2007年8月14日 (火) オープンラボの計画
夏の3週間日本に行っていた間のこと、電車に乗ると自然と壁の広告に目がいく。つり広告の週刊誌のタイトルを見ているだけで、世の中の動きについて行けそうな錯覚がもてる。
広告の中では「オープンキャンパス」というのが目立った。いまの時期が夏休みなので、受験生に自分の大学に目を向けて貰う絶好の時期である。大学の宣伝と 言っても、○○薬科大学とか、○○大学薬学部のオープンキャンパスばかりである。この一二年で薬学部が増えたので、生き残りをかけての激しい競争の表れの 一端だろう。
このオープンキャンパスを私たちの所でもやろうという話が出てきた。正確に言うと研究室の公開なので、オープンラボである。私たちのところで1年近く過ごした学生の楊方偉くんが言い出したことである。彼によると、「ここに来てみて初めて分かったけれど、この研究室は素晴らしいところです。」でも学生の間でこの研究室はよく知られていないという。「宣伝して学生に分かって貰わないと、学生が来ませんよ。」
「今までだって特に宣伝をしなくても、学生が、しかもより抜きの優秀な学生が集まっているのだから、いいんじゃない。」と私。「だって、先生、日本語を話すことのできる学生に、しかも男の子に来て欲しいのでしょう。」と楊方偉くん。
こ れは図星である。うちの研究室には(学業成績の)最優秀の学生が集まっている。初期の頃は日本語を勉強してきた学生が多かったが、だんだん減って、あと1年すると、大学院学生の中で日本語を話せるのは陳陽くんただ一人になる。男女の比も初めは半々くらいで、女性が7-8割である薬科大学の中では男子が多かった。でもこの夏の終わりが新学期となる今年度は女子学生2人が入るし、来年度も女子学生2人に来ても良いと既に言ってある。そして1年後には男子学生も陳陽くんだけとなり、2年後にはゼロとなってしまう。
東工大の時の同僚に、女子学生は絶対取らないと公言する教授がいた。国家予算を使って教育をするのだから、歩留まりが高い方がよい。いくら教育に力を入れても、女子だと結婚、出産でやめてしまうこともあるのでこれでは投資効率が悪い、と言うのが表向きの理由だ。女性が研究を続けていくとしても世間は狭いし、昇進では絶対的に不利なのが現状だ。従って自分の弟子が男子なら自分の勢力範囲はどんどん広がって行くけれど、女子だとそうはいかない。だから男の学生しか欲しくない。と言うのが本音である。
今では女性を全ポジションの○%にしようという動きを見せる大学もあるけれど、このようなお仕着せのやり方にはどちらの側も反発しているようだ。私の娘は名古屋大学の助教授だったが、この動きが始まった途端に、大学を辞めて研究所に移ってしまった。
私 は男女の違いについてよく知っているつもりだし、出身が男女平等を実践していた江上不二夫教授の所だったので、女子だからと言って何ら偏見はないが、研究室は男女の比が半々というのが健全だと思っている。力仕事は女子向きではないし、機器が故障しても女子では面倒を見きれない。女子だけになったら困る。
研 究室の公用語は英語にしていて、ふだん英語を喋っていて違和感は全然ないけれど、日本語を話す学生に用があれば日本語を使うし、大体妻と話すときは例外なく日本語である。日本語を使うのは楽でいい。研究室で日本語が通じる学生が一人もいなくなったとき、どうだろう。やっていけるだろうか。
アメリカにいたときには日本語を使う機会は滅多になかったけれど、それでもやってきたわけだ。しかしあとの2年して研究室中見渡して日本語が全く通事ないというのは悲しいことだろう。
と言うわけで、楊方偉くんの提案に乗って、オープンラボを計画し、日本語の話せる(できれば男子)学生をリクルートしようと言うことになったのである。
第一のターゲットはこの秋に最終学年になる日語班の学生である。ついで第二のターゲットは英語班で、そして最後のターゲットは一般の学生ということになる。
2007年8月31日 (金) オープンラボの実施
楊方偉くんは大学院で北大に進学することになっていることもあって、薬学系の大学の動きに詳しく、中国にい てもインターネットでオープンキャンパスの状況を見ているらしい。「やっぱりやらなきゃ駄目ですよ。」と言って私をプッシュする。学生を集めてどのような話をしたらよいかまだ考えがまとまるよりも早く、楊方偉くんはポスターを作って持ってきた。
「がんの転移機構を解明するあなたを待っている」と最初に横に大きく惹句が書いてある。引き続いて「山形研は貴方の加入を待ってるよ!」「日本語ができる学生は大歓迎!」「ここでは貴方を鍛える絶好のチャンス!」と縦に赤い字でキャプションが続いている。そのあとに続く説明は私たちの研究室のホームページに載せた広報スライドから取ったものだが、たいしたものだ。宣伝として簡潔でしかもそのものズバリだ。
楊方偉はこれをA4サイズに印刷して日語班の学生に配るという。やがてもう申し込みが12人を越えましたと言ってきた。学生の都合を聞いて決めたオープンラボをする日が迫ってきて、私は一日をつぶしてその時の話の準備に追われた。
やがて8月31日のオープンラボの日が来て、午後2時学生が教授室にやってきた。どんな学生がいるだろう?
入ってきた顔を見ると半分以上顔を知っている。私が生化学と分子生物学を教えた薬学日語が9名。一度も教えたことのない中薬日語が5名の合計14名だった。その中で男子学生は2名で、薬学と中薬からそれぞれ1名ずつだった。さあ、何人が私たちの部屋に来たがるだろう。
パワーポイントで作った紹介は、「研究が大好きな学生だけを受け入れます。将来金儲けしたい学生はお断りです。」で始まるものだった。
「研 究ほどいい商売はない」というのが私の持論である。研究というのは好きでなければ出来ない。嫌々では一時は良くても一生続かない。研究者というのは自分の好きなことをやって、そして給料が貰えるのである。これは人生最高の仕事の一つではないだろうか。もちろん稼がなくても生きていけるだけの富を手に入れる のは、昔から人々の理想だったし、いまでもそうかも知れない。でも普通の身分に生まれてしまえば有産階級であることは望みようもないのが現実だから、働いて生きるとすると、研究者は最高だという話になるのである。
研究をするには好奇心が旺盛でなくてはならない。研究者はひらめきがなくてはならない。研究者は考えを人に頼ってはいけない。研究者は自分の頭を使わなくてはいけない。研究者は根気(根性)が必要である。研究者はすべからく楽天的でなくてはならない・・・・・。
好きなことが出来て生活が出来るにしても金儲けには縁がない。少なくとも基礎研究は、金儲けと考えた途端におかしくなってしまう。金儲けをしたい学生はほかにたくさんある研究室に行ってくれればよい。
続 いて「山形達也・山形貞子研究室は所属の学生を世界一流の研究者に育てることを目標にしている。」で始まる研究室の憲章を紹介した。憲章は国の憲法にあたるもので、私たちと学生との約束である。これは私たちの学生への約束である。これは「したがって研究者を目指す学生・院生は、これに応えて研究を生活のすべてに優先しなくてはならない。」という学生側の約束に続くわけである。
研究内容を紹介した。急ぎすぎないようにして、時間を掛けるために私が日本語で話をして、それを楊方偉くんが中国語にして話した。時間を掛けた方がよく分かって貰えると踏んだのだったが、やはり難しすぎて付いて来られそうもないので、大分はしょってしまった。それでも1時間掛かった。
そのあとかれら14人は7人ずつ2つの班に分かれて、一つは楊方偉、もう一つは陳陽に率いられて、実験室で先輩たちの実験を見学しに行った。楊方偉は薬学日語の彼らの1年先輩であり、陳陽は中薬日語出身の学生たちの2年先輩である。ザイモグラフィの十実験の様子と、電気泳動のあとのゲルをイメージアナライザーで分析する所を見せたのである。
終わってからまた教授室に戻ってきた彼らにお茶とお菓子を振る舞った。楊方偉と陳陽が中心になって彼らの質問に答えている。やがて「先生、一緒に写真に写って下さい。」と要望されて全員の写真を撮って終わりになった。
学 生が「先生のメイルアドレスを教えて下さい」というので名刺を渡して、「ほかにも誰かまだ欲しい人はいる?」と私はほかの学生に名刺をかざして訊いた。すると陳陽はそれを見ながら言うには、「先生は自分で名刺を配っているけれど、私は沢山の学生から私の電話番号を訊かれて教えましたよ。すごく違いますねえ。先生の人気を取ってしまってごめんなさいね。」と言いつつ、にやにやしている。老クジャクが若いクジャクに勝てるわけがない。分かっていても、忌々しい。嫌みなやつだ、ほんとに。
2007年9月25日 (火) 中秋節の羊蝎子
中秋節、日本で言う仲秋の名月の日は農歴8月15日で、今年は9月25日だった。この日は満月が欠けていないように、中国では家族が全員そろってお祝いの宴を囲む。この日のための月餅を食べる。
この中国の習慣を知った中国滞在2年目は、うちを離れて瀋陽の大学の私たちの研究室で過ごしている学生を家族と見立てて、私たちの部屋に皆が集まって仲秋の宴を開いた。
と ころが、瀋陽に家族のある学生もいるし、恋人のある人たちもいる。それで、翌年からは、このようにうちのある人や二人連れは除いて、正真正銘、この日には誰とも約束のない行き場のない人たちを招いて一緒に食事をしてきた。昨年は10月6日で、近くの老婆湯という火鍋(しゃぶしゃぶの店というと一番近いと思う)に行った。その時は、その数日前に夫の胡丹が日本に留学してしまって一人残された秦さんのほか、王毅楠、陳陽、暁艶がいた。
今年は暁 東、陳陽、暁艶、徐蘇と私たちの二人を加えて6人が、老誠一鍋という店に行った。この店には以前来たことがあったけれど中がすっかり変わっていて、つまり私たちにとっては新しい店だった。何の店か私には分からなかったが、テーブルには電磁コンロがおいてある。火鍋の店だ。個室を聞いたらすでに一杯であいていないという。それで大きな平土間の奥のテーブルに案内された。8人がけで中央に穴が切ってあって中にコンロがある。
メニューを見て陳陽と暁東が選び始めた。私の右に座った妻はその右側の暁艶と徐蘇と英語で話している。暁東が片言ながら日本語を話すようになったので、陳陽を加えた三人のこのテーブルの左側は日本語だ。
す でに食べ始めている人たちを見るとディスポの手袋をはめて左手で骨の固まりとおぼしきものを握り、右手の箸で肉を骨からほじって食べている。「あれ、何?」と訊いたけれど、分かって見れば馬鹿なことを聞いたものだ。これは羊の骨のぶつ切りを煮たもので、これがこの店の看板料理の「羊蝎子」なのだった。羊をいう字が蝎に見立てられている。北京以北で見られる特別の料理なのだそうだ。新疆ウイグル自治区から来ている暁艶によると新疆は羊肉の本場だが、この「羊蝎子」料理はないという。
やがて洗面器に山盛りの羊の骨が運ばれてきた。これが「羊蝎子」だった。この骨を煮たスープがそのあとの火 鍋のスープになる。このあとそれで羊肉、野菜、キノコ、豆腐、昆布、粉皮などを煮ながらたべるわけだ。粉皮は日本の春雨の親分みたいなもので、太いので春 雨みたいな頼りなさがなく、出汁を吸ってとても美味しい。これを知って以来日本にはこれを持って帰って鍋に必ず入れている。
「羊蝎子」と は羊の背骨のぶつ切りで、肉を取ったあとの肉が残っているのをそのまま煮たものだ。日本料理の魚のあら煮と同じで、肉を取ったあとの面倒なところは煮て、客に好きに食べて呉れよというものだ。手間がはぶけて、店にも客の双方にも良い訳だ。日本料理の魚の頭は決して安くないけれど、この「羊蝎子」は安くて、そしてこのスープで味が付いて美味しい。背骨の中心を箸で突き刺すと白い脊髄神経が出てくる。
「羊っていえば、狂牛病の本家本元だよ。スクレイピーになった羊の死体もそのまま粉々にして牛の食べ物の中に入れたからイギリスで牛が狂牛病になったのさ。スクレイピーは中枢神経と脊髄にもあって、こうやって煮たって変性しないから感染力は落ちないそうだよ。」と知っていることを学生たちに教えつつ、羊の骨を手に掴み取って肉をむしり取り口に運ぶ。うまい。
学生はスクレイピーの名前は知っていても、私の言うようなことは全く知らない。私はこの歳になれば狂牛病が怖いどころか、スクレーピープリオンに感染すれば短期間で死ねるから、ぼけて人に世話になりならが生き続けるよりいいかも知れないと思っている。勿論若い人は別だ。幸い中国で発病したということは聞いたことがない。勿論、それを聞いたことがないだけだという人もいる。
私の左側では日本語、右では英語、時に全体で中国語や英語が飛び交いながら、楽しい食事が終わった。ちょっと早目に来て良かった。店はもう満員である。どのテーブルにも「羊蝎子」が来ている。これが当然のメイン料理なのだ。瀋陽に4年にいて知らなかったが、火鍋料理としては最高に美味しかった。火鍋では初めて満足したという感じである。
帰 りは東の空にあがった月を眺め、多くの人たちが、そして私たちの多くの友人や知己も今夜のこの月を眺めているのだなあとしみじみと思いつつ帰途についた。「満ち足りて 比翼の鳥の 月見かな」これは四十五年前、仲良しの友人に当てつけみたいに書いて送った私の腰折れである。瀋陽生まれの彼は、元気に今宵の この月を見ているだろうか。
2007年9月28日 (金) 前途多難
8月のオープンラボ計画は、私たちの研究室の1年後には男子学生が1名だけ、日本語を話す学生が1名だけに なってしまうと言う私の危機感を知った楊くんが言い出して、計画されたものである。その時点で、来年秋にこの研究室に進学したいという基地クラスの女子学生が2名いたけれど、英語遣いの彼女たちが来ても事態は変わらないからである。
オープンラボの時14名の日本語班の学生が来た。そのあとぽつりぽつり、会いに来る学生があって「先生のところで専題生になりたいです」と言ってくる。専題生とは卒業研究のことで、最終年度の3月から6月まで研究室に来る。ただし専題生でもそのあと修士課程に進学する学生でないと意味はない。
現在まで修士課程で私たちの研究室に入りたいと言ってきたのは2名の女子学生、これ以外に専題生として来たいと行ってきたのが女子2名、男子1名だった。女子2名は日本の大学院進学志望で、男子学生は日系企業に就職希望である。私たちはこれらの学生にすべてOKを出した。今まで卒業研究の学生は4名を採ったのが最高で5名を採ったことはないが、一度は経験してみよう。修士希望の学生は、来年1月に大学院の試験を受けなくてはならないから、通るかどうか分からない。昨年の宋明さんが入試に落ちて以来、ここに来る修士学生は成績抜群で入試突破という神話が崩れた。
実はもう1名推薦入学で修士課程に入りたいという中薬の女子学生がいた。大歓迎だったけれど、そのあと、推薦枠で別の学科に進学できるのは2名までで、私は3位なので先生のところに進学できないと言って断ってきた。残念だし、進学の仕組みがよく分からないが、仕方ない。
既にこの春までに私たちのところに来て、来年秋には修士課程に入れてほしいと言ってきた基地クラスの女子学生が2名いた。彼らは6年コースで、学部から修士に推薦で進学できる。免除されているのはそれだけに何時も厳しい試験があるからで、生き残ったものだけが推薦で大学院に進めるのだ。彼女たちも春からは研究室のセミナーに参加していて、7月には来年の進学についてOKを出した。
私たちがウルムチの旅から戻ってきた翌日の9月20日、この二人が陳陽と一緒に至極神妙な顔をしてやってきた。陳陽が日本語にして言うには、「お疲れのところ済みません。でも、複雑な、しかも急ぎの話なのです。」
話を聞くと、彼らのいる基地クラスは正確には「国家生命科学与技術人材培養基地」で、修士の進学に当たり通達があったという。大学院の1)指導教官は企業と連携して研究教育をしていなければならない。2)企業と2項目以上の共同研究を掲げていなくてはならない。3)指導教官は過去2年間に10万元以上の研究費を得ていなくてはならない。4)指導教官は、、、。そして、もしこれを無視して大学が認めない研究室に進学したら2年後に修士論文の発表は無視すると大学側が説明したそうだ。脅迫して、大学側の意向を押しつけている。
びっくり仰天である。今でも、というか現に今修士1年にいる二人の女子学生は彼らの1年先輩に当たるけれど、進学について何の条件もなかった。私たちは企業とは何の関係もない。この条件は今年、まるで私たちのところに来るのを妨害するために作ったみたいじゃないか。
どうしたら良いのだ。彼女たちに聞くとこの研究室に来たいという。でも来年度の進学研究室希望の提出は今日中なのだそうだ。この通知は1週間前に出されている。私たちが旅行で不在の間だ。だから何も知らずに何もできないうちに期限が来てしまっている。
学長に電話したが不在だった。国際交流処の処長もいない。生命科学院の主任の小張に電話を掛けたら捕まったので事情を話した。だけど、彼女はこれは大学が決めたことだから仕方ないと思う、けれどこの件に関わっている楊教授に聞いてみようと請け合ってくれた。
あとで電話が掛かってきて説明を聞いた。それによると、この基地クラスは元来企業側に役立つ学生を育てるのが目的で作られたものだという。基礎科学ではなく応用研究のトレーニングを積んで企業に送り出すのが目的なのだそうだ。「今年度中に国家教育局の査察が入るからこの制度を厳格に運用していないと、この基地クラスがここにあるという特権が取り消されてしまうので、今年は特に厳格に適用することになった。先生、この件はあきらめてくれ、」と言う。大学側の事情も分かった。それに楯突いても誰の得にもならない。女子学生の王夏路、胡楠さんの二人には短い縁だったけれど、この先彼らの上に良い将来があるよう願って別れたのだった。
幸い、楊方偉の先見の明でオープンラボが企画されたので、ともかく人材を確保することが出来たのである。この楊くんは北大大学院から入学許可を貰い、今ビザの申請をして10月初旬に日本出掛ける日を待っている。
2007年10月18日 (木) 機器の使い惜しみ
細胞の表面を蛍光で染色してこの蛍光強度を記録することの出来る機器がある。原理はflow cytometry (FACScan)と呼ばれて、生命科学の分野では広く使われている。細胞にどんなタンパク質が発現しているかを知りたい時に、このタンパク質に対する抗体を使い、この抗体が蛍光を出すようにすれば、簡単にそれが調べられる。機器は色の違う蛍光に同時に対応できるので、細胞が発現している2種類以上のタンパク質についての情報が同時に得られる。薬科大学にもこの手の機器が今年の初めにやっと入った。
私たちはこの機器を使って、細胞のアポトーシスを調べ始めた。細胞は自分の遺伝子の中にいずれ細胞が死ぬというプログラムを組み込んでいる。例えば遺伝子の複製がうまくいかなくなると、細胞は異常な細胞を増やす代わりに自分の死を選ぶ。栄養が足りなくなると、細胞は自殺する。細胞は自分の異常を感知して、自殺装置にスイッチを入れて死んでしまう。これをアポトーシスと言って、細胞が外から殺されるネクローシス(壊死)と区別している。
アポトーシスの時には自分の遺伝子であるDNAを分解する酵素を活性化して、DNAを断片化するので、断片化したDNAを調べることでもアポトーシスが分かる。細胞の中の特別なタンパク質分解酵素も活性化されるので、これを調べてもアポトーシスが起こることが言える。最近では、アポトーシスの進行に先駆けて、細胞膜に変化が起こり、これを認識する分子を使ってアポトーシスが進行し始めたことがわかる。つまり、先ほどのflow cytometryを調べることの出来る機器、flow cytometerの出番である。
薬科大学に入った機器はB&D製の普及機で、一寸した講習をすれば使用希望者が誰でも使える機器である。すくなくとも日本では、学生でも使い方を習って使用者が自分で機器を使っていた。その方が能率がいい。使いたい時に機器を使って測定できることが研究の能率向上につながる。
ところがここでは、teacherという大学のスタッフの管理下にあり、彼女が測定をしてくれる。いつでも測定に応じてくれるなら、簡単で良いシステムだが、彼女は大学院の学生でもあり自分の研究も持っている。ということは、週に1回の決まった曜日にしか測定をしてくれない。
こちらは調べるものが細胞なので、細胞の増殖が思ったよりも速いこともあったりして、何しろ生き物だから予め予想した日に実験できないこともある。となると次の週まで結果が出ない。この測定を能率的にするにはどうしたらいいだろう?
機器が週いちでしか使えないとこちらの実験が全く進まない。せめて測定の回数を増やして欲しいと何度か申し入れたが、全く反応がない。それで、私たちの学生にメーカーの研究所に出掛けていって講習を受けて、言ってみれば機器使用のライセンスを貰って、この学生が自分の実験で使いたい時に使えるようにしたらいいのではないかと思いついた。
flow cytometryを必要としている学生に訊くと、講習を受けに行ってもそのあと機器が自分で使えるようになるら、1週間やそこらなら出掛けて習って来るという。技術が身に付けばいずれこれが身を助けるかも知れない。既に書いたように、日本でこの手の機器を使う人たちは自分たちで操作している。
このことを機器を管理する先生に申し入れようと思って、はたと思った。ここは日本ではなく中国だ。機器を使用者に使わせないというポリシーを、私たちが申し入れたくらいで変えるだろうか。
生 化学実験になくてはならない超遠心機は25年前の古い機器1台に加えて、別の学部に新しい日立の遠心機が1台ある。これを使わせてもらうと、1万回転1時間で100元の使用料を取られる。6万回転16時間という遠心をすると9600元の費用がかかる。ということは年間5万元の研究費しか貰っていない私たちとしては実際上使えない。なお、flow cytometry (FACScan)の機器は嬉しいことに1回5元という大衆料金である。
機 器はあると言うことを自慢するためではなく使うためにある。機器を使って良い研究をして優れた論文を書くことが大学の使命だろう。しかし、機器が壊れた時にどうするのだと言うことだろうが、機器を使い難くして研究を結果的には阻害するポリシーがこの大学にある。私が言ったくらいで変わるとは思えない。
そ れで、この機器のオペレーターに、共同研究を申し込もうかと思う。つまりこちらの試料の分析を喜んでやってくれれば、それが論文になる時に彼女の業績にもなると言う取引である。もちろん彼女の背後の管理の教授も仲間にするしかないだろうが、どうだろう。これがうまくいくだろうか。
2007年11月1日 (木) 陳陽との攻防
「先生。あの先生の名前を教えて下さいな。」そういって私に嘆願しているのは陳陽くんである。「駄目、駄目、そんなに簡単に教えられないね。今度、食事くらいおごったら教えてあげるよ」と私。場所は学生食堂で、夜の食事をしながらおしゃべりをしている。
こ のところ夕方うちに帰っても断水にぶつかることが多い。夜の7時半から8時頃にならないと水がでない。断水の間は夜の食事を作ることが出来ないから、冷凍庫に入れておいたご飯を暖めて缶詰のおかずで食べるか、あるいは水が出るまで待つかしかない。そういうわけであまり好きではない食堂にこの頃は夕方になって時々来るようになった。
「先生。いいじゃないですか。意地悪しないで、あの先生の名前を教えて下さいよお。」と陳陽はラーメンを食べながら悲鳴混じりの声を出している。「先生は私のライバルじゃないんですから、教えたっていいでしょう。」とごく理性的な線で私に迫ってくるが、こういう時に陳陽をからかうのは快感である。簡単に教えてしまったら、楽しみは終わってしまう。
何しろ陳陽は言ってみれば「孔雀男」である。と言っても分かり難いかも知れない。私はここでは「老孔雀 開屏」と酷いことを言われている。これは年老いたオスの孔雀が、昔の夢を忘れかねてメス孔雀の前で尾羽根を広げるがメスからは一顧もされないと言う、悲しくも、残酷な比喩である。
それに比べて若い陳陽は際だっておしゃれな男で、背の高い東北人の中でも飛び抜けて背の高いことも相まって薬科大学中名前がとどろいている。本人も整った自分の顔がだいぶ気に入っているようである。
と言うわけで私たちの研究室には老孔雀と年の若い綺麗な孔雀がいることになって、したがって事ごとに角突き合わせているという構図が面白くて私は気に入っている。もちろん、相手を気にしているのは老孔雀の私だけであって、年の若い孔雀の方は私のことなど気にも留めていない。
先の土曜日は私たちの研究室でPC講習会と映画上映を行い、終わってから食事に出掛けた。もちろんPCの講習対象は日本人教師の会の先生たちだが、私ひとりだけでは手が足りず、PCに強くて日本語が話せる陳陽にも助けてもらった。
ホームページ作成には私もWindowsを使っているけれど、Windowsマシンは本職ではないので、機器のメンテなどは陳陽に頼むことが多い。陳陽も以前から何度も会ってすっかり気に入っている池本先生も現れることになっているので、喜んで引き受けてくれた。
教師の会のこういう活動に興味を示してくれるのは若い先生が多いので、集まった先生たちは女性ばかりだった。だからと言うわけではないが、日本語が上手な陳陽はこういう時に役立つのだ。実際、一人では手が回らないからPC講習の時に手伝って貰ったのは正解だった。
3 時からは研究室の日本語専攻の学生も含めて「下妻物語」を観た。この映画は世の中の、と言うか私の常識からはぶっ飛んでいる女子高生が二人出てきて奇想天外な物語を展開するのだ。終わってみれば映画にすっかり引き込まれてこの二人の間に紡ぎ出された友情に納得していたのだった。
そのあと陳 陽も誘い、皆で揃って医科大学の日本人留学生が開いている故宮近くのレストランに行った。火鍋がこのレストランの売りで、このように寒くなると火鍋はぴったりである。ただしこの日は氷雨が降って零度に温度が下がって、タクシーも止まってくれないから行き着くのに難渋した。
食事だけ参加する 人たちもいて全部で9人が卓を囲んで火鍋を楽しんだ。その中でも一番人気のあったのは陳陽である。9人の中の新顔だし、全体の中で唯一の中国人で、日本語が話せて、しかも甘いマスクをして、女性に甘えるのがうまい。皆から「陳くん」とか、「陳さん」とか呼ばれて喋るのに忙しく、終わってみると「あれ、陳くんはあまり食べなかったわね。ってことは、私たちが一杯食べたのね。」と言われるくらいおしゃべりに引っ張りだこだった。
さて、そのあと のこと。「先生、あのときの先生たちは私のことは陳陽って知っているのに、私は池本先生しか知らないんですよ、ほかの先生の名前を教えて下さいな。」と私に迫るのである。「だって、先生たちの名前を知らないのは失礼でしょ?」と当然のことを言ってくる。教えない私には理がない。だけどすんなりと教えたら面白くない。と言うわけで、しばらく攻防戦が続いたが、それも食事が終わって部屋に戻るまでだった。
部屋に入ると陳陽は直ぐにPCのところに行き、「先生の顔写真をみれば分かるんだから」と言って、インターネットの「瀋陽日本人教師の会」に接続した。
と言うわけで、陳陽から食事をせしめることには失敗したが、代わりにこうやって「研究室日記」の一つができあがったのだ。ま、悪くない取引である。
2007年11月11日 (日) 私の喜び
毎週土曜日の午前中私たちの研究室のセミナーはJournal Clubをしている。Journal Clubはそれぞれが順番に、自分が面白いという論文を最新のジャーナルから見つけてきてそれを紹介する。私たちの研究室で全員の共通語は英語しかないから、英語で紹介することになる。英語の論文を英語で理解すると言うのが私たちのやり方である。日本語にも中国語にもしない。
今の科学の世界では重要な論文はすべて英語で出版される。日本には日本語で論文が載る雑誌もあるし、中国には中国語の論文だけの雑誌もあるが、あくまでもローカルの情報誌に過ぎない。
日 本のどこの研究室でも同じように勉強のためにJournal Clubをやっていると思うが、殆どは日本語を使っているだろう。そうなると英語の論文を頭の中で日本語に翻訳していることになる。これでは英語論文の意味はくみ取ることは出来ても、英語が上達することはないと言うのが私の長年の経験である。
隣の研究室の大島先生は中国語が達者で、学生が中国語で書いてくる論文を自分が直していると言う。彼のところのセミナーは、英語の論文の一部をコピーして学生に渡して30分くらい読む時間をやる。そのあと大島先生が中国語で学生にポンポンと質問をして、学生は中国語で質問に答える。そのやりとりで先生は学生がこの英語の論文を理解したかどうかを判断するという。
私たちのやり方とは全く違う。大島先生は、学生に英語の論文の速読をトレーニングしている。しかし、一方ではその内容の中国語への翻訳も要求しているのである。学生は英語で考えることをしない。
私 たちのやり方では学生にとって英語論文を速読する訓練にはならないが、英語で考える、つまり英語で話す訓練にはなっている。私も含めてうちの学生は未だに文法で間違いだらけの英語を話すけれど、それでも意味は通じるし、相手の話す言葉も翻訳という経路に流さなくても、そのまま理解できるという訓練となっている。
どちらがよいとは言わないが、両方を足せばもっと良い訓練となるかも知れない。私たちは学生にさらに速読という教科を課せばいいし、大島先生のところでは中国語を使う代わりに問答のやりとりを英語にすればいいのだろう。とは言ってもスタイルはなかなか変えられるものではない。私は自分で英語の速読が出来ないのだから(と言っても大分速いつもりだが)、大島方式で教えようがない。
もう一つ私たちのセミナーで口を酸っぱくするほど言い続けているのは、「話しを聞いたら途中でも良いから質問をしなさい。話しを聴きながら完全に理解していれば必ず疑問がでるものですよ。」その瞬間に分からないことを訊いて軌道修正すれば、理解できなくなって眠くなることもない。「自分が人の話しを聞いて理解するためには分からないことはいつでも質問することです。」と教えているし、私は実践している。
質問をすることは「あなたが存在していることを相手に示すことですよ。あなたが存在もしていないとことは、話しをしている相手の存在を無視したことにもなります。あなたがものを考えられる人であることを、質問という形で示しなさい。」とも私は学生に教えている。
さ らに、「人の話を聞き終わって何も質問をしないのは失礼なことです。話しを聞いて面白かったら必ず質問と言う形で反応して、相手の話を盛り立てましょう。質問をするのは、相手に対する尊敬を表す礼儀でもあるのですよ。」とも言い聞かせている。「だって、話し終わってもシレーッとして誰も何の反応もなかった ら話した人は悲しいでしょ?」
11月10日は日本人教師の会が主催する日本語文化センター発信の第3回セミナーで、在瀋陽日本総領事館のホールを借りて私が講演をした。「男はつらいよ」という題にして、男は実は女から作られるのだという生物学的事実を、社会的観点を絡めながら解説したのだった。
男が形作られる時、ホルモンとその受容体という精妙な相互作用が必要で、これに失敗するか、邪魔が入れば完全な男は出来ないし、邪魔するものとして環境ホルモンが大きく取り上げられているという話に繋げた。
合計72名という聴衆の反応は、この講演は成功したことを意味する暖かいものだった。聴き手は男か女のどちらかなのだから、誰もが興味の持てる問題だったからだろう。
それと同時に嬉しかったのは会場から出た5つの質問のうち3つは私たちの研究室の学生からでたことだった。分からないことは質問しなさい、質問することは演者への礼儀でもあるんですよ、と言い続けた効果が出たのであろう。
彼らは人前で質問をすることを恐れなくなった。あとで私の講演に対して良かったと言ってくれた人たちの反応も嬉しかったが、研究室の学生がこのように怖じずに会場で発言したこともとても嬉しかった。
2007年11月16日 (金) 卒業実験の受け入れ
理系の学部では卒業する前に卒業実験が課せられる。大学によってこの期間は様々で、最終学年の1年まるまるという東京工業大学もあるし、薬剤師の国家試験も控えているから卒業実験は3か月だけという東京薬科大学のようなところもある。
薬科大学では春節休みのあとの後期が卒業実験である。6月の終わりには卒業式があるので卒業研究発表は6月半ばで、実験の期間は3月-5月の実質的には3か月しかない。
卒 業実験をどこの研究室に入ってやるかは学生の希望で決める。気の早い学生は一年も前から訪ねてきて、卒業実験をやらせて欲しいと言いに来る。昔は学生の希望を聞いた上でこちらでも選ぼうかと思った時もあったけれど、結局いまでは申し込み順で希望を受け入れている。修士課程でこの研究室に入ることを臨んでいる学生なら、卒業研究は優先というのが唯一のこちらが付けた条件だ。
昨年度は基地クラスから二人が大学院進学を希望して早めに決めてしまったので、あとは二人しか取らなかった。卒業実験が4人というのも前年度に引き続いて最多の受け入れ学生数である。
し かし大学の規則では7人まで採ることが出来ると言うことになっているそうである。今年は春先から既にここで卒業研究をやらせて欲しいと鶴さんは言いにきた。でも聞くと彼女は日本の大学院に留学を希望しているので、私たちの研究室に大学院で進学希望する人たちのあとの第一位の志願者にするからねと返事をしてあった。
進学希望者を男子で、しかも日本語遣いからリクルートしないと危ないと言うことになって、オープンラボを実施したのは前に書いたとおりである。その結果大学院に進学したいという学生が2名、日本かあるいはほかのところに進学するけれど卒業研究に来たいという学生が、昨日までに6名いた。
受け入れを決めるのにもタイミングがあり、断られた学生がほかの研究室に無事に行けるためには、遅くまで引き延ばしてから断ったら気の毒である。だから、私たちは10月の労働節の休みの間にすべてを決めた。私たちの研究室に進学したい学生が2名、ほかに行く予定の学生3名である。こうして5名を限度にしてそのあと申し込みに来る人たちは断った。
10月から11月にかけて生化学科の主任の小張老師から何度か電話があった。彼女は私たちがここに来た時に英語を遣って大学と私たちの間の連絡係になってくれた若くて有能な女性である。韓国の大学院に行って博士号を取り、昨年準教授に昇進している。
彼 女の電話は学生から口伝えに聞いたのだが、「教授は7人の卒業研究の学生を採って良い」という内容である。初めは聞き流していたけれど、3回目になった昨日は気になって電話をした。つまり私たちは5人の学生で打ち切ったが、7人採らなくてはいけないと言われているとすると「まずいな」と思ったのだ。
な にしろ二日前にも一人断ったところなので「私たちは5人という初めて沢山の学生を採ったけれど実験室が狭いからこれ以上無理なのですよ。7人採りなさいという要請なのですか?」と小張老師に聞いた。「いえいえ。そういう意味ではありませんが、先生のところは薬学部からだけ進学しているでしょう?製薬学部にも160人学生がいるので、ここから学生を採る気がないかと思って聞いているんですよ。」
そういえばこの夏までは私は製薬学部に属していた、今は生命科学部である。いままで製薬学部から学生を採ったことがない。実は言われるまで、製薬学部から学生が来ていないことも意識していなかった。
「もしも製薬学部で、大学院では私のところの研究室に入りたいという学生がいたら、もちろん卒業実験に採りますよ。」と返事した。優秀な人材の確保は研究を続ける上での第一条件である。
も し製薬学部から希望者があっても、既に卒業研究の受け入れをした学生を断るわけにはいかない。というのは、彼らは中国の大学院に進学しないので、試験勉強に明け暮れする必要はない。従って、早い時期から研究室に出入りして実験を始められるという利点がある。そうやって力を付けても外に出て行ってしまうので私たちの役には立たないけれど、彼らにしてみると意味がある。通常の3か月の卒業研究ではとうてい学べないようなことを身につけることが出来る。こちらも 研究室の学生では手の回らない実験結果を出して貰える。
と言うわけで私たちのところには既に3人の最終学年の学生が出入りして実験を学び始めている。趙鶴さん、趙暁笠さん、于琳くんの3人だ。3月になればあと2名増える。製薬学部からもし実際に大学院に進学したいという学生が来ても、既に受け入れを決めた学生は断れないだろう。
実験室が物理的に狭いので、本当に来たら大変なことになってしまう。これ以上来ないように祈り続けている。
2007年11月30日 (金) 10月に北大に行った楊方偉くんの便り
「11月16日」
返信が遅れて申し訳ありません。私のメールの内容を遠慮なくご自由にブログに載せてください。
先週から実験のtrainingが始まって、ちょっと忙しかったです。今週はプラスミドの構築を続けています。今日の札幌は雪が降っています。大雪とはいえません。
先 週の日曜日に教会に行って、たくさんの人を知り合いました。ここの研究室に私とほぼ同時に来た北京大学の交換留学生が一人います。彼の先生は北大に6年間ぐらい留学したことがあります。北京大学の先生は、札幌で知り合った友達に届けるよう彼に土産を預けたので、私はそのとき通訳をしました。そしてこのお友達の先生とも知り合いになりました。
この先生はクリスチャンなので、教会に連れて行ってくれました。瀋陽にいた時貴志先生と一緒に教会に通ったことがあるので、教会に行くことは楽しいことだと思っています。
教 会では歌を歌ったり、聖書の説教を受けたりして日本語の練習もできます。自分はクリスチャンではないですが、クリスチャンと接するのが大好きです。教会の人々はとても親切です。何か必要ものがあったら、教会の人と言っておいて、集めてくれます。上記の先生は一台のストーブを贈ってくれました。クリスチャン は聖書の主旨に沿って誠意を持って人と接していると思います。教会では悩んでる心が静まるみたいです。
今学期は一単位の授業しかないので、私はほとんど研究室にいます。ここの研究室には私を含んで26人ほどいますが、博士は2人だけです。
私がいる薬学部ビルには中国人が一人しかいません。つまり、私です。しかし、奨学金の種類は少なくて取るのはとても難しいみたいです。
実験を指導して呉れる先生はとても親切です。もちろん日本に来て慣れないことは一杯あります。多分だんだん慣れて来ると思います。安心していてください。
「11月29日」
札 幌はだんだん寒くなって来ましたが、瀋陽よりやはり少し暖かいと思います。教会の人からもらったストーブは確かに助かります。最近、ずっとプラスミドを作っていますが、insertはなかなか入らないんですね。悩んでいます。low melting agarose回収は結構難しくて、回収率も低いですが、繰り返し練習して、たくさんの知識を学べると思います。
実は先週一つのアルバイトをやり始めました。学校の時間を取られないために、朝7時から9時半までオフィスの清掃っていう内容ですが、あんまり大変ではありません。ただ掃除機で床を掃除したり、ゴミを集めたりするのです。
普通は10時までの仕事ですが、速くやったら、9時15分まで終わります。すると9時半ぐらいには研究室に着き、逆にほかの誰よりも早めに研究室に来る人になります。
バ イトをするのは事前に実験を指導してもらう米田先生と相談しました。米田先生には、もし、来年奨学をもらわないで、お金がなくなって帰国することになると、日本にいる半年または一年はもったいないことになるから、少しバイトをやったほうがいいって言われたので、バイトを探しました。
土日、祝日は休みですので、あんまり勉強を邪魔しないと思います。これから、一ヶ月3,4万円を稼げます。しかし、家賃を払うと、すぐ飛んじゃいますね。生活はやっぱり大変です。
12月に授業料を払う必要があります。今は毎日6時起きて、6時半出発して、バイトが終わってから、研究室には10時までについて、夜は10時から11時に帰宅して、翌日のご飯を支度して12時に寝ます。生活は規律になりました。
生協から紹介した住まいは結構高い、敷金も払ったので、退居したら、もったいないです。北大周辺の住まいはほとんど3万円以上です、私の部屋は家具付きですので、3万円は割合安いです。
来 年は2月に学校の寮を申請するつもりですが、できるかどうかわかりません。今日、来年1月に入居できる会館の募集が始まったっていうことを聞いたのですが、実は11月15日は締め切りでした。すごいショックです。留学生の私は誰にも知らせてくれません。がっかりしますね。後は2月に他の会館を申請しま す。
先週、先生のホームページを読みました。結構感動しました。日本での私費中国人留学生は皆最初、基本的にきついですね。我々の理科系の学生は文科系よりもっと大変です。生活と実験を両立しなければなりません。
いままで、私は知る限りの留学生の中で一番実験で忙しい人です。ある人から、あなたのような留学生は日本に来る意味はないって言われました。仕方ありませんなぁ。頑張り続けるしかありません。自分の人生を自分でしか操れません。
札幌の水道水は結構綺麗なので、水を買うのはもったいないと思って飲んでいます。今は300円以上の食べ物を見ると高くて、買うのはやっぱりだめです。値段を見ると頭痛がしますね。
ではお大事に。
2007年12月17日 (月) 頑張る胡丹と秦さん
胡丹の奥さんの秦さんからメイルが来た。
胡丹は私たちの研究室で修士課程の3年間の修行を終え、昨2006年秋に東京大学大学院新領域創成科学研究科の博士課程に進学して山本一夫先生の研究室で指導を受けている。私たちのところでやった研究で、彼は論文はBBRCとConnective Tissue Resにそれぞれ1報を書いているから、もちろん立派なものである。
奥さ んの秦さんは天然薬物を専攻して修士課程を胡丹と同時に出ている。二人は修士課程を終えて結婚し、胡丹はそのあと直ぐに日本に行った。秦さんは半年後に日本に行くまで私たちの研究室で預かった。将来役に立つよう二次元ゲル電気泳動とブロッティング、そしてタンパク質を感度良く検出する銀染色の技術を教えた。
彼女は日本語専攻ではないので日本に行くにあたって日本語を一生懸命勉強した。彼女の日本語の勉強のために、教師の会の池本先生にも3か月くらいの個人指導をお願いした。
池本先生は、日本で夫と共に暮らしていこうと決意して一人で日本語の勉強に頑張っている彼女、そしてお金がない彼女に同情して、ほんの形だけの教授料しか取らずに教えてくれた。
秦 さんが日本に行ってから約9か月経った。秦さんはその後胡丹の研究室の山本先生に電気泳動の技術が認められて、正規のアルバイトとして研究の一部に組み込まれた。彼女は手先が器用で、人の言うことも良く聞くので、彼女の技術はますます素直に伸びるだろう。今に彼女の技術で研究室に欠くことの出来ない人材になるのではないかと思う。
私たちのところではガングリオシドと結合するタンパク質を探している。ガングリオシドのあることが細胞の行動に 明らかに影響するので、ガングリオシドがあるという情報が何かの形で細胞に伝わるに違いない。と言うわけで抗ガングリオシド抗体を使って、ガングリオシドと一緒に抗体と落ちてくるタンパク質を調べている。
この抗ガングリオシド抗体で共沈するタンパク質を二次元ゲル電気泳動で分離し、銀染色で染色して共沈する分子が、明らかに抗ガングリオシド抗体と特異的に反応したことを確認した。
こ れらの分子が何であるかは、予想を付けたうえで抗体を用意して抗体染色をすることが出来るが、それでは効率が悪い。今の時代はタンパク質のスポットを切り抜いて、質量分析機を用いて分子量だけでなくタンパク質のアミノ酸配列まで知ることが出来る。アミノ酸の並びが7個分かれば原理的にはそのタンパク質がなんであるか分かる時代なのだ。
と言ってもここには質量分析機もなければ技術もない。と言うわけで、山本研究室にお願いしてこれらの分子の同定をやって頂くことにした。山本先生と話して、彼がOKすればあとは、秦さん、胡丹の出番となる。
このようなことがあって、山本先生や胡丹とメイルのやりとりが頻繁になったとき、秦さんからメイルが来たのだ。その一部に曰く:
「私 たちは、先生のおかげで、とても元気です。先生は心配しないでください。彼は毎日忙しいです。彼はいつも言います、今の研究室で一日中にやった仕事は、山形先生の研究室で一週間に仕事よりおおいです,以前、山形先生の研究室で、一生懸命研究しなかったと、後悔しています。」
胡丹が私たちの研究室にいるときには「もっと実験しなさい。研究は身体を動かさなくては駄目なんだ。」と何度言って聞かせたか分からない。胡丹に私たちの言葉は馬耳東風で、実験は「これで十分」と思っていたようだ。私たちの目から見ると、彼は実験では怠け者だった。
彼がここでは一番上だったので私たちの研究室には見習うべき先輩はいなかった。いくら言っても、研究は実験を一生懸命やらなければ進まないことを実感できず、手抜きをして安易な実験しかやりたがらなかったのだ。
その胡丹も研究をするためにはどうすべきか自分で分かってきたようだ。山本先生のところにお願いした甲斐があったというものだ。山本先生の研究室は二十数人と言う妥当な大きさで先進的なテーマで世界をリードしている良い研究室である。
胡丹はここでは怠け者だったとしても、自分でしっかりと考えることが出来る珍しい学生のひとりだった。あとは怠けずに研究をする習慣が身に付けば、周りの人たちと議論をすることで彼も立派な研究者になるだろう。
と もかく、今研究室では王毅楠くんが山本研究室に送る試料の調製に忙しい。試料の分析がうまくいき、タンパク質同定に成功すれば、私たちとしてはこのようにねらいを付けたタンパク質や糖脂質と反応する分子を二次元ゲル電気泳動で分けて、それをMSで同定して仕事を先に進めるというスタイルができあがることになる。私たちにとっては涙の出るほど嬉しい方法が確立できるわけだ。