2009年4月6日 (月) 王麗の日本の1週間
王麗と馬さんは3月29日に瀋陽を発って成田に着いた。その日の内に彼女からメイルが入った。
We have arrived at Narita safely and enjoyed the delicious Japanese food. Do not worry about us; we love you all!
そ して4月1日になった。この日から王麗は理化学研究所に正式に勤務するはずである。大丈夫かな。きっと王麗のことだから朝早くから理研に行っているだろうな。そして私たちのところに来たときと同じように、背筋を伸ばして畏まって鈴木匡先生に会い、そのあと皆に会うよう引き回されて、そのたびに上品に挨拶をしているのだろうな、などと思っていた。
朝10時過ぎにメイルを見ると、その鈴木先生からメイルが入っている。
何と、 「王さんの連絡先は分かりませんか。まだここに来ていないのです。彼女のe-mailは知っていますが応答がありません。こちらの電話は教えているのですが、何かが起こったかと思うと心配で溜まりません。途中何処かで落ち合うようにしておけば良かったのですが。。。」
妻も私もびっくり仰天 である。王麗が最初の日にそこに行かないはずがない。確かに彼女ものんびりしているところがあるし、約束は守るものとは必ずしも思っていない中国人のひとりだが、私たちと5年半付き合ったのだ。何か悪いことが起きたのかとたちまち心配になる。ともかく鈴木先生には「これから調べます」と、とりあえずメイル を入れる。
王麗たちが理研の宿舎が空くまで夫の馬さんの友達のところに暫く泊まると聞いただけで、連絡先を知らない。しかし、私たちのところの卒業生で東大に行っている胡丹、慶大にいる王毅楠たちが迎えに来るようなことを行っていたから、彼らに電話をすると分かるかも知れない。
さあ、日本に電話しようと思って出したカード(たとえば100元の国際通話料の入ったカードを25元で売っている)は期限切れだという。陳陽に大学の正門の外に立っているカード売りの男からカードを買うようお金を預けた。
戻ってきた陳陽は慶応大学にいる王毅楠と電話で話したという。王毅楠が馬さんの友人に電話をしたら、もう二人は出掛けています。そしてその友人のケータイを持って出掛けた馬さんに電話をしたら、彼らはもうとっくに理研に着いたけれど鈴木先生に会えていない。そのうち新人の説明会があると言われたので王麗はその講習に出ているという。そして馬さんはその講習会の外にいて、いまは一緒ではない。
なるほど、王麗は理研に行ったけれど、鈴木先生に会えないうちにどうしてかは知らないが、新人講習会に出てしまったらしい。ともかく理研には無事に行っているわけだ。
そ れで鈴木先生に私が直接電話をしようと思って、陳陽に買ってきたカードは?と聞いた。すると陳陽は自分のケータイにこのカードの全額を入れたという。なに、それ。そんなの、ありかよ。人の金なのに、何で自分のケータイに入れてしまうんだい。どうしてそんなことが出来るのかね?
と言うわけで、陳陽のケータイを使って(なに、わたしの金なのだ)日本の鈴木先生に電話をした。陳陽は、基本料金は自分のだとぶつぶつ言っている。一体どういう神経なんだ、陳陽は?
電 話が鈴木先生に無事に通じて、今までに分かったことを報告する。状況は分からないが、先ず謝る。嫁に行った娘の不始末を詫びる親の気持ちである。鈴木先生は「出る必要はないのですが、そういえば、新人の説明講習会があるはずですね。そっちに出ているのなら、行って調べてみましょう」と言うことだった。
あ とで、鈴木先生と王麗から聞いた話では、王麗は言われていたとおりに9時前には理研に行った。ところがそこで別の建物にあるGlycobiologyの研究室を紹介されてしまって、別のところに行ったのだった。そこはまだ誰も来ていなくて、通りがかりの人に聞いたら、鈴木先生の名前は知っていてもどこが研究室か分からない。建物の守衛にも分からない。そうこうするうちに鈴木梅太郎ホールで新人の説明会があるというアナウンスがあって、これに出ないわけにも行くまいと思って出たのだという。結局のところ、「大丈夫よ、自分で探して会いに行けるわ」という王麗の自信過剰が一寸あったかも知れないが、理研が広すぎたことが原因らしい。ともかく12時過ぎに二人が無事に会えたことが分かってホーーッ。 そのあと毎日王麗からメイルを貰っている。翌日にはここでやった研究を皆の前で日本語を使って話したこと。今まで日本語を使った発表の経験が一度もないので「うまくいかなかった」と落ち込んでいるらしいが、皆に「良かったよ」と励まされてもいるらしい。 王麗にすれば出だしは悪かったと言うことらしいが、禍福は糾える縄のごとし。悪いこともあればいいこともある。彼女は皆から好かれる人柄だ。人生これからが勝負なのだ。なお、最後の写真は、4月12日横浜のシーバスの中でで撮った王麗と馬さん。この二人に王毅楠が加わっていて、横浜チャイタウン関帝廟の前である。
2009年4月14日 (火) 博士課程の申請に協力する
迂闊なことに、私の今属している生命科学与生物薬学院には博士の学位授与をする権限がなかったことを知らな かった。迂闊と言っても、知らなかったからどうだったというわけではない。研究室から博士を今までに二人送り出しているけれど、別の研究科から送り出したらしいと、分かっただけである。
日本では名刺には書かないがこちらの中国の名刺だと、自分の肩書きの一つとして「博士導師」というのが麗 々しく付くのである。なんだか気恥ずかしいけれど、書かないと博士導師でないと言って軽く見られることは間違いないから、名刺に賑々しく刷り込んでいる。おまけに博士の学生もいることだし、自分のところに博士課程がないとはついぞ思わなかった。
さて、今まで博士課程を持たなかった私たちの学科がこれを申請することになったので、ついては添付の資料にそれぞれ書き込んで月曜までに送り返せと、金曜日の夕方になって生化学科の主任から連絡があった。冗談じゃないよと言いたいところだが、ここでは何時もこの調子である。もし、私が日本の大学にいるみたいに、あれこれ用事を抱え飛び回っているとしたらどうするの?と言いたいところだが、実際上、飛び回っていないから、はいはい、というわけである。もちろん教師の会の集まりで土曜日の午後は塞がっているなんて、言い訳にはならない。
それで、日曜日には翌日の講義の準備をしながら片手間にこの申請書の自分の研究室の状況を書いていった。
1.論文(2004.1〜2008.12) 学術刊行物(SCI、EI、ISTP収録)、学術会議
ここのところは、SCI収録原著論文8編、非収録誌に4編、総説1編がある。SCI非収録誌の発表論文の中には、この薬科大学報に3編出したものがある。これは学生が修士を取るための要求でやむなく書いているものだ。もちろん編集委員会の審査があっていい加減には書いていないが、ここに出しているのはひそかに肩身が狭いのだ。
学術会議は2007年夏に台湾で開かれた国際会議で話したし、日本の糖質学会でも話しているけれど、講演したことが業績になるようでは情けないというのが私の考えなので入れなかった。以前何処かの学会では座長をした回数が実績とされるところがあったっけ。
2. 著作(2004.1〜2008.12)には、書き入れる著作はない。 2.表彰(2004.1〜2008.12)には2005年9月に 遼寧外国専家栄誉賞と言うのを貰っているので、それを書き入れた。
4. 科研項目というのは、科学研究費や研究助成金である。未だ中国では一度も貰っていないが、昨年度、日本の水谷糖質科学研究財団に申請して、嬉しいことに400万円の助成金を頂いたので、これを書き入れた。このときの人力配置を書けと言うので、教職員2名、博士2名、修士7名と書き入れた。
5. 教学と言うところには今までの修士、博士を年度別に書くようになっている。まとめると修士入学者9名。学位授与4名。差の5名のうち1名は修士から博士にジャンプした王麗である。王麗は修士号を持っていないのだ。あとの4名はこの夏に卒業する。博士の入学者は3名で学位授与が2名(王璞と王麗)。差の1名は昨年入学して在学中の張嵐である。
教材出版は、2006年に王淼が生化学実験を日本語で書いて、その日本語を頼まれて直したので、恥ずかしながら私の名前も入って出版されたこの大学専用の実験指導書がある。
6. 博士号取得者は個別に詳しく記載する事になっていて、2007年卒業の王璞は、学術論文5報(SCIが4報、それ以外が1報)学会発表が2件ある。王璞には今のところ投稿して文句の付いた論文が一つある。2008年の王麗は、学術論文4報(SCIが2報、それ以外が2報)、学会発表はない。王麗には今投稿中の論文が1報と、あと準備中のが1報ある。
7.実験室の広さは、 新実験楼527、528号室二つ合わせて、広さが78平方米、機器があわせて42個。新品購入価格は120万元。
8. 過去5年間に機器購入に投資した額は?と言う質問には正確に書くと合計15万元である。ついでにこの6年間に使った研究費は、大学から支給分が55万元。それに水谷財団から400万円(28万元になった)いただいている。私の給料に加えて中国に自分たちの日本円を持ってきて研究費に使ったのは60万元だし、日本で物品を買ってこちらに運んできた金はどこにも出していないが、概算すると1千万円くらいである。
機器の代金として書いた120 万元は殆ど減価償却が終わっているから、今までの6年間の研究に(55 + 60万元は約1600万円になる)3000万円くらい掛けていることになるだろう。それで論文13編だ。3千万円は日本の研究室を考えると大体1年分の研究費 である。その意味ではいま中国での研究効率は良いというべきだろう。お金が足りなければ無いなりに知恵を絞ることが出来るという良い見本となると思いたい。どうだろう。実は、悔し紛れの言葉かも知れないとは思うのだが。
2009年4月22日 (水) 手袋
テレビや映画のおかげで、手術室の医者のイメージは誰にでも直ぐ浮かべることができる。緑色の手術着と帽子 をつけ衣服や髪に付いた雑菌を患者に移したり手術室に落とすのを防ぐ。同じ色の大きなマスクをして自分の吐く息の中の雑菌が手術室に満ちるのを防ぐ。もちろん手術着をつける前に、両手は肩から下を三度も滅菌用石けんで洗ったうえに自然に乾かし、薄いゴム手袋をつける。この手袋は同じように身支度をした手術の助手につけて貰う。
これは雑菌その他の異物を手術する相手の患者の体内に入れないための処置である。と、同時に、患者の病原菌や異物で自分が汚染されるのも防いでいる。
私たちは実験の時に日常とは違って汚染に気をつけることがあって、一つは細胞培養である。 もう一つは、RNAを扱うときである。1965年にHolleyのグループが78ヌクレオチドくらいの長さのtRNAの構造を決めた。RNAを分解する酵素としては当時膵臓由来のRNA分解酵素が知られていて、RNAの構造を調べるために道具としてよく使われていた。 し かし、私たちの汗、唾、体液の中にも同じように安定で強力なRNA分解酵素があることはその頃は知られていなかった。それで、酵母から抽出して大量に精製してその構造を調べているtRNAが、配列を調べているうちに消えてしまったりすることがあって、そのミステリーに彼らはさんざん悩まされた。 そしてとうとう、実験室の環境は人の汗や唾に由来するRNA分解酵素で満ち満ちていて、それを考慮に入れない限り、RNAの構造研究など思いもよらないことが分かった。 こ のRNA分解酵素は安定で強力だが、120度で加熱すると分解する。この頃よく知られている狂牛病の原因と思われているプリオンタンパクは、120度で加熱しても分解しないことで有名である。それで、器具はすべてオートクレーブで加熱滅菌をしておく。試薬を作るための蒸留水は、RNA分解酵素の阻害剤を入れてオートクレーブに掛けておく。 RNAを扱う実験室は実験の前に机の上を綺麗に拭き、アルコールで拭く。実験をする人は綺麗なゴム手袋を装着する。話をすれば唾が飛び散るから、お喋り厳禁。でも話す可能性はあるので必ずマスクをする。 だから、RNAを扱う実験区域によその人は立ち入り厳禁である。手術室ほどの綺麗さはないけれど、気分的には手術室と似た雰囲気となる。
手術の術者は自分の汚染しているかも知れない手が患部に触れないよう手袋をする。私たちは、RNA分解酵素で汚染している手で器具を汚さないように、手袋をして実験をする。
ところが一般の生活では手袋は自分の手を汚さないためにつけることが多い。そのため実験室で手袋をつけていても、そのまま実験室の外に出てきてドアのノブに触ったり、自分の髪の毛に触ったり、ベルトに手を掛けてズボンを持ち上げたりすることを平気でしてしまう。
もちろん、これは厳禁である。仕事を始める新人には何時もやかましく言っている。手袋をつける前の手は良く洗ってRNA分解酵素洗い流せ。手袋をしたまま、実験室の実験器具以外に決して触るな。自分の身体に触るのは、もってのほか。部屋の外に出るときは手袋を外せ。 このように実験室にはゴム手袋が常備してある。となると、手を汚さないためにゴム手袋をつけるという行為は日常生活でも割合普通のことなので、電気泳動をするときにも、ゲルの染色をするときも手袋をつける学生が増えてきた。 そのためもあるのだろう、RNA区域の手袋の使い方がたるんできているらしい。現に細胞から抽出したRNAが最初はあったのに、そのあと分解することがあったりする 。 一番大事なのはRNA実験区域にRNA分解酵素をまき散らさないことである。その場所以外の手袋の使用禁止も一つの選択肢だが、こういうことは厳命しても目を盗んで使うようになるだろう。そうやっているうちにRNA実験区域で手袋を使う意味を忘れてしまうことになる。 それで私たちが踏み切った処置は、RNA実験区域の手袋と、そしてほかの実験室で必要なときに使う手袋の色を分けて両者を決して混同して使わないようにすると言うものだった。 昨晩の研究室の集まりで皆と相談して決めた。そして修士最高学年の陳陽くんに新しい別の色をしたゴム手袋を買ってきて、使う場所を分けておくように頼んだところだ。さあて、これでうまくいくだろうか。2009年5月22日 (金) インフルエンザ
数日前、薬科大学の西門から校内に入った時、入口に立て看と言うにはあまりにも小さいが、外部のものは入ってはいけないという掲示に気付いた。食堂の前で見ると、外部の人はインフルエンザ対策のために中で食事をしてはいけないと書いてあった。
そして5月19日の火曜日からは、大学の正門には大きく「身分証明書提示」と書いて大学に入ってくる人を警備員が改めるようになった。 流行性出血熱で建物が閉鎖されたときは、詳細を知ったのは隣の池島教授からだった。私たちには何の通知もなかった。今回も全く同じで、大学からインフルエンザについての注意書きが回ってきたと知ったのは、池島教授が私たちにも親切に見せてくれたからである。 そのコピーをとらせて貰ったあと、 うちの学生の黄澄澄さんに日本語に翻訳して貰った。 『Influenza A virus subtype H1N1の予防についてのお知らせ』 以下は大学が H1N1の予防について、我が学院に提出した要求である。 一、インフレンザの流行している地域から来た人との接触を抑えてください。 1,インフレンザの流行している地域から、或いはその地域に寄って来た学者との交流、或いはインフレンザの流行している地域に学術会議を参加する場合は慎重にやってください。 2,インフレンザの流行している地域からの先生及び学生の訪問は慎重にしてください。インフレンザを防ぐとコントロールする間、もし北米で留学する教師と学生が学校に戻ったら、速めに学校に報告してください。 3,世間の外国語サロンに参加するのを慎重にしてください。近頃インフレンザの流行している地域からの人とは接触しないこと。 二、科学的に仕事或いは勉強、健康的な生活習慣を支配・育成して、伝染経路を弱めて、自身免疫能力を高めること。 1,仕事と生活の場所の清潔及び空気の流通を保ってください。教室、勤務室、実験室、宿舎、住宅も空気を流通するよう注意してください。公用の仕事用及び生活用の部屋は通風責任者を指定して、ドアと窓の通風及び通風の間の財産安全を提示する責任をとる。 2,この学校以外の人を一切泊めることができないことを再びに強調する。学部内は見廻るのを厳しくして、一旦発見したら、かならず厳格に処置すること。教師の家庭はインフレンザの流行している地域からのお客さんと慎重に接してください。 3、 健康的な生活習慣を育成し、仕事と休憩の時間を合理的に配置して、適度に早起き早寝、適度に身体を鍛えてください。今、卒業生は卒業論文を準備して、卒業発表を迎え、そして在校生は期末試験勉強しているところで、つまりみんなが忙しいときですが、適切な休みをとるようにしなさい。 4、個人的な衛生に気を遣うこと、人の集まる場所、空気の悪い場所を避けること、真剣によく手を洗うこと。2003年SARSの時の「五つの手洗い法」を実行するように。 5.実験用の白衣を着て、宿舎、食堂などの場所には行かないこと。 6,インフレンザ以外のほかの伝染病を防ぐことにも気を遣ってください、今年の春、学校には、肺結核、出血熱などの呼吸気管の伝染病が出たが、夏になって、肝炎、赤痢、腸炎など消化管或いは血液伝染病が、流行しやすい季節になるので、皆さんはこれに気をつけてください。
三、各責任者は、人の流れを含めて、状況を把握すること。
1,学院は、インフレンザ予防委員会を成立し、連絡できる責任者を決めた。何か急用があったら、直ちにその責任者と連絡すること。それ以外は毎日午後4時までに報告すること。
2,報告する内容は:職員が接触した北アメリカからのお客さんのこと、インフレンザの流行している地域に住んでいた同僚が学校に戻ったとき、職員と学生が休んでいる状況及びその原因、職員と学生が普通でも風邪を引いたり、熱を出したとき。
状況を報告する順序 大学生 クラスー補導員—副書記 研究室に入てない院生 クラスー補導員— 副書記 研究室に入てる院生 課題組— 教研室—学院 教師 教研室—学院前記のことある場合は毎日4時前に学院に報告してください。 急用があるときは 直ちに責任者と連絡してください。 四、二つの要求 1.学生と先生は慌てずに、油断せずに仕事を進んでください。 2.各責任者は、学校の知らせを、確実に学生と教師に伝えてください。 生化学院 2009年5月14日 5 月21日には国際交流処から連絡があって、6月に訪ねてくる予定の西川先生ご一行は訪問を中止したと言う。私の友人である片桐先生ご一行二人が同じく6月半ばに講義をするために訪ねてくるが、中止にした方が良いという電話だった。大学に来れば泊めてあげるし、食事も出して接待するけれど、学生を集めての講義はしてはいけないという。仕方ない。先方に連絡して今回の瀋陽訪問は見合わせて貰うことにした。2009年6月28日(日) 卒業のお祝いの会 その一
6月25日の夜、研究室の卒業祝賀会兼送別会を天潤川菜食府で開いた。
出席は総勢15名。院生:阚启明 张岚 阳晓艳 陈阳 曹婷 徐苏 黄澄澄 王月
卒業研究生:江文 朱彤 张添翼 张笑
スタッフ:二宮、山形貞子と山形達也
12名いる学生のうち9名が卒業する。6名が研究室を出て行き、3人がここで進学する。この秋から私たちの研究室は学生6名、スタッフ3名になる。開会の言葉の後食事が始まってしばらくしてから私は一人一人の卒業生に餞別の挨拶をした。修士を卒業する徐蘇には「私たちの研究室に来てくれてあり がとう。あなたが私たちの研究室に来たいと言って訪ねてきたことを良く覚えています。とてもかわいいお嬢さんが来たという感じでした。こんなにかわいくて 研究が出来るのかなと心配をしました。」
「でも、研究を始めると時間と努力を惜しむことなく、倦まず弛まず実験に打ち込む姿に驚きました。研究に特別のガッツを持っているかわいい女の子でした。 研究の上では、細胞に導入したタンパク質の発現効率が悪い上に、抗体が良くなくて、研究の所期の目的が果たせなかったのがとても気の毒ですし残念です。でも、この先どのような研究をやっても、あなたは真っ向から挑戦してそれをやり抜くに違いありません。遠くない将来のあなたの成功を期待しています。」
徐蘇は、もう泣き出しそうな顔をしながらもすぐに立ち上がって話しだした。「研究の成功には運、不運がつきものです。思いがけないことが起こりま す。抗体が悪いことがなかなか分からなくて時間を使ってしまいましたが、仕方ないことです。研究は成功しませんでしたが、この研究室に来て先生がたが真摯に研究に向かう態度から研究者とはどうあるべきかを学ぶことが出来て本当に幸せでした。私のやった研究の続きをこの先誰かが引き受けてくれると嬉しいです。私はこれからも研究をすることで生きていくつもりです。先生方、どうかお元気で。」
修士を出る曹に私は「私たちの研究室に来てくれてありがとう」と始めたけれど、すぐに「しかし、」と続けてしまった。「しかし、初めの一年の貴女はとても暗くて、朝会ってもニコリともしない人でした。機嫌の悪い貴女に私たちはおろおろするばかりで何も出来ませんでした。」そう。最初の1年は問題児だったのだ、自己中で。
「でもやがて、星霜移り人は去り、貴女は研究が面白くなり、毎朝ニコニコと私たちの前に現れて手をかわいく振って挨拶をしていきます。そして研究も すばらしい勢いで進み出しました。そして貴女は自分のしている研究をしっかりと見つめて、得られた結果から自分で考えて実験を組み立てられるようになりました。すばらしい進歩です。実験結果の考察ではまだ浅いところがありましたし、議論ではただ頑固なだけみたいなところが目立ちましたが、それでも私の言い分が正しければ正しいと分かる力も育てていきました。この心の豊かさは研究者として貴女が育っていく上でとても大事なものです。貴女はこの秋イタリアのミラノに留学します。研究者が駄目でもモデルがあるさという選択肢もありますが、私は貴女の将来の大成を楽しみにしています。」
と書いたほど良いことを言った訳ではなかったが、それは「意余って言葉足らず」というところだと思ってほしい。
「陳陽は私が2004年春、4年生に分子生物学の講義をしたときの最初の学生の一人でした。講義が終わってPCを片付けているとそばにやってきて『先生、ちゃんと出来る?』なんて話しかけてきましたが、薬科大学の日本語の先生たちから陳陽のことはよく聞いていました。背が高くて、おしゃれで、そして甘った れで。。。」
「その陳陽が私たちの研究室に来て最初の半年間、ハラハラしました。とても研究が続けられなくて、すぐにやめてしまうのではないかと心配し続けました。」「これは中国の先輩後輩の関係が日本で言うと体育会系に近い感じがあるからだと思います。新しい学生のテーマは私たちが与えて先輩のそれとは全く独 立のものですが、私たちのところでは、研究室の実験の手引き、面倒は誰か一人の先輩が見ることにしています。この先輩に公私ともに服従しないと、先輩はこ の後輩の面倒を十分見ない訳です。」
「陳陽は甘ったれのくせに自立心が強く、先輩の指示に従わずに反抗を続けていたので、この関係が最初はうまく行かなかったのですね。危なくドロップアウトになる前に卒業となり、修士に進学して独り立ちして研究を始めることが出来ました。」
「この陳陽をみていると、この3年間に本当に良くまあ成長したものだと思います。あの頃の陳陽とは今昔の感があります。先刻話した研究に対する態度がそうです。それに陳陽は、例えばリンゴの皮すら剥いたことがなかったのです、ねじ回し(ドライバー)の使い方すら知りませんでした。それが今では、電気泳動装置が断線しても自分で故障原因を探って直してしまいます。研究はやり始めこそ何時も、アーダ、コーダと御託を並べていますが、実際に始めると手際よくそして信頼のおける手順を踏んで結果を積み重ねていきます。3年間に頼りない男の子から信頼できる男になりました。安心してこの夏は東大の博士課程に送り出せます。」
この稿続く
2009年7月3日(金) 卒業のお祝いの会 その二
私 が座ると陈阳が立ち上がった。そして言うには、「わたしが山形研究室に来たのは、山形先生と話してみて、先生の日本語がちゃんとしていたからです。」これには私はびっくりしてのけぞる。陈阳は言う。「だって自分の日本語は、日本語を習った先生そっくりと言われていたのです。まるで先生みたいな話し方をするって。」
こ れを聞いて思い出した。陈阳が私たちをたずねてきたとき彼が話をすると、まるで彼に日本語を教えた高山敬子先生が目の前で話しているみたいだった。部屋に入ってきた陈阳に「さあ、先生、この椅子に座ってお話ししましょうね」なんて言われると、尻がむずむずしてしまう。陈阳は先生が話した通りの口調で、話をするのだ。でも目の前の学生が先生口調というのでは、どうにもこちらは落ち着かない。「ですから、私はここに来て先生の日本語を聴いて、そのように話せるよう一生懸命覚えました。」へえー、そうかねえ。これはどうも嘘っぽい。陈阳は元々、とても丁寧な日本語を話す。私の乱暴な日本語を真似していたとは思えない。
「ここに来た初めのころは研究が自分に出来るのだろうかととても悩みました。でも、だんだん研究というものが分かってきて、研究には当たり外れもあること、研究が好きになれば研究は裏切らないということも分かってきました。文献を調べて勉強すればした分だけ、実りのあることも分かりました。私はお金を沢山稼ぎたいですけれど、研究も面白いので博士課程でも研究を続けて、将来は教授になりたいと思います。」
音楽とおしゃれが大好きで、本を読むことが嫌いな陈阳が将来中国を背負う学者になれるかどうか難しいような気もするが、今は出立のときだ。今は大いに祝ってあげよう。この集まりの後、7月3日に東京大学大学院新領域創成科学研究科から彼の博士課程の奨学金が認められたという知らせがあった。
次はmagnificent four の最後になる暁艶だ。「阳晓艳は 先輩に連れられて私たちの研究室にやってきました。そしてドアのところで言うには、『この研究室にぜひ入りたいです。だって、いつかの講演会で聴いたら先生はとてもよい英語を話すから』というのです。私は驚きました。学生が先生に面と向かって、あなたの英語はよい、というのです。日本では普通このようなことは言いません。先生に向かって直接何かが優れているとか言うのは失礼と考えられています。」「それでもそれで私は気を良くして、来てよいと言ったのか、どうか明確ではありせんが、最初のところは、このように覚えているくらいですから、印象は強かったのですね。」
「阳晓艳は英語班の出身で英語の発音はかなりよかったですけれど、英語の文法や語法をほとんど知りませんでした。おそらく、日本語班では日本から多くの人たちが来て講義をするのを聞く機会が沢山あるのに、英語圏から講師が来て講演することはほとんどないので、英語に触れる機会があまりなかったからでしょう。3年間私たちの研究室にいて、彼女の英語は長足の進歩を遂げました。この意味で、彼女がここを選択したのは正しかったと言っていいでしょう。」
「研究は卒業研究のときの成果が博士課程にいた王くんの研究を論文にするときに役立ちました。2007年にOncologyに論文が出て、このおかげで奨学金も貰いました。彼女はとても穏やかな性格の上に、私たちのことを始終気遣ってくれるので、私たちが瀋陽で暮らすのにとても助かっています。今期で多くの人たちが私たちの研究室から巣立っていきますが、彼女は幸いこの先博士課程を続けるというので、今までの研究室を保っていくのに大いに貢献してくれるでしょう。」 修士課程を今年出る4人は、四人組と呼んではまずいので、Magnificent SevenにちなんでMagnificent Fourと時々呼んでいた。そのくらいそれぞれが際立った個性的な人物だった。今までのどの学生だって誰もが個性的なのだが、この四人の個性は燦然としていた。徐苏はものごとの判断基準がとても厳格なのが際立っていた。従って自分にも厳しく、うまく行かない研究も最後まで手抜きをすることなどいっさいなく頑張った。頭がいいだけでなくすばらしい資質の持ち主である。
というわけで陈阳と阳晓艳は卒業研究を入れて3年半、徐苏と曹婷は2年間私たちのところにいて、とても充実した日々を私たちに齎した。輝く資質を持った4人の輝かしい将来を願わずにはいられない。この稿続く2009年7月7日(金)卒業のお祝いの会 その三
卒業研究生は今期は4人だった。そのうちの二人は大学院に進学する。
曹婷は非常に優秀な素質を持っているが、おそらく先生に気にいられることが生き甲斐で、いつも勉強と行いで頑張ってほめられ続けて来たのだと思う。だから先生に認められている限り研究はがんがん進むというタイプである。結果の解釈が私と一致しているならいいけれど、違うと、こんなに自分は頑張ったのにと一挙に恨みがましい目に変わる。本当に自分の研究を愛するようになる日がいつ来るかが、曹婷の成長の分岐点である。陈阳は甘ったれで、おしゃれが大好で、PCにめっぽう強く、しかし研究では、始める前はいつもぶつくさ言っている。「えっ、こんなことまでやるの?」でも、実際はきちんと計画を立てて整然と結果を出す能力があるのだ。不思議に魅力的な男である。
阳晓艳はほかの3人の自己主張が強く、そのために研究室に刺々しい雰囲気が醸し出されると、彼女はそれを柳に風と受け流して波風を鎮めてしまう。穏やかな性格だけれど、自分は決して人に影響されない頑固さを持っている。
江文くんと朱彤さんは同じクラスで1年生のときに日本語を加藤先生に教わっている。江文くんはずっと班長を務めてきたので私は3年生のときから彼を知っている。おまけに3年生の終了時期に日本語を教わっていた加藤先生が帰国されるとき、彼のクラスは加藤先生ご夫妻のほかに私も食事に呼ばれた。お返しに10月には私が、といってもほかに坂本、貴志両先生を仲間にしてスポンサーとなったのだが、食事に呼んだ関係で二人ともここに来る以前から知っている。
江文くんは実験室でみていると、とても綿密で慎重な性格である。初めて行う実験に付いての情報をあらかじめ十分調べ、吟味してからやっと納得して実験を始める。それでも時々実験室にいないことがある。
薬学部の日語班は二つあるが、もう一つの班の班長は3月 末に日本に行ってしまったので彼がそちらの分も面倒を見ているという。どういうことかというと、日本のある薬学の大学院が学生を確保するために瀋陽薬科大学と提携して、本来なら6月卒業の学生を3月に繰り上げ卒業させて、4月から大学院に受け入れるのである。勿論試験をするけれど、学生にとっては同期の学生よりも半年、あるいは一年先を進むことが出来るありがたい制度である。知名度がいまいちの大学だが、博士課程でそれなりの大学に進めば良いわけで、結構人気がある。
张添翼さんは10月から来てまとまった一仕事をした。しかし、彼女ともあまり話した記憶がない。これは彼女の面倒を見た曹婷がいつも彼女を家来のごとくというか、カルガモの子供を扱うがごとく、囲い込んでいたからである。毎週の研究の討議のときも曹婷が話をする。途中から添翼さんに独立して話をさせるようにしてわかったが、添翼さんはことによると曹婷よりも頭が良いかもしれない。なんて書くと曹婷にこの先しつこく恨まれそうだ。曹婷くらい頭が良さそうだと書けば、無事かも。添翼さんは東京大学大学院新領域創成科学研究科の修士課程に入るはずだ。柏にあるキャンパスで陳陽と同じ建物ということになる。
朱彤さんのおしゃれ度は陈阳に匹敵する。背もすらりと高く、この二人が歩くと、キャンパス中の注目が集まる。女は陈阳を仰ぎ見て、男は朱彤をまじまじと見つめて。いま夜空を見上げると土星が15年ぶりに輪がなくなったと言われている。土星の輪がなくなるわけではなく、地球から見る角度が真横になるので輪がないように見えるというわけだ。しかし、私に言わせると、土星の輪を彼女がとってきて陳陽の首にぶら下げたのだ。