2008/01/01 09:19
若い孔雀の陳陽くん
陳陽くんは今修士課程2年生で大変ユニークな人である。薬科大学で彼のことを知らない人はない位の有名人だ。
背が高くて、しかも痩せているのでそれだけでもひときわ目立つ。おまけに顔が日本のアニメの主人公みたいで、無機質な、しかし美少女風の造形である。さらに髪型や衣装に大いに凝っている。日本の若者の風俗としては当たり前みたいな格好でも、この大学の中では際だつ。高知大学から交換学生として来ている戸田 さんが同じようにお洒落で、キイチェインを掛けていると思ったら、陳陽も早速同じようなキイチェインを首に掛けていた。戸田さんはピアスを片耳にしている が、陳陽はまだそこには追いついていない。「先生、何を書いているんですか。また私の悪口でしょう?良いですよ、いくら書いても。私は世界中に名前の知られた有名人になってしまいますね。」と、彼が教授室に入ってきて私がPCに向かっていると、時には声を掛けてくる。
私は四六時中PCに向かっていると言っていいくらいだが、論文を書いているときや、読んでいるときは近づきがたい雰囲気だそうだ。遊んでいるのではないか ら当然だろう。しかし、PCでメイルを書いたりするときは相手のことを思い浮かべながら書くので、相手が女性だとどうしても優しい顔になると、妻が指摘し ている。実に柔和で穏やかな良い顔になると言うのだ。エッセイを書くときも、例えば陳陽のことを書いているときなどは顔がゆるんで優しい表情になっているらしい。
実際、私のホームページや、研究室日記にときどき陳陽が出てくる。人のことを悪く書くつもりはないから、ここに登場するというのは私のからかいの、そして好意の対象と言うわけだ。陳陽はあまり本を読まない人だ。試験のために仕方なく教科書を読むくらいで、時間が空いていればコンピュータゲームをやっているか、映画をインターネット からダウンロードしてもっぱらそれを観ているという。それなのに将来は「教授になりたいから先生のところに来た」という。「研究はどうやってやるものかの心構えは教えるけれど、研究者になるかどうかは本人の能力と心がけ次第だしね。それに大体うちの研究室に来たら金儲けの出来る研究者にはなれないよ。」と研究室に来た時最初に言ってある。
「でも、お金を早く儲けたいですね。だって親にまだ世話になっているから沢山給料を呉れる会社に就職して親に恩返ししなくっちゃ。」と陳陽はいう。これは 彼に限らず学生一般に通じる考え方で、勿論親からの圧力もある。親は食うものも食わずに子供の教育に投資したのだから、大学を出た子供の就職先に口を挟 む。つまり少しでも給料の高いところに就職させたいのだ。就職先の将来性などは考慮の対象ともならない。初任給の高いことが第一条件である。だって、会社 なんて何時潰れるか分からないのだから、初任給で少しでも元を取らなくてはならないというのが、社会常識のようである。
一方で将来何時かは教授にもなりたいし、そのためには博士課程に進学しなくてはならないと考えているわけだ。進学は日本にしようかアメリカにしようかと 迷っている。ひと頃日本の大学院に行こうかと口にしたので、「日本に行ったら陳陽みたいな格好をした学生は沢山いるし、陳陽は今こそ目立っていても、日本 では全く目立たない存在になってしまうよ。」とからかったら、そりゃまずいと本気で考え直しているみたいである。つまり陳陽にとってはファッションの最先 端に位置していることこそ生き甲斐らしい。
日本をやめてアメリカに行っても、アメリカは厳しい競争社会だからポスドクも1年契約で2年目には首になることもあると言ったら、アメリカに行くのもびびっているようだ。
そのためまた思い直したのか、この頃は「でも日本の女性は皆優しくて、親切で、素敵ですよねえ。」と陳陽は一生懸命自分に言い聞かせている。「中国の女性 は誰もが野蛮で強くって、この国じゃ男はつらいよねえ。」とまで言っている。中国の女性が人前では男の負けないくらい喧嘩っ早くって、実際手を出すのは何 度も目撃しているが、日本の女性の方がしとやかだというのは、本当だろうか。
この認識は、瀋陽日本人教師の会の女性の先生たちがときどき私の研究室を訪れるからだろう。陳陽は日本語が自由に話せるから何時もこう言うときには顔を出して私を手伝ってくれる。日本人の先生にしてみると日本語が鮮やかな陳陽は話すのに楽しい相手である。
陳陽にしてみれば日本人の先生たちはみな若くて美しいし、ちゃんと相手をしてくれて、綺麗な日本語で話し相手になってくれるから、こんな幸せなときはないのだ。そのあとも、ときどき夢のような眼をして、「○○先生は今度は何時訪ねて来るのですか。会いたいなあ。」なんて言っている。
「今度の日曜は、わたしと○○先生が日本語資料室の当番だから一日中会えるのさ。」と言って彼の羨望と嫉妬の眼差しを受けるのは、わたしにとって値千金の楽しみである。もちろん当番で○○先生に会えることは私にとっても嬉しいことだが。
2008/01/05 08:47
私の青春舞曲
暮れの31日、朝の挨拶に来た学生の暁笠さんが今日は家族がみんな集まるので早くうちに帰って良いですかと訊いた。彼女は瀋陽に実家がある。寮に住んでいて も週末はうちに帰る。今日は大晦日だから家族が集うのは当然のことだ。それからしばらくして現れて、彼女が言うには「先生。今夜は予定がありますか?」何 のことか分からないので不安だが、ともかく正直に「いえ、何も予定はないけれど。」と返事をした。
すると「今夜の大劇院の音楽会の券があるのですが、2枚あるのでお友達でも誘って出掛けませんか?」という。どうしたの?と言うと母が呉れたのです。とい う。余ったから思いついて呉れるのか、意図的に私に呉れるのか、そのあたりのことは分からないが、問いつめることでもない。有り難く戴くことにした。
妻は先に日本に帰っているので、薬科大学の日本語の先生のひとりに声を掛けたが、今日の大晦日は州際酒店に宿泊を取ってあります、今夜はうまいものを食べ て、たっぷりと風呂に浸かってと断られてしまった。それでほかの先生に声を掛ける元気がなくなって、研究室の学生の暁艶さんを誘って出掛けた。
大劇院は1年前に中にある小劇場に入って、松井菜穂子さんのソプラノコンサートを聴いたことがある。本格的な音楽は瀋陽に来て以来2度目である。外はマイ ナス20度の凍てつく寒さだ。劇場は外から3階くらいの高さまで大階段を登る。この階段は紅い絨毯が敷き詰めてあって夜も鮮やかで美しい。綺麗なだけでは なく、靴の雪や氷と泥の汚れを取り除く意味もあるのだろう。
演奏は遼寧交響楽団で、オーケストラの演奏は戦後の日本では馴染みのグリンカのリュスランとリュドミラ序曲ではじまり、ビゼーのカルメン組曲、ブラームス のハンガリー舞曲、シュトラウスの狩りのポルカ。そして所々に男性4人あるいは女性3人のグループによる歌が入ってきた。最後に「乾杯の歌」が美しい発声 のテノールとソプラノで歌われ、締めくくりがラデッキー行進曲だった。
演奏の初めは木管がばらばらなのが気になったけれど、そのうち久しぶりに音楽を聴く興奮に包まれて忘れてしまった。女性3人のグループの歌の一つが単純なメロディの繰り返しなのにそれをうまくアレンジしてあって、歌う感じもとても良く直ぐにメロディを覚えてしまった。暁艶にこの曲のCDを探して欲しいと頼んだら、彼女は翌日にはダウンロードした曲を私に渡してくれた。CDを金を出して買うという気はここの国民にはな く、何でも無料でダウンロードするらしい。陳陽に訊くと映画も何でも無料でダウンロードして観ているという。それでもこの国の音楽産業は大いに栄えてい る。
この曲は「青春舞曲」という名前で、大意は:
太陽は山の端に沈むけれど、明日は何時ものように昇ってくるだろう、
花は散っても来年も同じように咲くだろう、
美しい小鳥が飛び去ればそのあとには影もない、
私の青春も小鳥も去ったら同じように戻っては来ないのだ、
だから青春を大事に楽しもう、
私の青春も小鳥も去ったら同じように戻っては来ないのだ。
これは青春の終わった人が歌う歌ではなく、青春賛歌である。青春まっただ中の人が、今こそ青春だよ、真っ盛りの青春をいまこそ楽しもうよ、短い青春が去ったらもう二度と戻ってこないのだから、と歌うのだろう。
私は身体のあちこちが若いときとは違うなあと嘆く歳になったから、今の私が歌えば、「若いときは二度と来ないよ、若いときはとても短いんだよ」と言うことになるだろう。実際しみじみ考えると、涙が滲み出してくる感じである。
でも、青春とは肉体的にごく短い時間だけを指すとすると、今や人生80年となった時代には悲しすぎる。青春はあくまでも心次第であるというのがいい。マッ カーサー元師が座右の銘にしていた詩『原詩:サミュエル・ウルマン 邦訳:岡田義夫』が私も好きである。
『青春とは人生のある期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心,こう言う様相を青春と言うのだ。年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。歳月は皮膚のしわを増すが情熱を失う時に精神はしぼむ。苦悶や、狐疑、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。曰く驚異への愛慕心、空にひらめく星晨、その輝きにも似たる事物や思想の対する欽仰、事に處する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。
人は信念と共に若く
人は自信と共に若く
希望ある限り若く
疑惑と共に老ゆる
恐怖と共に老ゆる
失望と共に老い朽ちる
大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、偉力と霊感を受ける限り人の若さは失われない。これらの霊感が絶え、悲歎の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至ればこの時にこそ人は全くに老いて神の憐れみを乞う他はなくなる。』
原詩:サミュエル・ウルマン(Samuel Ullman) 邦訳:岡田 義夫
2008/01/08 13:44
不思議な国の山大爺 その六
ちょ うど一年前、2006年12月の終わりに薬科大学の中の組織変更があって、新しい学部『生命科学及生物製薬学院』が出来た。瀋陽薬科大学は中国の大学名鑑 100校にこそ顔を出さないが、教授一名あたりの発表論文数で評価すると理系大学のトップテンの中に入っていて、知る人ぞ知る中国薬学界における実力校で ある。
この大学は天然薬物化学で名を売ってきた。簡単に言えば漢方薬で知られる生薬の成分を抽出し、分析、構造を決めることである。しかし、今までのように天然物の薬の有効成分を精製して効くかどうかを調べているだけでは、世界の生命科学を基盤とした薬学研究の波に乗り遅れる。
私たちが2003年に来たときには細胞培養をやっている研究室はほとんどなかった。つまりその頃の薬科大学では、薬が生きものに効くと言う視点、あるいは 薬がどのようにして薬理作用を表すかに興味を持つ研究者がいなかったと言っていいと思う。もちろんそういう状況だからこそ、私たちでもこの大学に招かれた 訳だが。
私たちは来たときからこの大学に生命科学研究中心を作ったらどうかと学長に言い続けてきた。名前だけでも良い、あとで心が従いてくるのでも良い、この名前 があれば、「ああ、この大学は生命科学を基盤にしている斬新な大学だ」と言うメッセージが周囲に伝わる。これは大事なことだ。スローガンが人の心を変える のと同じだ。言葉があれば目標となり、そして使命感へとつながる。
生命科学を目指すのは21世紀の大学として当然のことで、世界的にみれば今頃名前を付けるのは遅いかも知れないが、それでも遅すぎると言うことはない。新 しい名前はこの大学に新しい息吹を吹き込み、それを周囲に燦然と示して輝くことが出来る。私たちの意見が通ったといっているのではなく、ともかくこの大学 も世の中のトレンドに乗って21世紀に通用する戦闘旗を掲げたわけだ。
この変更でいままで『薬学部』に属していた「薬理学」と『製薬行程学部』に属していた「生化学」とが一緒になった。私たちはこの「生化学」に属している。 この大学では製薬会社と常にタイアップして金になる製剤学系と薬化学系が幅を利かせているという。そのような金儲けとは縁のない「薬理学」も「生化学」も 貧乏学科である。ここは金回りの良さが評価される社会だから、この新しい学部が発足しても大学の中では一段と低くみられていると聞いた。
このように学部が改変になってこの1年の間に変わったことと言ったら、ただ一つ、忘年会の会場が豪華なレストランから、大学が持つ招待所の美味しくないレ ストランに変わったことくらいである。貧しい学部になったことを象徴している。新しい先生が招聘されて来て研究室を開いたという話しも聞かないし、研究費 が増えたという話しも聞かない。
一年前に学部の改変があった時と同じくして、『国際薬学研究合作センター』というのが出来たことが学内新聞に載った。この新聞によると私たちの研究室がセ ンターに入っている。隣の池島教授も載っている。大分前に北海道薬科大学先生が兼任教授となって作った研究室があって、その教授が退官したあとこちらの助 教授が昇格して教授になった研究室の名前もある。これ以外にも、アメリカに拠点を置く中国人の先生の名前も載っている。全部で9研究室の名前があった。
それから2か月くらいのうちに私たちの教授室の斜め向かいの部屋が改造されて立派な事務室が出来て、人が出入りし始めた。金色の『国際薬学研究合作センター』というネームプレートがその入り口には燦然と輝いている。
このセンターが出来たことで研究費も増えるのかと期待したけれど、この1年、そんなことはなかった。研究費の申請を一度書かされたきりで、それもあとで隣の池島さんに聞いたところでは、こんなに研究申請が出ていますよと言うための当て馬だったらしい。
9月の教師節の祝日には花束が届いた。12月には今年度の研究業績を書いて届けるようお達しが来た。年末には新年の飾り付けに使うきらきらとした紙の提灯が贈り物として届いた。
それだけである。国際薬学共同研究センターとしてはこの1年何をしているのだろうと不思議である。所長秘書は花束を届けてくれたりするので馴染みになった けれど、当然任命されているはずの所長は、トイレで出会うようになった人がそうかなと思うようになっただけで、きちんと挨拶をしたことがない。
私たちがこのセンターに属していることは新聞を読んで知っただけで、私たちは公式には知らされていない。先方の所長は私たちがその中に属していることを公式に当然知っているはずである。それでも、こちらから挨拶をするべきだろうか。中国は不思議なところである。
2008/01/12 09:06
ハルピンの氷祭り
本当ならば、今日の土曜日はハルピン(哈爾浜)に行っているはずだった。昨日からハルピンの氷祭りを観に出掛けているはずだった。
ハルピンは、ロシアが満州経営のために1898年に東清鉄道建設をしたときの拠点としてロシアが造った街として知られている。鉄道は満洲里からハルビン経 由ウラジオストックまでの東清鉄道本線と、 ハルビンから大連・旅順までの東清鉄道支線である。その後の日露戦争、満州国を経て、いまは中国黒龍江省の省都である。
ハルピンはあまりにも寒いところだが寒さを逆手にとって、何年か前から市内の松花江の凍った川の水を切り出して氷の建物を造り、ハルピンの氷祭り・氷灯・雪祭りとして観光を売り出した。夜間は氷の内側からライトアップして、それはそれは見事だという。
瀋陽から600km離れていて、列車で3-4時間。瀋陽に暮らしてハルピンの氷祭りを「観に行かない手はない」と、教師の会で集まったときに誰かが言い出 して、「それじゃ、教師の会で計画を建ててさ、行ける人たちみんなで一緒に行こうよ」と言ったのは、私だったか、誰だったか。
教師の会の催しものの担当は、2年前から「レクリエーション・研修担当係り」となった。レクリエーションと教育研究が一緒になっているから、遊びに行く計 画でもあまりやましいことなく、おおっぴらに教師の会で検討できる。係りの先生たちも、じゃ、計画を立てましょうということになって、関心のある人たちで 手分けをして飛行機の便、汽車の発着時刻表、交通費、ホテルを調べ、あるいは現地事情のききとり調査をしたり、旅行社にあたった。
その結果分かったのは、ハルピンの寒さは半端じゃないと言うことである。瀋陽の今頃は最高でマイナス10度くらい、最低でマイナス20度くらいの気候だ が、ハルピンの最低は軽くマイナス30度になるという。どんなに厳重に装備をしていても外に出ていられるのは1時間が限度だという。
氷祭りの会場は市内にあちこち散在していて、もちろん会場は吹きっ晒しの屋外である。移動にはタクシーが要るが、このタクシーが直ぐに見つかるとは限らな い。一行が1台に乗りきれない人数の時は、タクシーを必要な数だけ見つけるまでマイナス30度の外気に曝されることになる。これは高年組の多い教師の人た ちの旅行としては危険である。
というわけで、自由なスケジュールではなく、旅行会社に頼んで現地で小型バスをチャーターしよう、旅行社に頼むのは割高になるが、安全のための投資であ る、ということになった。氷祭りは夜がメインなので、瀋陽を11日金曜日の午後1時に発って夕方ハルピンに到着。直ちにチャーターしたバスに乗り市内の会 場を巡って、ライトアップされた氷の殿堂を満喫。そのあとロシア料理を食べてホテルに行く。翌日の土曜日は現地の教会、博物館、雪祭り会場などをみて午後 3時発の汽車に乗り、瀋陽には夕方7時に戻る、という計画が立った。
レク掛かりの一人である女性の渡辺文江先生は計画を立てる中心にいたのに「瀋陽まで出て来るのに時間が掛かる」だの、「試験の最中だし」とか、「中国に10年おるけれど、まだ行ったことはないんし」なんてぐずぐず言っている。
試験期間かも知れないけれど、自分の時間は融通付けられるはずだし、まだ一度も行く気にならなかったなんて理由にはならない。良い相棒に恵まれなかっただ けだ。「これは一生に一度のことですよ。もうこれっきりのチャンスなんだから、一緒に行きましょうよ」と強引に誘ったのは私である。それで、参加者は男性 6名、女性2名となって、老若男女のバランスも良い。
日本では穿いたこともない、内側にモヘアが張ってある暖かい冬用の靴を瀋陽では穿いている。それでも足指に霜焼けが出来るので、もっと厳重な防寒靴を買っ てハルピン行きに備えた。靴の中に入れるホカロンも、身体に付けるホカロンも必要なだけ用意した。いつものズボンの上に穿くオーバーパンツも用意した。
それなのにその私が、一週前の週末に体調を崩して二日間寝てしまった。おまけにどうしてか痔が急に悪くなってひどい下血があった。というわけで、残念ながら本当に泣く泣くハルピン旅行を断念したのだった。
楽しみにいたハルピンの氷祭りが見られないのは残念だし、一緒に行こうと言っていた仲間には申し訳ないし、今はとても情けない気持ちでいる。「救い は、、、」と書きたいところだけれど、救いは何もない。何時もの土曜日の朝の研究室のセミナーは予め中止にしてしまったし、それで学生は喜んでいるかも知 れない。でも、私は窓からハルピンの方角を悲しく眺めつつ、大昔失恋したときもこんな気分だったことを思い出している。
2008/01/12 13:58
賽の河原か、ここは
今日(1月12日土曜日)はすでに書いたように私はハルピンに遊びに行くことになっていて、いつもの研究室のセミナーは中止ということは早くから皆に知らせてあった。
その二日前になって私はハルピン行きを止めたけれど、セミナーの中止はそのままだった。それでも、ハルピン行きを止めたからと言って、わたしが研究室に来ないと学生が思うなんて思いもしなかった。
ところが、ところがである、朝わたしはラボに来てホームページの原稿(参加できなかった「ハルピンの氷祭り」)を書いていたが、8時前にラボに来たのは修士1年生の徐蘇さんだけだった。
8時になってホームページに原稿を載せても(日本時間で記載されるから、1時間の時差がある)、いつものセミナーの始まる8時半になっても、彼女以外誰も来ていない。9時になっても誰も現れない。
一体どうしたんだろう?今日は休みではないのだ、休みだと思っているのだろうか?ということで学生に電話を掛けても、どの電話を空しく鳴っている。4人目 に出てきた暁艶は、のんきに「お早うございます」なんて返事して出てきた。「どうして今日は来ないんだ?今日はセミナーはないけれど、休みじゃないだろ う?休むつもりなんですか?」と畳みかけたら、「I am sorry, but I have no data to tell you.」なんて、まだ寝ぼけたことを言っている。「Today is not a holiday. If you do not show up to the lab, you should be ashamed of your absence.」と私は言って電話を切った。
先刻電話して応答のなかった学生たちから電話が掛かってきたが、私は直ぐに切って返事をしない。やがて修士3年生の暁東がやってきた。
既に状況を察してか、暁艶から聞いたか、「遅くなって済みません、」とのっけから言う。「今日は休みじゃないでしょう。どうしたんですか?」というと、 「済みませんでした。でも先生が電話をくれたから、何か先生が困っているのではないかと思って電話したけれど、電話に出てこないのでラボに飛んできたんで すよ」などと、可愛いことを言う。「先生、怒っているんですか?」「いえ、失望したのですよ。」と私。
やがて陳陽と王毅楠が連れ立ってきて、陳陽「すみません」。王毅楠「・・・」二人ともうなだれている。私は「口では何と言ったって言えるけれど、行動で人は判断されるんだよ」と偉そうなことを言った。
やがて、暁艶、そして風邪で来ないと言っていた王麗も、曹、鶴さんたちと揃ってやってきた。皆お通夜に来たみたいな顔をしていた。
その後わたしは全員にメイルを出した。
To Everybody:
Because of me, the Journal Club scheduled to be held this Sat morning has been cancelled. But, does it mean that today is a holiday?
Think why you thought this was a free day. If you feel that you are forced to work in the lab, you feel reluctant to work, and you do not like to work, you do not necessarily stay in our lab.
YOU may quit.
I would like to spend my time only with those who are really interested in science.
Yours,
わたしは今日の出来事を一足先に日本に行っている妻の貞子に書き送った。彼女が言うには:『みんな自分のしごとを自分の仕事だと身にしみて思っていないんです よ、きっと。先生の要求には応えなくてはとそれだけは考えているけれど何をすればいいのか分かっていないし、出来るだけさぼっていたい。研究というのを全く理解できないのではないでしょうか?』
『この間、テレビで「小皇帝の涙」というテレビを観ました。小学生の時から山のような宿題、少しでも成績が上がるように親がつきっきりで勉強させている姿を撮していました。考えるのではなくともかく与えられたものを全てやり上げていく、そして友人に負けないように席次が上がるように、親は子供の尻を叩き詰め、という姿が有りました。』
『』先生は親子の話し合う会を開いたのですが、子供達はそれこそ涙を流しながら男の子も女の子も子供達はもう疲れた、子供が一生懸命やっているのだから親は他人と較べないで、と言っていました。何故そんなに親は子供達を信じられないのか一生懸命やっているのだからと。』
『ところが親たちは、親だって成績でリストラにあうんだ、今頑張らなくては君たちは振り落とされてしまうんだ、私たちはあなた方を愛しているから少しでも良い成績をとるように強制するのだと一歩もゆずりまぜんでした。』
『きっと大学に入って学生たちは皆ほっとしているんだろうなということ、誰も強制されて覚えることはできても自発的に考えることはできないのだろうという こと、そしてただ人より上に行くことだけを求められて来たので、成績があがること以外の喜びは何なんだろう、などなどと考えました。』
『老師に怒られれば失敗ったと思うでしょう。先生に悪く思われると言うことは大変なことかもしれません。でも、知りたい、やりたいということとは全然違うのですよね。』
『これを変えるのは大変なことですね。今、山形研にいる人たちに、研究の面白さを知らせる以外に私たちに出来ることはないかもしれませんね。』
妻はやんわりと「研究の面白さを理解させる努力が足りないのだ」と私をたしなめている。私たちはそのために努力を続けてきた。まだ、それが実らない。賽の河原のようだ、空しさを感じてしまう。
研究の成果が出て、そして論文が出て、ここでやって良かったと思えば、すこしは身が入るようになるのだろう。だから私にも大いに責任がある。彼らを責めて いるだけではいけない。努力の足りないのは私の方だと思って頑張るしかないのだろう。そう、これが今年の目標なのだ。「あきらめない、ぼやかない。くじけ ない。」
2008/01/15 11:48
新年会という忘年会
12月28日は研究室全員でパーティをする約束をした。一緒に食事をするにしても外のレストランでは気分が窮屈だし、食事をするだけで終わってしまってくつろいで楽しめない。それで教授室の一隅のセミナーのコーナーで、研究室の全員で火鍋をしようと提案した。日本で言うと忘年会だが、中国ではこれを新年会とよぶ。
食材を買ってきて洗って刻むだけの用意なら簡単なことだと思ったが、学生にすべてをまかせたら、どうせなら美味しいものを食べたいと考えたらしく、専門の レストランから羊蝎子を買ってきた。これは羊の背骨の部分にまだ肉が残っているのを煮込んだ料理である。煮込んだスープの味が良く、これがそのあとの鍋にそのまま使えるわけだ。
学生が手分けしてそれ以外の食材は昼頃近くのスーパーマーケットの家楽福(Carrefour)で買いに行ったが、店の中で使う大きなカートを押して戻ってきたのには驚いた。買い物は沢山あるし、しかも雪が降っているので大変だからと言って店に頼んで、カートを外に持ち出して押してきたのだという。店も気前の良いことだ。中国ではカートを外に持ち出すなんてことを絶対に認めたりはしないはずなのに。
午後過ぎるとみなで用意を始めて5時からスタート。全員参加のはずだったが、曹さんが急病ということで、その恋人の王毅楠くんも彼女の看病とパーティとどちらが大事かと迫られて、彼女を選んで欠席。全部で11人の宴会だった。
火鍋は二つ用意したが、私から遠い方の鍋は、元気な王Pu、暁東、王麗、陳陽が鍋を囲んでハシを鍋に突っ込んだままつっ立っていて、鍋の中が煮えた途端に 先を争って食べるという大騒ぎが繰り返された。おとなしい暁笠さんなどははじき飛ばされている始末。それでも7時前にはひとまずお腹の虫も収まり、さあ、ゲームをしようと言うことになった。
まずは、おかしなゲームから始まった「フック!」と誰かを指して叫ぶと、指された人は「キャプタ」と言って誰かを指さなくてはならない。「キャプタ」とい われた人は直ちに、「ヘイチュウ」と言いつつ両手の上に上げて、これを繰り返す。この両側の人は同じように「ヘイチュウ」と言いつつ両手を動かさなくては ならない。真ん中の人は直ちにフックを誰かに繰り返す。反応が遅かったり、手の動かし方が悪いと、直ちに皆から棒で叩かれる。棒と言っても空気でふくらませた風船である。
この手の遊びに慣れている卒研生の鶴さん、笠さん、そして于琳くんは全くへまをやらないが、はじめての私や、動作の遅い暁艶はとっさのことでうまくいかずたちまち行き詰まり、みなから棒で叩かれた。棒と言っても空気でふくらませた風船である。
このドジを何度かやると、なかでも暁艶が一番沢山叩かれたことになり、罰とを受けることになった。王麗が自分の化粧品を持ってきていて、暁艶の頬にその紅で丸印が赤々と描かれた。
次は目隠しをされた人が、人の手に触って誰かを当てる競技である。おおっぴらに男女が触りあえるという競技なのだ。戦前の日本は百人一首のカルタ競技で手と手が触れあうしか、公には触る機会がなかったと言うことを思い出した。
いきなり手を触って誰か分かるなんて私には想像できないが、みな結構いい線行っている。半分以上の正答率である。とうとう私にもやるようにと順番が回ってきた。
それで注文を付けた。手じゃなくて、「顔に触っていい?」「いいよ」という返事である。みなは10秒の猶予だが「私は20秒欲しいけど、いい?」こ れも良いと言う。「触るのは女性だけだよ?」と、私は手を洗いながら、ここぞぞとばかり叫ぶ。これにも良いよ、と言う返事が返ってきて、私はにんまりした が、考えてみると男性は私以外には3人しかいない。失敗した。男性を指定した方が当たる確率が遙かに高かった。
さて目隠しをされて、期待に満ちて女性の顔を両方の手を使って撫でたけれど、とても分からない。考えてみれば、若い女性の顔に触って撫でたことなんて、このウン十年絶えてなかったことだ。分かるわけもない。
と言うわけで、罰として鼻の頭が真っ赤に塗られた。鏡を見ると、あまり可愛くないピエロが誕生した。私に紅を塗った王麗は、「これで私は卒業できなくなったね。」とぼやいている。彼女は順当なら来年6月に博士課程修了である。
このあと陳陽が踊った。陳陽の踊りは今では研究室の名物になっている。もしも大学で研究室対抗の競技があったら是非出場させたい特技だ。彼は「中国の浜崎あゆみ」と言われる蔡依林のダンスを照れもせず、見事に真似るのである。
蔡依林は新体操の振り付けも舞台でやる位だから身体はしなやかで、彼女のダンスは見事なものである。彼女の歌に合わせて、陳楊は全員の前で踊り狂った。「練習なんかしていませんよ。見ていれば踊れますよ」と陳陽は言う。実際、この狭い大学の中で密かに練習する場所があるとは思われない。
陳陽は新人類である。今の学生たちは私の目から見ればすべて新人類だけれど、その彼らからも新人類と言われているのが陳陽である。何を考えているのか分からない新人類だが、好むと好まざるとに関わらず、中国の、そして世界の将来は新人類が握っているのだ。
2008/01/21 16:33
日本語を勉強する学生たち
薬科大学の日語班の学生は、薬学部に60人、中薬学部に30人いる。彼らは大学に入るときに志願するか、あるいは成績上位から選ばれて日語班に入る。希望者はさして多くないから、入試成績の上位者が日語班に入るので、彼らは学生の中ではエリートと見なされている。
3年前から制度が変わって、日語班の学生は大学1年から日本語の勉強を始めることになった。週24時間授業のうち20時間が日本語の勉強に充てられる。 10時間は中国人の先生が日本語の文法を教え、10時間は日本人の先生が日本語会話を教える。9月から勉強を始めて翌年の6月には日本語能力試験4級を受 け、12月には1級試験に挑戦する。日本語の授業はこのとき(2年生の前期)までで、あとは一般教養、専門科目に移り、専門科目の一部は日本語で勉強す
る。最初の1年を日本語の勉強に使うので、彼らは卒業するのに5年掛かる。
瀋陽には日本語を専門として、あるいは第二外語として教える大学がいくつかあるが、専門科目を日本語で勉強するところは、この薬科大学と医科大学しかない。
今の中国では毎年五百万人を越える大学卒業生が出る。多すぎてその3割は就職先が見つからないという。しかしこの薬科大学は薬学という専門教育を受けているために就職に困るという話しは聞いたことがない。その中でも特にこうやって日本語を学んで、しかも専門まで日本語を使って学ぶことでどれだけ学生は有利になるのだろうか。
一番わかりやすい、海外の特に日本への大学院進学数はどうかというと、毎年10人にならない。90人いる日語班のうちの10人だから大した数ではない。日本語で専門教育を受けたのだから、日本の大学院を目指しても良いと思うし、実際多くの学生が望んでいるけれど、留学費用の点でほとんどの学生が断念する。
中国と日本との間の為替格差が大きいからである。親は一人息子あるいは一人娘にこれまで莫大な教育投資をしてきた。さらにひとよりも頭角を現すことが出来 るなら、さらに教育のために投資することを惜しまない。親は、親戚中から金を借り集めても子供を日本に送り出したい。食うものを削っても、子供がひとかどの人物になる日を夢みて頑張るから行ってこいと言う。
日本の大学院の受け入れは、何時も書くように受け入れ側の教授が決まっていないと進学は難しい。つまり日本留学を希望する学生の作業は、日本で受け入れてくれそうな教授を探すことから始まる。
その学生の一人である鶴さんは、毎年9-10月に薬科大学に特別講義に来る貴志先生に日本に行きたいと話して受け入れ先を捜して貰った。鶴さんの両親はそれぞれ働いていてそれなりの収入があり、娘のために留学費用の全額を出すと言ったけれど、さして裕福というわけではない。
鶴さんは貴志先生から、一年前に北大に移った某教授を紹介されて留学希望を送ったところ、その教授は「留学の費用が自分で負担できるというのなら」と言って受け入れに前向きの姿勢を示した。そして予め自分の研究を良く理解させるために読む論文などを送ってきて、鶴さんにそのまとめを書かせたり、質問を書かせたりして両者はメイルのやりとりを重ねていった。
さて年が改まって1月になった。国立大学では海外の学生の国費留学生の推薦の手続きを始める時期である。鶴さんは先輩の留学生からこういう制度のあることを知っていて、北大の某教授に「修士の期間の費用は親が全部出すと言っていますが、やはり莫大な費用なので、もし国費留学生に推薦して下さるととても助かります」と書いて送った。
ところが鶴さんの受けとった返事は「自分で留学費用を出すと言ったのに、それが出来なければ、この話はなしにしよう。」という冷たいものだった。
最初に聞いた話しと違うから、といって断る某教授の気持ちも分からないではない。奨学金を絶対に必要とする中国の学生のために書類書きに追われては敵わない。それがなければ受け入れて良いと思ったに違いない。
しかし、その面倒のない学生なら何人来ても、どんな教授だって受け入れは当然OKだろう。誰にだって出来ることだ。このような教授と、面倒な書類書きをしても留学生を受け入れてその学生を育てようか、と思う気持ちとの間には当然大きな開きがある。
すべての教授に、苦労を背負っても異国の学生を育てようという暖かな気持ちを持って欲しいと期待するのは無理なことだろう。でも、私はこの教授をよく知っているだけにがっかりである。
一方で、近畿地方にある大学の女性の教授は、「最近、瀋陽薬科大学の女子学生が、私費でも是非留学したいと言ってきました。彼女は大学院に推薦されて試験免除で 入学するくらい優秀な成績です。私費でも留学したいという熱意にうたれて、彼女の奨学金が取れるように努力して受け入れたいと思います」と書いてきた。この先生も、この学生も異質な文化がぶつかることで生じる軋みを乗り越えて、困難に立ち向かい、将来を築こうとしている。
ひとの信念、行動、生き方は、ひと様々である。自分の人生を自分のためだけではなく、他の人のためにも使える人を私は尊敬する。
2008/01/22 07:40
北京オリンピックの栄光の裏側
2008年が明けて、中国では北京オリンピックへの関心が高まっているようだ。明るい期待は前回のアメリカに続いて2位の金メダル数が、今回で逆転することだろ う。一方で、暗い話題としては、外国メディアに対する報道規制、大気汚染、食の不安、などいろいろとあるみたいだ。
報道規制を情報規制と読み替えれば、国民が見ると不都合な情報を遮断するのは経験上当然ありと思われる。瀋陽に住んでいて4年間、infoseekの一部 のHPをみることができない。ODNのメイルがしばらく見られないことも時々あった。今年の初めからは、teacupで作っていた掲示板にここからアクセスできなくなった。私が運営している瀋陽日本人教師の会、研究室、野呂先生の掲示板すべてがこの国からはアクセスできない(野呂先生の掲示板は17日朝からアクセス可能となった)。
Teacup.comにメイルをして、「どうなっているのでしょう?無料掲示板を使わせて頂いているので、突然使えなくなっても文句は言えませんが。」と問い合わせた。返事が直ぐに来なかったので、このプロバイダーが倒産したのかと思っていた頃、返事があった。
『該当掲示板
http://9022.teacup.com/kyosikai2004/bbs
http://9026.teacup.com/shada1962/bbs
http://6629.teacup.com/noroayako2004/bbs
の正常稼動を確認致しました。先ごろ、中国・上海からのアクセスの際に掲示板にアクセスできない、「ページが表示されません」となると言うご連絡を多数のご報告を頂いております。』
『しかし弊社の掲示板は、海外からのアクセスを拒否してはおりませんので、現在、原因を特定できずにおります。また、弊社にてサーバ設定を変更したということもございません。』
これは、日本では見られる掲示板がここからはアクセスできなくなったということで、infoseekに次ぐ情報遮断の実例が出来たことになる。もちろん何か純粋に通信技術的な問題で、teacupの掲示板がここからはアクセスできなくなっただけという可能性もあるけれど。
食についてはYahooニュースをみると、『台湾の通信社によると、北京五輪で食、環境に不安があるので、イギリス、ドイツなど欧米20数か国の代表チー ムが、中国での事前合宿を避け、日本を最終調整地とする方針とみられる。日本では各地方自治体が、各国代表チーム受け入れの準備を進めているという。(1月15日18時8分配信 Record China)』
この背景には、北京の環境汚染のほか、中国の食の安全性に対する不安があるらしい。そして、これを受けて、
『2008年1月14日、中国の「食の安全」を管理・監督する国家品質監督検験検疫総局(質検総局)の蒲長城局長は国務院新聞弁公室の記者会見で、北京五 輪組織委員会は五輪中の「食の安全」を確保するため、選手やメディア向けに提供される食品のほとんどを一元供給する厳しい管理制度を設けたと述べた。(1 月16日8時16分配信 Record China)』
『五輪前から期間中にかけて、五輪用に供給される全ての食品に対して質検総局による厳しい検査が行われる。生産段階から北京到着後まで何重にもわたる徹底したチェック体制が敷かれるという。』
北京オリンピックに参加する選手と関係者にとっては大変結構なことだが、これを裏返せば一般国民の食べている食品がいかに危ないかと言うことを示唆していよう。『語るに落ちる』とはこういうことを指して言う良い例である。
日本に輸出されている中国野菜が残留農薬などで新聞記事になったとき、日本の知人から中国ではどうなのかと聞かれたことがある。中国の国内消費の野菜で も、農薬をふんだんに使っているだろう。しかし、中国での農薬の使用状況、危険度、事故などは一切私たちの目には触れることはない。
私たちは五輪用の特別品質の食品などには縁がないから、普通に買ってきた野菜はともかくすべて茹でてから、調理することにしている。化学で言うと、熱湯抽 出である。水に溶ける化合物はもちろんのこと、それ以外の脂溶性の化合物でも熱湯にある程度は溶け出してくるはずである。野菜の栄養分の一部も一緒に溶けて流れてしまうが、これは仕方あるまい。
中華鍋に水を一杯入れて野菜を茹でたあと、水の蒸発と共に水が減っていくが、ちょうどその部分の鍋の表面は真っ白くなっている。洗剤を付けてかなり力を入れて擦らないと落ちない。つまり、野菜から何か出ていると言うことだろう。
これが、効果があるかどうかは分からないが、一般庶民としてのせめての自衛策である。中国では、果物の種類が豊富で、安くて美味しく、私たちの給料でも果 物を毎食ふんだんに食べるという日本で暮らしていると真似の出来ない贅沢な生活が出来る。この果物が農薬で汚染されていないかと気になるところだが、果物の熱湯抽出など出来る話ではないので、これは気にするのは止めよう。水だって、瓶に入ったどこのものか分からない水を食事の調理に使っているのだし。
2008/01/26 07:45
不思議の国の山大爺 その七
薬科大学には国際交流処と言う部署があって外国籍の私たちはここの管理下にある。私たちは外教と呼ばれていて、学部に籍のある私たちも、日本語教える短期赴 任の先生たちも同じくここで管理されている。給料を届けてくれるのはここの係の若い女性だし、年に1回日本人の日本語教師、欧米人の英語教師などを招いて 食事会を開いてくれる時は、私たちも誘われる。
日本人の日本語教師を採用するのもここだし、1年ごとの任期更新にあたっては、この国際交流処はきわめて強い決定権を持っている。昨年夏、日本人教師2名 が契約延長を拒否され、これは当事者により正当な理由ではないという強い抗議により撤回されたけれど、こことは対立しない方がよいことを私たちは学んでいる。
処長は学長補佐をしている教授で、2年前に前の処長が定年になってそのあとを引き継いだ。研究面でも華々しく活躍していることもあって、国際交流処にはあまり力が入らない。それで以前からこの部署にいる若い男性が実質的にここを取り仕切っているらしい。以前は彼と処長の二人だけだったけれど、日本語の話せる前処長が退職したので、大連外国語学院の日本語学科を出た若い女性の徐寧さんが増えて三人になった。
ある日、この徐寧さんが、「今まで使った先生たちの航空券の領収証を貰えませんか」と言いに来た。使ってしまった航空券なら残っているから、「上げてもいいけれど、でもね、どうしてなの?」と訊いた。
すると「居留証を発行している辺境局が、先生たちが実際瀋陽に来て、何時までいて日本に帰ったかを知りたいと言うことです。」
「へえ?」とぼくたちは首を傾げる。実際に中国に何時来て、何時日本に帰ったかは、「パスポートを調べれば一目で分かるじゃない?辺境局は居留証を発行しているからパスポートを調べる権利もあるし。」
妻は健康の診査を日本で2か月ごとに受けるために日本と中国を往復しているから、航空券の控えで中国滞在を確認しようとしたらそのすべてが必要になる。確認が目的ならパスポートを見るのが簡単である。しかし、徐寧さんは航空券の領収証が要る、しかも今日それが欲しいと言い張るのだ。
「だけどね。」と私は言葉を返す。「ここに来て2004年の初めに、航空運賃を払い戻すから使った航空券を出してくれと言われて国際交流処に出したけれど、それっきりだったんだよ。催促しても、航空券も戻ってこなければもちろんお金も呉れなかったよ。あれはどうなってしまったんでしょうね。今度も同じ目 的に使うかも知れないじゃないですか。」「???」
「徐寧さんの来る前のことだけれど、交流処に戻ったら、昔こういうことがあったと処長にちゃんと訊いて、どうなったのか、まずはこの返事が欲しいですね。」と私は徐寧さんに言った。
ともかくこの日は週末だったので、来週初めに航空券を探しておくから返事次第で渡すよと言ったら、徐寧さんはひとまず納得した風で、帰っていった。
そのあと隣の大島先生に会うことがあったので、「徐寧さんから航空券が欲しいと言ってきたけれど、なんだか訳の分からない理由を言うし、ともかく渡してい ませんが。」といったら、「いや、私のところにも来たけれど、そんな理由は言っていませんでしたよ。使った航空券はないかというので、とりあえずこの間日 本に往復した分があったのでそれを上げようか言ったら大喜びで、それを持って行きましたよ。」と言うことだった。
つまり滞在期間を調べるためというのは理由ではなく、ともかく航空券が欲しかったのだ。大学あるいは外部と私たちの間に立って、経理も管理しているところが使用済みの私たちの航空券が欲しい理由は、ここにははっきりとは書かないが、一つしか考えられない。
「そういうことなんだね。」「そういうことなのよ。」隣の状況を訊いたあと、私と妻の間に交わされた会話である。
そういうことなら翌週の月曜日に、数年前使用済みの航空券を持って行ったままになった状況を説明に来るはずもないし、その説明が出来ない以上、滞在を確認 するとか言う理由で今年の使用済み航空券が欲しいと言って再度来るはずはない。と思っていたら案の定、月曜日には来なかったし、その次の日も、その次の日 も。。。
やがて何かの時に顔を合わせる機会があったが、彼女は前の用事には全く触れないでいる。こちらも、その話題には触れたら彼女は困るんだろうなあと思って、忘れたふりをしている。
これで無事に済んで、何のしっぺ返しも来ないといいのだけれど。
2008/02/01 08:04
中国製ギョーザ中毒事件で思うこと
1 月31日の朝刊の第一面に「中国製ギョーザで10人中毒」と言う大きなhead lineがあった。簡単に要約すると、製造時にメタミドホスという農薬が混入したらしい。ギョーザそのものだけではなくギョーザのパッケージも汚染しているので、製造工程で混入したようだという。
昨年の12月末に千葉県千葉市の母子がこれを食べて中毒症状を呈した。そして1月はじめには兵庫県高砂市では親子3人が、1月末には千葉県市川市で家族5 人が中国製ギョーザを食べて中毒症状を示した。この報告を受けて兵庫県の担当者は中国製ギョーザの輸入元のJTフーズの本社のある東京都に連絡した。東京都では、製品自体のためだとは分からない、誰かが毒物を入れたのかも知れない、と言うことで公表しなかった。兵庫県警と千葉県警が農薬であるメタミドホス が検出されたことから、この化学的特性を同じ化学工場に問い合わせたので、両方の事件が繋がって、その危険性から急遽公表されたという。
メタミドホスなどの農薬は野菜への残留農薬として厚生労働省、農林水産省、環境省それぞれが監視している。両県警からのこの問い合わせが農薬の監督省庁に 行って、もしも、たまたま同じ化学工場に行かなければ、両方の事件は繋がらなかっただろう。日本の縦割り行政、省庁の縄張り争いがあるために、下手をするともっと酷いことにまでなったかも知れない。
「公表遅れで被害拡大」と新聞には書いてある。このギョーザを食べて中毒した方々には心から同情するけれど、 これ以上被害が拡大しなかったのは同じ化学工場に問い合わせたという奇跡があったためである。
農薬の混入がどのように起きたのか実態はまだ分かっていないが、いろいろの推測は可能である。2002年には野菜32検体からメタミドホスが検出されたの を手始めに、カリフラワー(02.10.10)、ライチ(04.04.30) 、ソバ(05.12.27)、からメタミドホスが検出されたことが報告されている。しかし、野菜を自分の手で育てた人は知っていると思うが、農薬なしに虫の付かない野菜を育てるのは不可能と言っていい。1坪の農園でも、虫を手で取るなんて追いつかない。農家は農薬を使わざるを得ず、収穫した野菜に農薬が残留するのもやむを得ない。私たちはそれと健康への被害とのバランスの上に暮らしているのである。
今回の事件で中国産ギョーザの輸入元のJTフーズはいったい何をしているのかと責められるかも知れない。輸入元のJTフーズの親会社は日本たばこの JTだという。健康に害のあることが周知のたばこを儲かるからと言って、でかい顔をして売り続けている会社なので私は大嫌いである。しかし「国民の健康被 害を起こす食品を作らせた」責任を取らせようという声が上がるとしたら、それは行き過ぎあろう。というのは食品製造に間違いがあってはならないけれど、どんなことにも間違いは起こるものなのだ。日本だって森永のヒ素ミルク事件(被害者は12,344 人で、うち死亡者130名と言われている)、カネミの米ぬか油へのPCB混入事件(被害者14,000人、死者18名と言われる)など、ひどいことが起 こっている。当事者は食品製造に十全の注意をしていただろうが、想定外のことが起こってしまった。製品検査を十分に行っていれば事前に健康被害を防げたか も知れないが、全製品を調べることは事実上不可能である以上、間違いは起こりうることを受け入れなくてはならない。大事なことは間違いが起きたときの素早い対応しかない。
今回は汚染された加工食品が何十種類も自主回収された。家庭で買い込んであるこれらのものを決して食べないように、テレビは何度も注意を喚起している。したがってこれ以上の被害は起きずに食い止められたわけだ。中国の製造工場も当然責められるだろう。
今年は特に中国はオリンピック開催の年なので、当局は食の安全に非常に気を尖らせている。中国の食品には危険があると言われて、「そんなことはない、オリンピック選手用に野菜も肉類も全く一般市場とは別にして手間を掛けて作り、さらに二重三重にも検査を行って絶対安全だ」と言っている。これはつまり一般の食品がいかに危ないかを認めていることになるが、ともかく今は国の威信に掛けても食の安全維持に努めるだろう。こ の工場の責任者が見せしめに厳罰を受けることがないように願うのみである。
もちろん今回の中毒事件の原因は詳しく調べられなくてはならない。しかし、私がこの事件を機に言いたいのは、この事件をきっかけにして日本が食を隣の中国 に大きく依存していることを認識し、自国での供給率を上げるための国家戦略を始めるべきことを訴えたい。今日本の必要とする食べ物のうち自給できるのは 40%にも満たないと指摘されている。
食料の一大輸入国である日本は、外交で問題が起きてたちまち食料が戦略物質と化したときには、生きていけなくなる訳だ。外国が文字通り日本の死命を制しているのである。しかも、衛生、環境、健康問題に日常的に疑問を感じる国に日本が全面的に食を頼っているのも問題であろう。
中国の国土は日本の26倍という途方もない大きさである。人口は日本の約11倍だから、単純計算では、中国は穀物、野菜を栽培してそれを輸出する余力がある。
しかし中国の国土の5分の1は砂漠化している。3分の1は耕作に適していない。となると、単純計算で耕作に使える面積は日本の国土の16倍と言うことになる。人口は10倍だから余力がある。日本人全部を足したって今の人口の1.1倍になるだけだから、大丈夫みたいだ。
でも、今の中国の8割の人口は貧しい暮らしを強いられている。中国の経済力がもっと向上して彼らが今の日本人並みになったら、そのときは日本への輸出の余 力は全くないはずだ。そのときが来てからでは遅い。日本の人々の生き残りを懸けて、食料の自給率を引き上げることを真剣に考えなくてはならない。マスコミ は「中国製ギョーザの危険」騒ぎを煽りたてているけれど、これを機会に日本の将来の国家存続の一番弱点である食料問題に取り組む気はないのだろうか。
2008/02/03 19:35
mammamiaさんの歌を聴いた日
2月2日は府中グリーンプラザのファンタジックコンサートに行ってきた。インターネットで知己になったmammamiaさんが7人の中の一人として出演する歌の会だった。
彼女のホームページを覗けばmammamiaさんが老人介護にどれだけ尽くしているかが分かる。もちろんケアマネージャーとしての仕事は彼女が生きるすべ としての職業だが、mammamiaさんが老人介護に本気で取り組んでいるのが分かる。
それだけでも凄い人だなあと思っていたら、オペラも歌うという。以 前は本格的に舞台に立っていた模様だが今は忙しくて、年に一度くらいステージに立つのが精一杯らしい。私も以前は歌を、それもオペラを歌っていたから、ほ かに職業を持ちながら歌を歌うことの困難さ、そして歌ったときの楽しさと解放感がよく分かる。私は続けられなかったが、彼女はそれを続けている。
と言うわけで2年前の夏、私の帰国の間に催されたコンサートに出掛けて、初めて個人的に言葉を交わし、彼女の歌を聴いた。そのときは私の音楽仲間に声を掛けて、一緒に彼女の歌声を聴くと同時に、再会も果たしたのだった。今回も前と同じように友人にこれを機会に会いましょうと声を掛けた。
一人はmammamiaさんと同じように歌が好きで、仕事の傍らあちこちで歌っている 小川さんである。彼とは元々は仕事の関係で知り合った。もう一人は大貫さんで、私の友人の学生だったが、大むかしのこと私が彼の修士論文を指導したので、 私は彼の師匠みたいな顔をしている。彼は管楽器を吹いていたので、私は中国に行くとき私のフレンチホルンを譲った。彼はシベリウスにぞっこんで、毎年フィ ンランドに出掛けている。
二人ともただの知り合いでない証拠に、二年前に二人は金を工面して瀋陽に数日間訪ねてくれたことがある。府中は2年前のコンサートに一度行ったきり馴染みのない場所なので、小川さんに会う場所を決めて貰った。「伴茶夢」という喫茶店で会おうと小川さんからメイルがあった。
大貫さんはこれに応えて、「伴茶夢」はハンサムて読むんですかねと書いてきた。なるほどねえ、と私は大いに感心した。私は、中国で漢字が中国語で読めないことに慣れっこになっていたので、なんと読むかなんて思いもしなかったからである。小川さんは、これに対して、『店名には「バンチャム」とふり仮名が振ってあり、その由来は?というと、「コーヒーの別名」という理解になりそうです。』
『エチオピアのアビシニア高原 (現エチオピア高原) には太古の時代から野生のコーヒーの木が茂り、高原の土壌と気候に恵まれて人知れず自然の営みを続けていたと考えられる。このコーヒーが初めて文献上記載 したのはアラビア医学の権威ラーゼス (本名ムハンマド・イブン・ザカリーヤー、865〜923) だった。コーヒーの種子を煮出したビール色の液体 (Bunchum) を初めて医療に用いた。』 (http://sugar.lin.go.jp/japan/view/jv_0107a.htm)つまりコーヒーの古名なのだった。小川さんのお陰で、そしてもとはと言えばmammamiaさんのお陰で一つ勉強したことになる。
12時に3人で出合って食事をしながら久しぶりにお喋りをした。そしてコンサートは駅ビル地下二階で、2時からだった。
ソプラノ3人、テノール3人。バリトン1人という中での組合わせで、第1部はドニゼッティの愛の妙薬からソロ、デュエット、三重唱、四重唱が7曲。 mammamiaさんは『戦でも、恋でも、攻めるのは疲れるのだ』と言う三重唱と、アリア『受け取って、あなたはもう自由の身』。第二部ではそれぞれが好 きな歌を歌った。mammamiaさんは「夕鶴」の『与ひょう、あんたはどうしたの』。引き続いて7人が4部に別れてモーツアルトの『主よ、憐れみたま え』を歌った。
知人が歌うのを聴くのは疲れることが分かった。mammamiaさんは情感を込めて歌っていて、しっとりとしてとても良かった。でも聴いていると、「頑張 れ」と言う突き放した感覚ではなく、こちらはPTAの感覚で、はらはらどきどきである。音が延びきれずにいるとこちらの腹に力が入る。音がずり下がりそう になると、やはり腹にぐっと力が入ってしまう。音楽会の終わったときには自分が歌ったみたいにぐったりと疲れた。
実際、私も歌ったのだ。つまり最後には全員で歌おうという試みがあった。「林あずさ」という人が作ったという「ハッピーバースデイ」という歌で、
『ハッピーバースデイ 生まれてきてよかったね
ハッピーバースデイ 君に会えてよかったよ』
という繰り返しが出てくる歌で、とてもいい感じの曲である。いい試みである。
一人で帰る1時間半の帰り道、この繰り返し部分がついハミングで出てきた。うちに帰ってからも、歌いたい気分が続いていたけれど、難しいオペラアリアはみ な忘れてしまった。それで「オーソレミオ」とか「カタリカタリ」、「愛の賛歌」や「思い出のソレンツアーラ」など、歌いまくって今日の一日幸せな気分を締 めくくった。
今日は長い付き合いの友人と会えた。インターネットで知り合ったmammamiaさんの佳い歌が聴けた。歌だけでなく、歌い終わってほっと力の抜けた彼女の笑顔も実に良かった。思うとおり歌い終えて最高の気分だったろう。
mammamiaさんを聴きに来た、同じくインターネットの上のIDだけで付き合っていたkunitoraさんにも会えた。一期一会としみじみと思いつつ、今日の充実した一日を思い返している。
2008/02/05 18:39
キレる老人
日本に戻ると何となくテレビを見るという昔の悪い癖に簡単に戻ってしまう。先日はNHKテレビで「キレる」というのをやっていた。このごろの子供達はわけもなくキレるそうだが、一方でこの頃はいとも簡単にキレる老人も増えているらしい。
テレビではこのキレる状態を作り出したときの頭の中の脳波を調べて、側頭葉が活動しているだけでなく前頭前野が活発に活動していれば怒りを抑えているなとか、前頭前野が全く活動していないと怒りを抑えることを放棄して、まさにキレる寸前であるとかが説明できるという。
この番組には定年退職した男性が実名で出てきた。何かとキレてしまう人なのだそうだ。チビと名付けた犬を連れて散歩していると、入り口に「犬の立ち入り禁 止」と書いてあって何時も閉まっているグランドの門がある時開いていた。つい連れていた犬を中に放したら管理人が出てきて怒り出したので、「(だって入れ るようになっていたじゃないか)何を、この野郎」と怒鳴ってしまったとか言う話から始まった。この男性は定年まではある会社の営業にいて、現役時代は本気 で笑ったたことも、本気で悲しんだことも、本気で怒ったこともなかったという。常に中庸を心がけて、自分の感情を抑えて暮らしてきた。
定年になってうちにいる暮らしが始まった。妻はそれまでの地域に密着した暮らしがあるけれど、彼には全くそのようなつながりがないので人と話すこともなく 毎日の時間を過ごしている。チビだけが友達である。チビを連れて街に出ると、通りすがりの自転車がチビの引き綱に絡んだ。かがみ込んで「ごめんなさい」と 謝ってひもを外しているのに、うえから「バカ野郎、気をつけろ。」と言われた途端に「なんじゃあ、わりゃあ」と飛びかかって投げ飛ばしてしまったという。
この男性は二三日に一度くらいは頭に来て怒っている。彼に言わせると「正義に外れたことに対して、自分の命を懸けてもと思って本気で怒る」ということだ。サラリーマン生活で自重していた正確を、今こそ自分に正直に生きなくては生きた証がないと思っている。
この男性はキレて怒りまくるとき、自分は正義を代弁しているという気持ちが高揚している。しかし終わると反省するという。「こんなことで直ぐ怒ってしまっ て良かったのだろうか。もっと相手のやっていることが何故悪いと思えたのかを、落ち着いて説明すべきではなかったか。落ち着いて話せば相手は自分が悪かっ たと思うかも知れない。」でも、こうやってこちらが闇雲に怒鳴りつけてしまえば反発が残るだけである。「何を、このクソじじいが。今度出会ったらただでは おかないぞ。」と思わせて終わっているだけかも知れない。でもこうやって反省しても直ぐ忘れてしまい、また外で不快なことがあると直ちにキレてしまうの だ。
ところで最近面白い論文があった。脳の神経細胞は神経突起を延ばして無数の、別の細胞に連絡して神経回路を作っている。このとき神経細胞と、別の細胞から 来た神経突起は直接繋がっているわけではなく、GABA、セロトニン、ドーパミンなどの低分子の化学物質がシシナプシスと呼ばれる神経突起末端から分泌さ れる。次の細胞はこれらの化学物質を受け入れる受容体を細胞膜表面に持っていて、これらの化学物質が受容体に結合するとこの細胞の中に信号が伝わる。この ように神経細胞同士の連絡は、神経化学物質(ニューロトランスミッターと呼ばれている)が仲介している。
目で見た刺激が脳の考えるという中枢で処理されて、行動という筋肉の動きに伝わるまで零点何秒という短時間しか掛からないが、考えてみるとこれは凄いこと である。ニューロトランスミッターの一つであるドーパミンはそれが不足するとパーキンソン病が発症することで有名になった。その後、ドーパミンをニューロ トランスミッターとする中脳皮質系ドーパミン神経は、「とくに前頭葉に分布するものが報酬系などに関与し、意欲、動機、学習などに重要な役割を担っている と言われている(Wikipediaによる)」。
人は学習することで学ぶ。何かをするとうまくいったという成功から学習するし、失敗することからも学習する。このときに中枢のドーパミン作動性の神経が働いている。
最近見た面白い論文というのは、ヒトでは5種類が知られているドーパミン受容体の一つであるD2受容体の発現が少ないと、その人は失敗(間違い)から学習することが出来ないというものだった。
脳細胞における受容体の数は遺伝子で、つまり遺伝的に決まっているので、失敗から学習出来るか出来ないかは、遺伝子により先天的に決まっていることにな る。このテレビに出演した男性が「あとでは反省するんですけれど、おかしなことに出会うと直ぐにかっとしてしまいます。」というのは、D2受容体の発現が 少ないためかとも思える。しかし現役の時には隠忍自重していたのだから、D2受容体の発現量はほとんどの人と同じと考えて良い。
と言うことは彼はごく普通の人なのに、老人になったからキレやすくなったと言うことだろう。今の世では、人は長生きし過ぎている。以前は老人が人の智慧の 伝達者だった。老人はその智慧を頭に蓄積したが故に世間から必要とされ、したがって尊敬を受けた。しかし今の世は簡単に手に入る情報があふれていて、誰も 老人の頭の中を、したがって老人を必要とせず、誰も老人を尊敬しない。
周囲から尊敬されて自分の存在意義を自分で感じることが出来れば、老人は周囲の人たちや、ものごとに腹を立てる理由はないだろう。しかし必要とされないどころか、老人は文字通り老人臭いと言われたり、わがままで、頑固で、若い世代の言葉が通じないとか、邪魔者扱いである。
誰も自ら好んで老人になるのではないのに、と思う。そしていま老人を邪魔者としている人たちもやがて老いるのに、若い人が老人を邪魔にするのは実に心ないことだと思う。
2008/02/08 21:26
私の新奇性探求的性格
ドー パミン受容体の数の違いが学習効果に関係していることを前に書いた。D2受容体の発現が少ない人は失敗から学ぶという負の学習が出来ないことが分かったと いうものである。受容体の数は遺伝子で支配されるから、人の性格は遺伝子で規定されることになる。このように、人の性格が遺伝子で遺伝的に決まると言うことが最初に報告されたのは、1996年のことだった。
これはドーパミンのD4受容体の中にある16個のアミノ酸の繰り返し(多型)が新奇性探求的な性格と結びついているというものである。新奇性探求的な性格 というのは、常に好奇心に満ちていて新しもの好きである、人目を惹くのが好きで、衝動的に振る舞い、派手好きで気が変わりやすい性格だという。余り褒めたものではない。
だがこれを見たとき妻は私のことを「これだ」という。「あなたのドーパミンD4受容体は私と違って長いんだわ。」とあっさりと決めつけられてしまった。
私のやることが変わっているのは枚挙にいとまがない。何時だったかスイスのチューリッヒで国際会議が開かれたときエクスカーションでルツェルンに行ったことがあった。湖を巡航する船に乗って懇親会をやると言うので波止場に集まった。まだ時間が早くて桟橋を歩いていると、桟橋と船の間に渡す板が、船のいないままに、波止場から突き出ていた。
私はその板に乗って湖の方に歩き始めた。どこまでバランスが保てるかに興味があった。板の全長のどれだけが波止場に乗っていて、どれだけが空中に突き出ているかが問題なのだ。私はともかく湖に突き出た板に乗ってどこまで水の上に行けるかを試したかった。
二歩、三歩、四歩。すると板がぐーっと沈み始めたではないか。板がズズッと水に向けてずり落ち始めなかを、私はあわてて振り返って板を駆け上った。その時間の長かったこと。今でもその瞬間を思い出せる。あの板の重量がかなりあったから助かったに違いない。
これを見ていた妻は呆れはてていた。「板に乗って歩いていけば落ちるに決まっているじゃないの。」それ以上の言葉が続かないほど、驚き呆れかえっている。「そりゃそうだけど、どこまで行けるか試したかったんだ。」と私。
やがて船に乗って学会の参加者の懇親会が始まった。食事を思い思いの場所に別れて食べたあと、お茶の水女子大の佐藤さんという若い女性が持参のバイオリンを弾いて彼女に似合った清冽な音を聴かせた。「ほかにも誰か何かやる人はいませんか?」と主催者が言った。
「じゃ、私が歌う。」と私は名乗り出た。私は、下手くそでもヴェルディの椿姫の中のジェルモンのアリア「プロバンスの海と陸」でも歌えば、日本人が歌うと 言うことで皆驚いて、そして喜んでくれるかなと思ったのだった。ところが妻はびっくり仰天。「だめ。駄目。ダメよ。私は死んでも止めてみせるわ。」と厳しい顔で私にいう。妻にこれだけ言われるのは、よほど私の歌はひどいに違いない、と暗然と私は悟った。そして私は涙を飲んで「歌うと言ったけれど、歌詞を忘れちゃったから。」と申し出て断った。
実際には歌わなかったけれど、皆の前で平気で歌おうなどと言い出せるのも、この新奇性探求的な性格である。新しいものに平気で飛びつく。先の先まで考えない。平気で冒険をする。この性格は私のそれにぴったりと重なっている。
神経の伝達ではGABA、セロトニン、ドーパミンなどの低分子のニューロトランスミッターが神経細胞のシグナルとして使われている。これらの物質がシナプ スで多く出るか、少ししか分泌されないかで神経の伝達、興奮が違って来る。このニューロトランスミッターの量の多少も遺伝子で制御されている。
つまり学習効率や、頭がよいか悪いか、そして性格もすべては遺伝子で決まってしまうみたいである。しかし、遺伝子はその限度を決めていると言うことであり、私たちは通常遺伝子の決めた限度一杯までは頭を働かせるようになっていないみたいだ。
つまり、神経回路の形成は学習次第である。勉強、あるいは訓練して頭を使い、鍛えることでヒトは脳の中にあらたに神経回路を構築することができる。神経回路とは神経細胞同士の連絡のことで、これの多いほど、記憶素子が増え、並行処理が可能になる。
この神経回路の設計図は遺伝子が決めているわけではない。それぞれの人は努力すれば、頭の回路はどんどん構築されて、神経細胞間の連絡が良くなる。つまり頭が良くなる。これは歳を取っても可能だそうだ。私は中国語の発音が覚えられず、中国語の学習を諦めているので、私はこの一般論に実はかすかな疑念を持っているけれど。
なお、私のドーパミンのD4受容体が人並みかあるいは変異体かは、自分でも簡単に調べることが出来る。血が固まらないようにヘパリンを入れて血液を採り、沈降してくる赤血球の上に乗ってくる白血球から遺伝子DNAを取ることが出来る。これを材料にしてPCRを使ってドーパミンD4受容体(D4DR)の構造 を調べることが出来る。
その分析をやらないのは、私のドーパミンD4受容体が妻と違って変異体だとしても、そしてそれが分かったとしても、妻を喜ばせるだけだ。今さら私にとっての世の中は変わらないからである。
2008/02/12 07:51
興味から出発する研究
日本に戻ると友人に会うことに時間を使う。私たちには様々な友人がいる。嬉しことである。
先日は昨年秋にリサ・ランドールの本を妻に貸してくれた友人に会った。前にも書いたが小学校、中学校で一緒の友人である。私たちもそうだけれど彼らも同じ級友同士が結婚しているので、会えば話すことに事欠かない。
「時々はあなたの『瀋陽だより』を読んでいるわよ。昔はただ真面目一方だと思っていたのよ。結構ユーモアがあって、こんな楽しい方とは思わなかったけれど、とても面白いわ。」と嬉しいことを言ってくれるのは谷夫人であるノーチャンである。「ちっとも同期会に出ていらっしゃらないけれど、皆で話題にしているわよ。是非、今度出ていらっしゃいな。」
同期会が開かれるのはだいたいが春か秋という陽気の良い季節である。私が日本に骨休めに戻ってくるのは厳寒の2月と酷暑の8月だ。私は大使や首相ではないから、私の都合に合わせて会合を開こうという話にはならない。しかしノーチャンに掛かると、私たちの都合に合わせて集まりを開こうと言うことになりかねない。だけど、私も妻もはにかみ屋である。専門家相手に自分たちの研究の話をするならともかく、自分の勝手で中国で仕事をしているというだけのことで、皆の注目を浴びるなんてことには耐えられない。
そういったら、「じゃ、大学でやっていらっしゃることを聴かせてよ。」と言われてしまった。でもね、お高くとまっているわけではないけれど、わたしたちの研究の話をわかりやすく皆に話すなんて、とても出来ないことである。
世界に通じる最先端の研究をやっていることは確かだけれど、iPS(皮膚から作る多分化能細胞)みたいにインパクトの高い仕事でもないし、分かって貰ったところで、だからどうなのさ、と言うことになってしまう。
と言うように考えると、簡単な説明で誰にでもなるほど意味のある研究だなと納得できる研究が、実は大事なのかも知れないと思う。
日本の大学にいた頃の研究費申請では、自分がやりたい研究の内容とその意義を書けば良かった。その申請を専門家集団である研究者が審査をして、研究費を出すか、出さないかを決めるのである。つまり科学的見地で評価された。しかし今では、その研究の社会的意義や、研究が成功したときの社会の受ける成果、さらには産業上の貢献までも書くようになった。そしてここで、評価されないと研究費が通らなくなった。
つまり、社会のニーズという一つの大きな尺度が研究を規制するようになってきた。研究費が通らないことには研究が進められない。「誰かが方針を決めた」社会的ニーズに沿った研究しか出来なくなっている。
研究費は人々の税金から出ている。したがって社会のニーズに沿うというのは正しいことのように思える。社会が必要としない研究などやって貰っては、困ると言うのも正しいだろう。
しかし、研究は個人の興味から発するものである。個人の興味こそ研究の原動力である。その研究の大半は世間にとって役には立たず、税金の無駄使いに終わるかも知れない。でも、研究とはそんなものである。無意味に見えても、そのうちのいくつかは、やがて世の中に役立つことがある。
時勢に乗った、あるいは時勢の先を見越して大型の研究費を投じ、そのような研究を奨励するのもいいだろう。でも、普通では思いつかないところに新しい芽があるかも知れない。
大型研究費を出すと言うことは、ほとんどの人たちに研究費が行き渡らないと言うことである。一部の研究者に使い道にも困る何億円という金が渡され、一方ほとんどの人たちは研究費がない状況は、科学立国の芽を潰している。何億という研究費でなくっても、年間数百万円あれば研究のアイデアをはぐくめる。大学の先生の誰だって、有意義な研究をしたいのだ。少額でも研究費を無駄にすることは恥と思って頑張るだろう。今はこの少額の研究費だって出なくなってきている。
いまは理系離れが案じられている。研究者になっても、厳しい競争と評価にさらされ、生き残るための過酷な戦いに追われてほとんど報われないというのも、理科離れに拍車を掛けているだろう。研究者は、自分のやりたい研究に打ち込めるだけで幸せなのだ。その研究が社会のニーズに合っていれば、それで結構。そうでなくても、やりたいことがやれれば満足なのだ。
私たちはノーチャンたちに簡単に説明するのが難しい研究をしているけれど、この研究の中で「考える」という一番大事な研究能力のある学生も育てているし、成果は廻りまわって社会の役に立つと思っている。今の社会の現状から見ると夢みたいなことかも知れないが、研究者には好きなように研究のアイデアを育てることが出来る最低の研究費を保証したらどうだろう。社会的ニーズから見て、その研究アイデアがいけると思われるときにもっと研究費を出すというようには行かないものだろうか。
2008/02/16 09:29
結婚相手探し
テレビで開局○○年記念番組と銘打って「女たちの中国」というのをやっていた。黒柳徹子や中国で活躍している谷村新司も出ていて内容は高いのに、それ以外の若い人たちのふざけた感じが残念だった。
最初に上海の公園の一画に毎週日曜日に親が集まって「子供たちの結婚相手探し」をしているというのが出てきた。子供たちが結婚相手を見つけないので、母親 たちが集まって情報交換をして見合の相手を探すというのである。中国で結婚相手が見つからなければ親が眼の色を変えるというのはよく分かる。家、家族、親 族を大事にする習慣が強いから、子供に伴侶が決まらないのは親として居ても立ってもいられないのだろう。何にでも親が出てきたがるという中国の状況が良く出ている話だった。
私たちは笑って見ているけれど、日本だって未だに見合い結婚が幅をきかせている。親同士が寄り集まって直接の情報交換をしないだけで、間には世話好きの女 性が入る。直接の取引をしない日本は中国に比べて、格好を付けていると言うところだろうか。実際、私の知っている中国の人たちは、日本の女性に比べて気取っているところがない。
上海で結婚適齢期の女性の望みは高く、相手は背が高くなくてはいけないし、月収は1万元、さらには新婚で住めるマンションを持っていること、を求めてい る。男の方は、なんとか最初の二つの条件を満たせたとしても、マンションを持つというのは親が用意しなくてはなるまい。大変なことだ。親がかりでないと、 新居を用意しているうちに男の適齢期を過ぎてしまうだろう。
テレビには「愛情があるなら、私に豊かな生活を呉れるのが当たり前でしょ。」とけろりと言ってのける女性が登場する。二人の新しい生活を一緒に築いていこ うなどという殊勝な女性は出てこなかった。私などは甲斐性なしだから、中国に生まれなくて良かったなあとつくづく思いながら観ていた。
男性の声として「上海の女性はがめつくて、どうもね。」なんて言っていて、上海の元気で逞しい女性の特徴が際だっている。
私たちの瀋陽薬科大学における最初の卒業研究生の沈さんは上海姑娘である。沈さんは京都大学大学院の修士課程を終えたところで、博士課程まで行きなさいよ と勧める指導教授や外野の私たちの願望に反して、某化粧品研究所に就職した。親元からの送金に頼った学究生活はもう沢山で、少しでも稼いで故郷の親に恩返しをしたいという一念のようだ。
彼女からは2月14日のSt. Valentineユs dayにはチョコレートが送られてきた。私の愛娘の一人である。近いうちに会うことになっているので、いろいろとこの話を出して訊いてみよう。
戦後のめざましい経済の発展と共にアメリカの後を追い、日本では親を大事にする風習が廃れてしまった。経済的には中国は日本の後を急上昇で追っている。一 部の中国では日本を追い抜こうとしている。そうなると、やがて今の日本みたいに、「夫の親とは住みたくないわ。」とか、「長男はお断りよ。」なんて言うことにもなりそうだ。
しかし、今私たちの研究室にいる学生でも誰もが一人っ子である。これからの中国は一人っ子同士が結婚するしかないわけだから、経済と生活が発展しても日本のようにはならないだろう。
中国では元々「養幼防老」という言葉があるくらいだ。これは子供を育てれば、子供が老後の面倒を見てくれる、と言うことだ。保険のつもりの子供にちゃんと相手を見つけて、自分の老後の備えに怠りないのが中国の母親なのだろう。
男尊女卑が名強く残る中国では若い男性が女性に比べて断然多い。自然には、受精したときの男女比は、1.1:1で、男子が10%多い。生まれるまでに男の 死ぬ率が高く、誕生したときの男女比は1.05:1である。生まれたときに男子は女子より5%多いが、男は死にやすく適齢期までに男女比は1:1になる。 つまり自然は上手くできている。
しかし今の中国では、子供は男子が欲しいので何らかの操作がおこなわれた結果、男女比が男に大きく偏っている。今は生まれる子供の男女比は1.2:1で、 中国では数年後には結婚適齢期の男子は女子に数に比べて2,000万人多くなると言われている。結婚したくても相手が見つけられない男性が2,000万人 にもなるのだ。これは大変なことだ。
『2008年1月、中国人民大学人口発展研究センターは男性人口が女性人口を3700万人上回っていることを発表した。中国新聞社が伝える同報告書による と、2007年時点で男性人口は女性人口を3700万人上回っている。0歳から15歳の世代だけでも男性は1800万人以上も多くなっている。そのため今 後結婚相手を見つけられない男性が激増することは必至で、90年代生まれの男性のうち約10%は結婚出来ないことになる。(2007年1月7日 Record China)』
このように上海では親が子供の結婚相手を見つけようと一生懸命なのに、一方で、私たちの薬科大学では学生同士で相手を見つけるのがあたりまえである。日語 班では男子学生の割合は2割くらい、そして大学全体の男子学生は4割未満である。日本の薬科大学と同じで女性が多い。だから男子学生は相手を見つけるのに 苦労しないようだ。うちの研究室で恋人同士が誕生したことを前に書いたが、この王毅楠くんは薬科大学にいるという利点を大いに生かしたと言っていい。恋と 同じように研究でも成果を挙げて貰いたいものだ。
2008/02/19 17:29
中国から来ている留学生 その一
瀋 陽薬科大学から日本に沢山の学生が日本に留学している。その中で瀋陽の私たちの研究室を出たか、あるいは関わった学生は10人を越えている。その中で私た ちの近くに住んでいる人たちとは、春節休みで日本にいる間に会おうねと前からメイルで話していた。どこで会おうかといろいろと考えた挙げ句、結局うちに来 て貰った。うちに来て貰えば時間の制限がない。くつろげる。「土曜日の夕方5時半にいらっしゃい、晩ご飯を一緒に食べましょう。」
朱くんは瀋陽の私たちのところで6ヶ月研究生をして、大学院は日本に来た。今は慶応大学大学院の博士課程に在学している。薬科大学で同級だった郭さんと結 婚した。朱くんは大学院に入るときに、5年間保証された奨学金を貰うことが出来たので安心して学業に励み、かつ結婚することも出来た。郭さんは朱くんより 1年遅れで日本に来て、東京工業大学大学院に入り、いまは修士課程を終えて日本の企業の知的財産部に就職している。
朱くんのクラスは30人の日語班で、その中から4組のカップルが誕生している。かなり高率である。そのうちの二組が今日本にいる。
薜蓮さんは私たちのところで3ヶ月研究生をしたあと、名古屋大学大学院で修士を終えた。その後慶応大学の先生が作ったベンチャーで研究員として雇用されて、2年の社会生活を送っている。もう一人の沈さんが前に書いた上海出身の女子学生で、私たちにとっては最初の卒業研究の学生の一人なので、特に印象が深い。朱くん、薜蓮さんの1期下の学 生で、私の「瀋陽だより」の初めの頃にはほとんど何時も主人公として登場した。京都大学大学院の修士課程を終えて、今は化粧品の研究所に入って小田原に住んでいる。うちに夕方訪ねてくるとその日のうちには帰れないから、薜蓮さんのところに泊まるという。
若者の旺盛な食欲を満足させられる料理は用意できないので、メインはピザの出前を取ることにした。あとは私が3時半から台所に立ってグラタン作りを始め、妻は直前にサラダを用意した。
5時半に「バス停に着きましたよ!」と朱さんから電話が掛かってきた。彼は学部の5年間クラスの班長を務めていただけあって、何時でもどこでも先に立って 人の面倒を見ている。慶応大学でも大学院に入って1年経った頃セミナーがあって会ったときにも、朱さんはすでに率先して会場作りを行い、そのあと出席者の 席のあんばいに目を配っていて「なるほど、なるほど。」と思ったものだ。
うちの前の道に出て迎えに行くと、道の向こうから人の壁が近づいてくる。4人だけれど、道は狭いし、彼らは皆私よりも背が高い。こちらで手を挙げたら、向こうの壁でも一斉に手が挙がって、夕闇の中で顔中に笑みが拡がるのが見えた。夏に朱さんが企画した「瀋陽薬科大学2007年同窓会」が横浜で開かれたときに、会って以来半年ぶりの再会である。
うちに着いてリビングダイニングに入ったら、ただでも狭い部屋がたちまち窮屈になった。誰もがのびのびと大きい。若さがたちまち伝染して、こちらまで活気 づく。四人すべてが日本語で、しかも話題の絶える間がない。達者な日本語である。
そういえば京都にいた頃の沈さんは京都弁を喋っていたけれど、いまはもう 完全な標準語になっている。言葉にとても敏感で、言語能力抜群と言うことだろう。彼らの何の不自由もない日本語に感嘆すると、「それでも先生のブログのような日本語はとても書けません。書こうと思うと小学生のような作文になってしまうんですよ。」と沈さん。
「だって、メイルの日本語は全然おかしいところがないし、とても達者な日本語だと思うわよ。」と妻が言う。薜さんは、「でも上手く表現できないことは書か ないし、別の言い方にしているのですよ。」と言う。なるほど、そうかも知れない。私も英語でそうだからよく分かる。と言っても、英語で発音はともかく、私の書く内容がnativeみたいと欧米人が言って呉れたことはないから、彼らの日本語は私の英語よりも数段上を行っていることは確かである。
薜さんは大学院に入って奨学金が貰えないときに、喫茶店のアルバイトに応募した。働き始めて一日で彼女はクビになった。お客の注文を聞いても直ぐに分から なかったためだという。日本語は上手く話せても、一人一人違う日本語を問題なく聞き取るのは時間が掛かる。
「初めはよく分からなかった天気予報が、やがて ある日突然すんなりと分かるようになって感激した」そうで、薜さんがそういうと、沈さんも「同じでしたよ。ニュースが急に聞き取れるようになって、その日から世の中が広くなりました。」という。薜さんは「いろいろと苦労しましたけれど、今となってはどれも楽しい思い出です。苦労をしてきて良かったと思いま すよ。」とニコニコしている。
薜さんは慶応大学で2年間働いたところで、この春には中国に戻って就職することにしたという。薬学の基礎があり、日本の大学院の修士課程を修了し、専門の研究経験があり、日本語も自由というのが評価されて、上海だか北京だかに高給で就職が内定しているという。
日本でもうちょっと勉強すればいいのにと思うけれど、彼女なりの事情があるに違いない。一人娘が日本に行ったきりでは親が心配で堪らないと言うこともあるし、しかも中国の標準から見れば婚期が遅れていて、親としては黙っては居られないのだろう。
2008/02/23 06:35
中国から来ている留学生 その二
私はホームページには学生の名前に「さん」とか、「くん」を付けて書いている。それは、学生の性別が分かるように、男子には「くん」、女子には「さん」を付 けているのだ。実際に私が直接名前を呼ぶときは呼び捨てである。何も付けない。
これは中国の実情に合わせてのことで、「さん」とか「くん」を付けると、水くさいことになる。親しいと思っているなら呼び捨てでなくてはならないのだ。それでも彼らにメイルを書くときには、少数の例外を除き、男女の学生の区別なく○○さん:あるいは○○様:と書いている。これには理由がある。
おおむかし私が大学の学生だった頃、同級生は○○くんだった。先輩は○○さんと呼んでいた。大学院で下級生が出来ると○○くんだった。2年間の修士課程を 終わって名古屋大学に助手として就職したとき、そこの鈴木旺教授は私を「山形くん」と「くん」付けで呼んだ。私はもちろん研究室の学生を○○くんと呼んだ。 ヒエラルキーの秩序が年少者、部下を呼ぶときに○○くんとなる。
名古屋大学に行って直ぐ、講義で訪ねて来られた大学時代の恩師である江上不二夫教授は、私のことをもう「山形くん」とは言わずに、「山形さん」と呼んだ。新鮮な感覚だった。修士の時の先輩だった千谷晃一さんも、学会で出会ったらまだ駆け出しの私を「山形さん」と呼んだ。
つまり大学にいる時は教育される学生だったけれど、卒業したらもう同じ研究者の仲間として対等に扱われたのだ。それまで学生であっても卒業したらこのよう に自分たちと同じように扱うと言う平等の精神に驚き、感激した。けれど、この精神に直ぐに感化されるには、私はあまりにも鈍かった。
その後時間が経ち某研究所で持つようになった自分の研究室で、私は無神経にもずっと自分のスタッフを「○○くん」と呼んでいた。東工大に行ってから初め て、研究室のスタッフを「○○さん」と呼ぶようになった。学生は研究室では○○くんと呼んだけれど、卒業した彼らに会うと「○○さん」と呼ぶように務め た。一時は縁あって教えたかも知れないが、その後は人として平等なのだ。対等な人間関係として「さん」付けで呼ぶのが正しい。
中国の学生を名前だけで呼んでいる関係は、親しみが入っているので、これからも変えられそうにない。でも、人としては対等の立場なのだよという気持ちは、メイルを書くときに「○○さん」「○○様」と書くことで表していることになる。
でもこれは大原則で、たとえば沈慧蓮さんにメイルを書くときは「ミハチン」、良くて「ミハチンさん」である。彼女は好奇心旺盛で、研究室で何かがあるとたいて い現場に来ている。「まるでミーハーじゃない」と言う思いから「ミーハーの沈」と呼ぶことにして「ミハチン」になったのだ。彼女もこのあだ名がお気に入り であるらしい。何と言っても、私たちによる彼女だけの呼び名なのだ。
このような意欲旺盛の沈さんにとって今いる研究所はもの足らないみたいである。彼女の言によると会社の体質が古くて、「私を採用したのだって、中国人を 採っておけば今に役立つかも知れないという程度の認識で、それ以上の企業戦略はないみたい」だそうである。彼女のやる気は事ごとに摘まれてしまって、だんだん厭になってきたという。就職先は化粧品の会社だから彼女もその製品の恩恵にあずかり、元々目鼻立ちのはっきりとした顔が大型の蘭が咲いているように美しくなっているが、その眉をひそめている。
社員一人一人にやる気を出させなければ企業は生き延びていけないだろうから、彼女の言い分だけでは判断は出来ない。食い違いは双方にとってもったいないことだと思うが、いずれにしても私の関与できることではない。
ピザと私の作ったグラタンを食べながら、私たち六人の間で話は自由に羽ばたいている。やがて、朱くんが私に向かって「先生の中国語はまったく進歩しません ね。」という。春節(つまり旧暦の元旦)にあたって、私は一念発起して中国語で新年の挨拶文を書いて学生や卒業生に送ったのだ。それが「てんで駄目だね。」ということらしい。
じっさい中国語はまったく駄目だが、駄目だと言うことは私にとって実は一番触れられたくない話題だ。私が無能だから中国語が覚えられないのだ。覚える努力を重ねても、端から忘れてしまう。だからもう努力することを諦めてしまった。
朱くんは慰め顔に「先生。いまの中国語は話せなくても、漢文を読んだらいいですよ。」という。中国人の口から漢文という言葉が出てくるなんて面白い。つま り、中国の現代文ではなくて、「史記」などの古文のことを言いたいらしい。漢文はさんざん読んできたし、今でもその頃のことを題材にした宮城谷昌光や陳舜 臣、北方健三の本などを乱読しているけれど、残念ながら日本語で読んでいる。だから中国人の彼らと中国の史実や、歴史に出てくる人物を共有することが出来ない。
朱くんは「ことばの『意境』が分かると面白いんですよ。」という。この「意境」というのは日本語では使わないが、辞書によれば、「作者が作品に表現する境 地、情緒、ムード」と書いてある。ことばの含蓄ということも意味するのだろう。実際、短いことばで言い切ってしまい、いろいろの意味に解釈できることばが 中国語である。これからはことばや故事の背景に注意しながら本を読み、そして肝心なところは中国で発音できるようにしておこう。
四人の薬科大学の卒業生は夜10時ころまでうちでおしゃべりをして帰って行った。あとに沸き立つような華やいだ空気を残して。
2008/02/26 09:25
子供は電車の座席に座らせない
昨 年の秋、関西地区の私鉄である阪急電鉄で、それまで全席優先席と言ってきたけれど効果がないので、全席優先を廃止するというニュースを読んだ。止める替わりに、昔のように各車両の端に優先席を置こうというものだった。全席優先を謳っているのに若者が身障者、妊婦、老人に席を譲ろうとしない情けない状況を読 んで、私は「瀋陽だより」に中国では若いひとたちが率先して老人にバスの席を譲っていることを書いた。
1月の後半から春節休みで日本に5週間も滞在した。2年前までは日本でクルマを持っていたけれど、ディーゼルエンジン車のために、首都圏では最早使ってはいけないという期限が来てしまい手放したので、今クルマはない。
しかし幸い、横浜市全域に亘ってバス、地下鉄が無料になる優待乗車証が貰えた。大変ありがたいことである。最寄りの私鉄の駅に出るのにバスに乗るから、毎回420円掛かっていたのが無料なのだ。老人になっても出掛けるのを億劫がることはない。
東急田園都市線のあざみ野から、藤沢市湘南台駅まで横浜市営地下鉄1号線と3号線が走っている。この3月30日には4号線となる日吉駅 - 中山駅が開通するという。あざみ野と湘南台を結ぶ線はブルーライン、日吉-中山間の4号線はグリーンラインと呼ぶことになったそうだ。市の案内によると、 ブルーラインの総延長距離である40.4kmは、地下鉄路線としては東京都営地下鉄・大江戸線の40.7kmに次いで日本第2位の長さだそうだ。3月から グリーンラインの13.1kmが加わると、日本一の市営地下鉄の営業路線になると言うことらしい。
先日横浜に行くのに、ちょっと回り道だけれどあざみ野からブルーラインに乗った。驚いたのは、全車両の座席が優先席なのだ。2003年から行われているという。
この3月にグリーンラインが開通するに当たって昨年11月に市交通局が市民に意向をアンケート調査した。その結果反対が賛成を上回ったが、「一定の理解は 得られている」と全国で唯一の全席優先席を続けることになったという(kqtrain.netから、YOMIURI ONLINE)。
アンケートは11月10〜30日に行われ、881人から回答があった。全席優先席について反対が475人(54%)で、賛成が406人(46%)だった。 反対では「席を限定した方が譲りやすい」「全席優先席が現在では『全席自由席』になっている」など効果を疑問視する意見が目立ったそうだ。
しかし、「知ってもらう方法を改善すれば続けてほしい」と賛成に近い声も多く、市交通局は「理念として良いことだと利用者に理解してもらえるよう、PRを強化して継続していく」ことにした。
中田宏市長は「シルバーシートが他の国にどれだけあるか、日本人は恥ずかしく振り返るべきだ。全席優先席が生きるよう、市民の協力をお願いしたい」と話し ているという。欧米諸国に行くと路面電車に乗るとたしかにシルバーシートはないけれど、老人や弱者には率先して席が譲られている。それは市民として当然の行為なのだ。
ところが日本では「優先席」ですよと明示しないと老人・弱者に席を譲らない。「優先席」と窓に書いてあっても席を譲っていない。「全席優先席」だと明言しても、実際に横浜市営地下鉄に乗って見ても、乗る人すべてがそのように務めているとは思われない。
他人への優しい思いやりの心が日本人から失われてしまったとしか思えない。経済成長を追い、人の幸せを金で計り、人との競争に勝つことだけが評価される社会となって、他人への優しい思いやりが心に入り込む隙間がなくなった。
そこで提案である。「『全席優先』ですよ。席を老人・弱者に譲りましょうね。」なんて言うだけで駄目である。学校で「愛国教育」なんかを始めるより前に、 小中高の学校は、『生徒は電車で座ってはいけない』と言う教育をしたらどうだろう。出来れば幼稚園児のときから立たせたい。
今の親は子供を電車の席に座らせる。席に座って育った子供は、長じてもそのまま自分が電車の席に座るのが当たり前だと思うわけだ。そのようにして育った人たちに「老人・弱者に席を譲ろう」と言っても本当の意味は理解できないに違いない。
私は前にも書いたが、幼稚園の頃から私の親は決して私たち子供を電車で席に座らせなかった。その頃私たちは東横線沿線に住んでいて、もちろん電車に乗るの は普段の生活だった。小学校以来電車に乗る通学だったが、学校に行くときに限らず、幼稚園の時から座席には私たち子供は座らないものと思って育った。今の 歳になって優先席が空いていれば遠慮なく座るけれど、お年寄りを見かけるとつい席を譲ってしまう。「三つ子の魂百まで」なのだ。
どうだろう。こういう教育をしようと公約して実現する政治家が現れないものだろうか。教育委員会も、国歌斉唱の時に歌っているかどうかと教員の口をのぞき 込むという愚かなことをやめて、『児童生徒は電車では立ちなさい』という新たな運動を始めて欲しい。日本は「美しい国」になる。