで買う気になってきた。壁には、魚の化石を二つに割ったという二枚の岩が並べて額に入っている。大きい魚では別々の額に入っている。人によっては二つとも買うのだろう。それぞれ400元なんていう値が付いている。
店の隅には段ボールに沢山の薄い岩のかけらが入っていた。大体が一辺5から10センチ位である。どれも薄い岩で、私の知識では頁岩と呼ばれる岩のかけらである。それぞれ表面に小さな魚、昆虫、植物の葉の一部などが化石となって付いている。仔細に眺めても、本物を知らないから何とも言えないけれど、本物らしく見えるとしか言いようが ない。
むかし、日本刀の鑑定の出来る人は幼少の頃から、本物の刀を見続けて育てられたという。そうすると長じて一目で刀の真贋を見分けられるようになると言う。となると、たった今化石を見て、真贋がわかるわけがない。唯一のよりどころは、学長の言葉である。実際、岩に細工したり、描いたりという細かな細工をすれば人件費がかかるから、掘ってきただけの化石より高いという道理である。3-5元の岩のかけらなら、本物の化石である可能性が高い。
というわけで私たちも化石選びに参加して、西川先生、貴志先生が捨てた残りかすから4枚を選び取って合計20元を払った。メダカ位の魚、ケヤリムシみたいな生物、がそれぞれ浮かんでいる。肴の付いている岩の裏を見ると、フナムシみたいなムシの半分が付いている、これは間違いなく化石だろう。ここまで手の込むことを5元でするはずがない。
1億5千年前の時代のこれらの生物が見つかって、これらの生物の詳細な、そして膨大な分類表が出来ているに違いない。私もその端くれだけれど、科学者のやることは門外漢にはまるで浮世離れしていることだろう。二人の先生は立派な額入りの化石を買って満足げである。
午後は義県の西の郊外に出掛けた。道は舗装してあるけれど、周りは畑で大分街中から見ると道も細くなった。ちょっとした丘を越えると、一直線の橋があって長さは2km位あるのではないだろうか。その橋を渡ってから右に折れて川岸に沿って少し進むと、行き止まりが目指す萬佛堂石窟だった。
ここはこの大凌河の左岸部に立つ丘で、その岩盤に大小様々な仏像が刻んであった。解説によると、北魏の時代(499年)と言うから、三国志の後の南北朝の頃だろうか。仏を刻んだ石は腐食しているけれど、彩色の跡が所々残っている。どれも柔和な顔をした細長い顔の仏だった。清の時代に彫られた石仏もあった。現代的といって良い顔つきだった。
石窟の彫られた崖は南面していて、直ぐ下が広い大凌河の河原だ。ちょうど石窟を巡ることが出来るように回廊がもうけられていたが、回廊の高さは30メートル位ある。大変な苦労をして仏を岩に刻んだに違いない。この石窟の場所から大凌河がよく眺められる。2kmくらいの幅広い河床があるけれど河は蛇行していて、水のある部分は100メートル位の幅しかない、残りは一面の茫漠たる広がりで、トウモロコシ、高梁などの作物が植わっているように見える。この丘から周囲を眺めると「一望千里」という言葉が実感することができた。中国は広い。
この石窟境内にも土産物の化石を売る店があり、二人の先生は「200元だって安いじゃない」と、又ここでも子供のように興じて化石の土産をあさることになった。この日の実際の予定は、北票という街の近くの化石が見つかる地層まで私たちを案内してくれるはずだったが、この何度もの化石選びで時間がとられてしまい、私たちはそのまま瀋陽に戻ることになった。鞄の中に秘かに金槌とドライバーを入れてきたが、役立たなくて残念だった。
2005/10/21 20:38
中国のバースデーケーキ
昨日は妻の貞子の誕生日だった。研究室の学生にすると、私を補完する母代わりか祖母代わりとして頼りにしている存在なので、彼女の誕生日を是非祝いたい。「先生、もうすぐ貞子先生の誕生日ですが、先生はどうしますか?お祝いにケーキを買うつもりですか。」「?」
「先生がケーキではなくちゃんとしてものを買うなら、私たち学生がケーキを買ってお祝いをしますけれど。」ということだった。私が彼女に何をプレゼントするかはともかく、「じゃ、一緒にケーキを買う仲間に入れて。」と頼んでおいた。中国のケーキに使われている生クリームは、ちょっと昔までは「どうもね」というものだった。遠慮して口には出さないけれど、あまり口にはしたくない代物だった。早い話が偽物のクリームで、ちょっとでも食べると直ぐに胸焼けがした。それが最近はましになった。大衆ケーキチェーンの「好利来」で出しているケーキは、まあまあである。特においしいとは言わないけれど、食べたあとで決して苦しむことはない。
さて、当日5時頃、教授室に7人の学生がざわざわと集まった、大きなケーキの箱を持って。頭に載せる紙製の王冠も一つある。「先生、これを被って。写真を撮るから。」と王麗さんに言われて妻は実験着を脱いで紙の王冠を頭に載せた。写真を撮るのは私である。学生は胡丹くんを除いて全員がケータイを持ってはいるが、デジカメは持っていない。
箱を開けると巨大なバースデーケーキが顔を出した。上には「祝貞子老師。生日快楽」と書いてある。「祝」が「おめでとう」にあたる。「生日快楽」も「お誕生日おめでとう」という意味になる。ただし「結婚おめでとう」という意味で、「祝結婚」とはいうが、「結婚快楽」とは言わないそうだ。その時は「新婚快楽」だという。なるほど、なるほど。ずっと続く結婚が楽しいものかどうか誰も分からないが、新婚は誰にとっても楽しく、嬉しいものに違いない。ケーキの上にはプラスチックで出来た薔薇のつぼみのようなものが乗っていて一番上に点火する場所がある。実験室のアルコールランプ用の点火器具を持ってきて、誰かが明かりを消して部屋を暗くした。妻が火を付ける。途端に、その花のつぼみの先から炎がロケットの噴射のように勢いよく吹き出し、つぼみが割れて花が開き、ぽんと倒れた花弁の一つ一つの上に火のついたローソクが乗っているではないか。
暗闇に10本くらいの小さなローソクの火が揺らゆらと動き、妻の貞子と集まった若者たちの無邪気な顔を照らし出した。直ぐにHappy Birthdayの音楽が始まった。薔薇の花の下の方にオルゴールが仕込まれているらしい。今年黒竜江省から修士過程に入った暁東さんが可愛い声で歌い始めて、皆も唱和した。貞子がナイフで一筋切ってあとは関さんがケーキを切り分けた。今は私と貞子を入れて9人いるが、9つに切るのは簡単ではない。「8つに切リましょう。私たち二人で一つを分けるから。」と貞子が宣言した。40センチのバースデーケーキは、切り分けても相当実力あるボリュームで、20センチの紙皿を軽くはみ出してしまう。それでもさすが若さの勝利、学生たちは元気にケーキを平らげた。学生たちの半分の量だったけれど、私と貞子には多過ぎた。
来年2月になると卒業研究の学生が5人来るから、一人あたりのケーキのノルマが減って少しは楽になるだろうか、なんて考えながら食べ終わった。実験室のスペースからすると学生は3人採るのがやっとなのだが、5人の申し込みがあった。最終的に3人に絞り込んでから、選に外した学生に断りの電話を入れた。するとあまりにも相手の学生がつらそうで、こちらもそれ以上断るのがつらくなって初志を撤回して志望者全部を採ることにしてしまった。 日本の大学にいたときは、学生が自主的に卒業研究の希望研究室を調整して、最終決定として持ってくる。学生は下見に来るけれど、誰が来るかは先方で決めてくる。今ここでは、学生がそれぞれに希望を述べに訪問してくる。それを端から受け入れたら良い学生を逃してしまうかも知れない。それで、10月半ばまで希望を聞こうといっていたら、こちらの受け入れ可能数を上回ってしまったのだ。ここでは全学から希望者が来るから、前の大学みたいに学科単位で学生が集まって決めるようには行かないだろうが、もっと上手い方法はないものだろうか。さて、あれだけのケーキを食べたあとも、うちの学生たちは元気に食堂を指して出かけていった。残された私たちは、「今日の晩ご飯なしね。」ということになった。貞子は日本から戻って 来たばかりで疲れている。私は貞子のいない間、たちの悪い風邪に掛かったのが長引いて、未だに食欲がない。「よくぞ、この歳まで生きて来たものだわ。」と貞子が言う。私自身もそう思う。若い頃は五十歳以上の自分なんて想像もつかなかった。それを遙かに超してしまったわけだ。
それで昨日は早めにうちに帰ったが、おなかは満杯だし、疲れてもいるし、それで、節目の日だというのに二人でしみじみと話を交わすでもなく、それぞれに寝てしまった。
私たちは長年に亘って何かしら研究室を持っているので、身の回りの人たちの誕生日を祝う習慣がある。毎年巡ってくる誕生日に、あまり嬉しそうな顔をしないスタッフに「貴女のこの歳の誕生日は一生に1回しかない特別の日なのだ。」とその日に意味を持つように何時も偉そうに説教していたが、いざ自分たちとなると、普段の日と変わることはなかった。貞子のこの歳の誕生日はこの日しかないというのに。
2005/10/22 20:48
冬の楽しみ
瀋陽に寒波が訪れた。昨日の朝は外に出ると水たまりが凍り付いていたくらいの温度だったうえに風が強くて、大学の研究室に着くまでには体の中まで凍えてしまった。今日は用心して、東京にいたときの冬支度で出掛けていった。今朝の予報によると最低マイナス5度とのだった。
まだ銀杏はすべての葉を落としていないし、太陽も雲一つない中天にあって日射しを注いでいるので、この寒さと目に入る景色とはちぐはぐで落ち着かない。
一般家庭にとって今の時期は、冬の白菜の仕込みの時期である。オート三輪や小型貨物に白菜を山のように積んで各家庭をというか、団地を廻って売っている。買う方は数十個単位で買って、どうするかというと、外の空いているところに、所狭しとばかり並べて置いておく。干して水分を出すためらしい。
初めて瀋陽に来て冬を越すことになったときこの風景を見て、「冬越しにはこれだけの白菜を買わないといけないのだろうか、冬の間はほかの野菜は手に入らなくなってこれで食いつなぐのか、僕たちはどうやって買って、そしてどうしたら置いておけるのだろう、」と慌ててアパートのお隣の部屋に訊きにいった。
「いえ、いえ。これは東北地方の習慣で、冬に備えて白菜を漬けておくのですよ。今では冬に野菜が買えるけれど、長い間冬の間は秋に買い込んだ白菜だけで過ごしたものです。」とのことだった。団地で一つの家族が大きな白菜を二十個も買ってどう処理するのかと尋ねたら、階段室に連れて行ってくれた。階段の踊り場に、アリババに出てくる盗賊が一人は楽に入れるくらい大きな瓶が二つも置いてあった。「これに入れて塩で漬けるんですよ。」
それで納得したが、この時期の白菜干しは凄い。裏庭の空いているところはもちろん、それだけでは足りないから、道ばたにも並べて干している。道ばたといっても小さな道だけではない。八車線道路の歩道と車道との間に平気で並べる。車が排気ガスを撒こうが、土砂を跳ねかけようがぜんぜん気にしていない。干した後で十分洗うと思いたいが、瀋陽は水が豊富とは言えないから、日本で見かけるように景気よく大量の水を使って白菜を洗うようにはいかないだろう。そう思うだけで、口の中がじゃりじゃりしてきた。
このように白菜干しは瀋陽という都会でも秋の風物詩だが、それでも気温が零度を割る寒波の訪れで、今日は白菜が殆ど外から姿を消していた。推測だが、凍らしてしまっては美味しい白菜の漬け物にならないからだろう。
この秋の風物詩には白菜とともに、長ネギがあって、長ネギも道に沢山干してある。長ネギは寒波が来てもそのままだから、水分の含有量の低い長ネギは白菜よりも凍るという害が少ないみたいだ。私は長ネギが好きではないから、これだけの長ネギをどうするのか不思議で、訊いてみると、東北の人たちは長ネギが大好きで、みそをつけて1本2 本を平気でかじってしまうそうだ。きっと冬の夜長の大きな楽しみなのだろう。
夏の間は27度くらいまで上がったアパートの中の温度も、夏が終わってだんだん下がってきた。27度が24度になり、そしてそれが20度になったのは数日まえである。壁が厚い作りなので、外気の影響を簡単には受けにくいようになっているが、外気温の低下とともに室温も下がる。それで外は零度になる寒波が来ても、まだ室温は19度ある。私たちの住まいにクーラーは入っているけれど、暖房器具としては電熱敷布しかない。あと10日近く経って11月1日になると地域集中暖房が入って、部屋の温度が21度に保たれるようになる。
最初の秋は、10月12日に初雪に出会って、心底驚いた。それがこの辺りでは普通なのだという。昨年は10月終わりに初雪だった。今年はまだ雪が降らないが、温度は零下にまで下がった日が2日続いたので、例年のように冬を迎えていると言っていいだろう。
昨年は12月に入って夜中は零下30度近く、日中でも零下10度以下という日が2週間以上続いた。「こんなことは珍しいですよ。普通は2月の春節の頃が一番寒いのですけどね。」といって皆に慰められたけれど、慰めは何の足しにもならなかった。瀋陽の冬用の靴を買い、厚い靴下も履いたけれど、足先には子供の頃以来の霜焼けが出来た。今年はどんな冬になるだろうか。やけっぱちで楽しみにしている。
2005/11/03 11:50
水も漏らさぬ中国の建物
建物の一室で水が溢れ出したときに、床に流れた水が階下に落ちて大騒ぎをしたという経験をお持ちの方はあるだろうか。私はこれを何度も経験をしている。鉄筋コンクリート造りであろうと日本の建物は水に対してはザルみたいなものである。
以前のこと、名古屋大学に助手となって初めて赴任した時、私は発生学の研究室に出入りしていた。そこの加藤先生の指導のもとにニワトリの胚を使った実験をしていて、よい結果がでたのでそれを人に示すために顕微鏡写真を撮った。研究で使う写真は納得のいくように自分で印画紙に焼き付けるので、どの研究室も中に自前の暗室を備えているのが常識だった。
その日は、昼から暗室にこもって写真焼き付けの技術を教わりながら写真を焼いていた。写真の処理には水洗がつきものである。大きい流しに大きなバットを置き、処理中の印画紙を入れて水を流しっぱなしにして洗う。そのうちに停電になり、断水になってしまった。直ぐに収まるだろうと研究室のたまり場と呼ばれる小部屋に部屋の人たちと集まっておやつを食べたりして談笑していた。
停電も断水もいっこうに復旧する気配もなく、夜になった。私たちはおしゃべりに疲れて結局一日を無駄にしてうちに帰った。すると夜中の3時にアパートの管理人に電話だといって起こされた。その頃は各家庭に電話を引くというのはまだ常識ではなかったのである。
電話は私の所属する化学教室の先生からで、理学部の建物で水がでて大変なことになっているから直ぐに来いという招集だった。当時の私たちの住んでいたのは大学の直ぐ隣といって良いお千代保稲荷のそばで、歩いて5分というところだったので大学の建物には直ぐに着いた。
私の所属する化学教室は建物の1階と2階を占めている。入ってみると、1階でも2階でも化学教室の助手、助教授、教授といった人たちが総出で床に溜まった水をほうきで掃き寄せモップで拭いて水を集めていた。この建物はザルみたいな建物で、上の階で水を出すと直ぐに下に漏れる造りになっていて、こんなことは良くあることだが、今回は特に規模が大きいということだった。まるで事情がわからなかったがともかく水掃除に精を出しているうちに「3階の生物の部屋から水を出した」らしいと聞こえてきた。
やがて水元は3階の発生学研究室で、流しの排水口に印画紙が乗って塞いでしまい水が溢れたと言うことが伝わってきた。「昨日は断水だったから、水栓を閉めるのを忘れて帰ったんでしょうね」という話を聞くまでもなく、力が抜けた身体を奮い立たせて3階にいくと、そこには生物教室の人たちがいて水掃除をしていた。生物教室の先生たちに混じって昨日の加藤さんもいて、目を合わせて「やっぱり?」。「やっぱり。」と会話を交わした。私たちがこの水漏れの原因を作ったのだった。
1階、2階、3階の床に溜まった水を取り除くのに、職員総出で結局明け方まで掛かった。3階の生物教室では廊下が洪水になっただけだから床に積んだ書籍が濡れたくらいのことで本質的な被害がなかった。しかし、上から落ちてくる水はところを選ばないから建物の1階2階を占める化学の研究室では、研究室の機器、机の上も水浸しになって、床の水を拭き取るだけでは済まない大きな損害と迷惑を与えてしまった。
翌朝、前日に一緒に写真を焼いた発生学研究室の加藤さんと私が一緒に、生物教室、化学教室の先生たちを順番に訪ねて謝って回った。驚いたことに翌朝の化学教室の中では、新任の助手の私の夜中の働きぶりが目立っていて大いに評判があがっていた。その私が洪水の水元の犯人のひとりとして謝ったので、上の生物教室が水を出してけしからんという怒りが薄まってしまったみたいだ。弁償も、これといったお咎めもなく、ことは収まったように覚えている。
日本の建物は、水を出すと直ぐに階下に漏れるというのは別のところでも経験した。横浜の青葉台の住宅公団の建物に住んでいた時、洗濯機の排水パイプにさわってしまい廊下に水を吐き出した時は、階下のうちに水漏れを謝りに行く前に床を拭き始めたけれど、間に合わなかった。拭いている最中に下のうちから「水漏れですよ」と知らせてき た。上を拭き終わってから下のうちの水始末に出かけたが、天井のあちこちからまだぽつぽつと水が滴っていた。
東京工業大学の長津田キャンパスの建物は、東工大の建築科の錚々たる先生が設計したという斬新な造りの建物だったが水には弱かった。名古屋大学の洪水の経験があるので学生にはよくよく注意するよう徹底したつもりだったけれど、それでも階下の研究室には2回謝りに行った。今でも思い出したくない悪夢である。
中国で暮らすと日本との違いが目に付くのは当然としても、だいたいが住み慣れて身になじんだ日本の方がよいと思うのもごく当然かもしれない。しかし建物の造りについては断然中国に軍配があがる。高層建築に使う鉄筋の数の少なさには目を見張る思いだが、水が漏れる造りではない。ほかの建物での経験がないから一方的過ぎるかも知れないが、ともかく、この建物では水がでても下には漏らない。それも、実験室とこの教授室という別の場所で洪水を合計3回経験したが、どちらも階下に全く影響な かった。
洪水といっても、水の出しっぱなしのような、こちらに責任があるものではなかった。給水管のパイプが割れた、水栓がいきなり壊れて水を噴き出した、給水管のパイプの接続から水が漏れ出した、という原因だった。宇宙ロケットを飛ばすことに成功している国にしては、ちぐはぐなところがある。
今日の洪水にしても、昨日給水管の接続からわずかな水漏れがあるのを見つけて、大学のしかるべき部署に学生から連絡して貰った。昨夜のうちに、水漏れが加速したのだろう、朝来てみると教授室が一面の水浸しだったのだ。さすがに、今朝の電話の口調に驚いて水掃除が終わった頃には修理に来てくれたが、昨日のうちに来ていればたいした水漏れではなかったのだ。こういうところが中国らしく、大きい目で見るとちゃんとバランスが取れている。
2005/11/06 08:44
ひまわりの種子
10月の国慶節の休暇に友人の加藤さんに誘われて、北に汽車に4時間乗って長春の町に遊びに出掛けた。往きは汽車で行きましょうと加藤さんが座席指定の汽車の切符を買っておいてくれた。座席指定を買うのはその汽車の始発駅なら問題ないが、途中の駅だと買えないという。しかし、途中駅からは座席がなくても汽車に乗って、座席が空いてさえいれば座るのはお構いなしなのだそうだ。これは切符がコンピュータで管理されていないためらしい。
汽車には硬座、軟座、寝台車とあって、これまでに南に4時間離れた大連には2回日本のグリーン車に相当する軟座に乗った。今回、加藤さんは普通の人たちが乗るので、汽車は硬座の方が楽しいですよと勧められて、座席は初めての硬座だった。乗るまでは、金属か、プラスチック成形の表面の硬い椅子かと恐れていたけれど、軟座ほどの柔らかさではないにしてもまあまあの椅子だった。ただし、通路を挟んで片側は6人掛け、反対は4人掛けである。つまり一人分の占めて良い面積が狭い。
瀋陽駅では発車時刻の50分くらい前に駅に着いて中に入って大きな待合室の中で並んだ。4列くらいずらりと入り口から改札口と思われる方向に向かって椅子が並んでいて、その椅子の間に既に多くの人たちが立ち並んでいる。それぞれ別の行き先の汽車だ。座席指定でも、一刻も早く汽車に乗りたいということらしい。実際10分くらい前に改札が始まったときは、二つしか開いていない改札口に向かって大勢の人たちが殺気だって詰め寄せた。
この汽車は始発の瀋陽駅から満席で通路に立つ人がいた。一両に数人位は立っているかなと思っているうちに停まる駅で次々と人々が乗り込んできて、通路を隔てて分かれて座っていた私たちは通路に立つ人たちに遮られてしまった。3人掛けは狭く、通路にどうしても身体の一部が出るけれど、通路側からは立っている人たちに押されて、4時間 の汽車の旅は楽ではなかった。
このように混雑した汽車だったので立っている人たちはつらかったろうが、座っている人たちは汽車が動き出す前から、食べもの出して連れと分け合って食べ出した。バナナ、ミカン、ソーセージ、トリ肉、肉まん、賑やかなことで、私も学生の頃の汽車の旅を思い出した。そのころの旅は駅で売っている四角な土瓶風の素焼きの容れものに入ったお茶が定番だった。ポリエチレンや缶入りのお茶の自動販売機なんてなかった時代のことである。そして、赤い糸の網の袋に入ったミカンやゆで卵を汽車に乗 るのも待ちかねて、いそいそと食べ始めたものだった。
斜め向かいに座っている人は硬座の客にしてはきちんとスーツを着て、ひまわりの種子を食べていた。「香瓜子」と書いた紙の袋から種子を一つずつ取り出して歯で軽く外皮を噛んでから中の種を口に入れている。オウムが種子を食べるほど上手ではないが、中の種を指でつかむことなく上手に処理している。それでも、外皮のかけらが時々口に残ると、口の中から直接外に飛ばしている。瀋陽から長春に着くまでの数時間、彼はひまわりの種子が二百グラムくらい入った紙袋を握って床を殻だらけにしてい た。
これに触発されて、うちに帰った後、近くのカラフールで「香瓜子」と袋に書かれたひまわりの種子を買ってきた。種子には軽く塩味と、そして何と表現して良いか分からないけれど、中国らしい香りが付いている。このようなおやつは、テレビを見ているときにはぴったりの食べ物である。数時間手と口を動かしていても、口に入る実質的な量は実にわずかなものなので、食べ過ぎるという問題は起こらない。ただし、彼らほど上手く皮がむけないから、殻は机の上に集めているはずだけれど、床の廻りは 殻だらけとなって妻の顰蹙を買っている。
数日前、うちと大学の通い道に当たる集合住宅の裏の道を歩くと、大きな袋が沢山置いてあった。長さ1メートルくらい断面が60x30センチくらいだろうか、ビニールの袋である。中にはひまわりの種子がぎっしり入っている。通り道の両側に四段に積み上げ、あわせて百個くらいが並んでいる。そして広場にはこの袋で堤防みたいに仕切って四畳半くらいの空間を作り、覗き込むとその中にはひまわりの種子が拡がっている。中には人が入ってスコップを使って種子をひっくり返している。何をしているんだろう。集まっている人たちに訊いたが、「向日葵」としか聞き取れない。何をしているのかを知りたかったけれど、返事が複雑すぎて理解できなかった。
冬に備えて白菜や長ネギを干しているからその連想だと種子を干していることになるが、これだけのスペースではここに詰み上げてある袋全部の種子をまかなえない。この通り道にひまわりの種子の袋が積み上げてあったのは二日間だけで、三日目には消えていた。それでもそこにあった証拠に、向日葵の種子の殻があちこちに散らばっていた。
どのような目的で向日葵の種子を袋から出して地面に直接拡げていたのか分からないが、これが「香瓜子」と書いた袋に入っている種子となって売られるのだとすると、あまり綺麗な扱いとは言えない。今、中国と韓国とで「キムチに寄生虫の卵が付いている、いやおまえのところこそ卵が付いている。」と言って互いにやりあっているが、白菜の露天干しが道ばたを利用しているのを見ると、「さもありなん」と思える。
もう香瓜子を食べるのをやめようか、だけどプルーンやサンザシなどの干した果物は大体同じように処理されているだろう。やっと気付いたが、今までに寄生虫の卵も、ほこりもゴミも食べて来ただろう。それでも生きているのだから、大体身体が免疫を獲得して耐性になっているかも知れない。今さら寄生虫の卵が入ってきたって、既に身体の中に育っている寄生虫が先住民族の権利を振りかざして、新しい卵を追っ払うかも知れない。
さて、どうしようか。ひまわりの種子は理想的な間食なのだ。何といっても美味しいし。
2005/11/11 14:49
薬科大学で初めての音楽会
昨夜は薬科大学で初めて音楽会に行った。瀋陽では音楽会があることは稀である。市の中心地に立地する市政府の建物に面して巨大な芝生の広場があり、これを囲んで、遼寧省博物館、大劇場などが立ち並んでいる。5月に友人を案内してこのあたりを歩いた時、大劇場の窓にはその先の予定として二つの音楽会が張ってあっただけだった。こちらが熱心に調べないためもあるけれど、そこまで出かけるのが面倒だし、まだこの大劇場には行っていない。
初めて音楽らしいものを聴きに行ったのは、瀋陽に来て半年経って、そのころ研究室にいた白さんが近くの南劇場で音楽学校の発表会があるから行きましょうと誘ってくれた時である。そのあたりは三好街といってコンピュータの街として発展しているが、魯迅芸術学院、音楽院などが立ち並んでいる一画で、その音楽院の人たちの発表会というものだった。
行ってみると、数人のグループが歌を歌い、楽器の演奏をし、というものだったが、何よりも驚いたのはマイクロフォンを使い大音響でスピーカーを鳴らすことだった。お客は発表している生徒の家族や親族だから小さな子供たちも来ていて、そうなると、音楽を聴くよりも通路を走り回り、合間には食べ物の音が激しく。どちらの音が大きいか分からないくらいだった。あきれて、せっかくの白さんの親切だったけれど幾つか聴いただけで出てしまった。
さて、数日前に友人の加藤先生から電話があって音楽会に誘われた。彼は薬科大学では中薬学院の1年生に日本語を教えているが、そのクラスの時に学生が券を配っているので聞くと「音楽会の券です」ということで1枚貰ったが、「更に音楽好きの友だちの先生のためにあと二枚もらえないか?」と頼んだという。学生たちは考えた末にあと二枚呉れたと言うことだった。この音楽会は大学の敷地内にある、客席が階段状になったいわゆる講堂を思い浮かべて欲しい。千人くらい入る大きさで、倶楽部と呼ばれている。文字通りこの字を書く。ところで、この字はどちらの国の発明だろう。日本か中国か。
音楽会は遼寧省高雅芸術学院の演奏会だという。学生の演奏だけれど、薬科大学は自分たちの学生を楽しませるために、演奏家を呼んだり映画会を催したり、あるいは学生たちの踊りや音楽会などをこの倶楽部で時々やっているのだという。その一環である。私たちは学部の1年生に縁がないからこのような催しがあることを全く知らなかった。倶楽部の席は千人くらいだから1学年全員を収容できない。最初学生が券を学生以外に配るのをためらった理由もよく分かる。
昨夜6時前に迎えに現れた加藤先生と連れだって大学構内の倶楽部に向かった。座席は指定されていて貰った席ははるか上の席だったけれど、教え子たちを見つけた加藤先生が聞いたところによれば「どこでも良いです、前にいらっしゃい、」ということで前から数列というかぶりつきの席に陣取った。席に着いている学生は少なかったけれど、日 本語を勉強し始めてまだ2ヶ月という加藤先生の教え子たちに次々と挨拶された。「あなたは音楽が好きですか?」「あなたは中国にどれだけいますか?」などと口々に聞いてくる。2年ここにいる私の中国語よりもよほどましである。
舞台にはオーケストラ演奏の準備がなされていた。後ろの幕には、大きな字で記念洗星海誕辰100周年 約翰・施特労斯誕辰180周年交響音楽会と書いてある。洗星海は中国の作曲の名前のようだ。約翰・施特労斯は三人で考えて、ヨハン・シュトラウスと読めるということになった。きっとウイーンワルツやラデツキーマーチを聴かせてくれるのだろう。音楽会はなかなか始まらない。日本語の勉強を始めたばかりの学生と、中国語の不自由な私たちとの自前の会話はもう話題がつきてしまった。それぞれが加藤先生の助けを借りないと話が出来ない状況となった。講堂はまだ人が半分くらいで、「きっと時間ではなく、お客が集まったら演奏が始まるのでしょう、」などと私たちはふざけている。実際、ここから見える舞台の袖ではバイオリンを抱えた人たちが何人も立ったまま入場を待ちかまえている。
やがて、楽員たちが舞台に上がってきた。盛大な拍手。学生と聞いたけれど、皆黒色の正装をしている。最初、女性二人による長い長いお話しがあって、やっと指揮者が登場した。私たちがここに来た時入り口でたばこを吸っていたおじさんである。
指揮棒一閃、ヨハンシュトラウスの「こうもり」序曲が始まった。見事な演奏である。惜しむらくは、舞台に林立しているマイクロフォンを見て厭な予感がしたが、予感通り舞台袖の大きなスピーカーからも音が聞こえることである。音が入り交じって平板になってしまう。でもスピーカーが大音響でなくて良かった。次は1945年に40歳の若さで他界した洗星海の作曲と思える曲で、「大海よ、私の故郷」という中国人の愛唱歌を思い起こさせる曲趣を持っていた。
続いてヨハン・シュトラウスのポルカ、リストのハンガリー狂詩曲2番のあとで女性歌手が登場した。ほっそりとして背が高く青い服に身を包んだ彼女は、シュトラウスの「春の声」を唱った。低音にはちょっと難があったけれど、コロラチュールも綺麗に転がしたし、「ワオ」とばかりにすっかり彼女の虜になった。
次のビゼー・カルメン組曲1番に続いて登場したのは女性バイオリニストで、洗星海の作曲に違いないバイオリン協奏曲を演奏した。流麗な演奏で初めての曲ながら中国的なメロディーとリズムに魅せられて聴いていると、突如ホールの電気が消えた。スピーカーの音が切れてからも二秒くらい続いた生のオーケストラの音はか細く清冽だった。
場内はたちまち拍手と人声で満たされ、携帯電話の明かりがあちこちを局所的に照らしていた。動かしている人の携帯電話は暗闇に幻想的に青白い光を播いている。携帯電話がこんなに明るいの?と驚いて自分のを出して蓋を開けると、相当な明るさだ。ただし他の人のカラーとは違ってモノクロだったけれど。数分して停電が直ってバイオリン協奏曲が再開された。停電の間に隣の学生から聞いた話だと、この洗星海の曲は大変有名な曲だという。しかし再開されて1分もしないうちにまたも停電だった。気の毒なバイオリニスト。
停電が直って再度続けられた演奏は、それでも途中に邪魔が入ったとも思わせないほど整然と進み、最後はコーダを盛り上げて終わった。曲も楽しかったし良い演奏だった。次は男性のピアニストで、これも洗星海のとおぼしき四楽章からなるピアノ協奏曲だった。非常に技巧的な曲である。何となくプロコフィエフを連想したけれど、同時代の人だから関係はないだろう。
最後はアンコールに応えてラデツキーマーチだった。始まると直ぐに手拍子がわずかながらも始まったから、中国の学生もウイーンで行われているこの曲の演奏スタイルに、私たち同様テレビを通じて馴染みになっているのだ。世界は狭い。
手拍子はどんどん増えていった。中国の学生も、民衆も、もっともっとテレビを見て世界を知ると良いのに、と最後は教訓的なことを考えてしまったが、久しぶりによい音楽を聴いて心が暖まった。外に出て零下数度の気温をものともせず帰途につくことが出来た。加藤先生、ありがとう。
2005/11/18 10:01
大粒の涙を流した女子学生のその後
今年は11月に入っても割合暖かい日が続いたけれど、とうとう寒くなってきた。昨日今日の日中の最高気温は3度くらい、最低がマイナス8度くらいという感じで、零度を挟んで温度が上下している。まだ瀋陽に来て買ったコートや靴までは必要とせず、東京にいた頃ユニクロで買った冬のコートで済ませている。それでも冷たい北風に備えるために、襟元を埋めるマフラーは必需品である。
数日前から新たなマフラーが私のコレクションに加わった。これは、1年前から私達の研究室に出入りするようになった女子学生からの贈り物である。彼女のことは、昨年2004年11月27日付で、「大っぴらに涙を流す中国の女性」というタイトルでエッセイを書いている。
この薬科大学には基地クラスという1学年30人編成の特別コースがある。教育は全部英語で行われ、学部教育と博士課程が8年間でセットになっている。普通だと、学部4年、修士3年、博士3年の10年掛かるところなので、特別教育促成栽培を売り物にしているコースである。学部から大学院に入る時には、彼らは試験を受けることなく全員推薦進学になる。私たちは聞かされていないが、学部学生2年の時に希望の研究室に出入りして研究に親しみ、3年の時には3週間研究室に行って実験をして研究を味わい、そして4年生の後期の数ヶ月はほかの課程の学生と同じように、どこかの研究室に所属して卒業研究をするのだという。
昨年彼女は2年生になったばかりだった。そのコースで説明を受けたとおりに、私のところを希望して、私の研究室に出入りしたいと言って来た。しかし、そのようなことを知らない私は断ったのだった。藪から棒に学部の2年生が来て、研究室に時々来て実験を見学して研究とはどんなものか勉強したいと言ったって、迷惑なだけである。
何時から来たいのか聞くと今日からだという。そんなことをいきなり言われても、何の用意もない。大学がこのコースの学生に特別に約束していることなどこちらは全く聞かされていないから、彼女の面倒を見る義理があるとは思っていなかった。それで断ったが、彼女は大粒の涙を目からぽろぽろ流しながら、なおここに来たいと訴えたのである。
最後にはこの涙に根負けして彼女の受け入れを認めてしまった。毎週土曜日の研究室のセミナーに出席すること、これが彼女に課した義務である。この土曜日のセミナーはジャーナルクラブと呼ばれていて、一流のジャーナルに載った最新の研究論文を紹介する勉強会である。学部2年の学生には理解を超えた世界だと思う。
心配したとおり、毎週出てきていたけれど、論文紹介の約3時間の間、顔を堅くしたまま座っているだけで何の質問も出ず、内容を理解しているとは全く思えなかった。
忘年会や新年会などの研究室のパーティーに呼ぶと出てきたけれど、なかなか皆ともうち解けなかった。あまりに力が違いすぎるのである。幾ら日常的に英語を使って暮らしていても、院生の中に学部2年生が入るには無理がある。そして春学期になった頃、土曜日に授業が入ってしまったと言ってセミナーに出てこなくなった。初めは出られないという連絡が毎回あったけれど、何時しかそれもなくなった。
彼女のことで大学から正式に書類が来たわけでもないから、研究室に何時の間にか来なくなってもそれだけのことなので、放っておいた。これが数日前に彼女が再び訪ねてくるまでの話である。
その日は普段から速度の遅いinternetが特に遅く、米国のNCBIのデータベースにアクセスして遺伝子情報を調べていた私は大分苛々していた。1ヶ月前に合成を依頼したプライマーを使ってPCRをするとバンドが沢山出て、不適当なプライマーだと分かったために、遺伝子情報を調べてどこに欠陥があったのか探していたのだ。原因を見つけて新しい設計を早くしないと皆の研究が遅れてしまう。
調べてみるとNCBIに登録されている遺伝子とEnsemblに載っている遺伝子とは、5ユ側の前半は同じなのに、後ろ半分が全く違うことが分かった。前回設計したプライマーはこの共通部分だけではなく、後半の両者で異なる部分をも含んでいたから、それが原因でおかしな結果になったのかも知れない。前半の、両者共通分だけで遺伝子の増幅を行えば、大丈夫ではないか。
と言うところまで漕ぎ着けた時に、胡丹くんから「先生。」と声を掛けられて目を挙げると、Macの向こうには胡丹くんと並んで、彼女が立っていた。彼女の顔をずっと見ていない。断りもなく研究室に顔を見せなくなって数ヶ月経つだろうか。いつもは女性に愛想の良い私が、顔を挙げたまま何も言わないので、胡丹くんは焦って口ごもりながら「彼女は学部を変わったので来られないと言っています。」と言った。まだ心の半分はMacの画面に残したまま、「何処に変わったの?」と聞くと、胡丹くんが「薬学部に変わりました。」という。彼女の基地クラスは元々が薬学部の中なのだ。
基地クラスは促成栽培だけあって、1科目でも70点以下を取ると進級できずに基地クラスから追い出されてしまうと聞いたことがある。きっとそれだろう。気の毒に。しかし、そう思っても私の立場ではどうしようもない。
胡丹くんが続ける。「そのためにここに来る必要がなくなりました。」「それで先生に上げようと彼女が自分で編みました。」と言って、白とねずみ色の太い糸で編んだマフラーを私に手渡した。彼女は依然として無言である。「謝謝。」と私は彼女に言った。彼女は依然として堅い顔をしたまま一礼して、胡丹くんに見送られて部屋を出て行っ た。
手の中のマフラーは暖かい感触を私に伝えているが、彼女とは結局話らしい話をしなかった。彼女は終始堅い顔をしていたけれど、きっと基地クラスで進級できなかったことを自分の落ち度による恥と思い、猛然と気にしていたのだろう。もう少し何とか言って慰めれば良かった。
だけど、基地クラスの制度に従ってここに出入りしていたが、別のところに移ったらその制度がないので来る必要がなくなりましたと言うので、良いのかね。ま、そうだろうけれど、それはつまりここに来たくて来ていたわけではないのだ。制度で強制されて来ていただけなのだ。来る気は元々ないのだ。そんな子なら、気にすることもないじゃないか、と思いながら、再びMacに戻ってプライマーを設計し、それが目的の遺伝子以外とは反応しないことを確かめながらも、依然としてこだわっていた。やっぱり、ここに出入りしたければ何時来ても良いんだよと、言えば良かった。
その日から急に冷え込んだので、帰る時からそのマフラーを愛用することになった。首の回りに暖かみを感じるたびに、あれで良かったのかなと心がどうしても引っ掛かるのである。
2005/11/22 16:39
タミフルと副作用について
新薬が上市されると、これは人の命に関わることもあるから厳しい基準で評価される。副作用で人が死ぬほどのクスリなら、どうして一口に新薬十年といわれる開発の間にそれが気付かれなかったろうという疑問が起こる。クスリは効き目が大事な一方で副作用も目をつぶって通れないことだからだ。
むかし、製薬会社が出来て最初に薬を作り出した時は、人々が長い間に使って効能が分かっていた生薬から有効成分を取りだし、それを化学合成してクスリとした。やがて生化学が発展して身体の中の反応が詳しく分かってくる。一方で有機化学が発展して、その物質がまだ存在しないという理由だけのために、膨大な数の有機化合物が次々と合成された。これらの化合物を試験管の中での生化学反応に加えることによって、反応を阻害する薬、助ける薬が次々とスクリーンされて役に立つ薬が開発されてきた。微生物による感染症を防ぐ薬も、大昔の梅毒に効くサルバルサンから始まって、最近まで同じような方式で開発されてきた。
最近の新薬開発は大分変わってきたと言う。生体の反応は、それが生体内の自然の反応でも、外来微生物による侵襲にしても分子と分子の反応である。片方の分子の立場に立てば、相手となる分子を認識する反応である。分子が相手となる分子を認識するにはそれぞれが互いに具合良く、言ってみれば鍵と鍵穴のようにうまくはまりこむ関係が必要である。このとき、それぞれの分子の間で、水素結合、静電結合、ファンデルワールス結合が出来る。というか、それが出来ないと、二つの分子の間が一見すると鍵と鍵穴のようにうまくはまりこんでいても、結合が成立しない。
このことが分かってくると、それならコンピュータを使って、細胞膜にあるあるタンパク質受容体にぴったりはまりこむ化合物を検索、あるいは設計すればよいことになる。この受容体とそれと反応する分子とが反応することで生体反応は引き起こされるのなら、もしこの反応が好ましくない場合には、それを阻害すればよい。
受容体に反応する分子をリガンドとよんでいるが、受容体と結合して反応の手を塞いでしまう物質を設計しても良いし、リガンドと結合して受容体と反応できなくさせても良い。一般にはリガンドをブロックする化合物が使われる。どうしてかというと、受容体と結合して反応の手を塞いでしまう物質だと、受容体がリガンドと結合したのと同じ結果になることがある。その可能性を排除するのは余計な手間が掛かるからである。
今話題になっているインフルエンザウイルスに対する薬は簡単に言うと、今書いたような方法で探されたものである。インフルエンザウイルスはウイルスの表面に、シアル酸(N-アセチルノイラミン酸)を認識するヘモアグルチニンと、シアル酸を切断するシアリダーゼという2種類のタンパク質のスパイクが沢山突き出た栗のイガみたいな形をしている。このヘモアグルチニンがノドの上皮細胞の細胞表面にあるシアル酸を認識して結合し、そのあと細胞への感染を果たして細胞内で増殖する。細胞内で増えた大量のウイルスは細胞膜からエキソサイトーシスにより出て行く時に、自分のシアリダーゼを使ってウイルス粒子を膜から切り離す。
インフルエンザウイルスに対する新薬戦略はこのシアリダーゼによるシアル酸の認識を無力化することにあった。今までの研究に基づきコンピュータで調べると、シアリダーゼにはポケットがあってそこにシアル酸が入り込んで認識されることが分かった。それならそこに代わりに入り込んで、シアリダーゼの結合ポケットを塞いでしまう化合物を見つければよい。
こうやって開発された市販名タミフルは、インフルエンザウイルスの一次感染を防ぐには、原理からして無力である。ウイルスがいったんのどの細胞に感染して増殖して細胞から出てくる時に、もしタミフルを服用していればそこでウイルスを無力化できる(ウイルスを遊離しない)ので、それ以上ひどいことにならないという原理である。従って風邪に掛かったなと思ったら48時間内に服用せよと言われている。
しかもこの薬にはウイルス感染を治す効果はない。ひどくしないだけだが、それでも貴重な薬である。今までのワクチンは、ウイルスが変異を起こすと無力になった。ウイルスの遺伝子の変化がアミノ酸の変化を引き起こしてシアル酸を認識出来なくなるとウイルスは存在できなくなるから、この薬はA、B型のどのウイルスに対しても有効である (C型は9-O-アセチルノイラミン酸を認識するので無力である)。もちろん今怖れられているトリインフルエンザN5H1型が人から人への感染力を獲得したとしても、有効である。
ところで今このタミフルの副作用が大きな問題になっている。
先ほど増殖したインフルエンザウイルスは細胞表面のシアル酸に付いているところをシアリダーゼで切り離されると書いた。しかしシアル酸が細胞の表面に単独で付いているわけではなく、糖脂質や糖タンパク質の糖鎖の先端に付いているので、糖鎖全体としてみると多数の複雑な糖鎖が細胞の表面にあることにある。これらの糖鎖は細胞表面の飾りではなく、それぞれが大事な役割を持っていることがだんだん分かってきた。実はまだ分かっていないことの方が多いので、私などの出番がまだあるのである。
たとえばシアル酸を持つ糖脂質はガングリオシドと呼ばれているが、このガングリオシドは脳に多く、このガングリオシドを作ることの出来ないネズミを人工的に作成すると、このネズミは神経の発達がおかしくなって突発的に死んでしまう。具体的な作用機作はまだ分かっていないが、ガングリオシドの重要な役割を示唆している。
一方でこの数年の間に、シアル酸を認識するタンパク質(SigLec)が何種類も細胞表面に存在することが知られてきた。このようなタンパク質とシアル酸を含む糖鎖との相互作用が、細胞の正常な機能のために大事なことに違いないことは容易に想像できる。結合反応があれば、それを解除する反応もなくてはならない。つまり、シアル酸を切るシアリダーゼが働かないと生体は困るわけで、実際私たちの細胞には多くの種類のシアリダーゼがある。
タミフルはインフルエンザウイルスのシアリダーゼに結合して増殖後の拡散をブロックするだけではなく、生体内のシアリダーゼに結合してその機能を阻害する可能性がある。実はインフルエンザウイルスシアリダーゼの認識する糖鎖は、シアル酸単独ではなくシアル酸を含めた糖鎖である。生体内のシアリダーゼも同様である。シアル酸を含む糖鎖には沢山の種類がある。したがって、タミフルが両者を全く同じように阻害するとは思えないが、それは実際に調べてみないと分からない。
というわけで、タミフルの副作用(正確には副作用ではない)は生命科学を知っていればある程度予測されることである。製薬会社も当然これは知っているだろう。もし生体内のシアリダーゼとタミフルの相互作用を調べていて、その作用を全く阻害していないことを記述しているなら、発表して欲しい。今回の副作用は全く新しい生体反応の存在を示唆しているわけだから。