2005/11/26 18:47
一般の庶民はみんな親切
瀋陽日本人教師の会というのがあって、私たちはそこに入れて貰っている。日本語を教える日本人教師が異境の地で互いに互いに助けあうという目的で作られている。私たちのような「日本語を教えないけど日本人教師」が入って二年経ったこの秋、会員資格は「この地で日本語を使って教育・研究にあたる日本人教師」という具合に会則が改められた。私たちも今は大手をふるって会員である。
日本のNGOの助けを借りて、数年前にビルの3階を借りて日本語資料室というのが開設され、今、教師の会はここを拠点として活動している。毎月一回定例の集まりがあり、病気や出張などのやむを得ない理由を持つ人たち以外は出席する。出席率は何時も9割を超えている。
この会は会のスムースな運営のためにいろいろの係が置かれているが、会員は誰もが何かしらの役割を果たすことが求められている。このような会は珍しい。大抵の会は運営のための係を数名置いて後は何も求められない一般会員で良いことを考えると、この会はとてもユニークである。私もそのユニークさが気に入って、この教師の会を少しでも助けたいという気になってしまったのだった。
代表と代表を助ける連絡係、日本語クラブ編集係、ホームページ係、日本語教育研修係、日本語弁論大会係、書記、会合運営係、資料室係などがある。最初の1年、私はホームページ係をしながら日本語クラブの編集に携わったが、二年目以降はホームページ係専門である。資料室係は昨年度から作られて、この係の努力のおかげで、資料室が格段と整理されてとても綺麗になった上に使いやすくなった。
日本語の辞典、辞書、教科書、文学書、教養書、娯楽書、ビデオなどが壁一面に置かれていて、この会の会員はもとより、各大学・学校の学生でここに登録をした人には自由に借り出すことが出来る。従って日本語の先生に連れられて日本語を学ぶ学生はここをよく訪れることになる。
1階にはカレーを出すレストランがあって、普通の日にはこの店の女主人が3階も管理しているが、もちろん、ついでである。それで、教師の会では毎週土日は、午前の部、午後の部と分けて、会員の先生たちに日直を割り当てている。現在会員は三十数名いるので、半期に二回くらい当番をすればよい。それでも希望者のない時は、資料室係の先生が自発的に当番を買って出ている。資料室係の先生がたの真面目さには脱帽ものである。
土曜日の午前中は私たちは大学でセミナーをやっているので、資料室の日直は大抵が日曜日である。今まで何度も日直をしたけれど、来訪者はほとんどない。初めて資料室を訪れて利用者になる学生には利用証を発行する。その利用証を書いてラミネート加工をするやり方を何度も教わっているにもかかわらず、まだ初めて利用するという学生の来たことがなく、何時も肩すかしにあっていた。日曜日よりは土曜日の方が学生の利用率が高いらしいというので、今回は土曜日の午後、資料室の当番をすることになった。
今日の午前のセミナーは時間が掛かってやっと12時に終わり、私たちはタクシーに乗って資料室に出掛けた。交代時間は1時だが、着いたらまず1階の店でカレーを昼食に食べようという魂胆である。「小北関街にやって」とタクシーに言うと今日は1回で通じた。そのあと運転者がなにやら言うので、「ごめん、ごめん、日本人なんだ。」というと、「日本人なのか、もう何年ここにいるんだ?」と訊く。このくらいは分かるので「2年さ。」までは良かったけれど、そのあとは「ちんぶんかんぷん」だった。
それでも、こちらが中国語で話しかけると、彼は「ティン・ブ・ドン」という。これは「聞いても分からない」という意味で、私たちが中国人に話しかけられて、真っ先に言う言葉がこれである。中国語で話しているつもりなのに、中国人に言われてしまって、こちらは目を白黒である。いまだに言葉の道は遠い。
ちなみに、「ちんぶんかんぷん」は大辞林によると「珍紛漢紛」と言う字をあて、「言葉や話がまったく通じず、何が何だか、さっぱりわけのわからないこと」書いてある。これは、中国語の「ティン・ブ・ドン。カン・ブ・ドン」がもとであると、なにかで読んだことがある。「ティン・ブ・ドン。カン・ブ・ドン」を早口で発音すると「チンプンカンプン」になる。
「ティン」は「聞く」「ドン」は「分かる」であり。「カン」は「看(見る)」なので、「聞いても分からない、読んでも分からない」である。ここに暮らすと中国語がもとに違いないと言うことを実感する。
さて、午前の日直の先生から引き継ぎを受けて妻の貞子と二人で資料室にいた今日の午後は、今回も期待に反して訪問者が一人もいなかった。1階のレストランが閉まる3時半頃、それでは私たちも店仕舞いして帰ろうかと言うことになった。それも帰るなら、店の女主人が店を閉めて帰ってしまう前がよい。自分で鍵を閉めるという手間が要らないからである。それであわただしく身支度をして「それじゃ、お先に。」と店を出てタクシーに乗った。
タクシーが2ブロックくらい行ったところで、湯沸かしの電源を切るのを忘れたことに気付いた。戻らなきゃいけない。だけど運転手に何と言ったらいい?
窮すれば通じるとはよく言ったもので、「さっきのところに戻って欲しい。」とは中国語で正確に言えないまでも妻は意を何とか通じさせて、タクシーは店の前に戻った。「待っていて。」と私独りが店に戻ったが、店のガラス戸は中から自転車に使うチェーン錠が掛けられていて中に入れない。でも、店の女主人は中にいることは確かである。しかも3階に。
ガラスドアの隙間から私は思いつく限りの中国語と日本語で、私が用事があって戻ってきていることを叫び続けた。すると、店の外の通りにたむろしている人たちがわらわらやってきて、一緒になって、「おーい、開けて呉れよ。」とドアや窓ガラスを叩いたりしながら、一緒に叫び始めたではないか。この人たちが入って来られないように、彼女が3階で帳簿を付けている間は、店を中から鍵を掛けているというのに。
なかなか叫びは通じない。すると妻を乗せたまま道に停まっていたタクシーの運転手も降りてきて、私の加勢を始めた。私はドアの隙間から叫び続け、彼は歩道から3階に怒鳴り続けたのである、街の喧噪のただ中で。
10分くらい叫び続けたような気がしたけれど、実際は恐らく5分もしないうちに彼女は叫びを聞きつけて降りてきて、鍵を開けて私を入れてくれた。それで、忘れた湯沸かしの後始末をやることが出来た。
中国人はこういうときにとても親切だと聞いていたがその通りで、困った私を何人もの見ず知らずに人たちが助けてくれた。日本でもきっとそうだろう。庶民はどこの国でも気が良くて親切なのだ。
同じタクシーでアパートまで帰って、15元の運賃に20元を出して、おつりの5元を「貴君のよ」と言って運転手にあげた。ドジなことをした日だったにもかかわらず、こちらもなにやら良いことをした気になって、気持ちが和んだ一日だった。
2005/12/01 17:21
嬉しいはなし
今日の午前中、院生がサーマルサイクラーの字が見えなくなりましたと言ってきた。この機器はDNAのPCRを行わせるDNA増幅装置で、今の私達の研究室の一番大事な機器である。この1台がほとんどの院生の実験に使われているので、学生の増える来年の2月までにはもう1台必要で、今それを買うための工面をしている。1台どころか、今のが壊れたら2台買わなくてはならない。
今時の機器は表に液晶を持っていて、そこに情報が示される。今の設定だと、最初のサイクルが92度30秒、次いで63度60秒、などと設定した情報がこの液晶画面に出てくる。だから機器がたとえ正確に温度制御されても、その内容が読み取れなければ機器は使えない。
実験室に機器の名前を見に行くと嬉しいことには、これを買った時の会社の名刺が貼ってあった。この機器はもちろん日本から持ってきているので日本の会社だが、買ったのは6〜7年前のことだった。
この名刺にはe-mail addressも載っていたので、「まだ通じるかなア。通じて欲しいものだ」と思いながらも、mailを書いた。
「突然失礼致します。大分前にASTECのPC707-02を購入しました。今日突然液晶が暗くなり字が読みにくくなりました。どのようにしたものでしょうか。
ところで、購入時私は東京工業大学にいたか、あるいは日本皮革研究所に移っていたか、と思いますが、2003年に機器ごと中国に渡って、瀋陽薬科大学で研究・教育に携わっています。従って液晶の交換が必要でも、機器を日本に送ることも、技術者の方にこちらにきていただくことも容易ではありません。
液晶の取り替えと言うことだけで、それが素人にも出来ることなら、代わりの液晶を(この次日本に行くのが2月です)日本で購入して持ち帰ります。
それとも、もうすぐに液晶が機能しなくなるのでしょうか。そうなると私たちの研究は完全に止まってしまいます。液晶だけでなく、私達の研究室の研究も真っ暗になります。状況判断と対応をお知らせ下さいませんか。」
今の機器が壊れたらどうしても1台直ぐに必要になる。一方で今の1台では足りないのでもう1台来年2月を目途に購入しようと考えていたが、そうなると近々2台分の資金が必要である、それをどうやって捻出しようか。mailを出したあと、私と貞子は昼のパンを食べながら、相談していた。食欲の出る話ではない。
結局、機器も試薬も研究に必要なもの全ては私たちの年金から買っている。研究を進めるために必要なものは必要だ。買うしかない。と言う分かり切った答えがでたときに、電話が鳴った。
電話にでて「Hello」というと、「Can I speak to Mr. Yamagata?」という。「Yes, he is speaking」と答えた途端に言葉は日本語に切り替わって「ASTECの○○です。」
電話は日本からに違いないが、ここが日本であるみたいに明瞭に聞こえる。「今、いただいたmailに返信を書いたのですが、どうも文字化けしてしまったらしいので電話をしています。先ず、mailを確認して貰えますか?」と言うことだった。
Internet回線が細いのでmailを調べるのに時間が掛かって、その間貞子が代わりに電話で「お世話になります」なんて話している。
mailは すっかり字化けしていたが添付された機器の写真は明瞭だった。電話による説明では「液晶は数年から十年は持ちます。もちろん液晶の故障と言うこともありま すが、考えられる原因は、一つには温度の低下です。粘性が高くなると液晶表示が出にくくなることがあります。もう一つは、添付した機器の写真で分かるネジ がありますね、これを廻すと液晶の明度が調節できます。それかも知れませんよ。」
「もし液晶が駄目になっていたら、それを交換することも出来ますよ。でも、先ずネジを調べてみて下さい。」と言うことだった。「やってみて直ぐに報告しますから。」と答えた私が直ぐにネジ回しを持って実験室に向かったのは言うまでもない。
時間はちょうど午後1時で午前中使われていた機器は空いていた。外は雪でも暖房のために室温は22度ある。温度が低いからという理由ではあるまい。液晶表示調整ネジの問題か、あるいは液晶が壊れたかだ。
「今から直してみるから ね」と実験中の院生2人に声を掛けて、機器のスイッチを入れた。液晶には字が出てこない。そこで機器の後ろのねじを見つけて回すと、液晶盤がすっと白く なって字が黒々と浮き出てきたではないか。もうすこし回すと字も明るくなって地の色にとけ込んでしまう。ちょうど良いところで止めると、表示を読むのに何 の問題もない。
私の手許を見ていた院生は「そういえば昨晩の掃除の時にネジに触ってしまったかも知れません。」という。良かった。ともかく直ぐに直ったし、機器を2台買わなくて済んだ。
教授室にも戻って来てからASTECの○○さんに直ぐmailを書いた。機器が直ったことはもちろんだが、何よりも心を明るくさせたのは、この日本の機器会社の対応の良さと速さである。島津の分光光度計も、MS機器の画像解析装置も、Coronaのプレートリーダーも、故障と思われた時に問い合わせると直ちに返事が来た。二十三年前に買ったニコン顕微鏡も、部品在庫はとっくになくなっているのに、修理をしてくれた。一方中国の会社ではこのような対応は全く考えられない。
自分たちの製品と仕事に愛 着を持ち、責任感の強い企業戦士たちの存在は日本の大きな財産である。彼らは日本の誇りだ。構造計算を偽造し震度5にも耐えられないマンションを発注し、 設計し、建築した人たちが日本人の中にいることは大きなショックだったが、一方、大方の日本人はこのように責任か溢れる人たちなのだ。中国が今の勢いで発 展しても、信頼を得るようになるのはまだまだ時間が掛かるだろう。
2005/12/02 11:22
遺伝子組み換えについての疑問
ネットの上でお友達のみみたさまから質問をいただきました。
「最近遺伝子組み換えの講義を聴きました。
素朴な疑問がいっぱいですの。
遺伝子を組み込む時、DNAのつながりのどの場所でも適当に入れるのかしら、それで他の遺伝子が壊れないのかしら。」
掲示板に書くには長いので、ここに書きます。
「答えは、その通り。」「組み込まれる遺伝子は勝手に何処でも入ると思われています。その結果、ほかの遺伝子を壊すこともあるでしょう。」
細胞に入れるための組み込み遺伝子(遺伝子そのものや、改変遺伝子や、遺伝子発現を抑える遺伝子も含めて)を作成するのは今ではこの分野の駆け出しの学生でも出来ます。細胞に入れるのも簡単です。
その前に、遺伝子はDNAである、と言うのは常識になっていますね。染色体はDNAのつながりですが、ヒストンタンパク質がくっついて、DNAを小さなスペースに巻き込むのに役立っています。DNAの長い配列の中には、遺伝子として使われる配列と、使われていない配列がある、と理解されています。
この場合遺伝子と言っているのは、mRNAに転写されてタンパク質のアミノ酸配列を決めるDNAと、転写されてリボソームRNAや、転移RNA(tRNA)を作るDNAを指しています。
つまり遺伝子はDNAです。ある特定の遺伝子そのものを入れてその遺伝子で決まるタンパク質を発現させたいとか、ある遺伝子の発現を抑えたいとか、様々な目的に合わせて、DNAをいじることが出来ます。
DNAを切ったり、つないだり、その配列を調べたりするのは、今はとても簡単な技術です。DNAに何をしたいかを考えて、DNAをいじって望みの形にして、ベクター(運び屋)に入れます。DNAの配列の上流には、細胞に取り込まれた時に、そのDNAが発現されるようなプロモーターと呼ばれる配列をつなぎます。
入れたいDNAを細胞に取り込ませるのは簡単です。しかし、染色体(DNAが繋がっていてその所々が遺伝子と呼ばれている)の何処にそれが入るのかをコントロール出来ないのが現状です。場合によっては働いている遺伝子の間に入ってそれを壊したり、何か望まないことを始めるかも知れません。
みみたさまのご心配の通りです。
実際、ADA遺伝子が欠けていて重篤な病状を示すSCIDでは、はじめは遺伝子を導入して治療が成功しましたが、その後続けて癌が出来るのが分かり今では中止されています。
癌が出来たと言うことは、取り込まれた遺伝子が、大事な遺伝子の配列の中に入って、その遺伝子の作るタンパク質の機能を失わせてしまい、細胞が癌化したと考えることが出来ます。
大事な遺伝子の機能が失われて、癌が起こることは今ではよく知られています。このような大事な遺伝子を、癌抑制遺伝子と呼んでいます。
私は知りませんが、この遺伝子治療で運び屋(ベクター)に用いたアデノイウルスが、染色体の特定の場所にDNAを運んだのかも知れません。2例だけですが、もし同じところに運んで発癌を引き起こしていたのなら、そしてそこに行く原因が分かれば、逆に、特定の望む場所にDNAを導入する方法を見つける端緒になるかも知れません。
もう一つの遺伝子治療の問題は、DNAを細胞に入れることは出来ますが、入れる相手の細胞を限定できません。「DNAを入れたい細胞に全て漏れなく、一定の数だけを入れる。そして入れたくない細胞には決して入れないこと。」これは現在達成できていません。
これが、癌は遺伝子の変異が原因であることが判った現在でも、癌を引き起こした変異遺伝子を狙った遺伝子治療が実際には出来ない理由の一つです。
以上のように遺伝子治療は問題が山積みですが、研究は一つずつ障害を乗り越えていくでしょう。いつかは現在の障害が除かれて、遺伝子治療で病魔から救われる人たちが増えてくると思います。
私たちがやっている研究は、糖脂質の働きを調べるために、糖脂質を作る酵素タンパク質の遺伝子を細胞に(あくまでも培養細胞が相手です)入れたり、その遺伝子の働きを抑えるDNAを細胞に入れたりしています。
これが生体分子の働きを知 る一番確実な方法です。10万くらいあると言われているタンパク質の働きの全てが知られてはいませんし、同じように沢山あるタンパク質以外の分子の働きも 全てが分かっているわけではありません。それで、世界中で先を争ってこれらの研究が続けられています。
タンパク質に転写されたり、リボソームRNAに転写されたりして役立つ遺伝子はDNAの数%にしか過ぎず、残りはジャンクDNAと言われていました。今この残りのDNAも何か役立っているのではないかと言われるようになりました。これは別稿で書きましょう。
2005/12/03 15:03
結婚60周年のお祝いに訪ねて
加藤先生にくっついて瀋陽の街を歩いていて、夫婦ともに戦前日本語教育を受けた遅さん・苑さんと出会った話は以前書いた。その後訪ねて行ったら彼らの住宅は新規区画開発のために取り壊されていたこと、それでも移った先を尋ね当てて訪れたことも前に書いた。
彼らは第二次世界大戦の終結した1945年の10月10日に結婚して、このたび60周年を迎えている。私たちはお祝いに行きたかったけれど、その日は都合がつかずお祝いの電話を研究室の秦くんに掛けて貰って、何時か訪ねることを約束した。
訪ねると言っても私たち二人では話が出来ないから加藤先生の都合次第である。ちょうど加藤文子夫人が15日間のビザなし滞在で瀋陽を訪れていた先週末に、私たちは遅さん・苑さん宅を訪ねることが出来た。60周年のお祝いと思って知恵を絞ったけれど、親族ではない知り合いである。高価な贈り物を持って行くなんて考えられない。それで先日妻のバースデイケーキを作ったケーキチェーンストアの好利来で、「祝結婚60周年・遅・苑夫婦」と書き込んだケーキを注文した。 その日の午後加藤さん夫妻 と待ち合わせて、遅・苑さん二人のうちに出かけた。加藤さんはその後一度一人で彼らのうちを訪ねているので案内役である。加藤さんはバスに乗れば1元で行けるし、行き先を運転手に言って通じさせる手間も掛からないと言う理由で何時もバスを選ぶけれど、今回は私が大きなケーキの箱を抱えていたからタクシーに なった。タクシーを止めたのは大通りのバス停に近くで、彼らのうちからは大分離れている。それでも、私たち3人は加藤さんに付いていくだけでよい。加藤さ んは私たちの先を走り歩いて、訪ねるうちが何処なのかを探している。 結構迷った挙げ句うちを訪ね当てると、お二人のほかに娘さんの一人も在宅だった。私たちは記念日には来られなかったけれど60周年のお祝いに来たことを、まっとうな中国語は加藤さん夫妻からしか出なかったものの、それぞれ口々に述べて再開を喜んだ。
遅さんが言うには、「テレビで先生を見たよ。驚いた。」とのことだ。遼寧省政府がこの地で働く外国人を招いて友誼賞や栄誉賞を与えた行事を見ていたら、「先生が出てきて、そりゃ驚 いたよ。」と嬉しそうに話す。これは事実で、9月終わりに私は遼寧省から呼ばれて賞を貰った。外国人の会社の経営者はこの地に金をもたらすから一回り大きな金色のメダルの友誼賞を貰い、大学で教えている私たちは銀色の小さいメダルの栄誉賞を貰ったのだった。テレビクルーが来ていたけれど、まさか私が映って いるとは思わなかったし、ましてそれをテレビで見て驚き喜んだ人たちがいるなんて嬉しい驚きだった。
今回は事前に知らせず突然訪ねてきたれけれど、それは予め知らせると食事の支度をさせてしまうことになるので、それはいけないと考えて前触れなしに訪れたのだった。 それで、お祝いの品々を上げて直ぐに帰るつもりだったけれど、結局引き留められてしまった。そして遅さんは娘たちに応援に来るように電話をしたらしい。私たちの来た時に両親の世話 をするために日中はここにいるらしい三女のほかに、長女、四女がそのうちにやってきた。すでに最初と二回目の訪問で互いに知っている。長女は入ってくるなり、テレビを指して、私も指して、テレビで見たと言うことを私に満面に笑みを浮かべながら伝えている。受賞を喜んでくれる人たちがいて本当に良かった。
加藤さんは悪のりして「この先生は私なんかと違ってえらーい人だから表彰されたのですよ。私なんか貧乏人の百姓で、全然身分が違うんだから」なんて言ってふざけている。「だけど文 化大革命の頃は、貧乏百姓が人民の一番上で、学者知識人は最低にランクされて、とんがり帽を被らされて引き回されたんですよ。世が世なら私は最高の地位にいるんですがねえ。」とにやにやしている。嘘も良いところで、外国人友誼賞は大学によっては半年いるだけでも受賞者に推薦される。薬科大学は大学の格付けが低い上に、人数が多いから順番がなかなか回ってこないだけに過ぎない。
にやにやしながらも加藤さんが一瞬はっとしたのは、遅さんも文化大革命の時には、「戦前日本人と付き合った、好い思いをした、外国の手先だ。」と罪状が並べ立てられて総括されたことをちらっと聞いたことを思い出したからだ。
「結婚60年 の間に何が一番楽しかったですか?」という加藤さんの質問に、奥さんの苑さんは「子供で部屋が一杯だったとき(満堂)。」と答えていた。6人の子供のうち 瀋陽には4人いて、いまここにその3人がいる。同じ質問を遅さんに振ったけれど、遅さんは「ない。」と言うことだった。
大連市立実業学校商科を卒業して、森永製品販売株式会社にいた頃、ほかの中国人は50円くらいの月給の時に、彼は80円を貰っていて、これは日本人並みだったという。「かけうどんが1杯8銭で、親子どんぶりは80銭。カツ丼が1円で、鰻丼が1円20銭 だった。鰻丼は美味しかった。」という。繰り返してにこにこしている、味を思い出しているのだろうか。「エビ、いかの天ぷら、カレーも食べた。納豆も美味しかった。」ということで、関西人の加藤さんは「妻は納豆が嫌いですよ、私は食べるけれど。遅さんは納豆が好きなのですか?」 「好きでしたよ。」「ここにあればまた食べたいくらい好きですか?」「ここにあれば納豆が食べたい。」という返事だった。この次日本から納豆を持ってくるかなあ。大方の中国人は嫌いだから、持ってきて、もし厭な時は皆に嫌われてしまうなあと思う。 森永にいた時長春の支店にも1年行って、その時には小杉支店長のうちに一緒にいて食事は支店長の家族と一緒に食べたようだ。小杉支店長の奥さんからは優しくして貰って、「日本の女性は本当に優しい。世界一の女性だ」と言って、妻の貞子や史子夫人の顔を見る。二人は「そりゃあ、昔はねえ。」と異口同音に答えたが、私たちも聞かれれば 同じに答えるに決まっている。
私たちと話す機会が出来てからは日本語を60年ぶりで使い、そして戦前のことを良く思い出すようになったらしい。思い出してみると懐かしい思い出ばかりで、世界ががらりと変わってしまった新生中国以降は、戦前に比べたら生彩のないものだったのではないか。だから、結婚したのは1945年だったが、「それ以降の60年 の間の一番楽しい思い出は何ですか?」と聞かれて「没有」とぽつんと答えたのだろうか。「今は非難される戦前の日本占拠時代でも、そのころそこで自分の青 春時代を送った人たちに取っては、一番輝いていた時代だったのですよ。」と以前聞いた加藤さんの言葉が、遅さんの思い出を聞きながら、私の脳裏に蘇ってい た。
2005/12/08 13:36
みみたさまのご質問に答えて その2
二つ目の質問は、「(染色体の中の)DNAの大部分は(遺伝子として)使われていないといわれていたけど、実は重要な役目があるんじゃないかという新説が出たとか。」というものでした。
染色体にあるDNAは1本の二重鎖DNAで、タンパク質の配列を指令する部分のDNAを遺伝子と呼んでいます。細胞にはタンパク質を作る工場であるリボソームのrRNA(rはリボソーム)や、アミノ酸をつけて運ぶ転移RNA(tRNA)などが必要で、これはもちろんrRNAやtRNAの遺伝子であるDNAから転写されます。mRNAとなってリボソームでタンパク質合成を指令するか、リボソームでそのままのRNAとして役立つかの違いはありますが、RNAに転写されるから遺伝子と呼んでいるわけですね。
DNAの端から端までがこのような遺伝子ではなくて、遺伝子と遺伝子の間はタンパク質やRNAに転写されない部分で、Non-coding regionと呼ばれていました。ヒトでは遺伝子に対して数倍のNon-coding DNAがあるとされていて、これが役に立たないジャンクDNAと言われてきたものです。
タンパク質を作る時、遺伝子であるDNAはその配列がそっくりRNAに転写されてプレmRNAになりますが、実はその全部がタンパク質を作るために必要ではありません。この不要な部分を核の中の小さなRNAの助けを借りて取り除き、残りをつなぎ合わせます。これをスプライシングと呼んでいます。取り除かれた配列は介在配列イントロンと呼ばれています。こうやって成熟mRNAとなって核からタンパク質製造の場所である細胞質に運ばれます。
この遺伝子の一部としてRNAに転写されながら捨てられてしまうイントロンは、遺伝子を発現するためのエンハンサー配列として役立つものも知られていますが、言ってみれば先ほどのジャンクDNAの仲間扱いをして良いでしょう。何故、こんな無駄なことをしているのだろう、と長い間議論されてきました。ちなみに大腸菌のような生き物には、このような無駄はありません。
このようなDNAは長い間、と言っても何千年もではありません、DNA配 列の解読がされることによって分かったことなので、近々この十数年のことですが、何故こんなものがあるのだろうと言うので様々な仮説が出されてきました。 不要な、無駄なものを持つことは生存に不利になると考えられるので、何かが存在する以上は意味があるはずだという考え方です。従って、これが進化に役立っ たという説がありますが、このような説が当然出ることはお分かりになりますね。この仮説の弱点はそれを実証できないことです。そうかも知れないけれど、だ けどさ、無理しているのではないのと言うのが大方の反応でした。
さて、先ほど、「mRNAの成熟課程に核の中の小さなRNAが関与して」と書きましたが、この成熟課程にすくなくとも数種類のRNAが関与していることが知られています。このRNAも当然しかるべき配列のDNAから転写されているわけで、そのようなDNAは遺伝子と言うことになります。
このほかに10年くらい前に、小さいRNAがタンパク合成の場所でその合成を阻害したり、そのmRNAを壊したりすることで遺伝子発現を調節していることが見つかりました。これはマイクロRNA(miRNA)と呼ばれています。はじめは特殊なものと思われましたが、調べるとこのようなRNAが結構な数あることが分かってきました。しかも、先ほどのいわゆるジャンクDNAから転写されるものだけではなく、mRNAの成熟課程で捨て去られるイントロンから出来てくるものもあることが分かりました。
つまり転写されないので無駄なジャンクDNAと思われていたところが、遺伝子の発現調節に使われていることが分かってきたのですね。
2003年までには300種のmiRNAが見いだされています。今年のCellという最高に信用度の高いジャーナルに、ヒトにはこのようなRNAが1,000種あるだろうと報告されました。このmiRNAはゲノム配列の中から構造を予測して探すのですが、この探し方を変えることでmiRNAは1万種以上存在するのではないかと、今年の初めの国際学会で議論されたと言うことです。今では論文となってジャーナルに載るよりも、国際学会でホットな話題が発表されるのが早いことが多いのです。少し前までは、論文にする前に人前で話すと人に取られてしまうので、国際学会はすでに論文で報告したことだけを話すお祭りでした。
このmiRNAは配列特異的に(塩基対を作って二本鎖が出来ることです。この塩基対を作ること、つまり片方の配列が決まればそれと二本鎖になる相手の配列も一意的に決まると言うのが、分子生物学というか、DNAの持つ一番大事な秘密なのです。相補的な関係と呼んでいます)、mRNAを探し出してRNAの二本鎖を作り、そのmRNAを切断して壊してしまいます。このほか、タンパク質の翻訳を阻害したり、さらに最近では転写レベルでの遺伝子発現の調節をしているという証拠が出され、今やこのNon-Coding RNAはこの世界の一番ホットな関心を集めています。
と言うわけで、「長い間(染色体の中の)DNAの大部分は(遺伝子として)使われていないといわれていたけど、実は重要な役目があるらしい」というのが今の一番新しい考えです。このような魅力的な領域には多くの優秀な人たちが集まりますから、数年のうちには全体像がはっきりするでしょう。
と言う具合に生命科学も日進月歩です。
遺伝子発現の調節がどうしてそんなに大問題なのか、ということを、もう一回、一寸だけ書きますね。
2005/12/09 16:55
おまけのおはなし
遺伝子発現の調節がどうしてそんなに大問題なのか、ということを、もう一回、一寸だけ書きますね。
ヒトゲノム計画が終了して、人の遺伝子の数が2万2千個と見積もられました。数年前には10万前後と思われていて、まさかこんなに少ないとは誰も思いませんでした。大腸菌で4,288個。線虫で19,099個。トウモロコシが3万。そしてヒトが22,000個。まさかこんなに少ない数の遺伝子で高度な知能の制御機構が発達しているなんて。
ヒトのタンパク質の総数は約10万個と見積もられています。遺伝子がタンパク質の配列を決めますから、タンパク質の数くらいの遺伝子があると初めは思われたのですね。
少ない数の遺伝子で多数のタンパク質を作る秘密は、前に書いたスプライシングです。mRNAの 成熟の時に不要な介在配列イントロンが捨てられると書きました。イントロンが沢山あるとき、必要な部分(エキソンと呼びます)をつないでいくのですが、順 番にエキソンをつなぐか、エキソンの一つを飛ばしてつなぐかなどの方法によって、遺伝子は同じなのにタンパク質の配列が同じではないタンパク質が出来て来 ます。それにしても全く新しい機能のタンパク質を生み出すことは出来ません。
ヒトが持っている高度な知 能、創造性、感情など、全ては細胞内あるいは細胞外の化学物質の相互作用の結果です。この化学物質にはヒトの遺伝子が指令して合成したタンパク質も入って います。でも、恐らくそれだけでは、これだけの高度なヒトの生命活動を説明できないと殆どの人が思っていたところに、non-coding DNA領域から沢山のRNAが転写されていて、しかもまだ全てではありませんがmiRNAとして遺伝子の発現を制御することが分かったのです。ですから、いまは高度な生命現象を、実はこのnon-coding RNAが握っているのではないかと言うことで世界中が沸き立っているのです。
non-coding RNAを生み出すところはジャンクDNAと言われていた部分とイントロンですから、(染色体の中の)DNAの大部分は(遺伝子として)使われていないといわれていたけど、「実は重要な役目があるんじゃないかという新説」となったわけです。
ところでこのmiRNAの発見と並んで、同じ方法で遺伝子発現を人為的に操作する技術が導入されて、生命科学に大変革をもたらしました。というのは、10万 と言われるタンパク質、あるいは2万2千個と言われる遺伝子のどちらを考えても同じことですが、ゲノム解読が済んでも、これらの全ての機能が分かったわけ ではありません。これらの機能を調べる必要があります。その方法として、タンパク質を指令する遺伝子を、新たにある特定の細胞に大量に発現させるか、ある いはそれを壊して何が変わるかを見るのが一番確かな方法です。
遺伝子に適切なベクターをつけて細胞に入れて発現させるのは、一番最初にも触れたようにかなり簡単な技術です。しかし、遺伝子の発現を抑えるのはそんなに簡単ではなく今までに様々な方法が出ては、消えています。消えるのはもっと効率の良い方法が出されるからです。
先ほどの例でおわかりのように、遺伝子発現はmRNAのレベルでそれと相補的な配列を入れてやれば、mRNAを壊せるので、抑制できます。外から入れるRNAは安定ではないので、どうやって入れたらよいかと言うのが悩みでした。
研究が進んでmRNAと相補的な配列ではなく、それと同じ配列でも抑制効果があることが見つかり、さらには二本鎖を入れても良いことが分かり、それがどのようにして目的のmRNAを破壊するかが調べられ、ほぼmiRNAの作用と同じやり方でmRNAを切断して壊すことがわかりました(この方法全体をRNAi=RNA interferenceと呼んでいます)。
適切なプロモータ配列をつけたDNAを細胞に入れれば、それは細胞内でRNAを作り続けます。mRNAと相補的な配列を生み出すようにこの DNAを設計すれば、これは、永続的に細胞の中で狙った遺伝子を壊し続けます。このようにして外から加えてmRNAを壊すやり方をsiRNA(small interfering RNA)と呼んでいますが、今私たちの世界では時代の寵児です。猫も杓子も、そして私たちまでも、これを使っています。数年前にはsiRNAを使った論文は一つもなかったというのに。
そしてこのsiRNAは、抗ガン剤として、C型肝炎の治療に、そしてそのほかの病気の治療に使えるのではないかと世界中が色めきたっています。勿論、薬物を狙った細胞や組織だけに運び込む技術(ドラグデリバリーシステム=DDS)が先行しないと、効き目も薄いでしょうけれど。
と言う具合に生命科学も日進月歩です。目が離せませんよ。
2005/12/11 17:25
ブログ依存症候群です
恐れていたとおり、ブログを始めたらホームページのエッセイを書くのがとても困難になってしまった。ふだん2500字前後で書くのに2時間近く掛かる。その時間はともかくとして頭に何も無しでPCに向かうわけにはいかない、導入、主題、結論が頭の中に出来ていないと書き始められない。
ところがブログという手軽 なコミュニケーション手段を手に入れたら、考えようと思っても考えが細切れになってしまって、エッセイの纏まった中身が浮かんでこない。ブログを手軽、と 呼んではブログを書いておられる方々、あるいはブログの感覚で日記を書いていらっしゃる方たちに申し訳ない。でも、私の書いているブログは、あらかじめ考 えておくこともなくPCに向かうと15分もあれば書けてしまう。
このブログは、教師の会が 瀋陽という異境の地で「日本語教育に携わっている日本人教師の涙と愛の物語」を教師の会のホームページに載せたいと思い、しかし、なかなか実現できないで いるときに、それぞれにブログを書いて貰ってそれにリンクするだけでいいのじゃないという示唆を貰った。
現場の声を発信したいと考え出して1年以上たっている。もう待てない。その時既にブログを瀋陽に来て始めて1年という先生が二人いるのを知っていた。それで二人の了解を取って、ホームページに「日本語教育現場の声」と銘打ってリンクを張った。女性教師Aさんと男性教師Bさんである。日本人教師が三十数人いるのに二人だけでは淋しいので、私のこのホームページにもリンクを張って男性教師Cと名乗った。
そしてBさんに次の教師会では、キャンペーンを張ってブログ仲間を増やすことを考えましょう、と連絡した。Bさんは迷わず、ブログの作り方を皆に教えるに当たって、まずHP係の間でブログを作ろうというキャンペーンを始めた。HP係は今年度から増やして、教師の会のいろいろな係ごとから一人が参加しているので7〜9名いることになる。
そしてBさんは名指して、まず私もブログを作りなさい、HPに 書いているのと自ずと違う面があるから、是非やりなさいと命令してきた。今までブログみたいに忙しいやりとりが日常になるようなことはまったくやる気がな かったのに、このときは仲間のBさんの顔を立てて、ま、やってみるか、と思ってしまった。見かけはもうちょっとしっかりいるので皆だまされているが、実は 昔から軽佻浮薄を地で行く男なのだ。
誘われたとおり、早速Yahooで作ってみた。それで自分のサイトを見ると、書いた字面の字の間が所々空いて見にくい。他のはどうだろう。それで既に馴染みの女性教師AさんのDoblogを開けてみた。NTTという大会社なのに、これがとても重くて扱いにくいのだ。IDを登録しているうちに、二回も別のIDで登録してしまった。それなのに自分の書き込み画面にたどり着けない。
たまたまinfoseekにアクセスして見て、ここにもブログを作った。ここが楽天であることは作って始めて知った。そして翌日、男性教師BさんのExciteを開けてみるととてもスマートである。直ぐに登録して書き込みをした。使いやすい。
この楽天は自分のブログのトップに楽天というマークがでんと出て来る。他のブログではこういうことはなく、それに比べると垢抜けないけれど、それが私の体質に合ったのか、Yahooのブログと並んで、楽天にもふたつ目の書き込みをしてしまった。まだこの時点ではどれにするか決めていなかったのである。三日目はどうしてか楽天だけに書き込んだ。
さて、Bさんはブログを人に勧める音頭取りを始めただけあってこまめに見回るだけでなく、コメント欄に書き込みをしてくれたのだった。それも、楽天の方だけに。
礼儀としてコメントには応えなくてはならない。こうやって書き込みが増えていくと。この楽天を消すことなど思いも及ばなくなる。自分の汗だけではなく人の思いやりも無にしてしまう ことになる。それで、私は他のを整理してとうとう楽天一本で行くことにした。泥臭い、と心の中でどつきながら。つまり私と楽天は心惹かれるものがあって、 ぴったり似合っていたに違いない。
Bさんの熱意が功を奏し、 「実はもう持っていたのですけど」という仲間が二人、そしてブログを始める仲間が次々と増えて、2週間おうちには合計8名9サイトになった。ブログプロ ジェクトを始めたのはBさんだけれど、このプロジェクトには私も責任を感じる。それで、皆のサイトのせっせと廻って、Bさんと同じようにコメント書いて残 した。
そして、私もブログはこん な具合に書くのかと思いつつ毎日書いているうちに、何時の間にか一日に3回書く日が続いてしまった。Bさんに言わせると立派なブログ依存症なのだそうである。自分で、何故こんなにブログを書きまくっているのか訳が分からない。答えが見つからないのだ。恋に落ちるみたいにブログが好きになった?否。書くのが 大好きというわけでもなく、人の書いたブログが恋しいわけでもない。それでも、次々書き足している。皆のサイトを見ている時間もふくめて毎日数時間を超え るようになった。
確かに依存症だ、中毒だ。どうしてよいか分からないところもやっかいなブログ依存症候群である。一方では、このまま続くはずがない、それなら自分の心の動きを観察していようという部分もある。というわけで、ブログにどっぷりとはまりこんでいるけれど、大きな収穫もある。
というのは、教師の会は定年過ぎの先生たちと、若くて元気なほとんどが女性の先生たちとの二層構造になっている。定例会に毎月集まるだけなので年8回の会で顔を合わせるだけなので、私たち老年組は若くて元気な先生たちには構って貰えない。
それが今はブログで親しくコメントしあって、昨日など久し振りに会ったにも拘わらず、お互いかどうかは知らないが、少なくとも私はもう百年の知己のような親しみを感じつつおしゃべりをすることが出来た。このodnのホームページの仲間で、実際に会ったのは1回だけれど、彼女の歌声に耳を傾けた時の気持ちは長年の親友の歌を聴く心境だった。まだ会っていないodnの数人の人たちにも同じ気持ちを持っている。これこそインターネットのポジティブな面の素晴らしい効用であろう。
2005/12/16 17:02
留学生を心配する親ごころ
実際に始まるのは来年3月からだが、今年度の卒業研究の学生は、前にも書いたように5人採ることにしてしまった。教授は6人、助教授は3人まで採れることになっているというから、私たちの部屋は9人まで採ることが出来る。
実験室(二部屋で合計120平方メートル、通常の研究室規模の3分の1くらいである)が狭いから3人で限度なのに、断りそびれて5人採ってしまった。そのあとに希望してきた女子学生は、9人まで採れるのは上限ではなくこちらの義務みたいに言って、当然私たちからOKが貰えると思って頑張ったが、これは本当に気の毒だけれど断らなくてはならなかった。
5人のうちの2人はこの薬科大学の大学院の試験を受けて、通ったら私達の研究室に来るという。試験は1月半ばにあり、彼らはその受験勉強に必死である。ただ合格すればよいというも のではなく、入試の成績で授業料免除、さらには奨学金支給などの資格が取れる。中国は豊かになったとはいえそれはごく一部の人たちだけであって、大半の親 は子供を大学にやるために数年分の年収をつぎ込むことになる。だから入試でよい成績を上げることは、何よりも一番の親孝行なのだ。勿論、学部も大学院も、 無事合格してからも毎年の表彰や資格を得るために、何時も試験勉強で頑張るわけである。
この入試受験組以外の3人は、卒業したら日本の大学院に進学することを決めた学生たちである。 一人は秋に日本から講義に来ていた貴志先生を頼ってその紹介で熊本大学に決めた。あとの二人は、自分で行きたいところを決めて手紙を書いて、それぞれ京都大学、富山大学に決めたという。
決めたというと語弊がある。正しく言うと、学生が先方の先生に手紙を書いて留学生としての採用して欲しいとお願いし、向こうの先生が「いいでしょう。もし大学院の入試に通った ら、自分の研究室で面倒を見ましょう」という返事をくれたというものである。留学が保証されたわけではないが、留学の方向が決まったわけである。中国の大学院統一入試を受ける必要はないし、私たちのような日本人の研究室に来て、そのやり方を少しでも長く学べば自分の役に立つと思っている訳である。
というわけで、10月の終わりから講義を受けていない時間には研究室に来て、実験を始めている。来年の夏か秋には日本に行くことになる学生たちである。日本の大学院に紹介したのは私たちではないから責任はないけれど、うちの研究室を出る以上彼らの将来がとても気になる。 彼らは3人とも日語班出身で、それなりの日本語を話すけれど、日本語の基本を知っているのと、実際に日本語を聞いてやりとりをするには場数を重ねる必要がある。研究室の公用語は英語だが、勿論必要なときは、と言うか普段私たちは日本語を話しているから、その会話の輪に入って磨きを掛けることが必要だ。しかし、まだ親しくないし遠慮 があって、なかなか積極的に話しに来ない。
それで、妻の貞子は特別に時間を設けて日本語で話す時間を作ろうと言い出した。その集まりでは日本に留学したときの心得を話すという。
今までにここから留学生を 何人か紹介して送り出しているが、彼らの話で一番印象づけられたのは、大学院で講義を聴くと速すぎて初めはまるで付いていけないと言うことだった。彼らはここの日語班出身の選り抜きだった。普段私たちと話していても全く問題がない。しかし、講義では専門の言葉と、全く新しい内容と、独自の考えが出て来るうえに、当然の話、ここで私たちが日本語で講義するのと違って話す速度に斟酌を加えない。最初の数ヶ月は泣くほどか、死ぬほどか、ともかく必死になって付いていった、思い出しても悪夢の数ヶ月だったらしい。
「だから」と貞子は三人に言う。「私はゆっくり話しません。私の話の速度でも話が分かるようにならなくてはいけないのよ。ともかくこうやって話すのを聞いて、そして一緒におしゃべりすることによって、日本語に慣れましょうね。」
話題は日本と中国の教育制度の比較から始まり、親の子供に対する期待感、思い入れ、将来の親の面倒をどう見るかの違い、そして日本の中の中国人留学生の抱える問題になっていった。
「ね。あなた達は一人一人の人間で、たとえば満さんだし、貴女は陳さんだし、あなたは馬さんよね。でも日本人の中に入ると、貴女は一人で、しかも中国人代表なのよ。」 「何か変わったことをすると、満さんはこうなのかではなく中国人ってこうなんだと言うことになってしまうのね。」
「厭な話をするけれど、2年前に九州の福岡で一家4人が殺されたのよ。小さな子供二人も一緒に鉄アレイをくくりつけられて生きたまま海に沈められて殺されたわ。これはこの一家に恨 みを持った人の犯行だろうと思われたけれど、結局この一家に何の関係もない中国人学生二人がお金を取るために、そしてそれも大した金額ではなかったという 話だけど、この一家を殺したのよ。」
「私たちの子供の頃の昔の日本は、家に鍵を掛ける必要すらないところだったけれど、今は違うわね。ドアの鍵をピッキングで開ける、ガラスを破って開けると言う泥棒、強盗が増えて、中国人の犯行であることをよく聞くわ。」
「勿論日本人だって人を殺すし、泥棒、強盗だってやるけれど、この中国人がやったというのは厭でも人の耳に残るわけ。どうしても今の日本では中国人の評判はよいとは言えないのよ。だから、あなた達は一人一人が中国人の代表だと思って、行動しましょうね。」
ここに座って聴いている女子学生3人に、修士を卒業したら日本に留学したいと思い始めている胡丹くんも加わっていて、ここで一斉にうなずく。が「はい」ではなく胡丹くんの「うん」が力強く響く。
貞子は言う。「人の話を聞いて『うん』といって良いのは友だち同士の親しい間柄だけなの。先生の話を聞いて『うん』と返事をすると、先生は決して怒らないけれど、(何だ、こいつ は。人を馬鹿にして聞いているのか)と思ってしまうわ。親しくなった友だち以外には、何時も必ず『はい』という習慣をつけましょうね。」
胡丹くんは「うん」といいかけてあわてて「はい」と言い直して、皆の微笑を招いた。 「それからね。私たちが瀋陽に来て驚いたのだけれど、中国では色々なものを誰のものと言って区別しないみたいね。共産主義の国で分け隔てがなくて物を共有しようという理念かも知れ ないと思ったわ。私の机の上のペンが直ぐなくなる。定規を使おうと思うとない。とうとう、机の上にある物は持って行かないでと叫び続けたのを覚えているけ れど、・・・」
胡丹くんが「そうでしたねえ。」と相づちを打った。その頃の妻は「使いたければ使ってよいけれど、これは私のものだから、あなた方はそれを私から『借りて』いるのよ。人から借りたものは、使ったら直ぐにきちんと返しなさい。」と言い続けて彼らに教えたのだった。
「日本に行ったら、そこに ある物は誰かのものなのよ。必ず断ってから、使いなさい。そしてすぐに返しなさい。誰も意地悪な人はいないから、頼まれれば大抵快く貸してくれるわ。でも 黙って使っていたら、「ああ、中国人ってこうなんだ」と言って中国人全体に悪いレッテルが貼られてしまうの。分かる?」
「はい。」とみんな一斉に頷くのだった。妻の話はまだ続く。
2005/12/17 15:39
恥ずかしい一日
昨晩は薬科大学の国際交流処長だった李さんが来年2月に定年退職をすると聞いていたので、そのお祝いと送別の会をすることになっていた。今薬科大学には日本語の先生とその家族が7人。私たち二人、そしてお隣の池島先生の合計10人がいて、いままで何かにつけてお世話になってきた。
李さんは名古屋にある名城大学に留学したことがあり、日本語が話せるので、日本人は彼にはいろいろと世話になってきている。今までの日本人も彼の労苦には酬いていて、彼の長男は日 本の大学を出て日本の大学で職に就いている。次男は日本に留学したことがあるし、三男は今アメリカに留学している。
送別会の当日になった昨日、李さんから突然、在瀋陽日本領事館主催で開かれる天皇生誕日記念祝典に出るので自分の送別会には出られないという連絡が入った。
もし日本人が自分のための 送別会に出席できなくなったら、幾らその通りだとしても、これを理由にはしないだろう。皆が集まってやってくれる送別会をそんなものと取り替えるのか、と 言うことでいっぺんに皆から見放されるに違いない。急に体調が悪くなったという以外の理由は通らないだろう。
ということは、中国ならこれが断りの理由としてまかり通ることが出来るという発見である。未だに、この突然のキャンセルには驚き呆れているけれど、所詮、文化が違うとしか言いようがない。
そういうわけで、夜予定していた送別会は主役に振られてしまって、集まりは流れてしまって虚脱感だけが残った。どうにも落ち着かない。幸い、毛毛くんが優秀卒業論文を書いて、その指導教官というので私が500元の賞を貰っている。別の名目で集まればよいわけだ。それを使ってドバーッと行こう。そう思ったら途端に元気が出てきて、別の名目も思いついた。
ちょうどいま私はネットのソプラノ・リリコの友だちから一緒に二重唱をしようかと誘われている。彼女のHPで 今まで歌ったものが書いてあったのを見ると、「椿姫第二幕のバリトンとの二重唱」というのがあった。掲示板に「あ、それは前に歌ったことがある、懐かし い」と書き込んだら、「何時か一緒に歌いましょう」という嬉しいお誘いを戴いたのだ。セミプロの歌い手から声を掛けられて、夢かとばかりに驚き、飛び上が るほど嬉しかった。
椿姫の第二幕にパリ郊外で暮らし始めたヴィオレッタとアルフレードの二人を、アルフレードの父親が訪ねてくる。ヴィオレッタに会い、妹が結婚することになっているので(兄が娼婦と 暮らしているのは外聞をはばかるから)別れてくれという場面がある。「今は彼との愛だけに生きているのです。そんなことをしたら私には死ぬことと同じで す」とヴィオレッタは言いつつも、別れることを受け入れてしまう。痛切な場面だ。私は自分がバリトンを歌うためもあって、「椿姫」ではここが一番好きで胸 が打たれる場面である。
これがまた歌えるかも知れないなんて信じられないことだ。15年の空白を置いて声が出るものかどうかも分からないが、試そうにも、今の瀋陽には楽譜も、音源もなく、隣の張先生のいびきががんがん聞こえてくるほどの安普請のアパートに住んでいるので歌うための声が出せない。日本に戻るまで何も出来ない。 それならカラオケに行って声を出そう!声を出す練習をしよう!と思いついたのだ。 瀋陽のレストランの個室にはカラオケ設備のあるところが多い。大学の近くのハリウッドというレストランは、高い割には料理がいまいちだが、個室が多いので利用しやすい。私は声の制御が出来ないのでカラオケは苦手であり、いままで歌ったことがないけれど、今日は歌いたい。
それで、この日、集まるはずだった日本語の先生たちと研究室の院生・学生を誘った。そして、思いがけず500元の賞金が毛毛くんのおかげで手に入ったこと、そして皆さまの迷惑をも顧みず歌の練習をしたいので、今日の費用は全部私持ちで皆さまを招待しましたと前置きをして、宴会が始まった。全部で17人がいてテーブルが二つになったので、こちらは私たち日本人、あちらは学生たちと言う具合になった。
カラオケでオペラの練習が出来るわけではなく、カラオケを利用して歌声を出そうという計画なのである。それで、歌は中国人も大好きな「北国の春」を中国語で歌おうと計画して、ひそかに午後2時間かけて練習したのだった。 実は日本語の歌もあまりなじみないので、覚えるのに大変苦労をした。それでも、「今日は私がスポンサーだから」と悪びれずにマイクを握った。立ってみると。モニターで中国語がどん どん横に流れていき、最初は唖然として付いていけずに日本語を歌ってしまった。続けて「ハイ、練習でしょ。」と言われて繰り返し、繰り返し、とうとう4度 目には何とか様になったかなというところで、盛大に拍手を貰った。「もう、いいよ。もう。」ということだろう。
もう一つ用意してあったのは、王立平作詞・作曲の「大海阿、故郷」というもので、中国の人たちは小学校の時習うと聞いたことがある。ゆったりとしたメロディで雄大な海、広大な中国 を思わせる曲調を持ち、薬科大学の日本人教師の一人である稲垣先生の歌うのを一度聴いて気に入った曲である。この楽譜のコピーを用意して、まずは皆で歌っ て覚えましょうという提案をした。稲垣先生のあとについて歌ってみて、直ぐにどの先生もこの曲が気に入ったようだ。何時も「私は音痴ですよ。」と言ってこ ういうときには逃げ回る加藤先生も一緒に歌い始めた。このあとカラオケに合わせて数回歌ったのでどの先生も、隠し芸の持ち歌になりそうだ。
貞子は薦められて、いつも のように、「瀬戸の花嫁」から始まって、「夜来香」「月亮代表我的心」を歌っているかと思ったら、次には「何日君再来」も日本語に続いて中国語で歌ってい るのには驚いた。何時の間に中国語で歌えるようになったのだろう。彼女の声は柔らかく、しみじみ上手いと思わせる歌い手だ。 学生は恩師思いで私たちが楽しむのを一生懸命聴き手に回り、私たちの楽しむのを支援するだけで、自分たちはあまり歌おうとしない。やがて9時になったし、彼らを残して私たちだけで支払いをして先に帰ることにした。 勘定を貰うと880元。ガーン。900元持っていたので払えたけれど、そばで見ていた先生たちが、「私たちも払いましょ」と言う。「当然よ、私たちだって少しくらい払わなくっちゃ。」と言われて「それじゃ、私たちの歌への喜捨と言うことで、戴きましょう、ありがとうございます。」といって一人あたり50元を戴いた。
家に帰って頭が冷えてから計算すると、17人で頭割りすると52元となる。何と言うことか、私がご馳走しますと大見得を切ったのに、そして下手くそな歌の、しかも練習をさんざん聴かせてしまったのに、こちらはただの2元を払っただけだった。羊頭狗肉も良いところで、まるで詐欺である。皆を食事に招待しながら私が負担したのは私たちの研究室の学生の分だけだった。
恥ずかしいことである。今朝になって朝一番に「ごめんなさい」のmailを書いたのは言うまでもない。誰にも格好の悪いことの一つや二つはあるのだ。自分も許し、人も許して生きていこう。
2005/12/24 15:29
見掛け倒しの椅子と頭のこぶ
中国は今年二度目の宇宙ロ ケットを打ち上げた。もうこの宇宙科学の刮目的成功は当たり前になって大学でもこれといったことはなかった。一昨年宇宙ロケットに成功して、世界で有人宇 宙ロケットに成功した第3番目の国になった時は中国中が成功によって大騒ぎだった。大学の中にも色とりどりのポスターが貼られて、この快挙が祝われてい た。このときは直ぐそのあとで日本の衛星ロケットが打ち上げに失敗してしまった。「おめでとう。良かったね、成功して」という私に研究室の王くんは、にそ にそと出てくる笑いをかみ殺して「日本は失敗してしまいましたね」と同情して見せたけれど、この失敗が中国中の喜びを更に加速したことは想像に難くない。
宇宙ロケットというのは精密機械であり、精密制御の申し子なので中国は日本が開発していない技術を持っていることは確かだけれど、これは一点豪華主義と言うところであって、ほかの民生品は六十年前の日本の敗戦後の混乱期の製品と似たようなものもまだ多い。
たとえばプラスチックのラックを例に取ると、肉厚でがっしりとした製品も勿論あるけれど、それだと値段が張るせいか、肉厚を落として薄くした製品も出回っていて、丈夫さは値段と間違いなく比例している。安いものは間違いなく粗悪品である。
粗悪でも、一カ所に置いて動かさなければそれなりに物入れか物置の役は果たすので市場に出回っているのである。うちの玄関廊下においた靴の台はこの手のやつだ。掃除の時ついうっかり手で引っ張ると分解してしまう。ごく丁寧に扱わないといけない。
しかし椅子ともなるとキャ スターが華奢なために壊れてしまうと椅子の用をなさなくなる。私たちが大学の新設の教授室に案内されたとき、私と妻用の二組の机と椅子が、だだっ広い60 平方メートルの広さの部屋に置かれていて度肝を抜かされたのだった。なにしろ、机の広さは畳1畳より大きいくらいで、椅子の背は、こちらが立っていても胸 の位置まで来てしまうくらい豪華なのだ。
この二組の机が向かい合わ せに置いてあって、隣の池島先生は「先生たちお二人は愛し合っていて、互いにいつも見つめ合っているから、この配置なんです」なんていう馬鹿なことを言っ ていた。配置は直ぐに互いに真正面に向き合わないような配置に直したから良いとして、この椅子は豪華すぎて不自由だった。
豪華で大きいから座面が大 きく、脚の短い私としては、深く腰掛けても膝のところで邪魔されておしりが椅子の後ろまで行かない。したがって浅く腰掛けて作業するか、背もたれに寄りか かってトロンとお腹を折ることになってしまう。仕事をするという意味では機能的ではない。どうも見かけだけ飾っている感じである。
この教授室の椅子は見かけ の豪華さと裏腹に二ヶ月もしないうちに椅子の回転が悪くなって、しかも傾いてしまった。キャスターの一つが壊れたのだ。ひっくり返して調べてみると、薄い プラスチックの小さなヤワなキャスターで、鉄で補強された木製の椅子の重さを考えると、壊れないのが不思議な位ちゃちである。
交換して欲しいと思って も、椅子を売ったところは言を左右にして替えてくれない。新しいのを欲しいと思ってもそこでは手に入らない。日本なら、壊れれば直ぐに付け替えてくれる し、自分で修繕したければ東急ハンズに行けば好きなキャスターを自分で選べる。それに第一、今はキャスターが簡単に壊れるような椅子は売っていない。
壊れた椅子をずっと我慢して使っていたけれど、これでは身体に良くない。豪華でも使いにくい椅子なので、いっそのこと新しいのを買おうと思って家具の専門店に出かけた。家具城と呼ばれている専門店が、瀋陽の西のはずれにあり巨大なビルを構えている。
どのくらい大きいかという と、面積がラグビー場くらいといったらよいだろうか、それ程巨大な売り場も、柱で区切られるブロックごとに実は区切られていて、それぞれが別の店である。 つまりここでは店ごとに陣取りをしていて、商品で分かれていないので、こちらの店の事務椅子、そしてまた歩いてここにもあったといって事務椅子を検討しな がら、最終的には満足できる椅子を選んだ。一つ250元(日本円で約3500円に相当する)だった。
ともかく新しい椅子が手に 入って毎日の生活が快適になった。どのくらい快適かというと、一寸触るだけでもスーッと椅子が床を滑っていくのだ。使い始めてしばらくして、座ろうとした らおしりで押してしまって、座ろうとした時には椅子がなかった。「やったア」と思いながら、下に落ちながら椅子を求めて身体を後ろに運んだので、床に後ろ 向きに投げ出されたように倒れて、その拍子に頭を打った。
すると、まだ床に倒れてい るうちに、まさに見る見るうちに打った箇所が腫れて瘤になった。頭に瘤をこしらえるなんて、子供の時以来久しぶりのことだ。椅子の悪口を言い続けたので椅 子の復讐かな、なんて馬鹿なことを考えながら久しぶりの瘤に感激して床に座ったまましばらく瘤を撫でていた。
この椅子はそのご1年使い 続けているが、動きが依然として快適である。つまりその気になればやれるのだ。見かけ倒しの質の粗悪な椅子が存在するのは、見掛けが豪華でしかも安いもの を求める人たちがいるからであろう。賢明な消費者が健全に育つことが、この中国で質の良い民生品が出来るための必要条件だろう。
2005/12/31 06:55
分子生物学の試験問題のこと
昨日、薬学部69期日語班4年生の分子生物学の試験があった。日語班は3年生前期から日本語を学び、後期にはいると日本語を学習しながら私の日本語の生物化学の講義を受け、そして4年生になったところで日本語の分子生物学を学んだのである。
彼らの前の学年の試験では、数多くの文章を書いておいて○×を付けさせる問題にした。しかし、文章をずらずら並べておいて○×をつけさせると、正答率は半分である。全部○か、全部×を付けることで何も知らなくても半分の点が取れてしまう。それでは安易すぎる。
それで、トピックスを限ってそれぞれに5つ文章を書いて、その中から正しいものを一つ選べというようにした。これだと○を二つ以上付けたらそれだけで間違いになるから、どれが正しいかの正答率は5分の1になるので、学生は頭をひねらなくてはならない。
しかしこれでは設問の側も問題作成に頭を絞らなくてはならない。結構大変である。まして昨年と同じではいけないが、講義で話した内容で大事なところは同じである。それで、今年は趣向を変えて、「○○とはなにか」とか「○○について記述せよ」という設問にした。
こうすると問題作成は簡単である。ただし様々な答えが出てくるだろう。それで模範解答を用意し、様々な場合を考慮して「これを書けば1点」、「ここを理解していることが分かれば2点」というように、配点を考えた。個別の配点を足していくと、その設問の解答に与えた点を越えてしまうが、これはつまり、学生は日本語で書くというハンディキャップがあるので、採点は甘くしてあるのだ。
これで7題。8問目は計算問題で、「ある生物の一倍体遺伝子(通常は生殖細胞)は2億塩基対 (2 x 10の8乗 base pairs) を持っていた。この生物のDNAのアデニン含量は23%であった。この生物の二倍体(通常の体細胞)のシトシン塩基は何個あるか?」
一見難しそうだが、DNAの二重鎖ではアデニンはチミンと、シトシンはグアニンと対を作るという原理を理解していれば計算は何と言うことない。この原理がDNAの持つ一番大事な、そして唯一の原理であって、これさえ理解していれば分子生物学で怖いものは何もないというのが私の信念なのである。
ただし計算には落とし穴が用意してあって、1塩基対は2個の塩基を含むこと、二倍体(私たちの普通の細胞)は一倍体(生殖細胞)の二倍の塩基(あるいは塩基対)があること、にひっかるようになっている。
最初の学年で講義の時に学生にこれを質問したら、どのように問題を説明しても数人の学生しか出来なかった。つまり、分子生物学の講義を受けていても、殆どの学生はDNAの塩基対の概念を理解していなかったのだ。それ以来、毎年の講義の度に応用としてこれをやっているが、その後は皆すらすらと解いてしまう。試験が絡むと皆神経をとがらせて先輩から後輩へと問題が伝授されているようだ。
それでも、塩基対を理解さ せるために毎年練習させ、試験に出すよと言って、実際に試験にも出している。彼らは何でも暗記するから、これも塩基対の概念としてではなく、試験問題とし て暗記しているのかも知れない。アデニン含量をチミンに変えたり、その%の数字は何時も変えているけれど。
さていよいよ採点をすると、延々と時間が掛かった。60人の答案を見終わるのに6時間近く掛かったと思う。最後には目が腫れ上がった感じだった。この次はこのような記述問題は止めて、問題作成に時間が掛かったとしても、採点が簡単な設問にしよう。
勉強は暗記することではな い、理解することだと私は何時も繰り返しているが、今回の設問では暗記を強要したことになるかも知れない。だが、どのように言ったところで、彼らは暗記以 外の勉強するという方法を知らないのだ。そして理解しているかどうかを調べるために問題を作成するのは容易ではない。
mRNAについて構造や特徴を説明したときには、学生に考えさせるために、細胞の中のmRNAだけを集めるためにどうしたらよい?と講義の合間に訊くことにしてる。細胞の中のRNAはリボソームのRNAが殆どで、mRNAは1%位しか存在していない。真核生物の(つまり私たちの)mRNAはポリAの尻尾(テール)がついているので、ポリTを用意しておけばこれと結合する。DNAの相補的塩基対の原理である。
しかし、質問に誰も答えられない。私は「DNAの相補的塩基対の原理ですよ」とは言わずに、「どうすればいい?」と訊くのである。「mRNAだけにあって、他のRNAにはない特徴は?」と訊くと、5'キャップ構造とか、スプライシングでイントロンがないとか言っている。「mRNAだけに3'ポリAテールがあるでしょう?」と3'ポリAテールと言う特徴を指摘して、「これがあると、どうなの?」と言っても、シーン。
「分子と分子が集まると言うことはその間に親和力があると言うことでしょ?」「それじゃ、ポリAと親和力のあるものはなーに?」と言っても、まだ首をかしげている。
「ね、女性がいれば男が集まってくる。」と言って、殆どが女子学生で埋まっている席を見渡す。「男には女が。これが親和力でしょ?」
するとやっと「ポリTがあれば結合します。」という答えが出た。やっと相補的塩基対がDNAの特徴であることに思い至ったのだ。相補的塩基対が大事であることを学んでも、それを使ってものを考えようとはしない。頭を使うことは大事なことなのに、使う訓練をしないから暗記したものはついぞ使わずじまいで、引き出しにしまったままである。
次は、暗記していれば出来る問題で70点、あちこちの引き出しから出して重ね合わせて考えないと答えが出ない問題で30点という配点で問題を作るように、今から考えよう。
2006/01/07 14:54
自分を一番愛しなさい
一昨晩は薬学部英語班5年生の陽暁艶さんと一緒に食事をした。彼女は2月後半から始まる後期から私たちの研究室で卒業研究をすることになっている。他の人たちはもう既に研究室に来て実験を始めているけれど、彼女は1月14日の大学院入試を控えているので、まだ研究室に実験をやりに来ていない。
それでも1年前から研究室 のセミナーには来ているし、落ち着いて英語を明確に話す彼女は私のお気に入りである。と言っても研究室の学生の誰かだけと特別に食事に行くなど、今までに したことがない。そんなことをしたら「偏心」である。この偏心というのはここではよく使う言葉で、誰かをひいきにすることだ。私たちは研究室の学生はすべ て平等に扱い、食事に誘うときは一緒だ。しかし、今の彼女はまだうちの研究室の学生ではない。誘っても良い。
故郷である新疆を遠く離れてクリスマスを一人で過ごし、正月を一人で過ごして試験勉強をしている彼女がわざわざ誕生日のお祝いを持ってきてくれたので、近くのレストランに食事に招いたのだった。受験前の気分転換と栄養補給の役に立つだろうと考えて。
出掛けたレストランは大学 の近くの会翠飯店で、以前来たときここのフロアマネージャーの女性が、片言にしても堂々と英語を話すのでとても気に入ったのだった。中国で英語が通じると ころはホテルのフロント位なもので、ともかく英語で欲しいものが注文できるなんてとても珍しいことだ。すっかり気に入って、その時は「こんなに英語が話せ るんだから、どこかで独立して店を持ったらどう?」なんてけしかけたものだ。英語が話せる彼女が奥に引っ込んだら意味がないから、相変わらずフロアにいな くてはなるまい。つまり意味のないことだったけれど、お世辞にはなっただろう。
と言っても、このレストランも料理をショウケースに入れて展示している段々増えている店の一つだ。日本の蝋細工とは違って、実際の料理の素材が皿や鍋に入れてある。どのような調理法が使われるかは料理名で分かるとして、どのくらい材料を使うかが分かるわけだ。
暁艶さんとショーケースを 見にテーブル席から立って出て、マネージャーも交えて相談した。どの材料が新しいかとか、調理法についても細かく聞ける。料理名だけでは詳細は分からな い。そうやって、西域牛肉(肉がフワーッと軟らかく唐辛子と炒められている)、鶏腿きのこ炒め(きのこの形が鶏腿に似ているのでそう呼ばれる)、挽肉を詰 めた茄子とエビのオイスターソース味あんかけ、小白菜干しエビ味(日本にはない小型の白菜を使う)、豆腐と漬け菜と豚肉のスープを選んだ。
やがて運ばれてきた美味し い味付けの料理を食べながら今度の試験のことを聞くと、彼女の受けるのは受験科目は生物科学、有機化学、英語と政治の4教科だという。たった4教科で夜昼 休まず数ヶ月も勉強するのか?というと、「そうです。教科書を隅から隅まで暗記しないと出来ない問題が出ます。」という。競争率はこの大学で3倍あるの で、楽なことではないらしい。
暗記だけを要求する勉強を したって将来役には立たないのではないかと、日頃思っていることを口にすると、「上海の中国科学院は独自の試験問題を出し、そこは「どれだけ理解している かを問う試験問題が出ます。」という。それじゃ「そこを受ければいいのに」とつぶやいたら、「競争率は34人に一人の合格率です。」という返事が返ってきた。
おまけに入学試験に通って も、この薬科大学のような田舎の大学を出たのでは、目当ての先生の研究室に入れて貰えず、おまけに科学院はうなるほど金があって大型プロジェクトが動いて いるから、「入ってもロボットみたいに歯車の一部になって分析装置を動かすだけになる」と言う、なるほど、受験生は受けなければ地獄、受けても地獄という わけで苦労しているんだ。
ともかく試験のために教科書ばかり読んでいては身体によいはずがないから、「先ず食事が第一、第二に運動をして体調良く保つこと、そして第三が勉強だね。」と締めくくった。試験の前に食事に招きながら試験のことを話すのは心ない話で、「話題を変えようね。」
すると「先生たち二人はど のようにして知り合ったのですか?」と先ず聞かれてしまった。英語だから正確に言うと「二人はどのようにして恋に落ちたのですか?」と聞いている。今まで 中国に来てから学生には何度も聞かれている。年頃だから関心のあることかも知れないが、日本では学生から同じことを聞かれた記憶がないのが面白い。
いろいろと私たちの話をす ると「私にボーイフレンドが出来たら、大事なことは何でしょうか?まず健康であること、そして私が彼を愛していること、そして私が彼のことを愛しているこ と。このほかに何が大事ですか?」と訊いて来た。入試の1週間前にこんな話でくつろげるならゆとり十分と言って良い。きっと試験には通るだろう。
「もちろんあなたが彼を愛 していることも大事だけれど、一番大事なことは。」と私はアランの幸福論を思い出して、ここで彼女に話しておこうと思った。元はと言えばアランの受け売り だし、かなり気取っているので口に出すのは気恥ずかしい内容なのだが、私の信条となっている考えである。
「昔の賢い人が言っていて(このときはアランの名前が思い出せなかった)、これは逆説みたいに聞こえるのだけれど、あなたが彼を愛しているなら、それよりももっと自分を愛しなさい。」
「彼のことが好きになっ て、彼を愛して、愛し抜いて自分を失って愛の奴隷になるのではなく、自分を愛して自分を大事に磨きなさい。自分を大事にする人は、そして自分を高めていく 人は、彼からも愛されるでしょう。彼に依存するのではなく、自分も独立した人格を保ちなさいね。」
実際今まで生きてきて、私は自分というものをしっかりと持たない女性は願い下げである。これが愛を永続させるこつではないだろうか。長年のうちには愛しているとは自覚しなくなっても、少なくとも飽きることはないだろう。長い人生、飽きないことが大事なのだ。
あれやこれやと話が弾んで2時間。沢山の食べ残しが残ったのをすべて「打包」にして彼女の同室の友へのお土産とし、彼女の入試突破を願って別れたのだった。
2006/01/10 8:54:28 (楽天ブログ)
中国の新人類?
卒業研究の学生で日語班出身(日本語専攻)の4人のうちこの夏この大学を卒業したら日本に留学する予定でいる学生を毎週1回集めて、妻が日本での心得を中心に話している。
日本の大学院で試験を受けて第一次試験に通ったら「次は面接があって、大抵その希望している研究室の教授から『何故貴女は日本に来たいのですか、どうして私のところを希望するのですか?』と訊かれるわよ。日本語をしゃべる練習だと思っていってご覧なさい。」
一人の学生は「私は日本語を習って日本語を通じて日本が好きになりました。日本の料理は見た目も美しく飾ってあって綺麗ですし、とても美味しいです。日本の料理を沢山食べてみたいです。それに京都や箱根など美しいところが沢山あります。ここに入学できたら、日本のあちこちを訪ねてみたいと思います。」
私はこちらで仕事をしながら耳に入るともなく聞いていたけれど、笑い転げてしまった。妻も、彼女の同級生も笑っている。日本語としては至極まともだし、正直でよいけれど、これではどうだろう。面接の先生も首をかしげてしまうだろう。
「とても正直でよいけれど、日本には勉強のために行くのでしょう?大学で面接を受けるときに、日本料理が美味しいから食べに来たと言っても的はずれだわ。中国では出来ないから日本ではこの勉強をしたいとか、この大学では同じ研究分野でもここが進んでいるから先生のところで勉強したいとか、よく資料を読んでおいて、きちんと話しなさいね。」と妻に言われていた。
「はい、そうします。」と彼女は神妙だった。しかし次に、日本の大学院の修士課程に入っても博士課程は同じところではなく別のところに進学しても制度的には問題ないことを聞いて、「面接の時に『私は今は先生のところを希望しますけれど、修士課程の2年を終わったら、○○大学の博士課程に移りたいと思っています』と言おうと思います」という。
妻はびっくりして「あなたは正直でいいけれど、でも、これから試験に通った貴女を引き受けて奨学金や研究の面倒を見ようと言う先生に、初めから『私は2年しかいませんよ。2年したらほかに移りますから。』と言ったらまずいんじゃない。先生との関係が壊れたら2年後に移るのも難しいことになるわ。2年の間によい研究をして、別のところに気持ちよく推薦していただけるようにすることが大事よ。」と一生懸命である。
聞いている彼女は「はい。」と言っているけれど、大丈夫だろうか。常識がないというか、ぶっ飛んでいるというか、一人っ子育ちで何でも思いのままになると思っているのか、利用できるものはすべて利用するという中国人気質なのか、あるいは中国の新人類なのか。
彼女を推薦しているのは私たちではないので、彼女の事に私たちは全く責任がないけれど、この先大いに気に懸かることである。
2006/01/11 8:52:43 (楽天ブログ)
就職難に直面する大学生
「平 均初任給は1,000元?続く大卒の就職難」というニュースを読んだ。昨10日のYahooの記事によると「上海での大卒初任給平均は1,000元(約1 万4,400円)前後に下落し、同市の出稼ぎ労働者の最低賃金635元と接近した。2005年秋の大学卒業生は355万人で今年は約400万人に達する見 込みなので、05年の就職率である72.6%を適用すると」100万人近くの大学生が就職できないと予測される。
この安価な余剰労働力に乗じて経験の無い新卒者を低い賃金で雇用しようとしても、安い給料では専門人材の採用は難しいとニュースでは紹介されていた。
「英語能力を備えた貿易部門の大卒者を3人募集したところ、応募してきた大学生はたったの1人。会社が示した初任給は1,500元プラス歩合給だが、英語力を備えた大学生の給与の要求レベルは高く、専門人材の採用は難しい状況という。」
これを「低い賃金で雇用しようとする会社側と専門的な技術を持っている大学生のプライドの間で雇用のミスマッチが起きていることを示すものだ」と書いてい る。学生を送り出す側としては、「安い給料で自分の能力を安売りするな、がんばって高給を勝ち取れ」と言いたいところだが、経済市場は需要供給の関係で決 まるから、大学を出ただけが取り柄の学生が思い通りの給料を取ることは難しいだろう。
400万人の卒業生がいても、企業の必要とする能力を持たない卒業生が多いとも言えよう。いま瀋陽では、瀋陽薬科大学、東北大学、中国医科大学、中国農業 大学の4つが合併して新しい大学になろうとしているが、その効用の一つに学生数が5万人を超えて、○○大学に次いで全国2番目のマンモス大学になるとい う。しかし、学生数が多いことを誇ってもこの就職難では意味がない。
合併を好機と捉えて、どうすれば今後必要とされる分野の人材を育てられるかを考えて欲しい。そうなってこそ一流大学と見なされるだろう。そのためには、冷 静な現状分析と冷徹な将来計画が必要で、それに基づいて優れた業績を持つ研究者を集めることである。その優秀な研究者を集めるためには魅力的な研究拠点作 りと集金力が欠かせない。どちらも難しそうだががんばって貰いたい。
2006/01/12 8:24:17 (楽天ブログ)
秦くんの彼女の就職
中国の大学卒の人たちの就職難と初任給が下がってきた話を、うちの研究室の修士3年の秦くんに話した(中国で修士の学位を取るためには3年コースが必要である)。
「でもね。」と秦くんは言う。「給料の差はどんどん広がっていますよ。ぼくの田舎の親戚は料理人で、遠くに出稼ぎに行っていますが、毎月800元の給料ですよ。春節・労働節・国慶節の休みに故郷に帰ってくる汽車賃を考えるとたいして稼いでいるとは言えません。」
「一方で、ぼくの同級生が北京に会社にいますが、日本語が出来て、しかも専門の化学・工学の言葉が分かるというので、毎月1万元以上貰っています。大学を出て2年働いているだけですよ。たった2年で友だちは大金持ち。大きなアパートに住んでいます。同級生だったぼくの稼ぎはまだ零です。」
秦くんはこの薬科大学の日本語コースを出ていて、コース随一の日本語遣いである。日本から来た先生が日本語で講演をしてそれを中国語で同時通訳するのも、よく秦くんに頼んでいるくらい日本語が良くできる。しかし、秦くんの場合にはここで通訳をしても一文にもならない。大学は学生を使うのは当たり前だと思っているからだ。
「その葛くんは毎月沢山の金を貰うけれど忙しくてお金を使う間もないし、ガールフレンドと付き合う暇もないみたいです。広い部屋にひとりぼっちで、ぼくの方が幸せです。」と秦くんは言ってにやにやしている。秦くんは同学年の彼女とこの春節休暇には一緒に故郷に帰り、正式に婚約を披露するつもりのようだ。彼女も故郷の近くに就職を決めたという話で初任給も悪くない。
秦くんは修士が終わったら日本の大学院の博士課程に入って勉強したいと思っている。農村出身の秦くんには私費留学をする金はないので奨学金が頼りである。どの大学でも日本政府奨学生を希望するけれど、中国にいて政府奨学金を取るには、当局の大物との間にパイプがないと先ず不可能なことらしい。それで日本の大学で奨学金が出そうなところを探しているけれどまだ見つからない。少なくとも奨学金の面倒な申請をしてくれる先生が見つからないと、留学が出来ない。
この夏修士を終わっても日本の大学院の博士課程で進学するところが見つからなければ、月5百元で雇って上げるからねと言っていたけれど、北京に行けば月1万元である。それが駄目でも5百元のために彼女と別れて独り瀋陽に留まるとは思えないから、この夏修士課程が終わった段階での秦くんとの別れは先ず間違いないものとなってきた。
2006/01/13 8:41:00 AM(楽天ブログ)
日本の報道規制?
中国政府が日本の中で対中国批判が多すぎるといって日本政府に報道規制を要求したということが、1月9日のYahooニュースに出ていた。
「中国外務省の崔天凱アジア局長は9日、北京での日中政府間協議で『日本のマスコミは中国のマイナス面ばかり書いている。日本政府はもっとマスコミを指導すべきだ』と述べ、日本側に中国報道についての規制を強く求めた。」
これを読んで、なるほど、中国は報道規制をやっていると誰もが思っているけれど、マスコミを指導していることを当局が明言しているんだね、と改めて納得した。昨年4月に盛んだった反日デモを演出するのも、それを抑圧するのも当局の意向次第だったのだ。
日本では言論の自由は憲法で保障された国民の権利である。日本政府も時には統制したいだろうけれど、表向きはあり得ないことである。「日本外務省の佐々江賢一郎アジア大洋州局長らは『そんなことは無理』と説明したという。」
報道の自由度は世界160カ国の中で最低が北朝鮮で、中国もそれに近い。日本は四十数番目に位置している。決して完全な自由ではない。言論の自由は憲法で保障されているにも関わらず、報道の自由は、つまり言論の自由は十分保証されていないということを意味している。
日本では誰でも好きなこと言い、マスコミは好きなことを好きなだけ書きまくっているようだが、これもスポンサーの機嫌を損ねない範囲である。つまり、言論 は自由なようでいて、実は全くの自由ではない。広告主がつむじを曲げたら、正当な批判も発表されることなく上からの圧力で抑えこまれてしまう。さらには政 府当局と財界が水面下で繋がっていることも常識である。
勘ぐれば、今の日本でマスコミが好きなだけ中国批判をしているのは政府も秘かに黙認していると言うことで、中国もそれを知って言っているのだろう。だから、日本政府に言うわけだ。「ちょっとやりすぎだろ?」
もちろん日本政府は「そんなことは出来るわけないでしょう。お門違いなことを言わないで下さいよ。それより、日本で中国のマイナス面ばかり強調されないよ うに中国自身が身を正したらどうですか?」と返事するわけだ。しかし日本のマスコミの一部はある程度は政府の意向を汲んでいるだろうし、お互い狸の化かし 合いが続くわけだ。
2006/01/15 12:36
ものごとの裏
瀋陽には瀋陽在住の日本人で作っている瀋陽日本人会というのがある。登録者は3百人足らずと言うことなので、何万人も日本人が住む上海や大連に比べてかわいらしい規模と言って良い。
この会が瀋陽に出来て以来、この地の日本語学習振興のために毎年日本語弁論大会を開いてきた。今年で弁論大会は10回目になる。この地域で日本語を勉強する学生が増えて日本語遣いが増えれば、ここに進出した日本企業は大いに恩恵を受けるわけだから、当然の目玉事業であろう。
日本語弁論大会に出場する 学生は瀋陽とその近辺で日本語を学ぶ大学生、高校生、各種学校生徒なので、学校で教える先生たちの協力なしには弁論大会は挙行できない。日本語を教える学 校のすべてに日本人の日本語教師がいるわけではないけれど、主要なところには日本人教師がいるので、教師の集まりである瀋陽日本人教師の会は、この弁論大 会を実行するときの主力である。
毎年年末の12月になると、日本語弁論大会実行委員会が学校宛てに弁論大会開催通知、参加のための要項などを配布する。弁論大会に無制限に参加申込があっては収拾がつかないから、日本語の作文を書かせて応募させる。この作文の審査をして実際の弁論大会の候補を選んでいる。
これも申込者が多くては審査が出来ないので、今では各学校の参加人員の上限が指定されている。薬科大学でも12月半ばには参加希望者を一堂に集めてある題目の下に作文を書かせて、日本語の先生たちが審査して最終参加者を選んでいた。薬科大学選出のチャンピオン候補たちは弁論大会用に改めて作文を書くことになっている。
3月にはこのようにして集まった作文を実行委員会の先生が手分けして読み、次には互いに交換して読み、結局全部に目を通して最終の弁論大会参加者が選ばれる。端で見ていても大変な作業である。
毎年4月に開かれる弁論大会の当日の運営も教師の会が行う。私は実行委員会によって事前に詳細に書かれたスクリプトにしたがって司会役を勤めたことがあるに過ぎないが、この準備、運営、そして事後の作文集の発行などすべてに亘って教師の会の先生たちの貢献は大きい。
ところが、である。ところ が、弁論大会のあとの6月頃に発行される作文集を見ると、第○回瀋陽日本語弁論大会入選作品集と書かれた表紙の下には「瀋陽市人民政府外事弁公室・瀋陽市 教育委員会・瀋陽日本人会」と書かれているけれど、「瀋陽日本人教師の会」の名前は何処にもない。
文集の終わりの方を繰ってみると、瀋陽日本人会が「政府関係の調整と資金・会場の手配を担当し」、日本人教師の会は「スピーチ作文の募集・審査・大会当日の運営などの実務的な業務を担当している」と書かれているだけである。
教師の会は瀋陽およびその 近くで日本語教師区に従事している先生たちの集まりだが、所属する職場も大学、それも日本語学科もあれば、第二外国語の日本語と言うこともあるし、高校、 ソフトウエア製作のための学校の日本語教師など様々だし、教えている内容も違う。共通項は日本を離れた中国で日本語教育に携わっていると言うことだけであ る。
したがってこの会はこの異国に暮らして互いに助け合いましょうというのが唯一の目的である。それ以外の求心力がない。しかし、この弁論大会を準備し開催することで教師の会の中の親密度と連帯感がぐっと増すのを実感してきた。
日本語弁論大会の準備と運 営を通じて教師の人たちの働きぶりを見ると、この弁論大会に命をかけていると言って良いほどである。それなのに、最後に出来上がってくる「瀋陽日本語弁論 大会入選作文集」に教師の会のクレジットがない。資金を出している日本人会の名前だけ大きくて、具体的に働く教師の会の名前がないのは不当ではないか、と 私は思っていた。
瀋陽に7年いて半年前に寧波に移った石戸先生に最近会うことがあったので、この疑問をぶつけてみた。「それはね。日本人教師の会は中国当局の認めた認可団体ではないからですよ。」ということだった。これには、もう少し説明がいる。
瀋陽日本人会も、省政府あ るいは市政府の認める団体ではない。しかし日本からの企業進出が欲しい当局は瀋陽日本人会と定期的に会合を持っているから、非公式にかも知れないが暗黙の うちに当局もその存在を認めている。弁論大会の挙行も当局は認めている。当局が資金も会場も出すわけではないが、開催を認めると言うことはここでは決定的 なことであり、従って大会主催者は瀋陽市人民政府外事弁公室・瀋陽市教育委員会・瀋陽日本人会」となっているわけだ。
日本人教師の会こそ弁論大 会の実働部隊だけれど、その名前を公式に載せると「これは何だ?」と言うことになりかねない。当局が一旦「これは一体何だ?」と問題にすると、その存在を 黙認するわけにはいかなくなる。いままでその存在を黙認していたのが、目の前で存在を主張されると、それを潰さなくてはならなくなる。
「この弁論大会の作品集に瀋陽日本人教師の会の名前を載せると、その存在が危うくなるので、あくまでも影のお手伝いと言うことになっているのです。」という説明だった。
うーん。私たち日本人から 見ると、理解しがたい論理である。納得できないけれど納得せざるを得ない。政権維持のためにはありとあらゆる事があり得るわけで、外国人の団体があること に神経をとがらせる当局の意思も分かる。分かるというのは賛成することではないが、ほかの方法はない。
瀋陽日本人教師の会の名前が出ていないので日本人会が私たちにひどい扱いをしていると思っていたけれど、実情はそうではなかったようだ。この地では物事には複雑な背景があることを学んだ。
この地で活躍する日本企業 の人たちは、言葉に尽くせない苦労を影で重ねているに違いない。「日本人から見てなんて弱腰な。」と思うようなことでも、実際上はそれ以上のことが出来な いし、その弁解のために口にすることも出来ないことがあるかもしれない。日本の対中国外交も、そうなのだろうか。
2006/01/16 6:28:43 PM (楽天ブログ)
名医が触診で見つけた膵臓炎
5ヶ月ぶりに病院に出かけた。1995年に最初の異常が見つかった持病のチェックのためである。
その年の2月、米国カリフォルニアの学会から帰ってきて自分は至極健康だと思っていた時、丁度研究室で開いたセミナーに出席した友人の西川先生が、「あなたの顔色が悪い。これは内蔵のどこかがおかしいに違いない。私の友人に名医がいるから診て貰いなさい」と言って勝手に書いた紹介状を強引に私に押しつけていった。
気にもしていなかったのにその後毎日西川先生から、やいのやいのと電話が掛かってくる。ともかくその病院に出かけないと毎日が電話で面倒なので、紹介されたクリニックに出かけたのが3月初めの日曜日だった。平和クリニックの熊谷先生は私よりも十歳くらい年上の先生で、まず最初は東工大工学部を出てから医者を志したという異色の先生だった。私には自覚症状が全くないのに上半身を裸にされてあちこちが押された。うつぶせにされて左の肩の付け根のあたりが押されると痛い。右側は痛くない。上向きに寝てお腹の右を押されると猛烈に痛い。お腹を押されれば痛いに決まっていると思っていると、「膵臓が悪くなっていますね。血液も調べておきましょう。」と言うことで採血されて帰った翌日、その熊谷先生を紹介してくれた西川先生から電話があった。「血液検査でトリプシンが正常値の十倍もあるということですよ。直ぐにまたあのクリニックに行きなさい。」
そういわれても学期末の大学はやることが、山ほどあってとても病院には行けない。その翌日も一日中仕事に追われてやっと夜の9時頃大学から家への途中のファミレスで魚定食を食べて家に帰った。帰りの車の中でお腹の後ろあたりが痛くなってきた。痛みはだんだんひどくなる。背中側が痛い。脈を打つごとに痛みが全身を突きぬける。うちに帰って横になっても起きても、身体を丸めてもそらしても、痛みは続き一晩中寝るどころではなかった。翌朝車を運転して平和クリニックに出かけた。西川先生の予言通り、そして熊谷先生の見立て通り急性膵臓炎が始まったのだった。絶対絶食が言い渡されたけれど3月学期末の大学は休めない。それで、クリニックに1日おきに出かけて点滴を受けたのだった。これが3週間続いて、私はすっかりやせ細ったけれど、痛みは治まった。3月の研究室行事も終わり卒業生を送り出すコンパで私はスープだけ飲んでいた。
「膵臓炎の主な原因はストレスとお酒です。お酒を飲んではいけませんよ。」と熊谷先生に言われて1年間教えを守った。しかしまた1年経って卒業のシーズンが巡ってきた。今度は卒業実験の4年生の時から面倒を見た二人が修士を卒業するのだ。それでつい卒業祝いの会で嬉しくなって、1年間飲まなかったアルコールを飲んで騒いだところ、またその夜から膵臓が痛み出してしまったのだった。学期末は1年中で一番忙しいので体調も最低になっていたからだろう。
この膵臓の痛みは不気味で、耐え難いものがあり、この痛みでの病気で死にたくはないと思わせるものがある。こうして急性膵臓炎から1年経ってまた絶対断食断飲となって、クリニックの点滴通いが始まったのだった。平和クリニックは厚木の奥にあり、家から25kmくらいあるので国道246号が空いてている時でも1時間、何時も道は混んでいるので2時間くらい掛かる。何も食べずにいる身の病人が自分で車を運転して通ったのだった。
その2年目の時には、周囲の人たちが今度は駄目だと思ったという。秘書の志をりちゃんが泣きはらした目をしているのも見た記憶があるけれど、そのときはそのためだとは思わなかった。志をりちゃんは恋多い乙女だったから、また失恋して泣いているのだと思っていた。
ともかくそのときは危機を脱することが出来て、膵臓との付き合い方が分かってきた。アルコールはいけない。暴食もいけない。そして、もし痛み出したら直ぐに絶食すること。
その後、アルコールもずっと飲まないでいて久しぶりに飲んでも直ぐには膵臓が痛くならないので、安心して飲み出して、どっとひどい目に遭って後悔、反省、悔悛の繰り返してをしてきた。中国に来た時、この地の白酒があまりにも美味しく、中華料理にぴったり合うことを見つけてしまった。膵炎の発作は数年収まっていたので安心して、ついに白酒を何時も飲むようになって3ヶ月。とうとう膵臓がやられてしまった。このとき、瀋陽で知り合った日本語の先生である野呂先生に「身体に悪いと分かっていて飲むなんて、そりゃ馬鹿ですよ、大馬鹿ものですよ。」とやんわりと窘められたのが効いて、2003年の12月1日以来私は1滴のアルコールも口にしていない。野呂先生は、その後劣悪な環境に暮らすケニアの子供達に役立ちたいと言って現地に出かけて、現地で亡くなってしまった。彼女の約束したことなので、私はアルコールを再び口にするわけにはいかない。
今日、昨年の8月以来久しぶりに厚木の平和クリニックの熊谷先生を訪ねた。「あ、大分太りましたね。十年前に最初にあった時はひどい顔色でびっくりしたけれど、今は健康そうですね。」と言われたが、「はい、診察台に寝て」と言われて押された左の背中はきりっと痛むし、仰向けで押される胃の左の方も痛い。「まだ、ありますね。造影して撮るCTスキャンをした方がよいので、○○クリニックを紹介しますからそこに行って撮ってきて下さいね、」と言うことになった。
朝食べずに出かけて、うちに帰り着いたのが2時半だったが、私が元気で仕事を続けられるのもこの名医のおかげである。
2006/01/18 9:04:12 (楽天ブログ)
できちゃった婚?
日本では「できちゃった婚」が増えていて、今や4組に1組は妊娠してからの婚姻だという(今日のYahoo)。ハリウッド映画では大分前から馴染みになっていたが、今や日本でもポピュラーになってきたようだ。調査によると未婚者では「大賛成、幸せなら良いじゃないか、できちゃった婚もありでしょう」と言う肯定派が55%もいる。
ちなみに既婚者ではこの数字が44%である。自分は「正しい」婚姻をしたと思っている人たちの割合が「できちゃった婚」で減っていけば、いずれはこの数字は同じになるだろう。
「できちゃった婚」は良いも悪いもないと思う。妊娠してしまって結婚届を出そうというのだから、結構な話ではないか。問題にするとすれば、結婚という法律的あるいは社会的行為以前に、性行為があるという点だが、いまや「結婚前は身を清く」というのは完全に死語であろう。
日本に戻ってきて、たまたま井上靖の「流沙」という小説を読んだ。これは昭和52年-54年毎日新聞に載ったという。ピアニスト志望の章子はパリに留学してピアノ修行をしていたが、28歳の時友人の勧めで考古学者の東平とドイツのボンで結婚する。彼女は東平に自分の一番大切なものを捧げたという意識だったが、P.マリーニのピアノ演奏を聴きたいと思った途端に新婚旅行を投げ出してパリに独り戻ってしまう。
大体今から30年前の小説だが、その時代とは結婚に対するものの見方はすっかり変わってしまった。大昔は自分の子どもに家と財産を継がせるために処女性が問題にされていたわけだから、今のように流動的で開放的な時代になると、すべてがめまぐるしく変わらざるを得ないだろう。
今は妊娠しても結婚届を出さなければ法律では夫婦とは認められない。つまり保護されない。しかし、届けを出さずに一緒に暮らしている事実婚を保護するために、同棲すれば法律的には婚姻と同じという扱いに法律を変えるというのはどうだろう。そうなると事実婚を保護するという美名だけではなく、同棲するということに責任を持たせることになって、却って良いことかも知れない。
2006年1月20日
小河内総領事との別れ
1月13日昼には在瀋陽日本領事館で名刺交換会が開かれ、それに招かれた。
名刺交換会と言う名前の新年会で、領事館の守備範囲に私などが入ってるはずはないのだが、私の友人が前の中国大使だった関係で瀋陽に来たときに総領事に紹介されたのだった。小河内敏朗総領事とはそれ以来のお付き合いである。
1年前の名刺交換会は門のところで公安警官による厳重な取り調べがあったけれど、今回は、どうぞお入り下さいと言うことでパスポートのチェックもなく門を入れて貰えた。もちろん門の内側には顔見知りの領事が待ちかまえていて挨拶を交わしたから、一応チェックはしているわけだ。
定刻になると集 まった100人位の客を前に先ず君が代の演奏があり、次いで総領事の年頭の挨拶があった。「昨2005年の日中関係は波乱の年でした。」という切り出しで 始まった。そうだった。瀋陽でも瀋陽初めてといわれる反日デモがあった。その時期は、領事館からは始終安否を問う電話があったし、安全情報が私たちに何時 も送られてきた。「在瀋陽領事館は在留邦人の安全を守ることが大きな使命です。」と、最初に会ったとき総領事が私に話し、思わず総領事をとても頼もしく感 じたのを思い出した。その信頼は未だに裏切られた事がない。
領事館の仕事は在留邦人の保護だけではないに決まっているが、それが公言されるのを聞くことはとても嬉しいことである。アメリカという国には問題点が沢山あるが、米国公館は外国でアメリカ人の生命保護を第一にすると公言しその通り行動することだけは私には涙が出るほど感激する。国はこうでなくてはいけないのだ。大体それが国の有るべき姿だと思う、国民が国を作っているならば。
総領事の挨拶は「今年は互いの国の理解が歩み寄るような年になるように期待したい。戌年にあやかって安産と行きたいところです。」と締めくくられた。
そ のあとサロンに移って、瀋陽日本人会長も加えて鏡割りが行われたが、そのあと「総領事からお知らせです」というアナウンスで、総領事が「突然のことながら この2月に半ばに3年半の任期を終了して帰国することになりました。」と言う挨拶があった。公務員なので数年の任期で移るのは当然のことだろう。
知己となった好漢が私たちのいる地から去ってしまうのは寂しい。しかし、次には昇進が待ちかまえているだろう。彼のためには喜ばしいことだし、外交官として腹の据わった人物が別の地で日本のために活躍する事はとても嬉しいことだ。
小河内総領事の将来のご健勝とご発展を祈る。
2006/01/21 7:56:03 PM (楽天ブログ)
三方一両得の新しい大学院進学制度?
瀋陽薬科大学の最終学年である学生からmailがあった。日語班なので普通科よりも1年余分に勉強をしているので今は5年生である。大学は今年の2月末か ら後期に入り、卒業研究をして6月末に卒業する予定になっている。彼女は中国の大学院を受験をしないので時間的にゆとりがあるからと言って、10月から私 たちの研究室に来て実験をしている。
日本に留学したいと言っていてあちこちとコンタクトをとっていたが、先日瀋陽まで出張して入学試験を実施した北陸大学薬学部を受験した。彼女からの mailによると入学が許され、今年の4月から入学が許されたので、私たちのところで卒業研究を始めるのは止めて別のところで論文を仕上げ、4月入学に間 に合わせたいという意向のようだ。
瀋陽薬科大学このような繰り上げ卒業を認めているのかどうか、私は知らないので以下はすべて私の憶測である。
北陸大学は薬科大学の卒業が6月であることは知っていいるはずだ。しかし薬科大学で入試をしたのだから薬科大学と意思は通じていたのかも知れない。「入試に通れば3月卒業にしますよ。そうすれば直ぐに、時間のロスなしに大学院には入れますからね。」
私立大学は少子化による経営難に直面していると言う。少子化に伴う国内学生の減少に伴い中国まで募集に来ているのだから、大学を卒業していなくても大学院に入学させてしまうという奥の手を思いついた可能性がある。
薬科大学は、そういうことならと言って便宜を図り、繰り上げ卒業を認めることにした可能性もある。学生の授業料は1年分まるまる貰っているのだから、早く卒業させても少しも損ではない。
卒業生は通常なら大学を6月に卒業して、日本で欧米式制度を持っている大学院に運良く行き当たると、10月入学と言うことになるが、普通の日本の大学院だ と翌年の4月入学である。ここで半年の空白が出来てしまう。彼女のmail通りなら、彼女は同期の学生よりも逆に、半年、あるいは1年早く大学院に入れる ことになる。
三方一両得である。文句を言ってはいけないだろうが、何かおかしい気がする。
少なくも今後は日本の大学院に送り出すためには、学生の繰り上げ卒業を必ず認めると言うことを、薬科大学から公式に聞きたい気がする。でも、卒業研究を全 くやっていない学生が日本の大学院で歓迎されるとはとても思えないから、私はこれが可能でもこうやって学生を日本に送り出したくはない。