2005/01/08 07:13
在瀋陽日本国総領事に招かれて
私たちと研究室の学生は暮れのある日の午後、在瀋陽日本国総領事に招かれて公邸にお邪魔した。隣の研究室の池島先生とその学生も一緒で、総勢28名が伺った。これは12月初めに小河内総領事の講演が瀋陽薬科大学で行われ、その翌日池島先生の招きで総領事が池島研究室を訪れて親交を深めたことに端を発している。
池島研究室のセミナー室を使って開かれたその宴の半ば、総領事の国際政治談義と白酒の酔いがとどまるところなく深まっていく中で、「今度、皆さん公邸にいらっしゃい。あなた達学生さんを公邸を挙げて招きますから、日中の友好を深めようではありませんか。先生たちも是非どうぞ」という発言が総領事の口から飛び出した。話はどんどん進んで「28日なら昼からは御用納めだから大丈夫。」ということになった。
驚いたのは総領事と一緒に来ていた秘書の谷さんで、「だって料理方も休みになるのにそんなことして大丈夫ですか?」とおろおろする中、「いや、大丈夫、やりましょう」ということで決まった招待だった。気の毒に、御用納めの日の夜も解放されないことになってしまった秘書の谷さんは、日本人以上に見事な日本語を操る美しい中国人女性で ある。
28日は午後5時という約束で、私たち総勢28名はタクシーに分乗して領事館に向かった。この領事館は二年半前に脱北者が駆け込んで、その人たちが中に入ってきた武装警察に引きずり出されるという事件のあったところである。当時と今とどのように違うか分からないが、通常の塀を取り囲んでさらに3m位外側にもう一つ金網の高い塀があるし、門の両側に詰め所を置いて中国の武装警官が10人くらい門を警備している。日本国総領事館は米国総領事館と並んでいて、この二つの建物が面している道は両端が封鎖されていて車では入れない。
門の手前でパスポートを出して、あらかじめ送ってあった私たちの名簿と照合を受けて一人一人門の内側に入ることを許され、そこで文化担当森領事に握手で迎えられた。外はマイナス26度の寒気である。「さあさ、中に入って」といわれて右手の建物に入り、広々としたポーチでコートを脱ぐまもなく、総領事と総領事夫人に暖かい言葉で歓迎を受けた。
まずは升酒で乾杯。そして場所を移してビールで乾杯。学生たちは、広々とした部屋の豪華でシックな飾り付けと落ち着いた調度に感銘を受けている。ここは中国の人々と接触する日本を代表する公的な場所なのだ。
小河内総領事は、「瀋陽は中国の重要な都市です。これから10年のうちに中国経済の牽引力となって大きな発展をするでしょう。ま、見ていてご覧なさい。たとえば、渾河に掛かる橋は2020年までに何本になると思いますか?」
瀋陽は渾河(別名瀋水)の北に出来た都市なので、瀋陽という名を持っている。中国は古来このような命名が行われていて、洛陽は洛水の北の街だし、淮陰は淮水の南に出来た街である。いま瀋陽の街は渾河を越えて南に発展し続けているが、この河は利根川くらい広い河だから、今はまだ3本しか橋が架かっていない。「先のことだから何本と言ったって大丈夫なんだけれど、10本の橋は確実ですよ。」と総領事は請け合っている。学生たちは谷さんの通訳を聞きながら、ホント?と互いに顔を見合わせている。
「ことによると20本かな。」と総領事の話はでかい。「今まで中国は南の上海を中心として経済的に発展してきたけれど、土地だって限界があるでしょ。今上海に250棟の高層ビルがあるけれど、後5年のうちにそれを500棟にする計画がある。だけど、それをやってもね。人的資源も、電気、水の資源も飽和しようとしてますよ。おまけに南の方の開発はね、工場は織物や家電中心だったのですよ。」
「でも、本気で中国の工業を発展させようとすると機械を作る機械を自前で作るようにしなくてはならない。遼寧省はそれを考えています。それを可能にする教育レベルも、土地も、動力の資源も、水にもここは恵まれているのです。その中心となるのが瀋陽なんだなあ。今瀋陽で勉強してる君たちはとても恵まれているのですよ。」
私達は先ほどとは違う広い部屋の中に三カ所に分かれて座り、総領事夫人、森領事、および通訳を含むスタッフ3人が手分けしてそれぞれホスト役を努めている。端から見たらとても偉い総領事だけれど、夫人から見ればただのうちの人だからだろうか、喋る総領事の隣で総領事の袖を引いている。小声で「あなた、いい加減になさいよ、すぐ話が 大きくなって、長くなるんだから。」
総領事夫人には全く気取りがなく、私達に十分な気配りをして私達は心からもてなされているという気になっている。外交官夫人なのに権高くないところが庶民的なのか、逆にそれこそが外交の神髄なのか分からないけれど、私達を含めて学生すべては彼女のことも大好きになってしまった。
広いダイニングには、寿司、天ぷら、唐揚げ、焼き鳥、煮しめ、焼き魚、などの料理がずらりと並んでいて、私達はそれを取ってきて食べながら、総領事、夫人、スタッフの方々と歓談を続けたのだった。
「世界平和は、最終的には日本と中国が安定した関係が築けるかどうかに掛かっているのです。」総領事はこの話で講演をするために12月初めに薬科大学に招かれた。今日もその主題の話が続く。総領事の考えは、私達のように普通の人が世界は平和であって欲しいというような単なる祈願ではな く、自国の利益を追求する国と国がぶつかりながらも存在して世界を作っている中で、どのような世界戦略を持てば世界に平和がもたらさるかというところに 発している。
従って話は世界情勢の分析に始まり、各国政策の解析に至り大変面白い。いい加減な思いつきでものを言っているような政治家ではなく、このような発想の人が日本を主導したら日本も少しはましな国になるのではないだろうか。
確実に時間は流れ、やがて若人は大人になっていく。今ここにいる優秀な若者は誰もが中国各界の有為の人材となるだろう。彼らが個人のレベルで友好を積み上げて日中親善を築くことで、双方の国が世界の安定に貢献するようになるその第一歩がこの夜確実に踏み出されたに違いないと思いつつ、零下26度に凍える瀋陽の街を温かな心を抱いてうちに帰ったのだった。
2005/01/26 16:21
ホテルで過ごす年末年始 その1
2004年 の歳の暮れを、瀋陽に来てから出来た友人夫妻に誘われて、私達は瀋陽の五つ星ホテルで過ごした。年末年始はホテルで過ごすのが日本ではファッションとなっていても、私たちは実験の都合があって年末年始も休むことがほとんどないので、私達はホテルに滞在したことは一度もなかった。
しかし、今瀋陽で暮らしていると毎日がアパートと大学の往復で、朝は早くて夜が遅い上に大学はすぐ近くである。日曜日の午前中はこれも近くのカルフールにグロサリーに出かけるけれど午後はまた大学に行くというような生活をしていて、私達の生活にはあまり変化がない。これは良くない。このような日常性の繰り返しに、時には非現実的な不連続性が入り込まないと頭がおかしくなるぞと頭の中のささやきが聞こえ始めたときに、友人から誘いを受けたのだった。
誘ってくれた友人は瀋陽日本人教師の会の中道先生夫妻だった。私たちは日本語の教師ではないけれども、全くひょんなことでというか、世話好きの先生に連れられて瀋陽で日本語を教えている日本人教師の集まりに顔を出したのが運の尽きか、運の付きか、今はこの会のホームページを作ったりしてどっぷりと嵌ってしまっている。特にこの夏までの一年間は教師の会の「日本語クラブ」の編集・発行をお手伝いする中で、同じ編集仲間の中道先生と親愛の度を深めていったのである。
中道秀毅先生は芥川龍之介に私淑する文学青年と言って良いだろう。お歳は私たちよりちょっと上だから青年も何もないのだが、気持ちは無垢な文学青年のままといって良い。飄々としながらもすべてに自分の感性と発想を大事にしてごく無邪気に自分の考えを口にされる。
瀋陽には瀋陽日本人会という団体がある。会員数300名くらいの会である。教師の人たちは教師会会員という特別の資格を貰って会費半額で参加しているけれど、日本の水準で給料を貰い、企業活動のための資金も潤沢な企業人と、一方現地の中国人と同じ給料を貰って働く我々とは経済力に天と地ほどの差がある。会社人間はテニス、ボーリング、ゴルフ大会などを催して親善を積み重ねられるけれど、教師の給料ではとても参加出来ない相談である。教師は日本人社会に、企業人と対等の立場で入っていけないのだ。
この日本人会の幾つかの催し物のうち年末のクリスマス会が最大イベントとなっている。瀋陽日本人会の催し物のほとんどは教師には無縁なので、それだけにせめて年一回は一緒に集まろうと言うこともあって、日本人会はクリスマス会に力を入れている。クリスマス会の実行委員会には教師の会からも参加している。
以前、教師会の定例会のときに実行委員会のメンバーから今年のクリスマス会への要望を問われて、中道秀毅先生は「クリスマス会で座る所ね。あれは私達はバラバラのテーブルに座らされるでしょ。だから、テーブルに座っても周りは会社の人ばかりでね。会社の人たちは互いに知っているけれど、こっちは誰一人知らないから除けもんになっちゃって、ちっとも面白くないですよ。教師の会の会員でテーブルを囲むことは出来ないでしょうかね。今度は是非教師で纏まって坐れるようにして貰いましょうよ。きっと楽しいですよ。」とおっしゃる
なるほど、なるほど、その通りだったと思う。昨年私達が割り当てられた席は妻と二人のほかはすべて初対面という孤独だった。どうも私を含めて日本人は、初対面同士がテーブルを囲んだときに全員の口がほぐれるような話題を出すのが苦手である。おまけに、皆が同じように白紙ならともかく、ほかの人たちは互いに知っているのだ。私は努めて隣の会社の人と話したけれど会話はぼそぼそとして弾まなかった。
教師だけでテーブルを占領したら話は通じるし楽しいだろう。でも、教師だけで集まったら問題があるなあ、と思う。会社人の中に孤独に放り込まれた教師の抱く悩みは救えるけれど、今度は別の問題が生じてしまうだろう。
でも秀毅先生はまず問題提起をする無邪気さを持った先生だ。「福引きの景品だってね。」と話は続く。「去年は一つ当たるとその人がもっと当たって賞品をあらかた持って行ってしまって、こっちには何一つ来なくて詰まらなかったんですよ。景品はどんどんそっちに行ってしまってね。」ここで皆がどっと笑い転げても、隣で中道夫人の恵津先生が「ちょっと、あなた、もういいじゃない」と袖を引っ張っても、秀毅先生は動じることなく話を続ける。「だけど、折角クリスマス会に行ってカレンダーの一つだって貰えれば、誰だって楽しみなんだから、全員に何かの形で当たるようにして欲しいですよね。ね、そうでしょ?」クリスマス会担当の係は「はい、そうですね。これを実行委員会に伝えておきますね。」と、ニコニコして受けた。
この発言は実行委員会に伝えられて効果があったらしく、その年の会は、福引きで上位十数名には豪華賞品も出たけれど、最後に全員が何かしら貰って帰ることが出来た。沢山のお土産を持った秀毅先生は「よかったですねえ」と皆から言われていた。
人間社会は本音の剥き出しでは生きていけず、それを仮面というオブラートで包まないと生きて行き難いところがあるけれど、秀毅先生は常に本音を述べて、しかも皆から好感をもって迎えられる得な性分である。
中道夫妻は週末を利用して、瀋陽のホテル数カ所を見学してそれぞれの特色、宿泊料を調べて下さった。中山広場の瀋陽賓館は昔の大和ホテルで長い重厚な伝統があるけれど、それだけに施設は近代ホテルに比べて見劣りがする。隣のホリデイインは明るく近代的。その隣のインターコンティネンタル(州際酒店)は五つ星で申し分なし、値段も 最高。
州際酒店は最高の値段だけれど、全日空のカードを持っていると割引になることが分かり、カードをお持ちの中道先生のおかげで思ったよりも安く泊まれることも分かった。大晦日の日には非日常的時間を送りたい私たちは迷うところなくインターコンティネンタルを選んだ。
一緒に時間を過ごす友人がいるという喜びと、年末年始を初めてホテルで過ごすという嬉しい期待に胸を弾ませながら、2004年の大晦日の午後3時半、私たちはタクシーに乗ってホテルに到着した。
2005/01/26 16:22
ホテルで過ごす年末年始 その2
瀋陽に五つ星ホテルは二つある。どちらもこの五〜六年の間に出来たという話で、それはその頃から瀋陽が発展し始めたことを意味しているのだろう。一つはホテルマリオット(万豪酒店)といい、瀋陽日本人会が毎年クリスマス会を開いているホテルで、南にある桃仙機場(空港)から瀋陽市に近づいて来ると、群れをなす高層ビルの中で金色に輝いている建物がこれである。もう一つがこのインターコンチネンタルホテル(州際酒店)で中山広場に近い瀋陽の中心地に位置している。道を隔てて日中戦争前は満州医科大学だった中国医科大学が眺められる。
午後3時半にホテルに着くと入り口で中道先生お二人の熱烈な出迎えを受けた。カウンターでチェックイン。このときにまず宿泊料の二倍の人民元をデポジットとしてホテルに預けなくてはならない。中国のこの仕組みを知らないでいると、ホテルの宿泊料金に相当する金は持っていても、実際は泊まれないことになる。先日上海に行ったとき、瀋陽が大雪のために帰りの飛行機が飛ばないかも知れないと聞いて青くなったのはこのためである。前の晩に見栄を張ったので、デポジット二人分の現金が残っていなかったのだ。
この大晦日の夜は、「ホテルに泊まってNHKのBS放送で入る紅白歌合戦を一緒に見ましょう」というのが中道先生の誘いだった。紅白番組は中国の時間では7時半に始まってしまう。それで4時半にはともかく夜の食事をしよう、でもホテルの食堂は高いからと意見が一致して、厳重に身拵えをして外に出た。互いに見栄を張らない付き合いの出来る友人はありがたい。というか、見栄を張らないで付き合えるから、友人なのだ。
直ぐ隣にあるホリデイインを過ぎてから裏通りに廻ると、レストランがいくつもあって、その中の一つに「○○餃子館」というのを見つけた。「大晦日だから、餃子を食べなくっちゃ。」と叫ぶ。中国の東北地方では、餃子が大晦日の年越しそばに相当する。秀毅先生は「あの店は客がもう入っているから」と目敏く中を見透かして、「きっとおいしいよ。こういうところが美味しいんだ。」ということで中に入った。直ぐに曇って全く用をなさない眼鏡を外して拭うと、ごく普通の、しかしこぎれいな店だった。この時間なのにもう数組の客が入っている。
「ご縁があって、今日は一晩ご一緒することになりました、どうかよろしく」とビールで乾杯して、普通の総菜4種類と餃子3種類を注文したけれど、どれも美味しかった。餃子はかの有名な、値段でいうことこの店より5〜8倍も高い中街の老舗の老辺餃子館に負けない美味しさだった。
大いに満足して店を出る。空気は凍てきっていて肺が冷たい空気で満たされて新鮮な気分になる。でもすぐに身体中が冷えてくる中をホテルに戻ると、時間は丁度7時半となろうとしていた。
紅白歌合戦といっても、実はもう何十年もの間ほとんど見たことがない。私の知っている歌は「今日は赤ちゃん」や「恋の季節」の時代までだ。そのあと留学して歌番組との断絶があってからは興味を失ってしまったが、反紅白というほどのこともないから、一緒に見る気でいる。
もう紅白は始まっていたけれど、恐れたとおり私にはどの歌も、そしてどの歌手もほとんどなじみがなかった。NHKの会長が悪い事をして非難されていても、現場はしっかりと頑張っているらしく演出は綺麗である。
8時近くなると、秀毅先生が「秦の始皇帝の暗殺をしようとした荊軻を知っているでしょ?これを今ドラマでやっていてとても面白いんですよ。」とおっしゃる。恵津先生は「あなた、そんなことを言って。今日は紅白見ることになっていたでしょ?」と秀毅先生をたしなめているけれど、「だって、山形先生にこの面白い番組を紹介したいんだ から、いいじゃないか?」と主張を変えない。
「ね、あの荊軻の話ですよ。全三十話のドラマになっているのを、いま毎日二話ずつ再放映しているんですよ。いま面白くって毎日見ていてね。今日は二十一話と二十二話なんだ。」私たちは紅白よりも、元来中道夫妻とおしゃべりをして過ごすのが主目的だし、中国の歴史の話は大好きだ。
それでチャンネルは荊軻伝奇に変わったが、私が陳舜臣の本で読んでいる荊軻の筋書きと違っている上に、中国語だから話を追うのは難しい。しかし、幸いなことに恵津先生が秀毅先生のために字幕を素早く読んで日本語にしているのが聞こえるので、大体付いて行ける。
時々、せりふが簡単で分かりそうだというので彼女が手を抜くと、場面が次に移っていても秀毅先生が「今なんって言った?」と、子供が駄々をこねるのとそっくり同じなので、思わず笑ってしまう。しっかり者の恵津先生に、やんちゃな秀毅先生の組み合わせは絶妙である。私たちは紅白を見るよりもよっぽど面白い夜を過ごしている。
ドラマの中では荊軻とは子どもの頃の友人ということになっている秦軍の将軍樊於期が、部下の見守る中で荊軻を見逃したというので罪を得て、牢に入れられた。この樊於期将軍を演じている俳優は目元がすっきりとしていて感じが良い。樊於期将軍が牢に繋がれ断罪を待っているところで、あとの話は明日になってしまった。
将軍を取り巻く情勢は深刻である。しかし秀毅先生によると「この俳優は主役の一人に違いないから、これで首を切られたらドラマが詰まらなくなっちゃう。だから大丈夫。死なない。」とのことだ。実際彼に惚れ込む女性も出てきたから、ここで首が刎ねられてはいけない。
後で調べてみると、樊於期将軍は燕の国に逃れ、燕の国の将軍となって今度は秦と戦っていたが、荊軻が燕王に頼まれていよいよ胡丹王の刺殺に行くとき、大きな土産がなければ秦王に会見してもらえないからといって、自刎して自分の首を土産に持たせている。
荊軻が秦王(始皇帝)の暗殺に成功しなかったことは誰もが知るとおりで、荊軻が秦の国に向かって出立するとき述べた言葉も「風蕭蕭として 易水寒し 壮士一ひとたび去って また還らず」と「史記」に記録されて以来二千有余年人口に膾炙している。
二千二百年前の話がずっと語り継がれて今も息づいている国、その始皇帝が統一した文字で書かれた書物が今でもそのまま読める国、古代と現代、貧と富が共存している国、現代の最高設備のホテルに泊まってこのような中国に思いを馳せる贅沢を味わった一晩だった。
2005/01/28 19:49
駄菓子を守って
研究室の昼休み、近くにある大手スーパーのカルフールに出かけて大量の駄菓子を買い込んで教授室に戻ってくると、研究室の院生である麦都さんがパソコンを使っていた。教授室の半分の面積はパソコンや会議テーブルが占めていて、研究室の全員に解放している。彼女と「回来了(ただいま)」「回来了(お帰りなさい)」のやりとりの間に、目敏く大きなスーパーの袋を見つけた麦都さんは目を輝かせて立ち上がった。
「駄目、だめ、ダメよ。これ、豚のエサじゃないんだから。」と私は叫んだ。何しろ王麗さんは豚愛ずる姫君だけあって、食べ物には目がない。昼ご飯の買い物をしてきても、ビニールの袋を机の上に置いた途端にやってきて、さっさと中身を出して、気に入った食べ物は「これは豚が大好きです」と言いながら、止める暇もなく食べ始めてしまう。
今日は椅子から立ち上がったまではよかったけれど、そこで機先を制せられた彼女は「先生、ケチ!」と思いっきり叫んで、「先生ったら、まるで清の厳監生みたい」と続けた。「それ何なの?」と聞と、
「清の時代の厳監生は名高いけちん坊だったんですよ。死ぬときベッドに横になっていて、もう声が出なくなっていてね、布団から手を出して、こうやって」といって指二本を突き出して話を続けた。
「そのとき死の床の横には蝋燭が二本点いていたんですって。さすが奥さんにはそれがもったいない、消して一本にしなさい、というのが分かったんですって。奥さんが一本の蝋燭を消したら、満足げにうなずいたそうですよ。先生は厳監生を上回る大のケチですよ。」と妻を相手に思いっきり意趣晴らしをしている。
「王麗さんなら、死ぬときでも黙って手を突き出したら、あっ、もっと食べたいんだ、と分かって貰えるよ。そのときはちゃんとお菓子を持たせて上げるからね」とこちらも負けずに言い返した。ともかく、今日の買い物は、日本から瀋陽を久しぶりに訪ねてきた友人のために、お土産用に買ってきた駄菓子の類である。豚さんの勝手にさせるわけにはいかない。
日本にいれば場合と状況によってお土産は様々な選択肢から選べるけれど、瀋陽にいると、ケーキのお土産、プリンのお土産みたいなものがない。人を訪ねるときにちょっとお菓子を買って手土産に持っていくという芸当がここではできない。今回は、日本の友人がおでんを保冷剤と一緒に運んでくれたのに応えて、こちらが知恵を絞ったお土産は、駄菓子であった。
近くの小さな超市(スーパー)に行くと、おやつのたぐいが日本と同じように袋菓子として売られている。チョコレート、クッキーなどがあるのは、ブランドが違うだけで日本と同じだけれど、それ以外は結構違っていて、ここでは珍しい材料が多彩である。まず目につくのが、ソラマメのスナックで、形が似ているので蚕豆と呼ばれるソラマメは甘く味付けされたり、辛く味が付いたり、様々の味付けで売られている。
エンドウ豆もピーナツも大活躍で、味付けの種類は日本の菓子を上回ると思う。クルミも、殻を外したものが売られているし、砂糖でコートして食べやすくしたものもある。このクルミが決して高くないのが嬉しい。日本ではとっくに廃れてしまった果物味のグミ(コラーゲンで作ったプリプリした菓子)もあって、15年位前に日本で流行った頃この歯ごたえが好きだった私は大いに満足である。
日本ではあまり見ることのない山査子(サンザシ)は山東省が主要産地で、これは菓子として様々に加工されている。ちょっと甘酸っぱい味である。山査子の味は私の大のお気に入りである。どうしてもはっきりとは思い出せないけれど、子供の頃の記憶とどこかで結びついている。
果物を干して包んだものから、サンザシの実を練って固めて半乾きの飴から乾いた板状の飴に至るまで、それこそありとあらゆる思いつきが形になってサンザシの菓子が作られている。オリーブも、杏も、梅も砂糖漬けになって一つ一つ紙に包まれている。ナツメもいろいろなおやつの原材料だけれど、私は甘く蜜を絡めたのが好きだ。
夜の7〜8時にうちに帰って食事をしたあと、酒の禁じられている私の楽しみはこれらの菓子を食べることである。日本にない菓子をあれこれ品定めしながら味わって見て、結局中国の材料は多彩だけれど、味はいまいちだというのが結論だった。それも今年の夏までは。
この夏というのは、近くにカルフールの第二店ができた時である。カルフールは日本にもあるので大方はご存じだろうけれど、ともかく大きなスーパーである。概してスーパーの困るの は、こちらが気に入ったものでも、売れ筋でないと、別の銘柄に変えられてしまい、それじゃ嫌だと思ってもそれ以外選びようのないとこだと思う。いくら安くてもこちらの欲しい銘柄でないものを押しつけられるので、こだわる人間にとってはスーパーは敵である。
しかし、瀋陽で私たちは車を持っていないから、買い物に行くのが大仕事なので、近くに大きなスーパーが出来たことほどありがたいことはなかった。そのカルフールが出来て大いに日常の買い物が楽で便利になったけれど、もう一つ驚いたのはどれも質がよくて、これまで近くの小さなスーパーに置かれていた駄菓子は、ものが悪くて、したがって美味しくなかったことが分かったことだった。
それに気づいた感激した私達はカルフールの菓子を片端から買って試したことは言うまでもない。どれも美味しくて合格だけれど、味の好みがあるので、やがて落ち着いてみると、カルフールで買う私達お薦めの駄菓子リストが出来上がったというわけである。ほかにこれといって思いつくお土産がないので、今日は日本に帰る友人にカルフールで駄菓子を沢山買い求めてきた。
駄菓子だから王麗さんに食べられたって痛くもかゆくもないのだけれど、今の瀋陽はマイナス20度を上下している寒さである。また買いに行くのではたまらないから、豚除けに懸命だったのだ。
2005/02/05 00:01
スケート姿とテストステロン
「山形達也教授弁公室(事務室)」という看板がぶら下がっている薬科大学の私たちの部屋は昨年完成した新しい建物の5階にあり東に面している。外から見ると上下左右の中心というとても良い位置にあり、見晴らしも良い。ここは学長の部屋になるはずだったのではないかと思ってしまう。
大学外部からの視察があったりすると、日本から来た先生にこんな良い部屋を与えていますよという大学の気前の良さを示すショールームにもなるわけだけど、居心地の良い部屋を貰って私達は大満足である。
この東側の窓からすぐ下にあって、一周400メートルのトラックを備えている大学の校庭は、瀋陽の冬の間はスケートリンクとなる。この冬はその前に比べて寒さが3週間遅かったように思うけれど、それでも12月に入ってからは係の人がびしょぬれになりながら毎日毎晩水を撒いて、1週間くらいたったある日、見事なスケートリンクが出来上がっていた。
それ以来冬季の体育の授業に使うほか、休み時間には学生が好き勝手に滑っている。私たちの部屋からそれを見ていると、滑っている人影が,男か女かすぐに分かることに気付いた。日本にいたころテレビで世界スケート選手権大会のアイスダンスなどが放映されるといつも目が釘付けになったものだが、あのように華麗なコスチュームを着ている わけではなく、誰もが厚い防寒コートをつけている上に距離が遠い。したがって体型では男か女か分からない。何しろ、今は昼間の最高でもマイナス10度以下の寒さなのだ。
赤や青の女性らしい色のコートの人もいる、赤い帽子をかぶっているので女性らしいことが明らかな人もいる。でも、コートの色や帽子では男女の識別が出来ないことが多い。ところが、その人が何を着ていようと、滑り始めると男か女か、ひと目で分かることに気付いた。あ、あれは男だ、あれは女だな。という具合に。
着ているものから男女の判別ができないのに、それが男か女か分かったことをどうやって証明するんだ?といわれそうだ。
でも、分かるのだ。滑る前は分からなくても、滑り出すと明らかに分かる。身体の動かし方が明瞭に違い、男は男らしく、女は女らしい動きをする。特に男性はアイスホッケー靴を履いているだけなのに頭を低く下げて、スケートらしい滑り方をする。一方女性は、そんな危ない滑り方はしない。
男は男らしく、女は女らしくというと、男女差別論者として糾弾されそうだが、男女の動きは同じではない。この違いは、男女の本質的な違いによるもので、それは血液中のテストステロンの量の違いで説明できる。テストステロンの量の違いが男女の体型、行動の違いを生み出している。テストステロンは男女の考え方の違いも支配してる。
大脳生理学の近年の研究によって、脳の男女差が明らかにされたことはよく知られている。遺伝子型が男性のXYであっても、女性のXXであっても、ヒトは生まれてくる前の性器の原基は男女双方を備えている。胎児期の男性の発生途上でY染色体上の遺伝子にスイッチが入ると、精巣が分化し始めテストステロンを分泌して、男性器が分化する。このスイッチが入らないと女性の性器が分化する。脳の発達もこのテストステロンの影響を受ける。精巣が分泌するテストステロンの影響で、元来何もなければ女性のものとして発達しようとする脳が男性の脳にな る。
このように遺伝子が違って、男と女は身体の作りが違っているだけでなく、その後の生理的行動も血液中のテストステロンの量の違いによって制御されていることが分かってきた。
「テストステロン」(J.M. およびM.G.ダブス著、青土社2001年。この翻訳はきわめて拙劣である)という本を読むと、女性から男性に変わろうとする性転換手術者が、手術前にまずテストステロン投与を受けたときの手記が載っていた。
それによると、「自分の変化をうまく言葉にすることが出来ない。豊かな言葉の表現が出来なくなって、言うことが簡潔かつ直接的、そして具体的になってきている。前よりも想像するのが苦手になって、考えることが減り、直ぐに行動するようになってきた。前にはいろいろ同時に考えられたのに、今は一時に一つのことしかできないし、視野が狭くなってきた。」
この人は女性の脳を持って育ち、それが男性の脳に変わるという劇的な体験をしたわけで、もと彼女でいま彼の言う内容は、今では広く認識されている男女の差と一致している。
一般的に、『うちの亭主は「メシ、フロ、ネル」しか喋らないのよ』という妻の嘆きで象徴されるように、男性は女性に比べて言葉が貧しく、言うことが具体的である。広い視野に欠けるけれど、その代わりに集中力がある。想像力に乏しく、闘争的で、議論は好まず直ぐに行動に移る。
いまでは血液中のテストステロン量を調べることが出来るが、それによると、テストステロン量の高い男性は、集中力が際だっているという。いま私達の研究室にいる胡丹くんは、集中力が特徴的である。中学生の頃、友人と話しているときに後ろから先生に声を掛けられて全然気付かず、返事のないのにいらだった先生が肩に手を掛けた途端、後ろ手に払って先生を殴ってしまったという。論文を読んでいるときもいっさいのことを忘れて没入する。
そのあと部屋を出て行くとあとは散らかり放題である。片づけるなどという「女々しいこと」はいっさい頭の中にはない。席を立ったときには次にやることしか考えていない。外に出かけると忘れ物、落とし物は始終である。実験をするときにはとても丁寧だけれど、なにかに集中するとほかのことにはいっさい気が回らず、それこそ不注意に器具を壊すことがある。
先日胡丹くんは、細胞の数を計る5万円以上する血球計算板を落として壊してしまった。使ったあとそこに置いてあったのを忘れて払い落としてしまったのだ。それから1週間もしないうちに、今度は潭くんが、新品の血球計算板を洗うときに力を入れすぎて割ってしまった。潭くんのテストステロン量も高いに違いない。どのくらい力を入れたら壊れるかを想像することが出来ないのだろう。
もうすぐ卒業研究の学生が3人入ってくる。昨年は三人とも女子だったけれど今度は男子三人である。私は学生の男女に選り好みはないけれど、貧乏所帯の研究室としては男子三人に今度は何を壊されるかと考えると頭が痛い。
2005/02/06 10:30
沈慧蓮さんの「日本の印象」
私のエッセイに始終登場してきた人に沈慧蓮さんがいる。彼女は瀋陽薬科大学薬学部日語専門コースの出身で、卒業研究では私たちの研究室に来た上に、明るくすべてに積極的な人で、私たちはとても仲がよい。
上海出身の沈慧蓮さんが日本に渡ったのは昨2004年9月だった。その沈慧蓮さんが日本の印象記を送ってきた。『先生の「瀋陽便り」に載せてください。作者は「沈慧蓮さん」と付けてください。』と書いてあったので、ここで公開する。
あまりにも見事な日本語なので、どこからか文章を借りてきたか、誰かが直したかと思いたいところだが、彼女の実力を知っている私は、これは彼女が自分で書いたものだと思う。
大学院の入学試験を受けに京都に着いた一週間あとには、沈慧蓮さんは京都弁でmailを書いてきたくらい語学のセンスがよい。彼女は入試に合格し、4月からは京都大学大学院の院生となる。奨学金がまだ貰えそうもないらしい。誰か「あしながおじさん」になってくれませんか?
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「日本の印象」 沈慧蓮 2005/01/15
ふと気が付くと、日本に来てもう四ヶ月が経ちました。来日の日、上海の浦東空港を離陸し、関西国際空港に近づくにつれて、私の心もドキドキしてきたことを覚えています。「もうすぐ、この足で日本の土を踏む。私と縁のあるこの土地に。」と、思わずにはいられませんでした。しかし、嬉しい気持ちの反面、心配もしていました。一人で海外生活をするというのは今回が初めてであり、日本のみなさんとうまく付き合うことが出来るか、日本での研究生活に慣れることが出来るかなどを考えると心の中は不安でいっぱいでした。
飛行機を降りロビーに出ると、人込みの中に先ず「沈 慧蓮様 Welcome To 京都大学大学院薬学部」という字が目に入りました。そして蒸し暑い夏に、わざわざ京都から迎えてくれた研究室の二人の姿が見えました。日本の人に対する親切さに私はとても感動しました。いつの間にか、さきほどの不安は消えていました。
日本に来て驚いたのは自然の美しさです。私は、関西国際空港から宇治にある京大国際交流会館へ向かう道中、わくわくしながらタクシーの車窓から京都の風景を眺めていました。印象深かったことは、どの家もガーデニングをして、花や緑に溢れていることでした。その手入れの行き届いた綺麗な庭は、家のご主人が心を込めて作ったものであると感じられ、自然を大切にしていることが伝わって来ました。日本は経済大国とも言われて産業が非常に発達しているにもかかわらず、あらゆるところで緑が見られるのは、このような自然を愛する気持ちによるものだと思いました。
また、古都である京都の町並みは味わい深く、世界に誇るべき美しい道が多く、とても魅力的です。晩秋には、山々は紅葉に彩られ、最も美しい時期になります。私は、清水寺や円山公園、哲学の道を訪れて、紅葉の幻想的で美しい景観に心を奪われ、心が洗われたような気がしました。
日本が伝統・文化を守っていることにもまた、私は感銘を受けました。例えば京都の三大祭りの一つの時代祭では、多くの人々が楽しく参加していました。街中でも、着物を着ている女性の姿がよく見掛け、日本の伝統が生活に根付いていると感じました。日本の文化は、その伝統文化と中国や西洋の文化が混じり合った独特な文化でもあります。華道、茶道、演劇、造園などのように高度に形式化され洗練された文化や芸術は、質素で、優雅さや気品に溢れています。さらに、日々鍛錬し、文化を継承するだけに留まらず、現代的要素も取り入れ発展させています。このように、柔軟に他のものを受け入れようとする姿勢は学ぶべきものです。
私は、大学から離れているところに住んでいるため、毎日電車で通学しています。時間はかかりますが、京都の美しさを鑑賞する機会を持つことが出来ました。電車の窓を通して、素晴らしい山並みに囲まれ、風さえ薫る京都を眺めています。一方、車内では、教科書や仕事の資料を読む人の姿がありました。以前、中国にいる時には、日本の経済成長や技術進歩の鍵はいったい何であるかはっきり分かりませんでしたが、私はこの車内の風景を見て、その答えを見つけたよう気がします。それは、"勤勉さ"です。
研究室にきて、実験をしたり、論文を読んだり、真面目な研究生活が始まりました。日本の学生で一番印象的だったことは、日本の学生は研究において独立性がかなり高いこと、また、皆それぞれ個性的で自分が好きなことに夢中になり、明確な目標を持って一生懸命に取り込んでいることです。研究においては、学生は教官と相談して自分の興味ある研究テーマを選び、教官と先輩に指導を受けたり、論文を読んだりして、研究を試行錯誤しながら進めていきます。周りの日本の学生は皆自分の研究テーマの関連文献を多く読み、基礎知識と理論をしっかり身に付けた上で実験を行っているため、素晴らしい研究結果を出しています。
また、以前は、日本人はハードワーク(働きすぎ)という印象がありましたが、実際は息抜きも大切にしています。周りの日本の友達は好きな研究に没頭するだけではなく、趣味にも熱中しています。美術館巡りが好きな人、楽器の演奏に興じる人、映画を見る趣味を持っている人もいます。
中国にいた時、「世界に一つだけの花」という曲の「僕らも世界に一つだけの花 一人一人違う種を持つその花を咲かせることだけに一生懸命になればいいNo.1にならなくてもいい もともと特別な Onlyone」という歌詞がとても気に入りました。実際、日本の生活の中で日本の人々はこの歌詞のようであると感じました。ただ勤勉であるだけでなく、自分の個性を持ってOnly oneを目指しているようです。
家を離れても、暖かい家族のような研究室の日本人たちに囲まれているため、私は寂しいとは思いません。そして、多くの日本人や各国からの留学生と出会い、日々刺激を受けながら楽しい生活を送っています。私はわが国と一衣帯水の伝統を持ちつつ、かつ最先端を行く日本で、将来に向けて、「世界に一つだけの花」を咲かせるように不断の努力を続けて行こうと思います。
2005/02/11 11:19
中国餃子は皮が絶品
中国生まれの餃子は日本の食生活にラーメンと同じように入りこんでいるけれど、誰もラーメンほどにはうるさいことを言わないようだ。ラーメンだと札幌ラーメンから始まって、全国にご当地ラーメンがあり、味も塩だ、醤油だ、豚骨だと、誰もが自分の好みを主張して譲らないように思う。ただしこのラーメンは日本独自のものである。
皆の好みと主張を反映して、ラーメンには沢山の種類があるのに、餃子はどの店のメニューでも一種類だけだ。もちろん、餃子専門店に行けばそんなことはないけれど、だいたい日本では餃子にうるさく言う人はいない。これは日本の餃子はおかず扱いで、ラーメンにプラスの一品だから、ほどほどに美味しければそれでよということになっているからだと思う。
ところが瀋陽の餃子は主食なので、いずれ将来は中身を味わうために皮は薄くなるかも知れないけれど、皮の薄い餃子なんて今のところお呼びではない。しかも手作りでしっかりと粉から練って歯ごたえのある餃子が食べられることが大きな違いだろう。調理法も焼き餃子が主体の日本とは違って、蒸し餃子と水餃子が普通である。
瀋陽で食べる餃子の皮は厚いけれど、口に入れたときの舌触り、歯ごたえはとても良い。この美味さはうどんの旨い、不味いを思って貰えばよい。良い粉で良く練ってシコシコと腰のあるうどんは美味しい。いい加減に練っただけのうどんが不味いのと同じである。
中国は大きく分けると南の米文化と、北の粉文化に分かれるという。北の地方では米がとれないので、小麦粉が主食である。小麦粉を沢山食べるために、おかずを中に巻き込んだ餃子が発達し、主食だから皮は薄くては意味がないので厚く、しかもその厚みを美味しく食べるために良く練って作ることになったのだろう。今でこそスーパーに行くとフリーザーに凍った餃子が何種類も売られているけれど、むかしは一家を挙げて作っていた。粉を練るのは力仕事だから東北地方では餃子を作るのは男の仕事であり、言い換えると東北の男は誰でも餃子を作ることができる。
以前、私の日本の研究室にいたポスドク(博士号を取ったあと修業期間中の研究者を指す)だった培星くんは、瀋陽のある遼寧省の北にある吉林省出身で、子供の頃は起きると毎朝兄弟4人が文字通り力を合わせて粉を練って餃子を作るのが日課だったという。だから、餃子を作るのが上手い。培星くんは研究所の直ぐ近くに住んでいたので、最初私たちは作り方を教わるという名目で彼の下宿に行き、その後は一緒に作って食べようという名目で、仕事の帰りに良く押しかけたものだ。勿論私たちも一生懸命作ったけれど、結局は彼の作る量にこちらが四~五人いても全然敵わなかった。
粉を練るのは力仕事だから私たちにも何とかなるけれど、実際の皮作りの段階で大きな差が付いた。一つ一つの餃子の皮を作るのは、練った小麦粉を棒状にのばして包丁で1cmくらいに切って、それを丸めて、のし棒で円形に薄くのばすことになる。簡単そうだけれど、ところが、これは誰にもまねの出来ない早さだった。さすが、何年も毎日やってきた手練の技である。
中国の餃子では具にニンニクを入れない。一番ポピュラーな具は三鮮と呼ばれるもので、豚肉、エビ、ニラで作る。このほか、豚肉と白菜、豚肉と香菜、豚肉とピーマン、豚肉と白菜などの組み合わせが餃子の具の定番である。どうして具にニンニクを入れないのかと聞くと、ニンニクは茹でると美味しくなくなるからだそうだ。これも日本と決定的に違うところだ。味は、十三香、塩、醤油、生姜で整える。具を作るときにはニンニクだけでなく、酒も加えない。
こうやって作り上げた餃子は、蒸し餃子と水餃子にするのが普通である。焼き餃子は特に鍋貼(guo tie)と呼ばれ、この作り方は、フライパンに餃子を綺麗に並べていれて、そこに小麦粉を溶いて薄く流し込んでから焼く。出すときにはひっくり返して皿に載せるから、餃子同士が綺麗に焼けた薄いぱりぱりの小麦粉で繋がっていると思って欲しい。見た目がとても綺麗だが、この食べ方は一般的ではない。中国で餃子を焼いて食べるのは、蒸し餃子や水餃子を残したときの、翌日の調理法なのである。
ニンニクは、具の中に入れない代わりに、すり下ろしてたれに好みで加える。このたれも中国は多彩である。日本だと、醤油が主で、好みで酢、辣(ラー)油ということになる。辣油に当たるものは唐辛子を刻んで油で炒めて作ったもので、唐辛子ごと、ザクッと掬って黒酢に入れるが、これはワンタンを食べるときにぴったりである。すり下ろしたニンニクを始め、様々なものが薬味として出されるけれど、私は黒酢にニンニク少々というのが気に入っている。
店で野菜や肉を買うときの単位は、1斤(500グラム)である。餃子も料理屋のメニューに1斤あたりの値段で書いてある。大学近くの店だと1斤あたり5元(65円くらい)が普通で、10元というと、一寸した店と言うことになる。瀋陽にある百年老店の一つ老辺餃子館にいくと、1斤あたり50元から始まって75元の値が付いている。
この1斤という単位を、最初は出来た餃子が500グラムだと思っていたが、1斤の餃子は大きな皿に山盛りに載って、二皿も出てくる。べらぼうな量なのだ。つまり、これは主食だから小麦粉として何グラム食べると考えるとわかりやすい。そうめんを茹でるときや、スパゲッティを茹でるとき、一人分の目安は乾重量で100グラムである。それと同じで、餃子だけ食べるなら(ここではそんなことはあり得ないけれど)、4人で1斤(500グラム)を取ればお腹が一杯になる。一人15〜20円くらいのものだろうか。
初めの頃は知らなかったから、二人でいつも半斤の餃子を頼んで、沢山食べ残して打包(テイクアウト)にしていた。そのうち教えて貰って、二両(100グラム、50グラムが1両)という注文の仕方を覚えた。おかずを二つ取って、餃子を二両注文すると、貞子と二人で丁度良いくらいの数だ。おかずの二皿は二人では食べきれないから、これも打包になる。
このように、中国に来て知った決定的な違いは、餃子の皮と調理法にある。瀋陽の餃子は皮が美味しい。讃岐うどん、あるいは稲庭うどんの美味さである。日本では餃子の皮は薄くて焦げ目があって、パリパリと食べた時の触感と香りが餃子の美味さの決め手だった。こうやって両国の違いを書いていると、脳裏に記憶の中の日本の餃子の芳しい香りが蘇ってきて切なくなってきた。ああ、パリパリっ、サクサクっという餃子が食べたいなあ。
2005/02/13 09:08
薬科大学のヨンさま
私たちの瀋陽薬科大学から2ブロック離れたところに大きな書店があるが、どうも瀋陽には本屋が少ないような気がする。この本屋は5階まであって、1階には文房具、4階には書道の手本(書家の拓本)、筆硯も置いてある。瀋陽駅の近くの繁華街に行くとまた大きな書店があり、一寸離れたところに筆硯を扱う専門店も持っている。
でも、これ以外に本屋を見たことはない。勿論瀋陽中を歩き回っているわけではないから断言できないけれど、印象として本屋を見た覚えがない。それで狭い見聞だけれど、一般の中国人はあまり本を読まないのではないかという印象を持つようになった。それでも学生たちは、世の中の評判の小説はちゃんと読んでいる。
その一つに「射雕英雄伝」という香港の金庸という作者の書いた武侠小説があって、今の中国では大変人気があり、研究室で話題になると誰でも知っているようだ。テレビドラマにもなっているけれど、これはただの小説じゃなくて、天文、地理、歴史、政治、文学などなど含んでいるため、教科書になると言っても過言ではないと、女子学生の沈慧蓮さんは解説してくれた。それでみんはテレビドラマよりも、小説に嵌まっているそうだ。
その小説の中の主人公は郭靖という名の男で、黄蓉という名の可愛い恋人がいる。この郭靖はどんな具合に良いのか、その辺はよく分からないけれど、メッチャ格好いい男らしい。最初の年の私たちの研究室には男子学生が三人いた。そのひとりが背の高い魯くんで、その主人公の郭靖みたいに格好良いと言われている。さしずめ「瀋陽薬科大学のヨンさま」というところだろうか。
「魯くんのクールな目で殺されたいという女の人が沢山います」と同じ学年の王麗さんは言う。王麗さんは「本当ですよ」と強調するから、本当かも知れないし、からかっているだけかも知れない。1年下の沈慧蓮さんはそれを受けて「そうなんですよ。『あの人誰なの。なんて言う人なの』っていろんな人からよく訊かれます」と言う。魯くんの同級生の胡丹くんも、朱くんもニコニコして相槌を打っている。本人の魯くんもそこに一緒にいて、これを聞きながらにんまりしていて、満更でもなさそうだ。
魯くん、胡丹くん、それに朱くんの三人は学部の5年間同じ寮の同じ寝室仲間でとても仲がよい。何をするのも一緒、日本語の勉強も一緒に競い合って誰もが素晴らしい日本語能力を持っている。
魯くんと大学の構内を一緒に歩いていると、確かに魯くんはすれ違う誰彼に、愛想良く頷いたり声を掛け合ったりしている。多くは女性だけれど、女性だけではない。男も結構多い。つまり魯くんは、知人がとても多く、仲間の中の人気者なのだ。人気の秘密は、見かけの格好良さだけではなく、人の面倒見がよいことにもあると思われる。
彼はコンピューターにめっぽう強く、東京の秋葉原に当たる電脳の街である三好街に出掛けてコンピューターを組み立てて貰うときも魯くんの存在が必須だった。親切な魯くんは、友達のためにコンピューターを見立てたり、修理・調整を引き受ける。それでますますコンピューターに強くなり、彼も大事にされると言う良い循環をしているよう だ。
この薬科大学のことを隣の部屋の池島教授は「これじゃまるで恋愛学校ですよ」と言っているが、それは薬科大学なので女子学生が多いことと、仲の良い男女が何時も手をつないで大学の中を闊歩しているのが目に付くからだ。
今まで何度か書いているように、その刺激の強い大学の中で5年間独身を守ってきた胡丹くんは、大学院に入ってからすてきな恋人を見つけた。それは1年前の春節休暇の時、私たちが日本に戻ったあとのことだった。それを日本の私たちに知らせてきた魯くんは、「Mr. Qin has fallen into love. Since then he never goes to dining room with us, and thus I have to eat alone.」と書いてきた。
ついに仲間よりも大事な女性の出現に、魯くんは可哀想に、何時も一緒に行動する胡丹くんなしで一人で食事に行く羽目になってしまった。仲間の胡丹くんがとうとう身を固めたのに煽られたのだろうか、そのあと故郷に帰った魯くんは高校の時の同級生とめでたく結婚の約束をしてきた。休みが終わって瀋陽に戻ってきた私たちに「私にも女朋友 ができました」と嬉しそうに写真を見せてくれた。
この女朋友という中国語は、文字通りガールフレンドを意味しているけれど、日本で使うよりも意味はかなり重く、単に恋人というのではなく、結婚する相手を指している。中国ではただの女の友達では、女朋友と呼ぶことはない。女朋友と言う以上は、本人同士もその気、そして親も認めた関係を指していると思って良い。もちろん、そのとき男の方は女性から見れば男朋友となっていることは言うまでもない。
魯くんは三年前の夏の休暇で故郷に帰ったとき、高校の同級生だった女性と街ですれ違った。「あ、あの子は」と思って少し行き過ぎてから振り返ると、丁度相手も立ち止まってこちらに振り向いたところだったという。これがきっかけで彼女との昔の友情が復活して、そして今やついに女朋友になったわけだが、最後の段階には胡丹くんの恋の成就が影響したに違いない。
というわけで、我が研究室の郭靖と呼ばれた魯くんもめでたく本命の恋人が出来たのだった。魯くんは1年間私たちの研究室にいたあと、昨年秋から韓国の大学に留学した。きっと今頃は「中国のヨンさま」と言われて、韓国の女性に追っかけられているに違いない。
2005/02/19 07:45
雪泥の上に春の日射し
赤一色となって春節(新年)を祝う瀋陽に雪が降って街を白く染め上げ、赤と白の対比の街はいっとき美しかったけれど、翌日には歩道の白い雪はたちまち踏み荒らされ泥が入り交じって茶色のザラメみたいになってしまった。車道も歩道も舗装されていてほとんど土が顔を出していないのに、どこから運ばれてくるのか瀋陽の街は埃っぽく、そして泥っぽい。
大学はまだ春節休みなので、昼間だけれど昼食を食べに行きながら買い物をしてこようと言うことになった。大学から1ブロック離れた所に大きな建物を構えるスーパーのカルフールは、昨年夏に開店したばかりで、東京日本橋のコレド日本橋には及ばずとも、入り口を除けば、華麗な作りである。入り口は人が大勢出入りするから、扉を開け放っている。しかしそれではマイナス二十度の外気が直接入ってしまうので、戸口にはビニールのカーテンがぶら下がっている。このカーテンは、幅20cm位の厚くて重いビニールが隙間なくぶら下がったもので、人々はこれをかき分けて出入りする。こうやって入ったホールからは、更にビニールのカーテンをかき分けて店内に入るという二重扉の仕組みになっている。
中国の建物の床は何処もそうだけれど、このカルフールの床も、表面がピカピカの白い石張りである。夏はよいけれど、こうやって雪と泥の歩道を歩いてくると綺麗な床は可哀想に泥だらけになる。それでも掃除専門の人がいて、まるで賽の河原みたいだと同情してしまうけれど、一生懸命モップで拭いている。
カルフールの建物の1階にはファストフードの店が入っている。ケンタッキーフライドチキンのほか、ピザの店、中華カフェテリアなどがある。ここのカルフールにはないけれど、マクドナルドやケンタッキーはこういうところには必ず出ていて、そしていつも沢山の客が入っている。一人が普通に食べて20〜30元(260円〜400円)掛かるので、学生や私たちが気軽に行けるところではない。ここが混み合っているのはいまや中国にはリッチな人たちが結構いることを意味している。
そういうわけで私たちの入った店は千伊拉面店というラーメンの店だった。ここは大阪の人が中国に作ったラーメンのチェーン店で、牛肉弁当とか焼き肉ランチなどのように、一皿の中にご飯とおかずのすべてが入っていてそれを一品注文することが出来る。ラーメン一つでも注文できる。
このようにレストランに連れなしで来て、一品だけですべて間に合うという注文の仕方は、これまでの中華料理店にはなかった斬新なものである。うんと安い店に行くと、包子だけとか、ラーメンだけを注文する人もいるけれど、普通の店ではあり得ない注文の仕方である。
店の入り口には日本風の衣装を付けた女の子が立っていて、「いらっしゃいませ」と聴くつもりなら聞き取れる声で歓迎されて中に入った。入り口に近い席を勧められたけれど、ドアに近いと寒そうなので奥の方の富士山の大きな写真の下のテーブルに付いた。もう3時近い頃なので店は混んでいない。妻の貞子は味噌ラーメン、私はチャーシューメンを注文した。ボーイさんにその場で24元を払ったけれど4元は細かい硬貨を使ったので、彼はいち、にい、さん、よんと硬貨を数えている。日本語なのだ。「凄いじゃない」と日本語で声を掛けると、彼はにこりとした。
見回すと、床には私たちの歩いてきた跡が付いている。あれ、と下を見ると足許に泥水が水たまりを作っていた。「奥まで来て悪いことしちゃったね」と貞子と話しながら向こう隣の席を見ると、ハイヒールを履いた女性の足許は全然汚れていない。地下の大駐車場に車を入れて買い物をする人たちも増えている。
中国の拉面は日本のうどんと同じで、この日本風ラーメン店でもほかの中国と同じうどん風である。日本に来ている中国の留学生は日本で安上がりに食事をするのに日本のラーメンをよく食べていると言う。だから、中国でも日本式ラーメンが受け入れられないことはないと思うが、まだ中国で日本的なラーメンを見たことは一度もない。
ラーメンを食べて身体が温まったところで、上階にあるカルフールでグローサリーをして、うちに帰った。着替えようとして、はっとした。私のカバンがない。急に空洞が出来たように身体中の力が抜けていく。
「カバンを本当に持っていたの?大学に置いていったんじゃない?」と貞子はいうが、大学を出たときには確かに肩に掛けていた。となると、思いつく唯一の置き忘れ場所はラーメン店である。きっとコートを脱いだとき隣にまずカバンを置いたに違いない。まだあるだろうか?
カバンの中には、手帳、中国語の電子辞書、半年前には新品だったデジカメ、中近距離用の眼鏡、折りたたみ傘、大学の私のID、それに銀行通帳が入っている。「中国で何か置き忘れたらまず出ないと思え」という中国ガイドブックの内容が暗い気持ちで思い出される。気持はどんどん沈みこんでいった。
ともかく行ってみるしかない。妻と互いに重い口でぼやき、嘆きつつ、再び雪だまりに足を取られながら先刻の店に行った。店に着いて、時間的には先刻よりももっと空いている店内を覗き込んで、さっきのボーイさんを探す。いた、いた。店の入り口に立っている女の子も何か言ったようで、ボーイさんはこちらを見て二人の視線が絡み合った。
私が「カバンをさっき置き忘れたと思うけれど、ここにはありませんか?」と英語で言ったのと、彼が手の仕草でカバンの形を示したのが同時だった。「えっ、あるの?」と私は日本語で叫び、彼は奥のレジに行って私のカバンを高々と持ち上げてにっこりとした。そこまで飛んでいった私は、余りの嬉しさにそのあと何を言ったのか覚えていないけれど、気づくと私は財布から百元を出して彼の手に押しつけていた。
そのボーイさんは「とんでもない、そんなもの必要ないよ、当たり前のことをしただけだ。いらないよ」と言っているらしい。こちらは「ありがとう、ありがとう。あなたは正直だ。カバンが見つかってどんなに助かったか分からない。これを貰ってくれないと私はカバンが受け取れない」と言い続けた。この押し問答を何回繰り返したか分からない。店のボーイ、ウエイトレス皆がニコニコとこちらを見ている。誰の顔も善意と幸せに溢れかえっている。
やっと彼にお礼を押しつけて、「非常感謝」を繰り返しながらカバンをしっかりと抱いて店を出た。綺麗な店の中をまた泥靴の跡で汚したことが気になりつつも、心の中は春の日射しのように暖かかった。
2005/02/25 17:23
我要銭 金を出せ
手持ちの現金が足りなくなったので、預金を引出そうと銀行に妻の貞子と出かけた。私たちの銀行は中国工商銀行といって大手銀行の一つで、市内至る所に支店がある。私達のアパートの建物の下にも入っているけれど、朝はまだ開いていなかった。昼休みに大学の正門近くの支店に出かけると、窓口が三つ開いていて、店内は大して混んでいなくて嬉しかった。
一般的にこういうところでも、誰も列を作らず、窓口で相手をして貰っている人の後ろではなく横に、たとえば左にくっつく。その次に来た人は今度は右側にくっつく。というわけで、フォーク型整列という受け身の生き方に慣れている日本人としては、こういうときにどうしてよいか分からないのだ。
いつかは郵便局で、次と思って二番目に並んでいたのにいつまで経っても右と左に割り込む人たちに邪魔されて番が廻ってこず、とうとう、窓口の中にいた係員が気の毒に思って私に声を掛けてくれたことがある。
銀行に入っていくとちょうど用の片づいた人がいて、窓口が一つ空いた。貞子は真っ直ぐそこに行って、急いで自分の赤い通帳を出して中の係員に手渡しながら五千元を引き出したいと中国語で言った。私たちが瀋陽に来た1年半前は、店内の机に青い印刷の預金用と、赤い印刷の引き出し用の紙があったけれど、このごろは紙が置いてないので、通帳を出して口で言うだけで用が足りる。
それを見届けて私は電話代を払うための機械に行った。この機械は、キャッシュカードを使って、電話代、ガス代などを自分の口座から払い込む仕組みである。対話式の画面で、何を払いたいかを選び、それが電話代の時は、さらに電話番号を入力し、あとは自分の口座の暗証番号を入れれば支払いが済むという、半自動式公共料金引き落とし装置 である。前の月の電話代を払い忘れていると、やがて郵便で催促が送られてきてしまう。
機械の所に並んで一人待てば自分の番だと思ったときに、先刻の窓口で係と貞子がなにやら話している。というより、係が何か言って、貞子が困っている。それで並んでいたのを放棄して窓口に行くと、係の人は「ここに何年居る?」と訊いている。「何元要る?」ではなくて、滞在年数が訊かれるなんておかしいと思ったけれど、1年半居るよと答えたら、先方は1年半と紙に書いて見せてくれる。
そうだ、そうだ、それなら書いたらよいだろうと思いついて貞子に言ったら、彼女は「我要五千元」と紙に書いて、係員に見せた。ところが中の係員はすぐに金を数えたりしないで、貞子にまた、「現金か?」と言っている。
当たり前じゃないか。待てよ、渡す紙幣の種類を訊いているのかも知れないと思ったけれど、「百元紙幣」でなんてとても言えない。仕方なく財布を出して百元札を見せて、これだよと言ってみたけれど、先方はまた何か言っている。貞子にも私にも分からない。隣の窓口に並んだ人たちもこちらをみて何やら言っているけれど、もちろん私たちには何のことか分からない。
貞子の後ろにというか、私が貞子の左にいたから今度は貞子の右にくっついていると言うべきだけれど、そこに並んでいる中年の女性が手を差し伸べて紙とペンを指し示した。助けてくれると分かったので書くものを渡した。すると、紙に「存否」と書いた。貞子と顔を見合わせたが、わからない。すると今度は「取否」と書いてくれた。学内ポストに行って郵便を取ってくるとき「取信」というから、「取」はお金を引き出すことだろう。お金を出したいのか?と訊いているに違いない。
「取」に○を付けたところで貞子ははっと気づいてカバンを開けた。取り出したのが、赤い銀行の通帳だった。最初に窓口氏に「五千元のお金を出したい」といいつつ渡したのは、銀行の通帳ではなくて、日本政府発行10年有効の赤い表紙のパスポートだった。
以前、二万元を引き出したときに身分証明書が要ると言われて以来、銀行窓口で現金を引き出すときにはIDを持っていくのが習慣になっていた。それでつい、銀行通帳のつもりで同じ色、同じ大きさのパスポートを出していたのだった。
これで話は解決。周り中の笑顔に包まれて無事に彼女は現金を手にすることが出来たが、二人ともあまりにも疲れて、機械で電話代を払うのはまたにしようと言うことになった。こんなことの後でこれ以上この銀行にいるのは一寸ばかりきまりが悪いし。
研究室に戻ってきてことの顛末を学生の胡丹くんに話すと、「良く無事に帰って来られましたね」といってにやにやしたと思うと、「金を出せ、金を五千元出せ」と胡丹くんは大きな声で叫ぶのだ。胡丹くんの説明によると「我要銭」や「我要五千元」は銀行強盗のせりふだという。預金を引き出したければ、「我要取銭。我要取五千元」でなくてはいけなかったのだ。
窓口で銀行の通帳を出さずに「我要五千元」とわめいていたのだから、強盗と思われても不思議はなかったわけだ。それでも慌てず、騒がず、怒らず、警察も呼ばずに窓口氏が対応をしてくれたのは、間抜けな強盗が自分のパスポートを見せつつ「金を出せ」というはずはないと思ってくれたからに違いない。
先日は私がカバンを置き忘れるというドジをするし、今回は貞子が思いこみで間抜けなことをするし、二人揃って嘆いていると、さっき笑っていた胡丹くんも嘆いている。
「1年中国語を教えた弟子がこれじゃ、もう私に誰も教えてくれと言って来ないよ。情けないね。もう弟子じゃないね。」
胡丹くんは私たちの中国語の先生だったのだ。とうとう私たちは破門されてしまった。
2005/03/05 08:24
彼女が胡丹くんを選んだのだった
高温多湿の日本では、一日を過ごしてべとついた肌のまま寝る気にはとてもなれない。汗を毎日洗い流すという習慣は古くから日本では根付いていて、江戸時代の外国から日本を訪れた人が、日本人は世界一きれい好きだと書き留めた記録があるという。
中国では日本に比べると乾燥しているので、日本のように毎日風呂に入る生活の習慣がないと聞いている。しかし、汗をかけばその汗が蒸発したとしても、その汗の痕跡は皮膚に残る。この汗の成分と、汗の成分を栄養として繁殖する微生物の出す物質が汗の匂いとなり、これがあまりにもきつくなると周りの人が秘かに顔をしかめる。
薬科大学で学部学生は全員が寮に入らなくてはならない。その1年間の寮費は光熱費込みで1200元だが、風呂代は含まれていない。風呂といってもシャワーのことだそうだけれど、入浴料は学生2元、院生3元、職員4元、外部の人が6元。学生食堂に行って私たち二人の昼ご飯が5元前後なので、大体安めの昼ご飯代とおなじである。
洗濯は無料だけれど、自分で洗わなくてはならないから洗濯をすると勉強の時間が取られる。従って、お金と時間を倹約しようと思うとシャワーを浴びない生活、洗濯をこまめにしない生活になる。恋人の出来る前の胡丹くんは、この手の節約生活をしているので、時には匂うことがあった。
話は変わるが、今では臓器移植が世界的に行われるようになってきた。臓器移植は今の医学で治療できない人が生き続けることを可能にする魔術だ。たとえば心臓を健康なものに替えれば正常な生活が取り戻せるという、患者にとって切実な要求に応える技術だが、一方で同時に臓器売買が巨大なビジネスとして成り立とうとしている。
この移植に当たっては、「主要組織適合抗原」が、ドナー(臓器を提供する人)とレシピエント(手術で臓器を取り替える人)とで一致しないと組織が定着しないと言うことは、もうよく知られている。
この「主要組織適合抗原」はタンパク質でそれぞれの人のすべての細胞表面にあり、このタンパク質は個人個人で構造が違っている。この構造が違うので他人の細胞が入ってくると、それぞれの人が持っている免疫の力が、「これは自分のものではない」と見分けることが出来るようになっている。
免疫は自分という一個体の整合性を保つために外来生物の進入を許さない仕組みで、人はそのおかげでここまで繁栄してきたとも言える。臓器移植については、一卵性双生児か、クローン人間でもない限り、適合するのは一万人に一人という状態である。
さて、「主要組織適合抗原」は個人識別のために遺伝子で決まるタンパク質で、私たちの身体の免疫組織はこれを頼りに自分か他人かを見分けているけれど、私たちは自分以外の人を見分けるのに、このタンパク質に頼っているわけではない。相手が誰かは、眼で見れば分かるし、見えなくたって声を聞けば分かる。でも、あなたは匂いだけで相手が分かるだろうか?
だいぶ前のことだが、こういう科学実験があった。先ず何人かの若い健康な男性を集めた。匂いのないボディーソープを使ってシャワーを浴びて清潔な身体にした上で、Tシャツを着せてそのまま3日間を過ごさせる。3日も着ればその人の匂いがシャツに染み込む。その匂いの沁みたシャツを回収してビニールの袋に入れて番号をつけて、あとで誰のものだったか分かるようにする。次に全く関係のない若い女性を集めて来て、このTシャツの匂いをかがせてどのTシャツの匂いが好きかを選ばせた。実験に参加した男性も女性も、各人の組織適応抗原が何か、あらかじめ調べてある。
さて結果を「主要組織適合抗原」でいうと、女性は自分の持つ「主要組織適合抗原」と一番遠い関係になる「主要組織適合抗原」を持った男性の汗の沁みたTシャツを、好ましいと言って選んだのだった。これはすごいことだ。生物的に見るとこれは大変理にかなっている。近縁の遺伝子よりは遠い遺伝子を混ぜ合わせようとする生物の本能の現れなのだ。
このテストで、立場を変えて女性がTシャツを着て、それを男が選んだらどうなるだろう?そんなテストを思うだけで嬉しくて頭がくらくらしてしまうが、公式には報告されていない。素人考えでは、男は女性の匂いならどれでも良いということになるのではないか。少なくとも生物学的には、男は誰彼の見境もなく自分の精子を残そうとする存在だと思われているから、匂いで女性を選ぶことは出来ないはずだ。
女性がなぜ匂いを頼りに自分と一番遠い関係になる遺伝子を持つ男性を選べるのか、また主要組織適合抗原の違いがどうやって女性によってかぎ分けられる違う匂いとなるのか、その仕組みはまだ全く分かっていない。しかし男は「自分だよ」という女性の誰かにとっては心地よい匂いを発散しているわけだ。そして女性はそれをかぎ分けるという驚嘆すべき能力を生まれつき持っている。
そしてこの実験は、女性が男を生物学的に正しく選ぶ能力を持つことを示している。逆ではない。ただし、このかぎ分ける能力は女性が避妊薬であるピルを飲んでいると全く発揮できないという。ピルは黄体ホルモンを含んでいるので、ピルを服用すると女性は妊娠しているのと同じ状態になって排卵を起こさない。これがピルの避妊薬としての仕組みである。女性が妊娠しているときには、自分に精子を供給する男を選ぶ必要はないわけだから、その能力がなくても良い。実に理にかなっている。
さて、研究室の胡丹くんには一年前にすてきな恋人が出来たけれど、彼に言わせると自分から彼女を捜したのではない、彼女が自分を見つけたのだと主張している。上に書いたように、女性が好みの男性を見つけるのは自然の摂理だから、彼の汗の匂いの中から彼女は麝香のようなうっとりとする香りをかぎ分けたのだろう。
胡丹くんの彼女は今では胡丹くんの洗濯も一緒に引き受けているという。何時も清潔な服を着るようになったのと、風呂に入る回数が増えたのか、このごろの胡丹くんは汗の匂いをさせなくなった。彼が彼の匂いを発散させて、二万人に一人はいるはずの彼女の競争相手を惹きつけさせたくないという、これも彼女の生物的本能の知らず知らずの表れかも知れない。