「入郷随俗インチャイナ」
お隣の中国からは過去二千年にわたり様々なものを学んできたけれど、この国に住んでみると、様々なことが日本と違うことに気づかされる。
私は人に適切なお礼を言うこと、人に挨拶をすること、この二つは、人間付き合いの基本だと信じているので、人に何かして貰うときちんとお礼を言ってきた。
これには、他人、友人、家族の区別はない。「朝ご飯ができたわよ」と妻の貞子に呼ばれれば、「ありがとう」といいつつ食卓に座る。人に感謝の言葉を口にするのは身に染みついた習慣となっている。
昨年夏に中国に来たのは、瀋陽薬科大学で教授のポストを用意して私達二人が呼ばれたからだった。60平方メートルという広い教授室が用意されていたほかに、実験室は大小併せてふたつ貰ったけれど、入っているのは実験台だけだ。大掃除から始まって研究機器、実験器具の購入、搬入、設定など、すべてのことはまだ海のものとも山のものと分からない山形研究室に入りたいと言った学生たちが一緒になって手伝ってくれた。 実験機器の購入だけではなく、実験室に流しを取り付けるのも問屋街まで自分たちで出かけていって、探して見つけて値段の交渉をして、運び屋にこれまた値段の交渉をして研究室に運ばせて、そして工事屋さんを探して取り付けて貰うのである。
今もそうだけれどそのころは全く中国語が話せなかったから、すべては学生たちの手を煩わせることになった。
それで、そのたびごとに「ありがとう」と言っていたら、ある時、修士1年に入った秦くんが言うには、「先生は私達にお礼を言い過ぎます。もう言わないでください。」
「??」
「お礼は他人同士が言うのです。親しいはずの関係でお礼を言ったら、親しくしたくないと言うのと同じことです。」
言われて気づいてみると、彼ら仲間同士ではお礼の言葉はまず聞かれない。
人から何かを貰って日本的にあとでお礼を書いたら、相手はびっくりして「もっと何か必要なのか」と飛んできたという話も何かの時に聞いたことがある。
それ以来、私は研究室の学生に対して極力お礼の言葉を減らすようになった。
そうなってみると,それまで通り貞子が「私は日本人の感覚を捨てられないわ」と日常的にお礼の言葉を言い続けているのが、聞いていて煩わしく響くようになってくる。
やがて研究室が始まって半年経ち、やっと研究室が「さま」になった頃、卒業研究のために三人の女子学生が入ってきて、4ヶ月後には無事卒業していった。
その中の一人の沈さんが卒業を前にして、
「先生に言ってよいですか。先生はほかの日本人みたいではありません」と言う。
私は私の英語の日本人離れした発音が素敵だと言われるに違いないと思って、「不敢当(それ程ではありません)」という言葉を用意して待っていたら、
「ほかの日本人はお礼を何時もきちんと言うけれど、先生は言いませんね。」
「・・・・・・」
異文化のぶつかるところに住むと、緊張感が心地良い。
学芸大学附属中学同窓会誌緑友に寄稿した(山形達也 3回生B組)
2004年12月15日
上海・蘇州・杭州旅情 (2004年8月)
1章 上海到着
昨秋中国に来て以来瀋陽を離れたのは、一度用事で大連に行っただけで、それ以外中国のどこにも旅行に出かけていない。
せっかく歴史と魅力に溢れる国にいながら、どこにも行かないのは残念だ、と思っていたので、上海出身の沈慧蓮さんにこの夏休みに「上海に寄ったら案内してくれる?」と頼んでみた。
沈さんはにこにこして「大歓迎です。喜んで案内します」と言ってくれた。
瀋陽から上海に行く航空券、さらに上海から日本に帰る航空券をあちこちの旅行会社にこまめに当たって調べて購入の手配した上に、上海では自分の実家に泊まるようにと勧めてくれた。
彼女だけならともかく、彼女の家族にまでは迷惑は掛けられないと固辞したけれど、彼女は「ふつうの中国人の生活を体験する良い機会ですよ」と言うので、それもそうだと思ってしまった。
沈さんは今年の卒業生なので7月に入ったところで瀋陽を去った。
私たちは静かになった研究室で仕事を続け、上海に行ったのはそれから1ヶ月後のことだった。瀋陽から上海までは60人乗りくらいの飛行機で、席は進行方向の左側である。窓側にはいつものようにwifeが座った。
「もうすぐ上海浦東飛行場に到着します」という案内があった後、窓から下を眺めていたwifeが「えっ、砂漠を車が走っている」と叫ぶのだ。窓に代わって顔を近づけてよく見ると、下は砂漠ではなく泥水で、その上を二本の筋を後ろに引きながら双胴の船が走っていたのだった。
泥水は延々と続き、これが揚子江に違いないと聞きしに勝る広大さに二人とも呆然としているうちに飛行機は浦東飛行場に着いた。
5年前にできたという飛行場のターミナルは斬新な設計で機能美をまず感じる美しい建物である。荷物を受け取って外に出ると、出迎えの人たちの中でぴょんぴょんと跳びはねているのは懐かしい沈慧蓮さんだった。彼女は物怖じしない積極的な性格なので私たちは彼女のことをミーハーの模範とからかっているうちに、何時しか彼女は研究室の皆からミーハと呼ばれるようになった。
自分でも自分のことをミーハと言っている。だから、挨拶の「ニーハオ」の代わりに彼女に「ミーハオ」と言うのを楽しみにしていた再会だった。
空港からは1年前にできたばかりの磁気浮上モノレールに乗った。ドイツの技術で作られて今年の初めから営業運転をしている。最初に設定した片道75元の料金が高くて利用者が少ないため、5月のゴールデンウイークの時に50元に値下げしたということだ。飛行機利用者は40元でよい。
乗ると新幹線みたいに速度の表示板が目に着くところにあり、動き出すとあっという間に200km、300kmに上がっていく。加速度も、横揺れも感じさせない。
いつ軌道から浮上するのか、あるいは浮上したのか分からない。速度計はどんどん上がっている。
窓の外は田園風景だけれど、新幹線の二倍の速さという感じはしない。沈さんによると窓ガラスが特殊で、風景が一緒に張り付いて見えるようになっているという。
そんなことってあるだろうか?どうすればそんなことが可能なのか、不思議だ。
1. モノレールは実際には速くはなくて速度計を加工している。
2. 窓はすべて液晶モニターで、窓外の風景をゆっくりと映している。このぐらいしか思いつかない。
私のいい加減な推理は、自分の考える限界を超えることができない。しかし、彼女はそれ以上の秘密は知らないらしい。
4分ぐらい経って430kmになったところで速度計の上昇が止まったように見えたので「写真、写真」と叫んで、沈さんが速度計と写るような構図で写真を撮った。ほかに座っている人たちがにこにこして私たちを見ている。「じゃ先生、代わりましょ」と沈さんが私と速度表示の写真を撮ったところで列車は今度ははっきりと身体に感じる減速を始めた。
最高速度が続いたのは40秒もなかったと思う。列車はみるみるうちに速度を落として、終点に着いた。
そこからは上海の中心に向けて音の静かな地下鉄に乗った。地下鉄の反対方向の終点は、科学技術パークだという。つまり、上海のバイオやナノテクノロジーの研究所、そして企業の研究所、工場が集まっているところで、沈さんは将来はそのようなところで格好よく仕事をすることを夢見ている模様である。
研究室の卒業生の趙Xiさんがこの秋から進学する研究所もそこにある。
やがて目的の駅に着くと、地下の通路には「SARSと戦い勝利しよう」「衛生に注意しよう」という様々な呼びかけのポスターが沢山貼ってあった。幸い今年はSARSが広がらなかったことを思い出し、改めて胸をなで下ろした。 駅には沈さんの父上が迎えに来て下さった。初対面で彼女のお兄さんかと思うほどの若さでびっくり。
歩いていくと、駅の付近は巨大なスーパーや店が並んでいるけれど、このあたりは住宅地区であり、二十数階建ての高層ビルが林立していてそのどれもが一般の人の住宅なのだという。
駅から歩いて5分のところにあるビルの18階に沈さんのアパートがあった。外から見ると1フロアに4軒入っているかなと見当をつけたのだが、実際は8軒だった。日本の戦後建てられた住宅公団の最初の48平方メートルの3LDKに私は住んでいたことがあるけれど、上海の90年代の住宅事情はそれに近かったらしい。今のアパートはこの倍の広さが標準になっているという。台所、バスルームは独立で、瀋陽の私たちの5年前に建てられたアパートのそれよりも広いが、食堂は狭くリビングとしても使える広さはない。このほかには、ご両親の寝室と沈さんの寝室があるだけである。私たちはご両親の寝室に通されて、ここを自由に使ってと言われたのだった。
沈さんに似た背の高い美しい母上に会って、またその若さにびっくりである。というのは衣服工場で働いていたのを今年で定年になると聞いていたから、もっと年長かと思っていたのだ。会ったばかりで、wifeは中国語でもう話しかけている。静かな口調で落ち着いた返事が返ってくるけれど、茶目っ気のあるのは彼女から沈さんに遺伝した形質だろう。 暑くて喉が渇いただろうと西瓜を勧められて、そのおいしさに一人で殆ど食べてしまった。あの甘さは、トマトを切って砂糖をまぶして冷やしておくと甘さが染み込むが、それと同じ手法だろうか。
この浦東地区は上海の新開地で、十数年間に彼女たちが越してきたときは、周りは殆ど畑だったという。今は、見渡す限り6階建てのアパートがあり、所々に空を切り裂いて高層のビルが林立している。それでも、瀋陽よりはビルが密集している感じはなく、空き地率が高くて木々の緑が目立つ印象を受ける。高層ビルが沢山ある分、空き地を増やしているのと、道路が新開地にふさわしく広いためだろうか。 夜は沈さん一家の招待で近くのホテルにある美林上海料理店に案内された。メニューは料理の写真付きである。中国料理のメニューは調理の言葉を覚えるとある程度は見当がつくというけれど、実際にはいつも瀋陽では心に描いている料理と出てきた料理の違いに驚かされていたから、ありがたいことである。
しかしここでは、上海の沈さん一家の選択と推薦に任せて本場の上海料理をごちそうになった。ここの店の料理を一言で言うと、これまで中国料理をおいしいと思って食べてきたけれど、今回の上海料理が最高であった。
両親と話している沈さんを見ると、大学の研究室で見ていた沈さんと全く違う。研究室ではとてもしっかりと自立した学生だったが、家では全く違う甘えた口調で話している。一人っ子だし、両親からとてもかわいがられて大事に育てられたに違いないことが、よく分かる。 食事から帰ると沈さんのご両親は同じ建物の親戚の家が空いているのでそこに泊まると言って出て行かれて、私たちはクーラーのある寝室を占拠させていただいた。
至れり尽くせりの歓待で、私たちはこのようなもてなしを今まで他人にしたこともないし、他人から受けたことはないような気がする。
沈慧蓮さん一家の心から厚意を喜んで受け入れよう。私たちも沈さん一家に心からの誠意で接しよう。こうやって、日本が仕掛けた侵略戦争で崩された日中の絆を草の根レベルから再構築しよう。
2章 蘇州・拙政園
今回の旅行は沈慧蓮さんに案内役を頼んで上海を観光しようというものだったけれど、上海の近郊には、蘇州、杭州がある。中国の人なら誰でも知っている言葉に「上有天堂、下有蘇杭」というのがある。
蘇州、杭州の風光明媚をたたえた言葉だ。蘇州、杭州は中国中の人があこがれ、昔から旅するならぜひ蘇州、杭州と願った場所だという。
研究室の王麗さんは中国の西部の出身で、まだ蘇州、杭州に行ったことがない。勿論蘇州、杭州観光がお勧めである。そして、蘇州、杭州は美人の産地で名高く、中国古来の四大美女の一人である西施は杭州付近の出身であるという。なにしろ、古来詩人・文人に愛されてきた杭州の西湖は西施の名にちなんでつけられたというのだ。詩人文人は詞や詩を残しているから、多くの人たちに愛されてきた土地であることがよく分かる。 この「蘇杭有多美人」というのが決め手になった。今度の上海訪問は美女探求の旅となる。沈さんとwifeの手前、私はそんな顔をしていないけれど、心の中では美女鑑賞に心に誓っていたのだった。おまけに、上海は猛暑だが、蘇州、杭州は運河が縦横に走っている水郷地帯だという。きっと涼しいに違いない。
朝早く、再び家に戻ってこられた沈さんのお母さんから蓮の実入りのおかゆをごちそうになって家を出る。上海駅に向かう地下鉄には、朝の新聞を手に持ったおばさんが駅から乗り込んで来て車両の中を売り歩く。上海からは6時50分発の汽車に乗って蘇州に向かった。
汽車の席は通常の硬座だが座席指定だった。硬座は板張りかと恐れていたけれど、ビニールの張ったクッション性のある椅子で、その上に白いカバーが掛かっていて、清潔である。中国は広いから、場所によって汽車の席の規格が違うのかもしれない。
上海を離れると、見渡す限り平坦な田園地帯となり、小川や運河がだんだん増えていく。むかし読んだ日中戦争に関わる戦記ものでは、日本軍が手を焼いたcreekと呼ばれたものだと思う。
日本の「汽車」という歌では「今は山中、今は浜。今は鉄橋渡るぞと、思う間もなくトンネルの闇を通って広野原。廻り灯籠の絵のように、変わる景色のおもしろさ。。。」というのがあるけれど、この歌はあくまで日本の風景のことで、中国は悠然と広大、かつ雄大である。景色はこせこせと変わっていくことはない。このような自然の違いも、それぞれの国民性の違いに影響しているに違いないと考えているうちに、1時間の旅は終わって、蘇州の駅に汽車は到着した。南京まで行く汽車なのに、ここで半分以上の人が降りる。やはり観光地なのだ。
駅を出ると沢山の客引きが何のかんのと言って寄ってくる。「不用、不要」と言いつつ客引きをかき分けて10分ぐらい歩いて北駅バスターミナルに行き、夕方の杭州行きのバス券を沈さんが買う。「今買っておいて良かったみたい。もう一杯ですって」と沈さんが言っていたが、実際夕方になってバスに乗ったときに分かったけれど25人乗りのバスは満席で、私たちの番号は最後のほうだった。 タクシーで拙政園に行く。ちょうど8時で、無料の解説案内のグループにはいることができた。沈さんはこの説明を聞いて、私たちに日本語で説明してくれる。
拙政園は蘇州の四大名園の一つで、中国の四大名園の一つにも入っていて超有名な庭園である。ここはさらにユネスコの世界遺産に登録されているという。拙政園は、明王朝の1509年に官僚だった王献臣が追放され、故郷の蘇州に戻ったときに自分の屋敷として造営した。拙政園は蘇州の庭園の中でもっとも広く、8年の年月を費やして造られたとのことである。
中国の庭ではまず入り口から入ったところの築山が邪魔をして、全景が見えないようになっている。それを過ぎると池があり、蓮が見事なピンクの花を咲かせていた。沈慧蓮さんは「蓮は私の名前です。汚れた泥の中から汚れに染まらずに、綺麗な花を咲かす蓮は尊さを意味し、皆から愛されます」と幸せそうに解説してくれる。拙政園は、東園、中園、西園の三つの部分に分けられているが、大小の蓮池が園内の中心となっている。蓮の花の咲く時期に訪ねた私たちは運がよい。蓮池の周りに東屋、橋や回廊が水面に映って落ち着いた静けさを漂わしている。西の方に塔が見える。あの塔は、この庭園を借景としていますと言うことだったが、落ち着いて考えると、この拙政園があの塔を借景としているのではないか。私の聞き違いかもしれない。その塔のおかげで、この庭園の奥行きが深まる。
ただし、まだ朝だというのに暑い。客の応接間に使われたという遠香堂という建物の陰ですわりこんでしまう。
そして考える。これは個人が造った。莫大な金がかかったに違いない。その金は官吏として明朝廷に遣えている間にため込んだものに違いない。この途方もない金が正当な給料で貯まったはずがない。この出所は、結局民衆から搾取したものだろう。当時はそうすることが当然のことだったので、当時の官僚の王献臣は自分が搾取しているなどとは夢思わずに、金を貯めたのだろう。
時代が移り、現代となったいま、人の意識はどの程度変わっただろうか?
朝廷から追放された恨みを込めて、愚かなものが政をつかさどるという意味で「拙政園」と名をつけたという話だ。命名した王献臣の気持ちは分かるし、当時なら官吏がこのように蓄財をしても当然のことだろう。
しかし、今なら彼の行為は間違ったことで、こんなことはあってはならないということを、この機会に一般大衆に教えたらよいだろうに。
これこそ歴史から学ぶことではないだろうか?
3章 蘇州船遊びと蘇城盤門
拙政園を見終わって獅子林に向かおうと道しるべに従い橋を渡ろうとしたとき、左手の川岸の切れ目から水が見えて、そこには屋形船がつないであるではないか。船頭らしい人も見える。「乗ろう、乗ろうよ」と二人を誘って、沈さんが値段の交渉をしてくれた。このあたりを30分漕いで30元だと教えてくれる。30元なら結構、ということで、私たち3人は長さ5mくらいの、中程に小屋掛けを持つ船の客になった。 年配の船頭は後ろに立って櫓を漕いでいる。水は薄緑色で、透明ではないけれど臭いもなく綺麗である。両側は1メートルくらいの高さの川岸で、漕ぎ進んでいくと、片側には川面から立ち上がって川面からの入り口を持つ家が並ぶようになる。船はゆらゆらと進む。蝉の声が上から降ってくる。風はわずかなものだけれど、道を歩いていたときよりも遙かに涼しい。
丸い石造りの橋の下をくぐり抜ける。上から女性が二人橋桁にもたれて私たちを見ている。蘇州美人かなと思ったけれど、ただの観光客らしい。
橋桁には竜の頭が付いている。蘇州の沢山ある橋にはどれにも竜の頭が付いていたけれど、この橋以外は文革で壊されてしまったとの説明を受ける。文革とはいったい何だったのだろう。確かめたわけではないけれど、毛沢東の業績に傷が付くので学校では文革については教えていないと聞いたことがある。
私たちが船溜まりで船に乗り込もうとしているときに、私たちの進む方向に先に進んでいった船に、やがて追いついてしまった。この船が遅いのも道理で、一人は櫓を漕ぎ、舳先に立つ一人は長い柄のたもを使って水に浮いた木の葉やゴミを船に拾い上げているのだった。運河の三叉路で私たちは右に曲がる。運河の左手には道が走り、右手は白い塀が続いている。運河側に入り口があって水上から出入りできる家がまた数軒並ぶ。見ると外の流しは勿論のこと、排水管はすべてそのまま運河の流れを指している。排水はこの運河に垂れ流しなのだ。 沈さんは船頭さんに頼んで櫓にさわらせて貰っている。船頭さんは手を離さずに後ろの方で一緒に櫓を持っているので、実は彼が漕いでいるのだが、沈さんは満足げだ。
「そんなら僕も」と私も立ち上がった。今から数十年前のこと、油壺の東大臨海実験所の和船を漕いで海水を汲みに海に出ていたことのある自慢の腕だ。しかしあるとき海が嵐でひどく荒れていて、とても戻れそうもないと観念したときに、もう一艘の和船を漕いで助けに来てくれた人があった。
早川さんという水産大学の人だった。それきり会ったことがないが、私が今健在なのは彼のおかげである。
さて、櫓を持たせて貰ったけれど、今回は全く駄目だった。船はどんどん左方向に進む。川岸の家にぶつかる寸前に、船頭さんが櫓を取り直して回避してくれた。それでも、私は久しぶりの櫓の感触が嬉しかった。 やがて川幅が広くなり、また三叉路がある。向こうからこれもまた清掃のための船が来ている。その地点で、私たちの船は引き返し、船頭さんが蘇州の舟歌を歌い始めた。「一月になると、花が美しく咲き、懐かしい人が蘇州に訪ねてきてくれる」という意味の歌だと沈さんが教えてくれる。渋いいい声だ。「二月になると『梅』が咲き、、、」、というように、毎月の花の名前が入ってくる。 ゆらりゆらりと進む船にこの舟歌はぴったり合って、気分をのどかに和ませる。きっと、昔はこのようにして川船に蘇州の遊伎や想い人と乗って、船で遊んだのだろう。それが、昔の蘇州の風情だったと聞いている。
明の呉三桂は明朝崩壊の最終の幕引をしたが、彼を骨抜きにした陳円円は蘇州の名妓だったと読んだ記憶がある。現実の私は大分違うけれど、船にはwifeもいるし沈さんもいるから、私にとっては疑似体験の瞬間だ。沈慧蓮さんもやがて節を覚えて、可愛い声で一緒に歌い出した。
食事の後、蘇州名所の一つである盤門に出かけた。途中、拙政園が借景にしている塔のあるお寺を通る。北寺塔といい、日本の私たちにも馴染み深い三国志の孫権が母の大恩に感謝して造ったものだという。
紀元前770年から秦の始皇帝による統一までの約550年間は、春秋戦国時代と呼ばれている。秦、斉、燕、魯、晋、楚、呉、越諸国が争う戦乱の時代だった。この蘇州の城は呉の国の都だったという。呉の大臣であった伍子胥が、紀元前514年、呉王の名で蘇州を築城した際に作った水門のひとつが盤門であると書いてあった。 伍子胥は悲劇の人として歴史に名高い。呉王から疎まれて殺されるとき、「呉の滅亡も近い。私の目をくりぬいて城門に置き、呉国の滅びるのを見さしめよ」と言ったと伝えられる。実際に予言通りに呉は滅びたのだ。現存の盤門は1351年に再建されたものだと言うことだが、私は勝手にこの城壁の上のことだと信じることにして、盤門の目の前にある「呉門橋」に座ってしばし歴史を回想した。 城門と城壁「盤門」と「呉門橋」、北宋の時代に作られた「瑞光塔」とに囲まれた空間は落ち着いた綺麗な庭園となっている。
あまりの暑さに人は少なく、静かな雰囲気の中でこの美しい庭園を眺めていると、周囲と全く違和感が全くない。青い空の下、どこまでもこの美しい庭園が広がっているように見えるのだ。
不思議に思ってよくよく目をこらすと、この蘇州古城一帯を取り囲む建物は、昔の建築風の白壁と黒の窓枠、黒の屋根以外を造ってはならないという規制があるとしか思えない。けばけばしい色の装飾はここから一切見えないように排除して、景観を守っているのだ。 評判の蘇州の美しさをこうやって守られている。蘇州美人にはまだひとりも出会っていないけれど、この発見で私はとても嬉しくなった。
4章 寒山寺と獅子林
暑さでぐったりしているけれど、これで観光を終わりにしては蘇州を見たことにはならない。炎天下の歩道の縁に座り込むことしばし、沈さんがやっと呼び止めたタクシーで蘇州郊外の寒山寺に行く。 寒山と拾得が住職をつとめたという寒山寺は蘇州を訪れた人は必ず訪れる名所だそうで、私たちも来てしまった。
城外を巡る水路が続いて、あちこちにアーチ型の石橋が散見される。唐時代の詩人の張継の詩「楓橋夜泊」が日本人の間では特に有名である。
月落烏啼霜満天 月落ち烏啼いて 霜天に満つ
江楓漁火対愁眠 江楓 漁火 愁眠に対す
姑蘇城外寒山寺 姑蘇 城外 寒山寺
夜半鐘声到客船 夜半の鐘声 客船に到る
この寒山寺の鐘の音が客船に届いたという船溜まりのある運河は、寺の境内のすぐ隣で、寺の入り口に面している。寺の色は鮮やかな黄色に染め上げられていて、境内は観光客で充ち満ちていた。 普段の日は入場料が10元。鐘を鳴らすと5元だそうだ。鐘堂の前で大勢の大人や子供達が鐘を鳴らす順番待ちをしている。何時の頃からか、日本人が年末に集まって除夜の鐘を鳴らすようになり、この鐘衝き料が今ではひと衝き800元だとタクシーの運転手が言っていた。
「どうして日本人は除夜の鐘を衝きに寒山寺に来るのだろうね。日本人のルーツは寒山寺なのかね。」この運転手の、日本人に向かって何時も言う、極め付きのジョークかもしれないが、大いに気に入って笑ってしまった。
一昔前のガイドブックには、除夜の鐘のひと衝き200元と書いてあったから、今では寒山寺はウハウハと笑いが止まらないだろう。実際、どこの寺よりも裕福に見えた寒山寺だった。
蘇州まで来て、蘇州四大名園に数えられる「獅子林」も見逃せない。元々は元代末の天如禅師が恩師の中峰禅師を記念するために建てた菩提寺なのだそうだ。禅宗だから寒山寺ほどけばけばしくない。獅子林のできた時代は、日本でいうと鎌倉時代の、これも禅宗の建長寺、円覚寺建立の頃に当たる。
「獅子林」は元代の代表的な庭園であるという。太湖石と呼ばれる空洞だらけの奇岩があちこちに置かれて築山を造り迷路を造り、この石があたかも獅子のように見えることからこの名が付いたという説と、中峰禅師が浙江省の天目山獅子岩に住んだことがあったため、「獅子林」と命名されたという説の二つがある。
中に入ると池と岩である。この獅子林の石には多数の空洞があり、石に刻まれた路を歩くと築山の頂上に至り、次には地の底に潜り、直ぐ隣りと思えどもそちらに行くには大廻りしないと路が見つけられず、興に惹かれて、暑さに疲れた身体ながら大いに歩いて遊んでしまった。沈さんに至っては、幼子のようにひとりで飛び跳ね、走り回っている。獅子林にいるときには遊ぶのに忙しくて、庭園が名園であるかどうか思いもしなかった。タクシーでバスターミナルに戻る時に蘇州の街を見ていると、ほかの街との顕著な違いに気づいた。蘇州の街は開放的な作りである。
中国では一階の窓にはすべて格子を付け、店先には鎧戸を下ろし、2階(どうかかすると3階までも)の窓にも格子をはめている街が多く、実は当局のことばとは裏腹に中国は治安が良くないというメッセージが伝わってくる。
しかし蘇州では1階の窓にも格子のない作りが多い。つまり、蘇州は観光のために開放的な作りなのだろうが、治安も良いに違いない。
さらに、緑が多く、とても豊かな街に見える。後で聞いたが今年6月28日からユネスコ世界遺産委員会が蘇州で開かれたために街を綺麗にしたという。特に綺麗なのは会議のためだろうけれど、治安がよく見えるのは本当によいからに違いない。
蘇州北駅バスターミナルから5時45分にバスは出発し、全区間の殆どで高速道路をひた走って8時には杭州のバスターミナルに着いた。汽車だと4時間かかる蘇州-杭州が、バスでは2時間ちょっとである。中国の高速道の整備は急ピッチで進んでいるようだ。
着いたところに、駅やバスターミナルの例に漏れず客引きがわらわらと寄ってくる。旅行案内に載っているホテルにケータイで電話をしてもちっともつながらない。
「その番号では古いよ、今はそこの頭に8をつけなくちゃ」と、見かねたのか若い兄さんが口を挟む。見るとさっきは雲助客引きタクシーと思って邪険に振り切った若い兄さんである。
その番号を付け加えて電話をして見るが、なかなかホテルが見つからない。一方、沈さんは彼と話をはじめて、どうも彼の提案に乗っているみたいである。ついに沈さんが「あの運転手がホテルの4ツ星でも3ツ星でも案内してくれると言っています、信用できそうですよ」という。
遅くはなるし、疲れているし、まア、イッか。「沈さんはとても人が良くて、すぐ他人を信用しがちなのが心配だ。何時か注意しなくちゃ。だけど彼女は頑固だから、何を言っても人の意見を聞こうとしないだろうな」と思いながら、彼の案内するタクシーに乗り込む。
このバスターミナルは市の中心から大分離れていて、30分くらい乗ってやがて街の中心街に到着した。ホテルは選り取り見取りである。運転手と沈さんがフロントに行って交渉をしてくる。戻ってきて「部屋はあるし、高くありませんよ」ということで、チェックインした。九州ホテルと言うところだった。
ホテルの食堂はもう終わっていたので外に食事に出た。一日蘇州観光をしてから二時間かけて杭州に来た疲れで、三人とも大して食欲がなかった。水分だけやたらに欲しい。
今日は蘇州美人に会えなかった。明日は杭州美人に会えるだろうか。
5章 西湖と雷峰塔
今日は中国四大美人のひとり、呉を滅ぼした傾国の美女・西施にちなんで名付けられたという杭州の西湖見物だ。しかし昨日の暑さがたたったのか身体がだるい。西湖を巡る十カ所の名所に故事由来を訪ねて西湖を一周する計画だったけれど、元気が出ない。沈慧蓮さんに話すと、「それでは、まず雷峰塔に行きましょう。そこで西湖が眺められますから、その先はそこでまた考えましょ」という。若い彼女は大いに元気で、言葉も身体も弾んでいる。
ホテルに荷物を預けてからタクシーに乗ると直ぐに湖岸道路に出る。道の両側には大木が陰を作っている。店もほとんどなく公園のように整備されて美しい林の中をクルマは走り続ける。
西湖の南岸の小山に、つい最近再建された雷峰塔がある。西湖十景のひとつに数えられている。伝説と一体になっていて話がわかりにくかったけれど、雷峰塔の史実を書くとこうなる。907年に唐が滅びてその後は五代十国と呼ばれる時代が続くが、その国の一つが銭鏐の建てた呉越という名の国で、杭州を都とした。銭鏐は仏教を信仰し、呉越国が存在していた80年の間に、西湖周辺には300もの寺院が建てられたということである。 そのひとつである雷峰塔はこの時代の975年に、そのときの呉越王・銭弘俶の黄妃が男の子を産んだのを記念して建てられた。そのため「黄妃塔」と名付けられたが、当時の西関外にあったことから「西関磚塔」とも呼ばれたと記録されている。今では「雷峰塔」の方が通りがよい。
時代が移って明朝の治世になると、中国では倭寇の侵攻が記録されるようになる。そしてこの雷峰塔は明の嘉靖年間の1550年に倭寇の侵攻を受けて焼かれてしまった。それ以来、骨格である煉瓦造りの塔の形を残したままこの雷峰山に立っていた。
「雷峰夕照」というのは、雷峰山に立つ幽鬼のような雷峰塔の背後に夕日が落ちる絶景を描写している。
この有名な雷峰塔は1924年9月25日に崩壊した。白蛇がこの塔の下に埋められているという伝説があり「雷峰塔」が焼けて以来、人々が白蛇伝にまつわる妖怪を鎮めた煉瓦である「鎮妖磚」を少しずつ持ち去ってしまったためだといわれている。
その煉瓦のかけらを家に置くことで、家内安全、商売繁昌間違いなしと、どうしてか信じられていたらしい。
今は崩れた雷峰塔を残したまま、その上に覆うようにして新しい雷峰塔が作られている。再建なった雷峰塔の6層目に、白蛇伝が美しい木彫りの彫刻で示されていた。 1. 盛会思風:白蛇の精である白素貞が許仙を見初める。白素貞の妹分は同じく蛇の精である小青といって、白素貞に何時もくっ付いていて彼女を助けているが、この小青は気性が荒い。
2. 雨中借傘:白素貞が許仙と会った時に、一計を案じて雨を降らせて傘を借りることがなれそめとなって、二人は夫婦となる
3. 端午顕形:やがて白素貞は妊娠した。一方、金山寺の僧・法海が許仙に「白素貞は峨嵋山の白蛇の精で、このままではお前は殺される。私の言葉が信じられないなら、端午の節句に魔除けの薬・雄黄酒を飲ませてみよ」という。許仙に勧められた酒を飲んで正体を現してしまった白素貞を見て、驚きのあまり許仙は卒倒して重病となる
4. 崑崙盗草:夫の許仙を治すための薬草を白素貞は崑崙山に取りにいく
5. 水漫金山:許仙は生き返ったが、法海が白蛇の呪縛を逃れるには出家するしかないと許仙を金山寺へ拉致してしまうので、夫を取り返すために白素貞と小青は水族を率いて攻め寄せるが破れる
6. 断橋相会:臨月の白素貞と小青が思い出の地である西湖の断橋にやってくると、そこへ許仙が現れる。小青は許仙の不実を責めて殺そうとするが、白素貞はどんなに愛しているかを許仙に切々と訴え、ふたりはよりを戻す
7. 囚人塔内:そこへ再び法海が現れ、白素貞を大きな鉢にとじこめ地中深く埋めてしまった。許仙は寄進を募って、その上に七層の宝塔を建てた。これが雷峰塔の由来であると伝説ではいう
8. 破塔団円:やがて小青が雷峰塔を守る塔神を打ち破り、塔は倒れる。白素貞は再び子供と共によみがえる
法海がどうして、仲の良い夫婦のところに何度も現れて、その間を引き裂かなくてはならないか不思議で理解しがたいが、伝説だからまあいいいか。
白蛇の精をとじこめた鉢を深く埋め、その上に雷峰塔を建てたとき、法海はつぎの四句の偈をつくったという。
西湖の水乾き 銭塘江の潮おこらず 雷峰塔倒れなば 白蛇世に出でん
実際に1924年に雷峰塔が倒壊したのである。まさに伝説通りであり、時折しも、1911年の辛亥革命に続いて旧封建勢力、軍閥を倒して統一中国を作ろうとしていた時だ。中国の改革に燃える人たちが、どんなに喜んだか想像できる。
雷峰塔からは西湖が眼下に眺められる。湖岸は緑が豊で、この盆地を囲む山並みは柔らかで心が落ち着く。この雷峰塔は西湖十景のひとつでしかないが、西湖をもう十分堪能した気がして、このあと私たちは杭州駅から汽車で上海に戻った。 沈さんの家に戻り彼女の母親から「旅行はどうでした?美女に会えましたか?」と聞かれた。「美人を捜して旅をしていたら、とうとう上海に戻ってきてしまい、まさにここに美女がいることを見つけましたよ」とまるで嘘みたいなせりふが口からすらすらと出てきた。メーテルリンクの「青い鳥」を真似ているみたいだけれど、これは、実感である。沈さんと、沈さんの母親が、そして私のwifeも改めて見ると燦然と輝いて、眼に眩しい。
瀋陽の王麗さんにもこのことを話すと、中国でも同じようなことが言われていますと言って、その詩を教えてくれた。字化けするのでここには載せられない。
夜は、沈さん母上お手製の心づくしのご馳走だった。
6章 上海外灘
「上海の人たちが朝ご飯を食べるところに行きましょう」と沈さんが翌朝は7時に私たちを地下鉄の駅近くにある店に連れて行ってくれた。チェーン店だそうで、中は混んでいるけれど、食べ終わった後の片づけ、清掃には十分人手が配置されていて、綺麗な店だ。 店の入り口にはメニューがあって、おかゆのたぐい、豆乳、油条、饅頭その他考えられる限りの沢山の種類が書いてある。「先生、どれがよいですか」と沈さんに言われて、「豆腐脳と油条」と反射的に口から出てきた。豆腐脳は一度しか食べたことがないけれど、選ぶとなれば朝食の中ではこれが一番の好物である。
豆腐脳は柔らかい豆腐が暖められていて、それに薄い醤油味の汁がかかっている。日本の一般的な豆腐よりも柔らかく、そしてどんぶり一杯を豆腐が占拠している。私たち日本人にはなじめる味である。油条は小麦粉を練って油で揚げたもので、卵やバターが入っていないからドーナッツとは違って噛むとシコシコと歯ごたえがあっておいしい。油が悪いと食べられたものではないだろうけれど、まだおかしな味には出会ったことはない。 となりの席ではご飯の棒の丸かじりをしている。沈さんに聞くと、「あれは油条をご飯で包んだものですよ。上海では、それと、油条、豆乳、大餅の4種が朝の代表的な食べ物で、四大金剛と言われています」とのことだった。ご飯を、言ってみれば揚げパンと一緒に食べるなんてと一瞬呆れたのだけれど、昔東京から名古屋に赴任して、ラーメンライスの存在を知ったときの衝撃を思い出し、ラーメンライスもあるんだからと納得した。
「先生、あれ食べてみたい?」と沈さんに聞かれて「いえ、いえ」とあわてて首を振る。店には、これから出勤途上と思われる身なりの人、市場で野菜の買い物帰りの年配の婦人、若い学生風など、沢山の人でにぎわっている。沈さんによると、上海では朝食はこのような店で食べる人たちが多いと言うことだった。日本よりも外で朝食を取る人の割合が高いような気がする。
朝の冒険を終えていったん家に戻って身支度をしてから地下鉄に乗った。地下鉄のプラットフォームの、車両のドアが開くあたりの床には、「降りるのが先、乗るのは後」と書いてある。当然なことで、これが守られているなら大変結構なことだけれど、実際は全く守られていないからこのように書いてあるのだ。
人の数が多いから、他人のことには構っていられない。血の繋がっているひと以外は人の数には入らない。自分がどうしたいかだけが関心事というのが群衆の中の大多数の中国人の生き方のように思える。汽車の切符売り場の前で列は作らない、バスに乗るときに並ばない、列があったら割り込む、などは当たり前のことで、この不作法にめげていてはこの国では生きて行かれない。 河南中路駅に着いたときは、降りるためにドアの直ぐ前にいたけれど、ドアが開くと我がちにホームから車両に乗り込んでくる。私は彼らに思い切り体当たりして人混みをかき分け、ホームに降り立つことができた。ここからはバンドが近い。
バンドとは何の意味か分からないので辞書を調べると、Bund:中国、日本などの港の海岸通りと書いてある。さらに調べると、語源はヒンズー語で、最初はインドで使われた。何故、インド、中国と日本の海岸通りだけを指す言葉なのかが問題ではないかと思う。英語では、海岸通りは、Water frontという言葉がある。
インド各地をイギリスはじめ西欧諸国が植民地化した時に、海岸通りが現地語ではBundと呼ばれていて、英国人はそこではそれをそのまま用いたに違いない。次に19世紀半ばに英国がアヘン戦争に勝って上海を手に入れて租界としたときに、その名前を持ち込んだのだろう。日本も同じ頃横浜が開港させられたが、その海岸通りは、日本から獲得した自分たちの通りという意味でBundと呼ばれたのだろうか。Water frontと呼ばずに、Bundと呼んだところに、東洋における自分たちの植民地という気持ちを感じる。
日本はその当時の中国のように屈辱的に租借地を取られたわけではないが、不平等条約を押しつけられてその後条約改正のために長く苦しむことになる。欧米人に虐げられた経験を日本人は持つのに、やがて立場を変えて同じアジアの中国人にその屈辱を強いたのだから、嘗ての日本人は罪深い。沈さんは無邪気にバンドと呼んでいるが、私はバンドという言葉は口にしたくはない。せめて外灘(ワイタン)という言葉を使いたい。外灘は、外国人の海岸通りという意味になる。昔の租界の一部にある海岸通りを指している。租界とは、上海に英国が作ったのが始まりで、そしてフランス、ドイツ、ロシア、アメリカが加わり、ついには日本が全部を手に入れて治外法権化した地域のことである。
この外灘の北の方には黄浦公園があるが、ここには「狗と中国人は入ることを禁ず」と書かれてあったという。沈さんは淡々と話しているが、胸が痛む。「八紘一宇」、「五族和平」など口ではきれい事を唱えながら、当時の日本の行ったことは隣の国の人たちへの差別、蔑視の上の大陸侵略だったことが明瞭である。
ところで、上海の母なる河といわれる黄浦江沿いの通りに1900年代初頭の重厚な建物が並んでいて、上海に落ち着いた雰囲気を与えている。目を転じて、川向こうの浦東地区を眺めると、現代の上海風景として知られているアジア一高いテレビ塔である東方明珠塔を始め、近代的な林立するビルが眺められる。上海風景としてポスターで見慣れた東方明珠塔を含む摩天楼の一画は、実は旧市街ではなくて上海の新開地だったのだ。
7章 上海博物館
人民広場は、上海が租界だった頃の競馬場を公園にしたという市内の中心地にある。その中でひときわ目立つ建物が人民政府で、その向かいには上海博物館がある。1952年に創立された上海博物館は故宮博物院、南京博物院とならぶ中国三大博物館のひとつだという。外から見ると上部は青銅器の形の円形、建物の下の部分は方形で、青銅の鼎がイメージされている均整のとれた美しい建物である。この建物は1996年に建てられた。中国古来の「天円地方」のイメージを現代と古典の融合した形に表しているとのことで、館の中央部の吹き抜けも感動的に見事な配置である。 吹き抜けのエスカレーターに乗って4階に上がり、沈さんが「私は少数民族の工芸品が好きです」というので、まずそこから展示品を見た。中国の少数民族は約50あるとのことで、彼らの民族衣装、生活用具が展示されている。衣装の模様は多くは染色、刺繍によるものだが、満族の衣装の模様は織られていて、しかも満族にだけ許された竜の模様が鮮やかに際だっていた。
次に古代玉器のコーナーに行く。この展示を見て気づいたのは、展示に近づくと薄暗いライトが明るくなり、人の近づく距離によって自動的に明るさの調節がなされていることだ。特に書法、絵画のところでは展示品保護に役に立っているに違いないが、自分の見るところ以外が暗いというのは、その展示品に集中できる効果がある。
中国の古代の話には「玉」が頻繁に出てくる。しかし今までは、「玉」とか、連城の「璧」といわれても今ひとつピンと来なかった。その「玉」をこの博物館で目の前に見て大いに満足した。解説によると、玉はきめ細かく色柔らかく、美しい石で、完璧、高貴、節操、不朽などの象徴とされていた。古代中国の人々は、天は丸く地は四角いものと思っていたので、丸い形の玉璧(平円形の中央に穴のある玉器)を作り天の神に祈りを捧げ、四角い玉(平面八角形の中央に穴の開いた玉器)は地の神に捧げた。玉に竜と鳳凰を彫り、装身具として身につけ、君子の高貴な生まれの象徴としたという。 そうか。昔の人はこれを装飾として衣服にぶら下げていたのかと心の中に思い描いて納得する。玉璧の円周に一部切れ込みのあるものもある。ケツ(訣の言偏が王)と呼ばれる。このケツをなでて、早く劉邦を殺せと項羽に密かにサインを送った鴻門の会の場面を思い出し一人で密かに喜んだ。
次は3階に降りて絵画および書法館を見に行く。沈さんは子供の時から花鳥山水画を勉強している。彼女の父方のお祖父さんは自ら画を描き、画を集めたとのことである。彼女にはその文人の血が流れているに違いなく、素晴らしい画を描く。わたし達の瀋陽のアパートには彼女が描いた花鳥画が贈られて、部屋の唯一の装飾として飾られている。
彼女の案内で踏み込んだ絵画館には唐宋時代の山水画、花鳥画から始まって、明朝時代に浙派と呼ばれた戴進や、文徴明、董其昌などの絵画がずらりと並んでいる。山水画に描かれている家というか小屋には、たいてい人が一人描かれている。wifeとこれは自画像に違いないと意見が一致してからは、そればかり探して館内を歩いてしまった。文徴明と董其昌は書も流暢である。画に添える字も大事だから、沈さんはさらに上を目指さなくてはなるまい。清時代の呉昌碩は乱暴に画を描いているように見えるけれど、巧みである。西洋で言うと、印象派にあたるだろう。
書法のところは、まず入り口の金文から始まる。亀甲文字である。秦の時代には隷書ができ、やがて漢代には王義之を代表とする草書、行書ができて、唐時代には楷書が完成したらしい 。楷書の手本として私も習ったことのある欧陽詢の書もあった。3人でどの書が好きか、品定めをしながら書法コーナーを歩く。3人とも気に入ったのは近代の康有為であった。 2階では陶磁器を見て堪能したあと、1階の中国古代青銅器に行く。入り口からこれでもかというように様々の鼎がずらりと並んでいる。それぞれ用途や形で違う名前が付いている。圧倒される思いで見て回った極めつけは、上海博物館の収集品として誇る最大の鼎だった。ともかく大きい。しかし精巧な細工がしてある。このように大きいものは実用であったはずがない。「鼎の軽重を問う」という故事があるから、各王朝に伝わった宝器そのものかも知れない。しかし何故、これが宝だったのだろうという疑問は、分からずじまいだった。
青銅器の終わりの方には大小様々な大きさの青銅製の鐘が綱に結びつけてあった。古代の楽器として使われたもので、テープでその音が流れていた。形と大きさからは想像も付かない軽やかな音だった。 最後に、特別展示の古代ローマ展も見て歩いて、10年前、炎天下をあえぎながら歩いたイタリア・ローマ市内に保存されている遺跡フィロ・ロマーノを想いだした。そのときは、当時私たちのいた東京工業大学の学生で、息子同様のNEKOちゃんと一緒の旅だった。
彼はその後米国ワシントン大学に留学し、今は日本に戻って理化学研究所の研究員となっている。今回は娘同様の沈さんが一緒である。10年後、この沈さんはどうなっているだろうか?
8章 豫園
上海の「豫園」というのは、明の時代、四川の役人を務めた人が親のために19年掛けて造営したという庭園だそうだ。上海に今この庭園が残るのも、賄賂、収奪に励んで懐を潤した役人のおかげである。その後その建物の一部は商店街になり、庭園の一部は「豫園」として保存された。商店街も「豫園」と呼ばれていて、東京の浅草に当たる庶民的な歓楽街として知られている。沈さんによると蘇州の拙政園を見た後では、庭園の豫園に行くことはない(ただしこれも中国四大名園の一つである)というので、歓楽街の「豫園」見物に行く。上海の人はここを「城隍廟」と呼んで親しんでいる。 「豫園旅游商城」と大きく額に書かれた門があり、豫園商場の始まりを告げている。門から向こうは整然とした建物が並んでいる。中国の昔をよく知っているわけではないけれど、その建物は昔風の建物だ。おかしな表現かもしれないが、横浜のチャイナタウンだと思わず口から出てしまった。つまり、中国のどこでもあまり見たことのない、言ってみれば、時代村の感じである。中にはいると、石畳の路に沿って店先に、食べ物、磁器、骨董、宝石、土産を並べた店がずらりと並んでいる。
「もう2時過ぎたから中は空いているでしょう。ここの小籠はわたし大好きで、瀋陽から戻ってくるたびにここで並んで、うちに買って帰るのですよ」と沈さんが言う南翔饅頭店は、この城隍廟の中心にある緑波池のほとりに建っている。店の外を人が取り巻いている。沈さんによるとこれはこの店で小籠を買っていく人たちだそうだ。私たちは彼らを尻目に二階に上がり、椅子に座ってちょっと待った。レストランの中には、西洋人とおぼしき人たちもいるし、観光の日本人と分かる人たちも見かけられる。 やがて大きなテーブルにと案内された。先客が二人いる。彼らは二人だけの世界に浸っている様子なのでお互い邪魔をしない。私たちは南翔小籠を三皿(一つに6個入り)とスープを注文した。店の奥を見ると、ガラス越しに中でコックさんが6人ぐらい集まって休む間もなく小籠を作っているのが見える仕掛けになっている。そのうちに同じテーブルにガイドらしい人と一緒に日本人と一目で分かる女性3人が入ってきた。動作ががさつで周囲の人への配慮や動きに繊細さがなく、同じ日本人として不愉快である。
なお、南翔小籠はもちろん小籠包のことだけれど、どうしてかここでは小籠包とはいわずに小籠と呼ぶ。沈さんに教わった小籠の食べ方は、「中の汁が絶妙なのです。まず端を噛んでそこから中の汁を吸いとります。そして、その後酢をつけて食べます」ということだった。やがて、注文の品が届く、蟹肉入り小籠と豚肉小籠である。教わったようにして端を噛みとってチューチューと中身を吸い出す。うま味が口中に広がる。蟹肉入りの方が、味が微妙に複雑でおいしい。生姜を入れた酢につけて食べると、これがまた旨い。 となりの日本人にも同じく南翔小籠の皿が運ばれてきた。見ているとガイドらしい人は、沈さんのいうような食べ方をしているが、他の人は、がぶりとかじりついて、中の汁をぼたぼた下に落としている。一回は横にプチーとはじけ飛んできた。ガイドが教えればよいのに。わたしが習ったばかりの小籠の食べ方を教えてあげようか。だけど、先ほどからの彼らの無神経な動きが許せなくて知らん顔をしてしまった。彼らが汁をはね散らかしている間、私は心の中で快哉を叫んで「いじわる爺さん」に徹していた。
食べ終わって南翔饅頭店をでると目の前が緑波廊酒楼といって、イギリスのエリザベス女王やアメリカのクリントン大統領などが食事をしたところだという。クリントンが食べたのと同じ食事が250元で食べられるという話だ。セックススキャンダルが明るみに出て苦境のクリントンが中国訪問をして、学生と自由な討論をして中国では大いに人気をあげたことを思いだした。 向かいの店では城隍廟の特産として名高い「五香豆」がある。空豆を中国ではその形から蚕豆と呼ぶが、この蚕豆を塩ゆでにして乾かしたものである。堅い。しかし噛んでいると、適度な塩気と豆のうま味が出てきてなかなか止められなくなる。趙さんの同級生の恋人が卒業実験で上海の研究に来ていたとき、その土産としてこれを持ってきてくれたので、すでに馴染みである。
この「城隍廟」の中心の直ぐ横に、上海城隍廟がある。浅草で言うと仲見世の奥に浅草寺があるという感じである。入ると小さな線香の束をくれた。これに火をつけて、お金を払って買った長い線香の束に火をつけた人たちと並んで、旅行安全、沈さん一家の繁栄を願ってから大きな炉にいれた。そこから上がる煙りを手に受けて頭や身体中につける動作を繰り返す人もいる。これは日本人である。中国人はこのようなことをしない。
堂の中にはいると大きな立像が3体並んでいる。その前で沈さんは跪いて3回跪拝を行っていた。立ち像はこの街の保護神で、明朝を始めた朱元璋が任命した秦氏が祭られているらしい。 ここをでると雨が降り出した。雨を避けて近くのデパートに飛び込む。デパートといっても観光客相手の大きな3階建ての商店である。1階には扇、小物、絹織物、上に行くと絵画、置物など凝ったものが置いてある。見て回っているうちに、珊瑚のすてきなブレスレットがあって、沈さんに買ってあげようということになったのだが、彼女はしきりにいらないという。遠慮しているのだと思ったけれど、とうとう「それは嫌いです」といわれてしまったので諦めた。 中国に行って覚えたことに、相手の遠慮は礼儀としての遠慮であって、本心ではないというのがある。何かの手伝ってくれたときのお礼も、誰もが直ぐには受け取ってくれない。初めは日本的に、二回くらい「とんでもない」と言われると、勧めるのを止めてしまったが、そのうちどうもそれではいけない。3回断られたら4回、4回断られたら5回勧めなくてはならないことを覚えた。今回もあとでわかったのだけれど、彼女の断りは遠慮によるもので、本気ではなかったようだ。しかし「嫌い」といわれたので、それ以上は押せなかった。
よく言われることだが、女性のNOはNOではなく、YESかも知れない。男はそのサインを見抜かなくてはいけない。女性のNOを見抜く修行は積んだはずだけれど、残念ながら鈍ったらしい。
9章 石庫門
沈慧蓮さん達は現在の上海の商業中心地になってしまった場所にむかしは住んでいて、上海再開発のために1991年に今の浦東地区にアパートを買って引っ越した。それまでは石庫門と呼ばれる上海独特の、いってみれば二階建て長屋に住んでいたそうだ。
豫園の近くにも上海の人たちがそれまでの生活を守っている場所があるというので、沈さんに付いて歩き回った。「あっ、こういうところです。この門を入ると石庫門が沢山あるのですよ」といって懐かしそうに門を見上げている。ふたつのアパートの間に門を付けたという趣だ。このような門は弄堂と呼ばれるという。
背景として上海の近代的なビルが見えるけれど、このあたりは今の近代的な上海のイメージは全くなく、庶民の生活がもろに現れている場所である。
2-3階建ての小さな店がびっしりと並んでいて、店先には人々がたむろしている。歩道に簡単な椅子を持ち出して、店中の人たちが近隣の人たちとおしゃべりをしながら風に吹かれて涼を取っている。そのような中を歩いていくうちに「ここで曲がりましょ」言って白い塀のところでひょいと曲がる。
幅が1.5メートル位の細い路で両側には二階建ての長屋が続いている。「ここが典型的な石庫門ですよ。ほら二階の屋根から勾配と逆の方に突き出ている窓があるでしょ?あれが鳥口窓といって、良くあそこからでて、屋根の上で遊びました」という。
見上げているとぷんと日本でも昔なじんだ臭いが鼻に届く。厠と書いた白い小屋が路の脇にある。沈さんに聞くと「石庫門の長屋にはそれぞれにトイレがなくて、共同でした」とのことだ。北京では胡同が崩され、上海では石庫門が取り壊されて昔からなじんだ庶民の暮らしの場所が消えていく。暮らしは明らかに便利になっても、それとは引き替えに人々が失うものは多いに違いない。 夕食は白さんの家で上海蟹のごちそうになる。10月頃が食べ頃だとのことだけれど、それでも卵を持っていて生姜と酢を付けて食べた上海蟹は大変美味だった。ただし殻を剥くのは手間である。殻ごと食べられる蟹があるといいなあと思いながらも沢山の蟹を食べてしまった。
上海最後の夜は、上海雑伎団を見に出かけた。中国の雑伎は数年前に日本にも来ているし、テレビでも良く紹介するようになったので、今は広く知られている。一口で言うとサーカスである。中国には各地に雑伎専門の学校があり、子供の時から厳しい訓練を積んでいる。それに耐えて技術を身に付けて、さらに選ばれたものだけがこの雑伎団の演技に出られる。今回の旅行に出る前に、上海で雑伎団を見るんだと言って張り切っていたら、研究室の王麗さんは「瀋陽にも雑伎団はありますよ。上海で評判の人はみな瀋陽出身です」という。そうかも知れないけれど、瀋陽では見に行ったことがない。何時か瀋陽で見に行こうねと王麗さんとは約束がしてある。
90分の間、様々な演技が展開された。男性・女性数人による跳板は、シーソーの反動を付けて飛び上がって人の上に人を積んでいく演技で、これを見たくて上海雑伎団に出かけたのだった。立っている一人の男の肩の上に男が2人がすでに立っている。シーソーの板に慎重に載った男が、シーソー板の反対側にやぐらの上からふたり組が飛び降りると、跳び上がりうしろむきにくるくる廻りながら、見事に立っている男の上の3人目となる。さらに今度は女性が跳び上がって、4人目に収まった。飛び上がって見事に後方の高いところの肩に収まるバランス感覚も、新しい衝撃に備える4人のバランス感覚もその見事さは信じられないものがある。見せ物だから当たり前といってしまえばそれまでだけれど、人の持つ能力はすごい。オリンピックの体操で、もしこのような種目があったら、中国がメダル全部をさらってしまうだろう。
おきまりの女性の身体のしなやかさを見せつける演技もあった。ここで演技する女性はあくまでもしなやかに身体が柔らかい。後ろにのけぞって、足の間から頭を出した二人が動いているのを見ていると右か左か上か下か、こちらの意識感覚もおかしくなってくる。
一番最後の演技では、まず場内が暗くなり円形舞台後方で幕が静かに上がっていく。幕が上がりきって照明がつくと、そこには球がある。直径8メートルくらいだろうか。この球は金網でできている。この球はずっとここにあったのだけれど、幕で覆ってあってそれまでは気づかないようになっていたのだった。やがて舞台の後ろから腹に響く排気音と共にバイクが1台飛び出してきた。西部劇ショウで見るような赤色を基調に派手な衣装を身につけた男だ。彼のバイクは球の下腹に付けられた扉から球の中に導かれて、扉が外から閉められた後、球の中を回り始めた。だんだん速度が上がって球の赤道の内側を回り始める。これができれば、次は球の上下を通る軌道を描くだろうと誰でも思う。そしてその通りだった。次は青色の同じく派手な衣装を付けた男のバイクが登場して、2台で球の中に軌跡を描き始めた。やがて2台のバイクは直交する軌跡を描き始めて、こちらははらはらしながらも、このくらいは当然できるに違いないと思ってしまう。でも、さらに白色の衣装の男のバイク、黄色の衣装の男のバイクが加わって4台が球の内部を駆けめぐり始めた。
4台はまず同一円周上を駆ける。バイクの間にはバイク1台分の間隔もない。その軌跡は赤道上からだんだんずれて天と地を通過するように変わっていく。と思うと、2台ずつに分かれて直交する軌道を描いて交差する。私は緊張で、手のひらに汗を握るというのが嘘でないことを実感した。
「もうこれで十分、もう止めて」と思っていたのに、なんと、あと2台のバイクと女性のバイク1台が加わって、合計7台が球の中に入って轟々と疾駆する。場内は暗くなり、バイクはライトに点灯してただ光の軌跡が球を描いて駆けめぐる。とても人間のできることとは思えない。もういい、事故の起こる前に早く止めて、とただ祈る数分間だった。
これで私たちの上海旅行は終わり、翌朝、沈慧蓮さんたちに上海浦東飛行場で別れを告げた。一家をあげて歓待して下さった沈慧蓮さんや彼女のご両親に、この次会えるのは何時だろうか。そのときまでには中国語でちゃんと話ができるようにしておこう。
2004年8月1日〜5日までの上海・蘇州・杭州への旅行の印象をまとめたものである。
上海・蘇州・杭州を快く案内してくれた沈慧蓮さん、および歓待して下さったそのご両親の助けなしにはこれが書かれることはなかった。
ここに記して衷心より感謝する。
山形 達也